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【歴史】家康と徳川家臣団、名家自称も実際は出自不明な流れ者の集団か [樽悶★]YouTube動画>2本 ->画像>5枚
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森岡浩(姓氏研究家)
徳川家の菩提寺、大樹寺(筆者撮影)
今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、これまでの狸おやじのイメージを覆す、情けない家康を描いた斬新なドラマである。
殿さまである家康は情けないが、その家臣団の団結力はどの戦国大名にも負けない強固なものだった。とはいえ、その譜代の家臣団たちは、絶対服従の織田家や、カリスマに率いられた名門武田家などとは違い、殿さまと家臣の距離感を含めてなんだか怪しげな雰囲気を醸し出している。
■松平氏のルーツ
徳川家康は三河の国衆松平氏の出身である。松平氏は家康の代には落ちぶれていたが、もともとは西三河を代表する有力国衆であった。そして、その先祖は清和源氏新田氏の一族である得川氏で、そこからのちに名字を「松平」から「徳川」に変えたとされている。
しかし、これは自らを権威付けするためのウソで実際の出自はわかっていない。
三河の山中の一武士だった松平氏に婿入りした、流れ者の親氏という人物が松平一族を一躍発展させたものだ。
孫の信光の代には山間の松平郷から岡崎平野に進出、多くの子を各地に配して勢力を広げたが、京の室町幕府とも関係を築き、その弟の益親は京で金融業を営むなど、他の土豪層とは違った活動を見せていたことがわかっている。
■家康の家臣たちのルーツ
主である松平氏が出自不明なため、その譜代の家臣たちの出自もよくわからない。家臣団筆頭の酒井氏は松平氏の分家とされる。ただし、二系統ある酒井氏は、その先祖についての伝承が異なり今一つはっきりしない。
大久保氏は、家伝によると藤原姓で遠祖は下野の名門宇都宮氏の一族。南北朝時代に泰藤が南朝に属して転戦、新田義貞の死で越前国から三河国碧海郡上和田(現在の愛知県岡崎市上和田)に来住したというが、これも伝承の域を出ない。
鳥居氏は熊野の鈴木氏の一族で、忠氏が父との不和から三河国渡(現在の愛知県岡崎市渡町)に移り、その17代の孫にあたる忠吉が岡崎城主松平清康に仕えたというが、忠吉以前の鳥居氏の動向ははっきりせず、歴史上に登場したのは忠吉以降のことである。しかも、鳥居氏は通常の武士ではなく、商人としての側面もあった。
そして、家康家臣団に数多くの流れがあった本多氏は、藤原北家の一族で助秀が豊後国本多に住んで本多氏を称したのが祖というものの、この豊後本多という地がどこにあるかはわからず、豊後からどうして三河に移り住んだのかも不明という謎の一族である。
さらに、石川数正は河内石川氏の子孫というがやはり怪しく、服部半蔵は伊賀の名家服部家の出であるのは間違いないが、なぜか父の代に伊賀を出て三河に住んでいた。
■流れ者の集団
ようするに、みな名家の末裔とはいいながら、実際にはよくわからない他国からの流れ者達である。
そして、やはり流れ者から地元名士の婿に収まった松平氏のもとに集結した、流れ者集団であったことになる。(以下ソース)
5/24(水) 12:20
https://news.yahoo.co.jp/byline/moriokahiroshi/20230524-00341518 秀吉は何が何でも徳川滅ぼしておくべきだったよ 九州征伐みたいに20万動員すりゃよかったのに
とは言え、同時の最高権力者になったことに変わりないし。
だからこそ面白いのよ
宇都宮氏を始めとする関八州の戦国武将たちは豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏に付いてまとめて御家断絶の目に遭ったりね
ドラマに出てくるジャニタレはパックンチョされたんでしょ
ウチの御先祖様は室町時代に壬生氏に付き従い京から下野国に下った武家だったりねw
天皇だって辿れば出自不明
途中で乗っ取られてる可能性もある
人は記憶型と思考型に大別できる
松平家って「おんな城主 直虎」の龍雲丸一家のようなもん
近代では鉄と石油
当時は鉄と木材
これを握って松平家は大きくなったんだ
イチローも朝鮮人とか言われて思いっきり本人が否定してたわ。
先祖が武士だったって家系もだいたい嘘だよな
明治時代にニセ家系図が流行ったんだろ
あれは先祖が嘘つきだったということに等しい言葉なので使わないほうが好印象
もちろん本物もいるだろうが
名家はとっくに戦もせず優雅に豪商・農やってのんびりしてるよ
むしろ徳川家康は源氏より偉大であって
源氏は先祖にしてもらってありがたく思えよ
姉小路頼綱「名家詐称とは片腹痛しwww」
一条兼定「田舎ものでおじゃるな」
今川氏真「恩知らずなのも納得ぞよ」
酒井も本多も榊原も怪しいとなると
有名どころではっきりしてるのは
井伊直政くらいか
(´・ω・`)
武田信玄くらいじゃないの?
本物の名家の流れで強かったのは
>>1 松平と聞くとキックの鬼と連想するようになった
>>30 毛利は源義家に軍略を教えた大江匡房、
頼朝家臣の大江広元の末裔
当時は家系図を作ってもらうのが公然と行われてたんでしょ
貧乏な公家とかがアルバイトでやってたり
さすがに松平家の家系図造りは苦労しただろうな
徳川軍団ってそれ以前の支配者たちと比べるとどうにも違和感あるからな
隠しきれない卑しさを感じるがその代わり実務では有能だった
>>34 『鎌倉殿の13人』大江広元役栗原英雄さんが我が栃木県壬生町出身ねw
>>25 の続き
二郎太郎家 岩津城
二郎二郎家 岡崎城
二郎三郎家 安祥城 ←家康
>>26 >孫の信光
この信光が二郎、或いはその子
織田も、豊臣も、徳川も、出自はみんな怪しいよな。
運と実力はあったってこと。
下らないドラマやってる暇があるなら児童性加害報道しろやNHK
歴史見たらコレ普通なんだよね。戦国時代まで来ると、甲斐武田氏とか島津氏とか名家で力持ってるのは僅か
軒並み落ちぶれて、その家臣だった家とかどこの馬の骨か分らん土豪が力あるんだからさ。そういうもんなんだってw
だから一番凄いのが結局天皇家なんだ。名家だけど力に頼らず令和まで権威を持ってんだからさw
>>2 うん。
今更記事にすること自体が恥ずかしいくらいの今更感。
>>30 六角、畠山、細川あたりは名門になるんじゃないの?
カムイ伝も読んでないのか
農民の子孫って描いてあったろうが
>>41 織田家は劔神社の神主の系統じゃなかったっけ
足利尊氏の絵も別人だっていうし
日本の歴史はいい加減なものよ
古墳も掘らせないし
>>47 長尾って言っちゃってんじゃんw 謙信の家は親父の為景の代に成り上がっただけ
力衰えた上杉を継ぐけど、元の上杉だって足利の家臣筋
つーか三河の松平家多すぎてほんと覚えるのムリぃー
あいつら当時どうやって覚えてたんやろうな
本多もたいがい多いが
NHKはさっさと分割民営化しろ
国鉄、電電公社、専売公社、日本道路公団、郵便局に何年遅れてるんだよ?
佐竹氏は清和源氏:源義光直系で、家康も警戒した本物の名門
>>1 信玄にビビって漏らした野郎が神君とか受けるwww
>>56 地名やろ
地元民からしたら馴染みのあるフレーズばかり
戦国武将とかヤクザと同じだし
海千山千の輩だろ?w
>>41 豊臣は怪しいどころかはっきりしてるだろ。公家や武士以外の何かだよw
織田も神職または越前の有力豪族上がりだし。出自不明で戦国以前、越前からの守護代にゃなれんよ
>>61 お前は地元民かもしれんがほとんどの人間は違うだろ
当時も尾張の織田や駿河の今川からすりゃ三河の地名なんか
そんな馴染みないだろうし
○○松平が△△松平と揉めたのを□□松平が仲裁したとか言われてもわけわからん
織田も多いけど松平ほどではない
それが400年占めて、日本人を今のように躾けたからエグい
天皇だって元を辿れば喧嘩が強いか口の上手い農民や狩人だったんだからそんなもんよ
どれだけ1つの名家が輝き続けるのが難しいかってことよ。
日本史上一番長い幕府を築いた徳川宗家当主だって、今は地方選にも落ちるのよw
みんなそんな日本史を踏まえれば、天皇家の凄さ分かるっしょ。日本そのものでしょうよ
>>37 商人の側面ってあるからそこら辺は上手く繋がりを持てそう
相手のメンツ潰さない様に融資とか融通とか
都の貴族騰落表作ってる様なのも中にはいただろ
下剋上上等なのが武士なんだし出自なんかどうでもええやん
戦国武将はドラマでもゲームでも
最近やたら美化されすぎよな
信長なんかキムタクだし光栄のゲーム
なんかどの武将も朝からシャワー
浴びて髪整えてるようなイケメンばかり
で気持ち悪いわ
どんな名家も元を辿れば成り上がり者。石器時代の頃から名家だった家などない
>>40 の続き
家康は飽きたから家康誕生までの松平家のドラマをやった方が面白い
>>73 隣の家にお前らの住んでる土地をよこせ!と一方的に難癖をつけて、武器を持って〇〇組の組員みたいなコワモテの連中を大勢で攻め込ませて、掠奪、虐殺、強姦などやりたい放題。
それを繰り返して領土拡大😅
やってることはヒトラー、スターリン、プーチンと何ら変わりない。
「欣求浄土」「厭離穢土」「天下を統一して戦の無い世の中にしたい!」なんて歯の浮くような寝言をほざいて、やってることは忠臣 石田三成を悪役に仕立て上げて天下を盗んだだけの大悪党🤣
>>78 おお、伊勢宗瑞
二郎太郎家が壊滅したね
おら~二郎二郎家が今川を引き込んだんじゃねーかと睨んでる
>>4 小牧・長久手の戦いの後、九州征伐の前の1586年初頭に
秀吉は家康討伐を計画してその前線基地となる大垣城に15万人分の兵糧を備蓄したけど
木曽川の流れが大幅に変わるほどの天正大地震でその大垣城は壊滅
秀吉軍が展開予定の美濃・尾張・伊勢地域の城や街の被害も大きくて
もはや家康と戦争どころじゃなくなってしまったからなあ
今の三河の強さを見たら、あの辺では普通のおっさんが普通に徳川四天王レベルごろごろしてるだろうことは凡そ想像がつく
尾張や遠江も優秀だけど、三河は群を抜いて優秀
琉球王朝も源氏の威厳で成り立っていた
実際に源氏なのかどうかは不明
鎌倉御家人だったら格好がついたがただの国人だからな
武家なんて人殺しのヤクザと何も変わらんだろ
任侠道ってやつ?武士道も同じ
武力を背景に脅し強請集り何でもありだろ
武将の身長が124cmとか140cmとか凄く小さいのな
時代が動く局面では機能性を追った雑集団の方が地位に邪魔されず適材適所で役割分担するから強いんだろう
>>41 織田氏は越前国の織田(おた)荘(現福井県越前町の織田地区)にある劔神社の神職系の一族、
または越前守護の斯波氏の家臣で織田が拠点だった豪族が起源とされてて
織田信長自身も認識してる
岩明均の「雪の峠」で佐竹は例え東軍についてもモノホンの清和源氏の国持ち大名を江戸のすぐ近くの常陸なんかに置いとくわけにいかないから、
いずれ難癖つけられて転封か悪けりゃ取り潰しされてたんで出羽に流されてむしろ良かったてなこと語られてた
ニセ源氏の徳川からしたら佐竹なんて源氏の名門中の名門目障りだったろうが潰すなんてのは恐れ多くてできなかったんだろうw
名家と言われてる奴らの8割は乗っ取りと騙りなんだろ?
>>10 宇都宮は反北条だろ
宇都宮が改易になったのはお家騒動が起きて浅野の養子を後継者にする約束を反故にして
浅野が秀吉に讒言したからだ
始皇帝もカエサルもナポレオンもみんな三河出身みたいな
長文コピペを連投するいつもの三河の呑百姓に
まだこのスレを発見されてないみたいだけど
そのうち来るぞ
「武」とは即ち「暴力」であり、それは理不尽な要求を通す手段です
「武士」をいつまでも賛美するのは幼稚な文化と言わざるを得ません
現代で言えば半グレ集団が政治屋になるようなものだよね、あっ
要は初代はスバルの里からトヨタの里に流れ着いたいんちき坊主なんだろ?
冗談抜きで日本の大学機関には
なりすましの朝鮮スパイが大量に
入り込んで歴史を歪曲してるから
気をつけないとな。
皇族に朝鮮人を入れて貶めようと
してるのもこいつらですから。
>>41 人類の出自をさかのぼればみんな猿なんだろうに
出自が名家だとか名門だとかを誇っても意味あるのかって思う
単にどこかの代の先祖が、上手いことその社会の中で出世したってだけの話で
むしろ当人が当代で出世したっていうポッと出の方がよほど誇れることじゃないかと
一部の例を持ち出して多くの武家を
貶めるような事を言うのも朝鮮人のいつもの
工作だからな。
日本人はこいつら嘘まみれのクソ朝鮮スパイが
朝鮮儒教の士農工商という階級文化を
持ち出して日本の武家を侮辱した事実を
絶対に忘れないようにしないとな。
>>110 頭の病気だろ
徳川の先祖が氏素性の知れぬ成り上がり者だったのは少し歴史を齧っていれば知るレベルの話し
実は新田の子孫でしたとか現代人で信じるのはヤバいはw
>>113 頭の病気なのは
朝鮮スパイに都合の悪い事を言ってる
投稿者にすぐに頭の病気とか喚き出す
お前らクソ朝鮮人のなりすましの方だろうが。
お前みたいなのは鬱陶しいから
いい加減に実名を出して自己紹介しろ、
朝っぱらから掲示板に張り付いて
間髪入れずに朝鮮スパイを非難する
日本人を精神病扱い、
今の俺にそんなレスをしてくるのは
中国朝鮮のスパイかなりすまししかいないんだよ。
>>22 ウチも爺ちゃんがしきりに武家を自称していたが
あったとしても偶に戦に駆り出された農民だと思ってる
元いた土地の話聞いたら物見櫓や土塁なんか作ってそうな山だったな
戦国武将の大半はそうでしょう。
でも中国なんか野盗の類いが皇帝になったりするしな。
新選組も農民だったんだっけ 昔は強ければ何でもありじゃないの
なりすましの朝鮮人どもが
由緒正しい日本人を敵視してるのも
もう誰の目にも明らかだし、
ムーンをはじめとした朝鮮人どもが
日本の皇族にちょっかい出してるのも
暴露された事実だろうに
本当にこいつら鬱陶しいよね。
士農工商なんて朝鮮儒教の
とんでもないレッテル張りを
昔の左翼朝鮮人まみれの日本の
教育機関が教科書に紛れ込ませて教えていたのも
事実だからね。
本当にこいつらの言い分は異常だからな。
一部の出自不明の連中を持ち出して
武家全体を貶めるような事を言い出す、
朝鮮の姑息で卑怯な日本侵略工作の一環だからな、
由緒正しい日本人を貶め日本人同士で
対立させようとするのは。
大学出てなくても将軍になれるんだから本人の頑張りしだいだよね
本当に朝鮮人スパイどもは姑息で卑怯な事ばかり
してくるから日本人は気をつけないとね。
こいつらの目的は日本文化の破壊工作ですから。
ムーンだろうがダイサクだろうが
共産主義のなりすましだろうが
その目的は一緒なんです。
冗談抜きで朝鮮とも戦争だから
日本人ならもう朝鮮とは関わるなよ、
薄気味悪いハングルも日本の標識から
追い出すから。
愛知の古代史は謎だよな
古代の伝承がほとんど残っていない
スケベ坊主が松平氏の始めという説もあるか
まぁ坊主だからスケベでもそれなりによかったのか
新田から続くという得川氏の出身というのも得を徳に変えて徳川にしてるからな
家康もいろいろ制度について悪用していたというか
秀吉に従わなかったのも秀吉の官位が低いからっていう理由もあったみたいだしな
それで秀吉は一気に関白になるけど
明治の華族だって下級士族の出身で維新の波にのってなった者がたくさんいるし。
そりゃ、そうだろ。
藤吉郎が関白になれた時代だからな。
刃物持った反社だろ武士って
どっかの博物館で、家の外の通り歩く農民を弓矢で遊びがてら射ってる絵があった
>>133 そういやあ武士はヤクザだと主張していた歴史家がいたな
織田信長の実家も元々は愛知県にあった漁村の村長でしょ。
家康の祖先も元が京都御所を警備してたアルソックみたいな集団組織で出自不明者を一括採用して期限到来で解雇するという現代の派遣みたいな仕事をしてた人が年齢を理由に追い出されて三河の酒屋を生業としてた酒井家の分家の長女をたぶらかして孕ませて力づくで乗っ取った経緯があったとか聞いた事あるが、文献資料だけではよくわからんので歴史などいくらでも変わるものだよ。もしかすると京都で警護経験すらなく、奴隷農民で酒井家の分家を襲撃して乗っ取りしただけかもしれないし。
そりゃそもそも応仁の乱以降の下剋上の混乱の中で源平藤橘の公家の豪族の領土にいた百姓土民が合戦の傭兵でなりあがったに過ぎないからな
動乱に便乗して一旗あげるかって感じで皆集まって来たんやな
日本にも小柄な在来馬はいたが、高句麗との戦いで初めて騎乗馬を目にしたヤマト王権は、群馬に新たに繁殖や飼育の技術を持つ高句麗人を招聘した。
積石塚は中国東北地方に拠点を持っていた頃の高句麗で発生した、長野は高句麗の渡来文化の影響が強いところである。百済からは新羅を横切って日本海を渡るしかないし、大和からの距離もある。
一方で高句麗からは日本海を渡れば、糸魚川から簡単に入ってこられる。高句麗の故地は冷涼な山岳地帯で、狩猟文化+農耕文化を持つ彼らの生活基盤とよく似た自然条件だからである。
大室古墳群からは馬の生産と関係する物が出ている。168号墳からは墳丘の裾周辺から土師器、須恵器のほか、土馬が発掘された(168号墳は古墳の周りに浅い溝が巡っていて、全体として方墳の様に見える古墳である)。
騎乗馬の使用も高句麗人の文化である。後の時代になれば、東山道を通じて大和と結ぶ交通の要地にもなっていき、新たな高句麗人も配置され「牧」が作られた。大室にも「大室牧」があったと言われる。
いずれにせよ、高句麗の影響が強いと言われる地域から積石塚が見られ、長野県にはここ以外にも多くの積石塚が見られ、山梨、群馬でも積石塚が見られる。
そりゃ世襲じゃあ乱世には耐えられんからな
今の日本や徳川時代みたいに平和だと、権力は自然と世襲制になるけどさ
伊那谷は、西に木曽駒ヶ岳・南駒ヶ岳、東には甲斐駒ヶ岳が見える。
正式名称では 16ケ所あるといい 駒ヶ岳は、福井・富山・信濃・甲斐・神奈川以北にある。
紀元前37年頃~668年に、半島から大陸北部にかけて、扶余系民族の 『高句麗』 という国があった。
古代、「高句麗」の国からは、『弊賂弁島』と『渡島』を経て、列島に多数の帰化人が入植した。
「諸蕃」とは、古代日本における「三韓」と呼ばれた朝鮮半島の国々及び高句麗、百済、新羅など朝鮮諸国と中国に対する呼び名。
主に三韓に出自を持つ者。和訓は「もろもろのえびす」。
全然かまわんし、そもそも雑草という名前の植物はないんだぜ?
今川とか吉良とか
敵として出てくるけど
小大名や旗本になってるのは除外する記事
>>145 無職ひきこもりに
ひきこもりというと怒るようなものか
猟銃だしてこないでね
>>77 の続き
賀茂氏の流れの松平家がまずあって、なぜだか徳川はそこへ婿養子に入った徳阿弥の血を強調するんだ
血筋とか誇ってもなあ...
今の議員連中見てると誰々の息子とか親類とかいうより
やる気と実力とコネクションがあったほうがいいと思うわ
この世を生き抜くにはバカ正直じゃだめだな
俺らも東大卒くらいに設定して面接受けないと
>>137 越前織田荘出身だよ
斯波氏の下で尾張国の家老家系だったのが信長父が乗っ取った
血筋は源平藤、天皇家からの距離で権威だろうな
他の流れはどうでもいい感じ
お前らの4~5代前も
名もなきど田舎の百姓で
祖先は祭りの時の乱交で生まれた子だよな
だからブサイク多い
平時なら血筋云々もいいけど
乱世にそんなもの必要ない
政治家、指揮官として実力があるかどうかが全て
今の世も乱世と言えるから
尚更そういう人材が出てきて欲しい
>>148 の続き
婿養子というが、力づくで松平家を乗っ取ったのやもしれん
>>149 鳩山弟は議員になるべく大卒後は新聞記者になったそうな
その頃から目指していた
鳩山兄は学者だったが出世した弟がうらやましくて
ママにねだって出馬したそうな
動機はどうあれ
やる気とコネ金が必要だね
岸田息子はどうなるかなあ
>>154 都会人にハゲが多いのは
先祖が適者生存で頭ハゲ武士の子孫なのかもね
まあ動乱期はそうなんだけど、いつかは平時にもどるわけで
高貴でなく卑しいものが汚れ仕事やりすぎると、政権に入れてもらえなかったりするわけです
>>1 でもこういうのって今は差別とかにならないの?
昔週刊朝日が
橋下徹の特集やって親や先祖のことをいろいろ書いて
ハシゲに訴えられて負けたでしょ?
東北アジア歴史財団が最近出版した『新撰姓氏録 訳註本』によると、当時、事実上、日本の支配階層を構成した氏族1182氏のうち313氏が朝鮮半島から来たことが確認された。彼らは、戦争、権力闘争、自然災害などによって新天地を求めて移動し、または対日外交や政治的目的で派遣されて定住した朝鮮系の子孫だ。
『新撰姓氏録』は、平安時代を開いた桓武天皇(781~806)が799年に編纂を命じて815年に完成された古代氏族名鑑。遷都した平安京(京都)と畿内(都や皇居に近い地域を指す呼称)に居住する氏族1182氏の系譜を記録した。8世紀末、奈良時代の政治的混乱の中、平安遷都を行った桓武天皇が主要氏族の系譜を把握し、支配秩序を強化して社会の安定を図るために編纂したという見方が支配的だ。
桓武天皇は、2001年に天皇陛下(当時)が「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べ、注目された。
同書は、神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族(皇別)、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族(神別)、渡来人系の氏族である諸蕃で構成されている。諸蕃で朝鮮系氏族は百済104氏、高句麗41氏、新羅9氏、任那9氏の163氏で、中国系氏族は漢163氏。これまで朝鮮系氏族はこの163氏だけとされた。
しかし、東北アジア歴史財団のヨン・ミンス前歴史研究室長(63)を責任者とする研究チーム(韓国教員大の金恩淑名誉教授、釜山経済大史学科の李根雨教授、漢城大人文科学研究院のソ・ボギョン特任教授、忠南歴史文化研究院のパク・ジェヨン研究室長)が2014年から7年間、新撰姓氏録や日本書紀などの過去の史料を対照、検証した結果、中国系163氏のうち150氏が朝鮮系だったことが明らかになった。朝鮮系の氏族が漢や秦の系統の子孫だと主張した。
ヨン氏は、「当時、日本の朝廷は、朝鮮系など才能のある渡来人の子孫を重用し、いわゆる多国籍官僚群を形成した」とし、「同書は、古代日本の朝鮮系氏族史研究はもとより韓国古代史の外縁を広げるうえでも有用だ」と話した。
November. 18, 2020 09:00
https://www.donga.com/jp/List/article/all/20201118/2244640/ 家康が情けない、はないな
家康は黒田孝高に「天下を治めるのはあの人以外ない」とまで言わしめた人物やぞ
情けない、ってんなら秀吉の方がよっぽど情けない
____
/__.))ノヽ
.|ミ.l _ ._ i.)
(^'ミ/.´・ .〈・ リ 徳川はうちが育てたらしいな
.しi r、_) | 徳川幕府が発行した小判には葵の紋が打刻されてないだろ
| `ニニ' / 三浦按針に上様はキングですとかドラマで言われてももわたしはキングじゃないとか言ってるだろ
ノ `ー―i
>>160 朝日とか毎日とか、普段は人類皆平等みたいな態度でいるのに
出自とか気にしたり、東大合格名簿とかやっているのは何なん
大衆の上に立つ高貴なエリートという感覚なのかな
家康みたいなタヌキ顔はどう見ても三河にいるおっさんの顔だし信長は名古屋にいそうな顔してる
愛知県に1番いなさそうな顔は秀吉
秀吉みたいなオッサンいっぱいいるけど
ちなみにハゲてるから帽子被ってる
家康みたいなタヌキ顔のおっさん三河に沢山いる
信長は名古屋人て感じ
豊臣秀吉はあんま愛知県にいなさそうな顔してる
混乱期に、出自がわからん奴らが群雄割拠するのは自然な流れ
今のスタートアップとかYoutuberもやがては権威になる可能性がある
岡崎に住んでるが名家の末裔なんて初めて聞いたが、どっちかというと雑草根性って設定だろ
天皇自体が民百姓を働かせて搾取してたんだからな。反抗するような邪魔者がいたら武家を使って攻め滅ぼしてただろ。蝦夷のアテルイとか。武家と同じだよ。自分らが楽な生活をするために、下々の者を働かせて搾取しまくり、反抗するものは容赦なく滅ぼしてた。天皇も武家も同じ。
そんな昔の出自なんどうでもいいけど家康みたいなタヌキ顔おっさんは今も三河に沢山いるわ
信長は名古屋人顔だしこの2人は尾張と三河の特徴をよく現してる
豊臣秀吉は愛知にはあまりいない顔だな
どこの誰とて出自なぞはっきりせぬものよ。
家系図なんか頼んで作ってもらうものだったらしいしな。
徳川家でも織田家でもなく、出目がいちばんよくわからない豊臣家の血が今上天皇に流れてるというのがまた興味深い
高貴な血筋というストーリーは、権威がまだ新しい時期に限って必要なだけ
ある程度経ってからは、むしろ成り上がりを明かしたほうが庶民の指示を得られる
足利一族が鎌倉時代に三河の岡崎周辺に領地を持っていた関係で、三河地方はわりと名族に繋がる子孫が多いんだよね
そういうことをちゃんと調べない
>>1みたいなのはダメ
足利尊氏が鎌倉幕府を倒幕できたのも三河地方に居た足利一族郎党のおかげで、その関係でここから室町時代に守護大名やら守護代やら代官が全国に散らばってった訳
新事実発見はまだいいけど、これまでの史実を覆すとか、この肖像は別人でしたとかが多くなると もうマトモに勉強する気なくなってくるな
いろんな人間を処刑しまくった徳川家康はやっぱり怖い人間だったとしか思えん
要するに主流になれず三河にたどり着いた一族がリベンジを果たしたって事だろ。アメリカ人みたいなもんだわ
>>182 それはそうやね
日本の歴史って傍流の家が主流の家に逆襲するパターンが多いな
京の都にいられない傍流の源氏平氏藤原氏などが地方でやりたい放題やって
数百年経ったら主流の家よりも強くなっていた・・・みたいな
>>180 人を従わせるために恩賞で釣ったのが秀吉だけど
国内だけだと所領与えるのも限界があったからと唐入りして失敗
家康というか徳川幕府は拡大政策は採らずにどんどん外様粛正して
残った所領を譜代や親藩に与えるようにした
これには恐怖政治的な効果もあっただろうな
どんな英雄の血統も特権や平和に馴れてしまうと
惰弱に流れてダメになってしまうんだよな
かくいう徳川家とて3代目家光ぐらいまではよかったれど
それ以降はダメ将軍で8代目に紀州家の吉宗が来て中興したと言えるし
で、そこからまた劣化していって15代慶喜の頃にはもう手遅れになっていたと
>>108 むっちゃド田舎を本拠地にしていた武士って結構おるような気がするなあ
朽木一族の朽木ってものすごい田舎やし、遠山一族の遠山もど田舎やし、
上杉一族の上杉も田舎やし、足利一族の斯波家なんてなんで陸奥?出羽?の
山奥の斯波(紫波郡)なん?って思ってしまう
承久の乱以降三河は足利の所領であり吉良細川今川一色等足利一門の発祥の地
>天下を統一して戦の無い世の中にしたい!
それはミンナそう思ってただろうし、今の為政者もそうだ。北鮮のクロデンワも。
イクサなんてせずに自分らのやりたいようにやりたいんだよ(w
戦争はなくても圧政に苦しむガワからすりゃ平和じゃないというだけで、さ。
>>1 この記事面白いな
>孫の信光の代には山間の松平郷から岡崎平野に進出、多くの子を各地に配して勢力を広げたが、
>京の室町幕府とも関係を築き、その弟の益親は京で金融業を営むなど、他の土豪層とは違った活動を見せていたことがわかっている。
ここら辺は愛知県内で流通してる地方出版の本とかだと普通に記述されてる話
松平家は奥三河で代々林業を営んできた平民の家系で、林業で財を成し、山を出て金貸しになって、あとはそこに書かれてる通り
新田義貞の子孫というのは完全な創作
そもそも奥三河の更に少し奥の伊那郡左〇辺(さかんべ、今は坂部と当てる)に熊谷貞直という武将が南北朝期に落ち延びてきているが
こっちは本物の新田義貞の隠し子で、母間の実家に預けられて育てられた関係で熊谷を名乗ってるだけ
この貞直の子孫は帰農し、左〇辺に定住して江戸時代には郷士になっている
徳川家が貞直を知らないわけがないから、義貞の子孫を名乗った着想ってここら辺かなと見てるけど
>>108 山賊でなく、林業営んで財を成しただけの平民
>>185 盛者必衰のコトワリ、多様性だよ。
天皇家の場合は権威象徴というカタチだけ残すコトでその永続性を確保した。日本という国家の存続とともに。
>>108 山賊なんて
戦時の逃亡敗者ぐらいで
代々続けるなんて不可能
海賊は海域支配して大名になっていったけどな
>>188 戦争の危険を理由にした方が独裁しやすいんだよ
シナがそう
日本はマスコミメディアと民主議会あるから国防予算ふやせんけどな
>>1 >鳥居氏は熊野の鈴木氏の一族で、忠氏が父との不和から三河国渡(現在の愛知県岡崎市渡町)に移り、
>その17代の孫にあたる忠吉が岡崎城主松平清康に仕えたというが、忠吉以前の鳥居氏の動向ははっきりせず、
>歴史上に登場したのは忠吉以降のことである。しかも、鳥居氏は通常の武士ではなく、商人としての側面もあった。
ここら辺も伊那郡の歴史とリンクしてるな
今出した貞直の代で合っていたと思うが、貞直は日記でこんな事を記してる
この地には誰も住んでおらず、集落がなく、言葉を持たない、赤い髪をした連中だけが、山の中でぽつんと暮らしている、と
伊那郡は南北朝時代まで、天竜川の西岸地域は未開地で、地続きの美濃国側には地名にアイヌ語の名残がある物が見られている為
どうも伊那郡の西岸地域や美濃国には原住民であるアイヌ系の人達が住んでいた可能性があるらしい
で、宗長親王が現在の長野県大鹿村に入った関係で、伊那郡に南朝方の城主格の武将が多数落ち延びてきて
天竜川の西岸地域に落ち延びてきて、家臣らと共に原野を開墾し、開発領主として土着してる
またその関係で、現在の下伊那郡地域で、愛知県境に近い地域は、知名度は低いものの、南北朝時代の合戦場になってる
余談だが、
>>194みたいな関係で、天竜川の西岸地域には馬に乗れて、弓等で戦える地侍達が大勢いた
彼らが武田家の兵役に応じて、足軽の身分で騎馬武者として参加して、三方ヶ原や長篠で戦闘集団で戦ってたらしい
動員された人数は、全員で1000名だったか、騎馬武者が1000名だったかは忘れたが(騎馬の場合、従者が付くので、兵数は約4倍)
彼らは天正年間に武士を続けたい者は飯田城下に出るよう秀吉より御触れが出たのだが
それを拒否して多くの家は帰農した為、江戸時代には完全に農民になって今に至ってる
静岡県北の山間部って結構秘境だよね
隠れ里なんかもあったし
>>1 関東時代に北条系の人が乗っ取ったんじゃないの?
>>177 だいたい改名してるよな。
藤がつくから元が藤原一族というのもほぼ嘘だしな。
>>154 俺は祖父が農家で叔父が農家だったから
4-5代前の話ではない。(´・ω・`)
>>154 庶民はそんなもんなんだろな
ウチは子供がいないからお前のところの次男坊をウチにくれ
みたいな
>>201 とは言っても日本の場合田んぼとガチガチに引っ付いてるから
近い家か、暴力で奪い取ったか、
で間違いないのでは?
譜代は平八 小平太 万千代が居れば
他は割とどうでもいい
家康の長男の切腹に積極加担した某や 出奔した某等は語るも論外
中国人とか、朝鮮人とかは無いよ?
あるなら🇫🇮フィンランド人とか🇭🇺ハンガリー人とか🇹🇷トルコ人とかじゃ、
えっ自分はゴミクズなのに豊臣のような出世恐れて身分制度作るとかまさに自分はよくて他人はダメとかいうクズ野郎だな
滅びてなくなれ徳川家
名古屋人だし信用できない
自分は鳴くまで待とうホトトギスよりも、
鳴かなくたっていいじゃないホトトギスのタイプだわ🥺
>>1 中国の文献だと
日本と三河は別の国扱いなんだよなw
だからそんなとんでも説流してるの?
🇫🇮サタマ
>>198 そこらへんは奥三河・伊那郡と地続きだから関係あるよ
日本人は国内のいろんな地域の人と結婚して続いてきた雑種の集団。顔と体型が似るほどにね。血統なんか不明で当然。
そして自分の力で権力をもぎ取れる能力主義。流れ者万歳だね。
あれ?知らなかった?
三河帝国と日本国は別の国なんだよ??
😂🙊🤣
>>207 松平と名乗る以前は姓が判然していないから
農民の類では。秀吉も木下と名乗る前は姓が無い藤吉郎だったし、木下の次が羽柴で、豊臣に改名してるよな。改名する奴らは元々農民だったと思うわ。
そもそも貞直が落ち延びた左〇辺という土地は天然の要害で守られていて、天竜川が邪魔をして、渡しがないと入っていけないような土地
命を狙われた為に出奔して落ち延びたのだから当然だけど
>>207 愛知県の三河地方は松平家の本当の出自に関して口伝類で伝わっているが、名家だなんて話は全くないよ
ほぼ確実にその関係だと言われているが、奥三河と隣接する伊那郡には歴史書がない
詳しい事は知らんが、徳川が編纂させなかったんじゃないか、みたいな話もあるらしいわ
>>208 日本語の発音で全く交流していない事わかる
まぁ素性の知れない秀吉が天下を取ったから
その後の家康はやりやすかったってのもあったか
秀吉の実力が凄すぎたのもあるか
>>216 日本国王府 三河国王府
ロスト府みたいなやつ??
下剋上が当たり前の時代に家柄は後付けにだったって言われても、だから何って話だわ
遼は南面官と北面官という政治組織を持っている。日本国王府は北面官に属している。日本に、北面の武士という軍事組織名がある。この驚くべき名前の一致は、白河が日本国王府の長であったことを示している。
遼史大安7年の朝貢を密貿易事件として処罰した事件は白河と朝廷の二重権力構造をしめした。白河が上だった。後世、院政と名付けられた。
白河は京の外で活動拠点を持った。岡崎の法勝寺、鳥羽離宮である。院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至るまで,鳥羽殿周辺に宅地が与えられ,「あたかも都遷の如し」といわれた。
北面の武士は、日本国王府の軍事の上部組織。源氏・平家になった。日本が急に武家社会に移行していった原因である。
日本列島の北部は豆満江を通じて支配する方がたやすい。日本国王府のほかに、豆満江の女真大王府の下部組織として、奥州藤原があったと思われる。
日本を遼の異なる府が分割して支配していたことになろう。奥州藤原が独自に北方貿易(北宋)をしていたことも、平泉が平安京に次ぐ人口を抱えていたことも二つの王府で説明できる。
遼が亡び(1125)、取り残された日本国王府の武士団が、保元平治の乱、源平合戦を起こした。勝った源氏はすでに金王朝に属していた奥州藤原を滅ぼしたことになる。奥州藤原が逃げた先は十三湊で金王朝に頼ろうとした可能性がある。
日本制圧の仕方は女真族を参考にできる。Wikipediaによれば遼王朝の女真族虐めとは売春接待。遼王朝の使節は貴族の婦人にも求めた。鳳凰堂と遼墓の絵の共通性が発見され、遼人が日本にやってきたことが証明された。この要人が日本の貴族に売春を求め、落胤が日本国王府の長、白河だろう。
ほんとに名家なら頑張って源氏につなげる家系図を作る必要もないし
東北の方も、そういう家って
顔見ると公家みたいな人だらけじゃね?
それか、アルタイ人に似てるとか
>>108 現代的価値観で見れば松平郷はど田舎だけど
信濃と三河を結ぶ足助街道は古来から林業や塩の道として物流の要所だったんで
足助の鈴木氏とか時代によって土豪や庄屋とか言われた士族が拠点を構えていてそれなりの財力と勢力を持ってたんやで
>>230
日本人そっくりな人沢山いるよなw
アルタイ周辺
>>225 自分の出自を脚色するために、母親が産んだ一部の子供を見つけ出し皆殺しにしたんだぜ。
母親はヤリマンで旦那も3人ぐらい変わったからな。
三河三河単純過ぎw
他にも歴史に登場しない無名な武士が山ほどいるのに
日本の強さは中間層が厚い所だよな
王様の事は🇭🇺嫌いなのかwwww
任那日本府人の生き残り??
家康ってなんかすごいことやったか?
最後に豊臣裏切っただけじゃん
明智光秀の方がまだマシだわ
>>1 「ためにする」、しょーもない記事だとは思うが、1つだけ言えるのは、
織田家臣団の苗字が、少なからず、ちゃんと尾張国の地名と一致してるのに対して、
(丹羽・浅野・堀田・蜂須賀など)
松平・徳川家臣団はそうではない、というのは確かに事実である
佐久間氏や森氏も出自はハッキリしている
戦国期の三河で、出自がハッキリしてる水野や戸田(しかも両氏とも尾張国発祥)とかは
対等の「同盟者」であって、もともと松平氏の家臣筋ではないしな
400年も前に血統がどうこうとかおかしい
でも1400年前の飛鳥時代にもすでに血統が云々があったから、日本人て、何万年も前に日本人として存在した時点で血統どうこう言ってたつまらない民族なんだろうな
>>236 棚ぼたで権力掴んだだけ
ただし秀吉死後の権力を掴んだ過程だけは実力だけど
☆アルコールは不眠の原因になる
☆アルコールは認知機能の低下や抑うつ症状の原因になる
☆安定していた精神症状がアルコールにより悪化・再発する
☆節酒・禁酒により不眠やうつ症状などの精神症状が改善する
飲酒(アルコール)とこころ| 藤沢市の心療内科 精神科 湘南吉田クリニック
http://shonan-yoshida-cl.jp/alcohol.html おっちゃん、てwwww
神父のおっちゃん元気やねんぱーやねん
??
>>225 平清盛もご落胤とか、関西人はその手の
話が好き
講談じゃ無いんだよ
これ、うちの家の100年まえの家の横にあった
松の木が、親父の剪定ミスで枯れたことによる嘘ばっかだよ
数年前かいつか忘れたけど異常気象でむちゃくちゃ暑くて
それで松が枯れたら歴史がかわってくるってなんなんだよ
そもそも、松平も、天皇陛下の松の廊下も
うちの家の100年まえの家の、廊下がどうとかだけだしな
縁側の廊下の横に松があって枯れていま無いけど
三河国出身力士がまさか天下取るとは誰も予測できないよなあ
局地戦から合戦まで戦い抜いた武将は当時でもあまりいないのでは
>>244 天皇側が否定してないから一定の信憑性はあると考えてよい
血筋だけでは何もできんよ。
天皇家も周りがヨイショしてくれたから生き残ってるだけ。
自力で残ってる所は無いだろ。
>>250 所詮天皇と公家は貧乏人のクレクレ乞食だったからな
どこかの段階で淘汰されるべきだった
>>254 権威は必要なんだよ
まとめるために
ような人身御供みたいなもんだ天皇なんて
ああ 血筋なんか気にならん 1代近いレベルで天下取ったのならそれもう本物だから。
今の関東地方があるのは全て陸奥国会津出身の天海大僧正のおかげよ
徳川氏は、1566年に徳川家康が松平から改称したのにはじまり、江戸時代には江戸幕府の征夷大将軍を世襲した。
明治維新後に華族に列し、1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられた。
出自は賀茂氏とも、在原氏ともいわれ、明確でない。
清和源氏新田氏の末裔と自称する世良田親氏が、三河国松平郷に住む松平信重の娘を娶って継ぎ、
戦国時代に松平清康の代に大きな勢力を持つようになった。
広忠を経て元康(徳川家康)の代の初期には駿河国の今川氏に属していたが、
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い後には尾張国の織田氏に属し、1566年(同9年)に徳川氏と改称した。
マジャガル??
マジャール→マジャガル→バシ子キール???
下剋上の戦国時代を経て百姓足軽から関白にまでなった秀吉が居る以上、その後の武門に元の家柄なんて何の関係も無い
天下を取った人間は好きに源氏を名乗れるというだけのことだった
天海はもう東北の蘆野家にいましたってルーツが明らかになってるぞ
天海(天文5年(1536年) - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院(ちらくいん)、
諡号は慈眼大師(じげんだいし)。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。
しかし同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、
天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。
また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。
果ては姿を変えて生き残った明智光秀であるという説まである。
元は流れ者でもその後幕府を数100年続けたんだからええやろ
血筋はいいけどああなった鎌倉幕府なんかに比べたら
>>259 確かに栃木県日光市に明智平はあるが
日光開山(西暦766年)は今の栃木県真岡市出身である勝道上人だからな
(´・ω・`)まぁ豊臣の一族根絶やしにしてるし輩の集団なのは間違いない
出自どうこうより要は実力であり結果やん
久しく太平の世を築いたんだから良いやん
すぐに出自云々日本人の悪い癖である
>>22 聞いた話だと本物は「士族」だったって言うとか
そりゃ明治も身分制度一応あったもんなあ
徳川幕府の勝因は天皇と公家共に一切政治的な発言をさせなかった所、奴らが政治に加わらせると途端に戦乱が起きて国が傾く
流れ者って英訳するとドリフターズだよな
家康はイカリヤなの?
>>248 藤原氏を差し置いて関白になるには天皇のご落胤くらいしか口実は無い
当時正式決定してしまったから否定も出来ない
>>1 そう言うとカッコいいってだけじゃないの?
北条氏は流れ者でーす(幕府の伊勢氏だけど
みたいな
家康がが戦国時代だとパッとしないのは事実
まぁ乱世と治世じゃ求められる能力違うからな
天皇だって途中途切れまくってるしな
130歳生きたとか訳がわからないのがチラホラ
政治体制が途切れ途切れの癖に5000年の歴史があるという国があるからそれよりマシ
国家安康の因縁のつけ方、初めて聞いたときがっかりしたわ
元を辿れば日本人は一万年以上前の縄文時代には二万人だったのが、徐々に増え新田開発した江戸期の鎖国時代には3500万人にまでなり開国して産業革命と自由貿易で一気に一億二千万にまで増えた民族
幸い四方を海に囲まれ異民族の武力侵略や民族浄化を受けなかったので平時の移民との婚姻による断続的な混血はあったがルーツを辿れば先祖はほぼ親戚と言っていい
その象徴が二千年に渡って男系男子を継承して来た天皇家であり、死んだ先祖を神とする日本人の考え方の元になってる
異民族との民族浄化戦争に明け暮れ勝者が歴史を上書きし続けて来た大陸民族との決定的な違いはそこ
>>22 流石にそれはない
そもそも経済力のある家庭が財産を子供達に与えて独立させて、そうして戸数が増えて行ったと考えると
必然的に上流にいて権力を持っている武家の子孫がどんどん増えていく形になる
本家から分かれたばかりの分家は武家の面目を保てるが、分家の分家は分け与える財産は少なくなるし
分家の分家から更に分家すれば、最早、武家としての面目を保てるような土地も財産もないから、庶民として暮らす事になる
多くの人の出自は、この「庶民として暮らす事にな」った庶流の人達だよ
>>272 士族は単に明治時代に制度を作った時点で仕えていた大名家があった者に与えられただけ
武士の家筋だから与えるものではないので、浪人者は武家でも容赦なく平民にされてる
足利将軍の後継者が途絶えたら駿府の源氏から迎える決まりがあり今川義元はその気になりノコノコ上洛しようとして首チョンパされる
その権利を受け継いで家康は源氏を名乗り駿府に居をかまえる
日本人は大義名分が好き
小田原北条氏も南関東を北条氏が統治することか何となく馴染んだ
武田信玄の武田家は甲斐武田家とは別、常陸からの流れ者
>>271 俺も似たような意見
徳川家は、真正の平民として、初めて天下を取った家系じゃないかと見てる
林業営んできた純日本人の子孫が天下人になるっていいよね
そしてその事実を受け容れられず、源氏の子孫という事にした日本の血統崇拝には問題があると思ってる
>>286 ん?甲斐武田家の先祖が常陸出身なんだろ?
>>1 まあ戦国三傑ばかりやるのもそろそろ変えよう
太田道灌とかやってよ
>>290 似てるよね
ということはヤクザもいずれ日本の政府になるのか
>>277 どっちもある
流れ者がかっこいい場合と
家筋を誇るときと
はっきり言えば
大体の人間はどっちの要素も持ってる
その時に合わせて話すだけだな
日本の指導者として天皇に辿り着かない血統はクソだからな
典型的な戦国大名なんだよねこの人
守護大名が生き延びたような家以外の大名の出自は怪しくて当然
応仁の乱以降、自称侍が力づくで台頭してきているので、出自なんて元をたどれば
秀吉と大差ないものも多かろう。
>>3 せやな
だいたい武士はどれもそんなもんやな
>>266 アシナ氏なんだ
突厥の王様阿史那氏と同じ名前の蘆名氏か
マンガや大河をさも史実の様に騙るバカどうにかならんの?
関ヶ原以降は家系図の作成・売買も行われていたからね
結局鎌倉御家人由来の守護大名から転身した戦国大名ではなく国人から戦国大名に成り上がった奴が天下取った訳よ、秀吉にいたっては国人ですら無いが
そもそも徳川家康が源氏を詐称したきっかけは最初に公式に朝廷からもらった官位「三河守」をもらうため
官位をもらうのが朝廷の先例主義によるためだってこと
大河ドラマのどうする家康でもその点を触れてたけども、過去にそれ相応の官位をもらった一族出身でないと朝廷からもらえない仕組みだった
徳川家康の家臣団が名族自称したのは、江戸時代に官位を朝廷からもらうためだっての
いざというとき姓が必要になるのにそれを忘れてしまうというのは、位階を貰えなくなった階層に落ちた時点で無意味なものになったんやろな。
庶民が源○○とか藤原○○とか名乗っても相手にされない
臣籍降下しなかった皇族の子孫は永世的に「○○王」って名乗れたようやけど、無位無官に落ちた人間が○○王って名乗っても誰にも相手されないからか、○○王って名乗る者はいなかったようやし
天下を取ってしまえば系図なんてのは好きなように作れるからな
征夷大将軍になりたいのなら強引にでも源氏の系図を作って名乗ればいいというだけ
関白になりたい秀吉は強引に摂家の養子になったしなw
天下人は何でも出来る
現代じゃなくて松平の時に集まった集団がってことだろw
そんなのその時代の大名だってかなり怪しいやつらばっかだぞ
>>133 あれは小説の挿絵みたいな物
当時の風俗を反映しているところもあるが
あれをそのまま真に受けるのは鳥獣戯画を見て昔は蛙や兎が相撲をとっていたと言い出すようなもん
まあ徳川はニセ源氏だからな
家系は推してしるべしだわな
>>126 入れ墨した海人が九州から来たっぽいよ。
>>309 日教組のサヨク教師が
日本の歴史をとにかく階級闘争で説明したくて
「いつの時代も民衆は上流階級特権階級王侯貴族などの支配者に虐げられていました」
って教えるからな
明治新姓で大名と同じ苗字にした奴らが家系図捏造して
その子孫を名乗ってるようなもの
県知事や一企業のオーナー殺しただけの赤穂浪士より、
日本を破壊した大悪事を成敗した山神国士を放送したいね。
>>316 トップにいるときに始末してたら少しはましになったのにな
当時の戦国武将たちの出自はほとんどが自称だな
家康が官位を朝廷に求めた時、松平は素性がわからないから却下すると言われたことがあったそうだ
家系を管理する家に頼んで、清和源氏の末裔として系図を作ってもらい
ようやく官位が認められたって記録もある
織田信長が「平」を本姓としていたのもどこまで信用できるかわからん
いまだにカッペは一所懸命なんだな
オラの田舎は日本一か
考えてみれば松平から徳川への改姓って不思議な話やね
長尾が上杉を継ぐ、伊勢が後北条を称するみたいな納得する理由が見当たらない
江戸時代、徳川姓を許されたのは将軍家と御三家のみで、
秀康や伊達の婿の家も許されなかった、同じ兄弟なのに家格の違いをつけていた
松平から徳川に変えた理由は何ですかね?
官位貰うためには松平じゃダメだったんすかね?
>>315 本姓藤原氏が誰一人家名に藤が付いてないのに
藤入ってるから藤原の子孫名乗ってるイタイ連中
>>323 https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076949#:~:text=%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AF%E3%80%81%E6%B0%B8%E7%A6%849,%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A8%E6%80%9D%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
>>295 守護代や家宰は曖昧だからな
織田信長は尾張の守護代の又代の分家三家老の一家弾正中家の次男
守護-守護代-又代-三家老-次男
一応尾張の六分の1を持ってた
7-8万石くらいかな
120万石の今川とは圧倒差だな
京都人 「やっぱり、徳川はあずまの田舎者どすなあ」
>>315 俺の姓は「松平」だがね
徳川将軍家とは一応、姻戚関係にあったが
俺の先祖は江戸末期は500石くらいの旗本だったらしい
日本は台風や大雨地震火山の噴火などの災害が多くて、川筋が変わったり水量が変わったりで農地がその都度変わってくる。
その度に開拓をやり直すんだから常に実力のある者が台頭してくる。
ヨーロッパなんかは自然が安定してるから耕作地が代々の相続資産として受け継がれるので大貴族が力を持った。
だけど戦争や疫病が多いので浮き沈みは出て来るみたいだけど。
東海の小大名の記録、まして家臣団の記録があると思っているの?
この記者は他の同条件、東海・関東・北陸の小大名の記録を見て比較したのか?
家広はんがイケメン松平容保の子孫とか吹いてしまう。
>>332 ちょろっと調べればすぐ理解できることをいちいち長文で書くなよ魔ヌケつってんだよアホ
>>323 いま上で初めて知ったけど
得川という男が松平の養子だったんだな
それが家康の祖父?曽祖父?
神官系の松平氏より得川氏の方が新田源氏だったため
そっちを名乗ったということらしい
基本は松平だけど将軍になるためには徳川呼び
こんな感じかな
>>69 現代の天皇制は
天皇に自由も権利も与えない
奴隷制度だ
>>335 頭おかしい
こいつ三河バカかな
荒らしで知られた三河バカ
三河を四河にして麻婆豆腐の名産地にしよう
>>307 天下人だの征夷大将軍だの言っても所詮先祖が同じ、天皇を中心とする国という思想の日本人同士の権力争いだ
だからどいつもこいつも天皇家の権威を否定せずに利用して実質的な権力を握ることしか考えない
はなから自分が天皇に成り代わる気なら源氏だのは関係ない
天皇の血筋を断ち反対する者は粛清して我こそがが天皇だと言えば済む
>>82 そもそも織田家の恩をないがしろにして権力奪ったのは秀吉
小牧長久手では家康が有利だったのに家康側の大将織田信雄を調略してしかたなく家康は天下を譲った
殺されそうになった三成を匿ってやったのに裏切ったのは三成
会津藩領も武家が出る前の元のボスは武奴奈川とか安倍、安曇ぽいんだよな。長州のボスと一緒。怖。
>>231 ど田舎というか
平家落人の隠し村みたいなロケーションやんな
賀茂氏の流れというのはガチなのでは
葵の御紋がその証拠で
その流れはいま京都の八咫烏(略
>>126 ヒント①:邪馬台国
ヒント②:卑弥呼=天照大神
>>345 三つ葉葵の家紋の由来には
本多家に由来する説と酒井家に由来する説、松平家の元々の家紋であるとする説、などがある
>>339 天皇にあたる地位を時代ごとに覇権を握った者が皆殺しにしてきたのが余所の国
徳川家康のフルネームは
徳川次郎三郎源朝臣家康
徳川が苗字で、次郎三郎が通称 朝臣は家格を意味し
家康が本名だが
当時、本名は忌み名とも呼ばれ、父親とか主君とか上位の人間しか口にする事は許されない名前であり
下位の人間が口にうるのは非常に無礼なことだとされたから
日頃、名乗る名前も必要になり、それが次郎三郎だったわけだ
朝臣は家格を意味すると言っても、八色の姓 で皇族が名乗った真人に次ぐ
二番目のもので、まあ、この時代なら戦国武将の多くが朝臣を自称していたようだ
そして「源」は本姓だな
守護代クラスから下克上した戦国大名が多い中
さらに下の国人層から成りあがったのは毛利と徳川くらい
その毛利でさえ先祖は大江広元という貴族の出なのがはっきりしている
徳川松平は恐ろしく成り上がってる
>>347 三つ葉はカタバミを模したのだろうけど
葵は湿った日陰で育つ←ポイント
賀茂神社のほか松尾大社や日吉大社など
八咫烏
徳川家康がじつはたちの悪いガチホモで
片っ端から家臣ほって
気に入った家臣に
ユー大名デビューしちゃいなよ
とかじゃないのか
天皇の凄さがよく分かる
天下人を目指しても天皇を目指す人は歴史上1人と居ない事実
>>320 守護大名が幕末迄、大大名だったのは島津と佐竹
家康は佐竹を潰したかったが一応源氏同士と云うことで国替えで済ました
しかし700年統治した常陸は領民が佐竹の親戚みたいなもの、並みの領主じゃ務まらない
実子を配置し家臣は武田の残党を附けた
幕末の天狗党総裁武田は武田家の家臣だったが武田家再興の為、武田と改名し後継者であると宣言した
江戸の北東常陸は徳川家の鬼門
尊皇攘夷も水戸から始まった
>>121 というより自分達が将軍や公家になりたいんだと思う
権力者への強いがあるみたいだが
領民を愛する大切にして幸せを祈る本来の王のあり方は毛頭なくって
偉そうにしてふんぞり返りあれこれ指図して貢がせたい願望が大きいようだよ!
相手が困ってる方が嬉しいってタイプは原始的な劣等種だけど見境のない強い欲望でのしあがろうとする
時に宗教でもっておさえつけようって手法も併せ持つので一時の栄華に酔いしれるに過ぎぬ野望、
人類全体の不幸の源にもなる欲望を持っている
>>354 信長があと10年生きてたら、わからなかったけど。
>>350 世良田ジロサブロウってそういうことやったんやな
なんでサブローシローみたいな名前なのかと思った
>>314 と言いつつ自分達が支配者になりたい構図しか見えない
その論法の奥にはいろんな人種が虎視眈々と日本を狙い続けている
その執念たるや時間にして何千年単位の野望だからすごいなあと思う
そこまでして地球の王にこだわる意味がわからないけどな
地球ローカルな王って宇宙全体で見たら幼稚で低俗な権力争いの権化かもしれんのに
死んだ後の世界観の違いもあるのかなあ?
教義よりも感性を磨かないと騙される一方で幸せが遠のくばかりであるよ
>>314 教師って旧士族が多いんだよ
そんな教師をそうやって叩くのも
現在の下層であるネトウヨが上を妬んだものだろう
>>363 あ、もしかして「細川」だから名家のはずだとでも?
>>275 だって、元々の日本語は「促音化」していたのか?
促音な国を併合して促音化したんじゃないのか?
つまる音ね?「って」とか
>>31 戦国大名の中でも毛利家は平安時代から家系がはっきり分かってる名家だよ
土師氏→大江氏→毛利氏の系統
>>362 守護大名から戦国大名になって、本領が戦国まで変わらなかったのは島津氏だけかな?
佐竹氏は秋田に転封だし、伊達氏は仙台に移っている。
・・・対馬の宋氏もまあ本領は変わってないけど、小身だしね。
>>367 口語は文語とは違う!
とか言い始める。嘘つき
群馬の世良田村は得川の由緒地として特別扱いだったんだな
得川郷の名主は代々庄田隼人を名乗り御家人身分となった
この分家が館林で米問屋を営む正田家になり
醤油業から製粉業まで手がけて皇后の実家になった
家◯という将軍は下記の通り
家康
家光
家綱
家治
家村
家茂
意外にもたったの5人しか居ないのである
>>366 肥後の細川家は名目上は細川奥州家で血筋は細川和泉上守護家、
戦国時代に没落した細川京兆家には及ばないけど充分名門
>>275 昔の肖像画から現代に至ってあの顔立ちは大陸系なのは間違いない
土着の日本民族はアイヌや琉球民族みたいな濃い顔=縄文系である
あくまで土地視点だとこうなるが
天皇が日本作ったんだから大陸系が作ったのが日本とも言える
>>1 つか、お寺の過去帳に源とか平とか書かれてないの?
😂
武士嫌いの秀吉が征夷大将軍では無く関白を取ったのが元凶。
>>377 過去帳に平って書かれてるなら
その一族なんじゃ?養子はあるだろうけと。
ところで大陸の源って誰の事だろ?
>>91 つまり、朝鮮人に騙されてて第二次世界大戦を引き起こされたってこと?
韓国・北朝鮮こそが真の戦争犯罪国って事か?
>>377 農民の過去帳で平や源がいるところが
日本のすごい所なんだろうね。
農民の家系図分かる国、どのくらいあるのだろうか
三河武士はうんこ徳川が風向き悪くなると裏切って右肩上がりになると擦り寄るうんこの煙ばかりやろハゲ
>>353 家臣へのラブレター残ってて晒されたの武田信玄だっけ?
昔5chで見た
>>381 征夷大将軍は足利以来明国の冊封王だからな
真っ向反旗を翻した秀吉には最初から無理だったな
>>354 平将門って目指したとかなんとかなかったん?
江戸移転で家臣団が三河の領地から切り離されて忠誠心が一気に高まったのが豊臣秀吉の失策だわ
下剋上っても、当時もそれなりに家格や身分は重視されていたみたいだね。
だからこそ家系図の模造も行われてきたわけで。
>>354 大河ドラマの黒田官兵衛の信長が朝廷を滅ぼして自分が天皇を目論むような描写があったな。
金髪豚野郎が謀叛やったが
>>371 島津 南部 相馬 相良
は鎌倉から明治までほぼ同じ領地で大名
(´・ω・`)
何百年前の話してんだよと
ここ数十年の間の出自捏造とか背乗りの話とは違うだろ
>>275 天皇家が実験を握った頃、半島では土人が少々住んでいるだけの貧相な土地だったわけで
そこから兵を挙げて日本を侵略できるはずがない
当時の兵力は人数なんだよ
>>275 騎馬民族が日本に来た可能性は全然あるんだけど
その説は「天皇が」「朝鮮を通って」来たことに意味があるんだよね
そこに縛ることで可能性を固定化する説
こういうトリックは多いよね
こうすると騎馬民族の痕跡があるだけで
天皇が朝鮮から来たことになってしまう
大陸の人間が来た痕跡は間宮海峡や
沿海州から直接渡った痕跡が多々あるし
大陸から人がいくら来たってミカドに関係ないのに
三河源氏がある三河の松平家が群馬の源氏を名乗るのがまずもって怪しいではないか
三河源氏に認定されないからわざわざ群馬の源氏から家系を盗んだんだろ
>>408 朝鮮人は騎馬民族じゃないよ
乗馬できる馬がいなかった
>>412 COM-Kは未来のアメリカ帝国皇帝だからな
賀茂氏だったなんて話も作り話だな
上賀茂神社の葵祭と徳川家の葵の御紋の関連は何もない
>>411 なんにしても関係ないよ
朝鮮人は騎馬民族ではないな
>>413 ロシア擁護と同じ匂い
ネットを荒らした妃殿下叩きか
>>409 三河の源氏は足利一門筆頭の吉良だからな
>>408 つまり朝鮮人が戦争犯罪民族って事?
日本人は騙されてただけ?
>>415 米が取れたせいも有って、有史以来日本のほうが半島より圧倒的に人口が多かったわけで
半島が日本を支配したことがあるなんて妄想もいいところだよな
でも、奈良は韓国語だからと言い張る
>>418 なんにも書いてない
心配いらないから朝鮮に帰りなさい
>>420 お前が朝鮮人だから騎馬がどうたら書いてるんだろ?
その理屈だと、昭和天皇はバリバリの朝鮮人で日本は騙されて戦争始めたって事になるぞバカチョン
三河は足利一門の斯波、吉良、今川に挟まれて源氏を名乗ろうとしても昔から松平の素性うすうすわかってる彼らに生暖かくニヤニヤされてどうにもならんからな
足利一門から離れて新田を持ってきたのは慧眼よね
日本人自体が人類発祥の地アフリカから生存競争に負け続けて極東の島国まで逃げて来た流れ者集団でしょうがw
>>419 「なら」は「ならす」の意味ね
「平す」と書いて"ならす"と読む
平らにする、みたいな意味だな
都のあった場所の土着の地名だね
だから「平城京」なんでしょ
奈良(ナラ)はまるっと日本語だよ
それを引き継いだ"平安京"がまた平の字を借りてるのはご愛嬌
そこをなぜか踏襲したんだな
>>86 そのあと秀吉は20万以上の大軍で九州攻めてるし地震の影響はあんま関係ないと思う
徳川も徳川で領国はボロボロだったし石川数正は出奔するわで戦どころじゃなかったしね
結局のところ家康が恭順の意思を示したので徳川家を政権に取り込んでその軍備を西に向けて九州征伐に向かったってわけ
江戸時代まで生粋の武家家系でも、明治維新以降に身分を返納して戸籍上は平民になってる潜在士族もかなり多いからな
カムイ伝で最後の家康の秘密暴露は、おお~ って思ったな。
京都の醍醐寺や本願寺の資料が分析されたら歴史変わるって言われてるね
百年はかかるって言われてるけどそれ以上だろうけど
実際に近代の新選組の事も近年資料が出てるしね
>>423 関係ない、と書いてるんだよチョンさん
なんでも朝鮮の話を持ち出すなという意味だよ
お前のレスは何個朝鮮を書いてるんだよ
毎日の書き込みを見てみろ
朝鮮の話しかしてないぞお前は
一体なんなんだお前は
一日も朝鮮を忘れる日がないのか
週に一日朝鮮を完全に忘れる日を作れ
わかったな
>>431 お前が天皇は騎馬に乗って朝鮮から来たニダとか寝言抜かしてるんだろバカチョン
寝言は糞食ってお前の祖国でやってろ朝鮮土人
>>2 海音寺潮五郎が半世紀以上も前の歴史小説でとっくに書いてる
徳川家の先祖は踊る宗教の坊主だと
>>429 大正時代に流行ったんだな
徳川時代の否定がエスカレートして
ついに将軍家自身が賎民という説になった
それに基づいた読み物が隆慶一郎とかカムイ伝だな
八切止夫の元ネタがかつてネットで読めた
でも時代的にはかなり深刻な説で
世良田村の暴動なんかは人権史に出てるほどやばかった
いまでも真偽は不明
>>433 逆を書いたんだよ馬鹿だな
日本語勉強してなさい
家康先祖は被差別階層だった
秀頼は秀吉の子ではない
信長はむしろ室町幕府守旧派だった
日本史3大タブー
徳川がハプロDだからな
得川という坊主が松平に入って云々
Dこそ日本人だとか縄文とか言い張る人がいるけどさ
>>429 漫画がソースはやめた方がいいぞ
岡本さんは穢多非人を名乗って部落解放とかやってたが
仲間が部落解放をやっているだけの練馬にいてプロレタリアに被れた思想を落とし込んでいただけだぞ
>>28 三木姓から姉小路の家名を簒奪して改姓した人が何言ってんの?
岡本って岡本三兄弟とかいたな
レバノンの飛行場で殺人をした有名な左翼が
どうだろうね
家康賎民説は単なるおもしろ読み物だと思うけどな
大体拾われた養子が後を継いでたってどうという話でもないし
でも大正時代の当時は大事件だったんだな
単なる裏風習でしかない賎民問題を表社会の救済制度に乗せた人達はすごいと思う
この話を基軸に数多のシリーズ本書いてる隆慶一郎はおもしろい
>>18 大化の改新のときに1度変わってるっぽいよね
>>432 言うても伊勢氏絡みや都での松平氏の活動が確認出来るのは家康から約100年前の信光の頃からの話だしその前は不明と言わざるを得んわな
これだけ確認出来てりゃ戦国武将の中ではマシな方と言えなくはないがw
>>216 なんで二文字にしたんだろう??ヒント隠れてそう
ゲチ??二文字?
一文字の奴らもいたんだろ?
例えば嫡チャックとかw
[下部][脩徳] 嫡 徳孫
百済人チャックかよwwwww
チャックウィルソン??
>>208 🇭🇺Idő(時間)🇯🇵移動??
本当に中国の文字?
>>446 時宗の乞食坊主ってのが通説だったけど、最近の研究だと遍歴する職人だったみたいだよ
まあそう大差ないけど
>>1 白土三平が『カムイ伝』で描いてるまんまだな
>>433 無名な中流の武士がいっぱいいるからね
日本は。
とすれば貧農出だと言ってた秀吉が最も真面目だったのか、
DNAどころか顔写真も指紋も無い時代だから、成りすましは簡単だったろうな
ムロツヨシの演技見るとなんか真面目に見えなくなってしまう(´・ω・)
そんな乞食坊主が始めた松平・徳川も260年間権力の座にあれば
日本最高の名家になる
>>429 カムイ伝て完結したんだっけ
後期は只のお気楽時代劇になってグダグダのまま作者死去と聞いたが
>>76 戦国時代には非人なんて居ないよ、成りすましが簡単な時代だから差別されたら逃げるかぶっ殺す
逃げられなくしたのが江戸時代の吉宗以降だから、身分制度もコレ以降に固定された、江戸時代もぶっ殺して逃げてたけどね
>>426 つか、
あいうえおかきくけこ、まで分解できる単語は日本語だよ
奈良 な らとか
越 え つ とか
>>465 百済くだら=🇭🇺失敗
だとか。
何故か解釈できるんだよねw
>>280 聖書だと900歳くらい生きるのもいるからな
全員もともとはアフリカ人だしな
更に先祖を遡ると原核生物で、全く赤の他人であるミトコンドリアとも今でも共生してる
もっと先祖をたどるとアミノ酸に到達する
信長は戦国大名の最終形態で秀吉は近世大名の始まりである。家康は典型的な戦国大名だが秀吉が作り上げた近世社会を継続させようとしてあたふたしていた感じはする。だから家康は江戸幕府の体制を強化して成熟した近世期である江戸時代を作り上げたのかもしれない。
家康は読書家で図書館を作ったりして学問を奨励してたからな
といっても所詮昔の人だから今の人権意識とかはあんまりないだろうけど
>>1 つか、この頃は国衙領土残ってるからな?
国衙系が記録に残ってないって?
>>336 その話全て捏造っぽいけどね。
当時から天下への野心ギラギラさせてちゃ信長が許さんでしょ。家康は弱い立場なんだから。
まず地盤三河、できれば遠江も完全統一したくて権威付けに官位が欲しかった。
出自が怪しいと官位もらえないんで適当に家系捏造して源氏の子孫の徳川名乗ったって
のが実際のとこかと。特に三河は家系だけは超立派な吉良氏がいたからね。
家康は岩松氏の当主が田舎に隠居していると知って呼び出した
というのも、岩松氏は正真正銘の新田氏の末裔で、新田氏の家系図を持っていたからだった
家康の魂胆は家系図を使って新田氏の末裔であると騙るつもりだった
岩松氏の当主に家系図を貸してくれと頼み込むもあっさり断られてしまった
大名に取り立てるからと頼み込んでも色よい返事がもらえなかった
根に持った家康は岩松氏にわずか20石(後に120石)しか与えず終始冷遇したのだった
>>478 そーゆーこと
中国は実効支配できてもいないくせに周辺国に頭を下げて一つの中国を守ってもらってるだけにすぎない
にもかかわらず他国の地域の独立云々ぬかすとか笑い話でしかないw
ウチは奈良時代から代々続くひきこもりの家系だ。
歴史の転換点や戦さがあっても関与せず、のんびりと
タバコを吸いながら世間を傍観してきた。
庄屋と呼ばれる家柄だったが、戦後の農地解放などで
資産が無くなった。
オレの世代と子の世代まではひきこもりで暮らして
行けるが、そろそろ働かないと生きていけなくなりそう。
松平郷なんて行きゃわかるけどホントに狭い中山間地だぞ。
あそこから日本統一は夢があるわ。
>>463 最高は相変わらず天皇家じゃないの
そこ越すのは難しいよ
>>366 元総理の細川護熙氏は清和天皇の男系男子だと思う(wikiで追っていくと)
現在の天皇陛下と本当にY遺伝子が同一であるかどうかは興味有る。
>>476 現時点で人類の祖先と思われる最古の化石が発見された場所がアフリカなだけで
アフリカが起源と断定するのもおかしい
新田氏の末裔なんだけど
自分て名家出身を名乗っていいの?
中世までは源氏の血筋が大切だったんだろうけど
近世になったらさすがに皆もどうでもよくなっている印象
徳川家康って、実は途中で死んでて、替え玉がすり替わった
っていう説が有力でしょ。
家臣団はみんな黙ってたんだろうけど
>>480 単純に当時、国衙の人気無かったから有名な剣豪の末裔であーる!
言い張ったんだとおもうが?
そもそも今川の人質だった竹千代と家康は別人説まである
>>501 親父の広忠も伊勢から帰ってきたのは別人説あるしええ加減なもんやなw
>>497 明治時代に華族はあるし家系図も相変わらず創作されてた
らしい
>>472 加藤清正な、あれはサンカみたいな田畑を持たないで定住しない技能集団
おそらく秀吉の系譜もただの百姓ではなくそんな流れ者の系譜
九州大返しや墨俣一夜城や水を使う城攻めなんて普通の武士や農民にはできない
武家の名門いうても玄関に生首並べて自慢するような鎌倉武士が祖だしな
>>506 北魏がらみなんかね??
愛新覚羅みたいな四文字でも良いだろうに
>>354 凄いからじゃなくて、官位を与える権威の源泉だったから、自分に権威や権力を握る正当性を付与する根源を潰せなかったというだけ
そりゃそんなもんだろ
天皇家が実は途中で断絶していて家系が入れ替わっているという秘密だけは
守り通さねばならんがあとはどうでもいいだろう
みんな嘘で固めて成り上がって来たのは時代だからよな
言ったもん勝ちの時代
秀吉の指6本なんてもろに近親婚の成れの果ての劣勢遺伝だし、尻尾も生えてたんと違うかな?
野生の猿と違わんのは屋根のある家に住んでたくらいかな?
作品名・作者忘れちゃったけど、家康を描いた小説の冒頭が正にこんな感じだった。
「後の徳川家、最初の松平家も出自は怪しいんやで。
一族を率い移動する流れの軽業師的集団が松平一族だったんだけど、
三河地方のどっかの豪族集団の処に行って興行してる時に
1人のイケメン松平クンが何だかんだでお姫様を孕ませちゃった。
でも話は面白いし、頭・器量も良いし、腕っぷしも非凡で
その地域を仕切ってた豪族にも大いに気に入られて合併・同族化。
それが初期の松平家」
みたいな内容だったと思う。
>>470 士農工商というワードとそのイメージは明治政府のプロパガンダ
天皇家も明治前に長州の田舎者に乗っ取られて
今いるのは偽の系統だって話があるな
知らんけど
血統主義者なんかな。 北の金王朝とか超尊敬してそうだな。
江戸時代は武士が農民になることも、農民が武士になることも
そう珍しくはなかったよ。
有名どころは坂本龍馬だが
彼の祖父が郷士身分を金で購入して、坂本家は郷士になったのだ
藩によっては郷士身分を売ってくれるところもあってさ
もちろん安くはなかったが
まとまった金を払えば郷士と認められ、苗字帯刀を許されたわけだ
>>347にレスし損ねたのだが
本多氏の家紋は善光寺の葵紋と同一だったんで
ググったら詳しい憶測が出てた
→ 長野 善光寺の寺紋の形と寺紋の由来と使用理由
善光寺の歴史は古く
聖徳太子との絡みもあり謎も多い
本尊は絶対秘仏なのでお察し案件ですん
明治天皇だって天皇のコスプレした田舎者だろ
まあ日本人は家族は大事にするが血族主義ではない
これを理解すればわかることだがな
ジャニーズが強姦された集団って感じだしどうでもいいわ
>>283 あれをやらなければ
元和偃武とその後の平和は無かった
>>374 12代徳川家慶のこともたまには思い出してあげて
松平初代親氏と二代目泰親は同時代史料がないので実在が疑われているし、新田氏系得川氏との関係も後世の創作だろう
ただ三代目信光の存在は史料で確認できるし、15世紀半ばに琵琶湖北岸の菅浦荘と大浦荘の間に起きた争乱で松平氏が将軍政所執事伊勢氏の被官として出陣しているので、それ以前から三河では有力だったのかも
伊勢氏は元々は三河の辺りの足利氏所領の荘官だったようなのでその頃から松平氏は被官だったんじゃないかなと思う
教科書では絶対言わないけど歴史が得意なやつは気づいてるだろうけど
世の中には常に自分がかわいいだけのやつと
誰かのために命をかけれるやつがいて
常に命をかけれるやつが勝つんだよね
明智光秀は朝廷のマロみたいやつにそそのかされて本能寺の変起こして
本気で朝廷が戦ったら勝ってたけど
ヘタレで自分の身がかわいいから光秀のせいにして逃げたんだと思う
>>532 ハプロN系だろ?いわゆる日本人っぽい外見
日本の別種の国って言ったほうがいいんじゃ?唐
なんで吉良上野介というか吉良家があれだけの権威あったのかよく分かるよな
本物の名門だから徳川に無い権威と伝承を持ってた
細川家もそうか
>>534 そういう人間の弱さとか悪さまで見抜いたり利用できる奴が最後は勝つ。清濁併せ?む度量も必要で
この辺はなかなか難しいところ。運もあるしな
>>537 運が1番大きいんだろうけど
孫さんとか現代の人も失敗したらいつ死んでもいいと思って
大博打やってるんじゃないかね
だから未練が残るから贅沢しないのかも
アタシ、弥八郎本多正信が好きで好きでたまりません。
>>538 一番大きいってことはないと思う。やっぱり生き残る為、勝つ為のの算段はちゃんとしないと生き残れない
人事は尽くさないとな。その後の天命を待つの部分が運だね
武田、島津、今川ぐらいしか
名門はいなかったんじゃね
>>531 山間部の太郎家は幕末まで残ってる
そこを埋めるには親氏と泰親が必要
秀吉は農民ではなく、被差別階級の出自だと主張する研究者が多いね
>>536 秀吉にせよ、家康にせよ、初めから独力で天下を取ったわけじゃないからな
もしも信長が天下統一を果たしていたら、本人にその気があったかどうかは別として、天皇を凌いだと思うし、皇帝になった可能性もある
要するに権威を凌ぐだけの実績が秀吉と家康にはなかったというだけの話
>>544 秀吉って普通に村長の子供なんだろ?
貧農というのが後世の創作ってだけで
そもそも色んな商売してたのは事実でも、今川家の松下家か何かで仕えてた時代があったんだろ?
つまり武士じゃん
歴史なんてほとんどがフィクションだよ
戦前までは後の世の創作
都合の良い解釈で取り繕われてる代物
>>536 吉良は本来なら足利将軍家より嫡流って今川あたりとすら比較にならんレベルで桁違いの名門やな
その割にはこの時期は色んな勢力からボコボコにされたりオモチャにされて気の毒としか言いようが無いがw
信長もそんなもんだぞ
元からの名家なんてほとんどいない
藤原だろうと源氏だろうと平家だろうと
系図の1番最初は有象無象の輩や
生まれた時から名門なんてないわボケ
>>551 下剋上の時代だから、元からの名家は没落してる
似てるなw
だれだろう?源って
皇親賜姓以外の武士なんてみんな出自不明みたいなもんじゃないの?
>>134 大和朝廷から続く律令国家が社会制度ならば荘園領主による武装政治を武士とは呼ばず893なのか?
>>555 天下取ったから過剰に言われてるが
家康が出た100年前から都で知られてた松平なんて
マトモな方だろうな
>>555 秀郷流藤原姓をはじめ、藤原系でもはっきりわかってる武家は多い
400年家系図が続けば流れ者でも名家だろ、創業100年の店が老舗と言われるんだから
>>559 鎌倉時代の御家人の家系が守護職として国を有する事が室町時代まではあった
戦国時代はそれが崩れ始めた頃だから、家柄がよくないと不都合があったのは間違いない
うちは華族だったとか、何々藩主の末裔だとかある度にこれは思ってたな
そもそも天下取った徳川家がアレですよってw 徳川期の大名なんて出来星だらけですよって
戦国以前の本当の名家はとうに没落して一般人になってるw 天皇家だけは別格だけど
>>4 小牧長久手の戦い後の天正大地震が痛かったね。
天災がなかったら徳川家はどうなっただろうか‥
記事書いたやつアホだな
実績作れるなら家柄は後からついて来るだろってだけの話
貴族でもないクズの書いた記事だからどうでもいいけどなw
どこの馬の骨ともわからんやつを、
今川が人質にしてかわいがるかね
>>566 その時点ではすでにええしの子で馬の骨じゃないやろw
>>568 やり手だけど強引過ぎたから早死にしてるんよな
そのあとが続いたのも家康の運の良さあるわ
つまり今からでも名門になれるって事だ。
腐らず上を向けよ!
良くわからないとか言って口伝を否定するやり方には反吐が出る
お前がそう思ってるだけだよね
>>1 お前のふるさと高知の坂本龍馬の方がよっぽど胡散臭いカスだけどなwww
加藤清正が槍鍛冶
のちに銃鍛冶になり銃の名手になる
明治のころ県庁職員とか警官やってた先祖なら、その前は侍だったかもね
>>510 日本の源流は突き詰めるとそこにいきつくんだよな、天皇も元は天王で中国北方民族が好んで使った称号。
怪しい家系図持ち出す人はいる
作る職人もいたと聞くし
初代藤原は六韜を暗記してたんだぞ?謎の人物ではあるが元から相当な知識人だったはず
>>561 もし本当に貴族の出なら、家柄的に黙ってると思う。わざわざ言いふらす時点で、ねえ。
単なる一般人何だけど先祖がどうであれ徳川家康になった、その家臣たちは流れ者でも徳川家康の家臣だったってだけで凄えことだと思うんだが
あとまぁ
昔からそれなりの家なら
郵便局持ってるんだよなw
簡易郵便局じゃないよ
>>582 倭わ、なんて呼ばれてないんだよな?
日本って
そもそも人質の時の話の
内容が違うから松平元康が徳川家康なわけがない
明智光秀の本能寺もどう見ても
光秀は知らなくて信長に追い詰められてた徳川家康が
明智の家老の斎藤内蔵助春日局の父を
抱き込んで一発逆転したのが一番しっくりくる
>>582 突厥文字だから
発音正しいだろ。
トルコ語なのか?
>>579 兵馬ようの顔も今の中国人じゃ無さそうだし、シルクロードの壁画のもだいぶ違ってる。中国4000年の初期は中央アジアの人たちが馬で駆け巡ってたんだろうね
>>590 初恋のOさんのおじいさんが郵便局局長だった。Oさんはかわいくておっとりしたお嬢さんで、武家の娘と言われたらそうだろうと思う。
関ケ原の後に大大名に成った君主と客の会話
「貴家は名家の家柄なのでしょうなぁ」
「うむ、今、作らせている」
出自なんてどうでもいいというか、たんに支配者の家系が続いたかどうかということだよね?
つまり、名家とか名門というのは大きな悪を代々続けた家系ということ。
時代劇で三河以来の家柄というのを鼻にかけた旗本って大抵は悪役だな
>>594 チュルクの音をあらわしてるとか。当時の発音は知らんけど、動画では唐の頃の推測発音はなんかロシア語みたい。
>>510 義経が凱旋してチンギスハーンになったんよな
>>586 じゃ徳川も負け組のただの不人気狸じゃん
アメリカが最強になる
出自が怪しいから今川や吉良といった正真正銘の名家を保護して箔を付けようとした
何年に何が起きた、みたいな意味のない情報を植え付けるよりも、何故起きたのか?を深掘りした方がはるかに実学に繋がる
多分関ヶ原の戦いが起きた理由を述べられる人って殆どいない。なぜ家康は秀忠の到着を待たずに決戦を挑んだのか?的な
>>603 吉良を保護して代理戦争やってたのは織田や今川も同じやで
吉良は本来足利将軍家の本家筋だし半端ない名門としか
家康が面白い所は名家なんぼのもんじゃいとはならずに
名族が好きで吉良家とか筆頭に高家として取り立てている点だな
自分が成り上り者だとの自意識は無かったのではなかろうか
徳川も当主とかの雰囲気だと慶喜のところと紀州家は絶家しそうね
池田も鳥取岡山両方ともなる感じだし。どっちかはもうしたか
>>607 好きなだけでやってるわけないやん・・・吉良は三河の守護だった家だから権威付けと庇護してることでいろんな意味が生まれるやろ
祖父の名前のヘンキも当時の吉良の当主からのもの。清
家康が豊臣家より上になるためには征夷大将軍になるしかなく
征夷大将軍になるには源氏じゃなきゃならないから高家を抱き込んで源氏の棟梁に祭り上げて貰わなきゃで随分苦渋しただろう
別に名門が好きなわけではなかろう
慶喜家は先代の趣味人なおっさんが絶家するとの方針を既に決めていたと
現当主の女性がインタビューで言っていたな
>>609 豊臣が置いた喜連川家とか冷遇してもおかしくないのに加増優遇してるじゃん
豊臣秀吉は出自がエタだし
指が6本で身長も140cmにも満たなかった
どう考えても遺伝子に欠陥があって
子供なんか出来ないだろ
結局徳川宗家は尾張家の家系に戻ってるじゃあないか
尾張藩支藩の高須藩は義直直系でそこの兄弟が養子に逝って
尾張、桑名、会津の藩主になって居る
会津藩の藩主の家系が宗家に養子になったから
義直のDNAしかない
>>565 大室寅之祐が明治てんのうわなにをするやめrftgyふじこlp;
>>536 江戸幕府は高家という立場を与えた家がいくつかあってね
石高こそ旗本並だが
官位は並の大名を凌ぎ、江戸城内での扱いは多くの大名よりも上という家だ
その多くが、吉良家のような古くからの武家の名門だった
多分に古くからの武家の名門を庇護して傘下とすることで、幕府の権威を高めるという意味があったのでしょう。
吉良家も本家は上野介で断絶したが、分家諸家は残っていまも続いている
>>552 藤原氏の系図の最初は藤原鎌足であり、さらに藤原氏の前身の中臣家は
アメノコヤネという。天孫降臨でニニギノミコトに付き従った神様だが
源氏や平氏も系図の最初は天皇であるし
そもそも源姓や平姓は、臣籍に下った親王に与えられる姓だしな
日本人の家系図は、渡来系のものを除けばほとんどが
源氏や平家それに藤原氏のような天皇家とは別系統の神様が始祖になっている
あれでしょ?流れ者の乞食坊主がアノ周辺の有力な豪族の家を転々として上方の面白い話を聞かせて歩いて
そうやって転々としてるうちに松平郷で娘を胎ませ、酒井郷で娘を腹ませやってるうちに
乞食坊主の息子や娘が増えまくった
当時は新しい血を入れるという意味でも流れ者が父親でもそれを容認する文化があった
で、あのへんまとめて松平と酒井を中心に、乞食坊主の血が接着剤になって大勢力になった
あの連中はその末裔
大中臣とか名乗ったのもいたなぁ
鎌足も家康の祖父みたいにうまくやって一族の中で一歩抜け出したのかな
まるで元からそこが中心だったかのように
>>561 貴族階級は安倍家など中堅クラスで2.3の例外はあるが
臣籍に下った親王以外は全て藤原氏だが
近衛家だの鷹司家など、全て本姓は藤原だ。
その他の古い豪族の家でも、神職として存続した家も少なくない
戦国時代以前から続く武家の名門も、その後、どこそこの大名の家臣とか
幕府の高家とか、何等かの立場で存続したのも多いが
うちの家系父方12代将軍の頃から苗字帯刀の豪農、遡ると尼子家臣団の大名
こういうのって直系の生き残りしか家宝で残らんのよな。
>>620 家康自身も一時期「藤原」姓を名乗ったこともあったそうだ
誰に憚ることのない名家であれば、そんなことはしないだろ
松平が源氏の血筋とは、本当のところ、家康自身も信じては無かっただろう
まあ、各地の戦国大名や武将にはそういうのは珍しくないし
たいして問題にはならなかったのだろう
>>624 まあ、実力もってるやつらは内心はどうでもよかっただろうな
そのへんのことであれこれいってプライド高い公家とかいじったりするの面白かったから煽ったりしたかもw
もちろん公家にも使える奴いただろうからそういうの相手だとちゃんと接してバカはからかって遊んだり
>>625 それな、先祖が誰であれそんじょそこいらの名門家系とかごぼう抜きしてるやん
>>580 薩摩っぽは戦争のために農民だったやつが無理やり士族にさせられたやつが大半
>>579 今でいうならトルコ人やウイグル人が近いと思う
隋唐が鮮卑の出の王朝なのは事実だし
本物の古代の漢民族もそっちに近かったろうなと
武士にとっての名家は鎌倉時代に守護地頭として全国に散った関東武士の子孫を名乗ることだな
>>534 それはね根本的な社会の本質だと思う
なんでもそうだもん恋愛もそうだった
彼女が幸せになるように願ったらうまくいった
あと経営者も共通するのはあって
いわゆる三方よしを心がける経営が勝つよね
京セラの稲盛和夫さんが典型的だけど
コスト削減もそれを意識すると本当に無駄を削れるが
それを考えないとJR東日本みたいに
会社の都合だろって客にバレバレだからな
山賊とか盗賊でしょ
戦国時代なんてみんなそんなもんだ
>>623 うちのおばの先祖は戸沢盛安これはマジのガチよ
旧姓も戸澤だし本家の方は正田美智子さんと
ご学友だかなんだかでお友達らしい
それから母方はこれは証明できないのだが
清少納言の恋人の1人とされた藤原実方と
同行して旧鎌倉の戸塚近辺で帰農した一族の末裔
こちらの家伝しては徳川家康が柏尾川を
渡る時に協力してあげたので苗字を許された
これは実際苗字に竹がついてるからそれが証
あと大事なのは日本人は家族主義であり
血族主義じゃなかったこと
嫁や婿養子でも家族であり血が繋がってるからは
あまり重視してこなかったのね
特に上流階級ほどそうで徳川宗家が御三家で
回したのも家康の子孫というよりは
徳川を名乗る資格のある人間ならだれでも
将軍職に就けるようにしたかったからね
だから明治維新後の万世一系っていうのは
薩長が自ら手をかけずにやがて
皇族が自然消滅するようにしかけた縛りだ
さらにいうならGHQもそれを承知したから
昭和天皇を廃位させなかった
直接手を下すより自然消滅を狙われてるんだよ
なので本当の保守は女性天皇はもちろん
女系だってなんなら婿養子だって容認して
とにかく宮家を増やすことが重要と考えてる
>松平氏に婿入りした、流れ者の親氏という人物
一説によると乞食坊主だったけ?
小室圭みたいなw
自分が大したことない奴ほど先祖は誰々とか言いたがる
細けぇなあオイ!
先祖ぐれぇ好きに語らせたれぃや!
>>643 そんなことはないよできる人ほど先祖の
お陰を大事にしてるよ自分は祖父が役員を
やってた地元の氏子神社で何も願い事がない時は
「自分がこの地で安泰なのは先祖代々と
地域の方が残してくれた信用のおかげだと
信じいます」て祈るんだよ
そうすると不思議なことがよく起きるよ
だから日本史は素晴らしいんだよ。
織田も豊臣も他の連中も下層からのし上がった。
江戸時代の大名の9割はどこの馬の骨で徹底的な下剋上で成立しており言っても皆平等、という意識が日本人の根底にある。
最初から名家だった所なんてないんだよなと言う話でしか無い
特に武家は家の格さえあれば平気で養子入れたりとかで血統重視ではなかったし
流れ者だの馬の骨だの
どんだけテメエが偉いっつうんだよ
何この人殺し賛美
馬っ鹿じゃねえの?
>>647 つう事はもう片方の唐も
ギリシャと一緒に攻め込んできた集団??
どうせ人権剥奪されてるんだから歴代天皇のDNA検査を実施して
万世一系神話をとっとと崩壊させてはどうか
文系が馬鹿
日本電気でやってたようなヒトゲノム解析器を
結局アメリカに政治で売り飛ばして
で残った馬鹿でやることが中国の大馬鹿みたいに
俺を監視して歴史を変えるとか
で、遺伝子検査もアメリカ人に独占されて
おかしな嘘ばっかの人工知能システムみたいな
小説かかれて嘘つかれるからますます俺の監視に
かまけるとかな
源平の合戦以来、武家の統領は「河内源氏」という事になっている。
だから家康は、徳川を河内源氏の末って事にしたのだ。
幕府に従った。当時の大名たちも、本音の部分としてはこんなものは信じてなかっただろうが
一応、徳川が河内源氏という事にすれば、体裁が整うからそれで良かったのでしょう。
多分にこれは政治的な決定であり、遺伝子的なものは関係ないですね
日本人っていつも京都の貴人やその子孫を棟梁にしてきた。
しかしながら、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康たちはそういうことをやらずに天下を統一した唯一の例ではないか?
>>661 松平から徳川に変えた時期って早くない?
まだいつ家が潰れるかわからん頃に徳川に変えたんとちゃうんか
中国の皇帝もただのならず者だったりするしそこは別に
>>650 むしろ名家と言われ続けてる家は身内でも
無能は出家させて有能な奴を見つけたら
すかさず婿養子に貰ってくるんだよ
現代でもそれは生きてるよ祖父は養子だもん
血族にこだわる奴は負ける
>>666 自分はまっまくそうおもわないなだってお前だって
社会で普通に差別もされてないわけだろ?
それって先祖代々が犯罪者とか部落民とか
そういうやましい多分じゃないからだぜ
先祖が罪人じゃないってだけでもそうとう
ありがたいことなんだよ
やましい身分、だね例え家柄がただの農家とかでも
重要なのはそういうところなんだわ
それを意識するからこそブラック企業の経営者のように
他人に迷惑だけはかけるなって教えられるんだわ
例えば自分がワタミとかのブラックの経営者の
孫だとしようか仮にそうだったら
ワタミのせいで過労死した家族やその関係者に
石を投げれても文句を言えない
そういう立場になるんだよ理不尽でも
逆も然りで祖父は地域社会にすごく貢献してくれたから
自分はすごい近所の人によくしてもらってるよ、
いまだに豆屋の孫だからな自分の立場は
>>664 信長は天皇より上に立とうとしてた感じもあるから
そういうのはどうでも良かったのかもな
元々武士の棟梁の足利将軍も追い出してたし
秀吉がわしゃ百姓の出だからよというステマは最下層から成り上がったというメッセージではない
当時の農民はきちんとした生活基盤を持つマジョリティで、彼らに支持されるための方便だった
>>31 毛利は地方武士
武田や今川とは出自が違う
>>674 今で言えば自民党の代議士と同じだね
甘利さんとか地元の支持者はそういう
地元の農家層だからな
上に媚びへつらって成り上がっただけのやつが農民に支持されるとか
>>677 農民は地主つまり生産者階級だしなそれに
昔は石高本位制つまり農民は高額納税者だよ
まぁ毛利は鎌倉幕府の初期を支えた
大江氏の流れってことにもなってる説もあるか
鎌倉殿の13人にも出てきたけど
いまの農民のイメージって明治維新の時
薩長に洗脳された貧しいイメージだわな
でもそれは九州や中国地方出身者が東北や
北陸地方の穀倉地帯を抑えるための洗脳だよ
九州って火山灰などで農業ができないから
明治維新まではすごく貧しかった
それがキリシタン大名や奴隷交易に繋がる
東北地方というとおしんのイメージだけど
まさに明治維新までの九州がああだった
だから麻生の家とか奴隷交易同然のことをやってんの
>>677 柴田と丹羽という上司のご機嫌取りのために名字も羽柴するという
大胆なことしないとな
まぁこれは羽柴で丹羽の方が前だから丹羽が秀吉に好意的になったか
つまり明治維新というのは貧しかった九州の
逆恨みによる国家転覆と言える
九州じゃないけど柳井とか典型的な恨の経営
鎌倉武士も大阪の羽曳野(坪井八幡)を
根城にしていた河内源氏と蝦夷地のならず
者の集まり。
家康の参謀役の石川数正、本多正信は、
浄土真宗で一揆に参加してた側。
数正は、忠誠誓うために浄土宗に改宗したが、正信は、あちこちで一揆に参加していた
説すらある。
そういや竹中もだろわかりやすいよな
中抜き奴隷商人はたいていそういうやつ
>>687 非難されるのは先代の行いがわるいからだろ
侍ジャパン
じゃなくて
百姓ジャパン
だよな 江戸時代の人口構成からすれば
>>1 え?
いまさらこんな話題かよ
歴史研究界隈では常識ともいえる見解でしょう
>>691 戦前はみんなサムライになれたんじゃないか
そして戦犯
>>691 選抜で優秀な百姓は侍になれた
だから侍ジャパンは選抜だから正しい
選抜から漏れた奴は百姓
渋沢栄一も百姓から侍になってたからな
まぁでも明治政府になっても政府側にいるのは嫌だみたいな感じで
民間に行って自由に商売してたか
◯◯家の家老の家系とか言うのはほぼデタラメだろ
家系図クリエイトが流行った弊害
ん?本多っていうか、松平&徳川家康自体が、
最初→藤原氏
後期→源氏
を称してたと思ったけど違うん?
源平藤橘だとどうしても橘がマイナーに感じる
思いつく有名人って楠木正成くらいだけど他におるか?
>>691 侍ジャパンでいい。江戸期だけにいるわけじゃなくて、侍の歴史は700年くらいあるからな
日本人なら誰でも遡れば侍に当たるだろうさ。時代の栄枯盛衰で成り上がったり、没落して帰農したりしてるだけねw
何を以て没落とするかってのもあるな。食うや食わずのペーペーの侍よりも、
渋沢栄一んちみたいな富農や龍馬んちの本家みたいな豪商の方が絶対良いw
>>619 それが真相だったとすると、物凄く日本的な話だな
新しい血を村落に入れる目的で、他所からの流れ者の血を利用するというのは、昔は本当にあったみたいだし
>>699 松平自体が不明だけど、藤原でいいんじゃね?って感じで
その後に征夷大将軍取るために
途中で旅の坊さん(源氏)が養子に入ったので
源氏の血も入ってるんですアピール。
ただ家系図を持っていなかったので、
部下の吉良さんから譲ってもらって線を書き足し……なんでもない。
一応家康の祖父の代あたりで、うち源氏の血も入ってるもんと
言い出してはいたらしい
皇位継承と藤原氏
https://bookmeter.com/books/19780058 藤原氏による摂関政治が近年では見直されている
天皇制の危機を回避し、それを擁護・補完するためのものだったと。
幼帝の即位など皇位継承がゆらぐなか、藤原氏はいかなる役割を果たしたのか。
摂政・関白が創出された経緯や、摂関政治は本当に外戚政治なのか、その真相を探り明らかにする。
>>696 渋沢家は帰農した元武家じゃん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%B0%8F >渋沢氏は甲斐源氏の逸見氏(もしくは下野源氏の足利氏)の流れを汲み、天正時代に始祖となる渋沢隼人が血洗島村にて帰農したという伝承がある。
>江戸時代には現在の埼玉県あたりの武蔵国血洗島の豪農だった。藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓だった。
>原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。
>>703 坂本龍馬の家系は典型的な近江商人じゃん
坂本というのは延暦寺の門前町の町名に由来する知名姓だぞ
藤原氏は不思議な一族で
中国との親和性が高い
ただほんとに中国から来てれば
チャイニーズの性格から言って
乗っ取ってトップに立つだろうからそこが謎
>>29 井伊家も幕末に井伊直弼がやらかしたというか
暗殺されたからな
まぁ襲撃して暗殺に成功した水戸浪士たちが靖国神社に祭られてるってことは
井伊直弼は逆賊なのかな
>>713 幕末の水戸藩士って基地外だからなあ。
井伊を暗殺するわ、藩内で内乱起こして根切からの虐殺合戦で
武士層がどかって減って、維新後の人材も見る影もないという。
>>186 今の田舎と昔の田舎を一緒にしちゃいかん
藤原氏の話になると、近藤さん、遠藤さんの話になって、陣内さんは何藤さんですかの流れが思い出される。
大河ドラマで三方ヶ原の焼き味噌エピソードが出ないのは
視聴者の晩飯タイムと重なる事への配慮
著しく残忍なシーンや不潔なシーンは自粛してるから
>>717 近藤さん→近江の藤原氏の子孫
遠藤さん→遠江の藤原氏の子孫
藤原が増え過ぎたので「住んでる場所+藤」を名字とした
>>707 大陸で日本語使われていた?
yabancı
>>718 普通に出てたよ
ただし町民達が家康を馬鹿にして笑い話にしていたという形に変えてたが
脱糞話は史実じゃないらしいので、より史実に近付けてこうしたのかも知れないが
本来の藤原氏の藤原四家が苗字に藤原を使ってないのに、藤原って苗字の奴ってなんか恥ずかしい
ちなみに昨日ちょろっと出した熊谷貞直だが、サカンベに定住した後、代々の当主が日記を記していて、それを熊谷家伝記と読んでいる
江戸時代の当主だった郷士の熊谷直遐(なおはる)が、伝わっていた家伝をどうも書き直したか何かしたらしくて
そのせいで史書でなく、あくまでも民俗資料という位置づけになってしまっているんだが
この家伝書の中には、徳川家や徳川の直参家臣ににとってかなり都合の悪い話も出てくると言われている
ガチでヤバい情報に関しては、削除されたと見るべきだろうな
熊谷家伝記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E8%A8%98 >>725 敵側の資料がないと本当だかハッタリだか
分からないよ?
書物なんてそんなもん
家康も若い頃は藤原秀郷流を名乗ってた筈なんだがな。
それに得川氏は(えがわ)って読むんだけど。
佐藤家蔵本と宮下家蔵本があるのかな?
見比べたり、
でも直接証拠じゃないから。
源頼朝から貰った「蔦に鳩の紋付たる幕」は?
残ってないの?
戦国時代に名家もないわ
実力があればいい世界なんだし
それに徳川家臣団が名家の初代って事でいいだろ
>>729 はてな付いてるから
新田義貞、子
義顕、義興、義宗、式部権少輔貞員、式部大夫義冬、娘(千葉氏胤室)、嶋田義央(義峰)、娘(井上頼国室)、熊谷貞直?
当時なんて名家以外が存続してる方が不自然じゃないの
婿ならよくね?
家臣の出自ならなおさらなんでもいい
>>715 一乗谷とか今はど田舎だけど
450年前は超先進都市だしね
>>1 あの時代の武将や家臣なんかだいたいそうだろw
源氏じゃねーよ
征夷大将軍になる為には恰好がつかないから勝手に源氏を名乗ったんだよ
本当はもっと身分が低い氏だよ
ま、猿は氏素性すら解らないから勝手に平家を名乗ったり藤原氏の養子になってたが
最終的に源平藤橘を超える豊臣と言う氏を天皇に作らせたがなw
>>724 うちも先祖が藤原北家系の下向荘官だけど
家名が藤原要素皆無の地名からだから聞いたところで誰もわからない
普通は本姓藤原氏は皆そんな感じよ
下剋上はすさまじいのよ。
尾張源氏の末裔の山田氏が、鳥居氏の家臣なんだから。
太閤記で野盗扱いされる蜂須賀小六正勝等川並衆は、地方の小豪族。
家康の家臣は、小六のような連中ってことだ。
尾張の旧郡名として確か山田郡ってあったよな?
今の名古屋市の北区あたり
<はじめに>
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46
大給松平家菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
愛知県民ってのは今でもドケチで卑怯者が多いから下剋上の世には合っていたのだろう
昔から文化不毛の地と見下されて来たが
>>730 いかに実力があっても、それだけでは天下人にはなれない
関白のように朝廷主催者になるか、征夷大将軍のように朝廷の守護者にならないと
その為の名家であり家名だよ
>>748 金さえ払ったら関白にも将軍にもなれた
それが徳川や豊臣
伊藤博文は足軽だし武士とは言えんくらいだな
「卒」・・・最下級兵隊兼雑用係みたいなもん
これでも乱世になったので長州藩で頭角を現して最終的に内閣総理大臣という天下人の地位まで上り詰めた
江戸期に地方の大庄屋やってたような家は由緒のわからん大名家よりもよほどはっきりした源氏や藤原氏の末裔とかもいたけどな
>>686 石川数正の墓は浄土真宗の寺にあるけどね
>>750 帰農した元武士なんて日本中に腐るほどおったんとちゃうか
うちの地元の丹波は明智光秀に侵攻されて多くの武士は帰農した
松平・本多・榊原・石川・酒井・鳥居・・・・・も似た連中なんやろ
林業・金融業・その他諸々で成功して土豪層に成り上がっていって林業・金融業・農業・侍稼業・その他諸々を行ったり来たりしてたんとちゃうか
>>741 乱世になると頭角を現す人がおって最下級庶民から関白太政大臣や内閣総理大臣になったりする人間がおるな
平時は関白太政大臣や内閣総理大臣が務まる人間が最下級のまま埋もれることもあるという、これはこれで酷い世ではあると思う
中身は随分と違うが、映画「たたら侍」
松平は「たたら」の元締めでもあったんだな
鎌倉・足利時代は農業の発展
その要因が農機具の発達
「たたら」で大儲け
>>749 秀吉→関白になるには五摂家でないと→近衛家の猶子に→関白職は五摂家回り持ち、自己の子孫に伝えられないかも→五摂家以上の家格を創設
家康→征夷大将軍になるには源氏じゃないと→新田の末流に系図くっ付け
確かに金の威力もあるけど、苦労してるよな
特に先祖を飾りようもなかった秀吉はw
>>570 清康が殺されたのは勘違いが原因
天文4年(1535)12月、三河に版図を広げた松平清康は、尾張に勢力を広げていた織田信秀を討つべく、1万余の軍勢を率いて尾張に侵攻した。
攻撃に際して、清康は甲斐の武田信虎、美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)、織田信秀の弟で犬山城(愛知県犬山市)の信光と連携し、周到に準備を進めていたという。
なお、清康が攻撃目標とした人物については、織田信秀と守山城の松平信定(清康の叔父)という2つの説があるが、信秀であるという説が有力である。ご存じのとおり、信秀は信長の父である。
清康が着陣したのは、守山城(名古屋市守山区)だった。その後、尾張に侵攻する計画だった。ところが、清康の家臣・阿部定吉には、信定らと内通しているという、不穏な噂が流れていた。
同12月5日、清康の本陣で馬が暴れるというアクシデントが起こると、定吉の子・弥七郎が清康を斬り殺したのである(守山崩れ)。弥七郎は馬が暴れた際、父の定吉が清康により成敗されたと思い込み、殺害に及んだといわれている。
弥七郎が勘違いしたのには、もちろん理由があった。前日の12月4日の夜、弥七郎は父の定吉から「流言により、自分は清康から成敗されるかもしれない」と聞かされていたからである。それゆえ、馬が暴れただけにもかかわらず、父が討たれたと勘違いしたのである。
結果、弥七郎は清康の家臣・植村氏明によって、その場で斬殺された。清康を失った松平方は、即座に本拠の岡崎へと引き上げたのである。『三河物語』には「清康が30歳まで生き長らえていれば、天下を治めることもできたはず」と、その死を悼んでいる。
こんな感じだな
親氏・泰親(伝説時代。山間部で勢力を広げ平野へ)
↓
信光(岩津城。次郎家の祖。息子を伊勢氏の家来にし、子沢山で更なる発展)
↓
親忠(安祥城。次郎三郎家の祖)
↓
長親(今川の北条早雲と戦い次郎三郎家を松平の棟梁に引き上げる)
↓
信忠
↓
清康(力で三河を掌握。岡崎城に移る)
↓
広忠
↓
家康
>>754 江戸時代の御家人(徳川将軍家に仕える足軽)で、鎌倉時代の御家人の子孫の家系もあったと聞くから
平安時代から続くような武家は、大半が、相当酷い身分の低下をしてる
帰農してる家系は多いと思うよ
>松平・本多・榊原・石川・酒井・鳥居・・・・・も似た連中なんやろ
>林業・金融業・その他諸々で成功して土豪層に成り上がっていって
武家っていうのは、例えば平安末期にも財を成して成り上がって武家になった家系も加わっていたし
同じく鎌倉末期から南北朝期にかけても成り上がって武家になった家系も加わっていたので
その時々の新興勢力が武家化して、戦乱と新体制発足によって権力に駆け上がったといった方が正しい
>>546 秀吉が松下加兵衛之綱に仕えていたかどうかは不明だが、後年秀吉
が自らの書状で牢人時代に松下と縁があったことに言及してるな
天正15年4月の書状だからちょうど九州征伐の最終盤の頃だな
「松下加兵衛は私(秀吉が)が牢人の時に忠節の御仁でしたので、他の諸将と
同じように彼を扱うことはできないので、私のお側近くに召し寄せた」
とあり、松下に対して格別の計らいをしたことを述べている
豊臣秀吉が被差別階級の出身だというのは多くの研究でほぼ確実だが、徳川家康も実は被差別階級の出だという説があるよね
むかし『噂の真相』誌で読んだ記憶があるのだが。
豊臣家は現代に残ってないが、徳川家は本家も徳川慶喜家も御三家も御三卿家も残ってて明治以降公爵侯爵伯爵と華族中の華族の超名門だった。
何が名門で何が被差別階級かが分からなくなるわな
喧嘩が強かったおっちゃんにーちゃんの集まりでしょ、大将以外は
しかし織田信長の子孫が
スケートをしてるなんて
ちょっと笑えるね🤣
>>767 >被差別階級の出身だというのは多くの研究でほぼ確実
そんな説が確実だなんて聞いた事もねえよ
いい加減にしろよ
徳川家康は被差別階級なのかどうか
わからんが駿河出身のよくわからんやつ
三河の松平じゃない
吉宗と将軍職争って
吉宗が紀州は出自がって自慢したので
何言ってんだこいつはといって尾張宗春が
集めた資料が表に出てればな
古代エジプト学ではDNA調べてるけど日本の歴史学では無理なのかな
>>755 中国だと漢帝国を築いた劉邦がいるからな
中国の戦国時代が終わっていろんな名家が滅んでその後に農民から出てくるという
まぁ酒好き女好きの乱暴者だったらしいけどそれでも皇帝になった
一般民衆を苦しめた秦帝国が悪かったんだけどな
今は無敵の人が危ないとか言うけど秦帝国に対する農民反乱軍は
みんな無敵の人みたいなもんだったか
>>745 大給松平って奥殿藩の赤十字社の人のとこけ?
五稜郭作ったり、永井尚志いたりで面白いなあそこ
>>774 マジで貧農の出とわかってる朱元璋がお忘れなく
豊臣秀吉(木下藤吉郎・農民出身)を見下せないじゃん
>>771 家康自身が被差別階級の出身とは言えないけど、時宗流浪僧との伝承がある松平初代親氏が実は農業技術職能集団所属者となると、所謂被差別階級出身だった可能性が高くなる
先祖を辿れば、家康も秀吉の出自をどうこう言えない
>>778 乞食坊主から皇帝へ
人類史上最も出世したお方だな
誰でも何代か遡ったら天皇家の血が1人分くらいは流れているんじゃないの?
とりあえずあの番組
いちいち
神のキミ
って連呼するのがキモイ
>>785 別に家康のことを神聖視してない側からしてみたら耳障りでしょうがない
滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html 源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた、頼朝等身大の聖観音像
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだのが三河の徳川家康
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
>>108 由緒正しい最大の皇室領荘園
松平郷に地の力があるのは流石は最大の皇室領と言うしかないですなw
出自の悪い田舎者は見抜けず、何もない山の中に見えるらしいが
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期~戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる
>>531 伊勢氏、平安期は三河にいた藤原さん
後北条氏の先祖、伊勢俊継
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→盛継→貞継)
■藤原俊経(****~1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217~1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****~****):初代伊勢氏・伊勢俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
・三河国滝山寺僧
■増恵(1209~1283):初代伊勢氏・伊勢俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・三河国滝山寺僧
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
>>770 その織田信長だって尾張守護斯波氏の
半国守護代織田氏の家来だったんだから
ある意味どこの馬の骨レベルだけど
>>186 斯波は三河の碧海荘
家康と同じ岡崎で、菩提寺も岡崎
大崎氏・最上氏の祖
http://www.inn-suzuki.com/info.html >中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任
斯波家兼
父:斯波宗氏
母:長井時秀(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹)の娘)
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
三河で仮冒は難しい
三河は日本の名族の古地であり、由緒正しい奴がウジャウジャいた
◇元弘の変(1331~1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
>>792 続き
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
>>741 物を知らない田舎者か?
三河と熊野の縁故知らんのか?
初代鳥居氏は三河の源頼朝と系図上は従兄弟であり、三河に来住しておかしくない
頼朝の従兄弟
■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快
■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏
鵜殿氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/udono_k.html 吾妻鏡 元暦二年(1185)二月
元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様〔香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ〕その場所へ参られました。
南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。
褒美に馬を引き出しました。
その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので
、熊野別当(長官)の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。
忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。それだもんで、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に泣きついて云うには、
「さっさと事情を関東に泣きついて、その両方の荘園を与えて貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供〔彼女が生んだ〕に譲渡するから。」
そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使い〔僧の栄増〕を鎌倉へよこして申し上げて来ていることなのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。
源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。
信仰心も厚いのでなおさらだとさ。
大河ドラマに4期連続出演したのは唯一家康だけ
麒麟が来る(風間俊介)
青天を突け(北大路欣也)
鎌倉殿の13人(最終回でサプライズ出演)
どうする家康
>>795 >鎌倉殿の13人(最終回でサプライズ出演)
あれ最悪だったわ
しかも松潤からの提案とかさぁ
>>607 そりゃそうだろう
家康は唯一、武士の憧れを一心に集めた源為朝の血を引く
徳川家康は受け継ぐ遺伝子
源義家
足利義兼
足利義氏
今川国氏
一色公深
吉良長氏
源為朝
安達盛長
足助重範
楠木正成
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
>>781 なわけねーだろ
松平家は天皇とダチの家だぞ
松平がブレークしたのは信光の功績が大きいが、正室は一色氏の娘であり、その孫が洛中の知識階級のトップに君臨した存牛
この存牛は生前の信光と面識があり、家康が6才の時も生存していた
この松平の歴史の全てを知るエリートから家康は薫陶受けていた
家康はプライドの塊
存牛
文明元年(一四六九)—天文一八年(一五四九)一二月二〇日。尊蓮社超誉。高顕真宗国師。知恩院二五世。知恩院を復興させた室町時代末期の僧。三河国岩津(三河県)城主松平親忠の第五子。文明一三年(一四八一)同国信光明寺存冏ぞんげいに師事して出家、のち大恩寺了暁につき、永正八年(一五一一)には信光明寺三世となる。同一七年知恩院二四世訓公の遺言で後継者に推されたが、これを固辞。後柏原天皇の綸旨りんじと知恩院本末寺院の懇請によって、翌年知恩院二五世に推戴された。応仁の大乱以降荒れ果てた知恩院の復興に尽力するとともに、皇室との関係を深め、浄土教の布教に努めた。その結果、大永四年(一五二四)正月一八日後柏原天皇より法然上人の祥忌月の法要を「御忌ぎょき」と称すべき旨の鳳詔ほうしょうが下され、次いで後奈良天皇より「知恩教院」「大谷寺」の勅額を賜った。知恩院復興後は、同七年知恩院を退いて信光明寺に帰り、天文一四年(一五四五)に三河高月院に隠居して念仏生活を続け、同一八年に入寂。死後、安政四年(一八五七)、孝明天皇から国師号を賜っている。
新田氏の祖たる源義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
ここに表には出ていない、義国流源氏と三河の繋がりがある
三河国造家は、三河一帯に勢力を持っていた三河物部氏
>>796 今後、大河ドラマの最終回の冒頭にサプライズで
次の主演者が出てきそうな予感
どうする家康の最終回→紫式部
初代鳥居氏の忠氏は三河の源頼朝の従兄弟と説明したが
平安期、三河には三河の源頼朝の親戚が多くいて、為義の血を引く鳥居氏も親戚なのである
【源頼朝の母方従兄弟】
■藤原忠季:源実朝近習
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季
■寛伝:日光山満願寺19世座主、滝山寺僧侶、滝山寺に惣持禅院建立、本尊に頼朝の歯と顎鬚が埋めこまれた聖観音像
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
■野田清季:初代野田氏(三河国設楽郡野田)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季
■足利義兼
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(実父は季範長男)→足利義兼→足利義氏(三河守護)→吉良長氏(初代吉良氏)
■星野範清: 頼朝右大将拝賀の先駆、星野氏(三河国宝飯郡星野)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→星野範信→星野範清
■千秋憲朝:駿河守、尾張国海東郡地頭、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→星野範信→千秋憲朝
■仁憲:滝山寺僧侶
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→三河祐範→仁憲
>>801 続き
【源頼朝の父方従兄弟】
■源為朝の娘:足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助)の正室、娘が源頼家の正室(公暁の母)
・源義親→源為義→源為朝→女→女(辻殿)→公暁
■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→女(鳥居禅尼)→行快
■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→女(鳥居禅尼)→鳥居忠氏
実は晴天を衝けの家康は
精神病棟によくいるそこら辺の爺さん
三河は名族が集まってくる地なんよ
鎌倉将軍の親戚であり、ある意味鎌倉将軍より上だった奴もな
■正法寺(三河県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(三河県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
鎌倉将軍より上の意味は、三河にいた源範円は、従兄弟2人が天皇
藤原能兼→範季→源範頼(養子、三河守)→範円(三河国正法寺僧)
藤原能兼→範季→女(養女)→土御門天皇
藤原能兼→範季→女→順徳天皇
藤原能兼→範季→範茂→範房(三河守)
藤原能兼→範季→範茂→女(四条隆親(三河国知行国主)室)
藤原能兼→範季→範茂→女(忠成王妃)
藤原能兼→範季→女(吉田資経(三河守)室)
>>328 流石は、井の中の蛙、物を知らない田舎者だな
足利氏も三河なんだが
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動
>>531 有力も何も、松平家は天皇とダチの家
3代目松平信光創建
・信明光寺(1451年創建)
1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建)
1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
4代目松平親忠創建
・大恩寺(1477年創建)
1493年、後土御門天皇勅願所、紫衣着用が許される
信光が創建した信明光寺は、開いた坊さんの師匠は増上寺を中興した聖聡で、聖聡の母親は新田義貞の娘
>>807 お、活きてたのか。あいかわらずだなあww
戦国時代を生き延びて大名として江戸時代まで続いた守護大名といえば
肥後細川家くらいかな。
ほとんどの守護大名は没落している。
室町時代の守護大名と言えば、何カ国も支配するような大名もいたが
それらが全て消えているからな
>>632 違う
三河の源頼朝と三河で繋がる武士が名門武士、ブランド
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏親類)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
三河の源頼朝と三河で繋がる事が名門の証の一例は足助氏だが
家康は鎌倉将軍正室の兄の血を引く
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
だから下剋上なわけで
それを流れ物の集団とか、じゃあお前は貴族の家系なのかよw
>>237 物を知らない田舎者だな
室町期の三河は、ほぼ全域が三河の足利将軍家御領
つまり、三河の地名を名乗れる奴は、ほぼ足利一族か足利将軍家臣
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250~300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)、進士
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
>>237 続き
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和
>>773 古代エジプトって中東の人たちなんだよなw
アフリカ人じゃなくて
下剋上の戦国時代に出自がどうのこうのなどと言ってる余裕はなかったんだろう?
木下藤吉郎も天皇の御落胤とか言ってたんだろう
大概やで?w
那古野て言葉の意味は
流刑者の流れつく地て意味だからな(´・ω・`)
三河も名前の通りに大きな川が3つあったという地形の由来でしょ。そんなところに貴族が住むはずないじゃん。豪族や山賊や海賊の類が住むんだよ。戦国時代には経済基盤ができた海賊や山賊や盗賊も一大勢力で姓を自ら名乗って支配地を持ってたから領地争いで荒れていたと学校で習わなかったのかい。
>>1 >>701 むしろ帰農できるってことは自前の土地持ちだからな
>>824 今も昔も富裕層は丘の上のいい土地を持ってるからな
川のそばは流れもの
>>824 物を知らない田舎者だな
伊勢御厨は三河が一番多かった
地図見て、伊勢と渥美半島見てみろ
そして何故、伊勢御厨が多かったのか?
日本の最初の王(ニギハヤヒ?事代主?)は三河国出身の可能性が高い
三河県豊橋市石巻小野田の石巻山は三輪山の奥院であると大神神社の社伝に書いてあり
昔は石巻山を神山(ミワヤマ)と呼んでいて、そこから三輪山になったらしい
纒向遺跡の東海色はよく知られているが、纒向は追い出されたが、時代を下り源頼朝、足利尊氏、徳川家康と三河は関東関西を圧倒した
グーグルマップで見るとよく分かるが、大神神社の鳥居と拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥院、三河の石巻山(神山(ミワヤマ))に向いているわけだな
三輪(ミワ)→三河(ミカワ)
充分有り得る
平安期以前から日本では貴族は当時の首都の京に住み着き、中間管理職に抜擢された中下級貴族が地方の管理に数年間飛ばされて京に戻るか、一生各地方に転勤させられるかだったから地方に貴族が住み着くなんてのはなかったと今では学校で習わないのか?源氏なんてのは元々皇族の皇位継承権が無い人達の実権を伴わない武官職で京の警備が関の山だったんだぞ。源氏に従うのは各地を転勤する貴族、平氏に従うのは各地を両国経営する豪族が多かったから、源氏と平氏はその組織の性質から対立する立場にあった。て習った気がするけどなあ。
テレビ番組は元々日本史の古典や史実の資料を無視して独自の見解と持論で曲解してる高卒のバカがつくるから実際とはかけ離れた内容になるんだろう。織田信長の実家なんて元の家の家格は漁村の村長レベルだしな。
能「三輪」
思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや!
三輪の神と伊勢の神は同じと言っているわけだな
>>829 >>830 俺は資料に基づく一般論ですので(´・ω・`)
まあ学校の先生が日本史の資料を研究してたから
正しく解釈できるんだろうが、当時の事など資料以外からの推測などいくらでもつくれるから(´・ω・`)
>>830 問題は幕末から明治維新だねあのあたりは
薩長による明治維新の正当化でしかない
それに結局はそこまで正確に権威を教えるのも
明治天皇の権威付につながるからだよ
足利氏菩提寺の創建責任者とその兄弟たる野田朝氏(正室は足利義氏(三河守護)姉妹)は、実は重要人物
何故なら叔母が忠成王の生母だからである
忠成王は天皇になる一歩手前までいった皇子であったが
仮に天皇になっていたら、天皇とハトコ関係になっていた
忠成王
順徳天皇第5皇子
生母は足利義兼の従兄弟
室は藤原範茂(三河守範頼兄弟)の娘
藤原範忠→野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→女→忠成王(室は藤原範房(三河守)の娘)
藤原範忠→野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→鷹司朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
藤原範忠→野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→鷹司朝季(鷹司冠者)→藤原重弘(鑁阿寺創建)
そして三河守護の足利義氏も天皇とハトコ
藤原範忠→女→足利義兼→義氏(三河守護)
>>833 幕末期の天皇が毒殺されてた時点で怪しさ満載だぜ(´・ω・`)
>>835 鎌倉初期、義家源氏と三河の藤姓熱田大宮司家が皇室を乗っ取るチャンスがあったわけだな
実現したら、歴史が大きく変わっていた
滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html 源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた、頼朝等身大の聖観音像
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
日本史でおかしいのは古代だと白村江そして
明治維新だなここだけは何かの意図を感じる
>>835 あーもうウッセーなあ
当時の地方に行って現地監督する貴族なんてのは今で例えると部下3人程度の主任か係長だぞ。
>>836 ぶっちゃけ明治維新以後の天皇って天皇の
コスプレをしてる何かだよな
ラーの鏡使ったら絶対正体違うわ
>>839 藤原実方かその人のお付きで旧鎌倉いまの戸塚に
帰農した人間の末裔だけど藤原実方はどれくらいの貴族なの?
>>842 その前に継体天皇あたりでどう贔屓目に考えても
血族は途絶えてるよなだいたい
徳川家だって御三家で持ち回りでやったから
持ったわけで女系も養子もなく
万世一系でつづくのはありえないよ
逆にいうならば源氏にしろ藤原にしろ天皇にしろ
権威やイメージにかなう人なら養子とか
コスプレでもいいんじゃなかろうか
なんならピカチュウ天皇とかもありだろ
>>843 明治維新の時に慌てて訳のわからない馬の骨を擁立したのかな
>>617 違うぞ
三河縁故の貴族を依怙贔屓しただけ
例えば烏丸家は所領が三河で、烏丸資任は三河の渥美半島で隠居した
烏丸資任はすげー奴で、足利義政を養育し、屋敷はしばらく将軍御所だった
>>845 天皇家を万世一系に定義した薩長はそもそも
天皇家の自然消滅を狙ったと思うね
フランス革命やロシア革命などの王族を暗殺する
歴史を作るよりそっちの方が正当化できるし
GHQが天皇制維持したのもそのつもりと思われる
だから自分は保守だからこそ次の天皇陛下は
愛子さまを推したいんだよね
秋篠宮には悪いが悠仁さまはちょっとね
>>841 中級下級貴族は京にあった朝廷の命令で
各地方の村や町の経営を委任された豪族を
監視するのに数年間ほど交代で飛ばされるわけ。
その従者なら貴族の親族か使用人です。1人の管理職と配下となる貴族数人が飛ばされるだけで、場合によっては数十人の大所帯になるから当時の武力配分としても豪族には容易には襲撃されない規模だったわけです。
>>846 都市伝説として田布施システムっであるが
多分それは三河のパクリだろうね
パクリだから明治維新150年で潰えそうだけど
孝明党
公明党
ほーん。だしな俺としては(´・ω・`)
>>848 まあさすがに実方当人の血縁ではないっぽい
ただ実方塚っていうのが戸塚にあって
そこでは実際に実方姓名乗る一族がたくさんいて
その人たちの本家が親族で
ウチもその人らにくっいて下ったけど
主人の実方がなんらかあって没したら
旧鎌倉の戸塚でそのまま農家でいまにいたる
戸塚の上倉田町とかあの辺りはそういか人が
集団で帰農してたんよね
>>850 まじかあれって大作的には諸葛孔明じゃないのか
ダブルネームかもしれないな
大作さんそういうの好きだもんね
>>259 三河の歴史をよく知る家康が、頼朝に寄せた可能性はあるぞ
三河の藤姓熱田大宮司家出自の奴を日光に送り込むと
明智光秀は、出自的には三河の藤姓熱田大宮司家庶流の進士氏
そうなら、家康的には美しく収まったわけだ
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀?明智一族?(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝は、三河の母方従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
つーかついさいきんまで天皇陛下すら公然と
替え玉がまかり通るぐらいだから
家康も複数人いておかしくないよな
そこまで考えたらきりがないけど
家康といえども今みたいに写真があるわけでもないし
戦場で命を落としても甲冑とか所持品だけ
持って帰って背乗りとかできそう
日本は諸外国が思ってるほど元々貴族制度では無い国ですわ。民主主義とも違う。
貴族のふりをした元殺人集団によって武家階級制度が崩れて、その集団も自滅し、後に残ったのが元貴族だとか元武家だとか何かにつけて元何ちゃらがついていたものの100年経過してようやく消え去った国ですから、本当は日本の伝統なんてのは人間に関わるものではなく人間がつくり出した伝統工芸品と呼ばれる物に集約されております。(´・ω・`) その工芸品にしても怪しいものが多いから今となっては日本らしさという代表的なものは日本語くらいじゃねと思うわけよ。今の上級民にしたってほぼ全てが自らの祖先が何だったか証拠がないだろ証拠が。1000年続いた商家なら台帳がずっと倉の中に保管してあるはずだが、それすら無いだろ。証明のしようが無いんだね。(笑)
>>853 家康は吾妻鏡を愛読してたし本当は鎌倉幕府
つまり後北条ならぬ後源氏になろうのしてた
という説を聞いたことがある
ただ秀吉が関東に左遷したことにより
関東平野の開発が先になったので江戸にしたとか
>>856 よく日本は歴史が続いてるからっていうけど
どう考えても本当は途切れてるよな
特に明治維新はなぁ
>>852 大作は組織を引き継いだだけで
創価学会なんてのは戦前から前進の組織があった。電通の前進とズブズブだったらしいな。(笑)
>>858 歴史が続いてるて解釈するのは日本に残ってる資料を読んでいないアホの低偏差値外国人の持論解釈でしょ。
どう見ても各時代で皇族の血筋が入れ替わってんじゃんね。(笑)
>>857 愛読していたのは、吾妻鑑には三河、岡崎がよく出てくるからな
三河が出てこないなら、恐らく読んでない
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた聖観音像(三河県岡崎市)
http://takisanji.net...hou_hou_seikanx.html 頼朝の母方菩提寺にある、頼朝等身大の聖観音像
吾妻鏡
文治四年(1188)十一月大九日庚子。頼朝様の甥(従兄弟の間違い)に当たる僧の任憲が参りました。
未だに会った事も無く良く分からないので、質問してみると、故祐範の子供だと言っております。そこで、北の私邸の客間へお呼びになり、丁重にもてなしました。
その祐範は、季範様の息子で頼朝様のお母さんの弟です。お母さんが早死にした時に、七日目毎の供養に(故祐範が)澄憲法印をお呼びになり、成仏のためお経を唱えさせました。それだけにおわらず、永暦二年に伊豆国へ流された時に、下男一人を付けさせて送って来てくれ、それから毎月使いをよこしました。
そのような恩義を忘れる事はありません。そこへその息子がたまたまやってきたので、これもご先祖様のおかげの良いかたみだと大変お喜びになられましたとさ。
季範は頼朝の祖父、熱田大宮司
祐範は三河法橋祐範といい三河国滝山寺僧
祐範は、三河国滝山寺で姉である由良御前を菩提
澄憲法印は信西の息子で、由良御前のハトコ
祐範が頼朝につけてやった下男一人とは安達盛長と思われる
>>860 連邦国家の江戸と中央集権の明治ではそもそも
政体が全く違うしな
フランス革命以前のフランスとルイ16世が
処刑された以後のフランスの歴史を通算するようなもんだぜ
>>857 あと鎌倉は選んでない
家康は、関東における吉良の威光を利用する事で、関東統治をスムーズ進める策略
鎌倉では関東全域を完全に統治出来ない
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
そもそも家康が天下統一するまでは統一国家ですら
ないしな全国区で支配権を持った政権はそれまでには
なかったはず朝廷だって貴族を送り込だ
地域ってそんなに広くはない
>>864 なるほど横浜にもそういう拠点があるのは知らなかった
なぜか明治維新までは寒村だとしか教えられた記憶がない
>>29 寝所で「いいかいいか?最高か?」と言っていたのを家来に聞かれてしまったのでなんのゆかりもない直政に当時既に今川に取り潰されて滅亡していた「伊井」家を「再興」させた
逃走ルートに味噌蔵を建てさせたのと同じ偽装工作なので事実と確定でいいでしょう
おんな城主直虎の終わりの方がどうにもギクシャクするでしょ、そういうことなんかな
でもこれは家康だけを責められない
家康自身も信長や義元にそうやって服従させられたのだから
信長が家康を接待した光秀のメニューに激怒したのは味噌尽くしの料理で家康を公開セカンドレイプしろという大切な指示を無視してしまったから、かもしれない
さいたまが関東の武士の拠点みたいなのは
うっすらと知ってたけどね
まあ明治維新まで寒村だったのは横浜村で
横浜市内と考えたら戸塚区や栄区は
旧鎌倉郡だし実際あのあたりの寺は古いし
地主の農家は江戸時代の墓とか普通にあるからな
金沢文庫は文字通りだしな
>>685 違うけど
山口県萩市の萩が、三河の萩由来で察しろ
三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司))
明治維新とは、江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲りなのである
徳川と毛利は裏で繋がっていた
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上、現代社会において徳川幕府は崩壊していない
>>871 なるほどじゃあ安倍晋三暗殺により薩長政権は
事実上終わりになりそうだがそれでも
その支配は変わらないと言うのか?
現代日本、屋台骨、最後の砦が三河のトヨタグループであるのは異論が無いと思うが
明治維新から150年過ぎても、未だに三河を乗り越えられずにいるのである
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html 現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
吾妻鏡を読んでたのは家康だけじゃないな
近年発見された毛利輝元の書状にも吾妻鏡を読んだことが書かれててるし当時の武将の嗜みみたいなもので広く読まれてたんだろう
遠祖、しかも一族のスターが記事になってるんだから、そりゃ読むだろう
家康も源頼家の正室の兄の血を引くから、身近に感じて読む
そんなもんだ
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
>>875 流石三河ガイジw
読んでたのは家康だけじゃないって言ってんだよアホ
>>1 坂上田村麻呂は後漢の献帝の末裔だし
藤原氏は百済王家の末裔
つか、奈良平安時代の貴族の多くが大陸からの渡来人の末裔ばっかり
また関東地方は百済や新羅系の移民が多数入植したエリアで、
中世から戦国時代の関東地方の豪族の大半が半島系ルーツ
日本は中朝韓の移民たちが物凄く沢山いるんだよ
そらあ7割以上が渡来系の弥生人なんだからな
平野に定住して縄文人を山間部に追いやったからな
わしの父系は何代か遡ると女衒だったらしいが 昭和一桁生まれの父親の実家は現在も残る市内の大歓楽街一等地で遊郭だか置屋だかを営んでいた
学生の頃、父が亡くなり、父の「ばあや」みたいな人に老人ホームへ会いに行ったことがある 戦災で全部失い、土地も騙し取られたらしい
父にも思うところがあったのだろう、本籍だけはその歓楽街の現存しない地番そのままで一生貫いた
自分の本籍もその歓楽街の一等地のままだ これは単純にめんどくさいから
何を言いたいかというと 爆弾1発で途絶えてしまう「代々続く血筋・出自」なんて割とどうでもいい 根無し草の人間なんてこの世に存在しないわけだから
日本を取り戻した
セックス産業の日本国
源氏物語だろ
偽グローバリスト は 源氏物語を支持する
これが 偽グローバリストかどうかの 判断材料だぞ
>>879 そもそも先の戦争でかなり日本は淘汰されたしな
今を生きてる人はそもそも戦争には駆り出されてない
もしくは参加してても最前線には送られておらず
なおかつ戦後の極貧時代にも教育を受けられる
ようなレベルの子孫だからな
自分の実家も高祖父が今の土地で商売初めて
曽祖父は愛人がいて愛人から生まれな子孫も
親戚として今も付き合いの残るほど面倒見て
曽祖父は旧制の商業高校を卒業して
当時としては珍しく自動車運転免許も所持してた
>>882 祖父は戦後焼け野原世代だが明治大学まで
進学祖父の兄弟も高卒でも湘南高校とか
戦後割とすぐの一橋大学卒とかそんなのばかり
貧しい人間や出自が明らかじゃない奴から先に
戦争の時代に特攻隊とかで散って行ったわけだからな
つまり殆どの人間は実家と切れず頼れるなら
それなりの援助や相続があるはずだ
でもマスコミに洗脳されて村を捨てたり
ひどいケースだと墓仕舞いまでやって
名無しの権兵衛になったり
それが格差の根源なんだよね
現代においては鳩山家が大財閥だからな
ブリジストンの株だけで一体いくら持ってるんだレベルだし
母親がブリジストン創始者の長女だったから生まれながらの金持ち
貧民とは違うのだよ
>>885 しかし明治維新からの財閥なんて結局は成り上がりよ
母の実家は江戸時代中初期から墓を確認できる
父系の祖父なんて養子だが地元の大和市の渋谷の
当地の豪農だからな
そう考えると麻生なんて明治維新の成り上がりだし
河野や小泉も言わずもがなだ
いかに財をなしてようが振る舞いというものは
嘘をつかない先祖が武士とか公家だという人は
没落してても気位は高い人が多いのだ
逆に成り上がりは精神性は結局平民の大差ない
いかに事業で成功したとしても結局は
我田引水な他人から吸い上げることばかりしとる
それは不敬ながら秋篠宮の嫁を見ればわかる
悠仁さまをまるで平民が学歴で身分のコンプを
埋めたいがごとく東大だ筑駒だとその振る舞いは
まさに平民そのものといえる
>>886 麻生も河野も江戸時代から続く庄屋や名主の家系だし
>>889 そうか?その割にはって感じだけどねとくに
麻生とかクリスチャンで奴隷商売とか
典型的な九州のキリシタン大名のような振る舞いで
とてもそのような国家的なリーダーに
相応しい振る舞いではないけどな
まあ三河からの禅譲だか知らんけど
廃仏毀釈の時点で薩長はクソあれが日本の
宗教政策を腐らせた
一度、朝廷から松平なんか聞いたこともないわ!って官位を却下されてんだよな
流れ者集団ゆえの結束力があったのかな
秀吉は一代で出てきために家臣団が存在しなかったのが差が出てしまったな
まあ考えられるのは乗っ取りだな安倍や麻生は
本来禅譲に相応しいはずだが
小泉家の鮫島のようにどこかで血がすり替えられたとか
天皇家すらすり替え可能なんだから
そんなもん朝飯前よな
小泉家がおかしいのは鮫島に乗っ取られてることから
わかりやすいが麻生や河野もいろんな
どさくさで家系だけの存在になってる可能性はあるな
振る舞いは嘘をつかないからな
安倍が子孫を残さないのは薩長から禅譲が
必要だからなんだろうけどね
しかし、朝廷パワーって凄いよな
武士が功成り名遂げて、その後に朝廷から位階と官職を貰わんとカッコつかんのやから
ていうか、正式に貰ってなくても勝手に自称してたくらいやし
図々しいにもほどがあると思うが勝手に三位って名乗ってた奴もおったくらいや
織田三位
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%B8%89%E4%BD%8D >>883 今のロシア見るとそんな感じだよな。
代々続く名家で金持ちの息子なんかは
政府に賄賂して兵役逃れしてるらしいからね。
>>898 本来なら名家の人間こそ先陣を切って敵陣に
突っ込むのが武勇とされたんだよな
戸沢盛安や真田幸村のようになでも現代は
違うらしいな
>>897 まぁ信長は官位なんていらねってあんまり重要視してなかったみたいだな
その部下の秀吉もそうだったか
でも秀吉はある程度信長の後継者になってからは関白になって
各地の大名にこれから勝手に戦争したらダメだぞと
いうお触れを出して全国統一を楽にした感じもあるか
>>824 尾張は古代豪族尾張氏の根拠地なんだが……
熱田神宮もあるし、海人族が活躍した土地としても知られている(海部郡[最近あま郡とひらがな書きになった]はその名残)
なお尾張は古代に文明が届く東端だったとも言われている
800番台以降、左翼の荒らしIDをNGしたら、殆どレスが消えたんだが……
左翼はこんなところにまで出張して来て、本当に気持ちが悪いな
いきなり「アベガー」とかやり出すし
>>602 アメリカは今現在紛れもなく世界最強の国だ!
>>811 総理大臣にもなったしな。
1年も持たずに退陣したけど。
>>798 松平初代が元々流れ者ってのは徳川家公式見解だろw
その流浪僧が実は新田庶流の元領主だったという貴種流離譚伝説を誇らしげに記載している
>>904 左翼というより、歴史上の偉人が伊藤博文を殺した奴しか居ない国の人だろう
あれ?カムイ伝読んだら徳川家は被差別民の出身だったけど
まあ残ってないってだけで大抵はどこぞの血筋とかだろ
道三とか早雲みたいに
ただの土民じゃ誰も従わんて
>>916 早雲は土民じゃない
幕府御用衆の伊勢家
そもそも、三河に生まれる、住するは、それだけで名族なんだよ
伊勢氏も、平安期は藤原さんと称して三河にいた
後北条氏の先祖、伊勢俊継
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→盛継→貞継)
■藤原俊経(****~1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217~1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去
■円辰(****~****):初代伊勢氏・伊勢俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
・三河国滝山寺僧
■増恵(1209~1283):初代伊勢氏・伊勢俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・三河国滝山寺僧
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
そもそも実は出自不明の氏族なんてほんとにこの人研究者なの?
いまいちわかってないってわからない氏族だらけだろ
・朝廷の実権を奪う
・朝廷の領土を奪う
・本物の源氏や藤原氏などの名族を倒す
↓
その後
・朝廷から位階・官職を貰う
・自分たちが倒した源氏・藤原氏などに代わって自分たちが源氏・藤原氏などになる
>>913 世の中に一定数テメエの出所以外に何も持ってない輩がいるってことよ
>>913 世の中に一定数テメエの出所以外に何も持ってない輩がいるってことよ
いまさらどうでもいいに尽きる
徳川家に忖度しても何の意味も無い
尾張の名家武将だった浅野家や堀尾吉晴家の屋敷は自治体が管理してるな。
まぁ徳川なんてカルト下痢おじさんってだけだからねw
東京人にとってのシンボルとしてはちょうどいいんじゃないか?
にっこーとーしょーぐーwwww
>>680 > 東北や
> 北陸地方の穀倉地帯
東北が豊かな穀倉地帯なのか?
貧しくて娘を売春宿に売ってるのに
>>920 三河は、平安期から源氏の国
源満国創建 常福寺(三河県西尾市)
https://www.aichi-now.jp/spots/detail/307/ 源経基→満快→満国→為満(室は源頼信の娘)→為公(源義家従兄弟)→村上為邦→二柳国高→国忠→夏目国平→国宗→宗泰(三河国設楽郡に移住)
源経基→満快→満国(三河国配流)→為満(室は源頼信の女)→為公(源義家従兄弟)→村上為邦→二柳国高→国忠→夏目国平→国宗→国泰(三河国幡豆郡に移住)
源経基→満仲→頼信→頼義→義家→為義→義朝→頼朝
源経基→満仲→頼信→頼義→義家→義国→義康→足利義兼→義氏→泰氏
国と為が通字ようだが、満国は三河に流され母を菩提する寺を建てた
夏目氏にとって三河は、遠祖を菩提する寺があったわけだ
初代夏目氏たる夏目国平は源頼朝、足利義兼と同年代であり、孫2人は足利義氏、泰氏時代に、足利宗家本拠たる設楽郡と吉良氏本拠たる幡豆郡に入部した事にも留意したい
足利宗家が三河に招き入れたわけだな
清和天皇の悠紀斎田は三河国であり、場所は西尾市
その西尾の国衙領は、清和天皇の孟子内親王に一身田と与えられ、後に吉良荘として立券された
吉良氏の家格が高いのは、血筋だけではなく、清和天皇ゆかりの吉良荘の由緒による一面もある
>>22 家系でいうとあれだけど、普通の算数で考えたら明治以降これまでで日本人全員に士族の血が入っているくらい時が経っているからねえ
自分の先祖だと明治時代のひい爺さんの写真がめちゃくちゃ厳めしくて士族おもろwwwってのを知り合いに話したら
お前みたいな卑屈な存在を知って、それ以来リアルで言わないようにしているけどさ
酒井忠次の家系は、鎌倉幕府の大江広元の分家の末裔
毛利家と親戚
広元の五男が三河の藤姓熱田大宮司家に養子入りした
その息子は三河国宝飯郡萩を領して萩氏となった
その萩氏から分かれたのが酒井氏だ
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司))
山口県萩市の萩が、三河の萩由来で察しろ
三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
明治維新とは、江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲りなのである
徳川と毛利は裏で繋がっていた
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上、現代社会において徳川幕府は崩壊していない
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司))
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→女→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏(三河守護)→泰氏(三河守護)
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝→源頼家
大江広元の子孫だが
鎌倉将軍家、足利氏とも親戚筋にあたる
藤原氏だの源氏だの愚にもつかないことに躍起になるのがネトウヨゆでガエル
そして近年の日本人の劣化を指摘すると「老害」だの「ジジババ」だの
うち琉球王傍流の子孫なんだよな
少しは誇りもあるけどやっぱりヤマトの武家の家系とかめちゃくちゃ羨ましい
大江広元→長井時広→泰秀→時秀→宗秀→女
永井氏(長田氏)は長井宗秀の娘が長田氏の嫁になったから、大江広元の子孫の主張らしい
家康は、永井直勝に名字が悪い言い、永井(長井)に名字を変えさせた
宗秀の姉妹は、尾張足利氏(斯波氏)の嫁になり、生んだ子供が斯波高経と斯波家兼だ
すると永井直勝の先祖の嫁になった女は、斯波高経、斯波家兼と従兄弟関係だった
大崎氏・最上氏の祖
http://www.inn-suzuki.com/info.html >中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任
斯波家兼
父:斯波宗氏
母:長井時秀(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹)の娘)
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした
>>940 続き
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
>>427 実際地震直後の秀吉書状(宇都宮国綱宛)見ても
「家康は如何様にも秀吉次第に臣従すると言いながら、未だに叛意を抱いているので今月中には出馬して家康を成敗する」
と言ってるので、島津が大人しく臣従してれば家康が潰されてた可能性はあったんだよな
小牧・長久手の戦いで信雄が秀吉と単独講和した直後の秀吉書状(池田輝政家臣宛)には
「家康は秀康など人質出して許しを請うてきているが、私は家康に対して恨みが深い」とも言ってるし
>>781 馬鹿か。家康と秀吉の部落疑惑て
秀吉が天下取って以降の問題だろうが
江戸時代に身分が固定化
>>811 佐竹、島津、伊達、南部
肥後細川は、分家だろ
>>1 出世していい時代を築きなさい。
そうすれば国家安康になります。
有力な戦国武将は力持ってから源氏名乗ってるだけだからなw
>>904 これでも半年くらい前に比べたらだいぶマシなのが何ともかんとも…
ノイズの連中を国に送り返さないとまともな話もままならないとか因果なジャンルだよ、全く
>>913 日本は多民族が争う国だったからなより
出自は大事になるよ
>>944 近世大名島津家も分家の分家がのしあがったもの
守護家は没落
純血佐竹家(山入氏)は滅亡している
>>180 晩年の天下人になってからの三河以来の子飼いの家臣の粛清が多いよな
有名なのが小田原の大久保とかな
まあ中国明の太宗に比較すれば少ないけどな
結構数 切腹させているよな
>>1 戦国時代とか今以上に海外から移民多かったはず。
制限ないも同然だから。
戦国大名の祖とか実はガタイの良い大陸からの移民の末裔だな、!
徳◯という名字は下記の通り
徳川
徳光
徳山
徳田
徳井
意外にもたったこれしか無いのである
>>1 家康の自称系譜の
酒井氏は、出雲族菅之八耳を祖とする富家の裔
相撲神事で有名な能見宿禰で
その直系が、南関東国造の
大宮・氷川神社神主家の土師八嶋(本性が菅)
菅を本性とする管原道真と柳生十兵衞の柳生家、大江広元、広元の子らに
毛利元就や公家の北小路家、酒井氏が居ますので、徳川家康は出雲族と成ります。
が、
本当の出自は、家康の父が足利冬直の家臣の大河内氏出身だったので
源頼光直系多田源氏直系の大河内氏に成ります。
なぜ、出自を隠したのか、それは
足利冬直が父尊氏に背き、南朝に就き
再びの元寇に備え倭寇創設をし
松浦党を創設させたのが大河内氏だったからです。
家の一族は、その大河内氏の命で
松浦党創設に尽力した出雲族水軍だったからで、ルーツを調べる内に徳川家の
本当のルーツを知りました。
源頼光の大河内氏と源綱の松浦氏の関係の
水軍には本来の渡辺綱の渡辺党とも繋がりがあり
大坂の陣の際、大坂の摂津が渡辺氏の所領地でしたが、頼光と綱の子孫関係で渡辺党は徳川方に従い所領地を主戦場に戦う嵌めになる事を耐え忍戦い勝利し
沢山の領民が犠牲となり、足軽の報酬に領民が大量に奴隷として平戸交易で南蛮船に売られ恥辱を味わった渡辺党..
そこに、徳川家康かルーツを新田世良田の酒井氏だったとしたから、渡辺党員らが激怒しクーデターが勃発。
事情を知る仲介者が渡辺党に出向き説得に応じクーデターが沈静化。
なせ、家康は酒井氏としたのか..?
それは、父が南朝に就いた足利冬直の家臣の大河内氏出身だったからであり
隠さないと北朝天皇から征夷大将軍の位を賜れない恐れからだったとされている。
その家康の父の出身の大河内氏の家紋だけが葵の御紋を使う事を許されて使って居る。
日本で一番の名家はうちだよ。倭国王の末裔だから。 どこぞの7世紀から突然しゃしゃり出てきた家とは違い、
2600年前から この 島国の王を千年続けてきたからね。
>>961 家は、播磨国ルーツの元出雲時代
丹後国風土記の出雲国取り合戦で
新羅王子の天日槍と大国主の戦いで
播磨国を死守した大国主として戦った一族です。
>>957 知り合いに徳留さんっている
(´・ω・`)
家の口伝には、親氏族は島氏とされていて
出雲時代に近く、出雲族系譜の島氏で探すと..
先住出雲族二大王家の大国主(八千矛)直系、神門家末孫の島津(志摩)国造家の島(直)氏=日本書紀の応神天皇家臣の斯摩宿禰の事。
陰陽師開祖、役小角の出身の賀茂氏は大国主の子、阿遅須枳髙日子根=八咫烏の裔なので家とは阿遅須枳髙日子根=八咫烏で枝別れした家柄の分家らしいので
家も秘密結社八咫烏の本幹一族で裏天皇家ですねw
>>953 島津は分家が本家の養子になった。これは正当な継続
肥後細川は、畿内の大大名の細川家とほとんど関係無い
実態があるかどうか
ルーツを辿ればどんな貴族も武将も無名の古代人
空から神が降りてきたとか言ってないだけマトモ
先住出雲族酋長の富家口伝伝承には
先住出雲族二大王家
事代主(八重波津身)直系の向(富)家と
大国主(八千矛)直系の神門家の二大王家の始祖神の国常立(クナト)大神はエジプト出しベーリング海を通って北海道に到着したのが4500年前で
後に合流した古代アイヌとサンカとで
東北経由で芦原中津国にたどり着き
そこを出芽国としやがて、出雲国と呼ばれる様になった。
と、著書に掛かれてましたね。
家康が朝廷に官位を求めた際
松平は素性が定かではないから駄目だって蹴られたことがあるのよ
そこで系図を管理する家に依頼して、清和源氏の末という体裁を整えて
改めて官位を要求したって話も残っている。
この史実が松平氏の系図がもともと定かではないことを証明しているわ
ちなみに私はもともとは神別氏族の出だよ
ニニギノミコトに付き従った神様の末裔だってこと
まあ、本家とはかなり離れているし
正直、信用できるとは思えないがね
ご先祖様の誰かがそういう事にしたのではないか
って内心では考えているくらいだ
>>971 大事なのは血族じゃなくて家が残ること
それは天皇家を見てもわかるでしょ
だからあなた立派な末裔だよ
うちは商家だから所々で遠い親戚から
養子をもらって家名を残してるんだよね
もちろん近親相姦とかにはないようにな
そのために家系図や墓があるわけだからね
自分の先祖代々の墓や墓誌は
血統書みたいなもののさ
天皇家だってそうさ継体天皇や推古天皇とか
途中であきらかに万世一系では
説明できない箇所がある
だけどそれこそが日本の家族主義の証明さ
大事なのは血じゃなく家を守ること
国家と表現するのもそういうことさ
>>957 ボクシングの世界チャンピオンだった徳山は通名で
帰化はしてなかったのか
上杉氏なんかいい例だ。元々藤原氏だったのが長尾=平氏から輝虎(謙信)が入ってきて4代平氏系が
続いて次いで吉良=源氏から綱憲が入ってきて現在に至る。大事なのは家名で男系の血統は滅茶苦茶。
>>9 変に先祖がわかってる伊達とか毛利とかやらや近江源氏の京極尼子六角朽木なんかは二流になったしな。
>>43 秋田県知事の佐竹は名家やないの?島根の国会議員だった亀井さんも近江源氏やし。
>>320 土佐の一条か宇和島の西園寺やろ。あと、本願寺顕如も日野富子と同族な。
>>399 広島浅野と鳥取池田が家康の子孫やろ。あと、中津の奥平。
>>493 細川は有罪のあたりで養子やなかったか?
>>980 亀井って尼子家臣の湯氏じゃなかったっけ?
近江源氏なんだ
>>975 家康が生まれた岡崎城近くに上杉氏の屋敷があった
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉-勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれたであろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
三河の田舎者だからな
それに今川や織田と違って殿様も怪しいし
>>991 物を知らない田舎者か?
今川は三河だが
難太平記4
-今川庄について-
左馬入道(足利義氏)の時から、長氏(吉良長氏)の少年の時の装束料として今川庄を給わったが、「(今川庄は)吉良庄の惣領が進退なすべし」との沙汰があったため、基氏(今川基氏)は(吉良家と)不和になった。
故殿(今川範国)の御代に省観上総入道(吉良貞義)と合体して父子の契約をしたため、違乱はなくなった。了俊(今川貞世)がこれをゆずられて相続した。
東福寺仏海禅師(一峰明一。東福寺十八世住持)は、了俊の師である。それで、東福寺の塔頭の正法院に(今川庄を)永代寄進した。この和尚は我らの先祖が今川を知行し始めた時からの政所であった高木入道という者の伯父でいらっしゃったため、もともと誼(よしみ)があったので、我が七世の父母の菩提のために永代寄進したのである。
しかしながら、もしも子孫の中にこの名字の地を大切に思う者がいたら、公方に申し出て、ここより貢収も多く、確かな私領と替えるがよい。そのままでよければ、塔頭の意にまかせよ。この冊子を証拠とするがよい。
源義家、藤原季兼に尽きるよ
三河が由緒正しい貴種輩出国になったのは
滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html 源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた、頼朝等身大の聖観音像
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
>>991
補足説明だが
三河国碧海郡今川荘は、今川貞世に返され、貞世から東福寺に寄進されたが、他の所領は、尾張守護だった貞世の弟に相伝させた
三河国高橋荘地頭の中条氏が、尾張守護、尾張国野間荘地頭職を兼務する形が室町期草創期まで続き、その後尾張守護を譲る代わりに尾張国海東郡地頭職を獲得した
室町中期に足利義教に滅ぼされると、海東郡の地頭職は海東郡分郡守護の形で三河守護の一色氏に安堵され、一色氏は知多郡分郡守護も合わせて補任した
鎌倉幕府尾張国守護
1240年 中条家平 三河国高橋荘地頭
1252年 中条頼平 三河国高橋荘地頭
1290年 中条景長 三河国高橋荘地頭
室町幕府尾張国守護
1336年 中条秀長 三河国高橋荘地頭
1339年 高師泰 三河国菅生郷
1351年 土岐頼康
1388年 土岐満貞
1391年 一色詮範 三河守護
1392年 畠山深秋
1393年 今川仲秋 今川貞世兄弟
1398年 今川氏兼 今川貞世兄弟、三河国須美保(西条吉良氏領)政所、三河国幡豆郡吉良西条、今川、一色のうちで、今川常氏と父・範国の旧領を安堵される
1398年 畠山基国
1400年 斯波義重
尾張国海東郡地頭
中条家平 三河国高橋荘地頭
中条頼平 三河国高橋荘地頭
中条景長 三河国高橋荘地頭
中条長秀 三河国高橋荘地頭
中条詮秀 三河国高橋荘地頭
中条満平 三河国高橋荘地頭
尾張国海東郡分郡守護
一色詮範 三河守護
一色義貫 三河守護
一色教親
尾張国知多郡分郡守護
一色詮範 三河守護
一色満範 三河守護
一色義貫 三河守護
一色義直
一色義遠
一色教親 NHK下らんなぁ
2000年ころからサブカル意識しだしたが
そのサブカルも既に終わりかけていたのにドヤ顔してたねぇ
>>43 栄枯盛衰ってやつだね。ゆく川の流れは絶えずして、しかし元の流れにあらず。
>>43 権威と言っても権力者に箔をつけるための道具であって
権力があるわけじゃない
人間ではなく道具の扱い
今もだが
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・実際さ、
・美脚集団
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・いやでも実際エグいて
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・集団ストーカー被害者
・埼玉3500人集団食中毒
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