◎正当な理由による書き込みの削除について: 生島英之とみられる方へ:
【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」 [樽悶★]->画像>31枚
動画、画像抽出 ||
この掲示板へ
類似スレ
掲示板一覧 人気スレ 動画人気順
このスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/newsplus/1600837970/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
北部九州と近畿地方の、弥生時代から古墳時代前期の遺跡や遺物などを紹介する企画展が、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園で開かれています。
この企画展「よみがえる邪馬台国」は、佐賀県教育委員会などが毎年開いていて、邪馬台国があったと考えられている九州と近畿の出土品を展示しています。
ことしは、現在の北九州市から大分県北部にあった「豊前の国」に焦点をあて、大分県宇佐市のほか、吉野ヶ里遺跡や兵庫県内の複数の遺跡から出土した土器や青銅器など、およそ400点が展示されています。
このうち、大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は、直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ、中国から卑弥呼に贈られたという説もあります。
また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は、祭祀に使われた大型の矛です。
佐賀県内の遺跡から同じ形の鋳型が出土していることから、佐賀をはじめとする北部九州で生産され、その後、宇佐に伝わったことがうかがえるということです。
吉野ヶ里公園管理センターの小林昭彦歴史専門員は、「企画展を通じて、吉野ヶ里遺跡と豊前の国との関係性を見直してほしい。邪馬台国があった場所として考えられている九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」と話していました。
この企画展は、吉野ヶ里歴史公園の「弥生くらし館」で、11月8日まで開かれています。
09月23日 12時34分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html 天皇家とは別の勢力が、大陸と直接交流持ってただけやろ?
邪馬台国以外にも栄えた「クニ」があった、
って話でしかないと思うんだが
邪馬台国って、盛んに言うけど、弥生人のような暮らしだろ?
誇るようなものではない
その頃、海外では、ローマ帝国最盛期で、ローマ市民は公衆浴場で温浴やサウナの娯楽施設で楽しむ生活の余裕があった
世界から見れば、日本は文明の遅れた島国のド田舎者と当然の扱い
恥ずかしくないの?
出土=ゴッドハンドを連想させる原因を作った藤村の罪は重い
>>5 誇ってるやつなんかいるの?
というか日本の1800年足らずの歴史で誇れる瞬間って1980年前後だけでは?
>>1 いや、やっぱり邪馬台国は『宇佐神宮』だろう・・・
(1)卑弥呼=比売大神=天照大神
(2)宇佐神宮の亀山が卑弥呼の墓 宇佐神宮本殿
(3)謎の石棺の目撃証言
(4)奴婢百余人の徇葬と百体神社
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/yamataikoku.pdf .
つーかさあ、別にギリシャやローマにあったような荘厳な石造りの巨大な神殿が
あるわけでねえべ?もっと前のエジプトだのアッシリアだのとの比較でもそうだけどさ。
最近で言えば、DQNの川流れの大好きな、川沿いとかレジャーランド系の、木造の
高床式とかあった倉庫がいくつかあるとこでさあ?で、その数百人規模の集落で
しょぼい木造のDQN部落で、バーベキューやって、寄るは焚き火囲んでウエーイ♪
その踊り子の卑弥呼が、近隣で一番イケてるって話になって、卑弥呼の弟が
かなりのやり手で話を盛りまくって成り上がりを図って暴走族漫画みてえにさあ?
それを、伝わって聞いた中国の古代の変態捏造脳内ヲタクがさあ、成り上がり系の
ウエーイ・ヒャッハー!バイオレンスモノだったのを、女王様ハアハアって自分の趣味で
改変して話を盛りまくってむちゃくちゃやって陸行水行とかカオスにしたんだべ?
>>5 そのローマ帝国最盛期にいたローマ市民の子孫は今どこにいるの?
邪馬台国の記された魏史倭人伝、正確には「倭人条」だが、その前は「韓条」で三国が記述されてるんだよね
倭人てwww国ですらないwwwwww
しかも卑字でバカにされてるのに気づかず7世紀まで自称してしまうwwww
投馬国=妻国=宮崎は出て来ていても、
その手前の豊の国は出てきていない。
そして豊の姫が邪馬台国の
女王になっている事から考えて、
後の豊の国=大分県は、
邪馬台国の一部であった事は間違いないだろう。
女性から見る邪馬台国論争:
・九州は美人芸能人の産地
・奈良は何もない
>>1 邪馬台国は佐賀の吉野ヶ里遺跡ではないあれは嘘。
ちょっとひでえこと書いちまった。で、修正する!
俺の予想ではさあ、ちっこい数百人規模の似たようなDQNの集落がさあ、各地に
点在したんだよ。九州でも数十箇所、近畿地方にかけては数百箇所。
で、地方予選を経て大和朝廷甲子園に行く前に、地方大会のどっかを
すげえ盛り上げて伝えてさらに盛り上げて書いちまったんだよ!
地方紙の話を鵜呑みにした古代中国の東スポがさ!
180キロの高速スライダーを投げて回転レシーブしながらオーバーヘッドで
シュートしつつカーブさせゴールポストを揺らす女王様!みたいにさ?
もうそれ甲子園でねえべ?だからマジでガチで付き合っちゃいけねえべ?
そんな、しょうもない詐欺遺跡なんかより、佐賀野郎は長嶋に新幹線を通せ
>>2 魏志倭人伝をよく嫁!
@倭国大乱で*倭国が*邪馬台の女王を共立して和議。
つまり邪馬台は覇権喪失、表向きの倭国盟主として朝貢へ。
A邪馬台支配下のはずの博多港を、*大倭*が管理してる。
お、おい、大倭って奈良のことだろ!?!
しかも漢の時代、邪馬台の支配下にあった筈で
朝貢に出されてた奴国が港の管理から外されてる!
つまり、邪馬台から奈良が覇権を奪って、邪馬台を朝貢に出してた。
しかも、港を完全に押さえて、朝貢・交易の利は、全て奈良が頂きw
邪馬台国の長官・副長官は伊支馬=生目、彌馬升・弥馬獲支=御間城という、
垂仁天皇や崇神天皇との関連を示唆する名前が見て取れる。
この辺がどう関わっていたのか、
面白いところだな。
>>12 三国史記…朝鮮半島南「狗邪」は「倭国の北限」
宋書倭国伝…朝鮮半島は倭が支配している
広開土王碑…倭国が海を渡り百済と新羅を臣下にした。
日本書紀…391年神宮皇后が百済と新羅を日本領土とした。
宋書…倭国が朝鮮半島南部を領地にした。
随書…倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬った。
梁職貢図…新羅は倭の属国
誤りと偽りの考古学・纒向―これは、第二の旧石器捏造事件だ! (勉誠選書) 2019/6/28 安本美典 (著)
邪馬台国問題が、旧石器捏造事件によく似てきている―。
奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡から、ベニバナの花粉が出土した。一部の人々が主張するように、ベニバナは『魏志倭人伝』に登場する
「絳(こう・あか)」と結びつくのだろうか。「解釈の捏造」と呼ぶのがふさわしい古代史のスキャンダルを、邪馬台国研究の第一人者が徹底批判。
邪馬台国の真実はどこにあるのか。
↑畿内説はほんとうに酷い!!
生目は元々宮崎市生目付近の豪族だろうが、
当時は投馬国には弥弥、彌彌那利という
長官副長官が居たので、
宮崎から離れて、邪馬台国にいた事を示唆する。
コレがいわゆる東征の宇佐逗留ではないかと考えられる。
考古学者 森浩一氏
ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。(中略)
倭人伝では、”養蚕をおこない、糸をつむぎ、細やかな(けん)や緜(めん)を作っている”。
作っていただけでなく、魏へ二度めに派遣された使者が献じた品物のなかに、”倭錦、青、緜衣、帛布”などがある。
(中略)
布目氏(布目順郎氏、京都工芸繊維大学名誉教授)の名著に『絹の東伝』(小学館)がある。目次を見ると、
『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在地等を探る』の項目がある。
簡単に言えば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、
つまり4世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。
布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに
求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。
↑畿内説はほんとうに酷い!! キナイセツを広めてるバカガクシャどもを公開処刑すべき!!!
当時の九州北部からは大量の瀬戸内海系の土器が出土
当時の奈良からは瀬戸内海系に加えて東海や山陰の土器が出土
奈良はそれまで勾玉や銅鐸、方形周溝墓の文化圏だったが墓制など風習が一変した
5世紀、畿内で勾玉文化は復活するけど
当時は九州北部も奈良も瀬戸内海に征伐され支配下に置かれた
女王の都とされた奈良、一大卒の支配下に置かれた九州北部
「ところで俺の股間のこの遺物を見てくれ こいつをどう思う?」
「…とっても…土器土器です…」
「だろうな?こいつぁ遺物じゃねえのさ?現役なんだぜ(ヒョイ…ドウッ…ヌプッ)」
「アッー!」
ぎしぎしあんあん伝より
邪馬台国は島原半島って宮ア 香蓮のじっちゃんが言ってた
<<畿内説はほんとうに酷い!!
現天皇の先祖は シナ王朝に属国した
邪馬台国だと言いたいのが 京都大の
サヨク教授達
>>25 5世紀、畿内で勾玉文化は復活するけど
ヤマトという地名も北部九州から移った
考古学者・森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)
伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです
また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です
>>2 当時だって、東西南北 仕事してたに決まってるべ?
いそがしいんだよ! ヒミコならぬピンコは
>>1
> 大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は
> 直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ
> 中国から“卑弥呼”に贈られたという説もあります。
> また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は
> 祭祀に使われた大型の矛です。
【NHK佐賀放送局「よみがえる邪馬台国」展】
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html
「宇佐神宮」の主神、“比売大神”こそが卑弥呼で
神宮の立つ亀山が卑弥呼の墓だな
.
>>35
いや、関西人でも慧眼の士はみな九州説 ここで例だせないが
それは、現在の「邪馬台国論争」の「構造」のことである
「邪馬台国畿内説」の証明はない
あるのは、ただ「はじめに邪馬台国畿内説ありき」なのである
ではなぜ、「はじめに邪馬台国畿内説」なのか
それはそのように教育されたからである
京都大学を中心として、その伝統にもとずき、考古学の分野で
そのような教育システムができあがっているからである
その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利となる可能性がある
「邪馬台国畿内説」はいま学問的、科学的にはきわめて多くの
問題をかかえながら政治的には勝利をおさめつつあるようにみえる
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない
「邪馬台国畿内説」は確かな根拠といえる鉄の骨をもたない
土の虚塔である 空中楼閣である いつかはかならず崩壊する
「兵用 矛 楯 木弓 矛のでてこない畿内はありえない
竹箭或鐵鏃或骨鏃 鐵鏃のでてこない畿内はありえない > 佐賀県内の遺跡から同じ形の鋳型が出土していることから、
> 佐賀をはじめとする北部九州で生産され、その後、宇佐に伝わったことがうかがえるということです。
ゴッドハンド作てことはないんだよな?ほんとぉに?
高天原はプサンの近くにあったとチョーセンが言ってるそうじゃないか
来月に九州一周ツーリングするが、
佐賀県は素通り予定
>>37 銅鐸もごく初期の小さいやつは鋳型もふくめて大分と佐賀で出土してる
だから、古事記にでてくる奈良の先住民・ニギハヤヒっていうのも九州から来た
『隠された物部王国{日本ヒノモト} 民俗学者・谷川健一
かつて列島に併存していた「倭国」と「日本ヒノモト」
「日本ヒノモト」はいつ、だれによって併合されたのか
物部も九州から、遠賀川流域から来たんだよ 饒速日とか
畿内の名族って軒並みそうだ
隠してるけど
東遷は2回あった 谷川健一がいってるように
邪馬台国は30余の国々からなる連合国家である
故に九州から畿内まで全部邪馬台国だった可能性もある
>>9 >>34 かわいい
和気清麻呂が行ったとこだね
>>12 その倭人条に「釜山から倭人国」って書いてあるから、釜山は日本が貰っていいかな?
邪馬台国スレは九州説の基地外がうるさいし新幹線スレは佐賀の基地外が一日中スレに張り付いてるし九州人は異常者が多いのか?
>>3 それは剣山の『失われたアーク』だろ
カゴメ歌「かーごーめーかーごーめーかーごの中の鳥はいーつーいーつーでーやーる
夜明けの晩にー鶴と亀が滑ったー後ろの正面だーれ♪」
鶴ツル
亀キ
で剣山だろ
邪馬台国はそっちじゃない
>>46 貰うんじゃなくて取り返すんだよ任那日本府を
畿内説で決着してるのに、往生際の悪い九州バカがごねてるだけ
九州説って学説っぽい呼び方だけど、実際はただの俗説
結局九州の何処やねんw
九州はまず場所を特定してから、出直せw
吉野ケ里が邪馬台国である可能性も低そうだが
邪馬台国九州説の証左として残したかったんだろうな
未だに九州説かと言ってるのは
九州説でも色物とバカにされてた人達だけだよ
今は畿内説もまともな九州説の人も巻向の動向を見てる
もっとも年寄りが多いので、間に合わなそうな九州説の老人が時折騒ぐけど
老い先短いからしょうがない
確定しない方が都合がいい層が一定数いる
和気清麻呂の宇佐神宮神託といい
令和も太宰府天満宮が元であるといい
日本は何か大きなことがあると必ず九州に向かう
伊勢でも大和でも出雲でもない九州だ
つまり先祖に相談してんだろ
もう答えは出てる
奈良の勢力は渡来系で
出自が怪しいから、その前の権力の痕跡を必死に消したんだろうな
だから九州と奈良なんて遠く離れた場所のどちらかすら
わからないようになってしまった
めいいっぱい九州説罵っててワロタw
そんなに怯えてるの?w
>>57 だよな ましてや古い時代なんだ、他が追いつくすべもなく
高度な文明ある大陸から近い所が有利にずっと高度な国家作ってたはずだもんな
>>2 魏志倭人伝によると天皇家の祖先が魏と交流してた
纒向発掘に中心的に携わった考古学の権威→関川尚功
「これまでの纏向遺跡の内容をみると、そこに邪馬台国として想定した場合、比較ができるような遺構・遺物というものが、全くといってよいほど見当たらないことに気づかされる。つまり、纏向遺跡の実態からは、邪馬台国との関連性を見出すことができない。」
まぁ所詮九州説の老人は
冬に野菜は出来ないとかいう知識しかないから
聞くだけ無駄だよ
「そして鉄器生産が端的に示しているように、庄内期後半に至るまで、一大遺跡群としての纏向遺跡自体には、北部九州を越える明確な先進性はうかがえない。」
「このような事実から、纏向遺跡は邪馬台国とは地域・性格、そして時代も異にする遺跡であるといえるのではないだろうか。」
「直接的な対外交流の痕跡というものが、決定的に欠けている。」
「「魏志倭人伝」にみえる交流実態とは、およそかけ離れたものであるといえよう。」
www
近畿は物部氏の支配地域だったのを九州の天皇家が神武のときに征服したんだよ。卑弥呼は多分神武の数代前の先祖だろう。
卑弥呼のは花芽どっかにあるよ、九州のさ。
邪馬台国をはじめ日本の中枢は九州北部にあった
漢民族に従っていた日本は北方異民族の隋と唐と対立した
663年白村江の戦いで敗れたため、九州には唐版GHQの都督府が置かれ監視された
日本の首都は九州から近畿に移行した
近畿は唐への忠誠を示すためにミニ長安の平城京を作った
そして九州の歴史は葬られて近畿の歴史が日本の正史として語り継がれていった
これが真実
人はなぜ俗説や陰謀論を信じてしまうのか?
知識がないことはもちろんだが、知能が低いことも理由の一つだろう
九州北部も奈良も卑弥呼を共立した国々に征伐された側
仲良くしましょう
吉武高木遺跡→三雲南小路→井原鑓溝→平原
当時の倭王の系譜は北部九州でなければ辿れない
関川が考古学の権威???wwwwwwwwww
畿内説批判に関川を持ち出して来ないといけない九州説の人材不足を如実に物語ってるな
唐に反旗を翻した九州にそれまで通り首都があると
唐に侵略される、あるいは「また戦争するのか」と勘繰られるから
首都を近畿に置いたんだよ
そして徹底的に媚中になったんだよ
和歌山の2Fみたいになw
畿内言ってるのは学者だけだよ。
理系の人や海外から何言ってるかわからん
って馬鹿にされてる日本の考古学会。
例えば鉄が全然出ない。筑紫なら一家に
一台レベルなのにね。
銅器や木で鉄器にどうやって勝てるの?
投馬國 熊本阿蘇高千穂
↑
南(水行十日陸行一月)
↓
邪馬壹國 韓国岳高千穂峰宮崎市 と思う
神武以前は日本は統一国家じゃなかったんだよ。だけど、シナ大陸で秦がシナ大陸を統一、その後に漢が400年続いた。そして三国時代で動乱の時代になった。
それに触発され、またシナ大陸からのがれた移民に触発され、神武が日本の始皇帝になるべく東征を始めたわけだ。だからこそ、神武から天皇家が始まるわけだ。その前の先祖もいたはずなのにさ。
畿内説には不満があるわ
古墳の分布と年代だけで邪馬台国が何処にあったか決めようとしている
畿内と東海に初期古墳があるから畿内が邪馬台国で東海が狗奴国とか平気でいうからな
>>19 投馬國 官 彌彌(ビビ)=天孫降臨とは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の孫すな
わち天孫であり、初代天皇・神武天皇の曾祖父にあたる邇邇芸命(ににぎのみこと)が、
統治者として8人の神と3種の神器を携え地上に降り立ったという、日本神話の中でも非
常に重要な意味を持つお話です。
彌彌(ビビ)=邇邇芸命(ににぎのみこと)と言う考えで投馬国を熊本から高千穂市だと
>>74 まず近畿は短頭(絶壁)で歯が大きい。
北九州は長頭(頭が前後に長い)で歯が小さい。
関東はその中間。
歯冠サイズの地理的変異 長岡朋人2003
現代 近畿----関東--北九州
両地域の相違は、短頭傾向を持つ近畿の集団と長頭傾向を持つ九州の集団との違いにみられるように、頭蓋計測値でも認められている(Nagaoka.2003)
したがって、両地域の相違は歯冠サイズに限定した現象ではない。
同心円的構造の背景として、外来集団の渡来は不可欠ではあるが、もう一つの重要な要因として近畿の歴史的・社会的環境要因を考えた。
近畿は歴史時代における政治・経済・文化の先進地域であり、そうした地域に特有な社会環境が遺伝子頻度の変化、例えば渡来人遺伝子の増加をもたらした可能性があると指摘した。
本研究の結果は長岡・熊倉(2002)の結論と矛盾しない。
近畿地方の特異性の解明にはさらに近世以前の資料の蓄積を待たないとならないが、本研究の結果は、日本人形成史の研究に寄与する重要な知見であると考える。
畿内説は前回のC14の改訂で、
古墳時代が70年近く前倒しになるっていうのが根拠だった訳だが、
今回の改定でまたもとに戻るので、
古墳時代の初期の大型古墳がある大和が
邪馬台国というのが崩れてしまったのが現状だ。
もう論争話しはうんざりだわ
結局一生わからんだろう
>>20 狗邪=加羅(カラ)=伽耶 だな。
カラの音は、その後日本では、海の向こう・海外 と同義語に。
唐の国が出来たら、唐と書いてカラになっちまったw
>>79 アマテラスが岩戸隠れしたとき
山から鉄鉱石掘り出して製鉄して
鉄の鏡を作ったと記紀に書いてある
岩戸隠れは4世紀か5世紀だな
秦の始皇帝は自分を特別な王として皇帝と表現し、また己を朕と読んだ。天からこの世界の支配者として降りたった天子であるとね。
こういう中華の支配理論の影響を天皇家か受けてるのは明らか。天皇なんか、まさにそこから造語してるわけだし。日本が中華とは違う独自の国へと向かおうと意識し始めた時期なんだろう。
卑弥呼は、記紀で言う倭姫命(ヤマトヒメミコ)が該当するだろう。
天照大御神を祀った姫というのが、
魏志倭人伝の卑弥呼に合う。
おそらく、天照大御神は九州の太陽神信仰の神が元なんじゃないかな。
>>74 魏志倭人伝の時代、事実上の列島の中心は、奈良。
邪馬台は、覇権を失い、表向きの倭国盟主となっていた。
この権力と権威の分離で、世俗を離れた権威の神聖化が進み、
後世、大和が古の女王卑弥呼を天照にまで昇華せざるを得なく
なる程の、権威の不可侵性を産むこととなった。
邪馬台は、軍事力で奈良に負け滅ぼされた。
しかし、その権威に於いて、邪馬台は列島全てを飲み込んだのである。
今日まで続く神聖な権威となったのである。
>>41 うきは市の珍塚古墳に饒速日や物部氏の先祖が乗って
降臨(=来日)したとき乗っていた天磐船、天鳥船の絵が描いてある
物部氏の支配地域だった証拠だな
投馬國(熊本〜高千穂)の長官名彌彌(ビビ)は邇邇芸命(ニニギノミコト)から取ったものだろ
で、八代湾を南下して水俣辺りから東へ陸行、韓国岳〜宮崎市が邪馬台国です
畿内説は元々、戦後の皇国史観の否定の為に、
共産主義者によって編み出された屁理屈。
重要なポイントは、大和政権は大和発祥であり、
それによって記紀の東征が否定される為、
皇国史観そのものが否定されるという論法。
しかしながら、考古学的視点から、
日向の豪族が大和で政権を作ったのは間違いない事になるため、
共産主義者達のサロン、畿内説は根底から崩壊する。
>>84 >歯冠サイズの地理的変異 長岡朋人2003
これはいつ調査したんだ
邪馬台国の長官副長官が生目、
御間城であったことから考えると、
3世紀中期に日向の豪族が宇佐逗留を
行っていた事は間違いないだろう。
それが4世紀に大和に入り、東征を果たし、
やがて古墳時代を作った、
その歴史の流れに合致する。
そして、その以前に物部氏=安積族のニギハヤヒ一族が、
既に河内を拠点として大和に進出していたという記述が、
考古学上の、弥生中期後期の銅剣銅矛文化圏の北部九州から河内大和への広がりと一致する事が、
東征の確からしさを補足している。
>>57 かつて漢の時代、邪馬台は九州に在って、半島倭人と交易(鉄!)
を独占、朝貢(奴国に行かせた)も握り、これで列島に君臨した。
華北崩壊の4世紀、大和が邪馬台を滅ぼし列島統一。
かつての邪馬台の本拠地に大宰府を、邪馬台の相手方である
半島倭人の地に任那日本府を置き、旧勢力を監視・統治した。
>>1 いい加減にしろよ糞チョンコ
インチキスレばかり立てんなボケ
こいつキャップ剥奪しろ!
邪馬台国スレは変な奴をあぼーんすればまともになるが、そうするとスッカスカになるという罠
卑弥呼は天照だよね
安本がいうように記紀の候補者のなかで一番共通点が多いってのもあるけど、
追加するなら、倭国が「日出ずる処」として大々的に歴史の表舞台に表れたのは魏志倭人伝が最初で、
その日出ずる処の女王として倭国の歴史に登場したなら太陽にちなんだ神格化がなされてもおかしくないと思う
実際に神武が東征した際に、
宇佐に逗留した場所が、
妻垣という伝承で残っている。
妻国の豪族が垣を作った場所という地名が、
当時からの伝承を示す地名として、
より東征を確からしいモノとしているのである。
卑弥呼は倭姫命の可能性が高い。
天照大御神自体は、
恐らく九州全域の豪族が、
太陽神として祀っていたものではないか。
それを束ねて祀る事で、
九州の豪族を一つにするという事をやったのが卑弥呼=倭姫命。
伊勢神宮外宮の元伊勢籠神社の海部氏は、
丹波氏であり、丹羽氏は祇園山古墳の山頂にある、
筑紫国の一の宮、高良大社の元々の大祝家である事から、
関連性をしてくしておきたい。
卑弥呼には弟が居て政務をしたと書かれている。
そして、倭姫命にも弟が居た。
日本武尊だ。
それらは狗奴国=熊襲と戦った事が一致する。
>>105 いっそどこにもなかったで決着つけてはどうだろう
>>93 彌(ビ)は隋を滅ぼした唐の都の長安方言の読み方
>>101 違うな
アマテラスはもっと昔の先祖というか、当時の人にとっても
伝説上の先祖。
弥生中期とか、遠賀川式土器の時代とか。
天皇家だけじゃなく、というよりも、神武が大和へ入る以前からいた人たちの
共通の神話だわな。
海部の先祖や新潟の弥彦神社や広い地域の「始祖」
最初に作ったのが淡路島で佐渡まであるから縄文じだいか。
邪馬台国・佐賀ルート(其の1)
東南陸行五百里 到伊都国(伊藤雅文・邪馬台国の会)
>一般的に末盧国と比定されている唐津市周辺から見て、伊都国であろうと思われる糸島市は東〜北東の方角になる。
>王墓と考えられる墳丘墓をはじめ考古資料は圧倒的に伊都国=糸島市説を示しているのであるが、
>あくまでも「東南」にこだわり、多久市、小城市(及び佐賀市)方面に伊都国を求める方々も多く、
>この辺りから国々の比定地が大きく異なってくる原因となっている。
新井白石以来、畿内説・九州説を問わず、「伊都国は糸島」を信仰する人達ばかりであったといってよいのではないか。
しかし伊藤氏も述べているように、
近年は「東南陸行500里」を原文通りに読んで、多久市・小城市・佐賀市(伊都国)経由の吉野ケ里(不彌国)ルートを重視する人たちが増えている
妻垣という地名が、
記紀の成立より古い時代の
伝承に基づく地名であることは間違いない。
ここを発掘すれば、
いつの時代に妻国の豪族が垣を作ったかが分かるだろう。
また、宮崎市の生目を発掘すれば、
邪馬台国の時代に、ここの豪族が、
邪馬台国の長官だった事を示す遺物が出る筈だ。
邪馬台国・佐賀ルート(其の2)
伊都国の最有力候補地は、佐賀市山寄りの大和町川上大願寺地区だ、ここに古〜い大明神があって、藤原氏の祖を祀っている。
この神社の祭神の一人はタケミカズチノカミだが、其の父君の名は「伊都之尾羽張」といった。これが伊都国の名残りであろう。
なおこの地点は唐津の古港の中原遺跡から東南37.5qで丁度500里である。
この川上の大明神から東南方向100里、つまり7qほどのところに佐賀市街(佐賀城・佐賀県庁等)が見える。ここを奴国と呼んだのであろう。
倭人伝では東南至100里とだけ書かれ、移動を示す動詞がないから、「東南の方角に奴国が見えま〜す」という書き方だ。
つまり伊都国(川上大願寺)からは移動せず、そこにとどまったままの状態だ。
その次、東行100里至不彌国は、移動を意味する動詞の「行」があるから、実際に伊都国から東の不彌国へ行ったのだろう。
丁度100里ではないが、真東へ140里くらい行ったところに吉野ヶ里遺跡がある。
このあたりは、律令制では三根郷(彌根郷)といった。これが不彌国という国名の面影ではないか。
>>79 神武の時代はまだ統一国家じゃないな。
それに、神武は天皇じゃない。
天皇家の奈良に入った初代かも知れんけど。
卑弥呼の時代は、崇神天皇の少し前の時代。
崇神天皇ってのも後の人が付けた名だけど。
よみがえる よみがえる よみがえる 邪馬台国
巨大な敵を 討てよ 討てよ 討てよ
>>2 卑弥呼を共立した有力者グループの中に天皇家の先祖もいたってことだな。
共立したくらいだから、その頃の天皇家の先祖は絶対的な力を持っていなかった。
他の氏族も持っていなかった。だから「共立」したわけだ。
だけど、話がまとまる程度には価値観を共有してたってことだな。
邪馬台国・佐賀ルート(其の3)
吉野ヶ里というと「吉野ヶ里遺跡」に限定する傾向があるようだが、実は、現・吉野ヶ里町は広い。東西幅は2-3qだが、南北長は20qもある。
佐賀平野では、他の市町村も似たり寄ったりで、北は脊振山系から、南はおおむね筑後川ないし有明海まで達している。
その境界の多くは脊振山系に由来する中小の河川や丘陵である。つまり細長〜い短冊を並べたような国邑配置になっているのである。
これは古代のクニ界の特徴で、川が自然の砦柵になっていたことから来ているのであろう。
くだんの吉野ヶ里町の西界は、吉野ヶ里丘陵(微高地)とその麓を流れ下る田手川になっている。
東界は、目達原丘陵(微高地)と其麓を流れ下る井柳川になっている。
両川の間は約2q。この間に旧三田川村という家並みがあるが、古代においても、平時の生活はここで営まれていたのであろう。
この三田川村から南へは、真っすぐに県道385号が伸び、筑後川べりまで達している。その間5-6q。
なお現385号はバイパスだが、これと並行して旧街道が走り、随所に集落が残る。
つまり古代の人々の日常生活の場は三田川地区であり、死者は西の吉野ヶ里丘陵と東の目達原丘陵に祀ってきたのであろう。
(但し吉野ヶ里丘陵については、1-2世紀の大乱の時期には、高柵をめぐらして立て籠もる避難砦にされたのであろう)
そして塩や海産物を手に入れるには、南へ下って筑後川や有明海まで出向くか、この街道に依って交易していたのであろう。
これが弥生時代を通じて確立された此の地の生活スタイルであり、またそれに対応したクニグニの姿だったのではないか。
邪馬台国・佐賀ルート(其の4)
不彌国の「彌」には、あまねく広く行き渡る、という意味がある。推定だが、古代の不彌国は、九州島の東西南北交通の十字路だったのではないか。
ではなぜこの地が、北は博多、東は浮羽〜大分、西は長崎、南は熊本〜鹿児島への十字路たり得たのか、
この問題を解くには、当時この地の地理的状況を推察・考察し、アタマに入れておかなくてはならない。
現状、筑後平野+佐賀平野は広大だ、博多+糸島平野の10倍はある。海岸線が迫っていた古代でも5倍はあったであろう。
しかし、その中央を筑後川が縦断しており、河川とそれに付随する沼沢地で、古代の南北交通は困難を極めた。
日常的に諸衆が往来するには、はるか上流の朝倉ー浮羽ラインまで遡らなくてはならなかった。
事実、景行天皇が南九州から凱旋するときも、八女市からは、平たん路の久留米経由でなく、
山間の黒木近傍の山道を通って直接浮羽市へ至っている。
則ち問題は、古代の筑後川下流部において、多大の人員物資をどのようにして渡河させ得たのかということに尽きる。
>>11 遺伝的な意味の子孫ならヨーロッパ各地にいる。自覚があるかないかはそれぞれだけど。
ローマという国家のことなら、ローマの宗教はバチカンが、ローマの政治はゴート人やフランク王国が継いで今の西欧各国につながってる。
>>85 こんな短い文章なのに、嘘が2つも書かれてる
九州説は息を吐くように嘘を吐く
邪馬台国・佐賀ルート(其の5)
では、肝心の筑後川を日常的にどうやって渡れたのか、あるいは物資を渡せたのかということであるが、
が、意外な方法で渡れたからこそ、当時の吉野ヶ里(不彌国)が極めて大きな政治力を持っていたのであろう。
有明海に注ぐ筑後川は結構な水量があり、通常、それを横切って南岸の城島へ渡るのは簡単ではない。その逆もしかりである。
しかし筑後川のこのあたりには、世界的にもまれな特殊自然現象があった。
それは有明海の大きな干満差(現在約6m)の余波・余禄である。
つまり有明海の大干満差によって、1日2回の満ち潮どきには筑後川に遡上流が生じ、その影響は河口から16q上流まで及ぶという。
このため、吉野ヶ里町の南下流の筑後川べりにある神崎市千代田町迎島〜三養基郡みやき町三根地区あたりも恩恵を受け、
満ち潮に乗って対岸の城島へ渡るのはたやすい。その逆コースもしかりである。
船であれば申し分ないが、丸竹をつなぎ合わせた筏に櫓櫂を取り付けた程度でも十分役立ったであろう。
かくして吉野ヶ里(不彌国)は、筑前筑後、肥前肥後、豊前豊後、日向薩摩大隅への十字路に君臨できたのであろう。
(余談ながら、鉄橋により筑後川を30秒で渡れる現在では、この十字路は東へ移り、高速道路の巨大鳥栖ジャンクションとして威容を誇っている)・・終
三角縁三神三獣鏡は卑弥呼の鏡ではないな。
魏志倭人伝では、卑弥呼が貰ったものの種類や大きさ長さを事細かに書いている。
鏡については銅鏡百枚とのみ書いている。
これは同種の鏡が百枚と受け取った方がよい。
異なる種類、大きさの鏡を贈ったのなら、それは区別して書かれているはず。
贈られたものについての原文
今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹
答汝所獻貢直
又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠チ丹各五十斤
東北の伝承
龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る戦い
アマテルを手に入れた赤神は岩隠れをする
なんか記紀に似たような話があったな
黒神の黒って何やろね?
黒、暗い、水底の土は黒土
水底の土は上代はぬば烏とか言ったらしい、沼も同じ語源かな
黒、烏、沼
黒は烏ぬば
射干玉ぬばたまはヒオウギの黒い種で黒の枕詞
京都の祇園祭や大阪の天神祭では、ヒオウギは床の間や軒先に飾る花として愛好されている
黒神は祇園の神や天神さまと関係あるかもな
スサノオ、牛頭天王
赤神は何やろか?
赤は朱と関係あるのか?
神の使いの鹿がたくさんいる真っ赤な春日大社
武甕槌とかフツの神様が祀られている
興味深いのは奈良の若草山
若草山の山頂には5世紀頃の古墳があって昔は牛塚と呼ばれていた
若草山の麓には真っ赤な朱一色の春日大社
神の使いの鹿たちがウロウロ
東北の伝承と照らし合わせると興味深い
若草山の若
インカ帝国では、ワカは川や泉などと結びついた聖なる存在
アイヌ語でワッカは清らかな水
若は水と関係があるのかな?
正月に神棚に一番に供える井戸水を若水という
何か関係があるのか?
3世紀初めにはすでに九州北部に前方後円墳が存在したんだからもう決着してるだろ
三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではないかもしれないが、畿内勢力が魏と何らかの交流があった証拠ではある
畿内説側としては魏との交流の証拠として確定すれば十分
京都の守り神、祇園の八坂神社元は天神を祀っていた
大阪の入り口にある大阪天満宮
何故あの立地にあるのか?
興味深い
てか、畿内説派は、
どうしてどの鏡が舶来鏡か?
の検証をしないんだ??
三角縁神獣鏡がなぜ大量生産されたかは謎
何の理由もなく、あれだけ大量に製作されるはずがない
景初三年鏡が卑弥呼の鏡で、その他は下賜鏡を模倣し少しずつデザインを変えて製作したと仮定すれば一応は辻褄が合う
卑弥呼は倭国大乱の結果、邪馬台に男王を立てることに諸国が同意しなかった結果、女であれば皆が従うと推挙された。だから邪馬台は北部九州諸国の盟主という立ち位置だったんだろな。
また卑弥呼の死に奴婢が殉死させられたりと、祭政一致を伺わせる。古代シナの殷でも亀甲占いをして政治の決定をしてたというから、卑弥呼は卜占を行う神官のような立場で、民の信仰や権威の対象だったのかもしれない。
今でも皇室行事として亀卜がされてるらしいから、かなり伝統があるのかもな。
>>130 おそらく不要になった青銅品をリサイクルしたものだから
原料は銅鐸?
「中国製」「国産」同じ鋳型か 卑弥呼の「神獣鏡」、傷ほぼ一致
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H2A_R01C15A1CC1000/ 清水さんは「複数箇所の一致は偶然ではありえない。
鏡を鋳造後、鋳型の文様面を削って新しい文様を彫り込んだが、ひびが深いため、
そのまま残り、同じ形のしわができた」とし、4枚の鋳型は同じと結論付けた。
ヤマト政権って卑弥呼が生きていたとされる時代には九州北部まで勢力域だったんですか?
>>134 大和は圏外です
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、
朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
弥生時代の鉄器出土量分布 ≒ 経済交易のあった領域
基本的に先ず庄内期の舶来鏡は北部九州から多く出土し、
畿内の舶来鏡は西晋時代のものから多く出土するようになるからだよ。
畿内が大陸との交流を始めるのは古墳時代から。
三角縁神獣鏡の舶来鏡があったとして、
ソレは北部九州に集中しているのは
間違いない事が予測できる事だな。
>>134 そうだね
飛び石状態の勢力範囲を広げていった感じで、3世紀前半から中頃までだと
九州では玄界灘沿岸地域のみが初期ヤマト政権の勢力範囲
ちなみにこれは邪馬台国どうこう関係なく、純粋に日本史の話
>>136みたいなデタラメを言ってる考古学者はいない
東北といえば紫波町というのが岩手県にあるけど、福岡県朝倉市にも志波地区というのがある。
ここにあるまでら山は、斉明天皇が朝倉宮を造営した際に鬼が出た山だとされる。面白いのは、江戸時代黒田家が福岡筑前の領主となったとき、家臣の栗山大善がその志波地区に居を構えたが、その後の黒田騒動で盛岡藩預かりになってその地で死ぬんだが、盛岡藩で滞在したのも紫波町だったらしい。
福岡の志波から岩手県の紫波へ。何の偶然か。
>>137 続いて質問させてください
邪馬台の元々の読みがヤマトだとしたら、卑弥呼っていうのはヤマト政権から派遣された高貴な女性という可能性はあり得ますでしょうか?
>>143 可能性としてはあるんじゃないの?
魏志倭人伝との整合性が微妙だけど
■奈良 纏向遺跡について
『また多くの遺跡は同じ場所に弥生時代のものと古墳時代のものが見つかることが多いので、
纒向遺跡で3世紀の遺物が出土したからといって、箸墓古墳自体が3世紀のものとは断定できないことに注意する必要がある。
石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。
ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。』
『しかし3世紀前半の遺構は多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
2011年に大型建物跡の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降の可能性がある。』
■同じく纏向センターより
『 辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纒向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳しょくじがあります。
銅鐸の飾耳は突線鈕式とっせんちゅうしき銅鐸の破片ですが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
特殊埴輪は都月とつき型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものです。』
「纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく」
魏志倭人伝を読み解くポイントは旅程の日数。
奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国の順に進むのだが、不弥国→投馬国へは水行二十日、投馬国→邪馬台国へは水行十日陸行一月とある。
つまり、不弥国から邪馬台国への道のりは九州に収まらないのである。
奴国が博多だという事は異論が無いだろう、不弥国は宇美町と読める、投馬国は鞆つまり、瀬戸内海の鞆の浦だ。
そして邪馬台国は大和だ。
距離的には畿内へ到達する距離だ。
卑弥呼の次のトヨの時代になったかソビエト原始時代共同生活邑村むら屯ムラが
>>146 大和は別種でした残念w
旧唐書では、倭国と日本国(ヤマト)が別記されている。
■倭国条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれと言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言葉である。
■参考
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭種(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている
■結論
この時点で倭国と日本国は別政権でした
やはり日本が統一政権となったのは8世紀という事で間違いない
>>144 ありがとうございます。
邪馬台国=ヤマト政権
卑弥呼=媛皇女
と妄想しておりました
このスレは伸びない
邪馬台国を解き明かした俺が断言する
<旧唐書 日本伝>
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。
■「別種」という表現の使用事例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。
■結論
・畿内ヤマトと倭国(北部九州)は別の国だった
卑弥呼の時代に入った2世紀末には大飢饉が派生し、多くの倭人が半島に避難したとのこと。
九州で出土する畿内式の土器は、畿内から多くの避難民が移住してきたという証拠でしょう。
<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。
<当時の気候>
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。』
もう九州と畿内以外の県のいたるところでその二つ以上に有力な痕跡を残す場所がゴロゴロ出だしてワケワカメ状態なのが今の段階
間違っても多数決みたいな政治力で何処が邪馬台国か決める!みたいなことがあってはならない(畿内派はすぐにそれをやりたがって工作を働く。鹿男あをによしとかいうドラマで国民を印象操作しようとしたときは呆れた)
そう言えば、戦国時代でも、
大友氏が柳川まで支配していただろう?
大体、北部九州に勢力を張るとなると、
あんな感じになるんだよ。
邪馬台温泉郷に納得!
邪馬台国の頃から実在する天皇までの300余年は空白が長すぎる。
少なからず国(村か?)としてまとまっていたならそれを継承するものがあるはず。
単に温泉に綺麗な温泉花魁がいて、それを聞きつけた当時の中国人が書き記したのが魏志倭人伝の一節なのではないのか?
神武天皇は卑弥呼を神格化し
邪馬台国をスーパーリスペクトして作ったのがヤマト王権
卑弥呼はアマテラス
投馬国出身の神武天皇が
邪馬台国で卑弥呼と接触出会って
その後の卑弥呼の死〜再び内乱を目の当たりにして
卑弥呼の意識を引き継ぎ、神武東征を始めた
箸墓に眠っている女性には箸によるキズアトが残っているかもしれないとか
投馬国は宮崎鹿児島か
鹿児島から南へ10日手漕ぎの船で実験したら邪馬台国の場所が分かりそう
室戸岬か潮岬か
10日なら潮岬かな
そこから歩いて1カ月
やっぱり奈良やろね
>>134 はい。勢力圏でした。
魏志倭人伝を注意深く読むと、倭国大乱で邪馬台が負け、
和議条件として覇権放棄を飲み、その証としての女王即位と分かります。
(※逆に言えば、漢の時代の覇権国は邪馬台だったと分かります。)
そして、大倭が邪馬台の港・朝貢を一切仕切っています。
大倭が何者か書かれていませんが、その後の歴史を考えれば
大倭とは奈良のことですね。奈良が邪馬台を下したことが分かります。
当時の奈良は外来系の土器が多数
卑弥呼による奈良征伐でヤマト政権が始まるのかな
記紀神話にも反映されているなら、魏の使者が大阪湾側から奈良入りするのは危険だったのかもね
というか1ヶ月とか歩きますかね?
途中で宿でもないと歩かないような気がして
港づたいならまだわかる気もしますが
で 帰り道も1ヶ月とか
>>143 邪馬台の覇権放棄=剣を持つ王(男王)の禁止、その証として
女王卑彌呼が即位。この時、権威と権力の分離が起きた訳です。
世俗を離れ、権威が神聖化されていくことになる。
4世紀に奈良(大倭)が邪馬台を滅ぼし、その名を継ぎますが、
逆に言うと、邪馬台の権威を継ぐしか選択肢がなかったということ。
後世、伝説の女王卑弥呼を天照に昇華させ、天皇の祖先神と
位置づけ祭り上げることになるわけです。
逆に言うと、これまた、それ以外に選択肢が無かったということ。
当時の倭国は北部九州→日本海沿岸→瀬戸内海→近畿→中部・関東にまたがる東西に延びる帯状の国
地続きでも九州中南部の熊襲、東北の蝦夷は対抗する別の国
地政学的にはこの二つの勢力から離れた場所に拠点を選ぶのが自然
>>162 仮にもし距離が盛られてるなら、当然にして戸数も日数も盛られてるだろうね
道なんて嘘ばかりなんだから分からないよ
自国の位置を知られたくないために嘘ばかりついてるし
そのうえ書いた人もまた聞きなんだから伝言ゲームだもん
親魏倭王が出ないと解決しない
・台与がトヨ、『豊』なんとかヒメを中国人が聞いて、台与の字をあてた。
であれば邪馬台国は、ヤ、マ、ト、コ、ク。
・日本中に前方後円墳が4万基ほどあって、最初の大規模前方後円墳である箸墓が、唯一5段築成。
その後の大王、天皇の墓は全て3段築成。築成の段数が被葬者の格を示す。
・安東大将軍倭国王であった倭の五王(讃・珍・済・興・武)の誰かが、
いわゆる仁徳天皇陵(大仙古墳)の主になる訳だが、日本最大の前方後円墳である大仙古墳ですら3段築成。
・箸墓に葬られたのは、安東大将軍倭国王(倭国の王として東方をしっかり治めてくださいね)よりもさらに格上の、
親魏倭王(中華である魏国のマブタチだぜ!)以外にはいない。
・よって箸墓は100%、卑弥呼の墓。
・箸墓の後円部は、ピッタリ径100余歩に一致。
・行程記事の方位との関係は、松浦(末盧国)上陸後、見事なまでに90度ズレている。
倭人伝の南は、東。倭人伝の東は北。それで全てのつじつまが合う。
北九州から南に行っても、大人口の遺跡などない。何もないところに邪馬台国も、投馬国も、狗奴国もない。
>>164 女王国の東に海を渡るとまた倭人がいるんだから
そんだけ巨大な範囲を治めてたなら魏志倭人伝の邪馬台国とは別の勢力なのは間違いなし
そいつら海を渡った先にいる倭人なんじゃね
畿内説の人は
魏志倭人伝の記述、帯方郡から邪馬台国まで1万2000里
帯方郡から狗邪韓国までが7000里、狗邪韓国から対馬までが1000里
対馬から壱岐までが1000里、ここまでが1万2000里のうち9000里の行程で
壱岐までは島ということもあって、畿内説の人でも否定がしようがない
残り3000里で邪馬台国に到着しなければいけない計算になる
多く見積もっても1里80mなので、直線距離でさえ240Kmで邪馬台国に到着しなければいけない位置関係なのに、
畿内説唱えている人は、こんな単純な計算もできないのかよ?
壱岐から240Kmって四国でいえば佐田岬までしかいけない距離なんだぞ
これでなんで畿内説が出てくるのか不思議で仕方ない
陸路は実際には直線距離で至ることはないのだから、道なりに計算すると
福岡県とか大分県とか熊本県あたりに邪馬台国が存在していたことは、推測つくだろうに
なんで大和の地、畿内に邪馬台国があったなんて無理やりな屁理屈をこねているんだろ?
北九州は畿内なんかよりも大陸からの輸入品が入ってきていることは発掘調査で判明しているし、
紀元前2世紀の遺跡から鉄器だって出土しているんだぞ
畿内はそれよりも500年も後からしか出土していないんだろ?
しかも畿内説のよりどころになっている纏向遺跡からでてきた鏡は
粗製模造品で魏では使われていない年号が彫られている国内でつくられた偽物だと判明している
魏と貿易していた国が粗製模造品をわざわざ作ったりしないだろ?
邪馬台国なら魏から直接鏡を輸入していたはずだろ?
畿内説ってのは、そういう矛盾にあえて目をつぶって声だけでかいバカしかいない
魏志倭人伝の邪馬台国までの道のり、距離の表記からと
古くから古代中国と貿易していた北九州に倭国の代表として魏から認識されていた邪馬台国があった、なんて簡単に推測できることじゃないか?
YouTubeで書道家の人が邪馬台国論争に見解を述べている動画があって、面白かった
当時は楷書や行書がなくて草書だった
そうすると壹と臺はしっかり書き分けないと判別できないくらい似ているんだそうだ
その人の見解では邪馬壹国は邪馬臺国
「邪馬臺国はヤマダ国で、福岡県朝倉市の山田だ」としたのはやり過ぎかなと思ったけどw
投と殺もそっくり
「投馬国は殺馬国で薩摩国」というのは納得した
>>163 北部九州にあった邪馬台が奈良に遷都したと考えた方が
当時の圧倒的な文化レベル差を考えると自然
東征神話とも合致する
伊豆あたりまで女王国だったかもな
当時の奈良から東海の土器が多数
ヤマト政権は東海政権と言ってもいいくらい
伊豆の次は船で房総半島まですぐ
>>160 倭国大乱て2世紀後半の武力闘争だよね
その時代の近畿地方鉄器の出土数の少なさは一体どうお考えで
まさか係争地にほとんど持って行って本拠地には僅かな鉄器しかなかったとか言い出さないよね
>>168 そこに当時の列島覇権国が隠れている。
完全に隠れているかと思いきや、違った。
邪馬台の港を「大倭」を「使って」管理してるとある。
はあ? 大倭って奈良のことでしょ?!
表向き、魏には邪馬台が倭国盟主と説明してるから、
大倭が邪馬台の配下か何かの様な言いぶりだ。
大倭の正体は何処にも書かれていない。
団塊老人による「僕の考えた最強の邪馬台国大会」まだやってんのかw
>>172 北九州に上陸した渡来人の一団が、大和盆地に入った。
それが神武東征神話のモチーフになっている。
だがそれはものすごく昔のことで、卑弥呼の時代はもっと後。
記紀で言えば第10代崇神天皇の大叔母であるモモソヒメが、卑弥呼。
>>177 畿内説唱えているのが
ほんの一人か二人のキチガイしか残っていないからね
まともな知能を持っている人は
すでに自分の間違いに気づいてしまって
邪馬台国スレは見て、見ないふりしているからw
>>177 某スレで佐賀人のヤバさが知れ渡ってしまったから
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、【櫛】八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
畿内討伐の話かもしれない
布都主、武甕槌は春日の神、東北の伝承の赤神?
古墳時代の埴輪、従軍する巫女の一群の埴輪も見つかっている
鏡を掲げたり頭に【櫛】をさしたり
纒向遺跡から分かるように
九州からの東征は無くて、
東海勢の西征、吉備の東征の挟み撃ちで奈良は陥落しヤマト政権が始まったのかもしれないね
>>177 大量コピペして自説を垂れ流す奴が何人もいてなぁ
あんなのただの掲示板荒らしだわ
他の人とコミュニケーションを取ろうとしないんだもん
倭国大乱の痕跡は九州にある
鏃が刺さったままのものや首の無い遺体が墓から出てくる
>>174 鉄はあったでしょ。
邪馬台が半島倭人と鉄輸入を独占する中、
出雲は、新羅(地域)と、奈良は、百済(地域)と
特別な関係を築いて台頭した訳で、決め手は鉄輸入だわな。
現に出雲には鉄があった。
倭国大乱では、奈良が出雲を滅ぼしたか出雲と連合を組んで
邪馬台を万事休すに追い込んでいるわけで、
奈良が鉄を使えなかったと考えることは不可能。
土の中見てる考古学は、後から付いてくるもの。
>>168 鳥羽あたりから船に乗り、渥美半島経由で浜松あたりを目指して船で移動した先(東海地方)が、狗奴国。
狗奴国の卑弥弓呼の墓は、3C東国で最大の前方後方墳である、沼津市の高尾山古墳。
>>185 狗奴国は邪馬台国の南に位置する隣国と
書かれているのに
海を渡って東にあるのかよ?
魏志倭人伝から始まっている論争なのに
魏志倭人伝を無視しているじゃねーかよw
畿内説唱えているバカって、どうして
こうも自分の脳内で勝手な物語を作り上げちゃっているの?
とりあえず妄想じゃなくて、魏志倭人伝を読むことから始めろよ
>>179 またそういう嘘を言う。
学会ではほとんど100%畿内説。
アマチュア九州説論者が本を出して、食い扶持を稼ぐため、
5chのスレに九州説を大量投下して荒らしまくっているだけのこと。
神産巣日の子で有名所はスクナヒコナ
蛾の服を着ていたとか鳥の服を着ていたと言われる神さん
ス【クナヒコ】ナ
狗奴国と似ている
スクナヒコナが去って三輪山に大物主が現れる
三輪山の麓に卑弥呼の時代と被る纒向遺跡がある
>>178 勿論、古い記憶は残っているかもしれないが、
神武東遷以前を「神代」、東遷以降を「人代」に分けている。
つまり、西の政権は滅ぼされ、その権威を東が継いだということ。
実際、東遷神話に大陸の話のパロディーがある。三本足の烏とか。
4世紀の権威簒奪を正統に見せる為の作話と考えるべき。
>>170 この長文って、嘘がいくつ含まれてるか当てるクイズ?
>>190 なんだ、それw
魏では太陽が昇る方角が南で
太陽が沈む方角が北と認識されていたのかよ?wwww
>>151 それ九州(倭国)と近畿(大和)は人種が違う
今も平均身長が違う
卑弥呼の時代
奈良は陥落したがまだ河内側の狗奴国は生き残っていたのかもな
巫女は軍を率いる
巫女、女王が前線基地の奈良に君臨していたと考えられるかもな
巫女が軍を率いるのは殷の風習
卜占は殷の風習だが、魏志倭人伝の記述にも登場する
纒向遺跡にも卜占の跡が残っている
>>193 ・世界は四角く、その真ん中辺は全て中原。その周囲にはしょぼい額縁のような海しかない。
その世界観に、太平洋上に東から北に延びる巨大列島は整合しなかった。
・倭国が北から南に続く巨大列島である方が、魏国の敵である呉へのけん制として好都合だった。
・これにより、倭人伝の方位は90度ズレている。
>>197 こんな荒唐無稽な妄想を元にしないと
成立しないのが畿内説だということが
よくわかる書き込みでした
ご苦労様
>>198 九州説?論者は、負け惜しみしか言えないと。
はい論破。
>>190 こんな事を言っているやつが九州説はアマチュアとか馬鹿にしているんだものな
これと同じような事を考古学者が言っていたりするから考古学会も意外とレベルが低いと思ったわ
>>167 >・行程記事の方位との関係は、松浦(末盧国)上陸後、見事なまでに90度ズレている。
いや、90度ズレているのは見事じゃなくて無様と言うんだよ
だって、「今まで南だと思っていた方角から朝日が上りました」なんてマヌケじゃないか
>>199 どこが負け惜しみなんだよ?w
お前の妄想が勝っていると思っているのかよ?w
恐ろしいほどの馬鹿だよな、畿内説論者ってwww
出雲国造神賀詞によると
オオナムチの和魂がついた【八咫の鏡】の名前が大物主【櫛】みかたまの命
元は三輪山にあったが今は伊勢にある
>>184 現実問題として近畿では鉄器類が少量しか発掘されていないんだから
貴方の言っている事こそ完全なる妄想の極みでしょ
現物と文献の擦り合わせが大事なのにそこには触れないんだね
>>9 宇佐神宮は八幡神社の本家でそ?
八幡って「ハチマン」ではなく「やわた」読みすると
「やまと」に発音が似てるのが気になってた。
個人的に。
あと「うさ」も「すさ」のお に似てる感じ。
>>193 朝鮮でも東を南と誤認することはしばしばある
魏史倭人伝は朝鮮からの聞き取り、もしくは朝鮮の文献の引き写しという説もある
いずれにしても90度転回は珍しいことではなく、いまさら方角問題に引っ掛かるのは初心者さんですね
>>206 じゃあ、方角を90度間違ってしまっている
文献のソースを出してもらおうか?
どうせ逃げるだろうけどなw
>>206 あの日本列島が90度回転している地図も朝鮮王朝が作らせたものなんだよな
あれは見るからに朝鮮半島を大きく描きすぎて日本列島を書くスペースがなくなったからねじ曲げた感じだがw
九州説論者と言うのは、この問題を良く知らない一般人を騙し、
行程記事をひねくり回して、何もない九州のド田舎の山の中を
「ここが邪馬台国だーーーーーーーーー!!!!」
と言うのがお仕事の人々。
そんな、何もない山の中に、邪馬台国は存在し得ない。
投馬国も、邪馬台国も、狗奴国も、全てはその後の古墳時代の大人口地帯。
投馬国=出雲または吉備
邪馬台国=近畿
狗奴国=東海
身もふたもなく何のロマンもないが、これ以外の事実はない。
日本武尊、聖徳太子、楠木正成、豊臣秀吉と日本最強クラスの英雄を輩出した大阪でいいよ
世界最大の古墳も大阪にあるし
大阪都構想で何千年ぶりに大阪が首都に返り咲くよ
世界中どの国も首都が嫌われるのに日本だけ東京でなく大阪が嫌われるのは
日本人の深層心理に大阪が首都だと認めている証拠らしい
>>210 行程記事をひねくりまわしているのは
どう見ても畿内説の方だろwwww
南を東に変えてみたり
帯方郡から邪馬台国までの距離
1万2000里を無視してしまったり
>>185 東海は纒向の主勢力のひとつ
よって纒向は狗奴国の遺跡という結論に
>>120 すげー長文ご苦労様。書いてある事の内容については何も言うことないわ。知識もないし。
でもまぁ何故か宮内庁だかが管理してる皇室の墓が目達原にあったりするし、あの辺りは古代からなんかあったんやろな。
発掘とかしたんやろかあれ。
日本人「邪馬台国は九州北部だー奈良だー」
外人「オウ邪馬台国は古代日本の首都ねーなのに世界最大の古墳が大阪にあるオカシイねー」
魏志倭人伝なんて魏略をベースにいろいろな情報寄せ集めたものだからせいぜい参考文献にしかならない
なんとでも解釈できるから宮崎康平みたく自分の故郷を邪馬台国に比定するのも可能w
>>215 巨大古墳は一応は天皇のものになっているが
邪馬壹国や卑弥呼は巨大古墳を持っていなかっただろうな
呉に圧力をかける同盟国を求めている魏国の外交官が、北九州に上陸し、
当時九州より人口が多かった本州を、縄文時代から全国的な交易ネットワークがあって、
当然のごとくその存在が知られていた本州を全く無視して、何もない南九州を目指して南下し、
そこらの草深い山の中の女酋長に「親魏倭王」の位を与える。倭国の大人口地帯であった本州を全く無視して。
100%、あり得ない。
投馬国も、邪馬台国も、狗奴国も、全て本州。
倭人伝の行程記事の方位は90度ズレており、南は東。
そして奈良盆地の纏向には、5段築成の箸墓古墳があり、それは全ての前方後円墳の始祖であり、
後円部の直径はピッタリ「径百余歩」。その近くには都市計画に基づいて作られた宮殿跡まである。
よって邪馬台国=畿内(纏向)。
投馬国はその途中の、出雲または吉備。
狗奴国は近畿から先の東海地方。
>呉に圧力をかける同盟国を求めている魏国の外交官
一行目最初から妄想飛ばしてんだもの
どうしてそんな風に思い込んじゃったの?
>>218 このように南を東に変えないと
論理が破綻するのが畿内説w
このように帯方郡から邪馬台国までの
総距離1万2000里のうち
壱岐までに9000里使っていて
壱岐から邪馬台国までの距離が
残り3000里しかないことも無視しないと
破綻してしまうのが畿内説w
>>218 南は東だとして、海を東に渡った先も倭人の国だとされる土地はどこなの?
>>219 行程記事をひねくり回して、やれ邪馬台国は九州のA地点だ、
九州のB地点だ、今度はC地点だ、いやいやD地点ですよ、
おっと新発見、九州のE地点でしたーーーーーーーーーー!!!!
などと素人を騙して、ゴミのような本を売る。
そんな何もない場所に、邪馬台国はない。10秒考えれば分かる。
投馬国も、邪馬台国も、狗奴国も、その後の古墳時代で重要なクニだった。
当たり前だ。大勢の人間がずっと住み続けているんだから。
何度でも説教してやる。
邪馬台国は、九州の片田舎の、何もない草深い山の中にはない。
そんなところには存在しえない!投馬国も、狗奴国も同様。
>>204 上に書いたけど、魏志倭人伝に大倭が出て来てんだからw
現物と言うが、関西全域の地中をどれだけ正確に調査したと言うんかw
馬鹿げた議論だ。
鉄がまだ貴重品であれば、高度な軍事物資として厳正な管理をしていただろう。
鉄が何処でも出る訳がない。
>>221 それ忘れていたw
南を東に90度回転させてしまうと
海を東に渡った倭人の国って
畿内の北にある畿内と海で隔てられた
場所になるよなw
全然思いつかねえw
>>220 そうやって、
「これこそが行程記事の新解釈ーーーーー!!!」
「はーーーーーい!!!!」
「邪馬台国はーーーーーーーー!!!!!」
「九州の(今は何もない山の中ですけど)X地点でしたーーーーー!!!!」
「畿内説論者は権威主義!」
「権威主義!」「権威主義!」「権威主義!」「権威主義!」「権威主義!」「権威主義!」
「権威主義!」「権威主義!」「権威主義!」「権威主義!」「権威主義!」「権威主義!」
畿内説論者の言うことを、信じたらいけませーーーーーーーーーーーーーーーん!!!
だから、(ゴミのような)俺の本買って!
本買って!本買って!本買って!本買って!本買って!本買って!本買って!
生活が苦しいんだよーーー!!!!!
こういうのが、九州説論者の正体。
いや〜畿内説の人は降参しろよ
どう見ても、無理ありすぎだろw
畿内説wwww
日本の考古学会は邪馬台国と卑弥呼にこだわりすぎなうえ
相も変わらず検証がおざなり
ゴッドハンド事件の反省なんかとっくに忘れている
>>225 新解釈もなにも
壱岐までの行程は
畿内説の人でもそれ以外取りようがないだろ?
馬鹿なのか?
いや、もちろんお前は馬鹿だろうけどさwww
>>226 降参どころか、学会では既に死んで、骨すら残ってないじゃないか、九州説。
こうやって5chでデマを振り撒いて、素人相手にインチキ本を売る。
アンタらはもう、30年以上こんなインチキ商売をやってるだろ。
>>230 学会、学会って連呼しているけどさ
魏志倭人伝に書かれている行程の
壱岐までの行程って
畿内説では違うの?
教えてよ、そこの知恵遅れっぽい人w
>
>>281 >当然のごとくその存在が知られていた本州を全く無視して、
倭人伝記載で
「今使譯所通三十國」
「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」
とある
つまり魏は女王國東の海を渡った地に倭種の國がある事は把握していたが
朝貢してくる三十ケ國以外は相手にしていないと考えたほうが自然
そこに国力や人口の多さなど一切関係ない
>倭人伝の行程記事の方位は90度ズレており、南は東。
君の言葉を借りるとすると100%、あり得ない。
>>233 はいはい。
学問に見せかけて素人を騙す、インチキ本のセールス、ご苦労さん。
「もし九州説なんだったら、卑弥呼の墓は九州の古墳のどれなんだよ?」
と言う質問に、
やれ平原1号墓だの、祇園山だのとしか言えない時点で、
最初から詰んでるんだよ、九州説は。もうね、九州説なんて、最初からあり得ないんだって。
三角縁神獣鏡について疑問に思うのは、この図像について何が
どのように描かれていて、美術史的にどういう意味があるのかを
解説している文章を殆ど見ないことだが。
これが不思議でしょうがない。
>>235 九州説は所詮「ぼくがかんがえたさいきょうのやまたいこく」だからな
そもそも邪馬台国論争自体まともに学問やった奴は恥ずかしくてやらないw
>>235 それが?
でいつ箸墓が卑弥呼の墓って決定したんだよ
それより南を東に強引に捻じ曲げる納得いく根拠を教えてくれよ
何が100%あり得ないだよ
アホくさ
宗主国と属国のヒエラルキーが魏と倭国の二層だけと思うからわからなくなるんだよ
韓だって馬韓と辰韓に上下関係がある
倭人の地も、魏→倭国(九州)→吉備・出雲→畿内、のように重層的だったんだろう
宗主国のあり方も、贈答品をやり取りするだけのものから、魏のように政治顧問を派遣する、執政者として王を派遣する、とか変化していくのだろう
前方後円墳が吉備と出雲の特徴を持ち、筑紫の副葬品を伴うこともこれで解釈しやすくなるんじゃないか
また君臨する者が入植するとは限らない
植民地にするにしてもまず属国化するだろう
そのために巨大古墳で威嚇し、威信材を大量に配った
本州経営に力を入れはじめたところがあたかも大和が倭国の中心のような錯覚を覚えさせている
こんなところかな
こっちの方が、九州で畿内の土器が出るから九州は畿内の配下にあったとかトンマなこと言うよりよっぽど学術的だろ?w
学会でやっているのは、学問では無い。
"学問の様なもの"を用いて政治をやっているのである。
残念ながら、"学問の様なもの"は、学問とは相いれない代物。
さっきも書いたけど
仮にもし距離を盛ってるなら戸数だって日付だって盛ってるだろうね
里数だけ増やして日数は増やしてないわけがない
日本の古代には、九州と畿内の二つの中心があったということ。
>>171 うん、やり過ぎだ。
ヤマダじゃなくてヤマドだ。
当用漢字や常用漢字では臺を台に置き換えてるが
臺は濁音字、台は清音字
天台宗の台を臺に置き換えることはない。
台の前に「天」と鼻音終わりの漢字があるので濁音化して読んでいる。
>>220 3000里というのは現在云う所の緯度だわな
東西方向の実際の距離を表わしてる訳ではない
>>205 「やわた」は古代の「ヤパタ」の発音が「ヤファタ」と変わり
平安時代に起きたハ行転呼という現象で「やわた」となった。
「はためく」という動詞はもちろん「旗、幡」の訓読みから派生した。
「パタパタ」というオノマトペも「はた」からの派生。
オノマトペは概して奈良時代以前の古い発音、極論すれば
卑弥呼の時代の発音を残している。
>>134 前方後円墳の広がりを見るとそうなる
つまり倭国大乱は九州北部から瀬戸内周辺、近畿東海北陸あたりの戦乱でその後卑弥呼をたてこのあたりの地域で連合国が誕生、大和政権へというのが濃厚かと
中国の文献に書いてる事を元にあーだこーだ議論して本当に頭と時間の無駄遣いだな
くだらねー
中国様がそんなに権威なのかよ
なんでそんなに必死やねん
どっちでもえーわ
騒いでるのは九州民なだけやろ
奈良民は全く興味なし
前方後円墳の原型となる纒向型前方後円墳の提唱者である寺沢氏は、初期ヤマト王権の権力母体を西日本各地の部族的国家連合による連合政権と考えている
おそらく九州勢力もヤマト王権でそれなりに力を持っていて記紀で九州が重要視されたのであろう
卑弥呼の時代ではすでに前方後円墳が九州から関東まで広がっており、東国支配のために畿内に連合国の首都を作ったのでは
>>250 記述内容が不完全で突っ込みどころ満載だから
いくらでも妄想を膨らませることができる。
九州説は妄想そのもの
>>252 纏向で見つかった奈良以外の土器が
奈良邪馬台聯合の一端を表わしている
>>230 邪馬台国はどこ?1000人にアンケートの結果
結局、ここでも少数の畿内説言ってる奴は、IDをコロコロやって複数いるように見せかけてるだけ
>>146 >奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国の順に進むのだが、不弥国→投馬国へは水行二十日、投馬国→邪馬台国へは水行十日陸行一月とある。
>つまり、不弥国から邪馬台国への道のりは九州に収まらないのである。
地理・地勢・地形を知らん奴が何をほざくか
山間内陸のドン詰まりの宇美から南に水行二十日という行程は絶無だ。畿内説は改ざんねつ造の常習犯、無知な悪党の巣窟。
学会だー、学会だー、
学説だー、学説だー、は 詐欺中毒の人。
最近、佐賀スレは大賑わい。畿内説も佐賀に関心が向いてきたのかな。
>>245 中心になり損ねた出雲も忘れないでいて上げて下さいw
@邪馬台ー任那地域(倭人地域=弥生人)
A出雲ー新羅地域
B奈良ー百済地域
最初@邪馬台の連合が交易を独占、鉄輸入を独占してた。
其の内、A出雲とB奈良の各連合が出来て国力伸ばす。
邪馬台はジリ貧。
最終的に百濟と組んだ奈良が勝利する。
邪馬台国・佐賀ルート(其の1)
東南陸行五百里 到伊都国 (伊藤雅文 邪馬台国の会、全国邪馬連事務局)
>一般的に末盧国と比定されている唐津市周辺から見て、伊都国であろうと思われる糸島市は東〜北東の方角になる。
>王墓と考えられる墳丘墓をはじめ考古資料は圧倒的に伊都国=糸島市説を示しているのであるが、
>あくまでも「東南」にこだわり、多久市、小城市(及び佐賀市)方面に伊都国を求める方々も多く、
>この辺りから国々の比定地が大きく異なってくる原因となっている。
新井白石以来、畿内説・九州説を問わず、「伊都国は糸島」を信仰する学者・知識人ばかりであったといってよいのではないか。
しかし、邪馬台国の会の伊藤氏も述べているように、近年は、
「東南陸行500里」を原文通りに読んで、多久市・小城市・佐賀市(伊都国)・吉野ケ里(不彌国)経由の邪馬台国ルートを重視する人たちが増えている。
>>262 出雲はやる気出せば、奈良ー百済の通商を妨害出来たはずなんだが何ぼーっとしてたんだ?
>>262 奈良が勝利したわけじゃなく、神武東征で奈良が九州傘下に入って統一されただけだろうな
神武天皇が邪馬台国をスーパーリスペクトして作ったのがヤマト王権
名前が似てるのはそのせい
そもそも魏志倭人伝では「邪馬壹国」
これは意図的に陳寿が書き記したモノだが
その後は倭人の話から訂正されている
>>268 そうだよ
だからユダヤの神ヤハウェをまつった神社なんだよ
秦氏が滞在していた弓月国には「雅馬図(ヤマト)」という地名が
あったし今もある
>>264 最近、因幡でみつかった集団埋葬、遺伝子が渡来人だったって報道
あったろ? 「因幡のしらうさぎ」 だ。
白兎(しらうさぎ)=しら(シッラ/新羅)兎=逃げ足早い新羅人
(或いは、しら(うさ)ぎw)
一列に並んだワニ=半島南部・対馬・壱岐・邪馬台のワニン(倭人)
出雲が、邪馬台から見て出雲の裏手にあたる因幡に新羅人を囲い、
邪馬台の管理するワニン交易ルートで密貿易させた史実だわ。
時々バレてワニンからシッラ人が身包み剥がされたというお話。
その因幡を奈良から直接攻撃され、新羅人が皆殺しにされたと思う。
邪馬台から新羅人の本拠地を守れたが、奈良に対して無防備だった。
こうして密貿易を破壊されて、出雲の発展は頓挫していったと推測。
>>267 >そもそも魏志倭人伝では「邪馬壹国」
そもそもそれが無知・生半可素人の代表例
陳寿の原本及び初期の写本は「邪馬臺国」であり、
12世紀の紹熈写本で意図的に書き換えられて「邪馬壹国」となり、現代にはこの系統の写本のみが伝わっているのだ。
>>18 要するに邪馬台国は奈良の大倭の息がかかった九州の一国ってことだね
佐賀、佐賀、佐賀
さあ、賑わってまいりましたよ〜〜〜
>>264 (
>>272つづき)
奈良が如何いうルートで百済と交易したのかは知らん。
或いは、高千穂と組んで、九州南回りのルートでも開拓した???
>>5 卑弥呼が使者を送ったのが魏の国、三国志の時代だからな
孔明の罠とか、げえ関羽とかすげえことやってたときに、
日本ときたら占いで政治したりウホウホやってたんだもんな
>>274 邪馬台は、倭国大乱で負け奈良の軍門に下り、
朝貢に行かされるという屈辱を味わっていたわけ。
卑彌呼の死後、覇権復興を目指して男王が立つも、
また敗れて、女王即位。もう二度と覇権は戻らなかった。
投馬国まで船で20日、そこからまた船で10日進むと邪馬台国に到達
こう考えると九州から関西までいくとした場合に日数的にほぼ整合してる気がする
当時の船のスピードがわからないけど、関西までだいたい1ヶ月ぐらいでしょ
まだやってるーN
大分は多分、卑弥呼の後継者とよの国だと思うよ
なぜとよが後継に選ばれたか、そこが焦点だよね
高千穂峡天の岩戸がヒントだったりしてロマンあるよね
中国人の間違った伝聞、伝承だらけの魏志倭人伝をまともに信じてても、邪馬台国の場所なんてわからないよ。
もう、どっちにもあったってことでいいんじゃまいか
ねぶたとねぷたみたいによ
>>282 地政学で考えれば一発。
日田→筑紫平野を支配→博多港をゲット
朝貢と鉄を握り、列島の覇権を握る(cf. 海幸彦・山幸彦の神話)
港を手に入れた後は、大宰府が事実上の首都だったろう。
>>146 帯方郡から伊都国、奴国で12000里だから女王国に既に到着済
連続して読まずに帯方郡から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一日で邪馬壹国なんだ。
>>218 うまいこと上陸地をゴマ化して内政を
見せないのも卑弥呼の技とか考えたりも
面白いよ、例えば長崎に上陸して酒漬けして
女漬けしてそして諫早湾グルグル回ってとか
>>284 証拠が一切ない妄想でしか語りようがないと言う。
>>238 そう、だから畿内説も恥ずかしいんですよ
>>288 あちこち土をほじくってたって、答えは出ないよw
シュリーマンがトロイを掘り当てたのだって、
仮説を立てて狙いを定めて掘った結果だ。
邪馬台の場所に導いてくれるのは、地政学と神話だ。
>>263 呼子付近から伊都国の在ったと考えられる糸島市南東部までは40kmくらい
1里80mくらいと考えると丁度計算が合う
東松浦半島を南下し唐津市付近から東へとすると方角も納得出来る
末盧国への上陸地点を呼子付近と考えれば原文に適合する。
>>254 九州の土器とか出てないからな
関西など中日本の土器だけじゃんw
>>293 彼らは、未来に向かって、学会内の政治闘争するだけw
青森にキリストの墓があるとか、そういうレベルの話だ
歴史学者よ、過去にこだわるな、未来に向かって進め
>>244 里等の測量、計量単位は時代や国によって違うが
日数は時代や国によって違うなんてことはないよ。
魏誌倭人伝にこだわり過ぎることなく考えて見るのもよいかも
浦島は中からパッと白煙たちまち太郎はおじいさーん
まあ、ゆっくり別府の温泉浸かりながら考えるのも良いかも
>>285 >連続して読まずに帯方郡から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一日で邪馬壹国なんだ。
さよう、下記のように、ここは合計四つの文章が続けて書かれているので、その間に半呼吸入れて読む
(そして)南至投馬国 、
(帯方郡からは)水行二十日
(同様に)南至邪馬台国 女王之所都、
(帯方郡からは)水行十日と陸行一月
@ABCと考えれば魏志倭人伝に書かれて事に矛盾はない
@東夷伝の1里は80mくらい
A帯方郡から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一日で邪馬壹国
B投馬国は朝鮮半島南部地域、邪馬壹国は北部九州地域全体
C女王国とは伊都国、奴国
先に発掘場所を奈良と決めて、
跡から行程を捻じ曲げた結果が畿内説、前後改ざん、本末転倒、詐欺学会。
(歴史学者よ、過去の過ちを振り返るな、未来に向かってホラを吹け)
なぜ畿内で大量の銅鏡が見つかったのか?
古事記にはイザナミとイザナギで国作りしたがイザナギはなぜ外されて男系となったのか
やまと大権とはとか簡単に考えつくやろ
>>288 (
>>290補足)
それから、大和は、統一後なぜ大宰府と任那日本府を置いたか
という点を考えないといけない。
大和が邪馬台を滅ぼした後、その地の旧勢力の復活しないよう
邪馬台の中心地だった所に大宰府を置いて監視・統治したわけだ。
そう。大宰府が邪馬台後期の首都だと分かる。
一方、邪馬台を支えた交易相手の半島倭人勢力を監視・統治する
目的で任那日本府を置いたわけだ。
大宰府と任那日本府、2つで1セットだ。
当時の日本の玄関口を考えると、
伊都国は糸島怡土しかありえない。
従って、南東500里の起点は、
壱岐島で間違いないだろう。
わざわざ松浦まで行かなくても、
壱岐島から直接伊都国に行くのが自然だからな。
陳寿が起点を書き間違えたと考えたほうが良い。
>>305 大宰府とか7世紀以降の話を出して何がしたい?
邪馬台国のようスレが立つたびに、
思考停止した老人どもが、
同じことを、何十回も書き込んで、
アホなのか?
200年以上、研究されててわからんのだから、
お前らごときの思考停止した脳ミソで分かるはずないだろ。
お前らが死ぬまでに新事実なんか出て来ないよ。
>>312 心配するな、ここは耄碌ジイの溜り場カフェだ
>>278 中国だって黄巾党とか五斗米道とか、宗教と結び付いた政治はあった
漢王朝だって儒教国家だったし
だからこそ魏の建国は禅譲という形にこだわった
オレは天才なので俺の言うとおりにすればいい。
アホには1+1すら理解不能だろうしな。
分かる分からないは、
その人間がどのレベルの事が理解できる脳を持っているか、
の表明でしかないんだからな。
九州と奈良は対立する勢力だったことは間違いなさそう
九州から奈良へ同じ勢力が移動したなら過去のことは引き継ぐはず
奈良が九州を制圧して、その歴史を抹消したから
九州の王国の歴史は中国の文献からしかでてこない
しかし神社はそのまま移動している
九州糸島の古すぎて建立時期がわからない
太陽観察拠点としての神社がそのまま全国に広がったわけだ
そもそも当時の神社は農業に必須の太陽観測の科学施設だった
だから奈良でも自然に同じものがあるわけだ
奈良の邪馬台国説は蛙の骨と桃の種が決定的な証拠らしいw
奈良って、なんかショボくね?
邪馬台国・佐賀ルート(其の1)
東南陸行五百里 到伊都国 (伊藤雅文 邪馬台国の会、全国邪馬連事務局)
>一般的に末盧国と比定されている唐津市周辺から見て、伊都国であろうと思われる糸島市は東〜北東の方角になる。
>王墓と考えられる墳丘墓をはじめ考古資料は圧倒的に伊都国=糸島市説を示しているのであるが、
>あくまでも「東南」にこだわり、多久市、小城市(及び佐賀市)方面に伊都国を求める方々も多く、
>この辺りから国々の比定地が大きく異なってくる原因となっている。
新井白石以来、畿内説・九州説を問わず、「伊都国は糸島」を信仰する学者・知識人ばかりであったといってよいのではないか。
しかし最近は、、邪馬台国の会の伊藤氏も述べているように、
「東南陸行500里」を原文通りに読んで、多久市・小城市・佐賀市(伊都国)・吉野ケ里(不彌国)経由の邪馬台国ルートを重視する人たちが増えている。
この時代の心の拠り処は何ですか?
邪馬台国〜2から3世紀(西暦150年前後)
儒教(孔子)〜紀元前500年前後
道教(老子)〜紀元前6世紀(紀元前550年前後)
(荘子)〜紀元前300年前後
仏教(釈迦)〜紀元前5世紀(紀元前450年前後)
墨家(墨子)〜紀元前400年前後
そういえば大分県には今でも秦さん多いね
なげだか被差別部落に多いんだけど
農業に必須の太陽観察拠点としての初期の神社が糸島にあるが
そこで確立した技術を生かすとならば、
平野の広い佐賀が当たりに移るわけで
吉野ヶ里遺跡のような大規模な農業集落が佐賀にあるのは
きわめて自然で
さらにそこを支配した権力が日本最大の権力になることも自然
九州王国の存在は中国分権にあるように自明
日本の権力は奈良発祥ではない
記録が途切れているのは奈良は継承された権力ではない証拠
邪馬台国スレでは、考古学の検証よりも、
人間の脳の検証が重要になって来る。
帯方郡から狗耶韓国まで7000里は単里しかありえないのに、
帯方郡から邪馬台国まで12000里は長里で大和なんや!
とか言う人間は、
脳が逝かれているから以外考えられないからな。
畿内説はガイキチの巣窟、
ヤツラにとっては、邪馬台国の何も分かりはしないだろう。
>>299 >(そして)南至投馬国 、
>(帯方郡からは)水行二十日
>(同様に)南至邪馬台国 女王之所都、
>(帯方郡からは)水行十日と陸行一月
日の行程も里の行程と同様に帯方郡か連続して読むべきです
途中で切る事はありません。
>>299 >(そして)南至投馬国 、
>(帯方郡からは)水行二十日
>(同様に)南至邪馬台国 女王之所都、
>(帯方郡からは)水行十日と陸行一月
日の行程も里の行程と同様に帯方郡から連続して読むべきです
途中で切る事はありません。
天孫降臨と東征は相反する行動の概念だよな
東征したいと思うほど生意気な勢力があったんだろか
だいたい奈良が朝鮮語のナラ(国)と同音な時点で出自は明らかだろ
これを日本の国文学とかではかなり苦しいこじつけで否定してるみたいがw
下記のように、最終行程は合計四つの文章が続けて書かれているので、その間に半呼吸入れて読むと良い
(そして・・・) 南至投馬国 、
(帯方郡からは) 水行二十日
(同様にして、) 南至邪馬台国 女王之所都、
(帯方郡からは) 水行十日と陸行一月
>>317 奈良じゃ無いよ、安来だよ
出雲に百済からすさのうの親父がきて
すさのうが暴れて卑弥呼が喜び弟としたが
どうも違って卑弥呼が没して国が荒れて
慌てて豊を後継者にして国作りしたけど
関東がおまえ話がちがうんでないのか?
となってすさのうと戦になってすさのうが
負けてとかいろいろあるんでないの?
三つ巴
>>327 だから唐と新羅に媚びた平城京を作ったから当たり前
(修正)
下記のように、最終行程は合計四つの文章が(省略を含めて)続けて書かれているので、その間に半呼吸入れて読む必要がある
(不彌国からは) 南至投馬国 、
(帯方郡からは) 水行二十日
(同様にして、) 南至邪馬台国 女王之所都、
(帯方郡からは) 水行十日と陸行一月
帯方郡から倭国まで水行なら十日、陸行なら一月かかります
近畿は古墳内部から須恵器が出てくるから
発掘調査させないんだよな
悉く朝鮮由来の産物が出てくるしな
>>329 神社で見てみよう
稲作が大陸から来たのは確かで
その先端は九州で間違いないだろう
そこに太陽観察拠点としての初期の神社が
田んぼの真ん中にある
志登神社という
建立時期は古すぎてわからない
田んぼの真ん中にある太陽観察拠点が
神社のなれそめだから
そのままおなじように
出雲大社も田んぼの真ん中にあり
日本最古と自称してる奈良の大神神社も
田んぼの真ん中にある
九州からおなじ機能をもつ神社が流れていったのは
自明だ
しかし王権は断絶してる
神社のように
九州から継承された権力ではなかったからだろう
そもそも魏志倭人伝を金科玉条のように扱うのもどうかと
しょせん中国製
今だって品質胡散臭いのに当時のものがどこまで信憑性あるか大いに疑問だなw
歴代天皇の顔って髭が濃いうえ眉毛も濃いんだよ
つまり九州にいた南方の熊襲系と思わないか、
明治天皇とかさ、大室は無しよ
北前線で昆布
青森日本海側駐屯地、イタコ
日本の山ヤマ、オンタケ
昆布出荷口、沖縄、イラブ、ウタキ
>>290 仮設を立証するのは物証だ
>>305 太宰府や任那日本府と邪馬台国の関連性が完全に妄想
農業のための太陽観察拠点としての初期の神社が
九州から出雲、奈良に流れていったのは
誰も不思議に思わないだろう
稲作の伝搬と同時なだけだ
だから最古の神社は九州にあるのも自然だが
奈良が最古だと言い張ってるわけだ
つまりそこからも奈良が
九州の権力の歴史を抹消した痕跡が見える
>>338 もっと違う切り口あるだろ
こんだけ中国製の本を分析しても分からないのは
絶対にチャンコロのいい加減さにある
例えば、音だな
音からヒントは取れないのかね
奈良という渡来系権力が
それ以前の日本の歴史を塗り変えてしまった
もうこれは自明なのではないか
奈良中心史観はもう古い
>>344 それは天武系だな
だが後に天智系が復活して天武系を押し出した
天皇家の位牌には天武系天皇は全て排除されているはず
>>158 日本人が箸を使うようになったのは5世紀以降
日本の権力は江戸まで完全に稲作に依存してたのだから
稲作の歴史を考えれば自然に収まる
大陸の玄関九州糸島から始まり、佐賀など大きな平野に移り、
さらに出雲、奈良に移り、そこを支配するものが最大権力
これが自明
奈良の権力がたまさか渡来系だったから、それ以前の歴史が抹消され
改変されただけで
稲作から考えば、簡単に正しい権力の順序がわかる
日本の権力は九州発祥で間違いない
あとからは歴史を抹殺するから
銅鐸と青銅の武器を溶かし吊鐘にし、縄文土偶を壊し縄文壺を壊すが一部が出土する
また、その安定した土壌に重工業地帯にするし住宅地にするし
そうそうと歴史は出てくるものでは無い、いま出てくるのはへき地の端くれ
>>340 >仮設を立証するのは物証だ
そうだな、地政学や神話のあとの5番手くらいの証拠だな。
山幸彦
海幸彦
山やま→邪馬やま
海あま→天あま
邪馬台国はやはり山に由来すると思うんだな
邪馬台国の精神的なバックボーンは、仏教もまだ未伝来だし、中国から儒教等がまだ入っていないとすると、日本古来の神教なの?
>>331 >(不彌国からは) 南至投馬国 、
12000里の説明が終了しているので投馬国は帯方郡からの日程
不彌国からではありません
その説明は意味が分からない
>>354 稲作は弥生時代からやってて
そのころから「太陽観察」ぐらいはして
最適な種まき時期を計ってた痕跡が
糸島にあるのに
なぜ「占い」ですべてを決めてたかのような
神話にしたのか
そうしないと稲作=権力が
九州発祥伝来だということが
ばれてしまうからだろう
>>354 神道な
それだとイザナギやイザナミの話が出てこないといけないし
そうなると淡路島こそ邪馬台国であるべきなんだがw
>>10 >>16 まぁ、だいたいそんな感じだと思うよ
ただの集落を、日本の中心みたいに勘違いしたんだと思う
>>326 東征神話は高句麗神話の丸パクリだからそこまで深く考えてない
天皇の神格化のためだから史実との関連はどうでもいい
なんか日本の地形に無理やり当てはめてる人らがいるけど、いやそれやるならせめて北朝鮮の地形で検証しろよって
邪馬台国と狗奴国は裏表何だよ
狗奴国の奈良の部分が征伐されてできたのが邪馬台国
裏が表に表が裏に、からまり合い溶け合い、時には争い時には手を結び複雑に絡み合う
倭国大乱から600年、紆余曲折を経て平安が訪れる
>>358 稲作が伝播した初期の糸島の時代ならそうかもしれんが
佐賀平野のでかさを地図でみてみろよ
そこを支配した権力が
確実にあったわけだからな
奈良と匹敵しているだろう
広さから言えば
完全な王国だ
>>355 まだそんなアホなことを書いてるのか
自信があるのなら論文にまとめて学術雑誌にでも投稿すれば?
鼻で笑われるだろうけどw
この三国史当時、すでに倭国、特に九州地方には
漢字が全部とは言わないが伝わっていた、と思うよな
正月開けに鏡餅を割る鏡開きがあるだろう?
高良大社は鏡開き発祥の神社として知られている。
各地の古墳から、破鏡が見つかっているが、
この破鏡の起源が、まさにこの高良大社の鏡開きにあると考えていい。
そしてその鏡は、高良大社の麓にある
祇園山古墳の、卑弥呼の墓の鏡と考えて良いだろう。
>>278 今だに占い師が活躍している半島をディスってるだろ?
稲作=権力なのだから
米の取れる平野の広さ=権力
これは当然だろう?
佐賀平野を支配した権力は王国でまちがいない
なぜなら奈良と同等の大きさだからだ
@東夷伝の1里は80mくらい
A女王国とは伊都国、奴国
12000里=7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里で女王国に到着
B帯方郡から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一日で邪馬壹国
C投馬国は朝鮮半島南部地域、邪馬壹国は北部九州地域全体、狗奴国は南部九州地域
豊前って境が旧小倉県+宇佐・下毛郡という微妙なんだよねえ
旧小倉市はともかく福岡県豊前市・大分県中津市って福岡人から見ても異端
おそらく国東半島の向こう側って思っている大分人も同じと思うw
考古学界では九州で決着してんだろ?
大人の事情で分からないことにしているだけで。
歴史は浪漫だからそれでいいんだよ。
もし卑弥呼の墓が分かる形で残っていたなら
奈良の渡来系権力はそれを潰したかもしれない
農業のための太陽観測拠点としての神社という
しごく自明の歴史を「奈良発祥」と書き換えてるのだから
墓もやってる可能性もある
>>355 対馬観光で800里遊びまわり、
次は壱岐巡りで600里寄り道し、オンナと飲んだくれてたから1400里ほど足りなくなったのさ。
イチャイチャふるたの受け売りばかりしてないで、少しは自分で考えろ。
邪馬台国ってそこまで重要かなと思うようになってきた
何らかの宗教とか哲学的な教えなどの精神的なバックボーンとかがないと、政治的なことは出来なかったとか、多数の人民を束ねることは出来なかったとか重大なことが欠落しているような気がするのですが。
邪馬台国の根幹は何だったのでしょうか?
>>372 魏志倭人伝では国の端に着くと至ると書かれている
帯方郡も帯方郡の南の海岸スタート
末盧国も末盧国の北端に上陸している
対馬国も一大国も北端に着くと至る
北端から南端へ移動は1000里とは別だね。
>>376 反論出来ません、参りましたとの意味ですねw
>>367 おじいちゃん、もうそれ通用しなくなったんだよう
末盧国 松浦市とその近傍
伊都国 伊万里市は可笑しいかな? 帯方郡の使者が往来し、常に足を止める所であって
も可笑しくないよな、四方からの交通の要所だし
>>363 魏志倭人伝には倭人が文字を使用していたと書かれてるが
関西の文字の使用は5世紀くらいからだからな
北部九州地域では紀元前後くらいから使用形跡がある。
>>375 太陽信仰
皆既日食になったから卑弥呼は暗殺された
>>363 一大卒の説明に
>文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない
とあるから文章を読める人材は普通にいただろうね
そして片道合計で水行30日陸行30日もかけて女王のもとに届けてた風ではない
往復で4ヶ月かかるならそう記述しそうなものだ
>>379 通用しないと?
説明してみろよw
出来んだろがwww
なぜ田んぼの中に神社があるかといえば
そこから見える山で太陽の位置を観測してたから
糸島の志登神社はまさにそれだし、
出雲大社や奈良の大神神社もまさにそうだ
そういう機能をもつ場所だったが
中国の暦を使い始めたら
太陽観測が不要になり、神話と占いの場所に書き換えられた
そういうことだ
>>381 伊万里は重要拠点。
何しろ帯方郡から壱万里で、だからイーマンリー、つまり伊万里になったというからな。
>>380 結論を連呼するだけで畿内説には根拠が何も無いくせにw
国家とは人であり、
人と人との契約が国家なのである。
そこに多数の人間の生命と財産を
保証できる地域を提供できる組織があった。
即ち、当時、鉄の矛、剣、鏃という、
最新の武器を持っていた国が邪馬台国なのである。
>>253 九州説は魏志倭人伝を素直に読んだ結果出てくるのが
九州説で
自分たちが導きたい結果を出すために
魏志倭人伝の記述をこねくり回して
南と書いているのを東と変えてしまったりしている
畿内説のほうが妄想そのものだろう?
畿内説唱えている奴って自分たちの説を客観視できてない
カタワ者なんだよな
>>385 説明してもわからんようだな。ハイハイ、どうぞお好きなように、お元気でね、、
亀の甲羅占いで稲作してたなんて古代人をバカにしている
文字がつかえず暦がないから、
代わりに太陽観察でちゃんと科学的に稲作をしていたのだ
その痕跡がちゃんと糸島の志登神社にある
そのコピーが出雲大社であり、奈良大神神社なのだ
>>381 伊都=糸島
漢委奴国王もイトと考えるのが正しい
>>391 どこで説明しているんだ?
また妄想か?w
>>383 太陽信仰だけで、多くの人民を束ねられたのかな。
こう言う観点からのアプローチも必要かなと思った。
>>388 おいおい、オレは畿内説ではないぞ、佐賀・伊都国ー吉野ヶ里・不彌国説だ。
>>255 アンケートの結果なんかどれだけ洗脳されてるか
という数値であって学問的になんの説得力もない
>>395 弥生時代から稲作やってて
暦は当然まだないわけだが
どうやって種まきの時期を計ってたか
太陽しかないだろう
絶対に「亀の甲羅占い」ではない
それは奈良の捏造w
なぜなら糸島の神社に太陽観察の
道具がおいてある
伊都で船を降りて歩いている時点で、目的地は九州なんじゃないの。
大分だろう。昔に見つかった鏡が、この頃、皇帝が持つに相応しい鏡だとわかったじゃん。
これで決まりさw
>>397 考古学者よりも一般の国民の方が知能が高いのが日本
太陽信仰ではなく、稲作に必須の知識だったのだ
山と太陽の位置を定点観測する場所が神社のなれそめ
奈良の権力が文字を使い始めて中国の暦を導入し
太陽観測に必要がなくなったから
亀の甲羅占いとかわけのわからない話になったのだ
>>398 信用するしないは別にして、動脈が硬化、頭が老化した証拠(笑)
>>395 当時の日本人は今の日本人以上に空を見上げていた
夜なんか真っ暗で暇だしずっと空を見上げていた
そして夜は恐怖だった
毎日太陽が出てくるのは安心したことだろう
そういう意味で今の天気予報士のようなことができた
日巫女こと卑弥呼はまさに神のような存在だっただろう
>>400 末盧国の港(呼子付近)で下船して徒歩で伊都国(糸島市)で宿泊滞在。
>>396 誰からも相手にされないんで僻んでたのかw
三種の神器は鏡、勾玉、草薙の剣
鏡は太陽を
勾玉は月を
草薙の剣は剣を
太陽、月、剣は日月神事にもある通り日本人の精神性を示す大きなバックボーンだった
>>408 鏡=太陽=天照
勾玉=月=ツクヨミ
草薙=剣=スサノオ
につながるイメージになるな
出土品的に豊前は247年以降、
主に対魏防衛で九州と本州勢力が合流してからの繁栄。
瀬戸内海勢力との関係は筑紫より深い。
古墳時代以前
倭人伝で240年に帯方郡から金印印綬に来た使譯梯儁が仮称した邪馬台国は
筑紫の21国が190〜247年まで女王卑弥呼を共立していた土地で
糸島、福岡、筑紫平野から大きく外れることは無い。
参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可 五千餘里
>>407 やれやれ、やっと気が付いたか、
今はもう、佐賀ルート全盛時代さ。このスレの賑わいを見てもわからんのかね。
暦がない時代に、種まきの時期を計るのに
山と太陽の位置で天体観測をして決めてた
考えてみれば自明の話だ
その観測拠点が神社であり、建立時期もわからないほど古い
糸島の志登神社であり、太陽観測の道具がそこに残されている
暦が使われはじめた奈良大和時代からの神社は
その使われなくなった太陽観測拠点の2次利用にすぎない
はじめての方へ
【基礎知識】
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語で読む「シャマイ」国となる
・以降の史書に出てくるのは「邪馬臺」や「邪摩堆」であり、すべて語尾は「タイorダー」と発音する漢字が当てられている
・後世のヤマトは深く考えず邪馬臺=ヤマトだと思っていたが、新井白石と本居宣長が間違いに気付いたのが九州説vs機内説論争の始まりである
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で使われていた市場の管理係「大倭」と記載されている
(商品調達係)
>>412 佐賀ルートとかネタだろ
本気で押してる人とかおらんだろ。
>>375
倭国大乱で、もう戦争はしたくないでござる
↓
そうだ、みんなで公平な人、私利私欲に走らない人を担いで
その人をトップに据えよう
↓
卑弥呼という神の声を聴く能力のある巫女を
諸国の国々の首長が神輿と担いで倭のクニのトップに据えた >>354 現代の神道の源流的なものの形成は見られるね
水による禊
死などの汚れに対する忌避
墳墓に見る先祖祭祀
鏡の神聖視
桃を祭祀に用いる
拍手による敬意の表示
神籬、磐境などを用いた自然祭祀
高床式倉庫に見る収穫祭祀
今の神道と呼ばれる物に近い物がもう会った様子が伺える
>>194 >今も平均身長が違う
うちの近所には昭和30年代から40年代初め
九州の炭鉱が閉鎖になって九州から
失業者が1000人以上移住してきた。
つまり本州人と九州人が混在、混血してる。
九州莫迦は現代史に弱いwwwww
邪馬台はヤマトだよ
これ基本中の基本だからこれをもとに議論してね
邪馬台国の卑弥呼=ヤマトのヒメミコ=倭姫命
で間違いないだろう。
天照大御神を祀った姫というのが、
一番卑弥呼にしっくり来る。
そして、卑弥呼に弟が居て、政務を司ったと言うのが、
倭姫命に日本武尊という弟が居て、
熊襲との戦いに従事していた事と合致する。
記紀の景行天皇の一部までは、
九州の伝承を混ぜ合わせたものだろうな。
>>411 「周旋可 五千餘里」が北部九州地域一周で
奴国から不弥国を経て20か国を巡り、奴国へ戻るってことだ
倭は伊都国、奴国(福岡市付近)中心なんだ。
>>381 伊万里は松浦やろ松浦の名前の由来からして唐津の虹の松原なんやから
>>417 神社の源流には
そういう儀礼的なものの前に
稲作のための太陽観測拠点という
行政的機能がちゃんとあったわけだよ
>>5 魏志倭人伝読んだらわかるが、中国人は倭人を完全に野蛮な奴らだと思ってる
道は獣道で、顔や体は刺青だらけ。肉を食い、食べられる果実を知らない。生贄(の様な)文化がある。一夫多妻制だが、女は嫉妬しない。
って感じで書かれてる
この当時の宗教と言うかクニグニをまとめた卑弥呼の鬼道と言うのは、
倭人伝の記載や考古学的な様子を見るに墳墓祭祀を基本とした現代の神道の源流的な物だろう
出雲の墳丘祭祀や、伊勢遺跡の祭祀、吉備の埴輪、九州の鏡などのハイブリッドな呪術的なスタイル
共立された宗教のカリスマと言う卑弥呼の話にピッタリな姿と言えるな
>>419 7世紀 後漢書注 李賢 「ヤマイの訛りやろなあ」
卑弥呼時代にヤマトなんて地名は無い。
有っても倭人伝とは無関係な 其餘旁國 遠絶 不可得詳
日本列島には100以上の国が有った。
機内、出雲、吉備勢力に筑紫が合流したのは纏向以降
600年に対隋唐防衛で奈良に遷都したのと同様
BC200から青銅輸入交流が有った公孫氏、馬韓辰韓を侵攻した
魏に対する防衛で畿内から奈良へ遷都したのが纏向。
>>420 魏志倭人伝で
帯方郡から邪馬台国までの総距離が
1万2000里と記述されていて
帯方郡から壱岐までの距離で9000里
壱岐から3000里以内に邪馬台国がなければいけないことになるが
それについてどう思う?
帯方郡とは現代のソウル付近だそうだから
ソウルから壱岐まで、直線距離で490Kになる
もちろん道なりに距離を測っていただろうから直線距離では
計算できないだろうが、ここでは仮に、おおざっぱに考える意味で
総距離の1万2000里の4分の3、75%の距離が490Kmと仮定すると
残っている距離数は163Kmしかないことになる
壱岐から163Kmって、北九州地域か
山口県なら長門市が入るくらいしかないことになる
このように魏志倭人伝を素直に読むと
畿内説って絶対にあり得ないんだよな
神社は住吉神社が博多湾周辺に居た海人族の祭祀を行う場所と言う風に考えることが出来る。
神社という枠組みで考えれば、
必ずしも稲作に結びつくという訳ではない。
>>258 痛いところを突かれると罵詈雑言を浴びせる古田教
信者はは修羅の国だ。
平和な理想郷の邪馬臺国人にふさわしくないwww
>>432 とうぜんそうだが
稲作=権力
大きい平野=王国
これは江戸時代までずっとそうだから
否定しようがないだろう
倭国大乱って、何名くらいの兵士が戦ったのだろう?
白村江の戦いを基準にしたら、国内だから5万人はいるのかな。
弥生時代に稲作が始まり、700年ごろに中国の暦を使い始めるまで
種まきの時期を太陽観測で決めていたわけで
その拠点が田んぼの真ん中にある古すぎて建立時期もわからない神社だという
当たりまえの話で
その始まりは稲作伝搬の地だろう糸島にあり
そのコピーが出雲や奈良にある
これ否定しようがあるか?
>>431 >壱岐から3000里以内に邪馬台国がなければ
1寸千里の緯度測量方法で対海國〜一大國間の3倍距離分
南へ行って地図上でそこから東へ線を引く。
その線上付近誤差500里の範囲に邪馬台国はある
邪馬台国とは無関係やろてなっとる分気楽なもんやな吉野ヶ里は
魏志倭人伝のとおりだと、九州どころか海に邪馬台国があることになるんじゃなかったっけ
真相は藪の中さ
>>440 韓伝や高句麗伝に書かれてる里数を参考にしたら九州北部になる
>>415 邪馬台国・佐賀ルート(其の1)
東南陸行五百里到伊都国 (伊藤雅文 邪馬台国の会、全国邪馬連事務局)
>一般的に末盧国と比定されている唐津市周辺から見て、伊都国であろうと思われる糸島市は東〜北東の方角になる。
>王墓と考えられる墳丘墓をはじめ考古資料は圧倒的に伊都国=糸島市説を示しているのであるが、
>あくまでも「東南」にこだわり、多久市、小城市(及び佐賀市)方面に伊都国を求める方々も多く、
>この辺りから国々の比定地が大きく異なってくる原因となっている。
新井白石以来、畿内説・九州説を問わず、「伊都国は糸島」を信仰する学者・知識人ばかりであったといってよいのではないか。
しかし最近は、、邪馬台国の会の伊藤氏も述べているように、
「東南陸行500里」を原文通りに読んで、多久市・小城市・佐賀市(伊都国)・吉野ケ里(不彌国)経由の邪馬台国ルートを重視する人たちが増えている。
倭国大乱は卑弥呼共立で治まったんだから全戸で7万以下。
240年時点で21国にまとまったが、吉野が里や福岡辺りの遺跡がそれだろう。
>>419 邪馬台国がヤマトになったわけよ。だから畿内と九州の周辺の地名が酷似過ぎるわけ
邪馬台国の名を何らかの理由でパクった。
もしくは国が丸ごと移動した。大和は4世紀以降に出来たと考えられる。
吉野ヶ里も観に行ったことあるけど、柵があって乗り越えると竹槍みたいのが並んでて
随分物騒な造りだなって思った。歴史の教科書には「弥生になって土地を巡って
戦が起こるようになった」って書いてあるから、当然とも言えるんだけど、
我が故郷の登呂遺跡には、遺構にも再現模型にも柵や槍が見当たらなくて
川と海に囲まれた土地で、のほほんと暮らしていたみたいにみえる。
単に囲いが見つかってないだけなのか、静岡県民だからなのか知らんけど(´・ω・`)
百済語は何とか理解出来るが、高句麗語は理解出来ないって、津軽弁と薩摩弁くらいの差かな?
ヤマタイと読むから話がややこしくなる。
ヤマトと読めば問題ない。
そもそも考古学者はファンタジーで物事捉えすぎ。地政学的観点、軍事的な観点で見るべき。
邪馬台国と一国に完成するまでは、鹿児島知覧。作物を作り魚を採り暮していた。その後大分の国東半島へ大移動して、邪馬台国を築く。その頃は温泉なんて無いでしょ?温泉て言うより熱海と同じく熱湯だろうから。
>>438 ソウルから壱岐までが9000里
直線距離だとソウルから壱岐まで490Km
つまり1里は54mという計算になる
つまり1万2000里は648Kmという計算になるが
ソウルから畿内までの距離は直線距離でさえ
900Kmを超えるのである
実際の測定ルートは山あり谷ありで道なりに進むだろうから
畿内までの測定ルートは900Kmで収まるはずがないのであって
到底1万2000里で到達できる範囲に入るわけがないのである
直線距離でさえソウルから畿内は900Kmと
魏志倭人伝の総距離650Km=1万2000里を
はるかに超える距離にあるのが畿内
倭人伝に書かれてる邪馬台国は九州、その後、空白の100年。その間にまるっと奈良に移ってるわけよ。
佐賀ルートは末盧国から筑紫や肥後に行くには確かに合理的なんだが
でも地名がカスリもしてないのがな
>>451 その後、遷都を何回かやっている例は、北九州から畿内への遷都が叩き台だと言う説は説得力はある。
魏志倭人伝の距離やら方角やら前提に語ってるアホが多いのが笑える
定量的な記述ではなく何があったのかという定性的なものだけ考慮して考古学的地理学的解釈で判断したほうがいいわな
稲作のできる平野=権力、王国なんだから
稲作伝搬の初期は糸島でも
稲作の大拠点が
佐賀や熊本あたりに移るのは当然
そのつぎが出雲も必然
航空写真で見ればわかる
なぜ大阪ではなく奈良かも、当時は大阪は海だったからだと
わかっている
すべて平野=稲作=王国ということで説明がつく
はじめての方へ
【基礎知識2】
〜中国の記録に記された女王国の規模〜
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
〜中国史書に記された女王国の位置〜
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」
韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島
■結論
倭人伝における女王国視点の記述からすると、その位置は「北・東・南」以外の西の端=九州となる
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
※1里=約70m
吉野ヶ里はだいぶ山のほうにあるが
当時は佐賀平野も大部分が海だったのかもしれない
そうすると熊本もだいぶ海になるはずで
土地の限界=奈良への権力の移行になっても不思議ではない
>>252 勘違いしてる人が多いけど九州と言っても記紀での扱いはだいぶ違う
×「九州が記紀で重視された」
〇「日向、宇佐、宗像が重視された」
が正しい
むしろ弥生時代の九州の主体る場所だった福岡の糸島周辺は物凄く冷淡な扱いをしてる
「こいつ等は外国由来の全く縁もゆかりもない降伏してきた外様」
という対応
大体の勢力を神話的な血縁にする記紀でここまで冷たい扱いは珍しいくらい
AIコンピューターが決める前に、九州説か畿内説かの確定を人間で決断して欲しい。
>>459 畿内説はあり得ない
距離的に可能性はゼロなんだから
>>458 倭国大乱で追い出された旧領地のことは触れたくなかったんだろうね
逃げ出した時に世話になった勢力のことを大事に書き残しておいて
倭国大乱で敵に回った勢力は土蜘蛛呼ばわりして討伐した
>>458 航空写真をみればわかる
権力の地としては糸島は小さすぎる
初期の稲作集落としては十分な条件だが
王国として狭すぎる
何処にあったなんてどうでもよくて、みんな自分の地元に誘致して観光に利用したいだけだろ
>>307 >309 >310 >311 >313
おまえら、アホやなwww
大宰府が正式に「大宰府」になったのは8世紀頭だよ?
それまで、あそこに何も無かったとか勘違いしてるのか?www
邪悪な馬から連想するのは騎馬民族、卑弥呼のイタコ芸からはオロチョン系シャーマニズム文化の香りがする
邪馬台国の話と関係なくなっちゃうけど、とりあえず今の天皇に続く歴史の始まりが
奈良だったってのが、個人的に不思議。
関西の豪族から始まったとしても、交易とか考えたら、枚方辺りの方が良かったんじゃ
ないのかなぁ?って思うんだけど(´・ω・`)
太宰府がおかれる前のもともとの地名てなんだったんだろう?どっかに痕跡残ってないかな
やっぱり筑紫かね
ともかく稲作=平野=権力であるからには
九州に奈良に匹敵する王国があったのは明白で
歴史からほぼ抹消されてるのは
奈良の権力が歴史から抹消したからという
それだけの話で
事実としては違う歴史があるわけだ
>>384 国と国のやり取りで文書は読めなくてもやるこれ常識
>>452 邪馬台国・佐賀ルート(其の2)
伊都国の最有力候補地は、佐賀市山寄りの大和町川上大願寺地区だ、ここに古〜い大明神があって、藤原氏の祖を祀っている。
この神社の祭神の一人はタケミカズチノカミだが、其の父君の名は「伊都之尾羽張」といった。これが伊都国の名残りであろう。
なおこの地点は唐津の古港の中原遺跡から東南37.5qで丁度500里である。
この川上の大明神から東南方向100里、つまり7qほどのところに佐賀市街(佐賀城・佐賀県庁等)が見える。ここを奴国と呼んだのであろう。
倭人伝では東南至100里とだけ書かれ、移動を示す動詞がないから、「東南の方角に奴国が見えま〜す」という書き方だ。
つまり伊都国(川上大願寺)からは移動せず、そこにとどまったままの状態だ。
その次、東行100里至不彌国は、移動を意味する動詞の「行」があるから、実際に伊都国から東の不彌国へ行ったのだろう。
丁度100里ではないが、真東へ140里くらい行ったところに吉野ヶ里遺跡がある。
このあたりは、律令制では三根郷(彌根郷)といった。これが不彌国という国名の面影ではないか。
【まとめ】
邪馬台国については魏志倭人伝、日本書紀、古事記の3つしか探るものがない。
確実な物証として漢委奴国王印が福岡の志賀島から出土し、魏志倭人伝の記載の
確かさの裏取りが出来ている。この発見についても当時の甚兵衛という百姓の
口上書、福岡藩の鑑定書、那珂郡奉行の資料など多々の古文書がありケチを付ける
のが難しい状況である。つまり、奴国が福岡市周辺であることは確証が取れている訳だ。
そうなると畿内説はあり得ず、九州の何処か、という話しか残らない。
現に北九州には古墳時代の遺跡は多くある。
では奈良県桜井市の纒向遺跡はなんぞや、という話だが、普通に日本書紀に
垂仁天皇が纒向に宮を起こすとあり、卑弥呼とは全く関係ないと読み取れる。
魏志倭人伝、日本書紀、古事記を全て並べてみれば、畿内説が歪で基地外さが
際立っている。何も物証も証拠なしにこじつけているだけだからだ。
それでもなぜ畿内説が名のある学者としても存在しているかと言えば単に
日本書紀や古事記を全否定しているとか、魏志倭人伝を否定しているとか
そういったカルト宗教の教義により見たくないものを見ずに議論しているからだ。
まぁ、基地外だな。
>>471 畿内説のキチガイの動機は何なんだろ?
素直に魏志倭人伝を読めば、どう考えたって
九州説しか残らないと思うのだけど
比定地として可能性あるなと思うところには大体、景行天皇や神功皇后の伝承があるw
タケミカヅチは明治以降に国家神道が捩じ込んだ奴やん
>>452 佐賀ルートの地名は大いにカスっている。
伊都国は、イツコクと読むべし。記紀でも伊都はイツと読ませている。
佐賀川上の辺りは神話の伊都之尾羽張の故郷であり、律令制でも小津(オツ)といった。
かすりもしないというのは、単に学者たちが無知・勉強不足・佐賀は関係ないという思い込みなだけだよ。
>>469 朝貢やってる国や、それにとって代わろうとする国には、
漢文エリートが居た。当たり前だわな。
今の外交官みたいなもんだ。
>>474 明治以降に、古事記や日本書紀にねじ込んだのか、悪いやっちゃ。
>>452 奴国(福岡市)が2万戸で倭で最大のクニ
福岡市から筑後、肥後、肥前を回って周旋5000里
途中豊前、豊後も回った程度だろうな。
記紀の九州の扱いを見るとこうなる
日向 皇室の出身地。景行天皇の遠征の際にも仮宮が立つなど安定した領地
豊前 降伏した神夏磯姫の領域で友好国
豊全(宇佐) 景行天皇に歯向かう土着豪族の土地。重視されるのは奈良以降
肥前、肥後 神武天皇の系統の土地
筑後 神武天皇の皇子の系統の土地
筑前(宗像) 須佐之男命の血縁で皇室とも遠縁扱い
筑前(糠屋、遠賀付近) 海神の親族。皇室とは直接的な繋がりは無いが関係あり
筑前(怡土郡) 全く縁もゆかりもない外国由来の外様。領地としては安定した支配地
九州南部 熊襲
これを見ると分かるように伊都国は完全に皇室と縁のない属領と言う扱いになってる
奴国周辺も辛うじて海神に絡んでいるがやはり外様扱い
弥生時代の九州の主要部分は大和朝廷にとって外様の属領と言う扱いになっているのが興味深い
>>468 しかし、ちゃーんと神話の中に姿を変えて残ってる。
海幸彦・山幸彦は、博多港の最初の支配者宗像から日田・筑紫の
邪馬台が港と地域覇権を奪う為に半島に渡って政治工作した史実だ。
このうち国内の関係を、後世、天照とスサノヲと誓約として再掲。
>>456 基礎知識
>・倭の国数は30国
?
倭人 在 帶方東南 大海之中
依山㠀 為國邑 舊百餘國 漢時 有 朝見者
今 使譯 所通 三十國
=魏時の使譯で知り得た倭の国が、30国。
自女王國以北 其戸數道里 可得略載 其餘旁國 遠絶 不可得詳
=女王国所属の筑紫地域21国名は列記されている。これは邪馬台国 可7万戸。
その他9国は女王国以北の邑(国の概念である狗奴国、邪馬台国)含む、
其餘旁國 遠絶
=女王國 東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國 在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至
つまり、いまだ知らない膨大な倭の地域に何百国有るのかは判らないし
筑紫21国の王、女王卑弥呼が統一倭国の女王であるとは認識していない。
戦国王である魏帝が三国志で
呉への侵攻前に、倭に同盟国が有ったことを自慢しただけの事。
馬韓50国10万戸、弁辰韓24国5万戸、邪馬台国21国7万戸である。
>>272
それ凄い洞察力だ
今まで「倭人」を6世紀終わりに隋を滅ぼした唐揚げ王朝の都
長安方言で「ワジン」と読んでたのがそもそも間違いの始まり。
日本史の時間にはちゃんと「ワニン」と正しく読むことを教えないといけない。
これが言葉の時代考証、言語考古学の掟だ
天皇(すめらみこと)の藤原(ふじわらの)夫人(ぶにん)に賜(たま)へる御謌(おほみうた)一首
天武天皇 吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後 集歌103
我が里に 大雪降れり 大原(おほはら)の 古(ふ)りにし里に 降らまくは後(のち)
(わが里に大雪が降ったよ。君のいる大原の古びた里に降るのはもっと後だろう)
藤原夫人奉和謌一首
藤原夫人(Pujipara no Bunin)の和(こた)へ奉(たてまつ)れる謌一首
吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武 集歌104
我が岡の 靇(おかみ)に言ひて 降らしめし 雪の摧(くだ)けし そこに散りけむ
(わたしの住む岡の水の神に言いつけて降らせた雪のくだけたのが、そちらに散っていったのでしょう)
//furigana.info/w/ 藤原夫人
ふりがな文庫
“藤原夫人”の読み方と例文 >>399 > どうやって種まきの時期を計ってたか 太陽しかないだろう
> 糸島の神社に太陽観察の道具がおいてある
面白いご意見ですね。興味あります。
てことで、さっきから関連文献をグーグルしてるんですが、
なかなか見つかりません。
読むべき文献は、ドレでしょうか???
あと、「太陽観察の道具」の名称を、
できれば複数、教えて下さい。
>>472 畿内説がねじ曲がっているのは「天皇の起源」に関わるからだ。
別に天皇は天皇で尊敬しているし、ただ、歴史は歴史で正しく知るべきである。
畿内説の学者達は天皇に起源に関して邪馬台国とヤマト王権は別の国という認識できなく
邪馬台国とヤマト王権は同一のものだったという宗教を掲げている為である。
開化天皇から前の伝承を否定したいらしい。なかったことらしたい。
もちろん、卑弥呼から後世に邪馬台国がヤマト王権を滅ぼした、またはヤマト王権が
邪馬台国を滅ぼしたという仮説はあるのだが
そもそも元々は別のもの、という考え方が持てない為に畿内説宗教が存在する。
万世一系の神国神話、記紀は、白村江海戦で百済利権を失った際
対馬国境を日本古来の歴史的領土として確定した外交的意図を持つ史書。
倭人伝では、倭には半島領も有って
国家としての統一が無い以上九州は古代韓同様
魏や隋唐に侵略を受ける可能性が有った。
そもそも天界から降臨したのに、
天皇は九州出身としたのが無用なファンタジー
と 読み取れずに歴史の話にするのは笑止w
倭人伝から読み取れる邪馬台国は九州だね。その時期に邪馬台国が九州にあったら
考古学者的に何か不都合でもあるわけ?!
>>449 こいつ、ずーっと幼稚なこじつけ数遊びやってるけど、
魏の時代の1里が430メートル程度ということも知らんのか?
奈良に根を張った勢力が邪馬台国滅ぼしてさらにそれを継体天皇の一族が乗っ取りかましたでええんとちゃうんか
>>488 韓伝「方四千里」
高句麗伝「方二千里」
倭人伝「狗邪韓国まで七千里」
魏の時代の1里が430メートル程度ということも知らんのは陳寿かな?
>>487 捏造当たり前の考古学者どもがバイアス任せにいい加減な発言を繰り返して来たことがバレると氏ヌから
畿内説なんて能無し学者の延命活動だよ
>>488 知識ではなくて
魏志倭人伝の記述から
計算すると
一里はこの距離になるってことだよ
理解力ないなあ、お前は
>>490 陳寿は記録の切れっ端をまとめただけだよ
陳寿にとっての1里は435mだと思うよ
だから道里を計算すると会稽東冶の東あたりだと想像してる
>>449
全く理解できてないな
周髀算経1寸千里の緯度測定方法
東京地学協会伊能忠敬記念講演会 2015.11.28 野上道男(東京都立大学名誉教授)で検索してみ
理解出来てから反論してネ
>邪馬台国は「東南 1 万 2 千里」と記述されている.郡から倭へ派遣された魏使
>は朝鮮半島の西岸と南岸の複雑な海岸線を回ってジグザクに水行(沿岸航法)して狗邪韓国に至っている.
>当時は海図がなかったのでこんな航路の長さは測れない.あきらかに「7 千里」は測量値である.ほかに
>測量方法がないことから、この値は「1 寸千里法」による測量値である.
*夏至の日前後の鉛直に立てた物差しの日影長の差から求めた緯度を千里単位で表現したもの
中略
>「1 寸千里法」の測量成果は実際の尺度による距離値を介さず緯度と対応している. 夏至南中時と
>いう指定は、結果として cotαをαで近似する誤差(1寸千里法の原理的誤差)を小さくしている.
中略 *cotαは現代の数学の三角関数コタンジェントα
>對馬海峡の横断では、人力船にとっては速い海流のため大きく下流に流され、方位も記述
>できていないほどであるので、航路距離はもちろん測れない.陸路もたぶん曲がりくねっており(直線的
>な官道は律令時代以後のこと)、伊能忠敬と同じ導線法で歩測だったとしても、測量は極めて煩雑であり、
>とても道路で実測されたとは思えない.それどころか通った道路の記述がない.また魏使の行程区間には、
>日数で表わされた距離(時間距離)さえある.以上述べたように「1 万 2 千里」は魏使の行程距離である
>わけはなく、唯一の選択肢として、天文測量による成果であることは自明である.しかし驚くべきことに、
>ほとんど全ての歴史家は、帯方郡から人が移動したその海陸行程「南東 1 万 2 千里」のところに邪馬台国
>が存在していた、と思い込んでいる.
最後の部分が大事
>全ての歴史家は、帯方郡から人が移動したその海陸行程「南東 1 万 2 千里」のところに邪馬台国
>が存在していた、と思い込んでいる.
九州説信者は思い込みがハゲしいwwwww
読解力がかなり足りないwwwww >>493 じゃあ当時、東夷の記録をした現場では魏の時代の1里を知らなかったのかもな
まあ、陳寿はわかっててわざと呉関係の記述を削って何越の記述をねじ込んだ痕跡があるけどな
つまり陳寿が手に入れた記録には何故か短里が使われていたということ
周の時代の1里が75mだったそうだから、半島や倭ではその短い里がずっと使われ続けたんだろう
>>494 それって
畿内説のキチガイ学者が
こじつけた理屈なんだろ?w
それを後生大事に信じ込む低能信者がお前ってこと
原文である魏志倭人伝を直接読めば
帯方郡から邪馬台国までが1万2000里となっているだけ
それを畿内説に合うようにゴチャゴチャと言い訳がましい
屁理屈を述べているのを、まるで真実だと思い込んでいる
ヘンタイ低能信者がお前www
>>496 当時、東夷では短里が使われていてその記録が帯方郡に残り、陳寿が参考にしたのか
何か意図があって、呉の記述を削って南越とミスリードさせるように書き換えたか
あるいはその両方かもしれない
そういうこと
短里とは、辺鄙田舎の時代遅れの里だったのよ、そんだけの事さ。
>>266 南の熊襲を放置で九州北部から畿内に攻め入って、西日本支配してまた熊襲うちにいくの?
いくらなんでもファンタジーだなwwww
>>496 周の時代でも短里なんてものは使われてない。
周髀算経の一寸千里法の中で出てくるけど、既に一寸千里法は論文が出て否定されてるよ。
https://ci.nii.ac.jp/naid/130007822072/ >>496 韓人や倭人は里を未だ知らない
1里80mくらいで測ったのは公孫氏だろうな
魏が公孫氏を滅ぼした時に公孫氏が1里80mで測った資料を入手したんだろ。
短里ではいない説にとって都合が悪いので、
長里にしてごちゃごちゃに持ち込んで、陳寿のミスでしたー、にする魂胆
>>503 つまり陳寿が魏の時代の1里を知らなかった説だな
陳寿が記録寄せ集めたものを短里だのなんだの面白解釈しても仕方ないという
>>498 中国の史書はよほどの変化がない限りコピペで継承されていく形式なので古い短里のままだったんでしょう
数百年で日本列島が移動するわけないから
魏志倭人伝に書かれた里は、
帯方郡(ソウル近郊)→狗邪韓国(金官国):七千余里を根拠に、
700km÷七千余里=100m/里であることは疑いようのない事実であり、
狗邪韓国→對海國(対馬):100km÷千余里=100m/里
對海國→一大國(壱岐島):60〜100km÷千余里=60〜100m/里
一大國→末盧国(松浦):30〜50km÷千余里=30〜50m/里
末盧国→伊都國(糸島、怡土郡):30〜50km÷五百里=60〜100m/里
伊都國→奴国(那珂郡、那の津):10km÷百里=100m/里
奴国→不弥国(宇美):10km÷百里=100m/里
等、現在判明している地図上の距離から、
魏志倭人伝で使用されている1里は、
30〜100mである事は疑いようのない事実である。
にもかかわらず、「魏の1里は430mなんや!」
と言い張るのは、脳が逝かれている事の自白でしかない事を示している。
この様な人たちに関わることは時間の無駄でしかなく、
最低限、先ず魏志倭人伝の1里が数十m〜100m程度であることを
理解できる脳を持った人間の間で、
邪馬台国について考察検証するしか方法はないだろう。
>>507 客観的なことだけを言えば、韓伝も高句麗伝も倭人伝も、大幅に距離が盛られてるということ
なにか意図があって盛ったのならば、倭人伝にある戸数や日数も盛られている可能性が出てくる
短里とは、昭和時代に日本人が日本で創作した架空の距離単位
>>507 陳寿が集めた記録の中に短里のものが含まれていたんだ
東夷のものはそう
邪馬台国は近畿の勢力に滅ぼされたと見るんが遺跡の出土品の年代及び分布からも妥当やろなぁ 近畿由来の出土品は邪馬台国とかよりちと新しい
>>511 じゃあ陳寿が魏の時代の1里を知らなかったという主張で?
>>510 それは中国人の学者に否定されてる
里等の単位は時代や国毎に違っていたりするが
日数は不変だって。
・・・陳寿て元々蜀の役人でその後魏→晋てキャリアやなかったか
>>514 陳寿は魏の時代の1里400mくらいは知っていたが
東夷の1里80mに付いては知らなかったんだよ。
>>501 これも勘違いしてる人が沢山いるみたいだけど、日中の史書ともに卑弥呼と現皇室の系譜は全くつなげて考えてないよ
卑弥呼は単独のその時だけの祭祀のカリスマの代表者で誰とも系統は繋げてない
皇室の祖先はあくまでも神武天皇
>>485 古田武彦教祖は反天皇主義だから
『東日流外三郡誌』に待ってましたと跳びついて
騙されたのだ。
>>490 >>493 陳寿(てぃんぢょう)は魚豢(ぎょぐゎん/ぎょぐぇん)が書いた魏略をコピペした。
あるいは魚豢が読んだのと同じ郡の役人の報告書を読んで書いた。
>>514 何でそんなあり得ない結論に導こうとするんだ?
東夷の地理観や距離情報が間違ってただけ
>>513 畿内に存在していたクニと
北九州地方に存在していた邪馬台国とは
まったく別のクニで魏の時代には互いに
干渉すらしていず並立していたんじゃないかな?
魏が倭の代表として北九州の邪馬台国を遇していたのは
ただ北九州という地域が古くから古代中国と外交をもっていて
考古学的には紀元前2世紀の遺跡からも古代中国か朝鮮からもたらされた
鉄器が発見されているのが北九州地域
その当時の紀元前の遺跡なんて畿内にはなかったから
まだ畿内は紀元前二世紀にはクニすらなかったのかもしれない
古代中国と外交を古くからもっていた北九州が先進地域であって
畿内は新鋭国家といえ、卑弥呼の時代には魏とは外交もしていなかった
田舎のクニだったのだと想像している
>>519 陳寿が読んだ公孫氏時代の郡の役人の報告書が1里80mの短里のものだったんだ。
>>517 一里400mだと魏志倭人伝の距離は
とんでもなくデタラメになってしまうが
一里80mだと魏志倭人伝に書かれている
距離はほぼ正確になる
>>513 近畿が滅ぼされたんだろw半島から九州経由で来た渡来人によってw
それで建前だけでも乗っ取りではない、と主張するために九州邪馬台国の血統の神武を擁立
それが大和朝廷
>>516 蜀の魏も晋も1里は同じくらい
公孫氏だけが違った独自の里を使ってたんだ。
>>519 陳寿は魏略をただコピペしただけではなく、呉がらみの記述を慎重に削ってて
そのうえ南越の記述を加えてる可能性がある
陳寿はわかってて弄ってると思うわ
あとなんかみんな知らないみたいだけど中国は邪馬台国は大和だとちゃんと書いてる
そして九州はその邪馬台国の属国
で、九州王朝なんてものは存在しないと明記してる
簡単に書くとこう
「魏志倭人伝」
九州には一大卒が常駐している
「梁書、北史」
台与の後に男性王が即位して使節を継続して送ってきている
「隋書」
アメノタリシヒコが使節を送ってきた
その都は邪馬台国と同じである
「旧唐書」
アメノタリシヒコが各地方に一大卒を置いて支配している
※一大卒のいる九州は属領
「新唐書」
アメノタリシヒコは用明天皇(この記事は中国の独自記録で日本の丸写しではない)
神代から平安時代の天皇に至るまで途切れる事のない系譜を記載
神武天皇の時に都を筑紫から大和に移す
※用明天皇は当然神武天皇の後なので都は大和。なので邪馬台国も大和
※白村江の戦いの当事者の中国が日本の王朝が断絶してないと記載
「宋史」
日本は天皇も家臣も古代から変わらずに継続していると賞賛
これが中国史の日本観
最初から論争なんてどこにもない
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://2chb.net/r/history/1600092866/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 奈良が九州勢力に負けてアマテラスの傘下に入ったんだろうな、織田信長は日本海ルートのスサノオを拝んでいる、その証拠にスサノオ系の神社は焼きはらわなかった、つまり関ヶ原の戦いは日本海勢力と瀬戸内海勢力の激突だったと見ている
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
>>520 つまり帯方郡が無能なだけという主張だね
魏のお隣の韓伝や高句麗伝まで地理感や距離感が間違ってるという結論になるが
>>497 古田武彦のような空想非科学小説家じゃなくて
数学ができる理系の学者が書いたんだよ
その論文全部読んだか
文章読解力の無いオマエで分かるように図解もあるぞ
中学も御情けで卒業させてもらったオマエには
かなり難しい話でスマソ
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
>>533 と、中学の数学どころか
小学生の算数すら怪しい
低能畿内説信者が申しております
◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
(承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
「展」やってるのか
町おこしはもう少しまともに考えた方がいいぞ
観光なんてしょぼびから
しっかりした地場産業の育成した方がいい
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
陳寿の時代には地図がないので、
実際に1里が何mか、方角がただしいか、
検証しながら書くことは出来ない。
しかしながら、この現代では、
Google earthを元に、
帯方郡(ソウル近郊)から狗邪韓国(金官国)まで七千余里で、
ソレは実測700km程度だから、
1里はおよそ100mだなという事は簡単に分かる。
それを、「魏の時代の1里は430mやから、帯方郡から12000里は畿内なんや!」
というのは、要するにこの簡単な作業を行う脳を持ち合わせていないクルクルパーの自白をしているとしか言いようがないのであるが、
脳が逝かれている為に、自分がクルクルパーの自白をしているという事すら理解できていない
かわいそうな人間なのである。
この様な人たちに関わることは時間の無駄であり、
魏志倭人伝に書かれた1里が数十m〜100m程度であることは、
一生理解できない人間なのだから、
その様な人たちの残りの人生数十年に関わること無く、
我々の残りの人生数十年を、
最低限、算数の理解できる範囲以上のレベルを保証した中で、
邪馬台国について考察していく必要があるだろう。
>>518 ていうが、どことなく日本を支配していた元祖って感じで見てるのは共通項の
気がするけどね
>>543 畿内説の人は簡単な計算も出来ない痴呆症なんですね。
>>522 >>523 陳寿の三国志魏書明帝紀には
公孫淵討伐の行軍距離四千里と書いてる。
この4000里は倭人伝と異なる尺度で書いてる。
ことわり書きも無しでな。
つまりダブスタなのさ。
首尾一貫してないのは九州説信者と同じ支離滅裂www
>>543 春秋戦国時代から領土のやりとりの証文として地図が用いられた記述があんのにか
結論は
@東夷伝の1里は80mくらい
A女王国とは伊都国、奴国
12000里=7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里で女王国に到着
B帯方郡から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一日で邪馬壹国
C投馬国は朝鮮半島南部地域、邪馬壹国は北部九州地域全体、狗奴国は南部九州地域
ポイントは末盧国に上陸したのは呼子付近ってことだな
不弥国は那珂川市方面ってことになる。
>>544 史書や考古学から考えると、大和に成立した邪馬台国が政権として成長して、
最初の「共立」の一代限りの代表の時代から、世襲の王統に移行したという意味だろうな
その意味では大和朝廷の前段階の邪馬台国の卑弥呼は、直接的な繋がりは無いが大和に成立した政権そのものの始祖と言えるかもしれないな
しかも帯方郡がソウルとか、九州説信者の情報の古さはどうしようもない
帯方郡ソウル説が通用したのは昭和時代まで
522不要不急の名無しさん2020/09/24(木) 11:37:24.41ID:JtOGExTk0
>>546 >>519 >陳寿が読んだ公孫氏時代の郡の役人の報告書が1里80mの短里のものだったんだ。
そのとおり、つまり倭人伝に書かれているのは「公孫里」というわけだ。
>>546 東夷伝の地誌の記録は公孫氏の残した1里80mの短里
公孫淵討伐の行軍は魏軍の新たな報告書からだから魏の1里400mくらい
基になった資料を書いた人が違った里を使っていたんだ。
客観的に考えて、帯方郡(ソウル近郊)から狗邪韓国(金官国)まで七千余里で、
ソレは実測700km程度だから、1里はおよそ100mだなという事を理解できない脳を、
帯方郡(ソウル近郊)から狗邪韓国(金官国)まで七千余里で、
ソレは実測700km程度だから、1里はおよそ100mだなという事を理解出来る脳にする医学の技術が無い。
恐らく、ソレを理解できる脳に改良する医学の技術を人類が習得するのは、
邪馬台国がどこにあるかを判明させることよりも遥かに難しい事だろう。
現状の日本の考古学を語る上で、医学や精神心理学の分野にタッチする事はバカげており、
その様な人たちには関わらないようにすることが我々にとって重要だろう。
畿内説、北部九州説が、佐賀平野で大暴れしとるじゃないか(笑・笑・笑
>>549 履中天皇以前の天皇の在位年数は明らかにおかしいので、履中天皇以後数十代の平均在位年数である約11年を履中天皇以前に適用すると、神武天皇は卑弥呼が存在した年代になってしまい面白いことに
卑弥呼の時代前後に今の日本のはじまりとなる何かがあると思うわ
>>554 んじゃ、帯方郡はどこにあったのか言うてみい
>>506 蜀で仕官し、後に西晋でも仕官した陳寿が知らなかったわけないじゃん
>>556 佐賀平野は多分違うやろからて皆やりたい放題や
つまり、倭人伝に書かれているのは「公孫里」なのだ。
文句あっか
畿内説、北部九州説が自分らのスレ忘れて、佐賀平野で大暴れしとるじゃないか(笑・笑・笑
「邪馬台国」は「高天原」並みに実在性が乏しいと思う。
>>563 魏の時代(三国時代)の一里を、同時代の陳寿が知らないはずはない。
陳寿が知らなかったのは、朝鮮半島周辺の測定が正しくないということ。
魏略でもおかしいし、もっと前の何処かの誰か適当に書いた事を、真偽を確かめずそのまま書き写しただけ。
畿内説は日本人じゃ無いから知らない事実
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
1里は何m?
>>566 つまり東夷では魏の里数が用いられてなかったということだな
客観的に考えて、帯方郡(ソウル近郊)から狗邪韓国(金官国)まで七千余里で、
ソレは実測700km程度だから、1里はおよそ100mだなという事を理解できない脳が、
例えば纒向遺跡には大陸と頻繁に交流していた遺物がない事を理解できるだろうか?
と我々は考える。
そして出された結論はノーだ。
これ以上、言いようがない。
あまり言い過ぎると、感情論になってしまうので、
畿内説などに騙されてしまう脳の持ち主は消去して、
正しい思考回路を有する脳の持ち主の間で、
邪馬台国論争を昇華させていくしか無いだろう。
>>567 日本書紀が転機した元ネタが既に間違ってただけだよ。
狗奴国が熊本県の菊池郡あたりという説は
畿内説でも取っている人がいるくらいだから
狗奴国は熊本県にあったんだろ?
その狗奴国は邪馬台国の南にあり、邪馬台国と対立していた国という記述があるんだから
おのずと邪馬台国は熊本県菊池郡の北に位置していたと推測できるだろ?
そして唐突だけど松本清張が熊本県和泉町にあるトンカラリン遺跡を
卑弥呼の鬼道であるという説を唱えたように
トンカラリンがある地域に邪馬台国はあったのだと思えて仕方ない
トンカラリンについてはいつにできたものか、まるで解明されていないが
トンカラリン遺跡から発掘された女性の変形頭蓋骨については、人為的に幼い子供の時から
縄などを使って頭蓋骨を変形させたものであることがわかっている
このような風習は南米のシャーマンとされる頭蓋骨にもみられることで、人間の頭を変形させることで
特別な力がある巫女だということを周囲の人間にわからせるためにやっていたそうだ
こんな奇妙な風習がある時代に作られたトンカラリンということを考えれば
相当古い遺跡であるということはわかる
なぜなら現代人はおろか古代でも日本ではこんな風変りな風習は他に類を見ない
かなり古い時代に途絶えた風習であろう
卑弥呼の時代の遺跡と考えても不自然ではないと思える
その昔、大陸から密教の蛇の目を使って日本に術をかけようとしたんだ
だからアマテラスは岩陰に隠れてしまった
八尺瓊勾玉(女性が好き好む宝石)を見せてアマテラスに出て来てもらおうと思ったんだけど、アマテラスは一向に出て来なかった
そこで八咫鏡を造らせてアマテラスに差し出し「あなたの恐れの正体はこれです、恐れる事は何もありません」と言ったんだ
そしてスサノオは精神の中で天叢雲剣を使ってヤマタノオロチ(蛇の目)の胴体を断ち切ったんだ
民衆は術のことがわからないから後に精神の中で使った天叢雲剣を造らせて、胴体から出て来たことにしたんだ
「日」という文字は元々⦿←これだよ
真ん中の点は空洞ではないことを示している
それが変化して日の文字になったんだ
術をかけることに失敗した大陸人はどうしたのか?朝鮮仏教を使ってこの国に侵入し、民衆の方から支配したんだ
そして701年に国名を日本に変更させたんだ
これによって蛇の目の術をかけることに成功したんだ
つまり日本という国はすでに中国の手中にあるというわけなんだ
1400年以上続く術なんだ
すぐに国名を「大和」に変えなければいけないんだ
どうやら、佐賀平野〜吉野ヶ里が主戦場になって参りました。
どっちもがんばれー
>>509 末盧国→伊都國は南東に陸行と倭人伝原文に書いてるけど
糸島、怡土郡は松浦誤差はあるものの北東方向だ
だから倭人伝は方向を間違ってるという証拠の一つになる。
>>574 日本書紀には魏書を引用した記述もあるって知ってる?
>>572 トンカラリンはまさに鬼道が存在した痕跡だな
ちなみに桃は鬼にとっての天敵
>>577 魏の時代に任那や筑紫があったのかw
池沼レベルだなw
>>572 自己レス
もしもトンカラリンが卑弥呼時代の遺跡で
変形頭蓋骨が巫女に対して行われていた風習だとしたら
卑弥呼の頭も変形されていた可能性がある
そしてトンカラリンから出土された変形頭蓋骨を
テレビ番組で復元してCGにしている
これがその時の復元CG
もしも卑弥呼がこんな顔していたら...
>>576 どうやら、自分のほうが間違ってたことに気づいたようだな(笑
八咫鏡(複製)
密教の蛇の目
鏡と言っているのは「跳ね返す」からなんだ
東夷伝里、倭人伝里が短里なのは見栄。
魏帝は公孫氏、韓征伐の後、倭人国との同盟を背景に東夷を安定。
この後、三国志の覇者となった。 これが東夷伝の意義。
女王国は
参問倭地 絶在海中 洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
である。 糸島、福岡、筑紫平野を大きく外れない。
こんなもんを 倭国王との同盟関係として
正規の里程で、三国志に記載できるか?
女王国は245年の黄幢、韓制圧戦への檄にも応えてはいない。
評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
三国志、戦史としては恥であるが、東夷への希少な探検記として
陳寿は、記述を残したかったのである。
中国学者は既に文明化していて、
南北で中原より巨大な日本列島を
女王国などと言う一代名称で記録したりはしない。
>>576 魏志倭人伝では対馬と壱岐の位置関係が南北と書かれている
魏志倭人伝の記述
「至對馬國(対馬)〜乗船南北市糴〜又南渡一海千餘里〜至一大國(壱岐)〜亦南北市
糴」
つまり対馬←→壱岐の位置関係が南北と記載されているので、
そして邪馬台国は上陸地点より南の方
>>584 1の図の方位と2の図の方位が、ひどくずれてる(笑)
>>170 そろそろ、この長文に嘘がいくつ書かれてるかクイズの正解をお願いします
>>576 末盧国→伊都国
呼子付近から平原古墳は略東方向だが
「濱山海居」呼子付近の風景
「草木茂盛行不見前人」東松浦半島内の風景
「好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之」二丈の海岸の風景
と順を追って描写されており
東松浦半島を南下し唐津市付近から東へ向かったので
向きを東南と記したのであろう。
>>588 576
>末盧国→伊都國は南東に陸行と倭人伝原文に書いてるけど、、、
きちんと読めてるのに、作者は間違ってると頑張るのは、傲慢、慢心、自分詐欺。
つまり自分で自分を騙してる哀れな状態、、。
>>558 帯方郡は黄海道から京畿道にかけて存在し郡治は黄海道にあった
魏使は郡治からではなく黄海道の南の海岸からいきなり出発してるね。
>>589 作者は間違ってるのではなく報告した人が感覚で方向を書いたんだよ
だいたい南方向に進んで途中からだいたい東へ向かった
正確に方角を測量しながら進んだのではないんだ
呼子付近から平原方面は見通せないからね。
240年来日の軍人、遣建中校尉梯儁は、伊都に駐留させられていない。
皇帝の命で、卑弥呼に印綬に来た正規軍の武将である。
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王
であれば、戦争になる。 博多湾に上陸し、卑弥呼宮へ行軍した。
卑弥呼は筑紫平野南限に臺を構えていた。
ここまでが、
南至投馬國 水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
帯方郡から萬二千里である。
247年来日の張政は、245年の檄に応えない女王国の視察に倭人船に便乗できた。
246年に韓制圧を終え、日本は九州と連合し対魏で防衛態勢に入った。
張政は、博多湾に入れず糸島上陸、伊都まで南東500里を歩かされた。
全行程は倭人船寄港地名の里程積算で萬五百里である。
>>590 そうか黄海道か、そりゃよかったな。
で、楽浪郡はどこにあったのか、言うてみい。
しかしいくら文字がなかったとはいえ空白の150年はあまりに異常すぎる
多民族に征服されたわけでもないこの小さな島国で
>>591 おまい、自分で自分を騙そうと必死になっているのだぞ。哀れ、哀れ、、
九州土人はいつまでインチキパズルやってるんだよ
遺構の一つでも出してみろよ
そんなもの出るわけないが
>>273 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還
因詣「臺」 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔
青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
「臺」は、魏の都に使われるほどの字であり
当時の陳寿的に、倭人の国名に使うわけがないってw
>>594 空白の4世紀は中国側の事情に過ぎない
晋の滅亡から五胡一六国、南北朝と言う政治的な動乱で史書どころじゃないだけの事
日本は古墳時代に移行してそのシステムが時代を追うごとに強固なものに変わっていく発展段階
空白どころか大和朝廷の成長の時代
畿内土人は、いつまでインチキ掘りやってるんだよ
行程の里さえ、きちんと言えないのに・・。
>>595 末盧国への上陸場所は呼子付近
呼子付近から500里(40km)で伊都国と末盧国の境に到着
>>599 それで、帯方郡が黄海道にあったとして、倭人伝と佐賀説の関係のどこが不都合なんだい
一日中邪馬台国スレに張り付いてる基地外がいるのもこのスレの恒例だなw
>>602 不都合なんて言ってないよ???
聞かれたから答えたまで
>>601 呼子に上陸して唐津〜糸島まで重い荷物を背負ってあるくなんざ、余計なこった。
船で来てるんだから、直接唐津でも良い。糸島深江にでも入ればもっと良い。
おまい、自分で自分を騙そうと必死になっているのだぞ。哀れ、哀れのイトチュー笑坊主、
>>600 どうやったって九州なんかに収まらないだろ
畿内は方角を変えれば整合する
方角を誤認する当時の地図もあるからな
もうそういう使い古されたインチキパズルはいらない
現物を出せや
>>604 なんだ、佐賀に文句付けておいて冷やかしかい
>>606 年号も証拠の文字もない現物は、ただのガラクタか残飯
>>605 遠浅の海岸では中国船が直接接岸出来ない荷物の陸揚げの手間
船の停泊の安全も考慮して天然の良港の呼子付近に条理したんだろ
重い荷物は後で倭人が運んでくれる
軽い目録のみ持って行けばいい。
>>605 遠浅の海岸では中国船が直接接岸出来ない荷物の陸揚げの手間
船の停泊の安全も考慮して天然の良港の呼子付近に上陸したんだろ
重い荷物は後で倭人が運んでくれる
軽い目録のみ持って行けばいい。
>>608 遺構が出てるだろが
なにが残飯だ
ふざけんなよ糞土人
>>608 纒向から出てきた現物の遺跡は
むしろ邪馬台国は畿内になかったという
裏付けになっているよな
なぜなら纒向から出土された鏡に刻まれた
年号は魏では使われてなかった年号が彫られていることから
倭国で模造した鏡だということが判明している
魏から鏡を輸入していた邪馬台国では起きえないことなんだよ
つまり畿内は魏とは貿易できなかったから
鏡をわざわざ偽造していました、という証拠が纒向古墳の遺跡w
赤塚古墳の三角縁も、中広形も、吉野ケ里も邪馬台国とズレてるのに
「邪馬台国があったと考えられている九州と近畿」とか二回も書いてる辺りもう必死だなとしかw
まぁ邪馬台国とか言うと人が来るんだろうな
>>614 は?
まったく収まってないだろ
馬鹿かこいつは
>>597 240年の卑弥呼宮は
筑紫平野南限、狗奴国国境であり、高楼=「臺」が有った。
梯儁が参問した女王共立21国のうち、次有邪馬國に在った。
これをランドマークとして21国名を漢字にした梯儁が女王国=邪馬臺国と仮称した。
臺が曹操の高楼であり使えなかったので変えたのは陳寿であり仮称の命名は梯儁。
古代倭人語の地名を古代中国人の当て字の漢字で比定するのはミスリードのもとだ。
マツウラだのヤマトなんて関係ない。
>>616 北部九州地域全体が邪馬壹国だよ
邪馬壹国の中に伊都国や奴国、傍国がある
結論は
@東夷伝の1里は80mくらい
A女王国とは伊都国、奴国
12000里=7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里で女王国に到着
B帯方郡から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一日で邪馬壹国
C投馬国は朝鮮半島南部地域、邪馬壹国は北部九州地域全体、狗奴国は南部九州地域
ポイントは末盧国に上陸したのは呼子付近ってことだな
不弥国は那珂川市方面ってことになる。
>>613 鏡は国産のものを大量に生産できたということだろ馬鹿か
九州は遺構がまったく出てないだろが
>>606 方角変えても近畿には到着せんぞw
1里430mで何千kmあるのか計算してみな
近畿説は里数も方角も無視しないと到着できない
>>618 で、不彌国はどこなんだい、逃げるなよ。
>>618 対馬を800里周回しましたとか、壱岐を600里周回しましたという文面・文字面はない。改ざんでっちあげ。
初期の和製鏡は九州で作って畿内で配った。
九州と統合したのは公孫氏滅亡以降、245年韓制圧戦の間。
つまり、238年卑弥呼の朝貢〜魏との断交の247年までに筑紫統合が有った。
本州銅鏡文化=古墳時代の始まりである。
邪馬台国論争で濁している倭人伝には、極めて重要な古代史が記されている。
筑紫統合以降の年紀和製鏡は畿内でも作られる。
製造技術は、銅鐸文化の本州の方が高度だったのでは?
>>618 で、不彌国はどうなったんだい、逃げるなよ。
>>589 九州莫迦は痛いところを突かれると
罵詈雑言で避難したり
魯迅の「阿Q正伝」の精神的勝利法を並べたりする
>>618 C投馬国は朝鮮半島南部地域だなんてことは書いてない。
そこには、狗邪韓国があったと明記されてるのだが、
投馬国も有ったというのなら、狗邪韓国と投馬国の位置、方角、里数はどれだけで、どこに書いてあるのか?、
豊前の国はいわゆる奴国周辺の勢力とは趣が違う
関係は強く見て取れるものの文化的にどちらかと言うと出雲方面からの影響が大きい
特に宗像は奴国周辺とは距離を置いた独立勢力的な情況を呈している
神話で須佐之男命の娘の宗像三女神がいる場所なのが興味深いところだな
博多湾とは別の大陸への玄関口として出雲にその場所を提供していた関係があるのだろう
>>403 亀の甲羅占いは漢字の元祖の甲骨文を亀の甲や
獣骨などに書いた殷人と縄文人、倭人(わにん)が交流していた証拠
>>632 な〜んだ、
畿内説が、北部九州説や古田説に化けてるのか、どうりで幼稚と思ったわ。
>>636はちょっと書き方が違ったな
豊前と筑前東部は出雲の影響が大きい
九州と言うと簡単に一つの文化圏だと勘違いしてる人が沢山いるが別々の物が並立してて統合されてない
大体4つくらいの文化圏に分かれている
「九州だから全部同じ」とか言うのはそもそも基本的な知識が足りてない
九州だからどこでも良いだろう的な論を出す人をよく見かけるが論外としか言いようがない
畿内説が間違いである事が理解できない人は脳に欠陥がある。
残念だが我々にはどうする事も出来ないのだよ。
>>597 それは古田武彦教祖の「邪馬台国はなかった」とい経典に書いてある題目www
末路国から見たら伊都国が南東にあるというのと同じ
お門違いwww
>>170 クイズの正解発表はまだですか?
この長文にいくつ嘘が書かれてるんですか?
魏が半島から公孫氏を追ったのは238年。
240年来日の梯儁が半島西岸を南下したのも初探検だっただろう。
韓はまだ魏の勢力下には無い。
韓制圧戦は246年に韓王朝滅亡で終る。
韓伝にはこれ以降の調査結果が記されている。
狗邪韓国は、韓伝では弁辰狗邪国
投馬国 は邪馬臺国同様、初探検者、梯儁の仮称国名
邪馬臺国も邪馬国にある卑弥呼の臺と言う表意文字命名だが
これは、倭人に参問して、漢字化したのではなく表意文字で命名している。
投馬国は、馬韓を過ぎた場所の国、弁辰韓24国が5万戸である。
>>622 言っている意味わかりますか?
纒向から出てきた遺物は
魏からの輸入品ではないので
この遺物があるから邪馬台国の証拠ですとは
言えないと言っているんだぞ
理解力がない馬鹿だな
正常な脳の持ち主なら、
魏志倭人伝には妻国=宮崎県が記載されているのに、
その手前の豊の国が記載されていないのは
何故なのかという問題に行き着く。
そして豊の姫が卑弥呼の後の邪馬台国の女王になる事から、
豊の国は当時は邪馬台国の一部だったと言う結論に至るだろう。
コレがすんなり腑に落ちる方は、
正常な脳を有しているので
安心して欲しい。
>>592 >卑弥呼に印綬に来た
印綬とは動詞じゃなくて名詞なんだが
[silk ribbon used to fasten seals and correspondence] 旧时称印信和系印的绶带
印信(=印を授ける経緯(いきさつ)を書いた文書(もんじょ))と印を結ぶ絹で作ったリボン状の紐のことなんだが
ちゃんと藤堂明保の学研漢和大辞典でも引いてから書けよ
小卒中卒馬鹿
正常な脳の持ち主なら、
投馬国の彌彌、彌彌那利が、
耳川や美々津の彌彌だと察する事ができるでしょうね。
もちろん、投馬国=妻、都萬である事もね。
>>456 国といっても江戸時代の60余国より狭い郡、郷レベルだけどな
>>640 豊前豊後にゃ出雲大神氏系の氏族が根を張っとるからの
畿内説は脳に異常がある方が称えた論なので筋が悪い。
せめて当時の畿内では先進地だった
河内ぐらいにしておけば良かったのに、
何故纒向?筋が悪いとしか言いようが無いなあ。。。
考古学的に見るとまず筑前西部地域、いわゆる奴国、伊都国周辺に急激に畿内の文化の影響が色濃く表れだす
そして全国でもかなり早い段階の畿内の纏向型とほぼ同じ時期に那珂八幡古墳が出現する
この同時か少し遅れた時期に西都原古墳が形成される
それから古墳の定型化が進んだ頃に豊前に大型の前方後円墳が出現するという流れ
畿内の邪馬台国連合の拡大はまず、奴国、伊都国という九州主要部を取り込んだのちに辺縁部を組み込んでいく流れと言える
これは景行天皇の遠征の状況とも合致して興味深い
出雲との関連で言うと、
伊勢神宮外宮に関連する
元伊勢籠神社の宮司が、
丹波氏を祖先とする海部氏なんだよ。
で、丹波氏は卑弥呼の墓である祇園山古墳のある
高良大社の大祝家でもあった。
外宮が祀るのが豊受大神で、
こっちがトヨの方かなあ。
>>455 まったくだ
【稲作の分布】古代は九州のほうが圧倒的に大きい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない
弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
九州に7万戸でも畿内には7000戸とかでしょう。
畿内の狭い見識を九州や他の地方に当てはめて論じています。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
チョット前まで、漢委奴国王の金印が、
何故どうして志賀島から出土したのか、分からない。
とか畿内説の異常者ドモは言っちゃってた。
しかしだ、正常な脳の持ち主であれば、
「奴国を構成していた安曇族の氏神が祀られている志賀海神社のある志賀島から、
奴国王に授けられた金印が出土するのは必然である(ズビシッ」
という理論が1秒で理解できると思う。
去年かの調査で那珂八幡古墳の形状は近畿の纒向タイプつうより九州北部の赤塚あたりの雛型やて話にならんかったか
邪馬台国は韓国で奈良百済はヤマト王権が最新の学説なんだよな
頭の固い日本の学者は古い自説に固執して困る
まあ朝鮮半島からの渡海が合計3000里で、帯方郡から女王国まで1万2000里と記されちゃってるんだからどう考えても九州だわな
>>609 昔日本一の貿易港神戸の港の至近距離に住んでた吾輩が教えて遣わす。
港には沖仲仕というのが居て沖に投錨した大型船から小型船に荷物を積みかえて陸揚げした。
荷役労働者が居たんだわ。
関門港の女沖仲仕の存在は、同港独特の「天狗取り」と呼ばれる石炭荷役とともに名物として知られた。
「長周新聞 > 記事一覧 > 書評・テレビ評 > 写真記録『関門港の女沖仲仕たち』 著・林えいだい
「写真記録『関門港の女沖仲仕たち』 著・林えいだい」で検索してみろ
だが、機械化やエネルギー転換など戦後の変化のなかで1973年、女子労働者の第1次首切りが始まって次第に姿を消した。
1960年前後にはエネルギー革命で1950年代〜1960年代
エネルギー源が石炭から石油(重油、ガソリン、ディーゼル油、灯油)に変わっていった。当時のリカや社会の教科書には
石炭を熱源にした蒸気機関車と電気機関車や電車を比較した文章が乗ってた。
筑豊の炭鉱労働者が阪神工業地帯へ10万人単位で移住してきた。
ニコヨン
1949年6月、東京都の失業対策事業として職業安定所が支払う日雇い労働者への定額日給を240円と定めた。そしてこの百円2枚と十円4枚という日当から
日雇い労働者のことをニコヨンと呼んだ。ただし、日当の額の変化とともに意味を成さなくなり、この呼び方は使われなくなる。
ニコヨンは東京だけではなく日本全国で使われ、神戸でも人口に膾炙した。
>>657
日本の歴史は根本から胡散臭い 5ちゃんから正当日本史を発信していこうぜ!!(笑)
志賀島の金印はその出土地点・印文(「漢委奴国王」)から、かつて博多湾岸に存在した奴国王が、後漢の光武帝から
建武中元二年(57)に授与されたものとされてきた。
しかし、この「漢委奴国王」の印文の読み(「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と三段に区切る読み方)は正しくない。
「漢の委の奴の国王」
わ な
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
現代中国人は漢委奴国王をどう読むか?
仏教大学の黄當時教授は、2014年の10月に開催された
「第8回金印シンポジウム志賀島」において、
「金印の韻文は『漢の委奴の国王』と2段に読むしかない」
『3段読みは』致命的ともいえる欠陥を抱えている。固執は不毛である」
と述べ、また委奴国という漢字を見せられて、「ヤマト」「ワノナ」
と読む中国人はいないと断定している。
↑畿内厨!!! (笑) しかし、現代にも残る鏡割りの風習が、
実は邪馬台国時代から受け継がれた風習だったとはな。
脳が正常なら、考古学に謎は無い。
>>630
その通り!!
銅鐸をつくっていて神武側に寝返った人(日よった)たちな
内物部 具体的には 伊福部氏とか >>661 分かりやすい
これを見てもまだ畿内とか言うやつは知能に欠陥があるから特殊学級に入れたほうがいいな
>>649 「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。
仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。
奴佳鞮
ぬかて
なかとみ
中臣郷
中臣鎌足
中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい)
>>640 そりゃ南に狗奴国があって争っていたと書いてあるんだから統合なんてされてるわけない
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178 > 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる
支那人が去った別府「ウリが邪馬台国ニダー!ウリの勝利ニダアアア!」
瀕死の佐賀「ウリこそが邪馬台国ニダー!ジャップ涙目wwww」
阿波踊り利権壊滅の徳島「ウリの山奥から証拠が出たニダー!」
奈良「・・・あっそ。好きにして」
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる
>>656 播磨が抜けてるな
わざと省略する九州説信者はイカ様師
やり直し
清盛の時代はうまいコメがたくさん獲れる
播磨の国守になるのが貴族たちのあこがれだったんだが。
播磨も淡路も大和の同盟国
弥生時代は淡路島の鉄器工房で加工したものを大和に供給していた。
日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に
>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
邪馬台国の場所は、政治的・宗教的にこうじゃないと困るっていう人が多い
だから、純粋に科学的な意味で決まるものは無い
>>672 残念嘘つきは君です
淡路島の製鉄所からは北部九州式の返しのついたヤスが見つかっている
瀬戸内海を制していた北部九州の海人族の遺跡だよあれは
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf > エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
弥生時代の海の勢力図
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下
九州の博多湾周辺はかなり早い段階で畿内の影響下に入っている
出雲の影響の強い九州東部地域は定型化後に畿内に組み込まれる図式
畿内の邪馬台国の拡大を見ると以下のようになる
@瀬戸内海周辺、吉備
A九州の博多湾周辺、日向
B出雲
C九州東部地域
という動きになる
記紀でも大和朝廷の最初の目標は出雲にある
出雲を潰したのちに九州に遠征し、出雲の影響の強い九州東部地域、熊襲を取り込んでいく形
記紀の記載と考古学的な見地が合致すると言える
>>663 後漢書倭伝より
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也
光武賜以印綬
倭奴国は倭国の南の端とはっきりと書いてる。
後漢の頃の倭国とは九州全域。
倭奴国本国が九州南端にあり、当時の倭国九州全域の百余国を総ていた。
交易に便利な九州北部に倭奴国は遷都、若しくは政庁を設けた。
それが糸島であり、志賀島の原点。
倭奴国で男王の死去をきっかけに、倭国大乱で百余国が乱れた。
物資の便のいい北九州三十国が女王卑弥呼を立て倭奴国連合から離脱。
この際に金印は志賀島に残ったままとなった。
後漢の頃の本国がである九州南部に撤退した倭奴国は、分離独立した北部三十国を再併呑する為に再度北上を開始する。
北部三十国は魏の使者に、南方にあるのは倭奴国ではなく、狗奴国だと、蔑称で説明した。
>>627、
>>631 不彌国は那珂川市方面ってことになる。
>>629 帯方郡内の行程の記述は無い
海上移動が7000里、1000里で対馬の北端
対馬国内の移動が半周800里
同じく一大国内の移動が半周600里
末盧国の北端に着き、伊都国との国境までが500里
>>635 投馬国の中心が狗邪韓国で
「東西以海為限南與倭接」とある朝鮮半島南部地域の倭地
倭地なので韓伝ではなく倭人伝に書かれてる。
>>661>>666
こんなインチキで騙せると思ってるやつは知能に欠陥があるから特殊学級に入れたほうがいいな
>>678 当時は朝鮮半島南部地域から北部九州地域が倭国で
博多湾付近の倭奴国が極南界だったんだ。
畿内説が、ある時は北部九州説、またある時は古田説、さらにある時は祇園山説に化けて、
九州地方を巡業しながら荒らしまわっているようです。
ご承知おきください。
>>680 反論できずに罵倒するだけの負け犬畿内w
魏志倭人伝を読み解く時、論点となるのは地名だが、ほぼこれで合ってるだろ。
地名は簡単には変わらないから、歴史を読み解く時に最重要なポイント。
末盧国(松浦)
伊都国(糸島)
奴国(那の津→博多)
不弥国(宇美)
投馬国(鞆)
邪馬台国(大和)
狗奴国(熊野)
>>681 それで後漢の頃に百国もあったと?
無理だろ
>>669,671,673
狗奴国との比較で言えばそうならざるを得ないよな
やっぱり出土物との一致は強い
そもそも歴史と言うのは同時代の史書を読み比べて妥当と思われる状況を読み取ることにある
なので比較対象のない書物はそれ単独では意味をなさない
記紀が長らく歴史扱いされなかったのは比較対象する同時代の資料が無いから
そのために単独の史書に対しては考古学等の他の資料を参考とする
これが歴史研究の基本
その為に倭人伝だけを持ち出して「解釈して読み解いた」だの「行程を解き明かした」等と言う話は、
どんなに尤もらしいことを言おうが一切かえりみる価値など皆無である
世の中に出回る「解明」等と称する本のほぼ全部がこれ
論外としか言いようがない
>>685 言語学者・長田夏樹は、日本の古代言語は三つの異なる地域に分けられるという
すなわち、S音の北部九州、ts音の近畿、tf音の東国
魏志倭人伝を分析すると、ほとんどがS音をつかっていることが明らかであり
これから推測すると、S方言圏は北部九州であり、
つきつめて言えば、記紀に書かれていないことが
ヤマト側にとって都合がわるいこと
銅鐸 → 無視
卑弥呼 → 神功皇后
免田式土器も悪くはない。
がしかし、あれは少なくとも200-300年にわたって作られたもので、
その分布もまた、狗奴国の200-300年にわたる興亡の歴史を示すものであるから、これを以て魏朝当時の狗奴国を占うことは困難であろう。
>>480 違う
継体天皇は枚方樟葉で即位している
ちなみに樟葉の由来は言わない方がいいw
>>689 >そのために単独の史書に対しては考古学等の他の資料を参考とする
>これが歴史研究の基本
そうそう、鉄とか絹とか矛とかの倭人伝の記述に考古学史料が一切合わない畿内は論外だよな
ホント畿内説は歴史研究の基本を無視しすぎだから困る
>>685 >不弥国(宇美)
奴国日向峠付近からたった100里(8km)では宇美は着かないよ
方角も違う
県道56号線で早良区へ抜けて県道575号線で那珂川市方面が不弥国
不弥国の次に来るのは傍国の斯馬國で
投馬国は帯方郡から水行20日の所
隼人は平安時代に武人として警護にあたっており、邪馬台国(ヤマト)が
九州であってことが裏付けられる、ヤマトの首領が高千穂辺りで南九州の
部族(隼人)との会合或は争いがあり、隼人が弓矢の名手と言えども北部九州の鉄器文化には
服従しなければならなく、ヤマトの首領に従って、平安時代まで忠誠を誓ったのではないか、
>>671 ほほうこれは興味深いな
狗奴国がそのへんならその北にある邪馬台国は北部九州で決まりだな
>>684 そういう糞レスは、朝鮮半島からの渡海の合計3000里が1万2000里の「基準」になってたことを証明してからにしろ
なんで魏代の里は、朝鮮半島から倭国への距離が「基準」になるんだよ?
ばかばかしい作り話
>>673 コレは邪馬台国に豊の国を足した方がいい。
>>694 奴国とはどの範囲で、奴国日向峠付近とは、現在のどこに当たるのか??
>>698 福岡の山門だね
>>673でもそうなってるし
ヤマト王権が近畿にできたのは間違いないわけだから、
邪馬台国が近畿ならヤマト王権の起源だろうし、
そうでなければ地方のクニの記録が、偶然、シナの文献に残った。
それだけだな。
>>699 そのへんは女王を共立したクニなんだろ
佐賀もたぶんそう
30国くらいの連合だったって書いてあるし
畿内説が、ある時は北部九州説、またある時は古田説、さらにある時は祇園山説に化けて、
九州地方を巡業しながら荒らしまわっているようです。
相手しないでください、虫々。
>>702 邪馬台国は後漢末期から西晋初期までの百年も保たずに滅んだ九州北部の地方集団だよ。
元の百国から七十対三十で敵うはずもない。
>>700 奴国日向峠付近とは県道49号線の糸島市と福岡市の境の峠だよ
奴国とは博多湾一帯の地域で不弥国(那珂川市方面)へ行くには早良区を横切って行ったんだ
日向峠付近は不弥国へ行くには通らないね
ヤマトといえば、熊本・菊池にも山門郷があった。
その近くには、「砦村・臺」という地名が残り、「臺簡易郵便局」さえ現存する。
>>702 偶然とか地方とかいう考え方がまずオカシイ
北九州地方こそ、この時代では先進地域であって
畿内はその当時は、田舎で
魏とは貿易もしていなかったので
魏は後に大和政権になるクニの存在を把握できていなかったってことだろう
>>710 先進地域の割には近畿と比べて全然、痕跡がないだろ。
>>703 それは違う。
豊の国は卑弥呼の後に姫を女王に付けた有力地でありながら、
魏志倭人伝に記述が一切ない。
しかも投馬国の手前にあるのにも関わらずだ。
従って、後の豊の国が、当時は邪馬台国の一部だったと結論付けられる。
>>708 卑弥呼の後継者が、たった十三歳の占い少女って時点で諦めて降伏したんだろ。
>>702 @中国史書は邪馬台国と大和朝廷の位置を同じとしている
A卑弥呼と大和朝廷の系譜は繋がらない
という形になっている
なので初期の王を諸国が共立する連合段階の邪馬台国が、世襲王の大和朝廷に変化したという動きだろう
×邪馬台国=大和朝廷
〇共立された一代限りの王の国の邪馬台国⇒世襲の大和朝廷
これは弥生時代終末期に畿内に出現した勢力とその後の古墳時代の勢力の拡大の連続性が見いだせる事から理解できる
世襲化のような政権の発展の画期は古墳の定型化がその境だろう
>>708 太宰府とか大きな痕跡が残っているよ
>>709 北部九州地域各地に残るヤマトは北部九州地域全体が邪馬壹国だった名残だな
>>707 では、これはどういう意味なのかな。(まやかしか?)
「奴国日向峠付近からたった100里(8km)では宇美は着かないよ
方角も違う」
>>711 だから時代による
後に畿内に強力な政権ができた後の
遺跡をもって、この時代も発展していたのに
違いないと思い込んでいるだけ
この時代よりもはるか以前の紀元前二世紀の北九州の遺跡からは
古代中国から輸入されてきた鉄器が発掘されている
太宰府は何百年も後の話で、大和朝廷のの出先機関でしかない。
>>718 吉野ヶ里遺跡は
紀元前3世紀からとされている
>>694 >
>>685 >>不弥国(宇美)
>
>奴国日向峠付近からたった100里(8km)では宇美は着かないよ
>方角も違う
>県道56号線で早良区へ抜けて県道575号線で那珂川市方面が不弥国
>不弥国の次に来るのは傍国の斯馬國で
>投馬国は帯方郡から水行20日の所
魏志倭人伝の何処に日向峠からと記されているのですか?
博多から宇美は南東方面、しかも海岸線は今より内陸にあった。
従って、距離100里は合ってる。
あと、投馬国が帯方郡からの日数というのも、何処に記されているのですか?
>>716 宇美町へ向かうには日向峠付近を通るけど方角が違うから通らない
距離も100里(8km)では足らない。
弥生時代終末期に畿内に出現した勢力はそのまま絶えることなく全国的に影響を発展拡大させてそのまま古墳時代に突入している
この動きから最早他の地域に中心など見出す方が不自然な状況
この弥生出現した勢力が系譜などの詳細はともかくとして古墳の主体大和朝廷へと発展したことは疑いの余地はない
邪馬台国⇒発展的変化⇒大和朝廷と言う動きは間違いないだろう
>>720 魏使は呼子付近に上陸して
呼子付近から500里(40km)で伊都国との国境へ
そこから100里で奴国との国境
更に100里では油山や七隈くらいまでしか行けない。
遺跡調査するより先に考古学会の体質について公開調査を実施するべきだなw
そっちの方が盛り上がるかもよw
>>717 紀元前二世紀の遺跡とか邪馬台国とは関係ない話
無関係なものを持ち出しての詭弁
魏との交流痕跡を見つけて出直して来い
1〜3世紀 豊後・肥前等の土蜘蛛征伐
3世紀 邪馬台国と狗奴国が対立
4〜8世紀 球磨川と宮崎の一ツ瀬川以南に独自の古墳文化
8世紀 隼人の乱
>>711 畿内こそ痕跡ないやん その後の時代に勢力拡げた痕跡ならあるけど
先ず邪馬台国以前に何があったかを、
歴史の流れの中で理解しておいて欲しい。
ソレは後漢書東夷伝に記載された奴国だ。
奴国は武帝から金印を授けられるほど国力があった。
要するに、貢物が封印しなければいけないぐらい立派なモノだった訳だ。
その国力とは、何で示されるかと言えば、
銅鉾銅剣の分布だ。
銅鉾銅剣の分布は、西日本一帯に広がるぐらい大きい。
これをより詳しく時代検証して、
邪馬台国以前の分布範囲が、
奴国が共同体を営んでいた倭国の形であり、
コレが倭国大乱によって分裂して、
博多湾周辺の奴国の本拠地が、
邪馬台国に支配された状態が、
3世紀なのである。
>>722 邪馬台国と大和朝廷とは直接つながりがないと思う
風俗が違いすぎると感じる
邪馬台国は男はみな顔に入れ墨を入れているとされている
これが後の大和朝廷のもとになったクニとは思えない
また、邪馬台国とは違うかも知れないが
上であげたトンカラリン遺跡から出土している
女性の変形頭蓋骨4体、人為的に幼いころから
ヒモなどで緊縛して、頭の骨の形を変形させるという
異質な風習、地域の位置的な一致もあるので
オレはトンカラリンは邪馬台国の遺跡だと思う
こんな奇妙な風習も大和朝廷とは異質としか感じられない
邪馬台国を含む北九州地方に存在した倭のクニは
後に大和朝廷に征服されて、顔入れ墨や頭蓋骨を変形させる風習が
途絶えたと思える
>>720 >>618 >@東夷伝の1里は80mくらい
>A女王国とは伊都国、奴国
>12000里=7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里で女王国に到着
>B帯方郡から水行二十日で投馬国、水行十日陸行一日で邪馬壹国
伊都国と奴国の国境付近で12000里に達して里程の説明は終了しているから
日数は再び帯方郡からのもので、距離と時間で同じ行程を説明している。
>>630 伊都国や奴国などが滅亡して統合され、筑紫國(随書)として生まれ変わったのは
確かに倭の五王の前の時代に西に66国平らげた時だろうね
>>725 紀元前の遺跡の話を持ち出したのは
北九州地方が畿内よりも先進地域だったということだよ
畿内のクニなんかよりも何世紀も早い時期から
古代中国と貿易をしていた地域であったということ
その地域に栄えた国が倭国の代表として
魏との窓口になっていたのは自然の成り行きだと思わないかね?
しかも、この邪馬台国の時代に、
既にその長官が投馬国の豪族、
生目だったと言う訳だから、
歴史というのは複雑だ。
>>728 奴国と伊都国が邪馬壹国の中心たる女王国
女王卑弥呼を共立した国
>>735 まったく思わない
紀元前に九州が反映してたから3世紀中頃に魏と外交交渉を行ったのが九州だ
というの論理の飛躍
伊都国と奴国を除いて、魏との交流痕跡がない九州は邪馬台国候補地からも外れる
>>678 代々倭国の盟主だった漢の委奴国(イナ国)は倭国大乱で敗北した
その時、委奴国(イナ国)はイ国とナ国に分裂して伊都国と奴国になった
そして大乱敗北した委奴国の一族は親戚を頼って海を渡り、奈良の山奥まで逃亡した
>>738 もともとの議論のもとは
北九州地方が先進地域だとされているのに
なにも遺跡がないじゃないか?というお前の指摘だぞ?
別に魏との関係と限った話から発展したものではない
紀元前から大きな集落があって、古代中国から鉄器を輸入していた
痕跡があった
つまり対外貿易をしていた先進地域だという根拠の話だ
お前が先に提示した指摘が都合が悪くなってゴールポストを移動させているだけ
>>738 だから伊都国と奴国が邪馬壹国の中心たる女王国だってばw
関西には3世紀に大陸との交流の形跡なんて微塵もない。
>>723 すみません。
論点ずらさないで下さい。
>>737 それは間違いだ。
伊都国は外交上の出先機関でしかない。
よく分からんけど、宇佐神宮が卑弥呼の墓で風土記の丘あたりが卑弥呼の民が住んでた集落なんちゃいますん?
>>742 >博多から宇美は南東方面、しかも海岸線は今より内陸にあった。
>従って、距離100里は合ってる。
これの意味がわからないよ?
海岸線は今より内陸にあっても距離は縮まるらないよ?
>>739 イナ国なんて言うものは存在しないし、
奴国の西日本一帯の広がりを否定して、
伊都国が奴国の支配者だったという考古学上の証拠は存在しない。
>>743 それが大間違い
卑弥呼は伊都国に住んで居たんだよ。
>>731 すみません。
論点ずらさない下さい。
投馬国が帯方郡から見た距離だと、魏志倭人伝の何処に記されているのですか?
伊都国とはイ国の港、つまりイの津、イツ国のことだろうね
漢の委奴国(イナ国)が倭国大乱で敗北してイの津国(伊都国)とナ国に分裂
↓
倭の五王の前の時代に西に66国が討伐され伊都国奴国は筑紫国になる
>>747 それ、魏志倭人伝の何処に記されているのですか?
>>748 女王国までが12000里と書かれてるけど伊都国と奴国の境付近で合計すると12000里達するので
里数での説明は終わっている
だから必然的に日数の説明は帯方郡からのものになるだろ?
>>623 そのうちに出てくるだろう
鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)は、奈良県磯城郡田原本町八尾にある神社
所在地:奈良県磯城郡田原本町八尾
祭神
天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)
近くには鏡作伊多神社、鏡作麻気神社
天糠戸命(あめのぬかどのみこと)
>>744 そう
ここの連中は中国製のインチキ本に必死になってるがなw
>>740 また詭弁だ
おれが横レスしたのは717からだ
その前の人のレスは711で、九州には痕跡がないという指摘だ
文脈から痕跡とは、邪馬台国の候補地になりえる遺跡、あるいは魏との交流痕跡と読める
紀元前からの遺跡の意味ではない
>>745 博多の中心地は海の中だったので
当然ながらもっと宇美に近い位置に奴国の中心はあり、そこから100里と考えるべきでしょ。
そもそもの話、弥生時代終末期には九州は明確な崩壊と衰退の時期に入っている
なぜ繁栄してるとか思ってるのか理解に苦しむ
基本的な知識がそもそも足りてないとしか言いようがない
だいたい、そんな素人が見て分かるような繁栄とやらがあるのであれば誰も苦労しない
弥生時代終末期の九州、特に博多湾周辺はかなり明確に畿内の影響に取り込まれている状況にある
また、南部地域は奈良時代まで別文化圏の熊襲と考えられる地域で、東部は出雲の影響が色濃い状況
九州のどこに都合よく日本の中心地を見出しているのか皆目理解に苦しむばかり
>>750 伊都国の説明に「世有王 皆統屬女王國」とある
(伊都国には)魏の世に王(卑弥呼)がいた(倭の国々は)皆、女王国に統屬していた
>>754 それはお前の読解力が無さすぎる
オレは元々は北九州は畿内よりも
先進地域だと書いた
それに対して、それにしてはなんの痕跡もないという反論
それにしては、というのは魏との関係ではなくて
もともと北九州地域が先進地域だ、という前提に対してなのは
小学生の国語レベルで理解できる文脈だろう?
お前は馬鹿なのか?
>>755 中心から中心だと距離の記述と計算が合わない
魏志倭人伝では国の端に着くと至ると書かれている
宇美町懐かしいな
親戚の家があって子供の頃たまに連れて行かれてた
神社があって自然が綺麗だった思い出
>>753 そもそも何百里とかの表現なんて合ってるかも分からんですよね…今だってキロメートルで言われたらなんとなーくわかりますけど、マイルだフィートだ言われても何のこっちゃわかりませんわ…その当時の里なんて単位が今の単位と結びつくとも思えんです…
宇佐のど田舎のあの辺りの小学校とかほのぼのしたもんですよ…古墳に遠足行って弁当食って走り回っとるんすから笑
>>756 「そして鉄器生産が端的に示しているように、庄内期後半に至るまで、一大遺跡群としての纏向遺跡自体には、北部九州を越える明確な先進性はうかがえない。」
「このような事実から、纏向遺跡は邪馬台国とは地域・性格、そして時代も異にする遺跡であるといえるのではないだろうか。」
「直接的な対外交流の痕跡というものが、決定的に欠けている。」
「「魏志倭人伝」にみえる交流実態とは、およそかけ離れたものであるといえよう。」www
>>762 陸上部分は歩測などで計測しているようなので大きく違う事は無い
1里80mくらいで東夷伝は統一されている
>>762 別に正確に単位がわからなくても
帯方郡から邪馬台国まで1万2000里
帯方郡から壱岐までが9000里
この二つから割り出すと
壱岐までで全行程の総距離の4分の3の距離になる
ってことは理解できるだろ?
それが理解できたら、地図とにらめっこだ
どう考えても残り4分の1で畿内なんて行けっこないw
総距離の4分の3よりも壱岐から畿内のほうが
距離が長くなるって見たらわかるだろ?
>>759 国の端?
つまり国境線が有ったのですか?
それならば、考え方として、国境線の位置なんて何処でも引けてしまう。
邪馬台国の中心は畿内大和で、邪馬台国の端が下関とか小倉なら、どんなに都合良く解釈できるか。
>>758 つまり、おまえは九州は紀元前に反映してたから3世紀も中心だったとトンチンカンな主張を続けてたわけだ
それに対して、711の人は相手がそんなトンチンカンな主張をするわけないと判断し、3世紀を前提に痕跡がないと反論したんだろうよ
おれも、同じだよ
おまえがトンチンカンな主張を続けたいと判明したんで、これ以上は無駄
終了
ワイは九州説支持者
古事記で邪馬台国の事が全く書かれてないのはおかしい
地域が大和王権とは別だったからやろ
>>768 3世紀も中心だと言っているのではない
3世紀でも北九州地域が魏との外交窓口だったと言っているんだよ
なにせ畿内説のよりどころである纏向遺跡から出てきたのは
魏との貿易していたとは言えない証拠
むしろ貿易できていなかったから
国内で偽造した魏の年号の入った模造品の鏡が出土しているだろ?
畿内のクニのほうが3世紀では人口が多くて
北九州よりも発展したかも知れないが
魏との外交では北九州のクニよりも遅れていたことは確実だと言っているだけ
考古学上において、大和が日本の軍事的文化的中心地となったのは古墳時代になってからで、
その古墳時代と言うのが、
前回のC14の改訂によって、
70年近く繰り上がるというので、
畿内説が台頭して来たわけだが、
今回のC14の改訂によって、
やはり古墳時代は従来通り、
4世紀に入ってからと言う事になり、
畿内説は終わりを迎えたと言うのが
考古学史の一頁になる。
上の方で九州説は「ぼくがかんがえたさいきょうのやまたいこく」だと皮肉を書いていた人がいたけど
それに付け加えると
九州説の大前提は「ぼくがかんがえたさいきょうのにほんし」になってる
教科書レベルの基礎的な日本史を否定して、「ぼくがかんがえたさいきょうのにほんし」を前提に九州説のゴリ押し
やってることは、歴史物ラノベを書いてるのと同じ
>>770 >なにせ畿内説のよりどころである纏向遺跡から出てきたのは
>魏との貿易していたとは言えない証拠
>むしろ貿易できていなかったから
>国内で偽造した魏の年号の入った模造品の鏡が出土しているだろ?
このデタラメのソースを頼む
どこの馬の骨ともわからんやつのHPとかはソースじゃないので
「ぼくのかんがえたさいきょうにほんし」は桃の種とかカエルの骨で大騒ぎする奴らじゃね
あぶみが出たのも大騒ぎしたらいいのに
>>764 邪馬台国が魏と外交をやってたのは、その「庄内期後半」というのが標準的年代観なんだがw
九州説を否定する人に訊いてみたいんだけど
邪馬台国関連の出土品って
九州ばっかじゃないの? 金印とか
何で九州が否定されるの?
素人にも分かり易く頼むよ
>>777 初耳です。
いつ、邪馬台国の金印が出動したのか教えて下さい。
>>748 気に要らないようだが、里数や日数を連続して読んだのでは、どこにも該当地が見つからない。
先人たちが、いろいろ苦労して、
文章的にもまずまず、現地との照らし合わせもまずまずの読み方と地理配置を探り出したわけだ。
途中で切るべきでないと、簡単に割り切ってもらっても謎は解けないのだよ。
結果として、下記の最終行程は合計四つの文章が続けて書かれているので、その間に半呼吸入れて読むと良い
(そして・・・) 南至投馬国 (・・・宮崎・西都都万)、
(帯方郡からは) 水行二十日
(同様にして、) 南至邪馬台国 女王之所都(・・・熊本・菊池山門郷臺、共立女王之所都は阿蘇高千穂)、
(帯方郡からは) 水行十日と陸行一月
>>777 邪馬台国がヤマト読めそうだから方角も距離も全て嘘
正しいのは水行30日と陸行1月だけ!なので纒向しかありえないらしい
>>769 九州の歴史を抹殺したんだよ
唐と仲良くなるためになw
>>776 全くのデタラメだ、
すぐ分かる嘘をつく。
すぐ分かる嘘をつくのは
脳が損傷している証拠。
脳外科に行って調べてもらいなさい。
>>706 ネットスラングか大和の標準語で書かんとイミフ、わからへんで
>>685 不弥を宇美と読むのはできない相談
>>739 「奴」の日本の古い読み方は「ぬ」
奴婢=ヌヒ
「委」は「倭」の略字で中国では古代の日本を表わすときは
「ゐ」ではなく「woを」と読む伝統がある。
切れ味の鋭い日本刀は「倭刀wo-tau」と読んでいた。
「倭奴」は古い中国語ではヲヌまたはヲナで
オナゴ=女子に近い発音。
日本人は延喜式や和名抄の時代(10世紀)ですら貴族、学者、僧侶以外の
一般人は「ん」が発音できなかった。
平安貴族の冷泉家は現代支那語(北京官話)でleng chuangと
発音し現代風に読めばロンチュェンだがレイゼイと読んでるのは
「ん」が発音できなかった時代の名残。
>>782 単に倭国大乱で戦に負けて逃げ出した過去を隠そうとしただけだと思うわ
そんで敗戦から200年後には西に66国を征討して先祖の恨みを晴らした
>>783 九州説は教科書レベルのことさえ、デタラメ呼ばわり
日本史そのものを否定するトンデモだってことだ
>>765 >>766 へぇー!そーなんすねぇ…文献や書物など詳しくも見た事無いし、読んだ事もないんですが…宇佐のど田舎に八幡宮の総本山あって、そこのメインの神さんがおなごの神さんで近所に風土記の丘なんて言う小学生が遠足がてら弁当食いに行くほのぼのした昔の人のお墓あって…そこで石蹴りしてたらそりゃ、土器だ!なんて事もねぇ…未だに宇佐神宮の周りの小学校なんて祭りでお神輿お神楽で神さん送り迎えしてるんですねぇ…ロマンありますねぇ
>>786 教科書には、私の書き込みが記述される事になるので、
しっかり覚えておきなさい。
>>784 倭国じゃなくて委奴国なのでヲナ国じゃなくてイナ国でいいな
ちなみに狗奴国だとコナ国?
>>782 確かに! そう考えると古代史〜が良く理解できる。
>>782 抹殺とかではなく記録してないやろ
古事記が日本最古の書物なのもそれまで日本で記録してないからな
だから中国の文献に頼るしか無いし
考古学上、銅剣銅鉾の広がりや、
住吉神社の広がりと共に、
奴国を構成していた安曇族が、
西日本一帯に広がっていった事が分かるが、
それを差し置いて、伊都国が奴国を支配して、
西日本に広がっていったという
考古学上のエビデンスは存在しない。
ただの妄想である事が確約できる。
伊都国は北部九州における
外交上の出先機関で間違いないだろう。
それが覆る事はあり得ない。
これ見てちょっと「東と南を間違った説」が俺の中で浮上してきたんだけど
どうなんでしょう
>>792 古い記録は燃やした。
そして、口承を記紀にまとめました〜、ほかにはあ〜りませんといった。現代の公文書破棄と似たようなケースだったんだよ。
>>792 あったよ
万葉集とか文化系の書物から九州のことが分かる
そもそも日本なんて国名は、武周の則天武后にお願いしてつけてもらってのもの
思いっきり唐に媚びてるのが分かるし天武天皇の生年月日が白紙なのもおかしすぎ
古事記日本書紀は最古というより「最古」にしたんだよw
畿内説においては、
皇国史観につながる東征の絶対否定が大前提なので、
記紀に記述されている、
天皇家の東征の前に、
既に天孫降臨族のニギハヤヒが、
河内を拠点として大和に入っていた
と言う事も認めるわけには行かない。
それで、銅剣銅鉾文化圏が教科書から消され、
安曇族の西日本進出もぼかされてしまっているのである。
>>770 >3世紀でも北九州地域が魏との外交窓口だったと言っているんだよ
外交窓口だったのは伊都国あるいは奴国
だが、そこは邪馬台国ではない
伊都国や奴国以外の北部九州に魏との外交窓口があったと主張するなら
合理的な根拠や物証が必要
日本と言う国名は670年もしくは701年とも言われる
近畿と九州を統合して唐にお墨付きの国名それが日本なんだよ
九州年号があった
年号は皇帝しかつけられないもので、明らかに九州には天皇級の大物がいたのは事実
しかしそれを一切合切抹殺して、近畿こそが正統な「日本」の歴史として今日に至っている
ただし国の大ごとはやはり先祖にお伺いに行くから宇佐神宮であり太宰府天満宮なんだよw
記紀には邪馬台国そのものズバリは書かれていないのだが、
倭姫命に弟日本武尊が居て熊襲を征伐したと言うくだりが、
魏志倭人伝で言う、卑弥呼に弟が居て政務を担当した事を暗示していると言えよう。
>>795 あのなあ文字を使って記録したした証拠持ってこいや
倭姫命が伊勢神宮を作って天照大御神を祀った人物と言うのが、
卑弥呼が九州各地の太陽神を束ねて祀る巫女だっただろう事とリンクしている。
>>798 だから、博多那の津の奴国は旧宗主国の対外窓口
佐賀・伊都国は新しい親魏の窓口で、熊本・邪馬台国とは肥前肥後系列の親戚同士だったのだよ。
>>804 歴代天皇が伊勢のご先祖様をお参りしないのは祟りが怖いから説
>>802 焚書坑儒の歴史を知らんのか、新来の外国人のようだな。
実際には、記紀に邪馬台国を示唆する様な事が、
それなりの目で見れば書かれている事が分かる。
もちろんそのものズバリは書かれていないが。
>>739 なかなか楽しいストーリーだが根拠が何もないね。
>>767 対馬国や一大国は島だから一目瞭然
末盧国も半島部は一目瞭然
末盧国と伊都国との境には伊都GCのある小高い山
伊都国と奴国との境には日向峠や糸島峠があり
その先に奴国と不弥国の境の小笠木峠がある
>>799 磐井さんなのか宗像さんなのかそれとも別の勢力がいたのか
九州の古代史ももっと明らかになると面白いのにね
>>806 ご本尊(の遺骨)をお祀りしているのが宇佐神宮で、
その形見である鏡を祀っているのが伊勢神宮、いわば格下の仮の宮なのだよ。
>>813 誰一人としてお参りしなかったのはやはり祟り神を祀ってたからじゃねーかな
相当うらまれるようなことしたんだと思うわ
>>808 倭迹迹日百襲姫はどの逸話をとっても、
卑弥呼とはリンクしようがない。
>>807 つうか文字を使って文献を記録してたのを前提って昔の中国と同じレベルとか簡単に考えていて草
文字の歴史見たら中国に伝わったのが4から5世記
話言葉を文字に変える万葉仮名がその後ってのが通説だが
九州説スゲー
対馬国や一大国は島だから一目瞭然
末盧国も半島部は一目瞭然
末盧国と伊都国との境には伊都GCのある小高い山、500里(40km)
伊都国と奴国との境には日向峠や糸島峠があり、100里(8km)
その先に奴国と不弥国の境の小笠木峠がある、100里(8km)
畿内説はいつも妄想を並べるだけなんだよな
出土品を見れば魏志倭人伝にある絹も鉄の矢じりも北部九州が圧倒的だからなぁ
>>811 その不彌国は、小笠木峠の向こう側のドン詰まりの農村集落だ。
そこからどのようにして南へ水行するというのだ。不自然極まりない行程論、理解できない現地地勢だぞ。
>>816 北部九州では紀元前後くらの硯や机が出土して文字を使用開始していた形跡があるが
関西では5世紀くらいにならないと文字の使用が始まらない
1世紀の漢委奴國王印にも文字が掘られてるんだから
貰った倭奴国では漢字を理解してたんだろうな。
>>279 九州が弱いから負けただけやろ言い訳すんなみっともない
>>820 だから不彌国の次に来るのは傍国の斯馬國
水行は帯方郡からのものとなる。
>>819 そうか、
中国人でも、日本人でもない者が出没して、なんか証拠を持ってこいと言っているのだな、、
魏志倭人伝の伊都国のところで、女王あての文書とかは伊都国の一大率がチェックしてるって書いてあるぞ
字が読めなきゃ無理だろう
>>812 磐井の乱ってのがまさにそれで、ただの「一豪族」の反乱とされているが
実際は近畿による騙し討ちなんだよ
歴史は勝者によって書かれる
のは古今東西の世の常で磐井、タリシヒコ、サチヤマなど
邪馬台国の後継国家の倭国の歴史が明るみにならない限り
邪馬台国の位置は公表されないと思う
しかしそれは日本という国の根幹にかかわることなので隠したいのだろう
あくまで近畿に原大和国家が存在して大和朝廷そして日本という流れにしたいからな
>>673 さすがに良く出来てるな
専門板だけある
>>823 そうか、不彌国の次に来るのは傍国の斯馬國なのだな
ならば、不彌国の次に書かれている南至投馬国、南至邪馬台国はどのように理解するのか
>>749 面白い話だと思う。だが、
奴国は、大陸の文献では倭奴国とあるが、金印には漢委奴国。
さて、金印の「委」が「倭」なのか「委奴(イナ)国」なのかだ。
当時、漢に朝貢に出てた奴国(or委奴国)の後ろには邪馬台が
居たと考えられ、漢の権威を背景に列島に君臨したわけだ。
この時、奴国が漢から倭の代表権を認められていなかったとしたら、
裏に居る邪馬台が列島で覇権を握れたろうか? 恐らく不可能だ。
その点を考えると、金印の「委」の字は、「倭」の略だろうな。
>>806 魏志倭人伝を見る限り、
卑弥呼は邪馬台国の女王であり、
天皇家と関連があると考えられる
伊支馬=生目(宮崎市生目の豪族)は、
邪馬台国の長官である。
これだけをとってみると、
特に卑弥呼と生目の間に
遺恨がある事は想定できないが、
逆に言うと、天皇家と伊勢神宮の
後の関係からして、
何かあったと考える事も出来る。
古事記では、実際倭の姫巫女の弟日本武尊と景行天皇仲が良くなかった様だ。
魏志倭人伝は戦後に作られた偽書で学術的に100%確定している。
ちなみに、邪馬台国はそのまま邪魔な台湾のこと。
台湾が邪魔なのはあの国。
そう中華人民共和国。
台湾の金門島が邪魔だから邪馬台国。
>>828 だから何度も説明してるように
距離での説明が伊都国と奴国の境で12000里となり終わっているから
同じ行程を時間で再度説明してるんだよ。
どうせ新しい日本人と入れ替わるんだから過去の話なんかどうでもいいだろ。
新日本人のルーツはアジア。原住民の歴史は関係のない存在。
中国人は日本人を大和民族と呼ぶ
韓国人は日本人を倭奴と呼ぶ
白村江の戦い以降、近畿は正統な日本として唐にすり寄った
そのため日本という国号を認めてもらい
近畿の大和民族こそ正統な日本人というお墨付きをいただいた
だから中国人は今も大和民族と呼ぶ
一方、韓国は古来九州との紛争があったため
憎しみを込めて倭奴と未だに呼ぶ
日本が国名変更や民族系統の説明を韓国にやっていなかったことが分かる
>>833 何度説明されても意味不明
不彌国の南に投馬国と邪馬台国があると書かれているのだよ。
そもそも「同じ行程を時間で再度説明してるんだよ」と云ってるが、この「同じ行程」というのは、
どの行程とどの行程が同じなんだよ、
>>829 倭国大乱で代々統治者として君臨した漢委奴国は敗北して東に逃亡した
この逃避行が神武東征の正体
一方、空白地帯となった九州北部では女王が共立されて親魏倭王となった
漢委奴国王 vs 親魏倭王 これが記紀が隠そうとした本当の歴史
親魏倭王の権威を乗っ取ったのが倭国大乱で敗北して逃亡した漢委奴国の末裔
それがヤマト王権の祖
>>809 > 実際には、記紀に邪馬台国を示唆する様な事が、
> それなりの目で見れば書かれている事が分かる。
> もちろんそのものズバリは書かれていないが。
宇佐、安心院だと思うよ
古事記の日本武尊と景行天皇の逸話を、
邪馬台国の対狗奴国のモチーフとして捉えるならば、
卑弥呼の弟と、長官伊支馬は仲違いして、
長官伊支馬は狗奴国との戦いに参加しなかったと考えられるのである。
まあ、この辺は真相は闇の中だ。
>>772 3世紀末に九州勢力が東へ攻め込んで大和朝廷を作ったとか、天武天皇まで日本に九州王朝があったとか
九州説とか畿内説とか関係なく、マトモな日本史教育を受けた人間にはついていけない
>>836 >不彌国の南に投馬国と邪馬台国があると書かれているのだよ。
それが誤読なんだよ、12000里の説明が終わってるから日数も帯方郡からの行程
7000里が水行20日
4400里が水行10日
600里が陸行1日(月)
>>777 ・結局はヤマトが日本全国を勢力下においた
・3世紀半ばの時点でおそらくヤマトが日本で一番広範に勢力を拡げていた
・前方後円墳の拡がり、その時代と地域
・魏がうっかりその辺の地方の女首長に親魏倭王を与えるほど情弱とは思えない
こんなとこかなあ
>>827 日本史板でもほぼ皆納得してたやつだからな
免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも一致するあたりがニクいね
308:名無しさん 2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、
>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの
>>772 >>840 教科書は、誰が作ってると思ってるのかね。
「師曰く」の教育を受けた人間は、これだからw
>>841 伊都国と那国の境で1万2000里の説明が終わっているんだろ。
そうすると
(帯方郡から狗邪韓国までの)7000里が水行20日
(狗邪韓国から末盧国までの)4400里が水行10日・・・島めぐり含む
(末盧国から奴国までの)600里が陸行1日(月)
これでは奴国どまりで、不彌国へは行けないではないか、
そしてその南にあるという投馬国や邪馬台国へも行けないではないか。奴国から先の行程(里・日)を説明しろ。
>>843 分析が深すぎてワロタ
なるほど結論扱いされるわけだわ
>>843 邪馬台国大研究も、ジリジリと南下してきたな、そしてついに方保田東原まで下ってきたか(笑)
伊勢神宮が伊勢に鎮座する以前に、
各地を転々としたわけだが、
最終的に丹後の元伊勢籠神社から、
伊勢に行ったと伝えられている。
この元伊勢籠神社の神主が海部氏であり、
海部氏の祖先は丹波氏であって、
丹波氏は元々卑弥呼の墓である祇園山古墳の山頂にある
高良大社の大祝家であったというから面白い。
丹波氏は天皇家よりも出雲の大国主大神と関連があって、
豊前国と出雲も関連が深い。
>>843 妄想が深すぎてワロタ
なるほどトンデモ扱いされるわけだわ
魏志倭人伝で卑弥呼の従者は1000人とある
卑弥呼の身の回りの世話をする人だけでこの規模
地方の片隅の集落のイメージを持っている人はここに注目してほしい
>>843 邪馬台国大研究も、ジリジリ南下して方保田東原まで下ってきたようだが
ここまでくれば、白鳥庫吉が唱えた肥後山門郷はすぐ隣だよ(笑、笑、笑
>>854 なるほど、よく読めてる。たぶんそうだろうね。
ま、オレ的には、佐賀ー吉野ヶ里経由の熊本説をイチ押ししてるが・・。
>>777 朝鮮王朝の末裔が日本王朝を成立させましたとかなったら日本の正統性に関わるから
皇室と京大文学部が必死になって畿内説を守ってるわけだろおよ
ピラミッドとか吉村作治が調査しまくってんのに、何で日本の天皇陵は調査させないというね
>>847 >そしてその南にあるという投馬国や邪馬台国へも行けないではないか。
投馬国は狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南部地域
邪馬壹国は伊都国と奴国を中心とした北部九州地域全体
奴国から先の行程は不彌国で、次は傍国の斯馬國、傍国20か国を巡り奴国へ戻って来る
奴国から奴国まで周旋5000里
>>858 朝鮮王朝じゃなくて、後漢〜魏の時代に活躍した曹操所縁の者だよ。
いうなれば、中国王朝が日本王朝の後見人だ。
>>850 祟り神となったアマテラスを卑弥呼をお祀りした一族の末裔が引き取ったのか
>>858 だったらなぜ朝鮮語を日本人は話さないんだw
天皇陵を調査させないのは、朝鮮とかよりもむしろ火星とか異星人が関係ありそう
火星で前方後円墳が発見されたしw
>>859 そうかそうか
結局フルタ史学もここで進退窮まったか、どうりで東日流に走って転んだわけだ、、、
高句麗語も百済語も新羅語も同じなの?
津軽弁、秋田弁、山形弁くらいの違い?
>>864 >奴国から先の行程は不彌国で、次は傍国の斯馬國、傍国20か国を巡り奴国へ戻って来る
>奴国から奴国まで周旋5000里
これは北部九州一周だな
また丹後には天女の伝説があり、
コレが邪馬台国の女王国との関連を示唆して面白い。
>>865 関西?か関東?かのオメにはわからんだろうが、最初から最後まで問題だらけじゃ、九州ではな。
>>866 地名の研究から、半島中南部は日本語地域だったらしい。
弥生人の本拠地。そこで日本語が出来て列島に渡ったらしい。
新羅地域に日本語地名が一番よく残るので、新羅語が日本語の
影響が一番強い言語だった様子。
一方、百濟は支配層の言語が高句麗系の言語だということ。
今の朝鮮語に近い。西日本の一部地名に影響がある。ナラとか。
半島は、統一新羅→分裂→高麗(=高句麗)が再統一。このため
今の朝鮮語は、日本語の影響をベースにした高句麗語の様だな。
>>870 新羅は建国伝説に倭人が出てくるし4代目も倭人なんだっけ
天女が豪華な羽衣を着ていたのは、
邪馬台国が絹の先進地だった事と一致する。
また天女が酒造りが上手かった事が、
邪馬台国が酒の産地だった事を示唆している。
>>870 はい
百済語は何とか理解出来るが高句麗語は理解出来ないって、聖徳太子の頃の何かに書いてあるらしい。定かではないけど。
>>859 魏志倭人伝では、狗邪韓國が倭の北限。
半島から渡海して直ぐで、さらに渡海して對馬國(対馬)。
ってことは、狗邪韓國は、今の巨済島だな。たぶん。
昭和のはじめ頃までは山超えたら言葉が通じないことがあったのに、
古墳時代以前に何語を使ってたとか、それが海をこえて通じたとかわかるわけがない。
九州説とかもう論外だろ。時代設定が弥生時代でしかないからな。
神武東征が史実であると解明されてんだから、その以降の時代は橿原時代って定義した方がいいんじゃない?
まず何より大事なのは神武東征が紀元前50年ごろとほぼ特定されてんだから、
その時代にはもう九州北部は神武の勢力下になってんだよ。
で広島と岡山も勢力下におき奈良で都を開き、瀬戸内海周辺の交易ルートをすでに勢力下に入れていたと考えるべきで、
当然そこから200年後の邪馬台国は奈良でしかないってことになるんだよ。
邪馬台国はどっちでもいいけど古墳時代のゴニョゴニョしたよく分からんあやふやな時代から
いきなり推古天皇のもとビシッと国の体制が整いましたみたいな歴史の教科書のワープ感なんとかならんか?
>>873 ほう、興味深いな。
平城山(ならやま)はヘイジョウ山、実は、平壌山だな。
平壌は、高句麗から奪われた百済の昔の首都だ。
百済からの使節・渡来人が思いを馳せてそう呼んだのが起源か。
(日本の山なのに「南アルプス」とか平気と言うのと同様にw)
また丹後の天女は8人だと言う。
つまり八女だ。
コレで謎は解けたな。
八女から巫女が丹後に移動した。
そしてソレがやがて伊勢に
天照大御神を鎮座させたのである。
豊前国というと北九州市の門司なんかも入るのかな
九州の北の突端だから魏の船も寄ったかも
そもそも、百済をくだらと読ませた根拠は解っている?
新羅→しるら→しらぎ なら、まだいいけど、
百済→ぺくちぇ→くだら は不思議
日本書紀の欠史8代と空白の4世紀が分かれば邪馬壱国の謎ももう少し解りそうなんだがなあ
>>876 人が移動しなくなると言葉が分化する。
それは政策にもよる。関所作って厳しく人の移動制限してたし。
逆に民族大移動などの時期には、言葉が広範囲で通じる。
半島弥生人の言語だった日本語が、大規模移民によって
急速に列島に広まった時期は、かなり広く通じたはず。
沖縄の日本語より、半島南部の日本語が内地の日本語に近かったと言う。
どれだけ人の往来が活発かで、言葉の「均質性 vs 分化」の度合いが決まる。
>>843 おっマジかこれ
もうこれは
>>673で決まりなんじゃねえの
>>883 そもそも当時半島で、「ぺくちぇ」と呼んでいた証拠などない。
今の朝鮮語でそう読むだけだろ。
むしろ「くだら」の方に当時の音が残っている可能性がある。
女王國東渡海とあるから豊の国も邪馬壱国の可能性は十分あると思うわ
>>877 1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる(福岡志賀島)
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国(免田式土器?)が対立
3〜4世紀 奈良の纏向遺跡(前方後円墳発祥?) 北九州との交流は非常に乏しい
5世紀 奈良の大和王権が北九州〜関東を平定
4〜8世紀 熊本の球磨川と宮崎の一ツ瀬川以南に独自の古墳文化(熊襲)
6世紀 筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 乙巳の変
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱
一人で70レスも80レスしてるやつ何なの?
必死すぎじゃね
>>884 だから邪馬壱国
表記ではなく
邪馬壹国な。中のもじが豆だからトと呼んだ可能性の方が高いだろ。
免田式土器云々は畿内説の小林行雄だろ
免田式は狗奴国なんて適当すぎ
あと複数の単発IDで露骨な自演やってるやつもやばそう
>>883 シルラ じゃなくて silla シッラ な。
新羅(sinla シンラ 신+라)が訛ってシッラsilla신라だな。
今の朝鮮語でもバラすと表記は、신・라(sin・la シン・ラ)だが、
合わせると発音は「sillaシッラ(신라)」だ。
リエゾンとでもいうのかな。
鏡開きの風習や天女伝説、
丹後ちりめんに
邪馬台国が残っているのである。
邪馬台国はもはや謎ではない。
畿内説から解き放たれよ。
そうすれば古代の謎は全てつながってくる。
>>887 百済は支配層のみが百済語(高句麗系)を話す異民族で、
領域のかなりの割合が倭人(日本語を話す弥生人)だったから、
百済に統治される前の倭人地名が「くだら」に近い音だったのかもな。
日本語って言っても青森と九州じゃ戦後ですら話通じなかったからな。
寮で一緒になったら通じないからノイローゼになったという。
>>883 何故くだらと読ませたのかは分からないが、
百済の王族は日本に帰化しているので、
日本の読み方が正式な百済の読み方で間違いないだろう。
>>876 古墳時代の稲荷山古墳の鉄剣の銘文から、
江田舟山の鉄剣の銘文の空白を埋める事ができた。
雄略天皇の時代には、
各地の豪族の子弟が、
大和で仕官して働いていた事が分かっている。
>>896 西暦200年代はもう古代でもないだろ?
三韓征伐が史実なんだから、そこから年数を逆算すれば邪馬台国は奈良だったって普通にわかるだろ。
>>902 それで?江田船山古墳からは新羅王室から下賜されたとしか思えない豪華な出土品も出ている。
少なくとも交流あったことは間違いないし、下賜されたということは従属していたのでは?
両属していた可能性はある。
そもそも魏志倭人伝なんてのをでっちあげてまで探すほどの物じゃない
たかだか三國志に数行書かれているだけの蛮族の話であって日本の事かどうかすらわからん
>>905 よくわからん数行の記述をもとに議論するよりも古代は土器などの出土物から考える方がいいとは思うね。客観的で。
畿内説はマルクス主義者による、
皇国史観の否定が原点なのだから、
ココでは朝鮮半島南部の狗耶韓国が
日本だった事は常識として語られるが、
教科書(笑)では未だにその存在が隠されているだろう?
だから、帯方郡から狗耶韓国まで7000里が、
畿内説では完全に抜け落ちてしまっている。
そもそも日本という国号は随分後に作られた言葉で当時はそういう言葉はない。
>>904 ソレは当然だろう。
磐井の乱では新羅と呼応して、
大和に逆らったのだからな。
どこにあるかがいまだによくわからんってのは
複数の場所を合成して作られた架空説が有力
不弥国から投馬国までは水行20日で到着し、投馬国から邪馬台国までは南へ水行10日陸行1月で到着する。
いくらなんでも九州はとっくに出てるよな。
どこにあったとか金印でも出ない限り分かりようがないわけで、
ヤマト王権が近畿にできたのが間違いなく、
邪馬台国が強大な国家としてシナの文献に残っていて邪馬台の音がそれに近いから、
おそらくヤマト王権の起源なのかもなあ、くらいのものでしかなく、かつそれで十分だな。
畿内説から解き放たれよ。
そうすれば古代の伝承は全て一つにつながってくる。
自由な発想こそが学問の原点であり、
そこに立脚した私こそが、
古代の真実を紐解けるのである。
>>911 いくらなんでも、その読み方はないよなあ
中国の史書読んでからのヤマトもあり得るしな
邪馬台国って書いてあるからそれにしよう的な
>>53 九州の土地は博多なんて殆どが海の中、秀吉の頃の太閤検知の北九州の石高の少なさ見たら笑える。
7万戸ので一家が爺さん婆さん父ちゃん母ちゃんプラス子供3人の戦後の標準家族でも49万人
そんな人数養うほどの土地がないんだな。
>>903 三韓征伐の年代なんて確定すらしとらんのに逆算も糞もねえべ
君ら、来年の1月21日にまた、
鏡開きをするだろう?
ソレがまさか、邪馬台国時代の
破鏡から来ている風習だったとはな??
来年の鏡開きの際には、邪馬台国時代に
思いを馳せて、鏡開きをしてみてくれ。
そして畿内説から解き放たれた事を、
実感して頂きたい。
神功皇后が半島に渡って行ったら向こうは戦わずして平伏したみたいな記述のどこに史実性があるんだよw
古代の倭は母性社会だから成人女性一人が一戸でいいんじゃね。
7万戸なら14万人ぐらいで良さそう
畿内説から解き放たれれば、
天橋立の天女伝説が、
邪馬台国に関連している事が理解できるし、
また天橋立の天女伝説から、
山門八女が、絹と酒の一大生産地であったがゆえに、
邪馬台国の中心地だったのかも理解できる。
そしてその生産に関わる女性が、
邪馬台国の王になった事も理解できるだろう。
天才の私に古代史の全てを委ねなさい。
>>917 新羅の王城が包囲されたという話は新羅の資料で346年頃
ま、確かに日向って国があるんだだしな
日向って、ひむか→ひむかし。古語でひがしのことで
古代に栄えてた国からみて東にある国
それ考えると、宮崎より西になきゃね
>>923 普通に朝日が昇ると日に向かうから日向だろ。
>>843 やっぱN速でにわかが適当言ってるのとはレベルが違うな
七支刀は継体天皇と百済とのつながりを示す可能性があるだけだろ?
全然違う年代じゃん。
>>889 ゲノムで見ると太平洋ベルトの関東から北九州がひとつのグループで、
中心の近畿が右に離れ、出雲と枕崎(薩摩)が左に離れる。
>>642 南東の件は、すでに論破済み
156 不要不急の名無しさん 2020/09/14(月) 00:41:08.44 ID:bGgsZ3Kp0
方角は合ってる
東南陸行五百里到伊都國
地図の矢印通り
方角は「出発地から最初に向かう方角」のこと
出発地から見た目的地の方角ではない
南至投馬國水行二十日
投馬国も「出発地から最初に向かう方角」で南
帯方郡から、まずは南に向かって水行する意味
はい論破、畿内説終了
>>931 出ないよ
昔は四国から畿内まで2ヶ月とか掛かった
>>925 古語で東って意味になってんのしらない?
>>617 なぜ、邪馬「壹」国なのかも、すでに論破済み
787 不要不急の名無しさん 2020/09/16(水) 17:07:29.11 ID:NTeRPQQT0
邪馬台国なんて、でっち上げだぞ
司馬懿の偉大さ示すために書いただけw
デタラメであろうが上等なのである
ただチンジュはデタラメとわかっていたので邪馬壹国と敢えて記した
なんでか? 邪馬壹国 ←司馬懿の名前(馬壹)を隠すためw
もう答えわかっちゃったよねw
話を盛ってるとw でっち上げのデタラメだとw
当然、後生の人は困惑w
デタラメだと気付けば、すぐわかる話なのにw
だから、魏志倭人伝は素直に読めばわかるんだよ
「書いたチンジュの心を素直に読めば(笑)」
280 不要不急の名無しさん 2020/09/15(火) 16:00:34.90 ID:3BlYye8T0
チンジュの立場になればわかる
倭国は、こうなってないとイケナイのだ
九州が南に2倍くらい長くなっている必要性がある
魏はそんな大国と友好になったと
司馬懿のおかげで
デタラメであろうが上等なのである
(ただチンジュはデタラメとわかっていたので邪馬壹国と敢えて記した)
>>929 日本武尊が卑弥呼の弟だと考えると、
結局狗奴国は卑弥呼の弟によって、
邪馬台国に服従させられたようだ。
俺はこれだけ立証している
独自にな
自説、邪馬台国 スーパーリスペクト説もそうw
継体朝の時にヤマトが百済と結んで、九州の磐井が新羅と結んで対抗したが磐井が滅んだ。
朝鮮の前方後円墳は石室が九州系で一世代しか存在しない。
ということは朝鮮の倭人の勢力は(任那日本府のような)ヤマトでなく九州の豪族が出自で、
九州の磐井の勢力が滅んだから前方後円墳築造も一世代で終わったという解釈はかなり説得力がある。
2000年近く昔だと海進や堆積の不足で有明湾沿岸はもっと奥まで海だった
佐賀平野の台地付近は確実に農業のできるまとまった平地だったんだよ
九州北部に邪馬台国があったとすれば佐賀平野か大宰府あたりまでが有力ですね
>>935 記紀で言うとヤマトタケルの息子仲哀天皇が初めて伊都国を知ったわけだからヤマトタケルは卑弥呼の弟じゃねえわたぶん
>>937 なるほど
倭の中心が朝鮮半島から離れればそりゃ朝鮮半島の支配権も失うわな。
白村江は必然だな
>>789 「倭」と委は同じ発音なので金印には画数の少ない「委」を選んで彫刻した。
「倭人」の読み方は特別で「うぉにん」だわな。
平安時代には、まだ「ゐ」と「い」は別個の発音の仮名文字として認識されていた。
結論から先に云うと「ゐ」と「い」が同じになったのは
13世紀なかばである。邪馬台国時代は「ゐ」と「い」は別の発音
委奴はイナ国でではない。
オマエは大間違い。九州説派によくある我田引水www
11世紀中期から後期頃の成立と考えられるいろは歌には、
「色は」のイと有為のゐは区別されてた。
1世紀半ほどあとの文献になるとア行のオとワ行のヲおよびア行のイ・エと
ヤ行のイ・エは区別を失い同音となっていたことが判る。
13世紀なかばに入るとイとヰは統合した。ヰが /wi/ から /i/ に変化することによって、イと合流したと考えられている。
また漢字音の「クヰ」「グヰ」もそれぞれ /ki/ 、/ɡi/ と発音されるようになり、
「キ」「ギ」に合流した。南北朝時代に行阿が『下官集』をもとに仮名遣いの例を増補し
た『仮名文字遣』(1363年以降成立)を著し、以後この『仮名文字遣』が一般に
「定家仮名遣」として特に和歌や連歌など歌道の世界で広く使われた。
それ以外の分野では「ゐ」「い」および語中・語尾の「ひ」の書き分けについて
混用する例がしばしば見られた。
16世紀(室町時代後期)のキリシタン資料におけるローマ字表記では、
ヰとイはいずれも i 、j、yで記されており、
発音がいずれもi だったことが証明されてる。
弁護人はベンゴニン、被告人はヒコクニン、証人はショウニン、人相はニンソウ
旅人はタビニン、決してタビジンとは言わない。
これから「倭人伝」は「うぉにんでん」と云え。
>>935 日本武尊は荒くれ男
卑弥呼の弟のはずがない
卑弥呼の時代の倭国はどういう存在だったのかがポイント
九州北部から関東までの細長い領域を持った国
つまり九州北部と近畿は同じ国だった
ただし九州南部と蝦夷は違う領域、気楽に行き来はできない
このことが基礎
>>941
詳しそうなので教えて下さい
魏志 邪馬壹
後漢書 邪馬臺
隋書 邪靡堆 「魏志所謂 邪馬臺 者也」
後漢書注 邪馬臺 「案今名 邪摩惟 音之訛也」
このヤマトの発音はそれぞれ時代が違ったりするけどどう移り変わってるの?
とくに7世紀の後漢書注の邪摩惟が知りたい 日本武尊が卑弥呼の弟の伝承をモチーフにしたとしたら、
それは出雲に結びついて、
やがて丹波氏へとつながっていかなければいけない。
一方、卑弥呼の弟の狗奴国征伐に参加しなかった、
天皇系の伊支馬一族は吉備などの瀬戸内勢力と結びついて河内から大和に入って行った事が
考古学的に合う。
前方後円墳はヤマト支配下の証明だと思うんだけどな
九州に作られた前方後円墳が卑弥呼より前なら畿内説、後なら九州説にするわ。
もっとも九州説の場合、邪馬台国は滅んどる笑
>>946 神武天皇は吉備で兵を集めた。
たぶん出雲や吉備からで九州からの東征ではなかったのだろう
最終的には、出雲と融合して
丹波氏となった卑弥呼の子孫も、
国譲りや伊勢神宮の創設と共に、
大和と融合していく。
コレが日本の古代史の流れだろう。
>>911 水行20日の間漂流=driftしたんだろ
>>934 >チンジュの心を素直に読めば
じゃなくて我田引水のために忖度すれば
だろwww
大和政権は近畿なんじゃないの
卑弥呼は九州なんだろうけど
>>948 ソレはない。
投馬国の豪族が、宇佐に逗留した事が
確実視されるからな。
>>947 魏志倭人伝では、邪馬台が大乱で覇権喪失したことが読み取れ、
また、港を大倭(奈良!)に押さえられていることが書かれてる!
倭国大乱の勝者は奈良だとわかる。
4世紀華北崩壊で朝貢秩序が消えた際、大倭(奈良)が邪馬台を
滅ぼし、「やまと」の権威を継いだわけだ。
何度も述べている様に、
先ず豊の国が邪馬台国の一部であった事を
認識しなければ、
日本の古代史は語れない。
対馬って一貫して倭国なわけだろ
九州などからの影響も大きかったのは間違いないだろ
大陸の影響が大きいと思いこまされてるだけ
>>928 九州の炭鉱が閉鎖されて
失業した筑豊塵が数十万人規模で阪神工業地帯、中京工業地帯
京浜工業地帯に移住した。
豊の国の先にある宮崎の投馬国が、
魏志倭人伝にキッチリ書かれているのに、
その手前にあるはずの大分の豊の国が、
全くの魏志倭人伝には書かれていない。
そして豊の国の姫であることが確実視される豊の姫が、
邪馬台国の卑弥呼の後の女王になっている事から考えて、
豊の国は邪馬台国の一部であった事は間違いないだろう。
コレは認識としてきちんと持って?
弥生後期の古代史を語って頂きたいものだ。
>>953 ヤマトも一時期確かに大倭だけどだいぶあとの持統天皇の頃だったような
豊や宇佐は秦王国の方が面白いだろ
隋書に出てくるぞ
魏の使節は倭国連合を統治する大和国を訪れた
このことが魏志倭人伝の伝えること
魏との交流は日本書紀でも触れられている
時代を考えれば距離や方位に多少の誤差があることは仕方がない
ただし目的地だけは正確に伝えている
>>956 そんなに短いスパンの話ではなく
5世紀雄略天皇の関東ー北九州支配に始まり
7世紀福岡大宰府ー宮城多賀城の五畿七道確立で往来が続いた結果
邪馬台国では、妻国出身の伊支馬長官が兵力を持っていた。
一方卑弥呼は絹織物と酒の生産で、
女王として君臨していた様で、
結局、伊支馬長官の支援を得られなかった卑弥呼の弟は、
卑弥呼に絹織物と酒をもらって、
謀略で狗奴国を従えてしまった。
邪馬台国には猿がいる。
猿で有名なのは高崎山だ。
この点からも邪馬台国は
豊の国を含んでいると考えて
間違いないだろう。
■集計結果
邪馬台国はどこにあったと思う?
都道府県別分布
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊・彦火火出見
リピーター
>>961 よく現代のゲノム分析の結果近畿に
チョン系遺伝子を持ってる日本人が多いと
九州修羅の国のヤクザ野郎がイチャモンつけてくるので
邪馬台国時代から千年以上建って人種も変わってるのに
そういうことを無視して偽科学風論陣を張るので
歯止めを噛ましたまでの事
畿内説が教科書ガーを連呼するのは、
教科書に朝鮮半島南部の狗耶韓国が、
日本だった事が未だに書かれていないからに他ならない。
我々はそういった意味でも、
強く畿内説からの開放を推奨したい。
侵略者にとって侵略地の歴史やクニグニの営みなんかどうでもいい
その地でざっくりどのくらい人を養えるか分かればいい
投馬国と邪馬台国の戸数はそんな感じ
両国とも倭国にとって侵略地だ
>>969 現代日本人は弥生人
弥生人は縄文人と北京人のミックス
>>945 纏めるのに時間がかかるけど
このスレやほかの邪馬台国関係スレで
発表するから少し待ってくれ。
>>39 wwww
うっかり高速乗ってると福岡のつもりが佐賀県の土地を踏むから気をつけてね
>>973 よろしく
「邪馬臺」が時代ごとにどう発音が変わってるのか興味あるわー
>>969 現実だなw
分布図
DNA解析結果
>>930 方角合ってないよ 胡麻化すな 姑息で苦しい言い訳は聞きたくない。
さっさと近畿パーとか罵詈雑言付きで言い訳しろよ
罵詈雑言=白旗、敗北宣言とみなすからw
気付くの俺くらいかな?w
293 不要不急の名無しさん 2020/09/18(金) 09:31:35.20 ID:elF6fW2H0
神武天皇は卑弥呼を神格化し
邪馬台国をスーパーリスペクトして作ったのがヤマト王権
卑弥呼はアマテラス
投馬国出身の神武天皇が、邪馬台国で卑弥呼と接触して
その意志を引き継ぎ東征を始めた
イザナギに、何故「邪」が付くのか疑問に思ったと同時にすぐ答えがわかった
(蛇足だが、糸島市は律令制下では怡土イト郡と志摩シマ郡だった)
(「邪」は「よこしま」とも読む)
伊邪那 岐(わかれる。ふたまた)
都馬国
国台
国
つまり、邪馬台国の位置も比定出来るw
>>978 方角会ってないのがダメなら近畿ダメじゃん
>>972 >>976 筑豊から移住した失業者で汚染した時代錯誤の分析結果
論破w
イザナギ
↓
伊邪那岐
↓
伊邪那 岐(わかれる。ふたまた)
都馬国
国台
国
近畿説終了w
>>981 それ畿内民族だから
卑弥呼の時代に入った2世紀末には大飢饉が派生し、多くの倭人が半島に避難したとのこと。
九州で出土する畿内式の土器は、畿内から多くの避難民が移住してきたという証拠でしょう。
<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。
<当時の気候>
3世紀〜4世紀は海面温度が下がり、寒冷化だけではなく干ばつにも見舞われたと考えられる。
『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。』
>>983で半島に渡った畿内からの避難民が戻ってきたのが4世紀末
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅)
>>156 自説、神武天皇による邪馬台国スーパーリスペクト説
>>934 なぜ邪馬「壹」国なのか? 自分で気付きましたw
>>982 イザナギに隠されたメッセージ! 自分で気付きましたw
狗邪韓国
狗邪 クヤ [kʊja] → [kəje] → [kədʒe] 巨済 島(거제도Geoje-do)
巨済(狗邪)⇔ 対馬 ⇔ 壱岐 ⇔ 邪馬台 倭人交易ルートだ。
"因幡の しら(シッラ新羅)兎" に出て来る "一列に並んだワニ(わにん倭人)"だ。
>>941 委=wei、倭=wo
バカな畿内説支持者は浅い知識で平気で嘘を言うよな
乾いた耳垢遺伝子分布図からみても渡来系氏族が東九州→瀬戸内海沿岸→畿内のルートで移動してるのは間違いないと思われる
少なくとも福岡あたりは出発点ではない
ホンヤクコンニャク持ってタイムマシーンで行ってみたいな
倭は中国を始め周辺国が日本を指して読んだ国名
この倭を和と変えてさらに大和とした読みはやまと
>>983 現代韓国人がなぜ北京人と弥生人のミックスなのか謎だったけどそういう理由があったんだな
半島に弥生人が沢山いたわけだ
>>990 漢や魏志倭人伝がなんで呉音使うんだよ?
嘘常習は自分の脳にダメージになるんだぞ
畿内説支持しすぎてお前の脳は痛んでる可能性が高いな
発音に詳しいひと多そうだな
魏志 邪馬壹
後漢書 邪馬臺
隋書 邪靡堆 「魏志所謂 邪馬臺 者也」
後漢書注 邪馬臺 「案今名 邪摩惟 音之訛也」
これ解説お願いします
>>993 あのさ、俺、九州説なんだけど。(俺は
>>941じゃないよ。)
それから、まさか、漢音が漢の時代の音とか思ってないよね?
頭大丈夫か?
>>993 魏が呉音というのは中国では常識なんだとさ
>>992 倭人は縄文時代から半島まで行ったり来たりしてたみたいだからね
始皇帝の時代、日本は神仙の住む蓬莱だと思われていた
不老長寿の薬を求めて徐福が目指した
それ以前は扶桑という神仙の国があると信じられていた
魏の使節は倭国を訪れる時にそのイメージを持っていたと思う
>>997 新羅の建国神話も倭人出てくるし
古代半島の倭人割合相当高そうだな
-curl
lud20241214033250caこのスレへの固定リンク: http://5chb.net/r/newsplus/1600837970/
ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
TOPへ TOPへ
全掲示板一覧 この掲示板へ 人気スレ |
>50
>100
>200
>300
>500
>1000枚
新着画像
↓「【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」 [樽悶★]->画像>31枚 」を見た人も見ています:
・【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」 ★4 [樽悶★]
・【佐賀】「よみがえる邪馬台国」 豊前・宇佐地域の出土品を紹介する企画展 [樽悶★]
・【邪馬台国論争】結局のところ邪馬台国は畿内と九州どっちにあったの?
・【歴史】三橋貴明「邪馬台国は九州」「畿内説は自虐史家たちの政治的意図を感じる」「Y遺伝子、大陸と日本人は全く似ていない」
・【古代】邪馬台国九州・畿内並存説、魏志倭人伝の矛盾を解く ★2 [樽悶★]
・【邪馬台国】 邪馬台国論争 畿内説と九州説 永遠の平行線 [しじみ★]
・邪馬台国、九州の大分県でした。「この鏡は邪馬台国のもので間違いないと思う。」
・【考古学】『国宝 翰苑の世界』 天満宮に残る唐の事典 邪馬台国の卑弥呼などが記される 関連する北部九州での出土品も展示 福岡 [ごまカンパチ★]
・【邪馬台国九州説】邪馬台国九州説に新たな視点 卑弥呼が統治した「クニ」考察★2 [しじみ★]
・九州の古代史【邪馬台国畿内説前提】
・邪馬台国、九州にも畿内にもあった説
・【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★9
・【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★12
・【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★13
・【邪馬台国九州説】邪馬台国九州説に新たな視点 卑弥呼が統治した「クニ」考察
・【奈良】唐古・鍵遺跡の古墳期に迫る、田原本で企画展 出土品など164点 邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」との関係紹介★2
・「邪馬台国ってどこにあったん?」→日本人「九州」 関西人「近畿」
・【邪馬台国九州説】倉本一宏氏「3世紀に統一政権前提、おかしい」「天皇家につながっていると言いたい人たちに利用される危険」★6
・【新潟】東北と近畿、文化の境界 古墳時代の遺跡、続縄文土器出土 「新潟は邪馬台国から大和成立時の東西の動向が把握できる重要地点」 [樽悶★]
・【歴史】卑弥呼の邪馬台国と争った国「狗奴国」が熊本に? 九州説に新解釈 ★3
・【古代】邪馬台国の人はカエルを食べた? 奈良・纒向遺跡で骨が大量出土 「神への供え物にカエルが使われた」
・【宮崎】邪馬台国はどこにあったのか、考古学者・北郷泰道さん講演 「北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれる」
・完全に破綻した邪馬台国畿内説 part668
・【佐賀】「邪馬台国はどこだ?」 謎の国「不弥国」、候補の4地域にスポット…吉野ケ里歴史公園内、弥生くらし館で展示
・【考古】邪馬台国論争、モモの種が一石 「畿内説」強める
・【宮崎】邪馬台国はどこにあったのか、考古学者・北郷泰道さん講演 「北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれる」★3
・【宮崎】邪馬台国はどこにあったのか、考古学者・北郷泰道さん講演 「北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれる」★2
・【宮崎】邪馬台国はどこにあったのか、考古学者・北郷泰道さん講演 「北部九州の範疇の中に邪馬台国の所在地は絞り込まれる」★6
・【歴史】「鏡研究者側が疑問点をどんどん出さないと」 邪馬台国畿内説の論拠にも…三角縁神獣鏡、製作地論争 画期的「国産説」の登場
・【佐賀】鏡から探る邪馬台国の謎…吉野ヶ里歴史公園フォーラムで3氏講演、討論 「年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題」 [樽悶★]
・【佐賀】鏡から探る邪馬台国の謎…吉野ヶ里歴史公園フォーラムで3氏講演、討論 「年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題」 ★2 [樽悶★]
・邪馬台国畿内説 Part105
・【歴史】「邪馬台国はどこにあったのか」 考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は [ブギー★]
・【邪馬台国】「邪馬台国はどこにあったのか」 考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は [しじみ★]
・【邪馬台国】「邪馬台国はどこにあったのか」 考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は★2 [しじみ★]
・【考古学】邪馬台国の勢力圏は北部九州限定だったと物証から推測 橿原考古学研究所で研究を重ねてきた坂氏 『倭国の古代学』 [ごまカンパチ★]
・【古代】邪馬台国「筑紫平野の連合」 数十のクニの一つ 「倭には三十国あり、そうした国々が共同で擁立したのが女王・卑弥呼」 ★5 [樽悶★]
・邪馬台国畿内説は、、、
・邪馬台国畿内説 Part758
・邪馬台国畿内説 Part588
・邪馬台国畿内説 Part850
・邪馬台国畿内説 Part689
・邪馬台国畿内説 Part571
・邪馬台国畿内説 Part585
・邪馬台国畿内説 Part630
・邪馬台国畿内説 Part713
・邪馬台国畿内説 Part648
・邪馬台国畿内説 Part614
・邪馬台国畿内説 Part776
・邪馬台国畿内説 Part698
・邪馬台国畿内説 Part795
・邪馬台国畿内説 Part748
・邪馬台国畿内説 Part552
・邪馬台国畿内説 Part629
・邪馬台国畿内説 Part792
・邪馬台国畿内説 Part584
・邪馬台国畿内説 Part737
・邪馬台国畿内説 Part418
・邪馬台国畿内説 Part332
・邪馬台国畿内説 Part505
・邪馬台国畿内説 Part423
・邪馬台国畿内説 Part312
・邪馬台国畿内説 Part533
・邪馬台国畿内説 Part536
・邪馬台国畿内説 Part392
18:53:56 up 12 days, 5:18, 0 users, load average: 7.76, 7.75, 7.89
in 5.8297219276428 sec
@5.8297219276428@0b7 on 122408
|