中央の山付近に「佐武ケ嶽城」があったという(京都府舞鶴市)
嶽さんが所有する文書の写し。「一族郎党残らず亡命」「別れを告げ方々へ落ち行く」などと書かれている
京田という地名は現在も残る(京都府舞鶴市)
6月13日は、明智光秀と羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が争った「山崎の戦い」があった日です。戦場になった「天王山」は、今も重要な勝負の分かれ目を表す言葉として使われますよね。そんな歴史的な日が近づいていたある日、知人の男性から「先祖が明智光秀の家臣で、山崎の戦いの後にどう逃げたかを書いた文書の写しがあります」という電話がかかってきました。文書を見せてもらうと、そこには戦に敗れた武士たちがどのような末路をたどったかが生々しい筆致で書かれていました。439年前の決戦と家臣のその後をたどってみましょう。
文書の持ち主は、整体師の嶽健次郎さん(48)=京都市右京区です。見せてもらった文書の写しによると、嶽さんの先祖はもともと「三上」という姓で滋賀県にいたとのこと。室町時代に現在の京都府舞鶴市に移り、「佐武ケ嶽城」という城を拠点にし、やがて明智光秀に従ったそうです。
天正10(1582)年、本能寺の変を起こした光秀は、豊臣秀吉と天下分け目の「山崎の戦い」に臨みます。光秀の家臣だったご先祖さまももちろん従軍。しかし、光秀軍はあえなく敗戦しました。
文書の写しには、その後の結末がしっかり書かれています。「(明智軍は)主従残らず山崎の陣中に倒れた」と記しています。さらに「一族郎党残らず亡命」「主従それぞれ別れを告げ方々へ落ち行く」とあります。どうやら光秀の家臣の大半は討たれ、残された一族や家臣もちりぢりばらばらに逃亡を余儀なくされたということのようです。落ち武者の悲哀が伝わってきます。
当時の当主で光秀の家臣だった三上信貞には3人の息子がおり、3人はそれぞれ舞鶴まで帰り着いたようです。しかし、もう武士の身分にはとどまれなかったようで、舞鶴市の西舞鶴地域の各地に分かれて住みました。長男は舞鶴市京田地域に住み、かつての城の名から1字を取り姓を「嶽」と改め、農家になったと書かれていました。
その子孫の一人が、今回連絡をくれた嶽さんというわけです。嶽さんは「先祖が住んだといわれる京田という場所は西舞鶴地域の中心部で、その後に細川藤孝(幽斎)が築いた田辺城に近い。藤孝との関係やどういう風に暮らしたかなど、子孫としてはまだまだ興味は尽きません」と話しています。
山崎の戦いと言えば、敗れた光秀が逃げる最中に命を落とすという劇的な結末が知られています。しかし、光秀だけでなくその家臣たち一人一人にも激動のドラマがあったようです。(まいどなニュース/京都新聞・浅井 佳穂)
6/11(金) 16:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210611-11296135-maidonans-life 坂本龍馬の家紋は桔梗 明智光秀の家紋も桔梗 明智光秀の居城は近江坂本城
坂本龍馬は本能寺の変後、土佐に逃げた明智光秀の家臣の末裔
ニュー速の戦国関連スレは
めちゃくちゃ伸びる。
みんな戦国が大好きなんだよな。
俺はそんなお前らが愛おしい。
>>1
日本には昔から「落武者狩り」の風習があったので好きな所に逃げるのはほぼムリ 麒麟がくるの山崎の戦いから光秀の最後まで別枠でやってほしいわ
あの新選組ごときでも出来たんだから出来るだろ
大原麗子主演の「春日局」の方が事細かに描かれているな
というか当時は農民、商人、僧侶になれば戦死扱いで見逃された
生きてれば討伐することになり戦になりかねずまた既に死亡を宣告した武将の面子が潰れるからである
実は斎藤義龍の子の龍興も織田軍に討たれたことになってるが富山で平穏無事に農民として暮らしている
つまり光秀の生存は確実で但し僧侶ではなく商人として暮したのだろうね
>>7
始終常に変だったし、ファンタジーと気持ち悪い愛憎だけの時代劇風お遊戯会だった 秀吉、戻るの速すぎ。光秀、弱すぎ。
本能寺からして、何もかもおかしい。
歴史学者が不甲斐なさすぎ。
細川の蝙蝠具合と
筒井の日和見具合が1番のポイント
信長の首が見つからないのがまずかった。
光秀に付いた後、もし、信長が生きて
後から出てきたら、信長に殺されちまう。
敗残兵は勝竜寺城にも入らず、散り散りに逃げたんかな
>>1
こんな現代人が読めるような文章かいてたの? >>13
他の武士はそうでも、光秀はさすがに見逃さないんじゃないか? >>10
今のドラマって
解釈としてドーンと出すけど
スタイリッシュに見せるだけで
描写ややり取りは情報量がなくて間延びしている >>5
自民党とか菅とか竹中関連も伸びるぞ
ほとんど同じ様なレスばかりだが 妻木広忠 自害。子の貞徳は、関が原で東軍について旗本7,500石
溝尾茂朝 自害
藤田行政 自害
安田国継 浪人。羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷、立花宗茂に仕え、旧友の寺沢広高に拾われる
伊勢貞興 戦死。兄の子の貞衡が旗本
阿閉貞征 処刑。一族誅滅
猪飼昇貞 戦死。子の秀貞は、裏切って斎藤利三を捕縛。旗本490石
木村吉清 秀吉に取り立てられて大名になるも、悪政で失脚。氏郷の客将となり、蒲生家移封後、独立大名1万5千石。「福島県」の命名者
松田政近 戦死。子は帰農
山崎長徳 柴田勝家を経て、前田家に仕える。関が原での功績で1万4千石
明智家重臣筆頭の斉藤内蔵助の娘お福は、公家の三条西家にかくまわれた
>>11
ジャップより挑戦人呼びの方が日本人には効くよ 二条で無駄死にした信忠
四国遠征軍瓦解で右往左往の信孝
安土城放火魔の信雄
ガキでしかない三法師
最近の大河は変なオリジナルキャラ出すのがコケてる原因だと思う
筒井順慶と長岡幽斎が万が一味方になったら、天下を競うに値する兵団になったかもな
並河易家 戦死か病死。子の宗為は、清正に仕え家老職
四王天政孝 戦死。弟の政実は、青木秀以、結城秀康に仕える
柴田勝定 堀家に仕え、1万3千石となるが、内紛で浪人
>>4
そもそも坂本龍馬は実はたいした活躍はなかったとして、近年の歴史の教科書からは名前が消えてる 明智光秀の軍勢13,000。
石高換算で約40万石ぶん。
信長の総石高750万石以上。
主家殺しの汚名を抱えて
生き延びるにはキツ過ぎる。
自称光秀の子孫とかいうアホが書いたトンデモ本ってネタにもならなかったな
>>37
あれだけエピソードがあるのにたいしたことないとは
司馬憎しが行き過ぎ まあしかし、秀吉の九州おお返しってよくよく考えると対してすごくないよなぁ。
北畠顕家だって20日くらいで奥州から畿内まできているし、案外普通にできんじゃないの
>>34
オリジナルキャラ出してグダグタにするのは最近の話ではなくて、昔からのお約束だぞ >>17
歴史の真実が重要視されるようになったのなんて戦後だしね。
歴史学者が不甲斐ないのも仕方ないところがある 明智って義昭の家臣だったから、
考えようによっては義昭の仇を討ったといえるのでは
もし秀吉を返り討ちにしてたら、歴史はどうなってたかな
光秀の生存が確実であるのは側近の斎藤利三の動き、秀吉の切迫した状況を見れば小学生でも分かる
何故大河でこの論証が無いのか不思議なぐらいである
6月13日、敗戦11日後に落ち延びる途中負傷し側近に介錯され自害し隠されたたとされる光秀の首は
早速農民から織田方に引き渡されるが
6月17日斎藤利三が捕縛され確かに光秀の首と請け合って利三は6月18日磔刑となり
6月23日光秀の首と利三の遺骸は晒し物となる
一方柴田勝家は6月10日には光秀討伐に軍を上げ6月18日には近江に到達するがこのとき既に光秀は討たれ利三も死刑となっていたていた
つまり秀吉から見ると勝家軍が南下すり6月11日から6月17日の間には絶対に光秀の首を取らねば織田家の主導権争いで勝家に勝つことは難しかった
このギリギリのタイミングで
光秀が自害し、隠された首が見つかり、更に最側近の利三が生きて捕縛され、利三が光秀の首と請け合う
という4重の好運が起きたことになる
当然そんな僥倖はあり得ず
勝家南下に追い詰められる秀吉の心理を読んで利三が身を呈して光秀を逃したのである
利三と秀吉の間で阿吽の呼吸の密約が捕縛前にあったのも当然だろう
こうして公然の秘密だが、
最側近の利三が請合う以上勝家も反論できず、しかも利三は勝家到着直前に覚悟の上で死刑となったから詰問もできない
要するに光秀の読みが秀吉と勝家を手玉に取り無事わが身を隠したのである
>>44
距離日数の問題だけじゃなくて毛利家と交戦中の状態
普通に考えたらすぐ和睦はまとまらない
それも込みだから電光石火ともいえる
当然毛利も秀吉に恩を売った方がよいという計算ずく 光秀は実力者でもないのにバカなことを
し腐って 史上最低の愚か者だ
勝家や池田、丹羽などもいるし
家康も仇討ちの軍勢を整えていたという。
信孝や信雄という御輿もいるわけだし
秀吉を返り討ちにしたところで
厳しかったのではないか。
>>50
勝家あたりが織田家中まとめて新当主たてたんじゃないかなぁ
流石に光秀単体じゃ織田家に勝てないでしょう >>15
弥助が信長の首をもっていって
デスマスクをつくったとか伝説があったよな >>50
光秀に秀吉家康のように天下統一をする力量があったかどうか?
もしかしたら群雄割拠の時代が長く続いてイタリアみたいに統一国家ができるのが遅れたかもしれない。 >>54
朝廷工作をしていたから
織田家臣団に対して朝敵、討伐令の綸旨を出してもらえば
北条や毛利や上杉や長曾我部や島津や伊達が
一斉に外側から襲い掛かって織田家臣団崩壊という
逆転劇を狙っていたんじゃないかな?
その猶予が秀吉の中国大返しでオジャンにされたんだと思っている >>53
まあ、でもそういうひとやろ
実力ではなく、家柄マンセー=足利将軍派なんやないのー
その末裔もそういう傾向なんかもね >>51
日光に残ってる桔梗の紋とかは?家康の庇護受けてたか相談役になってたってことはないかな? >>52
いっても、北畠だって奥州の足利方と交戦状態だけど上洛してきたよ >>60
でも秀吉以上の速度で織田家中駆け上がっていった人物が実力が無いってことは無いと思うけどね そもそも臣下多数が無事に逃げ延びてる状況で、光秀が逃げ延びられず、利三もうかうかと捕縛される
このような珍説を信じる人間はどこにも居ない
天下人になる秀吉から見ても絶対にあってはならぬ取り逃がしだから再度の詮議すらない
光秀の生存は間違いなく事実である
そもそもこの頃の武将は似たように落延びた者が多い
戦国の世では敗者が死んだと本人が認め別人になればそれでカタがついたのである
天海は、光秀縁の人物であろうことは言えるけど、
光秀ニダとか言うのは電波
「一族郎党残らず命亡く」じゃなくて「亡命した」なの?
詳しい人教えて。
>>65
言われてみればそうだな
wikiにも
>顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、その後も渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉の中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である。
書いてあったわ
戦略として秀吉が誇大に宣伝した面もあるんだろね、こんなに速く帰ってきたぞーって
光秀は焦るしどっちに付くか迷ってる連中への牽制にもなる >>44
太平記は三国志演義と同じファンタジーや
史実じゃない 光秀も信長が天下をとったらポイ捨てされると思ってやっちゃったんだろうな
>>73
太平記には50万の軍勢とか出てくるよな(笑) 佐久間をポイ捨てさせようと讒言したが、ばれて折檻された
長宗我部の家臣になって江戸期以降は土佐藩下士
幕末に土佐勤王党やら龍馬やらになって活躍
武田信玄の家臣も採用してたのが家康
日本はシナチョンのように皆殺しはしてない
>>13
まんが日本昔話に斉藤義龍の何代か後の子孫と思われる
元武将の人のはなしが有ったわw >>77
光秀が本能寺の変を起こしたのも
自分が外交交渉やった長曾我部を信長が攻めることを決めたので
光秀は四国全土を安堵した長曾我部に顔向けできなくなったからって説あるからな
それが真実だったら長曾我部は光秀に大きな借りがあるもんな まあ信長も既に49歳だったから、変の有無に関わらず、歴史は大して変わらなかったような気もする
令和の司馬史感を持ってる俺が教えてやる
山奥入って農民になっただけだよ
>>43
坂本龍馬はエピソードの多くが明治時代に作られたものだという話しもあるね 毛利、長宗我部、上杉は光秀様々だっただろう。
あのまま交戦していたら
滅亡か不利な講和(従属)を飲まされていた。
地元じゃひっそりと光秀の供養を毎年してたよ
名前を変えた臣下や女中?のような仲働きをしていた人たちの子孫が集まってた
地名も変えていたけど、少し前に戻した
城址はも二十年くらい前は酷いもんだった
卒塔婆がゴロゴロ転がってたし
城への道は倒木でふさがれていたりと
荒れ果ててたな
光秀もクーデターを成功させるし、畿内を速やかに平定しているので決して無能じゃないんだよね。光秀 vs 秀吉は神々の戦いだわ。
いつまでも手柄あげる自信がなく、そこへ林佐渡、佐久間父子の追放、荒木村重の一族処罰があって、次は自分かもしれないのだ、とノイローゼになってしまったとか
天王山付近に松田性が沢山居る。
あれって松田政近の繋がりで参戦させられた
土豪の松田一族の末裔なんだろうな。
>>86
京都〜安土間をかろうじて維持してただけで、近畿制圧なんて出来て無いぞ 秀吉の家臣になればラクできると思ったので
すぐ負けたのが実情だろ
三成や勝頼もやたら凡将扱いする人いるが、昭和史観で歴史の敗者が不当に低評価で
そのマイナス出発が最近見直されてきたイメージ
光秀が雑魚だったら織田家で一番の出世頭になんてならない
朝廷・将軍家との折衝を務める教養、謀略の才も民政の才もあり戦闘指揮官としても
優秀
そんな優秀な男が動機もわからず突如謀反を起こしてあっけなく敗れたからミステリーになってる