福田赳夫首相(当時)が1977年の東南アジア歴訪時に、最後の訪問地だったフィリピンのマニラで表明した「福田ドクトリン」から、8月17日で40年が経過する。日本が戦後初めて示した積極的な外交姿勢と評された。
その「福田ドクトリン」が今、習近平政権が進める新シルクロード経済圏構想「一帯一路」に沸く中国で、改めて注目されている。
福田首相が演説で強調した外交姿勢は3つの原則を含んでいた。(1)日本は平和に徹し「軍事大国にならない」ことを決意した(2)東南アジアの国々を真の友人として「心と心の触れ合う」相互信頼関係を築く(3)「対等な協力者」として東南アジアの和平と繁栄に寄与する−だ。
21世紀の国際感覚からすれば、常識的であまり新味のない外交姿勢との冷ややかな受け止めがあるかもしれない。
一方、中国政府系シンクタンクである上海社会科学院の傅鈞文(ふ・きんぶん)研究員は論文の中で、「東南アジアは『一帯一路』の要であり、われわれは日本が戦後、東南アジアに提供した経済援助の手法と経験から学ぶことができる」と主張した。
その論拠のひとつとして傅氏が挙げているのは、インドネシアやタイなどの国々における「対日感情の変化」だ。
戦時中の記憶も生々しい70年代。東南アジアでは日本が経済成長を経て、今度は“経済アジア支配”をたくらんでいるのではないかとの疑念が広がった。対日感情が悪化し、田中角栄首相(当時)が歴訪した74年にマレーシア、タイ、インドネシアなどで反日デモが続いた。
だが、「福田ドクトリン」を受けて日本のODA(政府開発援助)や民間企業の対外進出の姿勢が、自国の経済利益の追求から、世界第2の経済大国の地位にふさわしい国際貢献へとカジを切る「変化」が起きた、と傅氏はみている。
理念だけで経済が回らないことは自明だが、理念なき経済外交に持続力は得られないことも確か。敗戦という厳しい現実を経ながらも、「福田ドクトリン」では、「軍事大国にならない経済大国は歴史上、類例をみない実験への挑戦だ」とまで言及して、理念を強く訴えた。
日本はその理念を40年にわたって愚直なまでに実践躬行(きゅうこう)してきた。結果的に東南アジアの対日感情は徐々に好転し、信頼関係が構築されたとして、傅氏は「対外援助において透明性は誤解や疑念の回避に欠かせず、経済外交と文化外交は結びつけるべきだ」と考察している。
中国をめぐる実情はどうか。立場は違えど、世界第2の経済大国になった中国はインフラ建設を軸に「一帯一路」で東南アジアを始め、周辺国との経済的な関係拡大に打って出ようとしている。
5月15日に北京で採択された「一帯一路」フォーラムの共同声明は、「アジアと欧州をつなぎ、アフリカや中南米など他の地域にも開放する」と訴えているものの、浮かび上がるのは「実利の追求」ばかりで、対等な関係や信頼の醸成といった「理念」は少しも感じられない。
それどころか、周辺国でのインフラ建設を介した中国の「覇権主義」や「軍備拡大」の疑念はいよいよ払拭できず、国際社会から警戒感を逆に高めてしまったことに、「一帯一路」のリーダーが“無神経”なままであるようにみえる。
しかも「一帯一路」は経済援助の姿勢が希薄だ。膨張したチャイナマネーで世界を圧倒する中国が「途上国」をなおも標榜(ひょうぼう)するパラドックスの中、途上国へのODAを前面に打ち出せずにいる。
傅氏が願うように、40年前の「福田ドクトリン」の主語を「中国」に置き換えてみたらどうだろうか。対等な協力者として、心と心が触れ合う相互信頼関係をめざして対外支援を継続すれば、国際社会の中国を見る目も変わるだろう。
マネーだけでは人の心を動かすことはできない。まして疑念をもたれた中ではなおさらだ。「福田ドクトリン」はそれも証明した。(上海支局長・河崎真澄 かわさきますみ)
http://www.sankei.com/column/news/170703/clm1707030005-n1.html
香港返還20年の記念式典に出席するため、香港国際空港に到着した中国の習近平国家主席と彭麗媛夫人=29日(共同)
その「福田ドクトリン」が今、習近平政権が進める新シルクロード経済圏構想「一帯一路」に沸く中国で、改めて注目されている。
福田首相が演説で強調した外交姿勢は3つの原則を含んでいた。(1)日本は平和に徹し「軍事大国にならない」ことを決意した(2)東南アジアの国々を真の友人として「心と心の触れ合う」相互信頼関係を築く(3)「対等な協力者」として東南アジアの和平と繁栄に寄与する−だ。
21世紀の国際感覚からすれば、常識的であまり新味のない外交姿勢との冷ややかな受け止めがあるかもしれない。
一方、中国政府系シンクタンクである上海社会科学院の傅鈞文(ふ・きんぶん)研究員は論文の中で、「東南アジアは『一帯一路』の要であり、われわれは日本が戦後、東南アジアに提供した経済援助の手法と経験から学ぶことができる」と主張した。
その論拠のひとつとして傅氏が挙げているのは、インドネシアやタイなどの国々における「対日感情の変化」だ。
戦時中の記憶も生々しい70年代。東南アジアでは日本が経済成長を経て、今度は“経済アジア支配”をたくらんでいるのではないかとの疑念が広がった。対日感情が悪化し、田中角栄首相(当時)が歴訪した74年にマレーシア、タイ、インドネシアなどで反日デモが続いた。
だが、「福田ドクトリン」を受けて日本のODA(政府開発援助)や民間企業の対外進出の姿勢が、自国の経済利益の追求から、世界第2の経済大国の地位にふさわしい国際貢献へとカジを切る「変化」が起きた、と傅氏はみている。
理念だけで経済が回らないことは自明だが、理念なき経済外交に持続力は得られないことも確か。敗戦という厳しい現実を経ながらも、「福田ドクトリン」では、「軍事大国にならない経済大国は歴史上、類例をみない実験への挑戦だ」とまで言及して、理念を強く訴えた。
日本はその理念を40年にわたって愚直なまでに実践躬行(きゅうこう)してきた。結果的に東南アジアの対日感情は徐々に好転し、信頼関係が構築されたとして、傅氏は「対外援助において透明性は誤解や疑念の回避に欠かせず、経済外交と文化外交は結びつけるべきだ」と考察している。
中国をめぐる実情はどうか。立場は違えど、世界第2の経済大国になった中国はインフラ建設を軸に「一帯一路」で東南アジアを始め、周辺国との経済的な関係拡大に打って出ようとしている。
5月15日に北京で採択された「一帯一路」フォーラムの共同声明は、「アジアと欧州をつなぎ、アフリカや中南米など他の地域にも開放する」と訴えているものの、浮かび上がるのは「実利の追求」ばかりで、対等な関係や信頼の醸成といった「理念」は少しも感じられない。
それどころか、周辺国でのインフラ建設を介した中国の「覇権主義」や「軍備拡大」の疑念はいよいよ払拭できず、国際社会から警戒感を逆に高めてしまったことに、「一帯一路」のリーダーが“無神経”なままであるようにみえる。
しかも「一帯一路」は経済援助の姿勢が希薄だ。膨張したチャイナマネーで世界を圧倒する中国が「途上国」をなおも標榜(ひょうぼう)するパラドックスの中、途上国へのODAを前面に打ち出せずにいる。
傅氏が願うように、40年前の「福田ドクトリン」の主語を「中国」に置き換えてみたらどうだろうか。対等な協力者として、心と心が触れ合う相互信頼関係をめざして対外支援を継続すれば、国際社会の中国を見る目も変わるだろう。
マネーだけでは人の心を動かすことはできない。まして疑念をもたれた中ではなおさらだ。「福田ドクトリン」はそれも証明した。(上海支局長・河崎真澄 かわさきますみ)
http://www.sankei.com/column/news/170703/clm1707030005-n1.html
香港返還20年の記念式典に出席するため、香港国際空港に到着した中国の習近平国家主席と彭麗媛夫人=29日(共同)