ジョン・レノンが亡くなってから今年12月でちょうど40年の節目を迎える。
妻のオノ・ヨーコさんとジョンの人生の軌跡を紹介する展覧会「ダブル・ファンタジー ジョン&ヨーコ」が10月9日から来年1月11日まで開催中だ(ソニーミュージック六本木ミュージアム)。これは2018年から19年にかけてジョンの故郷・英国リバプールで開催した展覧会をほぼそのまま日本に持ってきたもので、筆者はちょうど同時期(18年7月)に米ニューヨークのヨーコさんの自宅で単独インタビューに応じてもらっていた。
今回はインタビューでのヨーコさん自身の貴重な肉声を引用しながら、ジョンとの出会いや音楽活動、反戦運動、家庭生活、さらに衝撃的な別れなど2人の足跡を改めてたどってみよう。
■ベトナム反戦運動の闘士、FBIから行動を監視
40年前の1980年12月8日午後10時50分。ニューヨークの自宅アパートの入り口でジョンが射殺された事件は全世界に大きな衝撃を与えた。ヨーコさんはこう振り返る。「ジョンはね、後で振り返ると、自分が殺されることが分かっていたんじゃないかなって気がするの。私たちが平和、平和って、ずっとアクティブに運動していたでしょう。だから、ジョンはガバメント(米政府)に殺されたんじゃないかって私は思っているの……」
反戦運動の先頭に立ち、世界平和を訴え続けたヨーコさんとジョンは71年に英国から米ニューヨークに生活の拠点を移した後、米連邦捜査局(FBI)に活動を厳しく監視されていた。世界の若者に絶対的な影響力を持ち、ベトナム戦争のさなかから反戦を呼び掛けてきたヨーコさんとジョンの言動に、米政府はかなり神経をとがらせていたようだ。
69年に結婚した2人はオランダ・アムステルダムとカナダ・モントリオールのホテルで平和のためのパフォーマンス「ベッドイン」を敢行する。そして米国の左翼活動家であるジェリー・ルービンやアビー・ホフマンらと連携して活動の政治色を強めてゆき、72年3月には米国から国外退去を命じられる。「私とジョンは、ルービンやホフマンらと一緒に政治運動をしていたでしょう。政府はきっと私たちのことが怖かったのよ。でも逆に言うと、私は女だったから助かったんだと思う」
■ベッドイン・ヌートピア・ミリタリー… 米国から退去命令 73年3月、米政府はヨーコさんの永住申請だけを認め、ジョンには再び国外退去を命令した。危険な政治活動に奔走する夫婦を引き離す狙いがあったとされる。これを受けて、73年4月に2人は領土も国境もパスポートもない架空の理想国家「ヌートピア」の誕生を宣言。米政府の対応を痛烈に批判し、抗議活動で真っ向から対峙する。
この頃、2人がコンサートや平和運動などで好んで着用していたのがミリタリールック。「単に『平和、平和』と叫んでいるだけではダメでしょう。政府のやっていることを逆に皮肉るために、あえて軍服をファッションにしてみたの。でも『おまえたちは戦争に賛成する気なのか』なんて世間から私たちを批判する声も随分と聞こえてきたわ」と当時を振り返る。
2人の人生は、巨大な政治権力との壮絶な闘争の軌跡でもあったのだ。
■勝ち取った永住権、サングラスに込めたジョンの思い
2人が勝ち取った成果の1つがジョンの米国永住権(グリーンカード)。法廷闘争の末、75年10月7日にようやくニューヨーク州最高裁がジョンへの国外退去命令を破棄するという判決を下した(その2日後に息子ショーンが誕生)。翌76年7月27日にジョンは晴れて、米国での永住権を正式に取得する。「私たち夫婦への嫌がらせだったけど、苦労してジョンのグリーンカードを何とか勝ち取ることができた。でもトランプ大統領がいるので、また私もいつ国外に出て行けと言われるか分からないわ」と不安を見せる。
ヨーコさんが愛用していたサングラスにもジョンとの大切な思い出が込められている。
全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/5e268fc6cac4b3ef706f70a62032f178e68f2cb7
妻のオノ・ヨーコさんとジョンの人生の軌跡を紹介する展覧会「ダブル・ファンタジー ジョン&ヨーコ」が10月9日から来年1月11日まで開催中だ(ソニーミュージック六本木ミュージアム)。これは2018年から19年にかけてジョンの故郷・英国リバプールで開催した展覧会をほぼそのまま日本に持ってきたもので、筆者はちょうど同時期(18年7月)に米ニューヨークのヨーコさんの自宅で単独インタビューに応じてもらっていた。
今回はインタビューでのヨーコさん自身の貴重な肉声を引用しながら、ジョンとの出会いや音楽活動、反戦運動、家庭生活、さらに衝撃的な別れなど2人の足跡を改めてたどってみよう。
■ベトナム反戦運動の闘士、FBIから行動を監視
40年前の1980年12月8日午後10時50分。ニューヨークの自宅アパートの入り口でジョンが射殺された事件は全世界に大きな衝撃を与えた。ヨーコさんはこう振り返る。「ジョンはね、後で振り返ると、自分が殺されることが分かっていたんじゃないかなって気がするの。私たちが平和、平和って、ずっとアクティブに運動していたでしょう。だから、ジョンはガバメント(米政府)に殺されたんじゃないかって私は思っているの……」
反戦運動の先頭に立ち、世界平和を訴え続けたヨーコさんとジョンは71年に英国から米ニューヨークに生活の拠点を移した後、米連邦捜査局(FBI)に活動を厳しく監視されていた。世界の若者に絶対的な影響力を持ち、ベトナム戦争のさなかから反戦を呼び掛けてきたヨーコさんとジョンの言動に、米政府はかなり神経をとがらせていたようだ。
69年に結婚した2人はオランダ・アムステルダムとカナダ・モントリオールのホテルで平和のためのパフォーマンス「ベッドイン」を敢行する。そして米国の左翼活動家であるジェリー・ルービンやアビー・ホフマンらと連携して活動の政治色を強めてゆき、72年3月には米国から国外退去を命じられる。「私とジョンは、ルービンやホフマンらと一緒に政治運動をしていたでしょう。政府はきっと私たちのことが怖かったのよ。でも逆に言うと、私は女だったから助かったんだと思う」
■ベッドイン・ヌートピア・ミリタリー… 米国から退去命令 73年3月、米政府はヨーコさんの永住申請だけを認め、ジョンには再び国外退去を命令した。危険な政治活動に奔走する夫婦を引き離す狙いがあったとされる。これを受けて、73年4月に2人は領土も国境もパスポートもない架空の理想国家「ヌートピア」の誕生を宣言。米政府の対応を痛烈に批判し、抗議活動で真っ向から対峙する。
この頃、2人がコンサートや平和運動などで好んで着用していたのがミリタリールック。「単に『平和、平和』と叫んでいるだけではダメでしょう。政府のやっていることを逆に皮肉るために、あえて軍服をファッションにしてみたの。でも『おまえたちは戦争に賛成する気なのか』なんて世間から私たちを批判する声も随分と聞こえてきたわ」と当時を振り返る。
2人の人生は、巨大な政治権力との壮絶な闘争の軌跡でもあったのだ。
■勝ち取った永住権、サングラスに込めたジョンの思い
2人が勝ち取った成果の1つがジョンの米国永住権(グリーンカード)。法廷闘争の末、75年10月7日にようやくニューヨーク州最高裁がジョンへの国外退去命令を破棄するという判決を下した(その2日後に息子ショーンが誕生)。翌76年7月27日にジョンは晴れて、米国での永住権を正式に取得する。「私たち夫婦への嫌がらせだったけど、苦労してジョンのグリーンカードを何とか勝ち取ることができた。でもトランプ大統領がいるので、また私もいつ国外に出て行けと言われるか分からないわ」と不安を見せる。
ヨーコさんが愛用していたサングラスにもジョンとの大切な思い出が込められている。
全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/5e268fc6cac4b3ef706f70a62032f178e68f2cb7