https://www.asahi.com/articles/ASP7B75J6P7BTTHB00K.html 佐賀市教育委員会は9日、同市の七ケ瀬(しちがせ)遺跡で確認された弥生時代後期(1〜2世紀ごろ)の集団墓地の甕棺(かめかん)や石棺から 副葬品の中国製の青銅鏡や鉄剣、勾玉(まがたま)が出土した、と発表した。 「三種の神器」に数えられるこれらが一緒に出土したのは佐賀県内で初めてだという。 市教委によると、これまで吉野ケ里遺跡周辺では副葬品を伴う墓群があったが、佐賀平野中央部から西部で有力な首長墓の存在は明らかになっておらず、 今回の発見はこれを知るうえで貴重だとしている。 市教委は2019年9月〜20年3月と、20年8月〜今年3月、同市大和町川上の産業用地造成地約4千平方メートルで発掘調査を実施。 弥生時代後期前半の墓が計251基確認され、そのうち4基から意図的に割られた中国製(紀元前206年〜紀元後220年)の鏡が出土した。 この鏡とともに鉄剣や勾玉、ガラス玉、鉄おのなどが出てきた。 意図的に割られた鏡は佐賀平野を中心に多く見られ、鏡に対する価値観の変化がうかがえる貴重な資料になるという。 七ケ瀬遺跡について市教委はこれまで、写真や図面でのみ記録を保存する予定だったが、今回の出土を受けて、県が現状保存に向けた検討をしていくという。 勾玉(ヒスイ)って北陸で取れるんでしょ ということはこの時代には 交流があったということか
ジャップの舶来品至上主義はDNAに刻み込まれた物だよな
>>1 これはヤバいw 紀元前の元祖の三種の神器がでてしまったら いまの三種の神器はすり替えられた ニセモノってことになるwww 有力者ならみんな持ってたんだろ?今の「三種の神器は偽物だ」と言いたい人たち
>>11 この時代にそうじゃなくてなんだっていうのか。 やっぱり、皇居にいる奴らは偽物かw 今すぐ追い出せ!
>>7 いつからそれが唯一の物と思ってた? 勾玉然り鏡然り剣然りそこら中で出土している 昭和時代だって、三種の神器はいろんな家庭にあったぞ
>>1 >>7 >紀元前206年〜紀元後220年 陳勝・呉広の乱が紀元前209年、 劉邦が前漢を興したのが紀元前202年、 だから、これは始皇帝が死んで秦が滅んだ後だね 始皇帝が死ぬ前、不老長寿の薬を探しに徐福一行が 日本列島にやって来て製鉄技術などのオーバテクノロジーを もたらしたという話と一致する 東日本が土人である事実に変わりはないw 歴史、文化のない東京はなくなっても大したことないw 西日本から見た総評w
畿内論者は認めんよ。奴等は面子で歴史をねじ曲げるからねwww
近畿圏以外の発掘調査は凄いものもろくに話題にならん このスレもボチボチで終わる みんな中央スゲーしたいのさその中央があまり凄くなくとも だから縄文の北東北は海外が凄いと騒ぎ出すまでは国内ではろくに凄いとされなかった
>>6 そうだよ。シナや朝鮮人とは異なるDNA 何故か日本人と同じと言い張る気持ち悪い民族がいるんだよ。心底身震いする位気持ち悪い 三種の神器って、古代は皇室以外も持ってたよ(二種の時もある) 降伏のしるしに差し出したとか記述がある
手首を切断と思ってたが、指を切り落としただけだったか どこまでもセコいな
>>24 家康が江戸に赴任したのは左遷みたいなものだったらしいな やっぱり奈良とか三重とか関西に日本の歴史は集中してると思う >>1 よくまあ、そんなにまとまって、イッパイ出てきたものだ。 いやね、要するに隠匿物品。それかもしれないね。 鏡は北九州王朝の権力下のシルシ。勾玉は大和王朝のシルシ。剣は出雲王朝のシルシ。 つまり七が瀬遺跡は北九州と奈良と出雲の影響下にあった。これは奈良の大和王朝が 全国制覇を成し遂げる兆しと言えるだろう。つまり邪馬台国は奈良。
老司遺跡とか那珂八幡古墳あたりがヤマト発祥かもな。 ま、大分後の話だが。
>>35 あの広大な領地を与えたのが左遷って随分と秀吉は気前がいいですなぁ 埋めた人! 今なら叱りませんから手をあげてください
土器の共通性が政権領域を表すというファンタジー邪馬台国畿内説の屁理屈に準ずると 奈良時代よりずっと以前に九州時代があったという事になる 弥生時代ではなく伊都国を首都とした九州時代もしくは伊都時代と呼ぶべきだ 遠賀川式土器は東海地方にまで伝搬されている ネトウヨ(縄文ファンタジー)が目のかたきにする弥生文化か。 オレの名誉にしたくて東大が弥生町から命名したのにな。
>>44 家康がもらった関八州は実収入93万石。元の三河遠州駿河甲信は150万石。 秀吉の嫌がらせで50万石以上減らされた。それでも家康は関白の命令だからと 家中の不満を聞き流して江戸入府。250万石というのは三成の道路、墓場、河原 まで耕作地に入れたバカ検地の数字。 93万石は酷い左遷だよ。それを254万石まで伸ばしたのは家康と徳川家中の働きな。 頭の悪い考古学者がほざくヤマト王権奈良起源説は歴史捏造 糸冬
>>11 小粒大のガラス玉に穴を開ける技術があるの? 三種の新規って弥生時代にはその概念があったんだろか
>>52 佐賀はまだ掘れてない・把握できてない場所がいっぱいあるからねえ 紀元前の製品でも当時のままの状態だから曲玉は凄いよ。
>>59 さきたま古墳群 鉄剣と似たようなサビ具合 >>57 三種の神器ってのは北九州と大和、出雲の権力の合体の象徴。 概念はなくとも結果として合体してた。 >>13 つまりここの連中の分派が東遷して奈良に大和王権を打ち立てたってことか。 後年、関東が徐々に発展して徳川政権になって関西より発展してるようなものかもな。 そもそもが「唯一無二の特別な物」じゃなくて「支配層が持ってたりする祭儀品」だったんだから そりゃそこら辺から出てきても変じゃないよね
>>63 近畿の大和王朝が北九州や出雲より強くなってヒミコ集団を伊勢に置いて 政権を奈良に置いた、というのが自然だと思う。 >>23 >始皇帝が死ぬ前、不老長寿の薬を探しに徐福一行が >日本列島にやって来て製鉄技術などのオーバテクノロジーを >もたらしたという話と一致する 2000年以上前の日本なんてそこいら中ヤブやらペンペン草やらの人の手の入ってない 場所だらけだろうに、科学の発達も推して図る時代に中国から日本なんてよく来れたよなあってなんか思い馳せるわ >>16 ググっただけの知識だけど、国内(糸魚川)産の勾玉は 縄文時代から作られてるらしいけど。 この七ケ瀬(しちがせ)遺跡って、「大和町」にあるんだよな
>>1 >意図的に割られた中国製(紀元前206年〜紀元後220年)の鏡が出土した この時代の鏡ってガラス製じゃないよな 割れてるってことは素材はなんだろう 最古の三種の神器は吉武高木で周辺にあった墓と比較して ランク的には最高位ではないが三種揃ってた 中国産の銅鏡 朝鮮産の大きな鉄の刀 新潟産のヒスイを加工した勾玉 これらを持てることは弥生時代の九州の王の 権威の象徴だっただろう ただ三種の神器は古事記には記載があるが日本書紀にはない 平安時代に制度として確立したと思われ
それはわが国にあったものだが日帝に奪われた物に違いないニダ
あーこれは邪馬台国もしくはそれに連なる国の遺跡で間違いないわ。 弥生時代後期(1〜2世紀ごろ)と言われてるけど3-4世紀ごろの間違いかもしれんしな。
>>89 爆発しそうだな 割れてるのは爆発したからか 中国との交易の最前線だから何が出ても不思議じゃない
>>83 じゃあ中国様から貰った鏡なんてもったいなくて割ったりできないよな? いや、そのために百枚も貰ったのか? 銅鏡そのままに石を叩きつけてもへこむだけで割れないが 火で十分に熱してからだと割れる 埋葬時にその作業をしたということ 平原遺跡の40枚も全部割れてた
× 素環頭太刀 〇 中世の十字軍の騎士テンプラー剣
>>11 北陸で勾玉の材料の翡翠が採れるんだよ 作りかけの勾玉も石川県とかで出土してるよ 今は鉱物の不純物解析で産地がわかるから この勾玉の産地もすぐ分かるだろ >>77 古事記は平安時代に作られた書物だからね(笑) NGID:BFlM73Xq0 低学歴ばっか あと、中国は、勾玉じゃなくて、「壁」文化だろう 基本的なことも知らんのかな
>>75 君はまず1をしっかり読むことから始めたまえ 邪馬台国畿内説論者は 奈良の卑弥呼が田舎の九州を支配した証拠として曲解するんだろうなあ
「九州」なんて名前は紀元前から存在していた中国の名称をパクっただけだしなw
改めて勉強してるけど(YouTubeの動画をぼーっと見ているだけ)世界史と日本史ぜんぜん頭に入っていかない
>>16 さてはお前、北陸や新潟の出身じゃないな? はい、邪馬台国ですね。決定です。当時の近畿は田舎でした。
>>120 いい加減佐賀大国にちゃんと改名するべきだ >>104 クラウザーさんもとい景清さんって藤原氏なんだよね 別に「今日から江戸時代でーす」って始まるわけちゃうからな 「今日から古墳時代でーす」って始まったわけでもないし
ウンコ学者によれば、時代が変わると人種も変わってしまうらしい
>>124 ところが近畿、奈良、京都、近江は当時先進地域だったんですよ。 実は群馬、埼玉も先進地域。 >>100 モンゴルと朝鮮人 大昔に定住してた場所は不明 現在 おそらく移住した先 弥生時代の九州北部はすごいよ 弥生中期に九州北部の各地にいた王が 西に移動して技術を伝えたけど この遺跡の王は2世紀までいたんだろう 2世紀にこの佐賀の遺跡の王がどこかに移転したことで 伊都国が熊本の狗奴国との緩衝国がなくなって危険度が増して 伊都国の女王卑弥呼の 東征になったんじゃないかと考えてしまう
トライ人系が必死の書き込みしているな(笑) 徐福? そうですか、結局トライ人頼みの島国なんだなw
そもそも邪馬臺国がなぜ邪馬台国と書くようになったんだろう?
やっぱ大陸から九州か発展してJOJOに西に移動した感じなんかね
さすが金印を捏造だ! と、ほざいていた捏造民族だなw
>>1 古代大韓帝国から下賜された証拠キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! このレベルがゴロゴロ出るって やはり邪馬台国は九州北部連合だったのだろう
>>140 どうなんだろう? かつては統一された政権があったのかも知れないが、記録上は混乱状態だから書かれてるから分からないな ギリシャのように統一政権が生まれず、神話の共有で文化圏として成立してた可能性もある 特に鏡は後漢や魏の時代の墓からよく出土する 初期道教は剣、鏡、玉璽を重視するし大陸の祭祀を取り入れたのだろう
王家を気取った厨二病患者の墓だろ 当時のオタグッズだな
>>140 たぶん稲作伝来とともに日本各地に先進地域が点在した。北九州、備前、近畿、奈良、近江、出雲、 尾張、埼玉、群馬、諏訪、越後といった具合に。 近畿、奈良がやがて勢力を伸ばして日本支配を固めたんじゃないかな。 >>1 あーあーこれダメなやつだ 古事記と日本書紀には記されてないから 黙殺される歴史 アナザー日本史扱い 大刀の大きさからかなりの数の民衆を従えた 権力と武力を持った男の王を連想してしまう 首長墓の骨調べて
>>2 実は出てるんだけどその後行方不明w 発見当時あそこまで巨大な遺跡だと認識されてなかったからなぁ... つうか、イラン人漢字読めたのか? 漢があげたって事?
小中学生の頃の夏休みは川上と呼ばれるこの辺りに 毎日泳ぎに行ったが、川底の砂を巻き上げると 穴の空いた変な形のキレイな石がよくあった それが勾玉だと知ったのは高校の教科書だった
>>7 なに言ってるんだ…? 昔は各王族なり豪族の長が有してたんだぞ? それが大和に統合される過程で消えていき、唯一現代まで引き継がれてるのが天皇の有する三種の神器なんだぞ? いまだに武士の魂を捨てきれない人 真実が明らかになるのが怖い人 印鑑に拘る人 変わらないねぇ(笑)
なんで卑弥呼ってヒミコやひみこじゃなくて卑弥呼なの?
>>5 確か山内丸山遺跡の頃から交流があったと思う 縄文稲作前、栗の木を植林はしてたが まだまだ狩猟採取が主な時代 ツベにこういう鏡をヤスリで研磨した人の動画があったけど 本当に鏡になるんだな しかしあれはどこから手に入れたもんなんだろうか (´・ω・`)
>>149 畿内は邪馬台国の時代にはほとんど鉄器を持っていない田舎だよ 古代だと三種の神器って各地の豪族が持っていたもの 天皇が九州に行幸したとき地元の豪族が三種の神器を掲げて歓迎した記録もあるし、倭国連合の象徴みたいなもんだな
>>163 魏志倭人伝に漢字でそう書かれているから 逆に当時の正確な発音は分からず推測だけ 普通に大陸が近い九州の方がモノ多いし争いも多そう そんな修羅ってる中現れた卑弥呼ってことでやっぱり九州だろ
>>2 当時、吉野ヶ里付近でいろんなもんが 掘り起こして出てきたらしい。 調査はそのずっと後にされた。 邪馬台国は沢山あって、天皇は至るところに乱立していた説
吉野ヶ里遺跡がまだ発掘調査も行われていなかった頃から 近隣の田畑からはたくさんの鏡のかけらや矢じりなどがでてきていたが、 農協じゃ価値がわからなくて何の調査もされなかったね 今でもあの辺の農家で、爺ちゃんの形見として残されていると思うよ
>>171 魏志倭人伝に書いてるのは知ってるけど、なんかおかしな漢字じゃない? >>163 そのころにはひらがなもカタカナもないからだよ 帝の証とされるあの三種の神器が佐賀でか 邪馬台国九州説がまた説得力を増したな
よく読んだら銅って書いてあった >>94 なるほど どうやって割るのかと思ったらけっこう手間かけてたんだね 我田引水も甚だしいですな(笑) 真水と塩分を取っていれば生きていけるよ
>>178 魏の人たちはわざとひどい字を当てたからだよ >>178 その頃日本にはまだ文字が無かった 中国人が現地人の発音を勝手に漢字にしてみました的なもの 魏の人たちはわざとひどい字を当てたニダ ↑ これも毎度おなじみ そんな意味ないです
>>11 勾玉は日本オリジナルだ 縄文時代には翡翠製の原型ができているがこの時期に翡翠は日本でしか産出しない そもそも中国では硬玉の翡翠は出ない 翡翠は固いので技術的にまだ整った形にはなっていないがくの字に加工されたものがいくつも出土している 古墳時代には材質もメノウ・滑石・水晶他の石や金属、輸入したガラスも使われるようになる 朝鮮半島で翡翠の勾玉のついた王冠が出土しているが日本から輸出したもの 大陸の連中が起源を主張しても無駄無駄無駄 >>184 なんで今現在の日本人がそんな酷いあて字をなんの疑いもなく使ってるのか不思議 >>187 いやそんなわけないか 後世に書かれたものだからな それにしても、ひらがなもカタカナもなかったのは事実だ >>190 変えられないからな そう書かれているのは事実なので 魏は統一王朝ですらないのにね 漢王朝を簒奪しているし(笑)
もーさ、 プライド持てよ。どの国も改竄ばかりしやがって
三国志よりも前、漢代の頃のものか 歴史がまた変わるかもな
組み合わせからいって九州がヤマト王権原形の出現地点だとはっきりしたな つまり九州から近畿への東遷もしくは東征があった 3世紀前半までの近畿からこの組み合わせが発見されていない以上邪馬台国も九州でほぼ決定だな
この三種の神器が邪馬台国の物だったとして何故女王国の文化を男王である天皇が引き継いだのか
>>193 簒奪ではなく禅譲だな 一応形式は整えてる 玉名市指定史跡 伝左山古墳から出土した副葬品(朝鮮半島から だって) 同じ形状の剣 www
>>189 勾玉はともかく翡翠は現代でも中国人が珍重するな 爆買いのころ日本でも翡翠のリングがやたら売ってるから誰が買うのかと思ったら中国人だったという すでに大和の支配が九州にまで及んでいた証拠が出たか。
>>200 玉名や山鹿とかの熊本北部は女王国、つまり邪馬台国の中心だった可能性があるんよね もし三種の神器が邪馬台国の文化であったとしてそれがどういう経緯で天皇の権威の象徴となったかは興味があるところ >>203 佐賀市大和町は地名からして怪しかった。 >>205 天皇家も同じものを持ってきたんだろう 大陸系だからな 佐賀で初ってだけで九州からはゴロゴロ見つかってるからな 三種の神器は日本支配の3要素(武力、政治、伝統)で、その風習が九州で生まれたということは 王権の始まりが九州だったということ
>>205 福岡城周辺以外 人が定住しておらんでw 熊本城は外来種 朝鮮人を駆除する目的で作られた 熊本城以外 人は住んでおらず 1603年に放火され焼損した やはり筑紫平野キター 魏志倭人伝 対馬国は千余戸 壱岐国は三千許家 末廬国は四千余戸 伊都国は千余戸 奴国は二万余戸 不弥国は千余家 投馬国は五万余戸 邪馬台国は七万余戸 近畿説の人が九州は大量の人を養える場所がないから近畿と唱えてる根拠になり筑紫平野は目の敵なんよ
>>212 ×1603年に放火され焼損した 〇1605年に放火され焼損した 藩主 加藤忠正が28歳(1600年)に着任し 5年後殺害された NGID:JP0mUdWO0 低学歴 だから、勾玉って中国じゃねーじゃん
>>122 え?日本に北陸出身者以外いるのか?いないだろ NGID:USAFw2sQ0 韓国で発掘される勾玉って、日本産なんだよ
>>182 ありゃ店で出せる。 完成したどんぶり入りのラーメンとして出せるな。 決してインスタントラーメンの範疇に留まるものじゃないな。 最後の望みの西日本縄文人もたった9.7%しか入ってないのか これにて日本人≒朝鮮人確定だな さよなら縄文人 >これまでの核ゲノムデータは縄文時代中期末以降の標本に限定されていました。縄文人を解明するには、広範な地域と年代を網羅したデータが必要です。東名遺跡は1990年に発見され、放射性炭素年代は、7980〜7460年前頃で、縄文時代早期に相当します。 Figure 1. Location of the Higashimyo site. >本論文は、縄文時代早期のゲノムに関する初めての報告です。標本012のmtDNAハプログループはM7a1aでした。縄文時代の九州ではM7a1aが優勢だった、と示されます。N9bが優勢だった東日本とは対照的です。Y染色体ハプログループはD1bに分類されましたが、データ不足のためさらなる細分化はできませんでした。主成分分析では、他の縄文人とクラスタ化し(図4)、縄文人が同じ遺伝的集団に属する、と示唆されます。 Figure 4. Principal-component analysis. >f4比検定では日本人のゲノムにおける縄文人由来領域の割合は9.7%で、朝鮮人とウリチ人でそれぞれ5%と6〜8%でした。縄文人の代表的なmtHgであるM7aとN9bの割合に基づくと、現代日本人におもに遺伝的に寄与したのは、西部縄文人だった可能性があります。しかし、核ゲノム分析は、東名遺跡の西部縄文人が他の縄文人よりも現代日本人と密接に関連している、という証拠を提供しません。 Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago doi: doi.org/10.1537/ase.2012132 Released: 2021/03/31 論文の「弥生人の起源(Origin of Yayoi people)」の項を要約すると Exploring models of human migration to the Japanese archipelago using genome-wide genetic data doi: https://doi.org/10.1537/ase.201215 - 日本人に遺伝的に最も近いのは韓国人 - 日本人と韓国人の分岐はおよそ3000年前に発生したとする説が有力 - 無文土器時代の朝鮮南部と、弥生時代の九州北部に共通した文化があり、考古学的にも裏付けられる - 稲作は長江から伝播したが、長江付近の古代集団(XitoucunとTanshishan)は日韓の遺伝的基盤に実質的に寄与していない - 現代日本人は、2方向モデル(縄文人と韓国人)よりも、3方向(縄文人と韓国人とホジェン族)でより精確にモデル化できる - 3方向モデルの系統比は、それぞれ0.096, 0.832, 0.072と推定される - 弥生人は現代韓国人よりも北方系統寄りであったかもしれない - いずれにせよ、現代日本人の縄文要素は10%程度である 3千年前に渡来した弥生人はどのような遺伝的特徴をもっていたのでしょうか。中国での古代ゲノム解析で多くのことが明らかになっていますので、簡単にまとめてみます。紀元前8000年-6000年ごろの前期新石器時代人のゲノムを調べたところ、黄河流域を中心とする北部、華南地方を中心とする南部の遺伝的特徴に現在よりも大きな違いがみられました。北部はツングース系に遺伝的に近く、南部は台湾島や東南アジアのひとびとに遺伝的に近くなっています。オーストロネシア語族がこの南方の古代人と遺伝的に近くなっています。南北の遺伝的な違いは、新石器時代の進行とともに徐々に小さくなっていく傾向が明らかにされています。 図3の主成分分析の結果では、北京集団が北から南にかけて広い分布をとるのに対して、福建省集団は南方的特徴を残していることが分かるかと思います。新石器時代の始まりには、黄河流域、長江流域を中心として、アワ・キビ栽培、イネ栽培が始まっています。長江流域の古代人ゲノムは解析されていませんが、これらふたつの異なった遺伝的なグループがそれぞれ農耕を開始し、次第に融合していった過程が読み取れます。 現代韓国人と船泊縄文人との混合で現代日本人を説明すると、およそ10%が縄文由来という結果が得られました。さらに、北東アジア人(ホジェン、オロチョンなど)を祖先集団として加えると、データの当てはまりが有意によくなることを見つけました。半島経由で渡来した弥生人のゲノムが、現代韓国人よりもやや北方東アジア人の要素を強く持っていたと解釈することができます。現代韓国人が弥生人よりも南方東アジア人の遺伝的特徴をもっているのは、3000年前の時点ですでに遺伝的な特徴が異なっていたのか、その後の大陸からの影響によるものなのかについては現時点では判別がつきません。朝鮮半島における今後の古代人ゲノム解析に期待しましょう。 さらに、古代東アジア人と、現代日本人との関係を探りました。遼河文明に属する紅山文化および夏家店下層文化、黄河下流域(山東半島)の前期および後期新石器時代人(後李文化、河南龍山文化)、福建地方の前期旧石器時代人(曇石山文化)に注目して解析を行いました。図3にはこれらの古代人がプロットされています。日本人にもっとも近縁な集団は韓国人、最も近縁な古代人集団は黄河下流域の前期新石器時代人ということが示されました。稲作文化とのつながりを考えて、渡来人が長江流域からやってきたという説は根強い人気がありますが、ゲノムに関しては、南方東アジア人の影響は大きくないことが分かります。 Figure 3. Principal-component analysis of present-day and ancient East and Northeast Asians. 長江サンプル - 曇石山文化 (Xitoucun and Tanshishan sites, ~2500-2000 BCE) ※福建省のサンプルで代用 西遼河サンプル - 紅山文化 (Hongshan culture ~3300-3100 BCE) 夏家店下層文化 (Lower Xiajiadian culture ~2000-1600 BCE) 黄河サンプル - 龍山文化 (Longshan culture ~2100-2000 BCE) 後李文化 (Bianbian ~7600-7500 BCE) (Boshan ~6400-6100 BCE) 倭国と邪馬台国は別の国、他にも小国が乱立していた 卑弥呼がいたのは倭国 大乱の末に統一したのは邪馬台国
>>219 400年前 人が不在で平地だったよ 1600年のとき 暇だったので小田原城へ行ったら 加藤忠正が家老として着任 父親が高齢で藩主を引退するから 実子(長男)へ代替わりを要請した 戸籍上の長男は養子 >>201 いまはミャンマーが翡翠の大産地だけど中国人が牛耳ってるらしいね やつら派手好きなので地味で渋い糸魚川翡翠には興味なくて助かるけど 派手好きだから染めたのや処理しまくって透明感出したのが横行してるから日本に買いにくるのかも SAGAさが HAGEはげ ぐらいの認識しか佐賀にはない
アイヌと縄文人のADMIXTUREパターンはほぼ同じ 分子人類学では「アイヌは縄文人の直系の子孫である」という見方がすでに定説になっている Figure 7. (a) Admixture result. (b) Cross-validation error of admixture from k = 2 to k = 7. 図7aは、ADMIXTURE分析の結果である。 k = 2 の場合、2つの祖先成分が青とオレンジで色分けされる。 Ainu個体群のいくつかは、F23 Jomon個体群と同様、100%青色成分であった。最も低くても青色成分が50%以上あった。 Okinawa個体群は、青色成分が約30%ほどであるのに対し、Yamato個体群は平均で約15%ほどである。 Koreanは5%ほどあり、CHBとCHSはあったとしても青色成分の割合は非常に少ない。 この結果は、従来の「二重構造モデル」とよく一致し、青色は土着 (Jomon) 成分、オレンジ色は渡来弥生人の成分である。 k = 3 の場合、緑とオレンジ色の成分に分離し、青色成分の割合も僅かに変化した。 斎藤成也が新たに提案した「3ウェーブ移動モデル」に当てはめると 青・緑・オレンジ色は、それぞれ第一波(縄文人)・第二波(sea people)・第三波(稲作弥生人)に対応すると見られる。 k = 4 の場合、赤色成分は、大陸集団にのみ現れ、CHS個体群でとくに優勢である (70-100%)。 CHBでも優勢で、個体によっては赤色成分が50-100%となっている。 k値を変えてCVエラーを比較すると (図7b) k = 4-7 は適合度が悪く、k = 2 か k = 3 がより現実的であると思われる。 Modern human DNA analyses with special reference to the inner dual-structure model of Yaponesian doi: https://doi.org/10.1537/ase.201217 Timothy A. Jinam, Yosuke Kawai, Naruya Saitou 完全に大韓のお宝だな 騒ぎにならないうちに返却しようよ
そもそも剣とか鏡とか中国からきた渡来人に教えてもらったものだろ 中国からもらった宝物が神器になってるってことは日本の神のルーツは中国ってことか?
>>230 妙に説得力がある説だな 本当のところはこの辺かもな 沖縄人は、西北・南九州弥生人(隼人・肥前国土蜘蛛)の末裔で、学術的に決着しつつある >琉球人の持っている全ゲノムのうち、縄文人由来の割合が25〜30%程度であるという。 >全ゲノム研究によると、本土日本人の影響を強く受けており、華南や台湾先住民とはかなり遠いと判明した。 >華北の影響を受けているが、これは本土から南下した弥生人がもたらしたものである。 >沖縄には旧石器時代の遺構は多数あるものの、縄文時代の遺跡が殆どなく、空白の時代であるため、 >比較的新しい時代に西北・南九州弥生人が南下してきて、現在の琉球民族を形成したと考えられる。 >喜界島城久遺跡などの考古学的知見や、琉球祖語の拡散年代を鑑みるに、 >琉球民族は九州から南下してきた縄文遺伝子の強い人々(琉球弥生人)でほぼ間違い無いです。 >西北九州弥生人は水稲を行わず、海上交易と沿岸漁労のみの生活を行なっていたので、 >結果として南西諸島への水稲到達は本土のおよそ10世紀以上も後になります。 >日本本土では古墳時代半ばごろに突如として南海産貝輪の流通がストップするので、 >この時期に西北九州弥生人が南西諸島に定住し始めたのだと思われます。 >琉球祖語は、日琉祖語から奈良時代以前に分岐したとの説が有力である。 >トマ・ペラールは、琉球祖語の保存された音素から弥生時代末期から古墳時代に分岐したのではないかとしている。 >九州に在地しながら日本語と接触し強い影響を受けた後、グスク文化の一要素として琉球へ伝播した、としている。 ■ 弥生時代の地域差 南九州/西北九州/北部九州・土井ヶ浜 ■ PCA 西北九州弥生人の位置が、現代沖縄クラスターと大体同じ 台湾→沖縄のフローが学術的に否定されたので、これで弥生人の南方渡来説は完全に無きものとなった。 琉球大「台湾原住民と琉球民族の遺伝的関係はほとんどない」 >there is little genetic affinity between aboriginal Taiwanese and any of the Ryukyu peoples. Fine-Scale Genetic Structure and Demographic History in the Miyako Islands of the Ryukyu Archipelago doi: https://doi.org/10.1093/molbev/msab005 >>239 高天原とはタクラマカン砂漠のことって 家畜人ヤプーに書いてあった >>238 朝鮮半島にある前方後円墳の墓を早く調査しないといけないね 古代中国の記録によると、倭人は中国の呉・越の末裔とのこと 弥生時代の日本は大きく2つの文化圏が存在した @呉・越から直接日本に渡ってきた倭人は北部九州に上陸し、邪馬台国をつくった(銅矛文化) A同じく一旦半島で混血し、遅れてやって来た弥生人は近畿へと入植した(銅鐸文化) 参考:ハプログループ 大友遺跡人骨の核DNA分析でわかったこと https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html ・大友8号(佐賀県・弥生早期) ふつうに縄文人 弥生人の影響はゼロ ・下本山3号(長崎県・弥生後期) 縄文人と弥生人の中間 ・弥生早期まで西北九州(長崎・佐賀県)は続・縄文時代がつづいていた ・弥生人との混血がはじまると、漁労依存から穀物依存の度合いが高まっていった ・北九州・土井ヶ浜の集団と比べると、弥生後期になっても縄文人の影響がかなり残っていた ・おそらく古墳時代になりヤマト(北九州・土井ヶ浜型)に民族浄化され、西北九州の残党は沖縄に南下したとおもわれる ■ 頭骨比較 弥生時代の地域差 南九州/西北九州/北部九州・土井ヶ浜 参考資料 ・佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析 ・西北九州弥生人の遺伝的な特徴 ―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析― >>5 三重県の友達に勾玉をお土産にもらったが3センチくらいのプラスチックだった 何も出てこない畿内と違って 九州はちょっと掘ればいくらでも お宝が発掘されるね
中国の五胡十六国の国々には三種の神器ってあるの? 無いなら日本の地方豪族もやってるローカル風習って事になりそうだが
>>247 逆だね 倭国が北方民族南下以前の 半島をコントロールしていた まあ大清国族高麗国旗の国は戦後6*年だけど 大昔まで遡っても朝鮮半島の人が日本列島を支配しいた 事は無い。あったのは元の手下奴隷で元寇で攻めて来たり 何度かあった朝鮮の小規模入寇くらい。全部撃退された。 三種の神器って日本各地にあったであろう国ごとにあるものなんだな 統一後に設定されたモノだと思ったわ
>>246 半島の南部が倭人の領土だったということを現代の韓国人が阻止しようと必死なんだよ 古代半島人≒現代日本人 現代半島人がいつどこからやって来たのかは分かっていない 遊牧民なので遺跡が残ってないそうだ >>254 鏡は大陸にある、made in Japanの鏡もあるみたいだけどな 玉は日本製 剣は? >>1 元記事本文では「(佐賀市)大和町川上」、写真説明では「佐賀市大財3丁目」となってて全然場所が違うけど 後者(=佐賀駅近くの街中)は出土物の保管場所だろうな ただ大和町川上って平野というより山間部に近いけど >>258 弥生時代には定番のアイテムとしてそこらの人が持ってる物だった 三種の神器として継承の必須アイテム扱いになるのは後世になってからだな ジャポニックを系統別に分けると、おおまか4つに大別される ・東国弁 ・畿内・関西弁 ←百済人・支配階級の方言 ・出雲・東北弁 ←新羅人(プレ韓国人)の方言 ・西北九州・南九州・琉球祖語 ←隼人・肥前国土蜘蛛(プレ琉球人)の方言 オックスフォード大学のジャポニック言語系統樹がかなりわかりやすい The classification of the Japonic languages (Elisabeth M. de Boer) [2020, The Oxford Guide to the Transeurasian Languages] Figure 4. Japonic language family tree, with marking of tonal type >>254 剣や装飾具はまぁどこでもあるけど鏡の扱いについては日本はかなり独特 こんなに鏡を過剰なくらい重視してる国はない 他の地域で出る鏡はあくまでも「生活に使うただの姿見」でしかない 鏡に神聖さや威信材としての意味を持たせてるのは日本の特徴 本州アイヌ語 VS 半島日本語 幻の「本州アイヌ語」を復元する [Honshu Ainu Language] VIDEO A Brief Introduction to Hypothetical Peninsular (Para-)Japonic Languages VIDEO 失われたエミシの言語の世界をのぞいてみましょう >>266 じゃあ、統一したであろう邪馬台国とやらの三種の神器が、今の正当継承されている神器って事か Japonic: 倭、濊、扶余、高句麗(貊)、沃沮、百済(扶余)、伽倻(扶余) Koreanic: 新羅、百済(韓)、伽倻(韓)、古代出雲 Tungusic: 粛慎、挹婁、靺鞨、女真 Mongolic: 東胡、鮮卑 Ainuic: 毛人、蝦夷、骨嵬 Amuric: 吉里迷 中国の歴史書に記されている集団で、トランス・ユーラシア要素を含んだ言語を持つと考えられているのは、 ジャポニック系と推定されるスンガリ川(松花江)流域の扶余族 ツングース系と推定される東満州の粛慎 (ca. 300 BC)、後に"挹婁"と命名される モンゴル系と推定される西満州の東胡 (ca. 300-150 BC) と鮮卑 (130-180 AD) The distribution and classification of the Transeurasian languages. The linguistic landscape of the Korean peninsula in time and space. Classification of Japano-Koreanic based on classical comparative historical linguistic inferences (adapted from Robbeets, 2015). static.cambridge.org/binary/version/id/urn:cambridge.org:id:binary:20201112154947009-0781:S2513843X20000493:S2513843X20000493_fig2.png Bioarchaeological perspective on the expansion of Transeurasian languages in Neolithic Amur River basin doi: doi.org/10.1017/ehs.2020.16 文字を持たなかった倭人を教化したのが、百済のワニ博士だ 「隋書」 列伝第四十六 倭国 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 (訳)倭国は文字を知らず、だた木に刻みを入れたり縄を結んで記録する程度であったが、 仏法を敬い百済から経典を求めて得たことによってはじめて文字を読めるようになった。
>>268 紀元前2世紀頃に銅鏡を生産してた痕跡が福岡で発見されてる 外国人に国史を書かせる国などない。百済人が「日本書紀」を編纂した以上、日本という国は百済人の国 百済人の都合で勝手に日本人にされたのが倭人 「百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が学頭職(文部科学大臣)になったということは、言葉の問題がなかったことを意味している。(佐々克明)」 「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であった。宮中では百済語が使われていた。」 「『古事記』『日本書紀』は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。(金容雲日韓文化交流会議の韓国側代表・画家の平山郁夫は日本側代表)」 「『日本書紀』は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。(出雲歴史博物館名誉館長上田正昭らの対談集)」 「飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)」 「日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)」 「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」
>>271 そりゃ何とも言えないだろ。 そういうのを定義したがるのは 政治権力への指向と同義かもしれんよ。 今の時点で(将来でも)定義するのは無理だし。 >>276 百済は日本に引っ越してきて半島には百済を滅ぼした野蛮人とその子孫だけが残ったのである 日琉語族の話者が紀元前700年〜300年頃に朝鮮半島から日本列島に移住し、最終的に列島先住言語に取って代わったことは、広く受け入れられている[59]。 (Wikipedia 日琉祖語より) 朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[4][5][6][7][8]。 (Wikipedia 無文土器時代より) 百済の王族は高句麗から出ているため、彼らは扶余系高句麗語を話していたと考えられる。なお新羅の言語は音節が通常子音で終わる閉音節なのに対して、高句麗と百済そして倭では母音で終わる開音節だったと考えられている[3]。 (Wikipedia 百済語より) 高句麗語の復元については『三国史記』にある高句麗の地名の表記が手がかりとされているが、それによれば、例えば「三」をミツ、「七」をナノン、「五」をウィツ、「兎」をウサグム、「鉛」をナマリ、「谷」をタンと発音していた。 (Wikipedia 高句麗語より) クリストファー・I・ベックウィズは、日本=高句麗語族(英語: Japanese-Koguryeoic)が紀元前4世紀に遼寧省西部に存在し、一つのグループ(弥生文化と同定される)が海から朝鮮半島南部と九州に、他のグループが満州東部と朝鮮半島北部に、他のグループが海路で琉球諸島へ移動したとしている[3]。 (Wikipedia 半島日本語 [Peninsular-Japonic] より)
>>277 こういう考えでいいんじゃない? 中華の思想等の影響を確実に受けているのだから、統一したモノ全てが正当化される、で 『高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる』 板橋義三 doi: http://doi.org/10.15055/00005276 板橋論文を大幅にかいつまむと次のようになろう。 総計111の高句麗語が収集され、そのうち47語は日本語に同源語が見られる。 周辺言語との比較では、日本語との同源性が一番高い。 僅か111語で何が言えるか?とも思ったり、 その僅かな中でも47語と濃厚に日本語との同源が推定出来るのは大変なことだ、とも思ったりする。 Beckwithは、高句麗祖語が中国の呉、越のあった地域から北上し、中国東北部に至ったとし、 中期朝鮮語やツングース諸言語とは全く異なる言語であり、高句麗語は古代日本語と同系の言語であるとしている。 山 高句麗 γapma 日本 yama 口 高句麗 kuci 日本 kuchi 熊 高句麗 kun[m] 日本 kuma 木 高句麗 kil 日本 ki 心 高句麗 kor 日本 ko2ko2ro2 馬 高句麗 ma 日本 ma 鉛 高句麗 namur 日本 namari 白 高句麗 sirap 日本 siro:sira- 兎 高句麗 usiγam 日本 usagi 谷 高句麗 tan 日本 tani 野 高句麗 no 日本 no 入 高句麗 ιi/*i 日本 ir- 取 高句麗 to? 日本 tor- 三 高句麗 mir 日本 mi 五 高句麗 uc 日本 itu 七 高句麗 nanin 日本 nana 十 高句麗 tok 日本 to2wo >>259 高霊郡に卑弥呼の墓があることは日本人が阻止しようと必死だよな なお、濊族は、韓系諸語ではなく、ジャポニックと同系の扶余語を話していた模様 >「濊王之印」を所持した濊人の政権は北へ逃亡し「鹿山」の地に依って「扶余国」を建てた。 >扶余(ふよ)とは濊人の言葉で「鹿」の意味という。 >奈良の春日大社、茨城の鹿島神宮等、日本には鹿を聖獣と位置付けているところは多い。 >この鹿を神聖視して崇めていたのが扶余族で、百済の支配層のルーツである。 >濊族は、濊(韓国江原道)・沃沮(北朝鮮咸鏡道)・高句麗(吉林省東部+慈江道)・夫餘(吉林省北部)の四つに分かれた。 >朝鮮の東は濊の地であり、高句麗と同種で、言語や風俗も似ているが、服装は異なる。 >高句麗語の研究から、濊族の言語は倭人の言語に近かったとされる。 >河野 (1993) は、朝鮮に残るジャポニック関連の地名は、濊(Ye)が残したものだとしている。 >彼の主張は、日本人が中世朝鮮で「Ye」と呼ばれていたという事実に基づいている。 濊王之印 奈良公園 Geographical distribution of certain toponyms in the Samguk Sagi doi: doi.org/10.1537/ase.201229 Released: 2021/03/31 >>288 確実では無いのだから、別に困らないからな >>84 とんこつラーメンの起源は 佐賀に隣接する久留米だからね 後に博多に進出した、ロマンだねー ジャレド・ダイアモンド 『銃、病原菌、鉄』 https://cruel.org/diamond/whoarethejapanese.html あらゆる点で、縄文人の骨は現代日本人とちがっていて、現代アイヌと似ているし、弥生人の骨は現代日本人と似ている。現代日本人は、朝鮮系の弥生人とアイヌ系の縄文人の混血ではないかという想定で、遺伝学者は二つの遺伝子プールの貢献を計算しようとした。結果として、朝鮮系の貢献が圧倒的だ。というわけで、朝鮮移民は確かに現代日本人に大きな貢献をしている。 この章の冒頭で、特徴的なアイヌとあまり特徴のない日本人が同居するようになったかについて、色眼鏡のない解釈を述べるところから始めた。こうした事実を見れば、アイヌは日本先住民であり、日本人はもっと最近やってきたという示唆が得られそうだ。いまや考古学、身体人類学、遺伝学もこの見方を支持している。 だが冒頭で述べた通り、ほとんどの人(特に日本人)が別の解釈を探したくなるような有力な反論についても述べた。日本人が本当に最近になって朝鮮からやってきたなら、日本語と朝鮮語は似通っているはずだ。アイヌ的な先住民と朝鮮からの侵略者との混合で生じたのであれば、日本語は朝鮮語とアイヌ語の双方に似ているはずだ。ところが日本語とアイヌには類縁性がなく、日本語と朝鮮語の類縁性もかなり遠いものだ。混血がたった2400年前に起きたなら、なぜそんなことになるのだろう?このパラドックスの解消として、以下の説を提案したい。縄文時代の九州と弥生時代の侵略者の言語は、実は現代アイヌ語や現代朝鮮語と似ていたとは考えにくいのだ。 北海道のアイヌ語は、九州の縄文言語のモデルにはならない。同様に、現代朝鮮語は400BCにおける弥生言語のモデルとしては不適切かもしれない。現代朝鮮語は、新羅の言語から派生したものだ。統一朝鮮を作った王国だが、日本と密接な関係を持っていたのは、新羅ではなかった。朝鮮年代記を見ると、各種王国はそれぞれ別の言語を使っていた。新羅に滅ぼされた王国の言語についてはあまりわかっていないが、王国の一つ(高句麗)から残された数語は、現代朝鮮語よりは、現代日本語の単語にずっと近い。現代日本語へと進化した朝鮮言語は、新羅語とはかなりちがっていたのではないか。したがって、現代日本人と現代朝鮮人が、言語面ではあまり似ていないのに外見と遺伝子はずっと似ているのも無理はないだろう。 >>54 利根川と荒川を付け替える壮大な治水事業を思いついた徳川の勝ちだったな >>291 日本のトンコツスープは長崎チャンポンがルーツだよ 弥生時代なんて、民族意識なんてあるわけも無くバラバラ状態じゃないの? ただ各地に混合して集団化していただけで
本当に邪馬台国は凄いわw どれだけ現代人に飯を食わせているんだよw
神武もヤマトタケルも佐賀には立ち寄ってないはずなのになんで神器があるんや・・・
DNA解析で伊都国平原遺跡の被葬者と親族だったってことになると おもしろいことになるな 七ケ瀬遺跡の被葬者は崇神天皇の先祖で 子孫は卑弥呼とともに東征したかもしれないな そして纏向で卑弥呼を支えつつ 卑弥呼の死後権力を簒奪する 神武のモデルにもなりそう
>>262 てか、ニニギが持って天孫降臨したのが三種の神器 ニギハヤヒが持って天孫降臨したのが十種の神宝 >>278 あんた詳しいね 弥生時代や邪馬台国論争の本とかでお勧めなやつ知らない? 勾玉の起源は日本 勾玉の発生は日本の方が古い。日本では縄文時代から翡翠の勾玉が出土するが、 韓国では5〜6世紀ごろの翡翠の勾玉が最初である。 韓国と日本でユニークな丁子頭勾玉が出土するが、これも日本の方が古い。 韓国では、5世紀ごろの遺跡から出土するのに対して、日本では3世紀前半ごろの 平原遺跡から発見されている。日本ではさらに古く縄文遺跡からも出土している。 丁子頭勾玉は、勾玉の穴の周囲に丁子の花に似た溝が掘られてていることを特徴とする。 勾玉そのものも特徴的な造形であるが、さらにユニークな丁子模様が日韓で共通していることは、 偶然の一致ではなく、日本から朝鮮半島に運ばれたものといえる。
Y-DNAはオワコン。Y-DNAで人種の比定はできない。専門家に笑われてしまう 大まかな人類の移動の流れが追えると謳い文句にしていたが、大まかな流れも追えていない Y-DNAによるクラスタリングでは、「D系!O系!」みたいな幼稚な議論にしかならない そのせいで「日本人とチベット人は同じDだから近縁!」と勘違いする者が後をたたない 西洋の分子人類学はすでに核ゲノムによるクラスタリング、ADMIXTURE分析、PCAプロットに移行 ■ ADMIXTURE分析 ■ 最新のPCA 日本と韓国は同じ紫色クラスター 斎藤成也(分子人類学) 「Y染色体には重要な遺伝子は少なく、Y染色体を先祖から伝え持っていても大したことではない。 家系を5世代遡ると2の5乗、32人の先祖がいて、その中の一人の遺伝子は 確かに伝わっているが、32分の1だけが伝わっているに過ぎず、他人のようなものだ。 また、ミトコンドリアも母系にしか伝わらないが、同様に大勢の祖先の中の一人のものが伝わっているに過ぎない。」 >>299 今の佐賀にあった集団組織にも後世でいう神器というモノがあったのだろう そういう風習だったのかも知れんし ■ JAS(Jomon allele score)の分布(b) PCA(c) ■ 日本の人口の形成プロセス 縄文晩期〜弥生時代〜現在 鹿児島(隼人)、青森・岩手(蝦夷)でJASが高め 近畿と四国ではJASが低めの結果となった。 縄文人ADMIXTUREの比率によって、日本人の遺伝的な地域差が説明できる。 東大論文: 奈良県が最もCHB(渡来人)に遺伝的に近い >Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB. doi: doi.org/10.1101/2020.12.07.414037 >>296 九州北部は福岡を中心とする連帯の様なものが形成されてる 関係地域に銅矛や鏡を配布するシステムが存在していたようだ 2世紀終わりからこの図式が急激に衰退している 日本人の祖先は朝鮮人という大嘘 1970年、韓国の東三洞貝塚遺跡で、私たちの常識を覆す考古学的発見がありました。 それは、私たちが教わってきた歴史の教科書に書かれているような、 「縄文時代の日本人は狩猟採取を行なっており、原始人の延長に過ぎなかった」 「一方、先進的な朝鮮人は稲作や鉄器などの進んだ技術や文化を持っていた」 「そんな朝鮮人が日本にやって来て文明を伝え、現地の住民と混血して日本人の祖先になった」 これらの渡来人説が、事実に基づかない嘘・偽りだったという内容でした。 その証拠となった考古学的発見とは、一体どのようなものなのか? それは、本来日本人がいなかったはずの朝鮮半島で、大量の縄文土器が見つかったことです。 しかも、それは日本人が現地で生産していたとしか考えられないほどの量でした。 縄文土器は古代の日本人が食料を調理するために使っていたもので、世界最古の土器と言われています。 祭祀用に作られたと思われる芸術的な土器も見つかっており、新潟県の「火焔型土器」は国宝に指定されています。 このような日本人の痕跡が朝鮮半島の南部や北朝鮮など、半島のあちこちに残っており、 縄文土器だけでなく、九州産の黒曜石や新潟産のヒスイさらには当時の日本人と思われる人骨までもが発掘されているのです。 このように、朝鮮半島から渡来人がやって来たのではなく、むしろ話は逆で、朝鮮半島に日本人が続々と移り住んでいったということが、 近年の考古学によって実証されつつあります。このことは、今まで教わってきた話とはあまりに異なるので、すぐには信じられないかもしれません。 しかし、考古学だけでなく、様々な分野の最新科学から従来の渡来人説を検証すると、 日本の歴史学者の主張や教科書で習ったこととは全く違う、不可解な事実が浮かびあがってきたのです。 そして、これらの不可解な事実は、彼らが決して知られたくないことなのです。
主成分分析で使われているデータはJPT(Japan Tokyo)という東京都民1000人分の標本 関西のデータは使われてない。奈良県民1000人をプロットしたら、さらに韓国に近づく グラフ上で「東北弥生人」とキャプションされているのは、続縄文期(Epi-Jomon)の東北アイヌ(蝦夷)のことであり 日本の学者はすべてを説明をすることはせず、このように姑息に人を騙すようなことをしている 「縄文人と弥生人は仲良く混血した」というお決まりの説を前提にすると、現代日本クラスターは、 西九州の位置にこなければならないが、それよりずっと韓国に近い位置にプロットされた 篠田謙一が説明するように、「こっち(韓国)に引っ張る何か・・・」が起きたのである。その何かとは、百済人であろう >>304 翡翠って火山大国の産物なのか日本でしか産出しないんじゃね? 朝鮮半島に近い北部九州は 57年には、後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り 107年には、生口160人を献じ、安帝に謁見し 大陸との交易を象徴する大量の鉄製武器、鉄製工具他 絹および紡績用具が出土し 警備厳重な吉野ヶ里集落や 殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳が存在する 特別、先進地域 鏡、剣、勾玉が出土してもなんの不思議も無い むしろ 238年になっても、たった10人しか生口を献じられず 港町も街道もろくに整備されていないわけがわからないところに上陸する邪馬台国とは、根本的に違うことが明確になった
>>308 2世紀の終わりっていうと、日本が大内戦していた時代だな 九州には同盟で結ばれた集団化した組織があったって事だな 初期の縄文文明人である東北と初期の弥生文明人である北部九州は後の勢力の「小中華思想蛮族」によって強制的に移動させられたからね
>>164 遺跡からは植物ばかりでてるので 野菜栽培はしてた模様 栗やドングリを林になるほど植林するほどの知識あるのだし 畑の遺構こそ見つからないが それは造成が必要な水田と違って遺跡として残りにくいからかと アワキビ小豆大豆は自然採取したら絶滅するが 栽培したらいい作物になる 金田一京助(アイヌ語研究の創始者) 「地名からみると北海道と東北は連続している。東北地方もかつてはアイヌ世界の一部であったと考えてよい」 菅江真澄(江戸時代の博物学者) 「東北地方の地名はアイヌ語に由来する。東北地方から出土する土器はアイヌの作ったものである」 ■ 東北地方の「ナイ」「ベツ」地名の分布(アイヌ語・夷語の話者) ■ 畿内型の古墳分布(日本語・百済語の話者) >「ナイ」「ベツ」で終わる地名は北海道、樺太、東北などに多く見られ、アイヌ語で「川」や「沢」を意味する。 >青森・秋田・岩手には、今日でも和井内、生保内、今別など、おびただしいアイヌ語地名がある。 >中には奥戸(オコッペ=興部)、シレトコ、シラヌカなどよく知られた北海道の地名と同じものもある。 >古墳時代には、渡来人が大挙して上陸し現代日本人のDNAが決定づけられた。 >この間は、記録が空白で暗黒時代という人もいる。 >古墳時代の人骨の一番の特徴は縄文人の骨格で見られた骨太さ・頑丈さが目立たなくなったことである。 >この傾向は、大型古墳の被葬者などで非常に顕著であり、横穴墓や円筒埴輪棺などの >常民墓の埋葬者ではさほどでもなく、縄文人、弥生人と大型古墳の被葬者との中間である。 >ヤマトタケルの東征ルート上に横穴墓が分布し、その結果、新たな階層が生み出されたと考えられる。 纏向に宮を置いた10代崇神天皇、11代垂仁天皇、 12代景行天皇の先祖で12代景行天皇は九州巡幸をしている 九州北部と畿内を支配した一族で 魏志倭人伝の一大率と関係あったんじゃないかとか考えてしまう 吉野ヶ里環濠防衛ラインの構築とか
全ゲノム解析によってアイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると確認される。 2020/08/25 縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史 https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/ >先行研究(Jinam et al. 2012)で発表された北海道アイヌの人々のデータなど >日本列島周辺の人類集団との関係を分析したところ、本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。 >この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析(Kanzawa-Kiriyama et al. 2019)と一致し、 >アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に >東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高いことを示している。 東大論文: IK002はアイヌとクラスターを形成し、アイヌが縄文人の直接的な子孫であるという先行研究を支持する >IK002 clusters with the Hokkaido Ainu, supporting previous findings that the Hokkaido Ainu are direct descendants of the Jomon people. 朝鮮半島に近い北部九州は 57年には、後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜り、対馬ー壱岐の島伝いに、渡来人がたくさん来ていた 107年には、生口160人を献じ、安帝に謁見し 大陸との交易を象徴する大量の鉄製武器、鉄製工具他、絹および紡績用具が出土し 警備厳重な吉野ヶ里集落や 殉葬と思われる多数の墓に囲まれた祇園山古墳などが存在する 弥生時代後期(1世紀〜3世紀)の特別、先進地域 鏡、剣、勾玉が出土してもなんの不思議も無い むしろ 238年になっても、たった10人しか生口を献じられず 港町も街道もろくに整備されていないわけがわからないところに上陸する邪馬台国 とは、根本的に違うことが明確になったな
>>5 縄文時代から北海道まで含めて日本全土が交易で繋がっていた。 縄文人骨の特徴は、弥生時代に入り本州で失われていった。北海道では近代まで維持された。 >日本各地でみられた縄文時代人骨のいわば「旧石器時代人」的特徴は、弥生時代に入り各地で失われてくる。 >顔面の平坦さも日本の広い範囲で見られるようになる。 >弥生時代に北部九州・山口群に頭蓋形態小変異の頻度の変化が見られたが、古墳時代には関東地域まで広がる。 >北海道ではオホーツク文化の進入にもかかわらず、縄文時代から近現代に至るまで、形態のかなりの安定さが見られる。 ■ 北海道続縄文スカル(=プレ・アイヌ)/オホーツク人スカル(=プレ・ニヴフ) ■ 頭骨比較 旧石器/縄文/弥生/古墳 山梨大学の現在の研究課題 蝦夷の真相解明まであと2年 震えて眠れ エミシとは誰だったのか:全ゲノム解析で明らかにする東北古代人の遺伝的変遷 研究期間 (年度) 2020-04-01 - 2023-03-31 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20H03332/ >宮城県の五松山洞窟(6世紀)から出土した人骨群では、その多くが西日本の弥生人に似た扁平性な顔を持つ中、 >少数だが縄文人的な顔貌の個体が混じり、成人男性2体の頭蓋に北海道アイヌとの類似が認められた。 >山口敏(国立科学博物館・人類学部長)は、大和朝廷の最前線に位置する五松山の当時の状況から、 >東北北部には、仙台平野以南とは異なった形質の人々が住んでいた可能性を指摘している。 >更に男王を立つ。 >国中服さず。 >更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。 >復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。 >国中遂に定まる。 台与が崇神天皇の娘の豊鍬入姫(とよすきりひめ)で 卑弥呼の宗女で親類関係にあったのなら 卑弥呼と崇神天皇は親戚なんだよな 日本書紀では百襲姫は崇神天皇の大叔母 つまり崇神天皇の祖父の妹
食生活の変化 肉や粟と、米や魚の違いだけでも大分変わりそう
× 「日本人もアイヌもみな縄文人の子孫!」 ○ 「日本語族は1億総在日コリアン」 東アジア言語地図 (オハイオ大学 J. Marshall UNGER が作成) >>184 聞いた発音をそのまま漢字にしただけだろ 当時の音だとピメファだと昔ドキュメンタリーでやってた 邪馬台国なのだから、琉球から台湾の文化であって中国とは違うだろう。
>>321 >全ゲノム解析によってアイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると確認される。 正確には日本人も同じもっとも古い住人の一人でアイヌは縄文時代から進化しなかった民族 文明的にも文字も持たない縄文時代から何一つ変わらなかった民族 弥生時代の日本は文字を持ち米を作り古墳を築き青銅器や鉄器を作る文明を有した 比べてアイヌは明治時代まで文字を持たずに中国おろか韓国より文明度が低い国であった そのために遺伝子も縄文人に近く今の日本人は弥生人に近かった >>333 シナ人が日本語をちゃんと発音出来るとは思えない、それに漢字にはもともと発音記号がないしわからない 勾玉はヒモ通すために穴開けようというのはわかるがなんであの形にするの
いが抜けてた 豊鍬入姫(とよすきいりひめ) 大和王権を作ったのは九州北部の人たちだったかもしれない
>>332 違うね 細かく言うと弥生人は殷の国の人間 それが朝鮮初の国家である箕子朝鮮を建国してその後に日本に流れてきた そもそも縄文時代は朝鮮半島は弥生人=日本人のものであった そこに先進的縄文人の日本人も住んでいた これがのちの任那日本府である そこら辺をちゃんと勉強しようね 仏教が伝来すると勾玉を砕いて厨子の装飾とかに使ったりした まめちしきな
>>163 狗奴国の狗古智卑狗は菊池彦の事だと思う 熊本付近だったんだろう >>1 玉、剣、鏡 なるほど、自慰でウットリしてたのか ちなみに北海道は飛鳥時代から日本の領土だった 蝦夷も日本に帰化していた
>>328 日本の記紀によると奈良で天皇となった神武は 『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に記された倭奴國 九州の筑紫城の漢委奴国王 初代・天之御中主神 高御産巣日神 神産巣日神 宇摩志阿斯訶備比古遅神 天之常立神 国之常立神 豊雲野神 宇比邇神 角杙神 意富斗能地神 淤母陀琉神 伊邪那岐神 大綿津見神(豊玉彦) 天津彦火火出見尊(山幸彦) 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲) の第4皇子 長男と次男は戦死したが、、兄の三男の三毛入野命は九州の筑紫城に戻り 父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の次の漢委奴国王となっている そして神武の死後、九州の筑紫城出身の神武の長男を殺害して、奈良で産まれた次男が次の天皇となり、奈良は九州血統と決別した 奈良と九州は、そりゃあ仲が悪いわな 日本では文字もなかった時代に 大陸では三國志とかしてたのか
NGID:dhQgWcsR0 このパターンも常連 ウンコも食べる
>>352 考古学って聞くと一番最初にそれが連想されるよね >>314 中国から鏡を貰ってそれを配布する形だったみたいだな 後漢の混乱から鏡が入手できなくなったからなのか古い鏡を破砕して配ってる様子が出てる そのあたりから北部九州の連帯が崩壊し始めてるのは鏡た手に入らなくなったからなのかも知れないな 後漢王朝の権威を背景にしてたんだろうな >>355 だいたいさあ、頭いい奴が考古学なんか専攻するわけないじゃん 今の考古学会なんて脱税やってる土建屋と同レベルだから 額(学)が小さすぎてまだ捕まってないだけで さくら さき あい じゅんこ リリィ ゆうぎり たえ と記された空の墓もあったらしい
>>350 つづき そして奈良の天皇が、 九州の筑紫城の歴代の漢委奴国王のように中国に朝貢 しようとしても、九州など使えるはずもなく 出雲を併合して、港町も街道もろくに整備されていない山陰から対馬に直接渡った >>190 ひろゆきの フランス語レベルだったらから好意的に変換してしまったんだろう >>35 関東に来て思うったのは こういう文化じゃノーベル賞とか出にくいわと 西の人達と違ってる >>365 ファンタジーの世界だからね1500年は一系かもしれないってくらい >>360 つづき で、邪馬台国には、卑弥呼の官として ・・官有 伊支馬(いきま) 垂仁天皇「伊久米入日子伊佐知命」 イクメ・イリビコイサチノミコト ・・次曰 彌馬升(みます) 皇后「氷羽州比賣命」 ヒバス・ヒメノミコト ・・次曰 彌馬獲支(みまかし) 皇太子(後の第12代景行天皇)妃「美波迦斯毘賣命」 ミカハシ・ビメノミコト ・・次曰 奴佳醍(ぬはだい) 皇妃「沼羽田入毘賣命」 ヌバタノ・イリビメノミコト の、纒向珠城宮 第11代垂仁天皇一族が 後の第12代景行天皇となる皇太子はどこにいるかというと・・ 景行天皇の名は大足彦尊 そう、伊都国(奈良が併合した出雲)に一人いた「大卒」だよ >>5 翡翠とか黒曜石とか北海道とか東北とか北の方で掘り出した石を海沿いに南下しながら交易してくのよ 満洲の方でも発掘されてるんで朝鮮半島から満洲の方まで行ってた奴が居たんだろう 石器時代にも商取引は有った >>375 反論できなくてNGですか m9(^Д^)プギャーwww 七ヶ瀬遺跡って旧大和町か ご当地キャラのまほろちゃんが懐かしいな
>>365 古墳時代初期は豪族が持ち回りで大王やってたという説が最近は有力だしさほど問題はない >>375 というか おまえ俺の書き込みをちゃんと読んだのね エライ 日本の記紀によると奈良で天皇となった神武は 『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に記された倭奴國の 九州の筑紫城の漢委奴国王 初代・天之御中主神 高御産巣日神 神産巣日神 宇摩志阿斯訶備比古遅神 天之常立神 国之常立神 豊雲野神 宇比邇神 角杙神 意富斗能地神 淤母陀琉神 伊邪那岐神 大綿津見神(豊玉彦) 天津彦火火出見尊(山幸彦) 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲) の第4皇子 長男と次男は戦死したが、、兄の三男の三毛入野命は九州の筑紫城に戻り 父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の次の漢委奴国王となっている そして神武の死後、九州の筑紫城出身の神武の長男を殺害して、奈良で産まれた次男が次の天皇となり、奈良は九州血統と決別した 奈良と九州は、そりゃあ仲が悪いわな
>>376 宮内庁もそれを知ってるから分析させないんだろ?w 【基礎知識】 初期の天皇は筑紫に住んでいたとのこと 新唐書「居築紫城 ?瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州」 日本は、古の倭の奴国なり。 その王の姓は阿毎(あめ)氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、 彦瀲(ひこなぎさ)に至る迄およそ32世、皆、尊(みこと)をもって号となし、筑紫城(ちくしじょう)に居す。 彦瀲の子、神武立ち、改めて天皇を以って号となし、治を大和州(やまとしゅう)に移す。
記事にもあるように破砕鏡がこの時期になると殆どになって当時の完形鏡は九州から無くなる 中国から鏡を得られなくなった様子が伺える その破砕鏡も配布の中心の様なものが無く出土地の法則性も無くなる事から、 破砕鏡は権力的な配布じゃなくて商品として流通してるのではないかと指摘されることもあるな この時期に九州をまとめるような勢力が存在しなくなったことが見て取れる
>>384 なので奈良の天皇が、九州の筑紫城の歴代の漢委奴国王に対抗して 歴代の漢委奴国王のように中国に朝貢しようとしても、九州など使えるはずもなく 出雲を併合して、港町も街道もろくに整備されていない山陰から対馬に直接渡ったから、中国の役人は未開の地の出雲に上陸させられて西も東もわからず奈良まで引きずり回された そして奈良に到着してみると邪馬台国には卑弥呼の官として ・・官有 伊支馬(いきま) 垂仁天皇「伊久米入日子伊佐知命」 イクメ・イリビコイサチノミコト ・・次曰 彌馬升(みます) 皇后「氷羽州比賣命」 ヒバス・ヒメノミコト ・・次曰 彌馬獲支(みまかし) 皇太子(後の第12代景行天皇)妃「美波迦斯毘賣命」 ミカハシ・ビメノミコト ・・次曰 奴佳醍(ぬはだい) 皇妃「沼羽田入毘賣命」 ヌバタノ・イリビメノミコト の、纒向珠城宮 第11代垂仁天皇一族がお出迎え 後の第12代景行天皇となる皇太子はどこにいるかというと・・ 景行天皇の名は大足彦尊・・そう、 伊都国(奈良が併合した出雲)に一人いた「大卒」だよ >>389 逆に 邪馬台国が九州に無いと困る人だらけ じゃねーの なんの根拠もなく「伊都国博物館」とか造っちまってるだろ 竹島占拠してる朝鮮みたいに(笑) 始皇帝や劉邦の時代には既に日本との海路が確立されて 当時の中国の地方権力者や商人が独自の海路ルートで日本と交易していたと言われているしなぁ ましてや1,2世紀ともなれば高価な装飾品の売買が頻繁に行われていても別に驚かない
鏡の尊重は九州の特色 これが畿内に取り入れられてる形になる ただもう一つの大きな特徴だった銅矛は一切無視なので鏡だけが採用された形 九州のそのままの移植なら銅矛は必須になるがそうなってない 畿内の政権が各地のレガリアの一部を取捨選択して取り入れてる様子が見えるな
>>390 文献記録がすべて九州を指してるからそれに従うだけ なんでも奈良起源説を唱えるウリナラ畿内説はチョンの巣窟 >>29 翡翠は、島根だったか大和辺りに加工集団の工房跡があって、後年になればなるほどニーズが薄くなって地方にばら撒かれたって話じゃなかったかな? >>395 ヤマト王権の豪族は大体持ってるものだから存在してもそれほど不思議なものでもない >>388 気になったんだけど ミハカシヒメノミコトだよな? 縄文時代から日本列島の交易ネットワークがほそぼそと繋がってたんだろ 翡翠なんて擬似貨幣としてもってこいだ
>>388 つづき そして 奈良の天皇が、 九州の筑紫城の歴代の漢委奴国王のように中国に朝貢し 親魏倭王となったことを聞き付けて 九州の筑紫城の漢委奴国王(狗奴国の男王、卑弥弓呼素)は 奈良に対して公然と反旗を翻し 景行天皇(大足彦尊)が征伐すべく九州巡幸 九州を平定して、その後、大和朝廷が北部九州から遣隋使、遣唐使 となるわけだ 九州のレガリアの変遷を分かりやすく示すとこうなる 鏡=中国王朝からの下賜品→畿内が九州に代わり中国王朝から貰って配布→三角縁神獣鏡を自前で作って配布 銅矛=九州が自前で作成して配付→断絶 と言う事になる つまり九州独自作成配布の銅矛は無視され、鏡だけが畿内に取り入れられてると言う事は、 レガリアの変遷は九州勢力の移動ではなく、畿内への中国との外交権の移動という図式だと理解できる事になる
銅鏡とか勾玉とかそのへんに埋まってんじゃないの? 何をもって三種の神器と言うのか
豪族が持ち回りで大王やってたニダ それこそ、証拠ねえわ
今度は中国側から見てみよう 220年 「後漢」が「魏」に皇帝の座を禅譲して 238年 「魏」は司馬懿に、 九州の筑紫城の歴代の漢委奴国王と交易を続けていた 半独立国家「帯方郡」の平定を命じ「公孫淵」が討たれたわけだ 残党は、半独立国家「帯方郡」から対馬ー壱岐を渡って 九州の筑紫城の漢委奴国王、狗奴国の男王、卑弥弓呼素ももとに逃げてきて 壱岐を最終防衛ラインとする そこに奈良が出雲から一大国ー対馬にわたり 『魏志倭人伝』 景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。 魏にしてみれば奈良を親魏倭王にしてしまえば 対馬と奈良出雲で 半独立国家「帯方郡」から対馬ー壱岐を渡って 九州の筑紫城の漢委奴国王、狗奴国の男王、卑弥弓呼素ももとに逃げてきた残党 を挟み撃ちにできるわけだ
>>406 公孫氏の末裔は常世(赤染)氏 豊前を経由して河内を本拠地とする渡来系豪族になっている そろそろ親魏倭王の金印は見つかりそうですか?w ”地域国家”にしか過ぎなかった”魏”の曹叡から賜り、その後の統一王朝である”晋”の司馬炎に返却したという代物(笑) そう、裏切りものだから司馬炎からは金印を貰えるはずも無く、倭の五王という形で四世紀近くを無かったことにしたあたりだよんw
また捏造でしょ 考古学者なんか文系で捏造だらけなんでしょ
呉を騙してトライしてきた公孫氏が俺たちは秦氏の末裔だ! とか嘘を言って”マウント”を取ったのかもな(笑)
>>395 品質さえ問わなければ剣、鏡、勾玉なんてそこらのクマソでも買えるから それらが出土したところで邪馬台国の根拠にはならない >>23 始皇帝の頃か あのころってまだ銅剣がメインで鉄剣は普及して無かったんじゃなかったっけ? やはり吉武高木遺跡だな まだまだ色んな物が出てきそうだしな
委奴国の”男王”を倒し、その妻である女性を王にすげ替えた何処かの誰かが魏から金印をもらったのは良いものの 地域国家に過ぎなかった魏が統一王朝の晋に倒されてショボーン(笑)
>>416 鉄に関しては弥生中期には半島と往来が盛んだったし恐らくそのルートでしょう 稲作の伝播ルートは学会では「長江 → 山東半島 → 遼東半島 → 朝鮮半島 → 北九州」でほぼ決着ついてる ・日本には陸稲の痕跡はあっても農具が無かった ・その為に水田が現れたときに用いた農具はすべて外来のもの ・稲作伝来時、中国の江南はすでに鉄器時代、鉄製の農具が一般化していた ・しかし、中国の農具・炊具は日本に一つも伝わっていない ・弥生人が使っていたのは木製の農具や磨製石包丁であり、これらは朝鮮半島のものと同期している ・さらに日韓とも稲・雑穀(rice and millet)の混合栽培であり、これが生まれたのは山東半島付近 プラントオパールは、粘土の粒子よりも小さくて地層を潜っていってしまうため、稲作開始の証拠に使えない。 稲作と馬は、縄文時代から持ち込まれていたと強弁する者もいるが、考古学では農具や馬具がいつごろ導入されたかが重要視される。 お決まりの「北部の気候で稲作はムリー!」だが、田植えは初夏にするものなので、冬場にどれだけ冷え込もうが関係がない。 現在でも満州最北の黒龍江省は稲作が盛んで、中国でも有数の米産地となっている。五常大米で検索すればわかる。 炭化米、土器、圧痕などで検索すれば論文が見つかる。日本の研究者も現地で調査している。そして江南説を唱える者はもういない。 このことから「朝鮮半島を通って日本に伝わった」という考えが定説になっている。 ■ 稲作の開始年代・地域と稲作の伝播ルート ■ Martine Robbeets: "Spread of agriculture (rice and millet)" >>248 こう考えると、朝鮮半島と日本に同じ言葉のルーツを持つグループが生活していることになるから、日本海で貿易などで活動していた海洋グループがいてもおかしくないね。 ハーバード大学美術館蔵の内行花文鏡には永平7年(64年)に公孫家という民間工房で製作され、金額が300銭(下級官吏の月俸より安価)と記されており、 日用品として流通していたと考えられる。
日本海の荒波と西太平洋のさざ波 古代の海人族がどこかで入れ替わったんじゃないかしら
海人の子孫である阿曇氏と常世氏みたいな渡来系氏族が平安時代でも一緒に貴族やってるからな 古代から日本はそういう国なんだろう
日田?あたりで出土した金メッキ鏡はどうなったのかな
>>7 その頃は日本で何人もの王(天皇)が存在した時代だからな。 まさか神話とか信じちゃってる?笑 せっかくワガママし放題の山幸に海の権利を譲ってやったのにねぇ。 そうそう 契約だよね。
>>420 >地域国家に過ぎなかった魏が統一王朝の晋に倒されてショボーン(笑) 仲達の孫の司馬炎が魏帝を脅して禅譲させたんだが >>5 かなり古い時代から交易してたらしいわ 満州とか あのへんの横の大陸ラインも 昔は気候がちょっと変動もしてるらしいんだよ 勉強してるんだけど なかなか… 詳しくわからんわ >>433 魏帝と曹一族があまりにも使えなかったからだよ。 そして司馬一族が有能すぎた。 曹一族の世襲で滅ぶのなら、多少強引な手段を使ってでも統一するために簒奪はやむ無しだったんだよ。 どうせ地域国家だし 大した価値も無い あと、奈良や伊勢に目を付けたのは紛れもなくトライ人だよな。 エリクサーとか薬草みたいなの欲しかったんだよねぇ(笑)
人名由来の時代名は下記の通り 弥生 飛鳥 明治 大正 昭和 平成 令和 以上である
>>243 稲は、中国から九州に直接伝播 稲作人なら南を選ぶのは当然 あと 琉球は中世頃に明から”銀印”を授かってるらしいよね。 おかしいなー
>>339 発音に関してはひらがなカタカナを先に作った日本の方が早いな >>422 西北部九州の菜畑遺跡や曲り田遺跡では水田と在地の縄文晩期土器と農具が出ているので、晩期に灌漑技術を 伴った水稲栽培が導入されていたのは紛れもない事実 縄文晩期は寒冷化で食料難だったという説があるし、当時の地球環境(気温)や海流の変化にも左右されるが、それ はともかく、米は改良され続けてきたので、現在の黒龍江省で稲作が盛んであっても、単純には比較にはならない 事実、弥生早期か前期の早い時期に青森県でも水稲栽培が行われたが、場所によって一部中期の初めまでは残る ものの、後期以降にはまったく継続しておらず、品種改良が進むまで青森県での水稲裁判はかなりの長い期間行わ れなかった(平安時代に製作された和名類聚抄にも石高調査結果として現在の岩手と秋田の記載はあるのに、米が とれる地域ではなかったためか記載がない) それゆえ、初夏に植えようが耐冷(病)品種でなければ同じだということだ 乾燥耳垢が多い地域は豊前、吉備、関西だからまぁ多分そういうルートだったんだろう 秦氏など渡来系の伝承が多い地域とも共通する
まあ 精々、バラバラにされた体を元通りにしなさいな(笑)
鏡、剣、勾玉って古代から神事に必要な物だったんだな
本当に古代史スレって意味不明なレスを続ける気味の悪いのが必ずいるよな 気持ち悪い 考古学なんて興味ない奴が妄想喚いてればいいと思いこんでるからこういうのが張り付くんだろうな
>>374 その当時交易に行ってた奴らのバイタリティというか情熱は凄いよな 車も馬車もない時代にさあ 現代の一代築き上げた有名な商人にもそういう遺伝子は流れてるんだろうね わかっていますよ 気持ちのいいものだけを見ていたいんですよね ウリナラファンタジーの隣国みたいに(笑)
>>428 日本は古来は多民族国家だったんでしょ 現代日本の支配者層もその流れからだよね うんうん 丸木舟用の”オーク”材を切り倒しすぎて自然災害に見舞われるパターンですなw 今と同じようなものだよ。
コジキ・ニホンショキは唯物論的史観では”症例集”でしかありません。 症例集を基に王権の妥当性を宣言されても失笑するのみであります
鉄器期、camiはわたしの神だけだった 今なお、camiはわたしの神だけである
三種の神器という文化はどこの集落にもあったのかねえ
自然を管理する役割を忘れては困りますね。 ”世界遺産”等という安易な金儲けに走るからこうなる。 チャイナマネーに頼っているとは情けないですな(笑)
>>5 基本的に船で行ける所ならどこでも交易先になる。 カムチャッカ半島の夜叉国から買ったと思われるセイウチの牙を使った銛があったりするし。 この鏡が卑弥呼が貰った百枚の内の一枚だぞ 千枚もある神獣鏡は後世の国内複製品で卑弥呼と無関係
>>453 海運は縄文の時代からの海人系、土木とか技術系は渡来氏族という感じだな >>1 日本最古はこっち 邪馬臺国はともかく、北九州のほうが大陸に近いから文明が高いのは当たり前 > 日本最古「三種の神器」が出土。弥生時代の早良平野に繁栄した王国があった 2021/5/4 6:00 (2021/5/12 9:29 更新) https://www.google.co.jp/amp/s/www.nishinippon.co.jp/item/n/729676.amp 【博学博多】 福岡市の西部に広がる早良平野。 中央を室見川が流れ、中流の西岸域にはここに弥生前期末に早良王国が存在していたことを語る遺跡群がある。 西区の飯盛山の麓の扇状地に広がる吉武遺跡群だ。 天皇の証しとされる「三種の神器」(鏡、剣、玉)に相当する副葬品を持つ木棺墓が発掘されて話題を呼んだ。 紀元前2世紀ごろのものとされる出土品は、日本最古の三種の神器である。 ここが「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印で知られる奴国や卑弥呼の邪馬台国よりも以前にクニであったことを示している。 弥生社会の成り立ちを考える重要な意味を持つ早良王国とは? >>459 ところが日本書紀には二種しか書いてない時代があり、 > 持統紀より前の時代で具体的に種類を記しているのは継体紀と宣化紀の2紀のみで、それは「鏡」と「剣」である。 > また、近江令までは3種であったのをなぜか飛鳥浄御原令で2種とし、その後また3種に戻されたとする説もある。 先の「持統天皇四年正月条」の書き下し文でも示したが、持統紀に見える「神璽劒鏡」は「神璽である剣と鏡」という意味で捉えるのが従来説であるが、 「神璽(= 勾玉)・剣・鏡」と解釈する研究者もいる。 ってことで文献上割れてる >>5 全国ネットの中心地、マキムク遺跡知らんのか? >>451 想像以上に治安もよく知らん人と交易する金に替わる手段が有ってのんびりしてたんだと思うね大昔も >>269 なら魏から授けたりはしなかった チャタルヒユクでも鏡は貴重品 紀元前7500年。 > 女性の場合は、化粧用の石製パレットや装飾品、ごくまれに黒曜石できた鏡がみられる。 日本の場合は中国からもらった貴重品ということもあり、 太陽の依代なんだよな うちの神棚にも飾ってある この三点セットって作り話じゃなかったんだ(´・ω・`)
>>451 残念ながら一人で長距離は行かない 発掘する、技術者が買う、加工する、 商人が行商に行く、買う売る買う売るして王のものになる、 王が家臣や嫁にやる、 子が相続してさらに移動することになる こんな感じ 沖縄の離島でローマのコインが見つかってるからな >>15 あいつのせいで新発見あるとゴットハンド疑ってしまうわ 遡るのであれば、北松浦郡の「福井洞窟」あたりは大変興味深い。
>>201 マカオで大勝したときに洒落で翡翠買おうと店行って見たけどみんな500万以上だから買えんかったw >>1 の神器が天皇家のより立派やったらどうするんやろ オリジナル? 関門海峡に沈んでるらしいし(笑) 現地の人は拾ったとかなんとか言ってたけどもw
今の時代の三種の神器って何になるんだろ スマホは入りそうだけど
1〜2世紀と言ったら、邪馬台国の全盛期〜衰退期だ。 鉄輸入の独占と漢への朝貢(配下の奴国に行かせた)を握り、 これで列島に君臨した だが漢の衰退に伴い倭国大乱(2世紀の終わり頃)が起き 邪馬台は負け、列島の覇権を失った。 大乱の勝者は、魏に朝貢した邪馬台の博多港を押さえている 謎の勢力「大倭」だ。そう後に「大和」と改字する奈良だ。
何でもいいけど当時の中国からは「覇家台」と言ういい心持ちの呼称で呼ばれていましたね。 これはパクりじゃないよん。
佐賀平野は稲作にはもってこいの場所だよな 今より海岸線は近かったにしてもかなりの耕作地があっただろうし まだまだ開墾や治水するほどのマンパワーはなかった時代だと思う
また哀れな在日韓国人の何とかチョンが嘘吐きやってるのか 土井ヶ浜の古人骨のゲノム解析結果は 朝鮮半島とは何の関係もないよ しかも坂上田村麻呂は漢人系だ 蝦夷とも仲が良かったからな よく宴会もやってる 後漢霊帝系やその他の後世渡来の漢人系は 韓系の諸蛮族と違って半島難民じゃないから 歴史もよく知ってる 蝦夷がエブスでもともと古代の倭国成立期に ヤマト盆地の中の政争で東海や房総や奥州に 本拠を移した連中と日本国内の実情をよく知ってる 高校でもその流れに触れることもあると思うがまったく 日本の歴史の基礎的な流れも知らないとはあきれ返る 長崎大学の解析報告の「土井ヶ浜遺跡より発掘された 弥生時代人骨のミトコンドリアDNA超多変領域の解析」 によるとこうだな 「土井ヶ浜弥生人は2,500年前の中国山東省の古集団に 類似した結果を示した。北部九州弥生人が現代日本人の 集団形成に多くの遺伝的寄与をしていたのに対して、 土井ヶ浜弥生人はそれほど多くの寄与をしなかった 可能性が示唆され、明瞭な地域差の存在が明らかになった。」 となっている 以前からいわれているが土井ヶ浜人は日本列島の中でも かなり特異な集団だったが、韓国人のお前の先祖とは何の 関係もない 脳まで保存状態が良かった日本海の青谷上寺地遺跡でも 支配層を示すYハプロは縄文系と判明して朝鮮半島は殆ど 関係なかったな 在日韓国人のお前の妄想願望が叶わず残念だったな
〘昨年度、朝鮮半島南端域の加徳島の解析の結果、より明確になった重大な事があります!〙 福岡で出土する弥生土器が朝鮮半島南端部で出土することは すでに20年ほど前から話題となり、日本の弥生人が朝鮮半島に 一時的に入植したり往来していたと考えられています。 朝鮮半島では縄文や弥生土器は出ますが弥生遺跡も縄文遺跡もありません。 但し弥生人の遺伝子といわれるO1b2についても日本と韓国では大きな違いが あります。 そのうちのL682 (旧 XO-47z)を朝鮮人固有の遺伝子などというデタラメを こういうスレッドで主張している人がいますがそれはウソです。 韓国では日本とは違うO1b2のタイプの L682 (旧 XO-47z)の種類は35%もありますが これは韓国発祥ではなく、水稲文化の担い手ともあまり関係がないと言われています つまり、韓国には本格的な水稲耕作をする弥生文化の担い手は殆どいなかったと 考えられます そしてそ水稲文化にあまり関係ないとみられる韓国に多いO1b2 L682 (旧XO-47z) は日本人では僅かに8%しか見つかりません ですので日本と韓国ではO1b2が共通だというのもウソなのです。 日本人に多いO系のタイプは稲作弥生系O1b2は韓国や朝鮮半島全体 で少ないO1b2a1a〘CTS713 旧47z (O-47z)〙で、これが日本では30% 近くもいます。 日本人(大和民族、琉球民族)で高頻度に見られ、タイ人やインドネシア人など でもみられる稲作倭人遺伝子ともいわれています。 つまりこの事実が物語っているように日本人は稲作弥生人なのです。 縄文人に関しても(日本人のベースと学術的に確定している縄文人)は 世界指折りの海人族で日本近海は隈なく活動圏としていました。 ですから朝鮮半島の南端部にも縄文人は入植していて、釜山・加徳島の獐項遺跡の 人骨(6,300年前:BC4,300年)が縄文と弥生人を混血させた現代日本人のようなものと判明し、 日本から現代日本人とほぼ同じ人間が島嶼部の地域に入植していたことも分かりました。 韓国人の共通ハプロと大まかに言われるO1b2(オーストロアジア語族)とO2(ハプロシナチベット) ですが、縄文D1bが韓国人に見つからないだけではなく、D1bとともに日本人の根底の祖型である O1b2に関しても共通性は少なく、日本独自ハプロタイプで70%以上を占めています。 ですから韓国人との共通性は最大に多く見積もっても30%ほどしかありません。
★縄文人と弥生人 縄文人とは、現在の日本人の基底となったアイヌや 沖縄の現代でも顕著なD1bの遺伝子を持つ日本人の 祖先をいう。 髭が濃い目であり彫りが深く、地理的海を挟んで 近距離にある朝鮮半島の形質とは異質でその髭が エビのように長くて立派だということで蝦夷と毛人 という名前で呼ばれ、後の七福神やエビス様や素戔嗚尊 も同様の容貌であったと記紀に記される。 その後の律令時代までも毛人という名の中央の貴族が 複数いる。 縄文人が海川漁労や採集や栽培や狩猟も行い、集落内に 縄文土器に象徴されるような芸術家集団を包摂し、自然と 共生する生活をしていたのに対して、朝鮮半島では目立った 水稲の水田祉が無く、陸稲はあったようであるが、長江流域 から伝播し持ち替えった弥生倭人とともに水田耕作に着手し 始めていた。 縄文時代は新石器時代の文化・文明で青銅器時代に入って、 西日本から縄文文化が色濃い中央高地のまでも新たな文明・ 文化と呼ぶべき青銅器祭祀が隆盛となった。 朝鮮半島では見るべき青銅器文明の跡が無く、青銅器に刻 まれた線刻画も殆んど出土しない。 縄文人は、狩猟・採集した魚と実を盛ったり信仰を表し たりする土器を作ることにのみ、優れた技術を発揮したので ある。その精神性の表出としての縄文文化の遺物は欧州で最高 の評価を得て、中にはオークションで億単位の値がつくまでに なっている。 自然の豊饒を信仰する日本民族の原形として海外では知られている。 紀元前1000年頃に、以前から交流交易関係にあった長江や越など の水稲文化の担い手としての倭人、つまり弥生倭人が登場した。定住生活を しながら稲作を行って食糧を備蓄して生きていき、青銅器を使用して集団 をなして力の結集が可能だった。 現代の考古学では20年ほど前からこうした弥生人と縄文人が情報交換や 文化交流が起こり、それを示す両者の影響を受け合った遺物が多く出土 している。 縄文人は弥生人は混血が進み現代日本の原型が約2000年前に出来上がった。 弥生式土器の代表的な遠賀川式土器などは、九州から西日本に広く分布しそれが初期の水田稲作 の西から東への伝播の指標となっており、その担い手は物部系の集団といわれている。 一八八四年、東京大学本郷キャンパス付近の弥生という場所で土器が発見 された。 弥生時代後期のものと考えられている赤い壺であるが、特に朝鮮 半島の様式や要素は無い。 その後、こうした種類の土器が日本各地で出土したが、。おおよそ紀元後 三世紀までの遺跡から出てきたために、この時期を弥生時代と呼ぶので あるが水稲稲作文化とともに東進した者である。 2400年前には西日本の多くの地域で本格的な水田祉が見つかり、田下駄や 子供の足跡まで複数見つかっている見つかっている。 朝鮮半島ではそういう遺物は今も見つかっていない。 日本が中国南部や越方面から水稲文化を導入した時代として 有名な遺跡としては、吉野ヶ里遺跡を始め西日本から中部地方まで 夥しい数がある。
日本海側の弥生人の絵画 (出雲〜鳥取 青谷上寺地遺跡地域含む) 稲吉角田遺跡 弥生中期 古代の出雲大社の原型 雲南苗族の頭飾り こういうスレには必ず常駐してるんですよ コリアンタウンの中高年の在日コリアン ID:K3gBNPbo0 普段は反日し放題で大嘘をつきまくっているにも関わらず 科学の関連分野が進み自分の言ってることが誰にでも 大嘘だと分かる時代になったので、微妙にその大嘘の内容を 少しずつ場当たり的に変化させ、また無知で出鱈目な内容をたれ 流しています 被差別部落が古代の半島難民の部落と地理的に同一であることを 懸命に隠すためでしょう 韓国が兄の国? トンデモのバカでしょう? 日本人ならみんな知っているような客観的な歴史を 在日の人は全く知りません たとえば反日種族主義もこわくて読めません いままで日本国やお役所や日本国民に向かって 大きな声で叫んできたことが嘘だとわかるからです ですからそこら辺の普通の在日のおじさんやおばさんが書いた 歴史本しか読まないそうです だから歴史をまともに知りません これまでも都合よく日本人を弟とか兄弟とか言いたがり、兄の国に 逆らうな等、在日社会や在日韓国朝鮮人の特有のマウント願望の 妄想をよく言いますが日本人の兄でも何でもありません 古代から日本に迷惑ばかりかける海の向こうの赤の他人の国 あることがここ20年の諸科学の分野で明らかになっています 【令和考案】 中西進教授 「日本に逃げてきた渡来人、血統で見ると大和人ではなく韓国人だ」 「日本に逃げてきた渡来人、血統で見ると大和人ではなく、 韓国人だ」 は、 『弥生人と関係ない古墳時代に日本に逃げてきた朝鮮半島の難民は、血統で見ると縄文D遺伝子のある大和(ヤマト)人ではなく、D遺伝子の無い韓国人だ』 という意味だからね さすが文系の学者のトップは理系分野の最新の知見を押さえているわけです
>>1 いわゆる三種の神器ってメイドインチャイナなの? プッw もっと歴史を理解しましょうね白鬼さんたち(笑) 本当のことは教えねーよ西洋土人w
その後、天皇が三種の神器を要件となっているので やはり天皇は弥生時代から日本にいて 渡来説は否定された
嬉々として墓荒らしに励む輩を尊敬する気には到底なれんわ
>>439 野生イネ、陸稲、水稲をごっちゃにして語られてるから。水稲と水田遺構からすると長江→九州→朝鮮。野生イネを起源とすると山東半島→朝鮮南部→北九州。 >>496 日本人のDNAの大半が半島系でない事が分かってきた今、天皇陛下の陵墓もちゃんと保存調査すべき。 奈良の弥生遺跡からは三種の神器は何カ所出土したのかな? 邪馬台国奈良説を信じている俺は非常に気になるよ
殷や周の玉璽なら水戸黄門の印籠みたいに皆がひれ伏すだろうが 古代において三種の神器ってどの程度のやんごとなきパワーがあるもんかね
>>332 これを見ると、朝鮮半島はツングースや中国人に侵されて、朝鮮半島在来人は日本に逃れてきたように見える 天「金印も三種の神器も水の中に捨てたから試しに入ってみてよ」 渡「どれどれ」 天「ぽちっとな」 渡「ぎゃーーー」 天「堰をぶっ壊してみた♪」 ネズミ退治完了
>>501 勾玉はポピュラーな装飾品 鉄剣は武器 鏡は貴重品 で墓に埋葬するには丁度良かったのかも 案外、三種の神器も古墳から出土したのに多かったからそこから決めたものだったりするかも 弥生時代 この言い方はもう止めるべき。 左巻きがねつ造した言葉だ。
箸が流れてきたって言って上流まで変人が登ってきたからさー とりあえず酔わせてぬっころした 勘違いもあるさー わりいわりい(笑) ニンゲンだもの♪ゆるせよw
>>503 半島人は別の人種だろうね。 あのエラと目の細さは日本人とは全く違う。 大阪は丸餅を煮て食べる 奈良は丸餅を焼いて食べる 江戸は角餅を焼いて食べる 酒田は丸餅を焼いて食べる 新潟は角餅を煮て食べる 関西の大阪は日本人は丸餅を煮て食べる 日本の韓国人や朝鮮人は正月から内臓を取り出して食べる
何でもいいけど、北方四島、竹島、尖閣諸島はすべて日本固有の領土である。 わからないのであれば、もっともっと「禁酒の計」を喰らえよ(笑)
>>517 日の丸の原点がヤマト王権と何らかの関係があるんだろうね。 ヤマト王権と円と伊勢神宮と前方後円墳時代をもっと研究すべき。 いよいよ熱田の剣を抜くときが来ましたな。 改造させてプラズマソードにしといたから。
勾玉も大きくはないが緑色が綺麗で一級品だな。 なかなかの地位だったんじゃね。
>>522 約束事は守ってもらう。 戦勝国? 今さら何言ってんだろうな。 敗戦国に共産主義者を育てさせておいてよく言う。 >>525 何一つ国産みの八嶋じゃないことへの反論になってないんですが。 勾玉は御守りだからみんなの魂が一つになっている こないだ隼が宇宙から取ってきた物質にしといたから あと、鏡は盾として使えそう カーボンにしといたから
八嶋なら 北海道 本州 四国 九州 沖縄 北方四島 尖閣諸島 竹島 これでOK
佐賀県が存在するなんて幻想だから そこは福岡南部だから
精々バラバラに砕け散りなさいな(笑) 爬虫類のゴミ 今度はきちんと1500回分斬れよ。
箱崎があたりがあやしいぜ(笑) ワイの本拠地だしな 太古の昔に変な血筋が混ざったんだろどーせ
そもそも、剣、鏡、勾玉を三種の神器とするのはどこの風習だ? 中国の始皇帝とか劉邦とか曹操とかも三種の神器を持ってたりしたの?
>>536 筥崎は怨敵調服とかぬるいこと言ってた場所でしょ 実はこれこそが「佐賀の呪い」を打ち払う神器だったという設定でゾンビランドサガ3期に登場
>>538 剣、鏡、玉璽は道教。玉璽が勾玉に変わっただけ >>541 どーだろうね〜 だけど大陸側を向いてるよ まぁ 土足で入ってきたのかもしれないし、東名遺跡の櫛姫様を守ってあげなよ >>546 諏訪の神事で鉄鐸がいまだに残ってるけどあんな感じだったのかも >>487 有明海は海産物の宝庫だからな。 脊振山の山の幸との間に挟まれた 佐賀平野は食うに困らない土地。 >>545 そんなこと言ってるから、九州武士がオラついちゃったじゃないですか ケケケ 福岡市穢れ土人のワイのせいにしてさっさと国を建て直せよ。 宇美とか大分八幡宮だか知らんけど ちったあ炭鉱人を大切にせーや
>>551 そうだよね 一ヶ所に集めてたんじゃ無いのかな 気のせいじゃなければね すべてを北九州市とか久留米市の弟たちに譲ってやろう
これ以上佐賀を泣かせなさんな 人口が少ない所のせいにするのは理不尽だし
>>5 日本のはほとんどが朝鮮半島から来たものだよw >>553 クセの強い九州武士に土塁作らせて拠点防御させるって鎮西探題死ねるよ >>536 箱崎は壱岐にもある ちなみに壱岐には八幡も黒崎もある 北部九州沿岸部との共通の地名が偶然かもしれないがいくつかある 仁・義・礼・智・忠・信・考・悌! いざとなったら玉を出せ
>>542 >>544 道教なのかありがとう、じゃあ日本は最初は道教思想が 入っていたけど、それをあえて仏教思想に変更したってことかいな? その時になぜ三種の神器思想は残ったんだろ?不思議 >>558 壱岐にある原の辻遺跡は規模が大きくて凄い! 黒崎の祇園山笠も古い歴史を誇るよね(^_^) 博多の山笠よりも古いし、荘厳な感じがする。 >>557 そのお陰で刀伊の入寇や二度の元寇、応永の外寇を乗りきったよ。 やっぱり弥生時代は九州が圧倒的に面白いものがでるな
ただ 頑張った武士達にはそれ相応の報酬を頼みますね でないと不満が爆発して内乱が起こりますし いまで言う自衛隊の皆さんも便利屋ではありませんし 憲法を変えるか、解釈を変えないといつまでたっても身動きがとれませんよ
>>563 その刀伊の入寇の時に太宰府にいたのが「天下のガムシャラ男」とまで言われた藤原隆家だったのがまた笑える偶然だけどw さぞやノリノリで一体感あったんだろな…w 「高天原はどこか」 縄文人は自然の恵みに感謝して、あらゆる自然物を祀る祭祀を行なっていた。 これが神道の原形であるが、神道は稲作の始まりと共に日本に稲作を伝えた江南 (中国の長江下流域)の祭祀を取り込んで大きく発展した。 「記紀神話」に描かれた高天原とは、その神話を創作した人々の先祖が生きた 弥生時代の日本であったとも、日本の稲作の故郷と呼ぶ古代の江南であったとも 考えられる。 「航海民が祭った大物主神」 少彦名命が海の果てに去っていった後で、「新たな神が海からやって来て大国主 命を助けた」といわれる。 『古事記』に次のような話が記されている。 「大国主命が海岸であれこれ先行きのことを悩んでいるときに、美しい光で海面 や空を照らしながら近づいてくる神が現われた。その神は大川主神に『私の魂を 祀って戴けるならば、あなたに力をお貸ししましょう』と語った。 そこで大国主命は、その神の意向によって大和の東方の三輪山の上にその神を お祀りした」 この神話は、大物主神を祭神とする桜井市の大神神社の起こりを説いたもの である。 大物主神は大国主命と同一の神で、出雲の大国主命を守る「幸魂」つまり幸運 や思いもよらぬ奇蹟をもたらす神とされていた。 大物主神は、南方に広くみられる竜蛇信仰の流れをひく神である。古代の ベトナムや江南には「竜神」と呼ばれる蛇の姿をした水の神を祀る習俗 が広くみられる。 そのためにそのような竜神が、人間の若者の姿になって人間の女性と結婚 する「異類婚」の神話や伝説も各地に残されている。
「記紀神話の中の南方系神話」 天皇を中心とする朝廷の人々が最も愛着をもっていた物語が「記紀神話」である。 だから「記紀」神話を読み込むことを通じて、皇室の源流となる地域がどこで あったかを知る事ができる。 さまざまな話を集めた「記紀神話」中のかなりの部分が、南方的な信仰や文化の流 れをひいている。 前に紹介した北方的な要素は一部の神話だけに見られるもので、騎馬民族の文化 の影響は表面的なところに限られている。 そこでこのあと、日本神話の中の南方的要素を持ち込んだのはどのような 人びとだったかを考えていこう。 「日本に移住した江南の航海民 」 皇室の日向に対する思い入れ『古事記』と『日本書記』の中に、日本人が北方 から来たという発想はみられない。 「記紀神話」などには、南方を日本文化の故郷とする意識が見え隠れして いる。江南の航海民は、日本の南方から来て南方系の文化を伝えた。 そして「記紀神話」がまとめられた時代の大和朝廷の勢力の最南端が、 日向であった。 それゆえ皇室の祖先にあたる二ニギ尊が降臨した地は、日向の高千穂の峰で なければならず、磐余彦は日向から大和に来て初代の天皇になったとされた のである。 皇室の先祖は、江南から来た移住者の首長であろうか、あるいは江南系の文化 を学んだ日本に古くからいた縄文系の首長であろうか。 武光誠 2019
349名無しさん@1周年 2019/04/27(土) 11:26:35.85 ID:J2Yk4v8A0 >>338 古代史の最後のパズルは出雲朝廷の存在とその出自 出雲朝廷の存在がハッキリし、彼らが朝鮮人であることがわかるとすべてがつながる もはや朝鮮半島にむかって毎日礼拝をしなければならないだけの事実がでてきたということだ 389名無しさん@1周年2019/04/27(土) 11:38:23.61ID:7Q4r/hXI0 >>349 出雲の大名持神の祭祀はその開始にも 南海のセグロ海蛇という豊穣神待ちなんだけど、 それがどういうふうに朝鮮半島の勢力と絡んでるの? いっしょに国を開発した大物主神も三輪山に祀られる 蛇神で金印の蜷局を巻いた鈕だしね 408名無しさん@1周年 2019/04/27(土) 11:43:56.58 ID:c/CUrXOr0 >>389 朝鮮半島はまるで関係がないね セグロ海蛇は、出雲人が神迎えの出雲大社の神在祭、別名御忌祭の神事の主役 南太平洋、南シナ海、琉球列島などに棲息する海ヘビで朝鮮半島になんていない 769名無しさん@1周年2019/08/30(金) 18:46:23.91ID:bFBO74PF0 >>612 日本の神道祭祀関係でいうと 古代から宮殿内には半島蕃族の好物の肉類は 持ち込み禁止 御贄については縄文人や弥生倭人の時代そのままに 魚介、稲、縄文雑穀、日本酒だけで、 比較的半島から 近隣距離の出雲を例にとると、日御崎の海人が捕る アワビや盾縫の紫菜という海藻が特別な名産品として 宮中では有難られた そのケルプは、大型の海藻だが 出雲神道の祭祀で重要なのは 背黒海蛇と 海藻 海藻を盛って出雲神に献上する 780名無しさん@1周年2019/08/30(金) 16:50:41.25 ID:5oOXWqgk0 >>1 ケルプハイウェイを通って丸木舟で縄文人がオレゴン付近まで行ってた話か? 東北に似た有舌先頭器は何年も前に照合されてたはずだが 929名無しさん@1周年2019/08/30(金) 17:00:30.35ID:0V+sFL3x0 縄文人が海藻つたってアメリカにきたとか前から言われてたよね 270名無しさん@1周年2019/08/30(金) 17:58:29.08ID:PzhspnQS0 >>1 〜地球創世記 ミステリアス・アメリカ〜 生物大絶滅と縄文人の謎 https://www.bs-tbs.co.jp/mysterious-america/ 解明 フォートロック洞窟からは世界最古とされる1万年以上前のサンダルが出土している。樹皮を編んでつくられたこのサンダルは、日本のわらじと酷似している。 オレゴン大学に保存されている数々の出土品。その中には日本の縄文時代の遺跡から出土している遺物とほとんど同じ形状のものがあった。これらは縄文人が持ち込んだものだ、という説を唱える教授に出会った。一体どうやってアメリカに渡ったのだろうか? 本州〜北海道〜ロシア〜アラスカ〜オレゴン、と海岸沿いの海を渡ってきた、というのが教授の説。縄文人は丸木舟を作るなど海洋技術が盛んだったこともこの説を裏付けている。 オレゴンの海岸沿いには海藻類の生い茂る遠浅がどこまでも広がっていた。海を旅する人たちの貴重な栄養源になりそうだ。これなら海を渡って日本からアメリカへ、というのも不可能ではないかもしれない。でも、危険を冒してまでそんなことをするだろうか? 縄文時代は安定した平和な時代だった。その一方で、人類には「挑戦する遺伝子」が備わっている。定住せず、新世界に飛び出していった縄文人もきっといたことだろう。 https://tv.yahoo.co.jp/program/62103886/ 302名無しさん@1周年 2019/06/07(金) 22:11:21.59 ID:Lf23WkKu0 >>217 >>270 縄文人は、潜水漁法を日常的にやっていて海藻の採取などで長期間海水に潜る特徴が顕著で外耳の周りに独特の突起がある 314名無しさん@1周年2019/06/07(金) 22:20:59.45ID:BvUsWrN0 >>302 「燻製」「塩漬け」「煮干し」のような現代と同様の食料の貯蔵や保存の技術を持っていて それはフィリピンから鹿児島から関東あたりまでその作業跡が出てる ピットでは地下水使って虫抜きもするし栗の品種改良までやってるしな その後と重なるように丸木舟や丸木舟専用の石斧が東京都まで出土するんだからな 縄文人の活動圏は広域すぎるよ 318名無しさん@1周年2019/06/07(金) 22:25:45.48ID:jftzTyjq0 >>302 > 縄文人は、潜水漁法を日常的にやっていて海藻の採取などで長期間海水に潜る特徴が顕著で外耳の周りに独特の突起がある そんな適度な事書いても 喜んで本気にするのはネトウヨだけだよ。 またネトウヨが縄文人の特徴はって 本気にして他の掲示板にコピペするから 止めときなよ。 341名無しさん@1周年2019/06/07(金) 22:52:02.28ID:A9wu72l0 >>318 「外耳道骨腫」も知らない在日韓国朝鮮人wwww 日本の夜間小学校から入り直せよwww ~~へ(.o・)ノ~~~アップアップ オッ、オボレルぅ〜! 「古代から航海技術がダメダメで海が怖かった扶余系穢族の朝鮮人」 構造船時代になっても朝鮮人は対馬海峡を渡るのが困難だった。 443年に朝鮮王朝側の使節として京都に赴いた 事があり、その後、彼の死期が近づいたとき、 当時の王であった成宗が 「何か言いのこすことはあるか」と尋ねた。 このとき、申叔舟は「わが国が日本との平和関係を 失うことがないようにしてください」と言った。 その言葉をしっかり受けとめた成宗は、早速日本との 友好関係の修復に努めようとした。 だが、派遣された通信使たちは、対馬海峡の風浪の 激しさに驚き、対馬にたどり着いたものの、すぐに引き 返してしまった。 なんとも情けない有様であった。 それ以来、朝鮮王朝は使節を日本に送らず、日本から やって来る使節に対応するだけになってしまった。 ( ノД`)シクシク… 海洋民族でない韓族の残念な実話でした。『海東諸国紀』 申叔舟
>>207 奈良県だと薩摩とか出雲って地名があるけど、 それの逆パターンか。 >>189 力説してるとこ悪いんだけど、 弥生時代にはもう掘ってないよ > 現在はミャンマーやロシア、グアテマラ、メキシコが主な産地であるひすい輝石だが、世界最古の産地は日本の可能性があるとする学者もいる[2]。 日本海沿岸の古代国家の一つ「越」が翡翠を採掘、加工していたと記録されている。 しかしながら、なぜか弥生時代から翡翠はいつしか採掘されなくなり、鉱床も放置された。 それから長い年月が過ぎたのち、昭和初期になって、かつての鉱床周辺(新潟県糸魚川市周辺など)にひすい輝石の産地が再発見された。 >>578 貨幣だったんだよ で銅貨幣が使われるようになって必要なくなった 令和の三種の神器 スマホ PC 車 であってる???
穢や貊と呼ばれた朝鮮半島の種族の高句麗の主種族の貊は その習俗や文化から日本列島の民族と最も遠い部類の種族 水稲耕作など最も縁遠い種族 獣肉が主食で日本列島の水の禊や塩の清めなどと最も関りがない 高句麗も他の半島国と同じ非常に不幸な歴史で思わず同情してしまう 前漢崩壊後の王莽や隋の煬帝に侵略されて男はほとんどが長江に連行され 水田の用地開発の奴隷にされてしまった 朝鮮半島に稲作に方法を知っている人間がいたとすれば この連行された高句麗の人間の一部でも帰国出来ていたとすれば 少しは覚えた稲作をしたかもっていう程度だ ただ平均気温が低すぎるだろう
>>560 一つの解釈という話でしかないから鵜?みにしないように ★ 《イネの伝搬 》 (日本と長江流域の稲作文化の共通点) 1 . 5000年前の湖南省の洞窟遺跡で陸稲発祥が確認された 2. 5000年前の淅江省の河姆渡遺跡から 水稲栽培のコメが150トン出土 3. 更にその米を静岡大学でDNA分析をした結果、佐賀県の菜畑遺跡の炭化米のDNAと一致した コメの渡来については、 すでに 縄文遺跡からのプラントオパールの検出によって縄文中期まで その可能性が指摘されていた 4. この菜畑遺跡の確認によって、長江中流 ・下流域との人と 文化の移動 ・交流の結果として熱帯ジャポニカの渡来が明確になった
>>576 ギリギリ目視できる距離でも流れが減衰しやすい沿岸とじゃ荒れ方が違うから当たり前のことなんだけどな 沿岸部の漁しかしてないという意味でなら日本も海洋民族ではない 朝鮮半島は文化習俗やDAN解析で判明しています 朝鮮半島の民族は日本列島の弥生人とほとんど関係がありません 朝鮮半島から穢族半島人が大量にやって来たのは古墳時代に入ってからです 集団で漂着した逃亡の朝鮮半島の難民はたくさん漂着ましたが日本の在地豪族の 朝鮮半島での戦利品として半島民や様々な文物が日本に持ち帰られました 大和朝廷管理の難民キャンプ部落で編戸制の下で隔離生活していたので 日本人とは交雑する関係もなく、 朝鮮半島諸蕃の蛮族として蔑まれ それ以上に列島弥生人は朝鮮人とは何の関係もありませんでした 習俗や文化が正反対なのです 朝鮮半島人は水稲文化人じゃなくて肉食畑作文化人だからです 弥生人(パッチリ一重か奥二重) = 列島弥生水稲倭人 ≠ 朝鮮半島人(肉食こうりゃん畑作人 糸目一重) 弥生人の出どころ = 稲作弥生文化人 = 長江流域〜華南〜越人中軸 水稲地帯が中心
>>234 ミャンマーの軍事クーデターも中国の息がかかってるのバレバレだが ミャンマー軍って翡翠の流通を押さえてるんだよな。 翡翠みたいなもんが金より価値があったって信じられんな 縄文人ウハウハやが
>>581 前漢建国時の難民で出来たのが辰韓だから少なくともその段階で稲作は伝わってる うーむ大和町川上つっても中々広いぞ。 船塚古墳なら地図でも判ったけど、七ケ瀬遺跡なんてよう判らん。
>>560 儒学が伝来してからのこじつけ > 儒学伝来以後、「鏡」は「知」、「勾玉」は「仁」、「剣」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表す解釈も出た。 道教も日本書紀には入ってるんだけど、 「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」 陰陽道ってやつね 天地が開いた後、まず生まれたのは三つの柱 鼎というツボがあるが足が三つ 三つあると安定することを知っていたようで、 世界的に3を神聖数とするのは普遍的 いまだに世界三大七不思議とか言うじゃん >>587 そらまあそうだわなぁ 金ってどこにあるかというと、 甲州金、佐渡金山、北海道鴻之舞、鹿児島菱刈鉱山 火山島の周辺で取れるが文献に出てくるのは 749年の宮城県黄金迫から。 >その国、本は亦、男子を以って王と為す。 >住むこと七、八十年。 >倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、 >乃ち一女子を共に立て王と為す。 >名は卑弥呼と曰う。 伊都国の卑弥呼の東征や畿内においての共立王として認めさせたのは 鉄の武器を持つ卑弥呼の親族、 七ケ瀬遺跡の王の子孫を伴ったものであったかもしれないし そうであればいろいろ説明がつく
>>593 それで出雲がボコボコにされたんよ 青銅の剣が200ほどでてきてたろ あれが全兵力よ >>590 佐賀県立佐賀コロニーの跡地だから↓かと 佐賀県佐賀市大和町大字川上3113 鉄器が高価で危険で横流し禁止にしてたから 出雲という沿海州側の港でそれを受け取る豪族の違法行為が横行した それが内乱に発展したか
卑弥呼は宗教や納税においては先進的であったが武力が不足していた その不足を補ったのが七ケ瀬遺跡の王の子孫ではないだろうか 2世紀末に卑弥呼ともに畿内に東征したのであれば 平原遺跡が2世紀後半で七ケ瀬遺跡も1〜2世紀で 滋賀県伊勢遺跡の2世紀 遺構的には矛盾はない
もうちょっと南の場所かと思ってたら 肥前一宮 與止日女神社や肥前国庁舎跡のすぐ近くじゃん
そもそも卑弥呼系は南部九州に滅ぼされてる ので無関係
>>65 そうなら日本語は中国語系の言語になってたし、 漢字をもっと早くから使ってた。 だから、徐福は天皇ではない。 >>595 thx ここかぁ…周囲も含めて基本的に全て私有地ばっかだから、 これを見ても地面掘り返しに行かない様に… 卑弥呼の親衛隊(武埴安彦夫婦)は 卑弥呼とともに東征した七ケ瀬遺跡の王の子孫より 弱かったから負けたんじゃないか 崇神天皇10年9月27日 四道将軍を各地に派遣するが四道将軍の一人の大彦命が 不吉な歌を歌う少女と会って引き返す それを聞いた倭迹迹日百襲姫命が 武埴安彦とその妻の吾田媛による謀反の前兆と告げる そのとおり謀反が起こり鎮圧する 同月 倭迹迹日百襲姫命が祭事上の夫である大物主神との 接見は夜のみだったが百襲姫が昼間に会いたいと願い 大物主が昼に姿を見せるが小さな白蛇の姿であったため 百襲姫は驚いて叫んだら大物主は人の姿になって 「私に恥をかかせたので汝にも恥をかかせる」 と言って空を飛んで三輪山に戻る 百襲姫は悔いて急に座ったときに箸が刺さって死亡 倭迹迹日百襲姫命の墓の建造を開始 箸墓と呼称 10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。 崇神天皇11年4月28日 四道将軍が帰参 平定を報告 (日本書紀) 卑弥呼、百襲姫の存在を文献でなかったことにすれば 東征して四兄弟が武力をもってヤマトを攻めるが途中3兄弟がやられて 末っ子の神武がヤマトで天皇になったことに繋がるし 崇神天皇が纏向で宮を構えたことや 崇神天皇の娘の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)が 卑弥呼の次の台与(とよ)になったよかになって 後に実質的に父である崇神天皇がヤマトを支配したとか 妄想ではあるがいろいろ繋がる
ちなみに豊鍬入姫(とよすきいりひめ)の兄の 豊城入彦(とよきいりひこ)は群馬に飛ばされる
熱海の産廃崩落現場じゃ、テレビ、洗濯機、冷蔵庫が出土するらしい。
>其の八年(247年)、太守、王?が官に到る。 >倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼と素より和せず、 >倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻撃する状を説く。 >塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、黄幢を齎し、 >難升米に拝仮し、檄を為(つく)りて之を告諭す。 >卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。 >更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。 >復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。 >国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。 狗奴国を何とか制圧しようとしたのは卑弥呼の死後だと思うんだよ 卑弥呼は宗教による平定と米などを納めさせて病気などを治して 古代において納税制度を確立したけど 魏志倭人伝からは武力を持っていた感じがないんだよね
卑弥呼は武力による支配を否定していたんじゃないか 狗奴国との共存を目指したといえば聞こえはいいけど 実際には卑弥呼は武力を持っていなかったんじゃないか 武力を持っていたのは卑弥呼と共に東征した七ケ瀬遺跡の王の子孫で 海がない奈良にいたせいで大陸の最新技術が入手できす 大阪を支配した応神天皇へ権力が移行したんじゃないか
日本に中国スタイルの統治機構が突然出来たのは中国スタイルのシステムを日本に持ち込んで移植した人がいるという事 少なくとも倭人では無い
やはり邪馬台国は佐賀にあったか・・・ 吉野ヶ里遺跡も佐賀だっけ?
>>7 やべーのはお前の頭だよ 神器は定期的に作り直して神おろしの儀式してんだろうが 玄界灘地域と同じ文化ってことは邪馬台国連合のうちの1国でほぼ間違いないだろう やはり邪馬台国は北部九州
地形的に西から文化が進んだんだろうしな あと伝承みたいのが九州とか山陰?だよね? 自分が知らないだけかもしれないが近畿は聞かない
大和町は掘れば掘るだけ色々出るでしょ 律令制以来肥前の中心地だったんだから
>>7 いやあれは 特別な神剣 特別な鏡 特別な勾玉でしょ。 自分の娘に卑弥呼って付ける親はいないのか これはキラキラネームになるのかね
>>603 卑弥呼は移動してないな 少なくても2代あとの台与が統治してた時代までは移動してないだろう >>622 東征は魏志倭人伝の後だね 3世紀末か4世紀始め頃 >>218 百済に下賜されてるね。 百済の寺の奇跡から 仏シャリと共に発掘されたりな。 >>610 徐福って言いたいんやろ シャーマン文化も 支那から伝来してるからな 阿蘇が見える土地でちょうど 良かったんやろな >>626 いや、楽浪郡からの移住者ではないかと思ってる >>627 俺もその説に賛成。 魏志倭人伝に描かれた魏に朝貢した邪馬台国は、遼東の公孫淵が司馬懿に滅ぼされた翌年に使者を魏に派遣している。 これは、以前から遼東の公孫氏との交流があった事を裏付ける証拠だと思う。 大陸や半島とまったく交流が無ければそんなに素早く動けるはずがないからね。 交流していた遼東の公孫氏が滅亡したら「ヤバい!早く朝貢しなければ次は我々だ!」と焦ったんじゃないかと思う。 遼東の公孫淵が司馬懿に滅ぼされた後、その遺臣たちはどうしたか? おそらく少なくない数の人々が遼東から技術を持って交流のあった日本列島に移住したのではないかと容易に推測できる。 とにかく3世紀なんだよ。 この3世紀ってのが東アジアの歴史にとってかなり重要なんだよ。 大陸では三国志のクライマックス。 日本列島では倭国大乱があったのちに卑弥呼が邪馬台国の女王になった。 春秋戦国の越の貴族の墓から出土した磁器の鐸から進化して畿内で大量に製造された銅鐸も、3世紀になって突然作られなくなった。 古墳が造られ始めたのも3世紀からだ。 この3世紀になにがあったかを探るのには日本だけを見ていてはいけない。 東アジア全体の動きをみなければならない。
>>578 そっちこそ話ズレてんのに力説か 近年になって再発見されたことなんか知ってるよ くそ重い石だから糸魚川あたりの家では漬け物石に使ってたとかね 古代遺跡から出る翡翠はまだ発見されてないミャンマー産でなく日本の糸魚川産で 中国からは翡翠は出ないとしか言ってないんだが… 奈良以降アクセサリー文化がすたれて翡翠やその他の石の玉造りも途絶えるとはいえ 弥生時代に作られた名品の翡翠勾玉とかよく知らないんでしょ? 鏡が意図的に割られたってのは面白い話だねw 銅鐸なんかも意図的に壊された例多数と言うし。
>>595 国土地理院の地図で見ると水田よりわずかに高い微高地で1960年代の航空写真だと畑と果樹園があったみたいだな たしかに弥生時代あたりの遺跡がありそうな場所ではある 九州では弥生時代の終わりくらいから新しい完形鏡がまったく出土しなくなるからな 古い鏡を打ち割って配ってる それが破鏡 これも上位者が配ってるというよりも、商品として流通させてるような形 この時期の九州に中国と交渉して鏡を貰えるような中心的な存在がいなくなったことが垣間見えるな
日本の考古学は世界的に信用がない。神の手がいっぱいあるらしい。
三種の神器ってのは、古代の人々が未来の我々にルーツを示すために残してくれたとしか思えないんだよね。 勾玉ってのは、元々は肉食獣の牙をネックレスにしていたのが、ヒスイを加工する技術を手に入れて勾玉になったと考えられている。 風習的には、これは確実に大陸の風習ではなくて日本で発展した風習から生まれた装飾品なんだよね。 事実、魏への貢ぎ物にも勾玉があったが、魏側はそれが何かわからなかったようだ。 これは俺の想像だが、三種の神器は3つの勢力の融和を象徴するものだったのではないかと思うんだよね。 勾玉が土着勢力、鏡が大陸から渡ってきた勢力、剣が武力を持った勢力。 これは、倭国大乱の後に卑弥呼を戴いて融合し邪馬台国となった証ではないかと思うんだよね。
ここの遺跡と吉野ヶ里遺跡は10kmほどしか離れておらず、しかも 平野部だからまだ見つかっていない遺跡があるはずだな。 佐賀平野と筑紫平野、筑後平野は未発掘の遺跡だらけ
弥生時代の三種の神器出土地 年代順 遺跡名 所在地 1. 吉武高木 福岡市西区・・・弥生初期 2. 三雲南小路 福岡県糸島市 3. 井原 福岡県糸島市 4. 須玖岡本 福岡県春日市 5. 七ケ瀬 佐賀市大和町・・・弥生末期 6. 平原 福岡県糸島市・・・弥生末期
>>1 『肥前国風土記』にこの辺りの記述あった記憶ある 今手元にないの誰か知らない? 吉野ヶ里遺跡の位置よりもだいぶ西の方だなと思いながら読んだ記憶あるのでこの辺? 剣と鏡と中国からもらったものばかりてのでワロタ 三種の神器って勾玉以外はぜんぶ中国製かよ スサノオの草薙剣はヤマタノオロチの尻尾から出てきたとかウソ書くなよw
>>641 八咫鏡は伊都国から出る内行花文鏡で、実際に八咫の大きさ(直径46センチ) これは古代中国からも出ない世界最大の大きさ >>629 古墳もその時代の半島にもあって 九州へと繋がってるしね 向こうの人は古墳自体無かったことにして 埋めちゃってるけど >>642 中国の鏡をパクってるくせに世界最大とかドヤ顔されても 邪馬台国は楽浪郡由来でもいいんだけど 神武天皇の方は徐福説ってのが 中国では割とポピュラーなんだっけ?
>>644 実際はドヤ顔どころか無視 今も高校の歴史資料集には載せられていない 中国より大きなものが存在しては困るという報道しない自由 縄文土器も朝鮮半島から見つかるのに無視 中国→半島→日本の固定概念は別に左翼だからじゃなくて、世代的なメンツの問題 ウヨサヨ関係ない理系のジャンルでも同じことがあるので
第二次世界大戦もほどほどで停戦しとけば 今も同じ国として発掘も進んだかもしれないし まぁ皇国史観で歪められる可能性もある
>>397 翡翠って新潟産だよ。 糸魚川に工房があるよ。 日本ってヒスイ以降あまり宝飾品をありがたがらない。 和服も宝飾を使うのは帯留めくらい。 そこへいくと中国なんか玉とかいってありがたがるよね。 男性でも清の時代でも冠の両側、耳の上なんかに緑の石をつけてたり。 日本は刀剣や鎧、兜などの実用品の美にこだわるようになる。 刀でも刃以外に鍔とかさやとか。 武士の存在って文化的にも大きいね。それと畳。 部屋を片付けて襖絵を際立たせたり。生け花とかお茶とか、戦乱の時代に生まれててさ。 王冠にダイヤモンド何カラットというのもすごいけど、一般人にはまねできないよね。 日本には庶民にも普及する文化の厚みってものがある。 いつからそうなったのかな。
日本は、平安時代にヘアスタイルが変わったんで、中華風の装飾品は廃れたようだ
>>651 ちうごくは軟玉のネフライトのほうだけどね。 >>636 門外漢で横からスマソ 三種の神器は「海外から来た最新の技術の象徴」 かなと感じてた 勾玉も鏡も剣も加工技術の象徴で 昭和の「三種の神器」も同じ言葉の使い方をしてる 大和町から山を登り三瀬峠を越えて下山したら伊都国の首都があるから 佐賀県と言ってもほぼ伊都国と同じ生活圏だった。
>>641 句読点の解釈だけど鉄剣のほうは中国製とは書かれてないだろ 元素解析でもしたらわかるのかもしれないが 採鉄地だった出雲を征服したのがヤマタノオロチ伝説のルーツなのでは ヤマタってのが八つの鉱炉を表すという説もあるけど ヤマタイ≒ヤマト≒ヤマタは共通の連合体なのかもしれない >>640 小城郡の川上郷か佐嘉郡の山田郷かな どちらも日本武尊の巡幸や、土蜘蛛関連の記述があったと思うけど >>661 流石にこの時代は製鉄までは出来ないかと 鉄を加工して鉄器を作ることはできたかもしれんが 日本で確認されている一番古い 製鉄の痕跡は5世紀。 鍛冶、精錬の痕跡も製鉄遺跡と 書いてあることがあるので注意。
>>566 ヤマト王権下では各地の豪族が三種の神器を持っていたという記録に合致するからな >>665 弥生時代に行われていたのはいわゆる鍛冶なのよな 「弥生時代の鉄器」をよく知らないで過剰なくらいに評価してる人多いよな 弥生時代は石と木の時代で、鉄器は石器の代替品程度の意味しかない 鉄器で生産力が上がって、鉄器の武器で王権が出来たとか言うのは、発掘が進んでない頃にオリエントのイメージをそのまま持ち込んだ内容で現実は全く合致しない
弥生時代は鉄刀などの武器は中国の コピーではじめから完成形に近いが 鉄包丁や鉄鍬などは参考にするものがなかったのか オリジナリティが出てて面白い。 包丁などは石器を元にしたようなものがある。
>>669 そうやって嘘ばかりつくから畿内説は終了だってはっきりわかんだね 富の原遺跡 長崎県大村市 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1 > 1980年(昭和55年)以降の発掘調査で竪穴式住居跡(弥生時代)、甕棺・石棺墓、祭祀遺構等が発掘され、土器・石器等とはらんで国内でも例の少ない > 鉄戈と鉄剣の出土をみた。 > 特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、 > 刃部には真鍮を削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている > すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された 九州からでてきた鉄の剣で利用した形跡があるのって吉武くらいじゃないか つまり鉄の武器は基本的には飾りで所有することに意味があった
記紀で饒速日の命と長臑彦が互いに神璽(三種の神器)を見せ 合う場面があるが、両方の神璽ともに本物だったという。 古代では「こいつはニセモンだ」とか、余りコマケーことは言 わなかったと見えるねw それが、平安や鎌倉の時代になって細かいことを言うようにな っていったんじゃ? 今回の三種の神器が余り、たいそうな状況で出土しなかったと いうことは、古代では三種の神器は結構ありふれてて、王権の 印とか大袈裟なものではなかったのかもw
紀元前において九州で戦乱があって鉄の武器を使って戦ったが 1世紀以降の鉄は飾りで所有することに意味があったのか使用されておらず 墓におさめられて見つかる 鉄の矢やナイフとか小さいものがたくさんで数だけは多いが その中にまれに剣や斧のような大きい鉄器が出てくる 大きい鉄器は真の王の象徴だったと思われ
正統性を示すものなんて、八咫鏡だけだからな 天叢雲剣は、崇神天皇の時代からでコピー品。オリジナルは熱田神宮 八尺瓊勾玉は、そもそも神器だったのかも不明で、平安時代頃から
でかい大刀と二つの鉄斧がでたことから この七ケ瀬遺跡にはかなりの権力と財をもつ王がいたと思われる 銅鏡が出たことから伊都国の平原遺跡の王と 佐賀の七ケ瀬遺跡の王は 1〜2世紀に協力関係にあったんじゃないか
三種の神器で一番重要なのは鏡だけど、鏡も玉も名前が無いな 鏡や玉は汎用的な呼称でべつな物でもそう呼ばれる ちゃんとした名称があるのは剣だけなのは面白いな
この時代の鉄器は権力の象徴だと思うよ。 実戦では青銅や石器使ってたんじゃないのか?
銅鐸とか、銅矛とか、青銅が祭祀用にまわされてる 日本は、青銅器時代が短い
>>680 鉄が残りにくいってのもあるけど使用された痕跡のある鉄剣は少ないな 古墳時代でも権威の象徴として副葬品になってるし >>679 八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉 という名称を出すと、おまえは、必死に文句を付け始めるのだろうなw 諏訪明神の神器が、鏡・鈴・馬具 馬具って、かなり後世に作られた伝承じゃないのか
>>683 八咫鏡、八尺瓊勾玉という呼称は他の鏡や勾玉にも用いられる 明確に個別の名前が付いてるのは草薙剣だけ 三種の神器が象徴するものは、勾玉が縄文先住民、鏡が中国、鉄剣が任那伽耶の倭人集団。
弥生時代は鉄がお金として使えた時代だよ 『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、 朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。 諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。 鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』 よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。 弥生時代の鉄器出土量 この時点で鉄器文化はまだ奈良盆地まで到達していません。 >>685 諏訪は鉄鐸のさなぎの鈴があるしなかなか面白い 上社と下社でもいろいろ違うし >>689 弥生時代までは日本海ルートがメインであったことが如実に分かる 瀬戸内海ルート=古墳時代なのだと考えるべき あの内海が意外と厄介 三種の神器という言葉に引っ張られるのは問題だろう この三種類を特に重視したのは後世で弥生時代の副葬品は個々バラバラ たまたま三種類入ってる事があったとしても意図はないだろう 生前の使用品とか、装飾品とかそういう物 威信材として機能してたのは鏡くらいなものだろう
鉄と交換に半島南部に渡ったのがヒスイであり、勾玉。 いつのまにやら、のちの新羅地域は大層勾玉が好きになってしまって、ついには倭から工人を招いて、勾玉工房までつくる。 どころか、新羅を建国したのは倭人なんだよ。支配階層が倭人。 創始者も倭人なら、四代目昔氏も丹波地方からの倭人。 任那伽耶は親新羅だったわけだよ。消滅するまで。
>>694 だから神功皇后の伝承にしろ失地回復みたいな話になってるのよな 金・朴は、腐るほどいるけど、今の韓国に昔氏はほとんどいない ある時期に倭人系は一斉にパージされたように思える 日本と新羅は、歴史のほとんどの期間、敵対関係だったし、その辺も関係してるかも
どうして百済がしゃしゃりでてきて倭国内に親百済派がのしてきたかといえば、一旦百済が滅んだからよな。 475年に。 でもってお節介にも百済再興作戦に出て傀儡政権をつくろうとする。 なぜなら、親新羅は主として日本海ルート〜北九州勢力なのよ。弥生時代以来の鉄ーヒスイ交易に基づく連帯なの。 おそくまで銅鐸抱えてうろうろしていた畿内ヤマトは親新羅勢とは毛色が違う。 この畿内勢は親百済で新羅勢に対抗しようとする動機がある。百済の先には当然中国もある。 親中=親百済だった時代がある。 白村江の敗戦の衝撃はこの構図を一変させたわけやね。よく天智系や藤原氏が根絶やしにされなかったわ。
>>694 その割には敵国である百済にえらく肩入れしてるけどな、ヤマト王権は 同族嫌悪ってやつ? 南西部の百済は、中国本土への中継拠点となるけど、 南東部の新羅は、日本にとって価値がない
ハロワで結構募集してたな遺跡発掘作業員 15人くらいだったかな? 結局応募してないけど
>>696 親百済政策から新羅派は随分倭国内でも粛正されたね。 磐井の乱が最後じゃなく、蘇我氏や蘇我系の天皇なども親新羅でこそなかったが、開明的で全方位外交スタンスゆえに滅ぼされた面もある。 そうまでして百済に肩入れした後、大敗して半島から追い出されるのに、あたかも敗戦後の岸信介のように天智派ー藤原氏が返り咲く。 百済遺民も大量に畿内に招き入れて、天武、持統で親新羅政策を採るも、そのあとは新羅の入寇がクローズアップされて新羅征伐の時代に入る。 238年に公孫氏が倒されたあと、魏が百済と新羅地域を支配下にしてるんだが 倭人がいたとしたら倭も魏の属国てことになってしまうぞ
日本の古代史は新羅派と百済派のせめぎ合いだからねぇ
>>703 だから卑弥呼が朝貢したんだよ 公孫氏は実は一族の残党が倭に逃げてきているようだよ 九州の赤染氏がそれっぽい >>680 87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0 面白いものを見つけた BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が 九州を横断するように存在している どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ 邪馬台国より前か… 三種の神器って何時から有ったんだか
>>27 出土経緯が不明、信憑性がない等、なんとか難癖つけて無かった事にするに一票 >>706 川越哲志氏の「弥生後期の鉄鏃の分布」 ですな >>707 「三種の神器」のセットは、平安時代くらいからだろうか 養老律令(757年)には、鏡剣(かがみたち)しか書いてない 邪馬台国は大和大国を聞き間違えて誤記載したものだろ 知らんけど
>>715 邪馬台国は山門国と山田国が分裂する前の地名だよ 絶対に捏造 日本の歴史って考古学者が捏造しまくるせいでボロボロ
ブルーライトが目に悪いなどと捏造したのはブルーベリーサプリを開発販売していたのも学者だったね
>>680 世界的に鉄の方が安くて銅の方が貴重では? 銅の方が精製しやすくて不純物多い鉄より古代では銅の方が強いのもあって 隕鉄とか特殊な鉄使ったのは世界中で伝説の剣扱いされたり >>720 上の方で出てる富の原遺跡の鉄器は青銅を削れるほど硬かったらしいよ >>680 この時代に青銅作るのに十分な錫って採れたんかな。九州からも採れそうだけど、採掘始まったのはずいぶん遅そうだし。 >>724 ファン・ウソプを国を挙げて持ち上げた韓国生化学界なんでカスだよな 秦の家臣が不老不死を求めて九州から上陸 ↓ 舶来品が残存 単にコレかな
>>723 弥生から古墳までほぼ輸入 飛鳥時代になって鉱山が見つかる形 >>728 ありがとうございます。昔テレビで地中海の青銅器文明が廃れたのは錫が枯渇したからだとか言うのを見かけたので気になってました。 銅は原材料の問題があり、鉄は原料と加工技術に問題がある この事から弥生時代の金属器は質量ともに大したものではなく、金属器による時代の変化などは起こってないのが分かる 弥生時代は依然として木と石の時代 鉄器がイメージ通りの活躍をするのは古墳時代になってから
>>730 >>672 でとっくに暴かれた嘘を何回繰り返す気だよw それに吉野ケ里じゃ鉄製の農具が出土してて北部九州ではとっくに鉄器による変革が起きている http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/occupation03.html > 弥生時代の農業生産を画期的に高めたのは、鉄製農具の普及です。 > 鋤や鍬に鉄が使われるようになったことにより、土を耕すことが容易になり(ある研究成果では木製農具に比べ作業効率が約4倍に伸びたと算定しています)、 > 新しい土地を田や畑として切り開く開墾も盛んになったと考えられます。 > 鉄製農具が普及するようになった中期後半以降の集落の急激な増加がそれを裏付けていると言えるでしょう。 > 鉄製農具は農業の生産性を左右する重要なものでしたが、鉄素材は朝鮮半島から得なければならず非常に貴重なものでした。 > 吉野ヶ里遺跡は全国の弥生時代遺跡のなかでも鉄製品が多く出土し、鋤・鍬の鉄製刃先や鉄鎌など鉄製農具も豊富であったことがわかっています。 > このような「鉄」の豊かさは弥生時代の吉野ヶ里が大きな力を持つ集落であったことを示していると考えられます。 学者の言葉って学者という立場を守るためのポジショントークだらけで信用する奴がバカ なんの立場もない無学なおっさんの言葉のほうがよっぽど信用できる
>>731 その原材料がどこから来たのかって話をしてるの。 >>731 鉄製の鋤などの農具についてはその初現を原の辻のカラカミ遺跡とされている この遺跡は昔は弥生時代中期とされていたが、今は上層式土器の編年が変わり弥生時代後期後葉とされている(高倉) そしてその様な道具を作る遺跡が少なくとても量産しようがない事、それに対応した出土数の少なさから鉄器による耕地の拡大などは弥生時代に発生していないとされている 実際に朝廷で使われた三種の神器は頼朝の時代に紛失してなかったか
なんで、日本の先祖の人たちって、墳墓を作る際に、墓碑を作って 「埋葬者氏名、地位、経歴、祖父母、両親、兄弟、妻子の名前、生年、没年」 なんかを刻んでおかなかったのか?
>>736 > 吉野ヶ里遺跡は全国の弥生時代遺跡のなかでも鉄製品が多く出土し、鋤・鍬の鉄製刃先や鉄鎌など鉄製農具も豊富であったことがわかっています。 文字も読めない朝鮮人か やはり畿内が日本で一番朝鮮の血が濃いだけのことはある 現実問題の話として弥生の冶金技術の稚拙さと、ある程度の加工技術を持つ遺跡の少なさ そして実際に出土する鉄器の状態や数を見れば「鉄が世の中を変えた」という実証が何もないのが分かるだろう そもそも弥生時代は前1000年から始まり、耕地の拡大は金属器などなくても拡大してる 鉄器によって農地が拡大したという考えそのものが実地を何も伴っていないのが分かる 鉄器研究が殆どされて無かった時代の「想像」を土台にした話でしかない
>>739 わざわざ銅板の墓誌を用意しておいてくれた太安万侶はわりとレアケース 日本史板では「畿内説など存在せずただ畿内願望があるだけ」というのが半ば常識となっているが ID:VNp4ytrH0のような輩を見ているとその通りとしか言いようがないな
>>739 文字が普及してなかったから そもそも古墳があんなにデカいのも「見てわかる」事を意図してるから 形と大きさで被葬者の地位が分かる 文字で済むならそうする 実際に飛鳥時代になると僧侶が自分の母のために墓碑を掲げてる石碑が出てくるようになる 鉄の精錬技術が発達した漢代の鉄剣は、弥生人からみたらお宝レベルだったと想像する。
1トンの鉄を産むのに山ひとつ分の木を切り倒したわけで そもそも日本は鉄を溶かす温度の釜も無い
そもそも実際に高度な鉄器の普及がされていたというなら話がおかしくなる @鋤クワ等の高度な鉄器は出土数が少ない ・鉄製の鋤とされるものは全国で20点程度しかない ・実用に耐えるものではなく、使った痕跡も無い ・実際に普及が始まるのは古墳時代になってからとなる A高度な鉄器を作れる遺跡が少ない ・@のような高度な鉄器を作れる遺跡はごく少数で出土する数に比例 ・作る場所がそもそも無いので溶けてなくなったなどという説明も成立しない B他に見つかる鉄器も総じて稚拙 ・弥生の鉄器とは、ヤリガンナ、手斧、細い細工用の棒などの石器の代わり程度の物が殆ど ・「鉄製農具」と紹介されるものは鎌でコレも後期後半にようやく表れる ・その他の鉄器の状況からも@のような鉄器が普及してたとは言えない C水田の導入と普及に金属器は全く関わってない ・弥生時代は前1000年からはじまっており当然、金属器など開始に一切かかわってない ・金属器の登場は前300年ごろで、金属の鋤クワの登場は150年ごろなので水田拡大に金属器の効能は関係ない これ等の事から弥生の金属器など時代の変化に全くなんの影響も与えていない事が分かる
鉄器が時代を変えたという考えは @弥生時代が前400年ごろにはじまったという古い年代観 A実際に弥生の鉄器の出土物の研究が全くされてない頃のオリエントを元にした想像 これをベースにした考え 実体は上で書いたように 「高度な鉄器を作るだけの技術を持つ遺跡が無い」、「高度な鉄器の数も少ない」、「見つかるのは石器の代わり程度の稚拙な鉄器」「農地の拡大とも関係ない」 と、現実の弥生時代の状況と全く合致してない事が判明してる事からその想像は否定される
>>622 卑弥呼が死んで騒乱になった時に劣勢になった ある程度の固まりが東征したんじゃね? >>755 全て>>672 と>>731 で論破されている内容の繰り返し ソースのある話に妄想で反論したって無意味 そうやって息を吐くように嘘を付くから畿内説(笑)は敗北したんだよ 三種の神器はもともと九州の女シャーマンの祭器 日本書紀にも多く記述があるが、熊襲征伐のために出征した景行天皇や神功皇后にたいして、熊襲の女首長が三種の神器を掲げて投降する 卑弥呼も九州邪馬台国の人間だろうね 九州邪馬台国を渡来人の技術で強大化した畿内勢力が滅ぼした それが空白の4世紀
>>758 朝鮮半島との付き合いが密な段階だと鉄鉱石を使った炉が多い その段階でも砂鉄を使った製鉄が並行して始まって半々くらいになる 海外に鉄の原料を求めるのは不安定だからだろう 白村江で半島との交流が絶たれるとそれ以後はずっと砂鉄主体で平安時代だと100%砂鉄になる その閉鎖された独自技術の蓄積の上で刀剣の技術も進化したと思われる >>702 倭人っても北九州辺りの住人と畿内住人とは異民族で、それぞれが同族である新羅、百済と結びついたってこと? 斬新な日本古代史だな >>7 違う違う もともと九州の女シャーマンのまつりごとに使う道具で、ヤマト王権が九州征伐するときにそれを九州支配の象徴として宝としたということ >>761 日本の炉って大陸の技術そのままじゃなくてなかなか独特なんだよね 初期のことは今だ謎みたいだし面白い 倭が半島での影響力確保に必死だったのは鉄原料の入手先だからというのも大きいな 古墳時代の鉄はそれこそ必需品となっていたからと 砂鉄を使ったタタラが発展したのは海外に必需品を依存するのは危険だからだろう 吉備が天皇陵にならぶくらいの巨大な古墳を造れたのも製鉄の技術があったからだろうな
>>731 やはり邪馬台国は九州だな この先進地域が木製農具しかなかった畿内に支配されてたとかあり得んし 出土品が少ないから、使ってないニダは短絡的過ぎる 鉄って、再利用するからね 任那からも、インゴットみたいな形で輸入してたと思うが 日本が中国と交易し始めた頃には、中国には鉄器がすでにあったわけで
吉野ヶ里遺跡が見つかってもぱっとしない佐賀県へのご褒美か
>>766 畿内はある時期にドラスティックに変わってるんだよね 【纏向遺跡とその近隣の遺跡】 @纏向遺跡は3世紀中頃、それまで弥生時代の遺跡のない所に突然出現し、4世紀後半に突然消えた。 A日本独自の墳墓である前方後円墳が出現。箸墓古墳は当時として破格の大きさである。 Bそれまで近畿にはなかった大陸の影響の強い遺物が出た C多くの鉄器や木器などの製造に関わる職人の存在 D都市計画に基づき作られた最初の遺跡。環濠が無く、住居跡がない政治的色彩の強い都市と大型建築物。 E東海、北陸、山陰や関東までの広い範囲の土器 F初期前方後円墳から多数出土する三角縁神獣鏡は日本製か中国製か判明していない 纏向遺跡は近隣遺跡の状況を見ても、どのような過程を経て出来たのか解明されていない。 G纏向遺跡が出来る直前まで存在した奈良盆地の唐子・鍵や河内の池上・曽根遺跡には大型建築物はあっても、鉄器の出土がなく、銅鐸を除き、銅鏡など銅製品も少なく、纏向遺跡に直接繋がるとは思われない H繋がりが濃厚と思われる吉備の楯築墳丘墓は2世紀末に突然出現し、その後、吉備に同類の古墳は続かない。 墳墓は双方中円墳で、木槨墓や埴輪のルーツと言える特殊器台などから纏向の前方後円墳に大きく影響したと思われる。 副葬品は一振りの鉄剣とヒスイの勾玉3連と、30 sに登る多量の水銀朱など大陸の影響が強い。 墓にあった勾玉とか口は珠ならまだいいけど下から色々と漏れ出さないように肛門につめてたのに よくそんなもんさわろうって気になるな バッチいとか思わんのかな でもまあ墓掘りしてる時点でなあ
>>689 なるほど。だから倭人が駐留しとったわけか。 たたら製鉄の先進地は博多遺跡群と壱岐のカラカミ遺跡
>>776 なんだっけ??聞いたことがあるような… >>769 これみると九州から流入してるな 3世紀から九州と畿内が逆転する >>494 中国に勾玉作る文化は存在しなかったような >>779 それはないんじゃねえかな?欠史8代と関係してそうな・・・ Eは見本市みたいなもんだろ。 >>769 各地の豪族が集まる伊勢遺跡の機能が移転してきたのかもな あくまで推測だけど 寺澤氏も指摘してるが弥生時代の大和と纏向の大和は連続してない 大和は最強だとか最新だから中心になったんじゃなくて、瀬戸内海に登場した連合の丁度いい場所だから中心になっただけの事 指摘されてるように纏向は縄文から誰も住まない湿地帯で古墳や祭祀というある意味無駄なものを盛大に作るのにちょうどいい場所だった 纏向は都市や都じゃなくて、古墳と祭祀の為の遺跡
>>780 勾玉は中国どころか世界を見てもほぼ類似のものがない日本独自の宝物 なぜこんな形を作ったのかは不明だが翡翠以外にも石や粘土でもこの形を作って利用してるので「固いから仕方なく」などの加工の都合でもない かなり意図的な選択でこの形を作ってる 古墳時代が終わると急激に衰退するので律令や大陸文化を取り入れる事で無くなったと考えられるので、むしろ大陸とは全く異質のものだといえる ウヨ=縄文人系 サヨ=渡来人系 どちらも馬鹿の極み
>>788 陰陽や胎児の説があるけど、動物の牙とか爪だろうな。 ディカプリオの映画、レヴェナントでクマと闘った後、爪をネックレスにしとったが、それが自然だと思う。 >>788 もともとあったものを陰陽に寄せていった可能性はなきにしもあらず 大和型と出雲型で形が違うし 勾玉の初現は縄文時代早期という万年近い過去になるので陰陽思想は関係ない もっと縄文時代の人々のプリミティブな発想のもとに作られたものと想像できる
そして指摘した通り中国思想や文化が強く入り始める飛鳥時代を境に勾玉の文化は急速に衰退する なので中国文化の影響であの形になったというのはむしろ考えにくい
>>788 古代の勾玉は尻尾まで太い曲線的な形で陰陽マークには似てないよ 尻尾の細い最近のお土産品みたいのは素材の石を効率よく切り出すための形 結果2個で陰陽みたいになる それを起源言うのは物を知らないパワスト屋かそれこそあっち系の人 ある意味自分が何者であったかの印かも知れん。 日本人(日本でしか取れない硬玉翡翠)、牙(狩猟民族であったこと)。 まあ、その後瑪瑙やガラス玉で作られたが何を意味するかは知らない。俺の妄想w
身に付けなくなっただけで昔の宝物として残っていたから勾玉の存在は忘れられていなかった 琉球王朝のノロはでかい勾玉をつけてたそうだ 江戸東京博物館の玉展でみた
>>796 世界のあちこちで産出するが古代のアジア圏内では日本のしかない >>7 神器は俺が持ってる。 13cmの聖剣クサナギ 勾玉は2個セット 鏡は前頭装備で年々サイズと輝きを増している。 俺こそが、アマテラスの子孫だったのだ。 くそ高い玉の考古学っていう本を買うか買わないかで迷っていたらいつの間にか本屋になくなってたでござる。
勾玉は日本全国で見つかるもののバリエーションも多い そもそもが統一されたイメージではないというのが自然だろう 出土状況も住居や、村域、墓などバラバラ 「これが正解」という物はないだろうと思う しかし少なくとも日本の独自性の強い縄文時代から続く装飾具という点は注目に値する
>>801 獣形や子持ちがあるな。 翡翠の本当の色は白だけどねw 関連しそうなもの Lingling-o オーストロネシア文化(新石器時代後期〜鉄器時代後期) 翡翠は台湾産で、フィリピンで製作 装飾品。身分によって材質・形状が異なる 玉猪龍 紅山文化(新石器時代) 副葬品 >>793 仏教が伝来すると勾玉砕いて厨子の装飾に使ったりしてるからな 陰陽師はシャーマニズムの後継だから陰陽は中華思想じゃないよ なぜか国旗にしてる国は知らん
陰陽道の理論的基盤は中華だろうよ ただ、神祇官の管轄にも食い込むことを指向して、意図的に人間の生死にかかわることは排除されてる
> 4基から意図的に割られた中国製(紀元前206年〜紀元後220年)の鏡 当時鏡が流入するルートって何だろう 鏡を割るというのは復活を阻止する意味でもあるのだろうか
>>804 軟玉翡翠とか言われるもので鉱物的には別の石のネフライト 厳密には翡翠ではない ニュージーランドのお守りもネフライトだね 中国はきれいな石を玉と呼んでたから昔は狭義の翡翠にはこだわっていない モチーフがにてるのは海洋民族つながりなのかな 現在の三種の神器って何だ? スマホと・・・・・・ あれ、スマホ一つに集約されるんかw ちなみに壇ノ浦で勾玉を海中から回収して 義経に届けたのは俺の先祖。
>>810 破鏡については穿孔されて紐を通していた痕跡があるものと、無穿孔で副葬される物などがある そしてこれらの破鏡は古い時代の鏡を割った物がほぼすべて この破鏡が作られるようになる時期には当時の新しい形式の完形鏡が九州で出土しなくなる これらを合わせて考えると破鏡は宗教的な意味や儀礼などではなく、 単純に「中国から新しい完形鏡を手に入れられなくなったために古い鏡を割って配った」と見るのが妥当と思われる >>491 弥作文化を代表する銅鐸などは呉越の地域から 春秋時代の銅鐸に似た形の青銅の銅鼓が出土 している。 高さは三〇センチ前後で、出雲の加茂岩倉追跡から 1990年代後半に大量出土した初期の銅鐸とほとんど 変わらない大きさ。 呉越地方銅鼓の系統が浙江省の寧波あたりから直接的 に列島にもたらされた可能性が非常に高い。 そして出雲地方に定着している。 だが出雲地方には、呉越地方よりさらに南の地域である 広東省広州市一帯の地域とも関係があった証拠が見つかり、 それは1990年代からすでに研究されている。 古代の南越であるが、越の南方、南海に面した国で 南越王墓は広州市の像崗山にあるが、そこからは 船紋銅桶型器と呼ばれる線刻画をほどこした銅桶が 出土している。 その線刻画にはゴンドラ型の船団に頭に鳥の羽根の ような被り物戦士描かれ、日本の武士のようにに首級を ぶら下げげて立つ像などが描かれている。 南越は卓越した航海技術があったことはすでに多くの学者 の研究にによって知られるが、この絵と似たような線刻画が 鳥取県でも出土している。 大型の土器片に描かれているものだが、同じゴンドラ型船 に乗った人の頭には雲南に酷似した羽根のようなかぶり物 をつけている。 南海に面して航海に長けていた雲南系の民族は列島に水稲を 伝え航海や交易も行っていた縄文系の列島倭人の日本海沿岸 まで来て倭人として定着していった。 このあたりの関連は文化人類学と考古学の横断分野ですでに 良く知られるようになって20年近く経っている。 昭和時代のゴミ捨て場からも三種の神器が出土するだろう
>>583 1年前にコロナで封鎖されていた浙江の寧波から北九州への高速回路は有名。 昭和初期から学者の間で知られるようになった。 女性が実際に30時間ほどで佐賀に着いてた記録がある。 岸を離れれば長江河口の流れに乗って東シナ海中ほどに達し あとは対馬海流のジェットコースターに乗り五島列島から九州北部に達する。 今から一世紀ほど前の記録だが日本人女性が単独の帆船で20数時間のタイムが出た。 イネはこのルートで1日半で日本に到着する。 朝鮮半島南部を出発すると如何に世界水準の日本の海人もそこそこの苦労が伴い 対馬海流の激流よって隠岐や能登半島に流され、北九州に来れなくなる。 そのために舟の操舵に技術が低い朝鮮通信使は対馬に辿り着けるのが精いっぱいが多かった。 引き返したものまでいる。 朝鮮の高官の遺言で情けない朝鮮通信使を嘆いている資料まで残っている。 海流や風や星を知る尽くしている対馬海人でも季節風を利用して冬場は半島から日本がメイン 夏場は日本から半島への往来が主流で速い。 要するに浙江から北九州には海流の高速ハイウエイで弥生文化の核である水耕稲作が持ち込まれた可能性が非常に高い。 これは衝撃的 (*゚ロ゚)ノミ!! エーッ! 1人当たりの茶消費量は・・・・ 餅や納豆や弥生文化的な棚田風景の分布地域と重なると云われる 日本 810g 、ベトナム 380g、中国(南部中心) 320g、インドネシア 200g そして、民族の超えられない根底文化の異族壁があって・・・・韓国 20g これは衝撃的 (*゚ロ゚)ノミ!! エーッ! 1人当たりの茶消費量は・・・・ 餅や納豆や弥生文化的な棚田風景の分布地域と重なると云われる 日本 810g 、ベトナム 380g、中国(南部中心) 320g、インドネシア 200g そして、民族の超えられない根底文化の異族壁があって・・・・韓国 20g
559ニューノーマルの名無しさん 2020/10/18(日) 11:30:24.04ID:tWLZo6U70 >>455 平安時代の宮廷貴族は非常におもしろい 大和朝廷の宮廷文学の全盛時代に虫の音を楽しんで虫声文学のような領域が発展したのだからね 562ニューノーマルの名無しさん2020/10/18(日) 11:32:29.63ID:bqd3asIQ0 【衝撃】虫の鳴き「声」は日本人にしか聞こえない!? 最新研究でわかった外国人との“脳の違い”が誇らしすぎる tocana / 2017年4月13日 7時30分 次第に暖かくなり、虫の増える季節がやってきた。トカナ読者は虫が好きだろうか? 筆者は魔女だが、虫は苦手で、黒魔術の時に生け贄として協力してもらう以外は、なるべく関わることなく共存するよう努めている。 さて、虫が好きな読者も嫌いな読者も“虫の鳴き声”は聴いたことがあるはずだ。 「そんなの当然、いちいち記事に書くことではないだろう!」という声が聞こえてきそうだが、ちょっと待ってほしい。 近年の研究で、なんと虫の鳴き声を“声”として認識できているのは、世界中でも日本人とポリネシア人のみである事実が判明したというのだ。 ■日本人の脳には特殊な機能が具わっている!? 東京医科歯科大学の名誉教授・角田忠信氏によると、日本人とポリネシア人の脳の働きには、他の多くの民族と比べて大きな違いがみられるという。 人間の脳は右脳と左脳とに分かれている。一般に右脳は感性や感覚を司り、左脳は言語や論理性を司ると考えられている。 そして、ほとんどの民族は虫の声を右脳で認識するが、日本人とポリネシア人だけは左脳で認識しているというのだ。 そのため、多くの民族には虫の声は「雑音」にしか聞こえない一方、日本人とポリネシア人には「言語」として認識されるとのこと。 ■虫の鳴き“声”を認識できる本当の理由 日本語研究家の藤澤和斉氏によると、日本語とポリネシア語の特徴は、母音を中心としている点だという(母音部族)。 多くの言語は子音が中心であるため(子音部族)、これは世界的に珍しい特徴だ。 そして、母音は「あー」「うー」など声帯の振動をそのまま伝えることで発声される、つまり極めて自然に発せられる音であるのに対し、 子音は口や息で制動することによって発し、相手との距離を保ち、威嚇するための音なのだという。 また、日本人とポリネシア人は母音も子音も区別せず言語脳である左脳で処理するが、 それ以外の言語圏の人々は、まず母音を右脳で雑音として受け止めてから、子音を左脳で言語として処理しているという。 以上の特徴こそ、日本語とポリネシア語を母語とする人々が、 (自然に発せられる音である=母音に近い) 虫の鳴き声を言語として左脳で受け止める能力を持っていることの理由ではないかというわけだ。
566ニューノーマルの名無しさん 2020/10/18(日) 11:38:01.76ID:5EFXYWFx0 >>559 >>562 虫の声とか虫の音が言葉のように聞こえるのは日本語やポりネシア系が母語の人間だけなんだって 平安時代の宮廷人も現代日本人も同じ風流な趣味を持っていてなんだか懐かしい感じがするよね 日本独自すぎるよ 573ニューノーマルの名無しさん2020/10/18(日) 11:54:02.18ID:3jgK44Ir0 >>566 お茶も飲まないホルモンとか生肉獣食の朝鮮民族からすると遥か遠くの地球の裏側の国の文化ぐらい繊細でハイソな趣向ですよね 226ニューノーマルの名無しさん2020/10/23(金) 23:46:32.34ID:gcvWqOkS0 >>202 >>204 空港の狭いスペースに木々や草を植えて居てそこで鳴いている 虫の声に耳を傾けるのは南洋系の民族や日本人が有名 朝鮮半島にはこういう文化や聴覚機能が無いといわれてるね 朝鮮半島人は耳たぶがないせいかな それとも縄文遺伝子や弥生遺伝子がないせいかな(´・ω・`) ◆近年の学術研究結果のまとめ @日本ヤマト最初の国家官製規格の前方後円墳ができたときの纒向では朝鮮半島の遺物がほとんど出ない Aその時代から同一モデルを含め複数と考えられる半島王子と名乗る者が「聖人君子が日本におられると聞きまして参上いたしました」と 訪日するが、どれもよそ者でかろうじて任那からきたソナカシチは纏向染めの絹を土産に持って帰らせてもらっている B倭王・武の雄略天皇は、 宋から半島の軍事顧問を任されている C古墳全時代を通して朝鮮半島の使者で都まであがって天皇と会えた人間はほとんどいない ほとんど全てが北九州で追い返しか、大阪湾の内湾南の難波館止まり D厳格な都の中での肉食禁止令を徹底 E八乙女にしても八十島まつりにしろ、 国家祭祀の中心から外縁までの全てが 海洋性神話にもとづく内容 F伊勢内宮のアマテラス大神の御神体の八咫鏡がおさめられてる箱も御船代 G大嘗祭で建てられる高床式の屋代家屋の屋根が温帯〜南洋の葉の束 (一昨の秋は秋篠宮様実費削減提言に沿って板葺き) H古墳時代の天皇や大王級の御遺体を古墳に運ぶための葬送儀礼用の舟形木製箱 ※ 朝鮮半島の文化要素がほぼゼロ
🌟新羅本紀🌟 弥生後期〜古墳時代 高句麗が調子乗り出すまで 百済を瀕死まで虐め抜いた残虐新羅が 当時の日本国にボッコボコにされている様子、朝鮮半島側の記録 戦後長い間、韓国忖度が続いてだれもが議論しなかっただけで 当時の百済人に呪われるほど憎まれた新羅が倭国人からボッコボコ状態 14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。 57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。 其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。(注:中国の1里は約400mであるので、一千里は400kmとなる。) 59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。 73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。 121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。 123年 春三月に倭国と講和した。 158年 倭人が交際のために訪れた。 173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」) 193年 倭人が大飢饉となり千余人にも及ぶ避難民到来。 208年 夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。 232年 夏四月に倭人が金城を包囲。 233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。 249年 夏四月に倭人が舒弗邯、昔于老を殺した。 287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。1千人を捕虜にして立ち去った。 289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。 292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。 294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。 295年 春 王が臣下に向かって 『倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。 私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見 はいかがか?」ときいた。 これに対して、舒弗邯、弘権が 「我々は海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。 王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 これに対して、舒弗邯、弘権が、 ▶「われわれは海戦に〔不慣れ〕でございます。 冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを 恐れます」 ※ 当時から海に不慣れな新羅人が明確。 この後も新羅、百済の両国とも人質を日本に差し出し朝貢する日本の被支配国である。
>>827 新羅本記って割と後の時代のものだけどどこまで真実なんだろう 倭国が荒ぶってたのは間違いないけど >>829 百済・高句麗関連は、中華丸写しだからな 新羅は、一応、元の記録に基づいてると思う 三種の何とかなんて、支配階級の当時の流行りグッズだったんだろ
日本に巣くうカルト宗教の馬鹿野郎はいい加減に目を覚ませ、自民公明に投票する愚か者どもが どんどん生活が苦しくなって、人権侵害までされていく現実に気付けや 血税を食い物にしてきた自民公明、そのツケを増税で賄おうとする日本国民の敵が自民公明だろが死ね! 自民(日本会議 神社本庁 統一教会) 都民ファースト(自民党別動隊、日本会議の小池百合子) 公明(SOKA学会) 維新(生長の家)自民別動隊 + 国民民主(裏切者)自民別動隊 ↑ こいつら全部グルの人権否定の憲法改悪勢力の中国式共産主義者 = 李氏朝鮮(百済、新羅、高句麗) 日本を支配している在日は李家という朝鮮貴族で、在日李家は中国や北朝鮮とグルの売国奴 戦争になれば真っ先に日本人を戦争に行かし、在日は悠々自適に生活する魂胆、戦争で日本人を殺して軍事産業を儲けさせ、見返りを得るテロリスト 中国式共産主義者安倍一味は李家の朝鮮貴族で日本国民の敵だ! 大日本帝国 = 李氏朝鮮(百済+新羅+高句麗) 安倍一味は倭国を乗っ取りした朝鮮人だろが死ね! 昭和 テレビ 冷蔵庫 レンシ電磁 平成 薄型テレビ PC 携帯電話 令和 動画サイト キャッシュレス EV
>>836 耳飾か、首飾り でっかいのを御神体にしてるところはあるかもしれん 纏向遺跡の発掘には関西の考古学者が多大な期待をもって多額の 発掘費用を使ったが出土したのは大量の桃の種と犬の骨w と なんの価値も無い土器だけ、恥ずかしいからすぐに土をかぶせて しまった、要するに臭い物には蓋と言う事だ。そのくせ未だに 纏向学とか仰らしい名前を付けて研究?している そんな金が あるならば佐賀平野や筑後平野を発掘した方が正解 >>837 耳飾りは耳璫(じとう)=ピアスを付けていた、勾玉はネックレス いつまでも進化しない民族だ 邪馬台国が大好きな名誉アリア土人ども
>>825 掘れば掘るだけ出るだろうね 宅地造成でどれだけの遺跡が闇に葬られたか解らんが >>70 「ペンペン草」は稲とともにやって来た外来植物じゃないか? 知らんけど。 >>843 おそらく外来 万葉集には出てこない 七草は、代わりに「セリ」が入ってた 漢方薬として日本に入ってきたみたい >>11 玉祖神社というのがへずまりゅうの出身地にある。 中国のbc4700−2900頃の紅山文化に pig dragon玉猪龙という小さな 翡翠のアクセサリーみたいなのがあって、それに勾玉は似てる。 日本の勾玉が中国製だったのは全く納得。 古代の九州や四国の豚は中国から持ち込まれた説も有力だが。
>>825 支石墓埋まってる場所知ってるけど誰も気づいてない 紅山文化は、中華じゃないよ 内モンゴルで、おそらく、ウラル語族(Y-DNA:N)
(-_-;)y-~ なまグリチャ見逃し配信色紙千尋たん垂れ流ししてるねんけど、 有田焼?
そのうち非破壊検査やるんで掘らずとも直ぐわかりますな
(-_-;)y-~ 肥前水軍働きまくってるのに、割りに合わんってことやろ。
五島や対馬でこっそりとナイナイしてた物を出しなさい
>>769 確か東海地方の土器が一番多いんだよね そっちの勢力が移って来たのかな 古墳の製法は吉備から習ったとか 結局教えられてばかりの無能さんですよね 偉そうにふんぞり返ってる人たちって(笑)
吉野ケ里遺跡は、北陸産出の翡翠や琉球地方のムラサキガイが発掘されてるんだよな。 神崎の荘は、平安時代は平氏の拠点で日宋貿易してたんだよな。筑後川流域にはずっと航海する人たちがいたっぽい。
五輪に魂の石とか言って一人一人に持たされ、退場くらう精神なんだろうな。 外国の気持ちを考えられないようなKY。
こちらが都のお偉いさん”専用”の密貿易拠点だったんだろうな。
>>861 中国史書の琉球伝で、琉球人が着ている服について朝貢に来ていた倭人に尋ねるシーンがある 倭人は屋久島の衣装だと答えてる 倭人は琉球まで交流のあった九州人に違いない 3行くらいしか書いてないのに勾玉とか 馬鹿かってなw
お薬の密貿易ができなくなって困りましたな土人(笑)
邪馬台国のスレだったかで、誰かが北九州の甕棺は東北や近畿の甕棺と違って 蓋があると書いてたのを思い出したが、それならば、北九州では蓋が落ちない ように、死体や副葬品が舌に落ちないように甕棺を縦にして傾かないように揺 れないよう、ごく丁寧に運んでた可能性がある。甕棺の寸法は口径68.4cm、 胴部最大径86.5cm、器高117cmを測り、重量は75kgであるとされるが、中身 の死体や副葬品を入れると150s余りだろうが、これの胴にロープをしっかり 巻き、それに肩帯を引っかけて対面の2人で運んだのだろう。 それに対して、東北や近畿では甕棺を横にして手で運んだのではないか? 重量物の運搬法の違いは文化の違いである。
>>829 記紀よりも後に書かれてるし記紀にある神説話も参考にしてるし信憑性は低い そもそも100-200年頃に新羅なんて国はないし原形と考えられてる国も辰韓地域に数十ある国の1つでしかない 記紀の神話を信じてる人達が新羅本紀の神話も信じてると思っとけばOK ”九州”なんていう中国由来の名称はどうでもいいんですけどねぇ(笑)
臭いものには蓋をするんじゃないでしょうか。 漬物かな 石かな?
>>838 桃の種と犬の骨って 呪術的に意味がありそう >>876 桃の種は岡山では数万個発見されてる そもそも纏向遺跡と桃の種が直接関係あるのかは不明 桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構 纏向建物と桃が同時期に存在したとは考えにくい 認知考古学をやってる奴に言いたいことは認知考古学は肉体労働の 深い経験が無いと話にならんよ。 あいつらは心理学ばかりやってるが。 まあ、文学や哲学をやるにも肉体労働の深い経験が必須だ。 反表象主義ってなんだ? 物それ自体をつかもうとするには質と量の把握が手っ取り早いが、 カントは外形しか問題にしなかった。 カントは虚弱野郎だったから
>>24 歴史書が西日本中心というだけだろ 関東にも歴史文化はあるわ 今のTVを見て東京が中心と思い込んでるのと同じ愚行 >>190 卑弥呼というのは第二次世界大戦後に魏志倭人伝という偽書を書いた中共チャンコロが妄想で書いた ちなみに邪馬台国は邪魔な台湾国という意味 >>752 日本は1万2000年前の縄文時代に鉄を溶かせる釜が存在してる その釜でアスファルトや貝を溶かした >>885 それこそ”筑秦”を”筑紫”にしただけだろう 秦氏の亡霊かね? 秦氏に頼って作られたわけだ。 まぁ否定はしないが筑紫なんて言語も好かんな だが表玄関はハカタだ。
七ケ瀬遺跡が筑後平野を抑えていたんじゃないか それが2世紀のどこかで消滅したことで 3世紀に狗奴国に対する防衛ラインの中心として 吉野ヶ里が再開発されて環濠になったんじゃないか
渡来系の伝承が多いのは佐賀博多ではなく豊前から吉備、畿内 耳垢乾いてる遺伝子が多いのもまぁ大体このラインという
>>815 割れた鏡の一部でもいいから墓に入れたかったのかな その思いは何だろう 九州で鏡の出土が減る同じ時期に畿内で鏡が激増してるのよな 大体この時期に中心が畿内に移っていったんだろうと推測されているが
>>893 副葬品を見ると中国鏡というのは他と各別の最上位の扱いを受けてるのが見て取れる 銅矛や他の宝物と比べても明らかに格上 国産の小形?製鏡が作れるようになっても国産鏡は扱いが低い だから破片でも良いから中国鏡が欲しいという事なんだろうと思う 用途も割って配布してる時点で姿見としての機能はほぼ損なわれてるから威信材、祭器として利用されていた事が分かる これは大陸では見られない扱いで日本人が過剰なくらい鏡を特別な物として見ていた事が分かるな >>895 卑弥呼から大和朝廷への変遷を類推するには面白い手がかりじゃないの? 割た鏡は銅材としての重量貨幣か、なるほどね。江戸時代ですら丁銀は重量と材質が問題で、豆板銀を束て重量を合わせた。そして丁銀は切っても良かった。 布の袋に鏡の破片を入れて香典を特定の金額にするとかだな。
>>871 北部九州の甕棺墓と近畿や東北の甕棺の写真を見れば形も大きさも 全く違う、北部九州の甕棺は中国長江中流域から出土した 甕棺と全く同じ形、近畿の甕棺は朝鮮半島北部で多く見かける 七ケ瀬遺跡と同様に祇園山遺跡でも石棺や甕棺が混在していることから この二つは1〜2世紀同時期に存在していたかもしれない その頃は伊都国に王がいて七ケ瀬遺跡や祇園山遺跡の首長が 伊都国の王を支える体制であったとしたら 多くの豪族が王を支えたヤマト王権とやり方が似ている
そもそも中国製の根拠ってなんだ? 成分分析したのか? 中国産鉄分子と日本産鉄分子の違いがあるの?
>>1 のとおり破鏡は北部九州の文化なので破鏡の分布の変遷を見れば東征の時期が分かる 破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、 弥生後期から古墳時代にかけて出土する その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる 図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より 弥生時代後期〜終末期 古墳時代前期 弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して 古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している 九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している 大分大野川流域は>>706 の鉄鏃の多量分布地帯なので戦死した邪馬台国の兵士の持ち物だろう 破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる 弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する 魏志倭人伝の直後くらいの時期に北部九州から畿内への東征が起きた考古学的裏付けといえる >>899 春秋戦国時代とか古い時代に渡ってきた文化と朝鮮南部に根拠地作って往来し始めて以降の文化の違いだろう 阿部寛顔と平たい顔族の違い 中国産の鏡と書くなら日本産の勾玉って書けよな 誤解させるための罠がうぜえ
>>897 既に畿内にも豪族はいたろうし移動して支配者側になったってのは無理あると思う 滅んだ邪馬台国の技術者が難民として流れたってとこだろう >>902 神武東征は卑弥呼の後か とするとやっぱり卑弥呼が天照大神なのかな? >>906 自分も邪馬台国→古大和朝廷と思ってたけど、ここで教えてもらった矢じり発掘跡の図(URL)をみて、古大和朝廷って邪馬台国倒してから東に向かったんじゃないかと思うようになりました。 >>902 これはなかなか面白い資料だな 邪馬台国は九州にあって、それが台与よりも後の時代に本州西部を支配下に置いていったということか 神武東征神話とも符号するな 漢の奴隷国だった頃の天皇の墓かな奴隷の王だとか 日本の始まりが中国の植民地とか
>>332 紀元前1万5000年頃って朝鮮半島って無人なんだよな 無人の土地に言語が存在できるとは驚きだ 犬が喋ってたのか? 出土品が重要なんじゃなくて佐賀県西部から初めて出土したというのが重要なんだよ。 ちゃんと読めよ、バカか。
>>902 面白い着眼点 いろいろな見方をして重層的になったデータから、見えてくる物もある 本来九州にあった住吉の本宮が大阪にあるし、古代の海人は半島から九州畿内くらいは自在に移動していたということ 阿曇江という阿曇の根拠地もあったようだし
>>920 海流的にそっち方面は無理じゃない? 日本海方面に流されるんじゃないかな? 大廻するなら別だけど。 >>921 弥生時代は日本海側から丹波のあたりを経由して畿内というルートがメインだったらしい 難所の多い瀬戸内海航路はその後。宇佐を必ず経由したのも海流の問題とか 日本の青銅祭器の流れを見ると 朝鮮半島から ・銅矛 ・銅戈 ・銅剣 ・多紐細文鏡 が伝わり、これが日本で作られ各々独自進化を遂げる形 でも鏡だけは日本ではすぐに作らないで、中国産に変わり最高の威信材になる 鏡、それも中国から手に入れたものが最高だという価値観がハッキリ現れてるのが分かる
>>924 鉄器の分布を見ると実際に行ってたようだぞ 房総半島は奈良盆地より先に鉄器を入手している 当時は鉄原料が国産化されておらず朝鮮半島からの全量輸入だから 鉄があるところに海人族が来ていたのはほぼ確実 日本海側がメインなのは事実だけどね 長野に鉄があるのは翡翠を取りに来た海人族が姫川を遡上したのだろう >>61 勾玉が盛んだった場所に 玉造って土地の名前で 大阪と出雲に名残があるな。 ヤマタノオロチ伝承がある斐伊川って川が 玉造とほど近い >>902 九州説はこうやってちゃんと考古学に基づいてるのがいいね 桃の種だのカエルの骨だのからこじつけるだけの畿内説は胡散臭すぎるわ 弥生時代の勾玉の出土の中心地は福岡となっている 弥生時代開始の時に全国的に勾玉の出土が減少した際に福岡がもっとも多くの勾玉を出す場所になってそれ以後中心的な位置にいる 稲作開始時に大きな構造的変化が起こった物と思われる 産地とされる糸魚川よりも他の場所に集中してる 中国地方で勾玉が盛んになるのは古墳時代から 世間一般に広まるイメージとはだいぶ違う図式になっているのが分かる
>>922 景行天皇が九州入りするルートは周防から姫島だもんな 景行天皇を三種の神器を持って出迎えた神夏磯媛(田油津媛の先祖)がこの海域を支配してた可能性は高い 加えて景行天皇を利用して鼻垂(宇佐)や耳垂(上毛下毛)・麻剥(田河郡)・土折猪折(緑川)といった地上の敵(こいつらは何故か土蜘蛛と書かれてない)を倒してる策士 応身仁徳あたりは特に九州との関係が深いな 継体天皇になったら磐井の乱が起きたが
魏志倭人伝に出てくる伊都国には代々王が居たという話は天皇だったんだよ
>>936 高千穂だと佐賀平野の豪族群(敢えて邪馬壹)と敵対なんだけど、その辺はどう考えます? >>937 別になんも 天皇は東京に行ってしまったし >>843 >>844 ペンペン草 = ナズナ で、春の七草。 ウィキペディアによると稲ではなくて >ムギ栽培の伝来と共に日本に渡来した史前帰化植物と考えられている。 との事。 元祖ヤマト王権は佐賀県の大和町から始まった でいいのかな
>>734 列島から半島に鉄を取りに行ってたって時点で689は違ってるな 取りに行ってのは在半島の倭人だよ 邪馬台国は国全体の名前で卑弥呼がいる都市名は女王国という可能性は
弥生時代後期なのか。 長崎県大村市の富の原遺跡が紀元前〜弥生時代後期前半で、福岡の遺跡も紀元前から になるので、紀元前まで遡る遺跡が近くにあるような気もする。
邪馬台国が7万戸に育つまでには相当な時間を要するはずだから やはり時間的密度から見て邪馬台国は九州だな
>>961 考古学的証拠を突きつけられてるのに醜いぞ敗残畿内 凶暴兇悪な北部九州の兵士が奈良になだれ込んで、奈良の男達は 腰抜けばかりで戦う事をしなかったので戦乱の痕跡が無い 図に乗った九州勢力は奈良の男達は奴隷として九州に連れ帰り 農奴としてこき使い、女は男の欲望を満たすだけの性奴隷に したんだろうな野蛮な九州土人らしい蛮行だ。
>>1 天皇の存在を飛鳥時代くらいからカウントしてるガクシャいるけど完全完全否定やんw 倭国大乱の痕跡は九州に集中している 東征で出雲をボコって 更に東へ行き、近畿地方にヤマト王権の拠点を構えて、巨大古墳を日本全国に造った。 邪馬台国から空白の150年の出来事
>>973 神武東征って瀬戸内経由だけど、それ以前に出雲をボコる東征があったってコト? 翡翠の勾玉って、東南アジア一帯の古代遺跡に広がってるんだよな。 東南アジアの勾玉は台湾産のnephriteネフライトが大方らしいが。 形状も東南アジアのはカーブがきついようだ。
東南アジアで勾玉が発見される地域というのは、これは全て焼畑の 地域ではないか? これらの地域の勾玉は殆どが円形に近いものが多い気がするが、こ れが焼畑農業の円環性を象徴してて、円環性の希薄な水田農耕と焼 畑が並行して存在した北九州地域の勾玉のカーブが緩やかで形状的 に円とは程遠くなったと見るのは穿ち過ぎかw hongshang cultue紅山文化の猪竜の翡翠も焼畑の円環性の象徴と 見える。
>>980 個人的には、勾玉は「イモ虫」を模した形状だと思ってる。イモ虫は、世界中の畜産技術の無い民族で 貴重なタンパク源としてよく食されてる。 勾玉には「豊かな食」の象徴の意味が託されてると考える。 地方公務員の広戸三千雄とその親、智永日佐夫は弱っているものから不動産やお金を詐取する人として屑です〜確実に…
地方公務員の広戸三千雄とその親、智永日佐夫は弱っているものから不動産やお金を詐取する人として屑です〜確実に…地方公務員の広戸三千雄とその親、智永日佐夫は弱っているものから不動産やお金を詐取する人として屑です地方公務員の広戸三千雄とその親、智永日佐夫は弱っているものから不動産やお金を詐取する人として屑です地方公務員の広戸三千雄とその親、智永日佐夫は弱っているものから不動産やお金を詐取する人として屑です地方公務員の広戸三千雄とその親、智永日佐夫は弱っているものから不動産やお金を詐取する人として屑です地方公務員の広戸三千雄とその親、智永日佐夫は弱っているものから不動産やお金を詐取する人として屑です地方公務員の広戸三千雄とその親、智永日佐夫は弱っているものから不動産やお金を詐取する人として屑です
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lud20230202210139ca
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