◆ 『男たちの挽歌』第24幕:ウォーレン・クロマティ
「まぁ負けた時は監督が悪いんだよ。選手はみんなよくやってんだからさ」
親分はべらんめえ口調のあの名調子でそう言った。1981年(昭和56年)秋、両球団が同じ本拠地を使用することから“後楽園シリーズ”と呼ばれた巨人との日本シリーズ第4戦。相手先発の江川卓に2点に抑え込まれ、試合後に敗戦を振り返る日本ハムの大沢啓二監督は、テレビカメラの前で記者に囲まれ、なんとタバコをふかしながらコメントしていた。
えっ刑事ドラマの取調室? なんて一瞬錯覚しそうになるド迫力シーンだが、そう言えば日本球界のヘビースモーカーぶりにカルチャーショックを受けていたのが、来日直後のウォーレン・クロマティである。
MLBのエクスポズで通算1063安打を放った現役バリバリの大リーガーは、84年に3年180万ドル(約4億2480万円)の大型契約で王貞治新監督率いる巨人へ入団。30歳とまだ若く、1年目からチーム最多の35本塁打を放った背番号49は、2年目の85年も打率.309、32本塁打、112打点の好成績で、原辰徳に代わり第50代4番打者を託された。
シーズン末の骨折で無断帰国をかまして罰金100万円を科せられるオチはついたが、愛息に“コーディ・オー・クロマティ”と名付けるほどボスとの関係も良好だった。
◆ 王巨人の救世主
スタンドへのバンザイコール、拳を突き上げる派手なガッツポーズ、左打席での極端なクラウチングスタイルの構えを少年たちはファンタグレープ片手に放課後の校庭で真似したものだ。
3年契約最終年の86年シーズンは打率.363、37本塁打、98打点、OPS.1.095。勝利打点18という無類の勝負強さを発揮。ランディ・バース(阪神)の2年連続三冠王で打撃タイトルの獲得こそならなかったが、クロマティは王巨人の救世主と称された。
10月2日、頭部死球を受けた翌日に入院先の慶応病院から神宮球場のヤクルト戦へ直行し、3対3で迎えた6回表二死満塁の場面、緊急代打でバックスクリーンに満塁ホームランを叩き込んだシーンは今でも語り草だ。当時の『週刊ベースボール』表紙には、「クロウ、君こそ巨人の誇りだ」「神様、仏様、クロウ様……G党はあなたを支持します」という見出しが踊っている。
だが、開幕前に「今年で引退してミュージシャンになる」と宣言した翌87年は一転、中日戦で乱闘騒ぎを起こし、西武との日本シリーズでセンターを守った際にシングルヒットで一塁走者の生還を許すなど“怠慢プレー”と叩かれてしまう。
88年6月13日には甲子園の阪神戦で左手に死球を受け親指骨折で離脱して、代役の呂明賜が大活躍すると、クロウ不要論も一部では報道される。同時期に趣味の音楽ではロックバンド「クライム」でドラムを担当し、『夜のヒットスタジオ』でご機嫌な演奏を披露、アルバム『テイク・ア・チャンス』でCDデビューもした。いやドラムを叩くって手の骨折箇所にめっちゃ悪い気が……じゃなくて、自宅にスタジオを作るのに数千万円を投じたものの、売上げは約3万枚で印税は150万円程度だったという。
やっぱり日本で稼ぐならオレには野球しかないネ。平成に突入した1989年、年俸150万ドルで残留した男は凄まじい快進撃を見せる。
長打狙いから確実性重視の打撃スタイルにモデルチェンジ。序盤から安打を量産し、5月下旬の時点で打率.470を超えるハイアベレージを記録。8月20日終了時の96試合目に打率4割台を維持したまま、130試合制の年間規定打席403に到達し、計算上ではこの後の試合を休めばプロ野球初の4割打者が誕生していたことになる。最終的には打率.378で初の首位打者を獲得、MVPにも選ばれ、チームは8年ぶりの日本一に輝いた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1899b841f873d7523b45a896bb04aae6226fc461
11/24(火) 15:00配信
【懐かしの巨人応援歌】ウォーレン・クロマティ 応援歌(1985)【熱狂のライトスタンド】
【 神回いよいよ完結 】世界の王貞治から溢れる野球愛、そしてクロマティへのメッセージ(後編)【王さんから見た長嶋茂雄とは?】
「まぁ負けた時は監督が悪いんだよ。選手はみんなよくやってんだからさ」
親分はべらんめえ口調のあの名調子でそう言った。1981年(昭和56年)秋、両球団が同じ本拠地を使用することから“後楽園シリーズ”と呼ばれた巨人との日本シリーズ第4戦。相手先発の江川卓に2点に抑え込まれ、試合後に敗戦を振り返る日本ハムの大沢啓二監督は、テレビカメラの前で記者に囲まれ、なんとタバコをふかしながらコメントしていた。
えっ刑事ドラマの取調室? なんて一瞬錯覚しそうになるド迫力シーンだが、そう言えば日本球界のヘビースモーカーぶりにカルチャーショックを受けていたのが、来日直後のウォーレン・クロマティである。
MLBのエクスポズで通算1063安打を放った現役バリバリの大リーガーは、84年に3年180万ドル(約4億2480万円)の大型契約で王貞治新監督率いる巨人へ入団。30歳とまだ若く、1年目からチーム最多の35本塁打を放った背番号49は、2年目の85年も打率.309、32本塁打、112打点の好成績で、原辰徳に代わり第50代4番打者を託された。
シーズン末の骨折で無断帰国をかまして罰金100万円を科せられるオチはついたが、愛息に“コーディ・オー・クロマティ”と名付けるほどボスとの関係も良好だった。
◆ 王巨人の救世主
スタンドへのバンザイコール、拳を突き上げる派手なガッツポーズ、左打席での極端なクラウチングスタイルの構えを少年たちはファンタグレープ片手に放課後の校庭で真似したものだ。
3年契約最終年の86年シーズンは打率.363、37本塁打、98打点、OPS.1.095。勝利打点18という無類の勝負強さを発揮。ランディ・バース(阪神)の2年連続三冠王で打撃タイトルの獲得こそならなかったが、クロマティは王巨人の救世主と称された。
10月2日、頭部死球を受けた翌日に入院先の慶応病院から神宮球場のヤクルト戦へ直行し、3対3で迎えた6回表二死満塁の場面、緊急代打でバックスクリーンに満塁ホームランを叩き込んだシーンは今でも語り草だ。当時の『週刊ベースボール』表紙には、「クロウ、君こそ巨人の誇りだ」「神様、仏様、クロウ様……G党はあなたを支持します」という見出しが踊っている。
だが、開幕前に「今年で引退してミュージシャンになる」と宣言した翌87年は一転、中日戦で乱闘騒ぎを起こし、西武との日本シリーズでセンターを守った際にシングルヒットで一塁走者の生還を許すなど“怠慢プレー”と叩かれてしまう。
88年6月13日には甲子園の阪神戦で左手に死球を受け親指骨折で離脱して、代役の呂明賜が大活躍すると、クロウ不要論も一部では報道される。同時期に趣味の音楽ではロックバンド「クライム」でドラムを担当し、『夜のヒットスタジオ』でご機嫌な演奏を披露、アルバム『テイク・ア・チャンス』でCDデビューもした。いやドラムを叩くって手の骨折箇所にめっちゃ悪い気が……じゃなくて、自宅にスタジオを作るのに数千万円を投じたものの、売上げは約3万枚で印税は150万円程度だったという。
やっぱり日本で稼ぐならオレには野球しかないネ。平成に突入した1989年、年俸150万ドルで残留した男は凄まじい快進撃を見せる。
長打狙いから確実性重視の打撃スタイルにモデルチェンジ。序盤から安打を量産し、5月下旬の時点で打率.470を超えるハイアベレージを記録。8月20日終了時の96試合目に打率4割台を維持したまま、130試合制の年間規定打席403に到達し、計算上ではこの後の試合を休めばプロ野球初の4割打者が誕生していたことになる。最終的には打率.378で初の首位打者を獲得、MVPにも選ばれ、チームは8年ぶりの日本一に輝いた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1899b841f873d7523b45a896bb04aae6226fc461
11/24(火) 15:00配信
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