邪馬台国研究をライフワークとする福岡市早良区、県立博多青松高校教諭、宮島正人さん(61)が「『倭(わ)』の神々と邪馬台国 志賀島・宗像・八女」(海鳥社)を出版した。邪馬台国八女(八女市)説が持論の宮島さんは「歴史のダイナミズムが感じられる劇的なストーリー展開を意図した」と話す。
国語を教える宮島さんは、遺跡・遺物から研究する考古学的手法でなく、日本の神話や地域の伝説、民族文化などから研究を重ねている。本著では、古事記や日本書紀に登場する北九州を拠点とした海人氏族の一つ「阿曇(あづみ)族」と抗争したとみられる古代九州を代表する豪族「筑紫(つくし)の君」に焦点を当てた。さまざまな文献の解釈、地方の神社の祭事や伝承などの検証に基づき、この抗争が邪馬台国の成立に至ったとする「邪馬台国八女説」を説いている。
学会では邪馬台国は畿内説が有力とされるが、「畿内説と違って九州説は『おらが町の邪馬台国』的に百花繚乱(りょうらん)。そもそも3世紀半ばに近畿から九州に及ぶ統一国家が成立していたかどうかは原点に返る必要がある。所在地論争は二の次」と意に介さない。
今後は新書版のような書籍を出版したいという宮島さん。「ゆくゆくは八女市をはじめ九州各県が参加する邪馬台国フォーラムを開き、市町村の町おこしにつながれば」と、さらなる展望を描く。
税込み2376円。全国の主要書店またはインターネット通販で。【綿貫洋】
毎日新聞 2018年11月29日
https://mainichi.jp/articles/20181129/ddl/k40/040/405000c?inb=ra
★1:2018/11/29(木) 22:01:44.76
http://2chb.net/r/newsplus/1543496504/ / ̄ ̄ ̄Y ̄ ̄ \
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|::: __ _ | ソウルを火の海にするニダ
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日韓合意事実上破棄!安倍ちょん大失敗!
検討じゃあダメ。さくさく制裁やってくれないと
まだ言ってんのかよw
九州なんかに都があるわけないだろ、アホ
ていうか、漢字って中国から来たんでしょ?
大和とか大倭をヤマトって読んじゃダメだよね
どう見ても当て字
和はワでしょ
俺の仮説
カササギは外来種として九州に留鳥として居る
魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある
なぜ、「鳥」ではなく「鵲」(カササギ)が倭国には居ないとあえて記したのか
魏が後に、倭国へ「鵲」を贈っていたと仮説するならば
生物学的なDNAの解析によって、鵲のルーツを特定できるのではないか
銅鏡などの錆びついた物証だけではなく
鵲が現在まで生き継いだ魏の使者ならば
邪馬台国の生きた物証としてロマンがある
福岡ではオラが町と言える程どこを掘っても何か出てくる
邪馬台国がどうたらとかはわからんが古い物が沢山残っているのは素人でもわかる
筑後節には無理があるだろう、筑後川と言う暴れ川は筑後平野の地形を一変させて居る
古墳があったとしても流されて原型を留めない可能性は十分あり得る!!
そう考えればどうなる??
あのね、邪馬台国は島根にあったってことで落ち着いたんだよ。九州しつこい。
.
. 【重要】 人間を神とする天皇制 ( 神様ごっこ ) が、原爆投下の神罰を招いた 【重要】
人間がその地位に就く天皇制では、その利権の強欲的争いは必至であり、天皇制成立は宗教でもないのにいつの間にか
宗教に絡められて、民衆の素朴な信仰心を利用しながら人間神格の代々継承という、世界の宗教のどれにも類をみない
とんでもない権威維持の欺瞞が行われている。 それはあろうことかこの国の憲法条文となっている。
世界にはイスラム圏などに宗教国家は存在するかも知れぬが、元々神託は厳格な形式祭儀の中で発現されるものではなく、
尚且つ神託は機械的規則性とは相反する自然現象だから、イスラム圏の宗教国家は将来、戦争の火種となる可能性が高い。
. 【重要】 戦争で日本国民が大勢死んだ独裁崇拝が、性懲りも反省も無く繰り返される 【重要】
また中国人や朝鮮人の宗教は本来的に利益信仰であり、経済活動の一環に過ぎない。 そのような民族文化の中での、
日本国の天皇制は一つの家族遺伝子を万系に渡って引き継がせるという、医学的生命学的な倫理に挑戦する暴挙である。
天皇制の中で神事が行われても、それは御殿で飼育されて特権我欲だけの人物が行う神様ごっこで、有害無益である。
. *** 現天皇制での神事は、御殿で飼育された特権我欲だけの人物が行う神様ごっこ ***
この点は最も重要だから再度指摘する。 一個人である人間の神格化を法として宣言してそれを代々継承することは、
自然の全存在体系の元となる根源作用が、その一個人に由来すると宣言したことであり、これはそれを許容した
その国の国民全体が持つ、自然認識あるいは自然観における “ 恐ろしいまでの軽薄さ “ を表している。
古来より、" 神懸り “ となって宗教の開祖者となった人物史などでは、何らかの “ 非日常的奇跡 “ が
見られたとの記述もあるが、そのような異質な現象を認めるとしても、
それは神懸りのような精神的変容を体現する人物が代理する、自然の根源作用の “ 外延代理 “ であり、
その非日常的異質性は決して神懸り的人物による力の具現ではない。 さらにそのような神懸り的非日常性が決定素因として、
遺伝的先天能力として継承されることなど絶対に起き得ない。 これは世界の宗教開祖者の家系をみても明らかである。
=
漢の時代
覇権国=やまと(邪馬台) →自ら朝貢せず、支配下の奴国に朝貢させる。
↓
漢滅亡=朝貢秩序崩壊 →その隙に倭国大乱 →やまと(邪馬台)が権力喪失
↓
魏の時代
覇権国=奈良? →歴史的権威やまと(邪馬台)の権力を奪い、やまとに朝貢させる。
↓
魏(西晋)滅亡=朝貢秩序崩壊 →奈良がやまと(邪馬台)を亡ぼし、その名を奪う。
↓
4世紀後半、大和朝廷の半島進出(三韓征伐)
5世紀頭、大和朝廷、半島で高句麗に敗北
↓
危機を感じ、南朝の宋に朝貢(倭の五王)
【重要】 天皇はなぜ生前退位を言い出したか
http://2chb.net/r/newsplus/1539139688/275
即位の礼
天皇の起源は、古代日本国の九州日向、今の宮崎県高千穂辺りに住んだ、特別な才能を持った巫女が発祥。
その占術での政が倭国に拡大した。 だが渡来豪族がその貢献と信仰を奪取して、今の天皇制に変質した。
邪馬台国畿内説は、九州日向から勃興した占術での政を、渡来豪族が奪取したことを覆い隠す偽の説。
さらに日本書紀に卑弥呼の記述が無いこともその理由である。
. 【重要】 日本国の独裁化計画、日本のマスコミは天皇を最高権威のように歪曲扇動 【重要】
日本国の独裁化計画は、NHKの受信料強制徴収を最高裁判所が合憲としたことで、その第一歩が開始された。
さらに天皇自主退位という異例の発表は、この日本国独裁化計画に合わせたもので、NHKや日本のマスコミは
天皇を日本の最高権威であるかのように、度を越えた丁寧語を使って歪曲扇動をする。
. 【重要】 日本の官僚どもが皇族を大切に飼っているのは、時期を見て独裁国家に利用するため 【重要】
日本の官僚どもが “ 皇族を利用して “、時期を見て独裁国家に移行する事を、天皇を始め今の皇族は非常に警戒して
いる筈だ。 日米開戦時には天皇の宣託として、散々大日本帝国軍部に利用された前歴がある。 大日本帝国の崩壊
後も依然として皇族を残しているが、最近のNHKや日本マスコミの、度を越えた丁寧語を使った天皇報道を見ると、
日本の官僚どもが皇族を大切に飼っているのは、皇室を利用して独裁国家に移行する時期が近づいている証である。
.
>>1
こいつら朝鮮人の卑劣さは、チョンポップの人気偽装の手口にあらわれてる。
サクラの在日朝鮮人を観客役として大量動員した人気偽装コンサート、
日本人になりすました人気偽装カキコミ、
パンスト被ったみたいな朝鮮顔の過剰整形・厚化粧、
ユーチューブの再生連打、「いいね!」連打は、
朝鮮人がいつもやってる汚い手口だからな。
韓流アピールしてる人のほとんどが在日朝鮮人だってことはバレてるから。
だいぶ以前から在日企業や在日学生、在日系メディアを総動員した人気偽装をやってる。
【韓流】やはり、K−POPチケットを買っていたのは日本人ではなく在日朝鮮人たちだった[2012/7/6]
http://itest.2ch.net/hayabusa3/test/read.cgi/news/1341579948/
. >>12
ひ=火=日(お日様)
み、じゃなくて、おそらく「め」=女
こ=子
「お日様(神様)の女の子」って意味だな。 古代日本の首都ならもっと色々発掘されてもいいのにね
やはり奈良が濃厚だな
まだまだ研究費が必要なんですよ詐欺かな
もうとっくに判明してるんじゃないのかな
>>6
ワは、中国がつけた名前。
日本人が自分のことを指す時「わ」と言っていたからだろう。
ジャパンみたいなもの。
一方、日本は「やまと」と言っていたが、文字はなかった。
そこで漢字で日本を意味する倭に、「やまと」という読みをあてた。
倭はあまりいい字じゃなさそうなので、「和」に変えた。
さらに大きいを加えて「大和」とした。 説と言うには一定割の人に説得力を持って支持されている必要があるよ
支持率20%なら説と言えるだろうけど1%ならトンデモや奇説
八女説は支持率どれくらいか
九州説って町おこしとか郷土愛的な要素が強くて、一種の宗教染みてるよね。
記録に残ってる内容の、方角が合ってれば九州、
距離が合ってれば近畿だっけ。
ろくな技術もなく、星の位置を頼りに航海をしていた時代に、
距離の計測を間違うことはあっても方角を間違えることがあるかね?
よって俺の中では九州説支持なんだけど…
水行30日陸行一月かかるってことは九州北部は無いよね
どんなに近くても九州南部か中国地方か四国でしょ
遠ければ東北もありえる
ただはっきり言えることは魏志倭人伝の行程では九州北部は絶対にありえない
近畿説ってなんの根拠も無いのに
年代だけで全部邪馬台国に比定するよね
>>26
倭人の国の一つが邪馬台国
ワ人の30以上ある国の中にヤマト国が存在してると魏志倭人伝に書かれてる 邪馬台国は韓国が起源
…って言い出す奴まだ居ないな…
>>29
使者は恐らく伊都国までしか行ってないだろうから、伊都国の近所の奴国・不弥国までは
ほぼ正しいとしても、そこから先の方角が間違ってる可能性は十分あるんじゃね。 >>37
間違ってると決めつけないと畿内説は成り立たないから
畿内説は信憑性が薄いんだよね どっちだろうと、ファッキンジャップは韓国ら文明を恵んでもらっていたおもらいさんなのになw
当時の船は海流にのらない場合時速2kmくらいと聞いたけど
どうなんだろかね
>>26
今でも「わが国」とか「われ」とか名残があるくらいだしね。 >>31
箸墓古墳を卑弥呼の墓とか言ってるのもつい15年前くらいからだし
その前は三角縁神獣鏡が出ればその古墳を卑弥呼の墓だと騒ぎまくってた
節操がない >>41
朝鮮半島は北は中国から、南は日本からだよ
日本は呉から 魏の使いの親魏倭王の印持ってきたひとや張政は
邪馬台国に来てないだろ
冬でも生野菜食べてたとかtはだしとか寒冷化が始まる前の情報だろ
>>46
親魏倭王の印を届ける役目なのに
途中まで行って最後は他人に任せたりするかな? 張政は台与にアドバイスしてるけど木札だし
直接邪馬台国に来て会ったとは思えん
>>29
九州内でも方角は間違ってるよ
末盧国(唐津か松浦)から東南に伊都国(糸島)、その東南に奴国(博多)と書いているが、実際の地図では松浦から博多は東北方向。
九州内で既に方向も変。ここは基礎知識として抑えとこう。 >>52
奴国って戸数が多いので広いだろうから
伊都国から南東方向でも奴国なんじゃない?
今の博多の範囲だけと決まってるわけじゃないし >>50
機密を守るために、「この先は、今年は疫病が流行って・・・」
とか適当なこと言って体よく追い返したんじゃね?w >>39
魏史倭人伝の続きに、
女王国の東、海を渡る千里、その南に朱儒国あり。
女王国から四千里、東南に裸国、黒歯国があり、船で一年でつく。
とあるけど、こちらが本州じゃないの?
朱儒国は出雲の気がする。丁度北九州から東に千里くらいだろう。
裸国、黒歯国の東南と言うのが引っかかるけど、東の日本海航路に対して、
東南は瀬戸内海航路だと考えたら納得できるんでないか。 魏志倭人伝より抜粋
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
并齎詔 賜金帛錦?刀鏡采物
倭王因使上表 答謝詔恩
正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、
梯儁等は詔書、印綬を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。
並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、?、刀、鏡、采物を下賜した。
倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。
>>50 返礼を使いに任せてるから直接受け取ってないんじゃないかな 伊勢神宮が二千年の歴史を持つのに何言ってんだレベル
>>38
素直に読むと九州も飛び出ちやうからそこはどっちもどっちだと思う。
>>39
伊都国から先行ってないとすると本州の記述がほとんどなくてもむしろ自然。
てか伊都国までは治める者や人口以外にもよい田畑がないとか住民は魚や鮑を捕るとか
付帯情報があるのに、帯方郡からの使者が駐在する伊都国の次の奴国から先はそれがない。 もう教科書も書き換えられてるのに、いまだに九州説なんか信じてるやつは脳みそカチカチの老人
>>61
素直に読むと言って
地図上の直線距離で考えてるのだから間違うんじゃない?
まっすぐな道なんてまず無いよ
実際にかかった道のりで表記するのは普通だと思うよ >>57
やまと(邪馬台)は、山手の国、まあ盆地の国だな。
地政学で考えれば、小国連合の中でマウントを取れるのは、
守りの固い盆地の国しか有り得ないわけで、
かつ「みなと」を支配できる地理的要件が必要だな。
ここで「みなと」は、大陸との交易拠点の奴国=博多だな。
やまとは、どこだろう?
八女じゃないわなw >>62
学会老人の政治が教科書を書き換えて、
それを信じる若いもん。おいおいw 奴国・不弥国は、古代九州の最重要地点の太宰府に隣接してる
魏使のゴールもそこだったんじゃないか
当時はなんと呼ばれたんだろうな
東西を山で挟まれてるから山門かもな
王が在住してない場所を都とも呼べなくて、結局なにも書かなかった、とか
>>64
共立したのだからマウント取る必要はないし、逆にマウント取れる国なら共立しなくても済む
共立したという事は
他の国々が同意する必要があるので国力がありすぎる国ではないという事が分かる >>68
卑弥呼は倭人の30カ国が共立した女王
魏志倭人伝ではそう書いてるんじゃないかな? 邪馬台国はなかったという説はないの?
物的証拠がないうちは、ムー大陸やアトランティスと同レベルの信憑性しかないと思うが?
九州説なんて遺跡もなく、物証の裏付けもなく、学者の支持もなく、
ド素人が文献珍解釈してるだけの俗説に過ぎない
だから学者はゴッドハンドだの、捏造やってるだの誹謗中傷し、
必死に陰謀論唱えるしかないわな
>>64
現在の地理の状況で考えてない? 水位が違えば、港の場所も違ってくると思うが・・・ >>71
邪馬台国は台湾や済州島だった可能性も有り得る >>72
畿内説なんか魏志倭人伝にカスリもしない説やん。 墳丘墓とか古墳とか遺跡とか日本各地に存在するから、発掘が進めば進むほど色んな可能性出てきそう
関東だって古墳とかうじゃうじゃあるもの
>>63
古代の移動は大変だろうしなかなか旅しても前に進まないんだろうね。
ただひとつ思うのは、放射読みだっけ、あれはまったく素直じゃ無いとは思う。 魏志倭人伝の邪馬台国の説明が建物二つと柵とかそれだけなんだよね
多分使者は現地に行ってない
書かれてる生活様式についても寒冷化や倭国大乱が始まる前と思われるし
外国の大使が駐留する伊都国から距離のある場所に邪馬台国があったのと
引越ししたばかりで卑弥呼とその従者100人くらいしかいなかったし
(魏志倭人伝では1000人だけどいつもどおり10倍界王拳)
使者を迎える施設も無くて招待できなかったんじゃないかな
台与の時代には規模が大きくなるけど使者を迎えるまでの余裕は無かった
倭国大乱のせいで使者を危ない地域を通行させられなかったとかも考えられる
とにかく邪馬台国は伊都国から離れたところにあった
>>71
邪馬台国はなかった→邪馬台国と言う名前の国はなかった、という説はあるけど、
国の存在がなかったというのは聞かないな。 >>70
ああ、それは意味が違う。
倭国の覇権国だったやまと(邪馬台)が、力が弱り倭国大乱に至り、
女を王にする、つまり、もう覇権を求めないという条件で、
倭国内の権威のみの存在として、存続を許されたんだな。
大乱の結果、屈辱的条件を受け入れさせられたということだ。
その状況を(倭国が!)女を「共立」して王と成すと言ってるだけのこと。
其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歷年
乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 倭国には阿蘇山があると隋書に書いてあった
阿蘇山がある場所が倭国だとおもうわ
どこにあるのか知らんけどお前ら探してみろ
文字も無いのに統一国家があったとは考えにくい。
いくつかの国が武力闘争をする中で、魏へ後ろ盾をお願いしに行った勢力があったというだけ。
その勢力はまあ、九州だろう。
結果的に、いち早く漢字を取り入れた舞鶴から畿内の勢力が、福岡から瀬戸内海の航路を手中にすべく西征して統一を成し遂げたのが大和朝廷だろね。
九州は福岡佐賀あたりなんか古代遺跡の宝庫だからな。そらロマン求めますがな。
>>43
わ、わー
北海道南部の沿岸や津軽方言では男女の区別なく使われる。
伊予では主に年配の男性が使い、二人称で使われることも同等にある。
沖縄方言では主に男性が使う 倭国大乱ていうけど倭国の内乱でおそらく吉備が反抗した
吉備は鉄は取れないけど加工技術があった
だけど奈良の北部や淡路や丹波などの各地に
鉄の加工場ができたことで軽視されるようになって不満を持って反抗した
吉備の反抗で瀬戸内海は通れず水行で日本海側をとおって出雲 投馬国へ
それから陸行1ヶ月で奈良 邪馬台国への道を通った
いっかい大宰府天満宮更地にして発掘して欲しいな
絶対何か出てくるだろあそこ
>>81
隋書読めば議論なんか起こり得ないよな。
実際に当時の日本との往来記録を書いた隋書倭国伝の冒頭に
「倭国の都は邪靡堆、則ち魏志にいう所の邪馬臺である」と書いちゃってるもん。
まあ九州説の人は必ずスルーするけど 魏使が邪馬台国まで行ってないとなると
その距離も伝聞で、本当かどうか怪しくなる
まして人口七万戸なんて疑わしい。
卑弥呼の墓の大きさも1000人殉葬した話も大げさに
言われただけかもしれない。
>>81
阿蘇は熊本にある
当時の倭国の版図は東北南部から九州まで
その版図の中に阿蘇があったというだけ
倭国の首都の位置とは無関係の記述 >>82
魏への後ろ盾をお願いしに行ったというのは違うと思う。
その後の歴史も考えれば、九州のやまと(邪馬台)が倭国の中で
権威を確立していたととれるが、漢代には、そのやまと(邪馬台)でなく、
奴国が朝貢している。
要するに、倭国では、覇権国が朝貢せず、配下の国を朝貢させていた
と考える方が妥当。(薩摩が琉球を清国に朝貢させたみたいに。)
ところが、倭国大乱後やまと(邪馬台)が女王を強制されていることから、
他国(奈良?)が覇権を握ったということであり、さらに、あろうことか、
歴史的権威やまと(邪馬台)に朝貢させるという暴挙(!)に出たということ。 >>64
鋭い
ミナト水門は海原との結節点
ヤマト山門は山々との結節点
かもしれない
ヤマト山人とハヤト海人の可能性も 当時日本中に人が住んでたけど
北九州や出雲ほど軍事的に進んでおらず対抗できる勢力となると限られる
倭国大乱で卑弥呼が属する北九州の王族を裏切ったと考えられるのは
出雲、丹波、吉備、熊本、大分、佐賀くらい あれ?なんか多いな
>>1
そのうち福岡は韓国だったとか
邪馬台国は韓国で日本の起源は韓国であったとか言いそうだな
なんで邪馬台国という歴史に固執してるのか透けて見えそうだ >>89
あの時代に魏使が陸路を何日もかけて邪馬台国に行くはずも無いし
言葉や食料の調達やら泊まる所の確保とか出来ないし
来た時に使った船だって係留しておけないし、係留したって流されちゃう怖れがあるし
夢が無いけど、九州の地方政権の使者から聞いた話を適当に書いてただけだと思うわ >>93
と=戸(=門)・・・集落・都市を表す婉曲表現。
江戸時代でも町の入り口に「木戸」があって税を取ってたんだってね。 >>97
あの文章、他の解釈があれば教えて欲しいw >>87
隋書の時代になると
倭人の連合国家である大倭国を統一して
その国名を大倭国
そして大和国と呼ぶようにした王権が成立してるからだよ
魏志倭人伝の邪馬台国と同じ国である必要はない
国譲りと同じように名前も譲ってもらってるのだから 九州説は畿内説と言い争うより
九州内で場所を統一するのが先だと思う
今の状態じゃ畿内説(纏向)の否定しかしてないから説得力ない
邪馬台国時代あたりの多くの天皇は丹波から姫を迎えてる
倭国大乱の間でも奈良と丹波の連合は強かったんじゃないかな
奈良がアマテラス 丹波がスサノオで両国で中国地方を抑えて
さらに北九州を援護した
その結果北九州と奈良の立場が逆転した
「わが国」は普通の日本語では「わたしの国」という意味だが、九州弁で「わが国」は「お前の国」という意味
つまり、倭国の首都邪馬台国は九州の外、畿内のことである
>>102
男の王が連合国家を統べていたけど
内乱が起こり70年も続いた
70年も続いてる時点で、先の連合国家の盟主の地位などなくなったようなものだし
それとは関係なく、
他の国々の王と共に
祭祀の指導者である女の王を立てたという事
男の王だったので争いが絶えなかった
女の王で鬼道を使い人々を治めたと言ってるのだから
先の連合国家の指導国とは無関係だと読み取れる 九州説同士の議論って、優勝が決まった後の消化試合で
順位だけは一応決めようってのと一緒
>>104
畿内説って昔は三角縁神獣鏡が出てくる古墳が見つかるたびに、
ここが邪馬台国だと言い続けて
やっと15年ほど前から纏向遺跡が邪馬台国だと言い出したような体たらく
しかも卑弥呼の死亡時期とずれてる そこに何かがあったから神話が生まれる
なんて誰かが言ってたな
>>105
天照は、明らかに卑弥呼を昇華したものだろ。
卑弥呼が籠って弟か誰かが取り次いでた、って話だから、
天岩戸のモチーフだよな。
奈良に滅ぼされた出雲が神々の地になったことを考え合わせれば、
やまと(邪馬台)は、奈良に滅ぼされ、その権威ある名を奪われた、
ということが推測できる。 >>109
魏志倭人伝に鏡を下賜したと書かれてるんだから
大量の鏡が出土した場所を邪馬台国というのは当然じゃないの?
卑弥呼が魏に使者を遣わした景初三年と書かれた鏡が見つかってるのに否定する根拠は?
九州に見つかったの? >>113
数が多すぎる
日本で複製していると証明もされてる
で、
その何百枚も出てきた三角縁神獣鏡が出土した古墳のどれかが卑弥呼の墓と君は言ってるの?
畿内説の学者ですら、そんな事言ってないんじゃないか? >>113
大量の鏡が出ることがおかしいとなぜ気づかないんだw 近畿在住者としては畿内説をとりたいから証拠探ししてたんだけど
調べれば調べるほど畿内に持ってくるのは苦しいという結論に達したよ
だいたいこの辺だろうなって位置も掴んだけどそれを言っちまうと五月蝿いだろうから
ここではなく別のところで言わせてもらう事にする
>>107
七八十年は、男が王だった時代の長さだ。
倭国大乱の期間は、暦年、つまり一年以上という感じか。
連合国家に覇権国が無いような幻想は、まさに「共立」という
字句から生まれているのだろうが、それは読み違い。
男の王だったから争いが絶えなかったとは書いていない。
女の王の鬼道で治めたとは書いていない。むしろ、それを使い、
実質的には弟が治めていたと書いているに等しい。
卑弥呼は王になってから見たもの少ない=いなかったかもw
やまと(邪馬台)が権威を確立していなければ、
大和朝廷に「やまと」名は残らん。
よく読め。 >>115
日本で複製された鏡が畿内でいっぱい出て九州ではあんまり出ないのは何でだっけ
魏の鏡を直接貰った九州では畏れ多くて複製せず、たまたま魏の鏡を入手した畿内の国はなんかカッコいいから職人呼んで金型作らせて複製しよう、みたいなノリ? いまだに九州説を主張してるやつって、例えが適切でないけど、小野田さんとか横井さんみたいだな
邪馬台国論争がまだ続いていると思ってるし、中には九州説が優勢だと勘違いしてるやつもいる
>>121
おじいちゃんたちの政治の結果の作り話を
かたくなに信じる若い衆、おご苦労様ですw >>119
そもそも三角縁は中国で一枚も出てこない 超レアものなのに
なんで日本からだけ400枚くらいだっけ?出てくるんだ?
ありもしない年号景初4年と銘されてるのが出てくることで日本製とわかる >>118
70年は読み間違えだったね
結論は、邪馬台国と後の大和国の中心が同じ場所とは限らないという事だよ
九州の邪馬台国と畿内の大和国
途中で遷都したか東遷したか
あるいは国譲りか
何かがあったと考えている 近畿の中心は大阪ナニワ京の時代なので
奈良ヤマトはインチキ
畿内とか九州って説はまず頭から排除して
資料に忠実にライン引きしてみ
この時代にこんなことできたか?っていう先入観も捨ててな
そうすれば結構シンプルに答えが導き出される
>>55
いや、印を渡したと報告しないと魏王に殺されちゃうよw
印だけ邪馬台の外交担当に渡して逃げ帰ったんじゃね? >>119
色んな古墳から出てくるという事は
下っ端の王に授けてやるための鏡なんだろ
下っ端の畿内の奴らにくれてやり、畿内の奴らは喜んで墓に入れた >>115-116
みんなに分けて上げられないからと
イシマが忖度したに決まってるでしょう。
有力者へより多くへと忖度の考えは、畿内古墳の卑弥呼の鏡から。
それは現代まで続いている。邪馬台国=大和で決まりだね w >>131
いや、逆
邪馬台国まで連れて行かないなら帰るよと使者は言うだろ
という話だよ
つまり使者は邪馬台国まで行ってると俺は主張している >>126
4世紀がミソで、華北が大混乱で、長く続く秩序不在の時代に突入。
それで半島では百済と新羅が伸張し、列島は大和朝廷が統一。
やまと(邪馬台)は奈良に滅ぼさ、その名を奪われたんだろ。
「東遷」は、滅ぼした邪馬台を神々にしてその霊を祭り、同時に
権威簒奪を正当化する為の虚構の神話なんだろうな。
恐ろしい話だなあ。 >>121
親切なことに
>学会では邪馬台国は畿内説が有力とされるが
って書いてあるのにな
頭の中が昭和で止まってる後期高齢者が多いんだろ >>136
有力とされるで止まってる人のほうが多いんじゃねぇか?
歴史は常に変わっていってんだぜ 金印は、戦時中の日本アゲで国宝にしちゃったけど、
ニセなんだよなw
>>137
現在進行形で
>学会では邪馬台国は畿内説が有力とされるが
なんだけど
この記事が出た11月29日から今日までの間に畿内説を覆す発見でもあったの? で、そもそもに戻って
1投馬国
2邪馬台国
3狗奴国
それぞれどこら辺だと思う?
個人的には以下。異論反論認める
1瀬戸内海の途中、吉備
2奈良県のどこか、北九州から畿内の広域連合の都
3東海から関東のどこか、実は女王国の東
>>119
多分、魏史を読んだ当時の日本人が真似して作ったんだと思う。
三角縁神獣鏡は魏が滅んだ後の時代の古墳からもゴロゴロ出てくるけど、
中国から鏡を貰った本家の邪馬台国なら逆に魏が滅んだ後にそんなことする理由はないだろう。 >>139
その学会では畿内説が有力ってのは今に始まったことじゃない
もう何十年もそう言われてる
大新聞はそうとしか書かない 前スレだっけ?
ヒノモト→ヒモト→イモト→ヤマト
はちょっと感心した
隋書だと阿蘇山と邪靡堆がセットになってるし、現代でも阿蘇山と火の国はセットになってる
>>142
だからどんな凄い発見があって
華麗に逆転した九州説が現在どれほど学会を席巻しているのか教えてくれよ >>144
発見などないよ 素直に倭人伝読めば九州にしか収まらないってだけ
逆転もなにも元から畿内説って決まってたわけじゃない
そこんとこ間違えないように >>145
畿内説を有力視する大馬鹿者の集まりである考古学会に教えてあげるといいぞ
「素直に倭人伝読めば九州にしか収まらないんだぞ!
なんでお前らそんな事も分からないんだ!」
ってね 中国語ネイティブの中国人が魏志倭人伝を読むと、水行十日、陸行一月は水行ならば10日、陸行ならば一月、の意味だと
また距離の起点は全て末盧国になるそうだ
この時点で畿内とかは論外、九州内部のどこかということになる
ソースは「誤読だらけの邪馬台国―中国人が記紀と倭人伝を読めば… 張 明澄」
>>146
お前は知らないかもしれんがこのスレタイと同じ毎日新聞が
10年ほどまえだったか「箸墓は卑弥呼の墓」と出したんだよ
即これは協会(お前の好きな学会な)の共通認識ではありません
と否定されて大恥かいてんだよ
新聞報道と学会報道を御旗にしてるとおまえも恥かくから
自分で調べろよ >>136
昭和の時代ですら畿内説が優勢だったはずだが
大正時代とかならともかく @アルタイ語崩れの言語である日本語と関係するであろう北方系遺伝子
の分布をみると、半島から九州(とその周辺)にしか分布していない
A高句麗が南下する前の半島中部から南部にかけて日本語地名が残る。
これらから、日本語は、半島で出来て、日本には最後に上陸したと分かる。
しかもその倭人(日本語話者)の遺伝集団は、九州(とその周辺)にしか
入っていない。要するに、倭人が列島に広がったのではない。
九州の倭人強国が列島の覇権を握り、その影響で、国際語みたいな感じで
日本語が広がり、列島の人々が「倭人化」したのである。
やまと(邪馬台)が九州であったのは、もう、自明。
やまと(邪馬台)が、列島で最初の強大な倭人国であったからこそ、
その名が奈良の大和朝廷にも引き継がれたわけだ。
>>149
九州のヤマトと奈良の日本が争って最終的に日本が勝ったのでは
中国の旧唐書との整合性もとれる >>147
そうその本の解説が一番自然で納得がいく
歴史学者でも考古学者でもない漢文を読み解くのが本業の人だから
おかしなフィルターかかってなくて信頼できる
まぁ邪馬台国が他の解説書では全然出てこない場所なんで
あらら、、なんだがw >>132
九州の古墳は下っ端の機内より古墳が小さいんですね
不思議だなあ >>147
中国人といってもド素人じゃねーかwwwwwww
お前は日本語で書かれた昔の文献を日本人のド素人が珍解釈したら、それを鵜呑みにするのかよw >>148
だからお前が自分で調べた「素直に倭人伝読めば九州にしか収まらないんだぞ!」という真実を
畿内説に傾く大馬鹿者の学者達に教えてあげればいいじゃん
きっと教えてくれてありがとうと涙を流して感謝されるぞ 「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読む奴は馬鹿。
「邪馬台国」は中国の史書に出てきた単語。
だから中国語で読むのが当然。
中国語としてこれを「ヤマタイコク」と読む根拠は無い。
こんな基本事実をいつまで無視してたジャップのバカぶりは無限大w
ちなみに近い隋や唐の時代の音だと「ザマダイ」か「ジャマダイ」などとされる。
この程度のことはその辺の漢和辞典にもついてる。
言っとくがジャップが勝手に「漢音」w なんて呼んでるものは
何の根拠にもならんからな。
だから「邪馬台国」という名前を勝手にジャップ語で
「ヤマタイコク」と呼んで、
ヤマトに似てるから「邪馬台国」は畿内に違いない!
とか言ってる奴は白痴オブ白痴の大馬鹿野郎。
卑弥呼
永遠に馬鹿なジャップは例によって、
「卑弥呼」を勝手に「ひみこ」と読んで知らん顔。
しかし言うまでもなく「卑弥呼」は中国の史書に出てきた単語。
当然当時の中国語を基準とした読み方をすべき。
幾つかの可能性があるんだが、その中の一つは、
「ぴみは」 ないし 「ぴみか」
になる。
勝手に「ひみこ」を正当な読み方いみたいに
してんじゃねーぞ、糞ジャップ
日帝ジャップは馬鹿だから
「ジャップは太古の昔から天皇に統一的に支配されていた」
という妄想を維持したい。
しかし、中国の史書の卑弥呼の記述は、
明らかにそれを否定している。
だから、ジャップは「邪馬台国は近畿にあった」
という妄説を主張して、自分たちの信仰を守ろうと悪あがきをする。
その悪あがきを鑑賞して馬鹿にするのが、
5chの邪馬台国スレの楽しみかたw
>>157
もうええよ ニワカはひっこんでな ウザい >>162
お前の考えによれば「素直に倭人伝読めば九州にしか収まらない」はずなのに
専門家達は畿内説のほうを有力視している
つらいだろうがこの事実から目をそらしちゃいかんぞ >>158
はあ?
ただのド素人が研究者を騙るのかw
ド素人がいくら専門家ぶってもド素人なんだよ >>163
がんばれや 最低でも自分の意見を言えるようになれな坊主 >>147
『髪がイキイキ漢方療法』を書かれた張明澄先生じゃないですか! >>150
邪馬台国論争が一般人を巻き込んで最も活発だったのは昭和でしょ
平成になってからは邪馬台国はここだ!みたいな本がベストセラーになったりしないし
その当時の知識のままの高齢者が多いんだろうなと >>164
誤訳・愚訳―漢字の読めない漢学者たち (1967年) 張 明澄
間違いだらけの漢文―中国を正しく理解するために (1971年) 張 明澄
どう見ても漢文の専門家です本当にありがとうございました >>160
日本語は半島中〜南部で出来た。その話者集団が倭人。
兄は、新天地を求めて列島へ。兄の国、日本。
半島に残ったお母ちゃんは、南下してきた北方民族に犯されて
弟を産んだ。弟の国、韓国。
北朝鮮? ああ、あれは、韓国の種馬w
www 漢文の本出せば漢文の専門家なら
井沢元彦なんかもう日本史学の大家だろうなw
>>167
邪馬台国は九州やぞ
畿内説は陰謀みたいなものだ >>163
ゴッドハンド大先生が活躍されてた時も
考古学会のお偉いさんたちは全面的に支持してましたねw >>168
安本の考古学者批判の中国バージョンみたいだな 漢委奴国王印を越える何かがないと九州説をひっくり返すのは無理じゃね?
>>172
おおそれは初見だ まだまだ知らないこといっぱいあるなー
楽しみが増えた ありがとです
故原田大六のような考古学者が増えてくれることを祈るばかりですわ
彼の言葉
真理を愛する若い全国の学生諸君に訴える。骸骨がネクタイを締め、背広を着て、
教壇に立ち、骸骨万葉学の講義を行い、学生諸君を骸骨化しようとしている。」 >>174
その本で批判されてるのは日本人の漢学者だよ
ネイティブから見れば誤読ばかりだったんだね
魏志倭人伝の解釈と同じで >>175
もしひっくりかえせるものが有るとしたら親魏倭王印のみ
しかし出てきてもそれが東遷で持ってきたものではないという
証明も必要になってくるからかなりハードルは高い 倭国を救ったスーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になった経緯
西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火(過去100万年で最大級の大噴火)
西暦181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
西暦182年 『後漢書』 によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。
西暦182年(崇神5年) 『日本書紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「崇神天皇の徳でも国を治める事が困難になった。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「渟名城入姫の髪が抜け落ち身体が痩せ細って神を祀れなくなった。(崇神天皇の娘も餓死寸前)」
西暦184年 黄巾の乱が勃発
西暦184年(崇神7年) 『日本書紀』によると「モモソ姫(卑弥呼)が奈良で大物主神を祀ったら、五穀豊穣になった。民百姓は喜んだ。」
西暦184年 『梁書』によると「卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。」
大噴火による大飢饉から倭国を救ったモモソ姫がこうして女王・卑弥呼になった。
>>177
って短絡的に信じちゃう無知で純粋なおまぬけさん向けの本だなw
どの分野でも、とりあえずショッキングな見出しつけて
専門家の意見を否定するようなこと書いとけば
アホの子が釣れる釣れるw 邪馬台国そのものが無いんだよ
どこにも無い
魏志倭人伝の記述は古代中国人の創作
九州北部各地に人口数百人程度の国国家とは言えない規模の集落が有っただけ
畿内に有ったそれなりの規模の国家らしきモノは邪馬台国とは別のモノ
>>180
多分それ。
ただ、昔は銅鏡の配布元が北部九州が中心だったのに、この頃は畿内に移ったのは何が原因なんだろうな >>147
>>168
調べたら、張明澄は、学者ですらないな。
台湾の医師(非科学的な中国医学の医師)で、趣味で研究していた人。
ちなみに学者たちからは、張明澄はまったく相手にされなかったそうだ。 >>180
なんで最後の一行と繋がってるように書いてんのw
そもそもモモソヒメは自分であそこ突いて自殺した人だぞ
卑弥呼なわけねぇだろがw >>181
と、読んだことも無いのにレッテル張り
これが畿内説を唱える人間の正体 >>184
そしてこうやってウソをしゃあしゃあと並べる
これが畿内説を唱える人間の正体 >>185
じゃあ、なんでモモソ姫の子孫が朝廷で一番偉いんですかね。
モモソ姫は三輪氏の祖
朝廷で一番偉かったのが三輪氏 >>189
俺はモモソヒメが卑弥呼じゃねぇと言ってるだけだ
モモソヒメのそれ以外のことなんざ興味ねぇわ
知りたきゃ自分で調べろ つか、この筑紫の君は、邪馬台国と交戦してるからね。
負けちゃいなかったけど、謀略で殺されてる事までは記録にあるらしい。
これが北部九州の雄なので、畿内も怪しいが、こっちも相当怪しい。
むしろ安曇のほうが邪馬台国の可能性が高い。
ただ、邪馬台国があくまで九州にあったらの話。意外と山口とか、ちょっとずれててもおかしくはない。
>>192
はいはい お前ん中ではそういうことにしとけ >>190
ウソだが?
https://ja.wikipedia.org/wiki/張明澄
> 『誤訳・愚訳 漢文の読めない漢学者たち!』(1967年久保書店)で、『唐詩選』をはじめとする唐詩の誤訳や原文の間違い、
> 意境の至らなさなどを痛烈に批判した。同書の目次を一部列挙すると、
>
> ・漢詩の韻も知らない○○の訳者・鬼女を美女と訳す漢学者たち・文法を知らないからこんな訳になる・奇妙きてれつな地上最低の○○訳
> ・漢詩の区切りも知らない訳者たち・○○訳にかかると名詩も大掃除の詩になる・正訳と誤訳のまじった○○唐詩選
> という具合に非常に挑戦的である。
> 特に批判の対象となったのは、吉川幸次郎の「新唐詩選」や、前野直彬の『唐詩選』など、岩波書店から出版された
> 漢詩の翻訳であり、張は激しい調子で王翰の「涼州詩」などに対する吉川らの解釈を否定した。
> 発表当初は中国文学界からは黙殺されたが、後になって漢詩解釈の専門家である松浦友久が張の説を取り上げ、
> 吉川の解釈と比較して検証をしている。松浦の検証によれば、王翰の「涼州詩」に対しては吉川の解釈も張の解釈も
> 両方歴史的に見て正しく、解釈として成立するものだという。 >>186
それは、もう歴史ではない。田舎政治である。 九州は出先機関だったんじゃないの?整合性とれるような
>>194
すでに有力な説なひとつとされてるので。 >>200
説としてあるのは承知してる
シャーマンとしての実力も卑弥呼並みだとも言われてるのも
承知してるが、卑弥呼ではない
箸墓古墳を卑弥呼の墓としたいがための説というのが俺の感想
以上 近畿まで移動するのはきついけど、「出先機関の長に会ってきました」じゃメンツが立たないから、
とりあえず玄関にいたこいつが頂点ってことにして報告しよう、とかじゃね?
>>187
残念ながら俺九州説なんだがなあw
自分に批判的な人間は全て畿内説論者とか思い込んでるの?
おまえさんも根拠の無いレッテル貼り大好きじゃねえかw >>42
それじゃ、沖縄行ったり、伊豆諸島行ったりでんやろ、たぶん。
もっと速いと思うけどな。 >>195
どうやら漢文解釈については信用して大丈夫なようだな
となるとやはり九州か ・2002年の調査によると、鉄器の出土数は、熊本(1890)、福岡(1740)、鳥取(1000以上)
奈良は多く見ても13点くらいと少ない。
・漢委奴国王印が福岡で出土
考古学的には弥生時代には九州が最も発展していて、関西については文明はまだ遅れていたが豪族がいたようだということしかない
>>183
西暦815年に編纂された『新撰姓氏録』には、
神武天皇(初代天皇)の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。
『新羅本紀』によれば、
新羅には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がある。
そして昔氏の始祖は、西暦57年に新羅の王になった倭人の脱解尼師今である。
これらの記述から、稲飯命が西暦57年の新羅王、
神武天皇(初代天皇)が西暦57年の漢委奴国王であることがわかるが
奴国(筑紫)にいた畿内出身の神武天皇が漢委奴国王になったことで
伊都国にいた九州王よりも神武天皇のほうが偉くなって、権力が九州から畿内に移った。 吉野ヶ里遺跡の近くに佐賀県は王仁博士顕彰記念公園だかを作り
韓国が百済門を作るなど、韓国に媚びまくりでむかつくんで
邪馬台国九州説は朝鮮人も喜びそうだから間違いであってほしい
>>208
別にさ好きなように妄想書くのはかまわんけど
天皇の在位くらい正しく書こうぜ
神武天皇800年くらい生きてらしたんか? 距離は帯方郡から釜山まで7000里なので、
560km÷7000里=80m/里となり、
帯方郡から1万2千里→960km 山門となる。
倭地は周旋5000里(400km)程度の島なので、
本州は想定出来ない。
マキムクは弥生時代の馬具と槨が出たので詰んだ。
吉備辺りからも槨が出るので、本州には倭国を想定出来ない。
邪馬台国が奈良なら、北部九州から奈良まで、
広い範囲を支配していた事になる為、
邪馬台国VS狗奴国のパワーバランスを日本列島に想定できなくなる。
邪馬台国が北部九州から奈良まで、支配していたのなら、
6世紀の山門の支配者、磐井の君が、代々福岡県の糟屋に
屯倉を持っていた事を想定出来ない。
山門の支配者、磐井の君が、福岡県の糟屋に屯倉を持っていた事は、
山門の支配者、邪馬台国が一大卒を置いて北部九州を支配していた構図と重なってくる。
狗奴国の狗古知卑狗は隈国の久々知の豪族に想定できる。
菊池に隣接する山門は邪馬台国vs狗奴国の構図にピッタリ当てはまる。
奈良盆地よりも筑後平野ははるかに大きい。
奈良盆地に7万戸を想定できるのなら、
筑後平野にはそれ以上のキャパシティを想定可能。
>>217
じゃなんで神武はわざわざそこまで東征したんだよ 遺骨の状態から、倭国大乱を奈良盆地には想定出来ない。
弥生後期の北部九州の遺骨は戦死者だらけ。
倭国大乱を想定するのに相応しい。
弥生後期の鉄鏃の出土は熊本と福岡が圧倒的。
邪馬台国vs狗奴国の戦いを再現可能である。
『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』
現代を代表する統計学者、松原望氏 (東京大学名誉教授)によると、
「もう邪馬台国についての結論は出ています」との事。
>>214
畿内説論者は、倭人伝に書かれる邪馬台国の強大さばかりを見て
こんな規模の国は当時の大和しかありえないと主張するが
異民族を朝貢させた功績を称えるためには、それがしょぼい国だと様にならない
邪馬台国の規模の大きさはあちらの都合による誇張、偏向の可能性を考慮しなければならない
そんな邪馬台国の記述だが、しっかり読めば実際は結構しょぼい国だったんじゃない?
と思わざるをえない記述もいくつか出てくる
そちらの方にこそ、誇張の陰にある実像を記してるんじゃないかな >>219
全て事実。
捏造もウソも一切ありません。 >>222
畿内説はその大きさが邪馬台国想定の拠り所になっているが、
その大きさこそが、邪馬台国vs狗奴国の構図を日本列島に想定出来ない事になる事を、
全く理解していない。
理論的思考能力がゼロ。
魏志倭人伝を読んでも、その中身を日本地図に落とし込む頭脳を持っていないのである。 >>37
伊都国までしか行ってない設定にしないと「方角を間違えるはずがない」というツッコミに耐えられないからな
実際は頻繁に行き来してる >>223
>帯方郡から釜山まで7000里なので、
>560km
最初から嘘じゃねーか てなわけで、狗奴国相手の争いに苦戦して、魏の援助を必要としたこと
卑弥呼一人死んだだけで崩壊しかけた脆弱な連合国家
畿内説はここら辺の問題こそしっかりと証明しなければ
邪馬台国畿内説は残念ながら成立しえないんじゃないかな
>>227
旗だけもらってもな〜と卑弥呼は嘆いたやろねw まあ、邪馬台国はすげえ国だ!
3世紀の大和政権もすげえ国だ!
古代日本ってすげえ!
って騒いでたほうが景気のいい話で、圧倒的に国民受けがいいのは確かだよな
>>228
まともに距離を測ったことがないのがバレバレ
せいぜい地図にモノサシ当てただけだな 種子島は弥生の人骨群から、当時、小人の島であった事が判明しており、侏儒国を想定できる。
山門から種子島までの距離が4000里(320km)であり、
魏志倭人伝の邪馬台国から侏儒国までの距離に合致する。
>>231
直線距離で何kmか知って言ってんだろな? >>233
直線距離wwwwwwwwww
バカすぎだろ 高天原=邪馬台国は、北部九州で間違いない。
天照大神=卑弥呼+台与
天照大神の生誕地=筑紫・福岡県@古事記
天照大神は天皇の祖先に鏡を授けている=弥生時代の墓から鏡が出たのは、福岡・佐賀だけ。
奈良の弥生の遺跡に戦闘を示す痕跡が無いので東征は無いとしか言いようが無い。
畿内説を主張してる人は、本気で畿内だとは思って無いだろ
自分の所属する大学・派閥が畿内説なので、自分も信じてないのに畿内説を主張してる
>>234
バカはおまえだ 直線距離言ってみろや知らねぇんだろ?
だから560kmが嘘だとかぬかすんだよ 皇族やその関係者だけに伝えられてる真の歴史とか古文書とかがあるんじゃないの?
>>238
3世紀に560kmの直線距離が測れたとドヤ顔してるアホwwwww
腹いてーwwww >>240
560kmが直線距離だと思ってる時点でアホ丸出しww
直線だと約350km 今はKTX(新幹線)で約500kmなんだよ
よく覚えとけよ物知らず まあ、大学出てるだろうから、論文は出せるんだけど、普通、学士の論文なんか誰も読まないわな
教員としては、まったく相手にされない
>>241
で何が言いたいんだアホ
関係ないなら初めから脱線させんなや >>243
お?間違い指摘されて顔真っ赤にして
論点ずらしかwwww
ここまで指摘されて560kmが妥当な距離数だってこと
理解できないならおまえにはまだこのスレは無理やわ
も少し勉強してから来い >>236
横から申し訳なかった なかなか興味深いのでよろしかった続けてください >>244
意味不明すぎだバカ
どこがどう論点ずらしだ?
嘘八百を一方的に言い張るだけか? >>247
そもそも帯方郡から狗邪韓国までの距離に、直線距離を持ち出してくること自体が、トンチンカンすぎるんだアホ
お前の支離滅裂な理屈と話が合わないからと、論点ずらしだの、間違いを指摘してやっただの
頭逝かれてんのか? ID:tA70g8480
こいつ結局、帯方郡から狗邪韓国まで560kmとかいうデタラメ言い張るだけだったな
短里厨は脳足りんというのをまた証明したようなもの
小学生は加減までしかしなかったっけ?乗除もするよな
ま、この阿呆はそれさえわからんようやけどな
同等の人口なら九州の方が優位だろけどなあ
4世紀になると畿内は大阪干拓が始まるから
鉄器がいまいちでもゾンビーで勝てそうだけど
>>252
こいつ算数だのまたトンチンカンなこと言ってやがるwwww
全く分かってない証拠 >>26
>倭はあまりいい字じゃなさそうなので、「和」に変えた
和と倭は同じ音読み
倭の一部が邪馬台国
神聖ローマ帝国の中にヴァティカン市国があるようなもの >>237
いや、本気で畿内だと思ってるよ
ただ九州説の人の気持ちもわかる
おれも最初は九州説だったから
でも、調べ出して1ヶ月もしないうちに、九州説は無理だと気づいた
ほとんどの学者が畿内説なのに、素人に九州説が多い理由は、知識が乏しいから
それだけのこと
知識が乏しいから九州説が成り立つと勘違いしてしまう
きちんと知識を身につければ、君も畿内説に変わるよ
頑張れ >>218
製鉄に必要な炭の原料の樹木を伐採しすぎて
森林資源が枯渇してハゲ山になったから >>239
朝鮮によくあるウリナラ・ファンタジーw >>259
南朝鮮も「冬ソナ」捏造物語でクニ起こし 九州説にはカネの匂いがプンプンする。
銭ゲバ共は必タヒだな。
>>37
中国の使者は実例に邪馬台国に行ってるはずなのに
なんで倭人伝の行程については伊都国までしか行ってないような記述なんだろ?
陳寿は邪馬台国まで行った資料を入手できず、途中までしか行ってない人の記述を採用したのかも。 さすがの九州人もここまで恥知らずな言説を撒き散らせないだろう
関東人が推してるんだろうな
近畿地方の評価を貶めたい一心で
弥生時代製品で有名な銅鐸は畿内を中心に出土しているけど突如出なくなるんだよな。
神話の東征は本当で、九州勢力による畿内制圧で銅鐸が姿を消したってマジ?
そもそも魏志倭人伝そのものが疑わしいという側面、また記述の正確性の確定がないなど
根幹が安定していない時点で何かね・・
アトランティスやムーを探してるのと変わらんレベルですわ
女王国より北には、とくに一大率をおいて諸国を検察させている。
諸国はこれを畏れ憚っている。一大率はつねに伊都国におかれるが、
これは中国の州の刺史のようだ。女王が使いを遣わして、洛陽や帯方郡・諸韓国にいたり、また逆に、帯方郡からの使いが倭に来たばあい、何れも伊都国の港頭で臨検し、文書や賜物を調べ、女王のもとに届けるものが、これと違わないようにした。
https://blogs.yahoo.co.jp/koujigleat/60266266.html
伊都国の南に女王国は有ると読めますが、如何でしょう >>268
魏志倭人伝とアトランティスが同じとは笑止千万
ちなみに学会ではほぼ畿内説が定説化した
九州説はネタとしては残ると思うが >>224
だよな。
北九州確定の伊都国や奴国が邪馬台国中心の連合国の勢力圏と書かれてるから
邪馬台国が畿内にあったら畿内から北九州に及ぶ大国家になってしまうし、
倭人伝では当然そこまでに至る瀬戸内沿岸の国についての記述があってしかるべき。
南にあるとされる敵対するクナ国も大和の南は十津川などの山間部で大国がある位置ではない。 漢字を読めない嘘吐き自称学芸員が幾内だと言ってたから幾内以外だと思うわ。
>>271
ゴッドハンドの捏造もしばらく定説化してたしね >>271
学会で定説化だから云々とかそれこそ嘲笑
メデタク鵜呑みにしてなさいな で、そもそもに戻って
1投馬国
2邪馬台国
3狗奴国
それぞれどこら辺だと思う?
>>270
釜山、対馬、壱岐は東南と北西の位置関係だけど
倭人伝ではそれぞれか南北で交易していると書いてるように
大陸サイドは常に日本列島を実際とは傾いた位置で認識していたんだとな。
だから倭人伝でいう伊都国の南というのは地図上では南東だとか。
つまり別府や大分あたり? >>272
九州までガッツリ抑えるほど強大な国家なんだったら九州南部の熊襲との対立くらいで魏に朝貢して助けてもらうなんてしないわな、、 >>277
画像検索しても投馬国の位置はホントに一定しないよな。
大陸サイドは日本列島を傾いて認識していたとする鷲崎氏の本では
伊都国の南にあるとの邪馬台国は実際は東南の宇佐、
邪馬台国の北にあるという投馬国は周防灘を越え山口県沿岸、
クナ国は宮崎や鹿児島だとしてたな。 >>189
倭迹迹日百襲姫命に子孫はいないだろ
巫女だし 九州にあったら、半島から襲われちまうよな
何のための防人
でも、むしろ半島南部と九州が一つの国になってた可能性もあるが
纏向
吉野ヶ里
纏向かなあ…w >>277
1.宇土市の周辺
2.宮崎を中心とした東九州
3.鹿児島くらいの南九州
当時の海岸線がどのあたり化は分からないが
大川市あたりから水行20日で宇土市あたりにたどり着き
それから水行10日で八代の周辺で上陸、東へ進み九州山地を超えて1カ月かけて東九州へ向かう
そこが邪馬台国 福岡県の美少女
馬がないと近畿〜北九州までの大国を作るのは難しそう
馬なしだと、鎧着て銅の矛やら剣をもって長距離徒歩だし無理がある
当時は馬は存在していたようだけど数が少なかったようだ
騎馬部隊が作れる程に数が増えたのは4世紀以降みたいだし
倭国大乱とは言うものの
その当時の傷を負った人骨の出土数が多くないというのがね
>>282
百済が倭国に人質(百済の王子)を送ったとか
新羅の王は倭人だったという記録が残ってるので
朝鮮は倭国の属国だった時代も長いよ。 >>281
日本書紀や古事記ではいることになってる >>290
卑弥呼が死んだのは西暦248年頃だろ?
どれだけ生き続けてるの? >>292
魏志倭人伝にも卑弥呼は長生きって書いてあるだろ 都城制を採用した藤原京以前の王族の住む場所は
人口密度が高いところのそばで
王が変わるたびに新たに宮(家)を作ってたと思われる
奈良で人口密度が高かったのは奈良盆地中央部の旧ヤマト湖の湿地で
盆地の縁に橿原、巻向、飛鳥などがある
これを踏まえて当時九州北部で一番人口密度が高かったのは奴国
そして王族の家は福岡市西区の紀元前1〜2世紀の吉武高木遺跡にあって
中心部より少し離れていたと思われる
吉武高木遺跡は伯玄式甕棺で
同じ方式のかめ棺は
唐津、糸島の南の方、福岡、大宰府、吉野ヶ里、熊本でみつかる
西暦が始まった前後に王族はこのくらいの範囲を治めていたんじゃないか
そうなると57年漢委奴国王や107年倭王帥升はこの範囲を治めていた
そして鉄鉱石の産地で鉄加工の技術を教えてもらった熊本が
卑弥呼の時代に反抗する >>278さま
なるほど、伊都国の南とは、南東を指すということなのですね。
勉強になりました。個人的には、故 谷川健一先生の女王国
久留米説を追いかけています 伯玄式のかめ棺は長崎の平戸島や宇久島からもでてる
ここは補給港になってて九州北部と朝鮮半島で
交易が行われていたと思われる
伊都国、不弥国は奴国内に役所都市をおいたものっぽいな
結構広いんだろう奴国は
ぶっちゃけ、遺跡も何も出なくても文献学だけで推測するからどこにでも比定できる
要はファンタジーなんだよな
>>301
学者は遺跡などを考慮するから、学者の99%は畿内説と言われてるよ。
九州説のソースを見てごらん。
ほとんど学者じゃないよ。 .
. 【重要】 人間を神とする天皇制 ( 神様ごっこ ) が、原爆投下の神罰を招いた 【重要】
人間がその地位に就く天皇制では、その利権の強欲的争いは必至であり、天皇制成立は宗教でもないのにいつの間にか
宗教に絡められて、民衆の素朴な信仰心を利用しながら人間神格の代々継承という、世界の宗教のどれにも類をみない
とんでもない権威維持の欺瞞が行われている。 それはあろうことかこの国の憲法条文となっている。
世界にはイスラム圏などに宗教国家は存在するかも知れぬが、元々神託は厳格な形式祭儀の中で発現されるものではなく、
尚且つ神託は機械的規則性とは相反する自然現象だから、イスラム圏の宗教国家は将来、戦争の火種となる可能性が高い。
. 【重要】 戦争で日本国民が大勢死んだ独裁崇拝が、性懲りも反省も無く繰り返される 【重要】
また中国人や朝鮮人の宗教は本来的に利益信仰であり、経済活動の一環に過ぎない。 そのような民族文化の中での、
日本国の天皇制は一つの家族遺伝子を万系に渡って引き継がせるという、医学的生命学的な倫理に挑戦する暴挙である。
天皇制の中で神事が行われても、それは御殿で飼育されて特権我欲だけの人物が行う神様ごっこで、有害無益である。
. 【重要】 現天皇制での神事は、御殿で飼育された特権我欲だけの人物が行う神様ごっこ 【重要】
この点は最も重要だから再度指摘する。 一個人である人間の神格化を法として宣言してそれを代々継承することは、
自然の全存在体系の元となる根源作用が、その一個人に由来すると宣言したことであり、これはそれを許容した
その国の国民全体が持つ、自然認識あるいは自然観における “ 恐ろしいまでの軽薄さ “ を表している。
古来より、" 神懸り “ となって宗教の開祖者となった人物史などでは、何らかの “ 非日常的奇跡 “ が
見られたとの記述もあるが、そのような異質な現象を認めるとしても、
それは神懸りのような精神的変容を体現する人物が代理する、自然の根源作用の “ 外延代理 “ であり、
その非日常的異質性は決して神懸り的人物による力の具現ではない。 さらにそのような神懸り的非日常性が決定素因として、
遺伝的先天能力として継承されることなど絶対に起き得ない。 これは世界の宗教開祖者の家系をみても明らかである。
“
【重要】 天皇はなぜ生前退位を言い出したか
http://2chb.net/r/newsplus/1539588063/051
即位の礼
天皇の起源は、古代日本国の九州日向、今の宮崎県高千穂辺りに住んだ、特別な才能を持った巫女が発祥。
その占術での政が倭国に拡大した。 だが渡来豪族がその貢献と信仰を奪取して、今の天皇制に変質した。
邪馬台国畿内説は、九州日向から勃興した占術での政を、渡来豪族が奪取したことを覆い隠す偽の説。
さらに日本書紀に卑弥呼の記述が無いこともその理由である。
. 【重要】 日本国の独裁化計画、日本のマスコミは天皇を最高権威のように歪曲扇動 【重要】
日本国の独裁化計画は、NHKの受信料強制徴収を最高裁判所が合憲としたことで、その第一歩が開始された。
さらに天皇自主退位という異例の発表は、この日本国独裁化計画に合わせたもので、NHKや日本のマスコミは
天皇を日本の最高権威であるかのように、度を越えた丁寧語を使って歪曲扇動をする。
. 【重要】 日本の官僚どもが皇族を大切に飼っているのは、時期を見て独裁国家に利用するため 【重要】
日本の官僚どもが “ 皇族を利用して “、時期を見て独裁国家に移行する事を、天皇を始め今の皇族は非常に警戒して
いる筈だ。 日米開戦時には天皇の宣託として、散々大日本帝国軍部に利用された前歴がある。 大日本帝国の崩壊
後も依然として皇族を残しているが、最近のNHKや日本マスコミの、度を越えた丁寧語を使った天皇報道を見ると、
日本の官僚どもが皇族を大切に飼っているのは、皇室を利用して独裁国家に移行する時期が近づいている証である。
!
>>303
ゴッドハンドは旧石器時代の研究家で邪馬台国とはまったく関係ない。 証拠を出せと言われると「ゴットハンドガー」と泣きわめくいつものパターンだなw
>>287
そのあたりから馬の骨や馬具が出土するために大和朝廷は大陸からきた騎馬民族だったとする珍説があったよね。
もちろん発掘からわかる風俗からみてもそれは大間違い。
軍事技術目的で大陸から導入したのは間違いないよね。
平時でも輸送や農耕に使えるし。 >>104
関西人は邪馬台国が畿内にあったとか九州にあったとかどうでもいいんだよ!ただ九州の邪馬台国から畿内にのりこんで畿内が滅ぼされた後に九州人によって後に大和朝廷が作られた説を凄く嫌がるんだよ!だからウヤムヤにしたいんじゃないの? >>307
九州説がゴッドハンド
だから九州説はスレタイにあるように百花繚乱 考古学的には邪馬台国は奈良県の纏向遺跡で確定している。
九州は移籍がなにもない。
九州説は田舎の九州の町おこしのネタw
>>306
考古学の学者だろ?
そして歴博の奴らが必死になんてゴッドハンドの偉業をたたえてたはずだがw 百花繚乱がゴッドハンドとか話がかみ合ってないな
工作手法だな
>>313
箸墓古墳は卑弥呼の死亡時期と一致しない
それだけで箸墓、巻向は成り立たない >>310
そもそも邪馬台国が九州にあったって何が根拠なの。
九州説相手にされてないだけだろ。 >>318
南や東にしか進んでないのだから
邪馬台国が日本国内に存在したなら九州しかない
畿内は北上しないとたどり着けないので文献的を正しいとしたら畿内は絶対にありえない >>316
卑弥呼の死亡が248年
箸墓が280年前後
大手の建設会社は箸墓の制作に30年程度かかったと推測していて
完全に一致してるんだが >>316
箸墓は3世紀なので卑弥呼の死と一致している。
また、前方後円墳は纏向を中心として年代を経るごとに放射状に日本全国に
普及しているので纏向が文化の中心地であったことは明白。
九州は纏向のような遺跡が皆無で、そもそも文化もない糞田舎だった可能性が高い。 >>320
それでも30年違うし
年代測定は実際よりも古く出るので、箸墓は300年代になる >>319
魏志倭人伝には倭国は東治の東にあるとはっきり書いてあるから
魏志倭人伝を信じるなら九州も当てはまらない。
魏志倭人伝を信じると倭国があったのは沖縄県あたりになる 魏志倭人伝の記述を読めばまあ九州のどこかしかないんだよね。わたしは宇佐説だけど。
もっとも考古学的に違うと言われればアレだけど、さっさと宇佐神宮掘ったら解決すると思うんだ。
>>297
ちなみに唐津のマツラ国から糸島郡の伊都国までを倭人伝では東南と書かれてるが実際は北東なのもそのため。
だって唐津から糸島半島は視認できるんだから方向は誤認しない。座標軸そのものを誤認している。 >>321
文化の中心?
仮にそうだったとしても
それが邪馬台国だったかは断定できない
倭人国の連合である大倭国の中の一つが邪馬台国であっただけで
邪馬台国が倭人連合の最有力な国であったとは決まっていない
共立したのだから、そこそこ弱めの国じゃないと他国が同意しないよ >>323
真東である必要はない
北東から南東の範囲内におおかた収まればいい
真東なら屋久島とかそのあたりだろ
沖縄本島は南にすぎる
>>324
wikiとかもそんな感じで書いてるんじゃないか? 文字すら満足に使いこなせてないほうが文化の中心地とか何だそりゃ?
吉野ケ里遺跡ってどこの国のものなんだろ?
倭人伝で20カ国ぐらい紹介されてる邪馬台国連合国の構成国の一つなのかな。
元祖邪馬台国が九州で本家邪馬台国が近畿って事でいいんじゃね?
>>333
多分それが正解に近い
「ヤマト国の王」というのが当時の倭国人のチャンピオンの称号なんだろう
だから、倭国のどの小国がトップになってもヤマト国の王と称するんじゃないかな?w 方位については例えば東と書いてあるなら厳密な意味での東から左右におよそ22.5度(合わせて45度)くらいの幅が
あるはずだという説もある。
>>329
魏志倭人伝だと真東だよ
東治(呉)のちょうど東にあるから倭国と呉の文化は似てると
特記してあるわけ。 >>331
僕の見た本ではその地図でいう唐津市の中心部から糸島半島の先をさして北東としていた。
地域的には近くても基準とする位置が違うだけで話が変わってくるよな。 >>337
北東から南東までの間にあればちょうど東だろ 纒向ってどこの国の遺跡なんだろ?
初期大和朝廷か、記紀神話でいう神武天皇に抵抗した大和国の地方政権か。
>>338
糸島半島の先は旧地名でいう志摩郡、怡土郡(イト郡)はその図の場所 >>338
松浦国だろうから唐津じゃなくて松浦市と思うのが普通じゃないかな?
で、松浦で朝鮮と行き来するのに都合がいいのは
名護屋城があったあたりだろう
伊都国が今の糸島市の行政区そのままというのも無理があり過ぎる
そこらへんはもうちょっとふわっと考えてもいいと思うんだよ
そもそも正確な地図なんて無いんだし
春と秋でも太陽の位置は違うし >>341
なんで?
魏志倭人伝書いた人はアスペなの?
それとも、現代の水準と同じくらいの地図を持ってたの? >>343
福岡でもかつての郡をくっつけた例があるんだな。
香川県でもウタ郡とアヤ郡が綾歌郡、ナカとタドで仲多度郡だし。 日本国の歴史の本流から目を反らさせるために、入ったら
出口のわからない青木ヶ原の樹林帯のようなところに、
誘導されて、こんなどうでもよい邪馬台国だの卑弥呼だの
といつまでやってるんだ、馬鹿者。
ラーメン天目を分析した奈良大学ってマンガンが検出されなかったのに、
宋時代の天目茶碗では無い事を理解できなかっただろ??
近畿説を支持してる学者なんてその程度でしかないと思う。
素人の我々の方が、資料に基づいて、正しく判断が出来ている。
むしろ、学者、学会の権威と言うバイアスを外した時に何が見えるか?でないと、
邪馬台国がどこにあったか、文献や発掘成果から見えてこない。
纒向は日本の首都だったと思うよ
九州に全国から物が集まって来たような場所は無いでしょ
>>328
確かに女王の都が最大とも限らないかも。
ただ邪馬台国が弱めの国だとして、あえて倭人伝で七万戸と書いてるのが疑問。
奴国や投馬国もデカイがそれよりデカイ、さすが女王の都だってニュアンスに読める。
当時の倭には八万や十万の国はゴロゴロしてて倭人伝はそれはスルーし、弱い邪馬台国よりもっと小さい投馬国や奴国にあえて言及したのは何で、とは思う。
しかも九州説では倭国=日本じゃなく、全部九州内で完結してるという話しでしょ? >>320
魏使の張政は247年に来てるんだが、まさか箸墓古墳が出来上がるまで邪馬台国に留まったとでも言うのかw
一説によると266年に台与が再び朝貢してるから、その時まで居た説もあるが、郡の役人がそこまで長期滞在する理由はない。247年に来てみて径100歩の塚を築いているところを見たのだろう。 >>210
それはお前の願望!実際九州は当時の南朝鮮を支配してた説もあるぞ! >>349
ほんに。
学者たちがやってるのは、学問じゃなくて政治だからなw >>339
こうな
邪馬台国=ヤマト国→大和=奈良 >>348
お前も、もう、その樹海に入ってしまったのだよ。
あきらメロンw >>348
実際30年前に吉野ヶ里遺跡が発見された時に邪馬台国は九州だって与論が全国で99%だったから次は大和朝廷は九州人が畿内に乗り込んで住民を皆殺しに
して滅ぼして大和朝廷を建てたって議論に持っていくはずだったんだよ!だけど京大の人間に大反対されて九州人も遠慮して先送りされた!九州人にとっては恩を仇で返された感覚! >>351
一番の疑問は同時期に九州と畿内に大都市が形成され各地に似たような地名を付け運営されていた事だろう。
南北朝時代ではないが東西朝時代みたいな事が起こってたんじゃなかろうか?
白村江の戦いをやらかしたのは九州朝の方で戦後、唐に占領されたり大変な事になってるが
畿内朝の方は無罪放免みたいな扱いになってる。 >>320
誰の墓かは置いといて、
箸墓は昼は人が作り、夜は神が作ってると伝わる。
崇神朝国力による人の算定なら30年かも知れんが、神が手伝えば半分以下の期間でできる。
この神の手を奈良の大仏と同じ宗徒の力とみて、
夜=クラとして東海関東までの宗徒の動員があったのかも知れない。 30年前に吉野ヶ里遺跡が発見された当時の与論をみんな思い出して欲しい 確実に九州が邪馬台国だったって言うのが当時の全国の99%の人が思ってたよね?だけど関西人にとっては凄く都合が悪いんだよ!後の大和朝廷がある場
所は関西にだからね? じゃあ関西人は九州人に攻め込まれて滅ぼされちゃったの(泣)ってなるわけだよ!だったら無理矢理にでも元から関西に邪馬台国があった事にしとかないと不味いっ言うのが今の関西人の考えなんだよ!
>>360
白村江の戦いで破れた倭国軍は九州政権?
なんじゃそりゃ? >>351
有七万戸ではなく
可七万戸なんだよ
有と可の違いを考えないといけない >>5
ここは奇をてらって東北説はどうだろうが?
わのまづにあっだのはまずがいない! 吉野ヶ里は邪馬台国じゃ無かったってのが九州説が一気に胡散臭くなった原因だよな
発掘調査に金使うならまだしもテーマパーク作って町おこしに利用して
観光地がないから邪馬台国に縋りたいのはわかるけど露骨すぎて
>>351
>当時の倭には八万や十万の国はゴロゴロしてて倭人伝はそれはスルーし、弱い邪馬台国よりもっと小さい投馬国や奴国にあえて言及したのは何で、とは思う。
ただの旅程の説明だろ
日本から中国インドを横断してイラクへ行ったと仮定して
その旅程を説明するときに、立ち寄らなかったモンゴルの説明をしなかったとして何も問題ないだろ?
>しかも九州説では倭国=日本じゃなく、全部九州内で完結してるという話しでしょ?
いいや
そんなことはない
倭国=九州とは言ってない 当時既に九州倭国が西日本の大半を手中に収めてたと思ってる自分からすれば、
狗奴国相手に苦戦してるような国が畿内から九州まで支配できるかというツッコミには異論があるな
同じ弥生系を相手にするのと山岳地帯を背景にゲリラ作戦をとってきそうな縄文系とは苦戦度が違うような気もするんだよね
九州倭国が、銅鐸をシンボルにし長年平和裡に暮らしてきた民族を攻めるのはわけなかったはず
戦わずして国を譲ってもらったかもしれん
一方普段から狩猟で生きてるような人たちは戦闘でも強かったろうなと思う
ま、狗奴国はランボーのような人たちと勝手に想像してるのだが
>>109
30年前に吉野ヶ里遺跡が発見されて当時の日本全国の与論は99%の人が邪馬台国は九州だったんだ?って思った当時の事を思い出して欲しい!そうなると困るのは関西人なんだよ!後に出来た大和朝廷は関西にあるじゃん?だった
ら九州から関西に攻め込まれて関西人みんな滅ぼされちゃったの?って意見も出てくるじゃん?だから関西人は無理矢理邪馬台国は元から畿内にあったんだ!って暴論を言い続けるしかないんだよ! >>369
ソレは無理だ、なぜなら大和政権自体が、
熊襲をチャイナの力を借りずにひねり潰しているから。
大和政権にとって、熊襲は自分達の力で何とか出来る勢力でしかない事は、
大和政権自体が表明している。 諸説紛紛は技とで 本が売れるからに過ぎない
著者の主義主張宗教等々の背景で売らんがためのトンでも考察ばかりで呆れる
吉野ケ里は当時としては大きめの国だったかもしれないが
平塚川添遺跡など大きい遺跡は周囲にあるから
そこまで珍しい遺跡でもない。
工業団地予定地たまたま広く発掘できただけの話。
少なくとも北部九州の遺跡なんて
ずっと繋がってるんだから
広く発掘すれば大きい遺跡になるだけよ。
博多湾や有明海周辺なんて
当時海じゃないちょっと標高が高いところは
全部遺跡があるね。
>>369
狗奴国って名前からして強そうだしな
みんな色黒で毛むくじゃらで筋肉質な感じ
弥生人は色白で細くてケンカ弱い感じ 九州で中心地だった痕跡があるのは奴国とその周辺だよな
少なくとも金印は出てるしその頃は鏡の出土も多いから
問題は中心地がいつ畿内に移動したのか。少なくとも魏前後の時代は銅鏡の配布元が畿内になっている
>>109
30年前に吉野ヶ里遺跡が発見されてやっぱり邪馬台国は九州だったんだ?って思った人が全国の99%の人は思ったと思うんだよ!だけど九州が
邪馬台国だと困るのが関西人なんだよ?何故ならば後に大和朝廷を建てられた場所は畿内にあるんだよ!だったら関西人にとっては九州にある邪馬台国が畿内を侵略して滅ぼされちゃったの?って意見も必ず出てくるんだよ!だから邪馬台国も畿内だと言う暴論が
出てくるんだよ!だから京大にやらせてるんだよ!なぜ京大にやらせてるかと言えば一流大学の関西の京大が邪馬台国は元から畿内にあったっんだ!って言ったら騙される人が沢山出てくるだろ!って期待してるんだよ >>371
しかし、武力で制圧した痕跡がないのよね
ヤマトタケルも騙し討ちだし >>378
魏志倭人伝の時代は物証的に畿内が中心になっているからそれはない
ただ、それ以前の時代に婚姻関係を伴った同盟東遷があるかもしれないが >>368
邪馬台国が倭国連合の中でも弱めの国(連合30ヶ国中20番くらい?)であるというのは違うんじゃないか、ということです
倭人伝からはそんな事は全然読み取れない、概略の書いてある国の中では最強クラスにしか見えない
たまたま旅程に弱い国しかなかったならそうですかとしか言いよう無いけど みんな30年前に吉野ヶ里遺跡が発見された当時の日本の与論を思い出して欲しい99%が邪馬台国は九州だって思ったよね?だけどなぜこうなった理由は大
和朝廷が関西にあったのが理由なんだよ!邪馬台国が九州なら我々第2の首都の関西人は後に九州人から滅ぼされちゃったの?って言う人も沢山出てくるからね?
九州倭国が滅亡して逃げてきたので
九州も支配した
君が代は福岡県の倭国の歌
>>380
具体的に醜志倭人伝は関西人はいつも
醜志倭人伝は九州人に都合の言いように作られたとか詭弁をいつも話してるけどお前の考えは違うんだな?理由を教えて欲しい 美術学者の宮島新一といい
宮島姓にはキチガイが多いのね
>>342
大国主を祭る国だったんじゃないの?三輪山に祭っているし
だんだんと天皇たちに削られて最後は出雲になったけど元はかなり広い範囲支配して居たっぽい >>381
有七万戸じゃなくて可七万戸なんだよ
その違いを理解しないと最強クラスと思い込んでしまう
そして
白髪三千丈
怒髪天を衝くの
大げさ表現が当たり前な中国だから、そもそも戸数や人口なども、いくらか盛ってると考えるのが当然 関西人って九州人と違ってダブルスタンダードなんだな?
>>359
たぶん九州勢力はそんな感じで周りを見下す中華思想的な態度で接してたんだろうな。
対して、大和は周りは赤の他人だらけの中で、うまくウィンウィンの関係を築いてったので、
気が付けば中国地方、四国、九州南部が大和勢力下になってたってって感じだったんじゃないの? 何もヤマト王権の所在地を疑ってるわけじゃないのに、畿内派は過剰反応し過ぎだよ
>>359
遺伝子分布を見れば、
九州は、倭人が混ざった弥生・縄文人。
近畿やそれ以東は、倭人化した弥生・縄文人。
倭人が入っていない。 九州説を推していたのは関西コンプの総本山たる東大だからな、おそらくは嘘
>>119
あと中国の鏡と日本の鏡は大きさが全然ちがう。三角縁神獣鏡は大きいから日本で作られた鏡と思われる。
中国で作られるような小型の鏡はどちらかというと九州から多く出土してるようだ。 魏志倭人伝という胡散臭い物をいつまで真に受けてるんだか
>>1
八女は邪馬台国のごく一部にしか過ぎない
この日本列島、沖縄諸島、
縄文から綿々と続くもの・・・
中核は日の巫女の邪馬台国
吉野ヶ里を中心とした筑後川流域、そして
そこから連携された糸島、博多、北部九州が東遷してヤマト朝廷になった
それが歴史だ >>1
渡来系の弥生人とかいう特殊な人種はいない
それはデッチ上げだ
大陸や半島
それは常に
単なる文化の交流や伝播にしか過ぎない >>1
日本の源流は大陸や半島にはない
縄文から脈々と続くもの
それを探り、そして立証しなければこの国について語る資格などない >>391
やっぱり九州人が本当の日本人なんだね?だから吉野ヶ里遺跡が見つかって当時の日本の与論が99%邪馬台国は九州だったんだ?って思ってたのに関西人が屁理屈言って邪馬台国は関西だって言ったんだ? ただ関西人が邪馬台国は
畿内だって言ってる理由も分かる! 大和朝廷は関西にあるからもしかして大和朝廷は九州の邪馬台国に侵略されて滅ぼされて九州のお偉いかた中心に大
和朝廷建てられた可能性が高くなるからね!関西人はそれを阻止したいんだろう?関西人にとって俺の先祖は本当は九州人なのかって議論したくもないでしょ? >>377
僕は出雲が金属器系だったと思ってるから、金属器出土の変化とかは、
出雲がどっちに従ってたかを意味してた可能性が考えられるかもしれないな。 韓半島が歴史的事実が残ってるから、西側なのは想像するに難くないが
それをタイ人だろとなると認めないんだよな日本人って
だって九州くらいからタイてアナーキーベルト地帯だよな
残ってないのもわかるよな
>>210
>>354
まったく
神埼というのは・・・・
立ち位置を180度間違っているね・・・・
狂っているとしかいいようがない
ただしく歴史をみないとかつて神に近い土地
崇高な土地とされた処でもこうなるという
神埼は恥をしるべきだろう >>399
醜志倭人伝には出雲も九州の属国だったってちゃんと書いてある >>386
神武東征前は、こんな状勢だったんかもしれんな。
>>403
それは知らんかったから、これから調べてみるけど、
九州勢の話によればってことになるんだろうな。 >>405
ただ関西人によると醜志倭人伝はなかった事にされている! >>398
ちょっと、逆かな。
邪馬台(やまと)は九州に在って列島に覇を唱えていたが、
列島の倭人化で、経済の重心が東に移って行き、覇権が相対化。
ついに、倭国大乱で邪馬台は権力を失い、権威だけの存在に。
4世紀、華北が混乱し、朝貢秩序が長期間消失した。この間に
奈良が邪馬台を滅ぼし、権威ある「やまと」の名を簒奪したわけだ。
近畿説の連中は、最初から近畿が日本の中心だった訳ではない
という現実が受け入れられないのだろうよw 九州説で団結する九州人
九州のどこにあったかでけんかするのも九州人
>>408
吉野ヶ里遺跡が発見された30年前の与論は全国の99%が佐賀だと思ってた! >>396
数はそんなに入って来てはないんだろうけど、
男性華南人が管理職的な地位に着き、
複数の嫁を取って子孫を増やしてったらしいことは、
男系のDNA調査からはうかがえるかな。
元々女性上位だった日本列島が、
男性上位になっていったのもその辺に原因があるのかもしれない。 >>408
俺、九州説の関東人w
九州にも関西にも、思い入れもなければ反発もない。
歴史の真相を突き止めたいだけだ。
遺伝学、政治学、地政学、言語学、等々、全ての知見を動員して。
残念ながら、歴史学者・考古学者は、土の中しか見ていないと思うw >>407
軍事力のない畿内が当時軍事力があった九州を滅ぼすなんて考えられないのだが? >>398
どっちかっていうと、九州北部が平均的な日本人からちょっと華南人側に離れてるって感じじゃないの? >>410
華南・・・
甕棺葬、あるいは稲作のルートについてはは有力・・・
>男性華南人が管理職的な地位に着き、
そうなのかな?
>複数の嫁を取って子孫を増やしてったらしいことは、
>男系のDNA調査からはうかがえるかな。
拠出はどこかな? >>409
佐賀フィーバーは無理もないw
だが、地政学・軍事を考えると、「やまと」(邪馬台)は山手の国、
つまり、周囲を山で囲まれた守りの固い盆地の国だ。
同時に、大陸・半島との交易拠点「みなと」(=奴国=博多)を
直接支配できる必要がある。
それができる盆地はどこかだ。 近畿説は魏志倭人伝を否定する癖に邪馬台国にだけはこだわる
そしてなんの根拠にもならないのに大きな勢力が近畿にいたというだけで邪馬台国だと言い張る
そこは別種の地かもしらんのに
>>415
いや信じて貰えないかも知れないけど吉野ヶ里遺跡があった場所は佐賀の大和町の近くなんだよ! 九州は修羅の国で国同士が戦争しまくって疲弊して自滅していったんだろ
一方畿内は平和で物と人が流入して大国化し覇権国家へと成長していった
>>416
だから関西人は邪馬台国が九州でも別に構わないだよ!だけど邪馬台国が九州だって解決した後の議論は関西にあった大和朝廷はどこから来たのかって議論に移るよね?それを阻止したいだけなんだよ! >>390
ところが、そうでもないんだよ
ヤマト政権という古代史の通説を前提にした議論では、九州説は必ず負ける
だから、九州説側は最終的にはヤマト政権そのものを否定するようになる
旧唐書の一部を切り取って、九州に独立王朝がずっとあったと主張するのがいい例 >>417
やまと(邪馬台)が最初は盆地で、そのうち、準領域国家のように、
周辺小国を完全従属させ九州北部が広く「やまと」と呼ばれていたと思う。
なので「やまと」の地名は多く残ってるはず。 >>422
信じて貰えないかも知れないけど九州で大和町の地名がある場所は30年前に吉野ヶ里遺跡が発見された近くだけなんだよ! >>416
九州説はよくそういう中傷するけど、具体的に何?
実際は方角だけだろ?
あとは南国風の気候や風習もあるだけど、これに合致するのは沖縄だけだし、
畿内や九州に限らず本土に比定してる説は全部不一致 >>420
魏志倭人伝だけじゃなく旧唐書の記述まで否定しないといけないとか近畿説も大変だな >>423
実際、多くの人間が入ってきたときに
そこで暮らす人々の文化はもちろんだが言語体系がモロに影響を受けないはずがないよね?
文字もそうだしね
>僕は多数の華南人が九州に入って来たとは思ってない
君が言うようにある時期に多数の華南人が日本に入り込んできたということはないな
複数嫁の男系うんぬんの
DNAの報告の方が糞あやしいだろうー
そいつを報告しているヤツは誰かな >>424
今しらべたら、福岡県柳川市にあるね。
でも、そこは、河口の三角州地帯だ。
そこがやまと(邪馬台)の起こりの地でないのは自明。
福岡県春日市にも大和町があるようだが、
自衛隊駐屯地で、こちらの町名の由来は違うかも。 >>426
文献に忠実な読み方なら、末盧国の東南の伊都国、その東南の奴国、その東の港町不彌国、そこから南に船で20日の投馬国、そこから船で10日に歩いて1カ月の邪馬台国はどこら辺になるの?
忠実に読んで教えて。 >>425
鹿児島宮崎なら南国風な記述でも違和感ないよ >>430
松浦国は唐津の名護屋城のあたり
伊都国は糸島市
奴国は糸島市と大川市の中間
港町は大川市のあたり
投馬国は宇土市のあたり
邪馬台国は東九州 >>268
戦前の教育否定が大前提にありきの狂った論争だわな >>426
畿内説でも旧唐書を否定してないけどな
チェリーピッキングは不可だと言ってるだけだ >>428
まず、リンクした表を見ただけでそう思えるし、
その後そういう報告を見かけたことがあったが、
今、男系遺伝子、華南人とかでググればいっぱい引っかかってくるから、
もはや誰の報告を読んだのかはわからない。 >>431
不一致だよ
倭国が沖縄あたりにあることを前提にしてるので、九州島はどこも不一致 チェリーピッキングって畿内説じゃんかよ
詭弁用語を先に使ってマウントとかセコいんだよ
>>436
そうなったら畿内説も成り立たない
東と言っても真東しか認めないというようなアスペみたいなものじゃないだろ
おおよそ北東から南東のあたりの範囲に収まっていればいい
それと、真東だと沖縄じゃなくて屋久島のあたりだぞ >>430
旧地名で見ると怡土郡の南東に那珂郡があるのがわかると思う
末盧国がどこか?は諸説あるが旧地名で松浦郡をみてみるとこうなる
高句麗周辺を仕切ってた公孫淵が魏にクーデター起こして
司馬懿に瞬殺されたのを契機に魏倭間交易が再開された
公孫淵周辺をググってたら得た知識w
ここにいる卑弥呼マニアには既知案件かもしれないけど一応載せとくね
確定的な学説らしいねこれ
ミナトは“水都”で海のある街
ヤマトは“山都”で山のある街
弥生時代では一般名詞だったんだよ!
>>435
>>男性華南人が管理職的な地位に着き、
>そうなのかな?
>>複数の嫁を取って子孫を増やしてったらしいことは、
>>男系のDNA調査からはうかがえるかな。
>拠出はどこかな?
>まず、リンクした表を見ただけでそう思えるし、
>その後そういう報告を見かけたことがあったが、
リンクした表?を見ただけでな
『男性華南人が管理職的な地位に着き、
複数の嫁を取って子孫を増やしてったらしい
男系のDNA調査からはうかがえるかな』
こうは言えないね? >>432
ありがとう
奴国は博多近くじゃなく山の方なんだね
あと糸島から奴国は山を越えるの大変そう
唐津から糸島は東南では無いがここはカーブに気づかず間違ったか糸島の山の中か
九州の地図の勉強になった >>431
九州南部に否定すると、じゃあ狗奴国は?って畿内説と同じ問題に引っかかるかな。 >>446
名護屋城のあたりから、伊都国はどこかね?と尋ねると、
海を隔てた南東の方向を指し示したんじゃないかな?
奴国は戸数が多いので国土も広いんじゃないかな?
糸島から南東側にも奴国の勢力圏があったとしてもおかしくないだろう
奴国の中心地の方向を記述してるわけじゃないんだから
あくまでも邪馬台国へ進むための方向と距離、
その時に通過した国の名前 >>447
女王国連合(北九州)の南なら熊本だな ※邪馬台国が北九州にあるとは限らない >>447
鹿児島じゃないかな?
東九州が邪馬台国だと俺は考えてるんだよ
宮崎は東九州
黒潮が通る暖かい海に接している 東南に船行一年の裸国黒歯国はミクロネシアくらいかね
そんなところを倭人伝に載せてるのなら大陸の東の海洋民族全体を倭人と言ってるかもね
その代表として台湾、沖縄あたりの気候風俗を記したのかも
ポリネシアンはもともと台湾から出発してるそうだから妥当と言えば妥当か
にしても大雑把だねぇ
>>444
と=戸かな。町の入り口の木戸(門)のことだね。
「と」が後世「かど(門)」と言葉が分化するが、
江戸時代でも「木戸」は町の入り口にあった。
ひょっとしたら、「かど(門)」は「きど(木戸)」がなまったものかもなあ。 >>439
当時の中国人の地理観が間違っていた
南北に長い島で、南方まで伸びていると勘違いしていたわけだ
だから、その勘違いを補正すると、東西に長い島になるか、小さい島になるかで
畿内説と九州説があるんだろうに >>449
そこは、「くま」と「そ」が居たんだろ?
狗奴国が「くま」のこと??
nとmの変化は多く起きてるし。 >>445
自分が日本語理解できないのを棚に上げて、人の揚げ足取りか?
日本語良くわからないんなら、初めからそう言っといて欲しかったかな。
そうすれば、そういう可能性も考慮して返答してたと思うけど。 >>454
それは畿内にしたいという結論ありきで出てくるトンデモ理論だよ
魏志倭人伝の記述が間違ってると決めつけないと成立しない
はっきり言って下種な考え
記述通りで考えたら九州で収まるのだからそんな無茶なこじつけは成立しない 魏志倭人伝を素直に読むなら大体こんな位置関係かな
移動距離は水行陸行ともに平均して日に6km程度で
狗奴国は熊本、人吉、鹿児島方面のどっかで >>448名護屋城のあたりから、・・海を隔てた南東の方向を指し示した
ああなるほど!それだと謎が解ける。
「その先がイト国、さらに先がナ国」と言ったのを、
その三国が南東方向に並んでると解釈したと。 >>458
本当その通り 畿内人は後に九州からきた邪馬台国に攻め滅ぼされて大和朝廷を作られた事が悔しくて悔しくてたまらないんだよ! >>461
>>423 読めよ。で、
>複数嫁の男系うんぬんの
>DNAの報告の方が糞あやしいだろうー
>そいつを報告しているヤツは誰かな
って質問がいかに能無しの質問かを、恥じろ。 >>459
おお! 奴国が大宰府という可能性があるんだな!
ちょうど、博多湾と筑後川水系の両方を利用できる!
ああ、そうしたら、奴国を隷下に置いてた邪馬台国は
日田盆地という可能性が一気に出てきたぞ! (`・ω・´)
(宮崎は無理があるw) >>458
>記述通りで考えたら九州で収まる
そうやって不一致を一致だとごり押しするのはやめろって
九州で記述通りだというなら、とっくの昔に論争は終わってるわ
とにかく、不一致を一致だとごり押しは不可 >>439
距離を持ってるし、方角も若干傾いてるから、
九州北岸を会稽の東、投馬国が東治の東で、邪馬台国はその間ぐらいと思ったんだろうな。 30年前の殆どの日本人は佐賀の吉野ヶ里遺跡が見つかった時に99%の日本人は邪馬台国は佐賀県だったんだと思ってた事実は消えないからね!
>>459
その地図でなるほどとは思うけど、わざわざ魏の人が投馬国に言及してるのがよく分からない
邪馬台国へ行くルートにないし
それとも上陸地点の荒尾辺りから出水水俣まで全部が投馬国で、上陸地点にワンタッチしたから投馬国に至るって書いたってことか >>451
鹿児島を除く九州全土をほぼ勢力範囲に持つ邪馬台国が、
たかが鹿児島に何びくついてんねんって話になるから。
この部分が、畿内説と同じ状況になる。 >>471
水行の出発点は筑後川の久留米のあたり
久留米から出て水行二十日で八代から出水の間のあたり >>452
海流を考えたら、むしろアメリカ大陸の西海岸の方が行きやすい。 >>469
畿内説はきちんと物証と文献に基づいてるけどな
それなりの知識がないと理解できないけど
だから、学者は畿内説なのに、一般人は九州説が多い
で、九州説は文献にも不一致
南国でもなんでもない九州島を南国だとひたすらゴリ押しするだけ 邪馬台国が畿内だとすると、倭国連合は畿内から瀬戸内、九州北部までを支配下に入れた強大な政治勢力ということになるけど、それだったら熊襲の狗奴国ごとき小国との争いを何故に魏に支援・調停してもらわなければならんのか?まったく不明だ。
狗奴国が熊野だとしたら尚更。
纒向のヤマト王権と邪馬台は別の勢力で、纒向の方が先進的であったにせよ、邪馬台国は九州の巫女女王を中心とするローカルな勢力と考えた方がよほど自然だと思うが、、。
>>474
そのあたりの話だけど、
邪馬台国を東九州に比定してて単純に疑問に思うのが
朝鮮半島から松浦まで船で来てるのなら
そのまま船に乗って九州の東側まで行けばいいんだよ
これは畿内説も同じ
でも松浦で上陸して、その後しばらく陸上を移動してからまた船に乗る
その方が速いよね
ではなぜそうしなかったのか?
俺は、狗奴国の勢力範囲が意外に広くて
長崎の佐世保くらいかな南部、
そして天草のあたりから薩摩半島、大隅半島
このくらいが狗奴国の勢力圏だったんじゃないのかなと考えてる
そうすると、九州の半分までは行かないが、4割程度が狗奴国という事で
邪馬台国でも手に余る勢力だったんじゃなかろうか
妄想って楽しいよね >>466
僕も伊都国からの放射説を今んとこ信じてるから、
奴国がその辺、不弥国が博多湾岸辺りかな。 >>475
え?
久留米から八代まで20日かけて、
それからまた10日かけて熊本まで戻るの? あと、畿内説は記紀との整合性がないことも難点。記紀が創作潤色だらけだとして、ヤマト側の記憶とまったく合わないのは不自然。
畿内説は何故に記紀と合わないのか、記紀のどっからどこまで嘘っぱちかを別途説明してくれないと説得力ないな。
邪馬台とヤマトは別の勢力だとすると、記紀に合わないのはごく当たり前に説明できる。
>>481
出発地点はどちらも女王国連合(北九州の久留米)で
邪馬台国まで水行十日陸行一月
投馬国まで水行二十日 >>477
そうは言うけど物証は何一つ出てないぞ
物証って具体的に何?
東や南を否定してるのだから文献的には畿内ではない
なので、物証もなく、文献を否定しないと成立しないのが畿内説というのが正解 >>471
距離は適当に考えた方がいいと思う。
軍事機密だから、ウソ教えたと思う。
邪馬台が奴国を支配して漢に朝貢させてたのは間違いないと思うが、
邪馬台(やまと)の本拠地は盆地の筈なので、どこの盆地でも、
博多の港(奴国)を支配するには、大宰府辺りに出張所が必要だと考えてた。
特に邪馬台が日田なら、博多の水系と筑後川水系をここでつなげる必要がある。
大宰府周辺が奴国だったとすると、話が一気につながる! >>479
それは伊都国に刺史みたいな人がいて、外交窓口の役所になってるから必ず立ち寄る必要があるからでしょ
末盧国と不彌国は船着場、投馬国は船の中継地だから書かれてる、それだけ >>487
必ず立ち寄るとしても
糸島まで船で乗り付けて、用事を済ませたらそのまま船に戻って海岸伝いに行けば済む
わざわざ歩く必要がないよ >>482
しかも30年前に佐賀の吉野ヶ里遺跡が発見されたのが決定的だったよね? >>483
放射読みね
断わりも無くいきなり文中で起点が変わるってやつ
あまり文献に素直でも忠実でも無い解釈と思うけどな 倭国とは中韓から見た日本
邪馬台国もそう
最初は一番近い九州と交易して、その後近畿の存在を知った
だから時代によって中韓が認識してた日本の都が違ってるだけの話
>>484
>そうは言うけど物証は何一つ出てないぞ
なんだこれ?
日本の古代史を全否定してる人か?
ヤマト政権の存在さえ認めないってスタンスか?
そういうやつは、畿内説には物証はないとひたすら言い張るけどな
>東や南を否定してるのだから文献的には畿内ではない
またこの決めつけか
方角が正しいか、日数が正しいかは不明だから、邪馬台国論争が始まったんだろが 魏志倭人伝の「水行」はまったくアテにならないー
それは当時、糸島にいた楽浪の郡使が倭人から聞いたものを故国に伝えたものだからね
群使も理解し把握することのできた奴国とまでは里数だがその先は不明
倭国人から聞いたものを書いているだけだ
伊都国は邪馬台国の前衛都市で群使も常駐する場所だけれども、本丸の邪馬台国はあえて遠いあらぬ方向を教えたのが真相だろう
なぜかー
国防のためだ
>>479
いまいち、それぞれの勢力範囲と行程の必然性みたいなものが分からないかな。
図とかあればうれしいけど。 >>491
邪馬台国は九州だったんだけどその後九州から畿内に進出して畿内で大和朝廷を作ったって言うのが有力らしい! >>490
断りもなく文中で里から日数に変わってるから
そこで伝聞情報に切り替わってんだろうという推測 >>478
狗奴国を熊襲と決めつけるのがおかしい
後漢書では狗奴国は東にあると修正されている
東となると、九州説で狗奴国を想定するのは難しくなるが 畿内派が根拠とする日本書紀の王と年代、年齢
記紀の中でもこれが一番信用出来ない部分
根拠が薄い
古墳についても大仙古墳と箸墓古墳は発掘品等年代測定の誤りが疑われる
特に大仙古墳は埴輪が出た時点で5世紀以降だと推測されるのに
埴輪の流行時期を遡らせてまで捏造というのは純粋な学問では無くなる
>>498
後漢書にはこうあるので狗奴国は宮崎から海を渡って四国かなw
>女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。 >>492
大和政権は大和政権だろ
それが魏志倭人伝の邪馬台国と同じだという物証がどこにあるんだ?
と聞いてる
無いぞ
一つでも出してみろ
速攻で論破できるものしかないだろうがなw
>方角が正しいか、日数が正しいかは不明だから、邪馬台国論争が始まったんだろが
距離が正しくないというのは畿内説の人間が畿内説ありきで言い始めたことだよ
直線距離で考えるというバカすぎることをしなければ九州内に収まるんだよ
例を挙げてやるけど
国道10号は小倉から鹿児島までをつないだ道だ
延長は550q
小倉から鹿児島までは550qという事になる
それを地図上で直線で測ったら小倉から鹿児島を飛び越えて海の中になる
距離がおかしいと言ってるのはそういう事
話にならないんだよ >>494
東南至奴國百里 :博多
東行至不彌國百里 :宇美
↑
ここまで郡使が把握
ここから歩数は倭人からの伝聞
↓
南至投馬國、水行二十曰 >>291
いや日本書紀では倭迹迹日百襲姫命は大物主の妻だろ
誰が神様の子供だって
古事記には大物主の記載もないし >>499
年代がずれてるからね!邪馬台国の九州が畿内に進出して畿内人を皆殺しにして滅ぼした後畿内で大和朝廷を建てたって言うのが自然!逆に関西人が邪馬台国畿内説を信じる根拠が不自然 >>479
海路何日、陸路何日の記述は
陸路が主だが海路で行くこともできるって意味で取れる。
だから投馬国は船でしか行けない場所と解釈できるし、
両方書いてる邪馬台国は陸海どちらのルートを使えると。 >>483
海流に逆らってるわけじゃなさそうだし、川は下ってるみたいだし、
水行10日、20日にはちょっと短すぎるように感じるけどな。 >>503
何故それで放射読みとやらが正しいとなるのか、よく分からないです
あとそれ、投馬国の情報いる?
なんか倭人が言ってたから邪馬台国への旅程と関係無いけど書いてみた、みたいなことかな? 取り敢えず、墓を見つけてから言え!
考古学的には遺跡か墓が出てこんかぎりは
妄想談義の域を出ないというのが常識
>>486
都城盆地かな?w
でもなんで盆地なのか分からない
どこかにそんな記述があったのかな?
以下はもう結論が出ていることなので、無駄な議論は止めるように。
1. 邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。ファンタジーとしてのみ存在している。邪馬台国論争は事実上九州説の不戦勝。
2. 東征も東遷もない。考古学的に否定済み。
3. 単に九州倭国と近畿日本の二つの国があって、後者が強大化して前者を併呑し、名前も騙ったと言うだけのこと。
旧唐書にある通り。
古代日本史に深刻な謎などない。
近畿パーのようなウソつき野郎が「ここは誰?私はどこ?」とほざいて謎があるかのようにミスリードしているだけ。
>>501
>一つでも出してみろ
>速攻で論破できるものしかないだろうがなw
畿内勢は3世紀前半には北部九州に到達している
とくに本格的な進出は奴国の中枢であった比恵那珂地域から始まっている
時期は久住編年でIB期、つまり3世紀前半
>直線距離で考えるというバカすぎることをしなければ九州内に収まるんだよ
直線距離なんていう現代の概念を誰も持ち出していない
合計60日間の行程なんだから九州から飛び出るのは自明
隋書にある東西五月行と合わせて考えれば、北部九州から奈良までの日数で整合性がる >>513
ほらほらこういうデタラメを言い出した。 >>508
それもいいね
水行は有明海〜八代海というのはとてもしっくりくる >>510
ヤマト王権が大好きなデッカい墓じゃなきゃいかん理由あるの? >>500
海を隔てて宮崎と四国で戦争?
さすがに無理がありすぎ >>513
水行のあとからに陸行一月すれば纒向もスルーしてどっか遠くになるけどなw >>513
>畿内勢は3世紀前半には北部九州に到達している
北部九州に勢力が伸びてる?
で、それが大和政権と邪馬台国が同じだとする証拠になる?
ならないよwww
ただ北部九州に勢力があったというだけでしかない
>合計60日間の行程なんだから九州から飛び出るのは自明
出ない
>隋書にある東西五月行と合わせて考えれば、北部九州から奈良までの日数で整合性がる
それは隋の時代だ
邪馬台国の時代とは300年以上の隔たりがある日本では飛鳥時代
大和政権が確立して道路の整備が進んでる状況の日数と300年前の日数が同じなわけがない
という事で
お前では畿内説は成立しなかったぞwww 近畿パーは学会で「卑弥呼の時代の鉄器が近畿では余り出土して無いんですが、なぜなんでしょうか?」
と質問されて、
「近畿では鉄が溶けやすいから残ってない」(キリッ
と答えて、周りにいる畿内説の学者さえ絶句させてしまった。
こういう連中。
ウソも作り話しも自己紹介も平気。
真面目に議論する気などない。
ってゆうか、そもそも邪馬台国畿内説などと言う学説はこの世に存在しない。
ネタ。
>>519
一部が到達したってだけな。
つまり言い換えると、近畿の勢力が三世紀に九州まで征服してたってのはウソだってことw >>509
到と至の文字を区別するなら
倭国の北岸狗邪韓國と伊都国が「到」で到着地点≒起点となる
一方、「至」の方は行先を指すのかもという推測
>從郡至倭
>循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
>始度一海 千餘里至對馬國
>又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
>又渡一海 千餘里至末盧國
>東南陸行五百里 到伊都國
>東南至奴國百里
>東行至不彌國百里
>南至投馬國 水行二十日
>南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月 >>508
平野の少なそうな長崎の1部足しただけで、そんなに勢力大きくなってなさそうだし、
狗奴国の勢力圏の近く通ってくの、危険じゃない?
ひとまず、博多に戻って、投馬国飛ばして、邪馬台国へ直接水行で言った方が早いと思うかな。
なんか、水行の距離も短すぎると思うし。 >>517
海を隔てて奈良と
群馬栃木だか千葉茨城だかと戦争してる近畿はどうなんだ 福岡の地価に関わるから必死よなぁ
嘘ついてまでやるとかさすがですわ
>>519
日数で整合性があるのは隋の時代
唐の時代だと一日海路25キロ、陸路28キロだけどよほど良い条件だよな。
整備された江戸時代の街道で30キロ強だったんだから。
古代日本の陸路一日は数キロだろうね。 >>522
なるほど、
そういう理由があって放射説を採用する人がいるのか
有七万戸と可七万戸の違いみたいなものか
至で行先
到で到着か
なるほど、
マジ勉強になった
これ、中国人がこう読むよって言ってたらもっと信憑性上がるね 当時の戦が、内陸部での土地を奪い合う戦いよりも、海洋航路の確保が主眼だったと考えればすっきり収まると思う。
日本は自然の要害とも言うべき山々で平地を区切られてるので、縄文人の時代は特にお互いを意識せずにのんびりや集落を築いていけたんだろな。
それが、操船技術の高い弥生人が日本海側を中心に流入して来て、港や河川の水路整備をし始めてから情勢が変わっていったのだろう。
卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などの幾つかの豪族が割拠する、緩やかな連合体のようなもので、
どの勢力も他者を軍事的に統括出来る勢力では無かった。
これは古代日本史の完全な常識で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国を軍事的に統括することが出来ずにいるのに、
中国地方をすっ飛ばして、北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成して居ない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。
邪馬台国畿内説は、ファンタジーとしてのみ存在している。
>>519
>ならないよwww
>ただ北部九州に勢力があったというだけでしかない
ちゃんと論破しろよ
北部九州に畿内系住人がいたことは確実なんだがな
魏使が日本列島の盟主の国を差し置いて、九州の雑魚に親魏倭王の称号を与える理由がない
>出ない
ただのごり押し
これ以上の押し問答は不要
南国の気候もそうだったが、不一致をひたすら一致だとごり押しするだけのやつだったが >>509
放射読みも連続読みも何も・・・
なにそれっていう・・・
郡使は自分の把握している以外は倭国人(邪馬台国人)の言うことを書くしかないからね
それを踏まえてああだこうだ言ってる時点でアウト
実際、南に水行20日で南国だからアテにならない方向を郡使に教えたのだろう
意図的に倭人が南に水行20日が投馬国とボカしたんだろうね
国防のために
実際は山の南側に邪馬台国の本丸は存在しているわけで
そう推理できない方がおかしいよね >>530
>北部九州に畿内系住人がいたことは確実なんだがな
存在しただけw
それが邪馬台国と何の関係がある?
それをお前は証明できてないんだよw
>日本列島の盟主の国
共立したから盟主ではない
はい論破w
東征も東遷もない。
考古学的に否定されてしまった。
実は、東征・東遷の息の根を止めたのが纏向遺跡。
纏向遺跡は古代近畿の最重要遺跡で、西日本全域から土器が集まっている。
にも関わらず、九州からのものは僅かしか無い。
この古代近畿の最重要遺跡において、
征服者としての九州勢の面影を全く見つけることが出来ない。
東征も東遷も、纏向遺跡が否定してしまった。
>>527
中国の研究者はどう言ってるんだろうね。 >>527
それは間違い。
近畿パーが放射読みを胡散臭く印象付けするための小道具。
至と到を意味を違えて使った例が存在しない。 >>534
九州産のものがほとんど出ない。
つまり纒向は文化圏が違うったことだよね。 >>535
関係ないな。
放射読みが正しい理由は魏志倭人伝に書いてある。
伊都国を紹介したあと、「魏からの使節は全てここに駐留する」と明確にある。
駐留したと書いてあるのだから、それ以後を放射読みするのは、
あったりまえ。
(ただし魏からの使節は二度と来ており、これは一度目のこと。二度目は筑紫平野の邪馬台国まで行っている。) >>539
近畿パーが放射読みを胡散臭く印象付けするための小道具。
至と到を意味を違えて使った例が存在しない。
>>532
魏は倭国と国交を結ぶために来たのに、日本列島の盟主の国を差し置いて、
雑魚に親魏倭王の称号を与える合理的な理由をきちんと述べろ
>共立したから盟主ではない
そうやって魏志倭人伝を否定したら、どんな妄想もできてしまう
卑弥呼は倭国全体を統治する王として認定されたんだ
妄想は不可 日本史の年代が
ヤマト、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山〜戦国、
江戸、明治、大正、昭和、平成、
と移ろっても、某邪馬台国の地では、卑弥呼の家系が代々、
脈々と、密かに続いていることは、その地の人々にとっては
公然の秘密だ。
戦後の極秘調査を経て、政府はその存在を把握していながら、
決して、認知、公表、また隠滅を図ることはない。
戦後復興を経ても尚、国体主義の悪しき伝統に習い、皇室と
いう象徴権力に依存せんがため、そのバックアップとして、
放置(と見せかけて実は時の首相以上に総力守護)なのだ。
追伸
「ダ・ビンチ・コード」のようなお伽噺の世界とは違うから、
ネタにしないでね、そこの作家さんや漫画家さん。
以下はもう結論が出ていることなので、無駄な議論は止めるように。
1. 邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。ファンタジーとしてのみ存在している。邪馬台国論争は事実上九州説の不戦勝。
2. 東征も東遷もない。考古学的に否定済み。
3. 単に九州倭国と近畿日本の二つの国があって、後者が強大化して前者を併呑し、名前も騙ったと言うだけのこと。
旧唐書にある通り。
古代日本史に深刻な謎などない。
近畿パーのようなウソつき野郎が「ここは誰?私はどこ?」とほざいて謎があるかのようにミスリードしているだけ。
>>542
>雑魚に親魏倭王の称号を与える合理的な理由をきちんと述べろ
倭人の国が緩やかな連合国家だからだよ
国連事務総長やEU議長に称号を与えるようなものだ
どちらも有力な国の人がトップになっていない
合理的な説明終わり
>卑弥呼は倭国全体を統治する王として認定されたんだ
共立のなw
EU議長がEUの中で最有力な国の人間ではないのと同じことだ
それともお前はEUで最も力があるのはポーランドとでも思ってるのか?
邪馬台国が倭国の盟主だと言い張るのはそれと同じことだぞ >>508
海に出る拠点の不弥国が有明海に推定できないんだよな。
またその地図では投馬国までは陸路でも行けるから倭人伝に陸路の話も出るはず。
そう考えたらやはり陸海両方書いてる場合はアンドじゃなくてオアになる。
つまり邪馬台国は陸海どちらのルートも使えるが投馬国は海路しか使えない位置にある。 >>548
朝鮮から松浦に着いたのだから、海に出るなら松浦からでいいじゃん
そうじゃないのは何かしら理由があるはずだよ >>547
少なくとも魏は邪馬台国が倭国の代表であると言う立場だよ。
だから卑弥呼に金印を仮授したんだよ。 >>522
なんか推測ばかりだね
文献を素直に忠実に読んで、その放射読みが正しいとする根拠は何?
普通は不彌国、投馬国、邪馬台国の順番に旅すると読めるけど
邪馬台国はここだからこう読むはず、とか言う結論ありきは無しね >>548
だから海の中道周辺だと言ってるだろ。
伊都国から東に百里でピッタリだ。
>>550
だから共立してるのだから代表だろう
ただ、有力な国の王だとは言えない
というだけ >>553
卑弥呼の時代は物凄い有力だったよ。
卑弥呼の後に土砂崩れになったけどね。 >>551
近畿説は魏志倭人伝も旧唐書も後漢書も否定しないと成り立たなくて大変だよな
心ここにあらざれば
視れども見えず
聴けども聞こえず
食らえどもその味を知らず。
(大学)
>>554
有力なら共立じゃなくて邪馬台国自身で倭国を統合してるんじゃないか?
そして倭国の他の国々の同意なしで代表になればいい
有力なら共立する必要がないんだよ >>547
幼稚な詭弁
国連を実質的に動かしてるのは常任理事国だ
邪馬台国は7万戸
そこを無視するな
荒唐無稽な妄想ストーリーを作り、魏志倭人伝はデタラメで、オレ様も妄想が史実だと言い張ってるだけ
魏志倭人伝にのっとり、九州説を説明する合理的な説明ができていない >>558
七万戸は捏造で邪馬台国は小さい弱い国らしい
資料に素直で忠実な九州説の人が言ってた >>558
常任理事国が同意しないと代表を共立できないぞ
だから弱小国の人が事務総長になる
それが国連の代表者だ
アメリカが自国の人間を事務総長にしようとしたらロシアも中国も反対するからなれない
常識だろ
勉強しろ
>邪馬台国は7万戸
有七万戸じゃなくて
可七万戸
ちゃんと勉強しなさい 九州に首都があって卑弥呼という強大な支配者が居たとするなら、なぜ、その後、100年くらいで仁徳天皇の巨大な墓地が出現するのよ。
その後も奈良に遷都されんのよ。
その後も、九州に戻る動きが無い。
機内と言われるほど、近場をグルグル回ってるだけ。
歴史ってのは連続性で、突然、遷都去れることはよくあるけど、そんな遠くにいきなり、移ったりしないよ。
>>559
全然間違い。
女王の領域には山陰を含む。
だから卑弥呼は伊都国に命じて奴国などの強大な北部九州を軍事的に制圧し、
宮崎・鹿児島の強国投馬国(妻国)と同盟を結び、
四国の高知西部の幡多国(侏儒国)とも同盟し、
狗奴国(球磨国)以外の西部西日本を影響下に収めた、
当時としては大帝国を築き上げた。
だから金印を仮授されたの。
>>557
共立ってどう言う意味で言ってるんだ?
狗奴国は同意してないだろ。
それに、他は同意した上で倭国の盟主なんだから有力だろ。 >>561
卑弥呼の死後九州倭国が荒れたときに
近畿勢がどっかからロリ連れてきてトップに据えて
こいつ卑弥呼BBAの親戚って言ったから
北部九州勢が一斉にそっちの勢力になびいた
国際連盟のジュネーブから国際連合のニューヨークに本部が変わったようなものだな >>563
他の国々と代表者を共に擁立したという事だろ
狗奴国は倭人連合に一部なのか?
それとも対立国なのか?
他が同意したのは、こいつが王になっても自分の国が征服されないと知ってるからだよ
国連事務総長は第三世界の国の人が就任するようなものだ
決してアメリカやロシアの人は事務総長にはなれない
だがアメリカやロシアは有力だぞ >>560
魏志倭人伝を改竄し、邪馬台国が7万戸とあるのはデタラメで、
弱小国の王が倭国全体の王だと魏が認めたという、非現実的で荒唐無稽な与太話を作ってるだけ
論外の外 邪馬台国の扱いは西域の強国大月氏と同程度のものであり、
邪馬台国がつまらない弱小国などと言うのはまるで根拠の無いネタ、俗説。
邪馬台国は狗奴国(球磨国)を除く西部西日本全域を影響下においた、当時としては画期的な大帝国。
(ただし、卑弥呼のあと土砂崩れ的に勢力を失うが。)
>>564
それいいね
ジュネーブが九州
ニューヨークが畿内
これで解決じゃんwww
>>566
共立とは魏志倭人伝に書かれているので改竄ではない
有七万戸とは魏志倭人伝には書かれていない
書かれているのは可七万戸
お前こそ魏志倭人伝を出鱈目に解釈してるんだよ
共立
可七万戸
お前はこれを否定できない 畿内説の根拠は極めて明確
畿内勢は3世紀前半には北部九州に到達している
日本列島の盟主の国を魏使は認識できる状況にあった
魏が親魏倭王に認定したのは、その日本列島の盟主の国、つまりヤマト国の王だとするのが最も合理的という論理
>>568
旧唐書のこの記述も国際連盟→国際連合のたとえで分かりやすくなる
>日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
>あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
>あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。 >>567
>当時としては画期的な大帝国。
それは倭人連合の仮称大倭国の事
邪馬台国は仮称大倭国の中の国の一つ >>571
それ、自分もそうだと思ってた
唐の時代のヤマトと、魏志倭人伝の時代の邪馬台国の中心地が同じである必要はないんだよね >>571
卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などの幾つかの豪族が割拠する、緩やかな連合体のようなもので、
どの勢力も他者を軍事的に統括出来る勢力では無かった。
これは古代日本史の完全な常識で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国を軍事的に統括することが出来ずにいるのに、
中国地方をすっ飛ばして、北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成して居ない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。
邪馬台国畿内説は、ファンタジーとしてのみ存在している。
>>568
妄想はもういい
可七万戸って書いてあるのを小国だと言い張るのは不可
正確な数ではないにしろ、奴国との比較、三韓との比較は成り立つ 文字も鉄器もないほうが中央集権国家として遠隔操作してたとかないだろ
>>572
邪馬台国の扱いは西域の強国大月氏と同程度のものであり、
邪馬台国がつまらない弱小国などと言うのはまるで根拠の無いネタ、俗説。
邪馬台国は狗奴国(球磨国)を除く西部西日本全域を影響下においた、当時としては画期的な大帝国。
だから金印を仮授されたの。
(ただし、卑弥呼のあと土砂崩れ的に勢力を失うが。) >>575
これより先に中央集権が文字もなしに成立してたとかさ
しかも本州の奥地から間の国を飛ばして遠隔操作してたんだと >>573
情報の断片を拾ったらわかりにくいけど、別に倭人が嘘つきだったわけじゃなくて
九州女王国連盟から近畿大和連合に組織が発展拡大してるだけだったという話しかもね 邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡
https://this.kiji.is/438450462133863521?c=110564226228225532
3個には朱を使った跡があるという。
奴国の遺跡からでてきたすずりの朱は水銀朱ではないか
日本で水銀はフォッサマグナ(中央構造線)で良く出る
熊本-大分-四国-奈良南部-伊勢を通る
倭国大乱で熊本と大分が裏切って水銀が入手できなくなったのではないか
王族の象徴である水銀朱が利用できないことは大問題で
伊都国の王族の娘が奈良へ行って人心をまとめる必要があった
巻向から南に10キロくらいの奈良吉野では水銀が取れた
昔からある説の紹介 九州は農地、海産物に恵まれてたから人口が自然に増加して町を形成。畿内は都市を作るってなって人口が増加した感じがある。九州はもともと住んでた連中。畿内は中国からきた連中。
>>580
当時の関西人は言葉も話せなかったらしい >>582
確かに当時の関西人は中国語しか話せなかったからね九州人が後に日本全土に言葉を教えてあげた >>571
旧唐書好きだね
邪馬台国にどう関係あるか知らないけど
邪馬台国のことなら旧唐書より隋書倭国伝を読めばいいよ。
冒頭の記載
「倭国は邪靡堆を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺である。」
分かりやすく書いてくれてる。 >>587
隋書倭国伝のルートは東に東に(赤)
魏志倭人伝のルートは南に南に(緑)
行き先が違うんだよ 有史以来、日本を一応、統一したのはヤマトタケルだろ。
日本武尊と書く朝廷の血筋。
九州を制圧して、その後、東征していった。
神話に近いが日本各地に祀られる神社がある以上、実在だろうし。
ほぼ、卑弥呼と同時代と思われるから、卑弥呼が九州説であるなら、ヤマトタケルに制圧されて滅ぼされたかな。
魏志倭人伝を改竄し、邪馬台国は弱小国だったと言い張り
その弱小国のもとに倭国がまとまったという荒唐無稽な与太話を作りたければ、ラノベ板でやれって
魏がそんな弱小国を倭国の盟主だと認定して、金印を与えたなど、非現実的な話まで作る
弱小国の王に1000人の従者が仕えるかよ
弱小国の王が径百余歩もある巨大な墓を作るかよ
妄想の上にさらに妄想がエスカレートしてる
今日の九州説のやつは、いつもに増して酷かったな
>>561
仁徳天皇陵って150年〜200年あとだろ
そのころには北部九州は大和の版図だな
以下はもう結論が出ていることなので、無駄な議論は止めるように。
1. 邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。ファンタジーとしてのみ存在している。邪馬台国論争は事実上九州説の不戦勝。
2. 東征も東遷もない。考古学的に否定済み。
3. 単に九州倭国と近畿日本の二つの国があって、後者が強大化して前者を併呑し、名前も騙ったと言うだけのこと。
旧唐書にある通り。
古代日本史に深刻な謎などない。
近畿パーのようなウソつき野郎が「ここは誰?私はどこ?」とほざいて謎があるかのようにミスリードしているだけ。
九州は漢委奴國王の金印を既に貰ったことがあるだろ
国力とか関係なく
>>577
僕はカタカナが超古代において世界各地使われてた文字の名残で、
それが近畿に残ってたんじゃないかなと想像してるけどな。 >>597
あれはハワイ(裸国、黒歯国)へ行って戻って来たから。
扶桑の国に行って来たわけで、当時としては月旅行ぐらいのインパクトのある偉業だった。 やはり客観的な考古学的遺物から考えるべきだよ。
伝承とかは捏造されている。
九州北部には神功皇后の伝承が多いが、だからこそ怪しい。
>>391
遺伝子分布見たら何がわかったん?
倭人って一体何時の時代に呼ばれてた呼び名なのか理解してて口にしてるならもう何も言わんが
本物のーとか言い出す時点で阿呆 九州説は
「日本列島の盟主の国(ヤマト国)を差し置いて、魏は九州の雑魚を倭国の盟主に認定した」
という一種の陰謀論みたいなもの
陰謀論を主張するなら、それなりの証拠と根拠を出さないとな
漢委奴國王の頃から九州は雑魚扱いどころか盟主扱いだろ
>>606
なんで邪馬台ではなくて奴国なのかが誰一人として触れてない時点でお察し
九州にあったのは潰れた耶馬台国じゃないってことの証明でしか無いだろと言われてもだんまり
金印が出てきたからってのはなんの意味もない事は普通に理解できるとは思う
九州にもでっかい国が有りましたって証明でしか無い 後漢書の
倭國之極南界也 光武賜以印綬
は従来の読み方は意味不明。間違い。
倭国の南界を極めるや、光武印綬を以って賜る。
と読む。
南界を極めるとはハワイへ行って戻って来たと言うこと。
>>608
だからハワイに使者が行ったことと
金印は何の関係があんの?
そもそもハワイに行ったって妄想仮説でしょ? 邪馬台国ものちのヤマト王権に繋がってるのではないかってことで意味を持つ訳で、
おそらくその通りなのかもしれないが、今のところそのはっきりとした証拠はないから、
「ただ支那の文献に残ったでっかい国がありました」という話でしかない。
>>607
元々奴国と侏儒国(高知西部の幡多国)とは同盟国。
幡多には小筑紫と言う地名もある。
ワダツミとは幡多つ宇美のこと。
侏儒=スクナビコナで、これはおそらく足摺岬に漂着したポリネシア人。
奴国の援助とポリネシア人の航海技術でもってハワイへ行って帰って来た。
金印はこの壮挙に与えられたもの。
(当時としては月へ行って帰って来るぐらいの大偉業。) >>612
いや使者の壮挙と金印がゴッチャなってんじゃんか
しかも全部仮説じゃんかよ
これこそチェリーピッキングじゃんか >>609
東日本の震災瓦礫が黒潮に乗って丁度一年でハワイへ漂着している。
そして、足摺岬は日本で唯一黒潮が直接海岸に接岸している場所。
研究史も積み重なって学術的な話になるともうさすがにアマチュアは手が出せなくなってるから
あとは魏志倭人伝と記紀の文章だけで適当にここだって言うくらいしかない
それが九州説
その仮説を引っくるめても盟主扱いは九州だったにしかなんないだろ
ハワイから倭系遺物が発見されたなんてきいたことないなあ。
客観的な出土物から考えるべきだね。
>>599
裸国、黒歯国辺りは、たぶん、沖縄や伊豆諸島に行こうとした奴が、
アメリカまで流されて、故郷恋しくて必死に帰って来たやつもいたから、
情報として持ってただけで、計画して行ったような偉業じゃないと思うけどな。 >>613
ちゃんと色んな事実が符号してるのに?
お前単に目新しい仮説にたまげてるだけだろ?
心ここにあらざれば
視れども見えず
聴けども聞こえず
食らえどもその味を知らず。
(大学) >>619
だからチェリーピッキングなんだろ
変な詩とかほざいて誤魔化してミスリードする気まんまんじゃんかよ >>595
>>590にレスしたけど、ヤマトタケルのひ孫あたりが仁徳天皇。
エジプトのピラミッドより大きい、巨大な墳墓が造成されたって事は、それだけ膨大な人員を動員で来たってこと。
想像する古代の小さな村落じゃ無理な規模。
つまり、既にそこに巨大な国家があったと見ていいんじゃないの。
それを築いたのがヤマトタケル。
それ以前、列島各地に豪族が支配する国が沢山あったんだろな。
出雲も滅ぼされた豪族の一つだと言われてるし、邪馬台国の卑弥呼も滅ぼされた豪族の一つかな。
あるいは親戚で、それが天照の神話になったかもしれないし。
すると、宮崎あたりの天岩戸とかの神話の九州説もあながち嘘じゃなくなるんだよな。
出なきゃ、邪馬台国が歴史から消えるわけないし。 >>615
中国史書は日本国内の勢力争いに利害関係ないから信頼性あるけど
記紀はもはや犯人の喋り過ぎ的な読み方しかできなくなった >>621
ちゃんと色んな事実が符号してるのに?
お前単に目新しい仮説にたまげてるだけだろ?
心ここにあらざれば
視れども見えず
聴けども聞こえず
食らえどもその味を知らず。
(大学)
(これを変な詩とか言うとかどこのDQNだよwwww) やっぱ畿内説の狂言回し詭弁スピンを一匹潜り込ましてたな
前は四国の阿波がナントカみたいだったが
今度はハワイか
よくやるわ
>>617
単に行って戻って来ただけなのに千年以上残る遺物なんかあるかよw
棲んだわけじゃあるまいしw >>625
オレは九州説だキチガイ野郎ww
>>627
無いよ。
全てが綺麗に符号するところが、唯一の証拠。 >>622
邪馬台国は西進してきた大和朝廷に滅ぼされたってのは本当だろうか。
記紀には九州遠征で女首領の国が降伏したとか降参しなかったので討伐したなんて話あるし。 >>630
符号している。
つまり立論出来ると言うこと。
(近畿パーと違ってw) 半島から倭系遺物が出てきたことで「交流があったんだな」とわかるわけだろう。
日本列島から向こうの遺物が出てきたことも同様。
何もないんじゃ妄想でしかない。
>>618
それってどこの国なんだろうね。
数字だけを見ればハワイ、普通に考えたら沖縄。 >>628
だから狂言回しだろ
詭弁スピンを使う奴は内から壊そうとしてるわけだな
信頼を落とすために 近畿パーとか言う奴は前からおかしいなと思ってたんだよ
狂言回しじゃないかって
今、使ったな
うん、繋がった
後漢書の
倭國之極南界也 光武賜以印綬
は従来の読み方は意味不明。間違い。
(極南界って何?大体倭国ってそんな南ちゃうぞw)
倭国の南界を極めるや、光武印綬を以って賜る。
と読む。
南界を極めるとはハワイへ行って戻って来たと言うこと。
元々奴国と侏儒国(高知西部の幡多国)とは同盟国。
幡多には小筑紫と言う地名もある。
ワダツミとは幡多つ宇美のこと。
侏儒=スクナビコナで、これはおそらく足摺岬に漂着したポリネシア人。
奴国の援助とポリネシア人の航海技術でもってハワイへ行って帰って来た。
金印はこの壮挙に与えられたもの。
また、だからスクナビコナが海神と呼ばれた。
(当時としては月へ行って帰って来るぐらいの大偉業。)
東日本の震災瓦礫が黒潮に乗って丁度一年でハワイへ漂着している。
侏儒国から船で一年で裸国、黒歯国に着く、にピタリと符号する。
因みに、ハワイの先住民は前歯を折る風習があった。
黒歯とは黒い歯では無く、暗い歯の意味。
そして、足摺岬は日本で唯一黒潮が直接海岸に接岸している場所。
>>637
一年だハワイにつけたとして帰ってこれるのか? >>635>>636
ちゃんと符号しているものを狂言と言うことこそが狂言だよ
キチガイ隠れ近畿パーww
お前見たいなキチガイ近畿パーの言うことを聞いてたら立論は全て不可能になるだろが隠れキチガイ近畿パーww
卑弥呼は昔は無視されていた
それが大きく変化したのは戦後GHQが統治権をとってから
それから日本書紀は無視され魏志倭人伝が日本の正史扱いになった
卑弥呼の扱いは本居宣長の偽女王説が正しいとされてきたが
古代の日本史を書いた日本の正史を葬り去るために
魏志倭人伝が正史扱いにされる
距離も方位も都市の名前もほとんどが間違えている魏志倭人伝が
そろそろ日本人は気がつけよ
何かがおかしいという事に
日本書紀や古事記はここにいるGHQの手下が考えているより
ずっと正確に日本の古代の歴史を描いている
はっきりいうと魏志倭人伝より正しい
>>638
ポリネシア人の航海技術なら可能だったろうな。
連中はあの広い太平洋を動き回ってるんだから。
海流は回遊して日本へまた戻って来るんだ。 邪馬台国とヤマト王権は政治的に何の連続性もないだろ
女王の国がいきなり男王の国になるとかおかしい
基本、魏志も記紀も正史と思って語ってるつもりだけどな。
>>612
寝言は寝てから言ってくれよ
何処までこじつけしたいんだよ
その名前に使われた文字すら違うやんなんでそこまで阿呆なん? 日本書紀や古事記の古代史については
やや誇張や誤字脱字などや解釈の間違いなどがあるが
それでも魏志倭人伝よりは同時期のことに関しては意外にも正しい
>>639
え?今度はこっちを畿内説にしちゃう戦術なのは
朝鮮人の逆に朝鮮人レッテル張りみたいな手法だなw
ヨシヨシなんか引き摺り出せたわw 常識的に考えて九州にあったわけないだろが(´・ω・`)
馬鹿どもが
>>629
それは逆だよ!当時畿内に大和朝廷はなかった!当時軍事力最強の九州の邪馬台国が東に進出して畿内人を皆殺しにして滅ぼした後に大和朝廷を作った >>645
お前寝言は寝て言えよw
>>647
ちゃんと符号しているものを狂言と言うことこそが狂言だよ
キチガイ隠れ近畿パーww
お前見たいなキチガイ近畿パーの言うことを聞いてたら立論は全て不可能になるだろが隠れキチガイ近畿パーww
おい近畿パーとかワードを使う奴が一気に正体を見せたぞw
>>641
記紀では大きく2つの条件からバイアスが入っていると言われるね。
編纂命令が出たのが天武天皇、藤原不比等の時代。
つまり大化改新で蘇我一族を倒した後。
つまり現天皇家に都合が悪いこと及び蘇我一族に関すること。
天皇家は万世一系なんてウソで応神天皇あたりで王朝交代があったって話は有力だし。 近畿パーと言う奴は東征東遷はなかったとか、さりげなくぶっ込んでたからなw
基本、コピペレス返しはスレ潰しだしさ
>>642
僕は古代日本人がポリネシアに広がったと思ってるけどな。
アメリカに流された後、赤道付近に西向きの海流があることを発見し、
帰郷を試みたやつがまれにいたとか。
寒いのさえ我慢すれば、アリューシャン列島だったかな?
それに沿って帰った方が難易度は低いと思うが。 >>651
お前正体見せんなよ近畿パーww
(近畿パーがよっぽどこたえるらしいぞ近畿パーはwwwwww)
常識的に考えて畿内にあったわけないだろが(´・ω・`)
馬鹿どもが
(これからもドンドン近畿パー使うねwwwww
効いてる効いてるwwwwwwwwww) 日本書紀にはちゃんと魏志倭人伝のことが記述されている
そしてそれが実は正しいのだ
そしてその時代はGHQにより存在が否定された神功皇后の時代
実はそれも正しいのだ
つまり卑弥呼とは本居宣長が主張した偽女王でほぼ間違いないのだ
>>655
俺は九州説で近畿パーみたいな糞ワードは使わんわ
そういや四国とか阿波とか言う顔文字をやたら使ってたな >>653
お前さりげなくスレ潰しすんなよ近畿パーwwwwww
(大体、東征なんてネタ言ってるから九州説なんてダメなんだよとほざいてたのが近畿パーなんだけど何発狂してんのこいつらwww)
>>657
イミフだよ。糖質かお前は?
つかもうお前はNGな隠れ近畿パー野郎w >>652
王朝交代なんていう人いまどきいないぞ
そもそもそんな王朝という確固たるものがあったわけでもないし >>478
うむ。
けだし卓見であるな。
>>498
熊襲じゃなくても、東海の勢力でも越の勢力でもいいけど、
畿内から九州北部に及ぶ広域連合を脅かす存在は
想定できんじゃろと。 >>641
年代を引き延ばしたってことは確実だろうけどな >>643
男の王に代わったのは卑弥呼が死んでしまったのと戦いにおいてはなんにも役に立たんかったってのがある
原始的な村だと20世紀のアマゾンの部族が村長以上にシャーマンを敬ってたってのも事実だしな
幻想郷グンマーでは悪い事したらシャーマンに呪い殺されるんだぞ
そこを考えるとシャーマニズムからの脱却がその頃だったって考えりゃ別におかしくもない
卑弥呼死んだしやり取りしてた奴らからいろいろ学んで良い支配形態知ったからこれ使った方が良いだろって判断なんじゃないの?
そう考えりゃ別に耶馬台国から大和朝廷に変わっても変だとは思えない 正直言うと戦後日本の歴史を再構築したGHQの幹部は
日本書紀どころか魏志倭人伝さえ呼んでいない
そんな輩に日本はずっと騙され続けてきた
これこそが戦後の正しい正史である
GHQが戦後主張したきた説は日本人は朝鮮騎馬民族に制圧された
そんな都合の良い捏造の歴史である
いい加減に気がつけよ
大学とかも金もらい、いいように利用されているだけだぞ
>>658
オウム返しとかw正体を見せすぎだろw
街宣右翼みたいなことしやがってw >>587
隋書には邪馬台国と倭国の都ヤマトは同じと書いてあるがこれはどういう意味なんだ。
例によって中国人の勘違い、隋書はアテにならない、ですか。 まぁ九州だと思いたい気持ちは分からんでもない(´・ω・`)
狗奴国が九州で応神朝が後継して
九州から畿内に東遷した
九州王朝説でずっと前から答えが出てる
>>664
正直言うと戦後日本の歴史を再構築したGHQの幹部は
日本書紀どころか魏志倭人伝さえ読んでいない >>670
すげー移動距離だな
徒歩でどんだけ歩いてんだよ >>511
地政学だよ。地政学。
小国乱立の中、どこがマウント取れるか? これはもう、地形で決まる。
盆地は天然の要害。守りが固く、敵にとって攻め切れない。
結局、その差がじわじわ効いてきて、最終的に優位に立つのは盆地。
だが大切なのは、この盆地が近くの港経済を支配できるかという点。
「みなと」あっての「やまと」。
奈良盆地と大阪(堺)の関係も同じ。大和川の水運を通じて港を支配。 実は意外にも中国の暦と日本の暦はほぼ同時期にできている
故に
日本書紀の暦も実はほぼ正しいのだ
>>646
書記の魏志や史記からの引用を考えると
知識層には漢籍は読み込まれてたっぽいから
ある程度つじつま合わせないとヤバいからな >>660
前方後方墳およびS字甕の分布域はかなり広いよ
東海から関東、北陸まで分布してる 学問と村起こしの闘いだから見てて実に馬鹿馬鹿しいね
>>648
つじつま合わせじゃないし
この解釈の部分の間違えで責められるべきは実はGHQ説鵜呑みの大学教授連中 奈良の旧名が大和である以外に邪馬台国と接点も物証もない
逆に言えば、まったく関係ない土地でもヤマトと名付ければ古代の邪馬台となにか関係があるように思わせることができるってなもんだ
さすが天武は切れ者だわ
>>679
その肝心の東海の土器は、纏向から出土するんだよね。
敵対していたんだろうか? クマソからクマソへの植民が既にあったから
東遷はその延長に過ぎなかった
こうじゃね?
実は日本書紀と魏志倭人伝の内容は合致している
だから誤差を除いてそれが理解できない大学の研究機関に問題がある
戦後50年はしょうがないとして今もGHQ説を受け入れることは出来ない
答えがないから遺跡や遺物や歴史書の記述を自分の主張に合うように好き勝手に解釈して
ずっとグダグダやれる最高の町おこしコンテンツ
(これなんか隠れ近畿パーが発狂して面白いんでしつこく貼ろっとwww)
後漢書の
倭國之極南界也 光武賜以印綬
は従来の読み方は意味不明。間違い。
(極南界って何?大体倭国ってそんな南ちゃうぞw)
倭国の南界を極めるや、光武印綬を以って賜る。
と読む。
南界を極めるとはハワイへ行って戻って来たと言うこと。
元々奴国と侏儒国(高知西部の幡多国)とは同盟国。
幡多には小筑紫と言う地名もある。
ワダツミとは幡多つ宇美のこと。
侏儒=スクナビコナで、これはおそらく足摺岬に漂着したポリネシア人。
奴国の援助とポリネシア人の航海技術でもってハワイへ行って帰って来た。
金印はこの壮挙に与えられたもの。
また、だからスクナビコナが海神と呼ばれた。
(当時としては月へ行って帰って来るぐらいの大偉業。)
東日本の震災瓦礫が黒潮に乗って丁度一年でハワイへ漂着している。
侏儒国から船で一年で裸国、黒歯国に着く、にピタリと符号する。
因みに、ハワイの先住民は前歯を折る風習があった。
黒歯とは黒い歯では無く、暗い歯の意味。
そして、足摺岬は日本で唯一黒潮が直接海岸に接岸している場所。
お前ら隠れ近畿パーがどれだけすっとぼけようとしても、
畿内説が学説になって無い、学説として存在してないって事実が
消えるわけじゃ無いよ隠れ近畿パーwww
最後に言う
日本書紀の暦つまり十干十二支の原型は中国の殷の時代からあった
その時代に実は日本も干支と殷の文字である甲骨文字を保有していたのである
>>683
纒向から出土する東海系の土器といっても、実際は伊勢の土器
前方後方墳は纒向にもあるから、関ケ原みたいなガチンコ全面対決ではないだろうけど
逆に前方後方墳分布域にも前方後円墳もある
どっちの陣営に加わるか、綱引きをしてたようなもんだろう >>682
大海人皇子だからな
逆に根が正直なんじゃないの?w >>521
3世紀頭が倭国大乱だ。丁度、漢が滅亡した秩序崩壊期。
魏志の記述を見れば、邪馬台はこの大乱で負けて、
女の王(卑弥呼)を強制されてる。権力なき権威に落ちた瞬間だ。
3世紀前半に北部九州に畿内勢が到達というのは、もろ合致するな。
卑弥呼の死後、男が王位に就き復権を試みるも、また戦になり
敗れて、女の王を強制されてる。
もう、列島の覇権は邪馬台に戻らなかったんだな。
お前ら隠れ近畿パーがどれだけすっとぼけようとしても、
畿内説が学説になって無い、学説として存在してないって事実が
消えるわけじゃ無いよ隠れ近畿パーwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
天武天皇
「国名を日本にしたのは私だ
初めて天皇を名乗ったのも私だ
最古の記録である記紀を
書かせたのも私だ
奈良を大和と名付けたのも私だ」
>>675
あれ? 大和川の河口って堺じゃなかったっけ?
まあ、要するに、あそこら辺の港と言うこと。 幻の4世紀ていうか半島への絡みがディープすぎて
あえて4世紀前後を無視してる学者がおおいんじゃないの
>>695
うん、そこは隠してないし東遷も隠してない
聖徳太子が蘇我大王だったとこだけすり替えられてるけど
ここは藤原不比等なんだろな
自分の親がクーデターの主犯だからな >>697
実際は、単に九州倭国の力が衰えて近畿日本に実権が移って行く過程ってことに過ぎないんだがね。 >>680
僕は、学問とも村起こしとも関係ないから。
単なる趣味。 >>696
違う。今の大和川は徳川が付け替えたもの
元々は奈良からは難波宮に行けるが堺にはどう頑張ってもいけない
卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などの幾つかの豪族が割拠する、緩やかな連合体のようなもので、
どの勢力も他者を軍事的に統括出来る勢力では無かった。
これは古代日本史の完全な常識で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国を軍事的に統括することが出来ずにいるのに、
中国地方をすっ飛ばして、北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成して居ない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。
邪馬台国畿内説は、ファンタジーとしてのみ存在している。
>>697
4世紀後半に始まる三韓征伐に触れないといけないからな、
戦後のタブーだったんだろうな。
5世紀頭には高句麗に敗れて、慌てて大陸の南朝に朝貢して、
その際、高句麗・百済を除く半島の南部(任那・新羅辺りの地域)が
日本の勢力圏と認められてる。
これに触れたくなかったんだろうなw 北部九州は半島との付き合いが強すぎて本州の方には興味が無かったんだろ
逆に半島や大陸との交流でいい思いをしてる九州の連中をよそ目に
大和はせっせと勢力を拡大して九州の辺境でまま子扱いされてた宇佐や日向の連中と手を組んだんだろ
だからいまでも大分や宮崎は新幹線も高速道路もつながらないw
東征も東遷もない。
考古学的に否定されてしまった。
実は、東征・東遷の息の根を止めたのが纏向遺跡。
纏向遺跡は古代近畿の最重要遺跡で、西日本全域から土器が集まっている。
にも関わらず、九州からのものは僅かしか無い。
この古代近畿の最重要遺跡において、
征服者としての九州勢の面影を全く見つけることが出来ない。
東征も東遷も、纏向遺跡が否定してしまった。
>>701
そうなのか。知らんかったorz
今調べたら、柏原から北上して淀川に通じていたようだな。
港は堺限定じゃなくて、大阪一帯ということで理解してくれ。 乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。
共立してた男子王の所在がわからないんだよな
しかも卑弥呼は魏志倭人伝で
「親魏倭王卑弥呼」とか「倭女王卑弥呼」とか呼ばれる
男の王どこ行ったんだろうな
あと台与のときは「復立」
>復立卑弥呼宗女壹與年十三為王
共立となにか違うのかな
>>696
大和側の河口は、当時河内辺りじゃなかったっけ?
その後確か摂津の方に移動してって、
運河を作って堺になったんじゃなかったっけ?
以下はもう結論が出ていることなので、無駄な議論は止めるように。
1. 邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。ファンタジーとしてのみ存在している。
邪馬台国論争は事実上九州説の不戦勝。
2. 東征も東遷もない。考古学的に否定済み。
3. 単に九州倭国と近畿日本の二つの国があって、後者が強大化して前者を併呑し、名前も騙ったと言うだけのこと。
旧唐書にある通り。
古代日本史に深刻な謎などない。
近畿パーのようなウソつき野郎が「ここは誰?私はどこ?」とほざいて謎があるかのようにミスリードしているだけ。
>>706
うぶな奴。
九州が奈良を征服したのではない。逆だ。
奈良が、かつての覇者、九州のやまと(邪馬台)を征服して、
その権威を簒奪した。
東遷は、それを正当化する架空の神話だわ。 >>705
ぜったい無いな
おまえはいっぺん死んだ方がいい 畿内説は墓掘りには熱心だが、傍証ばかりで決定打はない。都市といえるような遺構が出たとか、デカい墓があるのは自慢なんだろうけど、問題は魏志にある邪馬台国だったかどうかだよ。
魏志倭人伝から窺える倭国の様子は、老齢化した卑弥呼が使いをよこし、盛んに魏の権威を借りて内乱や狗奴国との争いをどうにかしようとしている様。
発展し、全国を統一するような勢いは感じられないどころか、衰退期に入って没落するイメージでしかない。
(あと以下は隠れ近畿パーが発狂して面白いので、しつこくしつこく貼ることにする。
ぶっちゃけ正しい筈だし。)
後漢書の
倭國之極南界也 光武賜以印綬
は従来の読み方は意味不明。間違い。
(極南界って何?大体倭国ってそんな南ちゃうぞw)
倭国の南界を極めるや、光武印綬を以って賜る。
と読む。
南界を極めるとは、海流に乗ってハワイへ行って戻って来たと言うこと。
元々奴国と侏儒国(高知西部の幡多国)とは同盟国。
幡多には小筑紫と言う地名もある。
ワダツミとは幡多つ宇美のこと。
侏儒=スクナビコナで、これはおそらく足摺岬に漂着したポリネシア人。
奴国の援助とポリネシア人の航海技術でもってハワイへ行って帰って来た。
金印はこの壮挙に与えられたもの。
また、だからスクナビコナが海神と呼ばれた。
黒歯国は伝説の扶桑がある場所だから、当時としては月へ行って帰って来るぐらいの大偉業。
東日本の震災瓦礫が黒潮に乗って丁度一年でハワイへ漂着している。
侏儒国から船で一年で裸国、黒歯国に着く、にピタリと符号する。
因みに、ハワイの先住民は前歯を折る風習があった。
黒歯とは黒い歯では無く、暗い歯の意味。
そして、足摺岬は日本で唯一黒潮が直接海岸に接岸している場所。
>>708
共立は、そういう意味じゃない。
倭国の各国が一人の女を王に「共立した」ということ。
大乱の当事者各国が、邪馬台が男の王を諦め(或いは自害させ、或いは殺し)、
女を王にすることを条件に、邪馬台と講和が成った、ということ。
復立は、女を「また(復)」立てたということ。 >>714
だから、畿内説は決定打が無いなんて生易しいことではなくて、
そんなものは、この世に存在しないの。
徳川家より蜂須賀家にたいして、領地の一部にとても大切な場所(天孫降臨の地)が有るので、
十分に配慮しろと命令されている。
「畿内から九州まで及ぶ統一王朝」
畿内説はこの時点で問題外。
倭国大乱を経てすぐで、未だ不安定で、
すぐ隣の国から攻められて不利な状態にある
邪馬台国の記述に全く合致しないだろ。
この古から続く
日本にとって、とくに大陸も半島に近い九州にとって
連中は脅威でしかない
地形的に交易の相手であるが、それ以上に相容れないもの
それが中国大陸であり、朝鮮半島だ
古来からね
>>425
帯方郡からの総距離1万2千、
その9割を九州北岸までで消化。
これが動かせない数字だぞ。
残り1割で畿内まで届くわけがないだろ…。
畿内説は距離も方角もまったく合致しないよ。 朝鮮から邪馬台国までの行程が九州説では合わない。
朝鮮では日本の向きが、現在と違う地図が使われていた。
学者はバカだし信用できない
考古学は捏造ばかり
C14年代測定は間違っている
日本史の教科書はデタラメ
学校の日本史授業では嘘を教えている
魏志倭人伝は後世改ざんされ、水行陸行が追加された
短里は実在した
三国史記と旧唐書は信憑性がある
遺跡も物証もいらない
100万人の邪馬台国連合が跡形もなく消え去った
後世、畿内政権が邪馬台国を滅ぼし、ヤマトの国名を盗んで自分たちのものにした
だから邪馬台国は九州です(キリッ
>>711
記紀を読めば神武漂泊だったとわかるよ
日向神話に含まれる南方海洋民族の説話を考えれば架空のものとは言えないだろうね
ついでじゃ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) 神話や伝説を根拠にされてもな。
物的証拠の前にはそうとう弱い根拠になる。
シェリーマンのように神話から何か見つけてみろ。
>>727
短里長里の区別なく里数はアテにならん。
でも長時間だと畿内説はますます分が悪くなるよなw >>728
里数はアテにならんと言いながら、長里だと畿内説はますます分が悪くなる
ってどんな理屈だよ?w
里数はアテにならんと言いながら、里数はアテになると言ってるようなものw >>727
たぶん、会稽辺りから必死に東に向かって漕ぎ続けたら九州北岸に着いてたから、
九州北岸を会稽の東になるように数字盛っとく必要あったんかもしれんな。
おかげで現代日本人にとってはちょっと短い里になってしまったんかもしれん。 九州説は、今やムーの記事と同レベルの都市伝説だからな。
いや、ムーは稀に誤報じゃない時もあるが。
うぶは英語でナイーブ。
いや、だから何だと聞かれても困るが。
>>734
でましたなサハフタソw
乙っすw
はい反論は?
w
卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などの幾つかの豪族が割拠する、緩やかな連合体のようなもので、
どの勢力も他者を軍事的に統括出来る勢力では無かった。
これは古代日本史の完全な常識で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国を軍事的に統括することが出来ずにいるのに、
中国地方をすっ飛ばして、北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成して居ない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。
邪馬台国畿内説は、ファンタジーとしてのみ存在している。
反論は?と聞かれて何も反論出来ないのに勝利宣言だけ一行でやる。
んで他人に「お前一行レスだよなw」とか言う。
これぞ真の敗北者、近畿パー。
>>732
水行20日も会稽ー東治間の距離と見立ててるとしたら、
基本400〜500kmくらい、1日20〜25kmくらいと思っといた方がいいんだろうな。 ヤマト奈良説は天武天皇の作った捏造
元祖ヤマトが福岡
若い頃の東郷平八郎みたいな青年イワレビコが
南方熊楠みたいなヤタガラスに導かれて畿内入りしたと
それが武内宿禰だな
ざんねんながら奈良は遠すぎるね。
淡路島 四国辺りまでだろう。
戦争なんて簡単にできない
信長でも福井県で逃げたりしてる
>>695
あんたがこの混乱の元凶かよ
あんたはいったいなんなんだ 大和朝廷が奈良にあったのはほぼ確実
纏向遺跡はおそらくその名残
その発掘の責任者だった関川先生がハッキリと
卑弥呼とは無関係と結論づけておられる
>>748
追われるように九州を後にし一族郎党を引き連れ近畿へたどり着き土着化、、、子孫が繁栄
だろう。 玄関が北九州にあってそこに防人を置いてきた歴史があるのだし、北九州着から奈良までの道程の記述が無いなら使者は奈良には来ていないという事。
両者の間に出雲があって、南には隼人がいたのにヤマトがそんな大規模に統治していたってのもまず有り得ない。
>>722
その引き算が成り立つのは、万二千里や1万里が正しい場合のみ
誇張された数字なので、引き算は無意味
陳寿がやってない引き算を勝手にやって残りの里数を出すのは、文献の改ざん捏造と同じ
魏志倭人伝に実際に書かれているのは「水行二十曰」と「水行十日陸行一月」 >>752
なかなかおもしろい推論
ではその水行二十日と水行十日陸行一月は正確だというわけね? >>753
正確だなんて誰も言ってないが
日数の記述は畿内なら整合性があるというだけ 近畿説は九州から近畿(中部)までを支配する巨大勢力が
狗奴國に手を焼いて魏にSOSしてしまうヘタレ設定
>>754
不思議な理論やな
正確ではないが整合性が取れると、、、なぜ畿内だと取れて
九州や四国、出雲地方は取れないわけ? >>707
付け替えたのは徳川というか地元の庄屋さんだけど >>754
はっきり言って魏史倭人伝の数字は全て信用できない。
その中で里数だけが信憑性があるのは、朝鮮から対馬、壱岐、福岡までの距離が割と正確だから。
正しいのは数字ではなく「比率」なんだよ。
だから日数だけ出されても、里数より正確とは言えんよな。 >>747
多分天智天皇から政権を簒奪した人なんだろうけど、どこから来たのかはわからない。 >>759
その通り 里数は相当正確に書かないと戦争時に具合が悪い
魏がわざわざどうでもよい島国を測量させたのは
資源の有無と征服するかどうかの為しかない
兵士の移動の食料等計算するのに出鱈目な距離数では
戦争できないからな
水行と陸行はもう言い古されてるが里を知らなかった
日本側の説明だから 東を南の誤記とか強引過ぎるから畿内説は問題外
おらが町が邪馬台国の代表だな。
>>760
その前に継体天皇という何十年も奈良盆地に入れなくて、
明らかに大和政権から政権簒奪と思われる帝がいらっしゃいますね。 例えば同じ魏史倭人伝に、
`邪馬台国から東南に四千里、船で一年で裸国・黒歯国につく´
という記述がある。
一年かけて進むのが四千里なら、比率でいうと水行陸行の1ヶ月半で進むのは、
五百里になる。だから日数でも北九州の辺りに収まる。
>>722
壱岐対馬の外寸を入れれば伊都国、奴国で12000里に達している
この辺が女王だな
>>752
>誇張された数字なので、引き算は無意味
何の根拠があって誇張された数字とか断言してるんだw >>695
実際天武天皇以前の日本の歴史は完全に謎だな。 >>756
>>758
隋書の「東西五月行」との整合性
漢書の「師日行三十里」との整合性
軍の1日行程の距離「1舎」との整合性
合計60日の行程は九州を飛び越える
60日を九州で収めるために、けもの道だの、1日2キロだの、わざと遠回りして九州を横断だのは、小学生の言い訳と同じ >>759
里が正しい、比率が正しいというなら証明してからにしてくれ
言い張るだけでは無意味 >>749
>大和朝廷が奈良にあったのはほぼ確実
8世紀以前については証拠がなくどれも思い込みだな。 >>766
1万里は4000km超、万二千里は5000km超
明らかに誇張されている >>768
それさ そのまま九州って比定されるんだけど
畿内説取るなら出さないほうがいいぞ >>773
お前が言い張ってるじゃないかw
言い張るだけじゃ無意味だぞw >>773
んじゃまずこれ
?國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山而居
魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日
其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與?耳相近
會稽の東に在り、?耳(台湾)と相い近し
まさか今頃畿内説にこの説明するとは思わんかったわ 隋の時代は倭国の認識が本州にもなった
のは遣隋使も送ってる
遣隋使も九州倭国
>>773
現代語訳も必要か?まさか意味知らないわけはないよな
知ってて畿内だと言ってるんだろうからな >>780
何を言いたいのかさっぱりわからん
もっと明確に言えや
おれはエスパーではない お前が出してきたんだからこれ読んで整合性とれるそうだから
説明頼むわ
>>782
隋書の時代の倭国は版図は関東から九州まで
その距離を日数で表記して5ヶ月
北部九州から大和まで2ヶ月は妥当なところ 一行だけ取り出してだからおかしいってのはチェリーピッキングと言う
詭弁論法なんだよ だからちゃんとそれ含む文だしてやったんだ
意味知ってんだろ?整合性頼むぞ
>>771
何故か東夷伝では1里80mほどで統一されてる
これを短里と仮に名付けたんだよ。 >>783
隋書の月は日の誤記だろ
月だと日本は超大陸だよ。 >>783
おっ?こりゃまた新しいネタを出してくれたな
5−六百年頃の隋に日本の版図があったのか
大発見だな是非教えてくれ >>789
意味不明なことばっかり言って
議論するつもりないならもう無視するわ >>787
反論もなにもおまえ説明まだ終わってないが
版図出してくれよ それ見て納得したらおまえに謝罪するからさ >>790
もう逃げんのかよ 版図どうしたんだよ
つまらんなもそっと真のある畿内派はいねぇのか >>786
何か勘違いしておられる
隋書では倭国は東西5カ月南北3カ月で国境になる国だと記載されてる
日の誤記だと3日5日で少し狭いかな、と >>792
逃げる?
もっと明確に言えと再三要求したが、お前がひたすら意味不明なこと言い続けただけだ
おまえの過去レス見ても同じようなことしてるな
相手にする価値なし まだ畿内説カルト息してたのかw
城柵楼閣跡のない纒向遺跡を卑弥呼の宮殿跡といい、
後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60m)よりも遥かに巨大な
箸墓古墳(全長278m)を冊封国女王卑弥呼の墓と言い張る
学問とは全く無縁なカルト集団です。
>>794
隋書って古い記録を参考にしてるけど、卑弥呼の時代から約400年後に
編纂されたものだからな。交通事情は相当変わっててるだろ。
それより東西はともかく南北ってなに?どこからどこまで? >>795
おまえの要求って?
お前が出した隋倭国伝で整合性が取れるというから
ちゃんと文だしたら、だから何?というだけ説明無し
説明のつもりの隋の版図ではときたもんだ
じゃその版図見ないと判断できんやろが
で?おまえの要求ってなんだ? >>790
>>792
隋書に倭国は東西5カ月南北3カ月で海になると書いてあるけど、隋の人が当時の日本の版図を地図で知ってた訳じゃないから隋書を鵜呑みに出来ないってことかな?
6世紀後半のヤマト政権がどの版図かは今の歴史学では分かってるんだろうか
自分で書いてて2人が何でケンカしてるかよく分からないわ、ごめん 距離は正確にって言う方が無理。
方角は間違えようが無い。
畿内は無いわ
そもそも本州のこととか書かれてない
海の東の倭種でひとくくり
たとえば、名古屋以西の住人に仙台・東京間の距離がわかるか?
東京以北の人間に、名古屋・大阪、大阪・広島間の距離がわかるか?
>>798
>説明のつもりの隋の版図ではときたもんだ
また意味不明のこと言ってる
相手にしてはいけないやつだったか >>800
間違えようが無いのに現に九州内ですら末盧国=唐津から東北にある奴国=博多を東南と間違ってるからなあ
里程はまったくアテにならない、
方角は少しアテにならない、
日数は正確、
これが個人的な感覚 >>794
隋代でも倭国は北部九州地域だったんだよ
東西5カ月南北3カ月とかどんだけ広いんだよw >>799
>自分で書いてて2人が何でケンカしてるかよく分からないわ、ごめん
すまん、ID:tA70g8480が何を言おうとしてるのか、おれにもわからん >>806
この「海行三月」も「海行三日」の誤記でしょうね
朝鮮半島の南岸から済州島まで海行三日
百済の首都からではなく百済の端から耽牟羅國まで。 >>808
自分で言った版図!これ出すだけでいいのに何関係ないこと言ってんだ? つまり中国の歴代使者は基本的に九州ことしかわかってないじゃんw
隋書にある南北三ヶ月東西五ヶ月について
これはエリアを四角形と捉えて
北と南の辺(横の移動)がそれぞれ三ヶ月
東と西の辺(縦の移動)がそれぞれ五ヶ月
と解釈してる人いたな
なんでも済州島がそういう風に記述されてるとかなんとか >>799
室町時代に書かれた現存する地図では最古と言われるものでも
縦長にかかれたなんとなく日本に見える程度のものです
五−六世紀に版図などあるわけもありません
が畿内説の人は隋はそれを基に判断したというわけです >>810
なんがコイツ、ただのイチャモン野郎か
厳密な版図なんかわかるわけないだろが
東西は関東から九州と答えてる
前方後円墳の分布域とほぼ同じ
倭王武の上表文でも大和が中央に位置してることは読み取れる >>8
半島からからの帰化人が多い奈良はなんでも捏造だな。 >>798
>説明のつもりの隋の版図ではときたもんだ
おまえもこれ説明しろや >>815
最初からそう書けや つまり適当に整合性が取れるって言ってるだけじゃねぇか
知らんことをさも知ってるように書くな
もうおまえはかまわんわ底が浅すぎだ 当時の畿内は小規模な集落が点在するだけの、
王権とは無縁の後進地域だろ。
>>818
高校の教科書レベルのことをいちいち説明を求める方がおかしいんだろが
>説明のつもりの隋の版図ではときたもんだ
これ説明しろや >>819
鉄器文化に移行してるのに銅鐸ならして遊んでたw
平和的でいいけどさw >>819
同意
おそらく中国が乱れてたときに日本海側には多くの渡来人が
流れ着いたと想像ができる、それが土着の豪族と結びついて
大和朝廷へと成っていったと予想 >>814
倭人は里程を知らないから倭人に聞いたら「わが国は東西5カ月南北3カ月で海になる也」とか答えてそれを記録した
それがどうしたの?
隋の時代には使節は往来してるし、ヤマト王権の版図も多分関東くらいまで広がってるし、そんなもんかなと思うけど
月が日の間違いとか、畿内説がどうとか、論点が全然分からない 九州にとっては、吉野ケ里遺跡・金印発見と邪馬台国ネタくらいでしか日本史の教科書で地元が載る機会がないから、必死さが違う罠。
東北にとっての、三内丸山遺跡・奥州藤原氏ネタ並みの力の入れようだと思う。
>>806,812,821
隋書の中の用例が2個もあるなら間違いはなさそうだな
そうなると隋使はチクシ国の東の秦王国のあと九州東岸沿いを南下したということか? >>827
秦王国はどの辺だろね
まあ海を渡るそうだから隋書のルートは
九州から瀬戸内海を東に進んだんじゃないかな
※隋書で裴世清が行ったのは倭国じゃなくて日本国
竹島(半島南西端)から東へ東へ >>825
興奮せずに書いてくれや 月や日とか俺は言ってないし
も少し最初のやり取り読んでから俺に安価してくれな
それがどうしたの?と言われてもなw >>821
これは目からウロコだな
そうなると確かに倭国は南北に長い範囲になるか ID:tA70g8480
コイツいったい何だったんか、結局わからんかったな
一人で意味不明なこと喚いてたが、高校の教科書レベルの知識さえないことだけははっきりした
過去レス見ると夜中にも短里があるとか言い出し、直線距離がどうたらと見当違いなこと喚いて、
間違いを指摘されたら、捨て台詞と勝利宣言w
九州説ってこんなやつばっかりw
>>788
こういう仮説はどうだろう?
仮に当時黄河の河口付近で、南北方向で帯方郡と同じくらいの場所として
現代の天津の辺りに都市があったと仮定する。
天津ー会稽は直線距離で約1000kmくらいだと思う。
しかし直線に行ける道はないので、
その間の距離は実際の2〜3倍として認識されてたんじゃないかと思う。
1里400mなら、天津ー会稽は5000〜7500里として認識されてたことになる。
この長さに合わせたかったため、航海日数の比から、
帯方郡ー狗邪韓国間を一辺3500里で7000里、
狗邪韓国間ー末廬国を3000里にしたとか。 ID:/wbIgWFV0
これが最後な 嘘は書くな(俺は間違いを指摘した方だ)
以上
畿内派=ナラは朝鮮語のクニであり、朝鮮からの侵略移民が作ったクニ
騎馬民族がヤマト王権を作り、日王は朝鮮人
つまり天皇家は朝鮮人で朝廷の支配層も朝鮮人、縄文人を奴隷として現代まで支配している
日本を作ったのも朝鮮人
九州派=九州島内の小国30あまりの連合国が邪馬壹国を名乗り、各国には王がいる
九州とは、古代中国の言葉で八方周囲を束ねる中央集権国の意味
邪馬壹国の政治は、各小国の王から代表王を選出する合議制であり、その中で男王や卑弥呼が選出された時代もあった
邪馬壹国は、争いを好まず小国で纏まることで力を強める連邦制をとり、国境を接する野蛮な隣国狗奴国に対抗する
朝鮮南部や大陸と交易を行い、鉄を輸入し鉄製品を使い農業漁業先進国だった
養蚕を行い、シルクを織り、シルクを魏に献上もしている
そんな邪馬壹国の詳細は日本の歴史書には全く記録が無いのが謎であるが
隣接する南の狗奴国、男王の名は卑弥弓呼は頻繁に邪馬壹国の国境を攻め込み緊張が絶えなかった
この狗奴国が畿内に侵攻しヤマト朝廷をたてたならば、謎も納得がいく
記紀に天皇家は南部九州出身とあるのが証拠である
狗奴国が畿内勢力を攻略し、後の天皇家とヤマト朝廷樹立後に九州の邪馬壹国を滅ぼし、その功績を背乗りしたとすれば謎は解けるのである
>>833
>俺は間違いを指摘した方だ
いつ?どうやって?
また、一方的な勝利宣言かwww
>説明のつもりの隋の版図ではときたもんだ
で、いい加減これ説明しろや
これで3度目だ
逃げるな 何度要求されても意味分からんがw
>説明のつもりの隋の版図ではときたもんだ
これの何をどう説明しろと????
>>832
短里には興味ないんで、どうやったら短里をこじつけられるかって話には参加するつもりはない
短里があると言い張りたいなら立証すればいいことだよ 数人が一日中レスして埋めるスレ
流石に飽きてきたぞw
>>821
隋書でも済州島の大きさは短里表記が使われているんだな
畿内厨がどんなに否定しようが実際に使われているものはどうしようもないね >>838
じゃ簡単に説明してやる
魏志倭人伝では帯方郡(現在のソウルと比定されてる)から狗邪韓國(現在の釜山と
比定されてる)まで約7000余里と書かれてる
現在の距離に替えると約500km程度 それが7000里ならこの時代の里は
短里の約70m
俺が上で書いたのはそれを小学生に教えてただけだわかったか? >>838
僕には、距離をどうやって測ったんだろう?
いちいち距離を測定しながら伊都国や奴国まで行くようなことを本当にしたのだろうか?
といったことの方が不思議なだけで、何を不思議に思うかの違いやろね。 >>837
今度はすっとぼけか?
こっちは、「隋の版図」なんて一言も言ってない
それをおまえがいきなり「説明のつもりの隋の版図ではときたもんだ」
とレスをした
意味不明だから説明しろと要求するのは当たり前だろ?
はよ、答えろ >>844
783 返信:名無しさん@1周年[sage] 投稿日:2018/12/02(日) 21:51:31.71 ID:/wbIgWFV0 [29/42]
>>782
隋書の時代の倭国は版図は関東から九州まで
その距離を日数で表記して5ヶ月
北部九州から大和まで2ヶ月は妥当なところ
これがおまえの説明 隋はその版図とやらを見て日数を
隋書に書いたんやろ?おまえの説明ではそうなるが
だからその版図とやらを教えろって言ってんだが
それとも遣隋使の説明で書いたのか?それなら版図とか出してくるなや 人の歩く速さは誰でもほぼ同じで
1日の移動距離はどこの国でも25〜40kmだからな。
>>845
おまえの興味なんざどうでもええわw
それなら魏志倭人伝にも興味なしっていえよw やまと(邪馬台)を盆地と仮定していたが、この仮定を外して考えてみた。
列島に渡来した倭人にとって、博多は重要拠点。大宰府近くの山が迫る所に
防御の木戸を作ったかな。これが元々の「やまと(山戸)」かな。そのうち、
博多平野の「みなと」に対して、大宰府の木戸の向こうが「やまと」と呼ばれた?
木戸の向こうは、筑紫平野。ここで守りの固い地域があるか、見てみた。
筑後川南岸。ここは筑後川と山々にくぐりと守られることになる。
特に、現みやま市は、矢部川が内堀となり、特に守りが固い。ここが邪馬台国??
(みやま市=皇居、筑後川南岸=東京都千代田区、みたいな?w)
八女(Yame)矢部川(Yabe-)柳川(Yana-)、これ全部「やまと」と関係あるかな。
>>832 の続き
もう一つ、加えておこう。
僕は末廬国―伊都国間の距離が長すぎるなと思ってた。
でも、このスレかもしくは違うスレだったか忘れたが、
この区間は非常に険しいという情報を得て、合点がいったと思った。
魏では、例えば1日で50里くらい行けるという概念があったが、
十日かかったので500里としたのかもしれない。
そして、伊都国―奴国間は田畑ばかりで普通に歩けて2日ほどで着いたので、
100里としたとか。 >>846
>隋はその版図とやらを見て
ようやくわかってきた
おまえは「版図」を「地図」という意味だと思ってたわけだなwww
版図とは国の領域、領土って意味だ
教養がないやつと議論するとこうなるってことだなw >>848
>それなら魏志倭人伝にも興味なしっていえよw
しょうもないイチャモンやめろ
こっちは度量衡の捏造に興味がないと答えただけだ >>851
版は戸籍 図は地図なんだがわかってんの?
その両方合わせてその国勢力図 領土を示すんだが? >>852
説明してもそれが捏造だってんなら説明する意味なし
好きに畿内やってろや
ほんとにこれで最後(なんかオオカミ少年になってきたな) >>853
恥の上塗りwww
用例を見てからレスしろや
一国の領土。 「 −を広げる」 「西域を−におさめる」
これを地図の意味で使うと、「(国の)地図を広げる」「西域を地図におさめる」になるwww >>841
もう一つ短里の実例がある
三国史記新羅本紀の中の鬱陵島の大きさについて
「于山国在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里」(『三国史記』巻第四 新羅本紀)
鬱陵島は突出部を除くと10km弱四方ほどの小さな島なので、方一百里は短里となる
隋書百済伝では百済の領土が長里で書かれているので、隋書では短里は島嶼部のみに使われている模様 ID:tA70g8480のレスで
「版図」を「地図」という意味で使うと、>>789>>791>>798>>814はすべて意味が通じるわwww
どんだけアホなんだ >>855
《「版」は戸籍、「図」は地図の意》一国の領域。領土。また一般に、勢力範囲。「版図を広げる」
またオオカミしてもうたもうやめ >>856
どうやら短里が実際に使用されていたのは間違いないようだな >>858
小学生みたいな言い訳やめとけwwwwwwwwwwww
「版図を広げる」は「国の領土を広げる」ではなく「地図を広げる」という意味だと思っとけwww 九州説は>>821や>>856みたいに淡々と事実を積み上げていく姿勢に好感が持てる
畿内説は事実にまったく反論しないまま「とにかくオレは認めない」と子供のわがままのように連呼しているだけで論になっていない 畿内説には物的な根拠があるからね
九州説にはそういうのが無いから倭人伝をいじくってこじつける事しか出切る事がない
無知な人間にはそのこじつけが「事実を積み上げていく姿勢」に見えるらしい
>>861
畿内説っていっても暴れてるのはキナイコシ
っていう、日本史板でも有名な詐欺師だけやで。知識だけはあるけど、学問センスが全くないから、嘘で塗り固めて 物的な根拠があると主張しつつ出てくるのが桃の種w
畿内www
邪馬台国九州にあった可能性は否定しないけど
邪馬台国が東征して大和朝廷になったとか言うカルトじみた主張はやめてくれ
起源主張する朝鮮人みたいでキモイわ
>>869
ならば、なぜ神武の東征が正史として残されたのか 神武の東征は九州が主張してるわけではなく、大和朝廷の正史だぞ
いわゆる九州説には邪馬台国と考えられる遺跡とかそういった根拠が無い
だから九州説派は必ず「倭人伝のここをこう解釈すれば〜」と言葉遊びにすがるんだよ
古代の中国人が書いた邪馬台国までの行程をいくら考えたって正解が導けるわけないのに
素人感覚で思うに邪馬台国があった場所は
九州が3割、近畿が5割、その他が2割くらいの可能性だろうな
2世紀以前の東征は否定せんがそれ以降の東征は有り得んでしょ
畿内の主勢力は、吉備尾張越
神武の東征は、なんらかの必然性があって捏造されてる
>>876
そう。東遷など無かった。
だが、あったことにする必要があったんだよねw 例えば、三河出身の家康が江戸で幕府を開いた。
三河=九州、東遷して江戸=畿内
東遷説はこれでいいだろw
渡来ではなく九州から来たことにするために神武東征神話が創られたんだよ。
大和国の最初の王であるニギハヤヒは三河県豊橋市出身の可能性が高い
石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある
神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥の院、豊橋の石巻山(神山)に向いているわけだな
バリバリ営業マンが苦労を重ねて新規開拓して支店長になったところに本社から取締役が来て、今から俺がここの支社長ねと宣言して軽く抵抗されたみたいな感じだよね
畿内説っていっても暴れてるのはキナイコシっていう、日本史板でも有名な詐欺師だけやで。
知識だけはあるけど、学問センスが全くないから、嘘で塗り固めて駄々こねるだけ
大神神社の話は、三河の源頼朝、三河の足利尊氏、三河の徳川家康、三河のトヨタグループに繋がるとこが面白い
三河の王は日本の番長なわけだな
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝(初代鎌倉将軍)を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼(初代源姓足利氏)を生む
>>882
宮崎だか福岡だかの日向に降臨せんでも、畿内の山のどこかに直接降臨したらええやん
なのになんで九州なのかってことよ
大和朝廷自身が邪馬台国が九州だって知ってたんだろ >>875
素人感覚を自認しているのならそういう根拠のない断言は慎みなよ 教科書の変遷も、極めて重要な歴史資料だよね
当時の知識や思想、思惑がもう・・・
俺九州説派のもんだけど
さすがに今時短里なんてネタじゃなく本気で言い張ってる子を見ると吃驚するw
あんなもの、てっきり20世紀の遺物だと思っていたよ
教科書の記述は戦後一貫して中立だっただろ?
教師によって九州に誘導したり、マスコミがセンセーショナルなコピーで吉野ヶ里を紹介したかもしれんが
教科書の中立が崩れたのは今回が初めてだろ?
>>882
むしろ逆で、最後に渡来したのが九州北部の倭人=日本語話者。
倭人の特徴の北方系遺伝子は、九州と周辺に限定されている。
日本語は、人の移動ではなく、共通語として列島に広がった。
列島人が「倭人化」したわけだ。
九州の邪馬台は、倭人か、混血か、最初に倭人化した列島人だな。
奈良は、その後に倭人化した列島人。
奈良の渡来系は、蘇我氏とかだ。
4世紀後半以降の三韓征伐の折に半島の百済とか異民族系と
混血(か渡来)したようだ。 >>891
>>821や>>856に明確に当時の史料が挙げられているんだからミエミエの自称でごまかしても駄目だよ
反論できないからってなりすましとか生きてて恥ずかしくないの? >>894
自分の敵は全員畿内説の人間だという妄想ですかw
相当重症のようですね
いや、冗談抜きで、その思考どうにかしないとやばいよ >>895
その小学生以下の自称を誰か信じると思ってる君のおつむがマジヤバイ >>896
じゃあ小学生以下のおつむの俺からの質問なんだけど
魏志倭人伝のみならず、隋書や三国史記と幅広い時代地域で使われているという短里
そんな短里の存在について具体的に言及してる史料って何かあるの? 単里が魏国の時代に使われていたのは
今は当然の事になったのでは?
日本も使ったみたいね
861 :ニュースソース検討中@自治議論スレ :2018/11/13(火) 16:49:00.60 ID:RT6Jdpev
日本書紀スジン紀
六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南
任那は筑紫国を去る事2千余里北海をヘ阻てて雞林(新羅)の西南に在り
2000里は140Km 一里75m 日本書紀も書き写すときうっかり短里で書きました
魏の時代は短里なので邪馬台国はすっぽり
北部九州で納まる
>>900
なんで俺の質問に対して、なんの答えにもなってない論文貼っちゃったの?
まあ一応途中までざっと読んだが、三国志オタに説教されるぞってくらい
基本的な知識が欠如しすぎ
あと、出鱈目な訓点がついてて、史料読みにくすぎ
普通に原文載せてくれ
古田ちゃんの本は昔『「邪馬台国」はなかった』を読んだことがあるが
あれも用例を集めるのは大変結構だが、その解釈が無知、出鱈目、ご都合主義すぎて
あきれるくらい酷い話だった >>902
すげぇー古田史学を無知出鱈目ご都合主義と切り捨てるとは
恐れ入りましたさぞ高名な学者さんなんでしょうね
何十年も歴史学者の誰一人としてその出鱈目や矛盾点(有るなら)を
指摘して反論したもの皆無なのに、、いやー恐れ入りました 誰それの説とかはどうでもいいけど、当時の複数の史料で使用されているという厳然たる事実を無視するのはおかしいだろ
短里を否定する人は>>821・>>856・>>899を全部長里で説明してからにしろよ
短里と長里じゃ約5倍も距離が違うんだから誤差なんて言い訳じゃ逃げられんぞ >>903
>何十年も歴史学者の誰一人としてその出鱈目や矛盾点(有るなら)を指摘して反論したもの皆無なのに
著者も著者なら、信者も信者で出鱈目だらけ
正直やってることが韓国人レベル 訂正
そういや東北の神話だったかについて邪馬台国の会の
安本先生が古田先生を批判反論してた記憶があるな
>>904
とりあえずヒント
短里の例としてあげられてるのは、それぞれの史料にとって辺境のケースばかり
それはどういうことか、よく考えてみよう ヒントとか言い出す奴は反論できずに逃げてるだけってばっちゃが言ってた
で>>897の質問には逃げずに答えてくれるのかな? 帯方郡から末ら国まで1000里
松ら国から残り200里
>>849
現時点では熊本県が狗奴国勢力圏だったんじゃないかと思ってるので、
八女市やみやま市から熊本に抜ける道がある山のふもとに環濠集落ある可能性が
高いんじゃないかと僕も思ってるかな。
>>877
邪馬台国7万戸が本当なら、大雑把だが、現筑紫平野の半分くらいの面積を
田畑として利用する必要があるはずだと思うから、
魏の役人にそう見せかけたんじゃなく、それが真実なら、
筑紫平野ほぼ全域が邪馬台国ということになると思うので、
その場合は朝倉の辺りとか別の場所に卑弥呼の古墳がある可能性が高いかな。
見せかけたにせよ、真実だったにせよ、
魏の役人を邪馬台国に連れて来る場合は回り道をして、
奴国の南に接してることがばれないようにする必要が出るんだろうけど。 狗奴国は熊本南部
県境がないので熊本南部から南しか言えない
熊襲を中心に熊本県北部まで勢力範囲を延ばしてても特に不思議は無いと思うけどな。
だからこそ、九州北部勢力はビビってたんだろうし。
邪馬台国の南に投馬国以外で邪馬台国の味方をする国があるのなら、
魏志で紹介されててもいいような気もするし。
>>888
邪馬台国は関係ない
宮崎も福岡も関係ない
東征も東遷もなくあったのは神武漂泊
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>911
魏の時代に東夷では短里(1里≒80m)が使われていたのは厳然たる事実
問題はこの短里は誰が制定したかだな
現実に使われている短里を否定するのは非科学的だな。 末盧国から 東南 五百里 伊都國
伊都国から 東南 百里 奴国
奴国から 東 百里 不彌國
それぞれの遺跡とされる場所だと方角と距離がおかしいことが
九州の人ならわかるとおもうけど
九州の人は方角がおかしくないという立場を取る矛盾
新書版
税込み2376円
高い、ボッタクリ価格
何処の出版社も相手にしない謬論なんで自費出版だろ
wwwwwwwwwwww
>>888
天孫降臨で山に降臨なんてのはおとぎ話
実際はカヌーに乗って漂着
だから「高千穂」なんてのも作り話 「古田史学」はさすがに笑う
九州説派の特徴として専門家と趣味でやってる研究家の区別が付かないんだよね
上のほうで台湾のお医者さんを専門家と言い張ってる奴とか
しかし日常的に中国語を使う人と中国語を使えない日本人学者だと
中国人の読み方の方が正しいんじゃないか?
畿内の人が九州に行くまでも大変だぞ。昔は四国だって島流しだったんだからな
>>926
光源氏の時代ですら、須磨のあたりでも島流しくらい遠い事になってるしね >>925
>中国人の読み方の方が正しいんじゃないか?
日本人が日本の文献(古文書)を読んでも、古典文法や古語の用法、さらには
その文書が書かれた背景や登場人物についての基本的な理解が欠けていたら、
まともな解釈にはならないだろ?
素人でも中国人の方が正確に読めるなんていうのは、夢物語だよ >>929
本を出すくらいだからそれなりに知識を持ってるつもりなんじゃないの?
俺は読んでないからよくわからないけど
歴史学者じゃないという理由だけで否定するのはいかがなものかな? 会稽、東冶の東に在るとか
冬でも生野菜を食べるとか魏志倭人伝には
他の国と間違ってるんじゃないかと思われるおかしい部分がある
一部正確ではないことが書かれているという前提で読むべき
>>931
普通は、まずはその記述すべてが当てはまる場所を探すだろ >>921,931
九州説を批判する同じ理屈で否定される近畿説
なのになぜか邪馬台国だけは主張する矛盾
近畿説をとるなら邪馬台国は無かったでいいんじゃね? >>930
一般向けの本を出すなんてハードル低いよ
どんな分野でも基本的な知識すら欠如したいわゆるトンデモ本がいくらでもあるだろ
本を出したという理由だけで信用するのはいかがなものかな? 東京が現代人で京都が古代人なら九州は原始人の土人って事かw
>>934
トンデモかそうでないかは読まないと分からないんじゃないかな? >>936
素人が読んでも判断できないよ
中国の古典文献の文法やら何やらの知識あるの?
書いてあることが正しいかどうか分かるの? >>937
だろ?
分からないだろ?
なんでトンデモだと決めつけてるの?
中国の学者が間違ってると言ってるの?
それともただの素人が間違ってると言い張ってるの? どちらも決定的とは言えないのをいいことに
候補となる遺跡がでてない九州は
魏志倭人伝に頼りすぎてる傾向があるなあと思ってるだけ
>>938
どの分野でもそうなんだけどアレな人の特徴は
多数に認められてる学者とか専門家の意見は信用しないのに
自分に都合のいい胡散臭い人の胡散臭い意見はすぐに信用しちゃう事なんだよ
その人の意見が専門家からどう扱われてるかを見て判断しよう
さらにアレな人は「○○説を無視するのは陰謀だ!」とか言い出すけどこれはもう手遅れ >>932
>普通は、まずはその記述すべてが当てはまる場所を探すだろ
そんな場所はない
以上
で、終わりにしてもいいのだけれど、帯方東南大海中の島国と言われれば、
それは日本列島しかないわけだから、日本列島の中で探すしかない
その際には、>>931のいうように「史料の限界」があることを前提に
読む必要があるのに、九州説の人は「誰も使う人がいない短里」を捏造したり
「国らしい集落遺跡のない呼子」に末盧国を強引に持ってきてまで、
魏志倭人伝の方角も距離も正しいとか、魏志倭人伝原理主義を持ち出すから
議論にもならない 魏志倭人伝に頼るてwww
邪馬台国の記述は魏志倭人伝が全て。
関門海峡を超えたら倭種の地。
書いてある事をキチンと守ろうや。
>>943
要は、方角が微妙に合わないというだけでしょ?
会稽、東冶の東と言っても、アスペじゃないんだから同じ緯度にある必要はないんじゃないの?
北東から南東の間にあれば東だろう
呼子がおかしいと言うが、秀吉が朝鮮出兵するときになぜそこに名護屋城を築いたのか?
朝鮮との往復に都合がいいからだろう
強引ではないという事
現代日本において
日本からアメリカへ行くとしても、
グアムへ行くのかアラスカへ行くのかで方向は全然違う
魏志倭人伝の記述は、それぞれの国の中心部への方向とは限らないという事だろう
これも強引ではない >>921
末盧国(呼子湾、名護屋浦付近)から 東南 五百里(約40km) 伊都國(糸島市中央付近、前原IC〜雷山神籠石)
伊都国(糸島市中央)から 東南 百里(8km) 奴国(日向峠付近、糸島市と福岡市西区の境)
奴国(日向峠付近)から 東 百里(8km) 不彌國(セブンミリオンCC付近、福岡市西区と那珂川町の境)
距離も方角もだいたい正しい。 >>943
呼子付近は単なる通過点ですから国らしい集落遺跡なんて特に必要ないですよ
里数は国の端から端までの距離を記してありますから
国の境に集落遺跡なんて在る訳ない。 >>946 >>947 当時は今みたいな国境はないよ
中国でも同様で城塞が国の場所として指定される
だから人が住んでいた遺跡の場所が国の場所の候補になる
末盧國 四千戸
伊都国 千戸
奴国 二万戸
不弥国 千戸 邪馬台国が畿内だとして、九州南部の熊襲との抗争でわざわざ大陸の援助を必要とするか?
倭国連合の結束も覚束ない、狗奴国の侵攻に悩まされて盛んに大陸詣でを繰り返す邪馬台国が畿内の強大な政治勢力とは到底思えない。
ヤマト王権と邪馬台国を結びつけようとするから無理がある。
東南陸行 五百里 到伊都國
(末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。
唐津から糸島が南東ておかしいよね 北東になる
>>946がいうように半島の北の先の名護屋だとしても東が正しい
南東ではない あと、常識的に考えて
太陽が昇る方向、夜は北極星
それらで確認してたら、
東と南を間違えるほどの大きな誤差にはならないと思うんだよ
九州からじゃ、太陽を背にしないと畿内へは行けないんじゃないか?
それなのに南へ向かったと書くかね?
それはあまりにも古代人を馬鹿にしすぎだと思うわ
なので畿内説は信用できない
>>948
国が在ったんだから当然国同士の境も自然と存在した
倭人伝では国の端に着けば至るなんだよ
遺跡の場所は国の中心地だから倭人伝の場合は考えなくてよい
各国の戸数も中心の場所に全てが纏まって存在したのではなく国全体の戸数だからね。
>>950
魏使は昼間移動したから移動する太陽の方角で自分達の進んでる方向を判断した
だからだいたいの方向は分かっても正確には分からなかった
夜間なら北極星でそこそこ正確に分かったはずだ
呼子や名護屋浦から唐津市街地方面に向かいだいたい南方向
唐津市街地から糸島市方面に向かいだいたい東としか分からない
なので東南と報告した。 >>943
東夷伝では明らかに通常の里とは異なる短里が使われている
短里を否定するには何故こんな里が使われているのか説明しないと。 松浦から糸島までを500里って書いてるのがなぁ
これは畿内説で方向が違うとしても成り立たない
逆に畿内説の人は、松浦から糸島までの500里をどのように考えてるんだろ?
方角が違うのだから距離も違うとでも考えてるのかな?
一大国から末廬国まで近すぎる
末廬国は博多か宗像辺りだろう
『日本書紀』では神功皇后記に『魏志倭人伝』が引用されてるから、
『日本書紀』の作者は、邪馬台国は奈良であると思ってたことがわかる。
あと、
対馬が400里四方
壱岐が300里四方
それぞれ160q四方120q四方
そうかな?
対馬は南北がせいぜい50q
壱岐なんて10q四方でも良いくらいだ
『魏志倭人伝』には「倭国は東治の東」にあると特記してあるんだから
『魏志倭人伝』を信じるなら倭国は沖縄県あたりになる。
>>956
陸上なら歩測でだいたいの距離は測れるが
海上では実測が出来ないので誤差が大きくなる
実測出来なかったので3海峡共全て1000里と書いたんだ。 >>958
壱岐対馬の方可を面積とすると現実と全く合わない
壱岐対馬の方可は外寸を示しており国の端から端までのこと
末廬国、伊都国等と同じ書き方。 魏志倭人伝に方角の間違いがあることは証明できたね
てか小学生でもわかるか
>>961
ごめん
意味が分からない
400里四方というのは縦横共に400里
現代で1m四方と言えば縦横共に1mの四角形というのと同じ意味で考えてたんだが? 『魏志倭人伝』には「倭国は会稽東治(呉)のちょうど東にある」と書いてあるわけど
『魏志倭人伝』も陳寿は、倭国が沖縄県付近にあたると認識していたので
倭人伝を信じるなら九州説も畿内説もダメ。
中国の歴史書の中に「倭人は呉の王の子孫」という記述があるので
『魏志倭人伝』も陳寿は、わざわざ倭国と会稽東治(呉)の文化が似てるのは
倭国が会稽東治(呉)のちょうど東にあるからだど強調してるわけ。
>>964
沖縄本島じゃなくて屋久島な
アスペみたいに真東以外は認めないような考えじゃなく
常識的に、北東から南東までをだいたい東と考えたら、
九州南部は範囲に含まれる
そして、当時から現代と同じような正確な地図など存在しないのだから
少々の誤差は問題ない >>963
壱岐や対馬の面積なんて魏使が知ってるはずがないだろw
壱岐対馬の横を通過した距離の外寸を記しただけだよ
半周に800里と600里掛かったんだよ
方○○里とは一辺が○○里の意味でそこから転じて○○里四方の土地の意味も生まれた
魏志倭人伝の場合は面積ではなく外寸の方の意味だよ。 >>967
だからさぁ
君は日本語が通じないのかな?
俺が言ってる400里四方とは、面積の話じゃないよ
縦方向の長さが400里、横方向の長さも400里
じゃないのかな?と書いてたんだよ
君が言ってる外寸と同じ意味で書いてるはずだぞ
それを、面積じゃないとかレスしてくるから
混乱するんだよ 又渡一海 千餘里 至末盧國
有四千餘戸 濱山海居
また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。
一大國(壱岐島)から末盧国は千余里と書かれてるが
短里70〜78kmだと東松浦半島の北側は短い
ちなみに唐津でも短い
魏志倭人伝に書かれてる距離は適当
>>967
でも君のレスでヒントがあった
方可400里
方400里ではないという事か
有七万戸なら、七万戸あるという意味で
可七万戸なら、推定七万戸
方400里なら400里四方あるという意味で、
方可400里なら推定400里四方という事かもしれないね >>969
うん
白髪三千丈の中国だから
数字を大げさに盛るのはいつもの事だと思うんだよ
奴国が2万戸とか
松浦で1000戸とか
おそらくそこら辺の数字も実際より多いと思う
でも、東夷伝の他の国の記述でもそんな感じで数字を盛ってるのだろうか? >>968
魏使は対馬の横を通って外寸が400里+400里だと認識したんだよ
この800里は島の端から端までの距離で魏使が通った距離なんだ。
>>969
海上は実測不可能だから仕方なく感覚で1000里と書いただけだよ。
>>970
末盧国の有四千餘戸とか通過してますからそこそこ正しいでしょうね
しかも可ではなく有ですから確認した数字でしょうね。 >>814
版図の意味を我流で図版と間違えて覚えているバカwww
wwwwwwwwwwww >>968
横方向の長さが400里の土地でも面積は160000里方とは限らないよ
正方形の土地とか滅多にないからね。 >>972
でも対馬は南北50q程度だよ
800里とかありえない気がする
>>974
だから面積じゃないと言ってるんだけど
>面積の話じゃないよ
この文章が読めないの? >>966
倭人伝の意味は、倭国は呉の真東にあるから
倭国と呉の文化が似てるっていう意味だからなぁ。
それを東北から南東まで東だと考えるほうがアスペ >>976
文化が似てるためには真東じゃないといけない?
そんなわけないじゃん >>972
対馬は直線距離でも南北80km位ある。
方可400里は一辺でも、外周でもかなり無理がある。 >>933
邪馬台国が近畿じゃなかったら後に九州人が近畿にきて攻め滅ぼした後に大和朝廷を作った事に議論が進んでしまうからね >>977
陳寿の認識によると、倭国の位置は会稽東冶の東ってこと
意味は真東
もっと北の位置にあると考えてたら、北にある別の地名を挙げて、そこの東にあると記述する
北東ならいいとかは、邪馬台国を九州に持っていきたいための詭弁 >>978
一里が400mとして160km
短里が存在したと仮定して
一里が80mとしたら32km
どっちにしてもおかしい >>980
当時は今ほど正確な地図がなかった
これで終わる話だね
会稽東冶から真東に船で行ったわけでもないだろ
仮にそれを行ったとしても、海流で北に流されるので到着したら会稽東冶より北東だ >>980
道程を計ると、と書いてあるじゃまいか。 >>982
何を言ってるんだ?
「陳寿の認識によると」という意味だ
つまり真東 >>984
地図が不正確なのでそう認識してた
という話じゃないか 里数を盛った上で、道程を計るに会稽東治〜だから意図的に南に張り出したように見せてるわけよ。
真東って書いてるのは別の文献じゃないかwww
道程を計算したら東になるという事なのだから
計算方法がちょっと違ってたら宮崎の予定が屋久島になったと
そのくらいは誤差だろう
会稽東冶に立って真東を向いて目視できる距離じゃないのだし
>>988
詭弁はやめなさい
机上の計算で会稽東冶の東だと思ってたということなんだよ
もっと北の位置にあると考えてたら、別の地名の東と書いているはず 帯方郡から南にまっすぐ万二千里行った場所をどの辺か表現したら
会稽東冶の東方面だっただけだろね
>>971
それらの戸数は盛ってるかもしれないが、十分可能性のある数字だとも思うけどな。
僕は伊都国放射説を現時点では支持してるから、
奴国と不弥国が福岡平野にあると思ってるので、
現福岡平野の半分を田畑として使えてたとしたら、
1戸に6人住んでたとして約20000戸を養うことが可能だろう。
漁業等他にも産業があれば筑紫平野の農作物と交換することも可能で、
奴国2万戸+不弥国千戸は可能であると考えてる。
東松浦半島と唐津平野周辺を足したおおよそ面積を求めることができたので、
仮にその10%が田畑として使用可能なら約4000戸養える。
当然末廬国は漁業が盛んだろうから、もしかしたらそれだけでも養えるのかもしれない。 隋書?国伝
都於邪靡堆
則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與?耳相近
邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。
古には、楽浪郡境及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、
會稽(郡)の東にあり、?耳に近いと言われていた。
隋にディスられる魏
一万二千里とか會稽の東とか間違ったこと書いてるプギャー
てことだろ
>>989
当時はそう思われてただけなんだろ?
でも実際は北東だったと
ただそれだけだ 今でも東京の西にソウルがあるって言ったら、それは違うって言う人はそんなにいないと思うんだけど。
隋書倭国伝
倭国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
依山島而居
魏時譯通中國三十餘國
皆自稱王
夷人不知里數但計以日
其國境東西五月行南北三月行各至於海
地勢東高西下
都於邪靡堆
則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與タン耳相近
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。
山の多い島に居住している。
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、
みな自ら王を称していた。
夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。
その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。
地勢は東が高く西が低い。
邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。
すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。
古には、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、
會稽の東にあり、海南島に近いと言われていた。
考古学的に見てほぼ畿内で決まりだろう
九州説は最早宗教に近い
mmp
lud20190706170444ca
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