◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
【古代】「魏志倭人伝」に記された「末盧国」か、住居跡や水路 13日現地説明会 唐津市相知町黒岩前田遺跡 YouTube動画>5本 ->画像>10枚
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https://www.saga-s.co.jp/articles/-/287781 佐賀県唐津市教育委員会は13日、相知町黒岩にある「黒岩前田遺跡」の発掘調査の現地説明会を開く。
弥生時代後期後半から古墳時代初頭の住居跡や水路が見つかっており、「魏志倭人伝」に記された「末盧国」の広がりが推測できるという。
現場は県道40号線と松浦川の間で、ほ場整備事業に伴って7月から調査していた。黒岩前田遺跡の学術調査は初めて。
唐津平野一帯にあったとされる末盧国の中枢の可能性がある中原遺跡(西九州自動車道唐津インター付近)からは南に約5キロに位置している。
両遺跡で同じデザインの土器が出土しており、松浦川を介した人々の交流が想像できるという。
市教委生涯学習文化財課の仁田坂聡文化財調査係長(50)は
「遺跡の近辺では弥生時代の甕かめ棺かんが出ていたが、今回は住居跡が見つかり、末盧国の南側への広がりが確認できる」と話す。
説明会は午前10時、午後1時半の2回で、集合場所は遺跡前の相知いきいき館。事前の申し込みは不要。
問い合わせは同課、電話0955(72)9171。
魏志倭人伝
・ 旅行の楽しさがよく伝わっています
・ でも、旅行の工程の正確さが足りません
・ 周りの風景も書きましょう
「もっと、がんばりましょう!」
末盧国は沿岸国っぽいし、規模もそこまで大きくないから唐津市だけだと思うがな
案外ここが伊都国だったりしてな
方角としては定説の糸島よりこっちのほうが正確だし、魏志倭人伝じゃ1000戸の小国だし
>>5 倭国がわざと魏の使いが誤解するように船便を操作したと考えるべきかも
例えば、九州説でもなんでもいいが、九州東側の海岸から回って筑後の山門に至るとか
何故なら、楽浪郡・帯方郡など漢帝国・魏帝国の東方支配は活発化していて、高句麗は丸都を落とされたり、
辰国も分解されて滅ぼされている。その向こう側に存在していた邪馬台国が意識しない訳がない
そういえば、魏帝国の東方支配の責任者って司馬懿仲達なんだよなあ
三国志がやたら取り上げられるけど、あんまこの辺は言われないよね
>>7 使いのものがわざと大変なように見せかけたのかもな
遠方にいった大変さを誇張してアピールしたかったんだろ
まあでも魏志の中での邪馬台国って筑紫平野かその周辺で間違いないよな。
なぜならば陸行で行けるわけだし。
>>10 その可能性もあるね。
また、陳寿は旧蜀の人材だから、基本的に所与既存ベースを取りまとめただけだろうけど
そのあたりで陳寿自身が東方政策にコミットしていた人材の系譜ではないから情報を自身で吟味する弁別能力がなく
作業の中でミスが発生したとかも有り得る
大月氏が洛陽から12000里だから邪馬台国も12000里にしたみたいだな。
>>12 膨大な資料をまとめるだけで手一杯で
三国に関することならともかく
地方役人の僻地報告書なんて片手間だろうしな
火の鳥ではどう描かれてただろうか
知りません 忘れました
紙はおろか竹簡木簡すらない土人国家でしょ
シナの記録にあったから何?って話だよな
奴隷が10万人いたとか巨大ピラミッド作ってたとかならともかく
むしろ今の中国を見てなぜ魏志倭人伝が正しいと思えるのかわからない
かなり誇張してたり適当な事ばかりと考える方が合理的
アメリカの雑誌に
天皇銃殺
マンガが載る時点でジャップも気付ってことよ。
アメリカが、「天皇いらね」どころか
「天皇死ね」
っていってんだぜ?
天皇を支持してるジャップも そのうち一緒に殺されるぞ。
a
>>16昔の中国語の発音での当て字だから違うんじゃね?
昔の中国語ではlやrの音の代用として、tで終わる発音の漢字を使ってることが結構ある
歴史改竄って 大罪だからな
教科書問題だね
外国からも、健忘症か、認知症の疑いをかけられてるよ
当時の中国は世界の最先端だからなあ。
邪馬台のころの日本人なんか半分猿みたいなもんだよ。
>>17 基本的にはローカルネタで、陳寿は蜀の人材なのは確かなんだけども
一方で、実態がどうであれ、東方政策の最高責任者は司馬懿
そして魏に蜀が降り、そして晋(西晋)帝国に遷り変っていた点は政治的に疎かに扱うのに向く部類では無かったという類の話だったかも
司馬懿は、晋帝国からしたら太祖に等しい存在だったから、その職掌していた分野は軽んじることは出来なかったはず
魏帝も最重要人材であった司馬懿を投入していることを重視して解釈する場合だと、
呉王孫氏と共闘関係の燕王公孫氏が朝鮮半島を掌握政策により江南の呉王孫氏と連絡が密接化出来るようになるのは面白くはない高いリスクと解釈された場合もまた有り得なくもないなかろうか?
そういう意味合いから邪馬台国(掌握しきれない半島の向こう側、呉の向こう側であること)と結ぶことは重要だったんだと思う
高句麗・辰・ワイなどを巧みに操縦しながら各個撃破していっていった司馬懿としては、その間、邪馬台国と結ぶことは政治的に宣伝効果があったんだと思う
邪馬台国の実力がいかなるものかはよくわからないとしても、それは大元帝国が南宋帝国を滅ぼすために日本と結び南宋の孤立化を図った後の世も基本的に同じ図式でしょう
>>26 訂正
×有り得なくもないなかろうか?
〇有り得なくもないのではなかろうか?
俺らが獣の皮着て石器削って、普通の石を磨いて首にかけてたころ、
エジプトとかにはとっくに立派な国あったわけで、邪馬台国とか探してもしょぼいだけだぜ
邪な馬の台国にいた卑しい巫女を探すとかどんな屈辱プレイだよ
なんで12日の新聞の記事でしかも昨日終わった説明会の話のスレなんだよ。
知ってたら行ってたわ。
>>19 邪馬台国の人口は30万人。
当時最大級の巨大国家。
>>26 そういえば三国志では孫権が東方に遠征させたが
沖縄にすらたどり着けなかったので関係者を処分したとあるから
東方における魏の優位性を強調する意味もあったのかな
>>32 呉の孫氏も魏や司馬懿の意図を正確に読み取って後背地確保を狙ったんでしょうね、
東シナ海の海流と季節風に阻まれたということでしょうか?
失敗してしまったみたいですが呉は呉で流石ですね
末盧国は、壱岐を出て最初に九州に上陸した所だから、
こんな唐津湾の奥からさらに川を遡ったような場所ではなく
もっと壱岐に近い場所だと思うぞ
>>7 楽浪4郡が出来たのは前漢武帝の時代で卑弥呼の300年以上昔
魏王朝の時代ではむしろ長年の内戦と国力低下で朝鮮半島の支配が緩ぐ時期
>>8 基本的に漢字表記はあとで当て字でつけたものだからね
マツラの音が先にあって三国志のもとになった資料記述者はそれに末盧の字を当てた
その違いと考えられてる
>>36 楽浪郡と帯方郡は残ってたでしょ、漢帝国が衰退した結果、公孫氏という新興の地方軍閥が台頭して、
周辺民族を尖兵にして南進政策を採ったわけだから、その公孫氏の領土拡張が、形式的には後漢帝国の領域ということにも成っていたわけだし
魏帝国の勢力圏でもあったわけだから。
百済王族の勢力はもともとはこうした公孫氏の南進政策の尖兵として南下して来たものだし、
ワイ族は時折の衝突があったが、もともとは自身の領域に郡県制をしかれて中華帝国の強い統制下に置かれて周辺との郡守による統制戦闘とかに使われたわけだし
それは公孫氏や魏の南進に吸収されても同じ路線でしょう。
辰国はそういう魏の司馬懿の職掌の範囲内の東方政策的な郡県制による郡統治のなかでの分割して統治するという統制と征服の中でどうも内紛を工作されて滅んだっぽいし
面土(後漢) → メズラ(記紀) → マツラ(倭人伝) → マツウラ
ここから見えてくるものは何か?
>>21 今の中国と古代中国を混同するのはあまりにも失礼だろう
>>28 縄文時代が1万年とか気が遠くなるよな
その頃ローマでは…って思うと更にな
縄文一万年よりも昭和平成100年間のほうが変化が激しいな
各国に古代中国語を理解できるインテリ官僚がいたということだから
高度な教育制度があったはず。
記録メディアが消失しているだけで土人国家ということはありえない。
>>17 ああ 魏志倭人伝を読むと ちゃんと時系列で書いてる。
したがって伝聞資料をまとめたものではなく 旅を伴っている。
卑弥呼死す のところに注目すべし
放射説は そんな旅なんかする馬鹿はいないから これも否定
邪馬台国畿内説もあるけど末盧国、伊都国、奴国あたりまでは現在の地名からも九州北部じゃないかと言う感じで、そこから急に畿内に飛ぶのが違和感あるなあ
水行もずっと海上移動でも無いだろうしその間にいくつも国名がありそうなものだが
邪馬台国の場所はハッキリしないが、魏で皇帝に会った使者は九州の人。そして邪馬台国の本当の名前は「やまと」。
皇帝に謁見の時にあまりに緊張しすぎたか長く待たされてイラついていたのかわからないが、「何処から来た」の問いに、つい方言が出てしまって「やまとタイ!」と。
しかも早口だったので「やまっタイ!」にしか聞こえなかった。
松浦党と魏志倭人伝って関係あるのか
やっぱ昔から水軍がある所は色々出てくるもんだね
シナの当て字に右往左往だよな。B級資料でもう何年同じ事やってんだよ。
>>10 魏帝国の版図を広く見せようとしたという説
>>30 その計算だと対馬に1万人居たことになる。ありえない。邪馬台国でせいぜい1万人と思われる。
北九州にあったのは「漢委奴國」だった「狗奴國」
奈良にあったのは「親魏倭王」の「邪馬台国」
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これを決めた選考委員会の委員長は、その後、文化庁長官に就任。↓
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日本のインターネットを 実質規制 しょうとしている 文化庁の 再就職先まとめ
http://www.twitlonger.com/show/n_1sqmgou
【日本のユネスコ人脈】はこちら。↓
http://56285.blog.jp/archives/50903821.html
財務省理財局OBの再就職先まとめ ver.2
http://ariradne.web.fc2.com/rizai.html
そもそも文化庁は、「創価学会」を「宗教法人」であると認可しています。↓
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日本国憲法 第二十条
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、
または政治上の権力を行使してはならない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本国憲法第20条
---------------------------
池田氏の「香港並びにアセアン3ケ国」訪問の模様を報じる
「聖教新聞」を検証すると、以下の結果が判明した。
昭和63年(88年)1月〜池田大作東南アジア訪問
1月27日・香港 出迎え=松浦晃一郎総領事、富田晃次副領事
1月28日・香港 香港大学図書贈呈式=松浦晃一郎総領事他日本大使館代表
http://56285.blog.jp/archives/50903821.html
---------------------------
ということで、メンバーは、
池田大作創価学会インタナショナル会長・創価学会名誉会長、
池田かね同夫人、池田博正同子息、創価学会副青年部長。
これは、何か奥さんと家族ぐるみで訪問をするから、
外務省の官房長によろしく頼むと言っているんですね。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html
---------------------------
東京都と大阪市の「反ヘイトスピーチ条例」のまとめはこらち。↓
http://56285.blog.jp/archives/52528689.html
「都民ファーストの会」と公明党とで、議席の過半数を持っているのに、
海苔弁しか出さないってどういうこと?
【大成建設】は、東京都から【指名停止処分】された3日後に、
「匿名随意契約」で豊洲の補修工事を受注してますよ。^^
http://www.twitlonger.com/show/n_1sqmgqh 日本では、考古学というのはいくらでも妄想言ってよい風潮は勘弁してほしいわ。
末盧国が松浦付近だという思い込みは捨てたほうがいい。
中国の探検家が現地人の言葉をそのまま当て字したから、良く分からない。
松浦川は古い地名が生きてた訳ね。
恐らく松の多い場所なので松のマツは語彙の通り。
海岸線は松林だしね。
海には貝があり、それが当時の人口を支えてたんだろうな。
>>51 まだロムルスとレムスもいなかった頃だよな
考古学者は、支那チョンから文化が流入された。
四大文明説なんか、支那人が考えた物で、世界は信じてない。
通訳が適当だったんじゃね?
もしくは思い通りに伝わってなかったとか
佐賀県に日本人が不在だから起源説を唱えているんだろ
>>75 左上のマーク、
縮こまったチンコみたいだな
>>78 そもそも
北九州にあった「漢委奴國」だった「狗奴國」に行くための上陸地点が北九州
奈良にあった「親魏倭王」の「邪馬台国」に行くための上陸地点は出雲(松江)
まず
魏志倭人伝とかいう支那の冊子に入れ込んでるカス排除しろよ
頭おかしいんじゃねえのキチガイ
まあ福岡の穀倉ちたにヤマトという地域名もあるしな
その辺だろ
魏志倭人伝からわかることは
・奴国伊都国あたりの北部九州までの記述は割と正確
・倭国の風俗は当時の北部九州の海人のものらしい
・投馬国伊都国からいきなり距離も記述もぶっ飛んでるから、おそらくは伝聞
あとは、魏志倭人伝の頃の地名や人名が割とその後の資料と近似してるものが多くて参考資料になるって感じかな
『中華人民共和国、日中共産党がゴッドハンドした魏志倭人伝とは』
1949年に建国した歴史の浅い中華人民共和国が、
1979年に国連の資源調査で、石油天然資源が大量に沖縄、尖閣諸島周辺に見つかり、日中共産党が魏志倭人伝をつくり歴史を捏造した。
共産党は魏の時代に邪馬台国が属国だったから、沖縄、尖閣諸島、台湾、フィリピン、南沙諸島が邪馬台国であり、中華人民共和国、共産党の領土であるよと謎で、強引で、筋が通らない主張をしている。
日本の古事記には邪馬台国の字も存在も無しであり、日中共産党が歴史を捏造したのは明らかである。
共産党の敵、台湾(中華民国)が邪魔だから、台湾国が邪魔→邪魔台湾国→邪馬台国 と日本のあらゆる古史古伝、文献に存在しない邪馬台国の文字を、共産党が捏造しゴッドハンドしたことが証明できた。
反論があるなら証拠を見せろチャンコロアカ知的障害者野郎!( ^ω^)おっと失礼。
左翼日教組が、学校で邪馬台国論争は江戸時代からと歴史をゴッドハンドして教えてきた。
今、現在進行形でシナ(China)が沖縄、尖閣諸島、そして南沙諸島で問題を起こしていることからも捏造を証明した。
『仮説』
仮説、魏志倭人伝がにせ書ではなく、本物であった場合。
邪馬台国は日中共産党による捏造と証明済であり、存在せず、やまとうこくは存在し、四国、徳島県説が有力。
近畿説、九州説は共に北九州まで使者が来たことは認めているが、その後の解釈が科学的ではなく、こじつけである。
>>58 九州弁はその頃から語尾にタイがついたのかw
>>9 司馬懿か司馬仲達であって司馬懿仲達という呼び方はない
中国共産党は
魏志倭人伝を根拠に、1800年前には日本全土は中国領土であるとし、1800年余り不法占拠している日本人を名乗る人種について、1800年余りの制裁として絶滅しなければならないとしている
中国共産党人民解放軍が2020年の世界地図としてつくったものには
日本は中国領になっており、
放射能汚染のため立ち入り禁止区域
と明示されている
中国共産党は、魏志倭人伝を根拠に日本全土に核攻撃を行う計画を持っている
イシュタル門やピラミッドにくらべりゃゴミだわな
日本に巨石建造物はなんですくないんか
>>58 そうか、それで九州弁は「〜たい!」っていうんだ
邪馬台国
卑弥呼
↑
昔のチャンコロが邪夫(ジャップw)に付けてあげたネーム
日本に文字が使われだすのは600年頃だろう?
印みたいなのは大昔から有っただろうが文章は漢文明文字に頼るしかなかった。
何時誰が何を如何した と表す手段が無かったから人の記憶でしか歴史は伝わらない。
代々シャーマンの家系が口伝し、その時々のシャーマンが創作改作したものが
日本神話の元なんだろうな。
>>100 南宋の時代とかに長文書いてるからな
使うだけなら使える
日本史の授業で
まつろまつろまつろめんとめんとめんと
な、!
だから北九州説
そんな風に習った。
日本史教師は教員免許国語で欲しかったらしいが。
3回繰り返す彰晃癖が似合ってた。
ちなみに犯された女子同級生は居なかった
>>88 わざわざ玄界灘乗り越えてきてそれで倭王合わないとかないだろう
なら半島にいればいい
あってるよ
その他の傍国には言ってないがな
>南宋(なんそう、1127年 - 1279年
なん?
鎌倉時代だけど
邪馬台国の時代って移動手段が徒歩で幹線道路も整備されてないんだろ
国ってもちょっとした街程度の大きさだったんでしょ
そもそも
ふみ国
とうま国
もほぼ九州でしょうに
邪馬台国だけが近畿のわけないと思うんだけど
>>104 古代史の話でそうと言えば、南北朝時代だろうが
バカか
>>9 司馬氏は最終的に簒奪者になるから
日本人は好まれなかったってことじゃないかな。
親魏倭王から天皇へと認められる外交過程は、正統王朝魏ー唐が日本を独立した大国と見なしていた証拠なんだよね
当時の海面水位が8mほど高かったそうだから
末盧國があのくらい内陸にあるのは当然だ。
東遷説が一番説明がつくと思うんだが
使者が来た頃は九州にあって、陳寿がまとめたころには近畿に移ってた
だから末盧国・奴国までの記述は正確だけど、邪馬台国の場所は曖昧
日本は単一民族単一王朝としては長いけど、国が成立したのはかなり遅い方だしなあ
キリストが生まれた紀元1年前後なんて、日本はまだ縄文時代
そのころ中国は漢の時代で中央アジアやローマ帝国と交易をしてたし、
ヨーロッパなんかローマ帝国が大繁栄してた
世界史を知っていると、日本の立ち位置がよく分かるよ
>古代史の話でそうと言えば、南北朝時代だろうが
バカか
南北朝時代を古代とは言わない。
中世
《古代》
一般に奈良・平安時代を指し、大和朝廷時代(原始古代)を含めてもいう。
《中世》
一般に12世紀末鎌倉幕府の成立から一七世紀初め江戸幕府の確立までをいう。
《近世》
日本史では特に封建制後期に当る江戸時代(安土桃山時代を含む場合もある)を指す。
《近代》
明治維新から太平洋戦争の終結までとするのが通説
>>103 記紀では私が倭王(の代理)だって
イトの支配者が言ってるから会ってない場合の方が多い。
とすれば使者が来て、畿内からの返事をここでマツラで、
往復+αの日程で伝えた可能性はあるな w
これは幕末でもあった話だ w
>>122 ちゃんと女王と言ってるんだから分かるだろう
何でわざわざ魏志倭人伝の悪い漢字表記使うんだろ
マツラ国でいいだろ
>>103 福岡の鴻臚館止まりって使節は中世以降も割と多い
>日本では古代だけど?
頭付いてんの?
歴史じゃ正解じゃないね。
自分で正しいと思えルのなら其れでも良いけど
世間じゃ間違いと言われる。
お前がな とかはもういらないから後は勝手にやってくれ。
三国志の時代の邪馬台国は想像上、海を越えた超大国。
隋唐は曹魏の歴史を継承してるから倭には格下でも気を使ってるから。
>>130 アホはどこかへ行けよ
古代史の話ししてんのよ
まさか、倭王武の上表文知らない奴がこんなスレにいたとはな
驚きだわ
>>131 元々中華は端っこが反乱した時に備えて外側の国には気を使うんでなかったかな
朝鮮が土下座してる時に琉球は立ち礼でええよ言われとるし
>>128 読んだけどなんとなく微妙
日本国内だけで比べてるんだろ
>>117 ヤマト王権が確立したのとフランク王国成立は大体同じ時期
>倭王武の上表文知らない奴がこんなスレにいたとはな
驚きだわ
しらんわ
ニュー速だからね
知ったかで バカ呼ばわりする人間には成りたくないわね
>>117 日本は欧州の主要国と比べても遅くないよ
>>126 それは推定の読み方だし
マツラ国だったという確証はないから
最近、
>>117みたいに日本を否定出来ればなんでもいいって感じの書き込み多いよな
しかも言ってることがまるでトンチンカンだし
>>100 日本では遅くとも5世紀後半から、漢字による記録が
始まったことがわかっている
能美古墳で発見された文字須恵器とか、稲荷山古墳の鉄剣とか
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905R_Z10C13A9CR8000/ >>139 まぁ、一定割合でその手のは昔からいるもんだからw
>>126 当時の日本語の発音では「マトゥラ」が近い
邪馬台国と奈良時代の言語の発音はかなり近いことが判明している
>>126 勝手にカタカナにするなよ。登場の発音も分からないのに。
マトゥラってなんかカッコいいなw無理に漢字当てなくてもそのまま残してもいいのに…
>>117 起源1世紀ごろの他の主要先進国
アメリカ 存在しない
カナダ 存在しない
イギリス 存在しない
フランス 存在しない
ドイツ 存在しない
イタリア ローマ帝国
ロシア 存在しない
全然存在しねーじゃねーか
だいたい唐津いうてるやんか?そういう認識だからだろ。
>>98 実はその漢字が一番当時の日本語の「や」や「ひ」の音に近かったという説も有力。
日本書紀で日本語の「や」や「ひ」の音を漢字で書き表す際にも同じ字を使ってることが多いから。
特に渡来人が書いたとされるパートではそう。
中華思想うんぬん言うなら法国とか美国とかつけないよね。
>>145 確か明治に決めた教育内容で発音の数が削られたみたいな話あるから、そのせいもあるのかもね
今の「マツラ」の発音で想像するから詰まらないと感じるだけで
>>140 すでに弥生時代後期から古墳時代前期の墨書き土器があるのに?
三重県に
「末盧」は呉音「マツル」漢音「バツロ」と読むらしいけど、魏人の発音はどっちに近いの?
>>2 韓国というか朝鮮の国は印綬すら貰えなかったんやろ?
>>150 片部遺跡の土器の話?
あれは文字(記録)であるかは疑問があるので除外した
>>153 刻書土器ならもっと古いよ
三重県安濃町大城遺跡は2世紀だよ。
>>151 理論上は呉音の方が古く、また西安(漢音)より
南京(呉音)の方が日本に近いので、
呉音の発音が当時の日本に近いと思われる
なお、前述の通り、奈良時代の日本語の発音は
邪馬台国の言語とかなり近いことが判明している
さらに、奈良時代の漢字の読みは、後半に入るまでは呉音が中心だったので、
当時の文献と比較することで、邪馬台国の時代の発音も推察できる
確認だけど魏志倭人伝のルートは、シナの大型船で対馬、壱岐、唐津まで行き、
そこから陸上移動して小城、佐賀、久留米に出る。そこから小舟移動で熊本、
八代まで行き、そこから球磨川を遡り人吉を抜けて宮崎西都原に行っている。
これで良かったよな?
魏志倭人伝みたいないい加減なものを真に受けるとこが凄いね
こういうスレって在日朝鮮人の嫉妬スレが必ずあるよな
>>155 確かに文字なのだが、何と書いているのか、
記録用なのか呪術的なのか明らかではない
今の時点で、完全な形で残っている最古の記録(文献)は稲荷山古墳の鉄剣、
不完全な状態だが記録であるのが確かな最古の文字は稲荷台1号墳の鉄剣と考えられる
>>123 記事読んだが
中国製「かもしれない」でした。
>>134 近畿論者のお得意の印象操作記事
「またか!」って感じです
文字の出土状況
3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめ、はらえなどを
意識していないでたらめな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。
あとは片道10日もかからない行程だったけど、魏の使節団の人が正直に報告すると大した事無いと思われて以後の出世に響くのを気にするか、接待があまりに良すぎて長逗留してたのを誤魔化す為に話をかなり盛ったとか。
マルコポーロも話を盛ってスポンサーを喜ばせてたし。
>>159 実際"倭人伝"すらないのに魏志倭人伝だとよ
適当過ぎる
>>58 ありとあらゆる説の中で一番説得力を感じた
一応歴史書だけど知らないこと想像を膨らませて書いてるから意味ない情報。
シナの古い書物に 珍しいものが多い大国 盗人いないって書いてあるけど
半島南部と倭国は治安がよかったと魏志倭人伝には書いてあるな
アヘン戦争いぜんはイギリス大使は「夷目」といわれた
つまり英国は夷国
日本が東夷なのだから似たような島国ときけば西夷国
アヘン戦争は敗北しててから英国大使
また美国などおもねるようになった
>>6 記事にもあるが、黒岩前田遺跡は中原遺跡からは松浦川を航行して行った可能性が高い場所。
川を航行した場合は水行となるが、魏書では末盧国から伊都国へは陸行500里とある。
曹魏の一里は435mくらいとの話を踏まえると、500里は217.5kmになる。
距離は歩数を元にした可能性があるが、直線距離で4kmもない場所にしては山道を考慮しても500里は多すぎる。
>>35 >>1の黒岩前田遺跡は末盧国の構成要素であり主要部は唐津インター付近の中原遺跡であると記事にあるでしょ。
弥生時代の海岸線はその付近だっただろうしね。
>>174 魏志倭人伝の1里はせいぜい80mほどだよ
対馬と壱岐の間が千里だし
あの歴史修正主義の中国の言ってることだから信用できん
卑弥呼とかもウソ臭い
中国共産党が魏志倭人伝を持ち出して1800年前から中国領土説を言い出し、明確に日本侵略を言うようになってから
急に日本でも邪馬台国と卑弥呼が連動するように
持ち上げられるようになった
1970年代以後な
>>108 そうしとけば出張旅費がたくさん出るだろ? 陸行一月、水行十日 土産代にはなるからね
地名の残っている糸島市まではなんとなくわかるのだが
そっから先が全く理解できない
奴国はどこ?
>>155 刻書土器なら壱岐で出土した周の字の方がもっと古いよ。
>>176 末盧国への上陸地点は呼子付近でしょうね
そこから1里80mで500里だと丁度糸島市の中央くらいに着く
そこから100/2里で伊都国の遺跡が群がある。
>>16 東松浦半島の根っこに唐津市は在る
旧松浦郡は長崎県から佐賀県の北岸一帯。
道無き道を進まなくちゃいけない末盧国に行く必要性が全く分からない
直接伊都国に行けばいいのに
>>189 港の関係でしょうね
呼子付近には天然の良港があるから。
>>184 奴国は日向峠を越えた先で
博多湾岸から遠賀川の西くらいまで全部だろうな。
末盧国を目指したというよりは辿り着いたのが末盧国だったって感じじゃないのかね
ホント通訳どうしてたんだろうなあ
身振り手振りでそこまで意思疎通できるとは思えない
末盧国 4000戸
伊都国 1000戸
奴国 2万戸
不弥国 1000戸
投馬国 5万戸
邪馬台国 7万戸
チンケ倭猿アイランドでは集落がクニ扱いされるのか wwwww wwwww wwwww wwwww wwwww
やはり倭の字がよく似合うモンキーだw wwwww wwwww wwwww wwwww wwwww
>>194 ジャンボとかカンガルーみたいな誤訳連発だったろうな
>>194 やっぱり人懐こくてオーバーランゲージな奴が選ばれるんだろうか?
>>197 たくさんの国が存在してるヨーロッパと
支配するかされるかしかない中国
どっちが偉いかって話
>>197 その集落に攻めこんで一方的にぶちのめされた国が中国
>>160 分かる
日本には勝てないニダと無力感でもあるんかな?
唐津って末爐国の後継に当たるような古代松浦郡の中にあるの?
末盧の一部というより支配下の村の一つってとこだろ。
松浦のオリジナルは現在の唐津
長崎県松浦市に取られたが
シナチクジャップ シナチクジャップ シナチクジャップ シナチクジャップ シナチクジャップ シナチクジャップ シナチクジャップ
ジャップお断り!ジャップお断り!ジャップお断り!ジャップお断り!ジャップお断り!ジャップお断り!ジャップお断り!ジャップ
ぶさ人種ジャップ ぶさ人種ジャップ ぶさ人種ジャップ ぶさ人種ジャップ ぶさ人種ジャップ ぶさ人種ジャップ ぶさ人種ジャップ
>>194 大陸とは縄文時代から大勢が行き来してたはずだよ、でないと使者なんて来ないだろ 偉い人の安全第一だからな
金印をもらったのが証拠やね、当時から…それ以前から日本でも文字は普及してたはずだよ、交易の一番の武器だから
交易が有れば通訳には困らない 通訳無しでも意思の疎通くらいは出来てたのではないかな
族長クラスでは読み書きできた筈だし 祐筆を置いてただろうし
思っている以上に文化的だったんじゃないかな
半島に普通に倭の植民地あったんだよね。何で認めないの?w
百済まで一つの文化・経済圏だったってのは自然なことだよね
白村江の戦いまでは百済も日本史の中に組み込んで教育してもいいくらいだと思う
>>214 使者が何度も行き来してるんだよ、それに交易が有ったから民間人のほうが行き来は多かったはず
話に齟齬があると困るだろ 困らない程度には辻褄が合ってるはずだわ
>>79 海岸線の松原は江戸初期に初代藩主が防風林として植えさせてるから今の状態ではなかった。
だから松浦の地名が松と関係しているかどうかは不明だよ。
邪馬台国はなかったとアカデミズムの誇りをかけて学者の誰かが言うべき
「邪馬台国」なんて貧乏地方国家は九州に決まってるよ。
倭王武の上表文(宋書倭国伝)
興こう死して弟武立つ。
自ら使し持じ節せつ都と督とく倭・百済・新羅・任那
加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。
順帝の昇明二(478)年、使を遣して表を上たてまつりて曰いわく、
検索しても毎日エロ新聞が目立つな。
後援でもしてんのか
ま、パヨク屋の臭いがぷん分だな。
>>219 九州以上に当時の宝物が出土する地域って
あるの?
九州は邪馬台国にしては規模が小さい集落ばかりなんよ
>>189 海流と風の問題じゃないのかな
壱岐から伊都奴国にはいくつかルートがあって、郡使が辿ったルートがたまたま末羅港回りだっただけで
ところで郡の使者が上陸している間、船は河・入り江に停泊だったのか?
それとも遣唐使船と同じで、陸揚げで直していたのか?
邪馬台国に行くにしろ、返事が来るにしろ1ヶ月以上はいただろうし w
となれば、帰ってまた来たのか?
古代は海岸沿いの移動が普通だから細かく寄港しながら進むんだよ
>>226 1ヶ月どころじゃない。
塞曹掾史の張政は、邪馬台国へ軍事顧問として派遣されたが
直後に卑弥呼が死ぬ。
その後、男王→従わず内乱→13歳の台与
まで見て、台与を「激をもって告諭」している。
>>225 夏場で台風のおそれもあったから最短で本土に上陸できるルートを選んだかもね
倭人伝には、倭人は鉄の鏃を使うと記す。
鉄の鏃は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍の鏃が出土する。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、
畿内よりも九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。
刀子は日常的な用途のナイフ・小刀のことで、出土数も多い。
刀子は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県では210本も出土したのに、奈良県では1本も出土しない。
倭人伝には、倭人は養蚕を行い絹織物を作っていたと記す。
絹は、畿内よりも、九州からはるかに多く出土する。
奈良県に比べると、福岡県は圧倒的に出土地の数が多い。
倭人伝には、倭人は兵器に矛を持つと記す。邪馬台国の時代には、青銅器は、 広型銅剣のようにすでに祭器化しており、実用的武器としては鉄矛が使 われたと考えられる。このころは、刀も、鉄製であろう。
陸路なんて整備されてないからな
海路で細かく寄港しながら進むのが基本
>>231 それだよね
陸路を直線距離だけで、迂回することを考慮しないで考えた予想図とか意味なさそうだもんな
>>222 邪馬台国が貧乏なのは否定しないんだね。
>>233 邪馬台国が貧乏か裕福かなんて重要じゃないと思うんだが
邪馬台国が勝手に日本国王を名乗って魏に朝貢したから
大和朝廷に九州征伐されたんだろ
>>229 そういう理由がないと、遠路遙々来て貰った郡使に藪のような道を歩かせないよなあw
>>189 伊都国が糸島だという根拠は、名前が似てるだけ
地図を見れば、上陸地点が唐津なら、糸島は対岸に見える。
唐津から歩くくらいなら、船で行けばいい。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E5%B8%82/@33.456191,129.8969652,86203m/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x3541e7fad27a8f01:0x919456694edeac0e!8m2!3d33.5573203!4d130.195555 そもそも方角が違う。糸島は東北。
倭人伝では
>東南へ陸行、五百里。伊都国に到る
となってる。
地図でも、唐津から東南にちゃんと道が伸びて、
たくさん人が住んでそうな平野に出る。
倭人伝と地図を見れば、常識で考えて伊都国は佐賀市やその周辺。
糸島という名前に引っ張られるな
さらに佐賀市の南には、
山門(山門郡という地名は10年前に消滅)、八女、山鹿といった
あやしげな名前が並ぶ
https://www.google.co.jp/maps/search/%E5%B1%B1%E9%96%80/@33.1841571,130.3866905,72908m/data=!3m1!1e3 山鹿の南には、菊池市があるが
邪馬台国の南にあった狗奴国の狗古智卑狗(くこちひこ)こそ
キクチヒコのことで、菊池ではないかという説は根強い
>>231 陸路も整備されてなかったかもしれないけど
港も整備されてなかったんだろうな
伊都国付近にはいい港が無く
天然の良港の呼子港か名護屋浦に入港し
宿泊地の伊都国まで歩いたんだ
「草木茂盛 行不見前人」
>>229 壱岐から九州ってそんな台風に急に襲われるほどの
長旅になるの?
権力≒経済力 軍事には特に金がかかる
富の無い国に従う奴はおらん
>>188 うちも消費税が上がったときに解約したわ。
新聞解約したら毎年5万円のキャッシュバックがあると考えるとでかいよ。
知り合いもみんな解約してる。ニュースならスマホで見れるし。
いまじゃ月に1回、爪切り用に分厚いから日経新聞を買うぐらい(笑)
>>239 どうかなあ
その当時、糸島半島を分断するように二つの入江があったから、天然の良港になっていた筈だけどね
>>243 今は陸になってるぐらいだから遠浅の海で船は陸に近づけなかったろうな
港には不向きだな。
そもそも魏志倭人伝がウソくさくね?
陳寿に聞かれたヤツが答えきれなくてよくわからないところはテキトーにウソぶっこいたんじゃねーの?
>>244 河内湾も深さ十メートル以上あったのにいまはすっかり陸地だねw
大陸から渡ってきた騎馬民族が日本列島を征服して
大陸風の王朝を建てたのが天皇家なんだから邪馬台国も朝鮮半島に近い北九州にあったと考えるのが自然だろうな
>>251 いや日本に無くて朝鮮半島にあったんだろう。
北部九州の勇猛果敢な戦士は鉄製の武器を用いて銅剣しか持たない関西土人と
戦おうとしたが、戦う前に気勢を削がれた関西土人共は尻尾を巻いて逃げ出して
しまったと言うのが神武の東征の真実だ。
吉野ヶ里は滅ぼされた名も残らぬ遺跡
大和朝廷がだめ押しの前方後円墳で上書きしてるし
鉄製の鏃を使って関西土人を射殺した九州の有者に対して石鏃の矢しか持たなかった
関西土人の矢の飛距離は短すぎてとても戦いにはならずにほとんど戦わぬままに
九州勢力にひれ伏したと言うのが東征の実情だ。
>>254 弥生後期後半(2世紀)から布留式併行期(4世紀前半)にかけて、瀬戸内(吉備〜近畿中部)の
土器や墓制が北部九州で一方的に広まっている以上、
西征が考古学的に考え得る事象であって、その逆の証拠はまったくないんだよね
邪馬台国がどこにあったとしても、大した違いはないんじゃないかな
それよりも、魏に朝貢すれば国として認めて貰えるという事をどうやって知ったのか、の方が興味あるね
>>238 糸島には弥生中期後半から終末まで連続する王墓ある
代々王有りという記述によく合致している
佐賀市付近では、伊都国の役割である出入国の管理がしにくい
伊都国に続く奴国の想定が難しくなる
南を東に読み替えてる畿内説の手前、倭人伝の方角は正しいはずと思いたいのは分かるけどさすがに伊都国佐賀市説はまったく同意できないよ
>>256 吉野ヶ里は律令制時代まで存在してるんですけど?
>>258 その頃に九州からの東征者が岡山に駐留して瀬戸内の土器などが九州よりも
優秀だったから九州に持ち帰り広めたんだな。西征などは無関係。
アホじゃ無いかと笑われるぞ
>>235 神功記を素直に読めばそうなる。
逆に大和朝廷がいう九州の反乱とは密輸とかの懲罰の可能性も有る。
いわゆる交易を監視する大倭の機能から。
>>258 確かにね
九州から外に出る影響が【弥生時代を通じて】殆どない上に、X式土器から布留式、その後に至るまで畿内の土器が一方的に広まって在地の生活様式を一変している
それだけでなく祭祀の方法も九州にそれまで全く無い物に塗り替えられてるからね
東征を示すような痕跡は皆無でむしろ東方からの一方的な文化流入と上書きの姿しか見えてこないな
東征は考古学的に全く証明できないとしか言いようがないな
>>35 一支国から千余里
>>46>>51
言うならメソポタミアかな
東征があったらどういうブツがあるはずで
どういうブツがあったら東征があったはずになるのか
素人にはさっぱりわからんな
そもそも東征って大軍勢で攻め込んだって感じがしない
集団移住をかっこよく盛りつけただけなんじゃないかって思う
>>258 お前らのような奴の事を負け犬の遠吠えと言うんだよ
わいの説は
卑弥呼には瞬間移動能力があり
二箇所でそれぞれ邪馬台国を作っていた
ていうかさ東征をそのまま読むと
やっぱり東征以前は九州にいた勢力が近畿まで来たってことで
邪馬台国は九州ってなるんじゃないの?
何で奈良説がいるのかほんとにわからん
>>235 というより、半島の人間が九州に進出して、半島と九州にまたがる海洋国家の倭国を作った。
その後、半島での勢力が衰えた代わりに、近畿にも勢力を伸ばし(神武東征)、九州倭国が
白村江の戦いで勢力を弱めると、近畿の倭国が日本書紀をでっち上げ、大和朝廷を名乗った。
倭国 新羅国 百済国
>>21 日本の記紀なんて殆どが稗田阿礼とかいうようわからん奴の記憶なんだよなあ
一次資料である帝紀と旧辞に至ってはなぜか紛失してる有様
史料批判が可能な中国の史書と違って史書というレベルですらない
>>273 邪馬台国と神武に関係がない。
日向国は今の宮崎県と鹿児島県で、九州説からはズレる。
むしろ魏志倭人伝で言う所の、女王国ではない集団が南にいたわけだからね。
>>276 > 邪馬台国と神武に関係がない。
俺もそう思う
ただ「邪馬台国と神武に関係がある」
ってことが奈良派の根拠になってるっぽいので
どっちにしても奈良派なんて存在できへんやんって話
>>276 関係なければ、ヤマトの名前は引き継がないだろう。まあ、宮崎ではないと思うが。
徳川家が将軍になるときに
「源氏の子孫」って自称したんでしょ
天皇家が権威付けのために
「邪馬台国(卑弥呼)の子孫」を自称してもおかしくないと思う
>>279 邪馬台国は存在自体抹消されててそんな自称してないよ
あらゆる記録が残されてないから空白の4世紀と言われる
>>259 以前から民間レベルでやり取りがあったんじゃね?
流されてきた船員を救出して仲良くなったりとか
そんで貢物の人づてに伝わったとか
>>279 後世に編纂された古事記、日本書紀が、わざわざ日向国からの神武東征と書いてる。
邪馬台国との関連を示したいなら、そう書くのに日向国と書いてるんだから仕方がないだろ。
もし邪馬台国と大和朝廷を関連づけたいなら、邪馬台国は日向国=南九州となり
魏志倭人伝の距離の根拠が狂う。
>>280 そうなの?
神武天皇は卑弥呼の子孫ってことになってるのは何なの?
少なくとも今は神武天皇は卑弥呼の子孫って天皇家は認めてるわけでしょ
最初からとは言わんけど
どの時点かで卑弥呼の権威を利用したんちゃうの?
中国の文献では
奴国から先はまったく分からないのだから
もっと発掘を増やすべき
>>283 なってないぞ
日本書紀でも古事記でも神武天皇が卑弥呼の子孫としたら時系列おかしくなるでしょ
ヤマト王権の1人の女性を卑弥呼同一人物とする説は江戸からあったが
本格的に唱えられたのは明治に入ってから
>>272 それなら卑弥呼が双子だった説とかのがまだ説得力ない?
双子だから遠く離れててもテレパシーでやり取り出来るとかなんとかファンタジー説をぶちまけてみる
邪馬台国から二百年ぐらい後に大王ぽい人が現れて
中国大陸と通信を再開するまでに
日本で何があったかを解明するのが
日本人とは何かを知る手がかりになるだろうね
>>289 勘違いしてた(天皇の系図を見て確認しました)
じゃあ周りが勝手に言ってるだけか
もうほんとに「邪馬台国=大和朝廷」の根拠もなければ
邪馬台国畿内説なんてどう存在しようもないじゃん
でも唐津には寄ってないよな。
官と副官の呼び名が記載されていないし。
芦が繁って前の人も見えない=伊都国までの陸上移動は無理。
よって壱岐から見た位置関係だけ説明して実際には不彌国に向かったと思われる。
本来の目的地は「到」で表現されている伊都国。
そこにたどり着けば後は案内してもらえるからな。
>>244 遠浅で船が近づけないってのが理解できないんだが。
一体どう言う船、上下船システムを考えて居るのだろうか?
まさか数万屯のフェリーなんて考えて無いだろうな(笑笑笑)
>>194 公孫氏と邪馬台国は交易してたので
倭人の言葉を話せる人が居たと思われる
>>254 神武天皇は迎え撃つトミノナガスネヒコに撃退され、
紀州方面に迂回し紀州山地越えで大和を奇襲したんだよ。
>>297 船は大きくなればなるほど水面下も深くなる
手漕ぎのボートじゃないんだから遠浅には底が付いて近づけない
座礁して動けなくなる
分からんの?
>>300 倭人伝では最低の国邑でも1000戸はあるから
1戸5人としても1つの国邑に住民は5000人は居るな。
>>295 不彌国は那珂川町、や春日市付近で内陸だよ
壱岐から直接は向かえない。
>本来の目的地は「到」で表現されている伊都国。
よく気が付いたねw
>>255 奈良の纒向遺跡が列島で最大級だそうだ
吉野ケ里は遺構がよく残されているけどそんなに大きなものとは考えられてないみたい
>>97 九州弁というか博多弁だな
北九州弁だと「ヤマトっちゃ」になる
>>259 本来燕の公孫氏に朝貢してたんよ
滅ぼされたんで魏の国まで挨拶に行った
>>272 ヒミコとは日巫女であり特定の誰かでなく
役職名であったろう
>>311 そうみたいね。
だから人の住んでるところが発見されたら凄そうだよね。
末盧国は現在の「松戸市」で、これは今学会に少しづつ認知されつつあり、
近々「サイエンス」に発表されるはずだよ
>>314 遺跡ではないけれど
博多は弥生時代から現在まで連続した街らしいね
博多の地下を掘ると弥生時代まで連続した遺物が出てくるそうだ。
>>259 既に漢から「漢委奴國王」印を貰ってるから
王朝が交代したら新しい印を貰えることぐらい知ってるよ。
吉野ケ里遺跡の環濠内部の人口は約1,200人らしいから、他の環濠集落と同じく人口過密で環境汚染が進んでいたんだろうな。
纏向遺跡は当時の日本の中心地だから凄い遺跡だぞ、大量の桃の種、魚の骨
多数の土器が出土した。それに比べたら吉野ヶ里からはいろんな種類の
鉄製品は大量に出土したが桃の種や魚の骨は全く出土していない。
纏向遺跡>>>吉野ヶ里遺跡となる、比較にならんよ
邪馬台の産物で魏志に書かれる物はほぼ半島の弁辰も同様に生産されていた物で、鉄同様半島からのもたらされた技術なのは疑いようもなく、半島南部との繋がりが強い場所であったことが分かる。
が、近畿において平原墳の様な水晶やガラスが出土するわけでもなく、出るのはタネか土器。
人口規模が多いと言うだけで、装飾品の出土の価値からして立場は九州が王都で格上であり、纏向が生産ファーム的格差が一目瞭然だろう。
>>282 日本書紀、古事記から明らかなのは、倭人の本拠地(高天原)は、もともと朝鮮半島の南部にあった倭人地帯。
半島南部の高天原から、対島や北九州を眺めて、早くあの稲作の豊かな国(豊葦原瑞穂国)を征服しなさいと命令していた。
それが天照大神。神話の中の天孫族(天皇家の先祖)は、国譲り神話以降、一貫して侵略者として描かれている。
支那の船(本来は東南アジアの船)は他の船と違って喫水が浅い特殊構造なんだよな
邪馬台国の人は丹を何に使ったんだろう?
古墳の内部に塗るとか?土器に塗るとか?
>>324 船が大きくなれば普通の船より喫水が多少浅くてもやはり深くなるよw
帯方郡から日本へ渡る船なんだからそれなりに大きな船でうからね
知らない浅い海だと何処に暗礁があるか分からないから座礁が怖くて陸に近づけない。
環壕の中は500人〜2000人程度だけど
これは王宮みたいなもんで
庶民は環壕の外だからね。
だいたい10〜20倍くらいの人口の
農民がいるもんだ。
さて、吉野ヶ里を中心とした国の人口は
どのくらいでしょうかね?
>>320 桃の種や魚の骨とは纏向遺跡はショボいですね
>纏向遺跡>>>吉野ヶ里遺跡となる
これ冗談言ってるの?
>>327 多少はな
西洋の船は大型化とともに船倉が広げられたが
支那の船はそれができなかったから苦労したんだな
>>328 吉野ヶ里の周辺には吉野ヶ里と同じような遺跡が幾つも確認されてるから凄い数の人が居たろうな。
末盧国名物
https://www.matsuurazuke.com/cont_matsuurazuke.html >>225 俺もそう思う。
たとえば福岡市西区の生(イキ)の松原なんかも、
伝承では「神功皇后が松の枝を逆さに挿したら生きた」とか
しょうーもない地名譚だが、普通に考えれば壱岐だよね。
松原の中には壱岐神社もあるし(ただしこれは新しい)。
庄内式土器ってのは纏向より河内の方が出土数が多いらしく、纏向が規模の割に土器の集中した場所じゃないんだってな。
纏向はそもそも大市て呼ばれてたんだし、じゃあ湿地帯の河内はなんだったんだとなる。
結局食料受給が豊富な場所で、多数の土器となれば天下の台所になるわけで、当時邪馬台が果敢に攻めてた半島行きの軍人と食料を集める場所でしょう。
>>307 最大級って連続的に連なった福岡の弥生銀座よりでかいの?
1000年頃の五島みたいに
対馬あたりは中国人混ざって住んでたんじゃね?
>>289 だいたい、つくりばなしなんだが・・・。
卑弥呼は、大和朝廷に拉致られた、長ツネヒコんとこの妃だよ。
>>329 冗談で書く訳無いよ、書き忘れていたけど犬の骨やイノシシの骨も出土しているようだ
当時の奈良の人々は朝鮮系のグルメだったんだね。
>>328 魏志倭人伝によれば、邪馬台国は7万戸
1世帯4人とすると28万人
九州で最も人口の少ない県庁所在地である佐賀県佐賀市の人口が、今でも23万人
邪馬台国ぱナイ
てか盛り過ぎ感半端ない
>>341 私は佐賀市が奴国二万戸としてるんですが
それだと8万人でしょうかね?
あと筑後の久留米から大牟田の
投馬国が五万戸20万人
熊本肥後国領域で7万戸28万人となっております。
最近は北部九州の勢力が2世紀末から3世紀初めに奈良に東遷したなんて説が割と有力なんだな
>>342 熊本のような気もする。
狗奴国と決めつけられて邪馬台国としてはノーマークなんだよな。
本当の狗奴国は球磨じゃないかなと。
>>275 どっちも資料をもとに作ったお話
お話Aの形で稗田阿礼に覚えさせて、念のため漢字で書いておいたのが古事記
別のお話Bを漢文で書いたのが日本紀
>>344 古事記には日向大隅が
熊襲国領域になっているようですので
私はそちらをクナ国にしています。
熊本南部で日向大隅の境界が
人吉、球磨地方ですね。
ここから南がクナ国かな?
>>338 伊都国には、中国人が住んでると書いてる
だから「伊都」なんて、ここだけ良い字をあててる
(だから魏との外交関係がこれが最初ってだけで
古くから交流がある。通訳などの心配もないだろう)
>>341 30余国で7万個としたんだよ
佐賀、神埼、三養基、鳥栖、基山、久留米、甘木、小郡、筑紫、三潴、筑後、八女、柳川、大牟田、瀬高、浮羽、日田・・・
>>295 到と至は、三国志を全部調べた研究者が
特に区別なく同じ意味で使われてると発表した
>>335 小競り合いしてただけやん。半島側の国がまだはっきりしてないからな
売国明治マセソン商会維新150年と歴史改竄国家と田布施システム
>>343 初めて聞いた
3世紀までには近畿勢が少なくとも下関までは来てて
九州のうちどこまで来てたかが目下の話題
魏国に朝貢した三十余国とはどんな国なのかは倭人伝に記載している。
難しく考える必要は無い
だから隋書でわざわざ記載するほど特徴的なのが倭人伝に出て来て無いじゃん
>>307 住居あとがほとんどない。
伊都国から東征した神武が
吉備で八年過ごした後に辿り着いたのが纏向。
北部九州の副葬品文化の影響が強い。
>>35 唐津に至る沿岸一帯は船着き場によさそうな小さな
入江があるな
唐泊とか名前もそのまんま
>>258 >>266 キナイコシの自演ってすぐわかんだよね
>>360 畿内は、大規模な水路網があったということを誇ってるけど
すると倭人伝にそのことを書いてないという
かえって不利になっちゃいそうと心配
>>238 舟の場合は沈没した場合のリスクが大きいから陸路でも充分進めるところを海路は選ばないだろ。
当時が朝鮮半島から壱岐対馬を経由して唐津に到るのも海路を極力減らす為の選択なんだよ。
方角だって今みたいにしっかり判る訳もなく、道だって谷だ川だ岩だ山だと障害物がある度に迂回だろうし。
実際に住んでるから判るが唐津から福岡へは海岸線を辿れば平坦な道ですむ。
佐賀へは峠を2つも越えなければ辿り着かない。
>>367 唐津から福岡なんて今は道路があるけど
昔は断崖の難路だと想像できるだろ
唐津から「草木が茂って、前の人の姿も見えない」道を行ってる
>>368 海岸線を見ながら海岸線沿いに船で進むんだってさ
>>369 それだと水行になっちゃう。
実際、朝鮮半島は、船で海岸沿いを水行してる。
>>352 逆だ逆
今年になって淡路島の製鉄遺構が北部九州系と判明してもう北部九州が畿内の目の前まで来ていたことがわかったんだよ
> 174 :名無しさん@1周年 :2018/10/12(金) 00:23:12.63 ID:VajtXERf0
> 畿内の遺跡からは何故か鉄製品がほとんど出てこない
> 近江や淡路島など、鉄工房の遺跡は周辺にあるにも関わらず、だ
> これは長い間謎とされてきた
>
> だが、2018年3月に、この状況は一変した
> 淡路島の遺跡からカエシのついたヤスが出土し、淡路島の鉄工房は北部九州の傘下であったことが判明したのだ
> 地理的に畿内勢力と思われていた淡路島は実は既に北部九州の海人族に牛耳られていて、畿内とは別勢力だったわけだ
> だから目と鼻の先の淡路島に鉄工房があるにも関わらず、奈良からは鉄製品がほとんど出ないのも当然、ということになる
>
> 弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
>
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml > >エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> >ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> >弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> >愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> >「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> >今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
> 181 :名無しさん@1周年 :2018/10/12(金) 00:31:00.53 ID:VajtXERf0
> 実は
>>174は北部九州を代表する海人、安曇族の分布拡大ルートを見れば一目瞭然だった
>
>
> 地図で見ると、本拠地の志賀島から日本海ルートは出雲を経て近江、さらに岐阜、愛知と東海へまるで畿内を迂回するかのように進出している
> 瀬戸内海ルートは淡路島まで進出し、この地図には載ってないが難波にも安曇江がある
> 淡路島を制した九州勢は難波から上陸したわけだな、そう、神武天皇が近畿で最初に上陸した難波に、だ
>
> こうして考えると、神武天皇が九州の出身で、難波で一度敗れたのちに熊野川を遡って奈良を平定した、という記紀の記述は途中までは正しいのだろう
> 間違っているのは、恐らく後代の人間が「神武軍は熊野川を遡上した」と聞いて紀伊半島を南回りしたとストーリーを作った点
> 難波で敗れたことで分かるように元々土着勢力より戦力で劣っている上、勢力地盤も無いのにそんな大回りをしたところで勝てるわけがない
> 実際は畿内を迂回して近江から東海まで地道に勢力を伸ばし、北側から包囲網を敷いて北方に目を向けさせた後で、
> 渥美半島の先から船で熊野川を目指し手薄になった南側から攻撃を仕掛けたと考えたほうが理にかなっている
>
> 隋書に倭国の王姓は阿毎氏とあるが、隋の使者に対して海人(アマ)の出自だと名乗ったのだろう
> 記紀に記された天皇の九州出自は事実で、畿内は被征服側、ということだ
> 畿内は当初安曇族の進出を拒んだため、安曇族はこれを迂回して包囲するように勢力圏を拡大してゆき、あるときついに畿内勢も
> 安曇を受け入れざるを得なくなっていった、という構図が遺跡の分布から読み取れる
>
> それがいつ頃なのか、は畿内でも鉄製品が増えてくる時代と考えれば良いだろう
> つまり4世紀以降ということになる
>>371 持ち込まれただけのたった一例をもってしてどこかの地域の傘下だったとは、笑いを通り越して可哀想に思うな
まともな大学を出たのか?
考古学的には、3〜4世紀に吉備と近畿の土器と墓制が一方的に持ち込まれ、北部九州中に広まっている
これは誰がなんと言おうと変えようのない周知の事実(考古学者であれば)
いわゆる完形の前方後円墳だと
九州は4世紀後半以降だな
纒向型と呼ばれる古い型はそれ以前から
日本中にあるがこれはルーツがどこかわからん
>>372 まともじゃないのは畿内には鉄製品が全然無いのに製鉄遺構が畿内のものだったと妄想してるオマエだろw
製鉄遺構があるのに製品が無いのは別勢力のものだったからとしか考えようがない
>>372 >>371を見ると吉備も近畿も安曇の勢力下って書いてあるじゃん
占領地の物産を本国に上納しただけだな
> 地図で見ると、本拠地の志賀島から日本海ルートは出雲を経て近江、さらに岐阜、愛知と東海へまるで畿内を迂回するかのように進出している
> 瀬戸内海ルートは淡路島まで進出し、この地図には載ってないが難波にも安曇江がある
> 淡路島を制した九州勢は難波から上陸したわけだな、そう、神武天皇が近畿で最初に上陸した難波に、だ
実際の道のりはこんな感じでしょう。
狗奴韓国→(対馬を見る)→壱岐(唐津、伊都国を見る)→(博多湾上陸)→不彌国→邪馬台国
>>283 AD200年神武天皇を持ってきたらいくらなんでもその後の年代が合わせられない。
崇神天皇くらいだと思う。
九州が邪馬台国とするなら大和朝廷は大乱で負けて、親戚のいる大和に逃げてきた人って事になる。
>>378 神武天皇は天武天皇の時代の少し前だな
天武天皇の時代に神武天皇の墓の話が出てくる
神武東征は5〜6世紀の頃だろうな。
おまえらは佐賀の邪馬台国ばばかにしとるやろ
たいてぶんなふーーーーけとる!
万二千里=水行10日陸行1月
水行は一日航海千里の規定を適用
水行20日=二万里
帯方郡から長崎周りで西都市(投馬国
>>387 誰か実際に船で水行してみた人いないのかね?
当時の船がどんなもんか想像がつかないが
黒岩前田遺跡は佐里町の近くだな
巴里国(佐里)の遺跡かもしれんな
>>388 金立SAの徐福長寿館で秦の時代の船の骨組みをみたけど大きくて立派な船だった
魏使は豪華な船に乗ってきたのでしょう
弥生時代の甕棺墓は中国由来らしいから、元々は中国沿岸から直接or半島南部経由で来た人が多かったんだろう
その後、半島南部経由で移住する数が激増するが
>>343 神武天皇は宮崎県日向から出発
北部九州ではない
>>388 古代の船を再現して実験はされたみたい。
全然進まなかったみたいで結果報告も無しw
>>393 見たら帆がついてない実験船だったわ
そりゃ進まんて
古代船には帆がついていたに違いない
>>362 吉備に8年もいたらほぼほぼ同化するよなw
実際には阿曇族など北部九州の海部が畿内に到達する話なんだろう
難波には阿曇江という根拠地があったようだし
古代船海王、ちゃっち
どんだけ古代人を馬鹿にしてるんだw
>>307 吉野ヶ里(華奴蘇奴国?)は海岸交代で市街地が神埼に移ったから遺構がそのまま残っただけで、
あれくらいの規模の村はあちこちにあったんだろう
吉野ケ里は環濠集落としては大きい
同サイズだと奈良の唐古鍵とかになる
大阪の池上遺跡なんかもそれに続くくらい大きい
しかしこれは環濠集落としてなので範囲なら妻木晩田遺跡などが吉野ケ里をはるかに凌駕している
そして環濠集落と言う閉じた集落は村落の延長の上にあるものでそれそのものが小さい「クニ」として機能している
しかし弥生後期後半になるとこのような環濠集落は消滅し、大きな範囲そのものを居住域とする「国」が誕生したと言われる
環濠集落のような古い形態の村落が広域の支配領域を持つ国の中心とは考えにくい
>>392 筑紫の日向だから
神武天皇の出発地点は福岡県の日向峠付近だろう。
>>399 佐賀平野に限らず北部九州は掘れば遺跡が出る場所
>>392 宮埼を日向と名づけたのは景行天皇だろう
大和王権とのかかわりは応神仁徳の時代からじゃないの
西都原の前方後円墳の時代とも一致するし
記紀、風土記では北部九州は降伏してきた在地豪族か、外国由来の外様扱い
皇室との関係は常に宮崎を重視している
古墳も宮崎に九州最大の物が存在していて、ここから多くの妃が出ている点なども注目点になる
史書の扱いや大型古墳の分布をみても九州では瀬戸内海に近い場所を大和朝廷は重視しているのが分かる
北部九州は多少の独自性を維持する外様的存在となっている
特に久留米とかあの辺は個性が強い
景行天皇の遠征に際しては九州西北部は早々に鏡を献上して降伏して戦闘になってない
西北部は最初から敵対せずに天皇を迎える体制になっているのがうかがえる
この地域は畿内式の土器の分布がいち早く色濃く広まる地域なのが興味深い
そして天皇にすぐさま降伏して水先案内をした神夏磯姫の領域に出現期の大型の古墳がある点も面白い
>>405 景行天皇は九州倭王国であって九州西北部は行幸
>>343 素直に神話を読むと当時宮崎にいた豪族が東に進んで
ここははまほろばじゃーってなって大和を安住の地にした様に思えるけど違うのかな
>>407 九州から東に人や文物が移動する様子が初期の稲作と遠賀川式土器の拡散以外に弥生時代を通じてほとんど見られない
畿内に至っては須玖式と言う初期段階の土器の破片が見つかるだけで「発見」とされるくらいの状態になっている
むしろ西日本各地は九州の土器や祭器の拡大を阻止するような動きが見え、各地域が九州と別の文化圏を形成しているのが見える
逆に九州東部は瀬戸内海方面からの強い影響を受けていて西日本的様相が強い
そして弥生時代後期後半になると九州西北部に畿内の土器が色濃く分布して在地の生活様式を塗る変える様子が見えている
九州からの東征と言う姿は考古学的に見て皆無と言っていい状態になっている
>>214 皇帝に出す方は話を盛った面白いヤツ
皇帝からの御褒美に期待してたんだろ
宰相府に出す方はまともな報告書
随行した軍人が書いた行程表と倭軍の練度報告書が見つかれば面白いけど
長安も何度か焼けてるし、この世に存在しないだろうな
>>408 なるほど有難う
神武東征は国をまとめる為の方便的なやつだった訳か
あとはその九州西北部の話は想像だと畿内の植民とか飛び地的な事はないのかな
オトンが宇佐出身なもんでこういう話は興味あるもんでw
>>407 一口に九州と言っても色々で
大和と手を結んだ北部九州東側と
それ以外では文化圏が違う感じに思える
墓一つとっても、九州の東からは甕棺が全然でないんだよ
巫女さん中心の連合国で男は顔体に入れ墨するポリネシア系=海人。
さらに半島経由でシナ国家との国交を重視となったら北九州しかない。
畿内にもクニの集まりはあったけど、半島情勢が変化してシナと
行き来ができるようになった瞬間、即魏と国交を結ぶような必要性は
当時の畿内の連合国にはなかった
>>304 そういえば喜多方のすぐ西隣に山都(やまと)が現存するな…!
そば食いにいったわ
>>411 群雄割拠の時代だったって訳か
で当時九州北部が遠い大和と手を組んでどういうメリットがあったんだろう
つーか教科書で習ったイメージでは当時は九州周辺が繁華街で大和は寂れた田舎なんだけども
>>410 東征神話は考古学的な痕跡が皆無なだけになぜこんな話が盛り込まれているのか興味深いところ
いう通り、九州と言う土地を繋ぎとめるための方便だったのではないかと思う
宇佐は川部・高森古墳群等の九州でもかなり古い古墳が早くから作られ、長く継続している土地なので、
神話通り早い段階から大和朝廷に服属して協力関係を作った土地なんだろうと思われる
宇佐八幡などが皇室からの崇敬を集めてる土地なのも頷ける
この古墳は宮崎と並んで古く、分布も継続の歴史も長いなどからしてやはり神話との関連性が想起されて面白い
>>415 宇佐と八幡神は重要だったんだな
この辺紐解いたら色々面白そうな気はする
まぁ古代は繁華街だった宇佐も現代は寂れまくってどうしようもないけどねw
>>407 卑弥呼の時代前後だと、畿内の銅鐸文化が急に廃れて北部九州に多い鏡・玉・剣の文化に変化してる
大和の象徴である前方後円墳の出現もこの時期
考古学的発見を見ると神話の動きをなぞるような動きが見えてとても面白い
西北部→いち早く畿内の土器が色濃く広まり在地の生活様式が変わる→戦闘せずに降伏した外様的存在。景行天皇は寄らずに帰る
東北部→古墳時代に入ってから特に畿内の影響が強くなる→神夏磯姫の降伏
宇佐→宮崎に並んで古く長く続く古墳群が存在→遠征によって親大和朝廷的な勢力が誕生
宮崎→九州でも最古級で長く継続する古墳群が存在→景行天皇が仮宮を作って長く滞在して妃を迎える
南部→奈良時代に至るまで独自性の強い地域(熊襲か?)→景行天皇の主敵
考古学的な動きと景行天皇の遠征経路が重なって見えて興味深いな
こうして考えると神話は歴史的事実を伝承として伝えている物だろうと理解することが出来る
全部が全部真実を反映しているとは言えないが多くの情報が含まれていると分かる
>>413 全国に銀座があるようなものか
憧れの地ヤマトにあやかろうと
>>417 という事は卑弥呼の前後では九州北部が勢力を誇ったって事か
となると大まかに分けて九州勢と近畿勢が争ってたのか
まぁ邪馬台国も九州説と近畿説になってるけどw
>>341 >>魏志倭人伝によれば、邪馬台国は7万戸
>>1世帯4人とすると28万人
魏志倭人伝の人口に関する記述が本当だとすると邪馬台国は日本はもちろん世界有数の
巨大国家だったことになるんだよね。
銅鐸については勘違いしてる人が多いがその変遷については地域によってかなりバラツキがある
よく「突然消滅して鏡に変わった」とか誤解してる向きがあるが全然違う
特に大和ではかなり早い段階に銅鐸を放棄してる
鏡が出現するようになるのはこれから200年以上は経過した後の事
他地域でも銅鐸の祭祀が次第に廃れてから暫くたって鏡の時代になる
鏡の民族の征服だとか何とかいうような話には全くなってない
鏡の祭祀によって東征や九州勢力の拡大とはなり得ないのが分かる
>>421 卑弥呼の時代の九州北部は奴国(博多)が大きいようだが、伊都国に邪馬台の一大率(遠征軍駐屯地)がいる。
北部九州は後の筑紫館みたく、邪馬台の出先機関みたいな感じになってるな
>>417 銅鐸文化とかいつの時代の古い知識で話してんだ?
>>425 ?
大型の銅鐸文化は九州でも畿内でも廃れて、鏡がメインの文化に変わってきてるだろ?
一部の神社などでは馬鈴として残ったりしてるが
>>365 はいはい、自演自演w
考古学を勉強したり、仕事にしている人間なら極々常識なんだが
素人にはわかりようもないから自演に見えても仕方がないな(苦笑)
>>374 意味不明w
突然妄想で難癖を付けてくるのは勘弁して欲しいなあw
持ち込まれた鉄製品を根拠に傘下がどうたらという話をしているのであって、製鉄の話なんか誰もしてないよw
>>375 それも妄想であって、考古学的な根拠はまったくないよ
モバイルなので、IDが変わってるけどID:epWxgRL10ね
>>426 本居宣長が邪馬台国を大和朝廷と同一視させたくないからワザと南方読みしてそうなってる
それまでは邪馬台国と大和は同じものであると言う認識が普通だったが、
国学者の宣長にとっては朝貢してた卑弥呼が大和朝廷と同じであると認めたくなかった
だからヤマトを僭称した九州の女酋長だと言う説を出した
位置論争のある意味火付け役
>>430 本居宣長だって魏志倭人伝を何回も読めば自ずと九州説になるよ。
>>422 日本列島はいつの時代も巨大国家だよ
たまに谷間はあるけどな
>>422 雨が多く四季があり、気候が農業に適してるから人口は多かったんだろう
朝鮮半島は荒れ地ばかりで何も無いと記紀でも嘆いてるくらいだし
>>424 調べてみたら伊都国は関所みたいな機能をしてたんだな
>>430 邪馬台国ってヤマトって読むんじゃないの
素人的には邪馬台国がまんま大和政権に繋がったと思ってたけど
つーか陳寿のおっさんが場所とか論争起きるまでもなくちゃんと書いてればよかったんだよ
誤字脱字書きミスしてたんじゃないのほんと
大和政権の首都は桜井市の纏向遺跡と決定しているよ
うだうだ今頃何を言っているんだと思うね。出土物が素晴らしい
桃の種が大量に出土した、要するにグルメだったんだ、クソ田舎の
九州では桃のような高級グルメなど食った事が無かったはずだな
>>430 実際、日本国王と名乗って明と勘合符貿易してた
大内とか細川とか居たからな
たまたま両者が寧波で鉢合わせして
明の役人からどっちが本物?
って訊かれて
儂らが日本国王じゃああ!
って寧波で合戦始めた位だし
邪馬台国が勝手に倭国王を名乗って
魏に朝貢して、大和朝廷から九州征伐されたから
九州には弥生時代の遺跡が消滅したんだよ
>>426 原文は台与じゃなくて壹與な。
読み方がわからんから便宜的に適当な漢字あてただけ。
>>430 原文は邪馬台国じゃなくて邪馬壹國な。
読み方がわからんから便宜的に適当な漢字あてただけ。
九州の豪族が勝手に倭国王を名乗って魏に朝貢
大和朝廷から九州征伐され消滅
とすると、色々な疑問点がクリアになる
>>436 大内氏の場合は百済王の子孫を自称していたな
あと、島津も新羅の子孫と名乗ってたが
弥生時代の日本列島の人口は約60万人らしいから、「邪馬台国」は地方国家だろうね。
倭は公孫淵に使者を出したはずが公孫淵が滅んだ時に到着したために
司馬懿が即位間もない曹芳への使者だと取り繕うために洛陽に案内したという説の方採りたいな
行程がはっきりしてないのもそこらへんが原因かと
>>390 え?そんなのあるの?
無料?
徐福ラーメンなら食べた
>>430 史料批判は結構だが、簡単に方便だとか意図があったとか談ずるのは賛成しない。
それこそ神を信じない現代人の発想だからね
現代の倫理観や発想で古代を読み解こうとしてはいけない。
俺も神武東征には疑問を持っている、神武東征だけでは無い、日本武尊の関東征伐も
大嘘だし、南九州の熊襲征伐もあり得ない話と思っているよ。
>>445 考古学会の最新学説は邪馬台国関東説らしいな、まず間違いないだろう
>>394 帆が無きゃ進めないとなると風待ちが発生する。
数週間あるいは数ヶ月待ったという記録が何処かにあった。
元寇の時代ですら風向が合わないだのどうたらといってる記録が残ってる。
>>440 弥生時代の初期なら約60万人だろうが
卑弥呼の時代なら300万人以上は居たはずだよ。
俺の私有地から遺跡が出ても絶対に言わない
発掘費用が土地の所有者負担てのが納得出来ん
>>430 陳寿「ちゃんと書いてるのにお前らが好きなように曲解してるだけやん」
>>440 その60万人は弥生遺跡一万ヶ所の密度から
推計したもので、現在は4万ヶ所が
報告書で報告されている。
更に記録になっていない未発掘のものが
この十倍はあると言われている
根本的に推計をやり直す必要があると思うけど
単純に考えれば60万人の4倍はいるわけだ。
>>444 俺も神武は半島人だと思ってる。
何故なら兄貴が新羅王だからだ。
そもそもこの一族は倭人ではなく半島からの山陰に移住した渡来人勢力だろう。
>>352
新唐書によれば、皇室は神武天皇の代までは筑紫城に住んでいたことになってる
それが事実かどうかは分からないが、少なくとも当時の倭人が中国にそう説明していたのは間違いないだろう
そして神武天皇は4人兄弟の末っ子
新唐書日本伝
其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、
皆以「尊」為號、居筑紫城。
(訳)そこの俗は女が多く男が少なく、文字があり、仏教の教えを尊ぶ。その官には十二等級がある。王姓は阿毎氏、自ら言うには、
初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 唐書の記述は日本書紀をそのまま採用して書いてるだけの事
天孫降臨の後に瓊瓊杵尊が「筑紫の日向の高千穂の峰」に降りて三代の間そこにいた伝承を記載してるだけに過ぎない
東征の証拠でも何でもない
その後の記載を見れば記紀の物語と代々の天皇の系譜にそのままつながって書いてる事からも明らか
神代からその後の日向三代の時代の神話を中国側が採用して描いているのが記事を読めばわかるようになっている
またその記事は途中のアメノタリシヒコたる用明天皇も系譜に載せているので、中国側は畿内の政権が断絶なく継続しているという認識を持っていることが分かる
そうなると隋書のヤマトと魏志の邪馬台国が同じと言う記事がそのまま畿内を指して書いていると言う事が分かる
目の前の事実に屁理屈こねて否定ばかり
キナイセツやっていくのは大変だね
どうせ捏造遺跡だろ そもそも日本に独自の古代文化など存在していない
例のゴッドハンドの一件以来 従前の日本古代史などというものはすべて否定されてしまった
古代日本の成立の実態とは8〜9世紀ごろ朝鮮半島から渡来したいわゆる「高麗神族」が
それまで文字も道具も言語も持たず火すら使えなかった倭原人を領導して
日本を建国したというのが現代の世界的共通認識であり
それ以前の遺跡遺物や伝承のたぐいはすべて偽物偽史だとみなされている
>>428 キナイコシっていつもワンパターンのレスしかしないし、その度論破されて面白い
土器がぁー
末盧国から東南がぁー
副葬品は前方後円墳の一要素だぁー
いちも5chやってるけど、そういうキナイコシは
働いてるの?
>>380 じゃあなんだ4,5世紀の記紀の話は全部九州の出来事だと言いたいのか?
なんで安曇氏や宗像氏は黙ってるんだよ
そんなウソ付かれて
まあ、聖徳太子でさえ、
畿内の厩戸皇子さんと
九州のアメタリシヒコさんの
合成と言われてるからな。
隋との交渉はアメタリシヒコさんのほうだろ。
邪馬台国は古代中国亡命人政権で
福岡県の小政権
バカ過ぎ
>>463 記紀が創られた8世紀は天皇の力が強大だったから誰も何にも言えなかった
記紀以外の歴史書や文献は焚書された。
>>394 始皇帝の時代から中国の船は現在も使用されているジャンク船というやつだよ
隔壁構造で接着剤は米+セメント+漆を使っていた
帆も付いていたよ
>>468 ジャンク船は前漢の時代に東南アジアから伝播してきた技術
>>407 筑紫の日向が出発地点という説もあるしこの辺はなんとも言えんけど、中国に行った使者がわざわざ「筑紫から奈良の大和に引っ越しました」と自己紹介してるから、何かしらあったんじゃないの
ほとんど九州北部が当てはまるのに、いきなり近畿に飛ぶのは無理がありすぎるよなあ
畿内説(笑)はわざとその事実を無視しているのが笑えるわwwwww
>>388 1975年に角川春樹が企画して、野生号で渡海実験をやったが
失敗した
本来は洛東江の流れを使って対馬へ渡る予定だった。
だが計画を知った釜山市が、出発式をうちでやりたいと申し入れて
出発点を釜山の港に変更。
これが失敗だったと当事者は語っていた
先日、北九州か畿内かのスレあったけど、
素人目には権力並立してて、魏志における邪馬台国とやらは北九州でしょって感じだなぁ
>>456 自己レス
日本書紀ではなく王年代記
宋史にそのことについての詳しい記載が載っている
この書物の献上された時期を見ると新唐書でこの本が採用されそれまでにない神代の話が加わったと分かる
ここでも魏、晋、宋、隋を通じて使節が来ていると書かれている
この認識は北史等とも同じ
中国は王朝の断絶などを認識せずに魏からこの時代に至るまで日本の政権が継続してると理解している
その上で、都の位置も使節の往来をしている事から当然認識しているので畿内にあると分かっている
>>476 もういいんだ
もう終わったんだよ
明日病院に行きなさい
ゆっくり休んでそして真面目に働こうな
ちなみに宋の太宗は日本の天皇は長らく皇統を維持しいることに感心している記事が載っている
この事からも列挙されたアメノタリシヒコの系統が途中で断絶を見ていないと認識しているのが分かる
そして日向についてはその後に日本の令制国の名前を列挙しているので混同はしておらず日向はそのまま日向であると分かる
筑紫の日向とはそのまま宮崎の事を指していると理解できる
倭人伝の球磨国に滅ぼされたのが
邪馬台国
朝貢外交はヒミコで終わった
奴隷を贈ったヒミコをありがたがったの多い
シナチョンのワイロ外交は古代からで
アベチョンも同じ
>>445 丹を体に塗るという話を聞いて、邪馬台国は群馬かもしれないって思うようになった。
古墳時代の化粧って丹塗りまくってて不気味だけど、これをみるとわりといけてる気がしてくるw
古事記と日本書紀の原本は無いんだよ。わけわからなくなってる。
わずかな可能性で残ってるとしたら国立国会図書館には皇室関係者か特別な許可を持った者しか入れない特別区域がある、おそらくそこだろうな
>>14 松本清張が文句つけてたで、距離一緒のわけねぇだろってw
>>485 写本で一番古いもので名古屋の大須観音にある南北朝時代のもの
なぜ平安時代のものがないんだろ
狗奴国は弁辰の狗邪韓国属国で半島から南下し吉備を作った勢力だろう。
後漢書には邪馬台の東の海を渡った場所とあり、正に吉備であり九州へ入り込み邪馬台の南方から攻めていたんだろう。
纏向は吉備の支配した場所であり畿内は狗奴国といえよう。
>>488 源氏物語ですら、平安時代の写本て絵巻の断簡のみ
まあそういうことだ
>>488 貞観8(866)年応天門の変、延長8(930)年清涼殿落雷、天徳4(960)年内裏焼亡、特に村上天皇の天徳4年の内裏焼亡により、三種の神機の八咫鏡が焼亡したそうですから何回かは焼けているでしょう
ただし古事記日本書紀が焼失した記録はないはずです。
学者の説で、前文に13世紀以降に使われた日本語表示が有るので、
前文のみ13世紀に追加した説
古事記全てが13世紀に作られた説があります。
でも13世紀に複写した時に見ていた物は発見されていません
>>485 どんな物に記したんだろうね。竹、皮、紙、粗絹?
>>488 鎌倉だと思ったけど、南北朝時代か。
南北朝の正統争いで、弱い方の南朝側が各地の有識者に写しと解釈を配っていたんだろうな w
平安時代は、他国との民族葛藤が無くなって、歌などの文学と仏教が主流になるから、歴史は教養としてあっても出世には意味が無かったんだろ w
>>492 万葉集の一部に関しては木簡にかかれたものが見つかっていますが
初期の段階では木製の板も利用しましたが、8世紀以降、紙の量産が確立すると紙が普通に使われる様になります
紙づくりの製法は日本書紀によると西暦610年朝鮮の僧がその製法をもたらしたとされています。 それ以前にも、福井県越前では漉かれていたなどの説もあるので、和紙の起源については諸説あり
原本は紙。小役人の記録とかは木簡で併用だと思う
邪馬台国近畿説の人達は以下の文章を読んでどういう感想を持つのかな。
奈良の稲作の始まりは唐津の菜畑遺跡より400年ほど後と判明。
倭人伝には、倭人は鉄の鏃を使うと記す。
鉄の鏃は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍の鏃が出土する。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、
畿内よりも九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。
刀子は日常的な用途のナイフ・小刀のことで、出土数も多い。
刀子は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県では210本も出土したのに、奈良県では1本も出土しない。
倭人伝には、倭人は養蚕を行い絹織物を作っていたと記す。
絹は、畿内よりも、九州からはるかに多く出土する。
奈良県に比べると、福岡県は圧倒的に出土地の数が多い。
倭人伝には、倭人は兵器に矛を持つと記す。邪馬台国の時代には、青銅器は、 広型銅剣のようにすでに祭器化しており、実用的武器としては鉄矛が使 われたと考えられる。このころは、刀も、鉄製であろう。
万葉集には九州王朝のことが巧みに隠されて詠まれているらしい
まことに興味深い
柿本人麿の官位がおかしいとかも九州王朝の官位だとすれば解決
吉野ヶ里遺跡には縄文遺跡と弥生遺跡があるから縄文海進の時も陸地だったと言う事
だろうと思い吉野ヶ里遺跡の海抜を調べたら標高9mだ。標高8m以下地域は
海の中だったんだろう。「黒岩前田遺跡」の標高はおよそ10mだから松浦川の
すぐ横に集落があったんだろう。
しかし中国は凄いな
秦朝末、一介の農民が「王侯将相寧んぞ種あらんや!」と叫び、悪逆な王朝に乾坤一擲の戦いを挑んでいた頃
ジャップ島のお猿さんたちは日がな一日ドングリ拾って食っていたというのに
周辺国をみれば邪馬台国は分かる。
斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、
華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国
>>500 古代の先進地域は西アジアだよ。
メソポタミアは偉大なり。
国性爺合戦とかもあるし、古代にも似たようなことあったろうね
神武即位の干支と言われる辛酉の年の革命の原典は中国文献に見出せず900年頃になってから三善清行が作り上げた俗説である可能性が高いです
>>147 唐の成立は7世紀だからあんまり関係ない。唐津って名前自体は室町時代からみたいなのよね。
福津市の勝浦がもともと万津浦でこっから筑豊横断して行橋から船出して投馬とか邪馬台国へ。
宮地嶽神社の勝村大神の勝は松だったって話もあって宗像辺りが松村国だったとか。
>>505 太安万侶の墓碑が見つかり、編者の実在性が確認されるに及んで勢いがなくなっているけど
古事記偽書説(年代が新しい時代に書かれたのではないか)というのが古くからあり、賀茂真淵が主張してたよ
>>500 ドングリは拾っただけじゃ食えんぞ
穴を掘ってな土器を埋めて水に浸して灰汁抜きをした
まチョンならこのままで食ってたかもね
>>510 魏志倭人伝偽書説ってのももちろんあります
新羅本紀が事実であれば、
倭国は卑弥呼の後も絶えず半島に出兵しているので狗奴国に滅ぼされたというのはない。
松浦は現在は「まつうら」と読みますが、『万葉集』(8世紀)では「麻通羅(まつら)」や「麻都良(まつら)」とし、古代では「まつら」と呼ばれていた事がわかっています
末盧国は松浦で決まりだと思う
>>440 邪馬台国は7万戸。1戸5人とすると35万人だから、決して小国ではない。
>>516 松浦党もはじめは御厨が中心だったみたいね。上下に分かれてからは岸嶽(唐津)平戸の方が栄えたけど。
>>514 偽書以前に、記述が正確かどうかが問題
なんでそのまんま信じるんだよって思うw
>>518 上松浦の松浦党は嵯峨源氏の渡辺綱の子孫だと主張
下松浦の松浦党は陸奥国の安倍氏の子孫と称しました
>>520 内容と言えば古事記は神話扱いで済ますとして
日本書紀は齟齬だらけ新
羅本紀の記述は新羅にとって都合の悪いこと(倭人に攻められている)が書かれてる
そのあたりは事実でしょう。日本の記紀と同様に「史実」であっても「時期」は怪しい
魏志倭人伝に倭国大乱というのが記されているいるが、たしか後漢の恒霊の間とか。
2世紀後半のことらしい。
面白いのはまさにこの時期に考古学で言う高地性集落という遺跡が激増している。
高地性集落の分布は主に瀬戸内〜近畿。
倭国大乱との関連を誰でも疑う。
また、卑弥呼は概ね3世紀前半の人らしいが、この時期に突然銅鐸が作られなくなる。
一体何があったのか?
銅鐸が使われなくなるのは地域による時間差がかなり大きく出ている
銅鐸は東海に中心を移しつつ緩やかに使われなくなっている
鏡の副葬が始まるのはそれからしばらく経ってから
良く勘違いされるような突然の消滅も、突然の鏡の出現もない
特に大和で銅鐸が使われなくなるのはかなり早い段階になっている
弥生時代の後期の早い時期には銅鐸を放棄している
ここから鏡が副葬されるようになるまで実に100〜150年くらいはかかっている
そして銅鐸は近江や東海に中心を移して盛期を迎えたのちに緩やかに消えていく
この動きの中に鏡と銅鐸の戦いのような図式は見えてこない
弥生時代の遺跡から銅鐸が多く出土するのは「畿内」を中心とする地域
銅矛が多く出土するのは「北部九州」を中心とする地域
【大和朝廷は銅鐸を知らなかった】
つまり大和朝廷は弥生時代に畿内を支配していた勢力ではないということになります
銅鐸が文献上に初めて登場するのは日本書紀の天智天皇記で「土の中から変なものが出て来た」とあります
つまり奈良時代にはすでに銅鐸は日本人にとって正体不明の物体だったのです
>>521 という事は平戸松浦家は(自称)安倍系と言う事ですか。
これは良いこと聞けました。ありがとうございます。
銅矛と言えばむしろ北部九州の銅矛の廃れ方の方が興味深い
銅矛は集落に埋納されるために年代決定が難しいが、
弥生時代の後期後半くらいに急激に使われなくなり破鏡や?製鏡の祭祀に取って代わられる
一部、対馬のような地域で特殊な形で残存することになる
弥生時代中期から後期に至るまで主流の祭器だった銅矛の使用法の変化はそれこそ時代の急激な変化を示していると考えられる
銅矛を独占的に生産していた福岡周辺勢力の在り方が大きく変容したと思われ興味深い
>>528 「姓氏家系大辞典」三巻で陸奥の安倍氏「肥筑の安倍氏」の項目に、鎮西要略に奥州夷安倍貞任の弟宗任、則任俘となり、宗任は松浦に配され
則任は筑後に配せらる。宗任の子孫松浦党を称すと載せたり。宗任の配所は小鹿嶋なりと伝ふるも詳かならず
晋太郎は「安倍宗任の末裔なんだよ」と言っていたが根拠は言わなかったし松浦姓じゃないのも怪しい
>>531 宗任は筑前大島じゃなくて?
宗任の長男が秋月、次男が薩摩、三男が松浦三郎大夫実任で、傍系が安部で宗像で増殖したと思ってた。
>>532 すみません。松浦→筑前大島です
宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁昌して今にあり。松浦党とはこれなりからの流れで、ごっちゃに書いてしまった
>>535 都という漢字が好古都国や都支国にも使われてるのが疑問
倭人伝でも、「女王の都する所」と、みやこの意味で使ってるし
蜀の首都は成都。首都の意味があるはず。
伊都国に使ったのは、そこにも王がいるからだとすると
他の都にも王がいたのか。
それにしても、安売りしすぎの気もするが
そんな大した意味はなく、同じ発音に単純にあてはめたってところなのか
当時の日本人が文字も使えない土人だったからこんな面倒なことに
>>540 あえて悪い漢字をあてるのが中華思想じゃないの
>>542 魏志倭人伝と言うのは魏志東夷伝の中の倭人について書かれた部分ですから(他に魏志韓人伝みたいなのもある)
魏に朝貢してきた卑弥呼、邪馬台国にはマイナスイメージの漢字は使用してる。周辺国の国名までに重複させる必要は無いのです
>>517 古代中国のプロパガンダを真に受けるなよ。(-。-)y-゜゜゜
>>535 現在の日本の発音ではある地域名と似ているから同じに違いない
単なる馬鹿ですなw
>>545 好古都国(博多)の隣の不呼国は、福岡だな
台をタイと2音で読むのはおかしい
という説があるが、すると末もマツと読むのはおかしいのか
古代出雲人の人骨をDNA解析し、そのルーツを探るプロジェクトが進行中です。
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興味のある方は是非ご支援頂きたく存じます。
日本人はどこからきたのか?
出雲の猪目洞窟遺跡の人骨から、その謎に迫る。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990 縄文〜弥生時代の遺跡が広範囲に超大量に出たところが邪馬台国
田中英道「慰安婦・南京大虐殺も魏志倭人伝と同じ捏造だ」 日本国史学会第四十八回講義
田中英道★邪馬台国は存在しなかった衝撃の真実を暴露!卑弥呼という漢字に隠された秘密!20171110 中山恭子
【武田鉄矢】※衝撃※ 邪馬台国の常識がひっくり返る!
【武田鉄矢】邪馬台国はなかった!※ひっくり返る壮大な話※
>>539 しかし壹という字は国府や官庁のような意味も持ってるよ。
>>541 603日本@名無史さん2018/10/17(水) 20:31:57.19
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰
>文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
当時日本列島の日本人達は文字を扱えなかったみたいだけど
魏志倭人伝には倭人は文書を扱ってたことを記録されてるから
邪馬台国は文字を扱って文書を作成する行政文化も存在してたみたい
>>552 「臺」がだろ
陳寿が著した文章の中でも「壹」は数字としてしか使われない
>>224 117ヘクタールは吉野ヶ里遺跡公園の面積だろ。(-。-)y-゜゜゜
>>455 末っ子が王権を取るってのはギリシャ神話と同じだよねえ
>>548 あちらの(末)の古代音はmat(マッ1音節)みたいな発音だと思う
>>466 天皇は自分の地元の九州を蛮族あつかいして何がしたいのか分からんし
実際、九州に蛮族がいたんだろう。(-。-)y-゜゜゜
江戸時代の徳川将軍家だって徳川家康の故郷・三河国を特別扱いしなかったらしいぞ。
大規模な噴火による火山灰で住めなくなって東に移動したんだよ
地層は語る
ワシの先祖は百済系帰化人らしいが、ワシに先祖の祖国・百済を慕う気持ちはないな。そんなもんだろう。(-。-)y-゜゜゜
確かに祖国崇拝なら、ちゃんとどこから来たと言うべきで天から来たとは言わんかもなあ
しかし九州から来た年代を詐称する理由は分からんけど
>>564 へぇ。クダラノコニキシさんですか?
まぁ故地では、言うてはなんですが、差別されてますよね(全羅道)。
年代詐称は単に良い年を先に選んで
そのタイミングで神武天皇が即位したことにしただけだぞ
>>567 何百年も前の事を年代詐称するなら良いよ
100年前のこと詐称したら一発でばれるじゃんか
今で言うなら明治天皇は東京じゃなくて京都に居ましたっていうようなもんだよ
すぐばれるよ
>>100 それ以前にもアヒル文字みたいなのが普通にあったけどな
偽書倭人伝にこだわる意味がわからん
>>572 日本書記・古事記って辻褄が合わないとこだらけだし原本自体が無い
九州の影を消してる
>>571 ばれたらいけないなんて思ってないんでしょ
>>147>>509
もともとは加羅
唐をカラと読むのもその名残。加羅物とは外国産品全般を指す。
末盧国って特定されていなかったのか!
末盧国=松浦だから、ほぼ唐津のこの遺跡で確定だろうね。
ちなみに、唐津駅前はフランシュシュの聖地。
途中まで北九州・対馬の地理を詳しく書いていたのに、
そこから当時の大都会吉備や出雲すっとばして
奈良盆地まで途中経過省略とかおかしい
常識で考えて、邪馬台国は九州
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