兵庫県警尼崎東署の男女2人の警察官が昨年12月から今年2月にかけて、夜間勤務中に交番で性行為をしていたとして、処分された。2人は30代の妻子ある男性巡査部長と20代の独身の女性巡査で、夜間勤務中、交番の休憩室で複数回にわたって性行為をしたという。
昨年7月にも、高知県警で20代の女性巡査が3人の既婚の男性巡査長と「トリプル不倫」していたことが発覚し、4人とも不倫を理由に処分を受けている。警察は何よりも規範を重んじる組織のように見えるが、このような社会規範に反する逸脱行為が後を絶たないのは一体なぜなのか。
私は若い頃、警察病院に勤務していたことがあり、うつや不眠症の警察官を何人も診察した経験から申し上げると、これは主に次の2つの理由による。
1)日頃の抑圧の反動
2)取り締まる側の特権意識
まず、「いつも正しくふるまわなければならない」「常にきちんとしていなければならない」という抑圧が強すぎて、その反動が出るのだと考えられる。しかも、警察は体育会系の組織であり、上には逆らえないので、理不尽な指示にも黙って従わなければならず、自分の主張も希望も抑圧するしかない。
ところが、抑圧するばかりだと、精神のバランスがとれなくなる。抑圧されたものが症状となって出てくることもある。だから、病気になりたくなければ、パワハラや乱痴気騒ぎなどで発散するしかない。場合によっては、今回のような逸脱行為で発散しようとする。
同様のことは、他の職業でも起こりうる。とくに「先生」と呼ばれる職種で多い。聖職とみなされてきた医師や教師が社会規範に反する行為を起こして問題になることがあるのも、やはり日頃の抑圧の反動だろう。
警察官の場合、それだけでない。2)取り締まる側の特権意識も強いように見受けられる。警察病院にいた頃、ある内科医が、深夜に患者の容体が急変して呼び出され、猛スピードで車を運転して病院に駆けつけていた途中でスピード違反の取り締まりに引っかかった。そして、青切符が切られ、反則金を支払わなければならなくなった。
すると、どこで聞きつけたのか、警察病院の課長の1人が「取り消しにできますよ」と耳元でささやいた。その課長は警察OBで、警察にいた頃は交通違反の取り締まりをしていたらしい。だから、情報の入手も、違反の取り消しも簡単にできたのだろうが、内科医は弱みを握られるのが嫌で、断ったという。警察病院の医師のスピード違反を取り消しにできるくらいだから、警察官のちょっとした違反など簡単にもみ消せるのではないかと背筋が寒くなった。
もちろん、これは30年ほど前の話である。だが、その後もたびたび不祥事の隠蔽が発覚しているところを見ると、ちょっとした違反くらい、さじ加減1つでもみ消せるという認識が相変わらず強そうだ。
こうした認識の根底には、「自分たちの裁量1つで、どうにでもできる。厳しく対処することもできるし、見て見ぬふりをすることもできる」という特権意識が潜んでいるように見える。この特権意識が、「自分たちは取り締まる側にいるのだから、少々のことは見逃してもらえるはず」という思い込みにつながっても不思議ではない。それが、「身内に甘い」と批判される警察の姿勢の一因になっていると私は思う。
「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ」
不倫も、交番での性行為も社会規範に反する行為ではあるが、犯罪ではない。だが、警察官が殺人を犯したり覚醒剤を使用したりして逮捕されることもまれではない。
そういう事件が報じられるたびに、私はニーチェの
「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである」(『善悪の彼岸』146節)
という言葉を思い出す。
この言葉は、アンドリュー・ラウ監督のハリウッド・デビュー作『消えた天使』( 2007年)の冒頭とラストシーンで流れる。主演のリチャード・ギアが、性犯罪者を監視する監察官を演じているのだが、彼に向かって1人の性犯罪者が「あんたの中に私らがいる」と叫ぶ。
これは核心をついた一言である。なぜかといえば、性犯罪者は、性衝動と攻撃衝動をコントロールできないからこそ犯罪を起こすのだが、そういう衝動は多かれ少なかれ誰の心の奥底にも潜んでいるからだ。
続きはソースで
https://biz-journal.jp/2020/03/post_147737.html
昨年7月にも、高知県警で20代の女性巡査が3人の既婚の男性巡査長と「トリプル不倫」していたことが発覚し、4人とも不倫を理由に処分を受けている。警察は何よりも規範を重んじる組織のように見えるが、このような社会規範に反する逸脱行為が後を絶たないのは一体なぜなのか。
私は若い頃、警察病院に勤務していたことがあり、うつや不眠症の警察官を何人も診察した経験から申し上げると、これは主に次の2つの理由による。
1)日頃の抑圧の反動
2)取り締まる側の特権意識
まず、「いつも正しくふるまわなければならない」「常にきちんとしていなければならない」という抑圧が強すぎて、その反動が出るのだと考えられる。しかも、警察は体育会系の組織であり、上には逆らえないので、理不尽な指示にも黙って従わなければならず、自分の主張も希望も抑圧するしかない。
ところが、抑圧するばかりだと、精神のバランスがとれなくなる。抑圧されたものが症状となって出てくることもある。だから、病気になりたくなければ、パワハラや乱痴気騒ぎなどで発散するしかない。場合によっては、今回のような逸脱行為で発散しようとする。
同様のことは、他の職業でも起こりうる。とくに「先生」と呼ばれる職種で多い。聖職とみなされてきた医師や教師が社会規範に反する行為を起こして問題になることがあるのも、やはり日頃の抑圧の反動だろう。
警察官の場合、それだけでない。2)取り締まる側の特権意識も強いように見受けられる。警察病院にいた頃、ある内科医が、深夜に患者の容体が急変して呼び出され、猛スピードで車を運転して病院に駆けつけていた途中でスピード違反の取り締まりに引っかかった。そして、青切符が切られ、反則金を支払わなければならなくなった。
すると、どこで聞きつけたのか、警察病院の課長の1人が「取り消しにできますよ」と耳元でささやいた。その課長は警察OBで、警察にいた頃は交通違反の取り締まりをしていたらしい。だから、情報の入手も、違反の取り消しも簡単にできたのだろうが、内科医は弱みを握られるのが嫌で、断ったという。警察病院の医師のスピード違反を取り消しにできるくらいだから、警察官のちょっとした違反など簡単にもみ消せるのではないかと背筋が寒くなった。
もちろん、これは30年ほど前の話である。だが、その後もたびたび不祥事の隠蔽が発覚しているところを見ると、ちょっとした違反くらい、さじ加減1つでもみ消せるという認識が相変わらず強そうだ。
こうした認識の根底には、「自分たちの裁量1つで、どうにでもできる。厳しく対処することもできるし、見て見ぬふりをすることもできる」という特権意識が潜んでいるように見える。この特権意識が、「自分たちは取り締まる側にいるのだから、少々のことは見逃してもらえるはず」という思い込みにつながっても不思議ではない。それが、「身内に甘い」と批判される警察の姿勢の一因になっていると私は思う。
「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ」
不倫も、交番での性行為も社会規範に反する行為ではあるが、犯罪ではない。だが、警察官が殺人を犯したり覚醒剤を使用したりして逮捕されることもまれではない。
そういう事件が報じられるたびに、私はニーチェの
「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである」(『善悪の彼岸』146節)
という言葉を思い出す。
この言葉は、アンドリュー・ラウ監督のハリウッド・デビュー作『消えた天使』( 2007年)の冒頭とラストシーンで流れる。主演のリチャード・ギアが、性犯罪者を監視する監察官を演じているのだが、彼に向かって1人の性犯罪者が「あんたの中に私らがいる」と叫ぶ。
これは核心をついた一言である。なぜかといえば、性犯罪者は、性衝動と攻撃衝動をコントロールできないからこそ犯罪を起こすのだが、そういう衝動は多かれ少なかれ誰の心の奥底にも潜んでいるからだ。
続きはソースで
https://biz-journal.jp/2020/03/post_147737.html