通信データの盗聴を不可能にする「量子暗号」という新技術が注目されている。光の粒を利用する史上最強の暗号だ。実用化すれば機微な情報を扱うビジネスや軍事などの世界に変革をもたらすのは確実で、各国が開発競争にしのぎを削っている。(小野晋史)
光の粒で送受信
インターネットの普及などで大量の情報が飛び交う現代社会は、盗聴の危険と常に隣り合わせだ。米政府による通信傍受を米中央情報局(CIA)の元職員が告発した「スノーデン事件」は記憶に新しい。
桁違いの性能を持つ「量子コンピューター」が登場すると既存の暗号は無力化するともいわれ、盗聴を原理的に不可能にする次世代技術が求められるようになった。
量子とは物質を構成する原子や、さらに小さい素粒子のような極めて小さい粒の総称。量子暗号は光の粒である「光子」を使う技術で、1984年に原理が発表された。
その仕組みは、まず1粒の光子に暗号文を解読する「鍵」の情報を載せて受け手側に送る。この手法を「量子鍵配送(QKD)」と呼ぶ。鍵が無事に届いたら、送りたい本来のデータを暗号化して送信し、受信者は鍵を使って解読する。
第三者が鍵を盗もうとして光子に触れると、光子の状態は必ず変化する。このため受信者は鍵が盗まれた可能性に気付き、別の鍵を再送信するよう送り主に依頼。結果的に鍵が流出していない暗号だけでやり取りするので、盗聴を防げるわけだ。鍵は使い捨てで暗号は毎回変わり、データを傍受しても解読できない。
欧米・中国が先行
研究は急ピッチで進んでいる。情報通信研究機構などは産学官連携で2010年に「東京QKDネットワーク」を構築。東京・大手町と小金井市の間を長さ45キロの光ファイバーで結び、量子暗号で秘匿した動画データの伝送に世界で初めて成功した。
NECはサイバー攻撃を防ぐ施設で21週間の長期運用に成功。東芝も究極の個人情報といわれるヒトのゲノム(全遺伝情報)解析データの通信に使う実験を行った。
一方、先行する欧米や中国ではベンチャー企業などを中心に、金融情報分野で既に実用化されている。情報通信機構の佐々木雅英主管研究員は「5年前はここまで状況が変化するとは思わなかった。海外勢は日本にも売り込んでおり、標準規格を取られないか心配だ」と話す。
課題は低コスト化だ。既存の暗号技術との互換性を確保して需要を高め、装置の大量生産につなげる必要がある。
量子暗号に使う光子は、光ファイバーで送ると徐々に減衰するため、伝わる距離は100キロ程度にとどまる。中国は北京と上海の間に30カ所以上の中継点を設けて約2千キロを“リレー方式”で送る計画だが、中継点は盗聴対策の弱点にもなってしまう
加速する宇宙利用
そこでターゲットとなるのが宇宙空間の利用だ。宇宙では何億光年も離れた天体から光が届くように、光子はほとんど減衰しない。例えば日本と米国に人工衛星から同じ鍵を光子で送れば、大陸間でも量子暗号通信が可能になる。
情報通信機構は昨年8月、超小型衛星「ソクラテス」を使い、地上の1カ所に光子を一粒ずつ送る実験を世界で初めて実施した。安価な超小型衛星を多数打ち上げれば、全世界をカバーする量子暗号通信網を構築できるが、後継機の打ち上げは早くて5年後の見込みで、動きは遅い。
これに対し中国は昨年8月に実験衛星「墨子号」を打ち上げ、今年6月には約1200キロ離れた地上の2カ所に光子を送ることに成功したと発表。実用化を急いでおり、日本の関係者は「中国は量子暗号通信を高速鉄道に続く国家ブランドに育てようとしている」と警戒を強める。
衛星による量子暗号通信は航海中の艦隊や飛行中の航空機とのやり取りなど、軍事上の利用価値も高い。米国では国防高等研究計画局(DARPA)や民間などで研究が進み、国家機密に移行した部分もあるとされる。
日本は民生利用の研究が中心だが、先の大戦で旧日本軍は米国に暗号を解読され、ミッドウェー海戦で致命的な敗北を喫した。防衛省の動きは鈍いが、幹部の1人は「魅力的な技術だ」と関心を示す。
http://www.sankei.com/premium/news/170716/prm1707160008-n1.html