◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」 ★3 [樽悶★]->画像>29枚
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北部九州と近畿地方の、弥生時代から古墳時代前期の遺跡や遺物などを紹介する企画展が、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園で開かれています。
この企画展「よみがえる邪馬台国」は、佐賀県教育委員会などが毎年開いていて、邪馬台国があったと考えられている九州と近畿の出土品を展示しています。
ことしは、現在の北九州市から大分県北部にあった「豊前の国」に焦点をあて、大分県宇佐市のほか、吉野ヶ里遺跡や兵庫県内の複数の遺跡から出土した土器や青銅器など、およそ400点が展示されています。
このうち、大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は、直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ、中国から卑弥呼に贈られたという説もあります。
また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は、祭祀に使われた大型の矛です。
佐賀県内の遺跡から同じ形の鋳型が出土していることから、佐賀をはじめとする北部九州で生産され、その後、宇佐に伝わったことがうかがえるということです。
吉野ヶ里公園管理センターの小林昭彦歴史専門員は、「企画展を通じて、吉野ヶ里遺跡と豊前の国との関係性を見直してほしい。邪馬台国があった場所として考えられている九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」と話していました。
この企画展は、吉野ヶ里歴史公園の「弥生くらし館」で、11月8日まで開かれています。
09月23日 12時34分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html ★1:2020/09/23(水) 14:12:50.82
http://2chb.net/r/newsplus/1600959706/ >>1
> 大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は
> 直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ
> 中国から“卑弥呼”に贈られたという説もあります。
> また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は
> 祭祀に使われた大型の矛です。
【NHK佐賀放送局『よみがえる邪馬台国』展】
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html
「宇佐神宮」の主神、“比売大神”こそが卑弥呼で
神宮の立つ亀山が卑弥呼の墓だね
.
俺の仮説
カササギは外来種だが佐賀には留鳥としている
カササギは 一定の地域で留まる習性がある
魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある
なぜ、「鳥」ではなく「鵲」(カササギ)が倭国には居ないとあえて記したのか
魏が後に、倭国へ「鵲」を贈っていたと仮説するならば
生物学的なDNAの解析によって、鵲のルーツを特定できるのではないか
銅鏡などの錆びついた物証だけではなく
鵲が現在まで生き継いだ魏の使者ならば
邪馬台国の生きた物証としてロマンがある
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178 > 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる
日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に
>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
邪馬台国かどうかは別として豊前国の領域は
たしかに昔から何かがあってもおかしくない地形条件だというのは
行って見てみるとよくわかる。
宇佐のあたりとかは特にそう思う。
>>1 >>2 やっぱり、「邪馬台国」は“宇佐神宮”だろう・・・
(1)卑弥呼=比売大神=天照大神
(2)宇佐神宮の亀山が卑弥呼の墓 宇佐神宮本殿
(3)謎の石棺の目撃証言
(4)奴婢百余人の徇葬と百体神社
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/yamataikoku.pdf .
>>6 これは肥後南部の雄、好古都国のものでしょうね。
おそらくは球磨川流域、その本拠は現八代市でしょうか
伊都国と並ぶ勢力を誇った「都」の字を持つ国家の遺したものでしょう。
>>7 やっぱり狗奴国は熊本だよな
その北が邪馬台国なら筑紫平野だろう
隋書を読みたまえ
「邪靡堆」には「常に火を吹く阿蘇山がある」と書いてある
記紀に出現する興台ムスヒの命は
この八代海沿岸から球磨川流域を支配した好古都国の王でしょう。
好ましく古い都などという良字があてられたのはこの国家が大陸からの渡来人によるものであったからでしょうね。
クソジャップなんて渡来人に文明のおこぼれを恵んでもらっていたおもらいさん、コジキだろw
>>6以降
狗奴国が邪馬台国の南などとは書かれていない
女王国(倭)の南
ごまかしの論法は止めなさい
女王國東渡海ってあるから豊の国も邪馬壹国の可能性は十分ある
>>19 好古都国はハカタ国だって説もあるけどどうだろう
好=ハオ
古=コ
都=トorツ
卑弥呼の時代、朝鮮半島にもちょっかいを出している
倭国が侵略傾向の強い国だとしたら、免田式土器の分布だけで境界を判断するのは難しい
狗古智卑狗も菊池との関係はもちろんありそうだけど、人間なのだから移動できる
記紀でも移動を強要された国津神がいる
卑弥呼は子どもの頃から霊感が強い子で奉られて邪馬台国の女王になったって昔本で読んだ
>>7 狗奴国の男王の下の長官? 狗古智卑狗クコチヒコ
クコチって菊池川の菊池か。なるほど。
邪馬台国と書いて当時の中国語発音ではジャマタイ国と読むんだよね。
21国は傍ら国で狗奴国を足して30国、女王国の南は卑弥呼の都とするとこの南、河内、官は河内彦。前方後円墳は計算されていて倭人では企画できない、五斗米道の分裂教団がやって来て 畿内を中心に中国で国を造ったように布教した。中国人国家の誕生。
>>9 今はこれが有力なのか
思ったより南寄りだな
九州と畿内
古くから交易が発達し、技術力も経済力もあったのは誰がどう考えても、九州だ
しかし
古くから交易が発達し、技術力も経済力もあったほうが邪馬台国
とは限らない
>>29 魏志倭人伝の他の固有名詞見ても、当時の中国語の発音なんかそんな気にする必要無いよ。
その後倭五王は東征毛人55ヵ国、西服衆夷66、倭人国ながら毛人蝦夷と言う、外国人の証拠。
>>32 >>9は日本史板でもほぼ皆納得してたやつだからな
免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも一致するあたりがニクいね
308:名無しさん 2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、
>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの
豊前に行く途中には耶馬溪がある。
昔からの地域名だ。
邪馬壹の渓谷だとすると大分説はあり得る。
九州と畿内
古くから交易が発達し、技術力も経済力もあったのは誰がどう考えても、九州だ
しかし
古くから交易が発達し、技術力も経済力もあったほうが邪馬台国
とは限らない
240年に邪馬台国が魏の皇帝に献じたのは、【たったの】生口10人、班布二匹二丈
266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹
永初元年(107年)に生口160人を献じた「漢委奴国王」にくらべて「親魏倭王」は【圧倒的に弱小国であり礼儀知らずの田舎者】
>>37 昔からの「昔」が新しすぎひん?
頼山陽がそのあたりで読んだ漢詩が名前の由来だろ?
江戸時代ついた名前を根拠に邪馬台国主張するとか、さすがに無理が・・
>>29 ヤマトの発音を漢字に移したもの
日本人が発音した音を中国語の文字で記した
どうしても近似値的なものになると思う
ただタイという発音はありえない
それは日本語の特徴である二重母音を忌避する原則に反しているから
つまり邪馬台国は
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り150年間以上倭国王だった大都会の古代九州
の後継ではあり得ない
九州と畿内
古くから交易が発達し、技術力も経済力もあったのは誰がどう考えても、九州だ
しかし
古くから交易が発達し、技術力も経済力もあったほうが邪馬台国
とは限らない
240年に邪馬台国が魏の皇帝に献じたのは、【たったの】生口10人、班布二匹二丈
266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹
永初元年(107年)に生口160人を献じた「漢委奴国王」にくらべて「親魏倭王」は【圧倒的に弱小国であり礼儀知らずの田舎者】
邪馬台国は
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り150年間以上倭国王だった大都会の古代九州
の後継ではあり得ない
日出ずるとこの天子、とは扶桑の天子と言うこと。天照とは何の関係もない、誤解
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り150年間以上倭国王だった大都会の古代九州
・・・の後継の九州邪馬台国が
240年に魏の皇帝に献じたのは、【たったの】生口10人、班布二匹二丈
266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹
とかあり得ないだろ
吉野ケ里遺跡、数年前の冬に行ったけど、広いのにほとんど人がいなくてガラガラだったよ。
コロナの今はさらにガラガラになってるんだろうな
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り150年間以上倭国王だった大都会の古代九州は
永初元年(107年)に生口160人を献じてるっつーのに
その後継の九州邪馬台国が
240年に魏の皇帝に献じたのは、【たったの】生口10人、班布二匹二丈
266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹
とかあり得ないだろ
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り150年間以上倭国王だった大都会の古代九州は
永初元年(107年)に生口160人を献じるほどの超大国だが
その後継の【奈良の】邪馬台国は
240年に魏の皇帝に献じたのは、【たったの】生口10人、班布二匹二丈
266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹
と、弱小の田舎者丸出し
でツジツマが合うんだよ
>>22 女王国 ≠ 倭
女王国は、邪馬台の都のクニのことだったり、
邪馬台国の領域のことだったり、意味が二つ混在して書かれてる。
仮に九州であることが証明されたとして、それで今の世の中に何か影響があるのかい?
どうでもよくないか
>畿内説の何が馬鹿丸出しって
「畿内説」って言葉自体がもうアホの極み
肥筑に広がる平野と奈良盆地じゃあ
もう異次元レベルに話が違ってくる
(この意味が分からないようなやつは
このスレにいても意味がない)
そんな物を一緒くたにしたのが畿内説
邪馬台国ブームも
もう半世紀ぐらい前だが
未だに畿内説は畿内説
畿内だったらどこでもいい説
九州はイヤだったらイヤだ説
の域を出ない
与太の集合体、寄り合い世帯
実在する天皇までの300余年の説明がつかないのは、邪馬台国は国ではなく、邪馬台温泉郷だったからって説は面白いと思うよ。
卑弥呼は温泉花魁で、あまりの美貌に中国の使いが魏志倭人伝に書いちゃったんだろ?
邪馬台国という国のようなものが機能していたら空白の300余年はないだろ?
>>41 3世紀の日本語に二重母音がなかったともあったとも言えない
>>51 女王国は倭国を指す
魏志倭人伝は倭国を訪問した記録
>>54 hじゃなくてpなのか
>>55 魏使熟女フェチ説は斬新だなw
>>43 逆だ
漢から倭国の王として認められた実績のある王権たから、漢から禅譲された魏はそんな少ない貢献でも厚遇したんだよ
>>24 当時の中国で、好をハオって読んでたのは何で分かるの?
当時のピンインでも残ってるの?
>>41 (横)
今の朝鮮語は日本語ベースの高句麗語なのだとか。
それを参考に、考えてみる。
朝鮮語の主語を示す助詞「が」(もろ日本語!)は、
たしか、名詞が子音で終わる場合、「い」に代わる。
そんな感じで、ヤマトヶ国という時、ヤマトゥい国
のような助詞の変化があったのかも知れんな。
ちょっと強引な仮説だが、ひょっとするとひょっとするw
>>49 そのような国は存在しない
魏志倭人伝に描かれているだけの架空
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
かごめかごめ
かごの中と鳥はいついつでやる
夜明けの晩に、鶴と亀がすべった
後ろの正面だあれ?
六芒星六芒星
六芒星の中の鳥、救世主はいつ現れるの?
(隕石がおちて)夜明けなのに真っ暗な空
鶴と亀(人種の永遠の命の象徴)が亡くなるんだよ
後ろにいるのはだあれ?
神様だよん
二つの三角にまつわる、ユダヤと日本の壮大な物語
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
卑弥呼が生まれたのは大分県日田市
鏡があらわれたのは出生地の証のため
ヒタシ
水がひいたからヒタじゃねえぞ馬鹿が
卑弥呼の田(出生地)だからヒタだ
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
かごめかごめの唄
夜明け、亀、鶴
すべてそろう知名があるのが大分県日田市
夜明、亀山、大鶴
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
帝はミカド
つまり三角
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
豪雨災害があった大分県日田市三隈川
月隈、星隈、日隈の知名があり
あわせて三隈ミクマ
隈、熊、球磨、コーナーつまり角
三隈は三角
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
天狗や神楽は
古代キリストユダヤや早い段階で極東までたどりついてた証左
たぶん極東を目指して移動してる
体系化な神話
古代キリストユダヤの関与がなきゃ無理
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
卑弥呼
火を観る巫女
日を観る巫女
シャーマン
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
大分県日田市
おとなり福岡朝倉市はむかしから卑弥呼で町おこし
そりゃそうだ
卑弥呼は日田市から朝倉に移動してる
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
土地争いが熾烈だったから
古代都市は
きちんと区画整理されたたんぼがたくさん
広範囲にひろがってるのが基本
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
大分県日田市からもちかい英彦山ヒコサン
ヒコの山
天狗の山
古代キリストユダヤがこもって修行してた場所
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
能には花月っていう題目がある
英彦山で天狗にさらわれた子供が
京都で花月という名前でみるかる話
もちろん大分県日田市には花月川がある
アマテラスのモデルは卑弥呼説は根強いけど大和朝廷は邪馬台国を知ってるの?
北九州の邪馬台国(本国はおそらく宇佐)、その南の狗奴国。
神武天皇は日向国出身になっててそれらとは直接関係ないように思えるのだが。
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
邪馬台国?
阿蘇だよ
日田方面から阿蘇に向かえば、すぐにヤマタイの意味がわかる
日本人なら本能的に
細胞レベルでわかる
山と台地
自然の城壁
むしろここに古代都市がないほうがおかしい
国造神社もある
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
卑弥呼は
火や日を使って預言や予言してたシャーマンだから
身近に火がある、近しいことが基本
阿蘇の火山
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
天草ー阿蘇ー高千穂
淡路ー畿内ー伊勢だよ
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
卑弥呼は初期に
英彦山にさらわれ
そこで天狗、古代キリストユダヤからいろんな呪術、技術を教わったかもしれない
いずれにしてもカリスマ、特殊な能力がないと人びとはまとまらない
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
たとえば
豊前豊後は地つづき
肥前肥後はそうじゃない
肥前ー卑弥呼前期
肥後ー卑弥呼後期
卑弥呼は日田市から朝倉市久留米うきはから佐賀
そして阿蘇へ
バカの群れかww
邪馬台国は大和でクナ国は関東に決まっとろうがww
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
高千穂の神楽
もちろん古代キリストユダヤ
邪馬台国
耶蘇
阿蘇
耶馬溪
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
英彦山はイスラエルに似てたら受けるよね
馬韓の中でさらに細かく国に分かれていて
ハクサイ国はその1つに過ぎない
後に大きくなって百済として統一
(さらに後には新羅に滅ぼされ統一新羅となる)
首都も度々動いた
倭人の地も細かな国に分かれていて
30カ国の他にも倭人の地があるし
ヤマタイ国も30カ国の中の首に過ぎない
後に大きくなって近畿東海まで勢力を広げ統一
首都を置いた地をまたヤマトと称したが、度々首都を動かした
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
宇佐や出雲
これは大きな戦闘があり
倒した敵から呪われないように弔うのが起源
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
豊前にはたしかに京都郡
京都とかいてミヤコがあり
畿内とにてるが
それは阿蘇から移動して仮につくった都市
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
琵琶湖は卑倭湖かいな?
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
宇佐で戦闘
豊前にしばらくいたかもね
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
大分県国東市クニサキ
国の東とかいてクニのサキ
宮崎県日南は真南じゃない
>>7 その地理関係で、伊都国や奴国などの主要な国が博多湾にあるのに、その女王の卑弥呼が、敵の目の前に居住するか?と言う疑問
普通に考えて、女王は厳重に護衛された安全な地に居住させるはずで、だから、熊本から近い朝倉や鳥栖や久留米までは行かずに、もっと北側
せいぜい、春日市や大宰府辺りまでの範囲じゃないかと思う
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
日出ずるなんちゃらみたいな発想
最初から畿内じゃ無理だよ
宮崎の日向じゃなきゃ
( ・ω・)( ・ω・)( ・ω・)
豊前からさらに移動
おもいきって下関へ
出雲でまた戦闘
そこで鉄か知らんが
新しい技術をしり
もってきたものを大量廃棄かもね
>>11 北九州から宇佐までは、たぶん秦王朝の末裔の秦氏の居住エリアだよ。八幡神社は秦氏の氏神だし、7世紀の隋書・倭国伝に、筑紫の国々の東には、華南人の秦王国があると明記されてる。
「また竹斯国(筑紫)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華南(中国)に同じ。」
加えて、記紀の神武東征でも、神武天皇は宇佐から一旦、北九州の岡田宮(現在の八幡西区)に1年間滞在してる。その岡田宮の宮司は波多野さんで、秦氏の末裔だと思われる。北九州の八幡と言う地名の由来も、八幡神社が各村にある事で名付けられた。
千年経っても変わらないものに地名がある
地名から比定する事で古代史が解ける
末盧国→松浦
伊都国→糸島
奴国→那の津(現在の博多)
不弥国→宇美
投馬国→鞆
邪馬台国→大和
狗奴国→熊野
>>17 隋と国交していたのは大和と日本書紀にもある
>>5 朝鮮目線で倭人伝書いてるから
「鵲」は朝鮮烏という説もある
記紀の編者も、てっきり奈良盆地が太古の昔からヤマトだと思い込んでたのよね
秋津島ができて以来
>>103 まあ日本書紀にはそう書くだろ、仮に違っていても
もういいよ
なんの解決もしないもんここでわぁーわぁーやって
なんの意味があんだよ
>>59 源順が書いた和名抄(930年代)に「はやて疾風」を万葉仮名で「八夜知」と書いてる。
八はイーyi、アルer、サンsan/sam、スーsi、ウーwu、リウliu、チーqi-、パーbaで知ってると思うが
現代北方系中国語のピンインでbaと書いてpa=パーと発音する。
930年代の平安時代に京都の日本語のハ行子音はhではなくpだった。
琉球方言では今でも花をパナと発音している地区があるとか・・・
>>60 「禅譲」なんてのはキレイ事にして誤魔化す常套句
>>99 まず、九州には、神武がいた
九州海神国:古代九州【倭奴国】
構成:九州全土の国々
首都:筑紫城
初王:天之御中主神
があるので
邪馬台国は九州は利用できない
対馬國
一大国(見島)
末廬国(石見国美濃・島根県益田付近)
伊都国(出雲)
奴国(因幡)
不弥国(摂津住吉)
投馬国(近江)
邪馬壱國(奈良)
だよ
だから
240年に邪馬台国が魏の皇帝に献じたのは、【たったの】生口10人、班布二匹二丈
266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹
なんだ
>>103 隋唐と仲が良かったのは近畿
九州は漢民族に従っていたから南朝支持だった
なぜ、記紀には邪馬台国が出てこないのか
それは、
記紀は、邪馬台国を征服した神武の子孫が創ったから
つまり
神武が生まれ育ったところは邪馬台国ではない
から
神武の子孫が創った記紀には邪馬台国が出てこない
のだよ
まあかつて神祇院繋がりで国が乱造されてたんじゃねえの
だからベトナム語って意外と似てるとか聞くし、そこから今のスパイ騒ぎをずっとるわけや、粘着して海亀ともいわれてるし頭剃るとも云うもんな。タランティーノまでもヒッピーとこじつけてたし
>>9 俺説でも邪馬台国の位置はそんな感じ
でも上陸地点は唐津の辺りだと思ってる
>>24 好古都国はハカタ国
博多の「博」は中国語で漢語ピンインでboと書いて無気音poを表わしてる
日本では江戸っ子がパーとかぽーとか威勢よく唾を飛ばしながら有気音で
発音するので新型コロナウイルスが飛び散っていつまでも感染が収まらない。
中国語は無気音と有気音を区別するけど日本語は江戸っ子の有気音pʰoと
京都人の唾を飛ばさない上品なpoとを区別して意味が変わるということはない。
「好」は中国語でhaoとかhoとかhouとかhauとか発音するが古代の日本語には
hの発音が無かったから日本語の単語を中国人がhで始まる漢字で書き取りしてたら
元の日本語はカ行だと思えばいい。
>>77 英彦山ヒコサン
彦山だけでヒコサンと読めるのに
なんで「英」の字を余分に付け足したのか
卑弥呼の邪馬臺国の位置と同じ位大きな謎だ。
>>114 記紀は近畿の正統性を主張する書物
九州の歴史は抹殺されたんだよw
>>116 現代語訳の日本書紀を読んだのだけど
神武の生まれ育ちから奈良まで邪馬台国らしきものは一切出てこないね
文字も持ってない未開な国wがどこにあろうがどうでもええわw
属国の証の金印でもありがたがってなさいw
266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
607年に遣使を奈良から隋に派遣したのは
神武から数えて33代目の大和朝廷の推古天皇
つまり
この341年間の間に
邪馬台国が消滅し
海神国王を継承した彦火火出見尊(山幸彦)の孫であり
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の第4皇子の神武が
九州 海神国 筑紫城から出兵して奈良に来て
大和で天皇を名乗って
33代の天皇が即位した
わけだ
>>1 >弥生時代から古墳時代前期の遺跡や遺物など
年代的には1000年くらいの幅があるような気がしますし、それが仮に同じ場所であっても1000年経てば出土品もかなり違った物になるような気もします。
邪馬台国は冬でも暖かくて皆裸足って記述があるけど大分の冬に裸足は寒いだろ
邪馬台国って台湾とか沖縄辺りじゃねーの?
>>127 華北や朝鮮半島に比べれば暖かいだろ
ちなみに奈良は盆地だから冬寒い
豊の国
京都の地名があるな
九州の中でも瀬戸内方言のエリア
山口や愛媛と言葉が近い
好古都は博多ではなくココ 好 許皓切
「許」は古事記で岩戸隠れの場面に登場する「伊斯許理度売イシコリドメ」の
「コ」を表わす「許」は中国語の中で魏晋時代の発音を受け継いでいる
福建方言でkʰɔコ、kʰは喉に魚の骨が刺さった場合に吐き出そうとして
コッとかカッとか息を勢いよく吐くカ行有気音子音を表わす。
中国語は有気音、無気音で意味を区別するが
日本語は有気音、無気音で意味を区別しない
ちなみに「伊斯許理度売」をイシコリト「ベ」と訛るのは隋を滅ぼした
唐の時代の漢音読みの影響を受けてるから言語考古学的に7世紀、8世紀の読み方と断定できる。
好古都国は
九州説に忖度すれば和名抄に載ってるように肥後の菊池郡
畿内説なら兵庫県尼崎市久々知
古田教に忖度すれば「伊斯許理度売」はイシ「カ」リトメと読む。
万葉集 巻17-3993 大伴池主(おほとものいけぬし)
保登等藝須 奈伎之等与米婆 宇知奈妣久 「許」己呂毛之努尓 曽己乎之母
ホトトギス 鳴きし*とよめば、うち靡(なび)く、心もしのに、そこをしも、
*とよめば 大きく響けば 「とよむ」は「どよめく」の語源になった。
「努」は万葉集で甲類の「の」として使われている。
>>127 読んだ人間がその辺にあると思いこむように距離を水増ししたなら、
その一点については気候なども含めて嘘をつき通すだろうな。
久々智氏
出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』
摂津国に居住した古代の氏族。「新撰姓氏録」によると、孝元天皇の皇子の大彦命の後裔であるという。
伊邪那岐〔いざなぎ〕・伊邪那美〔いざなみ〕二神の婚姻によって生みだされた神々のなかに、
木の神 久久能智神〔くくのちのかみ〕があったことが「古事記」にみえており、
久々智氏が木と関係の深い氏族であり、杣〔そま〕山の管理や運営を職としたことを
暗示している。尼崎に久々知、有馬郡に久々地の地名が残り、久々智氏が猪名川や
武庫川の流域に居住したことを推測させる。
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神
↓
建速須佐之男命
↓
天忍穂耳命←天照が養子にする
↓
天津彦彦火瓊瓊杵尊←出雲に派遣
↓
天津日高日子穂穂手見命(山幸彦)←九州 海神国 大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚
↓
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)九州海神国王
↓
四番目の皇子、天(津)の皇(子)である神日本磐余彦(神武)
・・・が、九州の海神国から奈良の邪馬台国に東征し
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神
↓
建速須佐之男命
↓
天忍穂耳命←天照が養子にする
↓
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)
・・・が、奈良(邪馬台国)を国譲りした
>>122 神功皇后記に他人事のように紹介されてるよ。
編纂者たちはその時代の出来事だろうと推測したみたいだね。
でも好太王碑を鑑みるに三韓征伐は4世紀末だから、
古墳時代1年を2年と数える等してたのはほぼ確実だろうな。
>>127 俺もそう思う
しかも伝聞だから話はかなり盛られてる
殆ど作り話かもしれない
鏡は地球を宇宙から観測した地球儀説があるぞ
あの有名なブラックナイト衛星使ってたとか
ブラックナイト衛星は1950年にアメリカ軍が発見した衛星
どの国も所有権を表明せず、未だに謎の衛星で、一説では数万年前から地球を周回している
狗邪韓国までの距離や対馬海峡の距離が水増しされてることは確実で、
気候も水増しされた距離にふさわしいものになってるのは、
間違えたり適当に書いたわけじゃなく、
意図をもって距離を水増ししたことの証なんだろうな。
>>127 魏人は靴をはいてたから草鞋をはいてた倭人は裸足にしか見えなかったんだよ。
意図などなく
文献学的に纏めただけなのでは
おまいらもネット情報のまとめでやってるだろう
>>101 華奴蘇奴国 彼の其の国
ええっと、あのその国バイ
>>133 イザナギ・イザナミの話は出雲神話に由来するもんじゃないかと僕も思ってるから、
それにかかわる話なら西道の出来事が含まれてても不思議はないだろうな。
奈良にある神武天皇陵は実は宮内庁から遺跡指定を受けていないのは有名
実はあれは古墳ですらない
それっぽい『ただの丘』なのだよ
>>140 東夷伝だけが距離を水増してるのはおかし
意図的なら他の場所でも辻褄合わせで水増しされるはずだ
司馬懿が公孫氏を滅ぼす件では魏の通常の里が使われているので水増しではない
陳寿が東夷伝を書く際の参考とした地誌の資料が1里80mほどで書かれていたんだ
考えられるのは魏が公孫氏から押収した東夷伝の地誌が1里80mで書かれていたということ。
>>142 意図を持った距離水増しや、古墳時代1年を2年と数えてたとかは
古田武彦著の本で紹介されてたことかな。
出雲神話に由来とかは他で見聞きした仮説を採用した結果導き出した僕の考えかな。
天武天皇が神武天皇の陵に必勝祈願に行ったと書かれてるから
天武天皇の時代には神武天皇陵の場所は知られていた
陵の位置を知ってるくらいだから天武天皇と神武天皇時代は近かったんだ
200年もは離れていない。
>>148 当時の航海技術で魏の役人を乗せて黒潮にもまれる危険を冒す仮説は僕的には却下かな。
卑弥呼の肖像画見ると愛子様に似てるから皇族関係者かな?
>>101 蘇奴国(阿蘇郡)と同じく蘇の字を持つことから阿蘇の近く
菊池郡、もしくは合志郡あたりではないでしょうか。
対蘇国は臼杵郡、呼邑国は児湯郡でしょう。
>>132 史書を作るのに水増しはないよ
出来るだけ正確を期す
八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度のこと。
『日本書紀』の天武天皇十三年冬十月の条に、「詔して曰はく、更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混(まろか)す。一つに曰く、真人。二つに曰く、朝臣。三つに曰く、宿禰。四つに曰く、忌寸。五つに曰く、道師。六つに曰く、臣。七つに曰く、連。八つに曰く、稲置」とある。
邪馬台国 邪馬臺国 大和 山門 八真人 ヤマトゥ ティアマトゥ
>>150 奈良盆地南部に宮があった時代はここが神武天皇の墓とか天皇家は覚えてたんじゃね?
平城京→平安京と移って行ってお墓参りしなくなってしまい
忘れられてしまったと考えるかな。
鎌倉時代以後はむやみやたらに京都を出るのは幕府に禁止されてたかもしれないし、
特に戦国時代は橿原まで行くのは相当危険だったろうしな。
前スレ
620不要不急の名無しさん2020/09/25(金) 19:05:11.42ID:JhTzZaMl0
>>625 ついでに言うと
邪馬台国も日本では間違って伝わっており
本当は邪馬壱国と表記されていて
これは日本語ではヤマイと発音するけれど
当時の中国人たちの発音では
シャーマイと発音するそうだ
だから邪馬台国という発音で大和(やまと)という発音を中国人が当て字したものと
推測したそもそもの新井白石のスタートが間違っていた
シャーマイという発音に近い地名を探してみて、その地域が邪馬台国のあった場所だった可能性が高い
福岡県庄内町
日本での距離の表記は、
弥生時代を記した倭人伝では、
日をもって計り、とあり
奈良時代の記録から推計すると1里530m。
戦国時代以降は約4km。
日本では、魏の里に相当する里を
使用したことはない。
>>154 出来るだけ正確を期すという点には異論はないが、
政治的にそれをする価値があると判断した場合は嘘を書く場合もあると考えるかな。
編者の判断ではなく、当時資料作成した官僚や皇帝の判断だろうけど。
>>159 覚えていられるのは200年くらいまでだろう
400年も500年も経ったら何処だか分からなくなる
5世紀までは文字も無かったんだから。
>>127 言っとくが昭和50年代以前の関西の子供は冬も裸足が居たんだぞ
雪さえ降らなきゃ案外大丈夫なんだよw
聖徳太子非実在論は言われるのに卑弥呼非実在論はいわれない不思議
異国で後の時代に編纂され、遺跡もなく、記述は少なく地理もデタラメなのに
>>162 晋の時代に魏書に嘘を書く必要なんてないよw
>>147 既に書いたように読んだ人が倭国が沖縄・台湾辺りにあると思いこむように
水増ししたと考えるなら特に矛盾はないんじゃないの?
>>163 親や祖父母と一緒に何回か墓参りし続ける習慣さえあれば何百年だろうが覚えてるよ。
>>168 >政治的にそれをする価値があると判断した場合
何で晋で前代である魏の地誌を改竄する政治的価値がある?
そんな動機は生まれない
>>172 そんな例はない
精々100年も続けばいい方
>>169 僕が読んだ本には呉の背後にある大国と友好関係あると
思い込ませたかったんじゃないかとか書かれてたかな。
>>162 意図的に嘘を書いたのではなく、単に東夷のことなんかの真偽を確かめる労力を払わなかっただけ。
18世紀に書かれた明史日本伝ですら無茶苦茶な内容。
1.秀吉は隼人の出身
2.信長は関白になった
3.明智光秀は秀吉に2回殺されてる
本国のことなら、正確性に心血を注いだかもしれないが、外国のことなんて割とどうでもいいとしか思ってない。
>>171 晋代には壹与が入朝して倭と国交があったんだから
嘘を書いても意味が無い
当時、陳寿が書いた三國志を読むのは晋の皇帝や同僚の役人だろ
誤りだと分かれば陳寿が恥をかく
>>176 18世紀だと相当腐ってそうな臭いがプンプンするかな。
>>179 それが中国では二十四正史に数えられてる。
中国の歴史書だから正しい事しか書いてないと考えるのは大間違い。
本国以外の事は割と正しくない。
マルコポーロに黄金の国を教えたのも中国人だよ?
>>183 中国は日本から輸出される金を独占することで世界一の経済力に発展したと思ってるから、
マルコポーロにそう教えたなら正しいと思うけどな。
でも中国としても日本から輸出される金を独占したかったはずだから
それを教えたくなかったはずだと思うけどな。
平安時代には津軽まで来てたくせに、元には90℃回転させた日本地理を教えてたみたいだからな。
「親魏倭王」とは「魏の親は倭王である」という意味だからな!w
金は貯めるためにあるのではない
使うためにあるのだ
近畿説は、後で権力が集中するから
出土物のみでは証明にならない。
>>182 三国志が完成した時に呉は既に滅亡してないよw
>>191 伝聞?魏代の資料を読んで書いてる
魏の残した東夷に付いて資料に1里80mのものがあったんだよ。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
↓
(投馬国から)南、邪馬壹國に至る。女王の之の場所から都(洛陽)まで、水行十日陸行一月。
こう読めば解決。
たかが「女王」のいる集落を、皇帝がいる国の官吏が「都」と書くのは不自然
「都」とは「天子がいる場所」と言う意味だったらね
>>197 >「都」とは「天子がいる場所」と言う意味だったらね
「都」とは「城壁に囲まれた大きな街」と言う意味(又は集めるの意味)
「京」が「天子がいる場所」と言う意味だよ
西の大月氏国を担当したのは曹真
それに対して東の東夷を担当したのが司馬懿
東夷がすぐそばで狭い範囲でどんぐり食ってる土人だと不味いんだよ
すげえ遠くから礼儀正しい文化的なでっかい国が魏の徳を慕って朝貢してこれたのは
司馬懿の功績なんだよっていう陳寿の小細工
だから呉越の呉を思わせる部分を丁寧に削ぎ落として
より南方だとミスリードさせるために南越の地名入れたりして
漢書地理志なんかを参考に極南界を演出した
>>198 「都する」とは集める
都合する・・・集めて合わせる
「都」を動詞と扱うと集めるの意味
「邪馬壹國 女王之所都」では「邪馬壹国は女王の集める所である」の意味となる。
天皇家に伝わる神話は
1 巫女をトップとする文明社会−高天原神話
2 皇后イスケヨリヒメの家に伝わる出雲神話
3 神武天皇ことワカミケヌの家に伝わる南方海洋民族の説話−日向神話
を大きな柱として出来ている
遠くて真偽の程はわからないということで九州や出雲の話になる
1が九州北部だと思うのは後の世まで田油津媛とかいて巫女による体制が続いていたから
邪馬台国もそうじゃないかな
さてコピペ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂)
だから、元祖邪馬台国が九州で新大和国が畿内なんだろう。
他にも地名が同じじゃん。卑弥呼亡き後に都が移ったんだろう。
遠くに逝ってしまったんだよ
ヤマタイとヤマト
なんか複雑な経緯がありそうだけど文字資料がないと
なんとも言えないのが歯痒いというか楽しいというか
投馬国が鍵だろ
邪馬台国の次にでかい国
これが出雲なら邪馬台国は大和だろうし
>>202 >おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
>これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
久米命の本拠地は熊本県南部の球磨盆地(球磨郷)だが、
この久米こそ三世紀の狗奴国だ。
東遷をしたんだから、荷物も持ってく。魏からもらった鏡を九州に残したまま、奈良に移転するだろうか?このことは魏から鏡をもらってそれほど時間が経ってないうちに神武東征があり、そして奈良移転がなされたと見るべきだろな。
近畿に大きな古墳があるのは、それだけ財力があったから。これは日本統一の結果だ。家康が江戸城を各大名に作らせたみたいにさ。邪馬台国がそこにあったからじゃない。日本統一がなされたから。
投馬国は妻国で確定している。
彌彌は美々津耳川の豪族。
邪馬台国の長官伊支馬は宮崎市生目の豪族だ。
>>202 隼人の系譜―南九州の地域性 池田次郎
熊本県の球磨川と宮崎県の一ツ瀬川を結ぶ線から南には、この地域独自の地下式横穴墓と地下式板石積石室墓が濃密に分布している。
地下式横穴墓は、宮崎県南部から大隅半島北部を中心に広がっている。それに対して地下式板石積石室の分布域は鹿児島県北部・熊本県南部・宮崎県内陸部におよんでいる。
地下式横穴墓がさかんに造営されたのは五〜八世紀である。地下式板石積石室墓が造られた時期は四〜六世紀後半である。
このように地域色豊かな墓には、隼人とよばれていた人たちが葬られたといわれている。隼人はその居住地域によって日向隼人・大隅隼人・阿多隼人・薩摩隼人・甑隼人とよびわけられている。
宮崎県の地下式横穴墓から出土した在来系古墳人は 、鼻根部の隆起が強く、大腿骨の柱状性が強いなど、縄文人的特長がいちじるしく強い。
南九州にいまでも残っている畑作儀礼や狩猟儀礼からみて、焼畑農耕と狩猟で暮らす隼人は、縄文人的な頭蓋と四肢骨をもつこれらの古墳人につながる人たちだったにちがいない。
話を肥人に移そう。水野祐はこの異族を西九州の漁労民にあてている。資料の大半が熊本県の箱式石棺墓から出ている西九州の古墳人は、底顔という点では南九州古墳人をしのぎ、大腿骨骨体の柱状性も強いなど、
その特徴は南九州古墳人によく似ている。肥人は西北九州の漁労民と深い関わりをもつ異族だといわれているから、在来系の特徴をもつ西北九州弥生人は、肥人につながる人たちだったのかもしれない。
形態的に近い西九州古墳人にもみられない南九州古墳人の特異性は、現代でもこの地域は本土日本人の中で、もっとも異色な存在となっている。
では、隼人までたどれる南九州人の地域性は、どのようにして形成されたのだろうか。日向の海幸山幸神話、隼人の盾・槍などの類似から、隼人はオーストロネシア系の種族だという解釈が古くから有力である。
おそらく更新世に遡る時代から南島経由で人的文化的影響がおよんでいた可能性がある。民俗学者の大林太良も、隼人の言語はオーストロネシア語族の流れをうけたものと想定されると述べている。
この地域の人々が中央政府からの圧力に頑強に抵抗し続け、体質面でも現代に至るかなり強い地方色を遺したのは、
彼らが長年に渡って育んできたそうした独自性の強い文化が、流入する他文化と激しい摩擦を起こして容易には同化し得ない土壌を形成していたことが一役かったのであろう。
なるほど
この国難の時代に
スピリチュアルにかぶれた安倍昭恵が
宇佐八幡を訪れたのは正解だったのか
>>198 古代の「京」は桁が大きい数字、の意
群雄割拠時代に小国が首都に「京」を使った例はあるようだけど
>>201 現代中国語では「都」に副詞の意味もある
女王之所都→女王のところに違いない
このように強調する場合に使う副詞
後漢書
大倭王居邪馬台国・・・
この邪馬台国(邪摩堆)の大倭王が、奈良盆地に移転し、のちに大和に変えられた。
曰く、「和 を以て貴しとなす」
>>193 纒向は畿内説の希望の灯でしたね。
ここをしっかりと調査すれば邪馬台国畿内説が決定的であることが明らかになる、と。
しかし現実は畿内説の人たちにとっては残酷なものでした。
調べれば調べるほど邪馬台国とは大きくかけ離れてゆく。
纒向学なる新たな学問をひとつ作りはしたもののどうにもなりません。
口では畿内と言いながら、現在ではまともな研究者ならば誰もが心の内では畿内説は終わったと感じています。
邪馬台国の時代、畿内に巨大な王権が有ったのはほぼ確実なことでしょう。
しかしそれは邪馬台国とは異なる、また別の国家であったというだけのことです。
投馬国の本命は三潴だと思うんだがあまり話題にならない
天皇家は鎌倉以前は派閥争いなんかあってまともな記録なんか残ってねえのよ
だから古墳時代の墓のどれがどれだったとか解らないのよ
天皇家と古墳とか全然関係ない可能性だってあるよw
九州北部の邪馬台国(連合国家)は、南部を取り込み、東征し、橿原の地に大和政権
を誕生させたことは明らか、出雲は日出所、伊勢を目指す過程で橿原の地に舞い降り
ただけですね、
>>213 >口では畿内と言いながら、現在ではまともな研究者ならば誰もが心の内では畿内説は終わったと感じています。
なぜおまえが研究者たちの本心を知ってるの?
偉い大先生がこうだと言ったら、弟子たちは例え間違いだと判明しても大先生の説が正しいと言ってしまう。
これが日本の大学が落ちぶれていく原因でもある。
>>219 研究者の一人だからですよ。
昭和生まれの人たちは知りませんが、平成生まれの我々のあいだではそうですね。
まあさまざまな事情から口にも論文にも出せませんが。
私は河内出身、大王たちの古墳を身近に感じつつ育ち、もとは畿内説でした。
ですから畿内ではないことに落胆した人間のひとりでもあります。
野蛮な九州の王権に比べて畿内の王権は平和的でより文化的なものであったと考えています。
忖度大学
忖度学会
忖度教授
忖度学生
忖度無職
・・から成る 忖度畿内説(笑
魏志倭人伝の水行が帯方軍からだとした場合距離的に投馬国は丹後辺りか大阪辺りかになる
7世紀頃には丹後辺りは旦波っていう大国だった事が判ってて有力だと思うよ
いつも思うんだけどさ
飛鳥時代ばりに遷都しまくってたら、「邪馬台国はここです」みたいに一ヶ所に決める事自体がナンセンスというか
>>222 記紀どおり、神武一行を討とうとし兄磯城や兄猾のように悪賢い賊だったり、
兄を裏切り神武に取り入った弟たちの様子を見ると「文化的なものであった」とは思えないなあ
>>225 邪馬台国が連合国制だったら、
男王→卑弥呼→男王→台与みたいに首長の居所(都)は変わるわけだし
>>232 その通りだと思う
九州に在った奴婢100余名の殉葬もためらわない野蛮な邪馬台国体制に見切りをつけた神武?が
新天地の奈良盆地に打ち建てたヤマト王権。
これがやがて仏教をも取り入れた平和・柔和な大和政権に発展し、ついには日本統一にまで至ったのだ。
此処に大和の偉大な功績があった。
つまり、野蛮至極な九州・邪馬台国体制との決別が、奈良に偉大な平和文化を育てたのだということを
奈良人(ナラヒト)は、世界に向かって大いに自慢し、ほこりとすべきだ。
7万戸も広い平原に家建ち並ぶじゃなくて
山の向こうとかのあちこち集めて7万だと思うの
>>213 銅鐸出土状況、好太王碑、大阪平野の地質調査と
いろんな考古学的物証が一九州説を裏付けてたところへ
崇神大和政権誕生時期を推測するための纏向発掘。
どう考えても畿内説にとどめを刺すための発掘調査だったとしか思えんけどな。
>>5 わしの考えでは、大陸ではカササギはポピュラーな鳥でよく知られている
佐賀県と長崎県の一部ではカササギはよく見られる
大陸の人が九州に上陸、松浦等佐賀県に達すると
ここ(倭国)にもカササギがいると認識する
ところが、さらに進んで邪馬壹国に達するとカササギが見られなくなる
邪馬壹国にはカササギ無しの記述となる
つまり、佐賀県を通過した、カササギの見られない隣県付近が邪馬壹国だろう
夜な夜な人里に出没しては娘をさらうヤマタノオロチ伝説とは、
やはり、野蛮な九州・邪馬台国体制を非難し、世に伝えるものなのだろう。
垂仁天皇の埴輪令に見るように、
この野蛮・残虐性に区切りをつけたからこその大和であったことを、強く認識すべきではないかと思う・・。
卑弥呼の先祖が東へ行けと告げ、国東半島へ移動した集合体。その後そこで卑弥呼は生まれる。古代から恐れられた火山噴火と地震そして太陽が隠れる日蝕。すべて神々の怒りと信じていた「人々」にはシャーマン的存在が必要不可欠であった。
>>228 殉死は古墳時代前期まで無くなってないと思うよ
殉死の代わりの埴輪が見つかるのは中期以降じゃん
中国でも紀元前には数十人数百人単位で殉死が行われていた国があるし
始皇帝陵の時は、流石に人数が多くなるのでか、殉死したくない部下の発案で兵馬俑が作られたんだろ?
橿考も、桜井も、纒向センターも、
ただの面白半分・マスコミ迎合は身を亡ぼすぞえ
>>211 「之」とか入るんかどうか忘れたけど、「所」には名詞句化する機能とかなかったっけ?
仮に「<名詞>女王所都」なら「女王都(<場所>)」が名詞句化してて、
<名詞>=(<場所>)の関係を意味してることになるんじゃないの?
>>236 垂仁天皇令であると伝えられるところから、その通りであろうな。
ただ、この令が(起源は吉備だったかもしれないが)奈良盆地で育ち、全国五広まったことは確かだ。
これはヤマト王権あったればこそであり、奈良人(ナラヒト)の偉大な功績だ。
>>232 移入されたの17世紀辺りとか言われとるんやが
佐賀県教育委員会が毎年場所を変えてやってるだけか
国ってしてるけど集落にしろよ
国といえるほどでかいの見つかってなくて子供たちが混乱する
>>233 一大率をして刺史のごとく、というのは
邪馬台国が恐怖政治国家であったことを示していますね。
ヤマタノオロチ(邪馬台国)は狗奴国の狗古智卑狗(スサノオのモデルの一人か)に退治されたのでしょう。
>>222 「自称」研究者に九州説支持者は多いからね〜
学術的にみたら、九州説を示唆するものは何一つないんだけどね
あと
>昭和生まれの人たちは知りませんが
この一言でむしろキミが昭和生まれなのを立証してると思うよ
投馬国は宮崎だよ
ニニギ以降、名前がリピーターだし
神武天皇もリピートネーム
投馬国の官も彌彌w リピーターw
「九州説」って言葉自体がもうアホの極み
だって九州は広いんだから、というだけの理由で
九州九州わめいている
その広い九州のどこにあったのかすら不明なのに
邪馬台国ブームはそもそも九州説を主張する一冊の本から始まり
それが広まってしばらくして、吉野ヶ里遺跡が有名になり
さらに九州説が広まったという昭和の古い流れがあるが
そもそも、その吉野ヶ里からは九州説を裏付けるものは何一つ出ていない
結果として九州説を主張する人たちは
九州のココだ、いやアソコだ、コッチに違いない
とにかく九州なんだったら九州なんだよ!!という主張しかできない
まさに与太の集合、寄り合い世帯
老人会の集まりの雑談レベルの話しかできていない
>吉野ヶ里公園管理センターの歴史専門員は
>邪馬台国があった場所として考えられている九州と畿内との違いを、
>出土した遺物を見て比較してほしい」と話していました。
九州でもまともな立場ある人は邪馬台国が九州とは言わなくなってる
これが現実
>>247 吉野ヶ里なんて30年くらい掘り続けてるのに
未だに邪馬台国と繋がるものが出てないからな
それこそ、学芸員レベルの人が主張しているだけでしかない
>>231 学術的な研究がすすんでいるだけ、マシじゃね?
九州説なんてそもそもムー大陸レベルのファンタジーだからな
証拠も無い根拠も無い、でも広い広い九州にあったに決まってるぅううう!!が九州説信者の主張
鉄後進国の畿内がナンダッテ?
吉野ヶ里も纒向も何十年掘っても掘っても違うんだから他所探せということですな
>>248 >>162は抽象的で何を主張してるのか分からんよ
具体的な事例をあげないと説明になってない。
>>239 天皇家での殉死は近代でも無くなってないでしょ
明治天皇崩御に伴う乃木大将夫妻の殉死とか
またぐうの音も出なくなったキチガイ畿内説論者がIDコロコロして自演擁護始めたな
>>256 ぐうの音が出るのなら、是非「具体的な証拠を提示したうえで」「九州のどこにあったのか」教えてくれませんか?
>>257 これまでのスレの流れ見てたら九州説の全貌わかるだろ
>>253 漫画とかアニメになってる三国志とかも読むなり見るなりしてみたら。
そうすれば当時の中国像みたいなもんを共有できるからわかるようになると思うよ。
今では高校生でさえ邪馬台国はほぼ畿内で決まりと学校で習ってるのに
5ちゃんの九州爺さんたちは昭和時代から時間が止まってる
■【弥生時代】邪馬台国所在地論争に、終止符か
最近では、畿内説のほうが有力視されています。
https://news.infoseek.co.jp/article/president_33955/ >>257 吉野ヶ里より10分の1以下の小規模な集落が西日本全域を支配下におさめる首都的な都だったとは誰も納得しないよ
もう卑弥呼の"卑"の字は止めて欲しい。
秘とかじゃ駄目なのか?
有力な政治的集団を作るには
食料生産力など優位に立つ必要がある
そなためにはある程度土地が必要
九州では佐賀平野が今ほど広くないとはいえ
やはり九州最大の平地なので
統一政権が九州にあるなら佐賀平野かもしくは福岡平野の山よりあたりが有力
僕の高校日本史の教科書には
畿内説:九州が大和政権の勢力範囲内
九州説:九州が大和政権の勢力範囲外
みたいなこと書かれてて、纏向遺跡発掘により崇神大和政権誕生3世紀の可能性が高まり、
記紀によれば九州・朝鮮にちょっかい出し始めたのはそれ以後なので、
当然九州説が有利になるはずなのに、近年の古代史・考古学者の劣化は否めんかな。
現代高校生の恵まれない状況が不憫でならんな。
卑弥呼の卑は「日」だよ
九州の国には日が付く=アマテラスの地域
古事記でこの記述なんだから察しw
筑紫島(つくしのしま) - 九州。
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ) - 筑紫国。
豊日別(とよひわけ) - 豊国。
建日向日豊久士比泥別(たけひむかいとよくじひねわけ、タケヒムカヒトヨクジヒネワケ) - 肥国。
建日別(たけひわけ) - 熊曽国。
>>237 それらはまだ纒向が邪馬台国とか言ってるの?
素直にヤマト王権の里とアピールした方がずっといいのに。
卑弥呼がいた王都が小さいのは問題ない 伊勢遺跡 纏向遺跡
九州も小さい 三雲→井原→平原
王は奴国のような大勢が住むところから離れて住んで
畿内に卑弥呼が東遷してからもそのやり方が続いていた
3世紀半ばの王が持つにふさわしい
豪華な副葬品の墳墓が必要だけど九州にはない
そもそも大和やまとヤマトの意味からお勉強された方が宜しいかと。邪馬台国と大和王朝は別問題っしょ?
>>268 「豪華な副葬品の墳墓」は現代までに盗掘済み
>>249 そもそも吉野ヶ里が邪馬台国ダーと喚いた学者は、隠れ畿内説のオッサンだった
例によって、面白おかしく畿内説ー九州説をあおったのさ。
が、30年後になって大恥かいた。
>>251 これで興味深いのは福岡大分熊本佐賀に比べ宮崎鹿児島の鉄器出土が格段に少ないこと。
また数字の残る平安時代初期でも米生産量で日向薩摩大隅は北九州より少ない。
邪馬台国連合は佐賀福岡大分で対立する狗奴国はやはり鉄器を多く持ち稲作も盛んな熊本。
けど天孫降臨から東征までの天皇家の祖先は鹿児島宮崎にいたことになってる。
経済面軍事面で北九州に劣る筈なのに?
>>259 これまでのスレの中には何一つ根拠もないし
まともにどこが邪馬台国なのか指摘できているものもないってことは
九州説はただのふんわりとした妄想説が結論ってこと?
>>274 その土地に希望が見いだせなかったから引っ越しを決断したんじゃないの?
奴国、投馬国、邪馬台国だけで14万戸。その他の国を合わせれば100万人を超える
九州説
九州だけで100万人プラス狗奴国
畿内説
九州から関東で100万人
2世紀後半の平原遺跡レベルの副葬品がでた墓が王の墓だけど
3世紀半ばの九州でそのレベルの墓はない
箸墓は宮内庁のせいで不明だけど
周辺のホケノ山や黒塚以上の副葬品があると思われる
これは九州側に譲歩してるからね
箸墓は278mだけど九州は小さくても副葬品が王にふさわしいなら
認めてあげなくもない
>>251 これって、矢じり1個でも鋤の先1個でも剣1本でも出土数1個換算でしょ?
重量換算にした表が欲しいね
同様のものが青銅器verも欲しいね
>>274 世界大戦時でも九州南部出身の兵隊は強い強いと言われてましたし(菊兵隊だっけ?)
ずっと一か所だけに留まるワケが無いでしょ?現在と違い自然環境も過酷。渡来人や自然災害から身を守るのがやっと。狩人と農業やりながら生きていたわけだし、ジプシーみたいに移動もするでしょ?
>>273 その前に邪馬台国の書籍が発売されて
九州説が広まったところで、吉野ヶ里で大規模発掘があったんだよ
二塚山の遺跡なんかが発掘されたタイミングがそれと重なったので
マスゴミが面白おかしく取り上げる→一般の人に「邪馬台国は九州にあった」という思い込みが生まれる、という流れ
>>251 魏志倭人伝に「邪馬台国は鉄の精製が発達してる」なんて文言なかったからなあ
>>279 三世紀の古墳からは鐙なんて出土しないよね
>>278 1戸4人なら56万人だよ。
仮に多めに見積もって一戸6人だったとしても邪馬台国・奴国に関しては何ら問題ないって話だけどな。
それに一戸6人でも84万人だけどな。
>>278 中国の記紀は数万の軍でも100万の軍とする表記は当たり前だからね
戸数から人口を推定する前に、そういうの理解しておけよ
>>283 現状は思い込みでしか論説できない畿内説が負け犬の遠吠えを続けてるよ
>>289 当時九州には大きな集落があって、諸外国と交流があった、というのは事実だろうからね
また、畿内にも当時の痕跡から日本中の土器が出土していることから、日本中と交流のあった集落があったのも事実
問題はその「集落」が果たして邪馬台国だったのかどうか、って話だわな
>>290 思い込み以外の根拠を九州説が一つでも提示できるなら、嬉しいですね^^
是非どうぞ^^
以下の九州説であれば、方角・里数とも倭人伝にピタリ合う
(其の2)東南陸行五百里到伊都国
伊都国の最有力候補地は、唐津の古港の中原遺跡から東南37.5qで丁度500里のところにある佐賀市の山寄りの大和町川上大願寺地区だ。
ここに古〜い五社大明神(太神宮)があって、藤原氏の祖を祀っている。
この神社の祭神の一人はタケミカズチノカミだが、其の父君の名は「伊都之尾羽張」といった。これが伊都国(イツコク)の名残りであろう。
この川上の大明神から東南方向100里、つまり7qほどのところに佐賀市街(佐賀城・佐賀県庁等)が見える。ここを奴国と呼んだのであろう。
倭人伝では東南至100里とだけ書かれ、移動を示す動詞がないことから、「東南の方角に奴国が見えま〜す」という書き方だ。
つまり伊都国(川上大願寺)からは移動せず、そこにとどまったままの状態だ。
その次、東行100里至不彌国は、移動を意味する動詞の「行」があるから、実際に伊都国から東の不彌国へ行ったのであろう。
丁度100里ではないが、真東へ140里くらい行ったところに、吉野ヶ里大遺跡がある。
このあたりは、律令制では三根郷(彌根郷)といった。これが不彌国という国名の面影なのではないか。
なお、この不彌国から南の方角には投馬国(宮崎・都万)が有る。・・(南至投馬国)
又同様に、南の方角に邪馬台国(肥後・熊本山門郷)の女王之所都もある・・(南至邪馬台国女王之所都)
>>289 まず近畿は短頭(絶壁)で歯が大きい。
北九州は長頭(頭が前後に長い)で歯が小さい。
関東はその中間。
歯冠サイズの地理的変異 長岡朋人2003
現代 近畿----関東--北九州
両地域の相違は、短頭傾向を持つ近畿の集団と長頭傾向を持つ九州の集団との違いにみられるように、頭蓋計測値でも認められている(Nagaoka.2003)
したがって、両地域の相違は歯冠サイズに限定した現象ではない。
同心円的構造の背景として、外来集団の渡来は不可欠ではあるが、もう一つの重要な要因として近畿の歴史的・社会的環境要因を考えた。
近畿は歴史時代における政治・経済・文化の先進地域であり、そうした地域に特有な社会環境が遺伝子頻度の変化、例えば渡来人遺伝子の増加をもたらした可能性があると指摘した。
本研究の結果は長岡・熊倉(2002)の結論と矛盾しない。
近畿地方の特異性の解明にはさらに近世以前の資料の蓄積を待たないとならないが、本研究の結果は、日本人形成史の研究に寄与する重要な知見であると考える。
O1b2(L682)朝鮮半島固有の遺伝子
>>274 >邪馬台国連合は佐賀福岡大分で
これを裏付ける物証がない
九州説の問題はこうやって空想話を作るだけで、その根拠や証拠を提示しないこと
>>288 テレビで楊貴妃の話やってたときに美女3000はたくさんの美女って意味だからとやってたの思い出す
>>293 それは「短里」という邪馬台国を九州におさめるために無理矢理つくった単位を使って計算したもの??
>>287 魏の時代の1戸は5人が基本
名前しか出ていない国も合わせれば100万人を超えるよ
>>211 「京」
京とは元々は京観(凱旋門)の意味で
京観と師旅のある所を京師と呼び、国都の意味となる。
>>238 「邪馬壹國 女王之所都」では「邪馬壹国は女王の集めた所」
邪馬壹国は倭の国々を集めて七萬戸じゃないかな。
>>265 崇神天皇は卑弥呼と同じく3世紀の人物だが大陸と交流がないから倭人伝に載ってない。
4世紀に大和朝廷が北九州に侵攻した時に
邪馬台国は滅亡済みだった、が一番矛盾は少ないのかな?
>>299 楽浪郡や帯方郡では計算すると6人だったみたい。
1里は100m前後なのはもう確定として話進めてほしい
帯方郡から九州までの道のりでもうそれは確定なんだから
そこであーだこーだ言ってる時点で糞だと思うわ
>>286 箸墓の周りは当時は周濠
あぶみは周濠からでてる つまり外 池ポチャしただけ
>>298 邪馬台国を九州におさめるために無理矢理つくった単位ではなく
東夷伝の記事を現実の地図に照らし合わせて推測されたもの。
>>285 倭人は鉄製の鏃を使うとは書かれてるのだが
国産品だととも輸入品だとも書かれてないんだよね。
>>176 参謀の明智と毛利の安芸がごっちゃになってんだろね
>>308 奴国だけで2萬戸と書かれてるから十分に養える
>>298 短里だなどと、だれかのように気の短いことを云うな。
此処で採用した里は、長らく東夷の楽浪郡・帯方郡などを治めた公孫氏が用いていた方角と里だ。
これを公孫里という(八方位、1里≒75m)。
この公孫里では、不彌国は吉野ヶ里、邪馬台国は肥後・山門郷となり、倭人伝とピタリ一致する。
>>306 現実の地図に照らし合わせて推測したとしても
短里はできないよ
何せ、その後「陸行1ヶ月」があるのだから
>>251 鉄後進国の畿内がなぜ全国統一できたか?
松木さんが簡潔に答えてる
「近畿の王は共同体の首長の力を借りて九州から東方へのルートを握り、
鉄を元手に経済力や権力を一極集中させていったとみている。」
最終的に畿内が鉄を独占するし、3世紀中頃には九州の優位性はなくなってる
230年に孫権の命令で兵1万を連れて東方を調査に向かった
衛温と諸葛直が夷州人を数千人連れて帰る 呉書
当時の中国人が邪馬台国は夷州(台湾?)と考えたんだろう
その場合7万戸はおかしくない
なにしろ数千人連れて帰ってるからな
>>312 ではなぜ「公孫里」と書いてないんだろうな?
「当時の常識では」里といえば434mだったのだから
違う単位であるのなら、それを明記するはず
明記されてないのに「これは里って書いてあるけど、里じゃないから!」って無理がありすぎる
>>314 結局そこで「距離」が「日数」にかわって謎になるんよな
「一日どれくらい進むか」っていう話は他の書物では出てこないの?
>>314 (前出
>>293)
>なお、この不彌国から南の方角には投馬国(宮崎・都万)が有る。(帯方郡からは)水行二十日である・・(南至投馬国)
>又同様に、南の方角には邪馬台国(肥後・熊本山門郷)の女王之所都もある。(帯方郡からは)水行十日と陸行一月である・・(南至邪馬台国女王之所都)
>>317 もうそんなレベルじゃなくって
帯方郡から九州までの距離も「〜里」でかかれてて
そこの数値はわかってるんだからそれで計算すればいいだけだろって
短里だ長里だで争ってるのはほんと時間の無駄なんだよって
>>314 帯方郡から狗邪韓国の7000里、韓方4000里、対馬国や一大国の外寸から1里80mが導き出されるよ。
対馬まで1000里なんだから短里だろw
対馬じゃないって言い張るなら別だが見える対馬スルーして見えないどこか行くとかとんでも過ぎるだろw
>>318 >結局そこで「距離」が「日数」にかわって謎になるんよな
伊都国、奴国で12000里の説明が終わっているから
再度日数で帯方郡からの行程を説明してるだけ。
奈良時代で600万人くらいって本で読んだ
紀元前後で人口は100万越えるくらいでは
>>320 いや、そういうレベルなんだよ
だって、「当時の中国では里という単位は434m」という事実があるんだからね
それを覆す根拠が何一つないんだから
7万戸は張政の嘘だけど夷州(台湾?)から建業を攻めるのに
兵士7万人用意できそうと言われても
当時の中国人は嘘だと思わなかっただろう
なぜなら衛温と諸葛直が夷州人を数千人を連れて帰ってる 呉書
魏志倭人伝を読むと邪馬台国は九州北部にはならないで
沖縄台湾になるのは張政が建業侵攻作戦立案のために
勝手に都合よく書き換えたと考えられる
ただその書き換え方は絶妙で
当時の中国人からおかしいと思われない範囲で
しかも建業を攻められそうな感じにしてる
「まっすく進んだらこのくらいかかりますよ」じゃなくて
「私はこのくらいかかりました」だと
途中で何日も滞在したりなんだりの日数も含まれることになるんよね
>>315 5世紀くらいにならないと文字や鉄器が普及しない関西が3世紀に全国統一とか無理
>>317 俗に「倭人伝」というが、それは正確ではない。
正式には「魏志・東夷伝」であり、その一部に倭人のことが添えられているだけにすぎない。
つまり、そもそも全体が東夷伝なのであるから、
長らく東夷を治めていた公孫氏の里で書かれていることは、説明を要しない自明・当然のことなのである。
>>321 導き出されないよw
頭大丈夫なの?
お前の友達がいきなり「1kmって30cmだよな?」って言い出したらどうする?
「あれは30kmって書いてるけど、実は900cmなんだよ」って言い出したら、精神科すすめるだろw
単位っていうのは「誰もが共通の認識を持つために一律で」決められたものなんだから
個人の都合で勝手に変えちゃだめw
別に短里じゃなくてもいいよ
長里ではないし東夷は同じ距離感で盛られてるのは事実なのだから
陳寿が意図をもって東夷を大きくみせかけたのは間違いない
>>301 僕は朝鮮との交易で重要な九州北岸部のご機嫌を取るため
大和政権が滅ぼした九州内の国々の一つに
邪馬台国があったんじゃないかという可能性を考えてるかな。
度量衡か必要になるのは収税するため
まだこの時代の倭国なんて方位距離なんて測っていない
大さっぱで十分なんだよ
>>325 紀元前10世紀くらいから北部九州地域では稲作が始まってる
3世紀だと13000年くらい建ってる
8世紀だと1800年
奈良時代で600万人なら3世紀は500万人くらいじゃないかな。
畿内派の中でも長里はいくらだとか言ってくるキチガイはマジで話に入ってこないでほしいわ
そいつのせいで畿内派全部白い目で見ることになるぞ
オレは九州派だけど場合によっては畿内もあるかもと思ってるのに
>>333 陳寿に東夷を大きくみせかける動機はない
陳寿が見た東夷の地誌資料に短里で書かれたものがあった以外に考えようがない。
>>331 しかし、例えばその中の三国志には「一里=434m」でないと矛盾が生じる文章が複数個所あるんだが?
>>335 東夷に勢力を張っていた公孫氏が支配しようとして測量したんだろうな。
>>326 >だって、「当時の中国では里という単位は434m」という事実があるんだからね
そもそも、↑此のアタマが間違っておる。
ご本家中国の里は434mだったかもしれないが、公孫氏の治めていたところは「東夷」と呼ばれ、
「夷」、つまり中国の外の野蛮な番外地だったのだ。だから434mは適用されていない。
>>337 里については未だに短里だ、いや、「与」という文字が別の意味をもつんだ、
一寸千里法だ、と複数の説があるのに
短里に決まってる!!って頭ごなしに決め付けている人こそ
会話に入る必要なくね?
だって、そいつの頭の中じゃ既に「里と書いてあるけど短里」と確定していて
「邪馬台国は九州だった」ということが「 根 拠 の 無 い ま ま に 」確定しているんだから。
議論の余地なんてないだろ。
>>339 公孫氏関係の資料にだけ短里が使われてたんだな。
>>342 じゃあなんで、その東夷伝の中で「里=434m」じゃないと矛盾が生じる箇所があるの?
そもそも、「適用されていない」ってのは誰の学説?
「俺の」学説?ww
>>343 「帯方郡から九州までの道のりで里いくらかわかるだろ」って言ってるだろおおおおおおおおおおおおおおおおおお
ヤマトが北部九州の勢力で、それが中国四国関西を抑えたら、そりゃ九州時代と比較にならないほどカネモノヒトが使える。それが九州に留まってたら九州に巨大遺跡があるだろうけど、遷都したなら残ってるわけない。
九州に巨大古墳を求めるのは元の痕跡をモンゴルに求めるがごとし、あるいは徳川の痕跡を三河に求めるがごとし。
>>346 だからさ、繰り返すけど「短里」で東夷伝を読み解くと、山ほど矛盾が生じるじゃん?
これは事実だよね?
>>338 西域担当の曹真に対抗して業績を大きく見せかけるためには
東夷が大きな範囲じゃないと不味かったんだろうね
金印を貰った大月氏国に対抗して、東夷の島国に親魏倭王の金印を授けたのは
大月氏国にも比較し得る遠くて大きくて文化的な国だとされたから
>>345 >東夷伝の中で「里=434m」じゃないと矛盾が生じる箇所あるの?
それ何処ですか?
短里厨ってこういうインチキやってるんだよ
1里=80メートルと仮定して、帯方郡(沙里院)から狗邪韓国(金海)まで、
リアス式海岸を沿岸航行したときの航路
船が陸上を直進するんだとさ
>>343 怪談をしてるときに、幽霊なんていないよって言うようなんもんだよ
九州説はオカルト談義したいんだから
>>348 お前がどういう認識なのか知りたいから
どういう矛盾が生じるか説明してみてくれ
>>266 古事記は平安の皇室やオクニが存在を認めておらん
一言主神を雄略天皇より上のように描くなど全く違う
そもそも「万」には、千の10倍以外に「非常に多くの〜」の意味がある
「万戸」で非常に多くの家や「集落」の意味
その他現代では、「万元戸」で金持ちの意味
国の中に2〜7つの集落がある、くらいの意味だったのかもしれないぞ
神武の東征は実際のところ南九州版国譲り。
ヤマトの大物主が神武たちに持ち掛けた「あんた、ヤマト連合の初代王にしちゃるから国を譲ってヤマトに来なさい」と。それは卑弥呼、トヨと続けて二度も男王選びに失敗して沢山の犠牲者を出していたことと、大物主自身が出雲国を譲り、中央へ移り住んでヤマト一の実力者となっていた実績があったからだ。
神武たちは国譲りを決意しヤマトへ。しかし長髄彦ら反対派に都入りを阻止され、正規ルートからの都入りを断念。迂回して熊野から険しい紀伊山地を通ってヤマトを目指す。大物主は道案内(八咫烏)や助っ人(高倉下)を送る。そして神武はなんとか都入りを果たし大和連合初代王に即位。
大物主は長女を神武の妃にする。南九州の腹違いの神武の長男を殺害し、長女の子に王を継がせる(綏靖)。さらに次女を綏靖の妃にする。その子(安寧)を王とし、孫を安寧の妃にする。これは完全に大物主の策略。
>>355 陳寿の雇用主の先祖は立派だったという書物を書くのに無関係なわけがあるか
関係あるに決まってるだろ
>>339 バカタレ、三国志は基本的に御本家中国内のことだ。
だから、中国国内の事、及び中国国内から番外地までの距離などは434mで書かれる。
但し東夷伝は、その全体が公孫氏が納めていた東夷の野蛮人が住む番外地のことだった、だから公孫里でよいのだ。
>>351 帯方郡の南の海岸から出発してる
郡内の描写とかないだろw
九州に渡るのに釜山までは行かないよw
>>158 〽天の香久山にゃカモメが居ってさ
〽それを漁師が弓矢で打ってさ
〽「漁師」はね「ぎょし」って言うんよ本当はね
〽だけどアーホやから「ぎょし」のこと「猟師」と読むんやよ
〽可笑しいやん オマエラ!
内陸部でも京都府向日市鶏冠井(かいで)町弥生前期〜後期の鶏冠井(かいで)遺跡から
魚を突くヤスが出土
向日市は長らく向日町(むこうまち)と呼ばれて国鉄〜JR東海道線吹田総合車両所京都支所(旧・向日町運転所)がある。
向日神社のある場所は京都・嵐山から続く丘陵地の先端。
長く続く岡の東にひろがる向日市付近は、古くから「乙訓郡長岡村」と呼ばれていた。
長岡村におかれた都だから長岡京。とくに向日市には、大極殿や朝堂院、
内裏など国の重要な諸施設が立ち並ぶ、長岡宮と呼ばれる区画があった。
奈良にも飛鳥川、竜田川、大和川、吉野川といった川が有るから漁師ぐらい居るやろ
例えば時代によって里いくらか変わってしまう
地域によっても里いくらか違ってた
そんな違いが一つの文書の中で含まれている場合ももしかしたらあるかもしれない
ただ
「帯方郡から狗邪韓国まで7000里、
狗邪韓国から対馬まで1000里、
対馬から壱岐まで1000里、
壱岐から九州まで1000里・・・」
って続いててその次からの里で急に里いくらっていう数値がかわるってのは
さすがに無茶だろ
そのレベルの矛盾が東夷伝にはあるのか教えてほしい
>>350 え?ww
逆に聞きたいんだけど
あの長い東夷伝の中で「短里」をつかっていると思われるのが
韓伝と倭人伝以外に存在する?
>>15 魏の人達が福岡辺りを東に歩いたらしき後で、二回も長期間の船移動してなきゃな
>>334 邪馬台国は伊都国に一大卒を置いてた、
つまり外交、国防、貿易管理のために対馬海峡ルートを監視していた。
この統制に連合を構成する国から不満が出ててそこに大和が介入した、なんてあったりして。
「八百万(やおろず)」は「非常に多くの数」の意味がある漢数字が重ねてある
更に「途轍もなく多い」の意味が好例
「万戸」の意味を数字の単位だと思い込んで話を進めてるのはちょっと滑稽に見える
>>353 スレの話?
そういうのも混ざってるだろうけど、僕はガチやな。
>>347 なのに
240年に邪馬台国が魏の皇帝に献じたのは、【たったの】生口10人、班布二匹二丈
266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹
なんてあり得ない
>>369 伊都国には
邪馬台国から派遣された大卒と
伊都国の王がいた
完全に出雲だよ
>>347 「元」の首都は現在の北京がある大都だよ
>>373 出雲も古くから朝鮮半島と行き来してたぞ?
東松浦半島と北松浦半島の位置関係から
もしかしたら昔の九州は方角を間違ってた可能性があるとは思ってる
ただその場合でも畿内までいくとは思えないんだよなぁ
海を渡るなら海を渡るって書くと思うし
立ち寄った国は今まで通り順を追って記述すると思う
>>369 一大卒じゃなくて一大率だよw
伊都国に置いたんじゃなくて女王国以北の諸国に置いたんだよ
伊都国で女王国以北の諸国を治めていたと魏志倭人伝に書かれてる。
遺跡ベースで場所が判明してる唯一の区間である伊都国から奴国まで100里を
現代の道路を通っても23km
当時は曲がりくねった道だったろうから25kmあるいは30kmあったかもしれない
短里は距離単位を捏造したものだけど、実際の行程に当てはめてもまったく合わない
短里でピッタリとか真っ赤なウソ
>>371 いや邪馬台国論争のことだろ
ミスター吉野ケ里と言われている人が本音は畿内説だったりね
>>379 末盧国には呼子付近に上陸
呼子付近から伊都国との国境の伊都GCまでが500里(40km)
伊都GCから奴国との国境の糸島峠までが100里(8km)
糸島峠から不弥国との国境小笠木峠までが100里(8km)
短里でピッタリですよ。
>>366 高句麗伝は位置そのものがおかしいだろw
>>372 高麗も元寇の文永の役と弘安の役の間に行った朝貢は「処女10人」だけとかだよ
途中から「里」じゃなくて日数にかわってる話なんだけど
投馬国の存在がちょっとややこしいんだよなぁ
これさえなければ「帯方郡から邪馬台国までそれくらいかかったのかな」と思えるんだけど
途中に投馬国が入ってしかもそれが邪馬台国の「水行10日」よりも多い「水行20日」だから
やっぱりそれぞれ水行20日かかって投馬いってその後水行10日と陸行1月で邪馬台国なのかなと思える
>>326 覆す必要もない。
換算忘れだよ。
実際の測定では、周径算計使う
それを魏里に換算していただけだよ。
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として里と日を1/5して、距離と方向を合わせると次のようになる。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、黒歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2
>>384 里数が盛ってあるのなら、戸数だって日数だって盛ってる可能性あるよ
>>378 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
女王国から北の国々は、州のようなひとつの自治体になっており
長官として女王国から一人の大率が派遣されて、常に伊都国で政務を執っている
>>385 え?
一々「実際に測定しながら」歩いてたの?w
そりゃ初耳w
畿内説は三河を見てこんなとこから徳川が始まったわけない、と言ってるようなもん。そりゃ徳川は江戸に移転したんだから、大したのが残ってないよ。元は弱小な豪族なんだし。
>>381 ほほうそうか、ピタリじゃないか
では聞くが、不彌国は今現在でいうとどの市町村区字の範囲かい
>>386 何で日まで1/5にするんだ?
里は1/5くらいの短い里を公孫氏が使ってたとして
日は何で?
文明未発達な地域と現代でも日数に対する感覚が違うから
数字に対しての意識感覚が違ったたんだと思うよ
>>383 後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り、
150年間以上倭国王だった九州の【倭奴国】は
永初元年(107年)に生口160人を献じたよ
それが邪馬台国になったら生口10人、班布二匹二丈
とかあり得ないっしょ
>>391 那珂川市方面だな
ここで里(距離)での説明が終わり
帯方郡から日(時間)での説明に切り替わるんだ。
>>317 漢が滅亡後に公孫氏が帯方郡を支配していて
東アジアの周辺国から朝貢を受ける時代が続いた
公孫氏が周辺国への地図を持っていたことになるから
公孫氏を滅亡させて帯方郡の支配権を奪った魏は
公孫氏の地図を受け継いだんだろう
そして公孫氏がつくった地図なので、公孫里で表記されていた
公孫里で書かれていた地図の表記をそのまま魏志倭人伝で書いた
って考えれば、ごく自然な話だとおもうぞ
>>393 倭人じゃなくて魏や公孫氏の役人の人が実際に行って報告してるんだが。
>>390 三河じゃないけど尾張徳川家が御三家だよ
>>370 「やおろず」は漢語じゃなくて大和言葉な
表記に騙されるなよ
漢語=古代中国語には「億兆」なんていうのがある
万の10倍が億で億の10倍が兆だ。
>>378 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
女王国から北の国々は、州のようなひとつの自治体になっており
長官として女王国から一人の大率が派遣されて、常に伊都国で政務を執っている
さらに
丗有王 皆統屬女王國
伊都国には代々、王が有り、みな女王国に従属している。
陳寿の思惑は畿内説と一緒カモしらんね。
公孫氏や韓王朝を滅ぼした魏帝が、
呉の攻略に向かうための東夷安定目的で同盟した邪馬台国が、
大倭王ではない糸島福岡筑紫平野と言う小地域の国邑じゃ
三国志の戦略としてみっともなすぎるwww
参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
これが、邪馬台国として、対馬〜壱岐が1000里の基準を無視して、
もし一里がご都合主義で450mなら、九州から瀬戸内海は周旋できるかな?
魏帝が大倭王と同盟したと思わせる雰囲気は作れる。
ご都合主義で、東夷伝里にわざと騙されてんだろwww
1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる(福岡志賀島)
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国(免田式土器?)が対立
3〜4世紀 奈良の纏向遺跡(前方後円墳発祥?)
おそらく奈良を中心とした出雲・北陸・東海・吉備等の連合政権で、北九州との交流は非常に乏しい
5世紀 奈良の大和王権が北九州〜関東を平定
4〜8世紀 熊本の球磨川と宮崎の一ツ瀬川以南に独自の古墳文化(熊襲)
6世紀 筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 乙巳の変
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱
ゲノムで見ると太平洋ベルトの関東から北九州がひとつのグループで、
中心の近畿が右に離れ、出雲と枕崎(薩摩)が左に離れる。
卑弥呼の時代に入った2世紀末には大飢饉が派生し、多くの倭人が半島に避難したとのこと。
九州で出土する畿内式の土器は、畿内から多くの避難民が移住してきたという証拠でしょう。
<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。
<当時の気候>
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。』
伊都国が糸島ってのはホントなの?
南東じゃないのがスゴイ気になるんだよなぁ
東って言っといて北東ならわかるけど
南東って言っといて北東なのはちょっと納得いかない
>>388 「自女王國以北 特置一大率檢察」
一大率は女王国以北にいるのですから常に伊都国で政務を執っているのは一大率ではあり得ませんねw
>女王国から一人の大率が派遣されて
その様なことは全く書かれてませんねw
>>393 そういう可能性は確かにあるよな
そもそも東夷伝というのはかなり長い資料で
その中でも邪馬台国について書かれたのは魏書のほんの一部
その一部だけで使われた単位が存在する、という主張はさすがに無理がある
それこそ「小説」のようなものならともかく、資料的要素が強いものだからな
一つの資料で使われる同じ「里」という単位の中に、違う距離が複数混在するとか、ありえんわ
半島に渡った畿内からの避難民が戻ってきたのが4世紀末
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅)
>>378 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
女王国から北の国々は、州のようなひとつの自治体になっており
長官として女王国から一人の大率が派遣されて、常に伊都国で政務を執っている
さらに
丗有王 皆統屬女王國
伊都国には代々、王が有り、みな女王国に従属している。
つまり
出雲諸国
>>397 「地図」があるなら表記が間違っていることはすぐわかるだろ
その時点で矛盾しすぎてて話にならん
>>394 逆にさ、朝貢に出す生口の数とか貢物の量で揉めて不穏になって倭国大乱の原因になったのかもしれないじゃん
「今回は国が乱れこんだけでごめんなさい、でも朝貢には来ました」的な
>>406 呼子付近に上陸したら東松浦半島を南へ歩くことになる
唐津市付近からは東へ
実際には略東なんだが東南と誤認したんだろうな
呼子付近から糸島市方面は見えない。
>>408 じゃあ帯方郡から九州までの距離はどうなってんの?
>>407 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り
常に伊都国で政務を執っている。
(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。
>>411 地図が間違っているのではなくて、
わざわざ公孫里で書かれている表記を
換算する必要性がないと思ったか
公孫里が自分たちが使っている単位と
長さが違うということを知らなくて
そのまま魏志倭人伝に書いた、かのどちらかだろ?
公孫里は間違っているわけじゃなくて
単位が違うだけなんだから
現代でいえば
日本円の¥が中国元も¥と同じ記号を使っているけど
それに気づかずにアリババで買い物したようなものだろw
>>386 誇張したとしても元資料があってそれを倍数にしたのは間違いないよね
で韓国の四方4千里をそのまま受け取ると当時の魏より領土が大きくなる
こんなでたらめな地理感覚を残すわけないんだから普通に考えたら換算忘れだよ
>>296 いや畿内九州関係なく、そもそも邪馬台国の存在を裏付ける考古学的な証拠なんて何一つ挙がってないだろ
>>410 自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国から北の国々には特別に一大率を置き検察させている、国々はこれを畏れ敬っている。常に伊都国に於いて一大率を使って治めている。魏の国内の刺史のようである。官として女王国から一人の大率が派遣されて、常に伊都国で政務を執っている
丗有王 皆統屬女王國
伊都国には魏の世に王が有り、倭の国みな女王国に従属している。
つまり、女王国=伊都国+奴国
伊都国が女王卑弥呼の王都なんだ。
>>414 当時の地図が間違えてた説を推すわ
実際に距離を測定しながら歩いたとは考えられんから
距離に関しては結局当時の地図をもとに作成したと思ってる
日数だけは数えられるから間違いは無いだろうけど
>>412 266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹
と
永初元年(107年)に生口160人を献じた「漢委奴国王」に
遠く及ばない
>>417 そんなわけないだろ
そもそも資料的意味合いが強い東夷伝なのに
一冊丸々ならともかく、東夷伝の中の一部のさらにその一部「だけ」違う単位をそのまま採用ってないわー
>>421 そんなこと言ったらもう全部間違いの可能性あるってことになるだろw
ほんと酷いな畿内派
>>410 自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国から北の国々には特別に一大率を置き検察させている、国々はこれを畏れ敬っている。常に伊都国に於いて一大率を使って治めている。魏の国内の刺史のようである。
丗有王 皆統屬女王國
伊都国には魏の世に王が有り、倭の国みな女王国に従属している。
つまり、女王国=伊都国+奴国
伊都国が女王卑弥呼の王都なんだ。
訂正、ゴミが付いてた。
>>423 他のところは換算されてるってことなの?
東夷伝以外は元の文書は短里だったけど長里に換算して書いてあるって話?
東夷伝以外はそもそも元の文書自体が長里で書いてあったってオチじゃないだろうな
>>422 第二次世界大戦の頃の捕虜交換は数百人単位だけど
冷戦時代はスパイの交換は数人単位だろ
国力の盛衰は関係あるだろうけど、時代時代の事情があるだろ
>>421 九州だけにしては日数が長すぎるのは
当時の倭国は多数の国があって
今でいえば市町村単位=国なので
一つ一つの町にクニの首長がいて
それぞれの首長が魏の使者をもてなして
泊っていってくれ、ごちそう食べてくれ、女抱いてくれと
接待三昧していたので魏の使者の移動速度がやたら遅くなってしまった結果だという説を聞いたことがある
オレはその説はさもありそうだな、と思っている
距離方位に限らず、気候も風俗も滅茶苦茶だから、最初から正確な記録を書こうなんて意図はなかったと思うね
本当は日本になんぞ行ってなく、南の島でバカンスしてて、適当に報告書偽造したんでないの?w
247年の張政の査察報告の最重要部分なのだが・・・
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
使張政が大倭を見た報告
南の狗奴国までには勢力は及ばない女王國以北に一大卒が置かれていた。
王の使者や郡使(張政自身)韓使も皆、文書等検閲され、賜遺之物 詣女王も例外は無い。
247年のこの報告に拠って、魏と邪馬台国の交流は絶えた。
三国志にとって、もはや倭国との同盟の話が出来なくなったのである。
公孫氏と韓王朝の滅亡を見た日本がこの後
対魏防衛で、九州統合、韓半島進出したのが日本の古代史だ。
これが無ければ、高句麗馬の移入や鉄の国内生産化も無い。
九州畿内論争は、歴史論争として方向がトンチキw
>>408 >そもそも東夷伝というのはかなり長い資料で
>その中でも邪馬台国について書かれたのは魏書のほんの一部
おい、東夷伝と魏書をチャンポンにしてどうしたいんだ。詐欺師めが、、
>>422 邪馬台国なんて所詮その程度の…
後に大和に滅ぼされて当然というか
>>422 元々、コウソンサンへの朝貢だぞw 燕王になったと聞いて
とは言えいつもの朝貢ついで
タイホウ郡まで来たら魏のモノになってて
そのまま案内する言われて着いて行っただけだぞ
魏の都までw
>>429 距離はさほどなくとも荒野を移動するのに2週間くらいかかったやろな。
残りの2週間は邪馬台国を構成する一国一国に立ち寄って、
一番奥の国でここに卑弥呼いるよって説明されたとかかな。
>>382 高句麗在遼東之東千里
これは何処から何処までが1000里なのか基準点が曖昧で何ともいえんな。
方可二千里,戸三萬
当時の高句麗は戸三萬だから
奴国に毛が生えたくらいの国
160km四方でおかしくない。
>>420 なんてせそんなに都合よくしちゃうかねぇ
丗有王 皆統屬女王國 は
代々、王が有り、みな女王国に従属している
高天原に国譲りした出雲の王は、代々、高天原に従属している
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之
常治伊都國 於國中有如刺史
高天原の北にある高天原に国譲りした出雲には
特に天津彦彦火瓊瓊杵尊が派遣され
出雲諸国は天津彦彦火瓊瓊杵尊を恐れている
天津彦彦火瓊瓊杵尊は常に伊都国で政務を執っていて
(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。
`滋賀すげぇえええええ 完全に大阪超えキタぁあーーーー
【現代的新しい価値・文化の創造】
1.ゆるキャラ(ひこにゃん)
2.イナズマロックフェス (西日本最大)
3.オペラ
4.ビワイチ(自転車 琵琶湖一周)、ウォータースポーツ、グランピング
5.ラッピング(路面)電車
【著名な観光地】
1.比叡山延暦寺、三井寺、石山寺、坂本・日吉大社、近江神宮、おごと温泉、びわ湖バレイ
2.彦根城、安土城
3.長浜黒壁、竹生島、多賀大社、メタセコイヤ並木、湖東三山・鶏足寺・永源寺(紅葉名所)
4.八幡堀、近江商人屋敷、水郷、ヴォーリズ建築(旧豊郷小 他多数)
5.信楽焼、琵琶湖博物館、佐川美術館、MIHOミュージアム、甲賀流忍者
【美味名物・食文化】
1.近江牛、鴨料理
2.鮎、ビワマス、ホンモロコ佃煮、ふな寿司
3.焼き鯖そうめん、近江ちゃんぽん、比叡そば、伊吹そば、来来亭
4.近江米、近江野菜、朝宮茶、近江の地酒
5.叶匠壽庵(和菓子)、クラブハリエ(バームクーヘン)
大阪 → たこ焼き(笑)串カツ(笑)ハルカス(笑)偽大阪城(笑)道頓堀(笑)橋下劇場(笑)
.
>>406 俺は違うと思ってる
糸島ならもっと戸数多い筈
普通に南東進んで山超えて出てくる集落だと思うよ
>>432 一応魏書の一部というのは正しいけどなんのために
昔は、むしろ今よりも日本海交易時代でしょ。
文献にないだけで、能登半島行ったら解るんじゃない?
>>434 つまり
そういう大陸の事情を全く知らなかった田舎者が邪馬台国
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り、
150年間以上倭国王として大陸と交易していた
大都会の洗練された九州
では無いな
糸島半島 伊都国が
邪馬台国連合国の首都
一大率は、大王の別名(全体を統率するの意)
平原古墳が卑弥呼の墓
日向峠から太陽が昇るのを神聖視していた。
>>440 東夷伝と魏書は別の表現である
魏書の一部とは何を指しているのか、東夷伝の事か、それとも倭人伝のことかあいまいだ。
>>442 卑弥呼は公孫氏が滅亡前に
公孫氏を見限って、魏に朝貢する使者を送ったそうだ
だから魏から倭国王という称号を賜り、倭国の女王としての
権威を高めることができた
>>444 一大率は、卑弥呼の直属の大陸との交易路を守っていた検察官だよ
古代史学や考古学レベルでは畿内説確定で、箸墓古墳の調査による検証をすすめている段階。
学会ではもはや九州説は議論にすらなっていない。
九州説は、イエス・キリスト東北人説や義経ジンギスカン説と同じレベルの俗説扱いだよ
伊勢神宮にある八咫鏡が、卑弥呼がもらった銅鏡
天皇家が卑弥呼の血筋なのか、簒奪したのかは不明だが、
太陽信仰は共通して持っている。
>>441 対馬から出雲へ渡って、小樽まで日本海岸沿いに航海し、
そこから大陸に渡って海岸沿いに南西方向に航海、
朝鮮半島東岸部を南下し再び対馬へと環状航海ルートみたいなもんが
細々とだろうがあったろうな。
>>446 被支配者層の一般人は他の国に吸収されるだけじゃねーかな
支配者層は命からがら海を渡って東の方へ亡命したのかもしれない
伊都国は、女王が住居とする神聖な土地
首都ではあるが人口は少ない。
ワシントンとニューヨークのイメージ。
>>445 まぁ魏書て表現やと三國志の魏か後の北魏かてのもあるわな
てか倭人伝て魏志東夷伝倭人条の事なんやから意味的にはおかしないんとちゃうのか
>>437 世世有王じゃないから代々は誤訳
この場合の世は魏の世を指す
魏書で世有とは魏の時代の事を指してる
女王国以北にいる一大率が同時に伊都国には存在出来ないよ。
漢委奴国王の金印は、漢の伊都国王と読むべき
倭の奴の国王と読むのは間違い
>>447 たぶん現地で咄嗟に判断したんだろうな
「どこへ行くんだ?」と問われて
247年の張政は一大卒に駐留させられて伊都までしか行っていない。
女王の処都までと違い、倭人船寄港地(和名)間の里程の積算は萬5百里である。
その理由
東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐
丗有王皆統屬女王國は、郡使(張政)が常駐した伊都を往来していた。
これによって張政は
遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
政等 以 檄告喩 壹與
と言う仕事を、伊都で終え帰国した。
240年と違い、博多湾に直接上陸しなかったのは
日本が既に対魏防衛の体制であって主要港軍備を見せなかったから。
伊都は、早良辺り北東500里は糸島北岸。
この間、あるいは東行 至不彌國 百里に卑弥呼の墓を見ている。
>>444 一大率は、軍隊の一番の長(将軍)のことかもしれないと思う
>>445 魏志と、魏志東夷伝と、魏志東夷伝倭人条とは、同一の書の中に在っても各々の範囲が大きく違う。
そこをはっきり書き分けるべきだと云っているのだ。
>>399 尾張の城跡や大阪城や江戸城、日光なんかがあるのに三河が元の本拠地なんて想像できるのかって話だよ。
結局だ
奈良の田舎者の高天原(邪馬台国)が
桓帝・霊帝の治世の間に
邪馬台国の北にあり、古くから大陸と行き来していた「葦原中国」
出雲(島根県)、伯耆(島根県西部)、因幡(島根県東部)、北陸(富山)、岡山県(吉備地方)、広島県東部(三次市・千代田市)
を平定し
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が新羅を訪れ、出雲は私のモノになったからと通告
次は中国の中国の皇帝に挨拶じゃ
>>462 でもあれで魏書は東夷伝の中の一節なんて勘違いする奴おるか?
もう何度も言うけど当時2〜3世紀の考古遺物の数等を見れば
間違いなく九州が都会で近畿はクソ田舎
当時の近畿はあれだけの国を許容していた土地じゃない
近畿説はこんなシンプルな事を何故無視するのかさっぱり分からない
それに近畿に邪馬台国があったなら都会の九州には何が有ったのか
>>461 魏志倭人伝に出てくる固有名詞は
日本語の発音に近い漢字で表現したものだけど
この一大率はそうじゃない感じがするんだよね
倭国のこの機関をみて、役割から魏国にある
一大率という似たような役割の機関の名前で表したものじゃないかな?
>>459 以前みたテレビの番組
英雄たちの選択では
卑弥呼はもともと計算して魏に使いを送ったそうだよ
その番組の中では二つの選択肢があったという前提であって
一つは魏に朝貢する
もう一つは呉と同盟を結ぶだったかな?
呉は魏ほどの軍事力はない代わりに東南アジア経由でイスラム圏までの貿易ルートをもっていて
ここと友好関係を結んで貿易立国で栄える道があったそう
だけど呉と結ぶと魏に睨まれて、倭国に魏が攻め込んできたら一たまりもない
公孫氏が魏とも呉とも友好関係を結んで両天秤にかけていたのが
魏にとっては長年鬱陶しかったらしく、宿敵の諸葛孔明が亡くなって
蜀を気にする必要がなくなったら、速攻で公孫氏を攻め滅ぼしたという危機感があったので
魏につくことを決意したという内容だったw
どこまで史実かわらかんけどw
>>37 耶馬溪は、、江戸時代に頼山陽が名づけたと言われている。
だが、もともとも山国(やまくに)と呼ばれていた場所で、頼山陽がそれに耶馬とあてたものだ。
耶馬溪を流れる山国川は、英彦山(ひこさん)から中津市へと注ぐ川で
英彦山はもとは「日子山」と書いた。
>>466 都会の九州にあったのは・・・
九州 海神(ワダツミ)国 筑紫城 天之御中主神
九州 海神国 筑紫城 高御産巣日神
九州 海神国 筑紫城 神産巣日神
九州 海神国 筑紫城 宇摩志阿斯訶備比古遅神
九州 海神国 筑紫城 天之常立神
九州 海神国 筑紫城 国之常立神
九州 海神国 筑紫城 豊雲野神
九州 海神国 筑紫城 宇比邇神・須比智邇神
九州 海神国 筑紫城 角杙神・活杙神
九州 海神国 筑紫城 意富斗能地神・ 大斗乃弁神
九州 海神国 筑紫城 淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神・伊邪那美神
九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)
そこに近畿のくそ田舎の邪馬台国(高天原)から、出雲に派遣されていた
天照の孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊がやってきて
息子の彦火火出見尊(山幸彦)が、九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚し、海神国王を継承
海神国王を継承した彦火火出見尊(山幸彦)に天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)が産まれて
その第4皇子の神武が九州 海神国 筑紫城から出兵
葦原中国(出雲)、高天原(奈良)邪馬台国を次々に武力併合し天皇を名乗る
>>466 都会の九州にあったのは・・・
九州 海神(ワダツミ)国 筑紫城 天之御中主神
九州 海神国 筑紫城 高御産巣日神
九州 海神国 筑紫城 神産巣日神
九州 海神国 筑紫城 宇摩志阿斯訶備比古遅神
九州 海神国 筑紫城 天之常立神
九州 海神国 筑紫城 国之常立神
九州 海神国 筑紫城 豊雲野神
九州 海神国 筑紫城 宇比邇神・須比智邇神
九州 海神国 筑紫城 角杙神・活杙神
九州 海神国 筑紫城 意富斗能地神・ 大斗乃弁神
九州 海神国 筑紫城 淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神・伊邪那美神
九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)
の
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り、150年間以上倭国王だった【倭奴国】
そこに近畿のくそ田舎の邪馬台国(高天原)から、出雲に派遣されていた、天照の孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)がやってきて
息子の彦火火出見尊(山幸彦)が、九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚し、海神国王を継承
海神国王を継承した彦火火出見尊(山幸彦)に天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)が産まれて
その第4皇子の神武が九州 海神国 筑紫城から出兵
葦原中国(出雲)、高天原(奈良)邪馬台国を次々に武力併合し
大和で天(津)皇(子)を名乗る
>>468 卑弥呼が計算してなら
相当に大陸半島情勢も知り得てたんだな
ちなみに、司馬懿の算段では
倭国と手を組んで朝鮮半島挟撃から半島制圧も考えていたらしいね
呉の側面攻撃支援だけでなく
前方後円墳は漢尺で測られ、それまでに倭独自の墳墓の単位は無い。天円地方思想であり徇葬奴婢100、燔祀が行われた原始道教。天円で人を燃やし、方墳で人を埋め、川に人を沈める、イカれた宗教。畿内以外に無し。
>>465 「魏書のほんの一部」 ←←ここ
邪馬台国は魏書の一部、(だから、その魏書の中で里が違うのはおかしい)、といっているようだが、。
何度も書いているように、三国志の内、中華王朝の中に在っては、当然中華王朝の里で書かれる。、
しかし中華王朝の外(番外地)の東夷は中華ではないので、番外地を支配する公孫王朝の里で書かれても不都合はないのだ。
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)九州 筑紫城 海神国王の【第4皇子】だった神武は
遠い親戚の
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神
↓
建速須佐之男命
↓
天忍穂耳命←天照が養子にする
↓
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)
の伝を頼って、一か八か、九州を出るしかなかった
のさ
>>443 「漢委奴國王」印を持つものが倭奴国王で
この印を受け継いだのが卑弥呼
しかし漢が滅亡し魏が興ったので印の効力が無くなったので
魏へ使者を送り新しい倭王印を授与された。
>>461 一大率は、一人の大率と言う意味。
その人間に権限が集中しているということ。
>>465 どうやらこういうことか
東夷伝には楽浪郡や帯方郡のことが書かれているが、
倭人伝の邪馬台国のことは、東夷伝ではなく、魏書(三国志)の本文の中に在る・・・、こんな感じに受け取れるな。
>>476 ちがいます
「漢委奴國王」印を持つものが倭奴国王で
この印を受け継いだのが
天照の孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)の息子の天津彦火火出見尊(山幸彦)
です
そして山幸彦の孫の神武が、
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」の称号を賜り倭国王となった卑弥呼の死後の奈良の邪馬台国に侵攻し平定し、
天皇を名乗ったのさ
>>375 大昔は燕京と呼ばれた。
『山海経』海内北経に、「蓋國在鉅燕南,倭北。倭屬燕。
朝鮮在列陽東,海北山南。列陽屬燕。」という一節がある。
北京は燕京ィエンキンと呼ばれたり北平ペイピンと呼ばれたり・・・
>>479 いや、絶大な権限を与えられてて、
港周辺諸国の監視監督、朝貢・交易の管理
全部やってる。だから「大」率だ。
周辺諸国から恐れられてる。
こいつの正体は、邪馬台の人間じゃない。
その前の下りで出て来る「大倭」の人間だ。
大倭を「使って」交易を監督と書かれているが、
それは表向きの話だな。
大倭は邪馬台に使われてる訳じゃない。
「漢委奴國王」印を持つものが倭奴国王で
九州 海神(ワダツミ)国 筑紫城 天之御中主神
九州 海神国 筑紫城 高御産巣日神
九州 海神国 筑紫城 神産巣日神
九州 海神国 筑紫城 宇摩志阿斯訶備比古遅神
九州 海神国 筑紫城 天之常立神
九州 海神国 筑紫城 国之常立神
九州 海神国 筑紫城 豊雲野神
九州 海神国 筑紫城 宇比邇神・須比智邇神
九州 海神国 筑紫城 角杙神・活杙神
九州 海神国 筑紫城 意富斗能地神・ 大斗乃弁神
九州 海神国 筑紫城 淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神・伊邪那美神
九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)
大綿津見神(豊玉彦)の後に、この印を受け継いだのが
天照の孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)の息子で
大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚した
天津彦火火出見尊(山幸彦)
そして山幸彦の孫の神武が、
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」の称号を賜り倭国王となった卑弥呼の死後の
奈良の邪馬台国に侵攻し平定し、
奈良で天皇を名乗った
>>469 それでどういう経緯(いきさつ)で「英」という字が頭に付いたの
>>470 高倉健:「世の中、田舎の奴ほど都会というもので御座んす」
>>36 それ見ると
>>32はほぼ正しそうに見えるな
やっぱり弥生末期は鉄の時代だな
「漢委奴國王」印を持つものが倭奴国王で
九州 海神(ワダツミ)国 筑紫城 天之御中主神
九州 海神国 筑紫城 高御産巣日神
九州 海神国 筑紫城 神産巣日神
九州 海神国 筑紫城 宇摩志阿斯訶備比古遅神
九州 海神国 筑紫城 天之常立神
九州 海神国 筑紫城 国之常立神
九州 海神国 筑紫城 豊雲野神
九州 海神国 筑紫城 宇比邇神・須比智邇神
九州 海神国 筑紫城 角杙神・活杙神
九州 海神国 筑紫城 意富斗能地神・ 大斗乃弁神
九州 海神国 筑紫城 淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神・伊邪那美神
九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)
大綿津見神(豊玉彦)の後に、この印を受け継いだのが
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神の娘の天照の孫の
天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)の息子で
大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚した
天津彦火火出見尊(山幸彦)
そしてその山幸彦の孫の神武が、
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」の称号を賜り倭国王となった卑弥呼の死後の
奈良の邪馬台国に侵攻し平定し、
奈良で天皇を名乗った
>>478 ・・・あれ読んでそんな解釈する奴てどんだけアホなんや・・・
卑彌呼 ピミク(今の音:ひめこ)
ピミク(お日様の娘)→ ミク((神の)娘:みこさん)
→ 初音ミク(!)
>>477 大率は中国語ではおおよそ、おおむねという意味
中国で使われていない意味を勝手に日本語で考えて解釈する
恥ずかしい限りだね
>>494 あらあらw 何を勘違いされてる事やらw
「漢委奴國王」印を持つものが倭奴国王で
九州 海神(ワダツミ)国 筑紫城 天之御中主神
九州 海神国 筑紫城 高御産巣日神
九州 海神国 筑紫城 神産巣日神
九州 海神国 筑紫城 宇摩志阿斯訶備比古遅神
九州 海神国 筑紫城 天之常立神
九州 海神国 筑紫城 国之常立神
九州 海神国 筑紫城 豊雲野神
九州 海神国 筑紫城 宇比邇神・須比智邇神
九州 海神国 筑紫城 角杙神・活杙神
九州 海神国 筑紫城 意富斗能地神・ 大斗乃弁神
九州 海神国 筑紫城 淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神・伊邪那美神
九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神 は、息子の建速須佐之男命に
大綿津見神(豊玉彦)の後に、この印を受け継げと言ったんだけど
建速須佐之男命は「大綿津見神(豊玉彦)がおっかないからイヤだ」っつって出雲に家出しちゃったんだよね
>>495 勘違いしてる点を具体的に指摘しないと
ただの言い逃れだよ
恥ずかしい限りだね
>>458 もし本物なら時代は後漢だろ。伊都じゃなくて
Wonaという読み方が第1候補
Wonuという読み方が第2候補
Wonoという読み方が第3候補
女を表わす大和言葉「をみな」「をうな」を
後漢の役人が聴き取って当時の漢字で近い発音の字でメモした。
んで建速須佐之男命の代わりに
大綿津見神(豊玉彦)の後に、この印を受け継いだのが
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神の娘である天照の孫の
天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)の息子で
大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚した天津彦火火出見尊(山幸彦)
そして山幸彦の孫の神武が、
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」の称号を賜り倭国王となった卑弥呼の死後の
奈良の邪馬台国に侵攻し平定し、天皇を名乗った・・・と
>>488 倭国大乱で敗北して東の方へ亡命したのが漢委奴国のちの近畿ヤマト
空白地帯となった九州北部では女王を共立して魏に朝貢し、親魏倭王の金印貰う
卑弥呼の死後男王が継ぐも治らず
虎視眈々と復権を狙っていた元漢委奴国がどこぞから女児を連れてきて傀儡となし
親魏倭王政権を乗っ取った、これが近畿ヤマト、ヤマト王権の祖
元漢委奴国王一族は吉備あたりに亡命してて
卑弥呼の死後に傀儡政権を奈良の山奥に立てたのかもしれない
中国の文献と記紀で合致する部分もあるんやし
南九州の小国が東征して大倭の盟主に成ったでええよ
北部九州の高天原は権威だけを残し滅んだ
>>497 名詞を副詞と勘違いしてる辺りwww
てか、指摘されないと分からないそのオツムwww
葦原中国:古代出雲
構成:島根県東部から鳥取県西部の複数の国々
首都:出雲国
初王:大国主
九州海神国の伊邪那岐神と伊邪那美神から産まれた、13番目の子の大山津見神の6世孫、大国主を王としており
九州海神国筑紫城の伊邪那岐神と、伊邪那美神ではない誰かとの間に産まれた天照大神や建速須佐之男命より格式高い
建速須佐之男命の娘の須勢理毘売命と結婚し、大陸からの渡来人の、少名毘古那神・大物主神と国造りを完成させたが
それを聞き付けた高天原政権(古代奈良【邪馬台国】)の天照大神から国譲りを迫られて武力制圧されてしまい
天照大神の孫のニニギ(邇邇芸)により
高天原政権(古代奈良【邪馬台国】)の植民地として統治される
そののちに、高天原政権(古代奈良【邪馬台国】)とともに
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)の
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の第4皇子の神武により武力制圧されてしまい、植民地として統治される
>>503 それをいうなら君は名詞を動詞で解釈している
それも日本語で
「大率」なんて名詞も動詞も中国語にはないのに
だから副詞だから関係ないとはただの言い逃れ
ほんとに恥ずかしい限りだね
>>486 呼はkʰɔだから
ピミコッォ〜だわ
kʰはハゲしく息を吐きながら発音するカ行子音
方言によってはfu、xuと発音してるから
よっぽど息を激しく吐きながら発音してたと推理できる。
高天原:古代奈良
構成:紀伊半島を中心に、西は大阪から東は長野までの複数の国々
首都:邪馬台国
初王:天照大神(卑弥呼)
九州海神国の伊邪那岐神と、伊邪那美神ではない誰かとの間に産まれた一番目の子、天照大神(卑弥呼)を女王とし
大国主に古代出雲【葦原中国】の国譲りを迫り、出雲政権を植民地としたのちに、出雲から大陸に朝貢
魏(220年 - 265年)から240年に「親魏倭王」の称号を賜り倭国王となる
しかし、100年以上倭国王であった、九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)の猛反発に直面し
わずか数十年で
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)の
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の第4皇子の神武により武力制圧されて植民地にされてしまう
九州海神国:古代九州【倭奴国】
構成:九州全土の国々
首都:筑紫城
初王:天之御中主神
日本最初の政権で、全ての政権の祖
何代目かの九州海神国王が、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り倭国王となる
12世孫に伊邪那岐神と伊邪那美神
13世孫に大綿津見神(豊玉彦)
14世孫に天津日高日子穂穂手見命(山幸彦)がおり
15世孫の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の四人の息子が
240年に「親魏倭王」の称号を賜り倭国王となった高天原政権(古代奈良【邪馬台国】)に向けて東征
第4皇子の神武が天津日高日子の皇子、つまり天皇と名乗り
武力制圧した高天原政権(古代奈良【邪馬台国】)と「出雲政権(古代出雲【葦原中国】)を
九州海神国筑紫城政権の植民地として統治する
なんで普通に漢のイヌ国王と読まないんだろうな
漢の犬な国王が居たんだろw
>>389 そりゃ、するよ。
国防観点や安全に貢ぎ者や贈物があるのでね。
だから日数もかかるだよ。
三国志全般の距離 どうやて出したんだよ?
春秋戦国時代に楚の国から戦乱を逃れて日本にやって来て
九州の福岡あたりに上陸して北上した
彼らは華南出身だから、寒冷地に順応できず関西に留まった
>>345 東夷伝は全部短里だよw
505 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:11:52.51 ID:V7dsXfha0
>>102 夫余や高句麗の方可二千里、東沃沮の可千里は短里じゃないとその場所に収まらないよ
長里だと夫余や高句麗は約900km四方になって朝鮮半島の数倍、黒龍江省と吉林省がまるごと入るくらいの巨大国家になってしまう
朝鮮半島の付け根にそんな巨大国家を設定すると遼東まで飲み込まれて公孫淵は一体どこを支配していたのかということになる
522 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:39:48.29 ID:V7dsXfha0
>>505のついでに言うと900kmって魏の都・洛陽から蜀の都・成都までの距離に等しい
魏の都・洛陽から呉の都・建業(今の南京)までは650kmに過ぎない
夫余や高句麗の方可二千里が長里ではあり得ないことが理解できるだろう
>>515 当時の伊都国王
優れた航海術を持つ海人族の王でしばらく北部九州の指導者だったが、
倭国大乱で主導権を失い筑後山門の邪馬台国に従属することになった
>>406 伊都国は糸島半島ではないよ
もっと南東、細石(さざれ石)神社のあるあたり
今JR筑肥線が走っているラインは元々は海だったから、かつて糸島半島は文字通り島だった
そのイトとシマがくっついて糸島だからね
>>514 未知だから、測量も兼ねていた。
ついでに植物や動物、風土 調査。
避難場所、食料調達もあるから、
日数掛かる。
>>518 小さくないよ
後漢鏡は糸島の遺跡から一番多く見つかっている
後漢王朝に認められた倭王がいた地として相応しい
>>513 そこら辺は姫姓自称しとんのと絡めて楚に滅ぼされ落ち延びた呉の末裔とかの設定の方が
>387
年齢などを見ると半分くらいで丁度いい感じなんだよね
前にも書いたけど120才なんていないよな、で半分の60才
戸数4万は2万に里程も半分で計算するべきだよ(滝根鶯溪説)
>>474 天下の王土に非ざるなし
この世の全ては皇帝の支配下なので、化外の地だから違う単位を使うなんてことはない
それなら年号もその土地のものを使うとでも言うか?
>>514 短里でなくて周径算が周時代の単位。
魏里に換算する前に陳寿が死亡とか?
>>500 壹與は卑弥呼の「宗女」となってるので、
卑弥呼の父親から男系で辿れる女性ということ。
表向きの話では、そうなってる。
実際がどうだったかは誰にも分からんけどw
末盧國から
東南陸行 五百里
伊都國
東南
奴国
東行 百里
不弥国
南 水行二十日
投馬國
南 水行十日陸行一月 (帯方)郡より(一)万二千余里
邪馬壹國(ヤバヰ)
>>517 糸島市に南東部が伊都国だね
JR筑肥線の南
伊都GC付近から東
高祖山、日向峠や糸島峠より西。
>>505 「特置一大率」
漢文の文法から言いうと「大率」は名詞です。はい。
率=帥(ともに スイ/ソチ) 今の漢語では帥の字を使う。
ともに、率いると言う意味の動詞(率、帥)の名詞化ですね。
大率、今の言葉で言えば、大元帥みたいな。
もし「大率」が大和言葉なら「特置一官曰大率」となります。
>>473 成人男子の足の文数で測ることはできる。
尺骨といって肘から手首までの長さを規準にして
1尺とし尺貫法ではその6倍を1間とした。
縄文時代稲作が始まって以来縄を綯って尺骨を規準にして
尺骨の6倍とか10倍とかもっと長い縄で距離を測って居たと推理できる。
万葉集に明石大門の西にある名寸隅(なきすみ)という魚住の浜を指す地名がある。
魚(いお/うお)は現代語で別名「さかな」というが語源は「酒菜さかな」で
酒菜=うお、魚(サカナ)から「酒」を取り除くとナ。
広辞苑によると住吉は「すみよし」より「すみのえ」の方が古い形だとしている。
「寸」を「キ」と読む例がある。
古く、馬の丈(たけ)を測るのに用いる語。4尺を基準とし、それより1寸、2寸、…8寸と高ければ、
それぞれ「ひとき」「ふたき」…「やき」といい、9寸以上は「丈に余る」という。
また、3尺9寸は「かえりひとき」という。
「黒栗毛なる馬の、たけ八寸(4尺8寸)あまりばかりなる」〈宇治拾遺物語・七〉
こういう風ないきさつで「魚寸住(隅)」を「ナキスミ」と読むことができる。
そして魚住の中尾の濱のすぐそばに地元で「中尾の宮」と呼ばれる魚住住吉神社がある。
>>406 根拠は名前が似てるからってだけ
唐津から糸島は今でこそ海岸沿いに道があるが当時は難路
そんなところを歩かせるくらいならそのまま船で行けばいい
倭人伝を根拠にする以上、東南だってそのまま受けいれるべき
実際、唐津から東南に道がある
それを糸島に持っていくために読み替えるのは近畿説と同じ手法
>>483 >大倭を「使って・・・と書かれているが
漢文の素人、丸出しだな
恥ずかしい
>>531 收租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
漢文の先生、訳をお願いします。
批判も多い古田氏だがこと短里の研究に関しては正解に辿り着いていたようだ
『史記』五帝本紀 第一にある方五千里を長里で解釈すると中国全土より広くなってしまう
五帝は中国全土を網羅していなかったという始皇帝の自画自賛と矛盾する
http://nagai.sub.jp/ronbun_pdf/yamataikoku/tanli.pdf > そして古田さんは、漢の司馬遷が紀元前 91年 ころに記した『史記』に、
> 夏・殷・周の≪古法≫に拠る「短里」と、秦・漢の≪新法≫による「長里」のあることを発見します。
> 次の通りです。
>
> 『史記』五帝本紀 第一の
> 【(帝舜の地は)方五千里にして荒服に至る 】の記述は、「短里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 五帝本紀第一、ちくま学芸文庫版 25頁〕
>
> 『史記』秦始皇帝本記 第六の
> 【古の五帝は、地は千里に過ぎず 】の記述は、「長里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 秦始皇帝本記第六、ちくま学芸文庫版 145頁 〕
>
> これは、同じ≪周以前の五帝の版図≫を、
> 「短里」の行われた『五帝本紀』では、方五千里と言い、
> 「長里」が新たに定められた『秦始皇帝本記』では、(方)千里と言い換えているのです。
> 『〔倭人伝を徹底して読む』1987年、朝日文庫版 190頁 〕
>
> そしてこの記述は、
> ≪古の五帝の版図≫は〔短里で言えば方五千里〕、〔長里で言えば方千里〕に過ぎないが、
> ≪始皇帝の版図≫は〔中国全土を網羅している〕、
> と誇つているのです。
>
> では、いつから?〔周以前からの短里〕が〔長里〕に改められたのか?と言えば、ズバリ、『史記』に次の記述があります。
> 【始皇帝は五行説に立ち、古の周が≪火徳≫であるとしたのに対し、秦はこれに勝つ≪水徳≫とし、水徳に叶うと言われる黒色と六の数を尊んで、
> 符節や法冠の長さは六寸、輿は六尺、一歩は六尺、乗車の馬の数は六匹とした】
>>530 そういうことだ。
唐津から東南へは立派な街道が通じている。
道沿いには、三世紀ころの遺跡も出土しているし、今も発掘調査中だ。。
また中世には、秀吉朝鮮出兵の際に、大軍がこの唐津街道を通って呼子へ向かったほどだ。
あの新井白石も、本居宣長も、白鳥庫吉も、内藤湖南も、ついうっかりして、この歴史的な古街道を見落としたのだろう。
魏志倭人伝に狗奴国の王として出てくる狗古智卑狗は菊池彦で熊本の菊池市を中心とした地域に狗奴国があったのだろ
じゃあ邪馬台国と狗奴国の境界はどこかとなると現在のように福岡県と熊本県の境界の山々か
もしくは筑後川という可能性もありその場合は久留米や八女あたりは狗奴国の北限かあるいは邪馬台国との係争エリアだったかもしれない
いずれにしても同時期に奈良県に既に集積が進みつつあった大和朝廷の祖とは邪馬台国も狗奴国も無関係となる
つまり邪馬台国も狗奴国も九州の一部地域の国のまま終わっていずれ大和朝廷に飲み込まれたのだろう
>>533に加えて、史記以外にも始皇帝以前の記録には短里でなければ辻褄の合わない文章が存在する
例えば【戦国策】の有名な「虎の威を借る狐」のエピソードもその一つ
https://blog.goo.ne.jp/kanjikazoku/e/ed44d2edd78d311101f3e5c73f7672a2 > 今王之地方五千里 ,帶甲百萬 ,而專屬之昭奚恤 ; 故北方之畏奚恤也 ,其實畏王之甲兵也 ,猶百獸之畏虎也。
戦国諸国の一つに過ぎない荊(楚)の宣王の領土を方五千里としている
1里を430mで換算すると2150km四方ということになるが、上海市の長江河口から測っても
2150km先は成都を通り越して四川省奥地まで到達する
2150km四方は内モンゴルやウイグル、チベットを除く当時の中華圏全体よりも広い範囲である
これも短里以外では成立しない文章である
>>537 日本の考古学会自体が文献も出土品も一切無視して畿内とか言い出す病人が幅を利かせている世界だからね
九州だろうが畿内だろうがもうどっちでも良いよ
いつまで言い合ってんだ
弥生末期に畿内へ東遷したんだろう
最近火山やばいなあみたいな感じで
租賦を収める。邸閣有り。国国に市有り。交易の有無、大倭をこき使って之を監せしむ。
「因幡の白兎」の "一列に並んだワニ"(ワニン(倭人)交易ルート)
魏志倭人伝では:
→渡海→ 狗邪韓國(クヤ kuja = keoje コジェ 巨済島!)
→渡海→ 對馬國(そのまま対馬だね)
→渡海→ 一大國(壱岐???)
→渡海→ 末廬國(マツラ=松浦?)
→陸行→ 伊都國(糸島だね)
当時の"松浦国"は、名護屋周辺を含んでいたということだな。
名護屋は、半島まで最短で結ぶための中継港・避難所だから。
倭人伝では、伊都国まで「陸行」となっているが、交易の荷は
名護屋から博多港まで回航したんだろうな。
マクモニーグルが卑弥呼と邪馬台国を透視してたから大体あの通り
>>541 もうちょい後
3世紀の末か4世紀の初め頃
791 :日本@名無史さん :2020/07/30(木) 00:01:06.27
>>752の状況は破鏡の分布の変遷とも一致している
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する
その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期〜終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より
弥生時代後期〜終末期
古墳時代前期
弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している
破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する
倭国大乱は九州で起こって
近畿ヤマトの征西は卑弥呼の死亡後に始まったということだろうなあ
>>545 じゃあ卑弥呼が死んだ直後だね
神武天皇が率いる狗奴国が邪馬台国を滅ぼして九州統一後に東征して奈良県を首都にしたわけだ
九州の女王国連合が力を失ったから近畿から西に向けて勢力拡大が始まったと考える
東征なんてものは存在しない
>>545 俺は5世紀頃じゃないかと思う
伊都国と奴国の境の日向峠付近から東征に出発したんだ。
収租賦 有邸閣 國國有市 交易有無
これで文章として完結してます。
この段の一連の文の主語は其国(倭)には、です。
國國有市 交易有無 使 大倭 監之
これは駄文以前に、話が通じません。
使は魏使の張政、新たな段落の主語です。
大倭は初出ですが国名、小国だった女王国に対し、
より大きな倭国全体の存在を見た、という、意味でしょう。
使 大倭 監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
これで安心して読めます。
主語が変わることで、前段落の一連のその国の紹介文から
張政の査察報告文に、時制も変わります。
>>540 問題は九州の何処に卑弥呼が居たかだな
俺は伊都国(糸島市南東部)に居たと確信している。
>>520 小さいっての
漢委奴國王は、 九州の筑紫城の海神国王
>>551 大都会の九州にあったのは
九州 海神(ワダツミ)国 筑紫城 天之御中主神
九州 海神国 筑紫城 高御産巣日神
九州 海神国 筑紫城 神産巣日神
九州 海神国 筑紫城 宇摩志阿斯訶備比古遅神
九州 海神国 筑紫城 天之常立神
九州 海神国 筑紫城 国之常立神
九州 海神国 筑紫城 豊雲野神
九州 海神国 筑紫城 宇比邇神・須比智邇神
九州 海神国 筑紫城 角杙神・活杙神
九州 海神国 筑紫城 意富斗能地神・ 大斗乃弁神
九州 海神国 筑紫城 淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神・伊邪那美神
九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)
の
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り、150年間以上倭国王だった【倭奴国】
なので
卑弥呼は九州にはいません
>>549 遷都はもっと後だったかもね
俺の考えでは台与の子か孫の神武が九州から3世紀末か4世紀初めに東征して奈良盆地を制圧後、
東海、関東とさらなる東方遠征のために奈良に前線司令部を設立し、それが全国支配にも都合が良かったんで
首都を移転したというもの
倭国の領域は北部九州から関東
女王国(倭国)の南に狗奴国があるという記述は矛盾が無い
順番に邪馬台国まで経路を説明した後狗奴国の記述になる
ここから倭国の領域外の説明に入る
ここでの記述では倭地という言葉が使われている
倭国領域の周辺にある土地の説明
ここで入れ墨とか温暖な気候の描写が登場する
そしてこの部分が長い
その意味は【会稽、東冶の東に在る】ことを強調したもの
海南島の風俗まで持ち出し南国風を強調している
呉へのプレッシャーを目論んだものだと思う
魏が倭国はおろかその周辺の倭地まで知り尽くしていることの表明
>>554 結局、記紀を完全否定かよ
神武は
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)九州海神(ワダツミ)国王
の
四番目の皇子
であり国王じゃねーぞ
ちなみに
>>545の古墳時代初期に東征という年代感は、実在が確実視されている古代天皇の平均在位期間から逆算した
神武天皇の時代とも一致している
21代雄略天皇から50代桓武天皇までの平均在位期間は約10年でほぼ一定
そこから計算すると神武天皇は280〜290年ころの人
>>550 新しい言語を発明された由、御目出度う御座ります。
てか、ネットで拾った珍説おご苦労様w
そんなこと言ってる学者()が居るらしいから笑えるw
>>791 原表には詳しく書かれているんだろうけど、
弥生末の破鏡の原発点に見える地点は、まさに吉野ヶ里〜目達原あたりなのかねえ
もしかしてこの一帯は、古代の最重要軍事地点だったか・・。
つまりだ
神武が、九州 海神国 筑紫城から出兵し
大和で天津の皇子つまり天皇を名乗ったとき
神武のとうちゃん
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)【海神国王】は
九州筑紫城にいたし
神武の兄の三毛入野命は
大和平定のあと九州筑紫城の父の元に帰還している
>>554 なるほど、遷都の理由といい時期といいしっくり来るストーリーだな
>>532 「收租賦有邸閣」では「收」と「有」という二つの動詞に
どんな送り仮名をつけるかが読み方のポイント
租賦を収むるに邸閣有り
邸閣者古代官府所設儲存糧食等物資之倉庫也。
参考
「張英は、牛渚(ぎゅうしょ)の要塞にたてこもると、
邸閣とよぶ所に兵糧を蓄えて・・・」(吉川英治「三国志」)
「使大倭監之」
大倭をしてこれを監せしむる
平たく言うと「大倭に監督させた」
「使」は誰かに何かをさせる「使役」というvoiceを受け持つ助動詞。
動詞「監」を雅な和語に翻訳すれば完璧。
>>554 遷都とかはしてない
移住先で力を蓄え白村江の戦で本家の倭国が敗れて衰退したのに乗じて政権を奪い取った
7世紀に持統を嫁に貰って政権を引き継いだんだ。
女王の居た場所は、
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 ←ココ
次有―列記21国 此女王境界所盡 ←邪馬台国の全貌
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
伊都までは萬5百里なのに対し、女王の処都は萬2千里です。
九州上陸までは一万里、女王之所都はさらに2千里=謎の陸行一月です。
八女から山門瀬高では?
梯儁が漢字化の参問21国中の邪馬国に卑弥呼の臺が有った。
これが、初探検者、梯儁による国名仮称の由来でしょう。
邪馬台国は、地名間の里程が記された場所の概念ではなく
南至投馬國可五萬餘戸の隣国 可で示される戸数の所属21国で総人口 七萬餘戸
九州上陸で入国、卑弥呼宮の在った南限まで2千里の国で、
後の筑紫国にほぼ該当します。
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 について
九州上陸=邪馬台国ですから これは主語並列で
南至邪馬壹國 水行十日 さらに 女王之所都へは陸行一月=2千里です。
天皇なんて天武天皇の頃に使い始めた言葉でそれ以前は大王だぞ
それも孝霊天皇ぐらいからだろう
遺物の発見が期待できるのもこの頃まで
早く欠史五代にならないかな
言われた時は欠史十三代だったんだから可能性ある
神武天皇
皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命
綏靖天皇
皇后:五十鈴依媛命
安寧天皇
皇后:渟名底仲媛命
懿徳天皇
皇后:天豊津媛命
孝昭天皇
皇后:世襲足媛
孝安天皇
皇后:押媛
孝霊天皇
皇后:細媛命
妃:春日千乳早山香媛
妃:倭国香媛
妃:●某弟(はえいろど)
孝元天皇
皇后:欝色謎命
妃:伊香色謎命
妃:埴安媛
開化天皇
皇后:伊香色謎命
妃:丹波竹野媛
妃:姥津媛
妃:●比売(わしひめ)
崇神天皇
皇后:御間城姫
妃:遠津年魚眼眼妙媛
妃:尾張大海媛
266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)と呼ばれることが多い「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条が書かれている中国の歴史書『三国志』は
280年から297年の間に、西晋の陳寿が書いたもの
つまり
ほぼオンタイムの情報
266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
魏志倭人伝(中国の歴史書『三国志』)は
280年から297年の間に、西晋の陳寿が書いたもの
つまり
ほぼオンタイムの情報
>>560 神武のじいちゃんは吾田にいたけど?
筑紫国とはだいぶ離れてるな
266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
魏志倭人伝(中国の歴史書『三国志』)は
280年から297年の間に、西晋の陳寿が書いたもの
そこには、天皇家の祖先を匂わせる記述は一切無い
実際に、邪馬台国の壱与から遣使が派遣されているにもかかわらずだ
つまり
邪馬台国と天皇家に繋がりは無い
九州説って日本史を否定しないと成り立たない
スタート地点からすでにトンデモなんだと自覚してください
てんでんバラバラの方向で一切纏まりの無いスレ おもろ
>>536 「帶甲百萬」は「白髪三千丈」式の法螺吹きw
>>571 普通に天孫降臨で降り立った後、放浪してたどり着いた土地が吾田
娶った嫁も神吾田津姫
隠居するのに引っ込んだ土地ではないよ
天智天皇と天武天皇の交代は
九州王朝と畿内王権の交代である。
多少時代が動かされているようだが
時系列は政権交代を示している。
伊都国が邪馬台国連合国の首都。
魏志倭人伝の水行10日陸行1月は、
邪馬台国の全版図を巡ったときに掛かる日数。
伊都国だけが、佳字が使われているのは
首都に敬意を評して。他の国は、奴とかの婢字。
糸島の平原古墳が卑弥呼の墓。
日向峠の朝日が、股間陰部に当たるように埋葬されていた。
副葬品の鏡が全部割られていたのは、
巫女の霊力が衰えていたから。
この辺は、井沢元彦説と同じ。
>>572 それは違うんだ
邪馬台国九州説はあくまでも邪馬台国のあった場所が九州だとする説
そこから派生した九州王朝説が暴れてるから誤解されるだけ。
邪馬台国は九州にあった。
大和王権は畿内にいた。
これらは別に共存可能な話し。
九州王朝説にとって共存できないだけ。
日本史を肯定しつつ邪馬台国九州説は並立できる。
日本史(記紀)においては女王卑弥呼も邪馬台国も当事者としては出てこない。
つまり九州での出来事に関しては、畿内は勝手知らない話で済む。
当時の日本のNo.1国家が邪馬台国とは限らない。
支倉常長をヨーロッパに派遣した伊達政宗、遣欧少年使節団を送った大内氏が、日本の覇者とは限らないのと同じ。
機内の巻向は、北部九州と同程度以上に発展していたが、一番発展していたから、邪馬台国とは同定出来ない。
神武の祖先の
天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・ 大斗乃弁神
淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神・伊邪那美神
大綿津見神(豊玉彦)
天津彦火火出見尊(山幸彦)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
は、代々九州一帯を支配していた
ということは、日本の記紀に記述されている
歴代天皇は開化の丹波竹野媛辺りは実在してたっぽいがそれ以前は特に証拠的なもの無かったと思うぞ
九州の女酋長卑弥呼が、魏に使いを送った。
畿内では巻向を中心に、別の国があった。
>>565 古代日本語の宝庫である「万葉集」には
「於保支見=オホキミ」と書いてる。
>>575 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)に王位を譲り
吾田に隠居
初代天皇の神武の家系
つまり天皇家の祖先の
天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・ 大斗乃弁神
淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神・伊邪那美神
大綿津見神(豊玉彦)
天津彦火火出見尊(山幸彦)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
は、代々九州一帯を支配していた
ということは、日本の記紀に記述されている
266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
魏志倭人伝(中国の歴史書『三国志』)は
280年から297年の間に、西晋の陳寿が書いたもの
実際に、邪馬台国の壱与から遣使が派遣されている時に
オンタイムで書かれているにもかかわらず
そこには、
代々九州一帯を支配していた天皇家の祖先を匂わせる記述は一切無い
>>584 それは貴方の妄想/願望でしょ。
そもそも神武の嫁も吾田邑の吾平津媛
ニニギから神武までの三代は吾田(鹿児島)で生きていた。
266年の朝貢って言うのは、
既に筑紫は畿内王朝に参加して参政権を持っていたのではないかな?
400年辺りからの氏族発生から言うと、
分散した安曇は在地として、物部、大伴系に繋がりそうかと?
266か?
当然九州海神族が派遣されるとは思うけど、女王国は畿内朝廷に参入したわけで
この場合、新参の九州勢である、台与や難升米が使者を派遣したとは言わない。
百済新羅建国で半島利権復興は狙ってるから、偵察に行ったってことはある。
あえて言えば
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
「その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。」
その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。郡より女王国に至るまで、万二千余里。
が
代々九州一帯を支配していた
初代天皇の神武の家系・・つまり天皇家の祖先の
天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・ 大斗乃弁神
淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神・伊邪那美神
大綿津見神(豊玉彦)
天津彦火火出見尊(山幸彦)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
>>572 奈良中心史観は明治政府からの
天皇一神教を補強するための
フェイクの歴史でしかない
大和は、大いなる和の意味そのもの
大いなる和の話し合い国家(憲法17条の1番目。和をもって尊しとする)誕生前は
九州勢力と畿内軍団で殺しあいやら、政略結婚やら、何でもアリだったに違いない。
それをまとめた天皇家に、とにかく忠誠を尽くすことで、無駄な殺しあいは、止めようみたいな古代の流れがあったとみる。
>>588 なんでそう思うんだよ
倭国大乱が70年〜80年もつづいて
戦乱に疲れ果てた倭国のクニグニが
知恵をしぼって出した解決策が
みんなで私利私欲に走らない公平な指導者をもとめて
巫女である卑弥呼を女王としてまとまったんだろ?
なんでそこに大和政権が出てくるんだ?
大和政権が力があるのなら、知恵をしぼって
わざわざ合議制で神輿である女王を担ぐなんて経緯にならずに
ヤマトが軍事力で支配したって流れになるだろうが?
なんでもかんでもすぐに大和政権しか頭に浮かばないのは
認識力が劣っている証拠だろ
奈良からは卑弥呼のお墓と思われる遺跡は一箇所も見つかっていないのに どうして邪馬台国が奈良にあると喚いているのか全く理解ができんよ
>>590 高天原が九州だと書いているとは知らなかったな
具体的に記紀のどこに書いてあるんだ?
>>590 記紀に書いていないことまで書いているよ
「東征」「東遷」
便利な言葉だな。
まあ、漢や唐のような完全制覇の大帝国ならこの言葉も史実になるが、弥生時代の
統合する軍事経済力もない時代に「東遷」など間違いも甚だしい。
神武記がどこまで史実か捏造かわからないが、少なくとも輝かしい「東征」ではない。
大軍団と圧倒的武力で破竹の勢いで征服していったなどとどこにも書いてない。あっち
ふらふら、こっちふらふら、目的すら曖昧なルンペン集団が実相。過剰人口の九州から
体のいい放逐と言ったところ。「切り取り次第」という。
そんな万のオーダーの部隊など移動手段すらない。せいぜい1大隊程度だろう。
しかも土着民の長髄彦・ニギハヤヒ軍団に惨敗してる。これが日本書紀に書かれている
正史で、みっともないことこの上ない。中国やローマや世界の初代の栄光など書かれて
いない。こんなのを顕彰して無理矢理立ち退きさせて糞でかい陵墓をでっち上げた明治
政府はキチガイもいいところである。
>>593 そもそも
みんなで私利私欲に走らない公平な指導者をもとめて
巫女を女王としてまとまった
なんて話は、日本の記紀には一切出てこない
つまり
日本の記紀を編纂した天皇家と邪馬台国は繋がりが無いのだ
卑弥呼が女王という一般常識も間違いだと思います
「こ」という名称が女性を表すとは限りません
小野妹子は男なんですよ知ってますか
つまり科学的には卑弥呼は男なんです
5歳位の男児という可能性もあります
つまりアレは子供の子なんですよ
ジュネーブの国際連盟がニューヨークの国際連合になったように
九州連盟から近畿連合に組織改変が行われたんだよ
九州を中心に出雲吉備くらいまではオブザーバー参加してた女王国連盟が
近畿を中心に九州北部〜出雲吉備丹波河内〜東海中部北陸の参加する大和連合へ
そこに東征なんてものはない
卑弥呼は従者が1000人いたそうですが、普段はめったに人に会わなかったそうです
ひたすら倭国の安寧を祈る毎日だったのでしょうか
この暮らしぶりを想像すると神秘的な感じさえします
外側から見ると崇高な自己犠牲にも思えます
歴史の指導者で類似の存在がありえたのでしょうか
>>582 魏志倭人伝では、邪馬台が倭国盟主のよう描かれてる。
なのに、なぜか「大倭」が邪馬台の港を押さえてるな。
邪馬台の大官か何かの様な、でもそうじゃ無さそうだ。
あれ?
邪馬台は男を王にする国だったのに、倭国大乱では、
何故か*倭国が*邪馬台の女王を「共立」して乱が止んだ。
あ!負けたのか! 軍門に下った。剣を持つ王の禁止。
ああ、大倭! これが倭国大乱で列島の覇者になった奴ね。
>>599 書いてなくても、わかることだろ?
なぜ合議制で王を決めたんだ?
王が自分に利益誘導するような人物なら
武力で征服されたのと結果は同じだろ
公平に利益分配する指導者だから
争いが収まり平和になったということ
それくらい理解しろよ
>>604 なにいってんだよ。
大倭は卑弥呼が任命した官だ
>>606 だから
女王の話は書かれていない
っつーの
>>605 九段のどこに書いてる?
本文?一書?
正確に場所を書くか、原文を貼ってくれ
初代天皇の神武の祖先は
天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・ 大斗乃弁神
淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神・伊邪那美神
大綿津見神(豊玉彦)
天津彦火火出見尊(山幸彦)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
女王?
かたっぱしから墳墓のDNA調査すればある程度わかるのに
やらん理由は一つだろ
嘘っぱちだとわかってるからさ
>>608 書いてないってどういうことよ?
魏志倭人伝に女王を共立したって書いているだろ
卑弥呼が畿内に居たなら、記紀で神功皇后になるしかないけど
楽浪帯方有った313年まで、半島出兵なんて無いし、
恒霊間って150〜190まで畿内は内戦してたの? 筑紫かよw
BC200から半島経由で国境無くて勝手に住んだ移民国も在るし、
安定して青銅輸入してるのに出兵必要?
190年で女帝が出て朝廷の内戦が収まったの?
190〜247年まで卑弥呼が大和朝廷の女帝って・・・
そもそも190年女王継承どころか纏向建設の260年位まで奈良に入って無くネ?
邪馬台国時代のヤマトって、吉備?淡路島?摂津?河内? アホクサ。
たぶん昭和で記紀に忖度した、倭人伝新版 出てんじゃんねwww
>>579 考古学的には3世紀の関西は北部九州地域と比べて極めて見すぼらしい
ヤマトとカタカナ表記がある意味
やっとわかったわ
ヤーマトだって
「神の民」の意味だって
邪馬台国と漢字書きするも元はヤマト国だわ
いい加減 当て字はやめてもらいたい
>>609 山幸彦の話ですよ
神武のおじいさんの山幸彦は
九州の海神(ワダツミ)国にやってきて
国王の大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚し
大綿津見神(豊玉彦)の次の国王となった
>>613 記紀はなろう小説だから真に受けるだけ無駄すぎるわ
>>612 日本の記紀によると
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神
↓
建速須佐之男命
↓
天忍穂耳命←天照が養子にする
↓
天津彦彦火瓊瓊杵尊←出雲に派遣
↓
天津日高日子穂穂手見命(山幸彦)←九州 海神国王 大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚
↓
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)九州海神国王
↓
四番目の皇子、天(津)の皇(子)である神日本磐余彦(神武)
・・・が、九州の海神国から奈良(邪馬台国)に東征し
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神
↓
建速須佐之男命
↓
天忍穂耳命←天照が養子にする
↓
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)
・・・が、奈良(邪馬台国)を国譲りした
女王はどこに?
>>615 魏志倭人伝の書かれている
固有名詞は当時文字がなかった倭人の言葉
発音を漢字で表記したもの
邪馬台国というのは日本ではヤマタイと読むが
当時の中国人の発音ではシャーマイと読んだそうだ
だから発音からヤマトと決めつけるのは間違い
魏志倭人伝の記述が実は本当に正しくて、
沖縄に邪馬台国があった可能性もあるんじゃないか?
近畿説は邪馬台国と卑弥呼の優秀性とか優越性などは考慮しない
ありのままに探求しようとする
九州説は邪馬台国も卑弥呼もボロクソに言う場面もあるが
基本は古代の先進地域の光り輝く九州を崇めているように見える
そこが学問とはずれているところ
よくシュメールとかユダヤとかキリストとかそういうものの関連で権威付けしたがる人がいるが
まったく意味が無い
水戸黄門の印籠ではないので誰もひれ伏すことはない
>>621 言っている意味がわからない
九州説だと卑弥呼を優秀、優越と崇めていて
畿内説だとなんで事実を探求しているだけになるの?
具体的に言うとどの部分?
>>621 > 基本は古代の先進地域の光り輝く九州を崇めているように見える
どこがだよw
畿内派「纏向遺跡すごい!邪馬台国に違いない!」
九州派「邪馬台国なんて複数あった王朝の一つにしかすぎないんちゃうの?」
だろ
>>574 戦国策には戦国七雄の領土があちこちに書かれているがどれも短里
元資料
https://kpu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4063&file_id=19&file_no=1
当時の中華という概念にはチベットもウイグルも内蒙古も含まれないので
長里でいえば方四千里程度の範囲
>>622 「邪馬台国=当時の日本で最高の勢力に違いない」って思い込んでるから
「邪馬台国は九州にあった」と言うと
「九州すごい」って言ってると思っちゃうんだろう
>>616 日本書紀の九段にそんな話しあったか?
本文なのか一書なのかまずそこからはっきりさせて?
面倒くさいなら原文貼ってくれれば、逆検索かけるけど
畿内派って思い込みから抜け出れないというかそういうとこあるんだよなぁ
「こうに違ってる」って思うと「そんなことない」っていくら言っても通じないんだよ
>>627 訂正
畿内派って思い込みから抜け出れないというかそういうとこあるんだよなぁ
「こうに【決まってる】」って思うと「そんなことない」っていくら言っても通じないんだよ
>>618 魏志倭人伝には書いているだろ?
記紀に書いてないってことは
邪馬台国と大和政権とはまるで別の王朝ってことの
証明にしかならないだろ?
まずおちついてグーグルマップ航空写真をみればいいわけよ
稲作=平野面積=権力なんだからw
江戸までずっとそうだから疑いようがないだろう
九州の北部から稲作伝搬で始まって
出雲、奈良があるなら
そのまえに佐賀、熊本もあるということがはっきりわかるんで
で、そこを治めてたのはどこの何王だったんですかって話だから
そこを無視したらただのファンタジー
海岸線が今と違うってのは頭においておくべきだけどな
彦ヒコと巫女ミコと、男と女の尊称の違いはあったから、性別は、名前から判る。
卑弥呼は、日の巫女で尊称。
井沢元彦説。
そういえば火の鳥とか雷火とか
昔の漫画だと狗奴国=大和朝廷って感じのものが多かったよな
倭人伝には卑弥呼は夫がいなかったと書いているのになぜ卑弥呼を男性扱いするバカがいるんだろうか 小野妹子と卑弥呼を同列で考えるキチガイがいる
>>622 >>623 九州説の方で私の言っていることが違っているというのなら謝ります
邪馬台国の存在をリアルに追求してください
郷土愛からの発言なのではと受け止められることを警戒してください
>>623 久しぶりに、禿同(笑)
ちょっと恥ずかしい
そんで九州北部の地名よな
いとしま、糸、島、
あさくら、麻
地形そのものと
中国に朝貢してたもんがそのまま地名になってるわけよw
>>632 そうなの?
そこまで覚えていないけれど
卑弥呼がまるで天照大神のように描かれていた記憶はあるな
丁度卑弥呼も弟に政治を任せていたって記述があるし
弟はスサノオみたいな乱暴者と描かれていなかったけれど
ちょうど日食のシーンが天照の岩戸隠れを彷彿させるシーンとして描かれていた記憶がある
あとで知ったけど丁度卑弥呼が女王だった時期に
北九州では皆既日食があったそうだ
それで学者の中には皆既日食が起きたせいで卑弥呼の神通力が失われたとされて
暗殺されたのではないかという説を提唱している人がいるんだね
>>607 そう思えたら幸せ
おててのシワとシワを合わせて・・・ナムー
卑彌呼の前の男王は殺されたか自害させられた訳です。
>>634 郷土愛も何も
オレは九州出身じゃないしw
九州北部の地名は
当時の倭人の話言葉のまま残ってるわけだから
そこかその周辺が日本初期の王国の場所になるのは
自明すぎるわな
で、平野=権力なんだから、佐賀から熊本にかけての一帯だ
もし卑弥呼が特質すべき権力者ならそこの支配者だというのを
まず一番最初に考えないと不自然
>>616 そもそも日本書紀の九段に高天原が九州だと書いてあるって話だったけど
話すり替えてない?
めったに人に会わないというんだから
佐賀熊本平野から歩いて行ける程度の距離の山の中とかかもしれない
そうするといろいろ神話と整合性も出てくるよな?
つまりさ
266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
魏志倭人伝(中国の歴史書『三国志』)は
280年から297年の間に、西晋の陳寿が書いたもの
ほぼオンタイムで書いているので
みんなで私利私欲に走らない公平な指導者をもとめて
巫女を女王としてまとまったという邪馬台国の話は、ほぼ事実なのだろう
しかしその話は、大和朝廷が書いた日本の記紀には一切出てこない
つまり
日本の記紀を編纂した天皇家は、邪馬台国の勢力とは別の勢力なんだよ
奴国と投馬国は国境を接してたんじゃないかと思う
投馬国まで急に距離じゃなくて水行20日ってなってるわけだけど
奴国って戸数の規模的に領域国家だと思うんだよね
そこで奴国から投馬国の距離を表してもゼロってことになるじゃん
そこで奴国に至ったところから投馬国に至ったところまではかかった日数で表したと
どうでしょう
>>643 新参の渡来人の権力だろ
それが奈良中心に渡来系DNAが
日本に分布しているという
話につながるわけだ
>>619 そこ大事。
邪馬台国、列記21国7万戸を倭人に参問出来て、漢字に出来たのは
240年来日の梯儁だけ。 この21国に邪馬国が有る。
邪馬国で卑弥呼の「臺」を見た梯儁は、自称名の無い女王国を邪馬臺国とした。
総人口は張政の寄港地人口の有〇戸 ではなく可で示す公称で7万戸。
九州上陸以北にある、投馬国可5万戸も狗邪韓國のような和語の地名ではなく
韓伝の弁辰韓5万戸である。 梯儁は韓伝制作以前の初探検者。
対外自称国名が無い、邪馬台国と弁辰韓の国名は、梯儁による仮称である。
原文陳寿の引用以外では、歴史上、使われたことは無い。
邪馬国の臺と言うのは、和語、和音ではなく表意文字。
後に語意が曹操の高楼になったので、三国志では倭人宮には使えなかった。
>>629 そうだよ
記紀に書いてないってことは
邪馬台国と大和政権とはまるで別の王朝ってことの証明
そして大和政権の初代天皇の神武の出自は代々九州一帯を支配していた筑紫城 海神(ワダツミ)国
つまり
邪馬台国は九州には無かったのさ
>>607 使大倭監之
これの主語は卑弥呼だよな
卑弥呼が大倭を使って監視させている
大倭は卑弥呼が任命した官だな。
日(ひ)月(つき)も
古くからの倭人の言葉だろ
九州北部にはその文字使った地名だらけなのだから
久留米も呉女、渡来人の機織り女という意味だ
大月、そのままだ
簡単な倭人の言葉と朝貢した物品が地名になってるわけ
>>629 そうだよ
記紀に書いてないってことは
邪馬台国と大和政権とはまるで別の王朝ってことの証明
そして大和政権の初代天皇の神武の出自は海神(ワダツミ)国王朝で、所在は代々、九州一帯を支配していた筑紫城
つまり
邪馬台国王朝は九州には無かったのさ
大和朝廷が成立した古墳時代になっても金銀翡翠の宝飾品の出土品は圧倒的に九州の方が多い 要するに近畿地方には豪族が少なかったと思われる 天皇に権力が集中していたわけだ
>>640 邪馬壹国は北部九州地域全体だから
筑紫平野や熊本平野をもその支配下に置いていた
卑弥呼は大陸に近い伊都国に居た。
>>648 その理屈って穴だらけじゃない?
神武天皇が九州出身だとしても
九州全土を支配していたわけじゃないし
記紀では神武天皇の時代ははるか昔だから
神武発祥の地である九州に邪馬台国があったとしても
天皇家とは無関係の王国なら記紀に記載されてなくても不思議ではないだろ
魏志韓伝に韓の大きさが方四千里と書かれているが、
三国のほぼ中央に位置する荊州・襄陽を中心に方四千里の範囲を地図に描くとこんな感じ
ほぼ中華全土に匹敵する
当然魏国よりもはるかに大きくなってしまう
魏の国の人間が韓が自国より大きいと誤認することなどあるわけがない
東夷伝が短里であることに疑いの余地は一片も無い
>>651 九州が最初から一つの王国にまとまってないと
中国人が記録してんだから
九州かもしれない
>>645 倭人に聞いた話なだけ
倭人は1日単位で距離を測っていた
短里長里知識がない
>>647 邪馬国は魏志倭人伝の女王国以北の国々で列記されている
原典を読み返そう
>>652 5世紀に九州から神武は東征したんだよ
それで文字や鉄器も関西で普及するんだ。
>>653 まあ卑弥呼が糸島なら
権力の源泉である稲作平野の
佐賀熊本から
会おうとおもえば歩いていける距離だ
>>631
学者()・・・ はて、この国の学会とは何なのか ・・・
「こ(子)」は暗に男の子を意味する。この対の語は
「めこ(女の子)」で、合成語では「め(女)」で代用可。
卑呼 ひこ(=お日様の息子)
卑彌呼 ひめこ → ひめ ※当時の発音は ピミコorピミク
をとこ(をつ(若つ)子)・・若い子(男)
をとめこ → をとめ ・・・若い女の子
むすこ(むす(産す)子)
むすめこ → むすめ >>654 時系列の把握が出来てないぞ
266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
607年に遣使を奈良から隋に派遣したのは
神武から数えて33代目の大和朝廷の推古天皇
つまり
341年間の間に
海神国王を継承した彦火火出見尊(山幸彦)の孫で
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の第4皇子の神武が
九州 海神国 筑紫城から出兵して奈良に来て
大和で天皇を名乗って邪馬台国が消滅し
33代もの天皇が即位した
しかし佐賀熊本から糸島というのは直線だと険しい山道になる
ぐるっと鳥栖のほうを迂回しないと楽にはいけないけない
権力者が権力の源泉たる田畑の平野から
そんなめんどくさいところに住むのかどうかは疑問だな
奥まった山の中のほうがリアリティがある
鎌倉幕府のようにね
>>644 畿内説の人の主張を聞いていると韓国だけにファンタジーとか言えないな。
>>661訂正
失礼、その何とかさんは、学者じゃなかったのねw
存じ上げず失礼w 歴史小説家・推理作家とか()。
>>664 あっち系の人がやってるのかもw
あっちの人が好きなDNAって言葉もあることだしw
文字を持たない時代の稲作の都合
卑弥呼の時代の日本の権力を語るなら
これを最初に考えないといけない
>>663 当時は大陸から鉄や銅を全て輸入してたから
交易路を絶対に抑える必要があったんだ。
>>668 糸島なんてわかりやすい場所に
卑弥呼の墓があるなら
もうとっくに発見されてるだろう
まあ奈良の権力に潰されたのかもしれんが
>>662 だから神武は九州出身だとしても九州を捨てて
畿内に遷都したんだろ
神話で卑弥呼のはるか昔のことだろ?
九州は神武の支配域ではなくなって
空白地になった後で別のクニが発生したとも捉えられるし
そもそも神武が九州の支配地がどのていどの広さかもわからない
九州と言っても広いのだから神武のころから別の王権が多数存在していて
その中の一つの王がヤマトに遷都しただけの話かも知れない
ってことだろ
太宰府あたりに拠点があると合理的なんだよな
里表示が付近の宇美町で終わってるのも意味深なんだけど
もし神武天皇(もしくは他の大和朝廷の祖)が邪馬台国の出身ならば伝承が伝わっている
そして古事記や日本書紀で邪馬台国や卑弥呼についても明確に書いたことだろう
しかし実際には書かれておらず大和朝廷は邪馬台国と無関係に勢力を拡大した
>>667 権力を維持する
もっとも大切だったものは
鉄だったらしいよ
当時、日本には製鉄技術がなかったので
100%輸入していた
だから帯方郡に使者を送って鉄の輸入を維持しつづける必要があったんだよ
鉄=武力であり、農具として使われていたので農業生産性に直接かかわる
権力者にとっては鉄の輸入を確保できることがもっとも重要な仕事だったそうだ
伊都国の首都があったところは現在の曽根 三雲あたりになる 呼子から見たら雷山の麓に当たる
>>669 平原古墳は卑弥呼の墓である可能性が高いな
女王の墓だからな。
>>671 里での行程の終わりは宇美町ではなく、那珂川市方面だよ
春日、大野城、筑紫野市へ向かっている。
>>672 あるいは
記紀の年代が本当は神武が
卑弥呼よりも後の時代で
卑弥呼のことは天照として記述したのかも知れないよ
だから火の鳥のような物語でも卑弥呼をまるで天照ように描く
伝統のようなものが残っている
漫画家が卑弥呼=天照という概念をなぜ持っているのか知らないけれど
そういう説が昔からあったかもね
>>673 その代金たる織物は
久留米=呉女
に作らせてせたのだから
女の王としたら、そっちのほうを
見てた気もしないでもないなあ
>>671 邪馬台が筑紫平野全体を押させていたのは間違いないので、
大宰府辺りは、筑後川水系と博多平野の両水系の結節点、
物流の拠点だわ。
そこで一旦陸揚げするか水路を掘るかで両方の水系を繋いで
いたはずで、当然、そこに関所を置いて徴税したりしたはず。
こうして、物流、経済、ひいては政治の拠点になる。
(地政学的に軍事の最重要拠点なのは当然のこととして。)
>>121 いや、ただ単に口伝が絶えただけだろ。
神武東征にしても、仏教伝来した後に感じが普及してから、
口伝で300年後くらいになってから書になってるわけだからな。
日本での先史時代は聖徳太子で区切るくらいが良いのかな?
破壊するまでもなく、大使前300年くらいの時代の滅びた国の話なんぞまともに伝わってるわけがない。
247年に到伊都国まで来た、張政の倭人寄港地地名間の積算行程は、10500里。
倭人船便乗の査察官で、伊都国の一大卒で駐留させられた。
240年、韓西岸〜卑弥呼宮に初探検の梯儁の行程は
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 (官略)
当然、博多湾上陸で伊都に拘束されず、女王宮に行軍した。
九州上陸迄は韓方可4千里のうち、歴韓国乍南乍東で南4千、東3千、
対馬海峡横断が1000×3で1万里である。
247年張政10500里と240年梯儁12000里であって、
今 使譯 所通 三十國 從郡至倭 で
倭人伝にはこの2回の行程が記されてるのは、当たり前なのだが?
>>675 そんなに特筆するほど
墳墓が大きくないが
大きい=権力は奈良の刷り込みかもな
ID:kYI1Gf710がちゃんと書かないので日本書紀の九段を
本文と、一書の1〜8全部読みなおしたが
一書の異伝としても高天原を九州だとする記述は一切なかった。
うそつき。。。
邪馬台国の首都があったところは祇園山古墳からそれほど遠くない久留米市内だが家やビルが立て込んでいるから発掘調査などはとてもできることではない
公平に言わせて貰うと
ぶっちゃけ当時の畿内とか遅れてるし平和ボケしてるしマジザコやん
鉄を用いて戦いに明け暮れた先進地九州の相手になんかならんわ、恐らく朝鮮出兵時の朝鮮より簡単な相手やったろ
やから国譲り&神武東征はあった
>>669 もう、とっくに発見されているよ。
平原古墳が卑弥呼の墓。
間違っていてもイヨの墓。
>>674 呼子から見たら曽根、三雲は東方向なんだが直接は山に遮られて見えない
東松浦半島を南下し唐津市付近から東へ進んだんで南東だと勘違いしたんだろうな。
>>678 糸島市から太宰府へ向かうには那珂川市を抜けて行くのが一番近道なんだ。
>>686 だからそこで当たりだという
断言することができない
>>680 福岡市方面だよ
魏志倭人伝では早良区を横切ってるだけ。
>>673 博多港の旧支配者 宗像から、邪馬台が鉄輸入利権を奪い
新たな港の支配者になるプロセスが、海幸彦・山幸彦の
神話に描かれてる。
弟・山幸彦は、海を渡って釣針(鉄!)と玉(朝貢!)を
貰い、それで兄・海幸彦を懲らしめたと。
つまり、それらを得る為に、半島で漢の出先やら半島倭人
やらに政治工作したということだよな。
当時の支配者にもっとも重要な鉄の輸入から考えても
輸入するのには、有利な北九州に倭を統括する邪馬台国があった可能性が高いよ
鉄の輸入を考えたら奈良盆地は不利すぎて、北九州のクニには負けてしまう
ヤマト政権が力をもつには鉄の生産を国内でできるようになる6世紀までは
不可能だった
北九州のクニを大和政権が支配していたなんてファンタジーは3世紀には到底あり得ない
文字のないことの稲作に必須の知識
太陽信仰(観察)の女王というのは糸島中央の田の真ん中にある
志登神社でなんとなく透けて見えるが
権力の源泉はやはり大稲作平野なわけだからなあ
鉄とか朝貢の品とか他のファクターがあっても
人が食わなきゃ始まらないのだから
どうしても無視はできない
266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
607年に遣使を奈良から隋に派遣したのは
神武から数えて33代目の大和朝廷の推古天皇
つまり
341年間の間に
邪馬台国王朝が消滅し
海神国王を継承した彦火火出見尊(山幸彦)の孫で
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の第4皇子の
邪馬台国王朝とは関係無い、九州 海神国王朝の神武が
九州 海神国 筑紫城から出兵して奈良に来て
大和で天皇を名乗って
大和で33代もの天皇が即位して
607年に奈良の推古天皇が筑紫から隋に遣使を派遣したわけだ
>>670 神話で卑弥呼のはるか昔のこと?
卑弥呼の後だよ
>>695 しかしそれだと
奈良を中心に渡来系DNAが
日本に分布しているという
科学的調査と整合しなくなる
かなりの集団で奈良に渡来人が来て定着したということがなければ
そうはならないのだから
九州から来たというのは辻褄があわない
>>696 何年だよ?
今グーグルで検索したみたけど
神武天皇 西暦 ってキーワードで
紀元前660年って検索結果でているぞw
卑弥呼はAD250年ごろ
神武は神話だけどBC660
お前のPCでは神武は西暦換算で何年になっているんだよ?www
>>695 >607年に遣使を奈良から隋に派遣したのは
>神武から数えて33代目の大和朝廷の推古天皇
隋に派遣したのは多利思北孤で推古天皇ではない
阿蘇の描写もあり、九州の倭国からの派遣だ
日本書紀にも遣唐使しとしか書かれていない。
>>697 奈良を中心に渡来系DNAが日本に分布している??
>>696 もしかして
お前って全然無知なんじゃないの?w
皇紀とかも知らないで
記紀がどうのと偉そうに語っていたのか?
>>696 天武が神武の墓に参拝してるから
神武の時代は天武の少し前なんだ。
久留米=呉女だの
唐津だの
鴻臚館だの
外国とのかかわりは北九州に依存してるの
DNAの分布は関西が中心に変化している
ここは見逃せないポイントだろう
奈良に大量の渡来系が来て権力を持たないと
そうなるはずがない
>>704 え?だから神武が卑弥呼の後の時代だというのは
なにかソースあるの?
正式な神話では紀元前の人ってことになっているんだけど
そんなことも知らないで偉そうに語っちゃっていた?
皇紀2620年とかとんでもない歴史があるって
ネトウヨが威張っている国家が日本だぞw
もしかして皇紀1400年くらいだと思っていたの?w
記紀原理主義者も
魏志原理主義者も
困りもんだな。
>>699 266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
魏志倭人伝(中国の歴史書『三国志』)は
280年から297年の間に、西晋の陳寿が書いたもの
ほぼオンタイムで書いているので
みんなで私利私欲に走らない公平な指導者をもとめて
巫女を女王としてまとまったという邪馬台国王朝の話は【ほぼ事実】
しかしその話は、大和朝廷が書いた日本の記紀には一切出てこない
つまり
日本の記紀を編纂した天皇家は、邪馬台国王朝には参加していない
ここまでよろしいか?
>>710 だからw
ちょっと答えてよw
質問に
お前って神武がBCの人だと知らなかったの?
神話の中の話だけどさw
それなのに記紀がどうとか偉そうに語っちゃっているの?
そんな無知をさらして、偉そうにコピペで誤魔化すとか
オカシクナイ?
恥だと思わないの?w
唐津松浦に上陸したなら
南東は、多久、小城方面になる。
松浦には、秀吉の時代に名護屋城が築かれて、
朝鮮侵攻の拠点となっているが、
多くの大名は佐賀を経由して
小城、多久を通り厳木峠を通った。
最も多いときには名護屋城周辺に収まらず
佐賀城下にまで陣屋が作られた。
今でも佐賀城下には、何陣屋跡という地名が残る。
糸島を経由したのは福岡藩だけである。
糸だの麻だの呉女だの
朝貢品がそのまま地名なってる
素朴な倭人の世なんだからな
神話の世界はこねくりすぎてる感がある
>>711 神武がBCの人?
そんなこと誰が言ってるの?
>>714 記紀に書かれている神武の即位した
年を西暦換算したものが
神武天皇即位紀元
ググってみ?そこの無知
朝貢品が地名になってることは
漢字を理解したらわかるようなって
恥ずかしくなって当てる漢字だけ変えたって
すげーリアルだろう
邪馬台国時代に、奈良県から博多まで何日かかったんだろう?
2〜3日程度?
10日位?
>>714 とりあえず馬鹿にしないから
神武がどうして卑弥呼よりも
後の時代の人だと言い切ったの?
それがまず知りたい
>>699 266年に遣使を西晋に派遣したのは邪馬台国の壱与
魏志倭人伝(中国の歴史書『三国志』)は
280年から297年の間に、西晋の陳寿が書いたもの
ほぼオンタイムで書いているので
みんなで私利私欲に走らない公平な指導者をもとめて
巫女を女王としてまとまったという邪馬台国王朝の話は【ほぼ事実】
しかしその話は、大和朝廷が書いた日本の記紀には一切出てこない
つまり
神武が奈良に東征してから
みんなで私利私欲に走らない公平な指導者をもとめて
巫女を女王としてまとまった・・・にしても
みんなで私利私欲に走らない公平な指導者をもとめて
巫女を女王としてまとまってから
神武が奈良に東征した・・にしても
どちらにしても日本の記紀を編纂した天皇家は、巫女を女王としてまとまった邪馬台国王朝には参加していない
ここまでよろしいか?
金印も漢字を理解したら属国の印だとわかって
小島に埋め捨てたのと一緒だなw
それが奈良の権力なわけだから
そしたら朝貢の時に居た王、女王の痕跡も消しちゃうだろう
簡単な推測だ
>>698 安全ルート考えれば九州だな。
神武が引き連れ、東海吉備の連中と共に開拓に従事。誰も支配がない奈良に渡来人の定住地としたとか?
>>708 7世紀末の天武が神武の陵墓を知っていたのだから神武は実在の天皇で
7世紀からそう古くない時代の人だと考えられる
5世紀頃に文字や鉄器が関西で普及するのでこの頃神武東征は行われたのではないか
5世紀であれば白肩の津まで遡れる、5世紀を過ぎると陸化が進んで不可能になる。
>>719 何回コピペしてんだよ
そこの無知はw
そんなのとっくに邪馬台国は大和政権とは別の
王朝だろと書いているだろうがw
ところでさっきから聞いているんだけど
なんで神武が卑弥呼よりも後の時代の人だと
断言してんの?お前は
>>721 なんで土着の配下の民じゃなくて
外人を引き連れていくんだ?
57年には、漢字の読解力はどのくらいだったのだろう?
それから、100年後には、かなり進歩していた?
>>726 九州で倭人が漢字を使ってた痕跡は
いまんとこ全く出てこないのだから
読めるようになったのは
やはり奈良からだろ
>>715 崇峻天皇から天智天皇までは九州での記録からの盗用だろうな
関西には文字が無かったからそんな古い記録が残るはずがない。
>>725 頻繁に行き来していたのなら、宿泊はどうしていたのだろう?
>>722 う〜ん、どれも根拠が希薄だなあ
最後のなんてBCじゃない理由じゃないし
金印の漢字の意味わかってても気にならなかったという考えは起きないのか
>>731 中国から派遣された役人がずっと常駐してたのが
鴻臚館なのだから
そんな長い間漢字の知識を得られてないということは
中国の役人が漢字の習得をされないようにしていたのだろう
>>730 白肩の津まで遡ったとあるので
古い時代だと湖で流れが無く遡れない
>>724 外人居住地だよ。
土着は古くからの家来。
兄のもの。
神武は、弟であり、家来がいない。
航海考えれば九州ルートが安全。
東征でなく、開拓だよ。
奈良は渡来系権力だとすると
最初から漢字の知識があって
それを日本に流布させようとするのは
それも自然だ
文字がなかったと記述されているけれど
支配者層は漢字は読めたんじゃないかな?
でないと倭国王の金印を印綬されても
それが権威にならずに役に立たないもんな
>>731 魏志倭人伝に「皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」と書かれてるから
3世紀には倭人は文字を使っていた。
>>735 で、なぜ北九州の歴史を消してしまうんだ
はっきりと受け継ぐはずだろう
>>738 中国の役人の代筆だろ?
倭人に文字が普及してたら
痕跡が一つも出てこないのが不自然すぎる
>>723 なぜ神武が卑弥呼よりも後の時代の人なのか
それは「大和王権が大陸との交易に利用した港」にある
大和王権が大陸との交易に利用した港は
唐(618年 - 907年)の時代に、太宗の命で、同時に一気に編纂された『梁書』と『隋書』によると竹斯国
竹斯国とは神武の出自の九州 海神国 筑紫城のこと
もしも神武が卑弥呼よりも前の時代の人ならば
卑弥呼が神武の後の時代の人ならば
竹斯国、神武の出自の九州 海神国 筑紫城は、天皇家の支配下だ
卑弥呼はどこの港から大陸と行き来していた?
>>734 どういう意味よ?
漕いで行けるだろ
後の時代に陸地になるから
それ以降じゃない、って理屈はわかるが
水路なら漕いで行けるだろ
>>737 金印は朝貢品が大陸で横領されないように
封印に使うものだぞ
>>697 大陸から逃げてきた銅鐸民が支配されただけやな
同族意識が全くないから
植民地の民のように扱うことが出来た
>>741 だからさw
神話だと神武は900年近く前に
九州から遷都していることになっているんだぞ
なんで九州が900年後も神武の支配地として残っている前提なんだよw
戦いの規模から考えると、そして半島に拠点抱えてたことも考えると、倭人はそんなにバカじゃないよね。
57年の金印もらった頃には、文字についての理解はしていたんじゃないの?
>>740 北部九州地域では紀元前後くらいの硯や机、木簡や竹簡を削る削刀が出土している。
>>746 理解してたら自分らでも使うだろ
全く痕跡がないんだから
理解もしてなかったと考えるのが自然
金印の漢字の意味がわかっても
それのおかげで地元にないものを入手出来て攻撃もされない
簡単に捨ててたまりますか
>>747 中国の役人が使うからな
鴻臚館にはその中国役人が常駐してたんだから
文房具は誰かが作って渡すだろう
なぜ神武が卑弥呼よりも後の時代の人なのか
それは「大和王権が大陸との交易に利用した港」にある
大和王権が大陸との交易に利用した港は
唐(618年 - 907年)の時代に、太宗の命で、同時に一気に編纂された『梁書』と『隋書』によると竹斯国
竹斯国とは神武の出自の九州 海神国 筑紫城のこと
もしも神武が卑弥呼よりも前の時代の人・・つまり
卑弥呼が神武の後の時代の人ならば
竹斯国、神武の出自の九州 海神国 筑紫城は、神武を初代天皇とする、大和王権の天皇家の支配下だ
そして竹斯国を支配かに置く大和王権は
みんなで私利私欲に走らない公平な指導者をもとめて
巫女を女王としてまとまった・・という邪馬台国王朝には参加していない
卑弥呼はどこの港から大陸と行き来していた?
>>749 だったら金印の複製品みたいなものをつくって
自分らの権威のために使ったはずだ
一個しかでてこないのだから
中国役人が封印のためにつかったのみ
ということだろ?
痕跡は、その後の歴史の中でも残っていないのって、かなりあるよ。
日本海交易の痕跡も、日本側にはあまり残っていない。
>>753 倭奴国王に下されたものを中国の役人が使うかアホw
>>755 それな
文字がわかるなら中国の暦をつかって
太陽を観察する必要がない
暦がないから太陽観測が
稲作の一番重要な技術になってたんだ
だから卑弥呼に権力があったんだ
>>752 なんでよ?
無知
900年も経てば支配地なんて失われて当然だろ?
歴史を見てみろ
鎌倉幕府に守護に任じられたけれど
守護代に領地を奪われて、守護代が無冠の実力者に領地を奪われて
そんなことが900年どころか100年の間に起きているじゃないか
なんで未来永劫に支配地が固定化していると思い込んでいるんだよ
>>756 複製もしないし、あとになって
朝貢品そのままの地名を漢字だけ変えたり
いじましい素朴な権力じゃないか
>>750 鴻臚館は8世紀くらいからだろ
時代が違う
190年辺りで即位して247年に死んだ。
シャーマン的で女給1000人の隣国と戦闘中の
柵がある高楼の宮廷に引きこもってて、即位以来見たものは少ない。
こういう、女王ってのが、神功皇后時代の
記紀が残ってる畿内朝廷には居たってことで良いのかナ?
神功皇后って、奈良より九州や半島に居た?
倭人伝的には、そんなわきゃ無いだろwww
九州からの神武東征に拘っとる奴論破され役のマッチポンパーかなんかか
>>760 鴻臚館と漢字当てたのが
平安朝なだけで
施設そのものはずっと前からあった
中国役人が常駐してたのは
数百年前からだろ
>>739 卑弥呼、九州連合の存在が後の天皇の正統性の
邪魔になった。記紀編纂にあたり、記録物処分
奴国の王の弟が神武。だから同時期に一族の
シンボルである前方後円墳ができる。
増えて行く渡来人の対策。
>>763 権力の象徴だって言ってるじゃん
社長印を社長だけが使うなんて
不便極まりないだろう
常識で考えろよ
場所も権力の本拠地である佐賀熊本の大平野と
違うところに居たというのだから
平均知能指数が、100超えると民族は文字をつくるらしいから、何らかの記録する手段は残っていないだけで、あったんじゃないか?
じゃないと、半島支配なんて出来なくない?
阿比留文字とか阿比留草文字とかも、詳細が解っていないだけであったんじゃないか?
>>766 封泥に使うんだから照合して違うから偽物なんて意味がない
世界は競争に満ち満ちています。
私たちが貪欲で、利己的で、競争に満ちているとき、必然的に私たちは不調和をつくり出します。
そうすると、世界中に今のようなとても異常な気象パターンがつくり出されます。
ウイルスは人間の破壊的で競争的な貪欲によって覚醒します。
>>769 糸だの麻だの呉女だの
朝貢品そのままの地名は
そのままあるのに
その当時文字使ってたなら
痕跡がかならずあるはず
ないからないんだ
神武天皇がいつの年代の人か?
すでに特定済み
ちなみに十干十二支が記紀に出てくるが意味ないので(暦に詳しい人曰く)
詳細な年までは不明
772 不要不急の名無しさん 2020/09/17(木) 18:51:53.88 ID:EvDbnueX0
歴代天皇の在位期間は奈良時代であっても約10年と短い
50代 桓武天皇 806年退位
歴代天皇50代×歴代天皇の平均在位期間約10年=約500年
桓武即位806年−約500年=初代、神武天皇の即位(※約おおよそ)
邪馬台国があった3世紀の後半に東征?
これは興味深い
と思ったらwikiに似たようなの書いてあった、、、
>>767 日韓併合まで文字のなかった国をディスるんじゃないw
>>769 対馬の神代文字だよね
日本全国で通用するわけじゃない
地域ごとの文字みたいなものはあったという説だよな
アイヌ民族とインディアン族は、平均知能指数は90くらいだったらしいから。
>>764 中国の役人は常駐してないよ
常駐してたとの根拠は?
>>758 奈良の天皇家も
九州の九州 海神国 筑紫城も
支配地を失った何て話は
日本の記紀には一切出てこない
大分から瀬戸内海沿岸ー畿内だけ耳垢が乾いてる遺伝子が異常に多い
宇佐あたりを根拠地に渡来系氏族が吉備ー畿内と広がっていたんだろうとしか
ちなみに福岡は湿った耳垢遺伝子が多い
金印を見たら、これ何ですか?くらいは質問して把握したんじゃない?
>>777 中国の文献にそう書いてあるだろ
奈良の権力になるまで
ずっと朝貢してだろう
なぜ役人が消えるんだ?
横領を防ぐための封印は常に必要だ
>>758 奈良の天皇家が、支配地の奈良を失い途絶えたという話も
天皇家の本家の九州の九州 海神国 筑紫城が、支配地の筑紫城を失い途絶えたという話も
日本の記紀には一切出てこない
天照大神は孫の瓊々杵命に豊葦原水穂国を治めさせようと考えた
この後に二つのストーリーがある
一つは出雲の国譲り
最終的に瓊々杵命は出雲で暮らした
また、この神話では信濃の国づくりにも触れられている
もう一つは高千穂の天孫降臨
これは高千穂でハッピーエンド
二つの神話にどんな意味があるのか
出雲も高千穂も天照大神の子孫にとって対抗する勢力の場所だった
高千穂は熊襲の襲の勢力地
つまり神話は敵対する勢力を征服した物語
実際ワープポイントとかあるし、九州じゃない可能性もあるよ
対馬で文字があるなら、九州ならもっとあっても良いんじゃないの?
インカ帝国も文字がないない言われてるけど
文字の代わりのようなものがあったから、あってもそこらへんはもうわからないだろうな
当時の倭人が漢字を理解してたらまちがいなく真似して使う
日本人はそういうのが大好きじゃないか
カタカナ語だらけの今をみろ
>>781 張政から裴世清の間は誰も日本に来てないよ
>>785 豊国文字とか
豊国文字から派生したサンカ文字とか
あったとか
中国の役人が漢字をわからせないように工夫してたにちがいない
奈良の権力なったらあっというまに皆理解するようになったんだから
>>781 複製だと横領を防ぐための封印にはならんだろ
中国みたいに、木簡がなかったから、残っていないの?
紙はないだろうし、残すとしたら、石とか壁に残すのか。
>>789 今カタカナ語だらけなのは新しい単語作るのめんどくさーになったからだよ
>>783 神話では
九州 海神(ワダツミ)国 筑紫城 天之御中主神
九州 海神国 筑紫城 高御産巣日神
九州 海神国 筑紫城 神産巣日神
九州 海神国 筑紫城 宇摩志阿斯訶備比古遅神
九州 海神国 筑紫城 天之常立神
九州 海神国 筑紫城 国之常立神
九州 海神国 筑紫城 豊雲野神
九州 海神国 筑紫城 宇比邇神・須比智邇神
九州 海神国 筑紫城 角杙神・活杙神
九州 海神国 筑紫城 意富斗能地神・ 大斗乃弁神
九州 海神国 筑紫城 淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神・伊邪那美神
九州 海神国 筑紫城 大綿津見神(豊玉彦)
が本家筋で
伊邪那美神の死後に伊邪那岐神が、後妻の誰かに産ませたのが
天照大御神・月読命・須佐之男命の三人
>>790 記録がないだけだろ?
朝貢品が得られるのに
取りに来ないのは
よっぽど中国本国が荒れてるときだけだろう
風化して残っていないと言うのはないのか?
日本は、台風・地震などで残るのは厳しい環境の国ではあるが。
>>797 日本側から中国へ出向いてる
中国側から日本へ来たのは張政や裴世清くらい。
>>793 だから中国の役人が厳重に管理してたんだろう
漢字も教えないようにして
自分が日本総支配人の権力を維持したと
簡単な推測じゃないか
九州に古い時代の木簡や竹簡が残っていないのは記紀編纂時に参考にする為に大和朝廷が全て持ち去ったのだろう
記紀完成後には邪魔になるので全て焼かれたんだ。
最近でしょ。
日本の金融業者と海運業者の始まりは、水呑百姓だと解ったのも。
能登半島の朽ち果てた石倉から出てきたもので、解ったらしいけど。
ずっと後のものですら、痕跡がなかったんだと思う。
>>653 倭国の一部が邪馬臺国聯盟で
卑弥呼が居たのが首都の邪馬臺国
>>807 じゃあそいつが漢字を使って
痕跡を残してたはずだがな
>>1 邪馬台国スレで30回以上書き込んでる人は大概トンデモ論者
なんで神武が九州から東征してから、
400年までの倭の五王で西国と東国と半島を平定しなきゃならないんだよ?
往復びんたかよwww
神武東征と倭の五王の平定は、相当の隔絶期間が有って、
征伐の概念が完全に違うと思うぞ。
さらに言うなら、違う という意味では、
奈良平安の国家成立と信長の天下布武ほどの違いが有る。
240年の邪馬台国卑弥呼時代には、
九州筑紫は本州と統合していなかった。
247年には対魏防衛と青銅鉄器輸入のため九州本州も統合し、
筑紫女王卑弥呼の死で、邪馬台国と魏との交流は終わっている。
この記紀には無い日本の歴史は、倭人伝が証明している。
>>802 何で倭奴国王が貰った印を中国の役人が管理するんだよw
倭奴国王が厳重に管理するに決まってるだろが
そもそも中国の役人とかいないから。
>>812 中国の文献に
日本に中国の役人が常駐と書いてあるんだから
しょうがない
九州 海神国 筑紫城 伊邪那岐神 は、建速須佐之男命に
「大綿津見神(豊玉彦)の跡を継いで海神国王になれ」
と言ったんだけど
建速須佐之男命は「大綿津見神(豊玉彦)がおっかないからイヤだ」っつって出雲に家出しちゃったんだよね
んで建速須佐之男命の代わりに
大綿津見神(豊玉彦)の跡を継いで海神国王になったのが
建速須佐之男命の長男で、天照大御神が養子にしていた天忍穗耳尊の長男の天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)の次男で
大綿津見神(豊玉彦)の娘と結婚した天津彦火火出見尊(山幸彦)
>>808 日本人に教えないんだから
朝鮮人にも教えないだろ
同じことしてただけだ
日本には縄目文字の結縄が古代中国から伝わったとか
古い石に楔形文字的な物が有るって話も有るよ
隋書倭国伝の「無文字 ,唯刻木結繩」ってのはそれだろうと思うよ
>>809 記録は倭国が滅亡した時に大和朝廷が持ち去ってしまったんだよ。
>>817 自発的にそうしたいという意思が
統一してなきゃ
隠すだろう
>>815 いつ、日本に漢字を伝授したの?
遣隋使のとき?
俺は大阪だけど、九州だと思うよ。どう考えても。
鉄ない、埋蔵物ない、三角の粗末な鏡しかない、伝承も地名も氏族も神話も
全部九州の借り物。
弥生稲作が近畿から始まったとかいう決定的な証拠が見つかれば降参するけど、
そもそもまともな平野が少なかったんだから、それも無理。
一世帯に一つレベルで鉄器持ってる相手に勝てるわけがない。
>>818 東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
>>816 昔の倭には文字が無かったが
仏典を求めて手に入れ、始めて文字を知った
仏典伝来以前から日本に文字はあったからこれは誤報
しかも隋の時代よりも昔の倭に付いての話だな。
>>820 そこらへんじゃないの?
日本の頭のいいのが中国で漢字をマスターして
日本に持ち帰ったか
そもそも漢字の分かる渡来系が
日本で権力もったか
2択だろ
いーまーりー北九州は一万里、あと二千里800キロは畿内でぴったし
>>824 それは公孫氏が倭を服属させた時の話だな
しかも常駐じゃなくて来た時は伊都国に必ず泊まるって意味。
んでその、天津彦火火出見尊(山幸彦)が長男の
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)に海神国王を譲り
その天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の四男の神武が奈良に東征して、大和政権として独立する
>>822 縄文稲作の痕跡は宮城県・青森県の遺跡から発見されている
卑弥呼は鬼道で惑わしてたんやろ?
文字も無くて言葉だけで伝わったんやろか
>>828 だーかーらー
朝貢してただろ?
朝貢の品の物品数量を記録して
品物と同時に封印しておくるんだろ?
それを日本人がやってて
なぜ漢字使ってた痕跡が全くでないんだ?
不自然すぎるだろw
>>820 隋の時代には日本で文字を既に使ってたと書かれてる
隋書では仏典と共に漢字が日本へ入ったとするが誤りで
漢代から既に入っていた。
神武は
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)海神国国王の四男
だったから
九州 海神国 筑紫城を出て身を立てて独立するしかなかったんだね
>>832 痕跡はあるじゃん
土器とかに書かれた文字が出てる。
>>813 中国の役人が日本に常駐なんてどこにも書いてないよ。
魏時、240年と247年に 2回の使譯が有った。
倭人伝 評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
さらに、東夷伝序文
而公孫淵 仍父祖三世 有遼東
天子 爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷 東夷 不得通 於諸夏
景初中 大興師旅 誅淵 又 潛軍浮海 收 樂浪帶方之郡
而後 海表謐然 東夷 屈服
其後 高句麗背叛 又 遣偏師 致討窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭 東臨大海
長老說 有異面之人 近日之所出 遂周觀 諸國
采其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
博多から奈良まで2ヶ月かかって、鉄は半島でのみ生産されて、邪馬台国は奈良だと言うのは、筋が通るのかな?
木とか石とかでつくる兵器と鉄の兵器とで戦したら、どうなるんだ?
中世ヨーロッパだって
数学は「秘術」扱いで
ずーっと庶民には教えない秘密だったわけだし
中国人が漢字を日本人に教えなかったのも
同じことだよ
>>645 こう思った理由追記
水行20日っていうのを
じゃあ20日間野宿したのかっていう話になるとちょっと考えにくい
じゃあどっかに立ち寄ったのかっていうと
立ち寄ったところが新しい国だったらそう記述してると思うんだよね
ずっとしてきたわけだから
そうしてないってことは今まで記述してきた国の範囲内ってことだと思う
どうでしょう
>>832 そらまあ取りに来てたんだから荷の文字は向こうさんが書いてたんだろ
日本に別の文字があったなら漢字は覚えないよ
俺らだってハングルは覚えないしw
>>825 漢字自体は縄文土器にも刻まられたが、
文字として使うってのは別物だぞ?
完成度が高い形で文字で記録し利用するという行動そのものが仏教によって普及した、
装飾や権威付けではない文字の言語機能としての利用は仏教伝来後。
支配者層は漢字は読めたと思うよ
でないと
印綬されても、何と彫ってあるのかわからない
そんなの不安でしょうがないだろw
当時の倭国を代表する人物を
片隅の集落にいた人物のように語るのは勘弁してほしい
九州説の人もそこは理解してほしい
倭国を代表する人物は九州にいたというのなら
整合性のあるように語ればいい
神武は
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)海神国国王の四男
だったから
九州 海神国 筑紫城を出て東征し、大和政権として身を立てて独立するしかなかったんだね
そこで神武が目をつけたのが
建速須佐之男命の長男で、
天照大御神が養子にしていた天忍穗耳尊の【次男】の
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)おじさん
がいる奈良
>>843 筆記用具が出土してるから仏教伝来以前から文字は使われていた。
日本に文字があっても、本を読もうとしたら、漢字を学ばないと駄目だろうな。
英語の書籍読むには、英語勉強しないといけないみたいに。
渡来人なら読めるし民間で交易もしよったやろし 教師役位囲うやろ
>>845 距離表記は公孫氏の測量資料から
日数表記は魏使の報告書からだよ。
結縄を最近まで沖縄や台湾でも使ってたくらいだし
文字を残すという行動は考えてるよりずっと面倒臭いものなんだろうなあ
海外貿易の拠点は九州しかないから富が集積する都市が九州にあったのは確かだろうけどね。
ただ防衛の観点からしたら機内のほうが圧倒時に有利だからなぁ・・
九州に都はないな
>>849 >>850 発音記号もないから漢字は本だけでは学べない
師に付いて習うしかないんだよな。
>>842 封印の金印が一つしかでてこない
漢字の痕跡もない
だから中国の漢字を理解するやつが
必ず日本に居たという簡単な推測を
否定しまくるやつがいるんだが
おかしいだろ?
>>841 もしかしたら
帯方郡から邪馬台国までの道のり
総距離1万2000里とまず最初に総距離を説明
そして事細かにどこどこの国からどこどこの国まで何里と詳細を書いてあって
本来はそこに投馬国以降も記載するはずだったのに
途中で最初の総距離のあとに続く、陸行とか水行とかの行が混じりこんだだけだったりしてな
つまり本来なら
総距離1万2000里
陸行何日、水行何日って書いてから
その内容を細かく説明していくはずだったのであって
投馬国の前にその文章を入れてしまったから
投馬国行くのに水行何日かかると思い込んでいるだけで
水行何日以降は帯方郡から邪馬台国までの道のりすべてを説明している
文章なんじゃないだろうか?
>>853 3世紀の畿内は未だ弩田舎で真面な国なんてないよ。
>>802 >>820
ワカタケル(=雄略)と思われる名を万葉仮名=漢字の音読みで当て字した
鉄刀や鉄剣が熊本と埼玉で見つかったことから、
5世紀後半にはすでに漢字を使いこなしヤマト王権の支配が九州から
関東までの広範囲に及んでいたことを物語っている。 中国から文書が卑弥呼に送られてきたとして
どうすんだって話だからな
通訳みたいなやつが必ずいたはずだろ
鉄が、日本の内部、東日本とか、西日本とかで取れて製鉄も出来たのであれば、奈良にあったと言っても、そうかなと思うけれど、この時代は、鉄鉱石は半島だけなんでしょ。
>>861 あ、そうなの?
じゃあ、九州説で間違いないじゃんw
四男の神武が、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)おじさんがいる奈良を支配下にすることは
九州 海神国 筑紫城の海神国王である
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)父さんも大賛成で
4兄弟全員で奈良に向けて東征することに決定した
というわけだ
>>865 役人ではないのかもしれんが
まあ常駐だろ
じゃないと大陸からの物品で
権力を維持することはできないはずだからな
>>846 女王国の東に海を渡るとまた国があるがみな倭人である
この倭人が出雲や吉備や近畿
>>862 鉄鉱石というか
日本には製鉄技術がまだなかった
6世紀になってから
日本でも砂鉄から製鉄できるようになる
たたら製鉄技術が習得されるようになるまで
鉄はすべて輸入に頼っていた
>>848 あくまでも外国語としてだな、外国人との交流と、外国語で書かれたカッコイイ模様レベルだろ。
古事記や日本書紀の時点でも中国語としても日本語としても微妙なレベルの文しかかけてない。
自分たちの使ってる言葉を記録するという事自体が未熟で微妙なレベルの熟練度。
>>863 九州にあったのは
奈良で天皇を名乗った神武の本家の
海神国 筑紫城
邪馬台国じゃ無いよ
>>863 九州にあったのは
奈良で天皇を名乗った神武の本家の海神国 筑紫城で
邪馬台国じゃ無い
奈良で天皇を名乗った神武が制圧したのが邪馬台国
>>869 糸島の志摩歴史資料館に行ったら砂鉄から鉄器を造っていたと書いてあった
年代みてなかった
大和の国は
対馬から九州を転々
大国主命が敗れ
奈良へ移った
>>874 奈良の邪馬台国が軍事制圧したのは出雲
出雲はたたら製鉄の本場
あれこれ物品を大陸から得てたんだから
とうぜん対価を払うわけで
それが麻だの呉女だの玉だのそういうことだろ
それがそのまま九州北部の地名になっとるわけだからな
貿易のやり取りでこっちが漢字を使えない以上は
漢字のつかえる役人だの商人だのがいつも日本にいるというのは
当然の話だ
>>874 だから3世紀に畿内に
強力な政権なんて成立し得ない
って
鉄の輸入をしないと権力が保てない時代なんだから
だから記録がないから数百年のあいだ
中国から日本に人が来てないなんて
簡単な推測からトンデモ論としかおもえない
有名な役人ではなかったというだけだろう
>>851 >日数表記は魏使の報告書からだよ。
そう。 で、その魏使たちは倭人どもの自己申告を基に報告書を書いた。
上陸するとどんな危険があるかわからないからね。
>>874 奈良の邪馬台国が軍事制圧したのは出雲
出雲はたたら製鉄の本場であり、朝鮮半島の新羅との交易が盛んだった
鉄を中心に考えて、邪馬台国を論じるしかないと思う。
>>883 稲作も絶対必要な要素だよ
大稲作平野と権力の拠点は
そんなに離れているわけがない
九州と奈良なんて遠すぎる
>>866 頭の悪い奴は前から読み返すなんて
面倒臭いことはしないぞ
>>883 どう考えても北九州が有利な地理的位置を
利して、逃げ切り勝ちしている時代だよ
3世紀なんて
日本で製鉄できるようになった6世紀になるまで
奈良が北九州よりも力を持つのは不可能だから
>>11 宇佐には全国八幡社の総本山・宇佐神宮があるし、邪馬台国と何らかの関係があってもおかしくないね
あんな辺鄙な場所にあんな格式の高い神社があるってのは何か由縁があるんだろう
>>886 後のことは、枝葉の話だと思う。
枝葉に惑わされ過ぎているような気がする。
>>868 女王国の東に女王国に含まれない国があるという指摘は当然
日本列島の中で女王国は九州北部から関東
多賀城は724年
>>883 鉄を中心に考えると
>>36で結論出ちゃうからなぁ
>>889 東に海を千里渡った先はどこだというんだ……
>>884 そゆこと
わかってんじゃん
九州にあったのは古くから大陸との交易があった超大国
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)
奈良にあったのは
古くから朝鮮半島の新羅との交易が盛んだった出雲を支配下にした新興国の邪馬台国
>>11 だから宇佐神宮二之御殿「姫大神」は神武天皇の伯母豊玉姫と母玉依姫だから
そりゃ和気清麻呂も「皇統を断絶してもいいですか?」ってお伺いをたてに行きますわな
>>884 そゆこと
わかってんじゃん
九州にあったのは
古くから大陸との交易があった超大国
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)
奈良にあったのは
古くから朝鮮半島の新羅との交易が盛んだった出雲を
たまたま支配下にすることができた新興国
卑弥呼の邪馬台国
>>879 鉄は同盟国の吉備から入って来たし
出雲〜但馬〜播磨〜淡路ルートで鉄器製造し
製品が大和へ入っていった。
>>895 そういう妄想はやめようぜ
301 :不要不急の名無しさん :2020/08/30(日) 22:50:58.33 ID:t3VPUgZu0
>>283 淡路島の製鉄所からは北部九州式の返しのついたヤスが見つかっている
瀬戸内海を制していた北部九州の海人族の遺跡だよあれは
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf > エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
弥生時代の海の勢力図
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下
文字の出土状況
3〜4世紀は墨書土器などで文字の痕跡がある。
一文字だけ書かれていることが多い。田の字が多い。
5世紀は金石文の痕跡が残る。鉄刀などに彫られた文字である。
文字の形をみると、彫りの職人は書き順やとめはらいなどを
意識していないデタラメな彫り方になっており、
彫り職人は文字を使い慣れていないことがわかる。
6世紀は木簡が出始める。手習いの細片が多く、文字を習うという習慣が
始まっており、文字が下級役人に浸透し始めてきている。
7世紀には戸籍が出始める。文字を文化行政に実用的に
使用し始めていることが推測できる。
8世紀には万葉仮名など日本独自の使用法に、
魔改造が始まる。
>>841 240年の正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等
奉詔書 印綬 詣倭国 拝仮倭王 并齎詔賜 金帛錦罽刀鏡采物
は、魏の 239年公孫氏追討後、初めての韓西岸南下で倭へ渡海の探検。
韓地域制圧は246年なので、筑紫女王への貢物持参での未開地行軍。
寄港停泊も盗賊など危険であって、無人安全地帯で接岸露営の水行行軍の20日。
これは、露営が行軍の常識。
到 其北岸 狗邪韓國=投馬国の倭人域からは、卑弥呼の勢力圏で案内官を雇える。
海峡渡海が10日で博多湾で女王国入国
その後は雇える馬が無く徒歩で
奴国王 難升米や都支国王 都市牛利のサポートで
女王の境界 最南界の女王宮へ一月行。
この記録は
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
次有ー列記21国ー 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
です。
>>895 だから3世紀には日本に製鉄技術がなくて
まだ、たたら製鉄もない時代だってw
100%輸入品
時代背景を忘れている
奈良にあった
古くから朝鮮半島の新羅との交易が盛んだった出雲を
たまたま支配下にすることができた新興国の邪馬台国は
卑弥呼が死んだらあっという間に
九州にあった
古くから大陸との交易があった超大国
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)に東征されちゃって
20年ぐらいしかもたなかった
古くから朝鮮半島の新羅との交易が盛んだった出雲を
たまたま支配下にすることができた
奈良にあった新興国の邪馬台国は
卑弥呼が死んだらあっという間に
九州にあった超大国
古くから大陸との交易があった
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)に
出雲もろとも東征されちゃって
20年ぐらいしかもたなかった
もはや徳川埋蔵金レベル
本当にあったのかどうかも不明なファンタジー
>>894 しかし太陽信仰の象徴としての
痕跡はどうみても糸島や九州北部にある
地名に日とか月とかな
地名=そのときの重要ファクター
という素朴なネーミング
奈良にはない
九州にある遺跡や史跡は
全部
古くから大陸との交易があった超大国
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)
の遺跡や史跡
20年ぐらいしかもたなかった邪馬台国には、んな立派な遺跡や史跡は造れんよ
>>891 関東から以北の地域
侏儒国は倭国の南とはっきり区別している
九州にある遺跡や史跡は
全部
古くから大陸との交易があった超大国
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)
の遺跡や史跡
20年ぐらいしかもたなかった邪馬台国には、
んな立派な遺跡や史跡は無い
20年ぐらいしかもたなかった邪馬台国から出てくるのは
桃のタネが精一杯
>>906 太陽信仰の象徴として描かれる卑弥呼
日の巫女説もあるぐらい
奈良には太陽信仰の痕跡が薄い
67<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん2020/09/26(土) 20:29:25.26ID:Y7XWmn8O
>>61 そうそう
都合が悪いからって日本書紀系図を燃やしちゃうとか最低だよなw
そんなに朝鮮から渡ってきたとわかるのが困るのかっての
78<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん2020/09/26(土) 20:38:32.94ID:Y7XWmn8O
>>72 スサノオ、新羅で検索しとけや
ほんとネトウヨって底辺だわwww
日本書紀や古事記すら読んだことないってどうなんやろなw
まぁ、安倍を攻撃した西尾幹二をパヨクなどといって攻撃しちゃう奴らだし仕方ないんだろうな
ネトウヨの主張って西尾幹二の国民の歴史の丸パクなのに、なぜか本家本元にツバはいているんだからな
どうしようもない連中だよw
124<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん2020/09/26(土) 21:41:43.24ID:UmEx96KY
>>78 >じつは弥生時代後半の朝鮮半島南部には、
鉄の原料を求めて各地から人が集まってきていた、
といくつかの文書に記録されている。
その中に、倭人が混じっていたともある。
スサノオの行動は、まさに鉄を求めた倭人のそれである。
したがって、スサノオが新羅に渡っていたからと言って、
出雲が新羅に征服されていた証拠にはならない。
ぐぐってみたで。
どっちが正解なんだ?
あり得るとしたら
九州で濃い太陽信仰を身に着けた
卑弥呼がそのまま奈良に移ったぐらいだな
でもそんな話も伝わってない
>>905 そんな広い地域を
軍事力ではなくて
巫女の神のお告げの神威でまとめることができるわけがないよ
当時の国はクニといっても今でいえば
市町村レベルの集まりに過ぎないだろう
倭国とは北九州一帯にあった市町村レベルのクニの
集まりで邪馬台国の卑弥呼とはその市町村レベルの国々をまとめている
今でいえばEUの議長みたいな存在だよ
>>896 播磨にガマカツっていう釣り針釣り具メーカーが有るの知らないのか。
播州三木の鉄の刃物も伝統産業
滋賀にも鉄器工房があった。
ヤスは確か石川で出土してた。
播磨国風土記には製鉄の話も載ってる
>>907 当然じゃね?
>>901 古くから朝鮮半島の新羅との交易が盛んだった出雲を
たまたま支配下にすることができた
奈良にあった新興国の邪馬台国は
卑弥呼が死んだらあっという間に
九州にあった超大国
古くから大陸との交易があった
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)に
出雲もろとも東征されちゃった
>>908 諸国の王をまとめるカリスマの
源泉は卑弥呼の太陽信仰だろ?
で、太陽信仰の痕跡は
九州にあって奈良にない
だから卑弥呼が奈良オリジンの女王とするのは
苦しい
伊邪那岐、伊邪那美について
以前、隠されたメッセージを解読したが
「岐」と「美」は、どこから来たのか
これも色々調べてたのだよ
そしたら「岐美」=「きび」でキビの古代名と出てきた
まあこれは、ただの偶然
もしくは稗田阿礼が「ヒエ」だからコイツの冗談でも混ぜたかw
と今まで自分の中で秘めて黙っていたが
豊秋津島、豊葦原の「豊」がまた「キビ」繋がり
(「曲がる」という字は、キビ(黍)がたくさん束ねられた姿)
九州にある豊前豊後関係?と思うよな普通w
神武天皇が吉備国に寄ってるし
何か匂うぞ、岐美、きび、キビ、黍、吉備?
>904
恒霊間150〜190年の戦乱、
以降247年までだから
約60年間が卑弥呼の世。
魏との交流は238年から247年だけど、
一国の王の在位期間としては長いんじゃないのかな?
>>897 石や金属に彫る場合毛筆の筆順なんか関係ない。
ド素人が偉そうにwwwww
>>912 だから時代を考えろってw
日立金属のHPから
弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、
戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、
6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、
5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
卑弥呼の時代って3世紀だよ
吾平山陵・可愛山陵・高屋山陵
この3つ全てが鹿児島県にある意味がわかる??
山陵とは、陵(みささぎ)すなわち墓だよね。
>>920 地名そのもの
朝貢の品が地名になってるような場所だ
当時の大事なファクターが地名になってる
九州北部は日だの月だのの地名だらけだろ
奈良にはまったくない
>>899 どこに製鉄って書いてるんだ
オマエの思考回路はバイアスがかかり過ぎで
信号にノイズが乗ってるぞwwwww
>>917 そうとうのお婆さんになってから
出雲を平定して大陸への航路が開けたのだろうね
NHKの古代史ドラマシリーズで
卑弥呼をやってほしい
キャスト
卑弥呼→二階堂ふみ
卑弥呼の弟→窪田正孝
狗奴国央→古田新太
>>911 その驚くべきことを成し遂げたから魏の使節も驚いている
大乱からの嫌戦気分というか
実際物理的に戦闘を続けることができなかったのかもしれない
しかし、この伝統が現在の天皇制まで生きているとしたら
これは注目すべきこと
>>920 あと糸島の志登神社をググってくれ
建立時期もわからん古い社に
太陽信仰の道具がおいてある
>>927 そんな妄想していないで
もっと現実的な考察したほうがいいよ、マジでw
>>922 それは
邪馬台国だからじゃなく
神武の祖先の
天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・ 大斗乃弁神
淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神・伊邪那美神
大綿津見神(豊玉彦)
天津彦火火出見尊(山幸彦)
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)
だからだろ?
>>930 神様がウンちゃら言い出す前に
弥生の稲作から
中国みたいに暦がないから
太陽観察で種まき時期を決めるという
実際上の必要があったわけだよ
>>877 香久山と耳成山が畝傍山を取り合いしてケンカしたときに
出雲の神が仲裁に来たけど稲美の郡まで来たら
ケンカが終わったので出雲へ引き揚げたという伝説がある。
>>928 だからそれは邪馬台国だからじゃねーっつーの
九州にある遺跡や史跡は
全部
古くから大陸との交易があった超大国
九州海神国筑紫城政権(古代九州【倭奴国】)
の遺跡や史跡
20年ぐらいしかもたなかった邪馬台国には、
んな立派な遺跡や史跡は無い
20年ぐらいしかもたなかった邪馬台国から出てくるのは
桃のタネが精一杯
(其の1)邪馬台国・佐賀ルート
東南陸行五百里到伊都国 伊藤雅文(邪馬台国の会・全国邪馬連事務局)
>一般的に末盧国と比定されている唐津市周辺から見て、伊都国であろうと思われる糸島市は東〜北東の方角になる。
>王墓と考えられる墳丘墓をはじめ考古資料は圧倒的に伊都国=糸島市説を示しているのであるが、
>あくまでも「東南」にこだわり、多久市、小城市(及び佐賀市)方面に伊都国を求める方々も多く、
>この辺りから国々の比定地が大きく異なってくる原因となっている。
新井白石以来、畿内説・九州説を問わず、「伊都国は糸島説」を信仰する学者・知識人達ばかりであったといってよいのではないか。
しかし、上の伊藤氏も述べているように、
近年は「東南陸行500里」を原文通りに読んで、多久市・佐賀市(伊都国)・吉野ケ里(不彌国)経由の肥後・邪馬台国ルートを重視する人たちが増えている
>>920太陽信仰=楠。鹿児島県蒲生の大楠は日本一。
>>931 いや海を隔てて1000里先にも
また倭種の地域であるって記載だろ
そこは女王の支配下ではないが
倭種の住む地域が海を隔てた先1000里にまたあるって書かれている
関東まで支配下で
東北の多賀城がまだ支配下ではないとする
お前の説だと関東から多賀城に行く前に海がある必要があるってことだろ
>>932 九州説なんかそもそもが妄想だろ。
いつまで立っても比定できず、畿内の物証にケチを付けてるだけ。
>>935 稲作=権力の時代
太陽信仰は太陽観察という
暦がないころの必然の作業と
それに従事する人間のカリスマが発生する
卑弥呼がその頂点だったんだろ?
統治の時期が短いとか
その太陽信仰の何百年の流れには
関係ない
>>628 12000里のうち9000里で75%だから残り25%は九州から出ないとか
架空の距離単位が存在したとか、カチンカチンの脳みそで思い込みを
しつこくゴリ押ししてたおまえが言うな
急に卑弥呼が天体観測の技術に目覚めるとかないから
連面とつづくそういう技術を継承したわけだから
奈良にポッとそういう術が生まれるわけもない
そしてその術の痕跡はどう見ても
九州北部に集中してる
つまり太陽信仰の象徴である卑弥呼は
九州の流れだという簡単な想像
>>940 ためにする意味のない疑問
女王国の勢力範囲の外部に日本人(?)が住んでいるという言明
もし魏の人がそこを訪れようとしたら、境界から船で移動するということ
>>915 卑弥呼は東北のイタコのような死者の霊魂を呼び出したり
出雲のオクニのように歌や踊りで大衆の心を掴んだので
共立されたんだわ。
たとえばだ
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡にしても
佐賀の吉野ヶ里遺跡にしても
鉄器や硯、鏡などの出土品にしても
古くから大陸との交易があった超大国
100年以上「漢委奴国王」として君臨した【倭奴国】
の遺跡や史跡ではなく
たった40年ぐらいしかもたなかった「親魏倭王」の邪馬台国の
遺跡や史跡だという根拠は何?
>>943 公孫里って架空の単位じゃないだろ?
そもそも魏に滅ぼされる前は公孫氏が帯方郡を支配していて
卑弥呼も公孫氏に朝貢している
公孫氏が邪馬台国の所在地を知っていて
邪馬台国までの道のりも把握していた
そして魏志倭人伝に書かれている卑弥呼が
倭国王の金印をもらいに魏に朝貢したのは
公孫氏が滅亡した直後か公孫氏が滅亡寸前だったタイミングだぞ
魏が公孫氏のもっていた邪馬台国への道のりを記した情報をそのまま使うのは
至極当然だろう?
>>948 種まきは年一回しかないから
それだけだと暇だからな
(其の3)邪馬台国・佐賀ルート
東南陸行五百里到伊都国
吉野ヶ里というと「吉野ヶ里遺跡」に限定する傾向があるようだが、実は、現・吉野ヶ里町は広い。東西幅は2-3qだが、南北長は20qもある。
佐賀平野では、他の市町村も似たり寄ったりで、北は脊振山系から、南はおおむね筑後川ないし有明海まで達している。
その境界の多くは脊振山系に由来する中小の河川や丘陵である。つまり細長〜い短冊を並べたような国邑配置になっているのである。
これは古代のクニの境界の特徴で、河川が自然の砦柵になっていたことから来ているのであろう。
くだんの吉野ヶ里町の西界は、吉野ヶ里丘陵(微高地)とその麓を流れ下る田手川になっている。
東界は、目達原丘陵(微高地)と其麓を流れ下る井柳川になっている。
卑弥呼は中国の役人によって
変な文字が当てられてるが
本当は「日の巫女」ってのは別に不思議じゃない話だろう?
>>925 だから
>>895には鉄の加工については書いてるが
製鉄に関しては書いてない
頭冷やして眠気覚まして読み直せ>慌て者
>>947 魏志倭人伝を真っ向から無視するなら卑弥呼とか邪馬台国とかも無視しなよ
日(ひ)だの巫女(みこ)だの
糸(いと)だの麻(あさ)だの
当時の倭人の言葉がそのまま残ってそうじゃないか
考古学的には
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡にしても
佐賀の吉野ヶ里遺跡にしても
鉄器や硯、鏡などの出土品にしても
立派で、豪華で、大きければ大きいほど
古くから大陸との交易があった超大国
100年以上「漢委奴国王」として君臨した【倭奴国】
の遺跡や史跡であって
たった40年ぐらいしかもたなかった「親魏倭王」の邪馬台国
にはムリ
という考えだよ
>>957 でも諸国の王を束ねるカリスマがあったわけだろ?
太陽信仰の象徴としてのカリスマだろ?
卑弥呼が「日の巫女」ならば
>>897 使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
247年で、博多では中国王や倭人国王、韓王の文書も検閲してます。
日本はBC200年から青銅器輸入してますけど?
共通言語が無い場合、文字文書は意思疎通で
音や手ぶり身振り、より有効なんじゃないだろうか?
確実なのは百済建国後の350年博士来日?
てか、漢字の57年の金印ですら、王が木簡纏めるための封印だろ?
使えなかったのかwww
>>954 だから鉄の加工がどうだろうと
鉄を牛耳っていたのは北九州地方だからな
今でいえば北九州が石油メジャーで
そのほかの地域は町のガソリンスタンドみたいなものだぞ
ガソリンスタンドのオヤジさんがいるから
奈良は北九州と対抗できるって言っているような馬鹿なことを言っているようなもんだぞw
>>955 駄々をこねる子どもの弁明
では、
あなたはどういう解釈を持っているのか
>>961 どうみても子供の駄々レベルの屁理屈言っているのは
お前の方だろw
>>962 罵倒はいいから
君自身はどう解釈しているのか
述べなさい
通せんぼ県 県外で佐賀ナンバーの車を見たら石をぶつけろ
(其の4)邪馬台国・佐賀ルート
東南陸行五百里到伊都国
田手川と井柳川の間は約2q。この間に旧三田川村という家並みがあるが、古代においても、平時の生活はここで営まれていたのであろう。
この三田川地区から南へは、真っすぐに県道385号が伸び、筑後川べりまで達している。その間は5-6q。
なお現385号はバイパスだが、これと並行して旧街道が走り、随所に集落が残る。
つまり古代の人々の生活の場は三田川地区であり、死者は西の吉野ヶ里丘陵と東の目達原丘陵に祀ってきたのであろう。
(但し、吉野ヶ里丘陵については、1-2世紀の大乱の時期には、高柵をめぐらして立て籠もる避難砦として機能したのであろう)
そして塩や海産物を手に入れるには、南へ下って筑後川や有明海まで出向くか、この旧街道に依って交易していたのであろう。
これが弥生時代を通じて確立された此の地の生活スタイルであり、またそれに対応したクニグニの姿・形だったのではないか。
>>963 オレ?
さっきから言っているけど?
邪馬台国は北九州地域にあった
邪馬台国がまとめていた倭国連合も北九州地域にあった
市町村レベルの小さなクニに集まり
って書いているだろ
「漢委奴国王」の倭奴国は
安帝の永初元年(107年)に、生口160人を献じたぐらい
強大な国力を有しており
考古学的には
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡や
鉄器や硯、鏡などの出土品
の主として相応しい
一方「親魏倭王」の邪馬台国は
生口10人、班布二匹二丈しか献上できず
壱与の代となり、266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できず
考古学的には
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡や
鉄器や硯、鏡などの出土品
などを保有する国力があったとは、とてもじゃないか思えない
>>879 武器が出てこない。
奈良は3世紀初頭は、土木工事跡ばかりだよ。
>>966 最初から倭国の領域の解釈が違っている
それならば君の倭国の領域についての解釈を語るべき
なぜ、そんな簡単なことができない
太陽観測ってのは定点観測だ
あるところに固定して観測するんだ
だからそこが初期の神社なわけよ
糸島の志登神社はまさにそれ
そしてそのコピーが出雲大社、そして奈良の大神神社
位置配置をみればコピーだとわかる
>>969 関東までが倭国の領域って考えるお前
北九州地域一帯が倭国の領域と考えるオレ
別に不思議じゃないだろ?
「漢委奴国王」の倭奴国は
安帝の永初元年(107年)に、生口160人を献じたぐらい、強大な国力を有しており
考古学的には
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡や
鉄器や硯、鏡などの出土品
の主として相応しい
一方「親魏倭王」の邪馬台国は
生口10人、班布二匹二丈しか献上できず
壱与の代となり、266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できず
考古学的には
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡や
鉄器や硯、鏡などの出土品
などを保有する国力があったとは、とてもじゃないが思えない
なので国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c >>971 それなら自分の説について思いのたけを語るべき
中国の暦を使いだしたときに同時に日本人が漢字で書きだした神話の前に
稲作のための天体観測とその場所っていう
リアルな必要性があったわけよ
なれそめっていうね
卑弥呼はそのなれそめの年代だからな
神話で考えるより、稲作の必然の作業から考えたほうが
正解だろう?
軍事力で統制しているわけじゃない
巫女が神威を得て、クニグニをまとめる倭国連合
そんな連合がそれほど広域な範囲を支配できるわけがないとなぜ理解できない?
せいぜい北九州一帯地域がいいところだよ
そして邪馬台国と対立していた狗奴国は
熊本県にあったということ
>>973 いつお前が勝ったんだよwwwwww
怖いなあ、馬鹿はwwww
邪馬台国
邪悪な馬の国
卑弥呼
卑しい巫女
中国につけられた蔑称を
いまだにありがたく使ってる
おまえら
>>976 連合国が北部九州にあったということが物理的に無理
>>967 日本から渡すのは朝貢品と言う概念ではなく
交易あるいは半島利権の承認への対価なんじゃないかな?
普通の通商より、王への朝貢の方が儲かるかも知らんけどw
>>979 そう言う小さな単位ではそもそも国として成り立たない
>>982 なぜ?
古代のクニってのは、こんな小さな単位から始まっているのは
常識だぞ
だから大和政権のフリをして卑弥呼とかいう女酋長が勝手に魏に朝貢したんだろ
>>981 なんにしても
財力が圧倒的に小さすぎて
考古学的には
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡や
鉄器や硯、鏡などの出土品が
「親魏倭王」の邪馬台国のものとは思えない
のよ
(其の5)邪馬台国・佐賀ルート
東南陸行五百里到伊都国
古代、吉野ヶ里一帯は不彌国と呼ばれていた。この不彌国の「彌」には、あまねく広く行き渡るという意味がある。
推定だが、かってこの地は、九州島の東西南北交通の十字路だったのであろう。
ではなぜこの地が、北は博多、東は日田・大分、西は長崎、南は熊本・鹿児島への十字路たり得たのか、
この問題を解くには、当時この地域の地理的状況を推察し、アタマに入れておかなくてはならない。
現状、筑後平野+佐賀平野は広大だ、博多+糸島平野の10倍はある。海岸線が迫っていた古代でも5倍はあったであろう。
しかし、その中央を筑後川が縦断しており、河川とそれに付随する沼沢地で、古代の南北交通は困難を極めた。
日常的に諸衆が往来するには、はるか上流の朝倉ー浮羽ラインまで遡らなくてはならなかった。
事実、景行天皇が南九州から凱旋するときも、八女市からは、平たん路の久留米経由でなく、
山間の黒木近傍の山道を通って直接浮羽市へ至っている。
則ち問題は、古代の筑後川下流域において、多大の人員物資をどのようにして渡河させ得たのかということに尽きる。
>>976 卑弥呼が重視した青銅鏡が一世風靡しバカ受けしたので
魏からの輸入が間に合わなくなって
青銅鏡を国産化した
というわけだ。
九州の金印にしろ
近畿の鏡にしろ
移動できるもんは、可能性のみで
証明には、ならない。
海東諸国皆倭に付庸す
これも畿内節が無視する一文だよね。
畿内説の学者ってほんとに学者なん?
>>983 女王国は倭国
境界の尽きるところまでは数えきれない国々が列記されている
それがすべて北部九州の範囲だとするなら
その比定地を教えてほしい
>>964 わずか17年の人生だが、見たこと無いけど?
ポケットに、石要る?
生口10人、班布二匹二丈しか献上できず
壱与の代となり、266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できない
財力が全く無い「親魏倭王」の邪馬台国が
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡や
鉄器や硯、鏡などの出土品
なんて造れるわけがねーだろーー m9(^Д^) プギャー!
で
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 生口10人、班布二匹二丈しか献上できず
壱与の代となり、266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないほどの
財力が全く無い「親魏倭王」の邪馬台国が
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や
佐賀の吉野ヶ里遺跡や
鉄器や硯、鏡などの出土品
なんて造れるわけがねーだろーー m9(^Д^) プギャー!
で
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c >>989 畿内の出土品は遷都時に九州から持ってきた可能性を排除できないが
九州から出たら証明になる
畿内が後の都なのは誰もが認めているからね
畿内に都が移った後に金印を九州に持ってくるわけがない
結局
生口10人、班布二匹二丈しか献上できず
壱与の代となり、266年に遣使を西晋(265年 - 316年)に派遣したときですら
生口30人、白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹しか献上できないほどの
財力が全く無い「親魏倭王」の邪馬台国があったのは
掘っても掘っても桃のタネしか出土しない奈良
なのよね
>>991 列記21国で7万戸が女王の境界 数え切れてる。
馬韓は54国10万戸、弁辰韓=投馬国は24国5万戸だが?
これが、自女王国以北だよ。
>>997 白珠(パール)五千個は当時としては凄まじいほどのお宝だが
>>998 それは女王国にそれまで紹介した国以外にどれくらいの国があるかという紹介
その全てが九州にあったとするならそう言えばいい
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