五色塚古墳
神戸市垂水区の海辺からほど近い閑静な住宅街に、全長194メートルという巨大な前方後円墳「五色塚古墳」が横たわっている。
大きさでは全国で約40番目、誰もが古墳の頂上にまで登ることができる。そもそも古墳といえば、樹木が茂り、森のようになっているので、仮に登ることができても、頂きからの景色は期待できない。ところが五色塚古墳は、1975年に約1600年前の姿に復元され、古墳の上からは淡路島や明石海峡大橋が望める絶景が楽しめるのだ。
また、この古墳に眠る人物は「この周辺を支配した豪族」といわれているが、いまだに正確に誰であるかは明らかになっていない。そのミステリアスな成り立ちもあってか、パワースポットとしても注目され、兵庫県内だけでなく関東や九州からもこの古墳を訪れる人が後を立たず、特に若い女性が多いという。
謎の多い五色塚古墳だが、誰によって、なぜこの地に造られたのか、五色塚古墳を管理する神戸市文化財課長の安田滋に話を聞いた。
──五色塚古墳が造られた頃の日本はどのような状況であったのか。
五色塚古墳が造られたのは4世紀後半です。その頃、奈良盆地を中心に「ヤマト王権」という一大勢力がありました。ヤマト王権は各地の豪族と同盟関係を結ぶことで、徐々に勢力を拡大させていきます。まさしく日本の国の骨格がつくられつつあった時代です。
現在、研究者の間での有力な考え方では、3世紀にあった邪馬台国がヤマト王権の起源であり、奈良盆地に存在しながら、各地への影響力を強めはじめていました。そんな日本の国づくりの過渡期に造られたのが五色塚古墳なのです。
当時、ヤマト王権と地方の豪族との関係を示すために造られたのが「前方後円墳」でした。ヤマト王権の大王(おおきみ)の墓として巨大な古墳が造られるとともに、同盟関係のある豪族の墓として各地に前方後円墳が造られました。その規模は、ヤマト王権との関係が強くなるほど、さらに勢力が大きいほど、大きくなると考えられます。
■明石海峡を掌握していた人物
──五色塚古墳は、全国で約40番目の大きさ。この順位にはあとの時代に造られた仁徳天皇陵(大仙陵古墳)などが含まれている。五色塚古墳が造られた頃はどうであったのか。
4世紀後半にヤマト王権の大王の墓とされるのが奈良県奈良市にある「佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群」です。その頃、4つの全長200メートルを越える古墳が造られています。じつは、五色塚古墳は全長194メートル、これら大王の墓に肩を並べるほどの大きさだったのです。
■ヤマト王権との間に特別な関係か
(中略)
これを踏まえると、五色塚古墳に眠る人物は、ヤマト王権との間で、他の豪族たちとは異質な、何か特別な関係を持っていたと推察されます。
──現在、五色塚古墳から見られる明石海峡から淡路島の絶景は、きっとその当時も望めたはず。ここに巨大古墳を造ったのは、どのような人物であったのか。
(中略)
中国大陸からヤマト政権のある奈良に向かう船は、必ずここを通ります。なので、その人たちを統べる人物がこの海峡を掌握していて、ヤマト王権とも特別な関係があったと思われます。
注目すべき点はまだあります。この時代は権力が親から子へと世襲されていたので、同じくらいの大きさの古墳が近隣に立て続けに造られていました。しかし、五色塚古墳の築造された年代の前後には同じ大きさの古墳が周辺にはありません。
これらをまとめると「奈良地方と中国大陸との往き来でカギを握る、明石海峡を抑えていた権力者が、4世紀後半に実在した。全国各地に勢力を拡大させつつあるヤマト王権は、この人物を特に重要だと考え、他に類をみない大王クラスの前方後円墳の築造を許した。ところが、周囲に同様の古墳がないことから、なぜかこの関係はわずか一代限りで終わった」と考えられます。
五色塚古墳の埋葬施設は、現在に至るまで発掘調査は行われていない。過去に盗掘があったことも確認されていないので、もしかすると1600年以上前の埋葬施設である石室がそのまま残されているかもしれない。(続きはソース)
3/24(木) 8:30配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/7b6d29d150115874e7c61189084c70a9b890e5c0
★1:2022/03/26(土) 23:48:42.89
http://2chb.net/r/newsplus/1648486163/ #村山稔 姫路市北条宮の町213 #長谷川村山法律事務所 #漆原真史 加古川市尾上町今福2-18 #ヤクザ #詐欺師 #訴訟代理人 第3回期日 2022年1月18日喜々として #改竄データ提示 即バレ こんな弁護士いる?「ここ猿以下なんだよ 村山稔!」#準備書面 #カークリエイト #平賀紀洋
村山稔 姫路市北条宮の町213番地 長谷川村山法律事務所 漆原真史 加古川市尾上町今福2-18 ヤクザ詐欺師 の訴訟代理人 が第3回期日 2022年1月18日で喜々として提示した改竄データ。即座ばれてそのデータ改ざん、捏造事実を鼻先に突き付けられたが完全無視。データ改竄する弁7護士っておったまげるよね。 とりあえず、 「ここがアホだよ、猿以下なんだよ 村山稔 !」を裁判長にはっきり目を見開いて認識してもらうために作成提出した準備書面 71、72、73です。
村山稔ってわずかな報酬のために
データ改竄行って 証拠提出
兵庫県弁護士会除名、弁護士資格はく奪って どんだけアホ?猿以下?
https://mitsuidirect.seesaa.net/article/486196146.html 倭の五王の賛が誉田別の応神天皇で、
安帝のときに存在していたとされるから、
396〜438の在位が想定され、
それ以前が神功皇后だから
およそ4世紀中期後期の存在は確実で
卑弥呼とは全くの無関係は間違いない。
意味ねー記事だろ そもそも日本に独自の古代文化など存在していない
例のゴッドハンドの一件以来 従前の日本古代史などというものは全て否定されてしまった
古代日本の成立の実態とは8〜9世紀ごろ朝鮮半島から渡来したいわゆる「高麗神族」が
それまで文字も道具も言語も持たず火すら使えず森の中を裸足で駆け回って同族を狩り殺し
その脳みそを共食いしていたほぼ類人猿である倭原人を支配領導して日本を建国した
というのが現代の世界的共通認識であり それ以前の遺跡遺物や伝承のたぐいは全て
日帝強占下における捏造の偽物偽史だとみなされている
そしてその邪馬台国の起源は古代朝鮮帝国であり・・・
九州だろ
関西人だが、日本人のDNAが九州だと言ってるわな
>>1
んなわけないだろ
いつまで戦前の仮説にこだわってるんだよ
邪馬台国は九州にあって、ヤマト王権とは全く関係無いから 古代のアホどもが見栄のために無駄にデケェ墓作ったせいで、後世が土地利用できず苦労する
俺奈良県民だけどさ
いまだに近畿説とか言ってる奴は頭悪すぎよな
どう考えても九州
それもおそらく中部あたり
陸行にしても水行にしても
当時今のような道路もなく船もなくでそんな早く移動できるわけがない
邪馬台国が大和王権なら
日本書紀に魏や金印の事が記載されてる
まーた、日本史板、世界史板、考古学板、人類学板、オカルト板からあの人たちが集まってくるスレになりそう
日本はウクライナより中国にもっと関心を持った方が良いと思うわ
国内与党に中国追随を堂々と公言してる中価学会もいるしね🤤
>>1
邪馬台国がヤマト王朝の起源なら
卑弥呼が始祖?やっぱアマテラスが卑弥呼なのか
あれ?女系じゃん >>1
>現在有力な考え方では、邪馬台国がヤマト王権の起源
え〜〜〜?? 大阪から神戸の繁華街までは古代大阪の歴史になるから、大阪の考古学と合わせて見た方がいい
最大古墳は大阪ばかりだから
>>1の五色塚古墳は神功皇后の夫の仲哀天皇に関連する古墳
築造年代は4世紀末
つまり神功皇后も4世紀末の人物と想定される
これが一般的な認識 >>23
イヨが後を継いだと魏志倭人伝には出てるよ マジレスすると
証拠の古墳はあったけど土建屋が産業廃棄物にしたよ( ゚Д゚)y─┛~~
魏志倭人伝には邪馬台国ではなくヤマイチコクと記されてるらしいけど、何で邪馬台国になったの?
皇族に生まれればICUに入ることも筑波大付属も東京大学も入れる権利が
付与されることは事実だな
邪馬台(ヤマト)国→大和(ヤマト)国→奈良
素人でも分かりそうな事が理解出来ない専門家ってなんなん?
>>29
イヨは卑弥呼の子供ではない と記録にある >>16
船が存在しないなんて誰も言ってないんだよ
君が国語苦手なのはよーーく分かった >>32
台の旧字体の事かな?台湾も旧字体じゃ同じ字だよ 壱与(イヨ)は卑弥呼の子と考えられており
魏志倭人伝には壱与が継いだと記されている
・邪馬台国は北九州
・邪馬台国の東端の日出る場所に祀られた卑弥呼の墓が宇佐神宮
・九州から奈良へ移動した神武東征で
地方豪族を制圧した逸話がヤマタノオロチや土蜘蛛
>>40
台与じゃなくてイヨ?
元となるものが違うのかね? 九州で誕生した邪馬台国が東進して
朝鮮渡来人が居た機内を征服した
渡来人は行き場を失い大阪に逃げ込んだ
その渡来人が今の大阪人の祖先
だから大阪人は日本人に今でも嫌われてる
>>38
こういうスレって
貴様みたいなキレる奴多いよね 昼飯大塚古墳を知らない田舎者須磨人だけが
五色塚古墳を有難がっている
>>40
卑弥呼は生涯独身。子供はいなかったし
イヨも神職なので同様に生涯独身
イヨは卑弥呼の後を神職として継いだとしか記録にはない >>46
日本の歴史に名前が残らないレベルの泡沫集団だったという事だろうな >>20
ただの巫女だったんだろ
それとは別に天皇とかそれに近いものがいたとしてもおかしくはない 復元までしたのに掘ってないとか
どうせ何も埋まってないことわかってんだろ
>>46
魏国の使者は、邪馬台国まで入国させてもらえなかったんだよな
もちろん卑弥呼にも会っていない
九州の出城みたいな所で、印鑑を渡してそのまま帰国している 卑弥呼の正体は天照
要するに実在しない
死んだのは憑依したとされる巫女
なので卑弥呼
これが3世紀に奈良で憑依した
それがモモソヒメ
各国が恐れる一大率を辺境に島流ししてしまう畿内説 >>48
統一される前のたくさん国があった時代なら記録しきれなくても不思議じゃないしな >>52
精神体なら
イヨに職を譲る必要はなかっただろ カササギは九州北西部にて留鳥として留まる
カササギは一定の地位基地留まり繁殖を繰り返す習性がある
魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲無し。」とある
なぜ、鳥のなかで「鵲」が倭国には居ないそと記したのか
魏、またはそれ以降倭国にカササギを贈っていたと仮説するならば
生物学的なDNAの解析により
日本のカササギのルーツが特定できるのではないか
銅鏡などの錆び付いた物証だけでなく
鵲が現在まで生き継いだ生きた物証ならば
魏から邪馬台国に贈られた使者として
ロマンがある
藤原京以前の天皇の宮は転々としてたそうだけど引っ越し大好き一族は畿内につく頃には思えば遠くへ来たもんだとか思ってたのかな?
卑弥呼の名前すら怪しい
魏の人には「卑弥呼の使者」と聞こえたが実際は「巫女の使者」と言ってるかもしれんし
>>58
使者 「あれはなんです」
九州人 「あれは山ですたい」
使者 「ヤマデスタイ」
九州人 「山たい」
使者 「ヤマタイ」
九州人 「そうです」 まあ卑弥呼が姫巫女って言われるとシャーマニズム感が出ていいよね
縄文から脈々と受け継がれてる古日本人的なロマンがあるわ
>>60
中国人「どこから来たの?」
倭人「八女たい」 >>59
そういう極論大好きは老害化傾向なんだぞw 神功皇后が4世紀中期後期の人物だとすると、
卑弥呼はその1世紀程度前の人物となり、
ほぼ倭姫命で間違いないだろう。
> 奈良地方と中国大陸との往き来でカギを握る、
は?当時、航路が確立されてたんか?
嘘つけボケなす
ちなみに帆船では
海流って、結構負担でな
海流を逆走するくらいなら横切った方が良い
>>63
本職で真面目に研究してる人なんてほとんどいないよ
研究する対象が魏志倭人伝しかないから ヤマトという地名が出来たのは5世紀以降
つまりその時代のバカも同じように勘違いしてヤマトという国名にしたんだよ
実際、文献には邪馬壱国(ヤマイゴ)と書かれている
>>66
瀬戸内の潮流は速いから日によっては倍の日数が掛かっただろうね 馬鹿は極論でしか語れない
複雑な要素含ませて思考出来ないからな
人は記憶型と思考型に大別できる
今現在でも国を表す読みとして使われてる「わ」「にほん」「やまと」
なんで複数あるねん
こんな感じかな
「やまと」の者たちが、
「にほん」を建国し、
「わ」全域を支配した
ちなみに
縄文文化の世界的な意義に比べて
ヤマト王権とか
とるにたならい出来事だし
>>55
すまん戯れ言と思ってくれ
イヨに譲った時点でイヨが天照
天照争奪戦の様相を呈していた
それが畿内へ移ったということだ
今の天皇の原点だな
崇神がその慣習を放棄して権力と切り離し伊勢に移した 邪馬台国の立地で関西カッペと福岡カッペが争ってるんやっけ
首都圏民からしたらどうでもいいね
>>69
たしかにな
日数読めないしな
対馬海流もあるしな >>56
カササギは豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに持ち帰ったとか >>75
諸部族が分割統治してた係争地がなんだって? >>77
マジか、手漕ぎ船か?
蒸気船か?
それとも、天の浮舟か? 中国から倭国に送った金印は発見されたのに、卑弥呼に贈った金印がいまだ発見されていないからね
卑弥呼が大和朝廷の元なら、金印は大切に代々引き継ぐはずなんだけど、その記録すら無い。
魏志倭人伝は嘘っぱち
中国が信じられるかってのw
卑弥呼も話半分に考えて良いんでない
>>71 の続き
古墳時代は既に畿内の大和政権が出来上がってしまってるからな
問題はその前だ
★★[神武東征]★★
筑前(1年) → 安芸(7年) → 吉備(8年) → 畿内
↑
豊前
↑
日向 邪馬台国が大和国だと
倭数十ヶ国が日本統一レベルの勢力になっちゃうわけで
邪馬台国は山門郡のほうが
リアリティあるよね
>>60
あれ?
古代日本の九州はヤマト王権は支配しておらず
クマソが支配した地域ですよね >>80
いや、中国の魏志倭人伝に記録がある
邪馬台国の女王卑弥呼は呪術で政を行い、生涯結婚せず子供もいなかったと >>88
小型の船で
日数読めないのに
水と食料はどんだけ積む?
もしかして、船員は奴隷? >>49
政治を支配したという考古学的知見が副葬品から出てきているという話でしょ 卑弥呼の後はイヨじゃなくてトヨな。
卑弥呼は、天照大神を祀った巫女の倭姫命で、
トヨは外宮に祀られている豊受大御神の系統だろう。
卑弥呼=倭姫命は生涯独身だから、
倭姫命と豊受姫には血縁関係はない。
>>58
いや名前は勝手に中国が適当につけてるだけで、日本でそれ名乗ってた訳じゃないだろ
それははじめからわかってることだ >>1
ここの一番上の平たい場所の
ふちにある円筒形埴輪は樹脂製やで
これ豆な yama-Q動画見るようになって、千葉って古墳だらけなのに驚いたわ。
古墳と言うと関西というイメージだったけど、千葉の古墳群は規模こそ小さいものの
マジで古墳だらけなんだな。
>>98
そう
卑弥呼は単なる当て字
HIMIKO でいいやん >>76
台与をイヨ、イト
魏志倭人伝には壱与と出ている
専門家はイヨと読んでいたよ 当時の情勢
・朝鮮半島北部の高句麗(紀元前37年から7世紀) 首都は卒本城→丸都城(-427年)→平壌城(427年-668年)
・朝鮮半島南部の三韓(紀元前2世紀末から4世紀)
言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
朝鮮半島南西部の馬韓52カ国〔後の百済〕、朝鮮半島南部の弁韓12カ国〔後の任那・加羅〕、朝鮮半島南東部の辰韓12カ国〔後の新羅〕
(346年):百済は国際舞台に初めて登場する。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。蘇我氏の出自は半島南西部の全羅道とされている。
『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。
歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。
またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。
(369年):百済から倭国へ七支刀を献上している。
4世紀後半以降、倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されており、
史実として立証されている。〔広開土王碑・七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。〕
(413年から478年):倭国(ヤマト王権)の倭の五王〔允恭天皇、安康天皇、雄略天皇など〕は、
東晋→宋〔中国南北朝時代の南朝〕に断続的に朝貢を続け、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた。
南朝は朝鮮半島南部の徴発権、軍事指揮権、裁判権は倭国(ヤマト王権)にあると認めた。
(7世紀中葉):倭国が白村江の戦の敗北により大陸での影響力を完全に喪失する。百済、新羅の滅亡。国号を「日本」と改める。
三韓征伐(4世紀後半)について
・中国側の視点
宋書(479年)等の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、
南朝梁の梁職貢図(469年〜530年)には、新羅が或るときは韓の属国であり、或るときは倭の属国であったと記載されている。
・朝鮮側の視点
朝鮮側の史書三国史記(1145年)からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。
また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。
・高句麗側の視点
広開土王碑文(414年)には、4世紀末に倭国が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが記録されている。
・日本側の視点
日本書紀(720年)等の史書では、百済が倭国に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されている。
391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする。393年には倭が新羅の王都を包囲する。397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。
いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる。400年には倭が新羅の王都を占領していた。
高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。
402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる。
神功皇后(卑弥呼)が200年に三韓征伐に出兵して
帯方郡が設置されて同盟関係になったんだよ
建安中、公孫康、分屯有縣以南荒地、爲帶方郡。 →帯方郡南部が荒地
遣公孫模張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊。 →軍隊を立ち上げた
舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方 →日本人と韓国人がリードした
ただ卑弥呼は独身で子がいないとされており
神功皇后は夫が没した10か月後に応神(神武)を生んだので応神父は血縁関係が微妙
卑弥呼の時代(3世紀中頃)
狗邪韓国(3世紀中頃)朝鮮半島南部〔後の任那・加羅〕にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。『後漢書』では「倭の西北端の国」とする。
・『三国志』「魏書」東夷伝韓条には、 韓は南方では陸続きに倭と接すると述べている。倭国(または倭人居住地)の領域内とする説、領域外で対岸とする説、倭の海と岸が接する意味とする説の3説が挙げられている。
・『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は三韓の位置関係をより具体的に、「韓」の西岸に馬韓が、東岸の北部に辰韓、東岸の南部に弁辰(辰韓)があり、馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも朝鮮半島の南海岸部から「倭」の領域であるとしている。
・『後漢書』東夷伝倭人条では、邪馬台国は楽浪郡から「一万二千里」、倭の西北端である狗邪韓国は楽浪郡から「七千里」と記されている。
1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭国王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国が対立
4世紀 奈良纏向遺跡の出現、崇神天皇が四道将軍を派遣 北陸出雲吉備会津を征服、仲哀天皇が九州遠征で熊襲に敗北 宇佐神宮に奉られる、神功皇后が香椎宮で神託を受ける 三韓征伐
5世紀 奈良の大和王権が任那〜北九州〜南東北を平定 雄略天皇「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」
6世紀 継体天皇即位、大伴氏が半島にあった領土を割譲、筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 聖徳太子が軍隊を半島に派遣、乙巳の変、歴史書を新たに編纂
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱
9世紀 最後の朝貢を持って隼人の名が消える、北海道と南西諸島を除く日本統一
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅) >>95
持衰さんがいかに謹んで航海したかどうか次第だった模様 >>94
公式にはね
古代日本の祭式は性的なものと切り離せないよ
子供ができても神の子にするんだろ >>111
公式より、お前の妄想を信じろと ?
無茶言うなよw >>90 の続き
船のレスがあるから一言
埴輪の船は帆船だぞ
ロープを引っ掛ける箇所がある
当時は沿岸航法
毎日、陸に接岸する 王様決めるのに揉めて大乱起こして
共立した卑弥呼が死んだ途端に仲間割れを初めて
トヨが王になって20年くらいで消息不明になる
それが邪馬台国
卑弥呼=ウエーイ系のヤカラども(鯨身の入れ墨ヤカラ)のダンシング・クイーン
卑弥呼の弟の王=おっとっと夏だぜ!つって銅線、いや銅鐸とか銅鏡とか盗みまくり
夜な夜な江戸川区瑞江のような川の側でバーベキューやってて高床式倉庫の前で
焚き火を囲んで数十人でダンシング。日本の未来は世界がうらやむ!つって
それに尾ひれがついて、魏志倭人伝の記録係のヲタは「ああぁ…うッ!女王様!」
つって竹簡の文字を白濁した液で汚しつつさらに話を盛る。
長編で千夜一夜物語レベルのものを書き上げたが、上司に激怒されほぼカット
三内丸山遺跡は15,000年前の遺跡だからこっちが起源だろ?
>>64
極論じゃないだろ
男系絶対の理由が昔から男系だったからしか無いんだから
卑弥呼に連なるなら女系認め無いのはおかしい >>112
否定できる根拠が無いと言ってるんだよ
豊穣は子沢山が尊かった時代だろ
妊婦が女神だぞ >>102
どんな専門家なのか知らんけど
通説はトヨなので、
そんな部分で争う必要が無ければトヨで進める方がいいよ 邪馬台国=九州王権って結論が出てるのに、まだ関西説を唱えてるヤツは何なの?イデオロギー?
朝鮮半島から渡ってきた種族が東征して関西まで支配下に置いたのはいろんな証拠から明らかだろ
天皇陵を発掘調査すればいくらでも証拠が出てくる
>>1
畿内ヤマト王権なんてそれまでの権力から簒奪して出来たものだろ >>105
あれ、日韓が帯方郡に服したということかもしれないけど >>119
臺與(台与、とよ)(235年 - 没年不明)、あるいは壹與(壱与、いよ)は、日本の弥生時代3世紀に、『三国志 (歴史書)・魏志倭人伝』中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女である。卑弥呼の後継の男王(名は不明)の次に、13歳で女王になり倭をまとめたとされる。魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書倭国伝』『北史倭国伝』では「臺與」と記述されている。
「台与」は「臺與」の代用表記であり、「壱与」は「壹與」の新字体表記である。臺與の表記・読みについては異説が多く詳細は後記。 >>117
結論をいうと天皇家は色々あるが一応男系だよ
卑弥呼に連なると言ってるのはもともと正当性なんかなかった政治権力を
無理やり正当化させるために生み出した当時の方便だよ
もしくは日巫女をレイプしたか >>124
で、
通説はトヨな
中二病じゃなければ、そういう部分は周りに合わせた方がいい ま、そんなことより
日月神示に書かれてる大祓祝詞を見ると良い
日本神道の発生地は阿蘇の弊立神社の可能性大
主祭神は、カムロギ大神、カムロミ大神
年一度のカムハカリ(神審議)がなされてたのは
弊立神社ぽい。なんで高天原は阿蘇周辺。
伊弉諾伊奘冉は、カムロギカムロミ大神より
命令を受けて、阿蘇周辺の高地から
平地に降りてきたと解釈できるわけさ
それが、現在の宮崎ぽい。
>>126
まぁ、畿内説は最初から嘘まみれだからなぁwww >>97
日本人名大辞典より
壱与 いよ
−? 3世紀の邪馬台国(やまたいこく)の女王。
「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると,魏の正始8年(247)ごろ,卑弥呼(ひみこ)の死後にたった男王に国中がしたがわず争乱となったため,卑弥呼の同族の娘壱与が13歳で王となる。その後魏の都洛陽(らくよう)へ使者を派遣し,男女の生口(奴婢)30人を献じた。名は台与(とよ)とする説もある。 イヨ「まだ読んでません」
トヨ「イヨはまだ…16だからぁ」
ヒロミ「何かにさらわれて」
箸墓と卑弥呼は年代が合わんのよね
奈良には卑弥呼の墓っぽい遺跡がない
高良大社には豊比盗_社がある。
コレが大元のトヨだろうな。
>>99
そんな女神も、末っ子である火の神を産み落とすときに病気になり、のちに死んでしまいます。おそらく日本の初代妊婦であろうイザナミノミコトは、まさに自分の命と引きかえに出産したのです。神話にまで出産のお話しが残っているのは、古代人にとって妊娠・出産が、それほど恐れ多い一大行事だったからではないでしょうか。
約1万年前の縄文時代の出産は、土偶からうかがい知ることができます。例えば、顔よりおおきくお腹を強調した妊婦の土偶、座りながら出産しているような土偶など、妊婦の姿かたちをしたものが数多く発掘されています。 >>137
時系列無視して持論に近づけようとするのは極論だろ >>7
糞舐めて健康占いし牛馬の小便で顔を洗い女は乳放り出して「ウッホウッホ アイゴ〜〜〜」と
雄叫び上げながら往来を歩き19世紀に訪れた欧米人に「世界最強の不潔民族」と言われた糞食い土人が
ナニか言ってるぞww 長きに渡ってこれだけ探し回っても邪馬台国の場所がわからないって、本当はそんな国はなかったんじゃないの?
中国人が自国の威信を高めるために日本から使者がきたということにしただけじゃないの?
俺は卑弥呼たんは存在しない説を主張します!
>>140
実際に産んだかどうかとは関係なく物語の継承伝承に性行為が使われるのは理解しやすさの為だと思うんだよね 戦前はイデオロギー的に畿内説じゃないとまずかったんだよ
邪馬台国 >場所は九州でしょう。
卑弥呼 >女王になってからは完全に引籠って、直接会えるのは弟のみ。
いよ(台与)>卑弥呼と弟の子供?
あと、男は刺青を入れていて、海の物をとって食べていた云々の記載が魏志倭人伝
にあるので、少なくとも奈良ではない。奈良って海ないよね?
>>117
神武天皇からって言ってるんだからその前から考えるのはおかしいだろ
神武天皇からじゃなくていいなら、アマテラス、もしくはニニギから始まってるはずだろ >>145
中国から見て日本は格下なのに格下の威を借るのもおかしな話だなぁ >>146
うん
でも神話の天皇から子供ができなければ現在につながらないんだろ?
初代天皇は神から生まれたんだよな やまたいこくとやまとおうけんが別だと言うなら証明すればいい。
>>1
そうなると、邪馬台がどこの地域にあったのか
これをまず何よりも優先して正確に割だないと、
そのあとの話が続かないな。 >>151
卑弥呼には子がいなかった記述を無視するんかい
仮に天皇になったとしてもその子には継がない男系がいれば男系に譲るのが優先されるんだよ
おまえの思惑どおりにはいかんのだよw >>1の言うてることがよく分からんなあ
分からんで良いンやろなあwww >>1
その写真、宇宙戦艦ヤマトって言うよりエンタープライズじゃね? >>156
原始女性は太陽であった
古代の日本は、女性の社会的な地位や経済的な権利は高かったのです。女王卑弥呼の時代から、女でも社会のトップに立っていいという認識がありました。ヤマト王権の女王、女帝は、6世紀末の推古さんから8世紀後半の称徳さんまで6人、8代います。それから中央のトップクラスだけではなくて、風土記などを見ても各地で女ボスたちがいます。しかも地域をまとめたリーダーというだけではなく、軍を率いてヤマト王権と闘う女性リーダーたちもいました。 >>156
「記紀」の伝承によると、古代のヤマト王権の大王(天皇)とその妃(皇后)は別々な場所にお墓を造ることが一般的です。たとえば仁徳さんの皇后、磐之媛命は奈良県で、大阪と奈良に分かれてお墓を造っています。天皇・皇后のカップルとして合葬されたのは、8世紀の初め、天武陵に持統が追葬されたのが最初です。若い女性が大王の求婚を断っても罪に問われることもなかったし、独身でも財産をなした引田部赤猪子のような女性もいました。 日本はもう何度も焼け野原になってるし地震も多いんで過去の痕跡なんてそうそう見つかるものじゃないだろう
文献で遺してない以上は天皇家の宮が奈良以前のどこにあったかは憶測でしかない
人口増加で遷都するしかないのは理屈にあってるとして遷都する以前の宮がどれくらいの規模なのか?もしかすると田舎町くらいの規模だったなら発見すら難しいだろう
そもそも引っ越し大好きだったのがいけないw
>>156
古代の女性の自立性が高かったのはなぜか。それは女性の霊力があって、男性よりちょっと神様に近い存在なので、神祀りをおこなうという社会的な地位が与えられたり、敬意が払われたりしたのだという解釈が行われていましたが、それは明治時代に創られた虚像であるという指摘も出ています。私たちが何となく古代からずっと続く伝統だと思っていたことが、実は明治時代にうんと誇張されていることが案外多いのです。女性の霊力を強調するのも、明治・大正時代の研究者の研究に引きずられていた部分が、かなりあるようです。 卑弥呼には歳の離れた弟が居て、
卑弥呼の世話をしたと書かれている。
コレが倭姫命の世話をしたと言われる大若子命の弟の乙若子命で間違いないだろう。
始まりは葦の芽でしょ
最終氷期の旧石器時代から考えていけばいいんじゃないか
一つ一つ伝承と考古学的結果を検証していけば記紀に惑わされない歴史が見えてくるかもなあ
奈良にあったヤマト政権を九州の田舎娘卑弥呼が、勝手に魏に使者を送り国の名前を尋ねられて、ヤマトの名前を盗用したら邪馬台国と漢字を当てられただけ。
>>164
垂仁の皇女でアマテラスを伊勢に祀った初代斎宮? >>163
>>156
では、なぜ古代の女性が強かったのか。
やはり、人間の自立は経済的な自立からということです。
生業に男女の役割分担があって、それで社会が成り立っていた。
女性の仕事は、たとえば田植えとか脱穀、食料採取、調理はもちろん、酒づくり、土器づくり、
それから機織りも女の仕事でした。
お酒は神祀りに欠かせないし、お米と布は律令体制の大事な税の品です。
そういう品の生産に女性が重要な役割を担っていたのです。
しかも、女性にも財産権、所有権が認められていて、万葉集でも、お母さんが桑畑を所有していることなどがわかります。 >>154
整理しよう。分かってることは、
やまとおうけんは関西に実在した
やまたいこくは日本のどこかに実在した
九州にやまたいこくが存在したという記録はどこにもない
もう結論は言うまでもないな。 >>168
そのあたりが、同じ中国の律令体制とちがうところです。平安時代から江戸時代まで夫婦は別財産で、男性上位が強まった江戸時代でも結婚のときに妻がもってきた財産を夫が勝手に売り飛ばしたら、妻の側からの離婚請求が成立した。江戸幕府は、夫が一方的に妻を離別できないよう、離婚の際には妻の持参金を全額返却せねばならないとしたし、酒乱の夫、ドメスティック・バイオレンスの夫から妻を守ってくれました。 また狗奴国との戦いにおいて、
張政が黄幢を授けて激を飛ばしたと書かれているが、
この旗が、倭姫命が大若子命の活躍を顕彰して
授けたとされる旗であろう、
大若子命が大幡主と名前を変えるほどの
旗であった事が分かり、
現在でも博多祇園山笠の祭りとして
受け継がれているものである。
語源は
ヤマト(山人)
ハヤト(隼人)
アマト(海人)
ということでは
どっちにしろ野蛮なアズマエビスには関係ない話だな
これは日本の話だから
>>156
明治になって、妻には財産権がなくなります。江戸時代に建前でしかなかった決め事が民法になる。離婚率はどっと増え、再婚率は激減します。古代には高かった日本の女性の社会的地位や経済的権利は、天皇制の成立、武士社会の到来などを契機に徐々に低下していきますが、どん底まで突き落としたのは明治時代です。江戸幕府の方が、まだましでした 研究者で有力なのにまだ九州説を推してる奴は
一発逆転を狙って金印掘り出してこい
明治の国文学者って本当に信用できるんか?
ユダヤの傀儡に指名された御用学者だったんじゃねーの
今もそうだしよ
日本は神武天皇の方が邪馬台国より古い時代なのにおかしいだろ
>>164
倭姫命は豊鍬入姫命の跡を継いだのだからこれがトヨだとしたらむしろ卑弥呼の二代あとになるのでは?
この仮定だと時代設定の辻褄も良く合う >>163
女性の霊力を強調したのは、柳田國男や折口信夫の影響が強いと思います。女性が非常につらい条件の中で生きねばならない明治・大正時代に、女性にもそういう役割があった、女性も評価されていたという主張をしてくれたことは、当時の女性たちにとって、救いであり、希望であっただろうと思います。 倭姫命は生涯独身、
世話をした弟(大幡主の弟)がいた伝承がある。
合戦で活躍した武将に旗を授けた伝承がある。
熊襲征伐では倭健命に策を授けた。
時代も2世紀前期〜中期の人物。
親は垂仁、生目=伊支馬長官。
北部九州に居た伝承もある。
これはもう100パー倭姫命が卑弥呼で間違いないだろう。
>>182
でも、改めて検証してみると、男性より女性の方が神がかりしやすいなど、主観的な理由でしかないのです。確かに女性が神祀りの場で重要な役割を果たすということはありますが、それは霊力の強さではなく、神祀りに必要な米づくり、酒づくりを女性が仕切っていたためだという見方が最近だされています。 >>13
うん、その通り。
なんで魏志倭人伝の作者は地図をつけてくれなかった? ブラタモリで言ってたけど古墳ってランドマーク的な要素があったらしい
五色塚の横を船で通りすぎると遠くに仁徳陵が見えてくるぞーって船乗りたちに教えられて乗船客たちはワクワクしてたポイントだったんだろうな
いきなり奈良が発展するわけないわな、九州の王朝が移動したんだろ、太陽の差す東を目指したとか丹を求めていったとか
前方後円墳は、
中華で言う円丘方丘であり、
司馬炎が夏至と冬至の祭り事を
合わせて行った祭壇であり、
現在で言うと野外コンサートホールのような場所である。
>>187
>いきなり奈良が発展するわけないわな、九州の王朝が移動したんだろ
九州に王朝があった痕跡が皆無。 まずそれを見つけてからにしろ、妄想は。 わははははは @阿波 >>166
ヤマトのことを知らない相手にヤマトの名を騙って何になるの 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本で邪馬台国だ。日本の聖徳太子は隋に手紙を送った。百済、新羅、高句麗は倭国で日本の属国」
>>48
日本という国は白村江の戦い、壬申の乱の前後で別ものになっているからだよ
白村江の戦いで日本は唐王朝と戦ったんだけど大惨敗
太平洋戦争で惨敗した後、アメリカの進駐軍によって憲法改正、教育改革、宗教改革が行われたように
白村江の戦いで惨敗した後、唐の進駐軍によって大改革が行われた
憲法改正に相当するのは大宝律令
教育改革に相当するのは日本書紀、古事記の編纂
宗教改革に相当するのは国家神道の創始
こうした政策によって古代日本の正統王朝ヤマト(=邪馬台国)が存在したという事実が葬り去られた
それが、日本の正統な歴史に邪馬台国が登場しない理由 >>187
まあ九州だろうな
ただ、高志の国説も捨てがたい >>11
ガンガン削って平地にしていいんだぞ
地方では近畿の古墳より歴史が古かったり稀少な型式のやつでもどんどん潰して宅地にしてるからな >>190
三國志との結びつきを思わせるレスたすかる 通常、漢の時代は、
冬至と夏至の祭り事は、
それぞれ北郊と南郊で
冬至と夏至の時期に別々に行われていたものであるが、
コレをまとめて11月に行ったのが司馬炎。
コレがトヨの使者には
かなりのインパクトが
あったのだろう。
奈良にあった山門王朝の本丸の親族たとえば弟君の墓だろ
堺市の古墳のデカさヤベーな
マップで見ると正気とは思えん大きさをしている
>>32
ヤマタイ→ヤマトに誤字だとして牽強附会説はある >>153
北部九州地域全体が邪馬台国で卑弥呼は伊都国に居たと考えられるね。 >>15
しっかり記述したら藤原の立場がなくなるだろ
皇孫の天皇が代々親政を執ってきて、初めてその代行者となった藤原氏っていう体裁が大事なんだよ
だから古代の他の氏族は存在を薄められてるか反逆者しか出てこない >>178
>約1600年前の姿に復元され、古墳の上からは淡路島や明石海峡大橋が望める絶景が楽しめる
ちょっとふふってした 淡路島の五斗長垣内鉄工所と五色塚古墳とのあいだの狼煙通信では
食料送れ、材料送れ、など各信号が取り決められていた
そうした狼煙を取り仕切ったのが彦火火出尊の部族であった
>>200
堺港の交易で稼いだ金で労働者たくさん雇って造らせましたみたいな >>200
大きさも向きも墳型も、みんなバラバラ。 「倭人(阿波勢力)」の見得の張り合いの代物だから。 @阿波 >>180
神武天皇は邪馬台国より後の時代だな
5世紀くらいの人だろう。 >>209
大きさも向きも墳型も、みんなバラバラ。 「倭人(阿波勢力)」の見得の張り合いの代物だから。 @阿波 纏向はヤマトだけど
九州北部はヤマタイだと思ってる
>>211
魏志に出てくる倭人は日本にいる人を指す総称だったみたいね そうしないと国から補助金が下りないらしいな。
金の為に真実を歪めやがって
魏呉蜀の魏がなんで日本の歴史書を作るんだよ
朝鮮半島と九州の一部だけと見るのが妥当だろ。
自分のモノだからと唾つけるためにやった
つまりオレたちはヤマダイ国のヤマダイ人で刺身や天ぷらがヤマダイ食品ということになってたのかもしれないのか。
医者はもう社会的に立ち直れないぞ
補助金の為にコロナ捏造しやがって
考古学もだな
これも国からの補助金目当てで捏造されてるんだよ
関西人なんて信用すんな
お前今でも乞食ならその先祖も乞食に決まってる。
権威ある学者の間では邪馬台国は奈良で決定されている
九州説を唱えてるのは本を売りたいシロウト
ヤマト政権は8世紀からだよな
それ以前は奈良の地方豪族
25 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:39.93 ID:68Ek905f0
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 26 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:45.99 ID:68Ek905f0
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる 【邪馬台国の場所】日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう >>221
>学会では箸墓古墳が卑弥呼の墓というのが定説
そう言い続けて幾星霜ww とほほ・・・ @阿波 日本は平和だね
世界が現実味を帯びてきた全面核戦争の恐怖に慄いているのに邪馬台国がどうとか
俺の巨大ペニスも凄まじいが、この古墳もなかなかのものだな
日本国内には何の証拠も無いのに
中国の記述に踊らされて
今でも騒いでるのがなんとも滑稽
日本の古代史はガッチリ固めておかないと、
中共の手下に改ざんされる可能性があるからな。
ヤマト王権って朝鮮由来の王朝なんだけどそれを否定したい層が
必死に近畿説を唱えてるんだよね
馬鹿みたい
>>231
修正主義者の手にかかれば容易く書き換えられる
明治政府がその好例 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国、またはその王都がある邪馬台国)から一万二千里である。
(楽浪郡は)その西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
五色塚古墳は国産み伝説の淡路島とセットで考えるとかなり大和朝廷に近しい人物が被葬者であると推測できる。淡路島から最短距離で本州に渡ると五色塚古墳近辺になるから
平原遺跡の副葬品
平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から四世紀と考えられている
耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型である。
金層ガラスを用いて作られているが、国内のその他の金層ガラスは4世紀以降の出土例しかない。
副葬品に武具がほとんどなく宝飾品が大量にあったことから被葬者は女性であったと考えられる。
世界最大の銅鏡である八咫鏡は国産品であり、後漢滅亡後の卑弥呼の治世に製作された。
これらに五尺刀を加えて三種の神器の様式を整えてあったことから、被葬者は倭王であった。
結論
平原遺跡は後漢滅亡後の3世紀頃に作られた倭国の女王墓である。
その年代の倭国女王は卑弥呼しかいない。
研究者の中では〇〇が有力、〇〇が通説といいつつ、
まったく誰がメインで何人いるのかわからない、
ってのはどの話題でもあるが、
圧倒的なのか邪馬台国奈良大和説
まあ万系一世の天皇家が最初から奈良大和で即位したと言いたいのはわかるが、
そうなると日本書紀が嘘になる
「どこの西」から東の奈良大和にきたんだ
邪馬台国奈良大和説はまず日本書紀を偽書もしなければならない
だいたいなんで奈良から朝鮮半島経由で交易してんのさ
本当空白の100年って一切無いのかね記録中国に
探せばどっか物置にあんじゃねーの
なんで邪馬台国と大和朝廷を同一視するのか不思議
どう考えてもまったく別物だろ
朝鮮半島東岸南岸7000里の距離を行くのに水行20日掛かり
朝鮮海峡4400里を渡るのに水行10日掛かり
末盧国の港(呼子付近)から伊都国、奴国までの600里に陸行1日掛かるんだ
伊都国、奴国付近が邪馬台国の中心の女王国。
>>239
時間的に500年もの差があるから同一では有り得ないよね。 >>239
>なんで邪馬台国と大和朝廷を同一視するのか不思議
ところは違えど、「倭人(阿波勢力)」は同一だから。 @阿波 >>6
だからこの古墳は神功紀に載る明石の石塚の可能性が高い そもそも記紀だって、神武より前の王都は筑紫の日向としている(日向三代)。
筑紫の日向の小戸におけるイザナギ大神の禊が神道の根幹なのだけれど、福岡市の小戸公園のあたりなんだな。
つまり記紀も伊都国や奴国の周辺が古代の王都であったことは認めている。
しかもここは三種の神器が副葬された弥生王墓がたくさんある地域であり、糸島市はさながら倭国の王家の谷のようなもの。
奴国つまり福岡は弥生銀座とも呼ばれる、考古学的に当時もっとも栄えた地域でもある。
神武が筑紫を出た実年代を補正により求めると、卑弥呼の少し前になる。
つまり、神武が筑紫を出た後の混乱を治めるために王都である筑紫で共立されたのが卑弥呼と考えられる。
>>244
倭面土国帥升から7〜80年男王の時代が続いて
統治者がいなくなったから
その後継者争いで倭国大乱が起こったというシナリオは
あると思います 卑弥呼無き後の邪馬台国と大和朝廷の前身が並立していたのなら邪馬台国が朝貢した魏晋に対抗して北朝に朝貢しても良さそうなものだが仏教がまったく入って来た形跡が無いことから見て倭の諸国は一貫して南朝にしか目を向けて無かったように思われる、であればやはり邪馬台国こそが大和朝廷の前身とみるべき。
日本の古代史は謎過ぎて楽しい
邪馬台国、奴国、投馬国、出雲、吉備、阿波、淡路、大和の関係
国津神と天津神
神武東征がなんでわざわざ東に迂回してるのか
学会では畿内説優勢。
高校歴史教科書も畿内説有力と記載。
>>247
仁徳以前の天皇はみな寿命がおかしいから
過去のエピソードをつまみ食いして架空の天皇をでっちあげたと思われるが
たとえば崇神の時代には
崇神10年に東西に四道将軍を派遣し
その50年後、崇神65年には任那が朝貢してきたとある
この50年の間に九州北部は畿内ヤマトに平定された可能性がある
崇神のあと景行や神功の時代には、畿内ヤマトに従わなかった勢力を
土蜘蛛と称して討伐し、三種の神器などのお宝を奪い
邪馬台国のあった女王国連合を潰して回ったのかもね 記紀でも國造や国譲りのパートは、
考古学的にも信憑性が高い。
>>248
>神武東征がなんでわざわざ東に迂回してるのか
阿波市の岩津から東の鳴門市まで大河「四国三郎吉野川」流域を東進軍したから。 @阿波 >>247
北朝は、日本のライバルだった高句麗とべったりだから付け入る隙が無い
消去法で南朝に入朝してたんだろう 日本という国名は新羅書物によると670年らしい。中国の書物にも日本という国名が600年代後半に記載されてる。白村江の戦いのあとに国作りを急いだんだろう。
新羅の王様の子供を人質として倭国に送ってるけど、倭国のどこに送ったんだろう。
高天原が博多湾周辺、
須佐能が荒神谷遺跡の主、
大国主が加茂岩倉遺跡の主とすると
大体しっくり来る。
ヤマト政権誕生前の芦原中津国、近畿地方は環濠もなく土蜘蛛も一緒に暮らす平和な国だったんだろうね
長閑な銅鐸の絵が物語る
>>253
1歳の概念が365日で無かった可能性があるからおかしな寿命を嘘と断じることも出来ない @神武の東征以前に、ニギハヤヒの天孫降臨があったが、
コレが考古学上大阪湾型銅戈の分布と一致し、
ソレが2世紀の出来事である。
A一方、纏向の発掘による外来土器の分析から、ここは四道将軍を日本各地に派遣した10代天皇御間城崇神の王都であることがわかる。
コレが3世紀後半から4世紀半ばにかけての出来事である。
B従ってこの2世紀〜3世紀半ばにかけて、10代の天皇史を大和に再現することは難しい。
Cまた御間城崇神の氏族は、孝昭天皇孝安天皇孝霊天皇孝元天皇開化天皇と、
中国地方から豪族との縁戚関係によって
畿内大和に進出していっており、
天皇家が軍事遠征によって
大和に進出していった事を想定するのは難しく、
そのような遺跡も無い。
Dまた11代天皇の垂仁が日向生目出身の豪族であり、これもまた崇神との縁戚関係を結んで畿内に進出していった事が想定される。
Eこれらのことから、神武天皇とは、
中国地方の豪族御間城崇神と、日向の豪族生目垂仁の物語等を、
一系に統合するために作られた創作上の天皇であり、
少なくとも大和に神武天皇の東征があった事は考古学上想定できない。
今までで一番説得力があったのはYouTubeのいろはchだった。
魏志倭人伝と見事なくらい矛盾がない
>>245
後継者争いではなく
邪馬台国の巫女が奴国王を誣告したことが原因
誣告に怒り狂った奴国王が巫女を斬り殺した
そして戦争が止まらなくなってしまった
>>264
>お前はNGな
お前だけそうしとけ。 わははははは @阿波 ざっくり年表はこう
248年 卑弥呼没
266年 西晋の建国2年目、トヨの18年目?この年を最後に晋書から倭国の消息が消える
空白の4世紀 崇神の四道将軍に攻められ、その後の土蜘蛛討伐で滅ぼされた可能性
413年 東晋の安帝の時代 「高句麗、倭国、および西南夷・銅頭大師、並びて方物を献ぜり」
421年 倭王讃、宋に朝貢し将軍にしてもらう
>>273
そりゃ、「阿波」に負けるもんな。 わははははは @阿波 日本じゃ考古学はなぜか文学部がやってるからな
論理的思考力不要で読書感想文書いてりゃいい文学部
文学部がやるから、未だに決着がつかない
アメリカだと考古学は理系分野なんだよね
語尾にタイと付けるのは九州だけ
ヤマタイは九州の地名であり、ヤマトは後世に作られた架空の地名
オオゲツヒメやウケモチの神話は
巫女が誣告して奴国王に斬り殺されたって話しが
巫女が口から糞を吐いて奴国王に斬り殺されたと言う話しに変わり
更に神話用に変質しまくって出来た神話
この当時、巫女殺しは正視に耐えない事件で神話に載せる際に話しが変質しまくってしまった
>>275
>文学部がやるから、未だに決着がつかない
記紀馬鹿が多いな。 なんせ碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内だから。 @阿波 奴国が武帝に朝貢したのが57年のこと。
しかしその50年後に、漢に朝貢したのが
奴国ではなく倭面土国王になっている。
奴国は卑弥呼の時代にも存在していたので、
奴国以外の国、倭面土国王が、
新たに倭国の覇権を握ったことがわかる。
そして倭面土国とはヤマトの頭に倭の文字を当てたモノで、
既に107年にはヤマトが北部九州の覇権を握っていた事が分かる。
>>275
>文学部がやるから、未だに決着がつかない
総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的特異遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の行程・「其山有丹」・倭地の自然環境描写等々。 @阿波 こんなことあーだこーだ言ってればいいんだから文系は楽でいいよな
邪馬台国スレって前からスレ立ってる気がするけどなんなの?
起源がどうのとかどうでもいいしスレ立てるほどの話題かよ
>>279
その説、城野遺跡が完全否定したよ
ヤマトのカケラも無い三世紀末の遺跡だ >>286
そうかもしれない遺跡が奈良で発見されたが、すぐ埋め戻された >>279
奴国じゃなくて正しくは倭「奴」国なんだよ 天照皇大神をまつる伊野神社ってのが福岡の久山にあるけど、もともとはこちらの方が古いのじゃないかな伊勢より
>>239
連続させないと大和朝廷が征服王朝になるからな
もともと大和民族征服王朝説は明治になって復古王権してから日本書紀研究していく上で、
「蛮族である縄文人を文明人である弥生人が征服した」
→だから大和民族は戦闘民族なのだ!強いのだ!
っていう思想で征服を正当化するために作られた
この頃は縄文人は狩猟してて文明がなく野蛮で、
弥生人は農耕してて平和かつ文明を授けに来たってストーリーだった
時はうつり、江戸時代からの邪馬台国論争に科学のメスを入れようと考え始めた
まあ科学的に歴史を考古学としてやろうとしたんだね
てことで各地で新興住宅とともに発掘ブームになる
発掘は金になる。吉野ヶ里、三内丸山などが観光地
てことで、再度持ち出すんだな
邪馬台国はどこか。
かつ、右翼的に「天皇は日本で来た時から王」
かくして奈良大和説ができあがる
その道はッ!新井白石がすでに通った道だッ!
しかも佐賀山門と言ってるだろうが! 伊勢志摩と糸島(伊都志摩)もにてるしな、対馬壱岐と糸島は直線的だし
>>261
豊葦原中国の王となるために、高天原から筑紫に降臨したのが天孫ニニギ(アマテラスの孫)。
つまり倭の王都は筑紫の日向。
豊葦原とは稲が生い茂る土地の意味であり、稲作先進地域であり、弥生文化発祥の地である筑紫。
考古学的にもここより栄えた地域は他にない。
魏志倭人伝でも、王は代々伊都にあり、伊都に置かれた大率が女王国より北を支配したとある。
そして3世紀前半の倭王が卑弥呼。
卑弥呼は筑紫にいたと考えるべき。 >>259
新羅郡だろ
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/newpage12.html
(2)新羅(しらぎ)郡の誕生
■ 新羅郡は758年(天平宝字2年)、
「日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させ、はじめて新羅郡をおいた」と記録されている(『続日本記』)。
時代は奈良時代の半ばを過ぎたころで、新羅郡は武蔵國のなかではもっとも新しくつくられた「郡」である。
■ 当時の新羅郡の郡域は、今の朝霞市・和光市・新座市・志木市と東京都保谷市(多摩郡)、練馬区の大泉地域(豊嶋郡旧橋戸村・木樽村)が含まれていたと推定されている。
新羅郡がどのようなかたちで置かれたかは文献上明らかでないが、高麗郡が渡来人を中心に、入間郡から分かれて置かれたと推定されていので、新羅郡も地域的には入間郡を分割して設置されたと考えられる。
■ 『続日本記』には、「…移武蔵國閑地…」(「武蔵國の閑地に移す」)とあるように、当時この地域はまだ開発の遅れた地域であったと思われる。
渡来人を中心に新しく郡を置いた目的は、この地域の開発を進めるが主な目的だったと思われる。
また、74人のうち僧尼が半分をしめていることから、武蔵國への仏教の普及もひとつの目的だったのではないだろうか。
ただし、新羅郡が置かれたこの地域から、今のところ奈良時代〜平安時代にかけて有力な寺院跡地は発見されていないというから、確かなことはわからない。 >>253
四道将軍の一人吉備津彦命の弟の稚武彦命
稚武彦命の娘の伊那毘若郎女
伊那毘若郎女と景行天皇の皇子の彦人大兄命
彦人大兄命の娘の大中比売命
五色塚古墳で神功皇后を迎え撃とうとした
麛坂皇子と忍熊皇子は
大中比売命と仲哀天皇の皇子
という関係だよね
だからこの頃の大和朝廷は播磨吉備と閨閥関係だった >>287
それは半島渡来人の遺跡にすぎん。 @阿波 そもそも畿内の古い地名の多くが九州北部からのコピー。
おそらくヤマトも福岡からのコピー。
奴国が武帝に朝貢したのが57年のこと。
その50年後に、漢に朝貢したのが奴国ではなく倭面土国王になっている。
実は同じ国。
他の国、例えば畿内の国が福岡を支配したら、正統性を重視する漢王朝としては倭ではない他の国名を与えただろう。
つまりヤマトとは福岡のこと。
107年には既に高良山周辺のヤマト国王帥升が、
北部九州の覇権を握っていた。
この頃からもう各地に一大率を置いて、
支配していたのだろう。
ちなみに、古代の山門八女が、
北部九州の都であったことは、
磐井の乱で筑紫野君磐井が
王都としていることからも分かる。
>>298
>そもそも畿内の古い地名の多くが九州北部からのコピー。
違う違う。 九州も畿内も倭国(阿波)の地名劣化コピー。 関東も出雲も吉備もな。 @阿波 >>295
播磨の勢力はもっと注目しても面白いのかもな >>292
さあ神武の前に存在した神社を見てみよう
神代
天孫降臨 宗像大社 福岡県福岡県宗像市
天孫降臨後 玉祖神社 山口県防府市
ポイント
日本建国神話の始まり、
「天孫降臨」の有力候補地である高千穂町と、高千穂峰へ
天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫、
瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が神々の住む高天原から地上(日本列島)に降り立った日本建国神話のはじまり「天孫降臨」。
その有力候補地とされる宮崎県の高千穂町、そして宮崎と鹿児島にまたがる霧島山脈の高千穂峰へ。
と、なぜか九州になってしまう。
実に不思議だ >>281
理系だと仮説を覆す証拠が出たら、仮説の再構築が始まるんだけどな
コイツら都合のいい部分だけ見て、畿内だー九州だーって言い合ってるだけ
永遠に決着つかん >>275
>文学部がやるから、未だに決着がつかない
記紀馬鹿が多いな。 なんせ碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内だから。 @阿波 >>293
それは渡来人。王様の子供だからやっぱり奈良の都だろうな。 >>279
2世紀後半には卑弥呼が王になってる
だからヤマトの王であって日本の王の事なんだよ >>304
ところがこの問題は「物証」がないのでね
そもそもとして日本書紀自身、文献史学としては過ちやデタラメ、嘘800がたくさんあることかわかってる
旦那が死ぬ時に妊娠したけど朝鮮攻めて、
3年間産まずにがんばりました!とか書いてありやがんの
島なんてないから空から鉾を突き刺してかき混ぜたら島が出来たでやんす、とか平気で書いてある
馬小屋で生まれて生まれた時から光り輝いてるとか、
黄泉の国へ嫁を迎えに行くと振り返れば奴がいると言われたり、
海の神の娘が出産は見ないでと言ったけどのぞいたら8mのワニだったとか、
どっかで読んだぞ、その話!ってやつの塊なんだね
そもそも初めに混沌があってかき混ぜたら形になったのも中国神話だし
こんな文献信用できるか!ってことで物証を探すが、
少なくとも箸墓では
「うちの東大チームは役に立ったんですよね?!無駄死にじゃないんですよね!」
「なんの成果も!得られませんでした!」で終わった
桃の種は近くにたくさん埋まっていたが、
年代測定は誤差が150年もある
だから結論出ない。宇宙と同じだ >>306
あ、知らんのか
高麗郡と新羅郡というのは全国に点在していた、
高句麗人を埼玉県の一ヶ所に集めて住まわせた計画なのだよ
結果的に高麗郡から日本ではじめての銅が発見されたが、
これは当時は先進国であった朝鮮半島の方が冶金に優れていたからなんだな
同様に新羅郡も各地の新羅人をそこに集めて転封したのだな
日本では割とよくある
うちの先祖も平将門退治のためにわざわざ現在の本貫地を当たられて派遣された
命令は「北の敵を滅ぼせ」でまだこれ取り消し命令出てない
したがって祖父は樺太に行かされた 帥升も卑弥呼もヤマト国の王であるならばそこに首相官邸か国会議事堂のようなものがあったのか
またはもっと広い倭国とかを意味する言葉であったのか
>>312
大変に遺憾ながら、横浜と同じく神戸は単なる寒村だ
漁師町でしかない
外国人居留地ができて発展し、
関東大震災で東京横浜から大量に移住してきて賑わった
これが全盛期だった
そのあとは神戸空襲だったり勤労動員で元某国から、
日本に来たでスミダってたくさん住んだりしたので、
大阪という山から神戸という山までの間に谷ができた
曰く尼崎などと呼ばれる
この辺が両方から遠いので治安が悪化した
ま、難波宮もあったけれど縄文海進終わってからだんだん地面が現れた代物なので、
じつは京都は海のそばだった
小椋池はその名残。夢のまた夢 支那チョンコピペ学者の駄文なんかいらねえんだ気持ち悪い
自国の中国朝鮮の古代史を研究しろよ
歴史というのはな。権力なんだよ
サイカイアトリーが瓦解したら、権力も失われ、全ての歴史は 書 き 直 し だ
福岡か八女山門か佐賀大和か
いずれにしてもこのあたりまでが邪馬台国(ヤマト)だろう。
魏志倭人伝によると、その南には菊池彦がいる敵対国である狗奴国(熊本)があったからだ。
まあ、国史というのは恨みの連鎖であるし、
ちょっとは残ると思うけれども
↑こいつらの土俗的な流れ。これは遮断されることになる
単なる一つの意見
学会の主流はヤマトと邪馬台国は別物
>>308
神功とか完全に王朝交代の戦犯だわな
だから播磨で待ち伏せして攻撃しようとしたんだろていう >>324
近畿日本と九州倭国な
ヤマトは共通だよ カムヤマトイワレヒコ(神武)
カムは神。井沢の説で良い。王朝の始祖と言う意味。
ヤマトは邪馬台(山門)。
イワレは謂れ。
ヒコは王。
神武は近畿がヤマトと呼ばれる謂れとなった王であり、王朝の始祖である、
と言う意味。
神武が妻国から近畿へ招かれて頭に据えて貰ったわけな
だから神武が初代天皇なんだよ
近畿日本からみたら神武は初代そのものだからね
邪馬台国は近畿一帯
復興、開拓、宗教地
卑弥呼は共立で伊都国だな。
ト骨が出る地域
なんで神武は初代なの?ってみんな一度は思った疑問だろ?
神武は九州倭国から見たら初代でもなんでも無い傍系のカス、泡沫だけど
近畿日本からみたら初代そのものだからだよ
日本書紀の編者が邪馬台国に触れていない理由(5択)
1.邪馬台国と大和朝廷はまったく無関係だから当然書かなかった
2.邪馬台国は大和朝廷の前身なのは知ってるけど聖徳太子以来中国の属国で無いことを誇りにしてそれを内外に主張していた新生日本国の前身が普通に朝貢していた事実は都合が悪いから隠蔽した
3.じつのところ日本書紀の編者も本当のことが分からないからあえて記述を避けた
4.実は邪馬台国について記述してるけどダイレクトに書かずにぼかしている
その時の政権が
邪馬台国とは名乗っていなかったんじゃないの
>>335
近畿日本は九州倭国に併呑されたことにしたからだよ
かつウソなわけな
実際は逆
このウソをついた上の複雑さが理由だね どーでもいいですよ
それがわかったら何なんだっつー話
ツタンカーメンが日本人だったとしても
何も科学も暮らしも変わらない
>>1
自称純血大和民族(ネトウヨ)どうすんのこれ
さっさと絶滅しちまえよクズが >>323
カルト宗教の集会所に支那チョン在日のお利口さんが集まってニセ歴史を創作してコピペしている
その成果が北海道のニセアイヌ、最近おとなしい 正史でウソをついてるってのは別に恥に感じなくても良いんじゃないの?
どこの国の歴史だって何かのウソはあるし
当時としてはギリギリの仕方ないウソだったんだよ
近畿日本は別に簒奪者ではなくて、日本の正統な政治権力なんだから
別に恥じることはないと思うよ
その後の九州の扱いを見ていると簒奪者そのものだよな。
こんなことだから、日本国は倭国を併合したけど、その言い分は信用できないと歴史書に書かれてしまう。
旧唐書
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
>>335
新唐書によれば
推古の頃まで巫女系女王がいて
兄弟あるいは夫の男王との協同統治だった可能性があるが
記紀の時代には中国式に男系優勢に改めていたから
卑弥呼と台与の存在は都合悪かった
ただ倭姫命や神功皇后のエピソードに
やや漏れているように思うが 近畿日本は簒奪者では無く、日本の正統な政権である。
1、隋書にあるように、九州倭国は近畿日本へ禅譲しようとしていた。
2、九州倭王は白村江の戦いのとき一時近畿日本の臣下になっている。恐らく唐の捕虜となった後、許されて解放されるために近畿日本が尽力したためと思われる。
3、九州倭国は基本衰退、自滅したのであって、近畿日本が強権でもって責め滅ぼしたのではない。
例えば、磐井の乱にしても一気に攻め滅ぼすことは可能だった筈なのに結局許している。
4、中大兄皇子(天智天皇)は白村江の戦いで九州倭国が実質的に滅亡するまで即位を遅らせている。
また九州倭王を筑紫の君と呼び、大宰府(倭京)を遠の朝廷と呼ぶなど、九州倭国を先駆者として持ち上げ、最大限の配慮をしていた。
5、近畿日本は、日本分裂を避けるため最大限の配慮をしていた。
単に日本の盟主を九州倭国から近畿日本にすげ替えるだけのためなら、神武東征の捏造は実は必要では無かった。
煬帝は秦王国=近畿日本の繁栄ぶりを裴世清から報告されただけで九州倭国から近畿日本へ鞍替えしたから。
日本分裂を避け、九州倭国勢を取り込むため、ワザと神武東征の捏造を断行したのだ。
近畿日本は日本の盟主として最高度の配慮と行動を取っている。
1 九州倭国は近畿日本へすでに事実上の禅譲を行っていた。
隋書
>開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。
これは奴国王。
>上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、
天は高天原=筑紫平野の邪馬台国であり、
日は近畿日本のこと。
>天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、
>日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。
これは奴国王が既に近畿日本へ事実上の禅譲を行っていた事を示している。
これは非常に重要な記述だ。
>高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
これが小野妹子が紛失したことにした「隋からの国書(実際は訓令書)」のことで、
倭人の代表は九州倭国であり、お前ら近畿日本は認めないと書いてあった。
言っちゃなんだが、奈良や京都などの畿内より、もっともっと古くから栄えた歴史が九州にはある
こと福岡に関しては気が遠くなるほど多くの歴史的な遺跡、遺物、資料が手付かずのまま残ってる
畿内日本国の中でも簒奪があった。
本来ならアマテラスの直系である饒速日が石上三輪山の大神として政権の座にあった。
神武が大和に入ってからも、軍事と祭祀(まつりごと)の実権は饒速日の末裔の物部氏にあったという。
そらを物部戦争で滅ぼして、古来からのアマテラス祖先崇拝を捨てて百済から持ち込まれた仏教に帰依した。
それを実行した蘇我氏もさらに中大兄皇子に倒されてしまうのだけどね。
畿内日本国の歴史は簒奪の歴史だよ。
学者研究者ていうのはこれまでの最も有力な説をありきたりな説を発表したのでは
なんのインパクトも名も残らないから嘘でも信憑性が薄くてもトンデモ説をぶちあげるなんてよくあること
畿内説なんてその典型的例だ
まだ邪馬台国は朝鮮半島にあったというほうがマシ
>>348
だから、邪馬台国ではない。
卑弥呼が共立されて九州にいる。 >>291
伊勢風土記逸文に国津神、風の神の伊勢津彦から名前をとり、伊勢と名付けたとある
播磨風土記に伊勢津彦は伊和大神の子とある >>354
いずれにせよ、「倭人(阿波勢力)」だから。 @阿波 >>345
少し事実誤認がある。
倭王筑紫の君サチヤマが帰国できたのは、部下が自分を身売りして保釈金を工面したからだと記録されている。
畿内日本国はサチヤマの帰国のための努力をするどころか、白村江における敗戦は指導者が無能だったから自滅したのだと突き放している。
中大兄王子がなかなか即位しなかったのは、倭国が存続しているうちはそもそも王位継承権すらなかったのかもしれない。
後に即位するのに、王子時代の名称が一人歩きするのは中大兄王子くらいなもの。
戦後は日本国となり、倭国時代を黒歴史として記紀を編纂し、政権ばかりか歴史そのものを簒奪したんだよ。
隋や唐と対等外交を目指した倭国から一転して、日本国は唐の傀儡としてせっせと遣唐使を派遣した。
なんだか太平洋戦争の時も似たようなことがあった気がするね。 バカじゃんwwww🇨🇳中国
絶対近所に住んでるぞwローマ人
>>89
これに関しちゃ
土人みたいな国をわざわざ書く理由がないから
邪馬台国自体はあったと思われ 人間の心理人類の行動原理を考えれば
ヤマト王朝もしくは大和政権あたりで日本の支配者層が大陸もしくは朝鮮半島から流れてきたものたちに
元々日本を支配してきた人たちを滅ぼしてすべての歴史を消して新しく作った
だから過去の日本の史実歴史は失われ卑弥呼や邪馬台国の謎が生まれた
というのはどう?
まだ諦めないのか?他説では前方後円墳、卑弥呼の鬼道(老子道徳経)、斎宮伊勢。曹魏の親魏等説明出来ないんですよ。また、卑弥呼〜五王までは前方後円墳体制なるものがあった。これはもう疑いようがない、倭五王、瓉、珍、済、興、武、武上表東征毛人五十五国西服衆夷…華夷思想。記紀にそれはない、また記紀は百襲姫が箸墓と記され、前方後円墳であり孝霊パパが違う墓で比定墓は小さく、先祖が違う墓では鬼道鬼術の痕跡がない、張魯でさえ三代かかって国を築いておるのだよ。無駄です諦めなさい。五色塚は五社神の一部だろう?位しか解りませんね、まあ白虎かねぇ
>七万戸はいずれにせよ無理なんで諦めて。
大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群 以外にあれば諦めようぞ。
他に無いんだから、お前が諦めるだけのことだ。 @阿波
>大陸まで朝貢できるのに
それだけ、倭国(阿波)が超強大国だったってこと。
その超強大国を統一する神武東征が、阿波市の岩津から
東の鳴門市までの、大河「四国三郎吉野川」流域北岸の東進軍。 @阿波
>大陸まで朝貢できるのに
そりゃ、鉄器を自在に自作できる国々が倭国(阿波)内にゴロゴロ在るんだから
その倭国(阿波)を統一するのは、並大抵じゃないことに思いをはせろ! @阿波
邪馬台国とヤマトは別勢力だよ。
近畿にいた、のちの大和勢力が、対外的に知名度のあった邪馬台国の名前を奪ったんだよ。
だからさ。
邪馬台国=大和国だろうが。
古代中国の歴史書に登場する国名とこれだけ酷似する偶然が起きる確率を計算してみろよ九州説の奴らはよ。
>>369
だから、名前を奪ったんだよ。
九州の邪馬台(ヤマト)国の名前をな。
勢力としては全然別物だし、敵対勢力なんだよ。 >>371
まだその説なら説としてありえるわな。
ただその痕跡がどこにも無いのが致命的。
逆なら神武帝の東征として痕跡があるんだけどね。 むしろ元は同じ倭面土国が本家と分家に別れた可能性
本家は東に引っ越して、空白地帯となった九州で分家から巫女を出して共立とかな
>>373
なんで全部ヤマト国だと考えられんのかね 阿波先生、阿波は阿房(宮)でしょう、また、阿蘇がある、なら倭人伝にも書いてますよ。卑弥呼以降交流が進んだ結果ですね。九州から東へ東へ進んで海岸につき、この先に魏志の言うところの邪馬台があるんですよ。船を漕いでいたのが阿波の技術者です。
>>374
全部ヤマトである必然性がない
畿内ヤマトだってヤマトなのは奈良の山奥の範囲だけじゃん >>376
九州の邑の名前を使う方が必然性が無いわ 卑弥呼って神武天皇の子孫?
神武のほうが数百年古いよね
>>377
107年倭面土国王帥升は、邪馬台国よりはでかい規模だぞ
帥升の朝貢は生口160人のところ、卑弥呼の朝貢は生口10人と布少々というしょぼさだ
邪馬台国がどれだけ規模の小さな勢力かわかろうというもの >>380
なんでそれが別だと思うんだよ
どっちもヤマトの王だよ >>381
そうだね
元は倭国を牛耳る大国倭面土国だったのが120年もしたら激しょぼ勢力に落ちぶれてることはあり得る
ただし権威はあるから巫女を出すことができた
力ではなく権威で統治するパターンだな
その激しょぼ邪馬台国は卑弥呼が死んだとたんに仲間割れ起こして連合瓦解
東から畿内ヤマトが攻めてくると神夏磯姫なんか仲間を裏切って密告までする始末
倭国大乱で王位を争ったり、卑弥呼没後仲間割れしたり
まあ結束力もろくにないのが女王国連合だ 複数の奈良県出身者が
「当時の奈良には別の政権があったんだから邪馬台国が奈良のわけないじゃん」
と一蹴していた
>>379
雄略天皇より前の年数は信用できない。
卑弥呼と神武天皇はおそらく関係がない。
神武天皇はおそらくただの平民で、各地を放浪して成り上がって王の座についた。
神武天皇非実在説なんてのもあるが、バカバカしい。
天皇の先祖が存在しない訳がないだろう。(実態が誇張されてる事はありうるが) 大和に独自に勢力を持つ力なんかないから、邪馬台国が起源なのは間違いない
もう一つ起源があってそれが旧宗主国の出雲だよ
更に言えば金印を貰ったのは奴国ではなく倭奴国だな
勿論これは中国名であり日本名は不明
>>370
二つ目の奴国は、「狗奴国」なんだろう。 @阿波 >>373
ふつうは、残った方が正統、本家なんだよ。
神武は本来なら分家、傍流。
魏志倭人伝では伊都国の官が禰宜というらしいので、これが筑紫の日向王家ニニギの末裔、つまり神武らの本家でしょう。
ちなみに糸島の高祖神社は神武の祖父である彦火火出見を祭っています。
その母親である木花佐久夜姫を祭るのが、糸島の細石神社です。
何らかの理由で、これら天孫族は卑弥呼より格下のナンバー2、または大率を考慮すればナンバー3に転落したのです。
記紀はその事実から目を背けて、某系である神武の方に焦点を当てたのです。 >>386
日本語名はあえて言えば豊葦原中国でしょう。
豊葦原中国の王となるために、天孫邇邇芸は高天原から筑紫の日向に降臨したそうです。
筑紫の日向は、イザナギの禊の地が筑紫の日向の小戸とあるように博多湾沿岸のことで、高祖山の南側の峰がクシフル山と言うそうです(日向峠のすぐ上)。
日向峠は、伊都国と奴国を結ぶ要所であり、神武の祖父である彦火火出見を祭る高祖神社の近くです。
倭奴国王も倭王帥升も倭面土王も、筑紫の日向の倭王だったのでしょう。
高祖山の東側には、最古の王宮である吉武高木遺跡があります。
伊都国と奴国の王墓に共通するのは、漢から贈られた冊封による権威の象徴である銅鏡を含む三種の神器が副葬されていることです。
ここが親魏倭王卑弥呼を含む歴代倭王がいた王都、筑紫の日向の豊葦原中国です。 神社は太古の昔から何かしらその場所にあった神社もあるだろうが
人を祀ってるってのは疑わしいなあ
古墳時代は4〜6世紀
でかい墓の時代だけど
人はデカイ墓に入ってる奴ほどクズじゃね?
お前らの知人、親族で検証してみ
「あったぞー!」でいくらでも金も名誉も手に入る楽ちん商売。それが考古学。
>>386
金印は江戸時代の殿様が面白がって作ったレプリカ。 >>392
おまいらの大半は、無縁仏になるんだろ・・・ 王にすぎないのに皇を名乗ったのは義賊気どりからなの?
>>388
佐賀にいたのは壹與ですね。
肥前一宮與止日女神社の與止日女様です。
後に畿内に勧請され、與杼神社という表記になりました。
これが関西一の大河である淀川の名前の由来です。
豊臣秀吉の奥方である淀君の名前も與杼神社が置かれた淀城に由来します。
九州邪馬台国の女王の名をはるばる継承しているのですね。
佐賀が邪馬台国の一部だというのもあながち誤りではない。 邪馬台国の前に蘇我入鹿の正体から解明すべきと思うの
>>386 >>394
無知すぎるわw
魏国が邪馬台国に贈ったと言われる金印はまだ発見されていねえよw
農家の畑で発見された金印は、倭国に贈られた金印で、邪馬台国に贈られた金印とは別のもの 皇女というのは幻想水滸伝で見かけたことはあるが
女皇というのは見たことがない
これも差別?
>>389
まあこの際どっちが本家でも構わないよ
本家が九州に残って、分家が東に引っ越したでも問題ない
ただ本家が逃げ出したことにした方が漢委奴国王金印を紛失したことにし易いかなと思った次第 お前ら>>1をよく読め。
五色塚古墳は同時代の大和王権の古墳に肩を並べる規模の古墳だ。
そんな古墳が神戸市の垂水にあった事に注目しろよ。
九州には無いんだよ。
そんな規模の古墳が。
それが答えだ。 >邪馬台国がヤマト王権の起源であり
それじゃ素人が語呂合わせで思いついたみたいな結論だね
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
俺は近畿説だからその立場で書くけど
倭国の極南界にある倭奴国ってのは日本列島じゃないか
この時代朝鮮半島に倭の領土はあっただろうし
>>402
卑弥呼よりも後の時代になんぼ古墳があっても関係ないかなと
九州邪馬台国は崇神の四道将軍派遣以降、滅ぼされたのだろうと思ってるし 伊都国とかは九州だとはっきりしてるんだから
あの時代九州に上陸して
それから船に乗って瀬戸内海を通ったとは思われない
最近だと邪馬台国を「やまとこく」とルビをふる場合もあるようだな
面白い
>>402
>そんな古墳が神戸市の垂水にあった事に注目しろよ。
「倭人(阿波勢力)」のお墓だ。 注目しておけ。 @阿波 >>402
関西の古墳は200年くらい年代を古く判定してるからな
3世紀とされてる古墳から5世紀以降しかないはずの遺物が出土したりしてる。 >>406
瀬戸内海航路の開通は平安時代末期だからな
3世紀に瀬戸内海を通って関西はないよね。 >>406
>それから船に乗って瀬戸内海を通ったとは思われない
その当時の瀬戸内海は使い物にならない。
豊後水道経由の太平洋ルートで倭国(阿波)へ来た。 @阿波 でもなんで途中途中ロストしてんだろうな
いっしの変みたいなことがあると
歴史も全部消してしまうのかな(中国に倣い)
>>370
奴国から不弥国、傍国を巡り奴国へ倭地を一周だよ。 わたしはね。pixivと草が失陥していても、構わへんと思っている
pixivと草が生きていた頃、やはり同じだったからね
>>404
北部九州地域が倭国の極南界だから
朝鮮半島南部地域も倭だね。 スサノオノミコトのように、糞を撒き散らして権威を失墜させる行いが流行っているようだが
所詮民俗学などカルトということだな
今度から弄便のことをスサノオ症候群と呼んで
箔を付けてやろう
>>416
なんで北部九州地域だけが倭国の極南界になるんだよ >>419
福岡の志賀島で金印が見つかっているから
この辺が倭国の極南界の倭奴国だから。 昔暗記したな
漢書地理誌
魏志倭人伝
あとなんたら
これが歴史の根拠wwwwしかも中国のwww
>>371
ヤバイチが発音でしょ 邪馬台国とか日本語にこじつけただけだろ >>420
田んぼに捨ててあったもので国を主張されても困る >>423
硯の出土の分布が北部九州地域や山陰ぐらいまでだから
当時はこの辺までが倭の範囲だ
関西や四国は未開の地 九州邪馬台とやらがあって畿内にもう一グループがあったぁ?はっはっは、で魏尺(漢尺)で組み立てられた巻向と箸墓は誰が造ったんだ?記紀には発案の天皇すら書かれていない、何故だ?、説明出来ないだろ?魏志倭人伝を行程から追いかけても行き止まるんだよ、入り口を間違えてるからだよ、速く気付け、
大化の改新・壬申の乱・記紀編纂
ここから我々が知る日本の歴史がはじまる
それ以前の歴史と思われているものは歴史ではなく物語
卑弥呼どころか聖徳太子も蘇我入鹿も正体不明なのだ
いわんや邪馬台国をや
どこの研究者だよとw
どうせ身内しかいないショボい学会みたいな奴だろ
>>424
硯は近畿でもそれらしきものがいくつか出てるはず
今後もっといろんな所から出てきそうな気がする いや、記紀編纂をした連中は卑弥呼が誰だか知っている。
>>426
大化の改新・壬申の乱
この辺もヤマト政権誕生の時期だから歴史の改竄が激しく行われてるな 神話に九州に天孫降臨して東征したって書いてあるから
九州でも関西でも遺跡見つかっても不思議じゃなくない
>>374
ちゃうちゃう。
「倭国」だ。
邪馬台国は都だわ。
宮のある地域というべき。 また、九州邪馬台なら、或いは九州王朝なら、畿内の何々天皇が、吸収しました、征伐して列島を一つに纏めましたで済む話なんですよ。それが書けない。今居る足元に居たからでしょう。ですから記紀からも九州邪馬台なぞありません。
>>74
あと日本の古墳は基本的に墓標を残さないからな。 >>379
紀元前660年は忘れるか捨てるべきだ。
神武は卑弥呼よりちょっと前だな。
100年くらい前かな。
直接の子孫ではないだろうな。
遠い親戚かも分からんが。
系譜の一部が事実なら、どっちもアマテラスの子孫だろうな。
神武が奈良へ入る前にすでに天孫降臨で来ている人たちがいるからな。
オオクニヌシの子孫もいるし。 山の麓で山扉でヤマト
てことはどこだ?高野山以外に
>>438
まあ違うと思うけどな
大和は山の麓の意味じゃ無いでしょ >>424
おいおい、三世紀前半の古墳の存在を無視しちゃ困るな。
もっと前の貨泉の存在。
100の国があったと言ってる事実。
中国が倭の100国を知っていて使者を出した国もあるのに
この時期になって北部九州しか知らんとかw
籠神社の鏡や東大寺山鉄剣やらいろいろあるぞ。
弥生中期の九州がいくら進んでいても関係ないんだよ。
西暦100年から250年頃の倭国の状態が重要なんだよ、 >>409
へえ、どれのこと?
「関西の古墳」以外に3世紀〜4世紀の巨大古墳って存在するのかい?
どれ?
教えてほしいなあ >>427
学会って、どこも身内しかいないよ
身内じゃない学会って何?
考古学者じゃない人が会員の学会かね?
物理学者じゃない人が会員になってる物理学会なんて初めて聞くわ >>444
今ヤマトと言えば大和でしょ
じゃあいつからそうなったのか?
少なくとも大和の文字があてられた頃には既に意味は変わってた
元々は君の言う通りだろうけど >>445
そんな中でも、対立する考えの集団が複数出来るだろ
全国的な学会なら
どうせ近畿圏の畿内説唱える研究者だけで作られたローカル学会なんだろう >>1
安倍晋三母方大叔父の元総理大臣佐藤栄作は、“防衛力放棄”日本国憲法で1974年ノーベル平和賞。
岸信介,安倍晋三[二代目池田大作]も日本再軍備反対(=安保)・改憲反対の創価親中(=親韓反日)左翼。
ps://i.imgur.com/RLqCS1P.jpg
ps://i.imgur.com/opNoXJH.jpg >>446
で、大和は山戸で高野山麓の奈良かなと
そうでなければ六甲山の麓の神戸てことになるがそれは奈良王の弟君かな
高天原は山の上だし >>406
だって使者は行っていないし
行く必要もない遠方の開拓地
聞いたのみ、卑弥呼が九州にいるから
目的は達成。 >>450
そうであればそのまま山戸か山門にすれば良い
大和は元は大倭でしょ 壬申の乱
敢国→南宮→近江
この道筋、軍勢、勢力、
全てが安倍ちゃんだろ。
阿度部磯良系の倭王筑紫薩夜麻(天武)
と日王(大友)の争い。
安倍息子が高市とか自民党か。
1868年から大日本帝国憲法発布までの20年の間に
考えたことは嘘天皇の歴史だろうな
>>286
この時代には半島南部に鉄の利権を牛耳るほど非常に強い倭国があったのは確かだな >>443
Wiki見たら群馬県に13ほどあるね
教えてあげたぞ 感謝しなさい >>345
おっさん何者なんや?ところで祇園山古墳は誰の墓? 現在の主流的な考え方だと
3世紀の日本には既に奈良に大和朝廷もしくはその原型となる巨大国家があり
日本のほぼ全土が支配下もしくは影響下にあったことが確実になったと
魏志倭人伝の記述は元々信憑性が低いし詳細な場所や記述を追求することはあまり意味がなく
国家像の大枠として当時の日本=大和朝廷を指してるって程度の認識で良いって感じかな
結局畿内説ってのは、外国の文献に出てくる日本とは大和朝廷でなければならない、だから卑弥呼は皇女の誰かでなければならない、と言うトンデモ説を立証したいと言う国粋主義者の願望説なんだよな
>>457
入れ墨海賊文明だから倭国とは違うだろ
朝鮮半島・九州全体から沖縄までの広い地域じゃないかな でもなんで近畿には自分みたいなこんな顔の人ばっかりなんだろうておもう
からやっぱりそうなのかなあ
>>461
卑弥呼が大和朝廷と繋がってるかどうかなんて知らん
でも卑弥呼を共立した国は広い地域にあってもしかすると群馬の王国もそのひとつかもね >>464
そしてなぜか当時から日本の広範囲を支配した統一国家だったと思い込んでいる 卑弥呼の娘 台与とかが出てくる事で最早時代すらグダってんのに単に九州・山口の地方豪族だったんだろう
半島南部で取れた鉄が弥生後期には九州を中心に広がっているが
3世紀ごろには近畿の近くまでその勢力が伸びつつある
魏と友好を結んだ邪馬台国が、復権を果たせず、狗奴国との戦闘に明け暮れ
さらには、魏が晋に置き換わるなど大陸の情勢の変化に伴う半島の利権争いの激化に
常に緊張感を持っていた半島南部の倭の勢力が、新たに近畿勢を味方にして近代化を図り
倭国統一を目指して大陸の勢力争いと侵略に備えようと考えるのは自然の流れと思うのだが
>>467
大和朝廷の成立において王(天皇)を共立したという記録は一切ないのに 大和朝廷成立までに何度も失敗してるだろうよ
その度に揉めたりもしてただろうし
纒向は邪馬台国が欲しいあまり、年代をどんどん3世紀に寄せていったという不正の歴史がある
>>470
だから俺は卑弥呼と大和朝廷が繋がってるなんて言ってないし >>469
それだとヤマトタケルと矛盾してしまうから日本の歴史にならない
日向はニニギノミコトの通過点に過ぎない 男系の万世一系なんていきなり考えつくわけがない
太古の昔から何度も何度も失敗したんだろうよ
卑弥呼と大和朝廷が繋がってる可能性はあるけどそれが重要だと思ってない
一大率を辺境に島流しした畿内説
なんでや 取りあえず全国各地の公園化されてる古墳たちにも目を向けてやって欲しい
五色塚ほどの規模で風景もいいとなると難しいかも知れないけど仁徳陵を復元公園化して堺を一望できるようになるといいな
>>479
伊都国は入国管理局だから重要だと思ってるよ
糸島にあったかわかんないけど 文化は西からだんだん畿内の方に移動したんじゃね
最初から機内ってことはないと思うよ
千戸規模の九州のはじっこにある伊都国を畏怖する近畿周辺の諸国って弱すぎだろ
>>481
一大率は入国管理局じゃなくて諸国を検察するのが役目だと魏志には書かれてるんだな >>486
一大率は王を監視するのが役目じゃなくて諸国を検察すると書かれてるんだな 一大卒
一大国
一
大 ← 天
邪馬=天=あま 確定っぽいな
>>488
それだとやはり一大率を辺境に島流ししてしまった畿内説という話になってしまうね >>1
魏志倭人伝を信じすぎだわ
方位も距離も都市名も間違いだらけなのにそれをそのまま素直に信じるとかあり得んわ
逆に日本の事を書いた古事記や日本書紀を嘘つき呼ばわりするのが戦後の日本人だからな
これもまたあり得んよな >>492
一大率は伊都国だけにあったとは限らない 崇神の四道将軍は東海と北陸を侵攻して会津で合流したそうだが
狗奴国はどこいったんでしょうねえ?
>>494
女王国の北に特に一大率を置いたと書かれてるのに
あちこちにあったんだ? >>380
でも台与さんはたくさん朝貢してる
獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹 過去最大の勢力を誇った2万戸の奴国が隣にあって伊都国を恐れるというのもおかしな話だがこれを合理的に説明するなら
奴国の男王が世代交代とともに腐敗し、漢の崩落とともに倭国の内乱状態に陥る。
その後、女王を立てたとあるが、男王だと支配欲が強いので最高権力者を女性にすることや
行政を官僚化して、独立させる、つまり伊都国の設立することで周辺諸国の理解を得て再建しようと模索していて
ちょうどその時に帯方郡の後継が決まるや否や、後ろ盾の協力を得るために使者を送った。
魏の立場からすると、今は倭国は荒れてはいるが、卑弥呼を中心に再建することに協力をして
強い倭国が半島の管理するうえで強力な味方となることを期待したのだろう。
>>497
俺近畿説だから
そもそも伊都国が何処なのかわからない
群馬の王国にも東北に睨みをきかす一大率があったかもね >>498
金印貰ったり使者を派遣して貰ったりと最高級の待遇を受けて
今後も継続的に全面的にバックアップして貰いたいから女王国を挙げてお宝かき集めても
たったそれだけとか悲しいなあ >>505
やっぱり一大率を辺境に島流ししてるんだな >>506
伊都国が一大率の役割を担ってたと思ってるんだけどな
支配ではなく共立だから >>507
だから辺境で諸国を検察してたんだろ?
さぞかし諸国は伸び伸びと自由を謳歌してただろうね >>509
わざわざ王が居ると書いてあるんだから特別な国なんだよね
てかなんで伊都国だけに一大率が居ると思うんだ? もし魏の時代にヤマト王朝に繋がる一大勢力が存在してたとして
それが畿内にあったとしてそれが魏志倭人伝でいうところの邪馬台国だったとしてさ
その時代の歴史がまったく残らないなんてことがありえるのか?
そこまで日本の全土に広がる勢力なら文字の存在は必須だと思うけどな
どうやって諸侯を地方豪族をまとめるのだ?
豊は、トヨヒワケの豊だよな。
すると、豊葦原中津國は、太宰府、朝倉、田川、彦山、耶馬溪から東に出た中津市ではなかろうか?そして、天御虚空豊秋津根別。これ、根分って植民地と読める。すると、中津、伊美、祝島、瀬戸内、阿波、淡路島、阿倍野、當麻町、磯城まで逝ける。瀬戸内への出口が山口の忌宮と被る。経路に女島。阿毎の一根。姫氏。
天御虚空豊秋津を文字のまま、豊国安岐と読むと、大分空港、佐多岬、四国瀬戸内、阿波、だ。
この場合、高良、日田、安岐、佐多岬ルートだ。
これらは、高良、太宰府、松浦、壱岐、対馬の半島ルートにつながる。経路に女島。姫氏。そして、阿毎の一つ柱。
大地震を引き起こす大鯰(姫氏)と、海人大蛇(安曇、阿度部)の勢力が入れ替わったのがわかるだろうか?
>>511
大阪にでっかい墓があるでしょ
文字は無かっただろうけど >>510
自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史
なんであちこちに一大率があると思ったの? まあ弓削道鏡を天皇にするか宇佐八幡に神託を聞きに行ってるあたり皇室と九州は何らかの所縁があるのは確かだろうな
>>516
俺が近畿説だから
出雲とか吉備とかあと知らないけど北陸とか勿論近畿にも居たんじゃないか 卑弥呼を共立した王の居る国は一大率の役割を担ってたんじゃないか
安倍麻生岸田甘利高市松野
察せよ。日本が湖底に沈み、倭人が復活した。
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之
税関を各地の置く
>>519
なるほど魏志倭人伝に書かれてる一大率では都合が悪いから
畿内説に都合が良いように適当にでっち上げてみただけなのね
いっそ清々しい理由だった >>523
魏志倭人伝に書かれている事には間違いがあると思ってるから 伊都国に王がいると書いてあるから
奴国の男王が、伊都国の行政のトップということだろ
武力も資産も一番持ってるので諸国が畏怖する
>>525
伊都国には王がいると書いてあるが奴国に王が居るとは書いてない 阿輩氏(安倍、蛇)
姫氏(松野、鯰)
姫氏は阿輩氏に制圧されている。これが、要石。
そして阿輩は白村江で滅びる。これが春日大社の祭神変更。(蛇→藤)
まあぶっちゃけ邪馬台国≒ヤマト王朝の元なのかどうか
邪馬台国が九州なのか四国なのか中国なのか北陸なのか誰もわからないよね
そうだいっそのこと日本以外にあったことにしてみては?w
伊都の国王=怡土の県主なんだろうな
後の国造みたいな
>>526
だから伊都国の行政のトップだと書いたやん 弓削氏は倭王とともに捕虜になっている倭人。
仁徳の弟が宇佐神宮関係。
邪馬壹国 = 天倭津国 = あまいつこく
伊都国 = いつこく = 倭津国
三韓が馬韓、辰韓、弁韓
倭人も○倭と考察できる
○ = 邪馬 が入る(邪馬倭)
考古学的にはもうとっくに九州で結論出てるのにまだ畿内厨が喚いてんのかw
25 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:39.93 ID:68Ek905f0
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 26 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:45.99 ID:68Ek905f0
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる 日本史板での結論@邪馬台国の場所
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>539により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは>>537の免田式土器の分布とも一致する 豊は美称、高も美称
高天原の高は美称で本来は「天原」
琅
邪 馬 壹(伊都)国
韓
陳寿は、琅邪→馬韓→伊都国と
一直線の方角位置に倭があると
筆法を用いて漢字を選んだと考察できる
まーた起源説で発狂するやつ出てくるわこれ
決定的な証拠出るまで黙ってりゃいいのに
とにかく日本全国の古墳を徹底解明することだ。放置してあるのはなぜだ。
>>549
古墳を発掘して何がわかると?
日本全国には古墳と呼ばれるものが約16万個ある
その内宮内庁管轄の立入禁止陵墓は900個くらいしかない
残りの15万9100個は好きなように調査できるんだぜ?
どうせ盗掘されてて大したものがあるわけではないことは、15万9100個の古墳を見ればわかる >>552
>古墳を発掘して何がわかると?
「倭人(阿波勢力)」のお墓だとわかるよ。 @阿波 >>553
でも子孫が敬ってお墓を守ってお参りしてるわけではないから
お墓とはちょっと違う気がする 文化が違うんだよな
地方の滅びた豪族の異文化なんだろう
やはり大陸の奴隷文化跡なのかもしれない 関係ない話だけど覚えておくように
✕ハニワ原人
○ハニワ幻人
>>556
>でも子孫が敬ってお墓を守ってお参りしてるわけではないから
>お墓とはちょっと違う気がする
遺体を葬った施設なんだから、「倭人(阿波勢力)」のお墓以外の何物でもない。 @阿波 >>550
古い皇国史観から、邪馬壹国がヤマト王権に繋がらないと困る
畿内説派閥が認めないんじゃね?
政治的な思想が日本史学を歪めてる そう
歴史上の事実を論点にしてるのに
思想を持ち込む輩が多いから話が止まってしまう
特に畿内説の奴らがコレ
・邪馬台国の時代も天皇家が日本を支配していなければならない
・卑弥呼は中国の皇帝に金印をもらって主従関係を作ったからダメ
・中国の歴史書に残されてるくらいだから今の天皇家に連なるはずだ
・九州説は、朝鮮の王族が天皇になったと主張しているからダメだ
畿内説や、反九州説の奴らってこんなのが根底にあるヤカラが多い
>>559
皇国史観な国士様は基本的に邪馬台国九州説だけど?
紀元前660年に神武天皇が日向国から東遷され、畿内に入って統治を始められたのが正史であって
傍国である九州邪馬台国が、偶々魏と燕の争いの中、帯方郡の印綬外交の結果記録に残ったに過ぎない
その証拠に邪馬台国は記紀に置いて、全く重要な位置づけでは書かれていない
寧ろ滅ぼされた側として書かれている
と、九州説論者は意外と変な誤解をしてる >>561
九州説で、朝鮮の王族が天皇になったなんてレス無いぞ?
あんたしか書き込んでないが? >>563
>九州説で、朝鮮の王族が天皇になったなんてレス無いぞ?
うん、ないよ
ちゃんと読まないと 支那の記録は比較的テキトーだからアテにならない
比較的新しい明でさえ平秀吉とか書いてるし
4世紀からの日本の活力は凄いよな
卑弥呼の時代はただのちっこい墓しか作れない土人だったのに
>>1
書いてる通り明石海峡を通り越したところにあるだろ、玄関口のモニュメントだよ。
ここからヤマト王権の勢力範囲って示すヤツ。
だから多分誰も葬られて無いよ。 イワナガヒメは須佐之男命の子の八島士奴美神と結婚する、木花知流比売と言われている
八島士奴美神、清之湯山主三名狹漏彦八嶋、篠清之繁名坂軽彦八嶋手命
3つの名前のサル彦、名前が多い坂軽彦
軽船は楠からできた船
記紀の仁徳天皇の瑞祥は軽船の話と雁が卵を産んだ話
5世紀半ばの仁徳天皇陵に眠る本当の仁徳天皇は復活した坂軽彦じゃないの?
子のない老夫婦が住吉大社で祈ってできた一寸法師
九州説は歴史の古い方から話すのに対し近畿説は新しい方から話す傾向がある
天皇がいつから居るかなんてわからん
転換点みたいなのがあったと思わない
邪馬台国は近畿一帯
復興、開拓、宗教地
ヤマト政権との関係は定かではない。
卑弥呼は共立され九州の伊都国だな。
ト骨が出る地域
>>567
>卑弥呼の時代はただのちっこい墓しか作れない土人だったのに
スーパー頭脳集団「倭人(阿波勢力)」を侮るな!
精緻な銅鐸や勾玉製作技術・辰砂採掘精製技術・鍛冶鉄器製作技術・造船外洋航海技術等々
「卑彌呼」の時代以前から、超先進技術を携えた大文化人たちだ。 下がれ下郎! @阿波 >>569
「魏志倭人伝」の記述は、現実に当時の人が書き残しているものだ
そして邪馬台国はその魏志倭人伝にしか登場しない
ならば、魏志倭人伝の記述を最重視しないと成り立たないんだよね
それなのに、
海の上になるとか
方角が違うはずだとか
だから方向を変えるとか
それ、ダメなんよ
だから畿内説は馬鹿にされるんだよ >>569
>歴史上の事実とは神武東征の事か?
「神武天皇行軍ルート」
気延の庄(出陣地)→15q神山→15q木屋平→13q穴吹→5q岩津→27q板野→13q鳴門(東征地)
計88q 各地点間距離≒直線距離 @阿波。 >>580
まんま読むから馬鹿なんだよ
当時、アスファルト舗装したまっすぐな道があると思ってる?
なんで直線距離で計算するの?
頭悪すぎだろwww 起源じゃなくてそのものだろ
古代の海の向こうの国が噂話程度で記述したものを過大評価しすぎだ
ヤマトが北九州を完全に制圧したのは継体天皇時代の磐井の乱以降だと思うけどね
西からの東征というより東からの西征
神功皇后時代に土蜘蛛の女酋長の話が出てくるけど
これが案外女王国の末裔かもしれない
>>582
じゃあ、まんま読むとどこ?
行程と根拠を付けて教えて >>586
過去スレで何度も出したからメンドクサイ
俺は宮崎のあたりだと考えてる 大仙陵古墳も海から見えるのを意識して作られたと言われてるからな
要衝の明石海峡にも大きな古墳を作って、大陸から来た人々にスゲーと思わせたかったのだろう
>>587
で、誰も賛同してくれなかったのですか?
残念です! >>1
なんで邪馬台国と大和朝廷を直で関連付けたがるんだろう まず、
里程が百里単位の時点で
実際に距離を測ったのではなかろうと判断できる
それが一つめ
そして、
舗装された道路などなく、獣道に毛が生えたレベルの道路だっただろうことも、
戦後すぐの田舎の道路状況を見ても容易に推測できる
川があれば橋を掛けるというのも、現代人の常識
川があるなら上流まで遡って幅の狭い場所で渡河する
山道は鉢巻のように大きく迂回する
もちろんトンネルなどないし土木技術も未熟
海岸線は切り立った崖がある場所は通れないから迂回する
そういうのが二つ目
まず、里程が百里単位なのは、一日でたどり着けば百里とか
そんな考え方だったんだろう
渡一海千里
という記述で容易に推測できること
魏志倭人伝の方角が間違ってる
昔の中国人は日本列島の位置を誤認していたからだ
具体的には反時計回りに90度ずらしが正解
つまり、例えば南行→東行
そこを間違えてる学者が多いので
100年かかっても場所を特定出来ないでいる
方角を修正した場合のルートは
瀬戸内海を東に水行十日、又は陸行一月
途中で停泊するのが投馬国(鞆の浦)
更に進み辿り着くのが邪馬台国(ヤマト)
因みに邪馬台国の東側の
海の向こうにも倭種ありとは
鈴鹿山脈の向こう、伊勢湾の対岸
濃尾平野の事を指している
で、それらを勘案すると
記述通りだと海の上になると言ってる時点で、
コイツはとんでもないおバカさんだな
と分かるわけだよ
里程が百里の場合
じゃあこの人たちは本当に百里の長さを計測したのか?
という事になる
ではどうやって?
50mの巻き尺みたいなので計ったのか?
だとしたら、道なりの距離を測ったのだから、やはり直線ではない
そして、本当に計測したのなら百里単位で丸める必要もない
75里ならそう記述するし
120里なら120里だろう
それを百里にするか?
魏志倭人伝の矛盾点って、いくつもの異なる文献を、
陳寿が繋ぎ合わせた事から生じているものがほとんど。
全体としては矛盾してるけど 、部分部分を見ると、
それぞれ元の文献はそれほど矛盾無く書かれたものとして、
合理的に見る事ができる。
九州説はそういう合理的に考えた結果が九州になるだけだけど、
畿内説は矛盾があると、
「所詮古代の中国の歴史書なんてデタラメだから、
自説に都合の悪い所は無視して良い」
という態度で自説を押し通そうとするだけ。
>>590
九州説は自由だから
それこそが学問のあるべき姿だよ
畿内説って
箸墓だろ?
でももう箸墓は卑弥呼の墓じゃないとバレてるし
バレたら次の古墳に逃げるという繰り返しが畿内説
それ、学問じゃないと思うよ >>593
“そんな考え方だったんだろう“
この時点で「そのまんま」ではなくなっちゃうんだよねぇ…
まあ、俺も邪馬台国は九州にあったと思ってるんで今後とも君には頑張ってほしいよ >>599
>渡一海千里
>という記述で容易に推測できること
ちゃんと読まないと馬鹿にされるよ >>598
近畿説も九州説も
学問というより、観光だろw >>597
実際、私も最初は九州説派でした。
しかし、おっしゃる通りに部分部分で読み解いて行くと
畿内説が正解だという事に辿り着きました。
というよりも、北部九州から瀬戸内海を含めて畿内までの範囲が邪馬台国の勢力圏であり、文化風俗の記述については北部九州の事しか書かれていないのです。
従って後者を取れば単純に九州説ですが、全体を読み解けば、自ずと畿内説になるのです。 >>601
まぁ、
どっちがマシかというレベルの話だけどなwww 歴史学者が言うには
歴史学者がどんなに理路整然と学説を発表しても
考古学者の1つの発見で全否定される怖さがある って言ってたなw
邪馬台国は日本国内で何一つ証拠の品が発見されていないから今は単なる歴史学に過ぎない
九州説は疑問だらけです。
先ず、邪馬台国までの旅程が収まらない。
普通に読めば、海上ですし
短い尺度で測っても南部九州に至ります
次に考古学的見地から見ると
ヤマト朝廷の成立が畿内であり
その過程で九州を服属させています
ヤマト朝廷が邪馬台国の後継と考えるならば
本拠地の九州を服属されるという
大いなる矛盾が生じるのです
>>604
発掘と文献と民族史を一纏めにして考古学という
文献を読む歴史学者でも、それだけでは考古学とはなり得ないことは理解してるよ
古すぎて民間伝承はアテにならないけど、文献と発掘の二つが揃ってはじめて考古学となる >>600
なら、「一日でたどり着ける距離が百里だった」とか「〜なので確定できる」とか書かなかゃw
邪馬台国はどこだったのか?とのアンケートを取ったら
約八割以上が北部九州、二割未満が畿内 ごく少数がその他地域
となっている。しかも最近出版の本は総て北部九州説。
江戸時代〜戦前までは倭人伝の解釈に終始していたが、現代は
遺跡の発掘が進んだから畿内説では説明不可能に成っている 韓は四方4千里
一辺が4千里の四方
倭は周旋5千里で、もう九州内で完結してる距離ってわかるよね
初期の邪馬台国が北九州で、途中から近畿に移っただけだろ
>>597
おまえが決め付けてるだけで解釈のしようはいくつもあるだろ おそらく井上よしふみ氏の説が多分ただしいと思う。
魏志倭人伝は陳寿が書いた三国志の一部分で、量が膨大なのと当時のやり方として、
草書体でかかれたはず。
その後、中国の正式な歴史書にする時に、陳寿は死んでいるため王朝の官僚が楷書体
になおしたが、その時に草書体の文字の判別がつかず、誤訳が頻発した。
よって読めばよむほど分からなくなる。
正しく読むには草書体の似た字の可能性を常に考慮せねばならない。
たとえば「投馬国」は「殺馬国」の可能性があり、そうすると「サツマ」と読める。
井上よしふみ氏の説だと邪馬台国は九州朝倉市あたりとのこと。
当時の海水9メートルアップすると
地形が似てんのよ
大宰府あたりが広島の安芸でイワレヒコが最初に建国した地
有明海が瀬戸内海
俺の予想では90度角度おかしい説は
こっから来てると思ってる
>>598
近畿説だっていろいろ居るしおまえが決め付けなくて良いから
卑弥呼がいた頃の邪馬台国は北部九州にあった 畿内には戦乱の
形跡が無いし 鉄の鏃の出土も非常に少ない 邪馬台国は戦乱の
跡がある吉野ヶ里で決定している 北九州の他の国の歴史とかはある程度残ってるのに、
それらより権力のあった邪馬台国が謎ってのはおかしな話。
邪馬台国とかもともと無いんじゃ
>>617
俺はその立場で邪馬台国はヤマト国であって邑じゃない 今さらだろ
日本に限らず世界的にも古墳の規模や大きさは
序列や権力の格付けを表現してたんだよ
つまり朝鮮半島南部で日本オリジナルデザイン
の前方後円墳が幾つも発掘されしかも日本より
比較的年代が新しく規模が小さいのは半島南部
が日本の支配下にあった歴史的証拠
>>559
憶測じゃん
どっちでもいいんだけど“今現在“教科書に載ってんのはどっちって話
断定されたら記載内容も次の世代の認識も変わっていくから外野は子供みたいにワーワー喚かず待っとけと >>619
5世紀前後のでっかいのはそうでしょう
でも卑弥呼の時代は連合ではあってもばらばらかな 共立なのに、畿内に一強はおかしい
と近年では畿内説が揺らぎ始めてる
学者の間でも
>>608
それどんなアンケート
エビデンスお願いします
それとも僕の空想アンケート? >>617
共立された王になるほどの国だから
それらの国よりかなり弱い国
はっきり言えば弱小国だったと思うよ > 共立された王になるほどの国だから
> それらの国よりかなり弱い国
> はっきり言えば弱小国だったと思うよ
国力が強大だったら力で言うこと聞かせられるもんな
女王国連合全体と、狗奴国一国で釣り合うくらいの国力だったと思う
邪馬台国がヤマト国で日本を指してると考えると別の姿も考えられるんじゃないかな
俺が九州説から近畿説に変わったのはこれが理由だから
>>604
>邪馬台国は日本国内で何一つ証拠の品が発見されていないから今は単なる歴史学に過ぎない
総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的特異遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の行程・「其山有丹」・倭地の自然環境描写等々。 @阿波 >>629
>邪馬台国がヤマト国で日本を指してると考えると
そう考えるならヤマトも日本も九州に治まるか、せいぜいその周辺までを含んだ範囲でないとおかしくなるなぁ >>631
何故?
倭人は東南の大海の中に居るんだよな >>629
畿内が最終的に日本を統一したのは力があったからじゃないかな
崇神が東西に四道将軍を派遣したのも力の現れで邪馬台国とは毛色が違う
女王国連合は倭国大乱、卑弥呼没後仲間割れ、神夏磯姫の裏切りなど
小国どうしの離散集合ばかりで力はなかったかもね
あくまでも巫女の権威(と中華の権威)だけで保ってた国 >>608
>現代は遺跡の発掘が進んだから畿内説では説明不可能に成っている
現代は遺跡の発掘が進んだから九州説や畿内説では説明不可能に成っている。
今や、「阿波」の遺跡によって、「阿波」が主流となりつつある。 @阿波 >>633
そんな感じかなと思ってる
巨大前方後円墳は強い権力が無いと無理だ >>616
>卑弥呼がいた頃の邪馬台国は北部九州にあった
北部九州に「卑彌呼」がいたであろう痕跡遺跡は皆無。
碌な鍛冶炉遺構の無い北部九州の鉄鏃は、鉄器王国「阿波」から支給されたものに他ならない。 @阿波 里数が実際より5、6倍大きいのだから日数その他の数字も同様じゃないのかと疑うのが普通だと思うがそうすると畿内まで届かなくなるから困ったもんだよな
使える論理は倭人伝はデタラメだ!しかないよな
>>638
邪馬台国が倭国であり日本を指してるなら関係ないよ
日本までの距離が1万2千里と言ってるだけだから >>632
広範囲を統治するなら文字が必要だろ
でも、税や戸籍の記録すら残ってない
多分君が想像してるよりも小さな国じゃないと文字なしじゃ統治出来ないよ >>639
邪馬台国は北部九州全体説よりひどい解釈だw >>640
5世紀前後のでっかい墓を造った人はかなりの権力を持ってたと思うよ
倭の五王の武は東征毛人五十五國西服?夷六十六國渡平海北九十五國
と言ってるからな >>636
畿内ヤマトなら狗奴国みたいな国は土蜘蛛と称して討伐してしまう
邪馬台国にはそれが出来なかった
なぜなら権威はあっても力のない国だからと考えれば理解できる >>642
邪馬台国の話だよ
5世紀の話ではない
そういう基本的な間違いを犯してはいけない
だから畿内説になるんだよ >>644
5世紀に文字があり文章を書いてたと思ってるのか? >>635
安房守の勝ちだな
真田安房守昌幸
北条安房守氏邦
伊達安房守成実
堀内安房守氏善
本多安房守政重
里見安房守義頼
里見安房守義康
里見安房守忠義 >>645
そんなのは知らん
卑弥呼の時代に文字があったかどうかが重要だよ
で、
文字を使ってた証拠は無い >>642
畿内ヤマトのスケール感を検討してみたらいいと思う
いろんな可能性があるがどんなパターンだと一番しっくりくるだろうか
卑弥呼といえば、パッショナータのディスコソングを思い出す
>>647
もう訳分らん
5世紀に文字が無くても国家統一出来て3世紀だと何故無理なのか >>649
「倭王武の宋に遣使した上表文」
「東征毛人五十國西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」
これはずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北の展開記述である。
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸・朝鮮半島南部
これは、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域と符合する。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>651
5世紀にはあったんじゃないか?
なぜ無いと思うんだ?
最新の調査では九州説が99% 畿内説が0.09% その他が0.01%と
なっており九州説の伸びが著しくなっている >>654
>現代は遺跡の発掘が進んだから畿内説では説明不可能に成っている
現代は遺跡の発掘が進んだから九州説や畿内説では説明不可能に成っている。
今や、「阿波」の遺跡によって、「阿波」が主流となりつつある。 @阿波 >>649
どれかと言われたら右が近いかな
ただ狗奴国は卑弥呼と卑弥弓呼の個人的な権力争いだと思ってて
国の争いだと思ってない
同じ組織内に居るって事だ >>653
じゃあ150年前だし3世紀にもあったかもね >>657
同じ組織内の争いで魏が檄や横幢を持ち出すかな?
やはり敵国扱いだと思う >>659
それこそが重要でその権威に効力があるんだよ
領土の奪い合いなら関係ないでしょ >>660
まあ狗奴国(拘奴国)は女王国連合に属してないよね
魏志
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状
後漢書
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 魏が認めてる王は卑弥呼だと言う事に効力があるんだよ
1〜5世紀の文献あるはずなのに一冊ぐらい出て来ないかな
阿波ほかその他の地域が邪馬台国と言う低能偏屈説を支持する者は
わずか0.01%しかいない。考古学ファンの正常な感覚が良く判る数字だ >>617
中国人の作り話か、何かと勘違いしたとかかもね >>665
お前がいくら騒ごうが、
総合的に状況証拠を積み重ねると、「阿波」でしかない。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的特異遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
魏志倭人伝の行程・「其山有丹」・倭地の自然環境描写等々。 @阿波 >>666
秦人の名前は阿波さんのようだ😂
突厥系の征服王朝だった?
秦って。
○「中政戸秦人阿波」戸
「下〃戸主阿波」(69歳)
-「嫡子乎知」(13歳)
-「次布奈麻呂」(11歳)
-「次小布奈」(8歳)
-「次根麻呂」(2歳)
-「戸主の児志祁賣」(33歳)
「戸主甥小人」(57歳)
-「嫡子知加良」(30歳)
-「次麻呂」(17歳)
「戸主甥志比」(49歳)
「志比妻不破勝族阿波比賣」(22歳)
-「嫡子牛麻呂」(22 歳兵士)
-「次比津自」(19歳)
-「次赤麻呂」(13歳)
-「次赤安」(8歳)
-「次吉嶋」(4歳)
-「次荒玉」(3歳)
-「児小依賣」(8歳)
-「次忍比賣」(3歳) 文系のカスは生きていて恥ずかしくないのかなwww
45666.57415526073
文系のカスは生きていて恥ずかしくないのかなwww
25519.03305098734
偏.差値60いかの高校から難関国立大学に進学したとしても、知的障害持ちの低学歴だという事実は変わらない
47787.364602678004
偏.差値60いかの高校は、知的障害者・精神障害者・身体障害者しかいない
6851.502258505904
中卒の奴、高卒の奴、専門卒の奴、日東駒専・産近甲龍以下のレベルの私立大学もしくはSTARS以下の底辺国公立大学を卒業した奴は生きている価値のない知的障害者だからな
そんなゴミみたいな学歴のカスは生きていて恥ずかしくないのかなwww
3673.0723596086536
>>617
種子島の広田遺跡だよ
あそこに埋葬されてた
両性具有の大シャーマンこそ卑弥呼 >>647
卑弥呼の時代に文字がなかったのだったら
対馬国とか伊都国とかっていう地名は中国人がつけたのかな >>594
魏志倭人伝の方角が間違っていません。
詳細なことが書いていないだけだよ。
邪馬台国は近畿一帯
復興、開拓、宗教地
なんら中心国でもない、あっちこっち工事だな
で遠方にある行く必要性がない国
使者は聞いたのみ
ヤマト政権との関係は定かではない。
卑弥呼は共立され九州の伊都国だな これじゃないの?
弥生時代は大陸の船が漂着しやすい九州や山陰が栄えていて
3世紀後半に神武天皇の東遷で近畿に強力な連合国ができた
東遷説
よしんば邪馬台国=ヤマト国だとしても
当時の中心地は九州地方では?農産業的にも商業貿易的にも大陸に近い南の比較的暖かい地域のほうが発展するよね?
>>679
そう思う
今の韓国からは北部九州や山陰に
中国からは九州南部に
それぞれ船が漂着して、技術や武器が持ち込まれて小さな集落を作り、原住民にコメ作りや土木工事を教えてクニを築いてたんじゃないかと
古事記に出てくる神々は、海の向こうからやってきて文明をもたらしてくれた人々
彼らの子孫が大王や豪族だとしたらスッキリする >>679
古代の坊津は現代の横浜
とんでもない田舎だけど >>675
文字と言葉は違うよ
当時は口伝で言葉だけがあったと解すべき
口伝ばかりだったので
言葉ありきで後から文字を当てはめるようになったから
同じ物でも字が異なったりするわけだ なんか邪馬台国(やまたいこく)っていうのがヤマトっぽから
大和政権と関連性があるみたいに思っちゃう人がいるみたいだけど
当時日本に文字がなかったのだったら邪馬台国っていう文字は中国人がつけたということだよね
そうすると邪馬台国の中国語の発音はシェーマーイーグォなのでヤマトのヤの字もないんですが
>>683
その読み方が当時の発音と同じとなぜ思い込めるんだ? >>680
稲作の元の米は別ルートからい入ってきたがいまの主流定説だけど
灌漑や土木工事技術は朝鮮半島を経由して中国やさらに源流をたどればもっと西の地域から
流れてきたと考えられるよな
それが畿内にまで到達するのはもっと先だと思う >>683
おそらくだけど当時は ヤマツァィ とか ヤムヅォ みたいな聞き取り難い発音だったと思われる
そんで邪馬台国も畿内ヤマトも同じくヤマツァィという音ではあるのだろう >>686
ヤマトも本来ヤーマンまたはヤーマットに近い発音だったという説もあるよね >>684
当時と全く同じとは思わないけど、「やまたいこく」ってめっちゃ日本語読みじゃん
中国語は音読みだからこんな読み方しないでしょ 俺が思うにちょっとネイティブなアメリカンみたいな発音で
ヤーマンッ もしくは ヤーマンットゥッ て言ってたと思う カッコィイw
>>688
7世紀に書かれた隋書とか後漢書李賢注に出てくる畿内ヤマトの発音が
たぶん ヤムァアツァイ とか ヤミャツァイ なので畿内ヤマトも「ヤマタイ国」なのだろうと思う >>689
伊都国
松羅国
ここら辺も、日本語読みじゃん
そんなにハゲそうなほど気にしなくていい部分なんじゃないかな?
参考レベル >>690
ヤーマン言いたいだけのレゲエおじさんか 偏.差値60いかの高校は、知的障害者・精神障害者・身体障害者しかいない
75074.97460775783
>>692
伊都国は イードゥーグォー
末廬国は モールーグォー だからそんなに違和感ないね >>695
>末廬国は モールーグォー
マツラかマツロみたいな言い方だったろうから
これで違和感なければ
邪馬台国がシェーマーイーグォでも違和感ないわな 記紀に邪馬台国との連続性を伺わせるものが何もない時点で邪馬台国をヤマト王権の起源と言い切るのがどうかしている
倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼に比定する論があるが書いてあることが記紀と魏志倭人伝で全く違うじゃん
文献軽視はダメだな
昔の豪族は新羅渡来系だった。こいつらはまだ人情味があった。百済系はだめだ。優しさがない。
>>682
違うでしょ
もともと奈良では倭国統一を目指して最大の倭国組織、大倭を設立した。せいぜい3−4世紀ごろ。
倭というのは大陸から見た呼び名ではあるが、大陸からも認識してもらうためにそのように名付けた。
日本列島というのは大陸から見て特殊な存在で、海があるので基本的に領土争いが発生しない。
大陸から難を逃れて、あるいは果てしない覇権争いに愛想をつかした多くの人が日本列島へ移民して建国に重要な役割を果たしている。
自主的な国を明確にするために、倭という字に和という字に変え、大和にしたものの
読み方を「ヤマト」としたのは5−7世紀ごろではないか。
遣隋使、遣唐使の使者が、昔の邪馬台国の知名度をそのまま受け継いだほうが交渉がやりやすいからな。 >>699
>違うでしょ
何が違うのかまったく分からない
松羅が松浦になったとか、そういう事を言ってるわけだよ >>680
米の伝来は半島経由は否定されてるのであなたひとり勝手にスッキリしないでもらえますか 偏.差値60いかの高校から難関国立大学に進学したとしても、知的障害持ちの低学歴だという事実は変わらない
>>647
証拠はないけどさ
渡来人が日本にいて外交文書書いてたはずだよ
通訳がいなかったら倭人伝に書いてあるような外交は無理だから
詔書、檄文の意味伝えないといけないわけだし
返礼だって書かないとまずいし >>707
こんな当たり前のことを理解できない人が割といるんだよね >>707
>渡来人が日本にいて外交文書書いてたはずだよ
うん
だと思う
それは否定しないよ
でも、それは中国語で、日本語ではない
国内向けは口伝
対外向けは中国語
と考えたら、文字というか、文章が一切残ってないのも説明できる >>703
こないだNHKEテレでやった
知恵泉「弥生に学べ」でさりげなく
「朝鮮半島から渡来した」と言っていた ヤマト王権が征服王朝でもいいじゃない。
なぜ起源を主張したがるの?
>>699
これこれ
しかも別だった日本からも名前をパクり
日本と書いてヤマトと読ませるようにした
イメージアップの為の詐欺てんこ盛りもう滅茶苦茶よw >>710
個人的な予想だけど
長江から半島の海岸近くを進んで北部九州まで舟で向かうルートができてたんじゃないかと思うわ >>711
考古学的には国内発生だから
ただ邪馬台国とは関係ないと思う
なんとしても邪馬台国と結びつけようとしてるのが無理 ところで向こうのスレではアタオカ以外万世一系なんか信じてないのに
こっちじゃあ地域エゴのせいでトンデモ理論ばかりだなw
スレだけでこんなに差が出るのがオモロいw
ルートって行っても天候に左右されまくりで、目的地近くに漂着できりゃラッキーみたいな感じだろうけど
和を以ってwwwwwwwwwwwww
貴しとおナスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>713
壱岐島の弥生時代遺跡から
日本最古のイエネコの骨が出土してる
猫はどー考えても半島経由ではない
南中国との交流がある 日本人は古来から中国人のように殺戮を繰り返してきた訳ではない( ー`дー´)キリッ
731部隊乙です^^
>>710
Eテレって科学歴史系番組で結構ウソが多いから気をつけてね
総合でも※諸説ありますとかテロップ入れるし作為的な番組を放送するから 歴史がフィクションだとしても驚くことはない
科学とはフィクションである( ー`дー´)キリッ
>>719
だってそこ、中国文明の中心地だもん
人口が増えすぎたか争いに負けたかで、そこから遠方の未開の島に移住した人たちがいても変じゃないからね 科学なんて無駄だよぉ
っていう気分が蔓延した時代があったそうだ
その時にポアンカレが『科学と仮説』を書いたんだって
結局政治史と同じで
偉い人が○○と言ったを繰り返しているだけなんだょ
高校の偏差.値と社会の評価対応表
偏差.値71以上 勝ち組
偏差.値61から70 負け組
偏.差値60いか 社会のゴミ、知的障害者、生きている価値のないガイジ
偏.差値60いかの高校にはキチガイな上に知的障害のある奴しかいないからなwww
卑弥呼女王時代に南の狗奴国と戦争になり、邪馬台国が窮地陥った時
魏から檄文を書いた幟が送られて来たと倭人伝には書いているから卑弥呼も
字を読めたのは間違いない、畿内では漢字は使っていなかったはずだが
北部九州では普通に使っていたと考えるのが正解 文化の差が大きすぎるな >>729
日本人の中に英語の読み書きができる人がいたとしても
日本人は英語の文章を記しているのが普通だとは言わないだろ?
日本国内は口伝
対外向けは中国語 「へー、魏から檄文というのが届いたのか」
「ほー、中国は文字というものを使ってるのか」
「はー、文字をいちいち覚えるのメンドクセ」
「やっぱリズムつけて言葉を覚える口伝の方が使い慣れてて楽だよな」
とか、当時の人は言ってたかもな
偏.差値60いかの高校の入試は障害者同士の潰し合い
>>731
それあるかもw
書くものも超貴重だっただろうし >>713
日本に水耕稲作が伝来したのが今の所、紀元前10世紀の菜畑遺跡が最古
で、この当時の水耕稲作の北限が朝鮮半島まで回って来れてないので、朝鮮半島で米を作ろうとしても育たなかった
この為可能性は2つに絞れる
1.大陸から直接渡来した説
2.黄海を渡って朝鮮半島南部を継続して日本に渡来した
ポイントとなるのは、水耕稲作の北限をどうやって越えたのか?
朝鮮半島の南端で水耕稲作の痕跡を探さないといけないのに
平壌周辺をウロウロしてても意味がないのよね 偏.差値60いかの全日制高校、通信制高校、定時制高校、高専に入学した奴は生きていて恥ずかしくないのかな
それと中卒や高卒認定のゴミも生きている価値がないからな
>>731
そんなわけはなくてね
邪馬台国が使を送って朝献してるわけだから
東夷伝の中でも何度も繰り返してるしね >>738
高校生は教科書に載ってない邪馬台国の話しなんか気にせず、教科書に載ってる通りに覚えとけば良いよ
大学で考古学やるくらいハマってるならまだしも、これはオッサンたちのお遊びなんだよ >>739
対外向けに中国語が使える人は一定数いただろうね
中国に使者を送るのだから
それは中国語で書いてるはずだろ?
日本国内で日本語を文章で記録してた根拠にはならない というか、
大昔は口伝で
その後、文字を使うようになったというのは常識だと思ってたけど
そんなのも知らない奴らがこれほど多いとは思わなかったわwww
旧約聖書の時代も本当に大事なことは口伝だというね
本の原理主義者はしょうもない
落語家も、師匠から噺を教えてもらうのは口伝だもんな
なにがなんでも文章が必要とは限らないんだよ
>>742
固有名詞をすぐに音訳してるじゃないか
固有名詞は日本語だぞ >>744
ユダヤ教なんて当時の肥沃な三角地帯の狂ったような記録癖の文化の申し子だよ >>746
なんかかみ合ってないな
それは、日本の言葉を中国の文字で中国人が表現しただけじゃん
日本で「文字」が使われてた証拠にはならないよ 韓国の書物には倭人は中国から周の時代に来てると記載がある。嘘とは思えない。
東へ水行20日で出雲へ至る
東へ水行10日で丹後へ至る
南へ陸行一月で大和へ至る
やっぱ邪馬台国は畿内だな
水稲稲作栽培の伝来ルートは長江下流域〜中国沿岸を北上〜山東半島
〜渡海〜朝鮮半島西岸(ソウル付近)〜朝鮮半島南部〜釜山〜
末廬国の順番になっているのはすでに決着している。
日本から朝鮮半島に伝来した訳じゃない。 >>752
> 朝鮮半島西岸(ソウル付近)〜朝鮮半島南部
それを裏付ける水耕稲作の痕跡が見つかってない 倭は日本ではヤマトでしょ
日本人がワなんて言ってた記録あるの?
>>679
そうだよーでも、近畿一帯だな。
災害があったんだ。
災害前では鉄器がない時代でも
//www.asahi.com/articles/ASMCL3HG8MCLPOMB009.html
でせ。復興、開拓、宗教地
7万戸可能でせ。
邪馬台国に権力があって、中心国であって
立派なもんがあって、豪華絢爛
鉄が絹が豊富というのは、
勝手なイメージや固定観念だな。
それらは、九州の事と思うけど。 >>752
日本の灌漑稲作は、「阿波」が発祥地。
根拠:弥生時代前期「国内最古級の畝跡」「庄・蔵本遺跡」・「南蔵本遺跡」の灌漑稲作跡遺跡。
日本のイネは、日本固有種。
倭国(阿波)→菜畑→朝鮮南部だね。 朝鮮南部でハプロbが出てる筈。 @阿波 稲が何処から伝来したかなんてどうでも良いよ
卑弥呼の時代には全国にあったんだから
で共立された卑弥呼が九州へ行ったのさ。
邪馬台国は遠方にある使者が行く必要もないところ。
聞いただけだな。
卑弥呼の時代には稲も鉄も銅も近畿にあるから最初の何処に伝来したかなんてどうでも良いよ
古代文明の定義
都市の存在
文字の使用
鉄器の利用
( ー`дー´)キリッ
>>760
だがインカ帝国に文字はなかった
キープ文字があると言う人もいるけど
あれは縄の結び目であり、いわゆる文字として記述していないので言い訳にならない >>751
九州説の方角がズレてると批判する畿内説が盛大に方角捻じ曲げるのはなんでだ まあ1492年新大陸発見説を補強するような理屈だとは思うね
>>762
方角のずれなんて気にするな
後漢書じゃ狗奴国は海を渡って東にあるんだぜ?
中国の正史が常に正しいという固定概念を捨てなきゃね 邪馬台詩が偽書であったとしても百王思想に恐れおののくあたり平安朝の人々も邪馬台国は大和朝廷と認識していたと思われる。
倭人は東南の大海の中に居るんだから細けえ事は良いんだよ
さて始めるか、まだ諦めないのか?。
王遣使詣京都帯方郡諸漢国及…傳送文書賜遣之物…、正史元年太守…奉詔書印綬…倭王因使、上表、荅謝詔恩。で文書も交換されてる。また、重要なのは、卑弥呼の朝貢に対しての褒美と『又特賜汝故鄭重賜汝好物也』、上は汝が献じた朝貢の見返りであり、又特、以下は、特別なあなたの為に好きな物をつけますよ、と言っとるのだよ。
陳寿は魏志の一部として書いてあるのであり、曹魏皇帝曹叡登場は重要であることを理解してないといけない。行程なぞ二の次以下。然るに皇帝曹叡は卑弥呼が何者でありどのような鬼道かも理解していたのだよ。無駄だ
>>764
じゃあ九州説も大手を振って方角傾けられるな 倭人ってのは東南に1万2千里離れた大海の中に居るんだよ
>>768
全然いいと思うよ?
そもそも邪馬台国のピンポイントの場所については、九州説の中でも
諸説乱立してて方向もへったくれもないじゃん
魏志倭人伝が必ず正しい派の九州説の人は、自説とともにぶち抜かれるしかないだろうけど >>768
>じゃあ九州説も大手を振って方角傾けられるな
方角詐欺師同士、よかったな。 わははははは @阿波 で、行程は日本海ルート瀬戸内ルートでの勘違い、混乱から生まれた物であろうと結論づいたんですね。で隋書で修正されてるんですよ。
他説は入り口を間違えてるからいつまでも行程で行き止まってんだよ、
卑弥呼は鬼道。で前方後円墳と名付けられた物が絶対的に存在してるんですよ。
距離や方角とか日数なんて絶対正確じゃないと思うわ
特に距離は今みたいにきちんとした測量ができてたわけないからね
江戸時代の日本地図ですら変な形の日本列島になってるのに
>>774
そこまでバカにはしてないけど陳寿は資料を繋ぎ合わせてるってのがなあ 陳寿自身はなんも知らないのよ
他人が書いたものを読んでるだけで
水行とか陸行とか舟行1年とか陳寿の手抜きだと思うんだがなあ
普通に考えたらおかしいんだけどそのまま書き写したんだろ
>>776
一応陳寿も中国国内には、取材に出かけてるよ
ただしお前のご先祖様をカッコよく書いてやるからと、賄賂を要求したり、結構なクズな記録が残ってる >>773
>阿波先生、橿原神宮は無しですよ。あれは明治です。
明治にその神社が創建されたわけじゃあるまいし。 「阿波」の神社と劣化コピー神社といっしょにするな! @阿波 >>772
一大率の位置や狗奴国の位置、女王国東渡海千余里復有国皆倭種とか
まあ畿内では説明しにくい話が多すぎる >>649
全部間違いだな
狗奴国は滋賀辺りで日本海側を広く支配
大和は奈良辺りで太平洋側を広く支配
大和が狗奴国を倒して邪馬台国が誕生したが真実だと思う
九州にいたのは熊襲だからありえない あれ?卑弥呼と卑弥弓呼はお互い大嫌い説は支持されないの?
女王国東渡海、鈴鹿か朝熊から伊勢湾を眺めればよし、一大率の位置とは?
>>786
崇神が四道将軍を東海に派遣しても狗奴国なんかまったく記録に残ってないのはなんでだろうな
わざわざ魏に相談して檄文や黄幡まで貰ったのにおかしいなあ >>788
魏志の南でも後漢書の東ですらもなく西なのか 卑弥呼、卑弥弓呼から同宗と考え、奈良邪馬臺が卑弥呼の宗教道観、千人の信者が出入りしてる所。弟河内王が彼女を左けていたという考え、やがてここから五王が出てくるのかな
むしろ河内の狗奴国に王朝乗っ取られた方向性なんじゃねーの
後漢書東夷伝か思い出した!
何を頑張ろうとも所詮この国は東夷なんだよ( ^ω^)・・・
畿内説を本気で信じている奴がいるから文系出身の岸田総理さえ
文系に愛想尽かしをしたんだな。ホント文系はアホばかり 先祖ロンダリングの歴史しかないのに何が本当かとかくだらねえわ
前方後円墳は巨大墓大仙まで続いている、何を言ってるのか?さっぱりわからん。
纒向と言う遺跡が実在してる以上、畿内に邪馬台国があったと考えるのが自然なんですよね
水行30日陸行一月って記述がなければ九州も有り得たのだけど
>>797
纒向には邪馬台国を示す遺構が一切無い。
畿内説は不自然だ。 >>795
790は河内の狗奴国が卑弥呼の弟という主張なんでしょう?
むしろそっちの方が何を言ってるのかわからないよ >>786
>女王国東渡海、鈴鹿か朝熊から伊勢湾を眺めればよし
眺めるだけかよw わははははは @阿波 五色塚も面白いことに同型墓が佐紀陵山を中心に5つあり、五社神の配下とも考えられる。続いている
【雇用】理研、600人の「大量リストラ」で、日本の「科学技術」がいよいよヤバくなる…!
俺がプーチンならこういうバカ共を全滅させて理系に全予算を振り分ける
狗奴国王に関しては、卑弥呼は宗教指導者であり、弟が左ける彦巫女制であるから倭国中心に位置し卑弥呼の足元にいるというのが自然、官はコクチヒコなので河内は含むであろう。
未だに水行陸行の記述に拘っているバカがいるのに呆れてものが言えん
その前に帯方郡から邪馬台国までの里程が1万2千余里と記載があり
不弥国までの里程が合計で1万8百里なので残りは千八百里しかない
1里は短里で約75mとして計算すれば約135kmとなり、福岡、佐賀
大分県内のどこかに邪馬台国はあったと言う事だ、実際には吉野ケ里に
あった訳だな 文化財課の課長なんて学者じゃないんだから。
こんな奴らの予算目当ての
無責任な感想を記事にする
マスコミが悪い。
邪馬台国の存在をうやむやにして発掘調査費を狙っている魂胆が
見え見えの奈良県 奈良県に発掘調査費を出しても何の成果も
得られんぞ、それよりも福岡県の筑後地方の調査をした方が良い >>803
>狗奴国王に関しては、卑弥呼は宗教指導者であり、弟が左ける彦巫女制であるから
「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3姉弟。
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 そもそも纒向が邪馬台国だと言い始めたのは、
関西の研究者が吉野ケ里の発掘成果に嫉妬したからと公言している。
北部九州の弥生の発掘を潰すために、
関西の奴らがキャンペーンを張っていたわけで、
邪馬台国纒向説なんていうのは、
最初から学問じゃないんだよ。
台与が王なら卑弥弓呼も文句はないんだろう
とにかく卑弥呼が気に入らないんだよ
西暦200年台は九州から尾張まで100の国に分かれてた
ヤマト大和は大きな和の連合国家
大王の妹が伊勢神宮で代々巫女をするのは12代大王の息子小碓(ヤマトタケル)が伊勢で叔母から草薙の劔を授けられてる頃から
兵庫は連合国家のうちのかなり大きい国
九州では度量衡魏(漢)尺で築かれた、巻向、前方後円墳、鬼道、の説明がつかない。単純に伊万里、一万里残り2000里800キロ、だいたいあってる。で5000里四方、これも陳寿は廣志との勘違いから日本海ルートで四角と思い込んでる可能性があるのよ。あのねぇ、読んでる中国人はそんなこと気にならないのよ、辺境なんだから。
>>810
大きな和とかややこしい
当時文字は無いし中国の倭が和になんたんだろうよ @「倭國亂相攻伐」して、「卑彌呼」を立てた。
A「卑彌呼」死後、狗奴国の男王「卑彌弓呼」が「卑彌呼」の後釜として倭王となった。
B「國中不服更相誅」して、「壹與」が立った。 「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
C「其後復立男王」として、「神武天皇」が立った。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波
狗奴国に関してな、弟でなければ魏に助けを求めないだろうと思うわけ、左けてる弟が出てこないからな。
今の邪馬台国論争は国立文化財研究所がやってるプロレス
民間研究者(マニア)には大人気な九州説だけど
たくさんの資料に触れてきたアカポスの連中は九州説にならないのが普通
自発的に九州説の研究をしようとする連中が殆どいないから
論争がある方が盛り上がると九州説担当を作って研究させてるのが現状
テキトーな古代史なんてもはやどうでもよくて、現代の垂水区といえばインターでしょ。運転してて普通に楽しいからw
ホケノは槨埋葬だが、
学会の権威が言っているから纒向が邪馬台国。
前方後円墳は魏志倭人伝に記載がないけど、
学会の権威が言っているから纒向が邪馬台国。
邪馬台国の超重要拠点の伊都國の平原遺跡は方墳だけど、
学会の権威が言っているから初期の前方後円墳が築造された纒向が邪馬台国。
三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡も晋の時代に徐州の銅山を手に入れてからの銅鏡だけど、
学会の権威が言っているから三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡。
弥生の絹の生産地は北部九州で畿内に絹を生産していた痕跡はないけど、
学会の権威が言っているから纒向が邪馬台国。
こういうデタラメが今、日本の考古学会でまかり通っている。
コレは、誰かが正さなければいけないような事だ。
考古学会が本来、このような正しい議論を行なって、
偽りの学会の権威を駆逐していかなければいけないのだが、
自浄能力がないので、
我々一般人が、日本の考古学のために頑張るしかないだろう。
薩長土肥のうち
薩摩と肥前が九州説
長州が畿内説
土佐は静観の構え
>>804
帯方郡から邪馬台国までの里程が1万2千余里と記載はない。
自郡至女王國 萬二千餘里である。 卑弥呼が亡くなった後、男性が継いだら国が治まらなくて女性にしたら治まった、
というぐらいの女性王権体制から男系男子の天皇に変わったいきさつは?
卑弥呼が女王になったのは、
狭穂彦王の乱によって、
邪馬台国側に男性の世継ぎが居なくなった事と、
それに勝利した生目だが、
邪馬台国の王になる力は無かったという、
妥協の産物としての倭姫命の女王ということになる。
●海南長鼓山古墳
朝鮮半島最大の古代の墓、その当時の日本式の前方後円墳と完全に同一型式かつその当時の
日本で作られた墳墓と比較しても大規模だった。
つまりこの墓はその当時朝鮮半島で長期にわたり、かなりの勢力があった日本人が作ったか、
又は日本人が墳墓の構造を指示して朝鮮人に作らせたかのどちらかだ。
開けた直後に閉じた理由は韓国人自体がこれは当時の日本人支配者の墳墓に間違いないと認
識したせいだろう。まさに都合の悪いことには蓋をしたと言える。また日本の墳墓の形式である大
型の前方後円墳が古代の海上路の要所である全羅南道の海岸一帯に10基存在するという事実
は、1980〜1990年代に相次いで確認されたそうだが、相当な長期間にわたり朝鮮半島を支配し
ていた支配者一族か有力者の墳墓だろう。当時の朝鮮半島の本当の支配者は誰だったかを裏
付ける最大の資料だ。日本式墳墓が10基もあると言うことは当時、日本人が何代もの長期にわた
り、その当時の朝鮮半島を実質的に支配していたとみるのが妥当だろう。また日本人による長期
安定政権ではない限り、このような長期工事が必要な大型墳墓を作ることはできなかったとも考えられる。
伝承によると彦坐王の4人の娘たちが、
生目の人質に取られた様だが、
そこで踏みとどまった事で、
女王国というようになったのだろう。
女王国の端っこ筑紫平野なのだろう、都とする邪馬台国の場所は巻向、行程から見てまず間違いない
前方後円墳は前方後方墳より1世紀は後で大王の権力が高まった仁徳天皇の頃からだから
半島は百済伽耶系の九州山陽近畿の集合体と新羅系の出雲若狭越前尾張系が大王の下で交互に活躍
邪馬台国とは別に南九州にヤマト政権の基になる王家があって邪馬台国の圧迫に耐えきれず東征したのが神武天皇という認識なんだが
狭穂彦王の乱に勝って、
邪馬台国の長官の地位についた伊支馬=生目が、
邪馬台国に駐留した地が旧生目神社跡地の辺りで、
彦坐王らの邪馬台国の都が、
旧玉垂宮の辺りになる。
目と鼻の先である。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮
なぜか、官はいるが副がないのは邪馬壹國のみ。
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利
副日卑奴母離は共通は九州、つまり紛争地域は九州
紛争地域だから
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛は九州
卑弥呼は邪馬壹國には居ないのである。伊都国にいるのである。
邪馬台国論争が飯のタネとは初めから分かっている事だが
敢えて考古学が好きな暇人にも楽しんでもらおうという
粋な計らいと言う優しい側面もある事を考えて欲しい
ホントの目的は纏向遺跡研究者の生活を続けさせる事だが >>761
邪馬台国は九州の北部もしくは中部です
それ以外に、魏志倭人伝に記載されている邪馬台国の南に狗奴国があるという条件を満たす場所は考えられませんね 私的意見を書くと、邪馬壹国は福岡県八女市
卑弥呼がいた千人の官女との都は、佐賀県吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里遺跡は国としては小さいと言われるが
魏志の記述どおりならば、千人規模の集落で合致する
場所も北部九州の真ん中辺りで、祭祀場、30諸国とのバランスで丁度良い立地
水行部分の里数は全て千の倍数になっている。
(話をシンプルにするために「余」は省いて考える)
水行は当時の最先端の測量技術が無いと測るのが難しいので、
大雑把に「水行一日=千里」で換算しているものと推測できる。
で、朝鮮半島を周って狗邪韓国まで行くのに七千里=七日、
狗邪韓国→対馬が千里=一日、対馬→壱岐が千里=一日、
壱岐→唐津が千里=一日となり、水行の合計は一万里=十日。
帯方郡治→邪馬台国が一万二千里なので、唐津→邪馬台国は二千里。
これは、邪馬台国までの行程にある「水行十日」の部分が、
不弥国→邪馬台国ではないという事を意味する。
もっと言えば、帯方郡治→邪馬台国であるという事も意味する。
「車で30分の所」「飛行機で2時間の所」のように、
「現在地からの位置」を「乗り物+時間」で表すのはよくある事で、
それを陳寿か郡使が「行程」だと勘違いしたのだろう。
そして、朝鮮半島=四千里四方、対馬=四百里四方、
壱岐=三百里四方というサイズ感から考えて、
二千里というのはだいたい100km程度。
これと方角も含めて考えれば、福岡か熊本に絞られる。
わずか100kmを一月かけて陸行するのかという「謎」は残るが、
日数部分は郡使の測量じゃなくて倭人からの伝聞だろうから、
大きい国だと思わせたいのか、侵略しにくいと思わせたいのか、
いずれにせよ実際とは異なる情報を伝えたという推測はできる。
>>836
なんでそれだけなんだよ
卑弥弓呼は卑弥呼が大嫌いなんだよ 辻褄を合わせれば良いってもんじゃ無いんだぞ
読者に理解できない事を書くわけ無いんだから
チンポ吸ったホモは昔こう言ってたんだわ
「お寺と神社は対立してる」ってな。
んでコイツは当時の担任を目の敵にしてたんだよな。
その担任は副業でお寺の和尚さんもやってるんだよ。
ウチの親もその担任は面識ある。
俺は詳しく調べていないが
明治維新でチョンに乗っ取られてから
おそらく本来の神道も変わったんだろ。
んで廃仏毀釈までやった。
要するに、王族と馬鹿チョンを天秤にかけて
キリスト教は後者を選んだって事なんだよ。
馬鹿チョンなんぞ一度社会的に死んでもやり直せるし。
コレは言うまでも無く肝心な人間は把握していると思うが
このままで本当に良いのか?
>>843
読者が理解する以前に、作者である陳寿が理解していない。
陳寿は不弥国→投馬国→邪馬台国という行程だと思っていて、
朝鮮半島も倭国も極めて大きいものと思って書いていたはずだ。 寺に今でいう戸籍謄本があったんだよな
それを処分したいイモ侍の大臣どもがやらせたのが廃仏
だってよwwww
連続読みしなきゃすべて解決するのに
畿内説は連続読みの九州説しか取り上げないよね
>>847
陳寿の想像があってそれが北部九州なんだろう
それに合致するように資料を集め書き連ねた
どう考えても投馬国邪馬台国は別資料だよ 以前は九州説支持だったんだけど魏志倭人伝はどう考えても北部九州を指してるよ
他説は畿内説にいちゃもんをつけてるだけと訳のわからんことを言ってるだけだな。まず、伊都は立ち寄る所で通りすぎる所だよ。でこの伊都が問題でまつらに着いたら500里歩く事になってる場所だぞ200キロだよ、勘違いしてると気付け。
末盧国から5百里百里百里と来て次がそれ何処なんだと思うような
遠く離れた場所であるはずが無い
そんな書き方しないでしょ
>>838
的意見を書くと、
奴国は久留米〜大川市〜八女市〜大牟田市
卑弥呼がいた千人の官女との都は、佐賀県吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里遺跡は国としては小さいと言われるが
魏志の記述どおりならば、千人規模の集落で合致する
場所も北部九州の真ん中辺りで、祭祀場、30諸国とのバランスで丁度良い立地 倭人は里数を知らず、日数で距離を測る(未開人である)。
(隋書)
(もちろん、中華文明の人間はそのような無知なことはしないから、)
(郡使が実際に通過した経路である)女王国から北は道里を略載できる。
(魏志)
そして伊都国が(女王国の中でも)常に郡使が駐在するところである。
(魏志)
伊都に駐在した郡使が卑弥呼に謁見して金印を渡しているのだから、女王の都である邪馬台国は九州北部しかあり得ない。
後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国(朝鮮半島南岸)まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であるため、帯方郡から九州上陸までで一万里となり、上陸後二千里の邪馬台国の位置は九州北部になる。
>>856
俺の解釈は倭は中国語ヤマトが日本語
だからその文章だと大倭王は倭国に居るって事だな 原文と矛盾するなら、あなたのその解釈が間違っているんですよ。
>>859
原文と矛盾するとは?
邪馬台国がヤマト国と言う解釈は無し? そもそもイネ科の植物は人間よりも先に誕生してるはずだしな
どこから米が〜なんていうのは人間のエゴでしかない
効率的な農法とか灌漑技術がどこから〜ていうのならまだ話はわかるが
>>858
おれは邪馬台国の当時の中国語読みの国が九州地方にあって
それが滅んだ後に畿内に大きな統治国が誕生して
その時また中国と国交や貿易を結んだときに中国から大量の文字や知識が書物と共に
日本に入ってきてその時中国の文字を日本語読みしたときに勘違いで
邪馬台国をヤマト国と読んでしまったことで
よし我らがそのヤマト国の正式な末裔で長い歴史がある
我らの国に中国のような古い長い歴史がないのは恥ずかしいことであると
嘘ついたことと読み方の勘違い(現代近代日本でもよくあるはなし)でヤマトという言葉が生まれた…
何て説はどうだろうか? 范曄後漢書はそれまでに書かれた後漢書や陳寿三國志やらを編纂した物(宋書范曄伝)で曹操嫌いであるということ。また、倭奴国金印は陳寿范曄共にそれまでに書かれた後漢書から書かれていた倭奴国が最南端だったんだよ、だから倭人伝には奴国が2つあるんだよ。何かの間違い、何れにしろ大倭国は邪馬臺。畿内
>>817
それを言うなら垂水ジャンクションなのでは? >>864
解釈はいろいろ
俺は邪馬台も倭面土もヤマトだと思ってる >>865
それな後漢書だと倭国は朝鮮半島を含んでる
それを含まないのが倭奴国だと思ってる
倭国者古倭奴国也てのもあるからな 当時の中国人は日本の地形なんて知らない
朝鮮半島も倭国だから南にある日本列島が極南界じゃないか
日本は倭国の別種なり。
奈良日本は昔は何もない場所だったのにと書かれてる。新羅が攻めてくるからこりゃやべーとなっていろんな地域の豪族が集まって奈良に内閣府を建てた。国作りは危機から生まれる。明治維新だってそうでしょ?中国はアヘン戦争で負けてイギリス人の犬になってるし、アメリカは開国を迫ってくる。こりゃやべーと危機感が国を変えてる。白村江の戦いのあともそう。
金印を与えられたのは奴国王では無く倭国王だよ
何故環濠集落に金印が与えられると思うんだよ
邪馬台国→大和
現代読みでは関係ありそうだが、
当時からそうだったかはわからない。
卑弥呼は倭国王、帥升も倭国王
なんで奴国王が金印貰えるの?
帥升が107年で金印が57年だからそんなに離れてないよ
日本の場合、大陸の文明は西から東に伝わったんだよね
だから大陸文明圏においては古くなればなるほど西が中心になる
さあ、もう寝よ、ゆえに邪馬臺国大女王は、張魯の娘、張h瑛である。
>>864
てか旧唐書にこうある
「日本と称する島からやってきた連中が『我々は倭国の仲間で日本から来た』と言っている。ある人によると日本は倭を取り込んだという」
『旧唐書』巻一百九十九上 列伝第一百四十九上 東夷 倭国 日本国
日本國者、倭國之別種也、以其國在日邉、故以日本爲名。或曰:「倭國自惡其名不雅、改爲日本。」或云:「日本舊小國、併倭國之地。」
新唐書
「倭国から来たというものが悪い名前なので名を倭から日本に変えたと言っている。ある者は日本の小さい国が倭国で滅ぼされたのではないかという。使者は詳しくないので疑わしい」
『新唐書』巻二百二十 列伝第一百四十五 東夷 日本
咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言國近日所出、以爲名。或云:「日本乃小國、爲倭所并、故冒其號。」使者不以情、故疑焉。
あと隋書に記載あるのに日本書紀にない遣隋使があるから
この頃まだ分国だった可能性もあり >>879
ちっとちがう
まず北部九州から伝わったルートがある
これは筑紫国が朝鮮南部に近いから当たり前
出雲大社のスサノオ伝説もソシモリから渡ってるから
出雲国にもあっかも
次に長江地域の南方から海で伝わったルートがある
これはプラントオパールの結果とも付合する
ちなみに当時は河南のほうに殷墟や周邑があった
それから渤海から越の国、北陸に伝わったルートがある
南部が新羅になってからとくに多かったらしい
この3ルートが確実にある >>874
「漢委奴国王」印は「漢の委の奴の国王」と読めば良いのかな 海外の反応系の翻訳サイトでは
倭国は百済の植民地
日本は百済の移民が建国した
天皇は百済の子孫
というのをよく見掛けるけど
韓国ではそう教えてるのかな
日本はロシアウクライナより中国を意識しといた方が良いと思うの🥺
与党に堂々と中国擁護を公言しちゃってる中価学会もいるしね
魏志倭人伝で倭人は手づかみで食べるから箸墓は違うじゃない
>>882
素戔嗚命がソシモリから渡ってきたと言うのは、日本書紀の中の一書に過ぎない
古事記も日本書紀も、正史としてはソシモリから渡ってきたとは書かれていない
日本書紀にはソシモリから渡ってきた説と、安芸国から渡ってきたの2つの一書が書かれてる
素戔嗚命朝鮮渡来説しか知らないということは、記紀をちゃんと読んだことがないということ
倭人伝には邪馬台国で二回戦乱が起きたとの記載がある。
最初の戦乱は王様を決める時の内乱で千人が死んだと書いている
卑弥呼が話し合いで王様になって戦乱が終わった
次の戦乱は南の狗奴国との間で起きてこの戦争の最中に卑弥呼は死んでいる
吉野ヶ里の甕棺墓の中には矢が突き刺さった遺体や首の無い遺体が見つかっている >>890
マジかよ古代に王室系譜内戦すさまじかったんだな
日巫女亡くなって可哀想 >>891
卑弥呼の就任と死去の年数からしたら老衰だよ
2回目の内乱は、卑弥呼の後継者争い 邪馬臺をヤマタイとか呼び始めたヤツがアフォ
ヤマトだろ
ヤマト=ヤマタイの呼称などは
仮に少年ジャンプとそのパクリの少年ジャンピングって雑誌があったとして 後世掘り出した奴が「これは同じ出版社のものだ」と言っているようなもの
>>20
>アマテラス
は男の神さまらしいよ
伊勢神宮内宮で祀られてるけど、広い本殿には男性のシンボルがあるんだとか
卑弥呼は日の巫女で代々天皇の女性子供が伊勢斎宮を務めた >>678
そこにある九州北部と大和の地名のとこ
地名が同じってだけじゃなく、位置関係も似てるのがすごいね
やっぱ九州から大和へ移住したのかもね >>885
倭国者
古倭奴国也 「漢委奴国王」
57年までは倭国は九州と認識
日本國者
倭國之別種也 「親魏倭王」
卑弥呼時代に投馬国、邪馬台国等が加わり
近畿まで拡大する。 >>893
他人をアフォ呼ばわりするやつが一番のアフォというのは世の常 >>678
3世紀半ばで卑弥呼が死んだ頃はまだ九州で
その後の台与とかその後継者の時代に東遷したと考えるのが妥当だな 普通に考えてヤマトーいうて聞いた中国人が邪馬台国って漢字で書いただけやろ
なんで普通に考えれなかったん?
>>900
とっくに瀬戸内の高地性集落で戦国時代やってるけど 伊勢湾から舟だして行くところ特にないような、伊都から舟だして対馬いくのは納得が行くが
>>889
まあ大陸からの経路として挙げただけでしょうから
それに蘇志摩利については高麗楽として演じられた時代もあり
それなりの検討があってしかるべきかと
なおヤマタノオロチは越から来たという説の記載もある >>907
日本語って難しいだろ
それでも一応意味は通るが正解は
韓国人と判明している
ニダ 元の字は邪馬台国ではなくて邪馬臺國なんだろ、でこの臺は登なんじゃないの?
支那人はヤマトと聞いて邪馬臺国(邪馬登国)と書いたんじゃないの
学術的にヤマタイと呼びならわしたのは、その記述が直に大和国=奈良と言えなかった等からでは
>>882
スサノオはちょっと面白い神で
イザナミのいる根の国に帰りたいと言ったり
娘のスセリビメと一緒に根の国に住んでいたり
誓約で女神ばかり産んだり
荒ぶる神なのに女性との関連が多い
また女神が男神と対等にわたりあっている
オオクニヌシの逸話にも多い
これは魏志倭人伝にもある女王と男王の共同統治を思わせて面白い
最近過去の女性天皇を取り上げる文章が増えてるが
女神ももっと取り上げると面白いと思う
奈良朝初期までは巫女=女王=皇后文化が残っていたのではないか
またスサノオ→オオクニヌシは女系王位継承と考えられないか しかし、議論は本来「魏志倭人伝の邪馬台国がどこか」ではなくて「当時の日本(ヤマト)の中心、首都はどこか」
でなくてはならないわけで、その呼称が最初から「ヤマトの国」だったら都合が悪いというか、議論が成り立たない?
だから無理やりヤマタイで呼びならわしたんだと思う
以前にも書いたが、元のヤマトのくには、奈良盆地/関西地方より西の、別のどこか。
>>891
継体・欽明朝の内乱
物部・蘇我の内乱
乙巳の変
壬申の乱
と記録がはっきりしてる時代だけでも内乱だらけ ただし、宮崎や南九州の記紀の地名の比定地は違っていると思う。
おそらく古事記が一般化した江戸期(徳川時代)以降に、記紀に合わせて地名が変えられた(つまり嘘の比定地)。
徳川は儒教体制で、日本の伝統に反し朝鮮国交をやった。
徳川時代の記紀(日本史、神道)に関する取り組みについては、かなり割り引かないといけない。
須佐之男命は荒神谷遺跡の主だろうな。
コレは実在の可能性が極めて高い。
嘘だらけだったから
本居宣長の古事記「伝」がつくられたんだろうな
あくまで伝なんですけどね
>>910
大国主と大物主の國造は、
銅鐸の時代編年と分布密度の変遷によって
紀元1世紀中期の出来事だと考えられる。
邪馬台国の卑弥呼とは無関係だろう。 >>913
すごいよな
現代だと、〇〇様と×バツ×様が兵を引き連れて戦いあそばされるみたいな恐ろしい世界 >>619
>朝鮮半島南部で日本オリジナルデザイン
>の前方後円墳が幾つも発掘されしかも日本より
>比較的年代が新しく規模が小さい・・・・・・・・・・・
全羅南道西南部の栄山江流域に現存する前方後円墳群のことか?
全羅南道西南部で築造されたAD5〜6cに倭人が駐在商売していたわけか?
任那と推定される慶尚南道でなく何故全羅南道西南部に築造したのだろう? >>921
朝鮮半島の倭人の住む地域は徐々に南に追いやられて縮小した印象を受けるんだけど
だから任那は拡大じゃなくて縮小した最後の姿 邪馬台国女王 卑弥呼
宇佐神宮祭神 比売大神
伊勢神宮祭神 天照大神
この三人は同一人物である
>>925
当時伊勢神宮も宇佐神宮もあったかどうかもわからんしもういいよ >>901
言語学的に
古代中国の発音は明らかにしないといけないだろうね。
発音、文法矛盾しまくり。 仏教に危機感を持った神社が記紀に載ってるよくわからん奴を使って箔付けした
山とか岩とか信仰の対象にしても今日日流行らねえよって事で人を対象にした
>>901
そう思うんだけどな
自分たち以外の卑族のことは汚い漢字を以て当てることが多いからこんな漢字だけとも >>914
日本を国郡里で整理した時代には、記紀の地名は出てきてるよ
江戸時代ではなく、奈良時代にはね
木簡庫という木簡のデータベースでも、地名を見ることはできる 蝦夷はやっぱり元ヤマト政権の中枢にいた人々なんじゃないかな
古墳時代の前期に九州から来て一時政権を握った勢力の後裔
馬とか鉄とか渡来系の技術に長けた集団
蝦夷の末裔はサンカになってるがな。縄文系だよ。顔は濃い系だな。
寺は立派だし僧侶が居て人の形をした仏像があるのに
ショボい鳥居があるだけでこんなのただの岩じゃんって感じだったんだろうな
話は変わるが
伊和大神、その子国津神の風の神伊勢津彦
伊勢津彦はヤマト政権の始まりの時に風を起こし東に逃れた
忍熊皇子と共にした五十狭茅宿禰は東国の出雲臣の系譜
忍熊皇子は大中姫の子で播磨風土記に息長=大中とある
播磨風土記に大帯日古天皇は息長命に大中という名前と出雲臣比須良比賣を与えたとある
東国で伊勢津彦と出雲臣が繋がり、そこから息長に繋がる風の流れがあるんじゃないか?
>>937
そのような言葉は寡聞にして存じませんな 文献に残る最古の鳥居の記述は12世紀の四天王寺の鳥居の建て替え
四天王寺は創建当時から鳥居があったと言われている
鳥居はインドのサーンチーの仏塔のゲートにそっくりで狛犬に似た像もある
鳥居は元々仏塔の様式かも
仏教の伝来は飛鳥時代と言われているが、紀元前から仏教を信仰していた集団は本当にいなかったのかな?
新羅の一つの王統は日本列島から来た人々らしいからね
国引き神話は出雲を中枢とした環日本海連合みたいな話かもしれない
実際土地を引っ張ってくることはあり得ないから
アメノヒボコも日本から来た姫が故郷に戻ったので追いかけてきたみたいだし
>>943
そうなの?
寺と神社が似てるのは競い合ってたからで神社の歴史ってそんなに古くないんじゃないか
勿論太古の昔から自然のものを信仰はしてただろうけど >>913
百済系 vs 新羅系
九州 磐井の乱は新羅の焚き付け >>942
夷やね
北狄の鮮卑とごっちゃになってたw 仏塔はドラヴィダ文明の巨木信仰から発展したとか言われている
仏塔の代わりに巨木を立てるという仏教の様式があった時代があるんだろうか?
どうみても3世紀前半に九州北部は統一政権の支配下に無い
>>950
仏像と言うより実際に居た人でしょ
あの辺似てるのは山とか岩とか樹じゃ太刀打ち出来ないからでしょ >>917
卑弥呼は女王として共立されてるので
共立した各国の文化が流入している例もあり
特に祭祀は出雲の影響が強い可能性がある
ヤマトトトヒモモソヒメ関連など 記紀にこじつけるなら、天照大御神(ひみこ)→神武東征→橿原・纒向という東遷説しかない
あんがいこれが真実な気もする
一寸太郎じゃなくて敢えて一寸法師
淡路島を覆うくらいの巨木伝説
仏教が関係している気がするんだが
蝦夷は渡来系
古墳時代前期から中期に該当する4〜6世紀には、前方後円墳・箱式石棺や横穴式石室・横穴墓が東北南部にも数多く造営され、北限は岩手県奥州市にまで分布域を広げるようになる。
しかしこれとは別に、東北北部では、土坑墓と考えられる独自の遺構群の存在が確認されている。さらに7〜10世紀には高塚古墳に似て非なる「終末期古墳」が築かれ、北上川流域を主たる分布域とするようになる。
しかし東北北部の土坑墓や終末期古墳では、断片的な骨格の部位が確認されればまだましな方で、土壌中における腐食や盗掘による撹乱あるいは風化によって、人骨が完全に消失しているケースがほとんどである。
実際に保存状態の良好な古人骨が出土するのは、もっぱら東北南部における横穴墓、洞窟遺跡に限られているのが実態である。
顔面平坦度に関する項目を含めた頭蓋計測値18項目に基づいて集団間でペンローズの形態距離を求めると、
宮城県塩竈市清水洞窟や仙台平野熊野堂横穴墓集団などは西日本弥生人・東日本古墳人に類似するが、東日本縄文・北海道アイヌとはまるで正反対の領域に位置づけられる。
東北南部には開拓を期して特に関東を中心とした各地から数多くの移民が入ってきたことが、この墓制が彼らによって導入されたとみてよい。
ミトコンドリアDNA分析の結果
核ゲノム分析の結果
参考文献
JSPS 科研費 26440257 基盤研究 (C)エミシとは誰だったのか―学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像―(代表:安達登)
JSPS 科研費 16K18631 若手研究 (B)古代ゲノム分析による関東古墳時代人の親族関係と遺伝的構造の解明(代表:神澤秀明) 岩なんかじゃ人も来てくれないよ
そうだ!天照大御神って人は日本をつくった神様らしいからこの人を祀ろうって感じ
出雲大社の伝説の巨大神殿もどう考えてもそんなに古く無いでしょ
3世紀の話しだからそこに何かあったのか無かったのかわからん
九州説カルト論者による畿内説批判でまともな批判を見たことない
架空の畿内説主張を自分ででっち上げて批判する自作自演ばっかり
>>957
確かにいずもっぽい感じはある
伊邪国(イシェグォ)→ 伊勢かも?
邪馬国(シェマグォ)→ 志摩かも? 神社は奈良時代平安時代になってから権威付けの為に人を祀って立派な建物にしたんであって
それ以前は外で御座敷いて祈祷師が祈りを捧げるとかじゃないの
記紀の出雲のパートは、考古学上の発掘事例に裏付けられる、
ほぼ史実とイコールのことが書いてある。
つまり、そこに邪馬台国のようなものが
一切出てこないので、
出雲は邪馬台国と無関係と見て間違いないだろう。
>>963
立派な神社に祀られる前は磐座だろうね
神様の宿る岩をお祀りする
巨石の場合もあれば持ち運べるサイズの場合もある
人が移動するときに、磐座も一緒にもっていったりして
次の居住地が決まったらそこで祀る
伊勢神宮が今の三重県に定まるまで
何か所もの元伊勢が残っているわけだけど
これは磐座が移動したという事になる
山そのものがご神体ってケースもこの巨石の磐座と似たケース 卑弥呼の鬼道や初期のヤマト政権は巫女、卜占とか殉葬とか生贄とか、磐座信仰と程遠いと思うけどな
殷の風習に近い
>>965
よく考えるとそれが卑弥呼のような人が居た場所か 自然信仰の場所で人を祀るってのがどうも結びつかないな
倭人 「ヒミコとは・・・」
「(天照らす)太陽の巫女で日巫女です」
「(人間の文明の始まりのような火を使う)火巫女です」
「(女大臣の)姫子・ヒメコです」
中国人「そうかヒミコか。属国の野蛮な国には卑しいの【卑】を当て字に使って【卑弥呼】」だなw
>>967
日本の古神道はアニミズム文化の色が濃いので、鬼道で人を惑わせてたとされる卑弥呼とは毛色が違うかな?
五斗米道の鬼道教団なら、病気退散に祈祷だろうし >>961
まともな九州説は畿内説の内容については批判なんかしないよ。
「魏志倭人伝は矛盾点ばかりなのでそこは無視して考える」
というのが畿内説の大前提。
矛盾点を無視せず、合理的に解釈しようとするのが九州説なので、
九州説の人には畿内説の大前提がそもそも通じない。
大前提が通じないので細かい内容なんてどうでもいいわけだ。 >>972
まともな九州説が絶滅危惧種なのは間違いないけどね
色々と、根據のない話しに飛躍しちゃうからさ、、、 >>972
「魏志倭人伝は矛盾点ばかりなのでそこは無視して考える」
何故決め付けるの? >>973
根拠が無いと言うならあらゆる説に根拠の無い部分!含まれる。
なんせ物的証拠はゼロだもんね。
>>974
全ての矛盾点を合理的に解釈した畿内説なんて見た事が無い。
あるなら教えて欲しい。 魏志倭人伝に書いてある「邪馬壹國」をグーグル翻訳で英訳してみたら
Demon One Kingdomになったよ
悪魔の国なの?怖いわね
それはそうと何で邪馬壹國が日本語訳で邪馬台国になったのかな
邪馬一国じゃないの?
投馬国邪馬台国の起点は帯方郡とか伊都国とか言ってるのが居るけど
それ読者にわかる?
邪馬=山 だろうけど
山って日本中どこにでもあるからね
陳寿が意図して読者に理解出来ない事を書く事こそ有り得ないのよ
>>980
海のそばではなくて山間部って意味だろう
高い山に囲まれた盆地とか 日本は大陸のプレートが重なっている
地震や火山が多いような土地で
地面が隆起して山も出来やすい土地だから
山が多かったせいで邪馬台国なんて「山」がついたのではw
アジア人になんか作れる訳がない
ローマの落とし物拾ってきてみっともない!
城郭の中は中国
城郭の外も俺たちが支配している!って書いたけど
西洋人うじゃうじゃw
だって、漢時代のお墓だって
もっと中央アジアの奴らじゃないの?
って出土品だろ?
後の時代に漢の古墳を再利用した事にしてるw
>>972
まともな九州説もいるだろうけど、5ちゃんねるで暴れてる九州説論者は99%まともではないだろうな
そもそも魏志倭人伝には矛盾点があるのに、すべてを合理的に解釈することは不可能のはず
矛盾点を合理的に解釈すると言っても、それは自分の中だけで合理的と思い込んでるに過ぎず
第三者から見たら非合理的な解釈になってるはず >>988
畿内説「九州説は方角を傾けるとかデタラメだらけ」
畿内説「南に水行陸行とあるのは東のことです」
こんなんやぞ >>979
三国志が作られた目的は晋の統治に向けて作られたものだろ
後に読み物や歴史書として編集されているみたいだけど >>889
北九州と出雲に朝鮮から渡れると
「日本書紀の時代には」疑問に思われてない例なだけだよ
それ出してくるなら吉備津彦が退治したのが温羅で、
鳴釜神事から鉄器生産の渡来人である可能性も考えないといけない
記紀では神武東征で吉備国に止まってるがここを制服制覇してないのは自分達より強かったからだろ
最大値で言ってるのが読み取れないなら邪馬台国の話には向かないと思う
>>910
もともとアマテラスは男神の可能性もあって、平安時代から続いてる祭りでは男の服装になってる
当たり前だ。天皇が男系なんだから男じゃないとおかしい
アマテラスが女になったのはむしろ明治以降で、
「元始、女性は太陽であった」の平塚らいてうは1971年
月読は日本書紀だとスサノオのウケモツ殺しやったことになってたりする >>836
>それ以外に、魏志倭人伝に記載されている邪馬台国の南に狗奴国があるという条件を満たす場所は考えられませんね
その条件を満たす場所は、「阿波」だ。 @阿波 御子・皇子はミコと読んで「神の子」のような意味があるから
卑弥呼の時にも元のような似たような意味があったんだろうか
>>988
魏志倭人伝疑っても別に構わないんだけどさ
そうなると三国志が揺らいでくんのね?
三国志を構成する、魏書、呉書、蜀書のうち、
魏書東夷伝倭人条にしか邪馬台国の記載がない
つまり「魏書はでたらめだ!」なると史書における邪馬台国自体が存在しなくなるんだけど。
それにこれがヤバくなる
> 晋書』武帝紀 太康10年(289年)条
「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」
この絶遠の東夷に倭人が含まれていると見ることがある。
倭人については東夷伝と武帝紀、倭国については安帝紀に書かれている。
邪馬台国についての直接の記述は無いが、魏の時代の倭人や卑弥呼については書かれている。
また266年の「倭人」の朝貢は日本書紀の神功皇后紀に
『晋起居注』(現存しない)から引用された「倭の女王」の記事と年次が一致するので、この女王は台与と考えられている。
日本書紀に転写された晋の文献を日本側が認めちゃってるのね?
つまり邪馬台国は存在してないとおかしくなる
これじゃ魏書信じるしかない 狗奴国の位置は九州で間違いない
その根拠は、魏略に書かれている
魏略では伊都国までの行程があり、狗奴国はその南にあると書かれている
自郡から女王国まで万2千里もこちらに記述されている
そういうことから魏略は最初の使者梯儁の報告によるものだと推測されている
奴国から後の行程が魏志倭人伝に加えられているのは卑弥呼が死にしばらくの内戦の後
壹與に政権を引き継ぐまで滞在した使者、張政の報告によって加えられていると考えられる
>>994
舟行1年の裸国黒歯国は実際あったかも知れない
でもおそらく日本じゃ無いな >>995
>狗奴国の位置は九州で間違いない
「狗奴国」は「邪馬臺国」に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州・畿内に、「狗奴国」や「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 >>975
根拠のない魏志倭人伝準拠なうえに、卑弥呼がアマテラスだったりと
どんどん飛躍しちゃうからな さあ、始めるか、残り少ないな。神功皇后紀の晋起居注は記紀編纂者がかってに書いたもんであてにしちゃあだめよ。
lud20230207084151ca
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