1998年
矢野輝弘、大豊泰昭(中日)⇔関川浩一、久慈照嘉(阪神)
阪神 +159.9/中日 −159.9
矢野輝弘 阪神 打率.276、98本塁打、510打点 135.3
大豊泰昭 阪神 打率.258、62本塁打、154打点 24.6
関川浩一 中日 打率.283、12本塁打、192打点 −11.2
久慈照嘉 中日 打率.256、0本塁打、36打点 −4.5
1997年、新球場のナゴヤドームに移った中日は、それまでの本拠地ナゴヤ球場とは正反対の広いグラウンドで勝手が違ったのか、最下位に転落してしまう。ドームに適合したチームへ変革する必要性を感じた星野仙一監督は、主砲・大豊の放出を決意した。94年は38本塁打、107打点の二冠でリーグ3位のPV41.0、96年にも38本塁打でPV27.6と打ち続けていた大豊も、すでに34歳。97年は球場が広くなったこともあり12本塁打と長打力を発揮できず、PV−4.5はルーキーイヤー以来のマイナスに落ち込んでいた。2億円近い高額年俸を整理したいとの考えもあり、一塁には山崎武司を外野からコンバートすればいいとの計算もあった。
ターゲットはレギュラー不在だった遊撃手で、好守で知られた久慈はその条件に適っていた。92年に新人王を受賞した久慈は、通算打率.258、5本塁打、PV−24.0が示すように打撃は弱かったものの、97年はOPS.659/PV−4.4。中日で最も多く遊撃を守った鳥越健介(OPS.536/PV−11.4)に比べれば上で、何より星野が目指していたセンターラインの守備強化にうってつけだった。阪神にとっても、リーグ最少の103本塁打だった打線に長距離砲の大豊を加えるのは理にかなっていたし、決まったレギュラーのいなかった一塁を固定できるメリットもあった。
ただし大豊と久慈の1対1ではバランスが悪いため、2対2の形となった。正捕手不在の阪神は当初、強肩のキャッチャー・中村武志を希望し、交換要員として桧山進次郎を提示したが不成立。代わりに大阪出身の控え捕手・矢野をもらい、捕手兼外野手の関川を放出した。関川は96〜97年は規定打席不足ながら打率3割以上の巧打者で、中日はコンバート予定の山崎に代わる外野手にと見込んでいた。
<阪神>矢野が名捕手に成長
このトレードで結果的に最も成功したのは、成立当時は一番実績に乏しかった矢野だった。中日では中村に阻まれ、7年間で一度も100試合出場がなかったが、96年は56試合の出場ながら.346の高打率を残し、PV18.4。翌97年はPVこそ2.5と平凡だったものの自己最多の84試合に出場するなど、着実に力はつけていた。
阪神へ移った98年は正捕手として110試合に出場。.211の低打率でPV−7.0だったが、続く99年は新監督となった野村克也の下、投手リードだけでなく打撃でも急成長。初めて規定打席に達し、打率.304/出塁率.371、PVは11.7と大きく数字を伸ばした。星野が阪神の監督に就任した2002年は、66試合の出場ながら打率.321でPV25.8。翌03年はリーグ3位の打率.328、79打点でPV47.5(3位)。初めてベストナイン/ゴールデングラブに選ばれ、阪神のリーグ優勝に大いに貢献、MVP投票ではチームメイトの井川慶に次ぎ2位だった。
05年も打率.271、自己最多の19本塁打、PV18.5で再びリーグ優勝の力となった。その後も39歳になる08年まで活躍を続け、阪神時代の13年間は通算PV135.3。中日時代と合わせると153.5となり、これは捕手としては史上9位の数字である。中日で埋もれていた選手が、トレードを機に球界を代表する名捕手へ成長したのだ。
一方の大豊は、98年シーズンには99試合の出場にとどまり、打率も.231と低迷したが、21本塁打はチームトップでPV2.4。翌99年は181打席のみながら打率.341、18本塁打で、PVも18.1だった。01年に中日へ戻るまで、阪神には3年間在籍しPV24.6。期待通りではなかったかもしれないが、決して悪くはなかった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/44ba0adcb006435c3e01ff0af2f918c1c2005926
1/3(日) 12:00配信
関川 中日
大豊 阪神