獄中でノーベル平和賞を受賞した中国民主活動家、劉暁波氏が死去したニュースは世界を駆けめぐった。例外は中国である。報道を規制し国内で影響が広がるのを押さえ込んだ。
しかし劉氏は自らの死と引き換えに、死んでもなお自由が認められない中国の異様な実態を世界の前に示した。私服の警察関係者が大量動員され、厳戒態勢が敷かれた劉氏最期の地、遼寧省瀋陽市から報告する。
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劉氏が入院していたのは、瀋陽市中心部の中国医科大付属第1病院である。ホームページ(HP)を通じて、劉氏の病状について「危篤」と公表したのは7月10日だった。
夕方に一報を得て北京の支局を飛び出し、飛行機に乗って瀋陽に到着したのが同日深夜。空港でタクシーをつかまえ、ようやく病院の正門前にたどり着いた。が、どこにもメディアの姿が見られない。ノーベル賞受賞者だけに欧米メディアも押し寄せると予想していたが、一人もいなかった。拍子抜けした。
しばらく立っていると、若い男たちがどこからともなくやってきて、病院前のビルの中に吸い込まれるように入っていく。
『私人会所』。高級クラブのようだった。劉氏が生死の境をさまよっているというのに、真向かいのクラブには若い女たちの嬌声(きょうせい)が満ち満ちていた。
地元の女子大生(21)に質問をぶつけた。
「劉暁波を知ってる?」「ノーベル平和賞の受賞者なんだ。聞いたことあるでしょ?」「今、そこの病院に入院しているんだけど知らない?」。笑って首を横に振るばかりだった。
「民主活動家なんだ」と言ったときだけ、顔が一瞬こわばったように見えた。
病院前の大通り沿いにホテルがあった。病院の正門を見下ろせる部屋という部屋の全てに明かりがともっていた。
「なるほど−。同業者たちはここにいたのか」
日付が変わっても、病院の周囲を警察車両が巡回していた。
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中国医科大付属第1病院は、1908年設立の南満州鉄道奉天医院などを前身とする。毛沢東も治療を受けたという歴史のある国立総合病院として知られる。
劉氏は獄中で末期の肝臓がんと診断された後、服役していた遼寧省錦州の刑務所から同病院へ移送。6月下旬、当局の監視のもと同病院で治療を受けていることが公にされた。
7月11日午前9時すぎ、病院の構内に入ると、人の多さに驚いた。まるで百貨店のようなにぎわいを見せていた。受診者らが数珠つなぎでエスカレーターに乗って診察棟の中に消えていく。
何気なくスマートフォンを取り出し、パチリと写真を撮って立ち去ろうとしたとき、小太りの男が近づいてきて行く手を阻んだ。
「消せ」。有無を言わさぬ口調である。写真が消去されたのを見届けると、人込みの中に消えた。どこか北朝鮮の最高指導者に似ていた。
病院の内外には、私服の公安関係者が無数に配置されているのだろう。当局が警戒しているのは、外国メディアというよりも、中国各地から劉氏の支援者や民主活動家らが集まってくることだ。
劉氏の病室は23階の腫瘍内科の病棟にある。23階のエレベーターホールには10人以上の公安関係者が待機し、患者・家族以外、病棟にアクセスできないような状態だった。
気温31度。湿度が高く、少し歩いただけで汗が噴き出す。病院の周りを徘徊(はいかい)していると、「北朝鮮の最高指導者」に再び遭遇してしまった。目が合った。近付いてくる。写真の消去はもう真っ平だ。
きびすを返し、走行中のタクシーを止めて強引に乗り込んだ。
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病院側は連日、HPで「劉暁波病状」を公表、日々悪化していく劉氏の病状を伝えていた。
「服役中の民主活動家」への対応としては極めて異例である。本来、当局は劉氏関連の報道を規制しているが、唯一、この病状公開だけは黙認、奨励した。
(1)欧米が求める劉氏の海外移送は困難である(2)中国側も最善を尽くして治療などに当たっている−ことをアピールする狙いがあったようだ。
http://www.sankei.com/premium/news/170831/prm1708310001-n1.html
(>>2以降に続く)