WEB Voice2021年09月10日
https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/8832
※本稿は、河野太郎 著『日本を前に進める』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
迷子の思い出
私は1963年1月10日、河野洋平、武子の長男として生まれました。祖父は河野一郎で、河野派を率いた自民党の重鎮でした。曾祖父は治平といい、神奈川県議会議長を務めました。
小学校1年生のときです。家族で平塚から小田原の祖母のところに出かけたことがありました。その日は、私が何かしでかして親父にひどく叱られ、そのことがずっと気になっていました。
夕方、祖母の家の前の小川でメダカかザリガニを捕っていると、親父の車がさーっと出ていきました。
実際は親父が会合に出かけただけで、また戻ってくることになっていたのですが、私はてっきり悪いことをしたせいで自分だけ置いていかれた、と思い込んでしまいました。私は必死に車の後を追いかけますが、もちろん追いつけません。
泣きながら国道1号線をひたすら、平塚の自宅に向かって何時間も歩き続けました。いつの間にか頭の上には満天の星が広がっています。
そのころ小田原では、私がいないことに気づいた両親が警察に連絡し、私の臭いの付いた持ち物を提出して警察犬が出動する騒動になっていました。警察の捜索隊が用水路を刺又で刺してるのを見て、母は気絶寸前だったそうです。
私は大磯あたりまで来て、「平塚まであとどれくらいですか」と人に尋ねました。
「どうした」「迷子になっちゃって」「どこから来たの」「小田原から」というやりとりがあって、不審に思ったおじさんが平塚行きのバス停を探して一緒に乗ってくれ、無事に家にたどり着くことができました。
後から帰ってきた親父が私の顔を見て、「夕飯はもう食ったか」とだけ尋ねたのを覚えています。
箱根駅伝を目指して
1975年、地元の花水小学校を卒業すると、母の勧めで受験して慶應義塾中等部に進学しました。
港区三田にある学校に通うため、毎朝、平塚発6時34分の電車の3両目に乗って、大磯から乗ってくる友人と合流して登校していました。品川で乗り換えて、田町で下車。駅から歩いて15分くらいの遠い道のりでした。
中等部では競走部に入部しました。小田原から平塚の手前くらいまで小学校1年生で歩けたのだから、お前はきっと将来マラソンが強くなる、といろんな人に言われたのが理由の一つ。もう一つは大学生になったとき、箱根駅伝に出場したかったからです。
祖父と大叔父の河野謙三は早稲田大学の選手として何度も箱根駅伝を走っていました。河野謙三は強くて山登りや1区を任されていましたが、その大叔父いわく「兄貴(一郎)は弱かったから一番短い小田原−平塚間しか走らせてもらえなかった」そうです。
もっとも祖父によれば、「俺は将来の選挙区の小田原−平塚間を走ったんだ」という説明になります。
「あいつ、競走部なのにビリだぞ」
親父は早大競走部のマネジャーでした。箱根駅伝では、のちに瀬古利彦選手を育てる中村清監督と一緒にジープに乗っていたそうです。河野家の正月は、箱根へ行って駅伝を応援するのが恒例行事でした。
将来の箱根駅伝を目指して中等部の競走部に入部したのですが、ろくに練習にも出ていませんでした。
1年生のときに、校内対抗の1500m走にクラス代表で出場したのですが、その日は体調が悪かったこともあって最下位。クラスで「あいつ、競走部なのにビリだぞ」という話になり、それから練習に出るようになりました。
3年生のときは主将に選ばれ、東京都の私学対抗の大会で優勝したりしました。秋の運動会の4000m競走では、長らく破られていなかった3年生の歴代最高記録を大幅に上回る新記録で優勝しました。
慶應義塾中等部の運動会のプログラムには歴代最高記録がすべて掲載されていますが、いまだに4000m競走の記録保持者は「河野太郎」と書いてあります。