http://dramanavi.net/sp/column/2017/07/post-424.php
ハリウッド女優グレース・ケリーとモナコ大公レーニエ3世、英国のダイアナ妃とチャールズ皇太子、キャサリン妃とウィリアム王子など、様々なロイヤルカップルが人々に愛されてきたが、彼らより100年以上も前に理想的な王室カップルとして名を馳せた二人がいる。それが、超大型歴史ドラマ『女王ヴィクトリア 愛に生きる』に登場するヴィクトリアとアルバートだ。
ヴィクトリアは1837年、18歳の若さで英国女王に即位した、現在のエリザベス女王の高祖母(ひいひいおばあさん)。英国君主としては5代前にあたる。先王であったヴィクトリアの伯父、ウィリアム4世をはじめとする上の世代が彼女以外に正当な跡継ぎを持たなかったことから、約130年ぶりの女王誕生となった。そして同い年のアルバートは、ヴィクトリアのいとこ。ヴィクトリアの母、ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールドが、アルバートの父であるエルンスト1世(ザクセン=コーブルク=ゴータ公)の兄にあたるという間柄だ。
英国との関係強化を狙うベルギー王、アルバートとヴィクトリアの叔父であるレオポルド1世の計らいで二人は引き合わされて結婚に至るが、あくまでも政略結婚ではなく恋愛結婚だった。それは結婚相手として、先王からはオランダの王子を薦められ、国民には同国人を望まれる中で、結婚当初は反発を呼んだドイツ人の王子をあえて選んだことからも明らかだが、ヴィクトリア自身が日記の中で「彼なしではすべてが色あせる」「とてもチャーミングでハンサム。心臓がドキドキしてしまう」などと綴っていることからもアルバートに魅了されていたことが見て取れる。
いとこ同士とはいえ、それぞれ離れた場所で公務や学業に精を出していたため、結婚するまではほとんど会わなかったヴィクトリアとアルバートだが、文通などで交流を深めていった。ヴィクトリアはスケッチを描くのが趣味で、名門ボン大学にも通った教養豊かなアルバートは美術に対する造詣も深かった。また、ヴィクトリアは生後まもなく父親のケント公爵を亡くし、アルバートも5歳の頃に両親が別れ、以後は母親に二度と会えなかったという家族の喪失を経験していた。共通点の多い二人は仲睦まじく、結婚して2ヵ月後にはヴィクトリアが懐妊、9人の子ども(4人の息子と5人の娘)に恵まれた。また、身重のヴィクトリアが暗殺者に狙われた時には、同じ馬車に乗っていたアルバートが冷静な判断で彼女を助けたという。
そんなヴィクトリアとアルバートはおしどり夫婦として国民の模範となっただけでなく、公務でも力を合わせ、産業革命で発展途上にあった英国に「ヴィクトリア朝」と呼ばれるほどの絶頂期をもたらした。発展によりロンドンの人口が急激に増える中で、貧困層の生活向上に注力し、教育や医療の部門にも注力した。母親と限られた使用人しかいない閉鎖的な環境で育ち、将来女王になった自分を操るためにあえて教育しなかった母親とその側近、サー・ジョン・コンロイの方針により女王となってから学ぶことが多かったヴィクトリアをアルバートは陰から支え、彼女が妊娠や育児で公務に専念できない時には代理で首相と謁見したり、公式行事に出席したりと、君主の役割を果たすことすらあった。そんなアルバートは歴代の首相たちからも一目置かれたが、決して出しゃばらず、自ら「女王の秘書兼世話係」と名乗っていた。威厳とリーダーシップを兼ね備えたヴィクトリアと、知的で穏健派のアルバートは、政治上も理想的なカップルだった。
(続きは>>2以降にあり)
Photo:『女王ヴィクトリア 愛に生きる』
© Mammoth Screen Limited 2016 All rights reserved
2017.07.29
ハリウッド女優グレース・ケリーとモナコ大公レーニエ3世、英国のダイアナ妃とチャールズ皇太子、キャサリン妃とウィリアム王子など、様々なロイヤルカップルが人々に愛されてきたが、彼らより100年以上も前に理想的な王室カップルとして名を馳せた二人がいる。それが、超大型歴史ドラマ『女王ヴィクトリア 愛に生きる』に登場するヴィクトリアとアルバートだ。
ヴィクトリアは1837年、18歳の若さで英国女王に即位した、現在のエリザベス女王の高祖母(ひいひいおばあさん)。英国君主としては5代前にあたる。先王であったヴィクトリアの伯父、ウィリアム4世をはじめとする上の世代が彼女以外に正当な跡継ぎを持たなかったことから、約130年ぶりの女王誕生となった。そして同い年のアルバートは、ヴィクトリアのいとこ。ヴィクトリアの母、ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールドが、アルバートの父であるエルンスト1世(ザクセン=コーブルク=ゴータ公)の兄にあたるという間柄だ。
英国との関係強化を狙うベルギー王、アルバートとヴィクトリアの叔父であるレオポルド1世の計らいで二人は引き合わされて結婚に至るが、あくまでも政略結婚ではなく恋愛結婚だった。それは結婚相手として、先王からはオランダの王子を薦められ、国民には同国人を望まれる中で、結婚当初は反発を呼んだドイツ人の王子をあえて選んだことからも明らかだが、ヴィクトリア自身が日記の中で「彼なしではすべてが色あせる」「とてもチャーミングでハンサム。心臓がドキドキしてしまう」などと綴っていることからもアルバートに魅了されていたことが見て取れる。
いとこ同士とはいえ、それぞれ離れた場所で公務や学業に精を出していたため、結婚するまではほとんど会わなかったヴィクトリアとアルバートだが、文通などで交流を深めていった。ヴィクトリアはスケッチを描くのが趣味で、名門ボン大学にも通った教養豊かなアルバートは美術に対する造詣も深かった。また、ヴィクトリアは生後まもなく父親のケント公爵を亡くし、アルバートも5歳の頃に両親が別れ、以後は母親に二度と会えなかったという家族の喪失を経験していた。共通点の多い二人は仲睦まじく、結婚して2ヵ月後にはヴィクトリアが懐妊、9人の子ども(4人の息子と5人の娘)に恵まれた。また、身重のヴィクトリアが暗殺者に狙われた時には、同じ馬車に乗っていたアルバートが冷静な判断で彼女を助けたという。
そんなヴィクトリアとアルバートはおしどり夫婦として国民の模範となっただけでなく、公務でも力を合わせ、産業革命で発展途上にあった英国に「ヴィクトリア朝」と呼ばれるほどの絶頂期をもたらした。発展によりロンドンの人口が急激に増える中で、貧困層の生活向上に注力し、教育や医療の部門にも注力した。母親と限られた使用人しかいない閉鎖的な環境で育ち、将来女王になった自分を操るためにあえて教育しなかった母親とその側近、サー・ジョン・コンロイの方針により女王となってから学ぶことが多かったヴィクトリアをアルバートは陰から支え、彼女が妊娠や育児で公務に専念できない時には代理で首相と謁見したり、公式行事に出席したりと、君主の役割を果たすことすらあった。そんなアルバートは歴代の首相たちからも一目置かれたが、決して出しゃばらず、自ら「女王の秘書兼世話係」と名乗っていた。威厳とリーダーシップを兼ね備えたヴィクトリアと、知的で穏健派のアルバートは、政治上も理想的なカップルだった。
(続きは>>2以降にあり)
Photo:『女王ヴィクトリア 愛に生きる』
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2017.07.29