□4歳の妹が途上で病死 下仁田の佐藤和江さん(81)
15日、日本は終戦から72年を迎える。長い戦いの終幕は苦しい新生活の始まりで当時、満州国(現・中国東北部)にいた推定155万人の民間邦人は生活が一変、全財産をなくし、追われるように日本を目指した。
満州の首都・新京(現・長春市)で生まれ昭和21年秋、家族と引き揚げてきた下仁田町の佐藤和江さん(81)が73回目の夏を前に、あまり公にしてこなかった体験を語った。
◇押し寄せる朝鮮人
昭和20年8月15日、9歳だった佐藤さんは、満州と朝鮮国境の町、大栗子(だいりっし)で玉音放送を聞いた。
「日本が負けるなんて」
2週間ほど前、新京から逃れてきた日本人たちは全員が涙した。だが放送が終わった途端に状況は一変。棍棒(こんぼう)やナタを手にした朝鮮人が押し寄せ時計や指輪、財布から屋根裏に隠していた荷物をさらっていった。
朝鮮人だけでなく、日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍、中国人などに若い女性や所持品を狙われる逃避行が始まった。
日本人一行が身を寄せた大栗子の施設には満州国皇帝、溥儀もいた。佐藤さんの父が宮内府職員(馬事技官)だったため情報入手も早く、敗戦前に皇帝一族や宮内府職員らと新京を離れたのだった。新京駅で南満州鉄道自慢の特急列車「あじあ号」に乗り込むときの光景を、佐藤さんは鮮明に覚えている。
「8月上旬、父から『夕方に新京をたつ』と連絡があり大急ぎで荷物をまとめ新京駅へ行くと、大勢の人でごった返していて『乗せてくれ』と頼んでいた。動き出す車窓から残された日本人を見て、子供ながらに心が痛んだ。あの人たちはどうなったのかなって」
佐藤さんが長年、満州での体験について口を閉ざしてきたのも、このときの後ろめたさからだった。
◇女をさらうソ連兵
あじあ号で大栗子まで来たものの線路が破壊されて先に進めず、終戦を迎えた。あとは歩くしかない。同胞と関東軍司令部のあった通化を目指した。6人だった佐藤さん一家は父がリュックの上に当時4歳の弟を背負い、母が3歳の妹を背負って7歳の弟の手を引いた。佐藤さんはリュックを背に、父の手を握った。
途中、満州国の紋章をつけた朱塗りの車や馬車の装飾品を戦利品のように積んで通り過ぎるソ連軍に遭遇した。宮内府職員は泣きながら見送った。長い行程、重さに耐えかね荷を捨てる人も相次いだが、周囲には常に現地人が取り巻き、全部持ち去っていった。
日本人のいた宿舎に落ち着いた際は連日、ソ連兵が空砲を鳴らして女性をさらいに来た。若い女性は男装のうえ地下に隠れ、大柄だった佐藤さんの顔を母は真っ黒に汚した。徒歩や無蓋列車で動く道中、亡くなった3歳の男児を離さない母親がいた。死臭が漂い説得して埋葬したが、母親は狂ったように泣き続けた。
◇通化事件で父も拘束
ようやく通化に着くと、蒋介石の国民党軍と共産党の八路軍との市街戦が起きていて、室内にいても飛び交う銃弾の「ヒュン」という音が聞こえた。身を縮めて過ごしていた21年2月、通化事件が発生し、父が八路軍に連れ去られた。
通化を占領した中国共産党の横暴に対する日本人の蜂起、そして鎮圧、その後拘束された日本人らへの虐殺事件。16歳以上の男性は拘束され、佐藤さんの父は民家にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、騒ぐ者は容赦なく銃弾を浴びた。
父は3日後に解放されたが、防空壕(ぼうくうごう)に収容された人々は窒息死した。遺体の服は中国人に持ち去られ、カチカチの遺体は川に山積にされた。犠牲者の総数は2千人とも3千人ともいわれる。
そんな中、妹が病死する。突然、発熱し父が必死に探した日本の薬を飲ませたが、1時間後に息をひきとった。21年5月24日午後9時、まだ4歳だった。
「小学2年の弟と一緒に土葬しに行き、日本に引き揚げるときに遺体を掘り返し、燃やして残った遺骨を持って帰ってきました。遺骨は本当に小さかった」
http://www.sankei.com/region/news/170815/rgn1708150010-n1.html
(>>2以降に続く) (>>1の続き)
◇もっと大変な人々も
ようやく大陸を後にするのは同年10月。葫盧(ころ)島(現・中国遼寧省南西部)から長崎の佐世保へ。貨物船で約2週間、見えてきたのはソ連兵に狙われることもなく、ナタを持った朝鮮人や中国人に追われることもない日本人だけの国だった。
「貨物船からポンポン船に移って見えた日本の山、海は本当にきれいだった。こんないい国はないです」
9歳まで過ごした満州は水洗トイレなども完備された先進的な大地だった。
「良い思いもしたけど、とても怖い思いもした」
今も外国に行くと夜、外出することができない。ただ戦中の日本は各地で大空襲があり、広島と長崎には原爆が投下された。満州でも混乱の中、男たちをシベリアなどに奪われ、命からがら逃げてきた満蒙開拓団や残留孤児たちもいる。
「その人たちは、もっともっと大変だったんです」
毎年8月になると、6日と9日、そして15日はテレビの前にくぎ付けになる。
「夫には、また泣いているとからかわれる」と言いつつ、涙が止まらない。
◇広さ日本の3倍 民間邦人155万人生活
満州国は旧日本陸軍の関東軍による満州事変から半年後の昭和7(1932)年3月、建国された。現在の日本の約3倍に当たる広大な地に新しい国を作るという壮大な試みで、順調な経済発展を遂げ、中国人や朝鮮人らをひきつけるフロンティアともなった。
しかし20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破って日本に宣戦布告し満州などに侵攻、日本が敗れ13年5カ月で消滅した。終戦当時、満州在住の民間邦人は推定約155万人。うち引き揚げたのは127万人で、軍民合わせて約24万5000人が命を落とした。
戦後ソ連に強制連行された日本の将兵らは、約60万人。強制労働を課され、1割近い6万人以上が栄養失調や重労働により、極寒の地で死亡した。満蒙開拓団の総数は約27万人。
多くがソ満国境に近い辺地にいた上、情報伝達も遅れたためソ連軍や匪賊に襲われた。伝染病や集団自決などを含め約8万人が亡くなった。
(おわり) この本は日本人は必読な
★終戦直後の日本人引揚者を襲う朝鮮人たち
■朝鮮人の男たちが、藪の中へ女の人たちを引きずっていくのを見た
日本人を殺し、その遺体から金歯を抜き取る朝鮮人たち
★「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」より
ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ (著, 監訳),
Yoko Kawashima Watkins (原著),
都竹 恵子 (翻訳)
●「私たちは京城をでなければいけない。朝鮮人の男たちが、藪の中へ女の人たちを引きずっていくのを見たし、
若い女性に乱暴しているのも見たわ」(111頁)。
●「男たちの集団は去ったが、彼らは悦楽を求めて人々の間をよろよろ歩き、そして娘たちを見つける度に外へ引きずり出した。
たびたび女たちの悲鳴が響いた」(118頁)。
●また、朝鮮人が、日本人を殺したうえで金歯まで抜いている記述もある(129頁)。
http://blog.livedoor.jp/doituda/archives/58365389.html
■この動画を見てください。これが在日の正体です。
村田春樹は語る!敗戦後朝鮮人はなにをしたか
高山正之 戦後の在日蛮行原因を語る
日本人はこの恨みを 歴史として残すべき
終戦直後の支那人と朝鮮人による日本人引揚者の大虐殺
■通化大虐殺 1946年2月3日 満州通化省
昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党に満州国通化省通化市は支那共産党軍に占領されていましたが、
中華民国政府の要請に呼応した日本人が蜂起しました。しかし、計画は事前に露見していました。
ろくな武器を持っていなかった蜂起軍は変電所、支那共産党司令部、公安局を襲撃しましたが、共産党軍の重火器
によりあえなく敗退しました。このとき、1月10日に日本人の有力者が逮捕され投獄されていたのを奪還にも行っていますが、
軽機関銃で撃ち殺され全員戦死したどころか、獄舎にも向けて銃撃したので、獄舎にいた140名も全員殺害されました。
その後、共産党軍は事件に関係したものだけでなく、関係しないものまで全員逮捕したので3000人にもなったといいます。
零下20度近い獄舎、憲兵隊跡、公安局、県大隊などへ死の行進をさせました。
獄舎の8畳ぐらいのところに100人ぐらい詰め込み、5日間立ち尽くしになり、水も飲めません。気が狂って叫ぶ人が出ると
「うるさい」と窓から弾が飛びます。
5日目から尋問が始まりますが、尋問の前に殴りつけて白状を迫り、倒れると外に放り出されて凍死するものも出ました。
死刑になったもの、凍死したもの、拷問によって死んだものはトラックに積んで凍結している揮川に投げ捨てられました。
逮捕された留守宅は女性や子供ばかりで、★朝鮮人部隊が家宅捜索として掠奪し、女性を陵辱しました。自殺した女性もいます。
満州製鉄林業課のイイヅカ氏
「となりの教室から、調べられている人の悲鳴が聞こえてくる。板の間に正座させられて、事件のことを知っているだろうと聞かれる。
知らないと答えると、木刀で容赦なく打ち据えられる。拷問に耐えかねて、二階の便所から逃げ出した人がいた。
ところが、一緒に便所に行っていた人まで、お前が逃がしたのだろうといわれて僕らの見ている前で撃ち殺された」
この事件の戦死者は厚生省援護局の資料では約300名で事件後の死者は1200名となっています。
大虐殺を行ったのは★朝鮮人部隊がほとんどで、共産党軍主力は通化を離れて作戦展開しており、司令部はこの虐殺を知って
銃殺中止命令を出したようです。
通化の日本人はこの年の夏の終わりにようやく引き揚げることができました。
この年(昭和21年)の暮れに中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者の慰霊祭が行われました。
昭和22年(1947年)には支那共産党軍が通化を再び占領しました。
通化事件の遺族は昭和27年(1952年)に遺族会を設立し、昭和30年(1955年)以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っています。
参考文献
「通化事件」松原一枝著
「愛新覚羅浩の生涯」渡辺みどり著
「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明著
WikiPedia「通化事件」
此の手の真実を語れないマスゴミとパヨク 酷いね言論弾圧
いくら韓国人でも玉音放送が終わってすぐに襲ってくるとかねーわ。話盛りすぎだろ
チン チョン ロスケの蛮行は教科書に載せるべき
■「和夫一家殺害事件」キム・ソンス君の証言より■ 「親日派のための弁明」の未翻訳部分
日韓併合時代、朝鮮に移り住んだ日本人の中には、明らかに立派な人々も多かった。
普段から人情に厚かった和夫は、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。
貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与え、
村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。
和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたがその数は一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。
けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。
和夫の家族は、ふだん、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。
しかし彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害された。
その日、和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、
成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。
当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。
和夫(優しい目で)「何故こんなことを、お前たち。」
朝鮮人A「チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!」
和夫:(わざと怒り声で)
「私が何かお前たちに間違った事をしたかい?
お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。
お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。
踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところにつめかけてきたんだ?
私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。
(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。
私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい?
お前たちが望むんなら、帰ってやろう」
朝鮮人A 意味深長な目配せをBに送る。
(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)
朝鮮人B「死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!」
次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。
和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。
それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。
そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた。
彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。
朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。
和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた。
普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、両親に起きた“惨状を”見ると、気が触れてしまった。
当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。
その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。
結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
「ひみこ」は小学六年生だった。
和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった。
本来ならNHKとかが特集番組を製作して放送すべき内容だが、
マスコミが腐敗しているので絶対にない。
神戸は終戦直後には密入国してきた朝鮮人の暴動が頻発し「魔都」といわれた くらいの無法地帯だった。
警察が山口組の三代目に依頼して暴虐な朝鮮人をやっと押さえ込むことができたくらいだ。
山口組の三代目の伝記を読むと当時の朝鮮人の非道ぶりがわかる。
http://blog.livedoor.jp/itouansatu/archives/49535396.html
■ 飯干晃一 著「山口組三代目 田岡一雄自伝」(p194)(1971年初版 徳間書店)
▲昭和20年8月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。
人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」 少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」 私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。朝鮮人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。
女は狂ったように絶叫していた。
「汚ねえ・・・・」うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。 ■終戦直後の朝鮮人の土地略奪…志方俊之、日下公人…Voice 1 月号より ■
日下 ................
第四は、国税庁が正しい課税を行う。いま上野や神戸に朝鮮人がたくさん住んでいるのは、
終戦直後に不動産の「即時取得」をしたからです。
志方 その話は初耳ですね。
日下 年の効です(笑い)。日本が空襲で焼け野原になると、自分の息子が戦地から帰ってきた
ときのために、街のあちこちに父・母の疎開先を記した看板がたっていました。その看板が立って
いない土地は一家全滅の印で、そこに朝鮮人や台湾人が家を建て、店を出して住み着いた。(最初は
そういうところから始まったが、やがて手当たりしだいにバラックを建てて不法占拠した)
阪神・淡路大震災が起こるかなり前から、神戸市は「地震や火事の際に危険なので、入り組んだ街
を整理します」という通知を出していたが、調査されると不法占拠した土地だと分かるから、
彼らは反対した。その結果、消防車も入れないような細い道が放置され、震災にともなう火災で焼
死者が多く出ました。
国は10兆円のお金を神戸市復興に投じたが、そのときもまた反対があって、五十年前と同じ道
路になっている。
こうしたことは国税庁も市役所も分かっているのだから、ただ「税金をきちんと納めなさい」と
いうだけでよいのです。
日下 まさに当時は「弱肉強食」の時代でした。戦争が終わって秩序が崩壊したときは、
「自分のものは自分のもの、他人のものも自分のもの」とばかりに、平気で破廉恥なことをした人が儲かった
んです。敗戦直後のイラクみたいなものですがそうは思っていても、やらない人はやらなかった。日本人が
そうです。
露骨にやったのが、朝鮮人、それから台湾人。破廉恥な行為を正当化するために「我々は日本人ではなく、
連合国民だ」と言ったんです。
「戦勝国民」だから、税務署に税金は払わない、警察の命令には従わない。それで闇市の堀って小屋みたい
な店に「戦勝国民の店」と書いた札を張って、税務署と警察を遮断しましたから、かなり儲かったことでしょう。
売るものをどこから調達してきたかというと、彼らは、「陸海軍が潰れたときに倉庫にあったものを持って来た」と
言っていました。
早く言えば盗んできたものです。それからアメリカ軍にも物資の横流しをする人がたくさんいました。それで韓
国人、台湾人に成金がたくさん出ました。
日下公人
その上、不動産泥棒をする。都会は丸焼けになったものだから、元の地主が分りません。持ち主が焼死せず疎
開先の田舎から戻って来たら、自分の土地が占領されている。白昼堂々、不動産を囲って、ここは私の土地だ
と主張している。法律は、不動産に泥棒はないということを前堤にできていますから、法律に訴えても無駄でし
た。
それから十数年たって、ようやく不動産を元の持ち主に返せという判決が出ました。それが有名な「大阪駅前訴
訟」です。
それまで、十数年間は、土地を囲んでしまえは、自分のものにしてしまえたわけです。そうした不動産泥棒の朝鮮人
が日本中いたるところにいました。
上野の駅前でも、新宿でもいたるところでそれと同じことが起きました。そういうふうに、不動産泥棒をしてビル
を建てて朝鮮人や台湾人は成金になっていきました。
http://korea-log-01.hp.infoseek.co.jp/1077429167.html クソチョンよ
お前らが普段喚いて大好きな本当の歴史を直視する時間だぞ
朝鮮人の反日フィクションのように捏造まじりになってはいけないが
そろそろ敗戦直後のはなしを歴史にする時だよ
負けた後にロシア人、中国人や朝鮮人に何をされたかも歴史の一部
とくに同じ味方だったはずの朝鮮人に何をされたかは語るべき
朝鮮半島はおろか日本国内でもやられたのだから
NHKは「焼跡で暴れ回る朝鮮人」のNスペをつくろう
闇市、盗品故買、脅し、強姦、土地乗っとり、報道すべき素材はいっぱいある
そしていまだ教科書に載っていない真実
>>15
そら無理だわ酷使様
慰安婦騒動だって、朝日が打ち上げて河野談話で追認、その後延々引継いで事あるごとにお詫びしてこの度も日韓条約無視して追い銭までしたからこんな事になってるわけでね
そっちの事案は中韓は無論、日本政府すらダンマリで取り上げて騒ぐマスコミも無い
(産経みたいな影響力の無い泡沫マスゴミは論外)
つまり、騒ぐ奴(メディア)もなければ乗っかる政府も無い
発展しようが無いんDeathわ
よく酷使様が、アメリカの調査で強制連行は無かったと言うが、あんまりバカ自民がヘタれるモンでアメリカでも二十万人拉致って慰安婦に〜、
って像の撤去裁判で負ける羽目になったろ
コリエイトでも正視でも、声を上げた方の勝ちだしネット上だけの正論なんて、なーんの意味も無いのdeathヨ >>1
でクソNHKには何百人いるのさ
クソコリアン・クソチャイニーズのヤツが
あるいは
クソ中国・クソコリアとの二重国籍のやつが
まんま中国・南北朝鮮のスパイだ
コワイな
コレが国会で問題にならないのはおかしい
おかしすぎだ
外国籍を保持しつつ国営マスコミやってるなんて、スパイそのものだろ
おまけに日本の防衛を邪魔して、他国の軍隊を援助するような
活動してりゃ外患罪も成り立つぞ
クソコリア死ね
糞中国 死ね 中国人、韓国人、ロシア人は人間ではなく
ケダモノに近いから
>>21
外患誘致系の者らがやってることは、日本のBの取り合い、そこへ外国勢力も加わって、カオス
一般の日本人には、たいして興味無いらしい もうこういうことはタブーにせずに、どんどん表に出そうぜよ!!
そして日本の女性の人権や戦時性暴力を声高に叫んでる団体さんにこれも扱ってもらおうぜ!
二日市保養所のこととか、GHQの連中による無茶苦茶な数のレイプ事件とかさ・・・・。
当然やってくれるよな、そういう団体は・・・???!!
昨日NHKで樺太の話やってたな。
ロ助とチョン公とチャンコロはマジで人畜だ。
リフォーム屋なもんで農家を回ることも多かったけれど、
農家の年寄りにはロシア中国朝鮮韓国を毛嫌いしている人が多い。
うちの市から出た開拓団は3割くらいしか戻ってこれなかったらしい。
本人は戦後生まれでも親戚や親の友人知人に辛酸をなめた人が多くていろいろ聞いているんだろうね。
NHK だけじゃないらしいな
三国人の従業員が多いメディアは
それと、ソフトバンクの新卒採用者の半分以上は
反日国家の大卒とは本当なの?
._ ¶
/〜ヽ.‖
(。・-・っ それは素揚げと同じものなのか
.゚しっJ゚Ж
・下里村役場事件(1951年10月22日)
兵庫県加西郡下里村(現在の兵庫県加西市)において、朝鮮人約200名が、「生活保護」
「強制送還反対」 の陳情をするために下里村役場に押しかけ、村役場職員を吊るし上げ、
椅子を振り上げる等の暴挙に出たので、暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した。
・福岡事件(1951年11月21日)
「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、
そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊
と乱闘となり、16名が検挙された。その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。
警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。
・日野事件(1951年12月18日)
朝鮮人約50名が、自転車隊を編成し、白襷をかけ、「強制送還反対」 のプラカードを掲げ、
メガホンやスピーカーを所持し、強制送還反対を叫びつつ滋賀県内を無届デモ行進をした。警察は
公安条例違反として再三中止を警告したが応じなかったので、滋賀県蒲生郡日野町において実力行
使に出たが、石や薪などを持って抵抗したり、拳銃を奪い取るなどして反抗した。これにより、
警察側に25名の重軽傷者を出したので、拳銃を発砲してこれを鎮圧した。35名が検挙された
・大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日〜25日、11月9日〜12日)
1952年5月12日、韓国に強制送還された朝鮮人のうち、125名が手続不備で逆送
還されて、大村収容所に再収容された。これに対し、民戦から数回にわたって抗議した後、
5月25日になって50名が抗議に押しかけ、代表が当局と会談中、外部の者は盛んに収
容者に対し、逃走をけしかけた。そこで約100名は混乱に乗じて逃走を企図し、12名
が逮捕されてようやくおさまった。
その後、11月9日〜12日にわたって、また民戦活動家数十名が押しかけ代表が当局と
交渉中、654名の収容者が一斉に脱出を企図したので、催涙弾と消防車でこれを阻止し、
首謀者12名を検挙した。
■引揚日本人を襲った朝鮮保安隊の略奪・暴行・殺戮の嵐■
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、
今も念頭を去らないいくつかのエピソードがある。
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、
ついで 朝鮮人の保安隊 に引き渡されてさらに散々に辱められたうえ、
虐殺されている光景であった。
(中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を 朝鮮人 が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
城津での惨状は言語に絶した。(中略) 朝鮮人 の 男女が数十人の団体でおしかけ、
干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
あげくは婦人の"提供"を要求されたという」
博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた
日本でリベラルと称するのはほぼ隠れ共産党支持で間違いない
北朝鮮崩壊の暁にはコイツらこそ化けの皮を剥いで過去に何をしてきたかを解明し大衆の前に晒すべきだと思う
■済南事件(1928)
中国兵による日本人略奪陵辱暴行殺人事件。被害者約400名
・頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除。
・顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。
・両手を縛られて地上を引きずられた形跡。頭骨破砕。小脳露出。眼球突出。
・女性。全顔面及び腹部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
陰部に径2.5cmの木片を深さ27cm刺されている。
両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。
・顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。
・助骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。
右脚の白足袋で婦人と判明した。
■通州事件(1937)
中国冀東保安隊による日本人虐殺事件。被害者約200名
・婦人は24時間強姦されたあげく鼻や喉に針金をつけられ殺害現場まで引き擦られる。
・旭軒では17〜40歳の女性はことごとく強姦され
陰部を銃剣で刺さたもの、口中に土砂を填めてあるもの、
腹部を縦に断ち割つて等にて惨殺。
・錦水楼では女性達は手足を縄で結ばれ強姦され、斬首。
・男は目玉をくりぬかれ、上半身は蜂の巣の様
・子供は手の指を揃へて切断され惨殺
・南城門では腹部の骨が露出し、内臓が散乱
・首を縄で縛り両手を併せて針金通し一家六名数珠繋ぎにして引廻し惨殺。
女性は暴行を加えた上で局部に丸太を突き刺し、
子供は両手・両足を切断し、
男性は顔の皮をはぎ、首に縄を巻き付けた上で引き回す。
中国人による日本人虐殺
東条弥太郎
両手を縛られて地上を引きずられた形跡。頭骨破砕。小脳露出。眼球突出
鍋田銀次郎
左脇腹から右脇に貫通銃創
井上国太郎
顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる
宮本直八
胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による切創。陰茎切除
多比良貞一
頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。腹部を切り裂かれて小腸露出
中里重太郎
顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創
高熊うめ
助骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱 落。右脚の白足袋で婦人と判明した
藤井小次郎
頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除
斎藤辰雄
顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創
■中国人慰安婦20万人の75%が日本軍により死亡 中国のユネスコ申請資料
2015/5月 中国はユネスコ記憶遺産に慰安婦を登録するため、昨年5月、韓国、北朝鮮、台湾、フィリピン、オランダと連帯委員会を発足させた
中国がユネスコに提出した申請資料『中国人慰安婦 日本帝国の性奴隷からの証言』英題:CHINESE COMFORT WOMEN
著者は蘇智良・上海師範大学教授・中国慰安婦研究センター長
加ブリティシュコロンビア大・香港大・英オックスフォード大が出版に協力。
内容はウソてんこもりだが、オックスフォード大学が出版に関わり国際社会の信用が得られやすい
これに基づいてBBCやCNNが慰安婦報道を行っている
序章の当時15歳の中国人リュー・ミァンファン氏の証言より。
村人を一カ所に集め日本兵が「お前はとても美しい」と少女を拉致。抵抗すると暴力。
連行され数人の日本兵に犯される。父親が銀貨100枚の身請け金を用意し日本軍は金を受け取り解放に応じた。
などという証言が満載
同書では中国人慰安婦102人の証言を記録、87人は日本軍が「直接」拉致
同書によると慰安婦は約40万人、半分は中国人慰安婦、日本軍が大部分を自らの手で拉致したという非難する。
上海大学の中国慰安婦研究センター統計によると、慰安婦の75%が日本軍に蹂躙されて死亡
その数は(40万人の75%で)30万人と報道されている。