NHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公、戦国武将・明智光秀が本能寺の変(1582年)で織田信長を倒した直後、光秀の重臣、明智秀満(左馬助)が船で瀬田川を渡ろうとし、瀬田城主・山岡景隆と戦になったと記された文書が、石山寺(大津市石山寺1)で見つかった。明智軍が船戦をしたとされる文書の発見は初めて。県文化財保護課は「ほとんど分かっていない光秀、秀満の足跡に関する貴重な資料」としている。【諸隈美紗稀】
見つかったのは、「山岡景以(かげこれ)舎系図(いえのけいず)」。同寺が新型コロナウイルスの感染拡大で拝観を停止していた5月、倉庫の整理をしていた責任役員、鷲尾龍華さんらが発見した。
縦27センチ、横119センチの紙に山岡家の系図が漢文体で書かれている。景隆の息子・景以が1591年に記したものを、1641年に清書し、さらに、別の人物が江戸時代中期に書き写したとみられる。41年は、将軍・徳川家光が大名と旗本の系譜「寛永諸家系図伝」の編さんを命じた年であることから、景以が家光に差し出すために清書したと推測される。
山岡景以舎系図によると、1582年6月、本能寺の変で織田信長を倒した後、安土城に向かう明智軍に対し、信長に仕えた景隆が瀬田橋を焼いて進軍を阻止。その後、軍勢を率いていた左馬助が、船に乗って強行突破を試み、湖上で船戦となるも、景隆が左馬助の家来らを打ち負かし、進軍させなかったと記されている。景隆が瀬田橋を焼いて明智軍を阻止した話は「信長公記」などにあるが、実際に船戦をしたと記された文献は初めて。
左馬助は光秀の娘婿、いとこなどと伝わる。瀬田橋を渡ることができなかった左馬助は、光秀の居城・坂本城(大津市)を目指す。途中で敵方に道をふさがれた左馬助が、打出浜から北方向の柳が崎まで、馬に乗ったまま琵琶湖を渡ったという「湖水渡り」の伝説が残るが、県文化財保護課の井上優主幹は「瀬田橋の船戦が脚色されて、伝説になった可能性もあるのでは」と分析する。
発見された文書は10月31日から期間限定で同寺で公開する予定。
毎日新聞2020年7月4日 10時36分(最終更新 7月4日 10時36分)
https://mainichi.jp/articles/20200704/k00/00m/040/041000c
見つかったのは、「山岡景以(かげこれ)舎系図(いえのけいず)」。同寺が新型コロナウイルスの感染拡大で拝観を停止していた5月、倉庫の整理をしていた責任役員、鷲尾龍華さんらが発見した。
縦27センチ、横119センチの紙に山岡家の系図が漢文体で書かれている。景隆の息子・景以が1591年に記したものを、1641年に清書し、さらに、別の人物が江戸時代中期に書き写したとみられる。41年は、将軍・徳川家光が大名と旗本の系譜「寛永諸家系図伝」の編さんを命じた年であることから、景以が家光に差し出すために清書したと推測される。
山岡景以舎系図によると、1582年6月、本能寺の変で織田信長を倒した後、安土城に向かう明智軍に対し、信長に仕えた景隆が瀬田橋を焼いて進軍を阻止。その後、軍勢を率いていた左馬助が、船に乗って強行突破を試み、湖上で船戦となるも、景隆が左馬助の家来らを打ち負かし、進軍させなかったと記されている。景隆が瀬田橋を焼いて明智軍を阻止した話は「信長公記」などにあるが、実際に船戦をしたと記された文献は初めて。
左馬助は光秀の娘婿、いとこなどと伝わる。瀬田橋を渡ることができなかった左馬助は、光秀の居城・坂本城(大津市)を目指す。途中で敵方に道をふさがれた左馬助が、打出浜から北方向の柳が崎まで、馬に乗ったまま琵琶湖を渡ったという「湖水渡り」の伝説が残るが、県文化財保護課の井上優主幹は「瀬田橋の船戦が脚色されて、伝説になった可能性もあるのでは」と分析する。
発見された文書は10月31日から期間限定で同寺で公開する予定。
毎日新聞2020年7月4日 10時36分(最終更新 7月4日 10時36分)
https://mainichi.jp/articles/20200704/k00/00m/040/041000c