◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
【歴史】三国志「呉の皇帝」孫権は、邪馬台国の女王・卑弥呼がいる日本(倭国)を攻めようとしていた? ★3 [樽悶★]->画像>5枚
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上永哲矢(歴史著述家・紀行作家)
2世紀から3世紀の日本列島に、倭国の女王・卑弥呼(ひみこ)が住む邪馬台国(やまたいこく)があった。その最盛期は、ちょうど三国時代と重なる。卑弥呼は、曹操や劉備たち三国志の英雄とほぼ同時代を生きた人物だった。
238~239年に卑弥呼は魏へ朝貢した。それ以後、魏と倭の間に使者が往来し、卑弥呼には「親魏倭王」の印綬や、「黄幢」(こうどう)という旗印が贈られ、魏の後ろ盾を得るなど、浅からぬつながりを持った。
(省略)
229年、孫権は帝位につき、呉の皇帝となった。魏と蜀に遅れること8年から9年後である。翌230年、孫権は将軍の衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)に武装兵1万を与え、東の海に船出させた。史書によると、皇帝になった孫権が真っ先に実行したことがこれだ。
その目的は、夷州(いしゅう)、亶州(たんしゅう)の探索である。陸遜伝によれば、孫権はこれらを占領したいと考えていたという。結局、諸葛直たちは1年あまり海上をさまよったが、ついに亶州は発見できず、夷州から数千の住民をさらって帰ってきただけ。それと引き換えに疫病で八千人以上もの兵を失っていた。※陸遜伝・全琮伝には亶州ではなく珠崖(海南島)との表記がある。
亶州を発見できなかったという罪で、孫権は両名を獄に入れて処刑した。が、ひどく後悔したという。出発前、陸遜(りくそん)と全琮(ぜんそう)が派兵に反対していたからだ。「いま遠絶の地を得る必要があるとは思えません。慣れない風土で兵は疫病にかかるし、そこの住民を連れ帰ってきたって役に立ちませんよ」と・・・。はたして、その通りの結果になった。
そもそも、夷州・亶州とはどこだったのか。これには諸説あるが、夷州は台湾、亶州は倭(日本列島)の何処かとみられる。沖縄や種子島という説もあるが、ここでは亶州=日本の九州などにあったとする前提で進めたい。
孫権の目的は何だったのか。呉主伝で述べられるように「亶州は東の海中に在る」ことは、古くから知られていた。三国時代より400年ほど前、秦の始皇帝が方士の徐福(じょふく)を東へ遣わし、蓬莱(ほうらい)の神山と仙薬(不老長生の薬)を求めさせた。
しかし、徐福は蓬莱の地にとどまったまま帰らず。そのことは『史記』に記され、広く知られていた。また後漢のはじめ、西暦57年には朝貢してきた倭王に対し、光武帝が「漢委奴國王」(かんのわのなこくおう)の金印を贈っていたことも史実としてあった。蓬莱(亶州)の民とおぼしき人が会稽(呉)の海岸に流れ着いたり、逆に呉の人民が亶州へ流れついたりすることが、幾度かあったという。
呉帝となった孫権が「よし、おれが見つけてやろう」と思っても不思議はない。このとき孫権も齢49。ちょうど始皇帝の没年(50歳)を迎えるころで、寿命が気がかりだったろう。武装兵を派遣したのも、民が抵抗すれば武力行使も辞さぬ覚悟と将軍たちに言い含めたかもしれない。
しかし計画は失敗。それでも孫権はへこたれない。「東がダメなら」と、北方の遼東を支配する公孫淵(こうそんえん)に使者を送り、服属を迫った。さらに、呂岱(りょたい)に命じて交州を平定させる。すると南のカンボジア・ベトナム地方の勢力(扶南・林邑 ・堂明)が、貢ぎ物を献上してきた。
公孫淵の取り込みは失敗に終わるも、孫権は遼東・朝鮮半島へと勢力を拡大する姿勢を見せていた。並々ならぬ領土的野心は、やはり三国の一角を統べた主にふさわしい。亶州(倭国)の所在がハッキリしていたなら、さらに兵を遣って支配も望んだのではなかろうか。征服はせずとも朝貢を受ければ魏への対抗手段にもなったと思える。
なお、呉の記録に「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在が出てこないのは、その呼び方があくまで魏側の記録によるものだからだろう。呉の史官や孫権が、それらの存在をどこまで知りえたかは闇の中である。
(省略)
ところで、現在の日本に呉とのつながりを思わせるものがあることをご存じだろうか。それは安倉高塚古墳(兵庫県宝塚市)の石室から出土した銅鏡。その鏡に「赤烏七年(244)」という呉の年号を示す銘がある。
卑弥呼が魏に遣使したのは魏の「景初3年」(239)で、ほぼ同時代。孫権の存命中でもあり、やはり呉も倭に存在した国々のどこか(邪馬台国ではない)と接触していたのかもしれない。(以下ソース)
2/25(火) 16:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/9a51189ebd421b2b10b1501d5053e07e39c34290
★1:2025/03/01(土) 07:41:54.22
http://2chb.net/r/newsplus/1740866854/ 日本史なんて明治時代に作られたファンタジーだろ
意味あるんか?
魏志倭人伝なんて創作文でしょあれ
邪馬台国なんてないよんなもん
グアムの事件当時の嫌儲板の書き込み↓
5 名前: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 投稿日: 2013/02/13(水) 06:34:14.26 ID:rDhnaCQo0
ジャアアアアアアアアアアアアアア!!!!
12 名前: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 投稿日: 2013/02/13(水) 06:36:25.66 ID:ID3gOZ4BP
14人中13人が日本人って世界からどんだけ恨みかってんだよ
25 名前: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 投稿日: 2013/02/13(水) 06:39:08.66 ID:difD5QPf0
ネトウヨざまあああああwwww
飯が旨いwwwww
32 名前: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 投稿日: 2013/02/13(水) 06:40:44.83 ID:mw12vDtV0
ジャップ逝ったあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
53 名前: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 投稿日: 2013/02/13(水) 06:44:12.20 ID:1/E1F+Hz0
まーたジャップが海外で人を怒らせたのか
66 名前: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 投稿日: 2013/02/13(水) 06:46:58.48 ID:hcAbb0aR0
ジャップが死んで飯がうまい
清清しい朝だは
68 名前: 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 投稿日: 2013/02/13(水) 06:47:06.15 ID:difD5QPf0
まあこれは犯人しょうがないわ。
猿顔のジャップが歩いてたらついやりたくなるのもわかる。
>>57だよな。マジで安倍とその信者はちょっと頭冷やしたほうがいいと思うわ
ま、冷やす頭もアホウヨには無いだろうけどなwwwwwww
983
>崇神天皇は3世紀と言われてるが、天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出したり大田田根子を探し出して大物主を祀らせたり
その物語は、阿波国の美馬地域での話な。 美馬の地に、崇神天皇の宮があったのだろう。 @阿波
魏が45年しかないとか行っても仕方ないだろう。
事実上魏と晋はそのままスライドしただけの国家
そもそも魏の半ばの時点ですでに曹族は、皇帝の座に座ってるだけの存在。
分ける意味すら感じない
あー ヤマタイネタ 復活してんじゃん 俺の唱えてた呉説も出てんじゃん(^▽^)/ みんなー 楽しもう
日本古代史の真相
第一章
3世紀中国大陸で呉が滅亡 > 呉の神武軍が大船団で北九州に上陸 > 邪馬台国壊滅的崩壊、台与戦死 > 邪馬台国人は南九州へ避難(熊襲爆誕)
第二章
神武北九州から進軍 神武東征 > 道中ジャップ輩なぎ倒すが生駒で奈良の葛城王朝に手負いにされる > 裏切りの八咫烏に導かれて熊野から奈良奇襲襲撃トラトラトラ > 葛城王朝滅亡(土蜘蛛爆誕)
第三章
4世紀~6世紀 神武の子孫ら奈良に王朝を作る ヤマトタケル残りの熊襲(邪馬台国)完全討伐 大和朝廷爆誕 出雲は恫喝で国譲りw
第四章
8世紀
『日本安定よかったね! そろそろ俺らも文化残して古事記とか書いてみる??』
『いいねー 魏志倭人伝に書かれた邪馬台国 って知ってる?』
『知ってる・・・天ちゃんが滅ぼしたやつや・・・・』
『うーん 熊襲にしとけって 継体天皇で背乗りでBC600起源なw 盛れ盛れってwww』
なぜ呉なのか?
そのヒントは 呉服 と 呉音
呉服は中国から呉から機織り機と工員を輸入したとされるが嘘だろ
出雲関わってなくて、神武軍が機織り女工も船で連れてきたのだろ
女工がいた場合簡単に混じりやすいしなWW2戦後史みても
そして呉音、後の漢音に入れ替わっておらず呉音が残ってるのが特徴
呉音は中国呉の国の言葉
例 明 呉音ミョウ 漢音メイ
俺達は滅んだ呉の末柄 神武天皇は呉人 背乗りジャップランド!
台湾じゃなかったっけ?陸遜とかにダメ出しされたけど、ゴリ押しして失敗した
負けまくって滅ぼし合いや他国に攻められてばかりの中国
時代が変わっても数度のアヘン戦争アロー戦争に一度も勝てた試しがない
魏志倭人伝
男子無大小、皆黥面文身。
其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒
入れ墨したのは縄文人。黥面埴輪(入れ墨した埴輪)に以下のような認識がある。
○黥面は近畿地方で弥生時代後期から古墳時代まで消えずに残り、黥面埴輪成立の母体となった
○5~6世紀の近畿地方の黥面埴輪は、あきらかに身分の低い人々と理解される。したがって、3~5世紀のどこかで近畿地方の上層部では黥面に対する禁忌が生じていたことになる
明らかに邪馬台国が歴史から消えた直後の大和朝廷で文化認識も入れ替わってる
スマソ 古代ジャップ 俺等4世紀中國出身で背乗りしたわ ↓DNA
i.imgur.com/ashswWn.jpeg
>>1 オットーだろ?
呉の王様
日本側に記録あるぞ
おおよその年表仮定
卑弥呼没 248年
台与魏遣使 266年
第一次神武呉寇 台与没 269年
中国呉崩壊 280年
第二次神武呉寇 281~283年
神武九州王朝 呉機織り女工移民開始 283年~
神武東征 葛城土蜘蛛殲滅 301年~302年
古代ヤマト王朝滅亡 神武即位 大和平野に大和朝廷誕生 305年
継体天皇 450年 < 入れ替わり完了
雄略天皇南朝宋遣使 478年 < 入れ替わり外交措置完了
日本爆誕!
古代中国で中華統一後他国に積極的に攻め込んだりしたのは元くらいじゃね?
カザフスタンにドイツ人いて
カザフスタンの植民地だったのか?中国は
焼けた集落跡とか無いし倭国大乱があったとは言えない
出土品で考えんと
なんじゃこりゃ、中央アジア??
だけど
>>23 滅ぼされた国の残党はまぁまぁ追手を出されるだろ昔は
中國は呉の崩壊後たまたま晋も崩壊して、カオスの五胡十六国時代に突入して
島国ジャップの事なんてかまってられんし知らんというラッキーが亡命神武らにあったんだよ
そして記紀で出路をひた隠しにした それが日本の歴史の真相
邪馬台国は九州にあって古代ヤマト王朝は奈良にあったがワシらのご先祖様がやちゃったー(;^_^A
>>1 えー!金属ブーツ?!
草鞋に退化したわけ?日本は
>>2 卑弥呼が即位した2世紀末の時点で、ここには歴代の王がいた形跡はないし
伊都国や後漢・魏と公的な繋がりを示すものも出てきてないもんね
次スレ立ってた
邪馬台国スレに比べたら三國志好きの人も来て人が多くていろんなレスあるからこのスレの方が面白いよね
>>21 壹与の代で滅ぼされたか
分裂しちゃったか
>>10 去年出たくにおくんの三国志だよ満員御礼ではやまだ演じる曹操をトビオカ(テクノスが潰れた後にできた超熱血行進曲での新キャラ)演じる司馬懿が幽閉してて、そのドサクサの間に魏を晋に変えてたw
>>34 台与が戦死か知らんが、九州の土蜘蛛女王塚あるな(;^_^A
邪馬台国の残党は後の熊襲じゃないかなぁ
過大評価もいいところ 自衛隊が街のチンピラの駆除しに行くか?
魏の威光が遥かに東方にまで及んでるって自慢してるだけだから
書かれた距離からここだとかやってる連中はただのバカだよ
あんなの適当だから
中国人すぐ数字盛るし
孫権率いる呉の大船団が存在しない国求めて魏志倭人伝にあるようなデタラメな行程で進軍した挙げ句太平洋上で遭難して全滅する歴史見てみたかった
>>3 おまエラのウリナラファンタジーほどじゃないニダ
三国無双では孫権は一番穏やかなはずだからそんな事するわけない!
小学校の授業で意味もわからず覚えされされる「魏志倭人伝」「邪馬台国」
中学ぐらいで三国志に触れて劉備だの孔明だの覚えて楽しんでて
ふと、曹操の魏と邪馬台国の魏志倭人伝の魏は同じなのって気が付いた時の日本側の文明の遅れのもやもや感は何と言えばいいんだろうね
>>36 応神の頃に呉から機織りの四姉妹を連れてきたっていう
伝承があるようだ。つまり新しい技術で織った布を使った
服を呉服と呼んだと思われる。
ちなみに「呉」を「くれ」と読むのは、この時にやってきた
四姉妹の長女が「呉服(くれは)」という名前だったとも、
呉までの案内を頼んだ人が「クレハ」だったからとも言われて
いるらしい。
そうして広島県呉市は「くれ」という言葉が由来で、その
「くれ」に「呉」という漢字を当てたということのようです。
中華圏外は土人の住む土地だから特に欲しがらんと思うよ
>>40 猪名津彦命が呉の国より機織裁縫の技術を日本に伝えるため
呉服(くれはとり)綾織 兄媛 弟媛の本命を連れ帰り日本に絹織物の技術が伝わった
らしいよ
呉と交易があったの?? 当時は邪馬台国が日本の中心なら呉の敵国である魏と交易はあったのだよね 魏志倭人伝
輸入したの? 後付けの嘘っぱち 九州占領した呉の神武軍が機織り女工連れてきたとしか思えんwwww
やっぱ古来中国人にとって日の上る国は憧れの対象だったんやな
今のインバウンド見て確信するわ
>>1 >やはり呉も倭に存在した国々のどこか(邪馬台国ではない)と接触していたのかもしれない。
狗奴国かな?でもそれだと九州中南部からも出土しないとおかしいか
>>15 呉は呉でも孫呉じゃなくてずっと後の五代十国の呉なんだよなぁ
>>55 五代十国だと逆算すると遅いだろw
三国志の呉が滅んだ時280年に呉の主要メンバーは捉えられたか戦死だから
神武将軍公(仮)は誰かの方が面白いな
>>50 日本書紀の呉服伝説は応神の頃だから大体四世紀頃の話で、
三韓征伐の少しあと位の感じかな。単に半島にいた技術者を
連れてきただけのような気もする。
呉から日本列島に来るのはわりと楽で、黒潮に乗ってボケっと流されてるだけで来られる
逆は大変だが
戦乱期にはボートピープルになった呉越あたりの亡命者が相当数日本列島に流れ着いたと思われる
すでに平安時代の時点で読めなくなってしまっていた日本人
あと、そもそも呉まで縫工女を探しにいったとされる阿知使主と
その子の都加使主は、その17年前に半島からきた渡来人って書いて
あって、高麗に渡ったところで道がわからなくて高麗王に頼んで
「クレハ」「クレシ」という案内人を二人つけてもらったって話
だから、やっぱり半島の技術者を連れてきたってだけの気がする。
ついでにいうと、それ以前の応神十四年に百済から「縫衣工女」を
貰ったみたいなんだが、これが呉服の「縫工女」と同じ技術をもった
人なのか、素人ではちょっとわからないな。
>>62 ボケっと流されるってどれくらいの日数がかかるの?
その間、水も飲まないの?
>>64 高句麗の古墳もだろ?創価カラー
なんか関係あるのか?
まだやってんのかよw
お前ら三国志好きだな
この中に三国志オンラインやってた奴いるだろ
>>70 赤壁の戦いが208年で呉寇らしきものより80年近く前の造船技術でアレだし
黄海経て半島で物資援助あったら九州にいっぱいコレそだしw
>>46 そして高校でポンペイ遺跡を知ってトドメを刺されるw
>>77 知ってるよ 誰も鄭和しろとは言ってない
呉の敵国の晋は連舫という全長170mの川船要塞持ってたらしいしな
だから俺等はレンホウが嫌い?(;^_^A
倭国というか、東の海にあるという島国だろ
台湾や沖縄かもよ
>>78
>ダイソーで売ってそうなベルト??????wwww
飛鳥時代の倭(阿波)にもある。 @阿波 >>1 あの増税裏金大王あべ百田ニッポン背乗り協会NHKや安住淳(←朝鮮人という話。糞エラそう/息をつくように嘘を吐く;サイコパス)や
そうかトーイツ朝鮮(同和)維新第二アベ党/アベトプロレス野党(あれほど岸田さんに解散の誘導や内閣不信任ばかりやっていた)が、
親中(親朝親韓反米反日/リベラルハト派、安倍高市麻生角栄竹下細川橋本鳩山菅小泉玉木他も正体は同じ)石破が総理やってるのが
やたら嬉しそうだもんなあ
>>79 イイカラオマエハハヤクカエルカシネイキルカチノナイニホンノキセイチュウ
結局のところ台湾とか海南島とか東南アジアとか色んな情報がごちゃ混ぜになった伝説の島なんだろうな
>>78
>ダイソーで売ってそうなベルト??????wwww
飛鳥時代の倭(阿波)にもある。 @阿波 この当時の中国がもし邪馬台国を攻めてたら秒殺されただろうな
当時の中国にそんな大量の船と航海技術などありませんw
>>85 亶州は済州島(耽羅国)という説はあるね
中国まで交易しに行ってたらしい
簡単に蒙古に征服されたボンクラ中国の武将たちw
こんな弱い国の三国志なんて、アホらしくて読むのやめたわw
中国は元寇を義務教育で教えない
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/79354 ゴースト・オブ・ツシマで知った人も
そりゃあ元寇は中国にとって都合が悪い史実だからなw
まず中国が蒙古に征服されたという屈辱の歴史w
あと、蒙古の走狗となって日本を侵略しに行ったという、ぜったいに隠したい歴史w
孫権が高句麗と連携したって話もあるみたいなんだけど、当時の
高句麗の首都はおそらく今の北朝鮮との国境(集安市)あたり
みたいだから、孫権の使者は大陸沿岸を北上して山東半島から
大連にわたったんだろうかね?
>>95 そんなに悪意に解釈しなくても
元が世界中でやった局地戦の1つだから
中国史の中で占める割合が小さいだけじゃないの
元以外にも歴代王朝が領土拡大しているのよ
>>90 「項羽と劉邦」なんて紀元前200年頃なんすけど
>>42 自慢と牽制だわな
東の海の向こうに魏の傘下のそこそこの規模の国があるぜ、
そっちにも警戒しないとまずいんちゃうかぁ?みたいな
呉の国防体制を引っかき回すための策
記述を読むのは呉人であって倭人じゃないんだから
倭の状況を精確に描く必要なんて無い、テキトーでいい
だから読み解いたって意味は無いんだよなあれ
>>90 当時の倭国()はどう見ても辺境の地
そこで女王を共立しましたーと言っても、しょぼいイメージしかない
大陸から高度な技術を持つ集団が亡命してきてどこかに拠点を作ったら、さっさと政権と軍隊を組織して周辺の小国を平定したり従わせたりするだろうし
不安定な共立国なんて秒殺だと思うわ
>>102 嘘を書く根拠としては薄いと思うがなあ
敵に知らせないと味方を騙してるだけになる
>>102 > 呉の国防体制を引っかき回すための策
> 記述を読むのは呉人であって倭人じゃないんだから
魏の王朝に提出された東夷の報告書ってどれだけ呉人が読むのだろうか?
そんなスパイを牽制するような大嘘の報告書なんかだす?
公孫淵って遼東治めてた奴かw
司馬懿に滅ぼされたよなw
こいつが孫権に唆されて攻めてくる可能性もあったんだなw
ルートがよく解らないから諦めたんじゃないのか?
斥候を派遣してもなかなか行きつけなくて、帰ることもできなかったんだろ。
あと三国志は280年に晋が呉を滅して統一してから書かれたとされるが
呉滅亡後になってから晋の陳寿が欺瞞情報を書いたというのも有り得ないよ
なので呉を牽制した説は無いです
>>99 当時世界最大規模の船団が日本に攻めてきたのに局地戦はねーわ
山海經の地理が書かれているとこには
日本列島の存在は描かれてない
明日香に裴世清来てるのになんか軽視された
中国が日本列島の存在を知るのは新唐書1060年以降
>>100 歴史詳しいのかもしれないけどコミュニケーション能力はあまり高くないみたいだね
>>103 神武軍は秒殺で九州奈良占領したが、日本統治は景行天皇もジャップまだ治まらん何とかしろとボヤいてるし
日本武尊も途中で死んでるし古代ジャップ人も頑張ったと言えば頑張ったのじゃね?
関東方面まで殺した古代豪族封印神社あるし 香取神宮とかがソだろ・・
卑弥呼は燕が滅んで手を結ぶ相手は魏だと見極めたんだろうなあ
孫権は専守防衛タイプじゃないのか
海を越えて倭を攻めるとか考えにくい
先史〜古代の日本は途中で大陸の力量見極めて朝貢徐々に減らして最終的に切ったり称号製造マシーンとして使ったりして外交的な立ち回りはわりと完璧
きっと情報収集と政治的能力に長けた奴がいたんだろうな
>>116 結構好戦的やが魏がおるから迂闊に動けんってだけ
黄龍2年(230年)、衛温・諸葛直に兵1万を与え、夷洲と亶洲の探索を行わせた。
約1年後(231年)、諸葛直と衛温は帰国したが、亶洲へは遠すぎたため到達できず、
兵の八割から九割を疫病で失っていた。成果は夷洲の現地民を数千人連れ帰っただけであった。
>>121 実力を知っていたから関係を改めたわけだし
つまりその程度の軍事力しかないと読み切っていたわけよ
ぶっちゃけ古代の大陸は今言われているほどには強くはない
四方を敵に囲まれてるから強がって朝貢で服従させようとしているだけなのよ
中国の南朝・宋の歴史に、「倭の五王」が出てきますし、呉国から古代日本にたどり着いていた可能性は有りますね。
呉の正規兵数万人が、現地で疫病に倒れ、言葉の通じない異人数千人を、呉に連れ帰ったとか。
呉の遠征軍が、台湾か沖縄か九州のどこかには、たどり着いていたのでしょう。
呉みたいなどこの馬の骨かわからんやつの新興国が、
激動の時代に日本に攻めようとする余裕なんて無いだろ
>>116 合肥落とそうとして何度も撃退されてるぞ
>>113 ぜんぜん秒殺じゃないよ
日本書紀だと日向を出てから宇佐や筑紫、安芸、吉備に滞在しながら畿内に辿り着くのに4年、生駒で敗退して熊野に回って大和に入るのに2年、即位するのに1年と東征に約7年かかってる
普通に考えたら7年間遠征していた兵の食料どうしたのよってなるのよな
つまり神話は神話
元になった出来事があったとしても支配者が権威づけに作り出したものには変わりない
神武の話なんかいいよ
紀元前660年は間違いだから卑弥呼の時代だなんて無茶苦茶
>>129
>普通に考えたら7年間遠征していた兵の食料どうしたのよってなるのよな
九州から畿内まで大遠征など出来る訳がない。 だから、「阿波」での話 だと、何度言えばww @阿波 別に征服ったって、お前ら俺に米よこせみたいな強盗みたいなものだろ
わざわざ海越えて米を強奪するメリットなかっただけ
ちなみに天皇家は米を強奪する見返りに豊作祈願してやったので、まあまあサービス良かった
>>129 よく言われるのが神武天皇の畿内の上陸地点である白方の津
今の東大阪とか枚方とか言われてるんだが日本書紀が書かれた8世紀ではすでに内陸だから河内が海だった頃からの伝説があると言われてる
高千穂族は呉の影響を強く受けていたが
現代日本に繋がるのはマンチュンリと同根の越前族やろ
実質の日本建国は欽明朝成立の539年
>>129 長期遠征で兵の食料を持っていくのは最近になってからだよ
中世までの軍隊は基本現地調達というか略奪
アルプスを超えたハンニバルもイタリア中を荒らしまくっとる
20世紀になっても現地調達しようとして現地民から恨まれたり
餓死した蛮族が東のハズレの島国にいたらしいが・・・
>>138 四国辺りで徴発したら噛み酒とか唾液発酵食材出てきて怒ってぶった切ったんだろうなってのが保食神話っぽいな
世界史的には次の五胡十六国時代での鐙の発明による東アジア人無双の方が大事
西はローマから東は日本まで闊歩するようになる
日本もいつの間にか隋撃退する高句麗とやりあえる様になって数世紀半島南東部支配する
伯・仲・叔・季・幼・稚
孫策(伯符) 孫権(仲謀) 孫翊(叔弼) 孫匡(季佐)
司馬朗(伯達) 司馬懿(仲達) 司馬孚(叔達) 司馬馗(季達)
夏侯衡(伯権) 夏侯覇(仲権) 夏侯称(叔権) 夏侯威(季権) 夏侯栄(幼権) 夏侯恵(稚権)
馬良(季常) 馬謖(幼常)
>>130 もし神話の時代の天皇が当時の平均寿命だったら
あるいは同じ人物が複数いるかのように記して太古の昔から歴史があるように見せかけていたとしたら
計算しなおすと、初代天皇は卑弥呼の時代か、そのあとの可能性が高くなるんだよ
呉の人口不足によるものだろ?
だから遠征の兵を減らして、その分すら賄えない言葉すら喋れない土人奴隷しか
確保出来なかったから処罰されたんだろ?
>>138 つまり環濠集落で蓄えて戦に備えるのが当たり前の弥生時代にそれは非現実的ということ
食料確保するのにどれくらいの犠牲が必要なのかと
>>138 辺境の島国は貝もどんぐりも水も豊富で余裕で現地調達できる事になれきってるからなw
>>146 土着の縄文人の中から裏切り者がいっぱい出たって記記にすら書いてるやろ
三国志って、ほとんど作り話って聞いたわ
まぁそれでも良くできた小説だよな
三国睨み合いの状況でわけがわからん辺境の島国を攻める余裕あるの?
裏切るにしても突然やってきた多数の軍勢を を7年間養うのは無理があるっつー話
>>128 古事記では安芸に7年、吉備に8年とさらに時間をかけている
>>148 それは「三国志演義」の話だろう。
「桃園の誓い」とかが書かれていて後世の小説の元になっているのが
「三国志演義」で、日本について最も古い記述とされている、いわゆる
「魏志倭人伝」が含まれるのが「三国志」。
>>153 日本には神風があるから周瑜の火刑なんか通用せんよ
>>144 卑弥呼の時代に合わせようとした結果だろうが
意外と九州勢には勝てないんじゃ無いかなあ
熊襲には負けてるのに三韓には勝つという
元寇もほぼ九州勢だけで処理したし
魏、呉、蜀の三国志の時代
邪馬台国とは何だったか、当時の中華との関係を考えればスッキリする
魏は朝貢にきた国々にたいして上から目線だったけど
2つの国だけは優遇して「親魏」の金印を与えたし、朝貢のきっかけを作った者は出世している
ひとつは大月氏国
この国と同盟関係になると蜀を牽制するのに有利だった
もうひとつこそが邪馬台国
呉の背後にある大国だと認識されていた可能性大
そして邪馬台国が朝貢するきっかけを作ったのが司馬懿だった
出世した司馬懿はのちにクーデターを起こして魏は晋へと変わる
司馬懿は晋の皇室の祖であるから、魏志倭人伝をまとめた陳寿は大月氏国より邪馬台国のほうが素晴らしいと忖度しまくった
しかし、晋は中華を統一したため大月氏国や邪馬台国を優遇する理由がなくなる
邪馬台国の女王壹与は魏の後ろ盾のおかげで即位できたが、その後は…
この流れで
>>1を読みなおしてみよう
>>158 元の時代すら渡海苦労してるのに
それより前に上陸作戦なんてありえんのよな
>>135 白方の津と言われている東大阪市日下町付近には江戸時代でも
大阪市の京橋から寝屋川を通って恩智川に至る剣先船という
水上運送が残っていたくらいの水郷で、大和川付け替え以前は
おそらく湿地帯も多く、古代河内湖の名残は十分感じられたと
思う。
>>154 正史だと後漢に成立してる漢書が1番古いと思うよ
正史じゃなかったら山海経とかもあるよ
三國志が1番古いわけじゃないよ
九州に辿り着いても薩摩のバーサーカーと遭遇する無理ゲー
陸遜可哀想すぎる
呉が関わりを持った国が狗奴国だったら面白いのに
呉魏が九州の島を南北に分けて代理戦争
さて、室津半島をよく見ますと、巨大な前方後円墳の形が浮かび上がります。
前方後円墳はこの半島をモデルにして造られた、と仮定したらどうでしょう。
どうしてこの半島がモデルなのかということは、人々が移住して行く前の古代の都
「夜麻登」であり、つまり、前方後円墳は室津半島の形をモデルにしています。
前方後円墳に眠る人々は初代ヤマトからの移住者か、又は関係者であるという象徴なのです。
ちなみに大阪夏の陣の八尾・若江の戦いで、大阪城を出た
木村重成が途中の沼地で立ち往生したという逸話が残って
いるので、当時でもそれだけ低湿地帯が多かったのだろうと
思われる。
>>157 自分でやってみなって
当時の平均寿命や平均在位年数を割り出してもいいし
記紀で同一人物と思われる天皇をピックアップして新たな系図を作り直してもいい
誰がやっても2世紀末から4世紀初めのどこかになるから
>>168 普通に考えれば紀元前660年でしょう
そう書いてあるんだから
梅田のお初天神で海の中だもんなあ
あの湿地帯悪所があそこ迄都会になるのは凄いわ
>>170 神話だろうと書いてあれば事実だ
太古の昔の天皇は超ご長寿だった
と、信じていたいんだね
どうぞどうぞ
三国志の嘘だと思うもの
大将同士の一騎打ち
最前線で戦う指揮官
3人くらいに切りかかられたら普通にやられるし馬狙われたら落馬して終わりだろう
実際勝ち戦で命落としてるのって流れ矢くらいだし
>>129 7年は長いようで1つの国家攻略からしたら非常に短い
チンギスハン並みの速さ
北九州に神武軍の拠点としたら瀬戸内経由での補給網も作れるだろし
俺は記紀なんて全て出鱈目だと思ってるよ
そう考える方が合理的だから
でも書いてある事は真実で年代が間違ってて卑弥呼の時代ってどんだけ都合が良いんだよ?
>>176 神話のモデルになった人物がいる可能性は考えないんだね
>>17 勝った歴史が無さすぎて、中国は戦争したことがない平和国家にシフトチェンジしたんだよな
>>180 全く考えないね
弥生時代なんて憶えてるわけない
>>170 記紀の内容はともかく山海経で倭人は燕に朝貢してたらしいことが書かれてるし
後々呉の太白の末裔とか書かれてたりするから
天孫降臨というか日本に漂着したのは紀元前660年はあながち間違いじゃないかも知れないよね
古代天皇の年齢が100才を越えるのは、神武天皇の即位年を
推古天皇の辛酉(601)年から1,260年前の辛酉(BC660)年と
したかったから、という「辛酉革命説」というのがありますね。
推古天皇は史上初の女帝であり、記紀編纂当時が女帝(から孫への
皇位継承)の時代だったこととも関連がありそうな気もします。
また古事記も三部構成で、上巻が神代、中巻が神武から応神まで、
下巻が仁徳から推古まで、と神代の後は最初の天皇である神武から
最初の女帝である推古まで書かれているのも腑に落ちる気がします。
>>183 その可能性はある
でもそれは日本側の記録ではないし俺だって国自体存在しなかったなんて思ってない
なぜなら遺跡があるから
>>185 そもそも倭が元々付き合いあったのは主に半島経由で呉
知らなかった、では済まされんわ
>>1 日本攻めたら
蜀に滅ぼされるだけだから出来ない
国内基盤盤石じゃないと他国は攻められない
金正恩なんて
海外への外交行く度に
北朝鮮国内のクーデター情報入って
毎回早々に帰ってるからな
>>182 今でこそ記紀は最古の歴史書でも
記紀が成立した当時はまだ古い歴史書や口伝はあったじゃん
全て「作り話」とするのは早計
出雲大社の巨大神殿だって実在した可能性大なんだからさ
>>189 推古天皇ではなく阿毎多利思北孤が居たはずなんだがいきなり間違ってる
当時出雲大社も伊勢神宮も存在しない
>>189 まあそうだけど200年前の王様の死にざまをよくわからんって書いてるレベルだからね
500年前のことなんて何も覚えてないし残ってないから書かれてない
>>1 こんな経路で来るわけないだろ
江戸時代でも紀州灘が難所で難波から松坂まで陸路を使ったのに
天気予報も衛星画像もない時代だぞ
邪馬台国はその風俗から見ても江南からの渡来人が建てた新興国家ではなかったでしょうか。
筑紫国、肥の国にそれぞれ勢力を張っていた伊都国、好古都国を支配下におさめた邪馬台国は
呉と修好し、あるいは呉人のアドバイザーもいたかもしれません。
238年、公孫淵が滅ぼされたタイミングでさっと魏使を送っているところから見ても
卑弥呼、あるいは伊支馬とその側近たちは東アジア情勢に明るく、外交も俊敏に行っています。
あるいはこのときに邪馬台国に居た呉人(スパイも含めて)たちは卑弥呼、あるいは伊支馬の命で処刑されたのかもしれません。
>>194 神=世襲酋長と考えれば神社なんてただのでかい家だな
>>192 隋書には「則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれているが
日本側には400年前の文字記録が残されていたはずもなく
卑弥呼の伝承も存在しないのになぜ唐突に魏志が引用されたのか謎すぎるな
>>98 大連経由する必要ないじゃん
山東半島から半島は目で見える範囲だから
>>186 実証があるってことだよね
だいたい紀元前660年頃に日本に着いたんだけど記紀編纂の頃は口伝でも古すぎることは忘れられてて
その忘れられた間を埋めるためにいろいろ話を盛った
だけど日本に着いた年代だけは大事だからそこはこだわりたい
だから年代は意外に信じれると思うよね
>>160 元は軍上層部が台風知らないんだもん
倭人は全員知ってるけど
>>197 実際、そういうのも多いんだっけ
古墳の上に、とかが分かりやすいけど
最近知ったけど、橿原神宮はそばの土地掘ったら、実際紀元前後の樫の巨木とその周囲に集落の跡があったんだってね
>>194 導水祭祀建物埴輪が神社のルールの一つだと思う
中の建物は切妻だし
ただし今の神社との間を繋ぐ遺跡がない
>>204 中国の記録だから
当たり前だけどそれを読んで記紀を書いたって事
>>208 謎はあるんだけど現存する神社は無関係だよね
とにかく神社を根拠にするなって事だ
当時無いんだから
大軍を擁して攻めるのは無駄だろ。
距離があり、道も整備されてない。長い月日を費やして行くことを考えたらやめるだろ。
帰りも大変なんだから。
>>194 古代の神は木や石に宿り、社を作るようになったのは仏教の影響だからないよ。
>>213 な事ないよ
古墳時代にこういうの残ってるんだから
>>216 弥生時代の銅鐸だって単なる高床式かどうか分からないの書いてあるし
>>216 それが神社なのかって話だわな
少なくとも現存する神社とは関係ないでしょう
>>217 入れ墨は個人を特定するための顔認証で、壺や瓶に同じ模様をいれることで所有者を特定してたのかな
どこまで本物の金なら、破壊しないで中まで見て価値を確かめてほしいもんだ
なんだこりゃ!!卑弥呼じゃないの?リトアニア🇱🇹
とにかくおちんぽを根拠にするなって事だ
当時無いんだから
>>218 「すべて」の神社に神が宿る社作られるようになったのは仏教伝来以降なのだろうけど
逆にそれまでの日本「すべての」土着の神に社なかった記録、証拠はないぞ
特別な場所、もの、信仰対象を見えるようにするのが宗教なんだから、その対象のために特別な場所をつくるは宗教としては自然な姿だろ
逆にそれまですべての社がなかったって言い切る根拠はどこだよ
>>218 古代からの様式の建物(住居や倉庫)を仏教伝来後に
社殿として使うようになっただけの可能性もあるんだよね。
滋賀の伊勢遺跡から出た独立棟持柱のある建物が伊勢神宮の
唯一神明造に似ているから宗教施設だって説もあるけど、
逆に古くからの様式の建物を神殿として利用しただけの話
かもしれないと思うのです。
>>218 関係ないなんてなんで言えるんだよ
導水祭祀は蘇我氏の時代になっても皇后が続けてたのに
前漢の時代から中国と日本との航路は確立されていたとはいえ難破のリスクも当然高かったし
遣隋使、遣唐使の時代でも難破が当たり前だったしなぁ
あくまで少人数で足の速い小型船で交易や外交を行うならともかく
大軍を率いての遠洋航海となるとそりゃ陸遜も必死に反対するわ
>>227 伊勢遺跡は神社って事か?
俺は違うと思うが
>>233 「関係ない」とはいえない
「関係は分かってない」なら👍
伊勢遺跡には柵があって物見櫓らしき跡もある
これを神社と直接結びつけるのは違うんじゃないか?
>>226 なかったと証明することはもちろんできないんだけど、記録に
残る神社の造営時期が仏教伝来以降が多いんだよね。
例えば宇佐神宮は725年、鹿島神宮は天智の時の造営、住吉大社は
記録上の最初の造営が749年(数十年は遡る可能性も)等がある。
>>234 遺跡が無いでしょ?
遺跡が出たら信じると言ってるだろ?
>>237 事実を重視するなら「関係ない」と言ってはいけないんだよ
>>226
仏教は、人(仏)を祀るから仏閣が必要で、
神道は、自然を祀るから自然のままだったんだろう。 @阿波 >>226
仏教は、人(仏)を祀るから仏閣が必要で、
神道は、自然を祀るから自然のままだったんだろう。 賛同する者は、手を挙げろ。 @阿波 >>205 冬の日本海なんていつも荒れてるし、
それ以外はいつでも台風等あんのよなあ
>>236 天智は中央集権化で全てを再編成し始めたからな
最終的に記紀によって古来の宗教は整理されたわけだし
>>173 孫策と太史慈
呂布と郭シ
あと馬超と誰かは正史に記載
伊勢遺跡とか神社の原型じゃないかと思えるのもあるにはあるんだが
伊勢遺跡と現存する神社は関係ないわ
日本も鎌倉時代くらいまでは一騎打ちしてたけどな。
武士のメンツがあったでよ
>>235 伊勢遺跡の周辺を円周上に並ぶ建物が、伊勢神宮の本殿と似た
独立棟持柱のある建物で、祭祀に使われたのではないかという
説があるらしいんだけど、これらの建物の外側には溝があって、
単に防衛用に作られた建物のようにも思えるんだよね。
記紀が全く嘘だとは思わないね。
西から国が成立してきたとかのベースがあるはず。
そうじゃないと当時でも新政権が信用されない
古墳人が来る前の縄文弥生文化を遺伝子とともに最も受け継いでるのが沖縄だから
仏教が伝来し社を建てる前の神社は沖縄の御嶽みたいな感じだったと想像する
自然や場所そのものに対する信仰
本州の神社が男性中心の社会なのに対し沖縄は巫女が女性なのも邪馬台国と共通し
男尊女卑の中国系古墳人が来る以前の習慣を残していると考えられる
現在の本州の神社の大半は古事記の神や歴史上の人物を祀っていて渡来人が持ち込んだもので
山を拝む山岳信仰と岩を拝む磐座信仰などの自然崇拝が残る少数の神社は
縄文の頃から御嶽のような感じでずっと有った可能性があるでしょう
>>252 石棒を拝んでたのは想像できるんだがじゃあそこは神社なのかって話だもんな
>>138 おまえはその東のハズレの蛮族の血をひいてなくて良かったな
同様に出雲大社(杵築大社)も社殿の存在が記録に残っているのは
平安時代だし、2000年頃に出た柱の遺跡もそれ自体は鎌倉時代の
もので、様式こそ古代から続くものだとしても、具体的に社殿と
して最初に建てられたのは何時なのかはわからないんだよね。
もちろん、古くから出雲でスサノオやオオクニヌシを神として
信仰し、祀っていたとは思うんだけど、現在の出雲大社の位置に
「壮大な宮殿」を建てて祀るようになったのがいつなのかは
わからないので「古代からあった」とも「仏教伝来以降だった」
とも断言できないわけだ。
社殿自体は仏教文化の影響で規格化されていったもので、それ以前はそんなにちゃんとした社殿はなかったか、場所によってまちまちだったんじゃないの?鳥居とかは古くからあったかも知れないが
あと以前の邪馬台国スレにあった「古い神社は日本独自の建築
様式で作られているから仏教伝来の影響ではない」っていう人が
いたんだけど、これも上に書いたように、仏教伝来以降に伽藍に
似た建物を建てる際に、神道のほうは古代から続く建築様式を
採用しただけの可能性が残るので「仏教伝来以降」を否定する
理由にはならないと思う。
>>255 古くから出雲でスサノオやオオクニヌシを神として信仰し、祀っていた
なんて全く思わない
影も形も無いのにお供え物するの?
>>257 しかもその独自の建築だって大陸由来だろ
>>256 鳥居もなかなか難しくて、現存するのは1109年が最古らしいんだけど、
それより前の記録に残るものも探せなかったんだよね。
邪馬臺、野馬臺、耶馬臺、倭、日本、大和は「ヤマト」の名に帰属する民族!
自然崇拝の神社は古代には拝所があっただけだろう
銅鏡とか剣のような依代を御神体とする神社はもともと室内で祈祷してたもので、その祈祷所が神社の本殿になって行ったんじゃないかな
伊勢神宮の式年遷宮は天武天皇が定めて持統天皇が1回目を実施したと言われてる
これが仏教の影響かといわれたら違うと思う
ただ各地の神社に社殿ができたのは神宮寺の影響なのは間違いないだろう
建物は確かに古くから引き継いでるのよ
池上曽根遺跡の高殿がよく知られている
元を辿れば南方系らしいけど
皇帝の地位を狙っている層が中華の外の辺境なんて興味ないでしょ
>>265 そういや以前のスレに、もともと鏡は墓に埋めるもので、
飾って拝むものではなかったんじゃないか、ってレスが
あったな。まあこれも確かなことは言えないけどね。
で、伊勢神宮で言えば、個人的には天武以前の拝む対象は
朝熊山の磐座だったんじゃないのかと妄想していたり。
>>216
古神道、古鳥居と言えばやっぱり物部(忌部)郷でしょう。
物部(忌部)郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩
「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」 @阿波
>>261
古神道、古鳥居と言えばやっぱり物部(忌部)郷でしょう。
物部(忌部)郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩
「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」 @阿波
>>271 お、新ネタかな? こういうのならいいぞ、どんどんやれ。
ちなみに「上古神社の鳥居は、2個の立石を建てたものであったと
いわれ、旧忌部神社の鳥居だったと思われる」って言われても、
上古とはいつなのか、誰がどういう根拠があって言っているのかが
さっぱりわからないので、これだけではどうとも言えない。
>>273
まぁ、1つの傍証だ。 「阿波」にその傍証が有るってこと。 @阿波 仏教伝来→西暦550年くらい
飛鳥寺、法隆寺→西暦600年くらい
紀元前の歴史がある神社→思ってるよりわりとあるw
>>275
「阿波」への仏教伝来は、通説の538年より溯る可能性。
>大治元年は1126年。そのとき西範僧都六百年忌が行われていたということで、西範僧都が亡くなられたのが526年。
>仏教伝来はそれ以前ってことになりますよね。
https://goutara.blogspot.com/2012/07/blog-post_19.html
事程左様に、日本古代史の新真実が「阿波」の歴史資料や遺跡から解き明かされていく。 @阿波 >>278
と、トンデモ説信者は、行き詰った挙句にそう言い出さざるを得なくなる。 わははははは @阿波 >>153 曹操、司馬懿、郭嘉 vs 日本
劉備、法正、孔明 vs 日本
孫権、周瑜、魯粛 vs 日本
どれも勝てません
>>270 縄文系が色濃く残る人たちを土蜘蛛・蝦夷・熊襲として攻撃していった歴史を考えると
縄文時代からの山や岩などの自然物を信仰してた各地の遥拝所を背乗りして
(神話の)人物崇拝所に徐々に変えていった歴史なのかもしれんね
自然と共に暮らした縄文人に対して人治主義のヤマト王権だからね
開墾や農業土木工事で国力をアップする農耕民にとって自然崇拝は邪魔な存在でもある
自然を残せ左翼vs土木開発大好きな右翼
この構図の根っこは意外と深い?笑
>>280 そもそも日本って火計とか謀略の知恵があったんだろうか
つくづく島国で良かったな
大陸続きだったら日本も中国の一部になってたよ
大アジア帝国だな
>>279 そこからわかるのはあくまで「大治元年に西範僧都の六百年忌を
行った」ということだけで、その当時に「武烈、継体の頃に
西範僧都が寺を開いた」という寺伝を信じて法要を行ったという
ことでしかないよね?
はわからないんだよね。
全スレにも書きましたけど、この筆者は勘違いしているのではないか?
孫権が衛温・諸葛直に1万を派兵したのは、夷州・亶州であって倭国ではない。
孫権が、夷州・亶州を倭国と認識していた可能性は低いと見る。ましてや、邪馬台国など知らなかったはずだ。
ではなぜ、「夷州・亶州が倭国ではないか?」と考えたのは432年頃に後漢書を編纂した范嘩(はんよう)であろう。
「後漢書倭伝」は卑弥呼、帥升のことが書かれているが、最後になぜかこの孫権が派兵した夷州・亶州のことが書かれている。
范嘩がなぜ夷州・亶州を「倭伝」に挿入したのかは不明であり、あまりにも軽率ではないか?
あ、最後の行は無視してください。
というわけで、@阿波ちゃん、おかわりをくれてもいいのよ?
>>283
なんで武烈、継体の頃になるんだ? @阿波 >>276 中国系の渡来人が入ってきたのは奈良より四国の方が古いと思う
先日も高知でかなり古い漢字の書かれた土器が発見されたでしょ
3世紀以前の時代が判明する漢字が書かれた出土品が四国で出ることがあるのでは?
という感じに思ってるから古代史における阿波の新発掘大躍進に期待してるよ
>>275
「阿波」への仏教伝来は、通説の538年より溯る可能性。
>大治元年は1126年。そのとき西範僧都六百年忌が行われていたということで、西範僧都が亡くなられたのが526年。
>仏教伝来はそれ以前ってことになりますよね。
https://goutara.blogspot.com/2012/07/blog-post_19.html
事程左様に、日本古代史の新真実が「阿波」の歴史資料や遺跡から解き明かされていく。 @阿波 >>286 あれ? ググったところに書いてあったんだけど……
あ、これ↓
「大山寺のホームページ」
taisanji.jp/wp/
>略縁起
>当山は西暦500年頃、武烈継体天皇の御宇西範僧都の開基にして、
間違ってたらごめん。
>>289
>当山は西暦500年頃、武烈継体天皇の御宇西範僧都の開基にして、
そこまでは溯らんだろうよ。 @阿波 古事記だと天皇家の祖先は呉の太伯だったとか言ってなかったか
いささかナショナリスティックな日本書紀では削除された
神武天皇って天照大神の子供なんだよね?
神に勝てるはずないじゃん
>>287 阿波、淡路、紀伊は多分東瀬戸内海の覇者
少なくとも弥生時代は
海洋民族系で
>>292 ちなみに負けたほうのナガスネヒコが仕えていたニギハヤヒは
天照の孫(神武は天照の五世孫)
みんなそろそろ気づけよ
孫権ではなくて孫堅だよ呉の王は
誤字だろ
権ではなく堅だよ
ゲーム始めたが劉備、曹操、孫堅、張角とかだよ三国志のメインは
>>296 その釣りおもんないからそろそろやめーや
>>293 その可能性は極めて低いです。
ただし、纒向共立国(邪馬台国)における阿波は割と重要である。
ほぼ確実に弥生時代と考えられる萩原1号の画文帯同向式神獣鏡が、北朝鮮大同出土の画文帯同向式神獣鏡と同笵鏡だからです。
また、この画文帯同向式神獣鏡&石囲い木槨の組み合わせは、纒向のホケノ山古墳、兵庫の綾部山39号と同じである。
このことから、岡山大学・歴博所属で先日若くして亡くなられた松木武彦は「ホケノ山の被葬者は阿波人」と言っている(ただし松木武彦は地方を持ち上げるリップサービス好きな所がどれだけ本気かは不明)
纒向共立に参加した阿波の王と考えれば、纒向石塚・纒向勝山・纒向矢塚などの被葬者も、纒向共立に参加した瀬戸内の各地域の王という仮定が成り立ち、箸墓古墳が卑弥呼の墓ということを後押しできる。
>>299
>ただし、纒向共立国(邪馬台国)
無い! @阿波 >>284の文章がやや変なので訂正
この筆者は勘違いしているのではないか?
孫権が衛温・諸葛直に1万を派兵したのは、夷州・亶州であって倭国ではない。
孫権が、夷州・亶州を倭国と認識していた可能性は低いと見る。ましてや、邪馬台国など知らなかったはずだ。
「夷州・亶州って倭国じゃね?」と考えたのは432年頃に後漢書を編纂した范嘩(はんよう)であろう。
「後漢書倭伝」は卑弥呼、帥升のことが書かれているが、最後になぜかこの孫権が派兵した夷州・亶州の記事が挿入されている。
范嘩がなぜ夷州・亶州を「倭伝」に挿入したのかは不明だが、夷州がほぼ確実に台湾であることから、亶州はせいぜい石垣島か宮古島、良くて沖縄本島のことであろうと推測でき、范嘩は間違いをおかしている。
したがって、孫権が倭国と戦おうとした可能性は極めて低いと見る。
>>299 けど3世紀初頭の画文帯の分布がまさに東瀬戸内海だからね
後に東海にも広まっていって
瀬戸内豪族連合は阿波(鳴門)の卑弥呼を盟主として団結し、纏向の地に王都としてヤマトゥを建国した。建国に参加した阿波忌部氏は、中央忌部氏として中臣氏と共に大和王権の祭祀を司る重要氏族となった。
>>303 画文帯神獣鏡は畿内が圧倒的です。
奈良県の桜井茶臼山古墳に1年半前に画文帯神獣鏡が19面あることが分かりました。
この図に、桜井茶臼山の19面を足すと、大和が圧倒的です。
わーくにわーくに言ってたのが倭国にされたっていうのは多分そう思う
そんなことしたら
蜀「おっ、(守備が)開いてんじゃ~ん!やっちゃいましょうよ」とか言ってカマ掘ってくるぞ
あー徐福ちゃんかわいいよ徐福ちゃん星5ででてくれよ徐福ちゃん
妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説
妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説
妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説
妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説妄想畿内説
大和(奈良県)は卑弥呼が共立した当初はほとんど何もなかったと言われますが、卑弥呼共立後はあまりにも圧倒的です。
まず、卑弥呼がいた纒向遺跡の古墳、纒向石塚・纒向勝山・纒向矢塚・ホケノ山・箸墓古墳の中でちゃんと調査できてるのはホケノ山だけです。
臺与の墓と言われる西殿塚古墳も200m超で宮内庁の管理下にあるので掘れません。
行燈山古墳、渋谷向山300m超も掘れてません。
さらに佐紀盾列古墳群200m超だけでも8基ありますが、ほとんど掘れてません。
これ全部掘ったら、おびただしいほどの鏡と鉄製武器や防具などが出てくることが確実です。
最初は「共立」で誕生した連合国でしたが、3世紀半ばからは、もはや完全独走体制に入っています。
ちなみに、北部九州で一番大きな古墳は、福岡県苅田町(ほぼ大分)の豊前石塚山古墳130mです。
>>312
>大和(奈良県)は卑弥呼が共立した
大和(奈良県)で共立していないから。 @阿波 >>116 公孫淵と結んだりしてる公孫淵に騙されたけど結局w
奈良盆地に大きな勢力があったことは否定しないが、その勢力が
魏へ朝貢した邪馬台国であったかどうかはまた別の話なんですね。
>>309 蜀からすれば荊州回復できたら魏をそこから攻めやすくなるしなもともと天下三分の計は荊州から魏を攻撃する計画だったし孔明も
上庸(実は荊州)の孟達寝返らせようとしたりやたら荊州拘った
>>316
>奈良盆地に大きな勢力があった
無い! 倭人(阿波勢力)が進出していただけ。 @阿波 桃の種や魚の骨や犬の骨しか出土してない纏向遺跡
箸墓古墳を作る作業員の宿舎に決まっている
卑弥呼時代の畿内の土器である庄内0〜庄内3式土器、そして布留0式土器が、奴国(福岡市地域)に元々存在した土器を駆逐してしまいます。
そして、奴国(福岡市)の首長達はなぜか、この畿内土器をその墓に供献するようになります。
これが考古学者が邪馬台国大和説を採る大きな理由の一つです。
※庄内0は西暦200年頃、布留0は卑弥呼が亡くなった西暦250年頃
>>241 逆神かな
同じ意見の人がいても「賛同した」なんて思われたくなくて書かなくなりそうだ
>>255 出雲大社って何であそこにあるんだ?
八雲山って御神体になるような山かな
魏志の外国の戸数
・高句麗3万戸
・夫余8万戸
・韓国十余万戸
・大月氏10万戸
であるが倭国は、奴・投馬・邪馬台だけで14万戸もある。
すなわち、少なくとも数字上は魏志中の最強勢力である。
魏は中華の歴史の中でも「かなり弱い国」であり、わずか45年で滅亡する(265年)
呉の滅亡280年より15年早い。
さらに、卑弥呼が遣使した239年、半島情勢はおだやかでなく、諸韓国は反乱を起こして、246年頃に帯方太守・弓遵は韓国に殺害される。
魏は、超大国・纒向邪馬台国に半島に派兵するよう懇願したと見られる。(これに対し、卑弥呼は狗奴国と戦争してますという嘘をついて派兵しなかった)
結局、魏は卑弥呼を懐柔することができずすぐに滅亡するのである。
おまけに河内平野と上町台地には弥生時代中期からいくつもの集落があり大規模な生産活動が行われていたことを示す遺跡や遺構遺物が見つかっているからな
>>324 悉く、大洪水で埋没・廃絶しているけどな。
>>324
悉く、大洪水で埋没・廃絶しているけどな。 @阿波 後期は山側の高地に移転しているだけで廃絶はしていないのよな
さらにいうと水田か畠とされている遺構が洪水で埋まった後さらにその上に水田を作っている痕跡が地層に残されているから廃絶はない
>>327
>後期は山側の高地に移転しているだけで廃絶はしていないのよな
廃絶・放棄して、高地性集落を形成したのさ。 分かるか? @阿波 同じ場所に田畑を作っているから集落を移転しただけなのよ
>>329
>同じ場所に田畑を作っているから
それは、山を降りてからの話だ。 @阿波 降りる前も後も河内平野には水田遺構だらけなのよ
しらん?
>>331
悉く、大洪水で埋没・廃絶しているけどな。 @阿波 邪馬台国
卑弥呼
邪とか卑とか完全に訳のわからん島国の野蛮人と思われているよね
中華帝国から見たら奴隷として冊封してる朝鮮半島民族みたいな存在だったんだろうね
>>331
訂正
降りる前は、
悉く、大洪水で埋没・廃絶しているけどな。 @阿波 バカ言ってら
日本は強ぇぞ!(1度勝ってるし♪)
今でも強ぇぞ!…ガッツが違わぁ
馬鹿とは話にならんな
やっぱ大した価値もないゴミみたいなレスに恥ずかしげもなく自己主張のクソネーム入れるような低知能はダメだわ
>>14 それはないな
呉から流れてきた人はいるだろうけど、一部隊として流れてきたなら原住民を征服した後に文書主義の政権を作らなかったわけがない
>>305 ヤマトが多いのは図を見てるから当然分かってるけど
3世紀には力が強くなったヤマトも含めて東瀬戸内海のグループじゃない
>>322 出雲大社があの場所になったのは「国譲り神話」が作られた
記紀編纂時以降だと妄想している。
>>337 騎馬民族が北方から流れて来たんだよ
で、その時に馬を仕入れてる
>>339
その通り。 ちゃっかり、「記紀」から「出雲」パクっただけの事。 @阿波 出雲大社は確か古代は海岸にあったってなんかの文献で見た覚えがある
神様たちが海から上陸してくるんだよ
コーエーの無双シリーズに出て来る卑弥呼が関西弁なのにワロタw
コーエーは完全に邪馬台国畿内説支持派だなw
出雲地方は弥生時代中期末大変化が起きる
加茂岩倉遺跡は営みを終え加茂岩倉遺跡の銅鐸が葛城の上牧、陶邑、和歌山の太田黒田遺跡など近畿地方で見つかるようになる
陶邑はオオタタネコがいた村だな
オオタタネコの祖先は鴨王こと久斯比賀多命
久斯比賀多命の墓は宮内庁にある粟鹿大明神元記によれば、泉国知努乎曽村にあるという
>>342 縄文時代くらいまでは今の島根半島は完全な島で、つまり
出雲平野は海だったらしい。
>>347 もしかして海水面が下がって陸続きになったのが国引き神話かな?
台湾まで本当に行ったなら現地の人に聞けば石垣島や沖縄本島を見つけるのはそう難しくないと思うけど
弥生時代前期から漆器の一大製造拠点だった松江の西川津遺跡
漆器は縄文時代から続く日本の文化だ
この遺跡からは弥生時代前期の樫で作られた鳥形など複数の鳥形が見つかっている
この樫の鳥形と同じ形の鳥形は、弥生時代中期の因幡の青谷上寺地遺跡、和泉の池上曽根遺跡、弥生時代後期の河内の雁屋遺跡から見つかっている
いずれも各地を代表する大集落である
因みに雁屋遺跡は弥生時代前期に誕生した集落で、集落誕生時から那津の板付遺跡の土器が多数見つかっている
博多を代表する大集落と関係が深い集落だ
>>339
その通り。 ちゃっかり、「記紀」から「出雲」をパクっただけの事。 @阿波 博多松江因幡和泉河内出雲
各地を代表する大集落は成り立ちから既に関係が深い
因みに板付遺跡は弥生時代中期末に営みを終えている
ただ興味深いのは各遺跡の文化がかなり違うということだ
銅製品の集落、漆器の集落、石器作りの集落
>>355
>博多松江因幡和泉河内出雲
>各地を代表する大集落は成り立ちから既に関係が深い
そりゃ、みんな倭人(阿波勢力)なんだから当り前。 @阿波 >>348 くにびきはその島自体をいくつかの場所から引いてきたって
いう神話で、実際に島根半島は地形的に4つに分かれていて
それを説明するために作られた神話なのではないかという説も
ある。
個人的には当時の交易関係を示しているんじゃないかと思うけど。
建造物は朽ちて見つかってなくても祭司に使われてたであろう品がいっぱい出土したなら
何かしらの建物があったと考えるのが自然だわな
鳥形と言えば
デフォルメした造形が多い埴輪の中で
鶏形埴輪だけ写実的なものが多い理由はなんなんだろうか
弥生時代の鳥形も弥生時代特有の自然物模倣造形への関心のなさはあまり感じない
>>355
>博多松江因幡和泉河内出雲
>各地を代表する大集落は成り立ちから既に関係が深い
そりゃ、みんな倭人(阿波勢力)なんだから当り前。 @阿波 Wikipedia
諸葛直(しょかつちょく、? - 231年)は、中国三国時代の呉の将軍。
黄龍2年(230年)春、孫権の命により、諸葛直と衛温に武装兵1万を率いて夷洲・亶洲へ向かわせ、
未知の地域の調査と現地人との交誼を行う事が計画された。陸遜と全琮が反対したが、孫権の命により計画は実行に移された。
約1年後、諸葛直と衛温は帰国したが、亶洲へは遠すぎたため到達できず、兵の八割から九割を疫病で失っていた(『呉主伝』)。
成果は夷洲の現地民を数千人連れ帰っただけであった。諸葛直と衛温は、詔に背いて目的が果たせなかったとして、二人とも獄に繋がれ、誅殺された。
>>359 導水の木製溝みたいなものは結構見つかるけど
上モノの建物が見つからない
最も纏向で大量に見つかった土坑は
一回利用の使い捨てだったみたいなので
元々残ってないのかもしれない
>>360 確かにそれは面白い視点だよね
馬とかもかなり細かく作るけど装飾の表現に寄ってる感じだけど、鳥は動きとかも表現してて作り方の方向性が違うよね
鵜飼いとか鳥が魚咥えて振り返るシーンとか単なる造形だけじゃない意思を感じるよね
板付遺跡も加茂岩倉遺跡も弥生時代中期末に営みを終える
弥生時代後期、琵琶湖に誕生するのが夜に水の祭祀が行われていた伊勢遺跡である
各地の首長たちが琵琶湖に集結し祭祀が行われていた
正に神さまたちが年に一度集結する場所が、にほの海琵琶湖である
柱根は見つかっても基本的に建物は出てこないぞ
あの時代の木材はわりとリサイクルされているから別の部材に転用される
応神、仁徳時代のあたりって鳥の話が凄く多いしね
仁徳天皇は名前がオオササギだしね
ハヤブサワケとの名前をネタにした対立とかしてるし
天皇陵も百舌鳥に絡んでるし
この時期は鳥に特に大きな意味が出た時期なんだろうか
『新撰姓氏録』諸蕃
「牟佐村主。呉孫権之後也」
「蜂田薬師。呉主孫権王之後也」
「牟佐呉公。呉国王子青清王之後也」
「刑部造。呉国人季牟意弥之後也」
「茨田勝。呉国王孫皓之後、意富加牟枳君之後也」
『呉史』天紀四(280)年条
「蜀舟皆小、今得二万兵、乗大船戦、自足撃之、於是、合衆、授濬節鉞、明日当発、其夜衆悉逃走」
逃亡兵とはいえ2万人からなる最新鋭の武装船団が九州に渡来したら倭人はひとたまりもないだろう
華北の魏・晋に朝貢していた旧倭国と異なり、朝鮮半島にたびたび攻め入り南朝の宋に朝貢した倭の五王、それが彼らでは(孫讃、孫珍、孫済、孫興、孫武)
>亶洲(日本)へは遠すぎたため到達できず、
到達してないからな
支那畜生のボロ船では日本に辿り着けるわけないから
これはチャンコロの妄想
>>355
>博多松江因幡和泉河内出雲
>各地を代表する大集落は成り立ちから既に関係が深い
そりゃ、みんな倭人(阿波勢力)なんだから当り前。 @阿波 鬼頭宏「明治以前日本の地域人口」
西暦200年人口推定
北九州: 4万
南九州: 6万5000
老若男女10万5000人vs武装兵2万人
漢時旧百國が魏時三十國になってからの三世紀の魏略を写した三国志、後漢書以降からヤマト王権が出現する。
女王国、大倭王が住む邪馬臺國が日本の原型。
>>367 韓国金海博物館に鴨の絵が描かれた鎧が展示してあるよ
多分、倭人鎧
賀茂氏と関連あるかも
前面にはワラビが描かれてる
海流とかそう変わってないなら船作って実際トライしてみりゃ分かるんじゃないのか?
呉が通じていたのは、南九州の勢力だよ
ここを通して太平洋側の海洋交易が行われてた
大和に貝環とか伝えたルートがこれ
インドネシア系海人族の公益相手が呉だった
渡り鳥型水鳥に時に注目が集まってる気がする
渡来水行に関係してる気がしてならない
>>379 邪馬台国は魏に朝貢して後ろ盾になってもらい
狗奴国は呉と手を組む
みたいな感じだったらおもしろいのに
>>377 釜山の辺りだよね
日本にそこからいろいろ来た時に鴨の土器を見たよ
インドネシア系、というかオーストロネシア系の故地は台湾だからな
>>320 変な言い方するなぁ
供献物が土器なのではなくて、供献物を入れる器がその土器だろうに
土器を作る奴隷を畿内から連れてきただけだよ
邪馬臺国だけにならず三国志ネタも混ぜつつの方がスレの空気は良いね
>>382 そう、やたら鴨型土器とか多いよな
あれが賀茂氏だと思う
倭人「山門委国(ヤマトイコク)から来た」
魏「ヤマトイコク?あーはいはい、ヤマタイコクね、邪馬台国と」
魏志倭人伝で『不彌国(現在の北九州市あたり)から投馬国まで水行20日、さらに南へ20日行く』
という文章があるように当時中では、今の沖縄の位置に本州があり台湾までが倭国と考えられていた。
だから魏は倭国と友好を結んで呉を攻撃しようと考え。
呉が後顧の憂いを無くすため、倭国征伐を考えてもおかしくない。
>>103 当時の中国(魏)が辺境国に亻(人偏)を与えてるのは異例のこと、さらに自国の偏である委の字を旁として与えてるばかりか金印まで
最恵国待遇なんだよ倭国ってのは
倭というのが蔑まれていたってのは大間違い
呉服町があるのは唐津市(末盧国)、と福岡市(奴国)と静岡市だが
静岡市の呉服町の由来ははっきりしていないが、唐津市と福岡市の呉服町は
古墳時代頃にはあったそうだ
孫堅も晩年、頭おかしかったからな。理論的に考えても駄目なんだろうな
背乗りのみんなー おはよー 今日も一日がんばろう
日本古代史の真相
第一章
3世紀中国大陸で呉が滅亡 > 呉の神武軍が大船団で北九州に上陸 > 邪馬台国壊滅的崩壊、台与戦死 > 邪馬台国人は南九州へ避難(熊襲爆誕)
第二章
神武北九州から進軍 神武東征 > 道中ジャップ輩なぎ倒すが生駒で奈良の葛城王朝に手負いにされる > 裏切りの八咫烏に導かれて熊野から奈良奇襲襲撃トラトラトラ > 葛城王朝滅亡(土蜘蛛爆誕)
第三章
4世紀~6世紀 神武の子孫ら奈良に王朝を作る ヤマトタケル残りの熊襲(邪馬台国)完全討伐 大和朝廷爆誕 出雲は恫喝で国譲りw
第四章
8世紀
『日本安定よかったね! そろそろ俺らも文化残して古事記とか書いてみる??』
『いいねー 魏志倭人伝に書かれた邪馬台国 って知ってる?』
『知ってる・・・天ちゃんが滅ぼしたやつや・・・・』
『うーん 熊襲にしとけって 継体天皇で背乗りでBC600起源なw 盛れ盛れってwww』
>>392 誰の説?面白いし説得力ある
>>394 日本にいるよググれば?
>>342 それが出雲大社の前身かわからないしまず神社なのかってのがある
>>384 三国志のほうは「呉が倭を攻めるわけないじゃん」で終わり
東夷は日本も含んでるが後漢書の夷州は台湾を指してる
こういった記録が混ざってるんだからややこしいわな
>>401 そういえば国譲りで唯一大和に滅ぼされてない古代日本人系だから出雲大社に
朝廷の出路の文書とか残ってないかなぁ??
呉は異民族対策として海の向こうは探索してたろうな
倭の存在も知ってたはず
「呉」だの「孫権」だの「邪馬台国」だの「卑弥呼」だの
そもそも実在したかどうかも分からないだろ
日本にたどり着いてても
ホビットと一緒で、貧弱な土民では戦略にならないので、
放置されるんやろなあ
>>301 それ卑弥呼の時代のこと?
スレ間違ってない?
>>307 どうだろう
中国では自分のことを我(ワー)と呼ぶんだよ
相手はニー
一時期中国みたいに一文字の名前にするのが流行ったらしいし
もしかしたら我は中国から来てるのかも
卑弥呼の時代は別の日本語があったかも知れないよ
>>410 ある程度組織された武士ががんばった元寇や、世界で最も多く
銃を持っていたともいわれる豊臣時代、キチガイ地味た武闘派も
多かった維新の頃とは違って、ただの原住民でしかなかった
感じだからな。
>>408 中国に関しては実在してるんだわ
中国の歴史が神話に近くなるのはもっとずっと前の話
夏王朝とかそのへんで最近は夏王朝があったって証拠も出て来たとか来ないとか
色々うさんくせえって意味で倭を付けた
だから5世紀、仏教伝来で漢字の意味を知ってその呼び名が嫌になった大和政権だかが日本に変更した
史書の中でも朝貢に関してはかなり正確なんじゃないかと思う
他はあてにならんけど
>>415 司馬遷の「史記」が書かれたのが紀元前90年頃と言われていて、
つまりその頃から記録が残っているっていうことだからな。
周代に倭人が来たってのもちゃんと文書が残ってたんでしょう
>>408 もうこの辺の時代は伝説時代もクソもない特に古い時代でもなくて、数百年続いた漢の大帝国の後の時代で
ヨーロッパに目を向けりゃじゃもう(西)ローマ帝国も終わりかけの時代で
カテゴリ言ったら古代終わって中世入りかけ位の時代だぞ。
遺跡しか無い日本じゃないんだから流石にしっかり色々残っとるよ。
古墳の中の壁画見てもきらびやかな装束
兵馬俑みても立派な軍装
>>420 公孫家は中国では名家の一つ
始皇帝の前の時代の恵文王でも公孫家は名門と言われてる
どこかでは繋がってるんじゃないの
ちな曹家と夏侯家が親戚なのも劉邦の時代からだ
すげえのは諸葛一族だよなどこが勝っても生き残るように動いてる
>>392 魏は邪馬台国を呉の背後にある大国だと誤認していたから優遇したんじゃね?
>>392 国号・倭が自称ではなく下賜されたものってこと?
>>392 民族名・倭が自称ではなく下賜されたものってこと?
下賜かどうかはともかく、倭が自称じゃないなんて当たり前だと思ってたけど
漢王朝はかなり下に見ていたから人偏取っ払ったとしたら志賀島の金印の倭の字が委になってることも合点がいくな
せっかくの金印に略字使うのおかしいもん
全く逆に認めてたからいい字にしてあげたのかもしれんけど
そもそも当時の日本は100以上の小国の集まりみたいな感じだから全体を表す名称がなかったのは想像余裕
外から来た大陸人が中華思想に基づいて総称を付けたってだけだろう
札かけても、まーた札外し忘れてるよって
ヨシ!されちゃうしな
今回のケースはどれか報道じゃわからんよね
>>432 百国の中の一国だったら金印くれないでしょう
わーくに → 倭国
わのこく → 倭奴国
自称とも言えるし自称ではないとも言える
>>431
>志賀島の金印の倭の字が委になってることも合点がいくな
黒田藩のチョンボ贋作金印だ。 @阿波 >>432
>そもそも当時の日本は100以上の小国の集まりみたいな感じだから全体を表す名称がなかったのは想像余裕
朝鮮半島からの脱出避難文化人が来て、日本に漢字が到来するまでは、日本人には倭国とか日本国とかの国号という概念がなかった。
日本国名や国号の必要性に思い至ったのは、7世紀以降。
倭(阿波)王権の役人が、自国の事象を文字で記録するようになって、国号の必要性に迫られたんだろう。 @阿波 >>425 海の向こうの謎の大国ではあったろうな
なんせ歴史上中華沿岸のあらゆるところに現れただろうから、同じぐらいの大陸と勘違いしてもおかしくない
>>439
>海の向こうの謎の大国ではあったろうな
謎じゃないよ。 なんせ、「鉄器鍛冶王国 阿波」の倭人(阿波勢力)が大陸・半島へ日常的に行っていたんだから。 @阿波 >>339 出雲の神体が三輪山だし出雲が元々島根だとしたら島根から伊勢までが支配範囲になっちゃうから無理あるわな
>>438 それちょっと考えにくい
何処の国の代表者か言えないって事だよな?
百国の中の一国の王が倭王を名乗るのもおかしいし
魏志倭人伝は偽書か東方見聞録と同じでエア旅行記なんだろ
奴系 弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、巴利国、烏奴国、奴国
馬系 投馬国、邪馬台国、斯馬国、邪馬国
蘇系 対蘇国、蘇奴国、華奴蘇奴国
鬼系 鬼国、鬼奴国
倭には馬いないのに馬ってついてるのおかしいから
これらも中国人が発音から当て字してるのか
>>442 何故?
銅鐸の原料である青銅器は出雲から近畿に入ってきてたんでしょう
>>443
>百国の中の一国の王が倭王を名乗るのもおかしいし
「倭王」なんて名乗っていない。 それぞれが「王」を名乗っているだけ。 @阿波 >>448 中華皇帝から倭王に任命されてるだろうが
>>449
それは、中国側の判断。 自分が「倭王」と名乗ったわけじゃない。 @阿波 >>432
>そもそも当時の日本は100以上の小国の集まりみたいな感じだから全体を表す名称がなかったのは想像余裕
朝鮮半島からの脱出避難文化人が来て、日本に漢字が到来するまでは、日本人には倭国とか日本国とかの国号という概念がなかった。
日本国名や国号の必要性に思い至ったのは、7世紀以降。
倭(阿波)王権の役人が、自国の事象を文字で記録するようになって、国号の必要性に迫られたんだろう。 @阿波 金印は倭国王じゃなくて倭奴国王だよ
後漢書にも倭奴国としか書いてないし、倭国の極南界って言ってるから倭国内の一国という認識だろう
>>453
違うよ。 朝鮮半島の鍛冶材料の入手許可を取り付ける為だよ。 「阿波」のそれぞれの鍛冶国が朝貢している。 @阿波 >>454 旧唐書は倭とか日本の認識曖昧だからね
日本国は倭の別種か、あるいは倭が日本に改名したか、あるいは小国の倭を日本が併合したか、みたいな曖昧な認識してるから倭国を倭奴国と混同したのだろう
>>456 それもあるだろうが倭の五王は実利としては半島の権益だけど中国の官位が欲しいんだね
>>457 その場合日本は関係ない
倭に関する事であり倭国条に書いてある
>>458
>それもあるだろうが倭の五王は
つまり、「倭の五王」は「鉄器鍛冶王国 阿波」の五王ってこと。 @阿波 >>459 別の条に書いてあろうが編者の認識が曖昧なら同じだよ
少なくとも後漢書や魏志の編者は倭国の中に多数の国があり、その一国が奴国という認識を持っていた。奴国どころか邪馬台国すら倭人の統一国家ではなく、倭国内に敵対国があるという認識だからね
旧唐書の編者は倭国が倭人の国家の一つ(かも知れない)と思っていて古の奴国と同一視している
>>463 倭奴国と書いてあるのになんで奴国なんだよ?
>>458
>それもあるだろうが倭の五王は
つまり、「倭の五王」は「鉄器鍛冶王国 阿波」の五王ってこと。 @阿波 倭奴国の金印が志賀島から出てんだから普通に考えれば倭奴国は博多湾の奴国だろ。何を言ってるんだ
>>453
違うよ。 朝鮮半島の鍛冶材料の入手許可を取り付ける為だよ。 「阿波」のそれぞれの鍛冶国が朝貢している。 @阿波 もっとたくさん貰った銀印が出ないのになんで金印一つだけ出るんだよ?
帥升の国は委奴国(伊奴国)ですよ。
稲作(イナ式農法)、稲城(イナ式築城)発祥の地です。
旧唐書は元小国の日本が倭国を併合したとあり
元小国の日本が倭を併合して(倭国を名乗ったが)気に入らないので改名して日本としたと特に矛盾はないが
新唐書では倭国が小国の日本を併合したとなっており
倭国が日本を併合して名前を奪ったが、名前が気に入らないので改名して日本としたと意味不明の矛盾が生まれてしまった
いたも何も
捕まって処刑されてんだろ?
極東イギリス人😂🙊🤣
>>466
>倭奴国の金印が
贋作金印に「倭奴国」なんて彫られていないが? @阿波 >>475 倭人の態度が尊大だから「我が国はデカいぞ」という倭人の言を疑うわけだが
倭人がそのようにコメントしていたことは無かったことにならん
>>426 犬伏の別れは後世の創作と言われてるしどっちが勝っても家が残るよう算段したって言うのは後付けのような気もするな
>>480
まぁ、贋作だからな。 わははははは @阿波 日本の歴史もウリナラファンタジーと大して変わらんな、嘘ばっかり教えやがって
>>481 いろいろ言い訳した中でそれだけは正しいってか?
倭国条と日本国条の二つあるのは二つの別の国があるって事だよ
>>473
>旧唐書は元小国の日本が倭国を併合したとあり
これは、倭(阿波)が奈良大和へ遷都したことを言っている。 @阿波 >>473
>新唐書では倭国が小国の日本を併合したとなっており
これも、倭(阿波)が奈良大和へ遷都したことを言っている。 @阿波 >>487
>倭国条と日本国条の二つあるのは
これも、倭(阿波)が奈良大和へ遷都したことを意味している。 @阿波 >>486 いろいろ言い訳したどころか矛盾もなくすんなり通る話だからな
元小国の日本が倭国を併合した(そして倭国を名乗った)
倭国の文字が気に入らないので改名することにした
日の出の方向に国があるので日本とすることにした
これも、倭(阿波)が奈良大和へ遷都したことを言っている。 @阿波
>>490 違うね
「倭国なんて知りません。我が国はずっと日本です」
こう言ったんだよ
>>495
>「倭国なんて知りません。我が国はずっと日本です」
もし、そう言ったとするならば、そう言った理由は、奈良の山奥へ緊急避難疎開「遷都」した屈辱からだろう。 @阿波 >>470 「孫権妻は電気ウナギの夢を見るか?」
を出して欲しい
>>471 鋳潰しちゃったんだろ
大して価値ねえって
>>434 自分がその王だと言い張れば詳しい事情をしらない中華は信じて渡すしかないんじゃね
>>500 日本を管轄する帯方郡や楽浪郡があるんだが
>>501 接触した当時は日本の全てを踏破して自分で調べることは不可能
日本の入り口の近辺で王を自称する奴がいるならそいつに渡すだろう
>>502 踏破しなくても倭王が居る事くらいわかるだろ
何でこのスレは論理的に考えられない奴だらけなんだろう
魏志東夷伝に新羅も百済も載ってません
2世紀にはまだ建国されてなかったのでね
後漢書にはこうある
倭在韓東南大海中 依山㠀爲居 凡百餘國
自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國
國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
倭には100余国ある
楽浪郡が設置されてから漢に使訳を通じたのは30余国
国は皆王を称して代々継いでおりその大倭王は邪馬臺国にいる
つまり100余国あるうちの30余国をまとめたのが倭国で
その倭国の国々には王がいてさらに大倭王がいるということ
皆バラバラに朝貢していたならまとめられてはいないだろ
>>508 皆バラバラに朝貢していたなら倭奴国は金印貰えてないだろうな
邪馬台国はアマゾネスである
古代中華は蛮国は女ばかり住んでいると
いう思想があった
女王國というのは日本全般をさす
女王がいるからではなく
蛮国だから女の国なのである
侍女千人の記述は女の園のイメージであり
本当の記述ではない
ただの妄想である
>>258 >>264 神は自然や木、岩(磐)などに宿ると考えられていたようだね。
『祝い』は岩(磐)いに通じるし。
岩(磐)の名が遺る地には祭祀の遺構が多く遺っている。
>>505 相手の素性もわからん奴に金印を渡すと考えるのが論理的なのか?
>>508
だから、飢饉の為、纏まって「卑弥呼」を共立したんだよ。 @阿波 >>509 でも貰えていたってことはとりあえず自称王に渡すしかなかったってことだろ
書いてないだけで倭奴国王の時も帥升の時も楽浪郡の使者が日本に来てるよ
邪馬台国が受けるのは妄想捗るから
卑弥呼って美人かな?
壹与はロリっ子かな
和の牛王はむさいオッサンしかいないので
誰も興味持たん
つまり、一世紀の日本は小国が乱立していたわけではなく統一王朝と言ってもいいような勢力があって、その王が金印もらったって言いたいのか?
>>442 私は「オオクニヌシ≠オオモノヌシ」派なので出雲の神体が
三輪山とは考えていません
>>514 後漢書には倭国の大倭王をまとめた項目がある
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。
光武賜以印綬。
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。
有一女子名曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑眾,於是共立為王。
>桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。
暦年あるじ無し
つまり倭国大乱時には大倭王が不在であったと書いてある
漢の認識としては朝貢してきているのは30余国をまとめる倭国の大倭王
これは帯方郡の公孫時代、また魏の時代も同じ体制と考えられる
>>522 後漢書って基本的に魏志倭人伝を参照してるようなので、
後世になって記述がどんどん変化しているだけの可能性も
女王国は妄想の呼び名なら
邪馬台国もまた妄想
漠然とした妄想
妄想がすべて
そもそも邪馬壹国だけど
そんなことどうでもいいほど妄想
>>523 魏志倭人伝にはない桓霊の間とか暦年無主だとか新情報が書かれてるよ
ちなみに魏志倭人伝での倭国大乱はこう書かれてる
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
むしろ范嘩後漢書が参照していた後漢時代の元ネタがあって
范嘩後漢書の方が陳寿三国志より詳しく書いてあると言っていい
妄想とはいえドラクエのザハン
男は漁でたまに大量死してるだろうから
完全に根も歯もない話でもない
その程度
>>520 違う
領土の主張と支配下地域は違う
倭の五王だって東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国を支配してたとは思わない
>>512 他国から来たのは風体や言葉でわかるからな
当時の感覚を今の時代に合わせるのはナンセンス
>>527 お前が言いたいことが分からんな。奴国王は倭王を僭称して金印を貰ったって言いたいの?
>>529 わからんか?
倭の五王は列島と半島の全てを支配してたと思うのか?
>>458
>それもあるだろうが倭の五王は
つまり、「倭の五王」は「鉄器鍛冶王国 阿波」の五王ってこと。 @阿波 過大評価されてきた 戦後になって「渡来人」の評価が一転した事情
https://news.yahoo.co.jp/articles/09f6f1b1a5e67a37a6fecf123ccfe3d8740f832e ■渡来人の役割を過大評価していないか
日本書紀などの記事では、渡来系の豪族は脇役にすぎない。
しかし、関晃氏は『新撰姓氏録)』という文献などを根拠に、
渡来系の豪族の数が思いのほか多いことを指摘する。
そこから渡来人は「全体としては案外大きな数に上るであろうとしている。
しかし同時に、関氏は、渡来人の実数がどれほどかは明らかにできないとする。
なぜなら、『日本書紀』などに見える渡来人に関する記述に、大きな誇張があるからである。
そのうえ渡来系の系譜を称する諸蕃のなかに、
在来の中央豪族の流れを引く豪族がかなり見られるのである。
しかし、1970年代以後に、中国や朝鮮から渡来した文化の見られるところを、
すべて渡来人の居住地とした研究が多く出された。
しかし、日本列島の住民が朝鮮半島に渡って、
向こうの技術を日本に持ち帰った例もきわめて多数にのぼったろう。
また、渡来人の技術者から新たな技術を学んだ者が、
渡来系といわれる姓を名乗る例もかなりあったらしい。
■権威を高めようとして渡来系の系譜を自称か
須恵器の製造にあたった人びとは陶部と名乗っていたが、
この陶部がすべて新たな移住者だったわけではあるまい。
陶部の九割以上の人びとは、間違いなく元から日本にいた人間であろう。
このような陶部の職人は、自家の権威を高めようとして渡来系の系譜を自称したと思われる。
さらに、古くからいた日本の中小豪族が、自家は遠くの国の名門の流れを引く渡来系の豪族だと称した例も少なくあるまい。
あれこれ関連文献を調べていくと、渡来人の実態はじつにわかりにくいことが明らかになってくるのだ。
おまえら竹内文書嫁
12000年前からの日本-世界の歴史書いてあるから
>>530 そんなわけなかろう
お前は「百国の中の一国だったら金印くれないでしょう」という意見なんだろう。じゃあなんだったって思ってんだよ
>>534 自分が代表者だと言える立場
支配下地域が何処から何処までなんてわからんよ
東北はどうなのかとか北海道はとかわかんないでしょ?
魏蜀に備えるのにいっぱいいっぱいな上
肥沃で殖産可能な地が目の前にあるのに
未知といっていい外部に大規模な軍事国力を振り分けるメリットがあるんすかね…
魏は、倭国を当時の敵国である呉の背後に存在する大国であると匂わせ、政治的にも非常に重要な国であることを強調したから呉が倭国攻めを考えたんだろな。
魏では司馬懿が倭国を重要な国だと主張し倭国の使者を呼び寄せた。
で、卑弥呼が派遣した使者は当時の魏の皇帝曹叡に拝謁し、卑弥呼を親魏倭王とし金と銀の印を受けた。
>>536 今の中国も
内政がボロボロなのに外国にちょっかいかけてばっかりやん
>>1 ★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景(国営吉野ヶ里歴史公園運営の弥生ミュージアムより)
p://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみ
倭人伝には中国や朝鮮と貿易する船は伊都国の港で
荷物の検問をしているとの記述があるので邪馬台国から
1番近い港は伊都国にあったと言う事だ。邪馬台国が奈良と
すれば奈良から1番近い大阪でするはずだが大阪を伊都国に
例えた学者は1人もいない
>>540 ほんとそれなんだよ
のちに飛鳥や奈良を都としたときは難波津がその役割だったというのに
>>539 北部九州が否定されても別に奈良になるわけでもないしなぁw
それに水行、陸行でどれだけ進めるかもわからん
弥生時代なんだから道なんて整備されてないからな
旧唐書では日本は四面小島五十餘国と言っている
これは本州四国九州北海道だろうが当時東北や北海道を支配してたかわからん
でも日本の領土だと中国に認めさせてる
>>544 魏志倭人伝だと
「倭国と、その東の海の向こうに倭種の国」
九州と四国本州じゃないのかな
>>546 魏略だと倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種
後漢書だと自女王國東度海千餘里至拘奴國
>>543
>北部九州が否定されても別に奈良になるわけでもないしなぁw
倭(阿波)になるだけだ。 @阿波 >>544 だから何が言いたいんだよw日本語不自由か?
>>544 大宝律令(701年)によって令制国が定められた
その数が58国3島
>>549 最初に戻るだけで領土の主張と支配下地域は違う
>>548 阿波だと水行陸行なんて書き方はないと思うけどなぁ
船が必要だし
奈良も同じだけどw
>>551 だからそれが何なの
お前のレスには主張がないんだよ
>>550 北海道は別の国だから中国に取られて良いの?
>>553 領土の主張と支配下地域は違う
書いてあるまんまだろうが
何言ってんだ?
>>552
>船が必要だし
だから、渡海・水行があるだろ? @阿波 畿内に本拠地のある勢力が朝貢してんなら、暖かい地域から寒い地域までの「日本」の記録が残っただろうに
交易のど真ん中にいて極寒の雪国を知らないはずがない
「47都道府県人のゲノムが明かす日本人の起源」(日経サイエンス 2021.08号)-
もっとも縄文人にちかいのは沖縄であり、突出しています。つぎは鹿児島であり、
これもやや突出しています。そのつぎは青森・岩手、福岡・佐賀・長崎・大分・熊本
・宮ア・山口です。逆に、渡来人にちかいのは、滋賀・三重・京都・奈良・和歌山
・大阪・兵庫、香川・徳島・愛媛・高知です。
>>556 水行って川のほとりを歩くことじゃなかった?
>>555 100国のうちの1国という程度の小国では金印貰えるはずがない。だからそれなりに大きな勢力だった(あるいは、そう主張していた)。でも実際には日本列島全域を支配していたわけではない。
こう言いたいの?はっきり言え
説明下手くそすぎるわ
晩年、陸遜の言う事聞かないくらい、頭イカれてたんだっけ
>>554 ウヨサヨ思考で古代史語っちゃダメよ
そこを卒業できるまでROMるのが吉
>>558
>逆に、渡来人にちかいのは、滋賀・三重・京都・奈良・和歌山 ・大阪・兵庫、香川・徳島・愛媛・高知です。
当り前。
飛鳥時代、倭(阿波)王権は百済人など朝鮮半島避難渡来人を倭(阿波)や畿内各地に庇護のうえ住まわせ、
彼らの知識・技術を習得活用して、8世紀に避難疎開遷都し樹立した大和朝廷へと発展昇華させた。 @阿波
「渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/ >>562 そうか。なら感想を言わせてもらうが
一世紀に日本列島全域を支配していた国が存在しないなんて当たり前ではないか?
>>563 北海道も日本の領土だから手を出すなよと言ってあって中国も受け入れてるから
四面小島五十餘国と中国の史書に書いてあるんだろうが
当時北海道を実効支配してたかは知らん
>>567 北海道なんて中華にはその存在すら認識されてないんじゃね?
行基図にも書かれてないしな
かろうじて蝦夷国というのが東北くらいか?
>>570
狗奴国も敵国であっても、倭(阿波)の一国にすぎない。 @阿波 >>573 古代史語るならウヨサヨ思考から卒業しよう
自国を護るなら大義はある
でも別の国となるとどっちに肩入れするのかって話になる
>>566 船だったとして博多から船でいくのおかしくね?w
奈良でもそうだけど
>>570
狗奴国が敵国であっても、倭(阿波)の一国にすぎない。 @阿波 >>568 中国は移動手段になる馬がいるし馬車や船も発達していたし道も整備できたけど
日本は当時、まだ馬すらいない
移動手段は徒歩と丸木船くらいだよ
なぜ広域支配が可能と考えられるの?
>>577
>船だったとして博多から船でいくのおかしくね?w
おかしい。 博多から船で行かないから。 @阿波 >>579 はっきり言うが支配地域が何処から何処までなんて知らない
>>577 船で行けるならわざわざ陸行しないやろ東京湾から函館にフェリー出てたら、わざわざ大洗まで陸行してフェリー乗るか?
三国志のアニメやら見てると弓や馬をかなり有効活用してて西暦が始まったばかりの時代とは思えないよね
>>586 領土の主張と支配下地域は違うと言ってるだけなんだがどういう事かわからんな
>>589
そうなんだけど、「不弥国(築上町辺り)」は博多付近じゃないから。 @阿波 >>583 舞鶴から小樽行きのフェリーが出てるけど、大阪から青森まで
バイクで陸行して函館に渡った私が通りますよ
>>589
そもそも、博多付近から、南へ出航できないだろ? @阿波 >>592 近畿説で方向変えるのはOKもらってるからw
不弥国内陸じゃねえかなと思ってるので水行の起点は博多湾あたりじゃねえかと思ってる。伊都から不弥国あたりまでは経路というよりほぼ一体の地域やろ
卑弥呼と壹与では貢物からみて
国力が違いすぎる
卑弥呼は伊都国
壹与は越前にいてもおかしくないくらい差がある
>>593
>奴国のすぐ東やんw
「魏志倭人伝」にそう書いているダリ? @阿波 >>597 那珂川から宝満川への乗り換えがけっこう距離がありそう。
>>587 弩とかいう紀元前からあるかっちょえー兵器について
結局戦は弓のプロ中のプロである武士のものだった日本じゃ流行らなかったけど
>>601 日本は森林が多く、開けた場所が少ないからかな
流行る兵器の違いがあったりして面白いね
司馬懿にとり、倭国が国土の覇者でなくても関係なかっただろうよ。
大国だと思わせればよかっただけ。
呉の孫権も倭国を知ってはいたが、詳しい情報が分からず、実際には警戒はしたが脅威に感じてはいなかった。だから攻める気すらなかったろ。
>>603 鉾とか戟とかが流行らなかったりもあるな
この時代なんて海の向こうにここと同じような陸があったなんて考えられなかったんじゃないのかなあ
今後中国が日本に攻め入る為の地ならし理屈じゃねえの?
>>540 古墳時代から博多湾は、いろんなところの船が
出入りしてた港だからな
そこにいたのが住吉・安曇族の海洋族
大阪の住吉大社は、博多の住吉神社を神功皇后が関西に
戻る際に分社して移した神社
そんなものがあるか知らんが
日本海連合が邪馬台国なら
太平洋連合は狗奴国かも知れん
阿波は狗奴国やろ
>>608 領土の主張はそれをさせない為のものだよ
>>606 日本で槍が戦の武器として使われるようになったのは
戦国時代になってからって話らしいな
>>593
>奴国のすぐ東やんw
「魏志倭人伝」にそう書いているだろ? @阿波 >>607
でも、「鉄器鍛冶王国 阿波」は朝鮮半島まで日常的に行っているからなぁ。 @阿波 当時半島と末盧を行き来するのは命懸けだったっつー奴いるけど
対馬は田畑がクソで他地域から入手していたって書いてるから食糧の交易ができる程度には安全だったのがわかる
>>616 半島から末盧国に渡るのには、半島から対馬までの三倍近い
リスクがあるのです
倭国知らない自分は日本ですは
朝貢の歴史の抹殺 神話創作
あるいは乗っ取った別王朝
真の日本の歴史は700年よりかは後
それより前は神話の世界で
創作物だから
弥生時代の弓矢は明らかに狩猟用ではない進化をしているから対人兵器だと考えられている
>>607
でも、「鉄器鍛冶王国 阿波」は朝鮮半島まで日常的に行っているからなぁ。 @阿波 冊封体制は中華に攻められないようにするためのものじゃなくて
中華の威光をかさに着て政治的正当性を主張するためのものだ
中華からすれば周辺地域と君臣の関係を結ぶことで天子(天の命を受けて徳をもって人民を支配する王者)としての正当性にもなるわけだ
>>607 日本は文字として残してないから文献がなく不明なことが多くて感覚的には原始時代っぽく思えるけど
大陸の方は
>>421の通りだよ
四百年続いた漢帝国でさえ滅びかけ
呂不韋が潰した周でさえ800年続いてる
大陸が日本の存在に気づいてないわけないじゃん
>>618 つっても南北と交易しているって書いてるからな
つまり対馬的には生活必需品レベルの食料を交易できる程度の危険ってことよ
ただ大陸側からすれば困難だった可能性はある
>>624 日本は土器に関しては世界最古レベルで一万年くらい前から土器を製作使用していた
なので世界最古クラスの昔から文化的な生活をしていたと言える
>>625
>つっても南北と交易しているって書いてるからな
しかし、島内の南北でな。 @阿波 長江という天然要害に護られた孫呉が
破竹の勢いで一瞬で滅ぶとは分からんな。
>>619 よく読んでなかった
記紀はそういう事だな
>>625 大陸側からしたら、危険をおかして攻めて征服してもメリットは未知だからな。
稀に出あう倭人の姿や装備を見て、脅威になる文明は持たないと感じていただろ。
>>625 「海産物で自活している」とも書いてあるので、米の流通は
稀だった可能性もあるとは思う。
白村江で百済に味方して敵対しておいてどの面下げて来てるのって話だもんな
周の成王(前11世紀)の時代に倭人が暢草を献じたと記録が残ってる
今から3千年前というと倭人が遼東あたりにいた頃だろうか
南からは越裳が白雉を献じ、北からは倭人が香草を献じてきたという趣旨の記述かもしれない
>>625
>つっても南北と交易しているって書いてるからな
しかし、島内の南北でな。 @阿波 >>630 大陸視点だと日本はレア素材だらけだったからいくらでも理由はある
だからこそ交易していたわけだしな
日本は王朝変わったというか、女性の血を受け入れたってイメージ。ずっと何処かで血縁関係というか
>>626 で一万年その土器を大事に大事に伝承してきたのか
そう言うのいいから
>>638 争いがなく平和が続くと競い合うような技術の発展はないからそうなる
倭人伝には伊都国の南に邪馬台国があると記載しているし、邪馬台国から最も近い港は伊都国に
あったと言う事だ。これでもわからんなら、お前らの知能指数はサル以下だな
グーグルマップで調べてみな
>>636 合議制で、神託に委ねる決め事が多く、卑弥呼のような預言者が必要だったんだろ。
まあ、その中でも力を持ち、君臨したい部族の首領はでるからな。
王朝と呼べるほどの支配体制、軍事力だったかは判らないか、各地に大きな勢力があったのはたしかだろ。
中国の軍閥時代のようにな。
>>640
倭人伝には伊都国の南に邪馬台国があると記載していない! @阿波 そもそも邪馬台国の時代から約700年後である平安時代でも
たとえば土佐〜京は「水行一月」を要しているわけですしね。
伊都国の港(現今津?)から一気に博多湾を横切り旧博多市街の東岸(現在の千鳥橋付近)から御笠川をさかのぼり
大宰府付近で当時、そこまで入り組んでいた筑後川(旧千歳川)を下流に向かって水行して有明海に出ていたのでしょうね。
そもそも「大宰府」というものが現在の場所に造られたのは、この有明海へも博多湾へも「水行」で出られる位置に有ったのが大きいわけですしね。
>>431 これ、新説?
初めて聞いたけど面白いね
九州邪馬台国は魏と通じて、畿内勢力は呉と通じてたんだろ
>>646 志賀島出土とされる国宝の金印を偽ものと断じてる時点で、「私は陰謀論にはまり易いバカチンです」って告白してるも同然。
バカチンの相手しても時間の無駄だと思いますよ。
>>647 畿内が狗奴国で
結局狗奴国が邪馬台国に勝って名前を引き継いだのかもしれない
問題は戦乱の痕跡が奈良には弥生時代末期からほとんどないこと
>>610 畿内が邪馬台国だとしたら
狗奴国に比定できるのは出雲や越だけだと思う
他に強敵いない
昔は東海を想定してたけど難しいと思う
>>649
>志賀島出土とされる
それが、「バカチンです」って告白してるも同然。 @阿波 近畿説だと方向めちゃくちゃなのによく近畿から中国に戻れたな
そもそも太陽見たら方向ある程度わかるのに方向間違うことあるか?
地理的関係を理解していなかった孫呉が人民狩りをしようとして、結果的に台湾に行きついた話だろ
で、疫病等で人的資源は大損したというオチだったはず
曹魏は孫呉を攻めるにあたっての圧力で、邪馬台国と孫呉を挟み撃ち可能なように思わせる事に成功していたんだな
行けるところまで行商しながらいく
すると反対側からも同じことしてきてるやつと出会う
帰るとき一緒に連れてってもらう、とんでもなく遠くに行ける
こういうのロマンだよな
又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國
瀚海というところに行っている
>>659 最近の機内説は、機内~瀬戸内海~九州北部が邪馬台国勢力範囲としていて、珈琲を吹きそうになった覚えがある
>>664
よく我慢ができたなw わははははは @阿波 隋書は半島西南端から東に水行して難波津に到着するルートで
魏志は狗邪韓国から南に水行して伊都国を経由するルートで
まったく違うルートなんだよな
>>666
瀬戸内海を通るルートと豊後水道を通るルートの違いだ。 @阿波 >>667 阿波説だと一旦太平洋まで出て土佐の方を回っていくのかw
>>666 対馬から東に行ってるのに何故難波津なんだ?
>>669 裴世清の到着した海岸が難波津なので……
土器の流通的に弥生時代の瀬戸内海は交易などに使われていなかったことが窺える
基本的に日本海沿いか四国の太平洋沿いが交易ルート
倭人伝の邪馬台国へのルートは、魏時代の書物を参考に西晋時代に陳寿が書いたんだろ。
その参考にした書物は現存しないし、魏時代の官吏も聞き書き、あるいは日記のようなモノを参考にして書いたなら、間違えや勘違いもかなりありそう?
道や海を通った日数もアバウトだろうし、距離の里の単位も今とは違う。
倭人伝から邪馬台国へのルートは解明できないだろな。
聃羅國から都斯麻國を経ては対馬で間違いないだろうがそのあと東に向かってるわけで
上陸したとは書いてないから九州には上陸してないかもしれない
>>672 鏡の伝播的にみて倭奴国の時代から普通に瀬戸内海を使って交易してると思われる
鏡は基本的に九州が大陸半島から仕入れてきて
瀬戸内の国々や畿内の国々が九州まで物々交換しにいく構図だ
>>670
裴世清の到着した海岸が、さぬき市旧難波郷津田なので…… @阿波 九州説は地名で場所を決めつけてるが疑わしいんだよな
>>673
>倭人伝から邪馬台国へのルートは解明できないだろな
とっくに解明されているが? @阿波 >>673 前にも書いたけど、陳寿は魏の使者の報告書や、邪馬台国からの
使者の聞き取り報告書なんかを断片的にしか読めなかった可能性も
あるんだよね。
>>679
裴世清は、そのルートを通って、さぬき市旧難波郷津田に来ている。 @阿波 >>664 そこでなぜか東海がハブられる
箸墓も一緒に造った仲なのに酷いわw
>>680 アバウトな記述や間違いが多くて、海の上とか大和よりはるか遠くとかだろ。
阿波はなかったような。
そもそも畿内以外に邪馬台国規模の大集落が存在できる場所がないのよな
>>684
だって、朝鮮半島へ日常的に行っている「鉄器鍛冶王国 阿波」だからなぁ。 @阿波 >>685 邪馬台国規模…?
ご近所さんたちで共立しただけのしょぼい国だよ?
なぜ大規模だと思えるんだろ
>>685
そもそも畿内に、邪馬台国規模の大集落が存在していないのよな @阿波 >>685 奈良にも無理だから畿内丸ごとで邪馬臺国だーなんていうこと言ってるな
そんな巨大な国なら共立王要らないじゃんていう
そりゃあ七万戸もある当時の首都みたいなものだからな
当然その周りにはそれだけの人を賄える生産地も必要なわけで
そう考えると他はない
>>689 倭国大乱で周辺諸国を平定して統一すりゃいいもんね
>>690
そもそも畿内に、邪馬台国規模の大集落が存在していないのよな @阿波 >>689 近畿の中での話
全国を支配したなんて思ってない
>>691
そもそも畿内に、邪馬台国規模の大集落が存在していないのよな @阿波 >>693
そもそも畿内に、邪馬台国規模の大集落が存在していないのよな @阿波 >>690 チャイナが数値を盛るのは今に始まったことじゃないよ
古代からだ
>>695
でも、「ヤマト」なんて国号ないから。 @阿波 >>693 弥生時代後期から古墳時代前期の土器の流通を見れば大和〜河内が中心と分かるのよ
>>699
それ、倭人(阿波勢力)の痕跡だから。 @阿波 >>695 最強ヤマトさまが巫女女王を共立するわけないじゃん
邪馬台国は疲弊した小国の集いだよ
>>700
>伊勢遺跡だ
それも、倭人(阿波勢力)の痕跡だから。 @阿波 >>703
>生駒西麓産土器の広がり
それも、倭人(阿波勢力)が作った「東阿波型土器」だから。 @阿波 >>699 なので畿内は東の倭種ですねていう結論になる
九州にあった倭国=女王国連合と「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」でピッタリ整合した
>>706
それも、倭人(阿波勢力)の痕跡だから。 @阿波 >>707
>九州にあった倭国
無いから。 @阿波 >「水行十日陸行一月」
魏から邪馬台国まで、そんなにかかる時代。
陸行は1日7キロしか歩けなかったようだ。古代は道らしい道は少なかっただろ。プラスして海を船で渡るのも10日もかかる。船や海の天候により変わるだろうが。
>>710
>陸行は1日7キロしか歩けなかったようだ
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)
投馬国(着岸地 土佐国宿毛市) → 黒潮町 → 南国市 → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察か?
→ 倭国首都女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 卑弥呼だけが特別じゃなくて倭奴国王、帥升と続いてるもんだから
当然その時代にも国々はあるわけで
>>712
「鉄器鍛冶王国 阿波」は、前漢武帝時代から大陸と交易しているわけで。 @阿波 >>713
>「鉄器鍛冶王国 阿波」は、前漢武帝時代から大陸と交易しているわけで。
これ、トンデモにとって堪えるよな。 ごめんな。 @阿波 >>707 それがしっくりくるわ
海で東西に分かれてんのは本州四国と九州の間だけだもんね
>>717
海で東西に分かれてんのは本州四国と九州の間だけじゃないもんね @阿波 >>676 それはもちろんそうで
弥生時代や銅や鉄を運んでいたはず
ただ弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて
土器の伝搬はたいしたことないので
それほど交易が盛んだったわけではない
ということを
>>672の一行目は言ってると思う
二行目は無理だと思う
古代に内海以上の伝搬路はない
地中海文明が栄えたのは地中海のおかげだし
ずっと時代が下って大航海時代になったのは船の運航技術が上がったから
ただ瀬戸内海も南岸と引く岸ではかなり勢力が違ったと思う
例えば中世のイタリアでもポー河の右岸と左岸
並行する運河の右岸と左岸で派遣を争ってた
>>713
>「鉄器鍛冶王国 阿波」は、前漢武帝時代から大陸と交易しているわけで。
これ、トンデモにとって堪えるよな。 ごめんな。 @阿波 阿波忌部氏が祭祀を司る古代有力氏族であり、渡海技術、農業(開拓)技術などに長けていたのは判るが、邪馬台国阿波説はどうなんだろな?w
>>685 けどそうすると狗奴国がなくなる
張政が何年も滞在して檄文まで飛ばした戦争はどことやってたのか
張政は北九州にとどまったのか
そんな遠くから役割を果たせるのか
それとも畿内まで来たのか
畿内まで来たとしたら旅行記のようなものや
途中の国々の魏や卑弥呼に対する逸話がないのは何故なのか
卑弥呼様の死去年がほぼ間違いなしなら魏の司馬懿と同じぐらいの時期に死んでるんだね
>>699 当時一番栄えていたところが邪馬台国というわけではないので
狗奴国だっていい
>>721
>阿波忌部氏が祭祀を司る古代有力氏族であり
それは、物部氏が落ちぶれて、残党が忌部氏を名乗るようになってからな。 @阿波 >>690 二万人もおちんちんついてない人いたの?!
>>425 魏志倭人伝に入れ墨して酒飲みで服装も縫ってないボロて書かれてんだろジャップランド (´・ω・`)
スゲー 今日は阿波の泡大国の人が書き込みしまくってるw
>>699 だからそれはヤマト王権の広がりの話で、邪馬台国とは
関係ない可能性がある
大陸に近い九州に魏に朝貢していた邪馬台国があり、それとは
別に後世のヤマト王権に直接つながる勢力も奈良にあった……
で丸くおさまると思うんだがね。
で、ある時期に九州のどこかの国の人が少人数で奈良に来て
地元勢力に入り込み、やがてそこの権力を握った、というのが
神武東征として伝承に残ったと。
倭は100余国に分かれている
漢の時代に使訳を通じたのは30余国からなる倭国の大倭王
2世紀末にはその30余国から女王が共立された
女王国から東に渡海するとまた倭種の国々がある
i.imgur.com/vnulrSZ.jpeg
倭の五王の先祖の時代には畿内から東に55国、西に66国が平定された
隋書の時代には筑紫以東は皆倭に属してクニ(国司)は120人いるという
中国人のホラ話を真に受けなくてもいい
日本と関係ない
そして旧唐書には当時の倭人のコメントが残された
日本は元小国で倭国を併合した(そして倭国を名乗った)
倭の文字が気に入らないので改名することにした
日の出の方向に国があるので日本とすることにした
>>731 魏志倭人伝の記述だけ見るとそれで丸く収まる気がする
ただ考古学的には
畿内連合がどんどん力付けて
前方後円墳を作り神獣鏡を配り
それが全国的に流行り出したので
その辺をどう考えるか
畿内説の人は邪馬台国が狗奴国に勝って
魏に認められた地位が日本全国で認知されたという考え
けど狗奴国が勝って大和政権になったとしたらどうだろうか
>>731 卑弥呼時代の奴国博多は、畿内の庄内式土器と布留式土器に駆逐されてしまってます。
大陸から簡単に攻めてくることができる場所に首都みたいなもの置くわけねーだろ
>>732 地名相似率が高い北部九州と奈良は何らかの関係があっても不思議じゃないよな
>>737 畿内から生口つれてきて鏡と交換して帰るもんだから
畿内の生口が薄くて早く煮炊きできる土器の作り方を広めたのだろう
>>722 狗奴国は、半島に派兵を要請してくる魏に対して、派兵しない為の言い訳です。
実際、卑弥呼が死ぬと、径百余歩の大作冢(箸墓古墳)の前方部が作られた。
男王が立ち(名前なし)、内乱で千人死んで、13歳の臺与が即位すると倭国はおさまった。
率善中郎将・掖邪拘は、塞曹掾史・張政を見送った。
狗奴国の話が全く出てこない。
明の鄭和の船団が出るまで台湾は原地民と海賊しかおらんかったんか
>>741 内乱はたった千人しか死んでないので邪馬台国内の内乱ではないでしょうか
>>735 http://classic.music.coocan.jp/_book/furuta/kutoujo.htm 最後に古田武彦って人の分析が書いてあるけど
俺は日本側が倭なんて知らないと主張したから二つできたんだと思ってる
雅じゃないとか併合したとかは中国は信じてないから
>>745 旧唐書の倭人曰く〜には矛盾するところがない
倭王武の上表文そのまんまだから
>>746 古田武彦って人はそれだと矛盾があると考えてるみたいだが
>>744 狗奴国が単なる内乱ということですよね?
それでよろしいと思います。
>>750 よろしくないね
卑弥呼と卑弥弓呼だって
すげえ名前が似てるね
倭国の極南界が奴国なのではなく
南を極むるなり
つまり九州制覇したので金印授与
この当時は九州意外の東の田舎の島はカウントされないのよ
>>749 魏略逸文の「女國」を見ると、女の王国っぽくなりますね。
すごくどうでもいいことですけど。
>>755 まあそんなとこだろう
それで内乱が起きたのか?
加羅国王、荷知 斎より「輔国将軍・本国王」に冊封
加羅国王、己本旱岐 書紀神功皇后62年条
この「本」の意味はどちらもはっきりしてない
狗奴国=ただの言い訳説は、徳島大学・歴博所属の東潮(あずまうしお)の説であるが、久住なんかは南九州説、寺澤薫や桃崎祐輔は東海説、
一番ぶっ飛んでるのが北條芳隆の吉備・伊予・讃岐・西播磨・南九州連合説。
卑弥呼は日御子、卑弥弓呼は日御彦?日命?日尊?
文字は無いけど
>>738 1世紀から交流してるから大陸は別に敵じゃないだろ
>>764 朝貢させる相手に危険を感じないわけないだろ
ただでさえ環濠集落という周りを警戒するような集落が流行ってる時代にありえないわ
>>766
>ただでさえ環濠集落という周りを警戒するような集落が流行ってる時代にありえないわ
「卑弥呼」の時代には、流行っていないよ。 @阿波 卑弥呼の時代環濠なんて無いよね
伊勢遺跡ですら無い
>>760の訂正
北條芳隆、西播磨・吉備・伊予・讃岐・南九州連合説でした。
中播磨、東播磨は邪馬台国の一部となっております。
2000年後も同じ
皇帝菌平が倭国占領の
夢を見てる
お見苦しいところすみません。
ちゃんと西播磨と書いてました。
ところで、北條芳隆も九州は末盧・伊都・奴これ以外は必要ない説ですね。
楽浪土器の分布と中国鏡の分布を重視したと思われます。
筑紫平野も狗奴国なので、吉野ヶ里も狗奴国扱いですね。
>>772
「卑弥呼」の時代に東日本なんか無関係だ。 @阿波 >>766 100年以上も付き合いのある相手だよ?
あとこの時代の海は絶対や
現代ですら海を隔てた侵攻は難しいのに
>>777 じゃあお前は中国やロシアなどの共産勢を信じてる?
>>769 纏向出土外来土器(修正版)のトップが吉備25%なのに狗奴国扱いなのか
武の上表分に毛人と書いてあるんだぞ
これなんと読むんだ?
>>780 お前は紀元前から精神性の進歩が見られない共産勢を信じてんの?
>>752 100%あり得ないと思いますけどね。
福岡・佐賀と熊本・鹿児島・宮崎は全く別の文化圏です。
ところが、福岡県と愛媛県と高知県は同じ文化圏にありました。紀元前3世紀から銅矛で繋がっていました。
南九州からは中国鏡も全然出てきません。
東北を平定できたのは平安時代
それまでエミシは敵だ
>>781
>武の上表分に毛人と書いてあるんだぞ
そりゃ、「卑弥呼」の時代より下っているからだよ。 @阿波 >>781 マウリェンかな
当時の日本語ならエミシのことをそのように漢字表記したのだろうか
ちなみに万葉仮名の毛は「モ」
>>781
>武の上表分に毛人と書いてあるんだぞ
そりゃ、「卑弥呼」の時代より下っているからだよ。
時代センスが無いのか? @阿波 >>779 ですね、纒向共立国の外来はどう考えても吉備が盟主的な扱いになるはずだと思います。
>>786 そうとしか思えんだろ?
エミシを表すのに適当な文字
陳寿は蜀(西晋)の人
同時代の魏の数学者は当時で一番正確な円周率を導き出している
魏がいたから対馬海峡を渡ることが可能だった
呉にそんな操舵能力があったのだろうか
おそらくない
鍵唐古は幅8mの大環濠が大きな集落全体を取り囲んでおり
弥生時代末期には大環濠が埋め始められて
あとは細い環濠の再掘削のみと寺澤らが発表してた
しかし今は集落全体を取り囲む大環濠は疑問視されてるし
そもそも大環濠が防御目的かも分からなくなってる
青銅器の製造と大環濠の掘削の時期はずれているらしい
そもそも大環濠が集落を取り囲む環濠集落は他でも発見されてない
大環濠はあっても取り囲んでなかったり
吉野ケ里のように外に居住地があったり
纏向大溝だって取り囲んではいない
古墳時代初期にも環濠再掘削が確認されてる
大溝の目的用途は不明と言うしかない
豆沢、若林などの調査発表による
そもそも論として台与になってようやく収まったのに
卑弥呼が女王になる前から環濠が埋められてるという発表に疑問の声はあった
>>790 呉はハノイまで南進してるんだけど
途中の海南島はスルーしてるんだよね
やや遅れて制覇するんだけど
川下流部と低湿地帯と入江の戦闘は強かったんだろうけど
>>791 単純に河川を利用した環濠集落だったんだろうな
纏向のは環濠じゃなく水路だよね
環濠集落の環濠に水なんて無いでしょ
>>736 九州の動きと奈良の動きは連動していないと考えてもいいと思う。
つまり九州は九州で(邪馬台国と狗奴国の争い等で)勝手に衰退
していって、奈良は奈良で(新しい技術の流入等で)勝手に繁栄
していったってことでいいと思うんだがね。
>>793 確か川に囲まれた中洲の作業場だったって説があったような……
そもそも九州と奈良は、それこそ帯方郡から九州までと同じくらいの
距離があるわけで、それぞれが独立して繁栄なり衰退なりしていったと
考えるほうが自然だと思うんだけどねえ。
>>799 本当それ
無理やり邪馬台国とヤマト王権を繋げる必要はないわ
大体卑弥呼と天皇家は合わない
俺は九州は無関係だと言ってるだけでつなげてはいないんだが
>>799 九州説の陣営は立場悪くなるとその説言うよね
畿内の弥生期のショボさ
その弥生期と全く文化的な繋がりのない古墳時代
畿内が独自に勢力を形成してるわけないだろ
>>803 あ、いや、ワシは九州説ではあるんだが、例えばアマテラスは
卑弥呼をイメージして作られたと考えていて、ヤマト王権の
成立と拡大に九州の勢力が少なからず影響を及ぼしているとは
考えている。
特にその影響が大きかったのは崇神=神武と応神、そうして
なにより天武以降の頃だったと思っている。
当時の日本の民族区分け
九州北部→東南アジア系、これは記紀にもその特徴が描かれている
魏志倭人伝にある風習は伊都国周辺のものだろう
九州南部→ポリネシア+中東系、今でもここの民は顔が濃いし巨乳(でぶ)が多い
和歌山〜伊勢までこいつら
四国 →ユダヤ系白人、邪馬台国はここにあったと見るのが筋だろう
北陸山陰→中国半島系移民難民の主な住処
今の日本人のルーツがここに詰まってる
畿内以東→縄文系がまだまだ根強かったとみられる
ただし和歌山〜伊勢辺りはベトコンに支配されつつあるようだ・・・
維新のせいで中韓共同自治区になりつつある
埼玉 →クルド人自治区へ
トンキン→中国日本省
とーほぐ→既に熊に支配されている
北海道 →ロシア領へ
ほんとここは根拠を示さず九州連呼するバカしかいないな
トランプに押し付けられるであろうガザ民は恐らく四国へ配置すると思われる
閉じ込めようって訳だな
ただ四国人はユダヤ最後の末裔でありガザ民と悶着あるかもしれない
それこそがネタニヤフの狙いか?
>>809 普通に考えたら台湾しかあり得ないのにね
考古学会の現状をお伝えします。
・国立民俗歴史博物館のホームページにて、故・佐原真館長が「考古学者の大多数は邪馬台国大和説です」と書いている。
・日本考古学会の新会長になった石川日出志(明治大教授)は、福岡県のシンポジウムで「九州の皆さんごめんなさい。奴国2万戸を上回る国を九州に想定できないので、邪馬台国は九州以外です」と発言。
・西谷正(九州大学名誉教授・糸島市立伊都国歴史博物館名誉館長・福岡県立九州歴史資料館名誉館長)が大和説。
・日本考古学会・新副会長の宮本一夫(九州大学名誉教授)が大和説。
・宮本一夫の師匠である故・岡崎敬(九州大学名誉教授)も大和説。
・若手の辻田淳一郎(九州大学教授)はどこ説か明言してないものの、三角縁神獣鏡は魏鏡と明言するなど、大和説の可能性が極めて高い。
・糸島市立伊都国歴史博物館のXが畿内説(吉備を投馬国と想定しているなど)
・福岡大学の桃崎祐輔教授は、畿内瀬戸内連合を邪馬台国(初期ヤマト王権)とし、曹操の墓からも出てきた、小札革綴甲冑(かぶと)が畿内を中心に出てくることから、畿内説を採る。
・福岡市埋蔵文化財センターの久住武雄は、21世紀に入り九州説にトドメを指した人物と言っても過言ではない(Xでよくケンカを吹っかけてくる素人九州説を論破しまくっている、邪馬台国大和説)
EC ヨーロッパ経済共同体
EU ヨーロッパ共同体
大倭とはどんな機関だったのか。
神武天皇が大物主の国に行って、東征のルート上の国々東日本の国々と環太平洋パートナーシップ協定みたいな貿易機構を立ち上げた。
欠史八代の天皇はその貿易機構の本州側の長官だった。だから諱に大倭がついている。
崇神天皇が四道将軍で地域を政治制圧、ヤマト王権が経済共同体的な性質から政治統合的性質へ変化。
そもそも三國志が信用されてないのに
考古学や歴史学者ではなくこればっか追及してるのは支那人だからだよな
気持ち悪い
肩書きで信じ込ませる手段は好きではないが遺跡に詳しければ畿内以外にはありえないって結論になるのよ
>>809 根拠を示して反論してくれてもいいのよ?
>>815
>畿内以外にはありえないって結論
巨大墓場がか? @阿波 日本人の神や王には敬称必須なんだよ
そこすら守らずに書かれた書物を日本に持ち込むのが間違い
そう言う事がないように魏志倭人伝では日本が異常な大国に描かれている。
それに気づかずアホみたいに純真に魏志倭人伝の記述を真に受けて近畿だとか抜かす馬鹿は古代人より知能が下
つーか投馬国は古代氏族である當麻の本拠であり地名に残る大阪と奈良付近
ぶっちゃけ弥生時代において重要な石器素材の産地である二上山の周辺地域(河内含む)だろう
大乱の跡なく蛙の骨と大量の桃の種が見つかった平和な纏向遺跡
九州は関係ない。漢代で終わり。
三国志、後漢書の言うヤマトは魏以降の情報。
>>803 巫女皇后にぴったりや
中央集権化を進めてる持統の時代でさえ巫女的だ
>>797 で、4世紀になると邪馬台国は分裂してあちこちに女首長がいて小競り合いになってるところに
最強ヤマトさまが女首長らを「土蜘蛛」として征伐、九州の地を平定したってわけか
>>824 天皇家の巫女(斎王)は独身じゃん
モモソでさえ神さまと結婚するからと独身なのに
>>815 > 遺跡に詳しければ
やっと歴代の王の墓なり大陸と公的な繋がりを示すものなり出てきたの?
列挙してみて
コピー銅鏡や年代測定のあやしい古墳はもう飽きたから省いていいよ
>>827 他の地域とは比べ物にらならいほどの生産活動や集落など人の営みの痕跡
九州だとこれの半分も無理だろう
>>828 わろた
交易の中心地だって意味しかないのを理解できない?
倭種の国は栄えていて良かったねーとしか
つまり、まだろくなもん出土してないってことか
桃の種が出てきたから邪馬台国だーと言ってたくらいだもんな
>>829 これで分からないなら低知能すぎるな
かつて河内湖だった周辺なんてどこを掘っても集落か水田などの耕作地や墓のどれかが出てくるレベルなのに
一度河内周辺で見つかった遺跡や以降遺物について書かれた書物読み漁るといいよ
>>831 魏志倭人伝の記述と一致する遺跡や出土品を挙げてみせなって
じゃないと説得力ないよ
馬鹿に貴重な資料を見せびらかすわけねーだろ
研究したいなら自力で資料集めな
今はネットで遺跡の情報山ほど収集きるから
最低でも100冊以上は読み漁れ
年代測定をアレして「年代が一致したから邪馬台国だー」とか言ってんだもの
ゴッドハンドをやらかさないか心配
まあお前は死ぬまで読み漁っても自分の頭で考え答えを導く力がないから無駄に終わるだけだな
来世は最低でもIQ130以上に生まれるといいな
上司が陸遜や全jのような分別がある人ならいいけど
>>1の孫権のようにおかしい命令を出す人で
それで処罰されたら堪らないね
さて
>>507と
>>733で内容が異なるのは何故かな?
>>823 後漢書は2世紀末の卑弥呼共立で終わる
桓霊の間(146-189年頃)倭国が大いに乱れて暦年大倭王が不在になった
そして女王を共立したのが190年ごろと考えられている
ちょうどその頃遼東で公孫氏が台頭してきて後漢と東夷の連絡が絶たれた
そのため後漢書に書かれてる倭人伝はソコで途切れて終わることとなった
公孫康が204年に帯方郡を設置すると韓倭は帯方郡に所属した
卑弥呼共立からずっと倭国は公孫氏に朝貢する時代だったと思われる
220年、後漢は魏に禅譲して滅亡する
237年に公孫淵が独立して燕王を自称すると
翌年238年には卑弥呼がお祝いの使者として難升米を派遣する
ところがその年の初頭には帯方郡が魏に占拠されており6月に到着した難升米は郡に留め置かれてしまう
8月に入って公孫淵が討伐されると難升米は洛陽に連行される
12月になって証書を貰ったという経緯
沙摩柯も沙也可も変換候補に入ってるのな
スマホすげー
うちのATOKはそんなの出ないけど、なんのIME使ってんだよ
呉懿沙摩柯(しゃまかの方)沙也加
俺のIMEいけた
三国志すげー
日本でどんだけ人気なんだよ
捜索で言えば西遊記と封神演義がせいぜいで他は無名なのに
>>420 同族
元々、周王家の王族で姫氏
秦の白起なんかも姫氏
これで完全にみんな分かった、石破が完全アベ(韓鶴子)朝鮮人だったということが
多大な戦死者出して攻め取ってもそれに見合う価値がなければやらないよ
まして温暖な河南の地から雪降り積もる所に左遷じゃ駐屯軍の反乱起きるわ
全然関係ないけど「ヤマトトトヒモモソヒメ」のwikiにある
「箸墓=土師墓」説がそんなわけねーだろと思いつつも面白い。
「土師氏」(野見宿禰関連の一族)と「陶氏」(大田田根子
関連の一族)も関係がありそうだし。
ちなみに土師氏は「出雲(いづも)」からきた渡来人で、
陶氏も「泉(いづみ)」にいた渡来人だという説を提唱したい。
狗奴国は後に四国へと「東遷」します。
狗古智卑狗こそ、伊予の河野氏の祖と伝わる河野越智彦その人でしょう。
古代の中国は日本を侵略しようとしていた
今の中国はロシアを攻めようと虎視眈々
>>855 そんな考え微塵もねえからロシアに引っ付いてんだろ
>>856 CISとかかなり中国寄りになってるよ
ウズベキスタンとか旧ソ連共和国の連合
あ、一つ仮説というか思いつきというか妄想が浮かんだ。
「名前に『ヤマト』がつく人、全員記紀で作られた説」
神武(神日本磐余彦天皇)
倭迹迹日百襲姫命
倭姫命
倭建命
他にもあるかな?
ちなみにモデルになった人(事象)がいる可能性は否定しませんけど。
>>855 中華思想は歴史的に中原以外の土地は蛮土だから領土的野心は薄いんだってばよ
それだけが鼻持ちならないあいつらの思想の数少ない美点だわ
今のちうごくは文革で過去破壊した後のメンタルだから遅れてきた帝国主義やってるけど
ググったらこんなのがあった。
「「倭日子」「倭比売」と言う称号」(古田史学会報169号)
www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho169/kai16903.html
まあ掲載誌とか内容はともかくとして、古事記に出てくる
「倭」を含む人名の一覧として
>・神倭伊波礼毘古命(神武天皇)
>・大倭日子鉏友命(懿徳天皇)
>・大倭帯日子国押人命(孝安天皇)
>・大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)
>・大倭根子日子国玖琉命(孝元天皇)
>・若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)
>・倭日子命(崇神天皇の子)
>・倭比売(神宮初代斎宮、垂仁天皇の子)
>・倭者師木登美豊朝倉曙立王(曙立王、開化天皇の曾孫)
>・倭男具那命(倭建の幼名)
>・倭根子命(景行天皇の子)
>・倭建命(景行天皇の子)
>・倭漢直の祖、阿知直(渡来人)
>・白髪大倭根子(清寧天皇)
>・倭比売(継体天皇の妃、三尾君の妹)
となっていて、「記紀で作られた説」というのには弱い気も
する人も何人かいる感じ。うーん、もうちょっと考えようか。
>>862
『磯上乃古事記』では、わが国の天地初発の時より記載が始まるのは当然ですが、
諸国風土記のうち、同じく天地初発より記された風土記は、阿波風土記を除いてはありません。
この当時、『磯上乃古事記』が選定されたすぐ翌年に、諸国に命じ、
それぞれの風土記を作らせた記録が出てきます。 @阿波 「天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)」
阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
これは、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。
※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。 @阿波
>>864 単に奈良(ヤマト)に阿波が支配されてたってだけの話じゃね?
風土記だって結局最後はヤマト王権の役人がまとめたんだろうし。
今日も延々と阿波起源説を垂れ流すのか
どっかの国みたいだね
>>867
阿波起源なんだから、どうしようもない。 それを否定するのであれば、論理的に論破するばよいだけのこと。 @阿波 >>868
それが出来ずに、愚痴を言うだけのヘタレ信者。 @阿波 そういえばイザナギとイザナミがオノコロ島に降り立ってから
最初にできた「蛭子」とその次の「淡島」が不具者だったん
だけど、この「淡島」って普通に考えたら「阿波」なんじゃ
ないかと思ったり。
>>870
そのオノコロ島は、物部(忌部)郷にある、吉野川の中州だね。 当然、葦も自生する。 @阿波 >>871 えーと、オノコロ島はまだ四国ができる前の話なんですが……
まさか憧れの三国志に日本がいっちょかみしてるとは思わなかった
これはちょっと誇らしい
>>874
神話を現実に直して語れるのは「阿波」だけ。 @阿波 >>875 そもそも「邪馬台国」が最初に出てきたのが「三国志」なんですけど
>>874
神話を現実に直して語れるのは「阿波」だけ。 @阿波
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