卑弥呼の墓説がある箸墓古墳について議論するパネリスト(東京都千代田区で) ◇纒向フォーラム 東京・よみうりホールで14日に開かれた邪馬台国の有力候補地、桜井市の纒向(まきむく)遺跡を巡る7回目のフォーラムでは、卑弥呼の墓との説がある同市の箸墓古墳がテーマとなった。調査成果や全国の事例、中国の文献も参考に専門家4人が議論し、考古学ファンら約850人が熱心に耳を傾けた。(辰巳隆博、大森篤志) 市纒向学研究センターの福辻淳・主任研究員は、箸墓古墳の調査について説明。レーザーを使った詳細な測量で、地表の高低差や形状を立体化できたことなどを紹介した。 俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。 また、松木武彦・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は前方後円墳の成立過程について解説した。2世紀中頃から、全国で墳丘に突出した部分が設けられ、被葬者も集団から個人になり、形も統一されるとし、箸墓古墳について、「倭国(わこく)初の国家的モニュメント。親魏倭王の墓にふさわしい」と述べた。 渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵(じゅりょう)(生前に造る墓)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。 その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。 テーマとなった中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述、「卑弥呼、以(すで)に死し、大いに冢(ちょう)を作る」なら死んだ後に墓を造ったという意味になり、渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。 大学で古代史を専攻したというさいたま市南区の会社員長谷川菜摘さん(29)は「纒向遺跡や箸墓古墳に吉備(現・岡山県)などの影響があったのが興味深かった。遺跡を探訪したくなった」と笑顔。東京都江東区の会社員大迫文次郎さん(53)は「邪馬台国の所在地に関心が集まりがちだが、中国の思想や墓制との関わりを知ることができて勉強になった」と満足そうだった。 読売新聞 2018年10月15日 https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20181014-OYTNT50054.html 読売新聞 2018年10月15日 https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20181015-OYO1T50005.html ★1:2018/10/15(月) 18:49:51.46 http://2chb.net/r/newsplus/1539642549/ 関東人が大和文化に興味があるとは驚きだな とうほぐの縄文がお似合いだぞ
まだやるのかよw そもそも決定的な証拠がないから結論なんて出ないのに
もういっその事奈良をこのスレで駆逐しましょう せっかくこの時間帯に立ったのです
邪馬台国云々はともかく、最近の学説は初期ヤマト王権には吉備の影響が大きいという感じなのかな 記紀の神武が吉備に長期滞在した後大和に入ったのと話的に重なるな
>>8 関東人は西日本とは関わりの無い民族だろ とうほぐに帰れや ・少なくとも弥生時代後期前半ぐらいまでは畿内より九州のほうが先進的で栄えていた(山陰も栄えていたが) ・5世紀、遅くとも6世紀までには畿内が先進地域となっており、権力の中枢は畿内にあった この二点から 2世紀頃〜5世紀頃までのいずれかの期間中に九州→畿内の権力の遷移があったと推測することはできる それが卑弥呼の時代(3世紀前半)以前に起こったのか、以後に起こったのか 以前に起こったことを証明できれば畿内説の勝ち 以後に起こったことを証明できれば九州説の勝ち
何度も掻きますが奈良県の畿内説は 京大の内藤が魏国が南と東の方角を間違えたという 滑稽な妄想によるものです
>>1 宮崎県じゃね? 日向→ひむか→卑弥呼 何か似てるし(笑) まあ、ホントに邪馬台国があったとしたら そいつが、突然、跡形もなく滅んだのか? そっちから考えたほうがいい。 日本で跡形もなく滅ぶものと考えると、噴火か津波だろ。 そうすると、畿内説、特に奈良は苦しい。
宮崎の美々津は大分に近いな 船でいったりきたりだったのだろう
うどん発祥の地と同じだろ 空海が讃岐に持ち込んだのに 九州がなぜか絡んでくる 日本三大都市は東京大阪福岡と本気で思ってるのと同じだよ
>>15 中国の史書に邪馬台国が滅んだという記述はないぞ >>18 じゃあ、いまでも邪馬台国があるんじゃね? いつまでたっても邪馬台国、卑弥呼ってアホやろ 中国の都合本に一生振り回されてろよ 古代日本の成り立ちを筋よくプロファイリングしてみろっての
>>17 空海が讃岐にうどん?w 聞いたことないわ 博多は記録があるっての 江戸時代は見世物小屋の時代 魚と猿を引っ付けて珍獣発見と瓦版に書かせて見世物小屋でカネをとる 金印が見つかったのは江戸時代 金塊の年代測定法があればあれが何かわかるはず
福岡の金印も怪しさ満点だし、実際どこなのかなかなかはっきりしないな まあ関東は100パーないと思うが
あまり知られていないが西郷どんは菊池 気靴は後醍醐天皇の血筋
>>10 だから、どこが権力の中枢かなんて関係ないんだって 魏志倭人伝がどういう視点で、どこをどう見て書かれたか なんだから 当時の状況は、そりゃいろいろあるでしょ でも当時の日本の状況と魏志倭人伝は、基本的に無関係。 今で言うなら、アメリカ西海岸に旅行に行ってブログ書いた そこに東海岸の話は書かれてないよ って感じ。 書かれてないだけで、ボストンもニューヨークもワシントンも、そりゃあるでしょ 無かったことになんてならない。 でもブログの旅行記には書かれてないよって 畿内説は、ロスが東海岸にあったって強弁してるイメージ
権力の中枢は中央集権国家を前提にした文言。 バカなやつ多いなここ。
>>30 いい加減に邪馬台国は九州だったって認めればいいのにな 近畿は新しい王朝だったって認めりゃいいじゃん 千年以上前のことなんだしさ イギリスなんて数百年前の王朝の血筋が繋がってないとかで話題になってるのに 邪馬台国なんて滅んだ国じゃん 繋がってなくてもやっぱりねでおわるだけなのにさ 倭国大乱って 吉備対出雲(侵略者)だったと 最近思えてきた。 吉備邪馬台国は中国地方と 九州北部 四国北部と 多分朝鮮半島南部までを 支配していた。 侵略者出雲は 日本海側と東北を治め 土着対侵略者の戦いは 三千年に及ぶ。 侵略者は いくらでも補強できるけど 土着民は 私一人になってしまった・・・。 え〜〜ん え〜〜〜ん
>>18 中国の歴史書に、倭国と日本は違う。日本人は尊大で信用できないと書かれてるけどな。 アテルイが最後まで抵抗したが 蝦夷の文化はすごかった
西暦135〜230年の桃の種が奈良から出土してるんだぞ もうあきらめろって
◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を 九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。 その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと論理を進める安本美典・産業能率大元教授(84)。 「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。 −邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは? 古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。 「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。 これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。 「全体をうまく説明できるのか」が大事です。 −具体的には? 考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。 「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。 弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。 「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。 全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。 最近はビッグデータ処理の技術が、進歩してきています。 私は便利な確率計算法であるベイズ統計学によって確率計算をしました。その結果、邪馬台国が福岡県にあった確率は、99・9%以上となり、 奈良県である確率は、ほとんど完全にゼロです。畿内説の方に議論の出発点として検討していただきたいものです。 −纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかと言う人もいますが。 纏向の大きな建物の近くからモモの種が出土して放射性炭素(C14)年代測定で分析すると、卑弥呼の時代を含む西暦一三五〜二三〇年代という結果が出たと報道されたことがあります。 しかし、この方法による場合、箸墓古墳から出土したモモの種で測定すると、四世紀を中心とする年代が出てきます。箸墓古墳では年代の古く出がちな土器付着物で測ると、三世紀という年代が出てくるのです。 C14年代測定法というと科学的な印象を与えますが、何を測定するかで年代がかなり変わってくるし、年代推定の誤差の幅も広いのです。 畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。 またモモの種や大型建物のことは倭人伝に記載がありません。古事記・日本書紀(記紀)の記述と倭人伝の記述の擦り合わせも必要です。 −卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はどうみるべきでしょう? これは古墳時代になってからしか出土していませんし、わが国からは五百面以上出ているのに中国からは一面も出ていません。 日本国内でつくられたとみるのが妥当です。三世紀後半から四世紀はじめごろの、いわゆる「西晋鏡」でさえ、おもに福岡県を中心に分布しています。 「庄内様式」といわれる弥生時代の土器の時期が卑弥呼の時代と重なるといわれていて、この時期の鏡は奈良県からの出土は三面のみなのに対し、福岡県からは三十面も出ています。 もうひとつ、倭人伝に「棺(ひつぎ)あって槨(かく)なし」と墓制が記されています。 おもに三世紀ごろ福岡県を中心に分布する箱式石棺は、これにあてはまります。奈良県のホケノ山古墳からは、木槨が出土していて、倭人伝の記述に合いません。 −里程の問題からは? 帯方郡(現在のソウル周辺)から一万二千余里のところに邪馬台国があると倭人伝に記されています。一里が現在の尺度で何メートルになるかは議論がありますが、 同じ三国志韓伝には現在の韓国あたりを四千里四方としており、これから一里の距離が割り出せます。 記述では帯方郡から一万里で九州に着きます。残りは二千里ですから、これまでの行程からすぐ想像はつきますよね。 とても畿内まで行ける距離ではありません。九州しか有り得ません。 全文 http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018072002000264.html 卑弥呼と同時期の天皇が、10代目の崇神天皇。 邪馬台国と覇権を争っていた 狗奴(くな)国の男王が崇神天皇。 魏志倭人伝に邪馬台国との対立が描写される 「狗奴国」(熊本説などが有力) 初代「神武天皇」と第10代「崇神天皇」は、共に「ハツクニシラス天皇」。 第2代〜第9代までの天皇に関する記述は極端に少なく、「欠史8代」と呼ばれている。 古代史の定説では、初代〜第9代までの天皇はみな、架空だとされている。 つまり 実際には、初代(神武天皇 = 崇神天皇)という説が有力 神武東征 古事記では 日本統治のために本拠を東(大和)へ移そうという提案をし 宇佐(大分)、岡田宮(福岡)、安芸(7年)、 吉備などを経て高嶋宮(岡山)に入り、 8年もの準備期間の後に大和(奈良県)に入る。 しかし 大阪から大和に入ろうとするが阻まれ、 熊野に廻って大和入りを目指すが、 ここでも苦戦がつづき、兄弟を失い自らも重症を負う。 ようやく高天原からの支援(神剣を贈られる)により 大和入りを果たし、橿原宮で即位する。(古墳:橿原神宮) つまり 大和には「狗奴国」を退ける巨大な勢力があった事になる 卑弥呼が亡くなったのは 魏志倭人伝によると248年 その死の直前に、 狗奴国王との争いがあったことが魏史に記されている
>>34 むしろ学界では「いい加減邪馬台国(ヤマト国)は畿内にあったって認めればいいのに」ってなってるけども >>12 古田信者ですね、わかります。 古田のオッサンは「台」の用法を詳しく調べたけど 発音に関しては無頓着だった。 >>15 滅んだんだよ。 痕跡は吉野ヶ里遺跡があるだろ? なぜ滅んだ記録がないか?というと、4世紀の日本の歴史を記録した文献がないから。 5世紀については宋書倭国伝に、倭の五王の記載が出てくるが、ここには邪馬台国の形跡は既にない。 2世紀後半に倭国大乱があり、3世紀中頃卑弥呼が亡くなるまで倭国は邪馬台国を中心とした連合国があった。 ただし邪馬台国のあった時期の倭国とは日本全土を指すものではなく、九州を指すと見た方が無難 邪馬台国は30に満たない小国の集合体に過ぎず、邪馬台国の南の境界の先には狗奴国があった。 北九州より北の地域(本州)については、遠く離れており詳しいことはわからないと書かれている。 記紀によれば神武東征は南九州の日向国から始まっている。 以上から3世紀後半から4世紀にかけて、倭国(九州)は南北で戦があり邪馬台国を中心とした北部連合は 南九州勢に敗戦し滅んだと見る方が無難である。 北部連合が勝っていたのであれば、もっと記録に継続性が残っているはず。 >>34 むしろお前が冷静装いながら なんでそこまで必死になるのか不思議なんだが 邪馬台国の所在地について各教科書の記述 山川出版社『詳説日本史B』2016年 「奈良県の纒向遺跡では、2009(平成21)年に3世紀前半頃の整然と配置された大型建物跡が発見され、 邪馬台国との関係で注目されている」 東京書籍『新選日本史B』2018年 「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘結果や、漢の鏡の出土分布などから、 大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」 清水書院『高等学校日本史B』2017年 「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で 魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
>>25 >>29 >>32 >気靴 菊池は平安の昔「くくち」と発音していた。 キとクの発音=音色がよく似ているのは福島辺りの東北弁 つまり菊池は縄文人の血が濃いという証拠 >>45 倭国大乱期 100有余の国があり 邪馬台国(大和大国)は、 30国ほどの連合国の中心国 ← ココ重要 邪馬台国(大和大国) と 大和政権 は、基本 別物だが この時代の背景と伝聞と記録から 神武東征、のち、 国譲り 後 大和政権 発足までの一連を考察すると 色々 合点がいく流れが出てくるから おもしろい! >>52 もともと100あったのが30に減ったなら九州だけで完結だな 畿内はのこり70の方 >>1 卑弥呼=日巫女 であるなら、 当時の「日」には、もちろん「日本」の意味はなく、「太陽」を表すものでしかなかった。 そして「太陽神」を最高神とする「神道」の神社において、そこに仕える未婚の女性を「巫女」と言った。 したがって、「日巫女」は、おそらく「日」の文字を冠する神社の巫女であった可能性が高い。 日本のすべての神社を確認すると、九州には「日」の文字をアタマにする神社は見当たらない。 で、近畿には琵琶湖のほとりに有名な「日吉神社」がある。 この神社は「古事記」に出て来るほど日本の神社の中でも歴史が長い。 琵琶湖周辺には古代日本の遺跡が膨大に眠っており(総数80と言われる) 一番古いものでは「粟津湖底遺跡」があり、1万年前のものと言われる。 おそらく、九州とは別に、琵琶湖周辺には古くから古代文化が栄えており、 その神社(日吉神社)の巫女を、「日巫女」と称した可能性が高いのである。 >>40 これまでで最も冷静で論理的な見方だな 総合的に見ればやはり結論するしかないようだ 纏向遺跡からは大量の桃の種、魚の骨、イノシシや犬の骨。などグルメがたくさん 出土したが、吉野ヶ里遺跡は食い物にはならん鉄の武器や鉄の農具、絹織物のはぎれ しか出土していない。明らかに纏向遺跡の方が支配者がいた地域だと判る 吉野ヶ里は単なるクソ田舎の底辺労働者が住んでいた遺跡だろう。
畿内説の人には残念だろうけど、纏向遺跡を40年も掘り続けた発掘の当事者が否定しているんだ 悔しいだろうが仕方ないんだ > 749 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 03:00:46.90 ID:/i7a20jM0 > >>1 > マキムク遺跡は発掘調査した当事者が否定してるんだがw > そんな終わった遺跡を無理矢理ゴッドハンドする畿内説w > さすがゴッドハンダー畿内と揶揄されるだけのことはあるw > > > 考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 奈良県・纒向遺跡出土の大型建物について > http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku335.htm > > 1.考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 (関川尚功先生) > > ・出土品と大陸系遺物の存在 > > これまで副葬品を伴う例は古墳時代初頭の壷棺のみです。ただし中期には壷や高坏を供献した例がある。 > > 大陸系の遺物はまったく出ていない。九州の弥生遺跡と比べると副葬品が少ない。 > > > (2)纒向遺跡の実態 > > ・大陸系遺物の出土量とその比較【対外交流のあとはみられるか】 > > 断面が三角形の特徴的な木鏃で、儀礼用と推定される。3・4世紀の日本ではめずらしい。朝鮮半島南部の > > 大成洞古墳群に副葬されているような骨鏃がモデルと思われる。纒向からは10本以上がみつかつている。 > > 木鏃や土器から、朝鮮南部とのつながりがあったことが分かるが、楽浪郡あたりとの関係がないようだ。 > > 大陸系の土器が出てこない。 > > 纒向は大陸との交易が終わった邪馬台国時代以後の遺跡ではないか。 > > 九州では博多湾での交易が古墳時代の前期まで続いている。 > > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%8A%9F > > 関川 尚功(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、 > > 石野博信とともに報告書『纒向』を著した。 畿内説の人には残念だろうけど、纏向の大型建物は中国の礼制に対応していないんだ 悔しいだろうが仕方ないんだ > 833 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 04:05:36.39 ID:/i7a20jM0 > >>1 > > 俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、 > >「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。 > > 纏向の大型建物は中国の礼制に対応していないんだが > 中国の都城は軸線が南北方向なんだよ > 「天子は南面する」という思想があるからな > そんな事も知らずに歴史研究者ヅラとか笑わせるなw > やっぱり所詮俳優の片手間か > > https://ironna.jp/article/10766?p=5 > >倭人伝の記述と結びつく発掘成果は、有明海北岸の佐賀平野東部地域を除いて、ほとんど見当たらない。 > >近畿説のよりどころとされる三角縁神獣鏡についても、魏から贈られた鏡かどうかの議論もあり、これを含めても > >中国系の文物が出土するのは古墳時代の古墳からであり、弥生時代終末期(邪馬台国時代)の遺跡からもほとんど出土しない。 > >ましてや、遺跡や遺構、建物配置や構造にも中国文化の流入を確認することができないのが現状である。 > >近畿説の有力集落とされる奈良県纒向(まきむく)遺跡の、大型建物を含む建物群を貫く軸線は東西方向であり、 > >前漢と後漢を境に君子と臣下の配置関係が「座西朝東」から「座北朝南」へ変化する中国礼制に対応していない。 > >吉野ケ里遺跡では、墳丘墓と北内郭の祭殿が南北方向に配置され、最重要空間である北内郭と大人層の空間である南内郭についても、 > >南北の位置関係である。 >>57 その発掘の当事者がマヌケだけのことじゃないか? 畿内説の人には残念だろうけど、出土品の分布から統計的に判断して奈良県の可能性はゼロ%なんだ 悔しいだろうが仕方ないんだ > 798 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 03:40:16.77 ID:/i7a20jM0 > ちなみに、魏志倭人伝に記載された倭国の鉄製品は鉄の鏃だが、 > それらの出土状況をビッグデータ解析した結果、 邪馬台国は99.9%以上の確率で福岡だって結論が出ちゃってるんだよね > > https://ironna.jp/article/4548?p=7 > > ◆邪馬台国が、福岡県にあった確率 > > > > 広島大学名誉教授であった川越哲志氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。 > > 弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、膨大なデータが整理されている。 > > > > 『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、 > > 福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない。 > > 「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入らないのだろうか。 > > > > 例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、 > > 遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している。 > > > > > > 図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。 > > 県ごとの確率は、表1のようになる。 > > > > > > これについて詳しくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)を、ご参照いただきたい。 > > この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。 > > > > 「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」 ◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を 九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。 その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと論理を進める安本美典・産業能率大元教授(84)。 「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。 −邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは? 古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。 「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。 これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。 「全体をうまく説明できるのか」が大事です。 −具体的には? 考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。 「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。 弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。 「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。 全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。 最近はビッグデータ処理の技術が、進歩してきています。 私は便利な確率計算法であるベイズ統計学によって確率計算をしました。その結果、邪馬台国が福岡県にあった確率は、99・9%以上となり、 奈良県である確率は、ほとんど完全にゼロです。畿内説の方に議論の出発点として検討していただきたいものです。 −纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかと言う人もいますが。 纏向の大きな建物の近くからモモの種が出土して放射性炭素(C14)年代測定で分析すると、卑弥呼の時代を含む西暦一三五〜二三〇年代という結果が出たと報道されたことがあります。 しかし、この方法による場合、箸墓古墳から出土したモモの種で測定すると、四世紀を中心とする年代が出てきます。箸墓古墳では年代の古く出がちな土器付着物で測ると、三世紀という年代が出てくるのです。 C14年代測定法というと科学的な印象を与えますが、何を測定するかで年代がかなり変わってくるし、年代推定の誤差の幅も広いのです。 畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。 またモモの種や大型建物のことは倭人伝に記載がありません。古事記・日本書紀(記紀)の記述と倭人伝の記述の擦り合わせも必要です。 −卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はどうみるべきでしょう? これは古墳時代になってからしか出土していませんし、わが国からは五百面以上出ているのに中国からは一面も出ていません。 日本国内でつくられたとみるのが妥当です。三世紀後半から四世紀はじめごろの、いわゆる「西晋鏡」でさえ、おもに福岡県を中心に分布しています。 「庄内様式」といわれる弥生時代の土器の時期が卑弥呼の時代と重なるといわれていて、この時期の鏡は奈良県からの出土は三面のみなのに対し、福岡県からは三十面も出ています。 もうひとつ、倭人伝に「棺(ひつぎ)あって槨(かく)なし」と墓制が記されています。 おもに三世紀ごろ福岡県を中心に分布する箱式石棺は、これにあてはまります。奈良県のホケノ山古墳からは、木槨が出土していて、倭人伝の記述に合いません。 −里程の問題からは? 帯方郡(現在のソウル周辺)から一万二千余里のところに邪馬台国があると倭人伝に記されています。一里が現在の尺度で何メートルになるかは議論がありますが、 同じ三国志韓伝には現在の韓国あたりを四千里四方としており、これから一里の距離が割り出せます。 記述では帯方郡から一万里で九州に着きます。残りは二千里ですから、これまでの行程からすぐ想像はつきますよね。 とても畿内まで行ける距離ではありません。九州しか有り得ません。 ソース http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018072002000264.html >>55 しかし、オマエの頭が冷静で論理的でないからなw >>52 魏志倭人伝は 支那の悪意ある 当て字 だからな 邪馬台国 = 大和大国 卑弥呼 = 日巫女 アマテラスの別名は(オオヒルメノムチ) 「日の女神」という意味がある。 卑弥呼(日巫女)も太陽に使える巫女。 卑弥呼が亡くなったのは 魏志倭人伝によると248年 西暦248年9月5日に福岡や奈良周辺で、 早朝(午前5時~6時にかけ)大きな日食があったと記されている。 (=天岩戸伝説) 魏志倭人伝によると その死の直前に、 狗奴国王との争いがあったことが魏史に記されている 大和・桜井・纒向遺跡・箸墓古墳が築造されたのが259年 >>54 古田説のように「呼」を上古音で「カ」と読めば 卑弥呼=日巫女は成り立たない。 >>56 吉野ヶ里のような環濠集落は奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から見つかっている。 唐古・鍵遺跡では邪馬臺国に記述されてるような楼観を描いた土器も発掘されている。 吉野ヶ里に復元された楼観は唐古鍵出土の土器を参考にしてる。 >>64 まず 伊勢 ← ここが重要。アマテラスは伊勢 つまり 纒向遺跡のある桜井からみて、日が昇る最果ての地が・伊勢 日が沈む最果ての地が、出雲 そして 卑弥呼 = 日巫女 であると考えれば 纒向遺跡のある桜井に存在する 日本最古にして、伊勢より格が高い 【大神神社】が存在する事は、諸説を圧倒するほどの見過せない根拠。 伊勢神宮 第10代崇神天皇の頃、疫病が蔓延し、 宮中内に祀っていた八咫鏡を祀りこれを治めた。 第11代垂仁天皇の世に 八咫鏡に宿る天照大御神の意向により 伊勢神宮に鎮座 大国主(オオクニヌシ)は 大和・三輪山の祭神。 国譲り神話にて 出雲大社を建立させ。出雲に隠居 つまり 伊勢神宮と出雲大社は 箸墓以後に同時期に建立 >>53 寧ろ魏志倭人伝では、大小の村、郡レベルな距離感で国と表現しているので 100と言うのは九州内部でと見ていい。 >>59 都合が悪いと誹謗中傷 これが負け犬畿内説論者の見本ですw 纏向の外部搬入土器を分析したのは関川氏だ 現在の纏向研究も関川氏の功績の上に成り立っている 後からやってきてゴッドハンドしている今のエセ研究者とは違う そんな纏向研究の第一人者が違うと言っているのは重い https://ja.wikipedia.org/wiki/ 関川尚功 >1971年(昭和46年)から奈良県立橿原考古学研究所の所員として奈良県桜井市の纒向遺跡の調査に携わった。 >石野博信とともに報告書『纒向』(1976年)を著したが、とくに外部から搬入された土器の分析と整理は関川がおこない、 >古墳時代の考古学的な研究において、きわめて重要で画期的な資料となった。 過去スレに出ていたけど、弥生時代にはすでに北部九州の勢力が瀬戸内海を制して淡路島まで傘下に収めていたんだよね そこから考えると、畿内が独自に中国と通交、というのはかなり苦しいだろう 中国と通交していた北部九州の勢力が技術的優位を活かして東進し、やがて畿内も制したと考えたほうがずっと自然だね 757 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 03:05:18.58 ID:/i7a20jM0 >>743 その淡路島の鉄工房は北部九州の勢力下だったんだがw 弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初 https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml >エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。 >ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。 >弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。 >愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は >「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。 >今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 淡路島は北部九州の安曇族の勢力圏だw 地図で見ると、本拠地の志賀島から日本海ルートは出雲を経て近江、さらに岐阜、愛知と東海へまるで畿内を迂回するかのように進出している 瀬戸内海ルートは淡路島まで進出し、この地図には載ってないが難波にも安曇江がある 技術的に北部九州の系統である淡路島の鉄工房は、志賀島を本拠地とする安曇族が持ち込んだのだろう >>57 この関川って人は畿内と九州で100年近く差がある年代観を主張してる もちろん関川編年を支持する考古学者は一人もいない 九州説は考古学者に支持されてないから、権威付けとトンデモ年代観を正当化するため関川を担いでるということ >>69 残念だがその嘘はもうネタが割れてるんだ、畿内説が採用している岡村編年は事実と100年以上ズレてるから 当の岡村が監訳した中国の資料で西晋時代の鏡を自著では後漢中期〜後期と捏造しているw 年代は墓誌など文字記録のある中国の方が正確 http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm > 「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。 > 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、 > 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。 > 西晋王朝は、「西暦265年〜316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。 > > > この表のものに、さきにのべた「洛陽晋墓」出土の八面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる十二面の「位至三公鏡」のすべてが、 > 西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。 > ■「位至三公鏡」の年代 > さて、問題は、ここからである。 > 岡村秀典氏は、その著『三角縁神獣鏡の時代』(吉川弘文館、1999年刊)のなかで、つぎのようにのべる。 > > 「漢代400年間の鏡は、文様と銘文の流行の推移をもとに、およそ50年前後の目盛りでつぎのように大きく七期に区分する。 > 漢鏡1期(前二世紀前半、前漢前期) > 漢鏡2期(前二世紀後半、前漢中期前半) > 漢鏡3期(前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期前半) > 漢鏡4期(前一世紀後葉から一世紀はじめ、前漢末から王莽代) > 漢鏡5期(一世紀中ごろから後半、後漢前期) > 漢鏡6期(二世紀前半、後漢中期) > 漢鏡7期(二世紀後半から三世紀はじめ、後漢後期) > > これに三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡を加え、都合、漢・三国代の中国鏡を八期に大別することにする。」 > ここで、さきに、「わが国出土の『位至三公鏡』」をまとめた前の表を、今一度ご覧いただきたい。 > この前の表(わが国出土「位至三公鏡」)には、「漢鏡」の欄がある。そこに、「6期」とか「7期」とか、記されている。これは、右の岡村氏の規準により、 > 七期の区分の、どれにあたるかを示したものである。 > これによれば、わが国出土の「位至三公鏡」の年代は岡村氏の区分によるとき、つぎのようになっている。 > 「漢鏡6期」に属するもの………………………11例 > 「漢鏡7期」に属するもの…………………………7例 > (うち、「7期」とのみあるもの3例。「7−1期」とあるもの4例) > > これは、岡村氏のさきの区分の年代では、「後漢中期」から「後漢後期」までのものとなる。実年代で、「二世紀前半〜三世紀はじめ」のものとなる。 > つまり、「卑弥呼遣使前」の年代となる。 > ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の「位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。 > 「西晋」代は、すでにのべたように、「西暦265〜316年」であって、「卑弥呼没後」の年代であるからである。 > > なぜ、そんなことになるのか。 > それは、岡村秀典氏が「景初四年鏡」をふくめ、「三角縁神獣鏡」の年代を、卑弥呼の時代のものと、きめてかかるからである。 > わが国において、(位至三公鏡)の年代は、その出土遺跡や、その遺跡から出土する土器の形式からみて、(岡村氏の鏡の編年によっても、) > 「三角縁神獣鏡」の年代よりも、古く位置づけなければならない。 > 「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時代のものと設定すれば、「位至三公鏡」を、それ以前の「後漢中期」から「後漢後期」のものと設定せざるをえないのである。 > しかし、「事実」は、「位至三公鏡」は、おもに、西晋時代(265〜316)のものである。「三角縁神獣鏡」は、そのあとの、主として、四世紀の、前方後円墳時代、 > 布留式土器の時代のものなのである。 > > 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。 > 監訳本のほうは、中国に原文がある。岡村氏も、大幅に内容を変更することができないのである。そのために、矛盾が生じている。 >>71 >>72 を見れば、畿内説側が年代を100年以上ゴッドハンドしているのは明白 銅鏡の年代をずらしたことで、共伴する土器の年代も100年以上ずらしたからな 正しいのは関川説 で、結局卑弥呼の時代の銅鏡は北部九州が中心でしたとさw http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm > 表に示されている鏡の年代からみて、わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので、 > 中国と日本との地域差、年代差を考えれば、西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。 > そして、その「位至三公鏡」が、わが国においては、北九州を中心に分布している。 > (1)中国で、おもに西晋時代に行なわれた「位至三公鏡」は、わが国では、福岡県・佐賀県を中心とする北九州から出土している。 > 奈良県からは、確実な出土例がない。 (下表参照) > > (2)「位至三公鏡」よりも、形式的にまえの時代の鏡(「長宜子孫」銘内行花文鏡など。そのなかに、魏代の鏡がふくまれているとみられる)も、 > 北九州を中心に分布する。 > (3)九州出土の「位至三公鏡」は、弥生時代の遺跡から出土しているものがあるが、九州以外の遺跡から出土した「位至三公鏡」は、まず、 > 古墳時代の遺跡から出土している。九州以外の地の「位至三公鏡」は、九州方面からもたらされた伝世鏡か、あるいは、踏みかえし鏡であるにしても、 > 九州よりもややのちの時代に埋納された傾向がみてとれる。 > > (4)これらのことから、魏のあとをうけつぐ西晋の西暦300年ごろまで、鏡の出土分布の中心は一貫して北九州にあったといえる。 >>72 岡村編年と青銅鏡の原料組成は関係ないだろ 攪乱戦法は通用しない >>1 卑弥呼が死んで、壹與の晋への朝具して以降、忽然と消えた邪馬台国 三種の神器を包括的に有した糸島の平原遺跡以降、突然なくなる北部九州の弥生文化 そして、しばらく間隔をおいて突然始まる畿内の古墳時代 北部九州と畿内の地名の一致 記紀の記述 等々 これは・・・ >>66 卑弥呼と同時期の天皇が、10代目の崇神天皇。 邪馬台国と覇権を争っていた 狗奴(くな)国の男王が崇神天皇。 魏志倭人伝に邪馬台国との対立が描写される 「狗奴国」(熊本説などが有力) この狗奴国の男王を 『魏志倭人伝』では【卑彌弓呼(ひみここ)】と記している。 初代「神武天皇」と第10代「崇神天皇」は、共に「ハツクニシラス天皇」。 第2代〜第9代までの天皇に関する記述は極端に少なく、「欠史8代」と呼ばれている。 古代史の定説では、初代〜第9代までの天皇はみな、架空だとされている。 つまり 実際には、初代(神武天皇 = 崇神天皇)という説が有力 「崇神天皇」258年没説を採った場合、 崇神の治世は中国の文献に記載されている 邪馬台国の時代の後半と重なることになる。 崇神天皇陵(行燈山古墳) 天理市 古墳は全長約242m 築造された年代は4世紀後半(古墳時代前期後半) 3世紀中頃に 全長278mの 纒向遺跡の『箸墓古墳』は、 当時どれだけの ”大物” が埋葬された事になるんだ? つまり 初代(神武天皇 = 崇神天皇)よりも巨大な古墳だぞw >>75 アホ? 「成分分析の結果一致した中国鏡」の年代が100年ずれていたら自動的に三角縁神獣鏡も100年ずれるんだが >古代中国の前漢後期〜三国時代(紀元前1世紀〜3世紀)の鏡の組成数値の分布エリアに収まることが判明。 この「前漢後期〜三国時代の鏡」とやらは岡村編年だろうがw ということは実際はそれより100年以上後の鏡ってことになる デタラメな岡村編年と違って文字記録のある中国側の研究で、確実に邪馬台国時代のものと言える銅鏡がどんな形式だったかも既に研究されている http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm > 中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。 > 「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、夔鳳鏡(きほうきょう)・ > 盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。 > 従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。 > とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・至位三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。 > 位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(365〜316)に大層流行しましたが、 > 呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。 > 日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に > 中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」 位至三公鏡は北部九州が中心w >>72 これ酷いな こういうスレでよく双方の説を嘘つきだの言い合ってるのを見て ネタだと思って楽しんでたが 畿内説の研究者はガチで嘘ついてるのか >>65 吉田説を確認してみたが、下記の部分が間違ってるな。 >中国を中心、倭国を周辺の野蛮人とみなして、 「日」の字ではなく「卑」の字をつかったのではないか。 当時の中国王朝は、周囲の蛮国を「2文字」の国名で読んだ。 1文字の国名は中国自身の王朝に限られていた。 したがって、「倭」と一文字名を付けたことで、当時の日本を自らと対等の存在と見なしていることになる。 「倭」を「矮(小さい)」とカン違いするアホが多いが (歴史家であっても) 古資料を調べると、「倭」の文字は、ただ当時の日本を表すためだけに作られた文字と分かる。 それ以外にこの文字が使われていない。 そして、中国王朝「魏」と日本の「倭」とは、文字の上でペアになってるのが確認できる。 つまり、「国政の大義を鬼(当時は祖先霊を表す)に委ねる」のが「魏」。「人(現在生きてる人間)に委ねる」のが「倭」となる。 また、九州に多いという「環濠集落」については、 現在の京都御所に見られるごとく、元々日本の縄文時代から続く狩猟採集民族では、住居地の周囲に「掘」を作ることはしない。 環濠(堀)がある住宅は、農耕主体の生活が始まってからで、古代から伝統を受け継いだ住宅に住んだであろう卑弥呼には相応しくない。 誰か頭の良い奴がタイムマシンを作って卑弥呼時代に戻って調べれば良い 妄想、憶測、推測ではいつまで経っても結論は出ない。
>>75 そもそも今更スプリング8など持ち出さなくても、青銅に含まれる鉛同位体の比率はとっくの昔に研究されている その結果、三角縁神獣鏡に使われている銅は魏の敵国だった呉の鄂州市の銅であり、魏の鏡じゃないともう分かってるんだよw 呉の銅を中原勢力が使えるようになるのは西晋が呉を滅ぼした280年以降で、卑弥呼はもう死んでる >>40 にあるとおり、「畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。」だなw ■「西晋鏡」の鉛同位体比 >つぎに、「位至三公鏡」「双頭竜鳳文鏡」「蝙蝠鈕座長宜子孫銘内行花文鏡」「夔鳳鏡」など、おもに西晋時代に行なわれたとみられる鏡の、 >鉛同位体比について考える。 >これらについては、もとのデータも、かかげておく(下の表参照) > >下のグラフをみれば、いわゆる西晋鏡の鉛同位体比は、あきらかに、それ以前のものと違っている。 > >これらの鏡は、おもに、北部九州に分布しているにもかかわらず、つぎの時代に主流となる、「三角縁神獣鏡」の鉛同位体比の分布領域と、 >そうとうていど重なりあう。「三角縁神獣鏡」は、近畿を中心に分布する。 >これらの鏡には、中国南方、長江(揚子江流域)などの「南中国」系の銅が用いられていると判断される。 (中略) >この江都、儀徴には、古く銅鉱があった。 >三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった。 >西暦280年に、その呉を滅ぼした西晋の時代には、この地域は、とうぜん、西晋の領域内にあった。 > >したがって、この地域の銅は、北の洛陽にもってくることができた。「位至三公鏡」などの、いわゆる「西晋鏡」を、製造することができた。 >そして、前のグラフ(「西晋鏡」の鉛同位体比の分布)、をみれば、いわゆる「西晋鏡」の銅原料は、中国の長江下流域の浙江省の >黄岩五部鉱山の鉛鉱石のものに近いことがわかる。五部鉱山の鉛の測定値を中心とするような形で、「西晋鏡」の鉛同位体比の測定値が分布している。 >ところが、「三角縁神獣鏡」になると、長江の長江中流域の、鄂州市に近い、湖南省桃林鉱山の鉛鉱石の測定値に近づくものが多くなっている(下図参照)。 > > >この鄂州市(鄂城)ふきんのことについては王仲殊氏は、つぎのように記す。 >「江夏郡の武昌県は今の湖北省鄂城(地図参照)にあった。黄初二年(221年)に孫権が公安より都を鄂にうつして、武昌と改名し、 >同時に江夏、豫章、盧陵三郡の地をもって武昌郡とし、武昌県をその郡治としたが、まもなく、武昌郡を江夏郡と改称し、武昌県をやはり郡治としていた。 >黄龍元年(229年)、孫権はまた建業[南京]を都としたが、江夏郡の武昌を長江中流域の重要地として、上大将軍陸遜が太子孫登を輔けて >武昌留守の事をつかさどったことは、この武昌の地の重要なことを示している。甘露元年(265年)、呉王孫皓はまた建業より都を武昌にうつしたが、 >臣民が反対したので、宝鼎元年(267年)にまたまた建業に帰らざるを得なかった。 >解放以来、鄂城及びその付近で、大量の三国時代の呉墓が発見され、多くの銅鏡が出土した。 >このことによって、人々は武昌がまた呉の銅鏡鋳造業の中心の一つであることを確信した。」(『三角縁神獣鏡』[学生社刊]) > >わが国で、「三角縁神獣鏡」が盛行したのは、おもに四世紀である。中国の王朝でいえば、東晋(317〜420)の王朝にあたるころとみられる。 >そのころ、中国の長江中流域の鄂州市ふきんの銅がわが国にもたらされている。 >かつての呉や西晋、さらに東晋の人々が、大量の銅をもつて、わが国に渡ってきたものとみられる。 >>80 俺も最初に知った時は愕然としたわ いくらなんでもそこまでやるか、ってね 正直、ゴッドハンド藤村がかわいく思えるレベルの話だと思う でもそういう事情を知ってしまうと、ニュースの見方も変わらざるを得ないんだよ >>69 なんかも「スプリング8で分析した」という話題性を利用して誤った認識を世間に広めて 議論を優位に導こうというゲスの考えが見え透いて吐き気がしてくるわ はっきり言って悪いけど近畿の考古学者は泥棒なんよね 平原遺跡に借りた土器も返さないの
>>40 安本美典って昔の天皇は一代約10年とかで計算すれば天照大神と卑弥呼が重なるって言う人でしょ。 記紀に出てくる初期の天皇の実在を仮定しながら親子関係は全体的に否定しちゃうんだよね。 そこが変だよな。 >>86 ダラダラ書くな、頭の悪い証拠だ 10行でまとめろ >>60 > それらの出土状況をビッグデータ解析した結果 邪馬台国にPHSやスマホが有ったのか オマエの編年も狂ってるなw >>90 それは右翼団体からの抗議を避けるための知恵だろう 九州説の人たちはそれで苦労してるらしい 畿内説の人はどんな説を発表しても最後に大和朝廷との繋がりだけ 言及しとけば大丈夫だから楽らしい >>16 もう少し考えろよ 邪馬台国スレだから遠慮しなくちゃと思ったがコピペ 日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮 宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている 今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う 続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった 記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている 日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している ちゃんと調べれば分かることばかり 木花咲耶姫の本名である神阿多都比売 海幸彦の子孫は隼人族の阿多君 神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹 代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島 旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話 高千穂地名の変遷 日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?) 宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。) 和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。) 大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。) (参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) 沖縄にもアマテラスいるからな あの島にアマテラスが降りたって沖縄の人言ってたし
水行二十日と水行十日陸行一月の記述以外は九州説に有利というか九州以外考えられない 倭を遠くというか大きく見せたい何らかの理由で付け足した様にも見える
水銀でコーティングされた銅鏡が大量に 見つかった墓が場所って言われていたけど 今は違うのね
>>72 ,86 近年科学系の研究でデータの捏造とかがどんどんバレてるけど考古学もか >>80 インターネットが普及してなかったらこんなのが世間に知られることもなかったろうな 今の年寄りの学者は、学者の権威でデタラメやっても咎められなかったかつての時代を引きずってるんだろう >>97 >倭を遠くというか大きく見せたい何らかの理由で付け足した様にも見える この投馬国、邪馬台国の部分は明らかに後で挿入された文ですね 元々は里数だけの行程文しかなかったのに、新たに日数による行程の報告が追加された。 >>77 初代「神武天皇」の陵墓は天武天皇の時代に実在していたから 神武天皇は架空の人物ではないしその後の第2代〜第9代も実在の人物 崇神天皇の方が怪しい。 >>86 つまり三角縁神獣鏡がでてきた場所はアウトってことか じゃあ畿内の遺跡は大半アウトだな >>47 吉野ヶ里とか律令の時代まで継続してるよ。 ここまで読んだ限りだと、邪馬台国は 九州で決まりだな!
>>81 >「日」の字ではなく「卑」の字をつかったのではないか 支那人が「日」の字を使うハズは無いが もし使ったとしたら「日」の字は万葉仮名の分類でいう「訓仮名=漢字の支那語と同じ意味の日本語に翻訳した読み」だ。 そういう和文解釈のような有り得ない方法で支那人が書いた漢文解釈をするのは訓読の「和臭」と言って漢文、唐詩では排除される。 「卑」の字は万葉仮名の分類でいう「音仮名」。 「日」は飛鳥時代よりも前の時代には日本語で「ピpi」と発音していたことが判明している。 「氷」も同様に「ピpi」と発音していたことが判明している。 倭人(邪馬台人というという言葉は残念ながら見たことも聞いたことも無いw)がピミコと云ったので 古代支那人が「卑弥呼pi mi ho」と書いたのだ。 >>67 100から30に減ったのは範囲が狭くなったのではなく 統一が進んだんだろうな。 関東人は邪馬台国の議論に参加しなくていいよ 三内丸山遺跡がお似合いだ
>>76 >糸島の平原遺跡以降、突然なくなる北部九州の弥生文化 北部九州にそんな断絶とかないんですけど? 神武天皇の兄弟が大分に祀ってあるよ あれみると実在だわ
>>72 典型的な詐欺師の論法じゃん 比較してるのは @日本出土の位至三公鏡の「製作年代」 A中国出土の位至三公鏡の「埋納年代」 まったく別の基準で比べてる そしてイチャモンつけてるのは「北部九州」の土器編年を100年後ろにずらせだとさ 3世紀後半からは楽浪土器の出土が激減し、中国との交流が停滞する時期 西晋時代に中国でどれだけ位至三公鏡が流行しようと日本には入って来ないんだよ 製作年代は鏡のデザインで判断するものであり、交流が停滞した後の中国で埋納が多かろうと関係ない話 @とAは実際は関連がないのに、いかにも連動してるかのように見せかけて、 ガチガチに固まってる「北部九州」の土器編年を動かせなんてただのイチャモン >>111 シンガポールのべンクーレン(明古連)通りには 斉天大聖=孫悟空が祀ってあるよ あれみると孫悟空は実在だわ 間違いない >>1 学者てのは常識を知らんな、 卑弥呼だの古墳だのは1500年以上前の話だ マチやムラを作るのに良地は何時の時代でも良地だよ つまり卑弥呼の住んでいたマチの上には 平安時代や戦国時代の街やお城が建ってたはずだよ つまりとっくに消えてるよ 今見つかったマチの跡が一番デカイから 卑弥呼のマチだと思うのは単純馬鹿 古墳も同じで天皇家が保護している古墳は極わずかだよ、 古墳として認識されているのは極一部で 大半の古墳は山になったり田圃になったりして消えてるはず デカい石は石垣に最適だろ 吉野ヶ里遺跡では瓶棺だけだった石…巨石は使われて無いから 卑弥呼の墓は単なる土盛りと考えられる お屋敷が建ち お城になり 今は小学校の下かな >>115 >西晋時代に中国でどれだけ位至三公鏡が流行しようと日本には入って来ないんだよ 詐欺師乙w http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm > 表に示されている鏡の年代からみて、わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので、 > 中国と日本との地域差、年代差を考えれば、西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。 > そして、その「位至三公鏡」が、わが国においては、北九州を中心に分布している。 > (1)中国で、おもに西晋時代に行なわれた「位至三公鏡」は、わが国では、福岡県・佐賀県を中心とする北九州から出土している。 > 奈良県からは、確実な出土例がない。 (下表参照) > 西日本の覇権の推移 倭奴国(博多)の覇権→倭国大乱→邪馬台国(筑後)の覇権→倭奴国残党の分裂 倭奴国残党の分裂 1博多に残って邪馬台国の支配下に=伊都国、奴国 2南九州(西都原)に移住=天孫降臨 3近畿(巻向)移住=神武東征 近畿移住組の立場 はじめは近畿の覇者ニギハヤヒ傘下の豪族→四国、出雲征服→近畿覇権奪取(崇神=ハツクニシラス) 九州の再征服 景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で九州政権滅亡→九州全域が支配下に 律令、神話の統一 大宝律令、古事記、日本書紀の制定
>>70 瀬戸内は応神までどの勢力も航海の安全は無かったと思うよ。 瀬戸内の海賊はいわゆる零小豪族で、その上の豪族(クニ)に属していたとはいえ個々副業の海賊はしてたと思う。 ただしクニを超えて広域でまとまる可能性もある。 寿司食いねぇ!の森の石松が金比羅詣でに行くでしょう。 日本の場合、力だけではまとまらず宗教でまとまる可能性がある。後世の熊野水軍とかね。 これがどうも神武東征神話でもあったんでは無いかなと思ってる。 イメージって大事だよな。古代は近畿の印象が強いからそれだけで充分。
墓のサイズ。100歩暗い 100m以内だけどな。100人の遺体、 周辺に官はあるが、郭がない墓とか? 女王国の東へ千里範囲も、属(出雲・吉備・奈良・伊勢)、南へ四千里範囲(種子島・奄美・沖縄)と考えると九州になるんだけど。
>>118 壊れたテープレコーダーか 形式は6期や7期 埋納は早いもので弥生時代後期、それ以外は古墳時代だということだけだろ つまり伝世が多かったということ 九州説論者が訴える北九州の遺跡からは後漢の鏡が出てくる。後漢は、25年〜220年。 魏の景初三年(239年)よりも前の時代の物。 魏の紀年銘鏡 青龍三年 235年 方格規矩四神鏡 三面 京都府、大阪府、出土地不明 景初三年 239年 三角縁神獣鏡 一面 島根県 景初三年 239年 平縁神獣鏡 一面 大阪府 景初四年(非実在年紀) 240年 斜縁盤龍鏡 二面 京都府、宮崎県 正始元年 240年 三角縁神獣鏡 山口県、群馬県、兵庫県 卑弥呼が魏に使いを送った年 景初二年(239年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。 正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。 正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与。 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。
邪馬台国に卑弥呼は居なかった、魏志の使いが来た最終地 不弥国に来てただろう、使節はそこで卑弥呼と話し合った(新説) 不弥国以降はすべて伝聞
>>123 それは72のURL先読めば分かるよ 鉛同位体の分析でほとんどは280年以降の鋳造だとしてる 黄幢とは、後漢を亡ぼした農民の反乱である黄巾の乱と関係があると思われる。
卑弥呼がもらった百枚の鏡もな、未だに三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡と言ってるが たかが鏡をお強請りする東国の蛮族をどう見ているか、、特注品を拵えるほど評価していたか 三角縁神獣鏡…は中国には無いから卑弥呼むけ特注品だとするのは弱いよ 特注品なら「卑弥呼さんへ」と書かれているはずだろ、 で無ければ 市場に有った中古品の寄せ集めだわ、中国では単なる実用品だよ コレが大人の常識だろ
いい加減巻向を邪馬台国と結びつけるのはやめなさい 巻向の発掘跡がどんな扱いを受けてるか確認すれば結果は見えている
>>124 年号は後世に捏造されることがあるのでアテにはならない >>86 の成分分析を見れば魏の鏡でないのは一目瞭然 https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/ >2.6. 三角縁神獣鏡は四世紀の古墳から出土する >卑弥呼は三世紀中頃に死亡したにもかかわらず、鏡はすべて四世紀の古墳から発掘される。 >畿内説支持者は、虚偽の年代が鏡に入れられるはずがないというが、銘文の字体から、虚偽が明らかな鏡もある。 >安萬宮山古墳から出土した「青龍三年」(235年)鏡の「龍」の字の旁(つくり)は「大」となっている。 >この字体は四〜五世紀の中国北朝時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。 >つまりこの鏡は四〜五世紀の作品であるということである。 >>126 華北では徐州の銅を採取できなかったと言い張ってるだけでしょ 銅山として確認されてるものが呉の領域にあったと言ってるだけで、他にあったかもしれない なかったとしても、この時代に完全な鎖国なんかできるわけない 普通に流通してる 実際、魏の年号の入った他の鏡は作られているんだから 纏向遺跡からの出土品 1.大量の桃の種w 2.魚の骨ww 3.イノシシの骨、※犬の骨www 北部九州の民族とは異なった民族が住んでいたとしか思えんよ
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の守山の伊勢遺跡 政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう 中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。 おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。 面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。 神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。 伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。 夜の食国を治めたのは月夜見 農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない 魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い 天津罪は、農業の作法を知らない人が適当に稲作をしたこととも読める。
>>123 壊れてるのはお前の頭だろ >>72 や>>79 、>>86 を100回嫁 中国側で西晋以降の出土ばかりなのに漢鏡なわけがないわ 岡村が捏造しただけ 銅の成分も呉の銅だしな > >>122 測量屋は歩測する場合は 一歩65cmで計算するんだって、径百歩なら65mだな 学校の200mトラックサイズ…小さな土盛りだわ 失伝したら 草木が生えて雨風で溶けて消えてるよ ここまで読んだ限りだと、邪馬台国は 近畿で決まりだな!
>>131 >銅山として確認されてるものが呉の領域にあったと言ってるだけで、他にあったかもしれない あったかも知れない、は学問ではないw 魏は銅の不足に苦しみ、貨幣の鋳造にも事欠いていたのは三国志に詳しい人間なら誰でも知ってること 近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。 畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。 渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。 渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。 2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。 神武東征前のヤマトの記述。 ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。 温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。 スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。 そして征伐に来る。 倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。 纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。 記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。 畿内征伐によって誕生した邪馬台国、ヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。 次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。 初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。 神功皇后応神に該当する時代。 記紀や各地の伝承。 忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。 神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。 纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。 全て牛というキーワードが共通する。 同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。 纒向遺跡は、農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。 纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。 纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。 卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。 さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。 纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。
邪馬台国が論争になるのは(東海地区)VS九州地区の代理戦争を畿内VS九州と誤魔化しいるから。 東京大の歴史学者が九州説をとなえるのは第三者の立場だから客観的になれる…っていうこと。 「任辰の乱」はその後始末だと思う。 天武天皇が東海豪族の武力を借りて勝ったけど聖武天皇以降は九州(西日本)側が“再征服”して東海地区を日本の領土に組み入れた…というのが史実だろう。
>>134 埋納でさえ後漢晩期ってのがあるだろが これはいつ作ったんだよ?www >>131 中国の学者によると漢代以降中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にあったとのことなので 呉が存在している間は華北に十分な銅が供給されなかった 結果として華中華南の銅で華北文様の鏡を作ることが可能になったのは 呉が滅亡した280年以降の話になる 「畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃」畿内では部落対立が収まったと 言う事だろうがそれは倭人伝の倭国大乱とは関係が無いだろう。 そもそも倭人伝に書かれている倭国とは北部九州のことで本州は倭種の住む国と 書いている
>>140 で、東大で九州説を唱えてる学者って誰だ? 名前を挙げてみ? >>140 そういう意味では暴力団・山口組の勢力図ととてもよく似ていると前々から思っているんだよw 魏に使者送って魏から使者を迎えることが出来る安全な陸路と海路を持ってたという 時点であの時代に畿内からとは考えづらいしな
>>142 >呉が存在している間は華北に十分な銅が供給されなかった 学者がそんなこと言ってる? 安本じゃないか? >>72 やべーなガチのゴッドハンドかよ ドン引きだわ >>147 >日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に >中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。 魏の時代とまで言ってるじゃん 表には後漢の時代も含まれてる で、西晋時代には日本と中国で交流が停滞していたことをこの学者は知らない 入手時期は後漢と魏の時代ということになるな 6期と7期で問題ない 「北部九州」の土器編年を100年ずらすという暴挙も必要ない >>148 徐苹芳氏が 三国時代、中国は南北に分裂していたので魏の領域内では銅材が不足し、 銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。 と述べてると72のURL先に出典明記されて書いてある しかし安本は畿内の年代にイチャモンつけたかったのに 北部九州を巻き込むとか、無理しすぎだろ しかもこのイチャモンでは畿内は放置www
邪馬台国と同時代にほかに部族連合があってもおかしくないよね 邪馬台国が中国に朝貢したので名前が残ってるだけとかね
>>151 なるほどね でも、別の文章では魏の鏡があると言ってるわけだから作られていたのは間違いないね 倭国大乱って祓戸四神と関係があるような気がするんだな 伊勢内宮神前祝詞 天照大御神、又の名は 撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある 天から遠ざかった向津姫 伊勢の向かい側は尾張三河 何か関係あるのかな また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」「八十禍津日神」であると記述される。 瀬織津姫を祀る槻神社のある三河と何か関係あるのか? 畿内を征伐してできた初期のヤマト政権、その女王卑弥呼は、後に天照大御神にされたんじゃないかな?
邪馬台国の怪はこれだけ不正の証拠があると言い張るなら、なんでマスコミに流さないんだ? 考古学会挙げて不正をやってると言いたいんだろ? ゴッドハンド事件どころじゃない大問題だよなwww まあ、おれみたいなド素人でもインチキを見破れるんだから学者にこんなのを突き付けても一蹴されるだけだろうけど
どっかに卑弥呼の墓は100歩くらいの大きさって書いてなかったっけ これって278mなんだね 全然ちゃうやん
>>154 魏の時代に呉の銅を使って鏡を作るのはさすがに無理だろう いくら魏でも多数は作れない でその位至三公鏡は渦中の岡村氏やその他によると三角縁神獣鏡より古い鏡なので 結果三角縁神獣鏡も280年よりさらに新しい時代の製作となる 記述に100歩って残ってるのに 「卑弥呼様の墓だからでっかいに決まってる でっかい箸墓古墳が卑弥呼様の墓だ」 っていうだけで騒いでるの?
>>155 歴史を封印するために書かれた記紀をベースにするなんてナンセンスだな。 >>156 畿内説やってるのは毎日新聞の元記者だからマスゴミもゴッドハンドの仲間。 形も「塚」としか記述されてないんだから前方後円墳のわけないし
>>155 当時の倭国ってのは、日本全体のことではない。 九州地方、もしくはその近辺の中国四国地方まで。 そらより北東方向は倭種とよばれ、倭国側ではよくわかっていないと魏志倭人伝にある。 卑弥呼=アマテラス説は単なるファンタジー >>159 >魏の時代に呉の銅を使って鏡を作るのはさすがに無理だろう >いくら魏でも多数は作れない だから、その学者がこう言ってるんだからそこを言い争っても意味がない ↓ 「日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に 中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」 >でその位至三公鏡は渦中の岡村氏やその他によると三角縁神獣鏡より古い鏡なので >結果三角縁神獣鏡も280年よりさらに新しい時代の製作となる これ意味わからずに書いてるよね 仮に位至三公鏡の編年上の区分が移動しても、三角縁神獣鏡の区分は影響は受けない 違う系統の鏡であり、玉突きで後ろに動くことはない 三角縁神獣鏡が前で、位至三公鏡が後ろになるだけ 半分以上がどっかからの転載内容かコピペで勝ち誇る奴ってなんだろうねえ
マスコミに騙される奴なんて、この時代に いるのか? 畿内説なんて無理矢理やん
>>159 学者であるのなら、『日本考古学』、『考古学雑誌』、『考古学研究』などの学術系雑誌に論文を掲載してもらえばよいだけのこと それをやらないから、誰も反応しない 極々当たり前 >>162 畿内説があたかも一つの生命体で、誰かが決めた総意に従って動いているかのように言うなあ(苦笑) このへんが君らの限界なんだろうけど それぞれ畿内説を論じている歴史学者や考古学者がいるのだから、名前を挙げればいいんだよ 知識がないので、挙げられないのだろうけど そのマスコミの記者とやらは学者ですらないので、仲間もへったくれもない、ただの一素人に過ぎないが(苦笑) 学者、学者、連呼してる外危地ウザイな。 所詮、考古学とか、ぶっちゃけアレだろうに。
旧唐書から 648年までは倭国の使いが来てた 703年から日本の使いになった この間に 倭から日本に改名したとも 日本が倭を併合したとも 倭が日本を併合したとも伝えられている まぁ色々総合的に推測すると この期間に白村江の戦いや壬申の乱や大化の改新などがあるんで それらを通して九州王朝と大和王朝がひとつになり日本国となったんだろう
>>118 > 中国と日本との地域差、年代差を考えれば、西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。 御都合主義的考え方だな 考古(笑)とかの糞分野に進学した学者さんの結論はどうでもいいけどね。 それより何倍も常識的なおまえらの総意は、どっちに決まったのだ? おっと、朝鮮半島の倭人所有地を隠蔽したいお隣の意見は除外してくれ。
議論も何も、出土した人骨を鑑定にかけて、女だったら決まりでOKじゃん。 あの時代に丁寧に埋葬された女なんて他にないだろ?
>>171 天武が兄貴の天智の息子を滅ぼしたから国号を変えて心機一転しただけだよ この当時倭国は唐と新羅の戦争でどちらに付くか求められてて 白村江で唐と戦った兄である中大兄の負い目もあるので倭ではなく日本として遣唐使を送ったと考えれば自然 >>174 元々箸墓の埋葬者は女性だと日本書紀に書いてある 名前もちゃんとある なぜかそれを卑弥呼だと言い張る奴らがいて混乱してるだけだよw >>128 >中国では単なる実用品だよ 道士の間では金ピカの青銅鏡で魔物の正体を 映し出すことのできる神器として使用されていた。 >>157 すると、一歩の歩幅は2.78m? 合わないよな。三国志や後の晋には、八卦とかも入ると推測すると出雲は鬼門、伊勢、奈良も鬼門に近い。 >>175 いやそれだったら 「改名した」だけで済む 「日本が倭を併合した」って話をする使者もいたってことから 「大和朝廷が倭を併合した後に日本国を名乗った」が正解だろう 中国人は当時から倭人は鏡を異常に好むと書いてるし 天照が太陽神であることもあって太陽光を反射させる鏡には 特別な力があるという威信財としての価値が相当あったんだろうな だから邪馬台国が東征して周辺諸国を調略していく際に鏡を有力豪族に配っていった もちろん数が足りなくなるので三角縁神獣鏡を中国の舶来品のように見せかけて大量に生産してバラまいた そう考えれば年号がおかしいのも漢字の意味が滅茶苦茶なのも説明がつく あんな出鱈目な漢文の鏡を中華皇帝が下賜したとなると「中華皇帝ってバカじゃね?」となって大問題になるw
>>157 歩は日本と大陸じゃ違うやろ 30-40mぐらいじゃね 三種の神器は、 天智天皇の時までは三種だったが、何故か天武朝になると、神璽は剣鏡になるんだな どういう意味があるのか? 更に天武は草薙剣に祟られたとも言われている 勾玉だけが皇居にあるのはどういう意味なんだろうか?
>>180 倭国は雄略天皇の時点でもうヤマトを中心とした一つの国にまとまってる 大海人皇子はそのヤマトの政治システムの中で兄である天智を政治面で支えていた人物であって 血筋的に怪しい継体が王朝を乗っ取ったのとは全く別の話 あくまで倭国が白村江で唐と戦ったことを少しでも誤魔化すために 「あれは兄がやったことで私は反対していました」アピールの一環として倭を捨てたと考えるのが自然 >>183 三種の神器は源平合戦で安徳天皇が持ってたり そうなると伊勢や熱田の鏡と剣はどうなるんだという話で 当時からレプリカは存在してたんじゃないの? ヤマタノオロチ、 風宮の神(級長津彦命 級長戸辺命) しなは息が長いという意味。 息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。 オキナガタラシヒコ、 龍神祝詞の神 全て同じじゃないか? ヤマタノオロチの勢力は天武の時代まで存在していたのでは? 大津皇子、天武の子ではなく、オキナガタラシ系の皇子だったのかもしれない 天武はどうして草薙剣に祟られたのか? 龍田神社 天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。 祭神 天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。 天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな そして鎮魂したと 最後に大津皇子の辞世の句と息長に関する万葉集の歌を載せておく ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 金烏臨西舎 鼓声催短命 泉路無賓主 此夕離家向 にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも
>>185 まぁそれなりの知識がないと議論にもならないしな 頭の悪い奴はすぐにチョンとか持ち出すけどホント低劣 しかし安本の破れかぶれ戦法は想定の斜め上を行ってるわ 「魏は銅鏡を作れなかった」 こんな滅茶苦茶な話を作って畿内説を攻撃し、仮に今回みたいなインチキで騙せたとして いざ九州説を主張するとき、卑弥呼が貰った銅鏡100枚はどうするつもりだったんかな? 後漢時代の中古で代用するんじゃ皇帝の権威が傷つくだろ
>>165 だから西晋時代に大層流行したと言ってくれてる 表を見ればわかるが洛陽周辺では魏の年代だとはっきりしたものは見つかってないし 結局ほぼすべてが呉滅亡以降の作成になる 三角縁神獣鏡は鉛同位体から湖南省産の銅と分かっているので もし華北で大量に作成するなら呉滅亡以降になり倭人伝と矛盾 しかも国内の発掘状況から位至三公鏡の方が古いことは岡村氏ですら分かっているので 280年よりさらに新しい時代に作成された鏡で確定 国産の鏡だから今更どうでもいいが >>188 ハハ、オマエ、チョンのようだなw チョンは、どうしても九州説じゃないといけないからな。 必死に工作してるよw 倭人伝に記載している距離、日数、戸数などその他の数字も含めて信用出来んのが多すぎる 昔からシナ人は白髪三千丈とかあり得ん数字を使うから信じる方がアホと言う事。 ある程度信じられるのは方角のみ。
>>189 邪馬台国と同盟(九州以外に出雲、奈良、伊勢)にある国に配布とか?配布先で複製品作製か? 安本は考古学者じゃないからこそ客観的に 鉄鏃と絹の出土数で疑問を呈しているのであって それに対して畿内説の奴らがまともに反論してるのを見たことがない もちろん反論するにも数字は明白で自分たちの嘘を自白することになるから逃げてるだけ 挙句の果てには魏志倭人伝に記述の無い大型建物、前方後円墳、桃の種で 「やはり邪馬台国は桜井市一帯にあった」なんて言い出す始末 議論になってねーんだよ畿内説の奴らは
天武朝は邪馬台国、女王国系の最後の生き残りだろう 天武朝と白山信仰の関係は興味深い 郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れ 五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、 天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
>>189 全然文章読んでないな 言ってるのは魏は呉の銅を使った鏡は大量に作れなかったってことだぞ 別に魏で鏡を作れなかった訳じゃない なんか三国志で魏は鉱山がないだかで通貨を作るのも大変だったとかいう話を聞いたことあるな
倭国大乱から600年、侵略者を順次追い払い、倭国大乱前の有り様、【平安】が訪れた。 大中臣氏の歌 たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀もえいづる春は来にけり(後拾遺9) 汀の春、汀の復興だな
後漢書にある様に狗奴国は邪馬台の東の海中にあったから、吉備の前身は狗奴国だろうな。 紀元前から山陰にかけての弥生人殺略遺体はこの半島渡来人勢力との戦乱の跡で、その後瀬戸内海南下による纏向での東海倭人融合で列島内のパワーバランスが大きく変わるんだよ。 箸墓の神話にしても埋葬者の死に方は残酷で、その後大和に繋がる侵略の仕方は、要人に和平を持ちかけ裏切る倭人の感覚から乖離する戦略を使うからな。 狗奴流れを汲む大和の記紀に邪馬台が存在しない理由がこれだよ。
よくテレビに出てくる桜井市教育委員会の橋本っているだろ あいつも箸墓の大型建物や桃の種が出てきた時は「邪馬台国と結び付けるのは間違い」とはっきり言ってたわけ でも発掘予算を取るには「ヤマト王権初期の大型建物が出ました」では予算が大してつかないのよ ヤマト王権が奈良にあったのは皆わかってるしその建物が出てくるのも当たり前 実際は大発見だけどニュースとしては「あっそ」で終ってしまう しかし「邪馬台国と関係あるかも(チラッ)」とやるとマスコミが群がって「邪馬台国発見」となって 予算も付くようになるわけ 安本もそういう仕組みはわかってるけど「だからと言って年代を捏造したりするのは間違えてるだろ?」 という至極常識的な指摘をしているに過ぎない 纏向や箸墓を邪馬台国にするために100年程度の年代を前倒しする必要があり その為に色々な数字を捏造しまくってるから「旧石器ゴッドハンドの再来」と呼ばれてる訳でな
しかし、卑弥呼の壮大が墓が存在するという前提だけど、 本人が人徳者で簡素に済ませてくれ、とか庶民と同じで、とか遺言しててその通りになった可能性もあるんじゃ・・・
>>200 後漢書では狗奴国は邪馬台国の東方の海の向こうと書いているのか? それは初耳、倭人伝では邪馬台国のすぐ南に位置していると書いている 後漢書の書いている通りならば邪馬台国と狗奴国は海を隔てた戦争をしている と言う事だが信じがたい話しだな。 >>202 魏の使者が卑弥呼の墓を見て直径140mと言ってるので それは倭人伝がベースの邪馬台国論争では覆せない 箸墓古墳は前方後円墳で278mもあり明らかに違う そもそも前方後円墳がこの頃の邪馬台国にあるなら その珍奇な形状もあり魏の使者は径百余歩なんて書き方ではなく 詳細に記してたはず 魏の使者は墓制に関してはかなり興味を持って記述してるからね 西暦220年、「魏」は当時名目上の王朝であった「東漢」を滅ぼします。 「魏」では「東漢」末期の小型化された貨幣を廃止し、「東漢」の五銖銭に戻そうとします。しかし、 良質の五銖銭は退蔵や鋳潰されたりしており、充分な量が確保できませんでした。 不足分を補う為に新たに鋳造しようとしますが、「魏」の領地においては、良質な銅産地が少ない事や 戦国時代から続く森林の開発により燃料の不足により、大規模に鋳造できなかった様です。 「蜀漢」は他の国に比べ国力が低かった事もあり、積極的な貨幣鋳造を実施し国力を増強します。 当時の「蜀漢」領地には良質な銅産地が多く、良質の貨幣を多く鋳造しました。 「蜀漢」では、当時の通常の小型五銖100枚に相当する五銖銭(直百五銖)を発行し、物価を安定化 させる事に成功し国力が充実する様になりますが、度重なる「魏」討伐の失敗等により疲弊し、 西暦263年、「魏」により滅ぼされます。 http://www5d.biglobe.ne.jp/ ~kosen/sub/gosyu1.html >>190 鏡の入手から埋納の期間を無視した暴論 形式から6期と判断されているものさえ西晋時代の製作だと根拠もなく言い張ってるだけ 西晋時代は中国との交易が停滞してるし入手は不可能な時期 トンチンカンすぎる >しかも国内の発掘状況から位至三公鏡の方が古いことは岡村氏ですら分かっているので >280年よりさらに新しい時代に作成された鏡で確定 なんだこれ? 関連性ゼロなものを勝手に断定www ちゃんと説明しろよ >>197 じゃあ、どこの銅山で取れた銅でどんな鏡を作ってたんだ? 狗古智卑狗を吉備津彦にすれば 狗奴国が吉備で全てつながるし 九州邪馬台勢力から南岸でもあり後漢書の東でもある。 邪馬台が魏に支援を持ちかける勢力にしては妥当な国だろう
邪馬台国は巻向で間違いない 箸墓に埋葬されてるのはトヨだろうな
むしろ纏向だけはないとしか言いようがないw 畿内説は纏向を放棄して奈良県内で倭人伝と同じ特徴を持つ環濠集落探した方がいい
>>80 畿内派が現在進めてる一番やばい嘘が「数年前、中国から三角縁神獣鏡が見つかったぞ」の件 本来であれば畿内派が待ち望んでいたニュースなので 狂喜してこのスレへの書き込みの相当量を占めるはずが内容がヤバすぎて完全に無視、 逆にその他派が畿内派をおちょくるのに使われるのみっつーねw このニュース本当にヤバすぎ 世間に広まったら弥生時代でもゴッドハンドが起きたと広まって 全てを偏見の目で見られるようになるのでマジでやめてほしい >>203 一応魏志倭人伝には、邪馬台国のすぐ南が狗奴国とは書いていないけどな。 邪馬台国を含む卑弥呼の統治する連合国の南が狗奴国となっているが、邪馬台国と狗奴国の距離は書かれていない。 邪馬台国は女王のいる都 邪馬壱国を含む連合国を女王国と仮称している。 桃も長崎出土が最古。 火山土に適さず、吉備や紀州あたりに 栽培するように、広めたのが、倭の国とか?
ヤマト王権初期4世紀の箸墓古墳や纏向遺跡も重要なんだからさ 国が予算付けて発掘すりゃいいんだよ そうすれば予算欲しさに邪馬台国を捏造する必要がなくなる
>>207 ほとんどの位至三公鏡鏡の作成は呉との関係から280年以降だと確定してるのに 中国や国内での入手や埋納はそれ以降でしかない 岡村氏は文様や銘文から鏡を古い順に並べてる その結果位至三公鏡は三角縁神獣鏡より古いとしてる 国内の発掘状況でも遺跡の年代や出土土器の形式から 同じく古いとされてる というか文章読めばすぐ分かること 中国の学者が丁寧に説明してくれてる >>215 畿内説であろうと狗奴国は熊襲でも良さそうなんだけどな 天皇が熊襲討伐に遠征してる話は記紀にもあるし <<2世紀頃〜5世紀頃までのいずれかの期間中に九州→畿内の権力の遷移があったと推測することはできる 卑弥呼時代、列島には、二つの栄える中心があった。 北九州と、近畿の二か所に、周辺の土器が集まってきていた。 その二か所間で、近畿の土器が北九州に移動しているから、 北九州の方が 上位にあったのは間違いない。 その後、土器の流れは、宮崎に中心が発生。 その後、最終的には近畿が中心になったから、 土器の物流からいうと、北九州と心近畿に勢力→宮崎勢力が出現→ 近畿が中心。 というのが、古代史の権力の流れだ。 宮崎勢力と北九州勢力の関係は不明だが、 後の近畿ヤマトは宮崎から発祥した勢力。 記紀に、卑弥呼ヤマタイ国の記述が、ほのめかす形で、 前期近畿大和政権の事績に含められてるから、 北九州邪馬台国の傍系から、宮崎勢力が生まれたのでは。
そもそも邪馬台ができる以前から倭国は戦乱が絶えず、北九州から山陰にかけては紀元前から悲惨な弥生人の遺体が多数出てくる。 普通に考えれば大乱の渦中に置かれたのは、北九州から山陰、瀬戸内海にかけての範囲であり、邪馬台に反旗を返した狗奴国は、同盟を不服に思う男王を擁立する倭人圏の武力集団だろう。 よって鍔迫り合いの均衡を保つ立地地域として北九州が邪馬台であり関門を隔てた吉備が狗奴国であれば全て整う。
>>220 >後の近畿ヤマトは宮崎から発祥した勢力 この考えだと混乱するんだけどさ 記紀では神武は日向を出た後北九州で結構な期間うろついてる かと言って北九州を征服したとかそういう訳でもない 要するに神武は邪馬台国の一部勢力か一軍団くらいの長であり 邪馬台国から東征の許可をもらった、もしくは命じられて瀬戸内海を東に向かったと考えるのが妥当だと思う 狗奴国と熊襲が棲んでいた国とは別の国で民族も違うだろう。
>>192 信じられるのは地名人名くらいでしょう 中国の他の倭国伝や記紀や風土記など他資料と照らし合わせるとわかりやすい 邪馬台国の記録は魏志倭人伝など中国の文献にはあるのに 古事記や日本書紀など古代日本が編集した歴史書には記載がないんだとな。 ヤマト王権に都合が悪いから意図的に触れてないらしいが。
>>222 吉備になんか長期滞在してるし、どちらかというと一部の種族と文化伝播の過程という見方もできる 実際、卑弥呼の時代前後古墳時代に突入した大和は副葬品が北部九州と似た形になってる 少なくとも、環濠で鯉を養殖していた愛知県の朝日遺跡は狗奴国ではないと思う。
邪馬台の規模からしてその範囲は九州一帯を収めてたんだろ。 南洋のゴウホラガイの出土から見ても北部九州が南方と二分された国だったとは思えない。 確かに九州内で戦乱の痕跡も残るが邪馬台統一以前は国家間の戦乱は絶えず邪馬台安定期までの九州内抗争は有っても不思議ではない。
九州みたいな修羅の国が貿易なんてできるわけがない 集落はあっても城もない
>>1 まあ、「神武東征」を史実ととらえれば、その時点で日本の「都」は近畿に移ったことになり、 そして、卑弥呼が登場したのは、それから900年後のことだから、 もう、余程のアホで無い限り、卑弥呼の居住地は「近畿」であることに異議はないだろう。 この卑弥呼の存在地を九州としたいのは、 朝鮮半島の勢力下で日本は最初の歴史を始めたとしたい「チョン」でしかない。 >>231 だから、畿内の邪馬台国に、吉備やら、かんじんの畿内の描写が無いでしょ >>218 >ほとんどの位至三公鏡鏡の作成は呉との関係から280年以降だと確定してるのに 鎖国が完璧にできていたと勝手に断定かよ 表には墓誌がないが西晋時代早期とかもあるよな 都合の悪いものを除いたチェリーピッキングは不可 魏の年号が入った鏡も作られてるのに、言い張るだけでは根拠にならん 6期の形式と判断されたものが西晋時代に製作されたと言い張るだけ 日本での入手ルートの説明も必要 根拠らしい根拠のない思い込み(実際はただの願望)だけで九州の編年をひっくり返せるのかよ 現実的に考えろって 壊れたテープレコーダーは不要 >岡村氏は文様や銘文から鏡を古い順に並べてる >その結果位至三公鏡は三角縁神獣鏡より古いとしてる >国内の発掘状況でも遺跡の年代や出土土器の形式から >同じく古いとされてる 全く意味が分かってないが文字を並べてるだけなのが伝わってくるわwww 自分の言葉で説明しな >>232 >畿内の描写が無いでしょ ン? どういう意味なんだ? 土井ヶ浜の遺跡では大陸系長身の弥生人と南方倭人が共存していたような痕跡があると記事で読んだが、これは大和が言う熊襲と呼ばれる海洋民が邪馬台では共存する存在だったことを示しているんじゃないだろうか。 熊襲と別称で呼ぶのは近畿の大和であり、九州の邪馬台では同族だったんだと思う。
弥生時代の最盛期の人口は約60万人らしいから、『魏志倭人伝』の記述は盛り過ぎでは? 国内最大級の弥生遺跡と言われる佐賀県の吉野ケ里遺跡でも環濠の内外合わせて約5千人らしい。
百済、桃や長寿連想、 邪馬台国では長寿が多いとかの記。
徐福、桃源郷、不老長寿の秘薬→大量のモモの種 孫権不老長寿を求めて畿内を目指す 魏→修羅の国を目指す こういうことやろ
戦前は、朝貢した卑弥呼が天皇の祖先だったということは、憚られたし、任那日本府 戦後、反日団体が、日本の歴史学
安倍政治を許さない!って木簡に書いて庭に埋めたわ 2000年後に見た日本人に真実が分かるように
安本はほんと面白いわ 畿内の考古学者は捏造やってるとレッテルを貼るが イチャモンつける相手は畿内の考古学者ではなく九州の考古学者になるんだから
>>239 つまり、邪馬台国は九州 指すとなるんだよ。 大和説自体は戦前にも無いこともなかったが、戦後になって興隆した。 あとはわかるよな・・・・
>>231 飛躍しすぎだわ 神武東征で日向国から大和に移った勢力が、後のヤマト王権となり大和朝廷へと連なる。 これは7世紀に大和朝廷自身が記紀に記述している事で、動かしようはない。 だからと言って、そこから朝鮮起源説になぜ飛べるのか? 邪馬台国とヤマト王権の繋がりについては、なんら記録はない。 魏書に倭の女王が魏に朝見したって書いてあるらしいよ。程度しかない。 壱岐とか、九州の小国は記述してるのに、製鉄してた淡路やら吉備やら、琵琶湖もなんも無い>魏志倭人伝
>>245 別に、オレは朝鮮起源説を唱えていないが? オマエ、日本語が読めるのか? >>237 「一戸」を1世帯ではなく1人と考えると、まあまあの数字になる。 使者が実際に1人1人数えたわけじゃないし、徴税用の戸籍とかも無いから、 使者は倭人に「この国には何世帯いるのか?」と聞いたけど、 聞かれた倭人が「何人いるのか?」という意味だと勘違いして答えた、 と考えるのが合理的だと思う。 場所に関してもこういう勘違いによる矛盾点がいくつかあって、 それぞれの点を合理的に解釈すると、きっちり場所の特定ができるね。 て言うか、朝鮮にしても今の朝鮮と混同するからやたこしい
朝鮮起源みたいな単語を使い始めるのが、だいたいチョンw
>>245 記録はないけど、影響する範囲は示している。大和が取り入れながら独自に 古事記、日本書紀に記す。 国の名もガラとかわる。 馬、狗、熊の動物の名から伊勢、出雲、吉備だし邪馬台国の影響がある地名を変えたとか? 卑弥呼熊襲の蛮族と言っていた本居宣長ですら邪馬台は畿内のヤマトと読んでいたのに、このせいで変な神学論争が始まっちゃった
>>247 俺は邪馬台国は九州にあったと思っているが、俺はお前が言うような この卑弥呼の存在地を九州としたいのは、 朝鮮半島の勢力下で日本は最初の歴史を始めたとしたい「チョン」でしかない。 ではない。 自分の書いた文面すら読めない? チョンが歴史学にも口出しできるようになったら、大和説が盛んになった。 それと大和説は任那日本府比定説とセットになっている。
>>251 畿内は半島系渡来政権、九州は中国系渡来政権。 いずれにせよ渡来人だ。 蛮族が納める九州に行くより 政治的に安定したパラダイス目指すやろ
>>251 当方は、皇室の分家血筋にあたるけどね。皇室はチョンでいいんだね? 別だと思うけど、事実なら仕方ない。 >>254 チョンか日本人のアホか知らねえが、 この2chでも、チョンは、必死に「九州説」を唱えてるのだよ。 それは、朝鮮ルートで日本開国の契機を与えたと寝言主張したいがためにな。 劣等民族のチョンは、史実などどうでもいいのだよ。 とにかく、日本の歴史に自らが影響を与えたと言い張ればな。 邪馬台国を、将来、任那日本府が存在する地域と考古学的な関連が無い大和に比定することで、倭人の任那支配を否定したい思惑が透ける。
>>257 半島から貧弱な船で南に向かえば対馬海流に凪がされてその辺りにたどり着くだろうね。 今の朝鮮人が九州説を唱えてなんの得があるんだか・・・
>>259 チョン丸出しだなw チョンの決まり文句は、「鎌倉時代から・・・」とか「日本の高貴な血筋から・・・」とか、丸アホの寝言いうからなw オマエ、自分の国籍いってみ。それで解決だ。 天橋立が丹後にあるいじょう、京都に上陸は十分にある
>>263 得?真実を知りたいだけど。 天皇は、チョン血筋でいいになるけど? >>260 お前ちょっと勉強不足でスレチなレベルじゃね? 朝鮮人も渡来系日本人もほぼ同一人種だった時代の話だぞ? DNA調べてみろ? かつ耳垢が乾いてるのは朝鮮系であり、現代の日本人の7割を占めてるんだぞ。 お前もチョンなんだよ。 まあ2chで朝鮮人呼ばわりすれば、あらゆる勢力を攪乱できる便利なツールだから
>>265 日本国、奈良県、神主、公家と はっきりとあるけどね。家系図の 裏ずけもある。 >>226 吉備は邪馬台国の東征に抵抗して平定に時間がかかったのかもね 銅鐸が消滅するくらいの文化衝突だったと考えられるだけに抵抗する豪族もいただろうし 邪馬台国と古くから交流のあった出雲は邪馬台国の武力の強大さを知ってたので さっさと降伏(国譲り)したとか >>266 日本海側を水行するなら天橋立の景観について書かれてればいいのにな 日本海なんて通らなかったと思うが ID:MJrUaIt40の一連の投稿が、戦前日本の朝鮮支配の大儀名分の一つとなった史実を忌み嫌う本当の思惑(>>261 )から、話題を逸らすための使い古された論法だとわかる。 >>272 で、国籍はどこだい?w 国籍とは戦後の戸籍法で明示される所属国のことだ。 >>274 そん時代に天橋立は今の景観だったのかな?? >>269 このアホは、自分がチョンであることを暴露してるのか? まあしかし、チョンが必死で「九州説」を唱えるよなw コイツらチョンは、これから安倍の支援の下に、日本乗っ取り企んでるからなw どうしても、箔を付けておきたいのだろうw >>273 吉備も西からの被征服地だってのはおもしろいね 吉備が征服されるのは、あるいは積極的に取り入るのは畿内だって勝手に思ってたけど 天皇は朝鮮系でもいいじゃないか? 俺も、血筋関係だから朝鮮でもいいよ。別に得とか損の問題でもない。
>>269 お前が無恥だわ 欧州人の大半が湿タイプで、乾タイプは北米先住民族と蒙古、華北、朝鮮半島だろ 神武の出自は九州じゃなく山陰で新羅系統だよ。 日向じゃなく半島から渡来し出雲を制圧し吉備へ流れたんだろうな。 スサノオや大蛇退治に書き換えられるが、半島渡来人が山陰の邪馬台勢力を制圧し吉備から纏向へ流れたルートが自然だよ。 記紀の九州東遷は大陸王朝に邪馬台の王統を示すためのもので、大和は邪馬台の様に外交できる大陸渡来弥生人派生じゃないから文字を持たないし半島勢力だったからだよ。
考古学の研究って本当に税金の無駄だよな たった数十年前の歴史ですら中国と韓国に捏造されて言い返しが弱いんだから こっちの歴史の真相解明にもっと予算を使えよ 日本の未来にこっちの方が重要なんだし
>>280 なんで仁徳天皇があんなデカイ墓に入ってるって思ったんだろ >>282 俺らの家系は、乾燥タイプ。 つまり、天皇は朝鮮系て事でいいね。 >>277 水没してたんじゃないかな 畿内説はどうにかして畿内に持っていくため 無理に投馬を出雲に制定することがあるが、 出雲や日本海を思わせる記述がなさすぎ >>273 吉備は宇佐と同族という話もあるから、征服ではなく北部九州と近い関係にあったのかもしれない >>288 どうだろうね 吉備は当時としては結構な大国だった説もあるし 前方後円墳って吉備の古墳テイストも取り入れて出来てるし このスレ読むだけで畿内説は終わったとよく分かるな 後は九州の学者が頑張ってくれよ
有史以来一度も九州に首都があったことはないのに なぜ九州にあったと思うのか、あったとしても前線基地ぐらいやで
記紀神話を読めば分かるが、神代の神話は妖怪の様な支配者層から民衆を解放した英雄譚が多く、ではこの大和のバイブルである記紀において妖怪に例えられる強大な支配者層は何者かと言えば邪馬台だろう。 神話もまた勝者の偏見で書かれているんだろうが、一大率を恐れていた記述は魏志にある通り。 纏向は解放された奴隷が築いた都市だよ。
考古学はゴッドハンドみたいなのもいるから信用できないよね
>>282 俺はお前と違って湿タイプだよ。 たいていチョンだのジャップだの言ってる奴は近代朝鮮系のワイ族だな。 古代朝鮮人は漢族とフヨ族の混血だ。 >>72 これは酷いね。 もう畿内説自体ゴッドハンドというより 何の根拠もなくなってきてる。 いい加減畿内の考古学会は解体した方が日本のためだろ。 >>295 むしろゴッドハンドは憧れらしいよ、考古学者にとっては。 >>289 吉備が秦王国という話もあるが、どっちにしろヤマト王権初期に吉備が大きな影響を与えているのは確かだな >>269 >朝鮮人も渡来系日本人もほぼ同一人種 凄まじい馬鹿チョソコw ならどうして韓伝と倭人伝と別になってんだよ 日本は温帯から亜熱帯の雰囲気で別々の部屋の寝食で犯罪少なく嫉妬も少ないとなっていて当時からチョソコとまったく違うな 古事記だと日本が突然朝鮮半島南端を保持した状態で登場するのが不思議 それほどの偉業なら進出の過程も残っているのが自然 その部分はどこへ行ってしまったんだ
東京国立博物館(上野)で奈良の仏像展を時々やってたけど、大人気だったな。
北部九州に耳垢の湿ったタイプが多い謎 東部九州に耳垢が乾いたタイプが多い謎 四国と近畿も乾いたタイプが多い そして北海道もな
西日本の弥生時代の遺跡をよく調べると奈良はショボい部類だなあ。 邪馬台国にマッチしそうなのは唐古だけか。 吉野ヶ里の方が戦闘力高そうでカッコいいなw 祇園山古墳も小ぶりだがイメージにピッタリだよ。
>>293 大和政権の中心氏族の吉備津彦の兄弟が朝鮮半島から来たリアル極悪妖怪・温羅を退治してるのだがな >>293 こいつ出だしから歴史の無知丸わかりでよくこんな妄想を吹けるもんだ あ、チョンかww >>301 朝鮮大学などの地層調査で 6000年前の朝鮮半島には大きな集落が無かったことが判明してる。 氷河期でシベリアみたいな気候で人がほとんど住んでいなかった。 では人がほとんどいない朝鮮半島に最初に移住したのは誰か? 朝鮮半島南端から温暖な気候になっていったはずで 朝鮮半島南部に最初に大きな集落を作ったのは倭人だと考えられる。 そのため最古の文献にも朝鮮半島南部には倭人が住んでると書いてある 鉄工房の見つかった稲部遺跡の南3kmにある斗西遺跡でも吉備系の土器がかなり出土しているからね 淡路島を含め大阪周辺を順次攻め落してたんだろう
>>300 それ以前は半島含めみんな倭だったという歴史を知らんのか? 倭というのは今で言う西洋とか東洋という意味だ。 それと多くの人が勘違いしてるが、半島は混血地帯であって時代によってそのレシピが変わってるんだよ。 今の韓国人と古代朝鮮人は別物ということ。 >>308 日本から人が半島や大陸に渡ったというと想像 つかないんだよな。 実はいつの時代も日本人は海を渡って海外へ 出ている。 ザビエルもインドで知り合った日本人に連れ られて日本に来たのだがイメージわかなくて ピンとこない。 イギリスは自分たちの歴史をどう考えてるんだろう あそこなんか土地の歴史と人種の歴史無茶苦茶だからな
>>311 自分がチョンだという事実を知ってショックなのはわかるが火病るなよw 情けない。 普通に考えて九州から関東まで支配するのに福岡に本拠地があったら不便やろ
>>316 信長みたいに占領地が広がるのに合わせて本拠地を前進させたと考えればいい 九州から東遷したって言うなら途中の集落跡とかで 合戦の痕跡とかもありそうなもんだろうに全くないしな
>>316 そんな規模に発展したのは8世紀以降だと思うぞ。 旧唐書で追記された日本条が畿内の話だ。 そこで日本人が山を挟んで東の方は毛人の国だと言っている。 >>296 朝鮮半島の濊人は紀元前から半島にいますよ 『後漢書』などは読んだことないです? >>309 青銅祭祀だった九州の海神族が弥生中期に東方へ移動している 奈良派って 邪馬台国が大和朝廷になったってこと前提で考えてる人ばっかりだよね
>>308 白頭山が活発期だったかもしれない。 地質で見ると朝鮮半島北は火山土で 覆われているけど、南は地質は古い。 火山により分断、九州あたりから北上し百済の原形が形成。陛下が百済の事を 親戚筋と言っていた事が印象的。 大和朝廷は 日本で起きたすべてのことを自分たちの支配下でおきたことにしたがったんだろうな それで創作された歴史が今混乱を引き起こしてるんだろう
>>315 日本人と朝鮮人を同じにシテ〜と発狂する憐れなキョッポwwwww >>320 半島北部でしょ? その時点ではまだ百済人なんかとは別の民族だと思うよ。 アリランとかトーテムポールとか韓国にあって日本の渡来文化には無いでしょ? 【アジアパラ大会】 金メダルをとった視覚障害の韓国人選手、本当の視力は「1.0」だった? 2018年10月9日、韓国・JTBCによると、インドネシアのジャカルタで開催中のアジアパラ大会に出場している視覚障害の韓国代表選手らの中に、視力が1.0の選手が含まれていることが分かり、物議を醸している。 記事によると、8日に行われた同大会柔道で金メダルを獲得した韓国人のA選手は、障害等級2級の選手。2級には、矯正視力0.02以下の人が該当する。しかし同選手が昨年、運転免許を取得するためソウル江南の病院で検査したデータによると、視力は両目1.0となっていた。 同じく障害等級2級で今大会に出場しているB選手は、16年の検査では両目0.8となっているが、15年に障害者の世界大会に出場し、銀メダルを獲得していたという。 記事は、この問題について「国政監査で本格的に取り上げられるとみられる」と伝えている。韓国与党「共に民主党」のイ・ジェジョン議員は「正当な出場機会を奪われた障害者たちがいる。身体検査や選手選抜に問題がなかったか、調査する必要がある」と述べた。 また文化体育観光部は、パラ大会開幕前に「一部代表選手の障害等級が疑わしい」として障害者体育会に再検証を指示していた。しかし同会は再検証をせず、兵役対象者3人のみを代表から除外したという。 これについて、韓国のネットユーザーからは 「目が見えないふりをして金メダルを取るなんてひど過ぎる。良心の欠片もないのか?」 「本当の障害者たちが被害を被っていることは考えないの?」 「韓国の体育界が世界を相手に詐欺?。恥ずかしい」 「組織的不正があったのだろう。この事実を知らなかったはずがない」 「国の恥。韓国で捜査し、メダルを返そう」 など、選手や障害者体育会への厳しい批判の声が上がっている。その他 「車椅子マークの車から降りて普通に歩いている人もよく見かける」 「スポーツだけじゃない。韓国では全ての分野が腐敗している」 などと訴える声も見られた。 2018年10月10日(水) 13時50分 https://www.recordchina.co.jp/b652056-s0-c50-d0058.html 韓国・JTBCの元ソース(韓国語) http://news.jtbc.joins.com/article/article.aspx?news_id=NB11707923 >>326 同意だな。北部てアイヌと近いかも? 朝鮮南下やカラフトまで行って南下し、北海道へ、 そろそろ畿内説は終焉し吉備に移行した方がいい頃合いだろ。 もう近畿は関係ない。
>>321 安曇族が移動したのは飛鳥時代の事、安曇族よりも先に住吉族も関西に移動したが 弥生中期では無くて古墳時代に神功皇后のお供をして関西に行った。 >>314 けっこう客観的だろ ローマの植民地だった時代もノルマン人に乗っ取られた事も教えてる アーサー王も実在するとか教えてない けっこう昔から文献があるから隠しようがない >>314 日本は隠してるだけ。 イギリスと同じように、日本も大陸から来た人に征服されてできた国なのに。 >>291 お前は相当に古代史の知識が無い。福岡は少なくとも二回は首都になっている 仲哀天皇・神功皇后夫妻が数年間福岡市東区の香椎宮の元宮に住んでおられたし 何時代かは忘れたが斉明皇后?が朝倉市杷木町付近の宮に住んでおられたが そこで急死されている。 斉明天皇が住んでおられたのは朝倉橘広庭宮と呼び朝倉市杷木町付近にあった
邪馬台国の話って文字通り素直に読めば大和の斎王の話なんだけど、男の大王が斎王より下なんてことに納得いかない本居宣長のせいでややこしいことになっちゃったな
>>335 記紀によるとこの時代天皇も結構移動しまくってるから、これもまたややこしいことになってるよな >>318 勉強不足のくせして知ったかぶりばかりするな、戦った痕跡は山ほどあるぞ 「高地性集落」を勉強してみろ 3世紀後半から九州を統一した邪馬台国が東征 ↓ 4世紀半ばには関東まで統一 ↓ 関東まで供給するだけの鉄資源が不足する ↓ これまでのような朝鮮半島との交易では賄い切れない ↓ 朝鮮半島の鉄資源確保のため直接朝鮮半島に進出(AD350-400頃。この段階で任那は半島への入口として確保してた可能性が高い) ↓ AD391年に百済と新羅を服属させ高句麗と戦闘(中国の史書と高句麗の広開土王碑の記述がおおむね一致しておりほぼ間違いない事実。ここから文字で確認できる東征後の倭国) ↓ 倭の五王が朝鮮半島の支配権を確立するために中華帝国に朝貢 日本書紀書いた人たちは中国の史書や百済の史書を参考にしてるので朝貢しなかった東征時代の記録がないのは仕方がない
日本書紀だと5年程度で神武が畿内まで制圧してるけど 実際は数十年かかってるだろうね 畿内まで制圧すれば東海、北陸、関東は戦闘ではなく俗に言う緩やかな連合体の一員として取り込まれたんだろう
卑弥呼って、伊都国出身だというね じゃあ、墓は伊都国にあるね
>>341 卑弥呼=天照大神説があるから平原古墳に眠っている女王を比定する識者もいるな。 畿内派もそれぞれ独自の邪馬台国論練った方がいいよ 纏向は怪しい
>>342 平原は出土物は卑弥呼にふさわしい規模だけど 墳墓の規模がどう見ても直径150mもないからなぁ 実際現地で見たけど盛り土部分は一辺10mすらなかった 畿内は一番都市にしやすい場所は神社仏閣がたくさんありすぎて掘り起こせないんだよ ド田舎の飛鳥ぐらいやろ掘り掘りできるの
>>343 奈良にこだわらずに大阪中南部の池上曽根遺跡辺りを重点的に調査した方がマシだろうね >>338 高地性遺跡(高山性、高原性を含む)で、確実に戦争の痕跡つまり遺構と遺物が確認された遺跡はたとえばどこの遺跡がある? 高地性遺跡そのものは、様々な見張り機能、城郭的機能、伝達機能が考えられるので、必ずしも戦争=とはならないからな >>344 倭人伝に記載のある数字は全く信用出来ん、シナ人は数字を大きくするクセがある。 里程、戸数、日数も信用してはいかんと思っている。 何故、連合国を作らねばならなかったのか? 魏志倭人伝からは、南の狗奴国を食い止める為 に連合国を作ったっぽい。ソ連に対抗する為の NATOみたいなもんか 狗奴国が、神出鬼没に30余の国を襲った時 一国では対抗しきれなかったのだろう となると、女王国(連合国)は最前線という 事になる。狗奴国が熊本の菊池郡辺りとすると やっぱり、八女市辺りに女王国は有ったんじゃ?
>>130 名無しさん@1周年2018/10/17(水) 07:55:22.79ID:xKafrDFi0 が貼り付けたリンク先 (h)https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/ に 「古代に日本では、K音とH音の区別がないので、「カカ」と「ハハ」は同じ言葉である。」 と書いているがこれは大間違い、ハッキリ言えば真っ赤なウソ。 これは現代支那語の漢字の発音で日本漢字音でカ行音で始まるものが多いことで錯覚したものだ。 こういうウソッパチを書いてる奴の説は信用できない。 【害】は現代支那語でhaiと発音するが日本漢字音でガイと濁音始まりだ。 支那語で濁(=有声)子音が清(=無声)子音に変化したのは盛唐712年から中唐826年の時代だ。 桓武天皇の時代に遣唐使や漢文学者=儒学者、僧侶の間で漢字の和音(卑弥呼の時代〜飛鳥奈良時代の漢字音)は 唐で通用しないから当時最新の漢音で読むべきだという大論争が起きて 桓武天皇がついに漢音で読めと詔勅を渙発した。 「勅。明経之徒、不可習音。発声誦読、既致訛謬。熟習漢音。」 (日本紀略/延暦11年《西暦792年》11月20日) 現代支那語でフランスの首都Parisは巴黎と書きインドネシアのバリ島は「巴厘島」或いは「峇厘島」と書く。 しかしどちらも支那式ローマ字でBaliと綴る。Baliと綴っても濁音のバリではなく清音のパリで発音する。 現代の支那人は濁(=有声)子音と清(=無声)子音を明確に区別することが出来ない。 播磨の国風土記賀古の郡(かこのこほり)の条に 景行天皇が狩りをしていると一頭の鹿がこの丘に走り登り、「比々」(ピーピー)と鳴いた。だから、日岡(ピオカ)と名づけた。 とある。 夕暮れ時に奈良の春日大社や二月堂、三月堂辺りを歩いていると鹿の「ピー」という鳴き声が聞こえる。 現代支那語標準語である北京官話で「比」はpiという発音(支那式ローマ字でbiと書くがビーという濁音ではなく清音)だ。 鹿の鳴き声は決して「ヒー hee」ではないのだ。 特別授業:発音変遷の諸相と転呼の扱ひ http://www5a.biglobe.ne.jp/accent/kana/nigou108.htm 日葡辞書イエズス会のポルトガル人宣教師よって1603年に本編が出版され、1604年には補遺が出版された。 ↑この画像で「やつはし」がポルトガル式ローマ字でYatcufaxiと綴っている。 日葡辞書の概要 (h)https://ja.wikipedia.org/wiki/日葡辞書 そして幕末に横濱を拠点に活動したアメリカ人宣教師J.C.ヘボンの作った和英辞典に ハ行はha hu fu he hoと綴っている。 >>326 アリランとかトラジという朝鮮民謡は3拍子だが 日本民謡に3拍子は無い。 音楽の教科書に載ってる「五木の子守唄」は3拍子だが あれは編曲したもの。 正調「五木の子守唄」は2拍子。 祇園山古墳が盗掘されてなかったらなんの議論も起きなかったんだろうな あれもう魏志倭人伝で書かれた卑弥呼の墓そのものだろ あれが卑弥呼じゃ無くても あの辺一帯のどこかだろうね
平原は伊都国王の墓と考えるのが妥当なんだが、 筑紫平野のどこかに邪馬台国を比定した場合、女王に相応しい墓がないから アクロバティックなこじつけで平原だと言う人もいるな どう見ても無理筋だけど
邪馬台国九州論は倭国を北部九州だけと考えているから関西や関東まで支配しているとは 思ってはいない。要するに百余国あった中で九州北部の三十余国が分裂して独自路線 を歩いて行ったと考えれば良い
>>341 魏使が伊都国までしか来てないのに卑弥呼と会ってるからね。 >>353 アクロバティックなこじつけは近畿論者だろw >>347 そんな事いちいち人に尋ねるものでも無いだろう。お前も多少はネット検索が 出来るのならば自分で身の丈にあった調方をすれば良い。 朝鮮語は語尾にニダを付ける事が多い、日本語も断定する時には「・・だ」と だを付ける、シナ語は日本語とは全く異なるから日本人はシナ人よりも朝鮮人に 近いのだろう。日本人と朝鮮人は又従兄弟くらいの間柄かな?
>>347 >見張り機能、城郭的機能、伝達機能が考えられるので 全部敵の攻撃からの防衛の為じゃないか 高地性集落は攻撃を受けてた証拠だよ。 >>352 場所的に狗奴国と戦ってる当時に作るにはちょっと南過ぎる気もしないでもないけどね 邪馬台国の主体が筑後平野と考えるならあの場所は最適ではあるけど やはり邪馬台国は筑後平野のどこかにあったのかな >>354 戸数や日数も短里で解決出来るのか?www >>322 しかも畿内説の人は魏志倭人伝を読んでない 畿内説の人が自説に都合よく意訳したものしか見てない 畿内説の人にとって魏志倭人伝は読んではならないものらしい。 >>361 邪馬台国は筑後平野を含む北部九州地域一帯だよ。 >>360 お前は高地性集落という言葉をいつ知ったんだ? まさか俺が教えたから泥縄で勉強?したんじゃ無いのか? >>324 記紀の内容は基本的にフィクションと考えた方がいい フィクションに事実も少し入ってる。 >>366 そんなもの誰でも知ってるよw >>367 短里が使われている以外は数値は基本的に正しいよ。 魏使は見てきた事を実際以上に大きく報告すれば自分の評価が上がると思っていたはず シナ人が日本人と違うのは日本人はバカ正直に報告するがシナ人は自分の評価を 上げる為には嘘を簡単につくと思った方が良い。日本人とシナ人の性格の違いだろう
>>352 あれは考古学的に4世紀のもの、つまり近畿の古墳築造体制が導入されて以降のものだから、異なる そもそも「径=円墳だ。だから前方後円墳ではない」と喚いていたのは九州説を唱えるこのスレの住人たちだと思ったがw ま、同じ九州説、奈良説と唱える人間でも細部や根拠は異なるからな >>358 自分であると言ってるうえに、勉強していたのなら、答えられるはずなんだけどなあ(苦笑) ちなみに、そんな専門的なことはネットでぐぐっただけでは答えは得られないよ ツッコまれてもキレないで済むように勉強しろということだな >>360 なんで、そういう結論になるかはわからないが、戦争抜きに考えみればいいんでないの? 高地性遺跡で有名な紫雲出遺跡なんか大型石鏃が多く出ているので、防衛的とも言えるけど、 同じく有名な兵庫の会下山遺跡は、石鏃は少なく、内容は普通の低地集落と変わらないし、祭祀場まである つまり必ずしも一様じゃないんだわ 魏使は見てきた事を実際以上に大きく報告すれば自分の評価が上がると思っていたはず シナ人が日本人と違うのは日本人はバカ正直に報告するがシナ人は自分の評価を 上げる為には簡単に嘘をつくと思った方が良い。日本人とシナ人の性格の違いだろう
>>363 無槨有棺と書いてあるのに畿内発の前方後円墳で祭祀統一されていたと主張してるのもおかしな話だね。 まずは史書ありきで理論立てして、それから遺跡や出土品を照らし合わせていくのが考古学者の本来の仕事だもんね。 おそらく〜、〜と思われるで始まって、出土品も合わないのに何故か纒向が邪馬台国だとか言い出すのが畿内派の特徴だ。 知り合いだったら付き合いたくない人種だね。 そもそも魏志倭人伝が正史だからと盲信して、それを元にありもしないものを探してるんだとしたら、やはり歴史ってバカでもできる学問なんだなあと 同じ又聞きの東方見聞録でも見てマスでもかいてろよ
近畿か北九州か、なんてID真っ赤にするほどのネタですかね 北九州か釜山か、なら盛り上がるのはわかるけどサ
>>375 考古学や歴史学なんて想像学とでも言えるね。 だから最低限、文字や形あるものを軽視してはいけないという事。 それでなきゃ虚言学になってしまうからな。 バイアスありきで討論してるのは理系の俺からするとあり得ない世界だとは感じるが。 面白くもある。 >>376 現王朝が最近九州からやってきた侵略者だった ってのはいろいろ問題だよ かつて畿内説の京大と九州説の東大だったが東大が九州説では無理だと邪馬台国論争から離脱した訳だが 5ちゃん内の九州説派はまだがんばるの?
>>380 ファンタジーの世界だからいくらでもいけるんだろう 自分は邪馬台国論争などどうでもいいが、初期ヤマト王権の成り立ちが気になる派 >>380 頑張るよ? 畿内説だとそもそも距離が合わない問題が解決できておらず 根本的に成立していない。 帯方郡からの行程は距離も方角も書いてあるんだからしゃーないやん。 書かれてあることを歪め出したら、ファンタジーにしかならない。 >>382 太平洋にドボンだから九州説も距離は合わない それで短里とかいうのを創作してる >>384 末盧国まではあってる 合わないのは倭国に来てからの伝聞の日数 なので放射説だの方角違い説だの捏ね繰ってる 昔九州説が破れたのは吉野ケ里を邪馬台国って主張したからやろ
>>379 伊都国、奴国、不弥国までは分かるな 伊都国は糸島市東部 奴国は博多湾岸から宗像を経て遠賀川くらいまでだろう 不弥国は那珂川町、春日市、大野城市方面だな。 熱田神宮のおみくじ売り場の女子大生は面接でAB型女子大生は不採用らしいな
シナ人が考えついた熟語で白髪三千丈、大言壮語。誇張などがある、シナ人は 嘘を平気でつくと考えた方が失敗しないと言う事だ。信用したら後で泣く目にあうぞ
>>384 韓伝で韓が方可四千里とあるからな 1里80mくらいだな。 熱田神宮のおみくじ売り場のバイトの女子大生は面接でAB型女子大生は不採用らしいな
>>390 それ地図帳にモノサシ当てただけだろ つまり直線距離 バカすぎ >>392 そういう読み方でいいんだよ。 属国は中国にとっての成果物なんだから大げさに表現してるというだけ。 それは髭三千里と一緒で中国文化なんだから。 >>393 短里なんてものはなく適当な数字ということだな ざっくり1万里とか 距離の話はすごく簡単な話で、帯方郡(今のソウル付近)から邪馬台国まで一万二千里と魏史倭人伝に書かれている ソウル〜釜山 七千里 釜山〜対馬 千里 対馬〜壱岐 千里 壱岐〜九州のどこか 千里 ここまでで合計一万里 だから九州に上陸してからは釜山〜壱岐間ぐらいの距離しか移動しない
魏志倭人伝で まだ九州説だの畿内説だの言って奴は素人
おまえら歴史好きそうだから教えてくれ BSTBSの諸説ありはなんで終わったんだ? あれ面白かったろ
>>396 特にアマチュア九州説論者のファンタジー全開は半端ないw まともな人の興味は初期大和王権の成立過程に興味が移ってるんだけどな >>394 三国志以前朝鮮半島は方400里だった 三国志では数字が10倍増しの方4000里で報告されてる それが倭にも適用されただけ 短里とかではなくそういうカラクリ 帯方郡から末盧国まで約770q ここまでで約一万里(一里当たり約77mほど) ここから邪馬台国まで残り二千余里(約154q超) 松浦からの直線距離なら宇佐、高千穂、人吉くらいの距離 >>398 邪馬台国に該当する場所はあったんじゃないかな 九州説論者の話はこのスレ見てても面白いからもっとやって欲しいw 大和王権の成立過程はカラクリが分かれば解きやすい >>398 半島→日本海→山陰から京都と渡ってきた渡来人が畿内で大陸文化を展開した結果が古墳時代であり、大和王朝の基盤だ。 つまりGHQがDNA解析で出した結論だろうよ。 剣山で見つかった貴重な弥生人のミイラを持ち帰ってんだから。 しかし日本人としての天皇制を尊重した方が日本人はまとまりが保てるので、その話はボツにしておいた。 残念だが科学的にはそういう事なんだろう。 中国人学者が読んだら 畿内では無い事が丸分かりだってよ 何故畿内説が加速して行くんだ?
>>395 末廬国=今の佐世保市松浦町に出て 村を抜けて海岸までそこから船で一直線 すると鹿児島県阿久根市に着く 恐らくそこが邪馬台国 今の阿久根市山下か、川内市東郷町山田かなぁ 剣山の弥生人ミイラって何のことかと思ってググったわ オカルト全開じゃねーか 古代ユダヤ人やら竹内文書やらそっち方面ばっかり
>>407 隠蔽されてるけど事実だよ。 徳島の新聞記事が写真つきで残ってる。 米軍が8体もって帰ったそうだ。 ユダヤの話は後付けだろ。 ミイラはなんだったんだ? エジプト式でもないだろうけど 殉死?
>>409 埋葬状況についての詳細は不明だが、顔に刺青の入ったミイラの写真が載ってたよ。 当初は100体ぐらいあるという情報だったらしい。 >>400 >三国志以前朝鮮半島は方400里だった 根拠はどの資料ですか? 邪馬台国は北部九州にあった三十余国の同盟国のまとめ役。本州には別のまとめ役の 国が奈良にあったかも知れんが邪馬台国とは無関係で倭人伝とも無関係と言う事だ。
今時、近畿説なんて信じている池沼が いるのか?ネットが無かった昭和じゃ あるまいしw 近畿説がゴッドハンドだらけなのは ちょっと調べたらわかるだろうw
>>419 昭和時代は九州説が優位だったんじゃないの 畿内説は最近だと思ってたは >>403 戦後GHQがDNA解析? 無理だよ。DNA解析確立されてきたのは1990年代から >>405 帰来だと日本がユダヤの地って意味になってしまうが? 奈良の纏向遺跡からの出土品は 1.大量の桃の種w 2.魚の骨ww 3.イノシシの骨www 4.犬一匹丸ごとの骨(犬食い民族が居た証)爆笑 吉野ヶ里遺跡や平原古墳の出土品の方が何百万倍も価値が高い。
>>420 昭和から現在まで九州説が優位だよ 畿内説は極一部の頭のおかしな人達が強行に主張してるだけ。 邪馬台国と大和朝廷は別物だが関係とかあったじゃないの? 魏志倭人伝と以降の記録物の年代の開き150年位。 阿蘇、霧島の噴火記録もAD600年前後。 卑弥呼が宗教的な儀式行うなら、天に近い高地(高天原)周辺 噴火で吹き飛ぶ?火砕流、溶岩で消失もある。
>>423 生活の場、消費の場なんだろ そこに生きてる宗教的権威が居たとすれば、そう不思議でもない 少なくともお墓と比べられないんじゃね 近畿説のゴッドハンドの始まりは 魏志倭人伝の南を東に読み替えた事
郡より女王国に至るまで、万二千余里。 その道里を計るに、まさに会稽、東冶の東に在るべし。 起点となる「郡」から会稽、東冶辺りへの距離と同程度の距離でないと 「東」にあると言えないと思うが、九州の上だときついな
倭人伝の行程をとるか、方角をとるか さてどっち つか箸墓掘れ掘れ
>>420 昭和の時代から畿内説がまぁ優勢だった 息を吐くように嘘をつく日本史板の基地外に騙されちゃダメだぞw もう既に答えは出ている 卑弥呼は太陽を崇め国を治める ↓ 天皇は天照大神を信仰し祈りを捧げ祭祀を行う 国号を太陽の本、日本とした
「日本人とユダヤ人の先祖は同じである」という説を日ユ同祖論という。これを最初に言い出したのは、日本人でもユダヤ人でもなく、スコットランド人のノーマン・マクラウドという人物が言い出した説である。 このノーマン・マクラウドなる人物のことはよくわからない。一説にはイギリスでは売買を商っており、日本や韓国では宣教師として活動ながら「イスラエルの失われた十支族」を探していたという。 マクラウドが日ユ同祖論を展開したのは、イギリスに元々あった「イギリス・ユダヤ人同祖論」を日本とユダヤに当てはめたものであるらしい。 内容は、日本の天皇、宮家、公家の儀式とユダヤ教の儀式が似ているからというものであった。 ちなみにアメリカの黒人は「イスラエルの失われた十支族」である説。ネイティブアメリカンは「イスラエルの失われた十支族」である説。 韓国人は「イスラエルの失われた十支族」などなど世界中にあるらしく、特にめずらしいものではないようだ。 日本の場合、ノーマン・マクラウドの講演を聞いた日本のキリスト教指導者数人が、明治から昭和初期にマクラウドの説をさらに解釈を加えて日ユ同祖論を作っていったらしい。 なぜか? 明治 〜 戦前の日本はまだまだ二等国だと思っており、なんとか一等国に欧米のキリスト教国に思ってほしかったのである。そして日本は偉大な国であり、神の国であると日ユ同祖論者は口をそろえる。 例えば、「日本は神の国である。ゆえに蒙古襲来の神風から日清日露戦争にいたるまで負け知らずであったのは、我々日本人がユダヤ人と同じく神に選ばれた民だからだ」 とか、「旧約聖書に数か所「日の出る所から、その沈む所まで」という聖句があるが、この中の「日の出る所」とは地球の中央であるエルサレムから一番東にある「日いずる国」である日本のことだ」 とか、『日本は神に選ばれた国であり、日本民族は神に選ばれた民族である』といういわゆる神国ニッポンの皇国イデオロギーと同じなのである。
邪馬台国は七万戸の国だしな。 勿論北部九州にそんな国は存在出来る場所はない。安本に聞いてみたら? 必死で言い訳して笑えるよw
安本が詐欺まがいな論なのは事実だから仕方がない。 邪馬台国に鉄が多いなんて記述は何処にもない。それをまず説明しないとなw あと倭人伝にある丹山も三世紀当時九州には 確認されていない。 これも知らん顔だからな、詐欺と言われても 仕方がないよ。
>>434 箸墓に無断で立ち入った人曰く、先客と出くわしたとかw 畿内説が捏造の上にしか成り立たないのはもう>>72 で明白だよな >>442 当たり前だろ。だから畿内が邪馬台国、巻向は祭祀場所で宇陀からの丹の搬出場所だ。 というより邪馬台国九州説の奴なんて本当にまだいるのか?北部九州は奴国と伊都だ。 マジで日本で一番可能性が無い場所だぞ。 何かの工作員としか思えんわw
当時の魏の人が魏志倭人伝を読んで邪馬台国は 近畿って思うのかって素朴な疑問。 生野菜食べて温暖で海潜って魚取ってクスノキ他も自生。 九州島の東に倭種がいるって読める。 韓伝は倭人が鉄を取りに来て、朝鮮の南も倭の拠点があったような書き方だし。 魏の人にとって倭のイメージは九州なんだろうなって思った。
カルトの敵認定じゃんかよ畿内説 どんどん曝してるな スタップ騒動の時も末期は幸福の科学が捲し立てやってたけど あれと同じだわ
当時の魏の人間に今のような正確な土地認識は皆無だよw そもそも中華思想で当時は天動説だ。 東方は日の生まれる、神仙の住むある種の 聖域化している場所だぞ。 東の国=邪馬台国には絶対ならない。 だから行程は南に進むしかないだけの事だ。
近畿信奉 森羅万象のル〜ツは朝鮮突起土手岬と同根の思考回路やん
>>447 普通そうとしか思わないよな。 しかも倭地と表現されているから当然畿内にも適合する内容のはずなんだが、奈良は南国情緒皆無w 方角的には、女王国は明らかにそれまでの道程にあった国々の南に位置するからなあ まあそうなったらそうなったで、道のりにかかる時間が問題になるけど
>>408 新聞記事とは? 1952/8/26の徳島新聞に確かに「発見されたミイラ化石土」とあるが、写真は載ってない。大体ミイラ化石土とはなんなのか。 君が見たであろうその新聞記事のミイラ画像、まさかネット上でしか見られないなんて言うんじゃあるまいね笑 >>447 大和と別ものだよ。 13才の女王国以降はわかる文献がない。 一夫多妻の記述、さらに東へ千里の 倭属の記述で大和朝廷の前身との関連性があるんじゃないかと推測。 さらに、面白いのは、南に四千里に、裸族や歯黒、1m満たない民族とか興味が尽きない。 まあ九州説の最大の間抜けなところは 倭人伝を邪馬台国伝と勘違いしてるところだねw 南国情緒? あの内容なら四国東南部化、紀伊半島南部辺りしか該当しない。そんな場所に七万戸の国なんて存在出来ないぞw 倭人伝にある邪馬台国の情報なんて遠方にあり 倭で最大級の七万戸、卑弥呼が都とした場所。 それだけだ。 倭人伝だといい加減理解しろよw
箸墓古墳の埋葬者と言われている「ヤマト・トトヒ・モモソヒメ」は、4世紀中頃の人物。 卑弥呼は3世紀中頃の人物。しかも卑弥呼の墓は円墳。直径100歩、145メートル。 3世紀中ごろ、皇室の先祖は九州にいた。ちなみに神武天皇は3世紀末頃の人物。 箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。年代の推定が古すぎる。学者は年代推定をやり直したほうが良い。 もしも箸墓古墳が卑弥呼の墓なら、邪馬台国と大和朝廷は無関係。 >>440 水銀採取・生成は、山中を移動しながらおこなうから、遺構が出にくいんだよね。 でも九州にはブツはないが、傍証はある。 豊前田川の香春岳は古くからの銅山で、ここの香春神社は宇佐神宮の 前身とも言われているが、その神職は赤染氏だ。 この赤染氏というのは中央貴族も出している名家だが、姓は常世連で、 「新撰姓氏録」によると、「燕国王公孫淵より出ず」という系譜らしい。 その出自と「赤染」という氏から、丹を司る一族である可能性が高い。 >>456 一応断っとくと、俺は朱(水銀朱)も紅(ベンガラ=酸化鉄)も丹だという立場だが、 ここでは通説に従って水銀朱で話をしようかなと。 >>455 ごちゃごちゃ書いてるが 何一つ分かってないことだけは よくわかったよ >>456 水銀朱、辰砂だよ。倭人伝では鉛丹も別けて認識してるから、間違ってもベンガラではない。 >>455 そう倭人伝であり大和伝ではないという事。つまり、方角から近畿とも関係ない。 >>458 その両方とも丹と言えば丹なんだけど、俺は硫化水銀だと思ってる 倭人伝にはやたら動植物や資源ネタが書かれてるから 使節はこういう鉱物資源を探しにきたんじゃないかとも思ってる >>458 丹生神社が紀伊半島に集中している以上は 丹山はそこを中心に存在していた見るのは 当然のはなし。 精製跡も縄文時代から確認されてるしな。 2021NHK大河ドラマ「卑弥呼」 主演:広瀬すず
>>460 ベンガラはただの赤土だからそんなもん珍しくもなんともないから わざわざ記述はしないさ 昨年のNHKの知恵の泉邪馬台国編 魏志倭人伝に狗奴国は邪馬台国の東にあると書かれていると嘘までついて、倭国大乱の真実を隠蔽していた 狗奴国を東海に比定していたな このスレでも九州vsヤマトを煽ったり、何の根拠もない適当なことを言う人々が多数見られる 倭国大乱の真相を明らかにされたくない人々がいるということ 考古学者やメディアにもそういう層はいる 廃仏棄釈や神仏分離を進め、国家神道を作った明治政府も同じ
あと畿内説が圧倒的有利なのは百襲姫の存在なのはいうまでもない。 ハッキリと日女命、と書かれているだろ。 しかも生まれは鍵唐古遺跡の近所、保都だ。 移動範囲も瀬戸内海までだからな。 墓は箸墓、弟は桃太郎のモデルだし他に卑弥呼 候補なんていないだろw
>>442 畿内説前提の邪馬台国の範囲はその地図より一回り広いよ 畿内説の場合は、一回り広い場所に7万戸が入ればいい 一方、九州説の場合、筑紫平野に邪馬台国を比定するなら、その地図の中に伊都国、奴国、投馬国なども含めて合計15万戸、 さらに旁国も邪馬台国連合だから数万戸はあるだろうし、それも入れないといけない 想定してる面積が3倍も4倍も違うはずだよ 韓伝にある戸数が合計15万戸だから、畿内説前提なら整合性もある >>469 弥生時代の採掘跡、精製跡がないとなw 時代無視すれば九州説にブーメランになるだけだよ、畿内にも鉄沢山あるとw つか畿内て古代は湿地帯と湖だろ。 自分らでそれ主張しといて 平野部の面積でマウント取ろうとか笑止千万だわ
>>465 その赤土が、文字通りの「丹」だよね。もちろん朱のように鮮やかではないが、 >>460 魏志の記述では「其山有丹」だよね。「朱」という字は入っていない。 一方、風俗を記述した部分では「以朱丹塗其身體」、こっちでは「朱丹」を 塗っていると書いている。 畿内説なんてマウント取る必要すらないわw とっくに邪馬台国の場所と確定してるからな。
>>432 それがヤマトの地名は北九州にもあるんだよ 古代史を考える上で牛鬼伝説も見逃せない。 鳥取県の上石見に伝わる伝承。 牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。 孝霊天皇が牛鬼を討つ話。 上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。 その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。 共通しているのは、 ◎牛鬼は海や水辺に現れる。 ◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。 ◎牛鬼の子供は石である。 ◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。元々は古い海神ということか。 見えてくるストーリー。 牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。 海神の姫達は、石の子を産むようになった。 ◎卑弥呼亡き後の内乱を現しているのかもしれない。台与からヤマト政権の主導権が海神から石に移った可能性があるな。 百襲姫と大物主神の箸墓伝説。 石が海神の姫である磯女を娶る話かもしれないね。 古事記ではオオタタネコの子がタケミカヅチ、これも同じことを言っているのだろう。 日本人の遺伝子は母系は圧倒的に渡来系が多いのに、父系は縄文系が半数近くある。 何かこの辺りのことが影響しているのかもしれない。
朱は赤土、赭、これはベンガラでいい。 丹は辰砂で仙薬になる水銀朱。 鉛丹も仙薬。 朱丹とあるなら石室内のようにどちらも使うと いう意味だね。 でも丹山なら辰砂のある山だよ。 赭は丹ではない。
>>468 百襲姫が卑弥呼っていうのは時間的に無理なんだよ これはニュージーランドの超巨大火山タウポの大噴火の記録と 漢書や日本書紀崇神の記述と合わせると合わなくなる >>475 そりゃヤマト朝廷の出張場所だからな、後で持ち込んだんだよ。 みんな詳しいなあ。最近のスレ みてると九州説の方が説得力 あるような気がする。邪馬台国と 日本になる元の国って違う国じゃないの? 大乱があって大和朝廷になったが、歴史書には結果は記すけど、都合の悪い真相は変えてるだろ。
長江あたりから倭族が朝貢したとか、化け物が出るとかのもっと古い文献との辻褄合わせがあったんだろ。 しかも台湾や海南島よりは大きくしなくてはならない。 当時の魏・晋人の感覚は、当時の倭人の感覚にも影響を与えて、大夫だ、先祖は長江に逃げた周王朝の兄弟だとか。 まァ現代人も犯されてるわけだが、 ただDNAでは主文化は南方でどうも長江周辺らしい。 しかも良い方向の勘違いで水利や灌漑が発展したエネルギーになってる。
>>479 全然無理ではないね、孝霊天皇の時代が倭国大乱だから。 >>478 んなわけ無いw 狗奴国は、熊本の菊池郡 >>485 博多も福岡も他から地名持って来てるぞw 邪馬台国は魏使が見た景色なんだから、日本側の事情なんて関係ない。 魏志倭人伝を見れば、中国地方や畿内に行ってないのは明らかなんだよ 中国地方や畿内の情景が何も書かれてない
>>477 いや、「朱」は水銀朱(硫化水銀)を指す固有の字だよ。 「赭」も同様に、ベンガラ(酸化鉄)を指すときにしか使わない。 対して「丹」は、赤色顔料一般を表す語で、水銀が原料の顔料なら「朱丹」、 鉛が原料の顔料なら「鉛丹」となる。 >>470 しかし戸数は対馬で千戸、壱岐で三千戸だからな。 あんな小さくてコメも取れないところにそんなに家が建ってるなら、 大分、熊本、宮崎のどれか半分でも七万戸は余裕だと思う。 >>482 九州説の方がスンナリ入ってくるんだよな 近畿説はこじつけがひどい >>481 後で持ち込んだなら「大和」になるはずだ 北九州のヤマトは「山門」 魏の紀年銘鏡 青龍三年 235年 方格規矩四神鏡 三面 京都府、大阪府、出土地不明 景初三年 239年 三角縁神獣鏡 一面 島根県 景初三年 239年 平縁神獣鏡 一面 大阪府 景初四年(非実在年紀) 240年 斜縁盤龍鏡 二面 京都府、宮崎県 正始元年 240年 三角縁神獣鏡 山口県、群馬県、兵庫県 卑弥呼が魏に使いを送った年 景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられた。 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。 正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。 正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与。 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。 壹與が晋の皇帝(武帝)に朝貢 泰始2年(266年) - 泰初二年10月倭女王が重ねて貢献したとの記述 3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで 150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、 碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。
>>489 ドラえもんの「どこでもドア」を使わないと 近畿説は無理だなw >>480 絹は墓への副葬の習慣があるかどうかが大きい 実際、畿内で副葬文化が始まった3世紀後半から出ている 方角は日数とセットだろうに どっちが正しいかわからない 行程記事からは場所を特定するのは不可能 とりあえずみんな>>431 を読んでから 判断しようぜ >>487 それは正解、狗奴国が熊本辺りの国な。 戦ってたのは奴国と狗奴国が北部九州を 舞台に争っていただけの話し。 邪馬台国はヤマト、卑弥呼こと百襲姫が生まれた場所、つまり都を指す。 田原町町は旧名が都村という。しかも鏡作神社の所在地だ。 伊都国までは、「里」で書いてるのに 突然「日数」になるのは、行ってないからか?
桃の種も最新の調査で年代が違うと立証されたからね。 もう日本中で纒向が邪馬台国という学者は皆無だよ。
ままま まきもきムクムク ぷるるんカンショク ラベラベほわほわ 擬音はある意味 恋の呪文♪
近畿説でもう一つ疑問。 狗奴国と戦争してて、どうして魏に泣きつくんだろ。 例えば狗奴国が河内だったら魏に使いを送ってるヒマないよね? 援軍だって九州まで支配下ならわざわざ魏に行かないで 吉備とかに頼めばいいんじゃないかな。 九州まで支配下なら吉備も支配下だろうし。 そういう有力国を通り越して魏に泣きつくって、どういう理由なんだろ。 魏の箔をつけたいのなら、すでに親魏倭王もらってるし疑問すぎる。
>>500 それは水行でも行ける事を 強調したかったんだろ >>500 まったく関係ないが、「日暮里」という地名が頭に浮かんだ、 九州の山門とはそこが狗奴国との境界線だからだ。だから邪馬台国ではない。 何度でも言うが邪馬台国とはヤマト、保都の事だ。ホトとは女性器でもあるだろう? そこが生まれた場所なんだよ、いい加減理解しろよ。
九州の朱丹の産地としては、 長崎(といっても佐賀のすぐそば)の波佐見水銀鉱山が可能性としてあるらしい ここのは硫黄同体比がプラスなのだが 福岡の遺跡にはここの丹と近い値が出るものがあるのだとか
>>486 それこそ全然無理じゃねぇか ちょっとお笑いにもならん >>497 畿内も怪しくなるね。 交易による関連性で近畿ということも 考えている。 箸墓を調査してもすでに盗掘されているので、大したものは出てこないだろう
>>487 いや違うな。 狗奴国は吉備だよ。 菊池なんて地名はなんの根拠もない。 当時九州の南部反乱分子ごときに、鉄器武器や一大率まで有した邪馬台が大陸王朝の使者まで呼び寄せる程追い込まれるはずがないだろ。 吉備の様な半島渡来勢力で邪馬台と同等の戦力だろ >>505 狗奴国=毛野国 正始元年(240年)=魏の年号の記載された三角縁神獣鏡が群馬から出土してるね。 つまり、毛野国は邪馬台国の軍門に下り三角縁神獣鏡を授与されたということ。 >>500 そこからは魏の使者が思ってる位置と違ったのでは >>466 解釈(妄想)と前置きしてのそれならともかく 嘘はいかんだろ嘘は >>500 一つの可能性としては、魏の使者が(邪馬台国には行かずに)倭人から聞いた、て事もあるかも 隋書には、倭人は里数を知らず、ただ日を以て距離を測る、的な言葉があり 隋書より300年以上古い倭人伝の頃もそうだったろうから 魏の使者が行ったなら、彼らなりのやり方で距離を計ってたはずだし >>505 狗奴国に協力してる国が問題なんだよ。 大陸と連動して考えれば判るだろう。 狗奴国が勝ったのか消えたのか、卑弥呼が死んで邪馬台国の記述も倭人伝にはないんだからな。 台与も邪馬台国の女王だったのかも不明だ、 可能性なら狗奴国の女王だったのかもしれないぞ。 >>1 機内の場合、邪馬台国有力説なんだけど、根拠は偉大な桃の種なんだけど 北部九州って吉野ヶ里以降も有力な遺跡がバンバン遺跡が出ているのね でも あくまでも桃の種が重要らしいねw 紀元前には東北まで弥生文明は到達してるから、縄文文化なんて本州では紀元前500年頃には滅亡してるよ。
>>516 ああ、邪馬台国、出雲信者の人ねw お薬多めに出しときましょうw 九州説は女王国は北部九州を掌握、そこから先の倭種のことは知らん 畿内説は大和が西日本を掌握してたとする 第三の視点として、九州倭国が当時すでに畿内含む西日本を掌握してた可能性とかないのかな?
>>524 その淡路が倭人伝にまったく出てこないのよ >>518 なぜ邪馬台国と三角縁神獣鏡を関係づけるんだ 500枚以上出土してんだから3世紀ころのドンキにでも 売ってたんだろうよw >>510 ちゃう、ちゃう、 邪馬は山 台は台地 邪馬台国は山あいの台地にあると言う意味だ 大和ではない 場所はたぶん鹿児島県川内市東郷町山田 邪馬台=山田 (完) >>530 5回は魏と往復あるからそのたびに100枚鏡をもらえばつじつま合うよね。 >>523 桃出土、最古が長崎。そこから、広がった。近畿は、絹等が少ない。 祇園山古墳は卑弥呼の墓と言ってもおかしくないのは確か 出てきた遺物は時期も合うし 巫女であろう遺体に、周りに殉葬された人間が数十人見つかってて これは邪馬台国の卑弥呼を葬った時の記述にも合う 前方後円古墳からは今のところ数十人単位で殉葬された跡がない 葬制が違っていたのでは、と思えるな
>>534 畿内は邪馬台国時代の絹は皆無 出たのは古墳時代になってから 瀬戸内海から畿内なら、安芸の宮島、吉備、播磨の港(御津)、淡路を無視できるわけがない 日本かいルートなら、大山や琵琶湖だよ 実際に見ればわかる 無視できるようなもんじゃない
>>494 紀年銘鏡は九州説にとってかなり致命的な弱点 たいていの場合、罵倒で話題を終わらせようとするか 非現実的な与太話の強弁で真正面から議論する人はいない >>532 合うかいやw そもそも中国では一枚も出土せんのにどうして賜った物と判断したんやろな (TVでやった骨董屋で見つけました〜ってやつは無しだぞw) >>531 そんな場所に七万戸の国もないし、百襲のような候補者や伝承も重要な遺跡もない、論外だなw 台地?つまり矢田丘陵か馬見丘陵だね。 遺跡も伝承もたっぷりあるぞ。 >>529 だけどよく考えたら朝鮮半島周辺の島の可能性もあるよな >>532 , >>539 ふと思ったんだが、ほんとに記録通りに100枚の鏡を持って来たんだろうか? 末廬国のあたりとか、「草木茂盛、行不見前人」みたいな獣道だぞ。 エッチラオッチラ担いで歩いたのかしらん。 >>541 玄界灘を渡って九州までは確実に来てるから、そっから朝鮮に戻らんでしょう 縄文人や中国南東部の渡来人と同じように、黒潮を利用して潮岬まで来たんだろう 九州を南下し、大隅半島沖を南へ黒潮に乗り、潮岬までワープ
>>522 狗奴国の後ろ盾がどこかってことになると さらに近畿説がありえなくなるから避けたのにー。 だいいち考えてもみろ 平原から出土する翡翠やガラス、絹、銅鏡は東北はおろか半島、大陸から集められた、それこそ倭王しか所有できない代物。 それだけの支配が及ぶ存在が九州にいたということだろ
>>527 そんな強いもんじゃないかも。 最初は、交易とか、同盟関係かもしれない。東に千里の記述は近畿・淡路。 >>542 結構な貢物盛っていってんだから持ってかえってきたんじゃね? 大事な品なんだから粗末には扱えんでしょ 鎮魂歌 初期のヤマト政権、邪馬台国の雰囲気、様子、権力構造を的確に伝えており、興味深い。 卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか? 邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる 初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない 矛の勢力、祇園八坂神社の鉾、天神祭の矛流し神事 アチメ オオオオ オオオオ オオオオ 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ アチメ オオオオ オオオオ オオオオ 石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル アチメ オオオ オオオ オオオ 猟夫ラガ 持タ木ノ真弓 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ アチメ オオオ オオオ オオオ 上リマス豊日霎カ 御魂欲ス 本ハ金矛 末ハ木矛 アチメ オオオ オオオ オオオ 三輪山ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム アチメ オオオ オオオ オオオ 吾妹子ガ、穴師ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ アチメ オオオ オオオ オオオ 魂筥ニ 木綿取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル アチメ オオオ オオオ オオオ 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
>>542 末廬国から先には、そういった道がヤバい的な記述は無いし 道で偉い人に会った時の作法なんかも書いてるから 少なくとも伊都国から道はあったんじゃないだろか 今でも唐津と糸島半島の間は山また山だから 当時でも厳しかったんだろな、と思ったりする >>540 まだ少数だが出土品はあるみたいよ そもそも掘ってめんと分からんよ >>545 全然大丈夫だよ、言ってみなよw いくら足掻いても畿内説しか選択肢は残ってないからな。何度でもいうが、日本で可能性が 低いのは北部九州説だよ。 >>535 日の国は筑後川流域は 巫女を立てて国を治める慣わしがつよかったのだろうな 山門しかり 八女しかり 姫方しかり 吉野ヶ里では八重山以南でしか取れない貝のブレスレットをした少女の遺骨が甕棺から見つかっている この子はおそらく巫女の地位が約束された子だったのだろう 桃の種がいくら出土したところで 桃がいくらでも自生できる場所なら誰でも食ってたんだろうから大した価値はない、今で言う田んぼに生えた柿程度の食いもんだったんだろ。 そんなアケビ並みの食い物で卑弥呼がいた証明になるわけねえわな
>>6 吉備、丹波、近江は大和連合やからな 皇子が行ったり皇后が出たりしてるし 当時の日本の勢力図と魏志倭人伝を混同するなっての 魏志倭人伝に畿内の事なんて書いてないっつーの
>>552 そんなレベルでは全く話にならないぞ、 畿内には候補から遺跡に歴史の流れ全て叶ってるのに。 夢見てるだけ時間の無駄だわ。 >>554 その中でも霊力の高い巫女が斎王として倭の諸王から共立されたのかもな その場所がどこなのかは知らんが 初期の纒向遺跡の外来系土器は東海系が半数、 それに注ぐのは山陰系
>>554 神功皇后が滅ぼした田油津媛やら、景行天皇が聞いた八女の八女津媛やら 九州には確かに女性の首長、もしくは女性を神として祀る風習があったように見える >>553 思い過ごしだよ。 各地の同盟国特産品で集めて贈っただよ 卑弥呼の住居は超警戒態勢だったから、武装集団はいて当然だろうが纏向にそんな武装兵団がいた痕跡はねえんだからありえねえだろ
奈良が邪馬台国ならそれこそ群馬でも可能性がある話 奈良論者は人を罵倒したり難癖つけるだけ 日本人なのか疑うレベル
>>558 これが初期ヤマト政権の勢力範囲 畿内説ではこれを根拠にして、邪馬台国連合の範囲とする 北部九州もヤマト政権の傘下にあったので、倭人伝の解釈に矛盾なし >>549 , >>551 やっぱそうかなあ。 いや、もしかしたら皇帝の宮殿を出た所にパチンコ屋さんの景品交換所みたいな 施設があったかも知れんなと思ったのだった。冊封というシステムは 朝貢したの倍返しで賜りものをくれるけど、遠くかの国から来た使節用に、 キャッシュに替えてくれる仕組みがあると良いかなとw 帰りに帯方郡あたりで、鉄挺なんかと交換した線も考えられるが、 その場合は逆に重くなりそうだしなw >>565 まぁそうゆことだわな 青森県新郷村(元戸来村)でもいいぞ キリストの墓があるくらいだからな だいたい狗奴国がさ 畿内説の連中によると 東海だ和歌山だ滋賀だ吉備だと 言えばいいって感じでテキトーにやってるよなw とうとう群馬かよとw
大和が元々「大倭」なんだから疑う余地ないやろ 倭国の中心地として大概アピールするためにこうなったわけや では大倭という言葉はいつから出たか? ちょうど卑弥呼の時代やで あとはわかるな
前方後円墳てのは吉備が起源だろ。 なんで畿内が勝ち誇った様に前方後円墳を持ち出すんだ。
>>562 ヤマトで生れたて百襲姫は瀬戸内海で神扱いですよ、だから箸墓に吉備の祭祀の影響が見れる点も理に叶ってるんだけどね。 しかも大物主に嫁ぐ巫女王だし正に鬼道使いと言えるからな。 そういう候補が他にいるのか? >>567 大和政権というか、斎王を共立した国家連合みたいなもんだな 男王が立っただけで大騒ぎになるくらいだし、割とリベラルw >>562 女性首長というか、ヒメ・ヒコ制だよね。 卑弥呼と弟王もそうだし、神武を宇佐でもてなした ウサツヒメ・ウサツヒコとかもそう。 >>518 毛野は、華奴蘇奴国の”華奴”じゃないかなあ たとえば毛野佐野国とすれば音的にちかい気がする >>564 大和の初の都という学者もいる。 まあ、実際に、京都に落ちつくまで都移動している。 当時が統一国家だったわけが無く 地方の豪族が点在していただけなので 邪馬台国というのが幻想に過ぎない
末廬国が松浦だろうが佐世保だろうが その南に近畿は無い
古墳で勢力分布を示すなら、畿内ではなく先ず吉備か濃尾を調べるべきなんじゃねえか
>>574 だってそんなもん見てないんだから、しょうがない(丹波) >>572 そもそも記紀でも、畿内は吉備から来た神武を迎え入れる勢力だぜ そもそも厩戸王子こと聖徳太子と推古天皇こそ 卑弥呼と弟王そのまんまコピーだけどね。 場所も舞台もそのまんま。 百襲姫と吉備津彦も同じ。
>>518 毛野国説は昔からあるけど、物証が全然ないんだよなぁ 古代でもそこそこ人口があったのに痕跡もないとかありえんわ
>>588 投馬國は鞆の浦。 てな論を昔はよく見た気がするが、最近はとんと聞かんなw >>567 矛盾だらけだよ。 倭人衰退後の話、無理矢理だな。 てかさ、桃なんて、魏志倭人伝に一言も 書いてないのにww
>>535 祇園山古墳は場所も規模もビンゴだと思うんだけど なぜかスルーされがちなんだよね 観光地として整備されてなくて地味すぎるってのもある ここが卑弥呼の墓だとしても観光客が車停める場所が無いっていうか だいたい三角縁神獣鏡は魏から卑弥呼に送られたんだろ?w 何でそれが狗奴国になっちゃうんだよw
邪馬台国7万戸、奴国の3倍以上の国なんて考古学的に日本中どこを探してもない つまり、邪馬台国と投馬国はそれぞれ連合国名で解釈すれば謎は解けそうだがな そうすると、 特に伊、都、の意味を考えたら、邪馬台国の首都は伊都国だろうな 普通に糸島だろうね 楽浪土器の出土が大事だろう
吉備と出雲って抗争していただろう? 初めは出雲的だったが時代が進むに従って差異が明らかになってくる
>>595 理由も言わずに認めないなら別に構わんよ ただし、九州説は魏志倭人伝の重要な記述をことごとく嘘だとしないと成り立たない ・邪馬台国が倭国の盟主というのは嘘だ ・30ヶ国の連合は嘘だ ・水行十日、水行二十日陸行一月は嘘だ ・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸は嘘だ ・卑弥呼の墓が径百余歩というのは嘘だ ・一大率が刺史のごとくとあるのは嘘だ ・倭国の産物に丹とあるのは嘘だ 邪馬台国論争とは簡潔にいうと、魏使が認識していた倭国の盟主の国はどこかということ それなのに邪馬台国が倭国の盟主という記述さえ嘘だとしてしまうのは、魏志倭人伝を根底から全否定してるようなもの そうやって魏志倭人伝を改ざんしまくって、無理やり九州のどこかに邪馬台国を比定しても 九州には候補になりえる遺跡もないし物証面でも矛盾しまくってるんだけどね 九州説っていったい何なの?www 正直、数字は中国は古代から盛るからなw けど風習とか方角は間違えないだろよw
三角なんて大陸から出てこないんだから そもそも銅鐸溶かして国内で作り変えたもんなんだよ。 記念硬貨じゃあるまいし年号まで入れてるとか作為的過ぎんだろ
勾玉は縄文時代からあるが、仁徳天皇の時代に大ブームになるんだな 興味深い
>>560 ふつうに考えると 山門あたりの出身の日の巫女・・・ ヤマト(ヤマタイ)の日(の)巫女と呼ばれていったのではないだろうか 美人でカリスマで実際、霊能力もあったんだろう そして 八女や山門や瀬高あたりの人だと 熊襲・クマ国がすぐ南にいるんでトラウマだったろうな 地域の人たちは そんなこんなで高齢になってからは糸島に移動していたし 故郷を思って魏に使いをよこしたのかもしれない そのまえに邪馬台国の拠点は 甘木の平塚川添遺跡あたりに構えていたはずだ 天の安川(夜須)河原に 奴国、伊都国にも近いしまた 邪馬台国の中心あたりになるからね 3世紀頃にワープの技術が無ければ 畿内説は無理だと思うw
日本海側走ればわかるけど、大山とか行けども行けどもずーっと見えてるんだぜ? あれを書いてないとかアリエナイから 瀬戸内海だと、重要な国やら湊、島とか全部無し 畿内は無いわ
>>588 そうでもない、東へ千里 があるけどね。最初は緩やかな同盟近畿とあったとみる。近畿の特産品も含め 魏に贈る。顔の入れ墨(化粧品の輸入みたいなもん) >>571 名前が同じというならローマ帝国も神聖ローマ帝国も同じ国になってしまう。 九州北部の勢力が、伊都国の巫女を 女王国の王に建てたんだろ
魏からハンコをもらって喜んでいるような、 入れ墨入れまくりで箸を使わない人の国 = 邪馬台国 ≠ 大和
>>613 邪馬台国の卑弥呼で有名だからな 伊都・志摩の卑弥呼ではないしw >>609 問題はその陸行1月にあるはずの緩い連合の国々の記述が無いこと 使者は卑弥呼やトヨに会わなかったとするのはさすがに無理と思うが しかし何故近畿はヤマトなどと言う紛らわしい名前をつけて九州の邪馬台を偽装したのか
>>610 うむ。 1000年後に北広島市でファイターズ球場の遺跡が発掘されて、 未来の考古学者が「北広島は広島と同じだから、カープが北遷してファイターズになったのだ!」 と考える可能性はある。 >>600 ていうかホントに壱岐や対馬に家が千から3千もあったのか? だったら九州に七万戸くらい余裕だと思うが。 >>612 この説は俺も正しいと思ってる 真説魏志倭人伝っていうフォーラムでもこの解釈取ってる 後漢の許慎の『説文解字』に載る古代漢字の字義を基にしていないと 意味がわからないそうだよ 清朝1716年刊行の『康煕字典(こうきじてん)』が今の学者さんたちの 解釈の基らしい >>494 景初四年があるから倭国で作られたという説があるが これ見ると景初3年に作られた鏡をもって 魏の使者が倭国を訪れて景初4年と書かれた鏡を渡しただけだな。 239年に出発して240年に渡す予定だったので魏で景初4年の鏡を作った。 >>611 ・邪馬台国が倭国の盟主というのは嘘だ 魏使が認識していた倭国の盟主はヤマト政権であることが確実 ・30ヶ国の連合は嘘だ 少なくとも奴国は3世紀中頃までにヤマト政権の傘下に入っている ・水行十日、水行二十日陸行一月は嘘だ 九州を飛び出る ・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸は嘘だ 西日本全体の面積が必要(470にある通り) ・卑弥呼の墓が径百余歩というのは嘘だ 九州には150mの墓はない ・一大率が刺史のごとくとあるのは嘘だ 刺史とは地方役人の意味、伊都国が邪馬台国の近くにあるなら司隷校尉と書いたはず ・倭国の産物に丹とあるのは嘘だ 3世紀の九州に水銀朱はない >>598 4世紀初頭の古墳だしね 仮に3世紀としても近畿や山陰で流行した方形台状墓の移植で規模的にも小さい 近畿北部の移住者の墓じゃないかと思う >>614 象徴だよ。後の13才王女の守護が大和朝廷とか? 空白の150年に何があった? 三角縁は不自然な点が多いから国産鏡だろう ただこれが国産だからと言って特に問題はない むしろ意図的に作成して配ってる鏡だから畿内から広まる勢力のかなり自覚的な強力な勢力の広がりを認識できることになる
実は卑弥呼より昔に後漢書東夷伝に記された 帥升という人物がいた 倭人伝はこの話を模した可能性あり
三角縁は国産としても少なくとも魏との外交をその当時に知っていてしかもその成果をアピールして刻印してるわけだからね 他人の外交なら改めて使者送ればいいだけだからね 自分の成果を広く世間に知らしめるために配布したんだろう かなりはっきりした意思を持つ強力な勢力の存在を認めることができるな
吉備には弥生時代最大の墳丘墓、楯築遺跡があることを忘れないでくれたまえ 築造年は2世紀後半〜3世紀前半
水行は北九州内での水行移動総数が10日で 陸行は北九州の邪馬台各国を案内されて一月かかったつうことか その後女王国へ案内されましたよとなれば自然だな
>>623 特産品とは記にはない。 貢ぎ物にはある。各地から集めただけかもしれないよ。 奈良を中心とした連合国なら全て都合がいいが九州みたいな田舎が本州を支配するなんて考えられないな 九州説はオカルトだわ
>>617 唐の役人たちにこいつらどこから来た大ぼら吹きなんだ 信用できねぇやつらだと思われたから 自分たちは正統な邪馬台国の後継大和の者だと自己紹介したわけ そもそも景初三年紀年鏡なら方格規矩鏡が出てるしね こっちが下賜鏡だろう
畿内どころか中国地方の記述も皆無なのに畿内は無いわ
畿内と吉備の勢力が瀬戸内海を通じて弥生時代の後期後半には畿内から九州に至る範囲に行動範囲を広げているね その活動範囲の上に古墳が出現することから単なる交易などではなく政治的背景を持つ拡大だと理解できるね
>>629 でも、建前上は「魏からもらっ100枚の限定品」として配ってるんだよね。 もらった方は、国産だとわかっていても、「ハハァ!」と有難るもんだろうか? >>500 伊都国が外交使節が留まる所と書かれているがら 迎賓館みたいな場所だったのでしょう 倭国は百余国あって、女王国に従う国は三十余国 それから吸収合併で少なくはなっているだろうが、50〜60ヶ国だったとして 半数くらいが女王国側だったのだろう >>620 奴国とは別に3倍もある7万戸の国と思われる地域(遺跡)は九州には無い これは、九州説の弱点であるが、そもそも本州でも厳しい条件なんだよ >>623 全部書いてくれたのか それに関してはありがとう しかしその根拠どれ一つとして合ってねぇじゃんw 〜〜は確実 ○○はすでに傘下であった これって畿内説の人よく使うんだけど史料の一つでも頼むわ 全部結果を導くための仮定ばかり 福岡周辺はむしろかなり早い段階から畿内との密な交流を行っているのが分かっているな 近年だと那珂八幡古墳は石塚や矢塚のような纏向型に続く最初期段階の古墳であるという研究もされてるな 九州と畿内は邪馬台国の構成メンバーとして同じ連合の一員として活動していたのが見て取れる
>>633 本州支配でなくても政略結婚とか? 同盟関係とか、あるだろ。 >>640 中央と地方の三角縁の違いを見るとよくわかるよ 中央だと一つの墓から大量に出てきて棺の外に配置するような割と雑な使い方してるけど、 九州だと一枚だけの三角縁を絹の袋に大切にしまって主体部に収めていたりしてる 三角縁の扱い一つを見ても上位と下位の秩序がかなり鮮明に出てるのがわかる 邪馬台国と対立する奴国のことも考えたら畿内じゃないと物理的にあり得ないじゃん 九州内で完結できる話じゃないわ
つうか多元王朝しかねえじゃん トヨ13才!ほんとに支配してたとか思ってるのは今も昔も居ないだろw
>>645 福岡の東側の筑豊・豊前はそうだよね。 筑紫はまた別の勢力。 >>648 ということは、貰う方もバチもんだと判っていて、 茶番を演じていたわけか。 しかし魏王朝が鏡に三角なんて入れるとは思えんな。 サメの歯なんて倭人が信仰してるもんだろ
弥生時代の後期に入ると環濠集落や拠点集落の消滅が続く そして集落というスタイルから広域にバラバラに散住するという図式になっていく これは村的な集まりだった「クニ」から広域の領域をそのまま安全な生活圏とする「国」の誕生を示していると言われている なので、集落一つ一つの範囲ではなく地方単位の大国が出現したのがこの時代だと考えられている 邪馬台国はその分化的な要素から畿内から中部、北陸、山陽に至るかなり広範囲の勢力だったと考えられる なので突出した人口を持っていても特に不思議ではないだろうね
>>650 そう それに関しては古田学説を支持する 九州年号なんてのが残ってたのがその証左 銅鐸の頃から畿内の連中は変なの配るのが趣味なんだよw
>>648 黒塚古墳とか、かなり雑な扱いしてるよな >>649 いいじゃないの? 近畿、瀬戸内に敵も味方もいても別に不思議でもない。 >>657 うっわ 頼むから佐々木大先生のは出さないでくれ 腹抱えるからw >>652 いや、福岡周辺の九州西北部の方が畿内との交流が早くて、より密になっている 大分とかその辺は布留式の時代になってから 那珂八幡の出現とかが早いのもその流れの上にあると >>654 そんな広域に住んでんの文字も戸籍もないのに、どうやって七万戸も数えたんだろう。 >>627 国産なのは当然なんだけど、学会って学問の自由がなさすぎだよなあ。 批判があっても無視するし、批判する人も少ないって論点が多すぎる。 古代に、大した戦乱も無かった、卑弥呼が支配した世なら、その後の歴史があったとこが普通に考えてそれ以前の支配者が居ただろ。 つまり、邪馬台国は奈良時代の前にあった。 シンプルに普通に考えて、これ以外の考えに至る気持ちが分からない。 俺は奈良は修学旅行しか行ったことない、関西方面には無知な都民だけど。 九州にあったなら、それ以後もそこに朝廷があるはずだろ。 論争の余地が無い。
>>655 縄文文化と聞いたら激しく憤る人達がいるが 同じ勢力だろう 仮に福岡が都だったとして本州と対立して勝てるわけない 邪馬台国の周辺なら滅ぼされる心配はない
銅鐸でも銅鏡でも 銅が貨幣みたいになってだけじゃね? 国内の豪族間のさ たぶん奴隷かなんかの交換レートじゃないかな?
中国では鏡は威信財じゃないからね 基本的に女性の姿見 だから機能的には平面じゃないといけない 三角縁みたいに大きく反ってる鏡はあんまり中国的なものではない
>>665 なんで古代に戦乱が無かったの?銅の剣とかたくさん出てんでしょ? つーか東大が九州説下ろした時点で既にオカルトじゃん 沖縄の基地で暴れてるような香ばしい人が火病起こしてるようにしか見えない
>>663 戸と人数間違えかも? 当時、戸籍という制度、理解できないのではないか?一夫多妻とか出てくるからね。 同時期に初期大和王権が生まれたなら 倭国大乱からの女王共立で巻向が都に って事で良いと思うのだよな 九州説の場合だと機内へ権力が 移行する流れを説明するため 結構な短期間で衝突と大王誕生という 同じ流れを繰り返す感じになる印象
>>648 三角副葬の墓は殆ど4世紀以降 倭人伝の時代の後 三角は当時は何千枚もあっただろうね 北部九州の那珂八幡も含めた初期〜前期の多くの前方後円墳は未発掘 北部九州に限った事ではないが、もっと掘らないとわからないな 那珂八幡は第一主体部が未発掘 >>670 おまえここ初めて?佐々木せんせのは畿内説スレから みんなコピペしてくるけどもう何度も論破されて ファビョって逃げていくんだけどw >>652 畿内勢の進出で一番顕著だったのが奴国の中枢であった比恵那珂地域だよ 九州では奴国の王様が真っ先に畿内政権の傘下に入っていったということ >>671 武器が出てくるのは、農地である領土を守る為に、農耕の時代なら当たり前で、それが戦争の証拠にはならないし。 そもそもが、レスしたけど、奈良と九州が戦うわけない。 必然性が無いでしょ。 >>631 九州では、北九州と言っちゃうと小倉市周辺の事を指すから 九州北部などと言い換えた方がいいよ 狗奴国がクマソで伊都国との間に邪馬台国があって滅びて 狗奴国が全てを習合した
>>657 の中国鏡の分布って>>72 で否定されてるやつだよね 晋代の鏡が近畿で見つかっていてその前の漢魏代の鏡が九州北部で見つかってるってことは やっぱり邪馬台国は九州北部なんじゃないの >>677 いつどこで論破されたんだよwww 九州説にとって致命的だから罵倒してるだけ >>90 歴史が残っている部分では親子間の承継より兄弟やおいが承継した事例の方が多いから、 古代も実際はそうだろういう話。 >>676 那珂川は日本最古の用水路が残っているとこだね 裂田の溝 一度見てみたい >>676 那珂八幡については主体部の発掘どうのよりも前方後円墳をどこの地方よりも先駆けて導入してる点が注目点だろうね 北部九州の拠点だった伊都国周辺に真っ先に畿内に準じる古墳を採用してる辺り、 土器の密さと同様、かなり近い関係を構築してるのが見えるね 邪馬台国が畿内から九州に至る全国的な政権であることが読み取れるね 当時の中国に奴隷を遣わすぐらいだから言語の類は理解できたであろう。 問題はそれなら仮に九州に邪馬台国があったとして滅んだのなら 何がしかの文明的な遺跡あってしかるべきじゃないか? 大きな集落が出てくるレベルだけで、文化文明の類としての 証拠品が中国に奴隷を送って柵を取ってくるレベルの国としては 無さ過ぎる。 この点で九州説は弱い。
>>682 それ今日安本のインチキ見破ったよ 比較してるのは @日本出土の位至三公鏡の「製作年代」 A中国出土の位至三公鏡の「埋納年代」 九州の邪馬台国とは別に畿内政権もあったんだろうけど銅鐸文化の消滅とともに消えた。 銅鐸文化が消えたのは、日本海経由で渡って来た渡来人に占領されたから。 その渡来人たちが大陸譲りの王朝を築き、古墳時代を作ったんだよ。 それが後の大和政権だ。
>>663 高句麗とか三万戸とか言ってるし土地の肥沃さとかを基準にしてるのかもしれない 高句麗は土地がやせていて農業に向いてなと書かれてるしね それと広域の連合を評価しての事だろう 強盛だった高句麗よりも上と判断されてるんだから並みの扱いではないのがわかるね 学者で九州説唱えてる人挙げてみて? なんでいないの? 誰か説明してくれないか
>>627 わざわざ畿内の勢力が魏の年号を尊んでたというなら そこ隠れた意味は 邪馬台国が畿内にあったということだよね >>690 定型化前の段階での話 今は定型化の前でも古墳は全国的な展開をしてるのが分かってるからね そのより根源的な研究が盛ん で、九州では那珂八幡が相当な速さで出現したと言われるようになってるね >>679 >武器が出てくるのは、農地である領土を守る為に、農耕の時代なら当たり前で それを戦争っていうんだろ。 倭人伝に邪馬台国と狗奴国が戦争してる記述もあるし、卑弥呼が死んだあとも戦争があちこちで起こったからまた女王を立てたって書いてるし。 >>688 漢鏡の区分はそもそも埋葬年代から決めてるんじゃないの >>690 その前に纒向型前方後円墳ってのがあるのよ さらにその前に畿内系住人が移住してる >>693 その通りだと思う 繰り返しになるけど他人の外交なら別に改めて使節送って正式な称号貰えばいいんだからね その前の勢力を倒したというなら猶更 そんなかび臭い物を使う必要なんてないからね 中国との外交というトップの情報をまさにその時期その時に知ってて使うんだとしたら当事者と考えるのが自然だろうね 邪馬台国と古墳は関係あんの? 狗奴国と戦争状態なんだから 戦争してた跡のが問題なんじゃね?
ぶっちゃけ本州は魏の視野の外 倭種でひとくくりだよ
卑弥呼の邪馬台国の時代は、巫女が支配した位、平和な時代だったんだよ。 ここから考えないから、九州か、大和かって論争が出てくるけど。 平和な時代に政権が移動するわけないんで、卑弥呼と揶揄された女性は、日の巫女。 その弟がその後の天皇。 つまり、神話の天照とスサノオ。 それ以外、無いと思うけどね。 大和が日本を半分くらい、支配して巨大化して、卑弥呼と呼ばれた女性の日の巫女を、天照に書き換えたんだろ。
>>699 古墳関係ないよ 古墳時代よりも前だから >>696 形式というかデザイン だから製作年代を意味する >>703 でも表では墓誌を基準にしてるよ それ以外に漢代だという証拠はあるの? 本州を無視できるほどの謎の力があるのか九州はwww やっぱりトンデモだな
そもそも国産の銅鏡を作って配布するという方法は弥生時代後期後半には近畿でも独自の物が始まってる その中心地は大阪周辺 銅鏡の作成と配布は九州が先行してるけどこの地域は九州式の銅鏡を採用しないで独自規格を立ち上げてる この独自銅鏡の作成と配布がのちの三角縁に繋がってるんじゃないかね どのみちかなりの自覚的な中心勢力の行動だと読み取れるね
>>695 武器を持つイコール、戦争って考えるのは子供の発想。 日本の伝統だが、武士はいかに刀を抜かないかと、それで納めるのが哲学だった。 武士道と言われること。 文明、とくに言語的なレベルでの遺跡や遺物で決まると思っている。 当時の魏に奴隷を献上して柵を受けるレベルの国家が 何もそれらの証拠品を残さないというのは考えられない。 仮に戦乱で全て吹き飛んだ、としても今度はその戦乱から 逃れた地方や他国に渡った移民から伝承が続くものだと思う。 大体、九州説の更なる弱点は「じゃあ邪馬台国は九州の ど こ だ ?」 という場所を示せないこと。
>>695 精神的支柱を失い内乱だな。 女王で安定化した。その女王を 取り込んだのが、近畿て事も考えられる。正式な後継者として大和使う。小倭(邪馬台国)から大倭(大和) >>676 椿井大塚山とか、当初は4世紀後半(380年前後)と見られていたよなあ。 それが今や270〜280年でさらに古くする捏造が進行中。 学者を自称する連中がやってるのは、神の手の論文の濫造だよなあ 倭国大乱とかで魏に要請したのは邪馬台国の卑弥呼側だろ? 何だよ急に平和な時代だったとかさ
>>705 だから力関係じゃなくて、魏使がどこまで行って、どこを見たのか が魏志倭人伝だから ちょっと違う話だけど倭の風俗について「淫らではない」と書いてるけど、高句麗は「淫らである」と書かれてるなw なにやってたんだ高句麗と
倭人伝て国家事業と言えなくも、歴史に残る前提で書き残されたモノだから 後で間違いでしたと指摘されない、受け取った上役の認識や知識に反していない程度の (本人の認識上での)正しさはあると思うんだよね 方角はともかく数字を大げさにした云々は言い訳効かないから、バレるリスク高すぎじゃねかな
>>704 安本は表から埋納年代を拾ってきて、違う基準で比較してイチャモンつけてたんだよ 早いものは漢代に埋納されてるから、鏡は漢代には出現していたのは確実 >>708 近畿はどこだよ? なんせ、阿蘇、霧島、長崎て噴火多いですよ。 >>717 ほんと近畿一円火山て無いんだよ 大山とか白山になるんかな 古墳は関係大有りだろ 権力者の力を示す象徴じゃん ましてや邪馬台国の王ともなれば巨大じゃなきゃいけない だが古墳のでかさは本州の土壇場 九州説には都合が非常に悪いな しょぼい権力者しかいなかったのかね
宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね 太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ
>>716 そもそも表の記述は岡本氏の本から持ってきてるんでしょ じゃあ岡本氏は本来なんて記述してるの 埋葬年以外に根拠があるってことだよね それを出してほしい >>40 やっぱここから進歩してない畿内説はさ 倭国大乱はなかった武士道とか意味不明 >>719 古墳も卑弥呼の円墳くらいで、前方後円墳はガン無視 見てないよね >>701 倭国大乱の後で各地の王が斎王の下でまとまってるんだから、まぁ平和な時代だな 飢えた倭人が半島まで逃げてきたのは2世紀後半だが、3世紀になると半島荒らしまくって荒ぶってるw >>715 中学生の頃からそう考えているが、俺は投馬国は出雲で、邪馬台国は畿内だと 思っている。 水行が含まれるので、四国にしても中国地方にしても海を渡らなければならない。 この時点で九州は無い。放射読みは余りにこじつけだろう。どこの世界に 道案内で目的地にたいして放射で教える人間がいるのかと思う。失礼ながら。 >>714 思いっきり魏使御一行様の主観だよな。 もしかしたら、「高句麗のお姉ちゃんはエロくてけしからんけど、倭の娘っ子は色気がない」 みたいな好みの話かも知れんw >>683 お前この前一人で100レスもして逃げてった佐々木せんせ大好き野郎? 神功皇后なんて攻め入ってるからな 時代がかなり後だろな
>>721 その辺は岡村氏の論文を読むか本を読むかで勉強した方がいいよ 古墳と邪馬台国の関係は倭人伝からも読み取れるね 倭人の風俗で葬儀について詳しく書いてるけどそこに土を盛って墓を作ると書いてる この当時すでに四隅や台状方形墓という大型墳丘墓が作られているからこれらを指していると思われる この地域は中国との交流も盛んだから中国人も周知の可能性が高い で、卑弥呼の死後に大いに塚を作るとある 塚というのは「高く作った墓」なのでそれまでの墓とは段違いものだったと思われる 四隅や台状方形墓を知りながらさらに塚について特筆してるわけだからそれまでにない未知の墳墓だったと理解できるね 時期的にも卑弥呼の死後だから250〜260年くらいだろから纏向型の出現と時間がちょうどピッタリなところも興味深いね
>>725 だから畿内に行く道程が描かれてないでしょ 行ってないから >>724 そもそも、三国志の時代だから、仮に日本が戦乱の世なら、それを書いてるはずだからな。 >>729 なぜ出せないの 表を出せとは言わないからどんな証拠で年代を決めているのかそれだけ教えてよ 古墳近くの地元民だけど、色々と語られていて驚いた 地元がそうだったらいいなとは思うけど、九州が史実だというなら別にそれでもいい
>>719 当然、邪馬台国てすぐ内乱、 卑弥呼、その後の13才王女で安定する。 大和朝廷みたいな強力ではないて事。 倭人伝読んでわかるでしょ。 >>727 誰だ? 佐々木論文を根拠に出す人は数人いる まあ佐々木論文は九州説にはほんと邪魔でしょうがないんだろうな >>728 日本書紀は卑弥呼=神功皇后なんだよね でもそれじゃ年代が合わない 卑弥呼の墓には奴婢が生き埋めにされたわけだが 神功皇后の時代は埴輪になっていると日本書紀にもある 埴輪が作られたのは日葉酢媛のころだから垂仁天皇の時代 卑弥呼はそれより前でないといけない 百襲姫ならピッタリなんだよな >>733 はあ? 自分で本を買うか図書館に行けばいいことだろうに トヨだかイヨだかが、そんな偉業を成し遂げたなら 天皇よりも記紀に素直に書いてるだろうよ
古代から近畿が経済の中心地であったことは明白 突然九州から巨大国家が誕生するのは論理的整合性がない
>>735 祟神天皇の時代なら 内乱も地方制服もピッタリ倭人伝と記紀の記述が合う 軍には性の問題が付き纏うのは、古今東西同じ 特に遠征する場合は重要な問題になる。 卑弥呼に仕える婢1000人の役割も推測できる。 纒向遺跡は巨大な兵の駐屯地 兵力は権力
>>725 魏志倭人伝を精読できてる現代語訳サイト 見ることを勧める あんたの理解超えて目からうろこ状態になるから >>739 知らないの? 墓誌による年代推定をあなたが否定したのだから別に年代を特定する根拠を提示するのが筋だと思うけど まあ近畿説派ってこんな人ばっかりなのかな >>731 日本地図をどう考えるかによるが 九州説では水行の20日、10日をどうにも説明できない。 魏の使者はけっきょく九州から一歩も出てないよな 倭人の言うことを鵜呑みにして記録してるだけじゃん
>>736 俺が知るわけねぇだろがw おまえじゃないなら違うやつなんだろね 畿内説スレPART388ぐらいに常駐してんだろ?w >>686 そして、土器の流れは北部九州へ一方通行 畿内と北部九州が交流がはじまったのが庄内期、つまり卑弥呼時代 ただ、注意しなければならないのは、これは市民の交流の証でしかない そして、人と物資はより発展している所へ集まる物だ んで俺の学者の質問には誰も答えられないのな 願望と科学は分けて考えようぜ九州説さん
俺は素人なのでいくらでも批判してほしいのだが、一番わかりやすいのは以下の筋書き。 卑弥呼が3世紀の中頃になくなって物部氏の王が立ったが国がまとまらず物部氏の娘が王になった。 そこに”開化天皇”が婿入りして崇神天皇に王権が女系継承され、王権は物部氏から天皇家に移った。 そこで崇神天皇が元の氏族を名乗ると国がまとまらないので氏のない名だけの存在となった。 物部氏のシンボル、ふつのみたまのつるぎは宮城にあったが崇神天皇の七年に石上神宮に移された。 移したのは崇神天皇の叔父のイカガシコオノミコト。 神話との対応を考えると開化天皇=神武天皇、卑弥呼=天照大神、卑弥呼の後の王=饒速日、 ウマシマジ=いかがしこめのみこと、一族の女の王=いかしこめのみこと。
>>741 どこが明白? 稲作とか、大陸から近い所からじゃないの? >>744 精読して結論が九州ならそれらしき、遺跡、遺物、文化、移民 書籍、が無い状態をどう説明する? およそトロヤの遺跡からモヘジョンダロまで 証拠物件がない状態で「ココに大国がありました」なんてのは 九州説の人間の脳内しかない。 証拠をだせ、証拠を。 記紀が一番に古墳と卑弥呼を無視してんだよな 普通は自慢するべ 国史で偉業を成し遂げたならさ 銅鏡も無視 銅鐸に至ってはわかりませんと来てる ぜんぜん連続性がない
邪馬台国なんて、そのままの国が日本にあったわけじゃなくて、大和国だろう。 自ら、邪な馬、つまり、暴れ馬なんて国名を付けるか。 大和も当て字っぽいけど、山が沢山って意味だろな。 現代人でもわかる感覚。
九州て昔かっから火山が噴火しまくって文明が発達しにくい場所なの 鬼界カルデラの噴火で縄文時代に文明滅びてるし
>>749 畿内と九州の交流については色々な形が複合的に起こっていると考えられるね 侵略であるとか、征服であるとかの形ではないと思う 第一畿内は最強でも、先端でもないからね 覇権国家として九州を影響下に入れたわけでもないと思う おそらく九州の方が内乱なりで統制が崩れて、畿内、吉備の人間が入り込みやすい状況になったんじゃないかと思う >>746 近畿ではどうなの? 当時の船や航海は、現在と違うこと 考慮しないとね。 >>753 散々書かれてるのにいちいちなんでまとめを求めるんだ 信じたくなきゃ自分の信じる畿内をどういう経路で 使節がたどったのか頭ん中で作ればいい なんせ魏志には書いてないんだからな、作るしかない トロイヤも戦争の痕跡だろ? 戦争の痕跡なら>>40 のが説得力あるわ >>745 鏡の年代には3種類あるんだよ 製作年代、入手年代、埋納年代 製作年代を漢鏡編年に使ってる 数十年ごとに形式デザインが変わってくるから 定義そのものだよ 入手年代を正確に知る方j法はない 埋納年代は墓に埋められた年代 場合によっては100年、200年後もありえる 根拠の提示もくそもないだろ 漢鏡編年の定義なんだから もう付き合いきれないのでこれ以上レスはしないから >>752 稲作が経済の指標にどんな影響与えてるの? 意味不明 古墳の大きさみりゃ畿内の経済力の高さはわかる >>753 祇園山古墳をどうぞ。バッチリ卑弥呼の墓の条件満たしてます 邪馬台国が近畿か九州か断定できないが 少なくとも学説では畿内説を支持する人が相当優勢なのは確か アマは九州説優勢だが。
>>754 記紀が作られた事情を考えればわかると思う 日本は白村江で大敗して今までの体制ではもうダメだという強い危機感を抱えていた で、急速に国家体制の刷新を行っていたと だから前時代のシンボル的な古墳なんてもう自慢してられない 朝貢してた卑弥呼のような存在もあまり誇れない これからは日本は最先端の仏教と道教と律令を持つ、冊封を受けない独立国だ!というアピールをしてる だからそういう過去のシンボルをあまり表に出す気がないというわけ >>762 経済力の高さ 古墳の大きさ 邪馬台国と何の関係も無い、それらは邪馬台国時代の後の話 佐々木論文を誤読というか、意図的に曲解して 北部九州は畿内政権から独立していたと意味を180度逆にしてたやつもいたな 九州説が成り立つ余地ないからどんな卑劣なことでもやるって感じなんだろう
>>763 あれは4世紀初頭 で、仮に三世紀としても近畿から山陰に広まる台状方形墓の典型 大きさも中規模 この地域は畿内の土器の分布も多いのでおそらく山陰から近畿北部の人間の墓ではないかと思われる そもそも九州にはそれまで全くないタイプの墓の移植なので外来の人間の持ち込みだろうといえる >>755 邪気を払うだよ。 青が緑と言う時代もある。 現代視点で読んでも意味ないよ。 海幸山幸神話こそが果てしない論争のキーだと思うね。 邪馬台国などという地方連合国家の話しはその後だ。
奈良論者はこの鉄鏡について誰も答えない 唯一発見された鉄の鏡 3世紀の物と考えられる VIDEO >>764 俺は完全な素人だけど、奈良だと思うよ。 仮になにもない奈良に政権が生まれたなら、九州はどうして黙ったの。 戦争したなら、間違いなく、記述されてるだろうけど、無いもんな。 >>749 奴国でも比恵那珂遺跡と博多遺跡では意味が違ってくると佐々木先生は書いていたね 比恵那珂遺跡だと政治連携、実際直後に前方後円墳ができたりしてるし 一方、博多遺跡だと単なる交易目的 倭人伝に登場するメインたちが日本書紀の崇神、垂仁、景行紀に出てくる 百襲姫、ミマキイリビコ、イクメビコ、豊鍬入姫、田道間守、伊都都彦 ヒナモリ、、、、 九州説には誰がおるん?
>>738 関門海峡にしろ、仮に四国に行くにしろ、現在の船で20日も10日もかかるか! 逆に言えば当時の船や航海術ならありえる話だろう。 日本地図を逆さに見た場合、あるいは放射説嫌いとも矛盾はするが、 陸行一月→中国地方から畿内にいく場合 水行10日→四国あるいは岡山辺りからショートカットして海を行く場合。 基本的に、いくら「戦乱がありました」といっても 人間の文明がその証拠も残さず根こそぎ取られるとは思っていない。 九州説の弱いところは「それらしきココ」が無いところにある。 >>714 こういうの好き。 淫らな接待しちゃったんだろうねw >>766 経済力がある地域だからでかい国ができるんだろ >>771 黒幕は塩爺。 ヤツは神武兄弟もそそのかした。 >>771 そこなんだよな。強力中央集権と 勘違いする人が多い。倭人伝読んだら分かるだろ。 >>769 何でも畿内が関係すると考える方なんですね >>776 関門海峡にしろ、仮に四国に行くにしろ、現在の船で20日も10日もかかるか! 逆に言えば当時の船や航海術ならありえる話だろう。 日本地図を逆さに見た場合、あるいは放射説嫌いとも矛盾はするが、 陸行一月→中国地方から畿内にいく場合 水行10日→四国あるいは岡山辺りからショートカットして海を行く場合。 基本的に、いくら「戦乱がありました」といっても 人間の文明がその証拠も残さず根こそぎ取られるとは思っていない。 九州説の弱いところは「それらしきココ」が無いところにある。 祇園山もそうなんだけど九州にはそれま大型墳丘墓なんて吉野ヶ里の例外ひとつ以外は全くないからねぇ 基本的に地下式 大型墳丘、ましてや葺石なんて未知もいいところだった それが子の邪馬台国の時代になって唐突に出現する そのうえ、これら出現地域に畿内、吉備の土器が広く分布していると これらの事から考えられることは「外来の人間の移住とその分化の移植が進んでいる」という事だろうね 独自性の発露はみいだせないと
>>758 関門海峡にしろ、仮に四国に行くにしろ、現在の船で20日も10日もかかるか! 逆に言えば当時の船や航海術ならありえる話だろう。 日本地図を逆さに見た場合、あるいは放射説嫌いとも矛盾はするが、 陸行一月→中国地方から畿内にいく場合 水行10日→四国あるいは岡山辺りからショートカットして海を行く場合。 基本的に、いくら「戦乱がありました」といっても 人間の文明がその証拠も残さず根こそぎ取られるとは思っていない。 九州説の弱いところは「それらしきココ」が無いところにある。 ここ数日の関連スレで前方後円墳の分布図貼ってる奴って同一人物か?
>>776 でもさ、隋使でも6ヶ月かかってるよ。 あと対馬海流渡るのって蒙古の軍船でさえ苦労した。 時期を間違えば台風の影響でめちゃくちゃ大荒れだし。 >>757 一方通行なのがヒント なぜ鉄文化は畿内で遅れたのか? 特に奈良は空白地帯 例えば、糸島と出雲はどちらからもそれぞれの土器が出る 同等の交流ができる地域だからだよ 1〜2世紀頃は寒冷期、3〜4世頃に温暖化したが、5世紀には冷涼化 倭国大乱は寒冷化中、邪馬台国でやや緩和してのち安定したが、倭の五王前後には冷涼化 気温が低下すると稲作ダメージ大きいし、 食料不足は人の移動離散と騒乱の種 王国が黙って消えるほどの変化もあるんじゃね
>>761 だから制作年代がわかるのなら>>72 の表にある晋代のものとされる26面について根拠を出せばいいじゃん 一例も出せないんだから事情はわかったよ 古代の移動は船だからね しかも沿岸沿いに何度も何度も寄港して 船の移動速度って実は超遅いからねw 時速数キロとかでタラタラ進むことになる 土佐日記の紀貫之も土佐から京都に帰るだけでかなり時間を食ってるから古代となればなおさらだろうね
九州て日本史だとずっと空気だし政治的経済的影響力はない
九州か畿内かではなくて、九州説だけ集まって 九州のどこかを考える方が建設的
>>790 一方通行というか生活土器が移植されてるからね 移住とそれに伴う在地文化の変容が現れてるね そもそも弥生時代後期から続いていた地域ごとの障壁を無視して全国あちこちに移動できるようになってる畿内の動きはかなり異質 こんな地域は畿内と吉備だけだからね ただの流行や交易で説明できない点が多いね >>794 九州から畿内まで一切の記述が無い 畿内まで行ってないってこった >>797 帯方郡から1万2千里で東が海なら大分か宮崎県北部にならんかな。 >>785 独自性て必要でないよ。 交流があっただけだよ。 仮に大和政権の連中が九州にある邪馬台国の証拠や遺跡を木っ端微塵跡形も無く ぶっ壊して、伝承を伝える人間を根絶やしにし、この地球上から葬り去りました! として、 そんなの可能だと思う?
>>773 奈良文化財研究所名誉研究員 「邪馬台国は九州にあるのではないかと個人的には考える。固執する気はないが、可能性は高いとみている。」 >>773 奈良は吉備等の他地域からの入植があったのだろう 3世紀後半、箸墓やホケノ以降の突然の鏡や鉄、埴輪等の文化移入で明らかだよなぁ >>799 東へ千里、南に四千里の項は、 聞いただけかもしれない? >>779 だからでかい国ってのも邪馬台国と無関係 ヤマト政権を否定してんじゃねぇんだよ 違う時代の話だ 単純に卑弥呼のいたところは斎場のある神聖な場所だから 魏の使者を連れて行きたくなかったと考えればいい だから諦めさせようと恐ろしく遠くにあるかのように伝えた 本当ならそんな遠隔地に政治の中心があるわけがない 実際に事務と執っていたのは伊都国だし 七万戸も怪しい
>>799 それはどうなんだろうね 上でも書いたけどこの時代には集落単位の括りが崩壊して広域の国が出現している 九州はその広域化が遅れていて都市国家的な「クニ」の段階であると考えられる それが数十キロくらいの移動で次の「クニ」に到達する記述の意味 投馬国、邪馬台国のような地方単位の広域の国になると記述は自ずから大まかなものになるだろうと思う 行ってないという判断をすることは早計じゃないかな むしろ邪馬台国の広大さの現れであると考えられると思う 中国を散々苦しめた高句麗の倍以上という評価は伊達じゃないと思う >>797 昔は県境がない 筑紫平野全体だよ 吉野ヶ里も川添遺跡も含まれる 当時の人口が30万人としても ここなら稲作可能 >>798 移民してきた人らから学び、文化を現地人が需要したんだよ それがここから九州中に広まる事になる つまり、流行 南至邪馬壹國 女王之所都 自女王國以北 其戸數道里可得略載 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 ちょっと方角間違えたってレベルじゃないからね 何回読み返しても伊都国より南にあるようにしか思えん ここまで書かれたら大和に高層ビルが建ってても九州だと断定できるわ
>>806 言語上の問題であれこれになるのだが。 規模の大きさを否定したら、「九州から大規模な集落がでているから邪馬台国に違いない」 という言説も否定されるよね? 鉄が九州から多くでているのもあるし、経済的な力は九州が強かったかもしれない。 ただ、方位を意識した建物や古墳などの出土品をみると、政治的中心地は纒向にあったとするしかないと思う。 断定はできないが、邪馬台国=ヤマト国でヤマト王権の初期段階とするのが自然ではないか。
>>808 それはそれで九州の小国への言及が詳細すぎなんだよ 学問で飯食ってる学者が圧倒的に畿内優勢な時点で答えは出てるが九州信者の悪あがきが見れるのが5ちゃん
纏向の復元を見ると中国風の楼閣とかあるんだけど、あれってやっぱり吉備ー宇佐ラインの渡来系の影響なのかね 宇佐と吉備は同族だか近親という資料があったような
>>807 見栄か?戸籍の意味がわからないから人口と間違え >>809 筑紫平野の北部には大和って地名があるしな、瀬高の山門より直接的 水行10日で有明海に達したというわけね >>801 どのみち使者が特記するような卑弥呼の死後に現れた墳墓であるとは言い難いんだよね このタイプの墳墓は出雲や丹波周辺という中国と交流の深い地域で広く分布してるんだしね より大きくてもっと特異な形で だから祇園山は「九州では」特異だけど当時の倭としては別に珍しい物じゃないという事になるね むしろ持ち込みとして九州の文化と、山陰、近畿の文化の融合したものとして注目したいね 邪馬台国と大和王朝に歴史的連続性がないだけで、別に無下に否定するもんでもないと思うな。 皇室だって正式に認めてるわけでもないでしょ。
狗奴国も国と付いてるが後世のように統一された国とは思えない 大から小の豪族の集合体だろう
まあ、佐賀が邪馬台国だったなんて、九州人が聞いても何だかなあって思うけど 当時は農業漁業が大事だから、佐賀市周辺は住むにはとても良さそう
>>803 どういう根拠かわからんけど、普通に考えて、邪馬台国は語感からして大和国だろうし。 卑弥呼は、日の巫女。 文字の教育のない時代に重要なのは、語感だろうから。 英語でもそうじゃん。 いくら文字で英語を勉強しても、ダメ。 だけど、耳で聞いた英語から覚えた方が伝わる。 と、奈良には全く縁が無い都民の俺は考える。 >>793 しつこいぞ そもそれもおれは鏡の専門家でもなんでもない 岡村氏が日本出土の鏡で6期や7期と判断したものを違うとひっくり返したければおまえが根拠を出すものなんだよ 埋納年代を出してきたから論理が違うと指摘したんだ こっちに根拠出せってなんだそりゃ? 筋違いも甚だしい >>812 当然だよ そもそも倭人伝にそんな記述は無い それと卑弥呼は邪馬台国からフミ国に引っ越してきてたと 書かれてるらしい(これは俺も最近知ったネタなんで 確証はない) >>807 現在の天皇も日本神道の統括としての地位があるけどな。 シャーマニズムは世界各国にあることだから「よくある事」かもしれんが 単なる王ではなくて宗教上の存在になっている事からして 邪馬台国の統括者としての存在に関連が無いとも思えんけどな。 >>814 西域とかの国と同じ扱いなんじゃないかね? あの辺も都市国家レベルだけど一応国としてここに扱われるし そういう意味では邪馬台国連合の一員だけど半分独立国としての個性を維持していたという事じゃないかね >>761 岡本氏の論文見たんだけど制作年代を漢鏡編年に使うとはどこにも書いてないんだよね というより制作年代という考えすら出てこないよ あなたこそ一度確認したらどう? file:///C:/Users/%E3%81%A8%E3%82%89%E3%81%8A/Downloads/kenkyuhokoku_055_02.pdf >>811 倭人伝には東治(呉)の東に邪馬台国があるとはっきり書かれているんだが 九州じゃなく沖縄県のあたりに邪馬台国があるとはっきり書かれている。 なので九州説も無理がある >>820 少なくとも中国では邪馬台国と後の大和朝廷は同じものとして取り扱ってるよ みんな割と知らないけど台与の後に特に問題もなく男性の王が即位してそのまま系統を維持してる で、連続して使節を送り続けていますと その系譜が後の平安の天皇ともつながってると認識してる 邪馬台国が大和なわけない。 邪馬台国は九州の一集落であり、卑弥呼はそこの女酋長。 一集落の女酋長が勝手に倭の女王を名乗って朝貢したに過ぎない。 万世一系の源たる大和がシナごときに朝貢するわけがない。
>>819 卑弥呼の墓だから最大というわけでもない あくまで卑弥呼が亡くなった時代の、当時の卑弥呼的立場に沿ったサイズの墓になるはず その後に建築技術が進歩して、それから後のえらいさんの墓の方が大きくなる事もあるだろう 条件を満たす墓として、祇園山古墳は興味深いと思う >>825 つまりあなたは墓誌を判断の基準にするのが適性かそしてそれ以外に根拠になるものがあるか知らないわけだ 最初からそう言えばいいのに >>617 そもそも邪馬台=ヤマトじゃないな 似たような地名なら沢山あるだろ 山田、山手、山井、山居、山谷、耶麻、間代、山多、山寺、八又 大和は元々はヤマトでは無い 倭→環→輪→和 みんなで手を取り合って大きな和を大切にしていきましょうと言う事でダイワ(大和)になった それがたまたまヤマトと言う場所で国を起こしたから宛たんだよ 邪馬台国と大和は=ではなくて別物だと思う >>799 日本の『延喜式』にも大阪から福岡まで舟で一ヶ月かかると書いてあるから 昔の日本では一ヶ月(水行30日)って認識が一般的だったんだよ 鳥取県の妻木晩田遺跡も弥生時代を代表する遺跡だよ。
>>818 筑紫平野にはまだ発見されてない遺跡、古墳が突出して多いって データがあるんだとさ >>714 なんか倭人についてはほのぼのした描写がされてるが 高句麗人へは容赦ないのなw >人々の性格は凶悪、短気で、略奪を好む とかw >>840 あるとも、ないとも言える。 記紀以前の話。 >>818 個人的に有明海は使ってないと思う あんな潮の満ち引きが激しい場所は敬遠すると思うので 潮が引いたら何キロ潟が続くのか あと邪馬台は日本語の発音で 中国語でははシュマイ 近畿説では邪馬台国より北を検察する伊都国ってどこなの?
>>823 唐古・鍵遺跡の間違いかな。なんか中国風w >>845 糸島でしょう。 南と東を誤認していたようですから。 >>833 これも上で書いたんだけど倭人伝の記載では倭人は土を盛って墓を作ると記載してる で、卑弥呼の死後にまた特筆して大いに塚を作ると書いてる 塚ってのは高く作った墓のことだからね 卑弥呼の死後にそれまでにない墓を作ったことが読み取れる 仮に大きさではないとしても、卑弥呼の生前にもみられるような墓ならあえて書く必要がない そもそも倭人伝はやたらと墓には記載が詳しくて各地の葬儀や墳墓について細かく書く 高句麗の積石墓についてもわざわざ記事を割いてる となるとこの記事は、アジア全体、というか世界見ても例を見ないような特殊な前方後円墳の事だろうといえるんじゃないかな? 少なくともそれまで有り触れていた方形周溝墓や、台状方形墓ではないと思うな >>765 それじゃ普通に別物じゃないかよ ヤマト王権とやらはさ >>633 今の基準で考えても意味はないな 大都会東京が関西になんか支配されるわけがないとか言ったら頭おかしい 昔は九州は大陸からの最先端の文物がやってくる地の利があった >>829 URLが違う >>834 意味不明すぎる 岡村編年に文句があるなら自分で根拠を出せといっただけだろが 古墳なんかの保存も、ある程度の広域的な政治的権威の確立が必要だと思うな。 連合国家の女王に、大王をしのぐ権威が果たしてあったかどうか。
>>846 唐ならず〜と後の時代。 三国志の時代だぜ。 諸葛亮孔明、曹操孟徳、孫権とか知っている? >>621 もうそれで答えが出そうなんだが 畿内説信者が邪魔をする ギリシャが東ローマ帝国を名乗ったみたいな捻れだろ、これさ それをそのままアスペ解釈してギリシャの起源はローマとか言うようなもんだろ
皇族も認めてる日ユ同祖論がヒントだと思うんだよな。 ユダヤ人が朝廷の祖、神道の祖、日本の祖って話。 ローマやギリシャの帝国を築いたほどの文明、その基礎になった数学。 これが花開いたのはどこか。 言うまでもなく、建築だろう。 スカイツリーの発想の元でもあるし、土木もだが、水道技術。 九州のどこにそんな遺跡があるよ。
>>837 それは中国史の合間の話 中国の混乱で歴史書が順番に作られなくて宋書まで間があるというだけ 日本が消えてなくなってると勘違いしてる人多いけどw 中国側の記録は魏、晋、宗、斉、梁、隋と台与の後の王が続けて使節を送っていると書いてる そもそも卑弥呼の後なら完全に古墳時代だからね そこまで行ってしまえばもう畿内中心の歴史が展開して細かい部分はともかくとしてその勢力が継続してるのは周知のことだからね >>848 前方後円墳だったらそれこそ事細かに形状を書くんじゃないかね サイズよりも形が変わってるんだから 形状について触れていないというのが、前方後円墳じゃない根拠になると思う >>851 砂糖が採れる 宮崎に行くとサトウキビ畑が目立つが いつ頃から栽培していたのだろう >>852 コピーしてブラウザのアドレス欄に貼りつければ見れるよ 制作年代の件を確認してね それから岡村編年でこの26面をどのような根拠で分類しているかあなたが出せば終わるんだよ 墓誌以上に根拠のある材料があるってことでしょ >>72 八草の矛盾を突いてるんだから まああなたでは無理だってことはわかったよ >>850 だから国号も日本に変えたんだよ 天武天皇は『私は新しい国を作った』と宣言して大友皇子への弔問の使節を送り返したりしてるからね とはいっても昔の事を全否定したんじゃない あくまでも「刷新」した 昔の伝統を維持しつつ新体制の構築を急いでたんだよ その辺が白村江の大敗で国家的な危機にあった日本の立場が見えて面白いところだね 九州王朝説・多元王朝説 弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、 という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、 存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。 なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、 九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。
>>847 方角を誤認するということは使者は大和まで行っていないし 卑弥呼の墓も見たことないってことかな >>852 上のはたどれなかったわ グーグルで「漢鏡編年」で検索して 「後漢鏡の編年 - 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ」ってのを読んで 卑弥呼の時代、ヤマトは近畿にはなかっただろうね、それが神武東征伝承だよ
>>859 というか魏の使者は邪馬台国に行ってないから、卑弥呼の墓を 自分で見たわけではないし、大きさを計ってもいないだろ。 縄文人の血が濃いのは沖縄と薩摩だけどさ 沖縄のが中華化して薩摩と対立してた時期あるわけじゃん 最終的には薩摩が沖縄を支配してたけど 文化的には薩摩が沖縄のモノを自分達の名産にしてる 焼酎とか黒豚とか薩摩芋とかさ これが古代の北九州でも薩摩から見て逆ベクトルであっただけじゃね? 邪馬台国と狗奴国でさ
>>859 確かにその辺は難しいところだね とは言っても高句麗の積石墓もピラミッド状の特異な形状をしてるけどそこには触れてないからね 記載については基準が不明なところがあるね でも卑弥呼の死後の250〜260年ごろに登場する特筆される墳墓となると前方後円墳以外には考えにくいかな >>866 呉の背後に倭があると考えていたようですからね・・・ 方角は誤認していたのは確か 沖縄一つ取っても文化圏としては日本語で多元王朝じゃんかよ 同じように天孫神話があった上でさ 古代なら尚更だろ
卑弥呼候補の中でも箸墓の百襲姫は 共立女王死ぬ→巨大な墓作る→殉死者も増大→ 貴人死ぬ→繰り返す→続けるの無理→埴輪が身代わり とか 凄い巫女が死ぬ→守り神にしよう→ 皇女が祭る→相応しい神殿作る みたいな後に繋がる流れも見えていい感じだ
>>872 縄文は東北やアイヌも、強く残してるよ。 だから、弥生文化の朝廷の夷敵って事で征夷大将軍が征伐に出たのが坂上田村麻呂だし。 >>862 Cドライブになってると指摘したんだがwww 文句つけてる方が根拠出すのが筋だろが なにを言ってるんだ? そもそも中国出土の鏡を岡村氏がどのように判断したかをおれが知るわけないだろ >>872 え? 焼酎とか米や麦でも作るけど? 黒豚は六白豚といって欧米から入てきているはず サツマイモは元々唐芋だな >>880 すまんねー上に検索ワード書いたからそれで見て 知らないことの議論で相手の論拠にケチをつけたのはあなただよ だからそれに変わるものを出すのが筋、当たり前 もうあなたには無理ってのはわかったよ 距離と方角どっちが間違えやすいかというと、やっぱり方角だと思うんですが。
>>875 会稽東治の東は帯方郡より南に万二千余里の距離だそうですよ >>879 だから多元王朝で何の問題ないし 沖縄にしたってアイヌにしたって交易はしてた だから畿内の土器が出たからなんだって言うんだよと 沖縄からは本州からの鰹節から昆布まであったけど それで沖縄は本州に支配されてたとかなるのか? >>850 だから、別ものだけど、関連性あるかもしれないとも言える。記紀とダブル部分もあるからね。どういう過程で強力な中央集権になっていくのが、興味なんだ。 北部九州にシュマイかシェマイという町名残ってるとこない? 邪馬台は中国語でシェマイらしいから
>>881 沖縄を中継して文化として入ったという意味 原理的な由来を言ってるわけではない 張氏が言っている・・・「日本の学者は、『魏志倭人伝』を 読めないのが問題なのでは無く、読めないということを 知らないことが問題なのだ・・・」っと。 お恥ずかしい限りですわ日本のお偉い先生方
>>885 いくつかの、色んな支配者が日本列島に居たんだろなってのは、当たり前だと思うよ。 統一王朝は、明治の時代だからな。 それまで、江戸時代ですら統一して無かったんだから。 俺たち、現代人は古代から統一した国家があるんだろうと考えるから、邪馬台国論争が起きるけど、 どこが統一してたなんて事は、古代にあるわけねえんだわ。 >>882 ただのイチャモンになってきたな 言ってることが支離滅裂 安本がインチキ論法で岡村編年に文句つけただけのこと 終了 >>887 そりゃ関連はあるよ 政体としては別物で連続性はあまりないな 遠く海の向こうのマケドニアの国名問題と同じだな >>886 岡山の桃太郎伝承を忘れんでくれ、桃から生まれた男子が鬼を退治する これは鬼道と深い関係のある伝承だ ところでこの板は邪馬台国関連スレがよく立つが、ここで論争したいがために 関連ニュース見つけてスレ建てしてんの?
>>883 太陽は東からしか昇りませんよ?星は? 二十日も船に乗ってるんでしょ? >>875 魏が呉の政治・経済の動向を探っていれば、 呉が裏で倭と接触を維持していることぐらいわかる。 そりゃそうだ。 南西諸島経由で交易ルートあるんだから。 >>891 使者が実際に行ったことのある末盧国までが約一万里ですので 残り二千余里の場所ですね >>854 ちょっと何言ってるのかよくわかんない 奈良の唐古・鍵遺跡が唐の時代だとでも思ってるのか? >>876 琉球も統一まで幾つかの国だったんだよ。琉球の場合、三山から統一までしか知らないよ。オモロソウシも面白いね。 >>885 土器ってのは基本的に自分で作って使うものだからね 土器の変化は「現代人の生活がアメリカっぽくなった』とは全然意味が違う 作成から使用法まで全部変わる 生活の様式を根本から変えることを意味する 畿内式と九州の土器はそれこそ全然違うからね 他地域の様式に一方的に変わっていく事はただの交易なんてレベルを超えた動きを読み取ることができると思う そしてこの土器の動きは常に中央の変化に連動する 単に便利な土器が入ってきたんじゃない X式から庄内、布留式と新しい物が現れるとそれがまた地方で導入される 一体化しているような様相を呈しているのがわかる 更に言うなら土器の分布域は祭祀の分布とも合致していて弥生時代後期まではかなり排他的なものだった これが土器から祭祀まで全部外来の物に代わるという事は、生活から権力基盤まで全部変質してることを意味する この時期のX式から始まる土器の拡散はそんな適当な現象じゃないから重視されるんだよ >>897 春分と秋分は東から登るけど、夏冬は東からずれますよ。 まず宮内庁が古墳の発掘を認めるべき。 もし遺骨が出てきたら、DNA鑑定までやってもいいと思う。
>>893 イチャモンでもなんでもない ただあなたが墓誌による判定にケチをつけたのに肝心のそれ以外のあるべき根拠を出さないだけ いや知らないだけだからもっとたちがわるい それから岡本編年でも制作年代を漢鏡編年に使うなんて出てこない そもそも制作年代ががわかれば苦労しないって話だわな 嘘知識言うのやめようね 九州倭国は半島を支配していたんだろ それが邪馬台国でええやん 奈良政権は半島倭国の不満分子が作ったんだろ なんでそんな国を邪馬台国にしたがるんだ
>>888 福岡の志免(しめ)はどうよ。元々はしめんだったのかも知れない ちなみに畿内形土器の拡散地域においては祭祀遺跡で畿内形の供献土器が使用されるようになる 在地の人がわざわざ畿内形の土器を作って祭祀をしてる様子も出てくる これは祭祀の方式までも畿内式に代わっていることを意味している 古代の祭祀はそのまま権力者の権力基盤の確認作業でもある これが外来の物にとってかわられてるという事は、権力基盤の根本的な変化が現れたという事 そして、この延長線上に古墳が出現する ただの交易や生活様式という範囲を超えた政治的、権力的な背景をその後ろに見ることができるというわけ
九州王朝説・多元王朝説 弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、 という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、 存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。 なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、 九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。
何か朝鮮陶工が日本に来てるから 日本は朝鮮化してる理論か?
>>906 不満て言うより、中央集権過程で戦わず吸収した方が、良いと判断しただけかもしれない。内外的にも正当な後継者のアピールにもなる。 張氏は、1・語学的に絶対に無理が無いこと。 2・原文を絶対に修正しないこと。 3・国々の位置が陸上にあること。 すばらしい やっぱ書かれてる文は書いたお国の学者さんでないとな
>>907 水行10日もかからないような気がするよ 張氏は言語を訳しただけだから未完成なグーグル翻訳の状態 そこからさらに意味を汲んで日本人が解読した方が良いと思い >>909 ちょうど下で書いた>>910 の祭祀の変化という形でも在地文化の塗り替えが起こっている その地域の個性を急激に変質させて、常に「中央」から流れてくる動きに従属するような図式が生まれている この時期だとまだまだ弱いけど、定型化した古墳が出たころになるとかなり明確になる その前段階としてこの時期の土器の変容は重要なものとして評価できるね >>898 自分の認識では、魏は公孫氏殺した後、倭が朝貢してきたから 喜んでたよね。 魏にとって呉対策で帯方郡から倭までのルート確保は必然だった。 けど狗奴国は呉のルートを持ってた。 当時の呉は航海術すごいしね。 ちなみに熊本から呉の神獣鏡が出てる。 >>911 学界が全て正しいわけでもない。 タブー扱いもあるからね。 なんせ、今までの歴史や権威がひっくり返る事には、慎重になる。 張氏は高千穂とか日向とか知ってるの? 水行10日陸行一月なら、佐世保から鹿児島の阿久根よりも宮崎の方がしっくり来る
沖縄も天孫神話から祭祀や日本語圏だけど ぜんぜん中央政治の埒外だったよ? そもそも半島南部も倭の範囲だと言うけど 多元王朝だよな? 九州も近畿も同じように並立してても何も問題ないわな
>>915 神獣鏡の銘文についても気持ちよくメッタギリしてるね ぐぅの音も出ないわw >>902 基本は流行の流れだよ 土器は庶民の生活基盤だ 仮に征服されたとしても、作成する土器は変わらんだろう 政治的云々よりも影響があるのは交流の主要地域。 ここから本格的な流行がはじまる 土器の変化は庶民内の流行だからね 政治的に変わるとしたら、やはり支配者の墓の様相の変化は重要だろうね ここも思想的な流行も考えられるので、慎重にならんといかんが ちなみに自分は元香椎民だけど志免って神功皇后がおしめを替えたから 志免って名前がついたって郷土史で習うよw 宇美で応神天皇を産んだから宇美になったとか、神功皇后の足跡として 地名の上塗りをしていったかもね。
>>920 俺の予想と合うな。高千穂伝説とか? 霧島だから噴火多いから出土品が出にくいのが欠点。 >>922 沖縄みたいな遠隔地や言語まで違う外国は比べてもしょうがないよ 地理的限界は古代なら尚更大きいからね 当然古代王朝にそこまで強力な統制力はないから各地の半自立的な王のような存在がいたことは当然だよ 日本だと「造」というカバネを与えられた人たちとかね ただそれらも中央政権の大小さまざまな影響下で活動しているに過ぎない 時代を追うごとにその在地権力は削られて縮小消滅していく 邪馬台国はその初現として大きな注目点になってるね >>924 流行という一言で片づけられない動きなんだよ くどいようだけど生活から、権力者の基盤である祭祀まで中央からの動きに従うようになってるんだからね それまではかなり排他性の高い障壁があったことからこの動きはかなり特異だとわかる 各地の独立性がどんどん薄められていく過程の上にある現象 実際、九州も関東も出雲も東海も急激に個性を失い中央からの動きに従い在地の個性を失っていく むしろ過小評価は危険だと思う >>928 沖縄は言語も同じだし外国でもない むしろ縄文系で原日本人じゃないか? >>910 その年代はいつ頃の話? 例えば、具体的な遺跡等はどこ? 造の事を書いたけどこの造も最初は強力な地方王的な存在だけど、時代を追うごとに中央からの干渉が強くなって弱体化していく そしてただの地方官から下級の名目だけの存在変わる そういう段階を踏んで地方が大きな組織に組み込まれていき次第に手足をもがれて弱体化させられる この統合と中央集権化の現象の最も最初の動き 後の大和朝廷の誕生の部分になっていると思う 注目に値する部分だと思うよ
旅をするのって、冬の寒い時期じゃなくって、夏のほうがしやすいと思うんです。 そして夏は日の出は東からでなく、北東が日の出になりますよね? もし日の出の方向=東だという認識なら、九州から近畿までは南に進んでるつもりでも東の方角へ進んでいくわけですが・・・ それに対し、何回太陽が登って日が沈んだか。 それってあんまり誤認しなさそうなんですが・・・ 実際、10世紀を過ぎたような古地図でも日本を南北に伸びる列島と誤認しちゃってますし・・・
仏教が入ってからじゃないの? 中央化はさ 土器は半島南部にもあるけど何の影響もないじゃん
日本地図中心で考えるから近畿だ九州だってなるけど 三国時代の地図中心で考えたら、魏が絶対に陸伝いに 倭のルートを確保したいのがわかるかも。 邪馬台国VS狗奴国っていうか魏VS呉みたいな。 そうすると、あぁ魏志倭人伝って三国志なんだなって気がしない?
>>936 何か島国だと思って放置してたら いつの間にか鉄利権が大規模にあると知って魏、呉の両者とも本気を出した感じだな >>929 弥生時代は人口が増えてったんで、単に畿内の余剰人口が 新しい集落を作りながら西日本に浸透していっただけかも。 >>937 だからそう言ってるじゃんw 魏書 第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条でしょ? >>791 倭の人口推移 縄文後期 16万人 縄文晩期期 7万人 ↓ 紀元600年 539万人 縄文晩期は寒冷化による減少 500万人に増えるには途中、150万人ほどの流入民があっただろうと推察される >>929 その祭祀土器とは具体的に何の事?かがわからない。 共通の祭祀って何? それは何世紀の話? 墓の様相等の話は、卑弥呼当時の3世紀前半はまだまだその段階ではないと思うが 初期の古墳が各地、バラバラな規格で作られはじめはするけど そして、徐々に広がるが、4世紀に入る布留1の時でさえ、まだ墓の様相は様々 物部が大和物産を操業して鉄器を分けて貰ってただけじゃね? そんで畿内ではナガスネヒコに天孫からの贈り物ぞよ とか言って下賜してわけよ へへ〜とナガスネヒコ
移動しやすい夏に旅した場合、日の出は北東だが、日の出=東という認識なら南に移動してるつもりでも実際は東に移動してることになる。 一方、日の出日没の回数はそう大きく間違えようがない。 やっぱり、水行10日は当時確立されてた瀬戸内海ルートの九州〜大和ことを記したとするのが自然では?
当時は鉄なんかより丹の方が遥かに貴重だぞ。 ヤマトにはされがあるから権力が集中したくらいいい加減理解しような。
>>947 それはそれで良いよ。丹も貴重だからね。 志免町歴史資料室見てきたが卑弥呼の年代と遺跡が合致しなかった それより近くの宇美八幡が神宮皇后が応神天皇を産んだ場所に驚いた
倭人伝で鉄について記述されてるのはたった一ヶ所、鉄鏃が骨の鏃と一緒に出てくるだけなんだぞw 邪馬台国とは何の関係もない。 しかも卑弥呼は民を鬼道で支配してたとある。 丹は呪術、神仙思想でも必需品だろ。 ましてや鏡とくれば水銀朱とセットだ。
>>951 韓伝の方に朝鮮半島の南に倭人がめっちゃ鉄を取りに来てて 拠点みたいになってるってある。 当時はそこも倭人の領域って思われてたから 鉄の利権もあると思うよ。 >>917 なるほど。狗奴国がどこか、確定だな。 熊襲とはクマとソに二部族の総称らしいから、 狗奴=クマなんだろうな。 鉄の神である金山彦、金山姫神社が何処にあるかそもそも知ってるのかと。 河内にある信貴山なんだぞ。 船着き場所も直ぐ横の柏原だ。
>>946 東は元は「ひむがし」で日に向かう方向を意味するけど、それを陳寿だか郡使だかが日に向かうなら南だろと倭人の言葉を勘違いした、みたいな論を見たことがあるな 自分は魏の認識してる倭国のつもりで書いてるので、 まず近畿ありきだと話が噛み合わないかもです。
>>941 孔明が死んで西の脅威がなくなった魏が 東の征服に乗り出して、公孫氏を滅ぼしたことで 卑弥呼の使者が魏に到達することになった 孔明の死と、卑弥呼の使者は5年しか違わない >>946 方角は南中時の太陽の位置でも測れるよ。 どの季節でも、太陽が最も高い位置に来る(最も影が短くなる)時、 その太陽は必ず真南にある。 多少の誤差はあっても、測量慣れしてる人が90度も間違える事はあり得ない。 >>953 だが邪馬台国の記述とは何の関連性もない。 もっとも出雲で半島勢力と戦ったと伝承で 残っているのはヤマトの孝霊天皇だからな。 孝霊天皇は百襲姫の父親だ。 また百襲姫は瀬戸内海では水運の神でもあるんだぞ。 クマソを狗奴国と仮定すると 呉、狗奴国は江南方式の鉄器だけど 九州南部では鉄は自前であった 新羅のが当時は鉄の錬成は上手だったらしいね けど北部九州に送ると考えると苦しいね
>>960 当時は中華思想&天動説だよ。 現地の測量が正しくてもあまり意味はない。 方角なんて中央の思想的な物で簡単に方変されると考えればいい話。 何で倭人伝だけで中華思想で方角を変えるんだ? 他じゃしないだろw
>>960 その理屈は正しいんですが、 実際、何世紀も後であっても日本列島の方角を誤認してるんですよ? やっぱりそんな測定というより、単純に日の出=東と誤認していたのでは・・? それに対し、何回日が出た沈んだってあんまり間違えようがないでしょ? 邪馬台国論、どれが正しいかはわからんけど面白かった
スレざっと読んでみたけど 箸墓は卑弥呼の墓ではなくてナガスネヒコの墓じゃないのか 桜井市は被葬者を間違ってないか?
変えなきゃ半島の東方に邪馬台国があると 色々思想的に矛盾するだろ。 邪馬台国が中国人憧れの神仙の住む国となるからな。 だから邪馬台国は半島からずっと南にあると考えてたんだよ。
当時の中国の『水行』とは川を進むまたは海岸線に沿って進むことを意味する
>>963 三国時代は戦争の時代。 のんきに思想宗教に頼って間違った地図を作ってたら負けて殺される時代。 劉徽や裴秀などその時代の学者達が、 三角測量法や広域地図作成法などを開発しているし、 測量に自信があったからこそ、いちいち距離と方角を記したわけだ。 思想宗教で決まってるものだったらこんな細かく書かないよ。 魏志倭人伝って福岡のホテルにおって お茶飲みながら、偉いさんの話を聞いてまとめたものやで 邪馬台国には間違いなく行ってない 近畿にも7万戸の町あるんやで 奈良の大和っていうんやけど ほんでな、大和はよう揉めとるわ 女を王さんにしとるらしいで アイドルやな ほんでアイドルみんな好きやから大人しくなったわ 奈良まで船で結構かかるで
桜井市も箸墓=卑弥呼の墓説論者も将来アカ恥じかきそうな悪寒
箸墓には大昔から百襲姫、女性巫女、大市墓と地元伝承があるのに何言ってんだw
>>965 方角を誤認したわけではないぞ。 当時の日本の地図に一つだけ「紙面の都合で」90度横に倒して書いたものがあり、 それをそのまま写した地図が中国で一つだけ作られた。 そういう数少ない例外を「中国人は日本を90度横に倒したものと認識していた」 と強引に主張している人が畿内説を唱えている人の中にいるってだけ。 >>973 大昔から地元伝承って初耳 詳しくどうぞ >>975 中国の記録でも方角間違ってる記述なんて沢山あるんだぞw 桃の種てモモソが卑弥呼だ〜 これのどこが考古学なんだ?
やっぱ>>40 を越えるものは全く書き込まれなかった >>976 まず日本書記の箸墓伝承知らないのかよw ハッキリと百襲姫の墓としてるだろ。 また大市とは女性巫女王という意味だぞ。 イチとは元々女性、クノイチの意味もそこから。 >>227 魏志倭人伝に出てくる国の候補になれるのは“保存”した遺跡だけだぜ。(-。-)y-゜゜゜ >>977 人間誰でも間違える事はあり得るけど、 「常に東を南だと認識した状態で測量し続ける」 という意味不明な間違い方ではないだろ? >>980 それは地元伝承ではなくあなたの解釈でしょ >>975 いや、方角めっちゃ誤認してるんですが。 近代まではめちゃくちゃですよ。 旅の日数はあんまり誤認しようがないですよね? >>982 だから倭人伝では編纂時意図的方角を変えたんだよ。 それで混乱もあり後の倭国伝で戻した 水戸黄門でもあるまいし魏の使者が九州から畿内までわざわざ行くわけないw
>>949 あんぽんたんはおまえだ この人は考古学者でも歴史学者でもないのが一番良いところ 魏志倭人伝以外のフィルターがかからないから 倭人伝だけの解釈を素直に示してくれてる それが邪馬台国だと決定づけるには他の史料も 精査しなくちゃならんが倭人伝の解釈としては今までで 一番まともなものだよ 単純に考えてみればいい。 あなたが見知らぬ土地を何日か旅したとする。 旅した日数を間違えるのと、歩いてきた方角を間違えるの どっちがありそうなことか。
日本の学者では利害やバイアスがかかって結論は出ない ここは海外の考古学のトップクラスの学者を集めて討論させてみよう
>>980 いやまって。日本書紀だと神功皇后のとこに魏志の倭の女王の注記あるんだけど。 あと2013年の箸墓大調査で邪馬台国の可能性が消えたのに、各新聞社が煽ってたんだよ。 三角縁神獣鏡は呉鏡。 こんなの大量に出て来ている時点で、 そこは邪馬台国ではない。
倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。 昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。今交流の可能な国は三十余国である。
>>993 和製漢語の銘文だから中国製はありえないってさ lud20221003122432ca
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