1992年にデビューし、シンガーソングライターとして第一線を走り続けてきた大黒摩季(52)。しかし、その活躍の裏で27歳のときに「子宮内膜症」を患い、それ以降も数々の子宮疾患を経験。「音楽を憎んだこともある」と語る彼女の闘病と、そこから立ち直れたきっかけとは――。
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望んでいた出産は永遠にかなわない。私はもう「女」ではなくなってしまうのだろうか。真っ暗闇の絶望。でも、今だから言えることがあります。人間って、絶望にも飽きることができるんです……。
デビューしてから5年後の1997年8月、私はレインボースクエア有明で初のライブを行うことになっていました。しかし、体調がすぐれない。腰痛と腹痛が激しく襲い、踏ん張ることができずに高音がうまく出せない。初ライブを万全の体調で迎えるために婦人科を受診したところ、下された診断は子宮内膜症。しかも、かなり進行しているとのことでした。そして治療を始めると、投薬の影響で女性ホルモンの値が下がってより高音が出せなくなっていきました。その薬は途中で止めるとそれまでの治療効果がゼロに戻るという、やりきらなくては治せないものでした。
でも、満を持しての初ライブは迫っている。観客の前では「完璧な大黒摩季」を披露したい。すでに4万7千人もの人がチケットを買ってくれていました。
でもでも、このまま子宮を放っておくと、2、3年後には全摘出しなければならなくなるかもしれない。当時27歳。かなうならばいずれは出産を、と「ほのかな女の夢」も抱いていました。
「歌手・大黒摩季」と「未来の母親・大黒摩季」。どちらを優先するのか究極の二択――。
治療をストップする選択
結局、4万7千人のお客様と、スタッフを入れたら5万人の人たちの期待を裏切る罪の意識を背負って生きる強さはさすがにない。歌手として二度とこんなビッグチャンスもないと考え、また未来の治療法の進歩に懸けることにして、私は治療をストップする道を選択。薬を使わなくなったおかげでどんどん高音が戻ってきて、ライブ当日は最高の状態で迎えることができました。
それ以降は、東洋医学的な治療を再開しつつ、ライブの時は鎮痛剤や漢方薬で痛みをごまかしたりしていましたが、症状は悪化。ツアーから帰ってくる度に子宮のトラブルが増えているという状態でした。
そして34歳の時に結婚。病院の先生からは「95~96%、子どもは産めない」と言われていましたが、残り4~5%の可能性に望みを託し、不妊治療を開始しました。
「子宮の病気のバリューセット」状態
しかし、42歳の時には子宮内膜症以外にも、子宮筋腫、子宮腺筋症、左卵巣嚢腫と、“子宮の病気のバリューセット”状態に。腹腔内いっぱいに炎症が広がり、40℃近い尿が出ることも、うずくまるほどの激痛に見舞われることも度々ありました。治療に専念するため、そしてわずかでも出産の可能性を残すため、もはや音楽活動を休止する以外の選択肢は私には残されていませんでした。
1度目の手術では、子宮を温存するために腺筋症以外の患部を切除。そうやって不妊治療を続け、4、5回妊娠したもののいずれも流産。最後は子宮が肥大化して、皮肉なことに赤ちゃんがいるみたいに20センチほどお腹が出っ張ってしまいました。
自分のポンコツな子宮のせいで、せっかく妊娠しても受精卵を自ら殺してしまっているのではないか、自分で産むという意地を捨て、他の人の健康な子宮なら受精卵を「殺さない」で済むのではないか。そんな罪悪感にとらわれ、2015年に子宮の全摘出手術を受け、以降はアメリカで、自分と夫の受精卵での代理母出産を試みました。でも、冷凍保存していた12個の受精卵を全て使い果たしても成功には至らなかった。年齢はすでに40代後半。もう一回採卵から始めるのか、それとも――。断腸の思いで自分から終えることにしました。
暗闇に落ちていく負のループ
自分で自分の望みを絶つ。これ以上の虚無はありません。私をこんなふうにしたのは音楽のせいじゃないか。音楽なんかに出会わなかったら今頃、3、4人子どもを産んで、慎ましくも一軒家で暮らし、ハッピーファミリーの肝っ玉母ちゃんとして家業のパン屋を継いでいたんじゃないか。大好きな音楽を恨むほどどん底に突き落とされました。
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