松山戦争で戦死した水戸藩士の墓「脱走塚」の前で手を合わせる水戸市の関係者ら=27日、千葉県匝瑳市中台(城之内和義撮影)
明治元年の松山戦争から150年の節目に行われた慰霊法要=27日、千葉県匝瑳市中台(城之内和義撮影)
明治元年に千葉県匝瑳(そうさ)市内で起きた水戸藩最後の内部抗争「松山戦争」で戦死した26人の藩士を慰霊する法要が27日、同市中台の「脱走塚(水戸藩士の墓)」で行われた。150年目の節目となった法要には、水戸市から藩士の子孫らが訪れ、供養碑の前で手を合わせた。
幕末、水戸藩は尊王攘夷派の天狗(てんぐ)党と、佐幕派の諸生党に二分され藩内抗争を繰り返した。幕府崩壊後、朝敵とされた諸生党の藩士らは水戸を脱出。北越、会津と転戦したが敗走し、最後に戦った場所が下総の松山村(現在の匝瑳市)だった。
匝瑳市教育委員会などによると、明治元年10月に起きたこの戦いで死亡した藩士らは地元の村民らに埋葬され、翌2年5月に供養塔が建てられた。当時、諸生党の藩士は水戸藩の脱走兵とみなされていたことから、この場所は脱走塚と呼ばれるようになった。脱走塚は昭和35年に匝瑳市の史跡に指定され、水戸市の子孫らとの交流も生まれた。
今回の慰霊法要は、諸生党藩士の子孫や関係者らでつくる「水戸藩士殉難150年記念事業実行委員会」などが主催。水戸市からは高橋靖市長や藩士の子孫らでつくる水戸殉難者恩光碑保存会の関係者など約50人が訪れた。長年、脱走塚を世話してきた匝瑳市中台区の住民らも参列し、計約130人が焼香をして冥福を祈った。
実行委員長の岡見円礼(みつひろ)さん(71)=水戸市見川=は「急にやってきた水戸藩同士が勝手に戦争をして多大な迷惑をかけたにもかかわらず、亡くなった兵士を手厚く供養してくださり、藩士の子孫として地元の皆さんのご厚意に心から感謝している」と追悼の辞を述べた。
2018.9.27 16:47
http://www.sankei.com/life/news/180927/lif1809270034-n1.html >>1
>匝瑳市
わざとか? ってくらいに読めない。 利根川封鎖してイバラギ〜から先は渡れないようにしとけよ
酒飲み電車臭いんだよ常磐線
朝鮮の血が混じった日本人が増え歴史を好き勝手にイジくり回す
>>3
>匝瑳
100%勇気〜
もうがんばるしかないさ〜
これで覚えだたろ? 人は記憶型と思考型に大別できる
幕末の水戸は血生臭いんだ
あまり近づきたくない
これは脱走兵側の子孫で天狗党は来てるの?
てか諸生党と天狗党の子孫ってどうなってるの?
あと匝瑳市の弓道の道具屋とか弓道場やってたお店って水戸藩の弓術指南役の家柄じゃなかった?
諸生党側の人だったのかな?
匝瑳市は戦後在日朝鮮人と中央地区のゴミが粋がっているとんでもない地区だからな
帝国軍が開戦前に現在の匝瑳市旭市と茂原市に急遽航空機地を作った
このために帝国軍基地に付き物の陛下の臣民がこれらの地域に住み着いた
旭市匝瑳市の香取航空基地は特攻隊の基地でもあり、帝国首都への空襲への来襲や帰路に爆弾を投下していく空襲や、
空母艦載機の空襲を受けたので空襲の被害を受けている
>>13
くだらないし馬鹿馬鹿しいが、悔しいけどそれで覚えてしまった… >>17
こういうデマばかり垂れ流す阿呆は死なないかなあ。 転戦する意味が分からない
追い出したら勝ちじゃないのか?
・徳川御三家で最も格下
・水戸家から将軍を出すことはない
・領地には帰れず江戸城で将軍をサポートしなければいけない
こういった立場故に徳川家に対して歪んだ感情を持つこととなり
反動として勤王に走った結果 とうとう徳川幕府を潰してしまった水戸徳川家
維新とは何か?
ウソ:ジャップ独力による近代化
真実:主にイギリスによるジャップの植民地化
はやくこの真実を教科書でも教えろよ。
これがジャップの増長のもとだぞ。
c
だから茨城にはヤンキーが多いのか
やっぱり歴史が物語っているんだなw
藩内の佐幕派と尊皇攘夷派でいいのに天狗党なんて名前で呼ぶからわけがわからなくなる
徳川は新田義貞の子孫という設定→そこで水戸黄門が南朝を持ち上げる→幕末にテロリストを輩出、内ゲバで自滅
>>28
会津や列藩同盟の下に付くのが嫌だとか旧幕閣に従うのが嫌だとかどうせ下らん理由よ
天狗党もそんな下らん理由で内ゲバ起こしてるし。内ゲバやってそっからまだ内ゲバとか意味不明なことばっかやるのが水戸 水戸藩って昔からあのイントネーションだったんだろうか?
幕末の水戸は、藩内の殺し合い自体が目的化していた印象。
何やりたかったんだ、こいつら。
天狗党の虐殺略奪してた田中一派は水戸の公式見解では天狗党扱いされてない模様
水戸市の回天神社とかいくとそんな感じ
日立の海防城や鉱山設備を破壊したりと地元にも迷惑かけまくりだし。
>>28
水戸藩の幕府派=諸生党は、鳥羽・伏見の戦いで薩長=天狗党が勝ったので、泡を食って会津に逃走した。
最初は「会津藩が幕府から京都守護職用に一時的にもらっていた幕府領」と称し、新潟で略奪をしてたんだけど、
新政府側はそんなの知ったことじゃないし、幕府領=天領だから阻止に動いて戦闘発生。
新潟が新政府の手中に入ったから会津藩に逃げ込んだけど、やっぱり折り合いが悪くて水戸に帰還。
で、薩長の支援で再建中の天狗党と鉢合わせして、戦闘発生。
で千葉まで転戦して玉砕した。 幕末維新殉難者で靖国に最も多く合祀されているのは
水戸人だったりするほど内ゲバで死んでるからな
>>15
水戸市の大金持ち=土地持ち地主層は大体、諸生党なり天狗党なり、江戸時代から居ついてる知識層
市議会議員や県議会議員だと、割合は更にハネ上がる
だからその影響は、現在でも大きい
例えば水戸市と旧勝田市は仲が悪いし、大洗町と旧那珂湊町も根っこは天狗争乱まで遡る パラドックスな立ち位置はエンターテイメントだと思う八切止夫であった・・・。
要するに茨城土人はまとまろうとする気が無い奴ばかりなんだよ。県民性だろうな
自我が強すぎて他県人は辟易すると思うね。
てか幕府叩く前に明治昭和の戦争責任の話した方がよくね?
5.15事件も、2.26事件も、首謀者は水戸っぽ
結構洒落にならないハナシ
水戸藩の天狗党の始末は残酷極まってて
日本人凶暴を信じてる反日さんたちのイメージどおり
子供抱きかかえたまま母親ともども処刑したりするんだもんね
尊王攘夷って今で言えば右翼みたいなもんだが、新羅高句麗の移民の子孫と言われる坂東武士が国粋主義というのもなかなか面白い
地方の大名が関東に嫉妬しまくりとかカッコ悪いですよw
水戸藩圏が日本型テロリスト発祥の地だべ。。。
いまだに若い暴走族がたくさん走ってる土地柄
山梨の甲斐独尊族に通じるものがあるよ
>>57
新羅、高句麗移民は古墳時代以降だが関東には弥生時代から朝鮮半島からの
渡来人が住み着いている。 >>10
目くそ鼻くそなんだよバ〜〜カ!!
南武線沿線住民より これ匝瑳市の太田の糞ゴミイジメ市長も出てるんだな
もしかしてイジメのゴリラ息子も居たのか?
ミトッポか。
まあ三百諸侯のなかで最悪なのが水戸藩だわ。
知れば知るほど嫌いになる。
互いに家族もやるとか暗黙のルール違反やったせいで無茶苦茶になったんだよな
水戸は闇だな。幕末の肝なのに死にすぎてスターもいないのと
残酷すぎるのでドラマ小説でも触れられない
どうして、皇居に楠木正成像があるのか?
ここから、今が見えてくる。。
歴史は繰り返されるのだよ。。
>>22
徳川御三家筆頭の尾張徳川も戊辰戦争では
新政府に寝返ってる
徳川宗家と徳川御三家が冷戦状態だったらしい 伊予松山潘といい幕末の松山がつくものは
なんで糞なのか
茨城土人の凶暴性は今に始まった事では無いから金正恩閣下にお願いして
ノドンミサイルで殲滅した方が良いな
北の備えなら会津に封じればよかったのになんで近すぎる常陸にしてしまったのか
秀吉は東北の抑えで会津に蒲生を据えたしその後は上杉を据えた
水戸徳川は江戸に近すぎたのが不幸だったな
ここまで本圀寺党なし
水戸藩を朝敵にしないために上手く立ち回ったのに
本圀寺党の知名度が低過ぎて泣けて来る
>>73
ぜんぜん泣けねえよ。
藩内で殺し合いしてただけじゃねえか。 >>74
本圀寺党の京都での立ち回りは実に見事だったよ
旧幕府軍は本圀寺党を旧幕府の戦力として当てにしてて
鳥羽伏見の戦い前に自勢力としてカウントしてたくらいだから
揉め事も戦闘もせず京都から上手く帰藩しただけでも大したもんだよ >>75
帰ってきてから殺し合いしてたら世話は無い。
そんなことやってんのは水戸藩だけだぜ。
なぜ恭順を説いて藩論を統一できなかったのか。
結局私怨で憎しみあってただけでしょ。
勤皇以前だわw 遡ると総ての元凶はアンゴル・モア蒙古襲来のせい。
水戸光圀の朱子学朱舜水受け入れと大義名分論で「徳川幕府は不当に権力簒奪したんでは」とやらかしたから。
結局水戸藩は内ゲバで藩士が死にすぎて明治維新には貢献出来ず。
当時の代表的知識人藤田東湖が地震で早く死んだのも痛かったね。
>>22
初代から勤皇なんだが
あと将軍家に嫁に来た和宮 親子内親王以前でも水戸藩だけは皇族や公家から嫁を貰っていた事を考えると、元々家康がかつて徳川家と豊臣家にそれぞれ息子を別れさせた真田家の様にいつか徳川の権勢が落ちた時の為に皇族側に付けて残す家として設計してたんだろ 水戸光圀が阿呆な思想を残したせいで幕末の水戸はもうめちゃくちゃだよね
派閥争いなんてどの藩でもあるもんだけど、ボロボロになったのは馬鹿としかw
北関東って結局荒くれ者というか、西部劇の西部みたいな感じなんだよね
大和の端っこで、とーほぐとの国境地帯だったから仕方ないのか
>>22
最後の将軍も、会津、桑名も水戸からの養子やろ。経由はしてても。 この辺は当時とあんまり景色変わらんやろww 日本最古の大学とかもあるよな
>>47
津軽南部みてーな同じ県内で
仲が悪いとか全国にあんのか? 新政府への水戸城明け渡しの時もかなり殺し合いしてるよね
茨城県民がお上に刃向かうのは平将門公以来の伝統だから仕方ないね
佐竹一族は頼朝に刃向かったし、室町将軍VS鎌倉公方の争いも公方に味方したし、関ヶ原じゃ三成に味方しようとしたし
黄門は綱吉に犬の毛皮贈りつけるし
平成になっても梶山静六先生が派閥飛び出して小渕と総裁選争ったし
基本的に負け組なのが茨城らしいw
ホントなら水戸藩が勤皇派として活躍してたのにね
内ゲバのしすぎで人材がいなくなっちゃった(´・ω・`)
戦後の農地解放で在日朝鮮人とゴミが支配する街になった八日市場市
朝鮮共産党、朝鮮社会党、朝鮮自民党
クソゴミだから金権腐敗千葉二区と言うゴミ地域だったんだよ
この松山のある地域の中学校
入学式で新入生を校門で教師と不良が釘バットや木刀、金属バットを凶器として所持し
その凶器で新入生を脅しどついて制服チェックとして新入生全員を凶器で武装した教師と不良で脅していたところ
学校にはシンナートルエンの一斗缶が常備されていて共産党教師はその一斗缶の常備を許していた
市長の太田の息子はこれらの共産党教師達に貴族様の息子様として崇められていてやりたい放題
私服通学、飲酒喫煙、イジメなんでもオーケー
共産党教師らはこの太田グループと公務員の子供等に貴族だからと私服通学を許していた
慰霊法要なのにそんなこと言ったら浮かばれないだろw
水戸藩てロクなことしてないよね
領民皆殺しの村があって300年隠してたとか
松山戦争でググったら、山口組と本多会(大日本平和会)の抗争が出てくるんだが。。
薩長土肥のうちの一つの某県なんだが、明治維新の震源地は水戸藩だと認識してる。
水戸学は、元来から西国武士の根底にあった防人の心得そのもの。
>>83
将軍自ら大政奉還と無血開城しちゃったら予備の存在意義なくね?
特に必要のなくなった安全装置が放棄されるのは残念ながら当然 行動が過激すぎて、何をやっても暴走・暴発 あげくに精魂尽き果て手柄は他所へ
ここまで、ペリリュー島の水戸歩兵第二聯隊への言及が少ないな
あの悲劇も、2.26事件や5.15事件の陸軍総本部からのお仕置きだった側面が濃いんだが
薩長土肥の政治手法の陰険さも、幕末の頃から本質は変わらん
>>94
震源地だよ。水戸藩が全部事を起こしたそして自爆してお鉢が西国夕飯に回ってきたってだけ。
薩 桜田門事件だって、井伊直弼がやっとこさっとこ孝明帝の勅命をひっクリエしたのに気に入らないといっていいを江戸城門外で殺した。
この内乱に巻き込まれて故・津川雅彦の母がたの先祖が
水戸から浅草へ引っ越してその子が芝居に興味を持って
芸能界へ入ったってNHKでやってたな
水戸の天狗党一派が栃木で放火・略奪・殺戮したから信用できん
御三家が倒幕の流れを作ったのだから皮肉なものだ
徳川斉昭はどこまで考えていたのだろう?
Wiki
天狗党は翌7日から9日にかけて八日市場近隣の村々に押入って金品を強奪し、各村の名主・組頭を縛り上げて拉致し身代金550両を奪取した上、銚子など周辺の町を次々と襲撃して略奪を繰り返した後、水戸へと戻っていった。
>>3
東の匝瑳、西の宍粟
ぜったいにワザとだよなw 天狗党というのは、要するに「佐竹以前からの地侍の末裔」なんだよね。秋田に行けず茨城に取り残された人たち。
新しい殿様は、御三家とは言っても3家最弱の鉢植え大名で、しかも殿様は東京ドームに住んだっきりで地元にまったく来ないという腰掛け状態。
しかも水戸家は収奪が苛烈という状態で、いろんな意味で不満がくすぶっていた。
これに、水戸黄門が吹き込んだ朝鮮朱子学によって、斜め上に反骨をこじらせちゃった郷士(相当)の人たち。
チバラキにも地域があるんか。鳥取と島根みたいな一衣帯水の地だろ?
利根川の工事やったの秋田に連れてって貰えなかった佐竹の旧臣だったというが、
土佐藩みたいに佐竹の旧臣が差別的扱いうけるってことはなかったのかね
出自の知れない長宗我部と違ってモノホンの清和源氏佐竹の旧臣は無碍にもできんかったのかな
水戸は迷惑かけてばっかりだったな。今みたいに影が薄い方が無害でいい。
>>86
普通にあるやろ。藩=県やないからな。あと、支藩にされた家系や家臣の恨みとか。 >>94
本家仙台と支藩吉田が足を引っ張った宇和島とか官軍やったのに土下座で身内の命乞いしかやることなかったんやで、 >>106
水戸は朝鮮とあまり関係ないだろう。朱舜水だから明だろう
山崎闇斎関連でむしろ会津のほうが李退渓との関連があったんだろう >>110
つーか小説のモデルは水戸藩郷士(佐竹の遺臣)
斉昭が能力主義で取り立て要職に就けたから守旧派(諸生派)が反発し内紛
藤田東湖の祖父は那珂市生まれの古着屋、そお息子の親父は能力だけで家老格まで出世
守旧派も元々は武田家再興の為に集めた連中、なかなか激しい
郷士の生き残りが土佐藩にたどり着き陸援隊の幹部に
維新後皇后の侍従になり海援隊に龍馬と云う人物が居た事を皇后に吹き込んで龍馬伝説が生まれた >>88
忠臣蔵の浅野家も真壁→笠間→赤穂で常陸出身者も多い坂東武者の気風が高い
諸説はあるが藤原鎌足は鹿島神宮の出身で大化の改新で鹿島の兵を使ったとある
天皇の弟が常陸宮なんですわ
明治天皇も迷ったら水戸の意見に従えと遺言した
将門は朝敵で下総、将門を討ったのは石岡平氏 、その五代後が清盛
不穏な下総は分割して水戸に任せたってところかな? この人さえ生きてれば斉昭公の暴走も無かったとされ
幕末期水戸藩最大の良心と語られる藤田東湖だけど
この人でさえ若い頃のエピソードは色々とアレで蛮族なんだよな
>>13
意味分かんないんだけど、結局何て読むの? 茨城県民は天狗党か諸生党のどちらかに分かれて殺し合いしているから、今でも天狗党の乱の話はタブー。
命をかけて朝廷や幕府のために尽くしてきたのに、ある日朝敵にされるなんて辛すぎて涙でるわ
>>123
フライングそーさー。
サビの歌い始めの「(そうさ)100パーセント結城」が分らないと何も分からない。 徳川本家だって、子種が尽きて水戸藩から一橋慶喜を迎えて当主にしてる。今の徳川本家は
水戸系だろ。www
と言っても、徳川家達=田安亀之助には男系子孫無く、松平容保(まあ、水戸系)からの養子だけどね。
>>21
脱藩は死罪に決まってるんだよ。
その執行のために行ってんだよ。
しかし脱藩じゃなく脱走ってのは、
正規な脱藩ではなかった可能性もあれば、
後の評価で名誉の関係上もあるだろうな。 ああ、ウリも実はしばしば折に触れいっていた
天狗党対諸生党の血みどろの内戦ですな
幕末維新とこの時代は何かと血なまぐさい時代だが
ことにこの水戸藩内の藩内闘争は滅茶苦茶だよ
家族も的にかけた残忍なジェノサイドのやり合いなわけでね
だいたい天狗党のやらかしからして滅茶苦茶でね。
なんでまた長野和田峠から北陸まで転戦してんだ。
そして敦賀ニシン蔵での監禁拷問から350人皆殺しのジェノサイドとひでえもんだ。350人だぜ?
さらには藩内では天狗党の家族が同じようにクレンジングにあわされたってわけ。
そりゃそんなことしてれば明治維新と風向きが変わって天狗党が「正しい側」となれば
虐待の限りを受けてた天狗党側が反撃に出るわなあ。今まで家族ぐるみで命を脅かされてきたんだから。
最後は千葉くんだりまで来て内戦を続ける。終わったら諸生党を片端からジェノサイドだ。
もう滅茶苦茶すぎるだろ。
そんなことやってれば討幕闘争の聖地みたよな尊攘藩であっても人が出せず
人材払底で「薩摩警視に水戸巡査」と馬鹿にされるまでにもなるさ
あらら、興奮して、長く書きすぎちゃった。
しかも大抵は調べれば2秒でわかることだね。ごみんね
でもさ、ここでウリたちが想起すべきは、イデオロギーは人を狂わせるし
(弘道館戦争とか藩校焼いちゃうしねw 生存のためとはいえ滅茶苦茶だよ)
血に酔うっていうのかな、命を懸けた報復合戦はこれ、くせになるんだよ
こういっちゃサイコパスみたいだけど政敵のジェノサイドやった諸生党でも天狗党でも
自分がヘゲモニーもったときの積年の恨みを圧倒的な力で対立相手にぶつけたときは
「気持ちよかった」と思うよ。普通に考えりゃおそろしいことだけどね
そうして「我こそ正義」といってジェノサイド闘争を繰り返した結果がかくの如しだ。
今の視座からすりゃ天狗党と諸生党どっちが正しかったんすかね。
どうでもいい気もするけどなwww
>>136
会津と付き合えなかった人間が、外様の伊達に下れるものか。 >>135
また単純に天狗VS諸生でも無い
尊皇攘夷派も穏便な改革派と暴力革命辞さず派(天狗党)に別れ場合に依っちゃ命のやり取り
尊皇攘夷運動の元本を書いた会沢も存命で穏便派、藤田東湖の親父はライバルであった
つい東湖は過激に走る
慶喜は公武合体で済ませようとしてるのに過激派は邪魔な存在
東湖・会沢・斉昭が死に凧の糸が切れた
天狗が慶喜に直訴するため京都へ向かったが慶喜は切った
慶喜だって弘道館で一緒に学んだ連中まあしんどい決断
諸生派も藩を守り神君家康公を敬う事は悪ではない
天下国家を語る天狗と現実派の諸生、どっちも悪く無いが引け無いんだな >>119
水戸藩は、最初から藩士の構成が、いっちゃなんだけど「負け組の掃き溜め」なんだよなあ。
しかも一癖も二癖もある負け組の集合体。武田の生き残りに、最上家の末裔…
江戸幕府草創期の「政治的整理」で生じた負の遺産を、特に多く引き受けてる感がある。
他方で、佐竹自体、茨城を完全に慰撫する前に突然の懲罰転封になったから、
佐竹ですらまとめきれなかった国人上がりの郷士が、土着の土豪として大量に居残った。
そして藩主は江戸の後楽園から出てこない。これじゃあまとまらんわな。
尾張家なんかだと、家康が精鋭を付けた上に、忍の関東武士なども合流して、
義直の下でまとまって仲良くやってる。
尾張家も幕末は荒れてタブーが残ったが、水戸のような根深い話ではない。
ただ、尾張家の場合、地理的に近い京都の公家の馬鹿っぷりを目の当たりにしてたから、
「有能なほど佐幕に傾く」傾向があったので、明治以降は粛清の後遺症で人材難に悩む。 日本中の余所者が集まってきてトラブったんだねいい迷惑
水戸家次期当主
慶応ではボート部、お元気そうであられる >>137
伊達はすぐ降伏して、官軍やった分家の宇和島の土下座攻撃で生き延びたで、北海道移住はさせられたけど。 コレを機にチバラキ県にしてはどうか? 人口で神奈川県に並んで、憧れの東京都に近づけるぞw
茨城モンって少し前は柏までシャコタンで下品な音楽をボリューム全快で鳴らしてナンパしに来てた
今は小汚い転売じじいが荒らしに来ているし
茨城モンって今でもこっちの生活を荒らしにくるんだよなぁ
誰この場違いな美人は
>>140
家康も天下獲るため今川・武田・北条の有能な連中を採用したが割りと上手く天下が獲れて厄介者に
尊敬する武田家再興の為五男を武田を名乗らせ水戸に入れたが今川・北条も加わり地元対策で佐竹系も採用
頭でっかちになった
三河系も居たが有能な奴は普代大名か旗本になってるし武田信吉死亡後は末息子を入れ、抑えが弱かった
家康も末子の系統が最後の将軍に成るとは思わなかったろうな 匝瑳、八日市場にも三河武士がいてその子孫との伝承もある血筋もあるんだけど、
その血筋は数ヵ所で部落を形成して戦前まで地主の家もあったが
ここのゴミ市長の太田の親子はその名字血筋を怪文書連発で攻撃していた
>>141
その怨恨が、5.15事件や2.26事件を通じて、関東軍の暴走体質にまで至ったんだから、太平洋戦争のケリを含めて洒落にならない
陸軍の薩摩人が、モメゴト好きな気質だったのも、薩人と水戸人を「混ぜるな危険」に至った要因
こうやってやや気軽に昔話が出来るようになったのも、山口武平(97)がようやく大往生してくれたおかげ
天狗党絡みは、結構今でも繊細。数的主流派は諸生党 貴重な人的資源を内輪揉めで消費し尽くした感じだよな
>>140
水戸は常府で参勤交代ないからなあ。
水戸にいられるのは、世継ぎ以外と、隠居だから、
仕方あるまい。 >>152
斉昭は現役時代でもかなり水戸に居た
藩校作ったり偕楽園作ったり
偕楽園の土塁が咎められ失脚
まああれは出城が本音
ペリー来航で復活し安政の大獄でまた失脚
水戸のご隠居待望論が水戸黄門のモチーフ