かすれるような小さな音が、静まり返った室内に寂しく響いていた。
記者会見場を埋め尽くす報道陣のなかには、すすり泣く記者がいる。本来なら誰よりも冷静に現場を取り仕切らなければならない球団広報ですら、涙を流していた。
沈痛な静寂のなか、最初こそ気丈に振る舞っていた主役も、大きな左手で目頭を押さえながら想いを吐いていた。
2011年10月9日。
楽天の山崎武司は、この年限りで自由契約となり、東北を去ることをファンに報告した。
「来年はチームの構想に入っていない」
戦力外を直接言い渡したのは、当時の監督であり、中日時代の山崎の「育ての親」でもある星野仙一だった。
「俺の罪は重い」
43歳を迎えるこの年、楽天の本拠地である宮城県が東日本大震災により被災した。「東北に活力を与えたい」。そう奮闘を約束して臨んだシーズンだった。
固い決意を、形にできなかった。
右手薬指の骨折や終盤の大スランプもあって、打率は2割2分9厘で本塁打は11本。楽天に移籍後ワーストの成績に終わり、優勝を誓ったはずのチームも5位と、不甲斐なさだけが山崎を支配していた。
「俺の罪は重い」
チームの主砲は自分を戒め、大減俸を突き付けられても受け入れるつもりだった。
「寄せ集め集団」の精神的支柱だった
ところが現実は、戦力外という山崎にとって最悪のシナリオだった。
楽天が誕生した2005年から在籍し、07年には43本塁打、108打点で二冠王に輝くなど、山崎は打線の中心に君臨し続けた。
牽引していたのは打撃だけではない。
球団創設当時のチームは、オリックスと合併した近鉄のプロテクトから漏れた、いわば「寄せ集め集団」だった。「何とかしたい」と、若手選手たちの尻を叩き続けた。マスコミにも、いいものはいい、悪いものは悪いとはっきり言い放った。豪放磊落。竹を割ったような性格のベテランは、記者にも慕われた。
精神的支柱。
いつしかそう称され、ファンからも絶大な支持を受けていた男が楽天を去る。
年齢と成績から客観的判断を下せば、自由契約という球団の意向も理解できるが、個人の意思を優先して考えれば100%納得したわけではなかった。それは、山崎だけではなく、戦力外通告を受けた者すべての共通認識だろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2984c392bc4127a29dbbb2d9e1d5ab291d8e166e?page=1
11/28(土) 17:05配信
https://npb.jp/bis/players/01303868.html
成績
20131005 中日ドラゴンズ 山崎武司 応援歌 8回裏 「俺は星野さんに葬られると思っていたから」
ただ、プロ野球選手にとっての“死の宣告”を星野から下されたことに関しては、不思議と運命めいたものを感じたのだという。
「俺は星野さんに葬られると思っていたから」
そう切り出し、中日入団1年目の監督でもあった星野への胸の内を話してくれた山崎が、今も印象に残る。
「野球に対する厳しさ。『今に見てろよ! 絶対に見返してやるからな!! 』みたいな負けん気だったり、根性を教えてくれたのが星野さんだったから。あの人との出会いがなければ、ここまで長く野球をやれていたかどうかわからない。そういう人情味に溢れた人と、40を越えてまた楽天で出会えて、直接クビを言い渡されるっていうのは、ある意味ではいい巡り合わせだったような気がするね」
とはいえ、意向をすべて汲むことはできなかった。戦力外通告を受けると同時に球団からコーチ就任を要請されたが、固辞した。
「引退しよう」
この瞬間は、純粋にそう思えたと、山崎は偽らざる心を打ち明けていた。
「辞めないで!」泣いた息子
ただ、周りがそれを許さなかった。
知己たちは「まだやれる」と背中を押す。息子からは、「辞めないで!」と泣きながら懇願された。
それらと同じくらい響いたのが、楽天の元監督で山崎を再生させてくれた恩師、野村克也の言葉だった。
「お前は25年やってきた。実績もある。辞める、辞めないの決断は自分でしないといけない選手だ。人に言われて決めちゃいかん。まだやれると思うなら頑張れ」
10月9日の会見に臨む前には、山崎はすでに覚悟を決めていたのである。涙を流したのは戦力外の悔しさではなく、苦楽を共にした楽天のチームメートたちとの別れ。そして、「第二の故郷」と公言する仙台を離れる寂しさからだった。
崩壊寸前の涙腺を抑えながら、楽天の象徴は声を張った。
「自分のなかの火を消せなかった」
力強く、現役続行を表明した。
この時点で山崎は通算402本塁打を記録していた。2000安打より達成者が少ない400本塁打越えの偉業を打ち立てたレジェンドである。自らを育ててくれた星野に引導を渡されたのであれば、楽天で花道を飾るのも悪くはなかったはずだ。
現役続行を決めたのは周囲の後押しがあったことは大きいが、山崎にはそれを凌駕した自我が根付いている。
「俺は、俺の道を突き進む」
スマートな人生など邪道。地位や名誉に媚びず、泥臭く命を燃やすことこそ王道。それが山崎武司というプロ野球選手だった。
「けど、本当に扱いがひどかったから!」
その強靭な背骨の形成には、過去の戦力外も決して無縁ではない。
山崎は中日時代の02年オフにトレードでオリックスへと移籍しているが、これは自らが望んだ「クビ」のような決別だった。
前年の01年。2割3分8厘と打率こそ低かったが25本塁打と、主砲として最低限の成績を残していた山崎は、中日と新たに3年契約を結んだ。ところが翌年、新監督の山田久志は最初こそスタメン起用を約束していたものの、開幕からなかなか調子が上向かなかった山崎は容赦なく二軍へ落された。
プロは実力社会であるとの自覚があるため、そこは理解できた。だが、指揮官のその対応は1996年の本塁打王など、チームを支え続ける選手への敬意があまりにも欠落していた。
当時を思い返すと、山崎の言葉はいつも怒気をはらんでいた。
「俺だってね、実績に胡坐をかいていたわけじゃなかったんだよ。3年契約の最初の年だったし、春先から結果を出せず申し訳ないと思っていたし、二軍へ行くことにも抵抗はなかった。けど、本当に扱いがひどかったから。だから、そこからはもう『いったろかい! 』って感情だったね」
山崎はなんとか理性を保った。そして、シーズンが終わると真っ先に球団に直訴した。
「このまま中日にいたら、いずれ迷惑をかけてしまうのでトレードに出してください」
「あの人は野球になると独裁的になる」
歯車が、狂い始めた。
オリックス2年目の04年。自分でも呆れるくらいの不遇にぼやくしかなかった。
「ほんと、ついてねぇな。これが晩年ってやつなのかね」
この年も、引き金は新監督との確執だった。
指揮官の伊原春樹は、山崎いわく「プライベートでは思いやりのある人だけど、野球になると独裁的になる」人間性だったという。
両者の関係断絶の発端となったのは、試合での起用法だった。山崎の地元・名古屋で開催される試合でのこと。半レギュラーだったとはいえ、この日は多くの関係者を招待していたこともあり、監督に「頑張りますんで、スタメンで使ってください」と直談判し、了承を得ていた。
ところが当日、スターティングラインナップに山崎の名前はなかった。主力選手が怪我によりDHに回ったことが理由と言われてはいた。苛立ちを抑えよう――心のなかで格闘しているさなか監督が放った言葉に、山崎はキレた。
「そんな状態で試合に入れないだろう」
「あぁ! 無理ですねぇ!!」
試合をボイコットした山崎は、間もなくして二軍に落とされた。そこでも邪険に扱われ、またキレる。負の連鎖を断ち切れぬままシーズンが終了し、戦力外となった。
「大人気ない」と批判されがちだが……
今となってみれば、行動に関してはやりすぎだったと自嘲できる。だが、主張は間違いではないとも思っている。
事象を真正面から受け取ってしまうと、「大人気ない」と批判されがちだが、山崎には、一本の太い筋が通っている。
「俺は、全部が自分の思い通りにしたくて行動はしないから。監督やコーチに本気で歯向かう以上は、組織にいられなくなっても文句は言えない。その覚悟はいつもあった。やりたい放題やって『でも、球団に残してください』。そんなムシのいい話なんてない。やり方はさておき、俺は自分の言動には責任を持っていたつもりだから」
俺は最後まで『ガキ大将・山崎武司』でいたかった
オリックスを戦力外になった04年に、一度は引退を決断していた。
理由はこうだ。
「しばらく野球と距離を置きたかったし、そもそも、こんな問題児を受け入れてくれる球団なんかあるわけない」
捨てる神あれば、拾う神あり。時を同じくして楽天が新規参入を果たしたのは、山崎にとって僥倖だった。初代監督の田尾安志に誘われ入団し、06年から監督となった野村の手腕によって再び花を咲かせたのである。
こいつはほんと嫌い
山田久志とのエピソード
ほんとクソ
人間的に大嫌い
オリックス、楽天――“2度”の戦力外。それが、山崎らしさをより際立たせる出来事となったわけだ。
7年後の11年に楽天を自由契約となりながら、現役続行を決意した山崎は古巣の中日に入団した。そして13年、今度は潔くユニフォームを脱ぐと決め、27年の波乱に満ちた現役生活に終止符を打った。
通算1834安打、403本塁打、1205打点。
山崎は結果を残すことで自己主張を貫けたのか。それとも、自己主張を貫いたことで結果を残すことができたのか?
答えはきっと、どちらも正解であり、不正解でもあるのだろう。
「大人の対応をすればよかったのに」
そのように疑問を呈したい声のほうが、おそらくは大多数を占めるだろう。
それを自覚しながらも、山崎武司は最後まで山崎武司であり続けた。
「野球界の先輩にも、他の知り合いからもよく言われたよ。『大人になれ』って。でも、俺は最後まで、やんちゃ坊主の『ガキ大将・山崎武司』でいたかった」
そう言って豪傑が笑い飛ばす。そして、すぐさま冷静に、こうも付け加えた。
「でもね、他の人は絶対に俺を見習ってほしくない。後輩たちにも言ってるからね。『俺の生き方なんて真似すんなよ! 』って」
ジャイアンのような自我丸出しの野球人生。
タケシはそう念を押し、また豪快に笑った。
スラッガー席しか座れない(座らせてもらえる)ベテランは実績あるから自尊心強いの多いな
首脳陣からすっと一定ライン切ったら打力有望な伸びしろ期待か助っ人に代えたいだろうし
山崎は嫌いじゃないけど、ブランコがいるのに2012年になぜか開幕戦から4番が山崎で、それでブランコが拗ねてオフに退団したのに
山崎がドラゴンズには4番がいないって言ってたのはお前のせいだろって思ったわ
首になって「じゃあトレードして」って言った時星野に「なんで辞めんかったんじゃ」って言われたんだよな
オリックスにもいたのに仙台が第二の故郷てよっぽど神戸が嫌いなのか
生きていれば喧嘩もするしやらかすわな
俺様な部分もなければ務まらない
中日で引退後、中日の2軍監督就任の予定がその後落合GM就任で反故にされたという話もあるんだよね
ケンカした伊原が和睦持ちかけたけど「あんたとはもう終わったんだよ!!」って突っぱねたからな
>>22
復活してタイトル獲った楽天時代の方がいい思い出多いんにきまってるやろ 楽天に来るまで「来た球打ちゃあいいや」と思っていたのが野村監督が嶋に説教してるのを横で聞いてて初めて野球には配球というものがあると知ったそうだ
全部読んだけどこれ山崎の性格に問題があると感じるな
>>31
その性格のおかげで楽天で復活できた部分はある
野球選手は独善的でないとポジション取れないからな アマプラのプロ野球そこそこで見たが面白かった。
2000本ってやっぱり遠いんだな
実際こいつ以降楽天で日本人スラッガーは出てないからやっぱりすげえんだろうな
良くも悪くもジャイアンやから山崎は
本人の納得した野球人生やろ
だが、本人の言う通りマネをしたらあかん無二のプロ野球選手とも言える
地元だから使ってくれ→使われないから拗ねるってひどいな。伊原も嫌いだけどw
山崎とか立浪はほんと地元タニマチとの癒着がエグいよな。絶対問題起こすタイプ
中日時代は嫌いだったしたいした選手じゃないと思ってたけど
あそこから楽天で復活したのは素直にすごいと思った
中日時代からオリックスまでやりたい放題のジャイアンだもんねw
楽天に来て野村監督に出会い、やっと大人になった
楽天ファンから見たら普通に英雄だろ。
野村の前に田尾が山崎の引退を翻意させて崩れた打撃を修正指導したのも大きい