※読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201219-OYT1T50326/
中国の史書・魏志倭人伝が伝える奴国なこくの王都とされる福岡県春日市の須玖すぐ遺跡群で、国内最古となる
弥生時代中期前半(紀元前2世紀頃)の計量用の重り「権けん」が出土した。
重さの規格は韓国出土の権と共通しており、奴国が大陸の度量衡の制度をいち早く受容し、青銅器生産などに利用していたことを示す発見だ。
福岡平野南部にある同遺跡群は、国内最古級の青銅器の生産工房跡として知られる。
2014年までに同市教育委員会の調査で出土した円筒形の石製品8点を武末純一・福岡大名誉教授(考古学)が分析し、
上下を平らに加工した形状などから権と判断した。
権とは天秤てんびんなどで重さを量る「分銅」にあたり、組み合わせることで、基本となる重さのさまざまな倍数の計量が可能になる。
今回見つかったのは5・85グラム〜337・19グラム。
ほぼ完全な形で残る5点は、韓国慶尚南道・茶戸里タホリ遺跡の権(約11グラム)の3倍(2点)、6倍、20倍、30倍の重さとなっていた。
武末名誉教授は、
「青銅器の鋳型とともに出土していることから、原材料の計量に用いられたのだろう。青銅器の国産が、朝鮮半島の技術を直接導入して行われたことを示すもの」
と評価している。
国内では「弥生分銅」と称される権が、紀元前後に近畿を中心に分布したが、その基本単位(8・67グラム)は大陸に類例がなく、
近畿文化圏独自のものと考えられている。
石川日出志・明治大教授(考古学)の話
「朝鮮半島と九州の間に共通の計量制度に基づく経済活動が成立していたことになる。当時の東アジアの中での流通や経済を探る上で重要な資料だ」 本当に出土品?誰かが早朝にこっそり埋めてなかったか?
縄文文化は一万六千年前から存在。
弥生時代から現代まで、二千五百年すら経っていないという事実。
20kgの分銅両手に持って、50個
載せるのはつらいぞw
この当時、九州南部除く西日本と朝鮮半島南部や済州島は、
弥生系民族が主流派なんだろ
中国の資料通りなら直接中国の技術だろ
いきなり朝鮮とか言い出すのが笑える
どんなに頑張っても邪馬台国が発見されない
魏志倭人伝、カラ出張説
日本の古代を調べるのも中国の歴史書頼みか
原始人が群れていた弥生時代に中国では三国志をやっているぐらい文明差があったから仕方ないか
今の韓国人と弥生人は別民族だけどね、
韓国人は、モンゴル人。
ネトウヨファンタジー歴史観だと日本が大陸を支配してた証拠になるんだろうなw
早く、朝鮮半島南部の狗邪韓国は倭国だった事を教科書に明記させようぜ。
武末 純一ってのは、狗邪韓国が
倭国だった事を知らずに
名誉教授になっちゃったって事だろ?
そっちの方が考古学の謎だわ。
>>3
どうして近畿説にこだわる奴がいるのか不明だが
もうこれで久留米から熊本?
あたりで決まりだな
魏志倭人伝の旅の日数は、話盛ったか
わざと日程を引き伸ばして連れて行ったか もうこれで決まりなんだよ。
狗邪韓国のタホリ遺跡と奴国の須玖遺跡から、
この地域しか無い度量衡の規準器が発掘された事で、
後漢書東夷伝に書かれた、
韓半島南部が倭国領狗邪韓国が、
実際に正しかった事が決定した。
武末 純一は寝ぼけた事言ってちゃいかんわ。
九州北部の
紀元前2世紀の有力者の遺跡
・伊都国 三雲遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡 ←分銅がでる
・佐賀 吉野ヶ里遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
・早良 桶渡遺跡
・嘉穂 立岩遺跡
・筑紫野 隈・西小田遺跡
・朝倉 峯遺跡
↓
紀元前1世紀の有力者の遺跡
・伊都国 井原遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 二塚山遺跡
・末慮国 桜馬場遺跡
↓
2世紀後半の有力者の遺跡
伊都国 平原遺跡
↓
2世紀末の有力者の遺跡
消滅
↓
3世紀ヤマト国
>>3
記事を読む限り邪馬台国じゃなくて奴国だと思う >>37
これはそういうことだよね
大陸では見つかっておらず九州と半島とだけ
近畿のものとも違う
記事本文のごちゃごちゃっぷりよりシンプルで説得力がある >>34
フンドー
フンドーダイ醬油(熊本県熊本市北区)フンドーキン醬油(大分県臼杵市) 大陸の高度な文明は九州北西部の玄海灘側金印の委奴国等が発祥
後の邪馬台国は蛮族中心のモンゴル国と同義
女王は三種の神器が出土した糸島半島南部の三雲にいたけどね。
>>31
馬韓、辰韓、弁韓と共に倭人の国の投馬国を朝鮮半島南部地域にあったと記述すべきだな。 紀元前3世紀を追加した
九州北部の
紀元前3世紀の有力者の遺跡
・早良 吉武高木遺跡
・奴国 板付田端遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
↓
紀元前2世紀の有力者の遺跡
・伊都国 三雲遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
・早良 桶渡遺跡
・嘉穂 鎌田原遺跡、立岩遺跡
・筑紫野 隈・西小田遺跡
・朝倉 峯遺跡
↓
紀元前1世紀の有力者の遺跡
・伊都国 井原遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 二塚山遺跡
・末慮国 桜馬場遺跡
↓
2世紀後半の有力者の遺跡
伊都国 平原遺跡
↓
2世紀末の有力者の遺跡
消滅
>>3
福岡県の博多だよ
邪馬台国は無かった (古田武彦) 読めよ
畿内説、筑後山門 説に 政治的に負けたが(東大閥,京大閥に)
彼の3世紀短里説、魏鏡=銅鏡100枚(卑弥呼への下賜品)
これ無視する限り100年 立っても 解決しない
この人の出番だな
>>3
まあ、それに関係するような物的証拠が近畿より北九州に出てるからな。 この時代は邪馬台国とかより前の漢代で金印貰ったのも漢代
>>23
日本はKCIA(韓国CIA)に侵食されてる国
九州弥生人と韓国弥生人の頃から変わらない
今の韓国人をモンゴルに押し付けるな
弱虫日本人 >>23
つまりお前は韓国をモンゴルより上だと思ってるからその悪口が成り立つと思ってるんだな
韓国人が演技してもすぐバレる >>1
朝倉市の大嘘夢想祭り卑弥呼の里大祭が笑える!!
遺跡すらないのによくやるよ!! 漢委奴国の金印は捏造だ!とほざいていた我が国の保守右翼左翼どもの恥ずかしい記録映画を作らないとね。
>>48
後世に三国時代の銅鋳溶かして魏鏡真似て国内でこさえた三角縁神獣鏡は出土しても"魏鏡百枚"に相当するもんは未だに出土しとらんからの 片っ端から鋳溶かしてもうたんとちゃうか 保守は台湾に 右翼は北朝鮮に 左翼は中国共産党に リベラルは韓国に媚びへつらう売国奴だもんな。
救えませんね
ヤマタイが九州でも畿内でもいい東北土人だが
金印は出土場所も後の経緯も怪しいって思うんだ
>>1
中国とすると邪馬台国に繋がりかねないので
朝鮮半島としました >>58
鉄器使い始めるの北方騎馬民族のが中華よかずっと昔から使ってるかんな 朝鮮半島はもう民族が変わってる
半島南部は日本領と主張するならいいけど
飛鳥京や平城京の建物だって半島と共通の長さの単位使ってたりしたろが
>>6
まあ大陸と共通だから、交易や青銅の配分辺りと推察されてたか
因みに分銅そのものはこれより古い石製のがあるし、青銅製も滋賀で環権が出土してる >>76
それコイツから700年とか800年とか後の話やし >>33
倭人伝を読んだら邪馬台国は
距離的にはせいぜい熊本と大分までの間あたりだよね。
しかも当時の中国人の地理認識がこの通り日本列島が傾いて認識されていて
「海路南下」だから大分方面で決定。
久留米や熊本だったら「陸路南下」と書かれるはず。 邪馬台国が九州でもよいが
問題は卑弥呼の年代直後(あるいはかぶって)
近畿に大型の前方後円墳が出現して、ずっと6世紀まで続いていることだろ?
この関係性は?
箸墓と同系統の前方後円墳は那珂”八幡”古墳というものが存在する
この時期、やたらと”八幡”が出てきたあたりから東九州〜近畿の方が目立つようになりましたね
>>48
古田武彦
↑このひと今更ながらすごい 全集読み返してつくづく感動
いろいろあるが稲荷山古墳出土鉄剣 当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、
これちがうと 純粋に関東の王であると 栃木県に「シキの宮」あると 大前神社のこと
あと、誰も無視してるが「室見川の銘板」のこととか 「記紀」に記されているのは東九州から奈良に東征する神武のお話 あと出雲
こちらとは関係の無い浅い歴史なのでしょうね。
>>84
第225回活動記録 神武天皇陵の謎 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)
はその著書のなかで、洞村(被差別部落)の区長宅で多くの老人たちから聞いた
洞村内部の話を次のように伝えている。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は
街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上で ...
yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm - 13k - キャッシュ - 関連ページ
↑うちらの先祖は九州から神武にくっついてここに来たという伝承をつたえる @@@@@@@@@@@@@@@ 何でも良いけどいつまでも歴史と戦ってなよ(笑)
こちら(博多湾沿岸)としてはどうでも良すぎるからな。
また自分たちの都合のいいように編纂しなよw それで済むのだったらな
まあねえ度量衡の統一こそが文明において統治において
商取引において極めて大事なことはうまでもないのだから
秦の始皇帝でも本朝の豊太閤でも天下一統の暁には
単位の統一には特に意を払うのさ。
そしてこれは古代の本邦も同じことであって>1には
「青銅器の国産が、朝鮮半島の技術を直接導入して行われたことを示すもの」
と書いてあるように、兄の国である偉大なる大韓から
下賜された原器をもちいて、ここでは分銅というから重さなんだろうが
これを統一すべく本邦政治勢力が動いたということは
これは極めて象徴的なんだよ。
そして、東洋において例えば宗主国が服属国に暦や印章、鏡を与えたように
重量原器の分銅を下賜したこと、これこそがまさにジャップ国が
偉大なる大韓に服属してその勢力下にはいっていたことの傍証ともいえるのだよwww
韓日友好! 韓日合邦!!
弥生時代の環濠(かんごう)集落として知られる亀井遺跡(大阪府八尾市など)で約30年前に出土した弥生時代前期末(約2400年前)の石製品11点が、国内最古のてんびん用の分銅とみられることが7日、奈良文化財研究所の森本晋国際遺跡研究室長の分析で分かった。
これまでの原の辻遺跡(長崎県壱岐市)の中国製とみられる青銅製分銅の「権」(弥生時代後期)より500年以上さかのぼる。古代の度量衡制度を探る上で第一級の史料となりそう。
一緒に出土した石きねには、祭祀(さいし)などに用いられた貴重な赤色顔料の朱が付いていたため、朱の配分で厳密に重さを量る際に必要だったとみている。
石製品11点は長さ3〜8センチ、直径1〜4.5センチの円柱形。石材は輝緑岩などで、全体が丁寧に磨かれていた。
製作途中とみられる1点を除く10点の重さは、6種に分類できた。最軽量は8.7グラムで、ほかは17.6グラム、34.5グラムなど、最軽量の2、4、8、16倍となる値に近い。最重量は約32倍の280グラムだった。重さの違う6個1セットで、本来は2セットあったとみている。
>>87
北九州で稲作始めたのもなんと縄文人! 最新の遺伝子研究による
437名無しさん@恐縮です2020/01/26(日) 14:40:50.27ID:nG9Xq01D0
>>428 更に渡来人系は戦争捕虜系や百済難民系など色々あるんじゃね?
?????????????
そもそも、渡来人ってそんなにきてない 海があるから渡れないよ @@@@@@@@@@@@@@@@@@
弥生時代後期、古墳時代ふくめてもせいぜい4,5千人
847名無しさん@1周年2020/01/16(木) 19:08:02.94ID:pZ8+gPmS0
>>824 大陸の高度な文明を輸入した半島が日本列島を支配した
?????????????
それ違うから↓
蝦夷は製鉄文化を持っていて、「舞草刀」という刀を作る技術があった
湾曲して片刃の世界にも類例のない日本刀の原型では?という説もある
『蕨手刀―日本刀の始源に関する一考察』 (1966年)石井昌国著
『古代刀と鉄の科学』石井昌國著、佐々木稔著 >>12
ふん、どうせこの学術的意義もわからんカスだろお前
ところでこれって何がすごいの? 韓国出土は紀元前2世紀から3世紀
遅い可能性あるやん
なんで韓国から伝わったてしなきゃならないのかね
韓国慶尚南道・茶戸里タホリ遺跡
紀元前2世紀から紀元後3世紀
何この幅いい加減やろ
日本人が博多湾沿岸の歴史をマトモに研究しないからだよ。
どんどん朝鮮半島のほうが進んでいた! とういうふうに書き換えられていくだろうな(笑)
バカな歴史家は自業自得だろ
>>95
つーか事実としては中国と一緒なのが日韓それぞれにあったという話だもんな
金印という実例有るし、中国から直でも不思議無いのにね 奴国(福岡)で積み荷を降ろして軽量し、丸木舟に積み替えて奈良まで運ぶか?
ちょっと考えにくいのでは
海洋国家と組んでいれば敗戦国にならずに済んだというのに…
「山」が好き過ぎる勢力はそんなに大陸国家と組んで地獄へと道ずれになりたいのかね?
また同じ過ちを繰り返すのか 自国の歴史を直視せよ
あーこれ誤報だよ
歓喜してるチョンモメンと福岡人には悪いけど
国内最古、弥生前期末の分銅 大阪・亀井遺跡
2013年6月8日 2:00
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG07049_X00C13A6CR8000
弥生時代の環濠(かんごう)集落として知られる亀井遺跡(大阪府八尾市など)で
約30年前に出土した弥生時代前期末(約2400年前)の石製品11点が、
国内最古のてんびん用の分銅とみられることが7日、
奈良文化財研究所の森本晋国際遺跡研究室長の分析で分かった。
これまでの原の辻遺跡(長崎県壱岐市)の中国製とみられる青銅製分銅の「権」
(弥生時代後期)より500年以上さかのぼる。
古代の度量衡制度を探る上で第一級の史料となりそう。 前方後円墳はズバリ、
トヨの使者が洛陽の郊外で見た、
司馬炎が冬至と夏至の祭りを合わせて行ったと言う、
円丘方丘を合わせた祭壇である。
コレは清朝まで、中国王朝の歴代の皇帝が祭りを行っていた、
天壇や地壇と同じようなもので、
天壇は奇数で高く、地壇は偶数で低く作られている事と、
前方後円墳の前方が偶数で低く、
後円が奇数で高く作られている事から、
ソレであることが分かる。
たまたまトヨの使者が司馬炎の皇帝就任を祝うために洛陽に着いた時期が、
司馬炎が円丘方丘の祭りを行う時期に一致していた為で、
その様な盛大な祭りを見たトヨの使者が、
自分達がその様な歓待を受けた事に感激して、
日本で作って広めたものであろう。
この様にして、前方後円墳は、
晋とのつながりを意識して造られたものであるが、
ソレを示す遺物が他にもある。
石上神社の七支刀だ。
七支刀の銘文には次の文がある。
「百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝と倭に寄せることにした」
晋と百済と倭は繋がりが強かった事を示す一文である。
大陸に近い福岡より大阪の方が古い分銅が見つかっているのか
昔は黒潮に乗って様々なものが一方通行でもたらされていたのかもな
あくまでも中国朝鮮規格で作った最古の権たろうね>>1
大和規格の権は2400年前のが出ている へえ、こんな大昔から銅を精製できる技術があったんだね
こうゆう化学みたいな知識があったのもすごいんだけど、最初に発明した人って天才だよね
>>110
ちょうど亀井遺跡の2400年前の分銅が作られた頃
周朝の兄弟国な春秋の呉国が滅亡した時期と一致するんだよ
そして残る伝承「倭人は呉の太伯の末裔」と
天皇家の隠された姓が姫との説がある >>111
中国朝鮮規格ではなく、
倭国規格で作った分銅だ。 >>114
>>1
重さの規格は韓国出土の権と共通しており、奴国が大陸の度量衡の制度を
いち早く受容し、青銅器生産などに利用していたことを示す発見だ。 分銅はただの石だし
韓国慶尚南道・茶戸里タホリ遺跡の権というの見せてほしいわ
>>113
それは肥後に住んだ松野連のこと
系譜にちゃんと書かれてる >>115
違う。
タホリ遺跡は、後漢書東夷伝や、
魏志倭人伝に書かれた、
朝鮮半島南部に存在する
倭の狗邪韓国の遺跡であり、
奴国と同じ度量衡単位の分銅が出た事で、
実際に朝鮮半島南部の狗邪韓国が、
倭の領土である事が証明された事例である。 後漢書 編集
『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は三韓の位置関係をより具体的に、
馬韓は西部に在り、54国を有し、その北は楽浪郡と、南は倭と接する。辰韓は東部に在り、12国を有し、その北は濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国を有し、その南はまた倭と接する。
と述べ、「韓」の西岸に馬韓が、東岸の北部に辰韓、東岸の南部に弁辰(辰韓)があり、馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも朝鮮半島の南海岸部から「倭」の領域であるとしている。
『三国志』「魏書」東夷伝韓条には、
韓は帯方郡の南にあり、東方と西方は海によって区切られ、南方で倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある[1]。
とあり、韓は南方では陸続きに倭と接すると述べている。
『三国志』「魏書」東夷伝倭人条では、
帯方郡より倭に至るは、海岸にしたがひて水行し、韓の国をへ、あるいは南しあるいは東し、其の北岸の狗邪韓国に到り、七千余里。
始めて一海を度ること、千余里にして対馬国へ至る。
とあり、狗邪韓国を「その(= 倭の)北岸」と述べている。
クズにカス ガか。
大昔栄えてたけど、大和朝廷にそのままつながるワケではないのだろうな。
シラギという言い方が良い言葉ではないのに似てる。
この様にして、後漢書と三国志魏書という、
中国の正史に書かれた
「朝鮮半島南部に倭の領土の狗邪韓国がある」
という記述が実際に正しい事が、
狗邪韓国に比定されるタホリ遺跡と、
奴国に比定される須玖遺跡にしか適用出来ない
度量衡単位量の分銅が出た事で、
裏付けられたのである。
最早、狗邪韓国という倭国の領土が、
朝鮮半島南部にあった事を教科書に載せることに、
なんの躊躇もあってはならない。
見てるか?東京書籍。
>>122
全く違う
大阪からこんな大陸劣化コピー品でなく遥かに古い2400年前の分銅出てるからね 古朝鮮・高句麗・扶余・渤海まで歴史が一脈相通じる朝鮮民族の歴史ではなく、古代中国の地方民族政権の歴史で、中国歴史である
と中国からも言われてるのに
教科書に何が書いてあるかではなく、
教科書に何を書くのかだよ。
>国内では「弥生分銅」と称される権が、
>紀元前後に近畿を中心に分布したが、
>その基本単位(8・67グラム)は大陸に類例がなく、
>近畿文化圏独自のものと考えられている。
始皇帝によって中国は言葉や単位やその他を統一させられて
焚書坑儒で負けた国の歴史は消されて
元はばらばらだった国々が中華という国を形成するに至る
古代日本の大陸文化をそのまま取り入れず銅鐸や銅鏡のように
形を変えたり使い方を変えたりした反骨精神は
秦に滅ぼされて存在していた懇請を消された国の渡来人の影響かもね
中国が大国になるきっかけを作ったのは
焚書坑儒や言語の統一を行った始皇帝のおかげなのよ
漢字の成り立ちで残酷なのが多いのは敗戦国をビビらせるためだろう
始皇帝の存在が無ければ中国は民族や住む地域で
言葉や風習が違ってバラバラの国だった可能性があるし
日本にも影響がでた可能性がある
秦始皇帝て50歳で死んでるんだよな子供も
末裔である弓月が漢人中国人3人連れて日本に来ようとするが新羅に妨害されて加那てとこ一時居て
日本の援護でなんとか大分に来るらしいんだけど
その頃にももう銅鉄稲作だいたい揃ってんだよな
百済の民連れてきたと言っても秦始皇帝が使ってる言葉にするだろうよ
なんで百済
こんだけ援助した歴史があるのになんだかね
博多奴国には国内最古の青銅、製鉄生産拠点が存在していたということ。
それを大陸と交易しながら大きな経済圏、生活圏がすでに構築されていたのであろう。
水稲作、青銅、製鉄の発祥 そして金印 まさに(倭国)和国のはじまりの地である。
滇王国があった雲南省のハプロD系は36%と多く残ってるので縄文人が住んでいたでいいと思うわ
水耕稲作青銅宝石の産地でもある武器というより芸術作品を好んだ長江文明発祥地
平和を愛する部族で動物も一緒に埋葬した倭族もいた
前漢辺りで日本への供給が滞り後漢で勢力範囲が狭くなって九州との交易を残した
それまでは日本列島あちこちに行ってたんじゃないかて思う
南米まで縄文人が行ったのが本当ならちょろいっす
何処の世界も海人族系の人達は、平和を愛することが共通のようですね
57年 漢委奴国(ウィナ)は間違いなく九州
107年 倭面土国(ワミャンツォ)は果たしてどこなのか
倭国大乱(146-189年ごろ)の舞台はどこなのか
そう考えてみると邪馬台国(ヤマト)はまあ九州だろうな
倭国大乱でヤマトの王族が近畿に逃れ東ヤマトに
残された一族は九州で邪馬台国に東西分裂した可能性
いや、まだゴッドハンドの可能性が残る
時間を待たないとな
昔、糸島半島西部から博多湾に抜ける瀬戸が存在していたらしいよね
邪馬台国は九州でいいけど
前漢時代にもらった滇王国金印と後漢時代に日本が貰った類似性と
>現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を建国したという説がある。また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚を建国した
中国南部に倭族縄文人が居たでいいと思うわ
前漢時代より後漢時代の方が支配範囲が減るのが気になるな
滇王国雲南省辺りは外れる
>>110
滋賀の上御殿遺跡で朝鮮に出土例ない短剣鋳型が見つかっている
なので黒潮や九州経由と別に、日本海経由で大陸と直に交流してた可能性も示唆されてたりする >>122
>シラギという言い方が良い言葉ではない・・・
シラギは蔑称なのですか?現地名新羅シ(ル)ラに
付与された「ギ」には如何なる意味があるのですか? 近畿の分銅はあやしいな
福岡は工房が存在し、製造技術を有していた。
九州の分銅の重さと関西の分銅の重さでは基準が違うから 九州と関西は何の交流もなかったということだ
>>151
韓国慶尚南道の釜山あたりには倭人がいたから違う
時代によって重さが違うだけだろ 学会でタホリ遺跡は狗邪韓国ですねって言ったらどうなんの?
弥生時代の内、紀元前のムラ国家の頃から租があったってことか?
>>3
奴国。邪馬台国は奴国から水行一月と陸行一月の遠い遠い場所にある >>151
北部九州の出土品は大陸半島製がほとんどだからな
独自性があまり無い決定的な差がある 低頻度だけど忠清道やソウルより韓国南側は縄文人残ってるし
中国の書物にもあり共通遺跡が出たのが本当ならその昔倭人縄文人がいたでいいんじゃないか
韓国に誰も住んでなかったから縄文人が住み着いた可能性も
因みに魏の時代も益州大幅縮小で雲南省は支配外れて中国とは別国
海船技術に劣る人達に変わったから交易が九州限定になったんじゃね
恐らく
3〜4万年前に縄文人は大陸が繋がってるとこあちこちに散らばる
津軽海峡は繋がってなかったが氷柱で渡れた
2万年前頃にC系NO系O系やモンゴルチベット混合がさらに全体的に広がる
1万年前水面上昇日本海ができる 大陸は離れ分裂した
O系遺伝子で分かってることは
日本列島で誕生した「O1b2a1a2 (F2868)」が、朝鮮半島へ行って「O1b2a1a2a (L682)」と「O1b2a1a2a1 (CTS723)」が発生した。
日本のO2は地域差がないので自然変異
中国は少数民族やチベットモンゴル倭族の土地を奪い殺し合いを重ねた結果古い系統が少なくなった
人は環境で変わってしまう生き物あー恐ろしい
もう二度争いはごめんだ
ちな北海道にはN系が少ないのでオホーツクからはあまり来ていない来ても少数
南方系縄文人多少混じってるかもしれないが
>>163
陸稲水耕稲作は独自性あるやん
九州で交易が盛んだったのは間違いない
他県に交易がなかったわけじゃないけど弥生時代は九州に集中した >>135
金印が出土してる時点でそこは邪馬台国じゃなくて奴国だよ 一支国「カラカミ遺跡」の竪穴遺跡から、国内初、弥生後期(1-3 世紀)の鉄生産用の 地上炉跡(6 基)が見つかった。炉形式が韓国南部にみられる精錬炉に似ている
とかいう記事も韓国に1〜3世紀の精錬炉は見つかってなかったりするんだよな
しかも南部だし
九州は文明開化に役だってると思うが朝鮮ageに利用されてると思う
>>163
中華の丸パクり文明の日本と朝鮮が何か言ってる(笑)
情けないね 江戸時代は鎖国→変化に乏しい
明治開国→その反動で変化が激しい
つまり、外国から基礎を教えてもらわないと革新は起こせない いつの時代も
これは万国共通
精々、長崎から入ってきた物を改変することしかできなかったよね江戸時代ですら
日本中どこでも同じ 上も下も関係無し 変な思想や面子は捨てよ
>>169
製鉄炉とかパクリじゃないし水田とか完璧に揃ったものが見つかってる
日本には当時珍しいものがあったが物々交換で消えてしまったし
中国とてヨーロッパから教わったものだろ情けないが
ヨーロッパ辺りは6万年前からいるから致し方ない
情けないといえば中国の今のインフラ酷すぎる 接着に使ったアスファルトとか6000年前の縄文遺跡で出土してるから日本独自性じゃね
船は6000年前の外洋航海可能な丸木船の出土がある
漆の産地の方が残りやすいかもしれんな
アスファルトはメソポタミア5800年前エジプトで5000年前だから日本が世界最古かもしれん
>>121
高句麗の初代王朱蒙を扱った韓国時代劇でラストに南の新天地を目指すという場面があったがこれが三韓なんだよな。(父はこれが日本進出を企んだと思った)
三韓とは文化圏が全く違うのに韓国人からしたら高句麗も自分たちの祖先という意識があるのだが日本人には分からなかった。 >>171
情けないのは他国の歴史や文化を貶す行為だよ
自国の歴史を客観的に直視し、前へと進まないことにはこの国はずっと変わらないだろうな 清の時代も朝鮮(満州)が関わりだしたのですぐに衰退した
今の日本も満州化している
全てを劣化させる満州愚民の血族は滅べ
>>174
貶す行為て何
中国は水道からピンクの水が出てきたりあちこちで道路崩壊してんだよ
統一されて同じになったら困るよ
歴史を捏造する国がいて領土だと言ってるので歴史を整理してるとこよ
間違ってるならソースなり自分の意見を言って
>>173
あんま興味なかったけど歴史を直視しろと言う人がいるので
初代は神話だから事実かどうかは定かでない漢時代と支配範囲がタブってるな 「分銅」と一言で言ってるけど各地域で様々なタイプが使われてるのは興味深いな
中国でも分銅は戦国期まで南北で違う
日本でもそれぞれ違うタイプが見つかってたりするから関係が想像されて面白い
度量衡が異なるということは勢力圏が異なるということなんだろうな
>>176
統一なんてあり得んよ
博多が存在する限りはな つーか、さ!
倭の五王が気になんねえ?
任那日本府王だろ。おそらく
三国志の時代には孫権が遼東半島に軍船を出してるから、朝鮮半島にも行けるやろ。魏志倭人伝については、博多あたりまでやってきた人が書いた話やな。
あと邪馬台国については伝聞で書いた。南にでかい国があるよって感じ。
>>182
呉は東の海にあるという徐福の向かった大地を探したが台湾にたどり着いて原住民を捕虜にするのが精一杯だったよね。 殷に遡るとその後の文明は全てパクりに見える(笑)
日本の九州や河内なんてのも殷のパクりだもんなぁ
>>1
きちんと古代朝鮮と今の朝鮮人は別モノという点を強調しておかないと
半島人が我が物顔でわいてくるぞ 九州は中国大陸の九州(くしゅう)
河内も中国大陸河内郡(かだいぐん)
河内は司馬懿さんの故郷(笑)
九州はあべのさんが帰国して中国のをパクって名付けたと見る
九州王朝も河内王朝も妄想
邪馬台国も妄想
皆さん中国の偉大なる方々に今も踊らされているようですね(笑)
平安時代からでいいよ 日本の独自性が出てきたのはやっぱりこの時代からじゃねーの
昔から悪政を敷いて変なことをたくらんでいると、悪いことが起こったり疫病が流行るっていうしな(笑)
藤原四兄弟や道真公、将門さんが泣いているよ…
あ! 戦争に負けるってのもある 白村江を思い出せ! 先の大戦も!
今までただの錘だと思われていたものが再調査されて分銅だと分かったからな
これからもっと沢山の分銅が見つかるだろう
度量衡はその文化圏の証だから沢山の資料が出てくれば地域ごとの繋がりが見えてくるかもね
面白い
>>189
九州は古地名は筑紫州 河内は凡河内国じゃない
色々中国に配慮したんでしょう
殷調べてたら甲骨文字が
日本の神代文字も都合が悪いから消したんじゃないか >>195
大化の改新に関わった人達の子孫は、現在の政権中枢にもたくさんおられるようです。 おかしいですよねぇ 人間がごっそり入れ替わっている感じ。
名前も地位もね。
>>194
年代が違うと比較にならないような
韓国南側以外からの出土がないのはなんでかな >>199
その家系だと自称、または認められている人達 これ以上言わせないで
忍びの目的はまだ終わってないから
九州北部の
紀元前3世紀の有力者の遺跡
・早良 吉武高木遺跡
・奴国 板付田端遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
↓
紀元前2世紀の有力者の遺跡
・伊都国 三雲遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
・早良 吉武大石遺跡、桶渡遺跡
・嘉穂 鎌田原遺跡、立岩遺跡
・筑紫野 隈・西小田遺跡
・朝倉 峯遺跡
↓
紀元前1世紀の有力者の遺跡
・伊都国 井原遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 二塚山遺跡
・末慮国 桜馬場遺跡
↓
1世紀の有力者の遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡 57年漢委奴国王
・佐賀 二塚山遺跡
↓
2世紀後半の有力者の遺跡
伊都国 平原遺跡
↓
2世紀末の有力者の遺跡
消滅
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬
大夫は周の王に仕える小領主
春秋戦国時代の中国江南との関係性をうかがわせる
奴国が南の地域を極めたので印を授けるとも読める
1世紀半ばに奴国王は九州を統一したか
そして107年倭国王の帥升が生口160人を献じて謁見を請い
2世紀後半には王は女性の巫女に代わる
>>202
167〜168年頃に倭国大乱だからまだ統一されてない
貢を奉り朝賀したから金印授けたてことでは
前漢時代に授けた滇王国の金印と類似する
金印は戦争しませんよの印なんじゃ 海洋民族なら直接長崎鹿児島福岡に来ると思うんだよな
邪馬台国が奈良にあったら大阪湾に
なんで態々朝鮮通るかなやっぱ海苦手だったんじゃない
船作る技術相当遅れてましたよね
紀元前2世紀三雲南小路遺跡
1号甕棺 前漢銅鏡31面
2号甕棺 前漢銅鏡22面
武器や勾玉も出たことから被葬者はどちらも男性?
紀元前2世紀の糸島市には
かなりの権力を持った王がいたと思われる
弥生時代中期から九州では鉄の武器が多く出始める
そして紀元前2世紀の九州北部に多くいた有力者が
時代経過とともに減っていき最後には平原遺跡の女王だけになる
筑紫平野の平定をもって漢委奴国王は大夫を称した可能性もあるよね
狗奴国は争いで負けて菊池川より南に逃げた有力者のひとりとか
>倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼と素より和せず
>>207
五位以上の官吏の称の大夫が倭からの使者として来てたてことでは
その使者に金印を授けたと
その時代に平定かどうか分からない >>122
>シラギという言い方が良い言葉ではない・・・・・・
新羅シラギは蔑称なのですか?通常読み「シ(ル)ラ」の
語尾「ギ」には如何なる意味があるのですか? 卑とか禿とか濊とか奴とか、見下した漢字使ってる
ものは全て漢民族じゃないよ?
殷は紀元前11世紀で終わるんだけど
誰がどうしてどう繋がるん
福岡地方発祥の住吉神社 海神社 綿津見神社 宗像神社などは全国に広がっているから福岡地方の豪族が大和朝廷になったのは間違いない
>>215
加賀地方発祥の白山神社が全国各地に広がっているから
加賀地方の豪族が大和朝廷になったのは間違いない? 殷は多数の邑を有し、シャーマンによる政治が執り行われていた これは糸島半島に存在した国と同義であり、三雲遺跡出土の鏡には甲冑文字が刻まれていることからも殷の文化を継承した一族だと推測する(四川文明)
楚は稲作の発祥地で、漁労文化、航海技術に長けた一族 これは福岡平野に存在した国と同義であり、我が国最古の環濠集落遺跡である板付遺跡、那珂遺跡が代表的であることから、楚や越の文化を継承した一族だと推測する(長江文明)
秦は史上初めて中国大陸を統一した始皇帝を中心とする騎馬技術、治水や製鉄技術に長けた一族 焚書をすることで歴史を書き換えることでも有名 まさに我が国の中枢、邪馬台国→ヤマト政権は秦の文化を継承した一族であると推測する(黄河文明)
一方、日本には更に古い一族も存在していた 風水の原型となる文化を有し翡翠の”玉”精製技術があったことから、東アジアの国の原型とも言える文明を保持していたのであろう青森県三内丸山遺跡を代表とした縄文人である このことから、遼東半島の文化を継承した一族だと推測する(遼河文明)
と、言うことで大陸にとっての秘宝「玉璽」を精製できる縄文人が一番偉いのよ。
これで文句はなかろう これからは東北の時代なのだよ
なこく 米と魚♪ ←いとこく 祭司♪生け贄よこせ←やまたい(と)こく うっせーぬっころす!←東征してヤマト政権成立←縄文人 何も悪いことしてないのに歴史の正統性のためにずっと翻弄される 頭来たから文化大革命を起こす!
仕方ないだろ? いまだに思想や権威に囚われるバカ国家に堕ちたんだからな 改革せんと無理
「こんにちは ガースーです♪」←この方はわりと本気ですよ 応援する
博多湾沿岸は滅びるだろう
大蛇はスガノオに倒される運命にあるのだ!
全ての罪を被って自ら犠牲になってやるのだから有りがたいと思ってね
鍋の取り皿の汁を戻すような土人地域はさっさと滅ぼせ!(博多地域だけよ 博多地域以外の福岡県と九州他県はそんな穢い文化は無いのでよろしく)
文明があった時代は中国の支配がなくて良かった
中国は各地栄えた民族を取り込んだ歴史だった
現在56民族共産主義は文明を衰退させる
九州北部の
紀元前3世紀の有力者の遺跡
・早良 吉武高木遺跡
・奴国 板付田端遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
↓
紀元前2世紀の有力者の遺跡
・伊都国 三雲遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
・早良 吉武大石遺跡、桶渡遺跡
・嘉穂 鎌田原遺跡、立岩遺跡
・筑紫野 隈・西小田遺跡
・朝倉 峯遺跡
↓
紀元前1世紀の有力者の遺跡
・伊都国 井原遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 二塚山遺跡
・末慮国 桜馬場遺跡
↓
1世紀の有力者の遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡 57年漢委奴国王?
・佐賀 二塚山遺跡
↓
2世紀後半の有力者の遺跡
伊都国 平原遺跡
↓
2世紀末の有力者の遺跡
消滅
紀元前3世紀の吉武高木遺跡から出土した青銅器に使用痕がないが
隣接する紀元前2世紀の吉武大石遺跡から出土した青銅器に使用痕がある
紀元前2世紀の九州北部で争いが始まった可能性があり
紀元前2世紀と比較して紀元前1世紀では有力者の遺跡が減る >>225
吉野ヶ里の有力者て分かってるの
wiki見ると紀元前4世紀から集落形成になってるけど 小国であったにも関わらず、何故南へと広がる大国のように見せかける必要があったのだろうか…
それは… 国全体を守るためだよ。
侵略されたり、交易の時にナメられたら困るから。
金印を貰って媚びへつらったり、国を発展させるために交易して外貨や物品を得るような売国奴!と罵るがいいさ
死んでも我が国を裏切ることは無いんだけどね…
中共に乗っ取られた”国内勢力”に滅ぼされるのなら致し方ない… 甘んじて受けよう。
>>226
特定の誰とか一切わかってないよ
全部妄想 畿内でも既に分銅が確認されてたんだよな。
しかも水銀朱付きで。
つまり畿内は弥生時代中期に丹を使用しています。
つまり 弥生時代ではすでに大きな国であったが、博多湾沿岸の国はその名の通りまるで”奴隷”のように最前線で働かされて肉壁になっていたと言うことだね。
重税と重労働によって現地で不満が起きてくると「朝廷の名のもとに」度々滅ぼしていたということ。
まさか後ろから討たれるとは思わないからね。
言っておくが、もう既にお前たちに影響力は無いのだよ 小中華思想の亡霊どもめ。
>>232
奈良が苦しくなってくると出雲、それも苦しくなってくると徳島かね(笑)
笑わせるんじゃあーりませんよ歴史捏造畿内土人。 太宰府(笑) お前らの庭じゃねーか クーデター蛮族ども。
ええ?百済さんよぉ?
>>232
水銀朱国内最古は紀伊半島吉野川上村に使用例がある。 >>234
畿内派じゃないよ
むしろ九州派
最近は倭国大乱は長江文明と黄河文明の対立とまで思い始めてる
中国に残った縄文成分調べて見ると文明に行き着く
やっぱ普通に全体に拡がっていたが中国が殺しまくったてことじゃないか 結局は大宰府も伊都もヤマト、ヤマタイの玄関、出張所にすぎないんだよな。
さすがはアカ=朱だよな ああ朱子学か
主体思想(チュチェ思想)はもっとお断りだ
違うな 畿内の君たちだよ 博多を常に滅ぼしてきたのは(笑)
>>248
だんだんメッキが剥がれてきたな(笑)
何でもかんでも他国の”せい”にするんじゃねーよ 朱い服が似合う一族よww >>245
米さんの国がどうのこうのであたふたしている君たちよりマシだわ(笑)
精々粛清を受けよ。 米さん?がどうしたんだ?
全く意味不明だぞw
やはり未だに邪馬台国九州説なんて言ってる奴は変な奴が多いな。
野蛮な山人どもは滅び、絆を大切にする海人の世となるのである。
邪馬台国九州説? 誰もそんなことは言ってないけどね(笑) 妄想乙
>>237
使用例て何?製品てこと?いつ頃
ソースがほしい
全国に水銀朱があるし九州にもある紀伊半島が生産地であることは間違いないけど
奈良が邪馬台国であった場合紀伊半島は倭国に逆らう狗奴国になるよね せっかく情を抱き、泳がせているというのにな(笑) 全て手に取るようにわかるぞよ とっとと自滅しなw
>>250
邪馬台国は無かったという選択肢もあるのだよ? キミ(笑) >>251
吉野川上村迫、宮ノ平遺跡で2005年に水銀朱の付着した石皿が出土している。
調べてみれば?
当然だが弥生時代後期以前に出土例がないと水銀朱があったとは言えないからなw
また紀伊半島沿岸に使用例が多く、温暖、丹山と海人が一致するのは >>254
いいんじゃないの、やっぱり変な奴なのは間違いないがw もはや確信犯なのかは定かでは無いが、コロコロと変えている時点で終わりなのだよ(笑)
国際的信用は地に落ちている バカな奴等だ。
朱い馬は縁起が悪いよなぁ(笑)
これは東西諸国変わらない認識である
全てが終わった時、真の聖人たちは”勝ち馬”の浜に集結するであろう。
>>256
宮ノ平遺跡は縄文遺跡しか見つからないな
記事貼れないならググる題名くれ
コラクのブログの魏志倭人伝 考察 III Gによると
むしろ紀伊半島奈良は使用例ないとしてるけど
九州はベンガラの使用例はあるよね
肌に塗るならベンガラだと思う >>262
吉野川上村 宮ノ平遺跡 水銀朱で調べてみれば普通にでるけど?
弥生時代中期以降に紀伊半島に使用例なんて沢山出てるよ、そのコラムが不勉強なだけだね。
分銅にしても平野 久宝寺遺跡辺りから出た物に水銀朱が付着しているよ。 何故考古学の世界で邪馬台国九州説の支持がないのかわかるよな、九州説の連中が余りに考古学の現状を知らなすぎなんだよ。
まあ知っても知らないふりする工作員みたいなのもいるようだがw
>>265
タイトルもなにも宮ノ平遺跡の遺物なら展示もしているけどね。
魏史倭人伝には火山も温泉の記述が全くないからな、海人の郷ではないね。
まあその時点で魏の役人の視線は熊本や宮崎大分には向かっていないのがわかるw
ベンガラなんて何処でもあるしな。 >>266
逆だよ。考古学会が国民、国際機関から支持されていないよ。ゴッドハンド事件 未だに影響あるな。 >>269
でも九州説もその考古学の資料を元にロジックを組み立てる矛盾とかw >>270
奈良も矛盾ある事
史学、文献、文学方面からもアプローチ。
魏志から潜って魚、大魚があるので海だ。
絹、鉄もある。未だに何を持って近畿なんだか?
わからない。 お国自慢どころか、今さら邪馬台国なんて何処の誰もなりたくないのに(笑)
佐賀か奈良かはっきりしろっての
考古学から見ても、当時畿内に大きな勢力があったということまでは分かっても
その大きな勢力がはたして魏志に言う邪馬台国なのかどうかはまったく根拠がない
唐の時代に書かれた隋書の「魏志にいうヤマトである」という一節のみが根拠だが
卑弥呼すら知らないヤマト王権のいうことを真に受けることはできないし
隋書を書いた魏徴が東遷を知らずに勝手に思い込んで書いたのかもしれない
東遷については何時頃のことか不明だが
倭国大乱(146年 - 189年)ののちに卑弥呼が共立されたことをおもえば
倭国大乱がどこで行われたのかを検討すればよい
〜189年のあたりで大きな豪族たちが勢力争いをしそうな地域はどこか?
それを検討することで卑弥呼はどこで共立されたのかもおのずと明らかとなる
>>271
畿内説では何も矛盾はないけど?畿内は奈良だけではないからなw
紀伊半島には丹山があるし水銀朱を弥生時代の海人の集落で使用していた痕跡も沢山ある。
大体鉄なんて鉄鏃としか書いてないんだからな、骨や石の鏃と同じ扱いで一文字だし、当然畿内から普通に出土している。 纒向遺跡は邪馬台国と同時代からある巨大遺跡で大陸と交流を伺わせるものが少ないないんだよな。
銅鐸民政権→纒向遺跡=初期大和朝廷はいいとして東征はどう組み込んだらいいんだろ?
日向→北九州→広島岡山→奈良と進撃している関係上大陸産のものが持ち込まれてもおかしくないのに。
分銅の単位はそれぞれの流通の範囲を示してるから興味深いな
もっと多くの資料が出てくれば弥生時代の交流のより詳細な状況が浮かび上がってくるだろう
土器の分布よりもさらに経済的な活動が分かる資料だから面白い
この記事にもあるように各地で単為が違う傾向が既に見えてるからな
更なる発見に期待したいところ
インド人支配地区があったとしても
現在の政府が証拠隠滅しちゃうだろうなー
>>231 その名の通りまるで”奴隷”
違う。
古い音(所謂"呉音"=漢や三国時代の音)でみると
奴國(ヌ国)
彌奴國(ミヌ国)
姐奴國(シャヌ国)
蘇奴國(スヌ国)
華奴蘇奴國(クヱヌスヌ国)
鬼怒國(キヌ国)
烏奴國(ウヌ国)
狗奴國(クヌ国)
— 以上、魏志倭人伝に出て来る"○奴国"の一覧 —
鬼怒川と同じ鬼怒(キヌ)國がある。
鬼怒川から分かることは、キヌ=毛野(けの)
詰まり、ヌ=豊かな野=水田・耕地のこと。
奴(ヌ)国の川、奴ヶ川(ぬkかわ)
→ぬかがわ→那珂川(なかがわ)だ。 奴国からばっかりいろいろ出てくるのは何でかね
そこは奴国じゃなくて邪馬台国なんだよ
決まったな
福岡市博多湾の委奴国を滅ぼしたのは、豊前の北九州市だね(笑)
ぐうの音も出ないであろう(笑)?
その後の崩壊した邪馬台国の負け狗は南九州に逃げたよ。
1、新王朝、成立 → 2、功臣の粛清 → 3、対外侵略戦争 → 4、漢字の一斉改変と改ざん歴史書の作成 → 5、閨閥、宦官(かんがん)、官僚など皇帝側近の跳梁 → 6、秘密結社の乱立と農民反乱の全国化 → 7、地方軍閥の中央侵入 → 8、1へ戻る
🇨🇳中国史は単純ループ?
>>289
奴国が漢に朝貢した時、裏に邪馬台が居て、
鉄輸入と朝貢を握ったことで、列島に君臨した。
これは後漢書と魏志倭人伝を見ればわかる事。
配下の奴国を朝貢に出し、邪馬台自らは漢の臣下に成らず、
朝貢の利を独り占めして、列島に君臨した。
邪馬台は、地政学を考えると、日田→筑紫平野→博多 と
広がった。最盛期の中心的拠点は大宰府の辺り。日田は古都。
地政学で考えると、そうなる。
日田は山手の盆地。やまと(山戸(=門):邪馬台)の名の由来。 福岡だけ奴国で日本国内の他の地域は奴国ではないから良かった良かった^o^
>>300
妄想じゃないさ。
前段は、魏志倭人伝と後漢書読めば当然理解できる話。
理解できなきゃ只の馬鹿だわ。自分で読んでご覧?
後段は、地政学(と神話)だ。
博多を支配下に収められる(隣接した)最大平野は、筑紫平野だ。
そこを平定した勢力が港を押さえ、最強国になる。
古代社会を考えると、小さいクニ同士が競う中、盆地のクニが有利。
盆地は天然の要害であり、攻められても守り切れる。これが効いてきて、
結局は、盆地の国が周囲の平野を支配する。(奈良と大阪もそう。)
そして重要なのは平地と盆地の物流=河川。筑紫平野と河川で繋がる
盆地は日田しかない。よって邪馬台(やまと)の起こりの地は日田だ。
邪馬台(やまと)が博多港を手に入れるプロセスは、海幸彦・山幸彦
の神話に記されてる。半島に渡り、あちらで政治工作したようだ。
弟・山幸彦(=新勢力やまと)が海を渡った地(=半島)で釣針(=鉄)
と玉(=朝貢)を貰い、兄・海幸彦(=みなとの旧支配者)を懲らしめる。
この海幸彦が宗像というのは、天照(邪馬台の象徴)とスサノヲの誓約
でわかる。スサノヲの剣を天照が噛砕き、宗像三女神が生まれる。
これは、宗像が剣を捨て、邪馬台の軍門に下ったことを示している。
恐らくは、宗像の元の名はミナカタ(みなとの横/側 の意)だろうな。
剣を捨て邪馬台に博多港を明け渡し女神の国となって以降、
宗像(むなかた)に改名か。 >>301
そうでしたか(笑) おめでとう。
そういうもの説を主張するのは自由だが、表に出てきて学会で発表よろしくたのんますねw >>301補足。
魏志倭人伝では、邪馬台が倭国盟主の体で魏に朝貢してるが、
その港を謎の「大倭」に押さえられてて、この大倭が倭国大乱
(教科書で教わった話と違い、これは列島の大乱だわ!)
の勝者ということが透けて見える。
つまり、漢の時代に邪馬台が奴国を使ってやっていたことを、
今度は、大乱の勝者大倭が邪馬台を使ってやっているわけだ。
奴国は港の管轄から外されて、港の横の伊都国(糸島)が港を
監理してる。大倭がそこに大率という官吏を置いて監理してる。 中華とタイマンはれない卑怯者国家 日本国万歳(笑)
どうりでキンペー君に”玉”を握られるわけだ売国奴大和民族土人ども(笑
>>302
学会www
あの人たちは、学問をやっていない。政治をやっているだけだ。
中身は滅茶苦茶。
ぜひ、学会のセンセたちには、今までの論文を全部英語に直して
発表して欲しいものだw
国際的に笑いものになれること請け合うぞw さすが大和民族だね。
ヤマトも武蔵も船は沈むし負けてばかりだな 卑怯者山籠り土人君ww
>>305
そうでしたかご苦労様(笑)
三内丸山遺跡の”玉”を拝んでろ 中華劣等ヤマト土人(笑) 博多民を頼るんならそんな具合じゃあ無理ですな
「奈多」あたりで神楽を舞ってくださらんと出てこないよーん
>>289
奴は国名すら表記してもらえない属国だからな
大陸産の貰ったものが出てくる
今で言えば犬の国とか鳥の国とかキムチの国とか呼んでるようなもので蔑称 そしたら自爆覚悟で突進する
前しか見てないからね 大陸と勝負する覚悟は出来ていますよ…
詩は”君が代”か”海行かば”だけ知ってる。
三苫を降ろして待ってるぜ
87 :ニューノーマルの名無しさん :2020/10/28(水) 02:23:05.26 ID:02Gx9kmc0
面白いものを見つけた
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が
九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ラインだろ
對馬國、一支國、末盧国、伊都国、奴国、がそれぞれ
対馬、壹岐、松浦(まつら)、糸島、儺県(なのあがた)という
九州の離島や北部地域に比定されてるのに
なぜか途中をすっ飛ばして近畿の大和が邪馬台国という近畿説
>>318
九州から畿内の大和まで瀬戸内海を船で渡るからだろ
途中の投馬国は瀬戸内海にある鞆(とも)の浦とすれば辻褄が合う 細かいことはいいんだよw
とにかくだ、邪馬台国は大和の地
倭人伝と合わないだろうと、記紀には出て来なくとも
畿内一択 学会では常識の部類に入る
>>320
畿内の稲作なんで遅れたの
九州なんか縄文後期に入ってきてるのに
調べてみたら朱付き土器は縄文時代にはそこら中にあったみたい
九州徳島の水銀朱の量は半端ないけど
なんで大和政権成立するのにあんなに殺し合いしたの
とても日本人とは思えないんだな
仮に日本人だとしても最悪弥生時代はいらない 複数の国を合わせたような大雑把な地理把握
魏の使者は行ってないように見受けられる
固有の情報が少ない
記紀が同時代を主張する大王はそこらじゅうに都を作った
邪馬台国は倭国にとってただの植民地だよ
216 名前:考える名無しさん 2020/12/24(木) 08:00:20.49 0
>>212
>丹塗矢と化(な)りて、其の大便為すの溝の流下より、其の美人のほとを突きたまいき。
「丹塗矢(雷/稲妻)」が、溶岩の流れ出す「ほと(火口/噴火口)」を突くとは、
どのような現象であるのか、動画を見れば一目瞭然となる。
>>321
弥生時代中期、西日本最大の水田跡は葛城地方だしな。
縄文時代水銀朱のついた土器がそこら中?
実例あげてみたら?ベンガラはだめだからなw 丹塗矢は雷⚡のことであり、「ほと」は
女陰を表すとともに「ほ(火)と(戸)」(みな(水)戸(と)と対比される)、
つまり、火山口のことであり、全体として、「火山雷」の現象を記述している。
「いすすき」は、現代語の「すすぐ」から分かるとおり、「淀みなく流れる」
ことを表現しており、「い」は「沃(い)」である。したがって、
「富登(ほと)多多良(たたら)伊須須岐(いすすき)比売(ひめ)」は、
「火山口から溶岩流が淀みなく流れ出す姫」を意味していることになる。
それにしても、その姫が「倭(やまと)の高佐士野」に「遊行べる(歩き回っている)」
というのだから、不思議なものである。
ヤマトコクって言ったのにヤマタイコクって聞き間違えたんでしょ
>>326
ホトは窪地でもあるから単に湿地だよ。
モモソの宮、出生場所は保津、都遺跡なんだよ。田原本だからたたら本だしな。
鏡作神社までありますw >>275
それは無知だね、巻向周辺の古墳からは神獣鏡が沢山出土しているのだか?
神仙思想なんて大陸由来の何物でもないのだが。
それも鏡自体が畿内は弥生時代中期から出土しているし。 >ホトは窪地でもあるから単に湿地だよ。
噴火口は、窪んでいても湿地ではない。
湿地から流れ出す「大便」ってなんだよ?w
だいたい、湿地は平坦だから湿地になっているのであって、
窪地に水が流れ込んだら沼になる。
湿地にも沼にも雷⚡が特別に集中して落ちる理由もない。
箸墓はモモソの墓で邪馬臺の時代だとして、そのモモソが奈良の土着勢力(大物主)と婚姻を結んだ
これの意味するところは、西から流れてきた一族が土着勢力と結びついたということ
神武の時代に九州を出発して中国地方をさまよい歩き、同じ海人族を頼って行き着いた奈良で
土着勢力と婚姻によって結びついて安住の地を得た
おそらくこれがヤマト王権の始まりだろう
ヤマト王権にとってはモモソこそが皇祖神でありアマテラスなんだよ
だからモモソの孫世代にあたる崇神(ハツクニシラススメラミコト)は
宮中にこの開祖である「アマテラスと大物主」の夫婦神を祀ったんだ
そして大物主が祟った時にはアマテラス(モモソ)も一緒に宮中を追い出された
ちと訂正
ヤマト王権の始まりは崇神(ハツクニシラススメラミコト)で
それに先立ちモモソと土着勢力との婚姻による地盤獲得があったということ
>>331-332
まったく返答になっていないw
勝手な思い込みをつづっているだけで記述に対応する根拠がゼロ 九州北部の
紀元前3世紀の有力者の遺跡
・早良 吉武高木遺跡
・奴国 板付田端遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
↓
紀元前2世紀の有力者の遺跡
・伊都国 三雲遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡
・末慮国 宇木汲田遺跡
・早良 吉武大石遺跡、桶渡遺跡
・嘉穂 鎌田原遺跡、立岩遺跡
・筑紫野 隈・西小田遺跡
・朝倉 峯遺跡
↓
紀元前1世紀の有力者の遺跡
・伊都国 井原遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 吉野ヶ里遺跡、二塚山遺跡
・末慮国 桜馬場遺跡
↓
1世紀の有力者の遺跡
・奴国 須玖岡本遺跡
・佐賀 二塚山遺跡
↓
2世紀後半の有力者の遺跡
伊都国 平原遺跡
↓
2世紀末の有力者の遺跡
消滅
吉野ヶ里遺跡の北側の共同墓地で
ガラスが出た紀元前1世紀が前期の最盛期じゃないか
台地で集落と田畑で高低差があって不便な吉野ヶ里遺跡から
高低差があまりなく川に近い二塚山遺跡に移動して
1世紀には吉野ヶ里遺跡は放置されたと思われる
そして防御しやすい台地の吉野ヶ里遺跡は
3世紀に再開発されて対狗奴国の周壕集落になるけど
集落でありながら新たな墓が作られてないので
兵が派遣されるシステムで任期が終わると
元の集落に帰ったりして後期再開発後の吉野ヶ里では
骨を埋めるということが無かったと思われる
>>330
丹塗矢の逸話は実は山城にも残っているが厠の話ではないからなw
つまり日本書記の逸話は箸墓逸話と同じで、実は大物主をバカにする意味がある。
仏教以前の神を笑い者にしたんだよ。 >>333
卑弥呼は九州のシャーマン、モモソは奈良で土着勢力と婚姻したヤマト王権の皇祖神
同時代かもしれないがその背景は全く異なる人物だった 「源」は滅んだ北魏の威厳を借りようとした?
かつて関係があったから。
>>336
それは無理があるね、モモソには日女命という別名が明記されているからな。
ヒミコと呼ばれていたのは確実だよ。 >>338
親父ギャグじゃないんだから
ヒルメとピミホじゃ全く違う 邪馬台国・・・大陸から文字や度量衡を導入した先進地帯
大和・・・文字さえ知らぬ蛮地
どう考えても同じ国じゃないわな
>>181
たぶんそうだね
任那割譲による棄民(倭の五王系)→蘇我氏系
百済衰退による棄民→中臣氏系
倭王武=雄略天皇⇜× 雄略の存在が明らかになったんで倭の五王は誰か確定したんじゃなかったか?
倭の五王の名前は半島や大陸に向けての名前だろ。
>>340
倭人は文字をもたないと魏史倭人伝にはあるしなw >>339
ヒルメなら天照の別名になるのだがいいのかなw モモソ?
「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」と表記されているね。
素直に読んだら、
「百(もも≒多数、つまり多くの世代にわたって)襲(おそふ≒継承する)」姫であり、
何を継承するのかと言えば、「日(ひ≒天の力)」を継承し、どのように継承する
のかと言えば、倭(やまと)の迹迹(あとあと、後々)に継承することになる。
「跡(あと)継(つ)ぎ」は、先代が亡くなった後に継承するのだから、
「倭(やまと)」が亡くなって、その跡を「ニュー・ヤマト」として継承するのか?
>>338
ソレはない。
モモソヒメは卑弥呼の記述とつながって来ないからだ。
やはり甥が熊襲征伐をした倭姫命で間違いないだろう。
倭の姫巫女は丹波氏の出自でもあるからな。
モモソヒメは吉備の豪族の姫だな。 >>344
だからモモソがアマテラスだぞって言ってるわけだが モモソヒメ説の最大の欠点は、
大物主神と結婚してしまった事だ。
女王が結婚して、記録しないとか、
理論としてあり得ないだろう。
モモソヒメは吉備の占い師。
コレで結論は出ている。
「倭(やまと)」はどのように滅亡し、その跡取りはどのように行われて、
「ニュー・ヤマト」となったのか?
モモソが吉備で、その弟は出雲か
地理的にもいいんじゃないか?
モモソヒメはチンコ大物主のデカイチンコを見て
我を忘れて大興奮してしまった様だ。
年齢的にも40−50代だろう。
卑弥呼は推定80代近いし、
デカチンコを見て我を忘れて婚姻したエピソードも無い。
モモソヒメは吉備の豪族だなあ。
一方、倭姫命にはそういう記述は一切無い。
弟や甥は熊襲征伐に従事している。
また、出自の丹波氏は、祇園山古墳のある
高良大社の始祖の大祝家でもある。
大祝(おおほうり)か
「祝(ほうり」は、「はふり」だね。
なんか禍々しい響きだ。
実際に、絹織物製造ルートが、
八女から出雲丹後という日本海ルートであり、
コレが丹波氏の進出ルートと一致するし、
伊勢神宮の元伊勢籠神社も丹後にある。
モモソヒメではこうはならない。
大物主に盛りついちゃった時点で終わりなんだよ。
大物主は物部の神なんだからな、モモソは神婚出来るだけの存在だったという事だね。
まあ卑弥呼の最有力候補だよ。
神武も大物主の血縁者になりたかったからヤマトへきたんだからな。
>>346
百襲は父親が倭国王孝霊、出雲でも活躍した富士山の象徴なんだからな。弟が吉備津彦で桃太郎。
これ以上相応し人物はいないよ。 >>354
出雲地方は実は孝霊の基盤なんだからな。大物主に嫁いだ三保津姫は実は百襲姫だろう。
まあ卑弥呼は地方により名前が違うという事だね。 >>357
倭国大乱で九州から逃げ出した神武が出雲や吉備を渡り歩いて奈良に地盤を築いた物語が東遷説話だな
そのころ九州では卑弥呼を共立していた 何いっているんだろうな
九州蛮族は自分たちで九州内の古い国を滅ぼしといてよくも「大和が日本中を侵略した蛮族」なんて言える物だよな。
鏡を見ろよ九州蛮族と福岡蛮族(笑)
邪馬台国論争見直しの結果
陸行一日であれ一ヶ月であれ九州しかあり得ません
[帯方郡]
↓
船で20日
↓
[半島南部]:半島南部
↓
島伝いに船で10日
↓
[邪馬台国]
邪馬台国内訳
末盧国:松浦
伊都国:伊万里(渡航者待機所)
奴国:吉野ヶ里周辺
女王の都:八女市?
※伊都国到着後、女王の都に入るまでに一か月を要する >>358
大阪で2400年前の最古の分銅が出てるから既に時系列がおかしいわけで
ほどほどにな >>361
大阪のは中国と共通性無し
それは大陸や半島と交易が無かった事を意味する >>361
後漢の時点で漢委奴国以外に99国が朝貢してるわけで
何がどう時系列がおかしいのか説明してくれ >>362
合わせないといけないのは奴の隷属してる場合
属国だからな
>>363
後漢?時代が新し過ぎて話にならんな >>364
その分銅がどうしたっていうのか説明してくれないと
時系列がどうおかしいのかすらわからんよ 不弥国までは九州として、投馬国までは水路で二十日、邪馬台国までは更に水路で十日陸路十日
なんだからいくらなんでも九州にあるとは考えづらい
日数が適当だとしても古代だって数日で本州や四国に着くだろ
>>367
距離が相当盛ってあるのだから日数や戸数も盛ってあるのかもしれない
女王国の東に海を渡るとまた倭種の国々がありそれらをめぐり歩くと五千余里である
と書かれてる状況を思い浮かべれば、九州の東に倭種の国々が続いている光景が見えてくる 纏向が日本書紀に垂仁天皇〜景行天皇の都だと記されているのに
遺跡が確認されたとたんに
ヒミコヒミコヒミコ〜〜〜
ヤマタイコクゥ〜〜〜
関西人カワイソウす w
>>367
帯方郡から投馬国までが水行で二十日だな 東北→新潟→北陸→出雲→吉備→阿波→大和に国の中心移る
大和→九州征伐→九州北部に出先機関を設置→九州出先が勝手に大陸と交易を開始→帰りは壱岐〜出雲→大和→九州の出先に最新の文化を伝える→九州出先が大陸と交易→帰りは壱岐〜出雲→大和 ←この繰り返し
九州出先土人が大和に反乱→大和にいた九州系土人が金印を持ち出して志賀島に埋める←鎮圧 →ほとぼりがさめたころ新たに九州北部に出先を作ってやり直し
九州土人の一部が全国に散らばる→大和の遠征軍がこれを鎮圧
大和(日本)に歯向かう九州土人は未来永劫遅れた地域だよ(笑)
九州土人があんまりバカだから「記紀」に九州のことをちょこっと書いてやっているだけでもありがたいと思えよw
神話は出雲が本家 九州の神社や神話は”出先の歴史”に”ツヤ”をつけてやっているだけなのよハッキリ言って(笑)
勘違いしないようにな九州系土人
だけどさ 中国と国交正常化した時からこの国の運命は決まっていたのよ残念だがな(笑) ずっと客寄せパンダに陶酔してなよ
さすがは同じ系列の大和民族と朝鮮民族どもだよなw ”只”ほど高いものは無かったなお疲れ様
国際的に韓国よりも信用されていない国家 それが日本と北朝鮮の現実であ〜るww
欧米メディアのアジアでのセンター機能は香港からソウルに移っている つまり、そういうことだバーカ
「中華」の為に尽くしてきた大和民族と朝鮮民族よ今までご苦労であった 誉めてつかわす(笑)
まぁ自業自得だよな日本と北朝鮮の「小中華思想」の土人(笑)
発掘されるのはいいけどたびたび産出国をはるかに上回る
高純度・組成が確認されて皆一様に首をひねる展開が好き。
文化・技術の伝播・けいしょうが 今日明日・今日半年後というスピード感がなくて
50年後〜100年後というおおらかさがいいんだよな。
あんたら畿内も「土着した九州土人」のせいで改革できんのだろう?
さっさと”区別”したほうが身のためだよ
>>316
これそれだけを見たら狗奴国対邪馬台国は九州南北戦争レベルの大戦になるな。
狗奴国は熊本と思っていたが大分南部や宮崎北部も勢力圏? >>367
土佐日記の紀貫之が平安時代に帰京した時が高知から鳴門まで室戸岬周りで海路すすんで一ヶ月かかっている。参考までに。 紀貫之と言えば”始祖”に伝わる君が代を、後の簒奪者の皇族を箔付けするために”我が君”とかに変えた奴か。
クリスマスおめでとう!
世界中の守銭奴共もついでにおめでとう(笑)
258考える名無しさん2020/12/24(木) 23:49:58.050
例えば、「けみする」という表現があり、通常、「閲(けみ)する」と
表記されることになっているが、「閲」という漢字字体は、
「えつ(Middle Chinese: /jiuᴇt̚/)」と読まれるべきものであり、
本来、「けみする」の「けみ」に当てられるべき漢字は、「検」である。
「検」は、中国語において「Middle Chinese: /kˠiᴇmX/」と発音された
ものと想定されるが、それが「けみ」となったのは、日本語では、
閉音節は一般的ではないので、"i"の発音が付け加えられたものと
考えられ、これは、、「鞬/昆・吉支」の「鞬/昆」が本来は「こん」と
発音されるべきものでありながら、「コ」に省略されるか、または
"i"を付け加えられて「コニ」と発音されたのと同様である。
ところで、日本語で「鑑/鏡」に対応する中国語の「鑒」は、
「Middle Chinese: /ken/, /kˠamH/」と発音されたものと想定される。
中国語の「検(Middle Chinese: /kˠiᴇmX/)」が日本語では「けみ」に
なるのだから、同様に考えるなら、
中国語の「鑒(Middle Chinese: /kˠamH/)」が日本語では「かみ」に
なると考えるのが自然な類推である。それが、「かみ」ではなく、
「かがみ」となったのは、もともとは、「かみ」という発音で
日本語に取り入れられ、その語頭に「か」が後から付け加えられた
からだろう。つまり、「か+かみ」⇒「かがみ」である。
むろん、そこには、「かげ(影)+み(見)」という解釈の複合が生じているだろう
と考えられる。
言い換えると、中国語の「鑒(Middle Chinese: /kˠamH/)」が
日本語ではそのまま「神(かみ)」となる。
>>390
>日本語に取り入れられ、その語頭に「か」が後から付け加えられたからだろう。
どんな理由で「か」が後から付け加えられたの? >>367
水行20日はおよそ300〜400`。
陸行1ヶ月はおよそ150`である事が分かっている。
宇美から南に300〜400`は妻・都間の美々津であり、
ここが長官副長官の彌彌、彌彌那利のいた
投馬国=妻国で間違いないだろう。
水行10日はその半分の大分で、
そこから陸を150`行って、
狗古智卑狗=久々知彦=菊池彦が副長官である
狗奴国=隈の国と接する地域の山門八女が邪馬台国で間違い無い。 筑後川は近代まで交通の難所で、
古代は、奴国から容易に渡河する事が
出来なかったのである。
特に、狗奴国と争っていた為に、
流れ着く河口付近を狗奴国に抑えられていた可能性が高いので、
安全の為に大分から日田に入って、
陸路で山門八女に入って行ったのだろう。
>>391
古代の中国語ってどうやって発音教えていたの? 日本語のひらがな取ると
文言文みたいに見える?
↓
日本語平仮名取
思漢文様見?
>どんな理由で「か」が後から付け加えられたの?
「かみ」が日本語として何を表現しているか不明瞭と感じられて、
「か・み(見)」という解釈が生じたなら、さらにその「か」は、
「かげ」を表していて、本当は「かが」⇒「かげ」であるとか、
鏡は「かかや(輝)く」ものであるから、反射を表す「か」の作用が
継続するものと解釈されて、「かかみ」となり、「かかみ」⇒「かがみ」
となったとか、表現の複数の用法上の解釈による影響がその理由でしょう。
>>391
発音記号的に閉音節「かンハミ」の「ンハ」が「が」に転訛したんじゃね?(テキトー) >>398
それは方向が逆でしょう。「かがみ」の「み」が動詞の「み」と解釈されて、
「かがみる」という表現が生じ、「かがみる」の「が」が鼻音化した
「nga」となって「かんがみる」となる。 >>397
鏡の発音が「かみ」として日本に入ってきたなら明瞭きわまりないのでは?
わざわざ「か」をくっつけて造語する理由にならないよ そもそも、日本語では「神」⇔「鏡(かがみ)」−「亀(かめ)」−「甕(かめ)」
のトライアングルを成すように取り込まれているから、「神」と「鏡」の
関係は、鉄板、もとい、銅鏡なんですよ。
https://baike.baidu.com/item/龟鉴/254274
此皆言之成轨则,为世龟镜,求诸历代,往往而有。——唐· 刘知几《史通·载文》
古镜之一种。又叫“龟镜”、“龟纽镜”,“龟纹镜”。以龟为主纹,有的亦配置十二生
肖和八卦等花纹。《唐书·苏安桓传》载:“履正中之基者,用元忠为龟镜”。是以人为
鉴的一例。谢偃《惟是诫コ赋》载:惟往古之轨业,亦当今之龟镜。”是以事为鉴的一
例。都比喻借鉴之意,故龟镜又名“龟鉴”。古时认为:龟能知吉凶,鉴别妍丑,故古人
以龟贞卜吉凶,以镜明察秋毫。借牲往事,警诫自己。以龟作镜纽,也是借喻履于
“正中”之意。龟纹镜,多为唐代铜镜。 >わざわざ「か」をくっつけて造語する理由にならないよ
銅鏡は、神である日の力を代表するように「かかやく」のですよ。
そして「か」の反復は、他の日本語の表現における反復の場合と同様に
その作用が継続的であることを表す。
投馬国=鞆ノ浦 つまりはコウモリのような性格の国なのでしょう(笑)
これは世紀の大発見だよ!
中国でも時代で規格が微妙に違うので
年代の特定ができる
詳細な検討が待たれるね!
>>371
景行天皇って実在が怪しいんだよねえ。
九州の豪族の誰かをモデルに作った感じがする。 >>404
亀卜なんて日本なら陰陽寮の門外不出の秘伝なわけで、
今で言うなら国家秘密ですよ。 <#`Д´>火病!
<#`Д´>韓国から盗まれた物ニダ!
>>1
>重さの規格は韓国出土の権と共通しており、奴国が大陸の度量衡の制度をいち早く受容し、青銅器生産などに利用していたことを示す発見だ。
朝鮮半島の南部が日本領だった証拠ともとれますが >>414
記紀は記事の順序入れ替えや事件の場所を変えてあるから訳が分からない資料だな。 那の津は古来大陸の玄関口だしあまり不思議ではないな
なるほど 当時から言語と文字を理解しており、大陸と交易して国を繁栄させていた これが委奴国
畿内は文化的に遅れていたので、委奴国人が国内向けに畿内流を作って施していたということだ。
オノコロ島(能古島)→弥生文化が花開く(板付)→委奴国→香椎(橿日宮)→糟屋屯倉→那ノ津(宮家)→防人→筑紫館→鴻臚館→袖の湊→大唐街→元寇防塁→鎮西探題→自由都市博多→太閤町割りと楽市楽座→福岡藩
ずっと最新の文化を受け入れる窓口でしたね