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YG防衛軍 ★@無断転載は禁止
2017/01/24(火) 14:03:09.57 ID:CAP_USER9
■短期連載・今こそ「ジュビロ磐田のN-BOX」を考える(2)
◆新システム実現のカギを握る男
鈴木政一がジュビロ磐田の監督に就任した2000年9月、時を同じくして、名波浩が期限付き移籍していたセリエAのベネツィアから磐田に復帰した。
順天堂大から1995年に磐田に加入した当初から確固たるサッカー観を備え、申し分のない攻撃センスとアイデアを誇っていた名波はプロ入り後、守備力やバランス感覚にも磨きをかけ、総合力の高いミッドフィールダーとして成長を遂げていく。
名波の守備における成長を思うとき、鈴木の脳裏に浮かぶのは、ハンス・オフトの姿である。
「ドーハの悲劇」で知られる1993年秋のW杯予選において日本代表を率いた指揮官で、1994年から3年間、磐田の監督を務めたオフトは、攻撃的ミッドフィールダーとして加入した名波を公式戦で何度か左サイドバックとして起用した。
「ハンスが名波を呼んで『これからは守備を覚えなきゃダメだ』と言ったんです。当時、メディアから『なんで名波がサイドバックなのか』と叩かれたこともあった。でも、名波はあれで守備を覚えた。そうしたら……」
それから1年が経った1996年の夏、日本代表は25歳以下に限定したメンバーでデンマーク遠征を行なった。ルーキーイヤーの1995年から日本代表に選出されていた名波は、この遠征でボランチにコンバートされ、以降、日本代表の中盤に欠かせない存在となる。
鈴木が会議に出席するために訪れた日本サッカー協会で、日本代表を率いる加茂周とばったり出くわしたのは、デンマーク遠征直後のことだった。
「加茂さんとたまたま会ったら、『おい、マサ。今回の遠征でひとりだけヨーロッパで通用する選手を見つけたぞ。誰だと思う? 名波だよ、名波』とおっしゃったんです。そこで、ハンスが奨励してきた『スペシャリスト+オールマイティ』になることがいかに重要か、改めて実感しました」
その後、1997年にW杯予選、1998年にW杯本大会を経験し、1999年夏からは1年間イタリアで揉まれ、ミッドフィールダーとしての総合力を一段と高めた名波は、鈴木の思い描く中盤のフリーマンにうってつけの存在だったのだ。
「攻撃はもちろん、ボランチのカバーにも入れて、フィールド全体を見渡せる名波じゃなければ、あのポジションは難しかったと思います」
◆選手たちが示した拒否反応
その構想を初めて聞いたとき、名波はよく理解していなかった。新戦術・新システムにトライする意味も、自身に託された任務の重要性も。
「結局は自分がトップ下になって、前の2人がアウトサイドになって、従来の3−5−2のようになるんだろうなって。無理矢理そうさせないところにどんな意図があるのか、ピンと来なかった。前年の3バックを踏襲しているわけだから、そんなに劇的に変わる印象もなかったから」
2001年2月1日、磐田の新シーズンは、クラブハウスのある大久保グラウンドから始まった。
宮崎で行なわれる合宿に備えて、10日間ほどフィジカルトレーニングを積み、コンディション調整に励んだ。指揮官によって新シーズンの指針が明らかにされたのは、最終日のことだった。
ミーティングルームのホワイトボードには、従来の3−5−2とは異なる形でマグネットが並べられ、指揮官が熱弁を振るった。
「すべてのタイトルを狙っていこう。世界と戦うために新しいサッカーに挑戦するぞ。世界とやるには、これじゃないとダメなんだ」
選手たちの視線は、ホワイトボード上の特異なシステムに注がれていた。
サイドに人が配されていない常識外れのシステムに、選手たちの反応は芳しくなかった。彼らに疑問が生じるのも当然のことだった。従来の3−5−2でうまくいっているのに、なぜ変える必要があるのか、しかも、より複雑で、難解で、機能する保証のないものに、なぜトライしなければならないのか…..。
「マサくん、これ、難しいよ」との声が上がる。渋る選手たちを一喝したのは、コーチの柳下正明だった。
「みんながブツブツ言っていたから、『いいから、まずはやってみろ』と。そんなようなことを言った覚えがありますね」
のちに鈴木の後任として磐田を率いることになる柳下は、鈴木よりも5歳年下で、ヤマハ発動機サッカー部でともにプレーした間柄である。
◆新システム実現のカギを握る男
鈴木政一がジュビロ磐田の監督に就任した2000年9月、時を同じくして、名波浩が期限付き移籍していたセリエAのベネツィアから磐田に復帰した。
順天堂大から1995年に磐田に加入した当初から確固たるサッカー観を備え、申し分のない攻撃センスとアイデアを誇っていた名波はプロ入り後、守備力やバランス感覚にも磨きをかけ、総合力の高いミッドフィールダーとして成長を遂げていく。
名波の守備における成長を思うとき、鈴木の脳裏に浮かぶのは、ハンス・オフトの姿である。
「ドーハの悲劇」で知られる1993年秋のW杯予選において日本代表を率いた指揮官で、1994年から3年間、磐田の監督を務めたオフトは、攻撃的ミッドフィールダーとして加入した名波を公式戦で何度か左サイドバックとして起用した。
「ハンスが名波を呼んで『これからは守備を覚えなきゃダメだ』と言ったんです。当時、メディアから『なんで名波がサイドバックなのか』と叩かれたこともあった。でも、名波はあれで守備を覚えた。そうしたら……」
それから1年が経った1996年の夏、日本代表は25歳以下に限定したメンバーでデンマーク遠征を行なった。ルーキーイヤーの1995年から日本代表に選出されていた名波は、この遠征でボランチにコンバートされ、以降、日本代表の中盤に欠かせない存在となる。
鈴木が会議に出席するために訪れた日本サッカー協会で、日本代表を率いる加茂周とばったり出くわしたのは、デンマーク遠征直後のことだった。
「加茂さんとたまたま会ったら、『おい、マサ。今回の遠征でひとりだけヨーロッパで通用する選手を見つけたぞ。誰だと思う? 名波だよ、名波』とおっしゃったんです。そこで、ハンスが奨励してきた『スペシャリスト+オールマイティ』になることがいかに重要か、改めて実感しました」
その後、1997年にW杯予選、1998年にW杯本大会を経験し、1999年夏からは1年間イタリアで揉まれ、ミッドフィールダーとしての総合力を一段と高めた名波は、鈴木の思い描く中盤のフリーマンにうってつけの存在だったのだ。
「攻撃はもちろん、ボランチのカバーにも入れて、フィールド全体を見渡せる名波じゃなければ、あのポジションは難しかったと思います」
◆選手たちが示した拒否反応
その構想を初めて聞いたとき、名波はよく理解していなかった。新戦術・新システムにトライする意味も、自身に託された任務の重要性も。
「結局は自分がトップ下になって、前の2人がアウトサイドになって、従来の3−5−2のようになるんだろうなって。無理矢理そうさせないところにどんな意図があるのか、ピンと来なかった。前年の3バックを踏襲しているわけだから、そんなに劇的に変わる印象もなかったから」
2001年2月1日、磐田の新シーズンは、クラブハウスのある大久保グラウンドから始まった。
宮崎で行なわれる合宿に備えて、10日間ほどフィジカルトレーニングを積み、コンディション調整に励んだ。指揮官によって新シーズンの指針が明らかにされたのは、最終日のことだった。
ミーティングルームのホワイトボードには、従来の3−5−2とは異なる形でマグネットが並べられ、指揮官が熱弁を振るった。
「すべてのタイトルを狙っていこう。世界と戦うために新しいサッカーに挑戦するぞ。世界とやるには、これじゃないとダメなんだ」
選手たちの視線は、ホワイトボード上の特異なシステムに注がれていた。
サイドに人が配されていない常識外れのシステムに、選手たちの反応は芳しくなかった。彼らに疑問が生じるのも当然のことだった。従来の3−5−2でうまくいっているのに、なぜ変える必要があるのか、しかも、より複雑で、難解で、機能する保証のないものに、なぜトライしなければならないのか…..。
「マサくん、これ、難しいよ」との声が上がる。渋る選手たちを一喝したのは、コーチの柳下正明だった。
「みんながブツブツ言っていたから、『いいから、まずはやってみろ』と。そんなようなことを言った覚えがありますね」
のちに鈴木の後任として磐田を率いることになる柳下は、鈴木よりも5歳年下で、ヤマハ発動機サッカー部でともにプレーした間柄である。