卑弥呼の墓説がある箸墓古墳について議論するパネリスト(東京都千代田区で)
◇纒向フォーラム
東京・よみうりホールで14日に開かれた邪馬台国の有力候補地、桜井市の纒向(まきむく)遺跡を巡る7回目のフォーラムでは、卑弥呼の墓との説がある同市の箸墓古墳がテーマとなった。調査成果や全国の事例、中国の文献も参考に専門家4人が議論し、考古学ファンら約850人が熱心に耳を傾けた。(辰巳隆博、大森篤志)
市纒向学研究センターの福辻淳・主任研究員は、箸墓古墳の調査について説明。レーザーを使った詳細な測量で、地表の高低差や形状を立体化できたことなどを紹介した。
俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
また、松木武彦・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は前方後円墳の成立過程について解説した。2世紀中頃から、全国で墳丘に突出した部分が設けられ、被葬者も集団から個人になり、形も統一されるとし、箸墓古墳について、「倭国(わこく)初の国家的モニュメント。親魏倭王の墓にふさわしい」と述べた。
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵(じゅりょう)(生前に造る墓)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
テーマとなった中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述、「卑弥呼、以(すで)に死し、大いに冢(ちょう)を作る」なら死んだ後に墓を造ったという意味になり、渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
大学で古代史を専攻したというさいたま市南区の会社員長谷川菜摘さん(29)は「纒向遺跡や箸墓古墳に吉備(現・岡山県)などの影響があったのが興味深かった。遺跡を探訪したくなった」と笑顔。東京都江東区の会社員大迫文次郎さん(53)は「邪馬台国の所在地に関心が集まりがちだが、中国の思想や墓制との関わりを知ることができて勉強になった」と満足そうだった。
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20181014-OYTNT50054.html
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20181015-OYO1T50005.html
★1:2018/10/15(月) 18:49:51.46
http://2chb.net/r/newsplus/1539596991/ 邪馬台国は、考古学者の捏造という説が最右翼なんだが・・・
古事記や日本書紀出来た頃って
国とは何か
国は一国で存在できるのかとかまじめに考えた時期なのかもしれない
西日本の覇権の推移
倭奴国(博多)の覇権→倭国大乱→邪馬台国(筑後)の覇権→倭奴国残党の分裂
倭奴国残党の分裂
1博多に残って邪馬台国の支配下に=伊都国、奴国
2南九州(西都原)に移住=天孫降臨
3近畿(巻向)移住=神武東征
近畿移住組の立場
はじめは近畿の覇者ニギハヤヒ傘下の豪族→四国、出雲征服→近畿覇権奪取(崇神=ハツクニシラス)
九州の再征服
景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で九州政権滅亡→九州全域が支配下に
律令、神話の統一
大宝律令、古事記、日本書紀の制定
考古学者はレス乞食
唐突に「○○が邪馬台国」「卑弥呼の墓はココ」を言いだして、レスを欲しがる。
・・・と日本書紀で予言されている。
纏向は東海勢力の上に吉備勢力の支配で成り立ってる
古墳形状も馬具や埴輪の出土から吉備の半島渡来人勢力が作り上げたのは明白。
神武の出自が新羅に由縁するところから山陰から北陸に掛けて存在した多婆那国が新羅系と近縁であり吉備に繋がる系統なのは確実だろう。
記紀の神武東遷や素戔嗚神話は半島シロ国から行き来した半島勢力が、紀元前より九州に渡来し倭国として華北王朝と朝貢、柵封国としての認可を得ていた遼東系大陸弥生人の国である邪馬台の王統を偽装するため九州の出自に書き換えたものだろう。
邪馬台は半島進出で臺与以降は近畿倭人勢力台頭と内乱による再編に滅びてるよ。
結局妄想では解決などできない
もし本当に日本の考古学者が日本の天皇家や日本民族の由来のこと調べたければ調査することはできる
もしスレ住民がその邪馬台国時代を知りたけれアメリカの博物館へ行って調べてみればわかる
例えば剣山が邪馬台国自体場所である可能性もありその時代の唯一の証拠品の剣山の人骨や出土品
戦後アメリカGHQが剣山から邪馬台国時代の住民の人骨や出土品を発掘してアメリカの博物館に持ち込んでいる
アメリカ政府との話し合いで調査依頼すれば協力してくれるだろう
前からそのことはわかっていたわけで
しかし何故調査依頼すればいいものの調査せず
そこに日本国民に知られたくない事実が
ある意味日本の考古学者はほぼ在日朝鮮人が主流
調査によって事実が判明して朝鮮人達の嘘がバレることを恐れての話だろう
結局日本文化は朝鮮人からという弥生人朝鮮人説の嘘がバレることを恐れてのこと
こう言った日本民族ネタを朝鮮人達が勝ってに弥生人は朝鮮人というデマネタを出したりしてるが
日本の考古学者もほぼ在日朝鮮人で朝鮮人達の民族ルーツを日本民族ルーツにかぶせて嘘をつく
朝鮮半島の民族が古代はヘブライ人の日本人の国であるにもかかわらず何故か朝鮮人の民族歴史ように話す
朝鮮人がエベンキだということが世界中にネットで知れ渡っているのに何を今更
大体の日本の属国の朝鮮半島と日本では言葉が普通に通じ合ってたのに現在は全く通じずの別国家
その時点でおかしいって察しないと
百済新羅高句麗の時代の朝鮮半島の人口が数十万人かたや日本は800万人の大国
しかも日本人特有の遺伝子を持つY染色体のD系遺伝子は朝鮮人にはない別民族
しかも日本にある前方後円墳は朝鮮半島にもあり日本より新しく朝鮮半島が日本の属国だったことを示している
今の朝鮮人は12世紀に新羅北部日本海側にシベリアワイ族系住民が住み着いていることを中国紙に記載されている
新羅の民とは違う不衛生な民族が住んでいることを中国紙に記載されて
その頃から今の朝鮮人達の朝鮮半島の歴史がはじまり
13世紀半ばの高麗から李氏朝鮮時代が本来の朝鮮人達の歴史だということがわかる
そもそも日本民族はヘブライ人の弥生人がいたからで
秦の建国自体中央アジアのメソポタミアのシュメールのヘブライ人が建国した国で始皇帝自体ヘブライ人
これが元で問題の中国がウイグルチベット族を弾圧のきっかけになってるわけで
中国が歴史の隠蔽をしてる要因だが
漢民族自体シベリア系が入ったのは2000年もなく騎馬民族系はずっと後
その秦が15年で中国をすて日本へ弥生人として入ったのが2300年前から1800年前
ヘブライ人が19万人も日本へ入ったことがそもそも争いの発端
元々いた日本人8万人も日本人達がいたわけでそこでの鳥取島根の出雲族との争いが元でこの人骨発見に
弥生人達ヘブライ人が日本での領土争いが元で文化的背景から今の日本かま生まれる
弥生人自体頭蓋骨が偉張ってなく顎が細い
これは食べ物の習慣以外に人種が違う
人骨遺伝子が中央アジアの遺伝子を持つことからも東アジアとは全く関係ない
シベリア系エベンキが弥生人自体頭蓋骨と違って偉張ってるわけで
シベリア系から南方系の稲作を持ってくることなどあり得ないわけで
弥生人自体が中央アジア系ヘブライ人自体がヘブライ語やヘブライ文字ヘブライ文化を日本に持ち込んでいる
だからひらがなやカタカそして神道文化が昔からあり漢字や仏教は大分後
そもそも中国の魏志倭人伝自体中国語で書かれているわけで日本の地名自体漢字の当て字
邪馬台国自体漢字の当て字で本ならヘブライ語読み
そもそも邪馬台国の住民自体遊牧民のアイヌ達なのだから場所など移動しているわけで
祈祷文化もアイヌ達の文化なわけで山岳信仰のあった邪馬台国自体が剣山に示す場所こそが本当の意味場所
弥生人自体西アジアの海ルートや中央アジアから陸ルートと入ってきてるわけで遅く邪馬台国住民自体海ルートからの弥生人ユタ族の末裔祈祷文化を持つ卑弥呼の存在
出雲族の物部氏系ヘブライ人文化を引き継いでいる邪馬台国住民
もう既に地方では弥生人のヘブライ人が九州や沖縄から近畿に掛けていたからこそ多くの国が形成されてる
天皇家のルーツがヘブライ人達のアイヌであるなら遺伝子もY染色体のD2遺伝子を持つはず
結論を出すならまず天皇家の血筋DNA
大国主=大物主
でこの物という字には特別な意味があるのではないだろうか。
大国主の一族は国譲りの後は祭祀をつかさどったとあるから
物部氏がなぜ蘇我氏と争ったのかもそこからわかるんじゃないか。
のちに中臣氏がリベンジするけど。
古事記はいくつかの別の話を繋げただけ
読み物としては編集に突き返されるレベル
もう前スレで結論出ただろ
いつまでしがみついてんだよw
749 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 03:00:46.90 ID:/i7a20jM0
>>1
マキムク遺跡は発掘調査した当事者が否定してるんだがw
そんな終わった遺跡を無理矢理ゴッドハンドする畿内説w
さすがゴッドハンダー畿内と揶揄されるだけのことはあるw
考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 奈良県・纒向遺跡出土の大型建物について
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku335.htm
> 1.考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 (関川尚功先生)
> ・出土品と大陸系遺物の存在
> これまで副葬品を伴う例は古墳時代初頭の壷棺のみです。ただし中期には壷や高坏を供献した例がある。
> 大陸系の遺物はまったく出ていない。九州の弥生遺跡と比べると副葬品が少ない。
> (2)纒向遺跡の実態
> ・大陸系遺物の出土量とその比較【対外交流のあとはみられるか】
> 断面が三角形の特徴的な木鏃で、儀礼用と推定される。3・4世紀の日本ではめずらしい。朝鮮半島南部の
> 大成洞古墳群に副葬されているような骨鏃がモデルと思われる。纒向からは10本以上がみつかつている。
> 木鏃や土器から、朝鮮南部とのつながりがあったことが分かるが、楽浪郡あたりとの関係がないようだ。
> 大陸系の土器が出てこない。
> 纒向は大陸との交易が終わった邪馬台国時代以後の遺跡ではないか。
> 九州では博多湾での交易が古墳時代の前期まで続いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%8A%9F
> 関川 尚功(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、
> 石野博信とともに報告書『纒向』を著した。 833 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 04:05:36.39 ID:/i7a20jM0
>>1
> 俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、
>「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
纏向の大型建物は中国の礼制に対応していないんだが
中国の都城は軸線が南北方向なんだよ
「天子は南面する」という思想があるからな
そんな事も知らずに歴史研究者ヅラとか笑わせるなw
やっぱり所詮俳優の片手間か
https://ironna.jp/article/10766?p=5
>倭人伝の記述と結びつく発掘成果は、有明海北岸の佐賀平野東部地域を除いて、ほとんど見当たらない。
>近畿説のよりどころとされる三角縁神獣鏡についても、魏から贈られた鏡かどうかの議論もあり、これを含めても
>中国系の文物が出土するのは古墳時代の古墳からであり、弥生時代終末期(邪馬台国時代)の遺跡からもほとんど出土しない。
>ましてや、遺跡や遺構、建物配置や構造にも中国文化の流入を確認することができないのが現状である。
>近畿説の有力集落とされる奈良県纒向(まきむく)遺跡の、大型建物を含む建物群を貫く軸線は東西方向であり、
>前漢と後漢を境に君子と臣下の配置関係が「座西朝東」から「座北朝南」へ変化する中国礼制に対応していない。
>吉野ケ里遺跡では、墳丘墓と北内郭の祭殿が南北方向に配置され、最重要空間である北内郭と大人層の空間である南内郭についても、
>南北の位置関係である。 798 :名無しさん@1周年 :2018/10/16(火) 03:40:16.77 ID:/i7a20jM0
ちなみに、魏志倭人伝に記載された倭国の鉄製品は鉄の鏃だが、
それらの出土状況をビッグデータ解析した結果、 邪馬台国は99.9%以上の確率で福岡だって結論が出ちゃってるんだよね
https://ironna.jp/article/4548?p=7
> ◆邪馬台国が、福岡県にあった確率
>
> 広島大学名誉教授であった川越哲志氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。
> 弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、膨大なデータが整理されている。
>
> 『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、
> 福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない。
> 「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入らないのだろうか。
>
> 例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、
> 遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している。
>
>
> 図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。
> 県ごとの確率は、表1のようになる。
>
>
> これについて詳しくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)を、ご参照いただきたい。
> この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。
>
> 「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」 邪馬台国は連合名であって
部族名でないんですよ
ここが邪馬台国だと探すのか無理なはなし
狗奴国はたぶん熊襲だろう。いまも熊本って言うし。
で南部九州のひとたちが畿内に行ったのが神武東征じゃね。
>>21
熊本は狗奴国じゃね
福岡の邪馬台国と戦争してたからこの2県で飛び抜けて鉄鏃が多いと考えると自然だ >>17
魏志倭人伝に邪馬壹國、女王の都である。書かれてるんだが?
原文
邪馬壹國 女王之所都
複数の国が、女王が統治する連合体であったのはそうだが、その連合体の名前というわけではない。 山陰に残る大蛇や鬼神話こそ大和から見た邪馬台の海洋支配王朝の姿で、紀元前より生々しい対立の痕跡は残っている。
大方近畿は半島から来た新羅系集団だよ。
邪馬台とは別国である
女性シャーマン→南方(沖縄など)
大物主→本州(吉備)
仏教→百済
このみつどもえの争いがあったんじゃないか。
◆卑弥呼は何者? 総合的に説明を
九州か近畿か。中国の史書、三国志魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の所在地論争は、古くは江戸時代から続き現代に至るが、諸説入り乱れて決着がつきそうにもない。
その中で最新の統計論を駆使して九州北部と推定し、卑弥呼=天照大御神(あまてらすおおみかみ)伝説へと論理を進める安本美典・産業能率大元教授(84)。
「邪馬台国の会」を主宰し、関連する著書は九十冊を超える。邪馬台国を熱く語った。
−邪馬台国問題を考えるうえで大切なことは?
古代史の全体を見て議論することです。私は九州説ですが、畿内説には部分的な事実をとりあげ、マスコミを誘導して世論をつくればいいといった雰囲気があります。
「長江はある岸辺で見ると南や北に流れ、別の場所では東や西に流れたりしている。しかし、全体としては西から東に流れている」。
これは毛沢東の言葉ですが、学問も同じです。ある特定の岸辺に立って観察して得られた事実が全体として正しいとはかぎりません。
「全体をうまく説明できるのか」が大事です。
−具体的には?
考古学的な議論では「魏志倭人伝」の記述から出発し、データ全体を総合的に公平に比較すべきです。
「倭人は、鉄の鏃(ぞく)(矢尻)を使った」と魏志倭人伝にあります。「鉄の鏃」の福岡県からの出土数は奈良県からの出土数の約百倍です。
弥生期の「絹」は九州からは出土するけど畿内からはほとんど出土していない。
「鏡」や「勾玉(まがたま)」でも同じ傾向が認められます。
全都道府県について、出土数を調べ、その傾向を公平に比較すべきです。
最近はビッグデータ処理の技術が、進歩してきています。
私は便利な確率計算法であるベイズ統計学によって確率計算をしました。その結果、邪馬台国が福岡県にあった確率は、99・9%以上となり、
奈良県である確率は、ほとんど完全にゼロです。畿内説の方に議論の出発点として検討していただきたいものです。
−纏向(まきむく)古墳群の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないかと言う人もいますが。
纏向の大きな建物の近くからモモの種が出土して放射性炭素(C14)年代測定で分析すると、卑弥呼の時代を含む西暦一三五〜二三〇年代という結果が出たと報道されたことがあります。
しかし、この方法による場合、箸墓古墳から出土したモモの種で測定すると、四世紀を中心とする年代が出てきます。箸墓古墳では年代の古く出がちな土器付着物で測ると、三世紀という年代が出てくるのです。
C14年代測定法というと科学的な印象を与えますが、何を測定するかで年代がかなり変わってくるし、年代推定の誤差の幅も広いのです。
畿内説に都合の良い測定値はマスコミに持ち込み、都合の悪いデータは報道されていないのです。
またモモの種や大型建物のことは倭人伝に記載がありません。古事記・日本書紀(記紀)の記述と倭人伝の記述の擦り合わせも必要です。
−卑弥呼の鏡と騒がれた三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はどうみるべきでしょう?
これは古墳時代になってからしか出土していませんし、わが国からは五百面以上出ているのに中国からは一面も出ていません。
日本国内でつくられたとみるのが妥当です。三世紀後半から四世紀はじめごろの、いわゆる「西晋鏡」でさえ、おもに福岡県を中心に分布しています。
「庄内様式」といわれる弥生時代の土器の時期が卑弥呼の時代と重なるといわれていて、この時期の鏡は奈良県からの出土は三面のみなのに対し、福岡県からは三十面も出ています。
もうひとつ、倭人伝に「棺(ひつぎ)あって槨(かく)なし」と墓制が記されています。
おもに三世紀ごろ福岡県を中心に分布する箱式石棺は、これにあてはまります。奈良県のホケノ山古墳からは、木槨が出土していて、倭人伝の記述に合いません。
−里程の問題からは?
帯方郡(現在のソウル周辺)から一万二千余里のところに邪馬台国があると倭人伝に記されています。一里が現在の尺度で何メートルになるかは議論がありますが、
同じ三国志韓伝には現在の韓国あたりを四千里四方としており、これから一里の距離が割り出せます。
記述では帯方郡から一万里で九州に着きます。残りは二千里ですから、これまでの行程からすぐ想像はつきますよね。
とても畿内まで行ける距離ではありません。九州しか有り得ません。
全文ソース
http://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2018072002000264.html 魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の位置を合理的に説明できるのは九州だけ。
「昔の史書は間違いだらけ。でも邪馬台国は本当にあった」
という100%矛盾した前提条件の上に成り立つ似非科学が畿内説。
>>1
すべて状況証拠と研究者の想像です
確たる根拠は無いから何でも言える 弥生時代後期から古墳時代前期は
弥生人が縄文人を駆逐していった歴史そのもの
邪馬台国は前期の渡来系人が立てた国
南部のより古くからの部族と争っていた
その邪馬台国も後からきた馬を操る技術を持った渡来人に滅ぼされた
当たらずと言えども遠からずだな
邪馬台は遼東系の弥生人と南方ゴウホラガイ倭人族の混血民族だよ。
邪馬台が大陸王朝に寵愛されたのは支配層が大陸人だったからだよ。
土井ヶ浜の弥生人見れば倭人以外の大陸人が既に入植していたのが分かる。
また韓国の勝利が確定してしまうのだろうか
ネトウヨが歯ぎしりしながら憤死する絵が目に浮かぶわいw
>>22
狗奴国は熊本南部の人吉盆地だろうね。
あそこは難攻不落な天然の要塞。 出雲では鉄器に切り替わったのか?まとめて銅鐸が捨てられたように一ヶ所から出土している。
三角縁神獣鏡は新羅系の半島人が銅鐸溶かして作ったもんだろうな。
周辺をれ抜きの三角で誤魔化したり山陰の神である蛇を入れるところが半島人らしいデザインだ。
邪馬台国なんて、所詮は支那人の記述でしかない
九州あたりの噂話ぐらいは書いたかもしれないが
近畿のような遠方の話を正確に書けるはずがない
「日本人とユダヤ人の先祖は同じである」という説を日ユ同祖論という。これを最初に言い出したのは、日本人でもユダヤ人でもなく、スコットランド人のノーマン・マクラウドという人物が言い出した説である。
このノーマン・マクラウドなる人物のことはよくわからない。一説にはイギリスでは売買を商っており、日本や韓国では宣教師として活動ながら「イスラエルの失われた十支族」を探していたという。
マクラウドが日ユ同祖論を展開したのは、イギリスに元々あった「イギリス・ユダヤ人同祖論」を日本とユダヤに当てはめたものであるらしい。
内容は、日本の天皇、宮家、公家の儀式とユダヤ教の儀式が似ているからというものであった。
ちなみにアメリカの黒人は「イスラエルの失われた十支族」である説。ネイティブアメリカンは「イスラエルの失われた十支族」である説。
韓国人は「イスラエルの失われた十支族」などなど世界中にあるらしく、特にめずらしいものではないようだ。
日本の場合、ノーマン・マクラウドの講演を聞いた日本のキリスト教指導者数人が、明治から昭和初期にマクラウドの説をさらに解釈を加えて日ユ同祖論を作っていったらしい。
なぜか?
明治〜戦前の日本はまだまだ二等国だと思っており、なんとか一等国に欧米のキリスト教国に思ってほしかったのである。そして日本は偉大な国であり、神の国であると日ユ同祖論者は口をそろえる。
例えば、「日本は神の国である。ゆえに蒙古襲来の神風から日清日露戦争にいたるまで負け知らずであったのは、我々日本人がユダヤ人と同じく神に選ばれた民だからだ」
とか、「旧約聖書に数か所「日の出る所から、その沈む所まで」という聖句があるが、この中の「日の出る所」とは地球の中央であるエルサレムから一番東にある「日いずる国」である日本のことだ」
とか、『日本は神に選ばれた国であり、日本民族は神に選ばれた民族である』といういわゆる神国ニッポンの皇国イデオロギーと同じなのである。
渡来というのは大小の集団が五月雨上に渡って来ること
九州北部以外にも上陸しただろう
山陰とかね
きのこたけのこ総選挙みたいに、そろそろ邪馬台国がどこにあったのか国民投票で決めたれよ。
発掘成果とか論文とかまとめたサイトで雌雄を決めろ
近畿に文字は無く銅鐸に刻まれた拙い絵しか当時を記すものは残っていない。
そして頼りの古事記はかなり後になって7世紀に地方の話を都合よく年代も分からぬまま都合よく書いたファンタジーだからな。
全くあてにならない
国譲りをした時点では、大物主が権威(聖権)で天皇家は権力(俗権)だったのかも。
鉄の武器が大量に出土する九州勢力が、ほとんど、鉄器の出土しない近畿勢力に征服される???
そんなことあるのか?
纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
纒向遺跡の初期の外来系土器の主体は東海と山陰であり、初期のヤマト政権はそれらの勢力を主体とした征服王朝。
記紀の畿内征伐によってヤマト政権が始まる記述とも合致する。
また纒向遺跡は、農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。
モモソ姫で天皇家は権威になったんじゃね。
で南方の女性シャーマンの要素と大物主が融合した。
しかし三角縁四神獣鏡て見れば見るほど下手くそな贋作だよな。
三角をサメの歯とか単に手抜きで線入れといたようにしか見えん。
カササギからの仮説
カササギ
外来種として北九州の一部地域に留鳥としてとどまる
魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある
なぜ、「鳥」ではなく「鵲」(カササギ)が倭国には居ないとあえて記したのか
魏国が後に、倭国へ「鵲」を贈っていたと仮説するならば
生物学的なDNAの解析によって、鵲のルーツを特定できるのではないか
銅鏡などの錆びついた物証だけではなく
鵲が現在までも生き継いだ魏の使者ならば
邪馬台国の生きた物証としてロマンがある
グーグル翻訳
自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
クイーンズランドの北部から、国の査察の特別な率、伊豆の無慈悲、国の真っ只中、国の真っ只中にある王の棘のようなものは、京都、郡の都市、韓国と郡、国の移民、書類の移送物事の女王は間違ってはならない
三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側にいた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろうな。
万単位の人が住むには近くに広大な農地か
遠隔地から食料を運ぶ効率的な輸送手段が必要なんだよ
初期の奈良盆地はその両方に欠ける
その時代の奈良盆地の低地部は沼沢地
馬や荷車が導入されないと大人口は支えきれない
邪馬台国て住所ないのか?
もしくはそれっぽい名前の住所とか。
>>44
文字があるはずの北九州、福岡で、自分たちこそが邪馬台国であると書かれた文献が出てないのは何故だろう?
後に滅ぼされ、全て焼き捨てられたから残っていないんだよな。
九州邪馬台国説は、逆説的には卑弥呼=アマテラス説の否定でもある。 福岡市の奴国は卑弥呼の時代すでにやまと国の属国で
やまと国と争ってた狗奴国は奴国(福岡)の南にあったと考えるよ
戦国時代と同じように、古代の倭国大乱に於いても東海勢が大乱の火種を起こし全国を平定して回ったんだろう
歴史は繰り返す
初期の大王が頻繁に住居を変えていたように
卑弥呼も住居を変えていた可能性はあるね
>>48
吉備が抜けてるぞ
そもそも纏向と八尾と播磨で腐るほど出て、西日本にも広まる庄内式土器は吉備甕と畿内X様式甕との融合系だ
しかも墓制は吉備瀬戸内の形式だ
山陰や東海が主体なら土器もその影響が出てないとおかしいし、なにより前方後方形の墓制になってないとおかしい(
時期はやや異なるとはいえ、東海と山陰の墓制が共通するのは面白いところだが) >>59
倭国大乱って九州内部か、精々岡山までの戦だよ。
その頃の日本は倭国の地域と、倭種の地域に分かれてた。
邪馬台国が把握してる地域が倭国
それより北は倭種
東海地方は倭種の地域 「漢の倭の奴の国の王印」の読みを「漢の倭奴国の王印」という読みもあるようだけど、
どうなのよ。当時は「匈奴」と言う読みが一般的らしいけど。
とすると「倭国」と言う認識があるということかな。
万葉集の月に関する歌は興味深い
倭国大乱をモチーフにしているんじゃないか?
東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
>>53
能の成立は鎌倉だぞ
なぜそんな能の一台本に歴史の真実があるなんて思っちゃうのかね >>55
福岡県山門郡
ここが本命でしょ
太宰府の南東が投馬国(日田ダンワラ古墳の鉄鏡)
太宰府の南西が邪馬台国 ここは敗残の九州論者のたまり場です
かわいそうな愚か者たちが普段のルサンチマンを鬱憤とともに吐き出すところです
生暖かい目で見守ってあげましょう
>>67
当時の人が皆納得する共通認識だったんだろう 九州は百済とかほざき出した某糞民族が、卑弥呼は韓国人って言い出すのも時間の問題。
推測だが、倭国大乱の覇者卑弥呼は輝かしい天照大御神として祀られたんじゃないか?
戦国時代の覇者徳川家康は威厳溢れる東照大権現になられた
どちらも覇者に相応しい称号
歴博の論文とかよくできてると思うよ
だから余計に胡散臭いんだよね
怪しげな年代測定と恣意的な編年の上に構築された空虚な畿内説というイメージ
本日の邪馬台国スレはここですか?
しかし>>1に全然説得力がないのはなんでだぜ? >>41
直接日本海を渡ってくるのは難しいのではないか。
上陸地点が松浦かどうかは別としても、やっぱり壱岐、対馬を伝ってくるほうが確実だと思うがな。 >>77
宗像の御神体があれだもんなあ
この時期には島伝いではないかと >>1
掘りゃ分かるんだよ
堀もしないでばっかみたい
今朝 大仙古墳に調査、の記事に目を剥いたら
環濠をちょこっと修理してちょっと見る、だけwwwww 邪馬台国の時代は近畿から九州まで行くのも大変だったと思うんだけどね。瀬戸内海を通ったと
しても、半島と九州までの距離の倍以上あるんだし。
マルコ・ポーロの東方見聞録と一緒。
ただのネタだよ。
なんで近畿ってその出土物の主体である
吉備を無視するんだろうな。
纏向で主要と言われるものが吉備に由縁するものなら
まず吉備ありきだろう。
まるで吉備を避けるように近畿だけを主張するよな
たまたま邪馬台国とか卑弥呼の記述がある文書が残ってただけで、歴史的に記録に残されてない小国が各地にあったんじゃないの?
何で唯一の国家だったと決めつけてるのか、科学的検証法としておかしいと思わないのかな。
>>60
平安京に移るまでは遷都しまくりで常に移動し流浪していたんだよね。 >>83
マジレスすると擬似倭人伝の内容鵜呑みにしているから。 >>80
だからこそ、郡使は伊都国に留まったんだろ?
伊都国から南にも東にも長距離を移動していないのは、陳寿の記述で自明なこと
おそらく報告書にも伊都国奴国あたりまでしか書かれてなかったんだろう
>>86
出土品を否定しないと九州説は成り立たないの間違いだろ?w まず「倭」を「日本列島全体」だと勘違いしてるのが悪い
>「漢書」に約100の小国が分立
って書いてるらしいが日本列島全体で100しかないとは思えないし
そもそも日本列島全体のことを把握できるとは思えない
この時点で「倭」=「九州」くらいのことじゃないかと
>>83
マジレスすると
倭人伝は中国の「正史」の一部。
華夷秩序は中国の政治システムの中で最も重要なもの。
なので魏は、卑弥呼に金印を与えてるので邪馬台国の国力を把握していたと考えられる。
ちなみに金印をもらえるのはクシャーナ朝(インド)など超大国だけ。 >>88
魏志倭人伝には、倭人は「鉄の鏃」を使うと記されている。
そして鉄の鏃は九州のほうが畿内の100倍出土する。(福岡395個、奈良4個)
その他魏志倭人伝に登場するもの(鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈、絹製品)全てが北部九州であることを示している。 >>65
「漢委奴国王」は
日本では「漢の倭の奴国王」という読み方が一般的だが
中国の専門家には「委」を「倭」と読む人はほとんどいない。
57年 漢委奴国王
57年 新羅の王が倭人になる
金印をもらったと同時に新羅の王も倭人になってるから
「漢から(新羅や任那や九州北部の管理)を委ねられた奴国王」って意味だと思うよ。 >>83
普通に考えて都市国家というか、小さな集落単位で日本全土無数にあったやろ >>72
大陸にも近く、文化的にも先進国であったはずの九州邪馬台国が、自分たちの文字で記録を残していないのは何故だろう?
硯ガーやら、文化的な先進性を主張すればするほど、逆に神武から連なるヤマト王権とは繋がっていないことが裏付けられる。
残念だが、邪馬台国勢力は、日向国勢力に滅ぼされたと見た方が自然 >>1
なんで古墳時代より前の時代の卑弥呼が、前方後円墳に眠ってるんだよ!? >>101
それって重要なことなの?
邪馬台国は宗教国家で、九州は邪馬台国(奈良)に支配されてたわけだから
九州の出来事が倭人伝に書いてあっても不思議ではない。
伊都国の一大率(邪馬台国の使者)が九州を管理してたんだよ >>103
倭人に送った。卑弥呼という名前もある。奈良から出ないんだから畿内説は成り立たない 実際に旧唐書では「倭国」と「日本国」が併記されてるし
「倭国=九州」の向こうに「日本国=大和国」があるって書いてるんだよ
西日本の田舎はこんなことしか誇れるものがないのかい?
良いか歴史学者ほど信用できない輩はいない。彼らは反日思想で日本の歴史を否定する。
>>37
田原坂、あの辺は国防的にはいいが、
稲作や物資輸送には、不便。海路かな? 邪馬台国が畿内じゃなくても、そこに鉄器無くても、タタラ製鉄持つ古代出雲と合併した時点で日本の天下とったようなもんやろ
大坂平野が稲作で人口爆発起こしたら、とんでもない巨大な国になる。堺に巨大古墳作った時代に飛躍したのも合致するで
>>105
945年に編纂された旧唐書よりも300年以上も早い636年に紀伝が完成している隋書には
> 都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
(倭国の)都はヤマトであり、すなわち魏志(倭人伝)のいうところのヤマタイなり
という記述がある >>113
素晴らしい古墳が有るのだがあの獣医学部の下 >>108
桃の種とラーメン天目
久留米、八女、柳川辺りもっと調査していいんじゃね? 紫宸殿という地名は3箇所だけで
最初の成立は大宰府、次は愛媛の今治、かなり後に京都
纒向遺跡っていうとどうしてもクリトリスを想像してしまう
>>114
そのヤマトと大和朝廷が一緒のものだということも勘違い
こういう勘違いの積み重ねがややこしくなってるんだよ
実際九州熊本には山都町(ヤマトチョウ)っていう町があるからね
同じ地名なんていくらでもある >>92
郡使は伊都国に駐在して記事を書いてるんだから、すべて伊都国周辺や北部九州で出る出土品が書かれていて当たり前のこと
それに頼るしかないのだろうが、大切なのは三世紀における発掘調査成果全体だからな
そのへんをはき違えたり、自説に都合の良いように取捨選択してはいけない
あと、倭人条に鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈なんてどこに書いてある?
竹箭、骨鏃或いは鉄鏃しか出てないし、矛と、魏から送られた剣の素材は書いてない、勝手に捏造してはいけない 竹島も名前による勘違いだからな
もとは日本は松島って読んでたのに外国の勘違いに合わせて竹島ってしたんじゃなかった?
そして韓国のウルルン島のすぐ近くに竹島(チュクド)っていう島があり
それも韓国側の勘違いの原因だと思うわ
>>120
隋書倭国伝に記してある倭国の都というのは
卑弥呼の時代の3世紀ではなく、6世紀の隋の時代の都のことを言ってるんだが
遣隋使の時代の倭国の都が九州にあったとでも主張するつもりなのか
それとももしかして九州王朝説の信奉者? 最近は北部九州の勢力が卑弥呼の時代の前に東遷したってのが有力らしいな
倭国大乱と関係あるんだろうか
土地を移り住んだ人が
同じ地名をつけるってパターンがほんとに多いしね
神武東征で九州から近畿に移住した人が同じ「ヤマト」の名前をつけたっていうパターンだって普通にある
ちなみに山都町は福島県にもあるようだ
こんなイベント何度繰り返しても、畿内説が崖っぷちなのは変わりないな
俺がZOZO前澤なら
纒向と久留米、八女、柳川の発掘調査に
たんまり資金出すんだけどな
>>124
神武東征は魏志倭人伝の時代より前に北部九州の勢力に圧迫されて脱出したほうが納得いく。
強国なら関門渡って陸路で中国地方を順番に落としていくやろ。 >>123
ん?隋書って遣隋使を受けての話なの?
一応ググって確認してみたが
>第1回は『隋書』に推古8 (600) 年,倭王の使者,隋にいたるとみえるが,日本側の記録は見当らない。
って出てきた
これって結局「倭=九州」が使者を送ったのと遣隋使は別物ってことになるんじゃない? 近畿に邪馬台国近畿は直ぐ近くの吉備や出雲を軍事的に統括することが出来なかったのに、
中国地方をすっとばして北部九州は軍拡的に統括出来たと主張することになる
これはただのバカの寝言。
東京人をだまくらかそうとしても偏差値高い人が多いので無理と思うけどな
胡散臭く見えるだけ
>>129
壬申の乱まで日本は統一されていなかったという
古田武彦の九州王朝説の信奉者とは議論するつもりはない
まともな議論のできる相手じゃないからな やっぱこんな感じ
>《日本書紀》では607年,608年の小野妹子(おののいもこ)ら,614年の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らで合計3回,《隋書》は他に600年の遣使を記す。
600年に来た使者は大和朝廷とは関係ないとこからの使者ってことになるよね
そして607年のが有名な
〈日出処(ひいずるところ)の天子書を日没する処の天子に致す〉の国書を持って行ってるやつ
これがもとで「日本」っていう国名になっていくと考えると色々と辻褄があうよね
そしてまた九州勢力(倭)と大和朝廷が競い合ってたって図式も見えてくる
韓国起源というか日本人(倭人)は6世紀ごろまで朝鮮半島南部にいたんだから
そこに邪馬台国があってもそこまで変な話ではないやろ
こういう話をするとネトウヨもチョンも発狂するけどさ
>>126
邪馬台国が九州の亡国なら両者痛み分けなるしええやろ >>132
そもそも「邪馬台国が日本列島全体を代表する政権」っていう思い込みから脱しなよ 鏡が当時大和の古墳から出てくる事は、大和朝廷は中国と何ならかの交易をしていたはずであるが、記紀には記されない。これが謎である
もう邪馬台国論争って町おこし対決みたいになってるから
特定しないほうがお互い夢があっていいのではw
>>136
邪馬台国が日本列島全体を代表する政権だなどとは一言もいってないだろう
隋の時代に九州と奈良に別の政権があったという説の信奉者とは議論したくないと言ってるだけだ
いわゆるトンデモだからな だから卑弥呼独立論が破綻してんだよ
だって中国の文献は「日本ワロタwwww卑しい巫女、祈祷師が治める原子国wwww
けどあいつら知能と高度な利器もってるからあなどれねーよ。原子文化なのに野蛮人じゃないのwwカオス」
こういうふうに書かれてて、どこにも卑弥呼=固有名詞を指してないの。その説明の中に女系天皇が匂わされてただけ
なのにバカ共は「卑弥呼固有名詞論」を捨てないの。強弁だけで卑弥呼固有論を捨てないの
普通に中国の文献を読めないバカが唱えたのが卑弥呼固有デマ、強弁なのに、卑弥呼を捨てない。
江戸時代は「神皇皇后が卑弥呼」で定着して、後世は「姫命が卑弥呼」で落ち着いた
おそらくそのどちらかだ
ところが馬鹿学者と作家の偶像が卑弥呼教鞭、であり、騎馬民族説
歴史性もなければ中華史的にも矛盾する
まだ徐福だかなんだかいう始皇帝の頃の逃亡民が天皇家のほうが説得性があるくらい無理がある
で、なんで古墳時代より前の時代の卑弥呼の墓が前方後円墳なんだよ。
>>138
景初4年なんて贋作国産鏡もありますから 邪馬台国九州説だと、その後に畿内の連中が王権確立して九州を逆制圧したときに
大規模な戦闘の後とか必ずあるはず。でもまったくないよねそれ
大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。
>>140
ん?九州王朝説ってそういうことじゃないの?
あと600年に九州が大和朝廷の支配下にあったっていう根拠教えて 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、
>>148
君に対しては九州王朝説の信奉者かどうかすでに>>123で確認を取ってるだろ
で君が九州王朝説の信者だと自ら認めるならこれ以上議論するつもりはない
それもすでに>>132で述べている。以上終わり。 >>142
卑弥呼は奴婢埋めたと記述あるが、箸墓古墳は埴輪、文明のレベルが全然違うね 福岡県平原王墓出土品
銅鏡40面
メノウ・ガラス製の勾玉・管玉などの玉類
鉄素環頭太刀一振
傑出した鏡・玉・剣という、前期古墳を象徴する最高レベルの副葬品
大型内行花文鏡などは、他の古墳でいっさい見られない逸品なのです伊勢内宮のご神体で、三種の神器の一つになっている
「八咫(やた)の鏡」の原型ともされる鏡です
いま出土している古墳の中で、まさしくこれほどの副葬品を伴った古墳は稀有
三種の神器のルーツは九州に有った!
不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。
>>152
畿内派は平原とダンワラ出すと
何も答えること出来なくなるんだよな
それ以上のものが近畿で出土されないな 大宰府が置かれたのが7世紀後半だから
大化の改新で地方豪族による政治から天皇による政治に移り変わっていく過程で大宰府を置いたと考えられる
それまでは別の王朝とまで行かずとも九州の勢力がそれなりに好き勝手してたんじゃないかと
大化の改新でそれが一新されるときに大規模な戦闘が起きるかどうかはどちらとも言えないな
ちなみに九州南部の隼人は720年に反乱を起こしてるけども
>>150
何この話の噛み合わなさっぷり
どこをどう読んで俺が九州王朝説の信奉者だって自ら認めたことになってんだよ
> ん?九州王朝説ってそういうことじゃないの?
九州王朝説とか知らんがな
一応ググりながら書いた結果>>136を書いたわけで こういうのは現地か、せめて奈良でしろよw トンキンみたいな文化不毛のパクリ文化財で博物館の展示を埋めるような地でやると、歴史を捏造して居ると思われるぞw
天皇家に連なる天孫降臨が九州の高千穂にあってそこから畿内を征服して大和王朝を建てたという
神武東征って神話としては残ってるのに、なんで考古学的な証拠が何も出てこないのかね。
本当にあったならもっと色々出てくるだろうし、逆に畿内大和が九州を支配下に置いたのなら西征神話が残ってるはず。
>>143
逆に国産だったら「景初4年」は使わないよ。
景初3年1月1日(正月)に明帝が崩御した関係で
「後十二月」を作ったり暦の混乱が起きている
「景初4年」はその暦の混乱の中で作られたもので
大陸産の証拠ですらある。 >>161
> これって結局「倭=九州」が使者を送ったのと遣隋使は別物ってことになるんじゃない?
> そしてまた九州勢力(倭)と大和朝廷が競い合ってたって図式も見えてくる
> あと600年に九州が大和朝廷の支配下にあったっていう根拠教えて
これは遣隋使の頃の日本列島の状況について全部自分で書いたレスだろ。健忘症だからもう忘れたってか 九州説はいちゃもん付けるだけじゃんw
なんか主体的な証拠あんの?
大体、九州のどこやねんw
>>95
淡路島の鉄工房は、纒向遺跡が始まる2世紀末に営みが終焉している
卑弥呼を共立した勢力の一つ、阿波や吉備の勢力によって征伐されたんじゃないか? >>166
九州王朝説ってのがよくわからんけど
大和朝廷の支配下になかった東北も東北に王朝があったってことになってんの? ググったらこう書いてるんだけど
>九州王朝説は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を
代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする説である。 邪馬台国
から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から
太平洋戦争後では長沼賢海らがいるが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した
点に特徴がある。 ウィキペディア
だから
> そもそも「邪馬台国が日本列島全体を代表する政権」っていう思い込みから脱しなよ
って書いたんだが
畿内に関しては銅鐸文化の急激な衰退が鍵だな
倭国大乱前後急に祭祀が変わってるということは、何かしら大きな政変があったんだろう
>>165
中国では同種の鏡が発掘されてるんですか? 今日の邪馬台国スレはここか
仁徳天皇陵古墳スレ次スレまだだな
しかし関係ない奴等が墓荒らしてキナ臭くなってきたな
>>169
たとえばWikipediaに九州王朝説についての説明があるけどそれを読めば
九州に倭国、大和に大和朝廷があってその二つは別物だという君の主張は
驚くほど九州王朝説に酷似してるってのが自分でも分かるはずだ
本当に自覚がないのなら、どっかでそれに似た主張をどっかで読んで知らないうちに触発されてたんだろ.。たぶ また、出雲の荒神谷遺跡にすごい量の銅剣が埋められていた
荒神谷遺跡
これは、畿内から回収して封印したものでは? 邪馬台の読みはヤマトなんだ。
物部王国があったところが邪馬台国になった。当て字に大和になった。
皇室の歴史書である記紀には神武東征も書かれていて、勢力が九州からやってきたことを明示しています
もう戦いませんと言う合意の元に銅剣を全国から回収し出雲は邪馬台国に国を譲った。
だから、畿内から武器が出土しない。北九州で武器が出土するのは邪馬台国以前の倭国大乱が
あった時代だから。
>>176
オマエの方もよくわかってねえんじゃん
その結果「似てるからダメ」ってwアホすぎるだろ
邪馬台国と大和朝廷が別物って主張したら全部九州王朝説になるのかよ >>167
主体的な根拠は魏志倭人伝に書かれた距離と方角でしょ。
畿内説みたいに魏志倭人伝を無視したら邪馬台国の存在自体が成り立たないよ。
場所は九州の熊本平野。 >>161
日本史の5ちゃんねる掲示板で、相手の意見を偽造しながら自分の話題を進行する、畿内説を宣伝をする狂人として有名な人物だから、相手にしない方が良いのではないのかな。。。 >>182
測量や方位磁石のない時代の書物を正確に信じるのは愚かな行為です >>170
吉備あたりにきていたアメノヒボコは新羅王 北朝鮮で核を捨てるかどうかが問題になってるでしょ。それと同じことが、倭国大乱と大国主の国譲りでおこったんだよ。
魏志倭人伝は
古代中国の地理的国史であって
現日本の場所には当て嵌まらない罠
>多婆那国が新羅系と近縁であり吉備に繋がる系統
近縁には異議ありだな。
出雲オオナムチ勢は、播磨でタバナヒホコ勢と戦い、後に高志のスクナ彦と協力だから同盟関係が敷かれたと見てる。
神武の名はワカミケヌ。出雲熊野の祭神もミケヌ。倭人伝クヌ国や山陰と何らかの関係はあると思うけどね。
>>167
近畿は魏との交流の可能性がほぼなし
九州は魏との交流あり、鉄製品、絹が出てきてる >>184
原始的な測量法は昔からあって、高度な測量法はまさに三国志の時代に生まれた。
方位磁石の原型もある。
また、常に南を向く車というのも発明された。
少なくとも、自分の測量技術にそれなりの自信の無い人は、
あんな細かく方位と距離を書き記さないよ。 そう言えばなんで記紀に邪馬台国(大和)が魏に朝貢したことが書いてないんだろうな。
>>182
魏志倭人伝は半島から松浦に至る時点でも色々と怪しいんだから、参考になるのは地名がメイン
方位と距離は参考程度だろう >>181
主張の根幹部分が同じである以上毀損の説の剽窃といってかまわないだろう
お前自身に独自に思いつくだけの知的才能があるとはとはとうてい思えないしな
だいたいお前が主張しようとしてた内容をなんでおれが事前に察知できたんだ
エスパーでもない以上、俺にとっては既知のモノだったからにすぎないだろうに >>186
だから、ゴッドハンドされてない出土品が鍵 答えは歴然。
当時ガラスや翡翠、絹、特殊銅鏡、剣
こんな一級品が献上された国は九州にしか無く
奴隷人口が多いだけの労働環境である纏向とは出土品の性質からして都市の意味が異なる。
したがって海外に名を馳せた王都、邪馬台は九州しかありえない。
>>192
日が沈む=西
日が上る=東
これくらいは分かるから方角は間違えないわな ID:8EoJ/WRI0は、相手の意見を偽造しながら自分の話題を進行する、畿内説を宣伝をする狂人として有名な人物だから、相手にしない方が良いのではないのかな。。。
まず古墳時代より前の弥生時代の女王の卑弥呼の墓が巨大な前方後円墳ってのがおかしいだろ。
邪馬臺をヤマタイと読むのは隋唐以降の北狄侵入時代の読み方。
記紀万葉の万葉仮名の音読みは魏志倭人に出てくる日本の地名などの
当て字とほぼ同じ。
即ち六朝音で読まないといけない。
古墳時代の「万葉仮名」の漢字の音読みですら
今の呉音(北方系前期隋唐音)とは異なっている
>>178
邪馬台国もそうだけど
正確には卑彌呼と卑彌弓呼だし
漢字ですら改竄大杉てワロえない >>193
狗奴国の男王が邪馬台国を支配したなら、卑弥呼を助けた毛唐の記録など壊してしまえ!だろうな。
取り戻したのは、但馬高志系の神功になるんだが、台与とは年代が合わない w
神功神話は台与の記憶からかもしれん。 >>205
ご指摘の通りおかしい
畿内説を唱えたら補助金がたくさん出るからだろうな >>207
過少評価じゃなく
神武=崇神中心のヤマト合従連衡の最初の地でしょ
それ以上でもそれ以下でもない
そして邪馬台国でもない >>207
そもそも単なる奈良の遺跡であって九州との関わりも無い事が判ってる。
邪馬台国とこじつけるのは捏造に等しい行為だよ。
確率はまだ0%なんだし。
桜井というB地区の補助金目当ての行為にしか見えないな。 >>192
距離に関しては、北九州から水行30日陸行1月の遠い遠いところにあると記してるよね >>194
むしろ半島から松浦まではほぼ完璧じゃん。
壱岐の面積がちょっと違うだけ。 >>214
北九州の墓制である三種の神器を受け入れてる時点で関連はあるよ 畿内王朝は銅鐸すら何なのか知らなかったから明らかに半島渡来の異人種なのが分かるよな。
九州では銅鐸を鉾に加工した痕跡もあるし、倭国大乱より一連の流れを踏襲してるのは銅鐸文化圏でもある九州以外ありえん
邪馬台国は地域連合
場所は北九州でいいよ
朝貢してないだけで
中国地方や畿内にも同規模の連合体があったかもね
小集団から大集団への成長はなにも戦国時代の専売ではないからね
銅鐸は出雲族のもの。奈良で出雲族から邪馬台国勢力へ急激に政権が変わったことを物語っている。
隋書倭国伝にある裴世清が(奈良の)都まで行った描写には東に東にとあり
筑紫より以東を旅したことがうかがえる
これは魏志倭人伝で描写された女王国へ至る?ルートとは明らかに別物だとわかる
>翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。
>百済を渡り、竹島に行き着き、南に耽羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。
>また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。
>そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。
>また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
>>212
それで飯食えてる、いや贅沢三昧できる学者がいるんだろうな
適当なこと抜かして年収1000万以上の教授連中
そのくせ最前線の非常勤講師はアルバイトと代わらない給料と高い授業料 全てのデーターをAIにぶちこんだら
どんな回答出すんだろう
>>223
それ冗談とは言えない話だぞ。
奈良の教育委員会なんてB問題をわざわざ創って子供らに刷り込んでた連中だからな。
韓国の反日教育と同じように。 発掘物&科学検証と 地質学 民俗学 当時の地政学 総動員させて 照らし合わせ作業
作業中は ハチマキを 集中できるようにw
>>157
平原遺跡が、北部九州にはそれまでほとんどなく、近畿を中心に弥生時代を通じて存在していた
方形墳丘墓(周溝墓)であることを考えれば、その被葬者が誰であるかは考えるまでもないことだからな
平原方形墳丘墓は土器の呈示がないが、おそらく庄内式併行の時期なんだろうな 箸墓古墳が誰の墓でもいいんだが、卑弥呼の墓とか断定する奴は学者じゃないな。
なにも確実なことはないのに、わずか数十文字の中国文献だけから類推とか、頭悪過ぎなのかな?
近畿地区へは日本武尊の東征
最初からあったわけではないのは明らか
調査で かなり新しく 出てきてるんだね
発掘品からすると、東からの影響が濃くなってきたし
中国人に へんなジャマされないように気をつけなきゃいけないね
中国大陸との発掘品とも 照らし合わせなきゃ 時代が整合しないし ほんと むずかしいね
>>225
オコタエシマス マキムクダケハヤマタイコクノカノウセイナシ どう考えても姫巫女か日巫女なのに
卑弥呼だなって汚い当て字をつけられたもんだな
でも2世紀の時点で倭国に日巫女という単語や概念があったことにも驚く
>>215
「北九州から」ではないと思うよ。
北九州付近は測量して具体的な里数を書いてあるのに、
邪馬台国や投馬国が変に曖昧な日数で書いているのは、
北九州付近の行程とは全く別のものを無理やりくっつけた可能性がある。
帯方郡から対馬、壱岐、唐津までの行程がちょうど「水行十日」だから、
唐津から邪馬台国までが「陸行一月」なんじゃないかな? >>207
九州が大陸と強く結びついていた頃すでに本州に大国があってもおかしくないよ
まだ海戦なんてしてねえんやし 単純に考えて中国と直接やりとりがあった所のが邪馬台国ってだけじゃねえの?
>>235
面白いのは、当時の祭祀とその後の神道にわりと共通点が多いことなんだよな
銅鐸文化とは明らかに異なってる 近畿説の致命傷としては弥生期の鉄製品や絹製品の出土がほとんどない
畿内説には電通と読売が広告代理店として入ってるのか
前方後方墳は濃尾平野が発祥地で関東に広がっていったからな。
黒塚古墳なんかもそうだが、奈良の古墳に多い玉、鏡、剣は、本来北部九州の祭祀。
黒塚古墳等の時代より前に北部九州の影響を強く受けた勢力が畿内に根付いていたということだろ
>>237
というか、無かったら畿内に各地が貢ぎ物してた理由が…
宗教の聖地ならこの時代に国を越えた統一宗教があって畿内が総本山って事になる >>239
纒向遺跡の祭祀跡は生贄祭祀のある諏訪大社に似ている
鐸は教令を伝える時に鳴らすもの、鈴
今でも神社では鈴を鳴らしまくっている
鳥居、烏帽子、鳥の格好で舞う巫女など神道は鳥トーテムと関係が深い よくわからんが、個人的には熊本県山都町の弊立神社のあたりが怪しいと思う
パワースポットとか普段は信じてないけど、あそこだけは特別
>>72
神功皇后の話も含めて、卑弥呼の伝承が曲がって伝わってた可能性はある
いずれにせよ、卑弥呼の時代前後から突如として畿内に鏡・玉・剣の古墳文化が始まるのは興味深い でなんで古墳時代でなく弥生時代の卑弥呼の墓が前方後円墳なんだよ。
しかし、今時、近畿説なんて信じている奴が
いるんだw
魏志倭人伝の記述と違う、物証無し
>>245
そりゃそうだ
当時はそれしか宝物がなかったのだからw
中国鏡も鉄も西からしか入ってこないのだし
そんな限定されたものをもってして影響とは笑わせてくれるw
まさに物は言いようだなw
まあ、東征とか書いてる奴にまともな知識を持つ奴はいないけど >>252
畿内説では卑弥呼の墓から前方後円墳が始まった事にしたいらしい。
前方後円墳の葬祭方式の広がりが畿内起源ということになれば、畿内統一政権が存在したと言えるとかなんとか。
妄想甚だしいけどなw >>254
ふむふむ記紀に書かれてる東征は捏造だと? >>252
前方後円墳という名前は江戸時代についたものだぞ
メインは円墳部分 >>163
トロイだってシュリーマンが掘り当てるまで知られてなかっただろ
あってももう破壊されたかもしれないしね 卑弥呼って言っとけばなんでも話題になるから
とりあえず邪馬台国?とか言ってみたレベル
円墳部分で100歩の大きさを叩き出す古墳がない
なぜないかというと長里を採用するから
だから短里が正しいわけだが、短里を認めると、今度は畿内まで行き着かない
そもそも、卑弥呼って人の名前なん?
役職名じゃないの?
記紀で「九州から畿内に行きますた」を
大切なことだから二回書きますたなので
それを神武天皇と呼ぼうが神功皇后と
呼ぼうが強力な権力を持った一団が
移動してきたのは歴史的事実の反映だろう
邪馬台国は北部九州連合のことでしょ。そのなかでも中心的な国があった。それが大宰府辺りなんだろう。
学問と宗教の争いなんだよ
前者が畿内説、後者が九州説だが
>>264
それも大軍勢で攻め入ったという訳では無く、小集団が各地の勢力と協力しながらだからな >>250
では、神武は誰?
14代天皇の皇后である、神功皇后が卑弥呼ってのは流石に無理筋ファンタジーじゃないか?
卑弥呼は巫女でありシャーマン。
直接海を渡って戦出向くというのは、余りにもかけ離れすぎている。
というか、卑弥呼は恐らく神殿から出てくることすら稀な存在だったはずだぞ。 >>261
神功皇后 という説もある というか
そもそも一つの話だったのが
神話や伝承を作った集団の都合により
アマテラスにもなり
卑弥呼にもなり
神功皇后にもなったと
考えることもできる 向田邦子や橋田寿賀子が卑弥呼と人物像は似てるが
似た人物像を一緒にするのは偶像崇拝で歴史をねじ曲げるのはユダヤ思想だわ
卑弥呼の墓は九州の久留米市だわ
>>269
古事記を素直に読めば
応神天皇の父親は不明なので
そこでリセットされてるとも言える 神功皇后の墓なら奈良の競輪場の近くにあるからな(´・ω・`)
倭国の使者も「昔は筑紫にいたけど奈良に引っ越しました」って言ってるんだから、それを完全に無視しちゃダメだろw
それが卑弥呼の前なのか後なのかは知らんけど
>>1
これで食ってる何にも解明なんて出来てないゴミ学者どもが結果なんて出すわけないわwww >>1
お前なんで同じようなスレロンダして継続してんの? 九州説の方が、色々と話が広げられて面白い罠。史跡全部が畿内ばかりだと、日本としての纏まりが無くなるしな。
しかしまぁ、奈良県内は何処を掘っても遺跡がゴロゴロ出てくるなw アイヌ土人とかって、歴史を語る癖に遺跡の類が一切出てこない事実をどう捉えて居るのだかw アイヌ人は空中浮揚でもして暮らしていたのか?w
>>269
あと神功皇后て夫仲哀が変死する直前までは
暗闇で占いやイタコのようなことをやってる
夫の死後は大軍勢を率いたり
いきなり海を渡って朝鮮に行き
ろくに戦争もしないのに「服属させますた」
と帰ってきて畿内で仲哀の王子を皆殺しにし
自分の産んだ父親不明の応神を後継者にした
結構わけのわからない危険なキャラクタ >>269
神武は那国王か、その親戚とかかもしれんね
あくまで推測だけど、どっちにしろ北部九州勢の海人なんじゃない >>281
キャプ付きコテハンがそれを全否定してどうするw 近畿は外敵もなく食料受給に適した場所で人口だけが膨れ上がった土人の僻地だよ。
邪馬台は戦禍の中に生まれた国家であり
纏向とはまるで様相が違う。
邪馬台国は朝鮮半島
邪馬台国がどこにあるか日本国内でよく論争になるが
「邪馬台国論争 終結宣言」(山形明郷著、1994年)によると、楽浪郡・帯方郡は遼東半島にあり、その南に三韓(馬韓・弁韓・辰韓)、その南に倭があった。
さらに、三韓が遼東半島に収まるとし、遼東半島より南側、現在の北朝鮮より南側を倭国であると書かれている。
すなわち、倭国は朝鮮半島にあったのである。
>>285
ニュース速報+は可愛いもんだよな
芸スポなんかは一週間後に
他の記者が同じ記事でスレ立てて平気な顔してる 君たちはドイツの哲学者カントの道徳形而上学原論でも読んだほうがいい。
それぞれの意志の特性は性格なんだよ。
卑弥呼は神武の先祖でアマテラスだが神功皇后でもある ←ねーよ
前方後円墳は侵略者の墓だよね
大和は侵略された側だわ
被支配層に殊更に支配者の権威を強調する必要から墓が巨大化し、祭祀者も崇めよと方の部分も発達した
そこから卑弥呼にちなんだ三角縁神獣鏡が出てるのなら、むしろ東征のあった根拠になるかもな
>>275
「倭人の言ってる事は信用できねえ」とも旧唐書には書いてあるぞ。 >>289
その本には、ドイツ人聖職者は大体がショタホモって、ちゃんと記してあるの?
形而下のことは下賤だから述べない、と言い切って居るかも知れないけどw 奈良説が岩盤規制みたいになってて笑える
あの芸術家肌の魏の曹一族が金印を贈る相手に三角縁みたいな粗末な鏡送るわけないだろ
曹操の一族馬鹿にしすぎじゃね?
辛国の城に始めて八流の幡、天から降りて、吾は日本の神となれり
宇佐神宮は八幡宮の総本山であるから、そこに祀られている八幡大神が一番格上になるはずである
一般的には中央に一番格の主神が配置される。つまり、八幡大神が中央に祀られて然るべきである
しかし実際に中央に祀られているのは比売大神である
比売大神が何者なのかは良く分かっていない
宇佐八幡宮に祀られている主神・比売大神は実は卑弥呼ではないかと言われている
邪馬台国は奈良じゃないし
倭の五王も天皇じゃねえよ
そもそも倭ってのは九州のことだよ
>>292
中国人の歴史書の方が無理だろw
当時の食料生産力で書いてある数の軍勢動かせる訳がないw >>292
ヤマトが二か所あることを知らなかったらそうなるかもな
知ってりゃなるほどと思える >>266
畿内説いわく、ホケノは卑弥呼に相応しくないから除外なんだってよ。
唐古鍵遺跡も近くに墓が無いから除外とか訳わからんね。 >>298
当時食糧は現地調達でぶんどりし放題だったからなんとも
元寇のときみたく現地人を吊して干し肉にしたり 旧唐書・新唐書ではそれぞれ
「日本が倭を併合した」だの「倭が日本を併合した」だの書いてて
信用できねえっつってる
どっちにしても日本と倭は別モンだよ
世紀後半には九州王朝は畿内王権の王を直接九州出身者にした、これが畿内王権の応神(ホムダワケ=本家からの手先)朝です
中国の史書の人数は盛るのが決まりだろ
大体三倍から十倍は盛らなければならないってくらい必ず盛ってる
本当に史書に記載する人数に関しては決まりがあったのかも
>>222
よく言われてることだが、秦王国は九州北東部のことだろうな
八幡宮は秦氏の神だし >>275
それ前提だけど。
卑弥呼の居た魏の時代は九州邪馬台国で、隋書に書かれた7世紀頃には畿内の大和国に遷都済みというのが九州説。
魏の時代から西日本はずっと畿内政権下だったと言い張っているのが畿内説。 >>282
面白いとか、悔しいとかそういう感情論で語ると九州説になるから。大事なことは歴史的な事実。 >>307
畿内説には「卑弥呼の前には東遷済み」ってのもあるんじゃないかね
どっちにしろ北部九州から畿内への中枢部の移動が卑弥呼の前か後かの違いだけど 3世紀に九州の邪馬台国に卑弥呼がいて
4世紀あたりから近畿で大和政権が育ってって
それから7世紀にかけてじわじわと九州を飲み込んでいって
645年 大化の改新(蘇我入鹿暗殺)。難波宮遷都。
663年 白村江の戦い
667年 大津宮へ遷都
672年 壬申の乱。飛鳥浄御原宮へ遷都
694年 藤原京へ遷都
720年 隼人の反乱
ここらへんで倭は完全消滅していくんだよ
ちなみに蝦夷との戦いはこの後から始まる
卑弥呼の前に東遷済みにしたいなら神武天皇の即位日が紀元前になるわけだw
>>307
卑弥呼の居た魏の時代も九州邪馬台国で、隋書に書かれた7世紀頃も九州倭国
畿内の大和国に遷都したのは701年というのが九州説です。 >>291
>前方後円墳は侵略者の墓だよね
それがGHQの出した結論でわりと妥当な見解だと思う。
前方後円墳の広がりの早さは当時の倭人ではあり得ない早さだから。
文字や馬を使いこなせなる民族でなければ無理。 >>312
推古ぐらいまでは九州勢だと思うよ。天智から覇権を取り返した天武系が最後の九州勢 >>310
663年 白村江の戦い
667年 大津宮へ遷都
672年 壬申の乱。
694年 倭王が藤原京へ遷都
700年 大化の改新(倭国王暗殺)。 ※大化元年は695年
701年 大和朝廷成立
720年 九州倭国で反乱 ウィキ見ればわかるけど
九州説には
>邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。
からそこらへんわかっとけよまずは
>>309
さっき別件でも書いたけど、卑弥呼の前の時代だとしたらコミニュケーションに不自由する時代だから、九州と奈良だとあまりにも遠くて非現実的かと思う。
手紙や馬での移動が出来なきゃ無理だよ。 文字の無い時代に九州から関西までの広域国家なんて成立し得ないな
畿内説を主張してる人は異常。
なんかそんなに難しい話でもない気がするけどなぁ
それぞれの思惑があって結論が出せてないだけか
>>125>>249
熊本県山都町には元々「山都」という地名は無く、
2004年の三町合併に伴って公募によって付けられたものだ。
そもそも「邪馬台」は当時の発音だと「ヤマダ(ヤマド)」だ。 >>293
才媛だからって手料理も上手く美人だった向田邦子さんを橋田寿賀子さんにするな!ってことだよ。 奈良の茶臼山古墳には宗像神社があるんだけど、もし古代から変わってないとしたら4世紀初めには既に北部九州の宗像氏の勢力が奈良まできてることになるんだよね
>>317
卑弥呼時代以前から西日本はある程度海運で繋がっていたようだから、そうでもないと思うよ
文化が東遷する家庭で豪族同士の姻戚関係も進んでいただろうし
特に神武の吉備に8年滞在なんて、もはやそれ吉備の勢力じゃないかとw 5世紀の巨大古墳時代に勢力が入れ替わってると思うんだよね(´・ω・`)
>>320
なんだお前。自分が恥ずかしくなって消えたのかと思ったら
性懲りもなくまだやってんのか 魏志倭人伝の意味が分からなくて
謎が解けない怪奇現象が起きてるのが何故か現中華人という方々
大乱からの三十の国による女王共立が
まんま広域国家の成立の過程だろう
西暦57年には大陸に使者を送り込んで
金印を手に入れるような力があるのに
二世紀近く九州の狭い範囲で文化は停滞してたよ
みたいな考えは古代人舐めてると思うわ
>>328
九州にしか勢力は無かったというわけでもあるまい?
九州にも出雲にも吉備にも近畿にも北陸中部東海にも
ある程度の勢力がいたと考えるのが合理的 >>324
その交流の盛んだった畿内、吉備で流行った銅鐸文化の衰退が何を意味するのか?
九州、畿内ともう一つの勢力があったと感じるんだよ。
山陰あたりから流れ込んだ新規渡来人が京都、滋賀、奈良を制圧して大陸譲りの王朝構築を始めたんじゃないかと。
鳥取で弥生人の惨殺遺骨が大量に出てる件や朝貢が途絶えた件と合わせて、あり得る話かと思う。 源義経がジンギスカンと同一人物ぐらいのでっち上げの説だからな
京大閥の近畿説vs東大閥の九州説という構図を聞いて萎えた
学問というより予算獲得のための権力闘争なんだわ
>>330
出雲の勢力との対抗上、畿内や吉備の勢力が北部九州勢を畿内に手引きした可能性もなきにしもあらずだな >>320
実際のところ大学同士のマウント合戦らしいよ
どこが歴史的に正しいのか、じゃなくてどこの大学の研究が凄いのか
日本の考古学は爆熱ゴッドハンドよ >>332
それよ
畿内か九州か、それは大学のパワーバランスで決まる
実は発掘も解析も関係ねぇのよw >>318
「国立歴史民俗博物館 捏造」で検索すると色々書かれているね。 >>333
それで出雲が降参し国譲り
銅剣を埋めて戦いません
そのかわり連合国に参加させてね
神武東遷は吉備や尾張が九州勢力の一部を擁立し畿内に引き入れた >>337
仁徳天皇陵(大仙古墳)発掘調査も注意すべし
宮内庁や文科省も古墳に関して
ぁゃιぃ 動きが以前からある 発掘調査できればなあ 箸墓とか
なんかわかるだろうに
>>338
埋葬のされた人骨残ってたんだよね
鑑定できないものか >>341
それ中央部の大々的な調査かと思いきや全然違うんだよな
そもそも実在性はともかくあの陵墓の被葬者仁徳天皇じゃない様な >>343
地図見たらわかるけど、高速道路をこの部分だけくにゃっと曲げてるんだよな
とんでもなく配慮してる感じする 大仙古墳は長いことこどもの遊び場だったから
遊びで埋めたチョッカラやトゥッペギが出土するかもしれんな
>>344
宮内庁と堺市が発掘調査
関係ない人物が調査して世界遺産登録とか つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。
>>337
歴博のQ&Aを貼った人がいたけど、その回答者も京都大学出身なんだよね
「大多数の考古学者は大和説です」と言うんだけど、そりゃあなたの周りでは多いでしょうよ
どうせ東大閥が支配する研究機関では「九州説が有力です」と言っているんだろう
このプロレスを続けている限りは両者とも予算を楽に獲得できるんだわ