戦前の沖縄の人や風景を写した写真165枚が、朝日新聞大阪本社(大阪市)で見つかった。戦前の沖縄の写真は戦災で多くが失われ、まとまった形で見つかるのは珍しい。その中から選んだ写真を紹介する。
焼き物が盛んな那覇市の壺屋地区。1944年ごろに撮影されたとみられる写真に、代表的な工房が写っている。
那覇市の壺屋焼物博物館によると、1672年に首里城正殿が瓦ぶきで再建されるなど、地元では瓦の需要が増大。首里王府が1682年に陶工たちを移住させ、多数の窯を築いたのが壺屋で、「壺屋焼」の始まりと言われる。主に食器やつぼなど日用雑器がつくられていた。
太平洋戦争で物資が不足し始め、壺屋では1944年ごろから軍用の飯わんや蓄電用のバッテリーケース、電線を固定するための碍子(がいし)などもつくらされた。
写真は「壺屋焼の名人」といわれる小橋川仁王(におう)(1877〜1954)=写真奥=が軍用か県外向けと思われる土瓶をつくっているところ。工房はその後「仁王窯」と呼ばれるようになった。
写真の裏には「父子」とあり、隣にいるのは、仁王の息子で戦後の壺屋焼を支えた名工、永昌(えいしょう)(1909〜78)。壺屋町民会自治会長の島袋文雄さん(83)は、永昌の姿をよく覚えている。壺屋で生まれ育ち、永昌とは親戚関係。壺屋の古い話や、永昌が熱心に取り組んだ「赤絵」の話をよくしてくれたという。「写真を見てすぐに永昌だとわかりました。壺屋の重鎮とも言える人です」
永昌のこの時期の写真はあまり残っておらず、同館は「極めて貴重」とする。
…続きはソースで。
https://digital.asahi.com/articles/ASP305WBPP3LTIPE03Q.html
2021年5月25日 14時43分
焼き物が盛んな那覇市の壺屋地区。1944年ごろに撮影されたとみられる写真に、代表的な工房が写っている。
那覇市の壺屋焼物博物館によると、1672年に首里城正殿が瓦ぶきで再建されるなど、地元では瓦の需要が増大。首里王府が1682年に陶工たちを移住させ、多数の窯を築いたのが壺屋で、「壺屋焼」の始まりと言われる。主に食器やつぼなど日用雑器がつくられていた。
太平洋戦争で物資が不足し始め、壺屋では1944年ごろから軍用の飯わんや蓄電用のバッテリーケース、電線を固定するための碍子(がいし)などもつくらされた。
写真は「壺屋焼の名人」といわれる小橋川仁王(におう)(1877〜1954)=写真奥=が軍用か県外向けと思われる土瓶をつくっているところ。工房はその後「仁王窯」と呼ばれるようになった。
写真の裏には「父子」とあり、隣にいるのは、仁王の息子で戦後の壺屋焼を支えた名工、永昌(えいしょう)(1909〜78)。壺屋町民会自治会長の島袋文雄さん(83)は、永昌の姿をよく覚えている。壺屋で生まれ育ち、永昌とは親戚関係。壺屋の古い話や、永昌が熱心に取り組んだ「赤絵」の話をよくしてくれたという。「写真を見てすぐに永昌だとわかりました。壺屋の重鎮とも言える人です」
永昌のこの時期の写真はあまり残っておらず、同館は「極めて貴重」とする。
…続きはソースで。
https://digital.asahi.com/articles/ASP305WBPP3LTIPE03Q.html
2021年5月25日 14時43分