プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。
“10.8”で実現した三本柱リレー
さかのぼること、ちょうど四半世紀。巨人の長嶋茂雄監督が「国民的行事」と表現した激戦があった。
序盤から首位を独走していた巨人だったが、終盤から中日が猛追。ともに69勝60敗、まったく同じ勝率.535で最終戦を迎えたが、
それが1994年10月8日、ナゴヤ球場で繰り広げられたプロ野球で初めての最終戦同率首位決戦、いわゆる“10.8”だ。
この90年代、巨人には先発に“三本柱”と呼ばれる投手たちがいた。いずれも持ち味が異なる3人の右腕が、この決戦のマウンドをリレーしていく。
3人の最古参で、その先発のマウンドを託されたのは槙原寛己だ。
ドラフト1位で82年に入団し、翌83年には快速球を武器に12勝を挙げて新人王。
高速スライダーを習得してからは安定感を増し、この94年には5月18日の広島戦(福岡ドーム)で完全試合を達成するなど、力と技を兼ね備えたピークだった。
2番手で続くのは、90年代“最強のエース”斎藤雅樹だ。
槙原が入団した翌83年のドラフト1位。当時の藤田元司監督からサイドスロー転向を指示され、80年代の中盤は故障に苦しむも、
89年にはプロ野球記録の11連続完投勝利を含む20勝、防御率1.62で最多勝、最優秀防御率の投手2冠に。
翌90年にも20勝を挙げて2年連続で投手2冠に輝いた。
そして最後は、PL学園高のエースとして甲子園を沸かせ、86年にエースナンバー18を継承した桑田真澄。
ドラフトの経緯で甲子園のヒーローから巨人の“ヒール”となりかけたが、
2年目にして防御率2.17で最優秀防御率に輝き、以降も抜群の投球術で勝ち星を積み重ねた。
そして迎えた“10.8”。85年に阪神のバース、掛布雅之、岡田彰布に“バックスクリーン3連発”を浴びるなど、名場面で“やられ役”の印象も強い槙原が、2回裏にKOされる。
代わった斎藤は1失点も5回3安打の好投で、打線もリードを広げていった。
7回裏からは、長嶋監督から「しびれる場面で行くぞ!」と言われていた桑田が3点のリードを守り抜く。
巨人は長嶋監督が復帰してからの初優勝。14勝、リーグ最多185奪三振でMVPに選ばれた桑田だが、それまではバッシングを受けることのほうが多かった。
だが、この“10.8”で熱い声援を受け、いつの間にか泣いていたという。
「今日は僕1人で投げるんじゃない。日本中の巨人ファンが僕の体を使って試合をするんだ」
そんな全身全霊のマウンドだった。
力投した斎藤も、マウンドで吠えまくった。
「あれが僕のベストピッチでしょうね」
と振り返る。その一方で、先発の槙原は、
「今日はメロメロでした。後の2人で感謝です」
と試合後に語りながらも、雪辱の牙を研ぐ。西武との日本シリーズでは完封、完投勝利で日本一の胴上げ投手、シリーズMVPに。これが長嶋監督にとっても初の日本一だった。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191008-00000007-baseballo-base
10/8(火) 11:05配信 21世紀に迎えたフィナーレ
その後も90年代を投げ抜いた3人。90年代だけで最多勝4度の斎藤が挙げた126勝は90年代の“最多勝”でもある。
槙原は98年にクローザーを託されたことが運命の分かれ目となる。すでに通算150勝にも到達していたが、
チーム事情を考えれば、自分が首脳陣でもクローザーには槙原を選ぶだろうと思ったという。98年に18セーブ、翌99年には23セーブをマークしたが、続く2000年は故障の連続。
同様に斎藤も故障が続き、巨人が20世紀で最後の日本一となった00年のダイエーとの日本シリーズでは勝利投手にもなっているが、
その試合後に引退を申し入れて、長嶋監督から「あと1年やってくれ」と慰留されていたという。
そして翌01年、長嶋監督の勇退とともに、槙原と斎藤は、長くバッテリーを組んできた村田真一と一緒にユニフォームを脱いだ。
ひと回り若い桑田は95年に右ヒジじん帯を損傷する重傷も、97年に復帰。クローザーに回ったことで苦しんだ時期もあったが、
槙原と斎藤が去った翌02年に復活を遂げる。そして07年に海を渡り、パイレーツとマイナー契約。39歳と70日にしてメジャーのマウンドにも立ち、翌08年3月に現役を引退した。
子供の頃なので
名字が普通すぎる斎藤だけ印象が薄く顔もわからない
新庄に敬遠の球をサヨナラヒットかまされたマヌケな投手のイメージしか無いな。
斎藤 14勝8敗 (11完投)
桑田 14勝11敗 (10完投)
槇原 12勝8敗 (7完投)
木田 6勝8敗
宮本 4勝7敗
ジョーンズ 7勝2敗
石毛 5勝4敗 19セーブ
槙原は予定通りFAで移籍してたら完全試合を達成できなかっただろう。
この三人の中では斎藤が先発するって時が一番絶望感あった
槙原、桑田はまだ何とか点取れそうな雰囲気あったが
沢村栄治 金田正一は今のスピード換算で160km/sをゆうに超えてたと言われてるけどホントかな?
ちょっとウソくさいよね。
>>10
斎藤は行くと思ったけどな。
80年代末から90年代半ばまでの斎藤は本当にすごかった。 89年か90年かわからんが、一年間でピッチャー7、8人くらいしか起用しないで優勝した年あったろ
89年は日本シリーズ3連敗の後4連勝
90年のペナントはセリーグ圧勝するも日本シリーズで西武に4連敗。あの三本柱がことごとく打たれたもんな。
>>8
1994 中日
山本昌 19勝8敗 (14完投)
今中慎 13勝9敗 (14完投)
郭源治 8勝7敗 (7完投)
佐藤秀 7勝9敗 (5完投)
小島弘 6勝4敗
.ヘンリー 3勝7敗
パウエル .324 20HR
大豊 .310 38HR
彦野 .284 6HR
立浪 .274 10HR
これで良く戦ってたよ(´・ω・`) 斎藤は先発転向前もかなり投げてたから晩年は疲れが溜まりまくってたな
>>7
>>14
しかし対阪神の生涯成績は40勝15敗くらいでカモにしてた
現役中も、引退してからも阪神で食ってる人やと思う 1990年セリーグ防御率ランキング
1 斎藤雅樹 2.17
2 桑田真澄 2.51
3 木田優夫 2.71
4 香田勲男 2.90
暗黒時代真っ只中の阪神戦で出てきたら外野フライさえ打てる気がしなかったなw
それぞれ紹介される時は「巨人のエースとして活躍し」なんて言ってもらえるよね
本当のエースは斎藤だったけど
三本柱と言われていた頃の巨人は投高打低だったからねえ。
それなりの打線だったら斎藤・桑田は200勝行っていたんじゃないかなあ。
斎藤は96年の150勝目の12回180球完投勝利がなければもう少しやれたのでは?
>>32
桑田に僕が槇原さんの体格があったら毎年20勝してるって言われたんだっけ >>27
> 1990年セリーグ防御率ランキング
>
> 1 斎藤雅樹 2.17
> 2 桑田真澄 2.51
> 3 木田優夫 2.71
> 4 香田勲男 2.90
この年巨人の防御率ってどれくらいだったんかな? >>17
80年前の話だし今と道具も良くなかった事もあるけど、
捕手の指を骨折させたりしたんだから、
当時では考えられない程の豪速球だったんだろう。
160キロは分からないが、どんな時代にも一人や二人、
これぞ天才ってのは必ず現れる。 大野と川口と北別府と大差無い
上記も先発三本柱と呼ぶなら意義無いが
>>40
自分はもう少し後、大野と川口と佐々岡で広島三本柱のイメージだわ >>14
その後中日戦で音、山崎、大豊にも3連発を食らってる 斎藤雅
通算180勝96敗11S 防御率2.77
対ヤク 50勝21敗2S 防御率2.62
対阪神 40勝15敗2S 防御率2.39
対横浜 38勝23敗2S 防慮率2.89
対中日 34勝22敗3S 防御率3.03
対広島 18勝15敗2S 防御率3.12
雑魚専じゃねえか
>>34
そう単純な話じゃない
打線がヘボかったからこそ投手は成長するし、リリーフが弱いからこそ完投能力が身についたとも言える >>40
プライドの高い北別府が川口と並べられるのを嫌がるだろう。
大野も槇原と同様に自己最多が13勝だしな。 槇原はいつも広島の大野か川口と投げ合ってたイメージ
巨人の江川、西本、定岡の三本柱が最強と言いたいが
西武に日シリで敗退してるから斉藤雅、桑田、槙原が昭和最強三本柱と思う
平成最強は田中、岩隈、永井の楽天
>>32
槙原は89年の股関節の怪我がなければ筆頭になってたんじゃないかなぁと思ってるわ、88年から89年にかけて圧倒的なピッチングして完全にエース槙原って感じだった
あの怪我以降なんかそれなり程度に収まっちゃった感がある 槇原は目が悪くて捕手のサインが見えなかったんで自分でサイン出してた。
豆な。
>>48
桑田、槙原と大野、川口は1点取られたら
負けみたいな投手戦を繰り返していたからなあ >>40
その3人との投げ合いが面白かったな
一点取られたら終わりみたいな >>17
実際は130も出てない
昔は信じられんくらい低レベルだからな >>46
俺が初めて真似したフォームが斎藤雅だったな
小2だったかな
一番最初に真似したから染み付いてるから今でも投げやすい 今で言えばアストロズのバーランダー、コール、グレインキーみたいな。
斉藤は化け物だし槇原は完全試合
2人に比べると桑田はインパクトに欠けるけど安定感があった
こんな3人が同時期同じチームにいた奇跡
>>37
1巨人2.83
2広島3.57
3横浜3.94
4中日4.24
5ヤク4.26
6阪神4.58 >>44
80年代後半から90年代はヤクルト阪神はそんなんでもないんじゃないのか 巨人槇原、広島大野の投げ合いが最高だった
この二人が先発投手と発表されると
一点取られたほうが負けだなと見てる側にも緊張感があった
>>63
高木豊のyoutubeチャンネルに槙原が出たときに、
「桑田は根性のピッチャーだと思ってた。球自体は、斎藤・槙原より1ランク落ちるし」
と言って、槙原も球に関しては桑田に負けてる意識は無かったと言ってたな 完全試合って槙原以来出てないんだもんな
すげーな槙原
>>63
桑田はよく負けてたイメージが強い
父親が桑田のこと嫌いで負けるといつも「また桑田負けた」って愚痴ってたのも理由の一つ この頃って完投しないといつも抑えの投手で打たれてたイメージ
対戦相手の中日があんな平凡な継投リレーをしたのが謎だ。
斎藤雅樹が200勝できなかったのは球界七不思議の一つ
落合が巨人移籍した時に桑田は甲子園からのスターだし槇原は豪速球で知られてたけど斎藤だけ余り凄いってイメージ持ってなかったらしい。
でも斎藤が登板する日は他の二人とも段違いに試合前からチームに今日は勝ちゲームって雰囲気が漂ってるの感じて「あ、ここのエースは斎藤なんだ」とすぐ分かったらしい。
今みたいにダラダラと40近くまでやってもいい時代なら3人とも余裕で200勝いったろ
89年の巨人は三本柱の3人だけで55完投
完投させすぎ
斉藤はカーブがすごかったんだが
晩年はカーブが曲がらなくなりフォークを多投
>>44
当時の噂で広島戦が苦手であまり投げさせなかったと聞いたが
確かに登板数は少ないけど
勝ち越して、防御率も3点台の前半なんだな このちょっと前が加藤初とか新浦とかだったのかな、凄い小さい頃に見た野球はこの辺りのひと達が良く投げてた印象がかすかにある。
なんとなく斉藤の安定感は異常
ほか二人は1ランク落ちるような印象があった
>>7
阪神ファンにとって90年代のいい思い出って少ないからな このころ以降ずーっと抑えが微妙だったよな
鹿取のイメージある
以降槇原や桑田や上原とか抑えになったが、、、
鹿取と槇原の間だれがやってたかと調べたら石井かw
>>32
80年代は広島・大野
90年代は中日・今中や山本昌
と毎回先発が被っていた印象
打線の援護なく負け投手になってたような気がする >>88
石井じゃなくて石毛
槙原の後は河原やクルーンだろ >>79
シンカーと言っていた球はフォーク
フォークの投げ方で投げていたので ストレートだけなら槇原が1番だったな
視力が悪くて自分でサインを出してたのが悔やまれる
眼鏡が合わなかったとかいうけど、あれ絶対にメガネかけたくなかっただけだろ
>>68
僕に槙原さんの身体があれば20勝出来ると言って槙原が激怒したと雑誌で読んだ記憶がある
小柄な桑田からしたら槙原の身体が羨ましかったんだろな 最多勝(内2回は20勝で)を5回も取って200勝まで行けなかったのが何ともw
一番勝てたシーズンが16勝で200勝超えした投手も何人かいるのに
>>27
それでも西武にフルボッコされたからな(´・ω・`) >>31
総合力でいえば圧倒的に斎藤なんだけど 天才性を感じさせるのは槙原だった気がする
速球とフォークしかなく しかもフォークはフォーム読まれてバレバレなのにそれでも調子がいい時は完璧に抑えてた >>40
広島三本柱な
息詰まる投手戦が続く中 正田あたりがしょぼい内野安打で塁に出て
盗塁と送りバントと外野フライで一点とってストッパー津田で抑えて勝つというセコい勝ち方 この頃はまだ子供だったけど、野球見てて1番面白かった時期だな。長嶋巨人にイチローに野茂がメジャーで大活躍してた時期だし。
>>23
郭源治って先発やってたんだ
押さえのイメージしか無かったわw
んで野口なんかもまだ居ないのか >>44
ヤクルト阪神に合計36敗してることと、
広島戦に30戦以上登板してることに驚いた 宮本が年14勝
木田が年12勝したことがあるという事実
槇原はキャッチャーからブロックサイン?だっけ?大きな動きのサイン出してもらってやり取りしてなかった?
キャッチャーが肩とか膝とか触ってサイン出してた記憶がある。
>>41
牧田が日本では普通に通用してたの知らないのか プリンセスプリンセスの名曲「M」は、ボーカルの奥井香が、大好きだった巨人の槙原を思って作詞作曲したラブソング
斎藤は殿堂入り
桑田槇原は棒にもかかわらない
何が違うの?
西武も伊東、工藤、秋山と辻は当確
石毛はダメ
何が違うの?
>>106
ハイネックから頭頂部しか出せない人見知りは治ったのかい? >>102
斎藤は確かに素晴らしい投手ではあったが桑田槇原の存在ありき
監督の起用も上手かった(苦手な左の多い広島戦の登板が少ない)
それが出来たのは桑田槇原の2人のエース級がいたから 桑田が予想通り、引退後も迷走しているな 気持ち悪い息子を芸能界入りさせて
斎藤は苦手な広島ですらきちんと勝ち越してるし防御率も悪くない
あくまで斎藤の中で というだけ
全員200勝できていないっていうね。
槙原は藤田と長嶋に変な使われ方しなければ、200勝できたね。
桑田も長嶋に後ろを投げさせられてたよな。
斎藤も170球とか投げさせられて、あれで壊れた。
こういうのがなければ、みんな200勝できてたのに。
>>74
まあ当時130試合までだったせいと思うしかw 斎藤のすごさのひとつに通算防御率2点台がある
打撃技術が低かった投高打低の大昔はともかく
1960年以降にプロ入りした投手では5人しかおらず今や通算200勝にも匹敵する難易度
まあ、200勝に何の意味も無いのがよく分かるわ
全盛期の斎藤や槙原の凄い投球を見れたんだからそれで充分
>>102
スライダーも一流だぜ
つべにある
槙原寛巳全盛期の投球 >>122
そりゃヤクザ原が野球界にのさばってたら迷走するだろ、斎藤とは違うし 斎藤凄かったけど、ダメな時は眉尻下がって目がうつろで口ポカーン
オールスターや日シリに弱いイメージ
大舞台だと緊張しちゃうメンタルなんだろうか
>>91
そうそう。
シンカーって印象あるけど、
フォークの握りで落としてたんだよな あと斎藤は今で言う
カットが異常だって
古田も言ってたね
全盛期の江川と全盛期の斎藤と全盛期の上原の三本柱なら3人で60勝できるな!
斎藤は王時代に先発でやらせてりゃ200いけただろうな
斎藤・・・スライダー
槙原・・・ストレート(外角高め)
桑田・・・チェンジアップ
>>131
気が弱いて言われた斎藤を藤田監督が
「おまえは気が弱いんじゃなく優しいんだ」
と励まして才能を伸ばしたというね >>138
斎藤はスライダーをカーブと言い張ってたな
防御率、タイトル数、40完封は名球会レベルだがそこは野球殿堂入りで評価されたと思っている やっぱなんだかんだこの三本柱はファンを作ったしファンを呼んだよな
こうやって昔は高卒を一人前にする文化があったな巨人にも。
>>131
わかる。汗ダラダラであの部厚い唇が震えてて、目が泳ぎまくってた。
桑田はいつもすげーポーカーフェイスで冷静(そう)に見えてたから、対照的だった。
斎藤にカッコいい印象がないのはアレのせいと思う。 >>1
1994年の西武は優勝こそしたもののチームが崩壊寸前
だったからなあ 結局監督にはなれずか・・・
斎藤なんて選手の実績だけで殿堂入りしたのだから
選手の格としては原よりは上なんだけどね。
>>2
1981年 1位:槙原寛己
1982年 1位:斎藤雅樹
1983年 1位:水野雄仁
1984年 1位:上田和明
1985年 1位:桑田真澄
>ひと回り若い桑田
一回り・・・? 桑田の守備ばかり話題になりがちだが、斎藤雅の守備もかなりヤバかった
10・8のときのフィールディング、あれ桑田でも無理だろ
この年は優勝チームの巨人が貯金10で4位5位が
借金7最下位でも借金8という歴史的大混戦だった
斎藤は王監督時代がもったいなかった
もっと早く藤田が監督になっていればな
>>18
故障があったのは事実だが「勉強のため」と称して
西武にトレードしてたら200勝行けただろうなあ >>98
藤田の馬鹿が時代遅れの先発完投病だったからな
中継ぎ抑え蔑ろにしてたツケが日本シリーズで出た >>34
斎藤雅は衰えが見えだした晩年に
打線の援護がもらえずにかわいそうだった。
全盛期の恩返ししろよと。
あそこでもっと勝数増やせたのにと悔やまれる。 >>40
藤田巨人連覇の1989年90年は北別府学が絶不調
そしてカープが雪辱を果たした翌1991年は大野豊が
ストッパーに転向して獅子奮迅の活躍 >>107
ウシジマ放出で抑えに回される前年は先発だった
野口茂樹は松井秀喜と同級生だから入団はしてた この時代だよ!
野球に夢中になってたのは
今は知らん
当時の斎藤は世間からエース扱いされていなかった。
TV番組で巨人のエースは誰?というアンケートを取ったら、投票数は桑田、槇原、斎藤の順だった。
つまり桑田がエース扱いされていたということになり、斎藤は槇原より下の評価だった。
なぜ斎藤じゃないのか?という質問に対しては「なんか地味」「サイドスローのエースってピンと来ない」「振りかぶって投げるのがエース」といった回答が寄せられた。
そこでTV局が斎藤に焦点を当てるため考案したニックネームが桃太郎だったが定着しなかった。
プロ野球の世界にはエース=最多勝投手とは限らないという現実があることを証明する事実だったと思う。
やはり桑田は球界屈指のスターだったと言える。
>>164
斎藤は勝ち頭であってまあエースではなかったな >>164,>>165
知名度は桑田が圧倒的でしたが
やっぱり巨人のエースは斎藤雅と感じたなぁ。
斎藤雅には、対戦チームに戦意を喪失させるオーラがあった。
人気の桑田、実力の齊藤。
槇原は自分でも第三の男と言ってた謙虚さが良かった。 >>164
桑田>斎藤、清原>秋山
やはり甲子園が相当に下駄をはかせるよ。
話題性という点では実際そうだったし。 >>164
当時のテレビでも
斎藤、桑田、槇原
の順で呼ぶのが通例だったよ クワタっていつになったら登板日漏えいの真実を語るの?
三本柱のころの桑田のキャラは求道者だな
槇原がちょっと間抜けなイメージがあって対照的だった
>>175
うん ググったら 2年連続20勝意外にも
11試合連続完投勝利ってのもあった、新記録見たい ライブで観てる日本人投手で無敗の年のマーに匹敵するのは斎藤だけだな。瞬間最大風速的な意味で
>>8
石毛しょぼかったなぁ
西山とともに救援失敗炎上のイメージが強い。そしてマリオも。 >>179
そうよ。
当時の斎藤雅は先行する人気が桑田のようになかった分
不気味さも伴った圧倒的な存在感を放った。 >>133
本人がシンカーと言ってるからシンカーってことになってたけど、あれどう見てもフォークだよなw この頃の巨人広島戦は
一点取った方が勝ちという痺れる投手戦が見ものだった
桑田をエースと呼ぶ場合は
斎藤雅は大エースと呼んだくらい。
>>69
ただ完全試合やってしまうと生涯では平凡な投手になってしまう妙なジンクス 斎藤の守備とバッティングは野手顔負けだったんだよな
先ほど無くなられた金やんもTVで「はよセカンドにせい!」と言ってた
桑田は高1から甲子園で5万人近い客の中で投げてるからメンタル違うよな
桑田が斎藤や槙原みたいに目が泳いでるところなんて見た記憶がないよ
ローカルだが最近10.8決戦特集で桑田と立浪が対談してたが
名球会、野球殿堂入りしている立浪より桑田の方が貫録があったな
桑田、槙原も斎藤に続いて野球殿堂入りしてほしい
>>167
当時は広島と争ってたから広島戦に登板しないのはマイナスイメージだったんだよね
槙原桑田大野川口の痺れる試合に投げてないのは
もちろん勝ち星を稼いでくれてたのは嬉しかったけど 桑田が大好きなんだよ
桑田ファンだというと投げる不動産王とかからかわれたもんだけど
桑田好きっていっぱいいるだろ
だってカッコよかったじゃんか
1番凄い球を投げるのに、勝ちに結び付かないのは槙原と大野
その点斎藤と北別府は、総合力が高くて、チームを勝たせられる
>>102
現代型好投手の1つの完成型だと思う
その進化系が黒田 >>42
佐々岡入ったあとは大野はリリーフじゃね?
そのあと大野が先発に戻ったあとは佐々岡がリリーフだし >>194
桑田ってやっぱり球界屈指の「スター選手」なんよ。オーラが違う。
実質エースが斎藤でも、それは野球してる人たちの中での話だから、それ以外にも訴求できるのは桑田の強み。
斎藤にスターオーラは無いもん。
強くてもね。
>>190
4/1生まれの最年少でマウンド任されて、投げても打っても勝てるメンタル。同級生清原は緊張で下痢と嘔吐繰り返して、桑田のメンタルにビビったらしいからね。ちょっと普通では無いな。 対阪神
先発 斎藤の試合
巨人 300010102 7
阪神 000000000 0
大体こんな感じ
阪神が斎藤相手に3塁踏んだとこなんて
見たことないw
>>179
斉藤和巳の無敵感も凄かった
上原、松坂はその一段下ってイメージ
あくまで最大瞬間風速ね >>148
槙原が壊れたのは89年だから藤田監督時代だよ、勿論その後もそれなりにはやってるけど89年のあのピッチングはほとんど見れなくなった >>202
まあリリーフさせられてはね
でも普通にしてても壊れるのが槙原 斎藤はプライベートでも
高校時代のマネージャーと結婚したと堅実だしな
斎藤の投げる試合は一方的過ぎて
面白味に欠けたかな
槙原×大野 槙原×川口のピリピリした
投手戦が好きだった
89年の槙原は本当に凄かった。
全ての球種が決め球になった。
俺が見た中で一年限定なら最高の投手だ。
>>159
カープは裏3枚も準備していて長富金石白武はなかなか破壊力あったなあ
ホーナーにボゴボゴにされたのが長富でホーナーをボゴボゴにしたのが川端のバターボール 桑田は清原とは真逆の道を歩んだな。
桑田はプロ生活の始めはブラックだったが
次第に求道者になってホワイトになっていった。
息子まで真っ白よ
桑田は2年目の帽子を深く被って投げ終わったら斜めにズレてニヤつくふてぶてしさがカッコよかった
今だったら西武の今井がそんな風体だから頑張って!
しかし上にもある広島と覇を争ってた時代って、FAもなくドラフト囲い込みもKK事件があって露骨にできず、ドラフト戦略、くじ運、育成スキルが順位に直結するある意味公平な時代だったな。だからファンも熱狂できたのかもしれん
人生で2、3年しかプロ野球にハマらなかったけど、この頃一番よく見てたなあ。懐かしいw
>>213
当時の巨人は左ピッチャー打てなかったからな
日シリでは工藤に抑え込まれ新人近藤にはノーノーやられる シーズン最多
定岡 15勝
宮本 14勝
槙原 13勝
>>215
日テレの東京ドーム放送日、抑えられてた今中がホームラン打たれた瞬間、青野アナが絶叫
いったあーーーーーーーーーーー!あのっ!にっくき今中から起死回生のホーームラーーーーン!
あの時代は日テレアナウンサーも素直に感情表現してて、巨人ファンじゃなくても微笑ましかったわ 広島は大野、川口、北別府をぶつけてきたんだよな。連夜のタコヤキパーティー
三本柱時代より少し前になるが左投手不足で左投手が苦手だった巨人
当時の野球漫画
王監督「大野、川口はともかく新人の近藤すら打てないとは…お前たちはなぜ左ピッチャーが打てないんだ?」
中畑「うちの角なら打てます!」
斎藤のニックネームを桃太郎にしようと日テレが頑張ったが無理だった
視力が悪かった槇原の自分からサイン出してキャッチャーとやりとりする姿がなんかカッコ良く見えた
槙原は若い頃から速球派として活躍していたし
良くも悪くも記憶に残る
そして完全試合達成と記録にも残る投手だったな
人柄も良いし好きな投手だったわ
斉藤先発だと試合終わるの早いんだよねw全盛期は19時にチャンネル合わせて「あー斉藤雅投げてんのか」って試合もろくに見ずファミスタやって20時半位にもう一度チャンネル合わせて試合終了まで観るって流れだった。
その後の上原浩治も試合終わるの早かったけど。
槙原はナゴヤ球場で谷沢相手に154キロ出したのを憶えてるな
87年くらいからアダルトなピッチングに変わったよね
スライダーを覚えてしまったからな
まっすぐが143で
あとはスライダーとフォークってなピッチャーになってしまった
>>211
桑田は高卒2年目で沢村賞の7つの選考項目をすべてクリアしたのがすごい
しかも早生まれだから年齢はまだ19歳
箱庭球場だらけのあの頃で200イニング二桁完投達成しつつ防御率はリーグトップで2点台前半 ローテーションは斎藤 槙原 誰か 桑田 誰か 誰かって感じか
今見てないけどサイドスローやアンダースローの投手って減ったのかな
この時期の巨人投手陣の凄いところはシーズン一軍登録が13人だった年がある
その頃って中四日で回して完投させて
今思うと結構酷いな
條部と泡様とかいうキレのいい2人がいたようなのを子供心にぼんやりだが覚えてる
>>232
90年は投手10人だけで回してた
しかもこの年は先発投手陣が全試合の半分強を完投していたので
必然的にリリーフ投手の出番は全試合の半分弱しかなかったということになる
それでいてチーム防御率はリーグ唯一の2点台でリーグトップ
規定投球回に到達して二桁勝った投手が5人もいた 斎藤雅樹 180勝96敗 +84
桑田真澄 173勝141敗 +32
槙原寛己 159勝128敗 +31
貯金としては
斎藤>桑田+槙原
この三人が活躍したころは、
1対0で負けるような試合が多かったような ・・・
完投して1対0で負けるなんて、地獄だよなw
>>235
翌年のプロ野球カードで
投手が2軍での成績表記が5人ぐらいいた >>172
11試合連続完投勝利(日本記録)
3年連続開幕戦完封(日本記録)
最多勝5回(2リーグ制最多記録)
沢村賞3回(日本タイ記録)
2年連続20勝(平成以降唯一)
あと年間最多完封7回の記録は去年菅野(8回)に破られた 巨人のエースは?と聞かれたらやっぱ斎藤雅樹を出してしまう
>>236
桑田槙原は相手のエースにあててたからな
最近はそういう起用法は少ないのか >>222
金太郎に対抗したのかな?実績では勝ったけどね。 90年代の大エースがまさかコーチとしては電話番にしかならないとは思わなかった
デビュー時のイメージと違い一番豪快で大雑把
なんでしょうね。荒木の外れとはいえよく見つけてきたよな。
素材型として当時高評価だったのだろうか?
>>247
投手、野手両方で評価されてたみたいだね。
あの当時のメンバーの座談会で
村田真一が
「槇原と吉村は見た瞬間、物が違うと分かったが
次の年の斎藤は、これが今年の1位?と疑問を感じた」と言ってたな。
斎藤も投手と野手両方の練習させられるんできつくて不貞腐れてたらしい。
ところが藤田監督がサイドスローに変えたとたん見違える球になって
さすが1位と村田はすっかり見直したらしい。 >>237
エースの投げ合いの投手戦も面白かったよ 槙原は高校時代からものすごかった
あの時代高校生で150キロ越えてたのは槙原だけ
春の甲子園に出てきた大府高校は1回戦に金村や後に天才監督となる永田を擁する
優勝候補の報徳と対戦し報徳打線を抑え勝利する
ただ槙原は性格が淡白というか執念を燃やすタイプではなく
勝利できそうにないと途端にモチベ下がる人だったので
シーズンベストが13勝でしかない
堀内恒雄、高橋一三、渡辺秀武の三本柱は
必ず誰か1人が不調のシーズンになったよね
ただ夏の甲子園には大府高校は出ず
出たのは工藤擁する名古屋電気
工藤は1回戦の長崎西戦でノーヒッターを達成
ベスト8に進出するが準々決勝で報徳に敗れる
>>57
嘘はよくない
沢村は科学的検証で最速159キロだったぞ 阪神ファンの子供心に、絶望しか与えなかった
先発予想 斎藤雅
斉藤はとにかく勝率が恐ろしく高いし
防御率もすごい
>>155
90年は一軍で投げたのは10人だけなんだよなあ
この10人の中には現役最後の年で
コーチ兼任の加藤初がいたりするからなあ ライオンズでな
で長嶋巨人が75年最下位になってしまって
カンフル剤として獲得したのが加藤初と張本
それで76年優勝する
槙原は次何投げるか相手がほとんど分かってた状態で投げてたからねw
それでもあんだけやるんだからさすが落合に1番凄い球投げてるって言われただけのことはあるw
槙原の完全試合の映像YouTubeで見たが
あのときはまっすぐがキレてる
この頃の広島との3連戦は物凄い投手戦だった。
広島は北別府、大野、川口の3本で真っ向から勝負を挑んでいた。特に2戦目に出てくる大野が天敵だった。
>>208
高橋慶彦がロッテに放出された時オマケだったはず
の白武が一番活躍
当時は投手といえば安心のカープブランドだった >>171
山倉がナマクラと言われるようになり有田と中尾を
続けて獲得
そして村田が台頭し山倉完全に終わる >>184
カープ三本柱が揃って凄かったのは斎藤雅樹が
20勝投手になる前なんだよなあ
そのあたりの記憶が混ざってる人が多いと思う 槙原は体格に凄く恵まれてて、いかにも素材型の大型右腕て感じだったな
よく巨人が獲れたなと思うし、よく大成することが出来たと思う
https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0804/kiji/K20090401Z00002650.html
>愛知・大府高では81年の春のセンバツに出場。同年夏、甲子園で優勝した報徳学園の金村義明投手(後に近鉄)に投げ勝った槙原は、
駒大進学かプロなら地元中日入りを考えていた。しかし、ドラゴンズは早くから中大の即戦力内野手、尾上旭をドラフト1位にリストアップ。
巨人は早くから獲得を熱望していたが、槙原ともう1人の右腕の間で最後まで揺れていた。
槙原と天秤にかけられていたのは、社会人・協和発酵の津田恒美投手。後に広島の守護神となった“炎のストッパー”に巨人スカウトは密着。
広島との競合は必至とみられていた。それが一転して槙原1位となったのは、藤田監督の決断だった。
スカウトに「ストレートはどっちが速い?」と尋ねた藤田監督。「速さだけだったら槙原」とスカウト。本格派こそ投手の王道と考えていた藤田監督は、
槙原獲得を強く推した。 津田も球史に名を残した名投手となったが、槙原も159勝128敗56セーブの成績を残し、完全試合も達成した。
巨人にとって正解の選択だったと言える。
槙原の恩人は藤田さんだね。桑田も斉藤も >>74
完投し過ぎだろ。
工藤みたいに5、6回投げて後は潮崎、鹿取してれば200勝できたと思う。 三本柱をガンダムでたとえると
桑田が初代、斎藤がZ、槙原がZZ
>>272
森は何を思ったか87年は藤田のように
完投できる投手はなるべく完投させる方針を前面に打ち出した(130試合中66完投)
このせいで特に工藤はこの年は23完投もしてて並の投手ならこの時点で潰れてる
意外だが通算完投数は斎藤より工藤の方が多い >>40
広島球場真夏の3連戦
北別府大野川口が7回くらいでスタミナが切れたのに、巨人の3人はまだ余裕があった
接戦なのに後ろが佐々岡と石毛博史じゃ自分が完投するしかないし 槇原はストッパーで投げてた時は
いつも泣きそうな顔してたよな
相当メンタルが弱いんだなあいつ
いまだに最高の投手はでまず浮かぶのが斎藤なんだよな
>>271
槙原は「中日以外なら進学」って意思表示してたんじゃない?
この時代は拒否を恐れて獲れそうな選手にしか行かないという
ケースが多かった 阪神にいたフィルダーがメジャーに復帰して大ブレイクして日米野球で来日したとき
インタビューでメジャーに連れて行きたい投手を聞かれたとき桑田と槇原と答えていたな
フィルダーがいた年に斎藤は20勝してるのに
メジャーでは斎藤ぐらいの球速のピッチャーは打ちやすいのかね
今は工藤や山本昌みたいに30代後半でも二桁勝って勝ち星を積み重ねないと200勝は無理だな
石川雅規はどうなるか
>>276
広島の3本柱の全盛期は80年代後半あたりだろ
その時代じゃ力は落ちてる 完投や完封が当たり前だったからな。石毛とかクローザーが頼りないのも
あったが
87年の広島とのデッドヒートの時は斎藤はまだ2軍で江川、桑田、槙原が3本柱で加藤初が広島に強かった
広島投手陣は先発に北別府、大野、川口、長富、白武、中継ぎに川端、清川、山本、抑えが津田の最強布陣
>>284
抑えだって後半のピンチに登場してそのまま2、3イニング投げさせられた時代だぞ >>164
80年代の西武で「隔年エースw」と言われた工藤が、結局200勝してるからなあ 二桁勝利の10勝を20年続けてようやく200勝だもんなぁ。
大卒投手なんて無理だろ。
黒田は大卒で200勝達成してスゴいわ。
パリッシュが天敵の斎藤雅樹からの四球で怒るw - I S2 baseball
>>282
今の時代だと30代後半どころか40代に入っても10勝するくらいでないと厳しいかも
斎藤は衰えるのが早かった
キャリアの積み上げ方としては北別府みたいなのが理想だろうな
20代の早いうちからコンスタントに二桁勝ち続けて衰えが来る30代半ばまでに200到達ってのが 今の1週間ローテと違い、当時は中3〜5日が当たり前だったから
金曜 桑田
土曜 斎藤
日曜 槇原
月曜 休み
火曜 ローテの谷間(宮本、木田、香田、他)
水曜 桑田
木曜 斎藤
金曜 槇原
土曜 ローテの谷間(宮本、木田、香田、他)
日曜 桑田
:
こんな感じだったハズ
90年代前半はともに先発回数が年間27回〜30回だから、3人だけで年130試合中、約90試合を任されていた感じ
その谷間にうまく自軍のエースを当てて、巨人から勝ち星を上げるか・・・という俺の微かな記憶
>>158
そもそも85年(当時20歳)に12勝した投手をリリーフに回した挙げ句干すっていう糞起用してたからな(´・ω・`) >>167
落合曰く「巨人に行くまではこのチームのエースは桑田だと思ってたが、実際には斎藤という大エースがいた」 >>179
斎藤は完投する
完投しないマーは印象薄い
勝って監督と握手するまでしないと印象薄い >>152
王は86年の開幕に斉藤を指名しといて
調子悪いとすぐ見切ったからな
昔の王は堪え性なかった
斉藤を干して水野を先発にしてた年もあったし >>208
長富金石白武とかもよかったよな
白武はともかく
88年の日ハムの西崎、松浦、柴田、角田のローテもまあまあ協力ではある。西武と近鉄の激戦で目立たないが。
西崎と松浦は同じ年に最多勝取ってるし >>230
90年は槇原が故障明けで谷間に投げて9勝だな
斉藤、桑田、宮本、木田、香田、休み休みで槇原のようだ
槇原以外がみんな二桁勝利とか恐ろしいわ >>1
槇原・斎藤・桑田時代、江川・西本・加藤初時代、
両方で4番目の男だったのが宮本和知。
>>300
同年、ファイターズ(パ5位)も10勝クインテッド >>301
ロッテも村田、牛島、荘、園川、小川かなんかで二桁勝利が5人いた年あったね?順位は最下位かなんかだったが
王監督のラストイヤーかラストイヤー前年かなんかで
江川、桑田、加藤初、水野のローテーションもあった
水野の時は対戦チームが勝たないとヤバイ感じになる 北別府、山根、大野、川口
斎藤、槇原、桑田、加藤初、鹿取
北別府が活躍した時期は斎藤、桑田、槙原じゃなく
江川、西本、定岡の時代だろ
山根に関しては日本シリーズに強かった
意外だが北別府は日本シリーズに先発6回登板して
一度も勝ってないんだよな
>>306
北別府は91年に最後の一花を咲かせたけど
その前は少し低迷してたな
86年87年の北別府は凄かった 小学生の頃は3人の先発エースより鹿取、角のリリーフ陣が好きだった
>>280
全盛期の桑田なら当時のメジャーでどうだったのかな >>306
広島戦に北別府が出てきたときは今日は勝てると思ってみてたな >>280
多分フィルダーがいた年は89年だと思うけどその年は槙原が圧倒的すぎて怪我で離脱するまでは斎藤はそこまで目立ってなかった覚えがある
夏場に槙原が抜けてから連続完投記録だとか20勝だとかで注目集まったけどあの年のエースは間違いなく槙原だったよ 斉藤は97開幕戦の小早川三連発がなければ200勝行ってたんじゃないかなぁ
>>313
98年は2桁勝って持ち直したかに見えたが99年上原がいきなり20勝で世代交代の波があった >>313
96年の週刊ベースボールのペナントレース総括の号で
評論家の誰だったかが
「来年からは斎藤にはもうこれまでのような成績は期待できないだろう」と書いてて
それ読んだ当時は信じなかったけど結果的に見事に的中した >>295
敵側で打つ側と味方側で守る側とで見解が換わるってのが興味深い
落合ほどの人でさえ >>295
その表現だと誤解が生じる
落合「桑田は予想通りエースだったが、それ以上にエースだったのが斎藤だった」 >>114
つまらんボケ潰しをてすまんが
作詞したのはキーボードの冨田な。
んで、「M」が指すのはジュンスカイウォーカーズの森純太の事な。 >>245
人が良過ぎてコーチとしての厳しさが足りないんだろうな 世代の事だろうけど俺の中で槇原は抑えに出てきたら相手チームのファンから歓声が上がる人だったイメージしかない
斎藤の顔を思い出そうとすると佐藤浩市の顔が出てくるのは俺だけか?
>>321
90年以降はポンコツ化して騙し騙しやってる感じだったししゃーない、それでも完全試合やってるんだから大したもんだけど 期待しないと活躍し
期待するとコケる、それが槇原。
スライダーも凄いが、そのまえに当時サイドスローで145km以上出せる投手があまりいなかった。
>>114
その歌のせいで中学生の女の間では好きな男のイニシャルを針で手首に彫るってのが流行った >>324
槇原は謎のメンタルだったよなぁー
シーズン中とかは斎藤雅樹の方が頼りになるけど、日本シリーズとかは槇原の方が良いというさ >>321
遠藤一彦という悲劇の投手が居てね
斉藤明夫と佐々木主浩の間のストッパーで
大洋的には大エースだったんだけど
ピンチで登板するとよくホームランを打たれて逆転負け食らう
槇原や石毛以上に相手から拍手された投手で、やくみつるが激怒してたな >>323
槙原のポンコツ化は85年の怪我だと思うわ、あれで翌年の復帰以降150キロ超える球はほとんど見なくなったような思い出
89年の怪我はそのとどめってイメージ みんなすごかったな
とくにさいとうが好きだった
みんな高卒だか初年度から
大活躍だった
>>330
シーズン17勝17敗とかね遠藤
角度のあるストレートとフォークが武器だったなあ >>330
ただストッパーに転向する前は
対戦チームから遠藤だけは怖がられてたよ。
大洋なんて遠藤さえ当たらなきゃ勝てるという感じだった。
遠藤以外だと二番手が欠端や日ハムに移籍した金沢とかだからな。
中日は小松、鈴木孝政、郭源治、杉本、都と
ローテは困ってなかったが
大洋と阪神の80年代中盤はローテ組むのに一苦労だったし
阪神の85年とか投手の数値だけみたら優勝するチームじゃない 斎藤は本当にえぐかった
直球で勝負できるしスライダーとカーブがスゴかった
制球完璧だし斎藤が先発だと試合中継の延長がなかった
槇原、斎藤、桑田、宮本、香田
5人で10勝以上挙げた年あったな
あれは凄かった