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ダーさん@がんばらない ★@無断転載は禁止
2017/03/17(金) 15:40:47.49 ID:CAP_USER
[寄稿]少女像合意の出口は著作権
日本大使館前の少女像をめぐる韓日両国間の対立は、2015年の合意以降、韓国内部の問題に変わったようだ。当事者が排除された中で締結された政府間の合意は、対立を深めている。合意文の公開を命じる裁判所の判決にもかかわらず、頑として公開を拒否する外交部の態度は、少女像の移転に関する裏合意が存在するかもしれないとの疑いを抱かせる。両国の12・28合意の履行を強調した黄教安(ファン・ギョアン)大統領権限代行の三一節記念演説は、このような疑念を確信に変えた。
頭を下げなければならない日本政府はむしろ合意の履行を堂々と求めており、被害当事者たちは韓国政府まで相手にして闘わなければならない。時間が経つにつれて聞こえてくるハルモニ(おばあさん)たちの他界の知らせに、胸が締め付けられる。ところが、間違った交渉によってもつれたこの問題を解決するカギは、意外にも製作者と著作権にある。
「平和の少女像」を作った彫刻家のキム・ソギョン、キム・ウンソンさん夫妻は昨年、『空いた椅子に刻み込んだ約束』という本を出版した。彼らは20年以上も水曜集会を開いてきたハルモニたちの姿を目にしながら感じた心の借りを返すために、1000回目の集会が開かれた2011年12月に少女像を設置したという。短い髪に、少しあげたかかと、影、蝶、肩の鳥などはそれぞれ意味を持っている。キム夫妻は少女の隣に空いた椅子を配置し、その空白を観客らが埋めるようにしている。ある人は空席に座ってみたり、寒い時は少女像に毛の帽子を被せたり、マフラーをしたり、膝に毛布をかけたりもする。観客たちが絶えず再解釈して蘇らせる少女像は、単なる慰霊碑ではない。
作品に隠された暗号の中で最も大切なことは、向こう側にある日本大使館を見つめる少女の目ではないかと思う。白い画用紙に淡い色で下絵を描いていく年ごろを、墨で塗りつぶされて一生悔恨の中で生きてきた女性が「自発的に売春をした」と強制性を否定してきた日本に向かって見開いたその目だ。日本は自国大使を招致してまで少女像を嫌うのも、そのためだろう。視線は対象を前提とする。だから少女像の最も重要な芸術的価値は、日本大使館の向かい側のその場所にあるのだ。
場所を離れて存在できない作品を場所特定的芸術(site specific art)という。ロダンの「考える人」やミケランジェロの「ダビデ」は、いかなる場所にあっても芸術的価値が損なわれず、評価も変わらない。ところが、少女像は(これらの作品とは)異なる。日本大使館の前を離れて美術館や他の場所に移された瞬間、命を失うことになる。創作者は自分の作品が毀損されない権利を持つ。これを著作人格権、狭くては同一性維持権という。作品は作家の人格の一部ということだ。作品の所有権が他人に移っても著作人格権は作家に残る。したがって、少女像の移転は作家たちの著作人格権の侵害になりかねない。所有権者である挺対協が了解したとしても、移転を強行することができない。最近、鐘路区(チョンノグ)が少女像をむやみに撤去できないように公共の造形物に指定する条例改正案を作った。その志は立派だが、厳密に言えば場所特定的芸術の場合、作家の同意も必要なのに、この点は考慮しなかったようだ。
江南(カンナム)の高級マンション数軒の値段で、慰安婦被害者の過去・現在・未来を全て失わせた政府。はたして政府が具体的委任なしで、民間人の意思に反する処分行為を民間人を代理して政府間合意で済ませることができるのかも疑問だ。しかし、この合意で「平和の少女像」の作家たちの著作人格権侵害問題まで解決されたわけではない。少女像の移転を望まないハルモニたちだけでなく、もし間違った合意だったことを認識し、履行を拒みたくても合意を覆すという非難を恐れて躊躇する政府にとっても、作家の著作権は意外な解決策になるかもしれない。
ソース:ハンギョレ 2017.03.17 02:11
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/26818.html
日本大使館前の少女像をめぐる韓日両国間の対立は、2015年の合意以降、韓国内部の問題に変わったようだ。当事者が排除された中で締結された政府間の合意は、対立を深めている。合意文の公開を命じる裁判所の判決にもかかわらず、頑として公開を拒否する外交部の態度は、少女像の移転に関する裏合意が存在するかもしれないとの疑いを抱かせる。両国の12・28合意の履行を強調した黄教安(ファン・ギョアン)大統領権限代行の三一節記念演説は、このような疑念を確信に変えた。
頭を下げなければならない日本政府はむしろ合意の履行を堂々と求めており、被害当事者たちは韓国政府まで相手にして闘わなければならない。時間が経つにつれて聞こえてくるハルモニ(おばあさん)たちの他界の知らせに、胸が締め付けられる。ところが、間違った交渉によってもつれたこの問題を解決するカギは、意外にも製作者と著作権にある。
「平和の少女像」を作った彫刻家のキム・ソギョン、キム・ウンソンさん夫妻は昨年、『空いた椅子に刻み込んだ約束』という本を出版した。彼らは20年以上も水曜集会を開いてきたハルモニたちの姿を目にしながら感じた心の借りを返すために、1000回目の集会が開かれた2011年12月に少女像を設置したという。短い髪に、少しあげたかかと、影、蝶、肩の鳥などはそれぞれ意味を持っている。キム夫妻は少女の隣に空いた椅子を配置し、その空白を観客らが埋めるようにしている。ある人は空席に座ってみたり、寒い時は少女像に毛の帽子を被せたり、マフラーをしたり、膝に毛布をかけたりもする。観客たちが絶えず再解釈して蘇らせる少女像は、単なる慰霊碑ではない。
作品に隠された暗号の中で最も大切なことは、向こう側にある日本大使館を見つめる少女の目ではないかと思う。白い画用紙に淡い色で下絵を描いていく年ごろを、墨で塗りつぶされて一生悔恨の中で生きてきた女性が「自発的に売春をした」と強制性を否定してきた日本に向かって見開いたその目だ。日本は自国大使を招致してまで少女像を嫌うのも、そのためだろう。視線は対象を前提とする。だから少女像の最も重要な芸術的価値は、日本大使館の向かい側のその場所にあるのだ。
場所を離れて存在できない作品を場所特定的芸術(site specific art)という。ロダンの「考える人」やミケランジェロの「ダビデ」は、いかなる場所にあっても芸術的価値が損なわれず、評価も変わらない。ところが、少女像は(これらの作品とは)異なる。日本大使館の前を離れて美術館や他の場所に移された瞬間、命を失うことになる。創作者は自分の作品が毀損されない権利を持つ。これを著作人格権、狭くては同一性維持権という。作品は作家の人格の一部ということだ。作品の所有権が他人に移っても著作人格権は作家に残る。したがって、少女像の移転は作家たちの著作人格権の侵害になりかねない。所有権者である挺対協が了解したとしても、移転を強行することができない。最近、鐘路区(チョンノグ)が少女像をむやみに撤去できないように公共の造形物に指定する条例改正案を作った。その志は立派だが、厳密に言えば場所特定的芸術の場合、作家の同意も必要なのに、この点は考慮しなかったようだ。
江南(カンナム)の高級マンション数軒の値段で、慰安婦被害者の過去・現在・未来を全て失わせた政府。はたして政府が具体的委任なしで、民間人の意思に反する処分行為を民間人を代理して政府間合意で済ませることができるのかも疑問だ。しかし、この合意で「平和の少女像」の作家たちの著作人格権侵害問題まで解決されたわけではない。少女像の移転を望まないハルモニたちだけでなく、もし間違った合意だったことを認識し、履行を拒みたくても合意を覆すという非難を恐れて躊躇する政府にとっても、作家の著作権は意外な解決策になるかもしれない。
ソース:ハンギョレ 2017.03.17 02:11
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/26818.html