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赤黒梟 ★@無断転載は禁止
2016/06/19(日) 10:36:28.18 ID:CAP_USER9
コンサドーレ札幌でもプレーしたベトナム人選手、レ・コン・ビンが引退を表明した。
母国の英雄で、クラブ・代表でも活躍したレ・コン・ビンの引退は、同国にとって一時代の終わりとも言える。
彼の生涯は波瀾万丈なものだった。
レ・コン・ビンは1985年12月10日、ベトナム最貧困地域の一つであり、国父ホー・チ・ミン師や
ドンズー運動(東遊運動=日本留学運動)を興した革命家ファン・ボイ・チャウの出生地として知られる
北中部ゲアン省で、姉2人妹1人という4人姉弟の長男として生まれた。
幼いころは母親が出稼ぎに行っており、父親の手で育てられた。その父親が交通事故に遭って重傷を負ったため、
高額な治療費が発生し、家族は極貧の生活を送っていたという。
怪我が治った父親は、貧しい人生から脱却することを決意し、麻薬密売に手を染める。
しかし、すぐに逮捕されて禁固12年の判決を受ける。模範囚だったため、禁固8年に減刑されたが、
多感な少年時代をこうした苦しい環境で過ごしたレ・コン・ビンは、いつか自分の力で家族を幸せにしようと心に固く誓ったという。
貧しく、苦しい家庭環境だったが、サッカーの才能には恵まれていた。サッカーこそが貧しさから這い上がる唯一の手段だった。
レ・コン・ビンは、14歳で地元ソンラム・ゲアン(SLNA)の下部組織に入団すると、持ち前のゴールへの貪欲さと努力で、
めきめきと頭角をあらわし、18歳でトップチームに昇格。
だが、プロになるまでも平坦な道のりではなかった。SLNAの同年代には、後にU-23代表のエースとなる“天才”ファム・バン・クインがおり、
レ・コン・ビンに対するクラブ内での評価は当初、決して高いものとは言えなかった
クラブを離れた年代別代表でもファム・バン・クインの陰に隠れて、控えに甘んじていたレ・コン・ビンだが、
2005年に突如として転機が訪れる。ファム・バン・クインが東南アジア版オリンピックとも呼ばれる重要な国際大会「SEA Games」で
八百長に関与していたことが発覚して逮捕され、長期出場停止処分を受けたのだ。
レ・コン・ビンは、エース不在となった代表チームにおいて、救世主的な活躍を見せ、2006年と2007年にはベトナムの年間MVPを連続受賞。
瞬く間にベトナム代表の顔となっていった。極めつけは2008年のAFFスズキカップだ。
決勝ファーストレグを2-1で勝利して迎えた宿命のライバル、タイとの決勝セカンドレグで、試合終了間際に値千金の同点ゴールを挙げ、
ベトナムを初の国際タイトルに導き、名実ともに“ベトナムの英雄”となった。そして、これは“努力家”が“天才”の評価を完全に上回った瞬間でもあった。
2009年には、ポルトガル1部レイションイスSCにレンタル移籍。
2013年には、J2コンサドーレ札幌にレンタル移籍を果たし、東南アジア人Jリーガー第1号となった。
Vリーグ復帰後の2014年には、史上初となるリーグ通算100ゴールを達成。
同年末に移籍したベカメックス・ビンズオンでは、2014・2015シーズンのリーグ連覇に大きく貢献した。
代表での実績を見てみると、レ・コン・ビンは現在、最多得点(46ゴール)、最多出場(75試合)、
連続スタメン出場(14試合)の記録を保持しており、もはや出場するたびに記録更新という状態だ。
引退宣言したことで、年末にフィリピンとミャンマーで共同開催されるAFFスズキカップ2016がレ・コン・ビンにとって
最後の国際舞台となる可能性が高いが、これらの記録は年末までにさらに更新されることは間違いないだろう。
引退後の予定は明らかにされていないが、昨年末には、ハノイ市法科大学の聴講生入学願書を提出しており、以前にも体育大学の受験を希望していると述べるなど、
学業に興味がある様子。また、人気歌手のトゥイ・ティエンを妻に持つため、ショービズ界での活躍もあるかもしれない。
「引退後はサッカーをしていたころを思い出して、きっと涙することでしょう。今は残された現役生活でベストを尽くしたいという気持ちです。
試合をしたい、もっと強くなりたい、毎日走り続けたい、毎日練習したい。サッカーを愛しているから」
貧しかった少年は、ベトナムサッカー史上最も成功したプレーヤーと言われるまでに上り詰めた。ベテランに域に入って往年のスピードは失われたが、
得点感覚にはますます磨きがかかっており、年末のスズキカップでも、その力をいかんなく発揮してくれるはずだ。
“ベトナムの英雄”の最後の雄姿をしっかりとその目に焼き付けてほしい。
ソース元
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160619-00010004-footballc-socc&p=2
母国の英雄で、クラブ・代表でも活躍したレ・コン・ビンの引退は、同国にとって一時代の終わりとも言える。
彼の生涯は波瀾万丈なものだった。
レ・コン・ビンは1985年12月10日、ベトナム最貧困地域の一つであり、国父ホー・チ・ミン師や
ドンズー運動(東遊運動=日本留学運動)を興した革命家ファン・ボイ・チャウの出生地として知られる
北中部ゲアン省で、姉2人妹1人という4人姉弟の長男として生まれた。
幼いころは母親が出稼ぎに行っており、父親の手で育てられた。その父親が交通事故に遭って重傷を負ったため、
高額な治療費が発生し、家族は極貧の生活を送っていたという。
怪我が治った父親は、貧しい人生から脱却することを決意し、麻薬密売に手を染める。
しかし、すぐに逮捕されて禁固12年の判決を受ける。模範囚だったため、禁固8年に減刑されたが、
多感な少年時代をこうした苦しい環境で過ごしたレ・コン・ビンは、いつか自分の力で家族を幸せにしようと心に固く誓ったという。
貧しく、苦しい家庭環境だったが、サッカーの才能には恵まれていた。サッカーこそが貧しさから這い上がる唯一の手段だった。
レ・コン・ビンは、14歳で地元ソンラム・ゲアン(SLNA)の下部組織に入団すると、持ち前のゴールへの貪欲さと努力で、
めきめきと頭角をあらわし、18歳でトップチームに昇格。
だが、プロになるまでも平坦な道のりではなかった。SLNAの同年代には、後にU-23代表のエースとなる“天才”ファム・バン・クインがおり、
レ・コン・ビンに対するクラブ内での評価は当初、決して高いものとは言えなかった
クラブを離れた年代別代表でもファム・バン・クインの陰に隠れて、控えに甘んじていたレ・コン・ビンだが、
2005年に突如として転機が訪れる。ファム・バン・クインが東南アジア版オリンピックとも呼ばれる重要な国際大会「SEA Games」で
八百長に関与していたことが発覚して逮捕され、長期出場停止処分を受けたのだ。
レ・コン・ビンは、エース不在となった代表チームにおいて、救世主的な活躍を見せ、2006年と2007年にはベトナムの年間MVPを連続受賞。
瞬く間にベトナム代表の顔となっていった。極めつけは2008年のAFFスズキカップだ。
決勝ファーストレグを2-1で勝利して迎えた宿命のライバル、タイとの決勝セカンドレグで、試合終了間際に値千金の同点ゴールを挙げ、
ベトナムを初の国際タイトルに導き、名実ともに“ベトナムの英雄”となった。そして、これは“努力家”が“天才”の評価を完全に上回った瞬間でもあった。
2009年には、ポルトガル1部レイションイスSCにレンタル移籍。
2013年には、J2コンサドーレ札幌にレンタル移籍を果たし、東南アジア人Jリーガー第1号となった。
Vリーグ復帰後の2014年には、史上初となるリーグ通算100ゴールを達成。
同年末に移籍したベカメックス・ビンズオンでは、2014・2015シーズンのリーグ連覇に大きく貢献した。
代表での実績を見てみると、レ・コン・ビンは現在、最多得点(46ゴール)、最多出場(75試合)、
連続スタメン出場(14試合)の記録を保持しており、もはや出場するたびに記録更新という状態だ。
引退宣言したことで、年末にフィリピンとミャンマーで共同開催されるAFFスズキカップ2016がレ・コン・ビンにとって
最後の国際舞台となる可能性が高いが、これらの記録は年末までにさらに更新されることは間違いないだろう。
引退後の予定は明らかにされていないが、昨年末には、ハノイ市法科大学の聴講生入学願書を提出しており、以前にも体育大学の受験を希望していると述べるなど、
学業に興味がある様子。また、人気歌手のトゥイ・ティエンを妻に持つため、ショービズ界での活躍もあるかもしれない。
「引退後はサッカーをしていたころを思い出して、きっと涙することでしょう。今は残された現役生活でベストを尽くしたいという気持ちです。
試合をしたい、もっと強くなりたい、毎日走り続けたい、毎日練習したい。サッカーを愛しているから」
貧しかった少年は、ベトナムサッカー史上最も成功したプレーヤーと言われるまでに上り詰めた。ベテランに域に入って往年のスピードは失われたが、
得点感覚にはますます磨きがかかっており、年末のスズキカップでも、その力をいかんなく発揮してくれるはずだ。
“ベトナムの英雄”の最後の雄姿をしっかりとその目に焼き付けてほしい。
ソース元
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160619-00010004-footballc-socc&p=2