フリーアナウンサーの生島ヒロシ(68)が先月1日に刊行した平成最後の自著「どん底に落ちてもはい上がる37のストーリー」(ゴマブックス、1296円)が話題を呼んでいる。
平成元年(1989年)のTBS退社後、約10億円の借金を負うなど波乱万丈の半生を駆け抜けた異色アナが、生きるヒントを伝える一冊だ。
生島は、このほどスポーツ報知の取材に応じ、自身の経験を振り返り「失敗したっていい。諦めないで頑張り続けることが大事」と語った。(江畑 康二郎)
アナウンサー歴43年。ツンツンヘアにニコニコ笑顔が印象的な生島の知られざる素顔が本書の「37のストーリー」に詰まっている。著者の好きな言葉は「耐えて夢を追う」だ。
「目標があって、簡単に手に入らなくても諦めないことが大事。諦めないで頑張り続けることで願いはかなう。失敗したっていいじゃないか。それを笑い飛ばすつもりでやればいい」
自身も失敗し「どん底」からはい上がった一人だから、そこに説得力が宿る。
TBSから独立し、自身の事務所「生島企画室」を設立。年収はTBS時代の1200万円から1億2000万円、3年目には3億6000万円に急増した。
一方で約1億6000万円の都心のマンションに事務所を構え、都内に約4億円の自宅を購入。他にもワンルームマンションなど不動産投資に数億円使った。
さらに知人らに金融商品投資でだまされるなどして計約2億円の損失を出し、借金は10億円ほどに膨れ上がったという。
「少なくとも5人にだまされた。学生時代の親友には2000万円踏み倒されて、連絡がつかなくなった。振り返ると自分がバカだなと思いますが、だますよりだまされた方がいい。授業料だと思っています」
94年4月に総合司会に就任したフジテレビ系の情報番組「おはよう!ナイスデイ」を1年半で降板し、テレビの仕事が減少。息子2人の授業料、義母の介護、毎月約400万円のローン返済など出費はかさんだ。
その窮状を救ったのが、98年にスタートしたTBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食」(月〜金曜・前5時)、
「生島ヒロシのおはよう一直線」(同・前5時半)と「エロかしこい」のキャッチフレーズで人気を博した所属タレントの優木まおみ(39)だった。
「まおみちゃんがブレイクして、お金が潤ってきた。それまでは自分の収入を中心に回していたけど、自分の収入以外が増えてきたので助かった」
学生運動が盛んだった71年、生島は法大3年の夏に単身渡米。高校から始めた空手を教えるためだった。だが現実は厳しく、食うや食わずの生活を余儀なくされ、
アルバイトでしのぎながら、75年にカリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科を卒業。海外生活の中で幼少からの赤面症を克服し、アナウンサーの夢が芽生えた。
「日本はNHKのアナウンサーのように真面目にニュース原稿を読んでいたけど、向こうのキャスターは自分の意見を言うし、個性を出す。これだな、と思った」
帰国後の76年、セミロングヘアにタートルネック姿でTBSの入社試験を受け、最終面接で「僕はTBSの生島ヒロシでは終わりたくありませんので、いずれ独立します」と仰天宣言。
型破りすぎるキャラクターが当時の社長の心をつかみ、採用された。13年後、有言実行でフリーに転身した。
悲しい別れもあった。2011年の東日本大震災の津波で、地元・宮城県気仙沼市に住んでいた実妹の亀井喜代美さん夫婦を失った。
「明日がやってくると思っていた妹たちが、突然人生にピリオドを打つことになった。だから、明日が来るのは当たり前と思ってはいけない。一日一生。今日が最後だと思って悔いなく生きる」
「生島企画室」は現在、タレント、文化人ら約80人と社員14人を抱える大所帯に。「―おはよう定食」「―おはよう一直線」は今月6日で放送5500回を達成した。
来年、生島は古希を迎えるが持ち前のポジティブシンキングは健在。令和の世で、目指すは生涯現役だ。
「求められるうちはやりたい。そのために健康管理をすれば、こっちもモチベーションが上がる。必要とされる今を大切にしたい」
◆生島ヒロシ(いくしま・ひろし)本名・生島博。1950年12月24日、宮城県気仙沼市生まれ。68歳。1971年、法大経営学部を休学し、単身渡米。
カリフォルニア州立大ロングビーチ校ジャーナリズム科に進み、75年に卒業。76年、TBS入社。アナウンサーとして活躍し、89年に同局を退社。同年、「生島企画室」を設立し、最高経営責任者に就任。
http://news.livedoor.com/article/detail/16450211/
2019年5月13日 10時1分 スポーツ報知