弥生時代中期から古墳時代初頭にかけての大規模環濠(かんごう)集落遺跡、平塚川添遺跡(福岡県朝倉市、国史跡)についてのシンポジウムが同市内で開かれた。「卑弥呼の鏡」との説もあり、同遺跡付近で出土したとみられる三角縁神獣鏡が最近発見されたことが報告され、同遺跡一帯の重要性が改めて浮かび上がった。
平塚川添遺跡は筑後川の支流・小石原川沿いの低湿地にある。1991〜93年に発掘調査。17ヘクタールの範囲で最大7重の環濠や柵列を巡らせた中に、竪穴住居跡300カ所や大型掘立(ほったて)柱建物跡が見つかった。住居、工房、倉庫の用途ごとの区画が存在したとされる。大量の土器や木製品のほか、玉類などもあった。遺跡の最盛期は邪馬台国時代に当たるため、「魏志倭人伝」に登場する「国」の存在を示す遺跡として知られている。
朝倉市教委文化財係の中島圭さんは、遺跡一帯の地形に着目した。朝倉市では北部の山地から筑後川に向けて小石原川などの支流が流れるため扇状地が発達している。川に沿った高い台地に弥生〜古墳時代の遺跡が多数見つかる。ところが平塚川添遺跡は低湿地で、台地は遺跡の東部に広がる。中島さんは「国の中心は台地にあって、平塚川添遺跡はむしろ新興の開拓地だったのでは」と推測した。
それをうかがわせるのが発見された三角縁神獣鏡だ。旧福岡藩士の家に所蔵していたもので、今年3月に朝倉市に寄贈された。100年以上前の絵図で存在は知られていたが現物は所在不明だった。出土地点は文献から、同遺跡東部の台地にある、平塚大願寺遺跡の方形周溝墓だった可能性が高いという。これまで同市内で唯一の三角縁神獣鏡の出土地だった神蔵(かんのくら)古墳も、この台地にある。平塚川添遺跡では銅鏡や銅矛の破片しかなく、首長の墓は確認されていない。一方、三角縁神獣鏡は初期大和政権が各地に配布した威信財とされ、地域の首長墓の存在を示す。
中島さんは「平塚川添遺跡は氷山の一角。台地にはまだまだ遺跡が広がっている」と想像する。武末純一・福岡大教授も「平塚川添遺跡の全容はまだ分かっていない。三角縁神獣鏡と共に葬られた人が当時どこにいたのかも探してほしい」と今後の調査に期待を寄せた。
朝倉市の隣りの筑前町では近年、弥生時代の硯(すずり)が相次いで発見され、文字使用の可能性を巡って注目されている。同町の遺跡では「王墓」とみられる墳丘墓や銅製品の鋳型も確認されている。平塚川添遺跡を巡る調査研究の進展は、当時の筑後平野の先進性を探る上で鍵を握っているのかもしれない。【大森顕浩】
毎日新聞 2018年9月6日
https://mainichi.jp/articles/20180906/ddl/k46/040/424000c?inb=ra >同遺跡付近で出土したとみられる三角縁神獣鏡が最近発見されたことが報告され
どういうことだよこの回りくどい表現は
初代やまと(邪馬台)の起こりは、防御の固い飯塚・田川の盆地以外にない。
だが、その支配が確立したのち、より広い(が守りの弱い)鳥栖・朝倉の盆地に
遷都した可能性は十分にあるな。
2代目やまと(大和朝廷)が、全国支配を確立した後、奈良盆地から、
より広いが守りの弱い京の盆地へ遷都したように、
>>4
近隣の藩士の家から発見された
絵図面が元々あったので、昔から存在するのだろうとは言われていた
又、発見した場所の地図が藩士宅にあった
って事では? >>5訂正
×より広いが守りの弱い京の盆地へ遷都
〇物流・交通の便が良いが守りの弱い京の盆地へ遷都 そりゃなんやかんや言っても日本の始まりは福岡辺りに集中するやろ
地理的に当たり前
問い 三角縁神獣鏡を所有していた藩士の名字を答えなさい
>>5
>初代やまと(邪馬台)の起こりは、防御の固い飯塚・田川の盆地以外にない。
めっちゃガラ悪い土地やんけ
さすがジャップ帝国… >>14
ガラ悪くなったのは炭鉱産業の斜陽から
この時代は全く関係ない 甘木市は朝倉市の1部地域の事で、朝倉市は朝倉郡内にある地域、
昔は上座郡と下座郡に分かれていたらしいがどこを境に分かれていたかは
詳しい事は知らん。
てか三角縁なんてゴミが出たから邪馬台国って、畿内説の論法だよなw
なんで九州がそんなデマに乗っかってんの?
韓国からおいでくださった渡来人が授けたのは間違いないのだろう。
国粋的なジャップの歯軋りの音が聞こえてくるかのようだ、偉大な祖国を誇りに思う。勝利!!
半島南沿岸から北九州・山陰にかけてが古代文明の中心。
魏志に出て来る海洋民族倭のテリトリーだ。
そこから本州内の農耕民族に覇権が移る過程が不明
魏志倭人伝に邪馬台国は東側が海と書いてあるのにバカじゃね?
宇佐付近なのに利権誘導が優先されてる
渡来人が西日本に広がったことと
北九州が日本の先進地域だったこと
当時の地形など
パラメータが多くてどこか特定するのは困難だね
福岡にせよ
奈良にせよ
不思議とアレが多い地域なんだよな
>>19
腹がいてえ受ける
捏造部落穢多朝鮮非人
吐き気するケガレの血が 神無月だよ センセー!
マキメは全然聞かなくなったな
伊都国が福岡から佐賀の北西岸、奴国もしくは狗奴国が筑紫平野らしいって言われてなかったっけ?
邪馬台国は九州じゃないと思うけど。
邪馬台国は大和
邪馬台国の南の狗奴国は南河内〜和泉と言われているな
大陸との玄関口なんだから先進的なのは当たり前
邪馬台国と関連させるのはこじつけすぎるw
それよりか、面土国ってどこなんだろうな
こっちの方はまるで見当もついてないんじゃなかったっけ
三角縁神獣鏡自体が 国内生産の粗悪品で 大量生産品だろ
今わ。 卑弥呼がもらつたのは 100枚で これは 600以上みつかっえる
て話か
>>39
邪馬台国は大和、つまり奈良だよ
よく覚えておけ また奈良が桃の種持って乱入かw
部外者はこっち見んなw
狗奴国の久々知比古は、
久々知(現在の菊池)で決まってるんだから。
狗奴国の狗古智卑狗は、河内彦と言われているな
河内青玉繋。武埴安彦の祖父
卑弥呼て今でいうカリアゲみたいな存在だったんやろ
あちこちに別荘持ってたろうからいろいろ出てくるわな
魏志倭人伝の地名は、
主要部分はほとんど残っている。
邪馬台=山門で間違いないだろう。
むしろ不彌国と投馬国がどこかだ。
投馬=遠見山だとしたら何処にでもある地名。
山のある半島のように突き出た場所。
近畿とかありえないからなあ
言ってるのはトンキン宮内庁とかじゃねーの
平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)は、福岡県朝倉市平塚にある弥生時代中期から古墳時代初頭(紀元前1世紀から西暦4世紀ごろ)の遺跡である。国の史跡に指定(1994年(平成6年)5月19日指定)。
紀元前1世紀から西暦4世紀ごろというのは、魏志倭人伝時代だな、、、
朝倉・平塚川添遺跡とは、魏志倭人伝時代の、どの国のことだろうか、、、
(末盧国から)東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がいる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところだ。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、
(帯方郡から)南に航海すると、二十日で(北九州市や大分県となった)投馬国(の役所である大分市)に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の熊本城のすぐ)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、
邪馬台国は、シナ政権に従属したから、
日本国史としては、その存在を、公に認めることはできない。
せいぜい九州の地方政権程度。
京都大学が、邪馬台国=機内というのは、
日本政権、現天皇の先祖はシナの属国だったと主張するため。
東大が否というのは、日本人なら当然のことで、日本国天皇は、
一度たりともシナ皇帝に従属したことはない、当初から対等外交だった。
はいはい邪馬台国は滋賀ですよ
福岡藩主黒田家が「漢委奴国王印」の金印を保持していたが
黒田のルーツは滋賀県湖北、旧伊香郡
「魏志倭人伝」における「伊都国」
漢の使者がとどまる所と書かれた場所 >>54
「倭」の自然環境・習俗の記述は、台湾についてのもの
倭人とはいわゆる縄文人、
インドネシア辺りから北上してきたので台湾にも同族がいる
ソーラン節で踊る達悟族
擬似倭人伝中の「女王国」は別、
これは日本国内にできた、いわゆる弥生人がリーダーシップを取る国 卑弥呼の墓について
「魏志倭人伝」の記述には「径百余歩」と合わせて、
「棺あって槨なし、土を封じて冢を作る」とあります。
早い話「槨のない木棺の直葬」です。
神郷亀塚古墳
https://kofun.info/kofun/1064
*形状 前方後方墳
*規模 全長36.5m
*築造時期 3世紀前半
*後方部より並列する2基の木槨(もっかく=木で作られた玄室)が確認され、
有力者の夫妻であろうと思われる。
※魏志倭人伝の記述によれば
卑弥呼は高齢であり、夫は(すでに)なかった。 >>46
不彌国:いまの津屋崎付近
投馬国:遠賀川流域 というわけで、邪馬台国は滋賀ですよ
福岡藩主黒田家が「漢委奴国王印」の金印を保持していたが
黒田のルーツは滋賀県湖北、旧伊香郡
「魏志倭人伝」における「伊都国」
漢の使者がとどまる所と書かれた場所 新聞記事のタイトルとスレタイが違ってる
新聞記事には卑弥呼の鏡の説がある三角縁神獣鏡は大和政権から配布されたとあるが
一方、スレタイだけ読むと邪馬台国が筑後平野にあったかもしれないというニュアンスが感じられる
180度逆の意味になってしまう
>>37
>それよりか、面土国ってどこなんだろうな
>こっちの方はまるで見当もついてないんじゃなかったっけ
情報が、面土の二文字しかないからねww
それでも、そこからいろいろ考える人もいて、
面土⇒メタの音訳⇒米多と考えている人がいるよ
肥前国三根郡米多郷は、吉野ヶ里の近くだし、旧事本紀の国造本紀にも
米多国造が見えるから、それなりの地域首長が居たのは確か >>63
記事は
筑後平野に「女王が治める三十国」のうちの一つがあった
ってニュアンスなんだろうから、180度逆って事はない
まあ、いずれにせよ誤りだけど
邪馬台国連邦は、ざっくり滋賀中心に福井南部・岐阜西部・三重・奈良・京都南部くらいまで
大阪平野が「狗奴国」に当たるから 中国から貰った三角縁神獣鏡を元に
日本で大量に複製し各地にばらまいてる
一つ見つかっただけでは邪馬台国の場所はわからない
沢山見つけてばらまかれた傾向を調べる必要がある
いくら関係ねえからって、こんな暇人共の戯言載せてる余裕なんかあるのか?
全面使って震災特集でもした方がいいんじゃねえの?
そもそも三角縁神獣鏡って青銅でしょ
銅鐸が山ほど見つかってんだし余裕で国内生産できんじゃん
何ありがたがってんの
この手の希少な物に価値があったのは、例えば天皇の位とかどこぞの大陸の県令
辺りの印綬と同じく任につくのに必須だったからだ
今や何でもかんでも電子データだ、この手の物の役割なんか遠い昔に終わってるわ
弥生時代は九州で後の古墳時代は近畿。
邪馬台国は弥生時代。
>>68
同じ型でたくさん作られるから
同じキズとか癖のある鏡が作られる
それもまた研究の対象になる >>69
青銅器持ってたら天皇になれるって、、、?
まあそもそも、
優れた青銅器加工技術を持っていたのは、
古代中国の殷・周、これは北方の国
で、この周王朝の分家が、長江流域の「呉」
>「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。
>周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、
>この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。
>長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、
>呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。
「呉人」は北方の周にルーツを持つ人々と長江ネイティブの人々の混合
紀元前473年、呉は滅亡し、呉人は日本列島に亡命することとなる
それが「弥生人」、
特にその中の、周王族にルーツを持っていた一族こそが「天皇」 >>73
そう、邪馬台国人は埴輪作ってないし、ミズラ髪にもしてなかったんだよね 九州の邪馬台国を乗っ取った近畿政権の言い訳が日本書記。
今の天皇が呉人の血を受け継いでいれば邪馬台国人の末裔と言える。
>>76
苦しいなあ立正佼成会
確かに立正佼成会(漢民族)は一時、ヤマト朝廷を乗っ取った
それが神武ー武烈だね
中国遼東半島辺りから来て、「邪馬台国」に南から回りこもうとして
九州まで行って日向から上陸し、
ムダに巨大古墳をこさえた後に侵略脳が抑えられず東征
でも継体天皇から、ヤマト民族に取り返されたでしょ ああまあ、「呉」には漢民族(立正佼成会)も紛れ込んでいたのよ
それが「伊都国」人
後の黒田家な
中国春秋時代において、ネトウヨぶっこいて呉をけしかけて越と戦争させたのもこいつら ・ジャップ(天皇、上流)のバックは、アングロサクソンの軍事産業。
・さらにこのバックは「白人至上主義者」。ネオナチ。
・このバックの目的は、ジャップを「すごい」とおだてて強いと勘違いさせ、
中国とまた戦争させること。
・そうやって、彼らの憎悪する最も優れた有色人種の中国人を、
ジャップともども、弱体化し潰そうと企んでいる。
・明治から現在までのジャップの富は、連中から与えられたもの。
ジャップに「ジャップすごい」と錯覚させるため。
だから「ジャップすごい!」と信じてる馬鹿ジャップは、
白人至上主義者に都合よく洗脳されてる馬鹿、といえる。
明治で植民地化される前の江戸時代までのジャップを見れば、
アジアの3流国家であることは明らか。馬車も発明できず、貨幣経済さえ未発達だった。
ちなみに、この「白人至上主義の軍事産業の重鎮一族」と、
「ジャップ皇室」の二つの血を引いてる混血猿が、安部晋三。
やつの権力の源泉は、この血筋。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ノーベル賞も、大谷も、ワールドカップも、オリンピックも、
「ジャップすごい!」
とジャップに勘違いさせる罠。
バックに米英の大物軍事産業があれば、こんなもん簡単。
,mv
>>80
>バックは、アングロサクソンの軍事産業。
>・さらにこのバックは「白人至上主義者」。ネオナチ。
ねえ何を自己紹介してるの立正佼成会は 妙に徳島説に説得力あるんだよね
歌も残ってるし距離とかいろいろ
>>82
「東征」の途中で住み着いたのか、徳島にもけっこう漢民族いるらしいよね
坂東英二とかああいう顔
テキトーにでっちあげてるけど滋賀ほどの説得力を示せますか
福岡藩主黒田家が「漢委奴国王印」の金印を保持していたが
黒田のルーツは滋賀県湖北、旧伊香郡
「魏志倭人伝」における「伊都国」
漢の使者がとどまる所と書かれた場所 >>1
あの遺跡は工事で移転してるやろ?
違った? 邪馬台は北九州。
狗奴国は九州南部宮崎辺りにあった馬韓の属国。
そのため邪馬台は狗奴を滅ぼし半島に攻め入った。
代々王都は太宰府筑紫城があった場所
3世紀当時近畿には青銅器文明しか存在しておらず
それらも邪馬台傘下であり東北部にかけての日本海沿岸部は邪馬台に属する倭人。
出雲から硯が出土するのは、大陸王朝成立時邪馬台国各々の国の王が使者を送った痕跡
近畿は倭人半島進出後任那倭国領から奴隷として送られた半島開拓民が九州弱体化に乗じて勢力を伸ばしたクーデター勢力
偽史倭人伝だから
2000年後にラノベ解析してるようなもん。
金印w
見抜けないやつに魏史倭人伝を語るのは難しい
>>87
狗奴国は邪馬台国の「南」にあったのよ
>>88
見抜いてるやつが来てますので、何でも質問してください 邪馬台国(滋賀)vs狗奴国(大阪)の対立は、
そのまま、日本神話における
高天原(滋賀)vs葦原中津国(大阪)
アマテラスは忍穂耳命(あめのほしおみみ)を説得にあたらせたが
命は天の浮橋から覗き、『葦原中国は大変騒がしく、手に負えない』←The大阪
と高天原のアマテラスに報告した。
「...この国にはすばしこい荒ぶる国つ神どもが大勢いると思われる。←That's大阪
そこで、どの神かを遣わして、帰順させてほしい。」
邪馬台国と日本国が倭国の中にあったんじゃないの
日本国と倭国の歴史がかみ合わん理由がそれじゃないの
近畿にあった日本国の歴史だけが残って倭国の歴史とすり合わせて変なんでしょ
>>93
完全にかみ合ってる
邪馬台国=滋賀・近江盆地=高天原
高いあまはら(海)…琵琶湖(標高84m)
狗奴国=大阪平野=葦原中津国
「難波江の 葦の刈り根の・・・」の和歌に読まれるように、古代大阪平野は葦が生い茂る地 記紀神話は殷の時代から東夷に伝わる口伝と入植した半島人伝承を編集したもので、半島人との混血である天智天皇が邪馬台王権を抹消し偽倭王史をでっち上げたものである。
そこに邪馬台の記述は一切なく、近畿に伝わる古代神社、古墳に埋葬された権力者、埋葬品、壁画は半島奴隷と土着青銅器倭人が融合されできた勢力である。
天智天皇はただしく邪馬台国=高天原のアマテラスの末裔ですし
近江宮で生まれた娘の持統天皇は「高天原広野姫」の名を与えられた
ただ「卑弥呼」がアマテラスの一族かというとたぶん違う
この人はたぶん縄文系住民から選出された議長みたいなもん
記紀作った人は魏志倭人伝読んだ形跡があるだろ
その人物が続いてるように書いてないのだから違う国だったんだろ
高天原伝承なんてのはそもそも半島北部に存在する話なんだよな。
これこそ渡来人にすり替えられた歴史なんだろうけど
>>98
まーーた立正佼成会(漢民族)が起源主張し始めたよ >>99
遺跡も痕跡もねえ口伝にあやかって村興しでもしたいのか知らんが、いい加減古代のファンタジーラノベ信じ込む妄想から現実見たほうがいいぞ 邪馬台国は大和なのに
箸墓が卑弥呼の墓なのに
未だに九州とか言ってる人が信じられない
今になっても九州がどうたらいうやつがいるのは、願望だね。
まあ、夢があるというかロマンがあるというか。
卑弥呼がヤマトで今の天皇家に続いていたらちっともロマンじゃない。
ロマンじゃなくておもしろくもない事実になっちまうからな。
>>100
わたしゃルーツはほぼ県外なんで、口伝なんぞ得てないわ
遺跡が欲しいならどうぞ
○神郷亀塚古墳
https://kofun.info/kofun/1064
*形状 前方後方墳
*規模 全長36.5m
*築造時期 3世紀前半
*後方部より並列する2基の木槨(もっかく=木で作られた玄室)が確認され、
有力者の夫妻であろうと思われる。
ー魏志倭人伝の記述より
*卑弥呼の墓について
「魏志倭人伝」の記述には「径百余歩」と合わせて、
「棺あって槨なし、土を封じて冢を作る」とあります。
早い話「槨のない木棺の直葬」です。
*卑弥呼は高齢であり、夫は(すでに)なかった。
○伊勢遺跡
滋賀県守山市
約30ヘクタールに及ぶ大規模な遺跡、弥生後期としては国内最大級
さまざまな形式の大型建物が計13棟も発見
それらが円と方形の組み合わせて計画的に配置されています。
直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群、
中心部には方形に配列された大型建物がならび、柵によって囲われています。
そばには楼観が建っています。 >>101
卑弥呼の墓は径百余歩
アンタは竹馬にでも乗ってんのか 女王国と邪馬台国は別の国
「魏志倭人伝」は書き分けている
同じ国なら書き分ける必要はない
>>104
後円部は径100余歩
前方部は構造の違いから分かる様に後代に増築されたんだよ
つまり、最初は倭人伝の記述通り、円墳として築造されたんだよ。 倭人伝にある
「女王国迄 水行十日 陸行一月」
これ完全に九州圏外ですよ
>>106
構造はわかってないよ。
宮内庁が外観しか見せてくれないから。 >>109
少なくとも、最後に出てくる水行10日〜については総行程と読んだよ。
中国人が。 親実家が北陸の滋賀住民だからこそ
使者の行路に対して土地勘がある
末盧国ー伊都国ー奴国ー不弥国、そして南に「水行」(渡海とは書かれていない)
この位置関係は確実に敦賀ー湖北周辺
敦賀は気比の松原、海岸の松の群生で有名 近畿に3世紀、数年毎に半島攻めるだけの大規模国家と海軍、鉄器文化なんてねえよ。
邪馬台の時代進出の矛先は半島であり、当時秘境だった近畿にはごく少数の人間しか存在してねえっての
何時迄炭素年代詐欺続けるのか知らんが
>>114
と思われる。
思いたいから。
常に想像ベース。
箸墓は4世紀の墓だ。 >>115
4世紀築造とか、それこそ説の域だ。
3世紀の古墳という説もあるんだよ。
状況的に見れば後者で正解だろ。 三世紀後半。
ヤマトトヒモモソ姫(日本書紀・古事記)=台与(魏志倭人伝)の墓
「モモソ」は本来は「クマソ(縄文人)」だろうね
で、箸墓・マキムクは
近江盆地から甲賀ー伊賀ー名張を通って奈良盆地に抜けた所にあるわけだけど
なぜ滋賀から奈良に首都機能が移されたかというと
そこが大阪=狗奴国(葦原中津国)との接点だから
>>116
箸墓古墳のすぐ近くにホケノ山古墳がある。
そちらの方が古いが既に石棺がある。
つまり箸墓も古墳時代の墓ってこと。 *卑弥呼の墓について
「魏志倭人伝」の記述には「径百余歩」と合わせて、
「棺あって槨なし、土を封じて冢を作る」とあります。
早い話「槨のない木棺の直葬」です
で、その頃京都はというと、桂川が暴れて発展は望めない地だったのだが
忽然と秦氏が現れ、治水工事を行い、
京都盆地をナイスなニュータウンへと変貌させたのだという
この秦氏がどこから来たのかと言ったら、
狗奴国=葦原中津国をヤマト勢に譲って退いた、大国主御一行
なんでもかんでも卑弥呼にするな。
掘れば吉野ケ里や平塚川添程度の遺跡は
北部九州に多数あるのがわかっているから
確定できないのが現状。
>>38
どうやら葬式に使う為に造られたものらしい、故人の身内とかが身代わりに納めたモノじゃないかな、殉死の代わりやな、
だから形だけの未完成品とかも出て来ている 大急ぎで取り寄せたんだろな、 >>113
>当時秘境だった近畿
うるせえ銅鐸ぶつけるぞ
>>2
>毎日新聞が推してるのか・・・
持ち上げて落とすゴッドハンド商法再び >>123
吉野ヶ里遺跡なんて全部墓だぞ、墓の上で生活するはずがないだろ、
当時のn棺のコストからしたら支配者層の墓地だったんだろうな、
ばけて出てこない様に堀とか逆に付けられているし、 まだ九州説唱えてるんか福岡土人はw
奈良で邪馬台国の証拠となる出土品がこれでもかと出てるのにまだ四の五の言ってるんか?
もう引くに引けなくなってるんやろなw
>>14
その柄悪い国にインフラ整備してもらい人並みの生活できるよう支援してもらったチョンの立場がないからやめたれw
未だに犬食ってる野蛮人やが マジでチョンが必死に九州説唱える理由がしりたい
日本人の大半は畿内説提唱してるんやがな
>>128
奈良からは出てこないんだよ。
出てきては困るものが出てきたり。
畿内説は崩壊寸前ってとこ。 >>131
このスレでは畿内説言ってる奴もチョンなんだが
スレ荒らしやってんだよゴキどもが >>131 近江は五畿ではない事になってる
阿曇氏が東へ移住していく様子は、弥生中期の
「高地性集落」の変移に表れている
何が言いたいかというと吉野ヶ里遺跡ってのは阿曇氏の遺跡
で、お手数だけど>>72を読んで欲しいのだけど
紀元前473年、呉は滅亡し、呉人は日本列島に亡命することとなる
その後
紀元前334年、越もまた滅亡し、越人も呉に続いて日本に渡来した
これが阿曇氏の起源 朝倉って地名は713年に元明天皇が諸国郡郷名著好字令という好字二字令という
勅令を発したので当て字で付けた地名だからな
元々は 麻?(←氏の下に一)良マテラという地名
親魏倭王の印綬が見つかるまで、もしくは部下が貰った銀印が見つかるまで
どこが邪馬台国か、なんて確定は出来なさそう
>>139
>親魏倭王の印
そんなもんねーわ
船で日本に来れたのはせいぜい漢まで >>68
なんでもかんでも「渡来人が作った!」って意味不明だよな。
同時代よりも前に、近江の巨大銅鐸を作ってる人がいるのにさ。
渡来した工人、呉の職人が作ったに違いない!とか、なんで考古学者は決めつけるんだろ。 >>143
そもそも呉・越(春秋時代、三国志とちゃうよ)から持ってきた銅剣やらを
もう戦争やめて呉越同舟しようぜってことで、溶かして置物にしたんだと思うよ >>140
倭人伝を見る限り、帯方郡からだが
魏の時も長政やらが色々倭に来てるぞ
倭人伝の最後の方には新しく女王になった台与が
部下を付けて長政を送った記述もある
ついでに朝貢してたりする とりあえずね
紀元前473年、春秋・呉 滅亡
紀元前334年、春秋・越 滅亡
この中国史と
日本史における弥生人の渡来が結びついてないのが頭おかし過ぎんのよ
史学関係者全員に総辞職迫ってもいいレベル
邪馬台国は大和だが、卑弥呼は愛知出身かもしれない
伊勢内宮神前祝詞
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。
撞、ツキ、槻
槻神社のある三河と関係あるのかな?
伊勢の向かい側にある三河は、向津のイメージに合う
纒向遺跡の外来系土器の主体も尾張三河
今度は天理教が湧いてきたか、、
平城京政権はチマチョゴリ着た物部氏の乗っ取りクーデターだった
その当時作られた伊勢神宮もニセ神宮だと
そこまでバレてると説明せなあかんか
>>62
オリジナルの外国製なら一気にほぼ確定となる
近畿で見つかるのは後年コピーされた国内産だけだからオリジナルの場所はわかってない >>110 はっきりしているのは戦前までは壺形として紹介されて居たのにGHQが来てドンガラ漁って行った後からは下請け在日に依って逆様の鍵穴形として紹介される様になった事だけだよね(・∀・) 麻氐良布(まてらふ)神社は上座郡の式内社、下座郡の式内社は美奈宜神社、
俺の先祖の墓の近くだからもうすぐして墓参りした帰りに立ち寄るつもりだ。
筑前町には於保牟奈智神社(大神神社)もある。奈良の大神神社は
大己貴神社と新しい字体で書かれている。大己貴命とは大国主の事。
要するに九州から興った勢力が東征して奈良に首都を構えて日本を支配したんだよ。
>>147 GHQ下請けの朝鮮文科省と朝鮮日本歴史学会とは何が何でも朝鮮人が日本に文明を恵んだ事にでっち上げたいからね
中国人が日本列島と朝鮮半島とに同時に散り散りに辿り着いたとか絶対に認めたくない >>155 あっ謎のリンク貼っちゃったゴメン。真ん中スルーして 箸墓古墳は盗掘された際に石積であることが分かったんだよね。
つまり古墳時代4世紀の構造だって分かったわけ。
なのに宮内庁が弥生時代3世紀の墓だと認定しているのは何故?
>>157
てか古墳時代の定義がバカでかい古墳作ってたって事なら
古墳時代の開始が3世紀末に遡るだけやん そして>>157の事実は当然ながら学者も知っている。
なのに卑弥呼の墓だと言い張ってる纒向関係者はもう歴史捏造の確信犯だよね。
あまり話題にならないから余罪があるかもしれない。
>>158
何十年もかかるような作りじゃないだろ。 >>160
何言ってるか分からんw
石積みは4世紀からでえーす
っていう定義がくつがえされるだけでしょ 羽白熊鷲という熊襲・新羅と連合し皇軍を破り仲哀天皇を戦死せしめた
勢力の長が福岡朝倉の辺りにいた
歴史は勝者によって書かれるもので、皇軍と言っても本当に皇軍なのか、
正義がどちら側にあったのかは誰も知らない
>>162
>仲哀天皇
神武ー武烈間の人な
立正佼成会(漢民族)の朝廷乗っ取り中
歴史を俯瞰で見たらソイツ普通に賊軍っすわ >>139
魏から下賜された印綬は壹与が西晋へ朝貢する際に返却したから無いよ。
朝貢する先は次の政権に返却して、新しいのを貰うのが慣い。
よく覚えておけ おらの村にはまだ口寄せのイタコ様がおるだ、邪馬台国はおらの村にちげえねえだ
ヤマト国という所にヒメミコがおったそうじゃ。
と記録が残っているだけの話。
>>167
アマテラスの末裔・ナガスネヒコ&アビヒコがいっとき津軽に身を寄せたというウワサ
そして満を持して、継体天皇の代で帰ってきたと
実際、青森から来た人と、滋賀県の同級生が
ものすごいそっくりだと思ったことがあったのよね >>150
渥美郡なんて三河地方のほんの一部でしかないぞw 昔の地名は山ぐらいにしか残らないって死んだ婆さんが言ってた。
>>171
三河一帯に浜松、静岡辺りまであずみ族だと思うわ
「越」の国、北陸もそう、特に機械・電化製品の製造に強い 結局北九州だというぼやっとした説しかだせないのであった
>>176
いや、秦氏はもうちょっと重工業や建設業寄り
あるいは純粋に科学的な理論研究だったりとか
私のばあちゃん京都人で、伯父さんが水力発電所の建設にに携わってた 山門の地名がある瀬高が卑弥呼の里と地元じゃ言ってるけどね。
比較的大きな川 矢部川もある。
朝倉は筑後川流域で、当然古代人集落は有ると思うよ。
その山門の山上から有明海筑後方面が見渡せ、海からの侵入を見張る事が出来る。
後ろは深い山が続いて逃げるのには最適。
朝鮮亡命者達が亡命の地にしたのなら、半島からの追撃が一番怖い。
AMSだと布留0古層は2世紀末か4世紀初頭になる(誤差プラスマイナス20年
中間の3世紀ど真ん中は統計学で否定される(まあ纒向は吉備物部さん狗奴国の東征地ゆうことや
近畿は4世紀辺りから九州邪馬台勢力の半島侵攻によって連れて来られた朝鮮の開拓奴隷が文字を持たない土着の銅鐸原人を自分達は神だと言って乗っ取ったのが始まりだからな。
記紀はその渡来人が持ち込んだ大陸から伝わる古代半島口伝伝承を元にアレンジされており、全く魏志や三国史記に書かれる史実とは関係ない、単に近畿渡来系権力集団が存在もしない王族血統をでっち上げたもの
>>182
三河安城でも出てるけどどっちかというと尾張
特筆すべきは、名古屋と並ぶブスの産地岡山でも多数出土していること >>179
2世紀はありえんから、4世紀初頭±20の方でしょうね。
布留0は楽浪土器の激減期だから、妥当だね
帯方郡は高句麗が南下し孤立。313年より晋の手を離れる。
その前の300年頃は晋が内乱で混乱 >>176
秦氏は匈奴、魏は鮮卑
西暦300年頃には晋と半島は鮮卑によって実質上分断され
河北の漢族は殺戮収奪により荒れ果て南部に逃れていた
長安も洛陽も荒廃して人がいなかった >>185
海人族だな
海人族の一派の宗像の意味は胸の入れ墨のことだ ブスの産地は古代史的に重要な土地が多い
名古屋熱田など天孫の一派だろう
美人の産地と言われる秋田などは殆ど重要でない
平安オタフクみたいなのは写実的なもんじゃないし
実際どうだったんだか
江戸末期の写真ではチョン系から遠い縄文顔が圧倒的多数
貴族だって岩倉具視は眉毛も太い完全に縄文寄りだし
西園寺のあの目とか中国南方や台湾顔じゃないか
宮内庁は天皇陵の発掘や遺骨のDNA鑑定を認めろや。
まあこんなのより日田から出てる皇帝の鏡の方が気になるけどな
アレあまりにもわけわかんなくてなんの仮説もないのよな
恐らく皇帝のものとしか思えない鏡ってだけの代物
>>164
日本古代史の勉強している九州北部説の人にこれまで別々に数名会ったことがあるけど
どの人も古田氏に敬意は払いつつも佃収氏のほうを高く評価していた
その後佃収氏の著書をネットで読んで面白くてほとんど読んでしまった
ミネルヴァ書房は佃収氏の著書も出版すべきです >>197
じゃあ、手始めにキミの先祖の墓を暴いてよw >>198
では俺が仮説を立ててやろう
まずダンワラ古墳から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡はまさしく『曹操集訳注』に記されている曹操が所有していたという金錯鉄鏡そのもの
理由は中国でさえ同レベルのものが発見されていないことと、銘の「長宜子孫」は後漢から三国時代頃に流行したこと
曹操は遺言で薄葬を命じていたので、鏡は副葬されることなく伝世し、後に帝位を禅譲(ほぼ簒奪)された司馬氏の西晋が
曹家からボッシュートしたが、この鏡を見る者が皆、曹家の時代を思い出してしまうことと、
帝位を簒奪した後ろ暗さから祟りを恐れて朝貢の見返りとして倭人に下賜した
中国側の事情はどうあれ、めっちゃ凄いお宝なのは間違いないので日本でも大切に伝世され、後世のダンワラ古墳から出土した
これで完璧に説明がつく 古代史に興味を持っている推理小説家は全員九州支持派だな。鋭い推理力を
働かせたら北部九州と答えが出るのは当然の事だ。
結論が絶対にでないし、妄想で商売になるから人が群がる
邪馬台国なんて割拠していた小国のうち、有力な国の一つという位置づけだろう
有り難がるのも程々に
>>8
半島経由の渡来人限定なw
他経由の渡来人の一派も沢山いるし、土着の日本人に至ってはそれこそ大多数 朝鮮半島発祥の方形周溝墓は日本では近畿で始まって近畿〜東海〜関東〜南東北まで
存在しているが近畿には特に多い、逆に九州には数えるほどしか無い
長江(揚子江)中流域に起源がある甕棺墓は九州だけしか出土していない。
中国で作られたオリジナルの三角縁神獣鏡って日本で出土してる?
>>204
それなら専門知識を持っている学者はみんな畿内説支持なのはなぜ? もう畿内説学者なんていないよ。
撤退して纒向学という地元の考古学に転向済み。
>>212
邪馬台国奈良説を唱えているのは京大Gだけで東大Gやそれ以外の学者は
殆どが九州説だ。 邪馬台国九州説は、九州ローカルでスケールが小さいのが問題だなw
沖縄の古銭収集家みたいに大分には古鏡収集家がいたんだろw
まあ、このあたりは邪馬台国じゃなかったとしても、魏志倭人伝に載ってる
なんとか国ではあるんだろうから、まだいいよな
奈良の場合、邪馬台国じゃなかったら、名無し国になるから、ちょっと辛いよな
理系の人らは歴博のAMS顛末を統計データ中心に半日くらい眺めてみ?
じわじわ笑えますよ(マジレス
大嘗祭は、日向(ひむか)王朝から続いている祭儀?宮崎青島神社は隼人族朝、神武朝の皇居跡とされている
(神武天皇は実在した人物とみなすことは難しいのが一般的。三代続いた祖先の地を捨て、ヤマトへ)
皇位継承権bQが大嘗祭は私費で挙行するもの発言。皇紀2700年で終焉なのか
(bQのおかげで国民の私費理解も深まり、大嘗祭訴訟がイケイケに)
「ビロウ」で検索。(「ビンロウ(檳榔)」とは異なる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AD%E3%82%A6
>沖縄市の市の木である
>・・・檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ・・・(古事記・仁徳天皇御製とされているが)
(半島との関係が深かまった大阪湾の河内王朝。しかし南方系祭儀(琉球神道)が主流と思われる)
>古代天皇制においては松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物・・
>天皇の代替わり式の性質を持つ大嘗祭においては現在でも?天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材(葺く)
https://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/55870366.html
(仁徳朝は、当初短期間は糸島半島にあった?)
https://blogs.yahoo.co.jp/waikoku/54240971.html
>・・(科学手法の)遺伝子検査をしたところ、どうも沖縄から・・・移植されたことが想定されるらしいです
http://michi01.com/inamura/295ksb26690601.html
>かつて先帝陛下は「尖閣諸島には蘇鉄があるか」とご下問になったと聞く
(昭和天皇は、蘇鉄とビロウを混同?蘇鉄の神社はあるが)
>クバの木は学名がビロウである。漢字で、蒲葵、枇榔、檳榔と書いているが、倭言葉では阿遅摩佐(あじまさ)と言う(ややこやしい)
>クバの木が御神木となっているのは沖縄ばかりではない。熱田神宮の社頭にもビロウの木が二本屹立している(縁起絵巻に。宮崎産を丸ごと鉢植え?名古屋は亜熱帯でないので数年で枯れる?)
大嘗祭はお風呂から始まる
天皇と2人の采女の計3人だけしか知らない秘儀。もっとも謎めいた秘儀(秘事口伝者がいる)
高さ2メートル、径2メートル?の超狭いドーム形の「百子帳」という簡素な幕屋の中で3人で秘儀なのか?
ドーム形の幕屋の天頂に、亜熱帯の蒲葵(びろう)樹の葉で作られた笠の蓋を置く?、葉は宮崎青島神社(隼人族王朝・日向王朝・神武朝の跡地)か、琉球神道から葉を入手?
大嘗祭に際しては隼人族の「吠え発する」「雅楽舞」があると平安時代の文書に。現在でも隼人族の祭儀は続いている?
琉球神道は蒲葵づくし。神武天皇や卑弥呼は琉球神道出身?神武は太陽に向かって矢を射るのは畏れ多いとして熊野へ迂回
前回平成2年公開された映像に、大箱の剣がピタリと寄り添い、大きな蒲葵製?の笠(蛇頭を表す?)の下の今上天皇のお姿は
堂々と人々の前に現人神のお姿。畏し
https://kyoto-gotairei.com/ ←大嘗祭天皇陛下悠紀殿渡御之図
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/da/enlarge?which=0&id=494437
↑天皇に先立つ神器の従者は2人では?重箱?に2つ(粗雑な扱い)?まが玉は大嘗宮には入れない?剣箱もスリム
鏡(太陽)と剣(蛇)のみ。神器は2種とする説がある。(布(ひれ)を加えて4種説も?)
琉球神道が総本家。琉球神道は海の果ての向こうにある神国を重視する
昇る朝日沈む夕日瞬間の「海を渡る太陽神」信仰。祭祀権は女性にある。太陽を赤く描く琉球人。世界の人は黄色で描く
(病床の昭和天皇は、同位者である琉球神道の大君(女神官)との面会を希望したが実現しなかった・・・)
大嘗祭は秘儀なので内容は全く不明。口外をかたく禁じている
詳しくは、「真床御衾」「真床追衾」で検索。「衾(ふすま)」は寝具
寝床に横たわる皇祖霊は男?。霊と「まぐわう」説(御一體説)がある
部落姿同盟最高幹部(「小森龍邦」で検索)の質問のおかげで、政府は「神の国」を公式に認めた。
↓衆議院 平成2年11月、書面による首相の緊迫感が伝わる。日本国政府の「国体(天皇)」についての歴史的な資料。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/119008.htm
小森龍邦(社会党・最左派)VS海部俊樹(霊的昭和天皇からの「大命」を皇国臣民として拝し奉って一死覚悟もで「神の国」答弁)
「御一體説・共寝説があるが」VS「いわゆる寝座は皇祖が(遠来神が)お休みになる神坐であると承知している」
(★「皇祖がお休みになる寝座の見立て神座」があることを認めた(秘事口伝者が明かした?)。遠来神(誰れ?)が休息する。「真床御衾」説を否定)
「二人の采女の役割とは」VS「采女は配膳の奉仕をする官位」 >>222
それド素人の中傷な
九州説のやつらが歴博を信じないのは勝手だが
大多数の考古学者が畿内説である事実は変わらない だから狗奴国はどこよ。
なんで畿内にいくのに船から降りて陸に上がってるんだよ。
畿内国の連中は納得のいく説明をしてくれ。
九州説なんてものは学者からは見捨てられ
ド素人のみが乏しい知識と先入観で言い張ってるだけの俗説
どうでもいいわ
研究者が畿内説に疑問を呈すると京大閥の教授連から全力でパージされ社会的に抹殺される
そして「学者は畿内説だ」と嘯く
やってることがスルガ銀行並みだよな畿内説ってのはw
古田史学は歴史好きの高齢者のボケ防止に役立ったと思う。
百済本記に継体による天皇暗殺クーデターが記載され正に筑紫君磐井天皇が邪馬台を踏襲する倭王だったことは明らかで、そもそも近畿に邪馬台以前から続く倭王の正統な血統など存在しない。
現宮内庁が古墳調査を許可しないのは、近畿にある古墳が九州王朝滅亡後の後代反乱勢力による乗っ取りが露呈するのを恐れてているからで、そもそも埋葬者は記紀に書かれる者が誰も埋葬されていないのが事実。
記紀自体渡来人勢力による半島史を伝承したものでそこに九州に拠点を置いた邪馬台の記録は当然記載されていない。
つうか巻向押しは誰もわえにはよー絡めんわな?
データ晒してプレゼンしたるよ?
まあ野暮いわんから纒向はよ全部掘れ
>>228
吉備から大和川水系じゃないですかあ?(すっとぼけ風マジレス 纒向は
庄内期には
文化前
吉備の祭祀の
木の仮面舞う
桃太郎なんてのは
大陸の卵や半島の箱が桃に置き換わっただけの話だしそんな話が伝わる纏向近辺は渡来人奴隷が送られた土地であることは明白だな。
そりゃ武器など持てるはずないし、東海の青銅器土人が物珍しさに物々交換に交易が始まるのは自然な流れ
纏向は海軍を持てる様な軍事国家でもないし、近畿に3世紀海洋進出できる規模の国家など存在した痕跡はない。
読み方でとっくに結果出てる
九州はそのあとの時期磐井しか有名な人物いないし都市できたのも律令制の時だし
畿内は掘れば掘るほど
倭人伝から離れて行くからねえ。
どっちの説もファンタジーなんだからそのあとにつながりやすい説でいいんじゃない
>>226
中国や朝鮮の歴史書は信用できないと言う人も多いけどねw まあ恐らく倭国の462年の新羅侵攻で新羅人捕虜1000人を奴隷として送ったのが近畿だろうな。
本州に甕棺がないない言うけど本州でも子供用は甕に入ってるのが多いんやろ
単に木箱作れるようになったから掘るの浅くて済む木棺に入れるようになっただけじゃないの?
まず箸墓は畿内説の学者でも卑弥呼の年代とは合わないと言ってるからな。
鉄や絹が出土する九州説の方が圧倒的に説得力あるよ。
甕棺墓なら東海地方の縄文遺跡(後期〜晩期)からも出土しているぞw
甕棺墓なんか珍しいもんじゃない。
>>27
不思議では無いよ。古代から身分制において、
貴種とアレは光と影、コインのように
表裏一体で存在してきた。どちらも
この国の歴史。 >>93
連合国家の倭にあった有力な二国。
その説の可能性もあるように思える。
白村江の戦いで倭国は衰退し、
その中で畿内の有力勢力だったクニが
大化改新で日本国を名乗った説。
今までの日本の古代史の研究が全面
見直しになるから、学会からは相手に
されてないらしいが。 九州の甕棺墓と本州の甕棺墓は姿形が全く違う、九州に来た弥生人は本州に来た
弥生人とは完全な異民族と言う事ははっきりとしているんだよ。その辺を曖昧にしないでくれ
弥生時代中期にもなって甕棺墓やってた北部九州って遅れてるぅ〜w
>>251
朝鮮半島では弥生時代以前から方形周溝墓を使っていたからな。あっちの民族の
方が遅れているwww お前らはあっちの民族だよ >>240
その律令制つくったの天武天皇
天武天皇は筑紫(福岡)出身だよ
てことは奈良は筑紫勢力が移って支配したってことになる >>225
檳榔やると歯が黒くなるんだよな
黒歯国はお歯黒か檳榔のどちらかやってたな 日本の土着の勢力なら遷都の選択肢はなかっただろう
韓国から日本という流れなら、九州から畿内への遷都は十分考えられる
近畿なんて掘っても土器か木工製品、種しか出てこないんだから強力な軍備で防衛した首都機能を備えた集落というより、少数の管理者と文字も持たない家畜の様な奴隷の収容所が有ったとしか思えんわな。
三国史記を見れば、倭国は数年毎に半島に攻め込んでおり、当然それだけの防人の様な兵役と兵糧がなければ戦も続かないわけで、それらを賄うファームが近畿にあったとする方が理に適う。
また当然ながら近畿からの兵役奴隷と輸送物資は九州に向かうわけで後年近畿の土器が多数出土するのも説明がつく。
>162
>歴史は勝者によって書かれるもので、皇軍と言っても本当に皇軍なのか、
秦王の政の『焚書坑儒』とか、西尾幹二氏が言う 『GHQ焚書図書開封』とか、クメール・ルージュの
蛮行とかは、古今東西色々言われているけれど、それは大変極端な例であって、結局は、後代に解明さ
れてくる。
皇といっても、南朝・北朝、古くは継体王朝とそれ以前、王朝が交代しており、万世崇敬ではなくて、
万世数系。おまけに、昭和時代に中原の地に越境した関東軍の統帥権捏造の私兵行為をどう解釈
するのだ。皇軍を名乗るイカサマじゃないか。タダの軍事軍閥だ。
昭和天皇が満州国で清朝ラストエンペラーの溥儀と始めて面会した時に、溥儀から、
「朕は、昭和天皇が持っている三種の神器よりももっと大きい三種の神器を持っておる。」
と言われた場面が、溥儀を描いた本で書いてあり、驚いた。こんな本があるということは、「大日本帝国
の古代史では、扶餘族が始祖。」と言う説が、本当じゃないかということになってしまう。それこそ、日本
の中だけで、議論されても限界がある。
>正義がどちら側にあったのかは誰も知らない
正義等ない。正義というのは、ハゲタカファンドの最後の逃げ口上だ。
>165
>朝貢する先は次の政権に返却して、新しいのを貰うのが慣い。
では、江戸時代に発掘された金印は、なんなのか?模造品か。江戸時代の元禄時代に作られた
イミテーション?
>175
>結局北九州だというぼやっとした説しかだせないのであった
全然ボケていない。主張がはっきり分かれているのだ。仮に、南九州ではなくて、北九州だとすれ
ば、筑紫の君(公)サチヤマ(薩夜麻)が日本書紀に出てくるので、九州(四面一胎:筑紫(福岡)、
肥前(佐賀)、肥後(熊本)薩摩(鹿児島)で実は、四州)の福岡県地方を当てるのです。
小生は、「音韻学的にも、邪馬台国が大和だ。」という藤堂氏の言う話も微妙に違うというか、
怪しいと思っている。
魏書の東夷伝の章、倭人の項では、卑彌呼、卑彌弓呼と相対立する南北の国の主が二人居て
、狗奴国
(『奴』を『の』と言う説もある。すると、『狗』の国と言うことになり、頭にその音の『く』か、『か』
『奴国』、『狗邪韓国』と言う記述があり、『奴』をタダの『の』と言うのは、違和感がある。)
は、音が似ているので熊だから、熊襲で、熊本だから、九州という九州説と、
「狗奴国は熊野で、熊野は和歌山だから、狗奴国は和歌山で、その北は奈良・京都だから、卑弥呼
は、大和だ。」と言う関西説の非科学的な説明を行っている。
熊野年代記というのは、熊野は、神仏習合等の奇っ怪な歴史があって、明治時代に政府が、神社
を預かる新宮庵主の歴代の家系の住職を罷免した。罷免された住職は、なんと還俗した。そして全
ての資料を持ち出していたが、洪水に遭って、2点だけが、たすかり、その中に『熊野年代記』があり、
小野氏が、小野本を、濱井八助なる人物が著した『熊野年鑑』を参考にして、明治政府に睨まれな
い様に作為的に記述されている。
全然ボケていない。主張がはっきり分かれているのだ。
小生は、邪馬台国が大和だという藤堂明保氏の言う話も微妙に違うというか、怪しいと思って
いる。白川氏は、呪術的な観点だから、気持ちが悪い。
音韻学的観点から、漢字の書き違えを完全に言い切ると、写本の「邪馬台国」の台・壹等が色々
違う理由が分からなくなる。それで、訝しいと思う。書くことが得意な者が、写本を色々参考にして、
字を間違うのは、仮に木製ではなくて鉛製の活字があったとしても、活版印刷があっても、今のよう
な Word Processor があっても、同じように「読み」と、「形」のどちらでも間違うだろうし、今でこそ、
5個の漢字圏(方言、七方言、十大方言;実際は、漢字を使うという点が共通なだけで、アルファベ
ット、キルリ文字を使っていても、別の言語である例はいっぱいあるのです。)(上海語・広東語・湖
南語・北京語・)があるので、古代は、文字を書ける者は、住民の数パーセントですから、時代が下
がると、現代という時点の感覚と違っており、漢字白文の音韻論一元主義は、破綻する。
ただの山を「卑弥呼の墓」と主張するほど、九州論者は耄碌してしまったんだなぁ…w
>>261
ぼやっとしていないというなら、九州説での卑弥呼の都の場所を特定してくれないかな?
もちろん、伊都国、奴国とは別の国だよな?
伊都国、奴国には、女王之所都とする記述がないんだから
九州説があげる、鉄にしろ、絹にしろ、紀元前から2世紀初頭までの
伊都国奴国の話でしかない
「伊都国、奴国以外」で、「3世紀」の遺物が何があるかと問うと、
九州には何もないことが分かる 平塚川添遺跡には数度行ったがあそこは吉野ヶ里遺跡よりも狭い遺跡だったが遺跡
全体を発掘した訳じゃ無いから本当の事は殆ど判っていないと思える。遺跡周辺は農地は
無くて人家や工場だからこれ以上発掘しようが無いからこれ以上調査は無理と言う事
また畿内説が見苦しく九州説に嫉妬しているのかw
倭人伝にある城柵・楼閣の痕跡がない纏向を卑弥呼の宮殿といい、
後漢王墓、魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)よりも
遥かに巨大な箸墓古墳(墳長278m、後円部だけでも径150m)
を卑弥呼の墓だとするカルト集団w
九州説の人は勝手に主張してればいいよw
ちなみに、オレは台湾説。
>>268
田布施システムは嘘がバレて失敗した反日デマだよ >>254
おけ!
卑弥呼さんの都も邪馬壱とは別でおけ! 邪馬壱国
卑弥呼国とは
あらざりし
各自よく読め
三国志をば
ヒント中文時制
>>254
そもそも成立時期が違う
邪馬台国は途中で滅んでるから邪馬台国含めて筑紫がヤマト旧本店(首都)
大和朝廷は筑紫勢力が近畿に移転したヤマト新店(奈良支店→新本店)
新本店の本格的営業は白村江敗戦後の天武朝(唐からの首都防衛移転)
天武より前は本店(首都)とまでは言い難い(唐をめくらます日本国号も天皇号も天武朝から)
新旧どっちも筑紫の王家勢力(のちの皇室)で列島最強権力主体 邪馬壱とは
出雲にあった?
多分やが(ダックはタイミングずらして下さい?
>>271
三国志を通読したことのある人間ならば
東夷の記述など噴飯でしかないだろ 九州説ニ告グ
今カラデモ遅クナイカラ畿内説ヘ帰レ
抵抗スルモノハ全部逆賊デアルカラ(略)
全然わかってもいない、いい加減なファンタジーを教科書に載せるな
九州の遺跡は弥生時代全域をカバーしてるのに奈良の遺跡は古墳時代以降のものばかり。
だから唐突に奈良で大和政権が誕生する理由が不明なんだよ。
そこで畿内説では古くから存在した邪馬台国に紐づけようと必死なわけ。
しかも邪馬台国すら奈良にあったとか言い出す質の悪さw
全てにおいて100年ぐらいギャップがあるんだけどね。
桃の種でこじつけてるとか痛々しいね。
ダンワラ鉄鏡はなぜ調査が進まないんだ?
曹操の物かもしれない東アジア随一のお宝だろ。
>>278
そういう風に学校で習ったということなら、どんなに若くても50歳は過ぎてるな
考古学がまだ過渡期で、30年も40年も前の編年を前提にした教科書で
習った知識をひけらかしてもお笑いでしかない 別に邪馬台国がどこにあろうが歴史的意味は皆無
魏志倭人伝は北九州についてしか書かれてない。それだけ。邪馬台国が近畿にあろうがそこは何にも変わらない。
>>34
伊都国=邪馬台国だよ
別々に考えるから不自然。
これは伊都国が勝手に大和を名乗った可能性は依然として残るから、大和国が奈良にあった可能性までは否定できない。
でもそんなこと気にしても意味なくないか >>282
伊都国≠邪馬台国
∵魏志倭人伝
伊都国の南が邪馬台国(邪馬台国の北が伊都国) >>284
そんなアタリマエのこと知ってる
その上で記述内容が伊都国だと言ってるんだよ 平塚川添遺跡のある朝倉市、朝倉郡は昔は上座郡、下座郡に分かれていた
上座郡の一宮(式内社)は麻手良布(まてらふ)神社と呼ぶ変わった呼び名の神社
社は山の上にある。下座郡の一宮は美奈宜(みなぎ)神社と言い俺の父親の里から
五分ほどの所にある美しい社殿の神社だ。今はクソ田舎だが農業が盛んな所なので
昔は人口が多かったと思うね。
>>288の麻手良布神社は麻氏良布神社の誤りで読み方は「まてらふ」で良い 結構重要な遺跡もあるのにとにかく新しいもの好きで古いものに興味が無い県民性のおかげでほぼスルーなのが福岡
京都なら徹底的に金づるにしてるのになといつも思うw
>>290
福岡は大きい遺跡一つで
博物館が一つ満タンになっちゃうから
よほどのことがないと掘らない。
そういう遺跡が数百あるからね。
壊す可能性のある部分だけ発掘して
あとは埋設保存。
場所は記録して置いてあとは子孫に委ねる。 掘って遺物が出てきても
博物館前や資料館で数百年保存できるか怪しいし。
最悪、その時の為政者が博物館を廃止して
遺物を喪失させたり廃棄させる可能性もある。
>>283
>津古生掛古墳
時代は合うけれど、小さいよ?
墳丘長33メートルで、25歩いかない
同じ九州の奴国の那珂八幡古墳よりも小さいし、
これを卑弥呼の墓というのは苦しいだろう?
一応、伊都国、奴国以外で3世紀の遺跡という条件には合っているけれど、
卑弥呼の都とみなせる規模の国があったとはいえない 1里=300歩
魏志倭人伝は1里=約80メートルの短里で書かれているので、径百歩は30メートル弱となる
ちなみに古代中国で「冢」といえば小さな墓のこと
巨大な墓は「墳」として区別されている
卑弥呼の墓は「大いに冢を作る」とあるので冢にしては大きいが墳と呼ぶほどではない大きさ、ということ
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/queen-himiko-tomb-hirabaru/
> 『三国志』魏書東夷伝倭人条が1里約76メートルの短里を用いているとするならば、1里は300歩であるから、
> 100歩は25.3メートル、「百余歩」は、30メートル程度ということになる。
(中略)
> とはいえ、多くの人にとって、卑弥呼の墓が30メートル程度しかなかったということは信じがたいことだろう。
> その程度の墓に対して、「大いに塚を作る」という『三国志』魏書東夷伝倭人条の表現が当てはまるのかと疑問を持つ人もいるだろう。
> 実際、この記述にこだわって、卑弥呼の墓は、箸墓古墳のように巨大な墓であったと想像する人が多い。
> しかし、『三国志』魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が区別されていたことに注意しよう。
> 『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」[25]という諸葛亮伝の発言や、通常、
> 大君公侯の墓が「墳」であったという記事[26]があり、高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに
> 十分な程度の高さしかない墓を「冢」というように区別していたことが窺える[27]。
>
> では、どの高さを超えたならば、墳になるのだろうか。『周礼』には「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下
> 庶民に至るまで各々差あり[28]」とあり、高さが四丈もあれば、墳として扱われていたことがわかる。
> 一丈の長さは、時代によって2メートルから3メートルの間で変化するが、あまり大きな差ではない。
> 12メートルを超えれば、間違いなく、墳である。箸墓古墳は、高さが30メートルもあるので、魏使が見たら、
> 「大いに塚を作る」ではなくて、「大いに墳を作る」と書いたはずだ。 津古生掛古墳みたいな九州にある小さな前方後円墳を卑弥呼の墓とするのは無理筋
ヤマト政権の王>>>>>>>>>>ヤマト政権傘下の地方豪族
という関係をひっくり返すことは不可能だし
発掘された場所も来歴も分からない自称考古遺物に価値なんて無いだろ
>>14
福岡といい奈良といい昔栄えた土地は現在
柄の悪い連中が居残っている 伊都国=糸島市というのが通説らしいけど、そこでもう引っ掛かってしまう
末盧国=松浦川河口の唐津市というのは納得だけど、伊都国は末盧国の東南なんだろ?
でも地図を見ると東北なんだわ
>>19
染料の技術もなく
しょんべんで顔を洗う部族が何言ってるのw >>300
呼子じゃないのかな?
唐津というと砂浜というイメージなんだけど、呼子は天然の港って感じ。 >>300
唐津から佐賀の小城、多久をつなぐ
街道があるんですよ。
福岡に行くより良い道で古くから使われていますね。 >>114
段構造には連続性がある
記事には前方部が3段とされているがよく見るとやはり4段だ
後円部と前方部の間の溝は地元民が通行のために堀切ったもの
;h=962&auto=format%2Ccompress&ch=Width%2CDPR&q=100&fit=crop&ixlib=js-1.1.1&s=8e53dbc7dd27e0bb865a0b81f80eed97 桃の種と土器しか出土しない奈良の遺跡が邪馬台国の中心?
そんなバカげた事を本気で考えていると卑弥呼女王の祟りがあるぞ。
倭人伝の末艪国とは船が着いた呼子の事だろう。末艪国の中心地は唐津だが
魏使は呼子の事を末艪国と書いた訳、間違いじゃ無い
呼子から糸島(三雲)の方向は東南東の方角になるから大きな間違いとは言えんだろう。
>>307
その土器と、その土器を伴う墓の形状から3世紀後半から4世紀には
北部九州が吉備や畿内により支配されちゃったことが判明したので、
必死に否定するしかないわなあ >>227
考古学者に畿内説なんておれへんわ
妄想で論文書いてる京大閥歴史学者だけやw >>315
邪馬台国、卑弥呼は3世紀前半の更に前半やから、かすってもないな 福岡はマツロでヤマタイが高千穂辺りならしっくりくる
邪馬台国奈良説を唱えるたびに真面目に考古学に取り組もうとする者が減っているのは
間違いない。キチガイに反論するのもバカバカしいし時間の無駄だし
畿内説信者は物的証拠が皆無なのによ、九州も同じ庄内式土器を使ってたから畿内の傘下だったとか言いだす奴ばかりで話にならんのよ。
ウンチクと妄想をダラダラと語って最後にコレが事実だとか言いだすし。
いやそれはお前の脳内事実だろってw
まるで新興宗教w
卑彌呼、卑彌弓呼は対立しており、前者が貰った三角縁神獣鏡に大変な嫉妬を抱いた卑彌
弓呼は、自分の後代に、三角縁神獣鏡の模造品(中国製の安物の鏡を溶かして、三角縁神
獣鏡を鋳型にしたホンの少し大き目の偽者を作っただろう。)を作らせて、後世の考古学を
司る人間がまるで分からなくなるようなものをでっち上げたのではないか。
>>317
これは嘘
倭人伝に邪馬台国が存在したと書かれてる年代は238年から247年だ
晋書にある倭の女王も台与である可能性が高いから266年までは存在していたことになる >>325
いいから一貫した畿内説を論じてみろよ。
史書と比定地と出土品と関連付けながら。
余計な枝葉や妄想抜きで。
温暖な気候で南国情緒のある邪馬台国について。 まあ詳しい事はあまり知らんが神話ゆかりの地が九州に集中してる以上は九州説の方が濃厚じゃね?
やがて畿内に移っていっただけで
>>325
はははwww
学会でもペテンで悪名轟く歴博が?
ばーーーーかwww >>326
かすってもないやんけ
二行目は単なる妄想 >>1
三角縁神獣鏡は国産で決着している、馬鹿馬鹿しい(怒) >>329
第一、魏は既に滅亡しているんだが(笑笑笑) 卑弥呼(卑彌呼)の読みは、分かっていない。
phim myon kwan だったら、
卑彌弓呼の読みは、
phim myon kwo kwan だろう。
馬鹿馬鹿しくて、付き合って居られない。読みの根拠は、全部日本に残っている古代の写本
だけ。日本人にしか、解析できない。
>>338
卑弥呼は北京語でペイ メィ フー
だとさ。 >338
漢和大字典(学研)では、卑弥呼の中古音は piĕ miĕ ho ,上古音は piĕr miĕr hag だという。
>>325
その回答者はアンチ九州説の考古学の佐原ってとこで???!!!
佐原はどうやってシェア調べたんだ
大多数の考古学者は歴博館長のオレ様に同調するはずニダじゃないのか
だいたい考古学者ってとこでアレだぞ
歴史学者じゃないから史料読めないんで
妄想にすがるしかないんだぜ 俺は畿内説だが、
やっぱりこのスレを読み返してみても
畿内説の根拠ってヤマタイ→ヤマトゥ→ヤマトの符合だけだな。
しかし、この符合さえあれば俺たち畿内説は
あと20年は戦える!
さあ皆さんもご一緒に!
ヤマタイ
ヤマトゥ
ヤマト
>>335
〜はわれわれが起源ニダー
朝鮮非人そっくりだろ
穢多朝鮮非人だらけ関西 まあこれを見ただけで近畿はあり得ないって分かるよな
http://y-ta.net/gishi-wajinden-2/
”女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。
州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。”
▲ そして、こちらの文章。
難しく書かれていますが、要約すると、「女王国(これは邪馬台国の意味だと思われます)より北側の国は
伊都国から派遣された調査員が各国を監視している」という内容のようです。
▲ もし近畿地方に邪馬台国があったとするとこんな感じになります。これだと、どうしても違和感を感じます。
すぐ近くの奴国(なこく)や末盧国(まつろこく、もしくは まつらこく)は伊都国(いとこく)の調査員が監視をしていないということになってしまいます。
▲ もしこのレイアウトだとしたら自然だと思います。 三種の神器の存在からして、少なくとも三勢力は居たんだよな
勾玉は土着、剣は北方渡来系
そして鏡は南方渡来、すなわち日向を拠に持つ勢力
宇佐神宮は彼らを祀った神社なんではないだろうか?
狗奴国が吉備畿内近江までは確定したが壱与ちゃんの邪馬壱が何処か?それが問題や?
邪馬台国は肥前国と肥後国の前身だろうな。
筑紫を目標にするならば
唐津じゃなくて博多湾に行くだろ。
邪馬壹国スレテンプレ
福岡平野は、弥生時代中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、
中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、
那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に
遺跡が途切れなく存在する。
発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、
この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。
30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、
伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、
井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。
考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。
須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。
環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。
比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。
比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。
吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、
福岡の弥生銀座と呼ばれる遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。
これだけ自国の歴史に金をかけない国も珍しい
猿の惑星がばれるのが余程怖いのかね
九州と伊勢を対比してみると、宇佐神宮と伊勢神宮、まるで同じ位置にあるんだよね
伊勢神宮は宇佐神宮を移したもの。本来アマテラスを祀っていたのは宇佐神宮だったのだ
そういえば、神社を移したもの、というやり方というか慣習というか習わしは、
アニミズムの依代のような感じがするが、もしもユダヤ教でそれがあるなら
エレサレムを移したものを作ってそれで済ませられていたならば、歴史は
大きく変わっていたかも知れないな。
神社をすたがを真似て移すというのは、もしや大和朝廷が大和引っ越し便で
引っ越しをした時からの慣習じゃなかろうか?
まあ、九州くんだりに立ち止まっているヤツが後進的なのは仕方がないw
>>353
宇佐と伊勢は系統が違うだろ
宇佐は八幡神だぞ 弥生時代鉄鏃出土数
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3
ヤマト国は神武に当たる人物が奈良に入り婿に行って遷都したんだろ
>>355
畿内説のどこが先進的なの?w
前時代的な皇国史観カルトそのものw >>357
すごい説得力があるなこれ
隋書かなんかでも倭人が阿蘇山を畏れていると書いてあったし >>353
他にも九州各地の地名とよく似た地名が同じような配置で存在していて、
畿内に進出した人々が故郷の地名をつけてまわったと言われてるね >>300
古代中国の日本の古地図って九州以外は不正確で
北海道が南南東辺りにあるんだよ >>360
邪馬台国論争が盛んになったのって戦後じゃないの?
傍から見ていると、九州説を主張している人も畿内説を主張している人も歴史好きの爺さんっぽいんだけど。 >>357
なかなか引き込まれるねコレ
なんて漫画? 筑後か
律令制で筑前と筑後に分かれる前は筑紫国と言われていた地域だ
筑紫とは九州の事でもあるから、おそらく北九州では中心的な場所ではなかったかな
古代から発展した地域では間違いないと思うが
しかし記紀に出てくる越の国とかのように
大和朝廷の対抗勢力として名前が出てきた例は知らないな
私は日向国の高千穂を拠点としていた一族が、九州での争いに敗れ
海を渡り、拠点を畿内に移したのが神武の東征だったと思っている
あるいは一旦は九州や本州まで勢力を伸ばし
畿内にまで勢力を伸ばし
その後、一度衰退したのかも知れないな
>>365
ヨコからだけど邪馬台国論争は戦前からだよ(もう100年以上前)
特に九州説=白鳥庫吉(東大) vs 畿内説=内藤湖南(京大) >>358
福岡熊本スゲェー大分も岡山宮崎山口健闘
奈良和歌山情けねぇ鹿児島も
近畿ダメじゃん京都兵庫はなんとかがんばってる
東北はしかたないのかな 本居宣長は北部九州のある国の女酋が邪馬台国を僭称したと言ったな
その女酋は皇統と何らの関係も無いと
皇統が魏にへりくだった朝貢などするはずがないと
>>370
福岡と熊本は交戦してたと想像するけどな >>371
当時の中国と日本の文明には天と地ほどの
開きがありまして 日本最古の用水路の一つが久留米にあるって話を聞いたことがある。
大昔に神様が造ったという謂れが、日本書紀の時代にはすでに語られていた。みたいな話。
>>371
国学者なんてデマしか流さないクズだからなw
そもそも日本スゲーとか基地害の主張が根本にあって
それに合うように出鱈目な主張を無理やりこじつけるのがそいつらの仕事w
元号から官位まですべて中国からの輸入(パクリw)であって
日本独自のものなんて存在しないのになw
皇統とか馬鹿げた信仰するなら元号廃止して追号とか廃止しろって話w
元号なんて日本の文化でもないしw 弥生時代の北部九州に多い墓は大陸の江南地方からも出土する甕棺墓と
縄文人の墓の箱式石棺墓だが本州は朝鮮半島が起源の方形周溝墓が
圧倒的に多く甕棺墓の出土は無い。縄文人の箱式石棺墓は近畿からは
出土していない、姫路からは数基出土しているが姫路は近畿では無くて
中国地方に分類される。方形周溝墓は九州からは数えるほどしか出土していない。
>>1
これの唯一の功績としては畿内説とかいう出鱈目な捏造の
唯一の根拠である三角縁神獣鏡とかいうどうでもいいものが
畿内ではなく筑後平野から出てきたことw
そもそも捏造畿内説のとんでも神獣鏡が主張された時期に
九州北部でも存在したのは広く知られてたわけで
畿内と違って先進地である九州北部だと畑や山からも
その手の遺跡や発掘物は出てきてたけどどうでもいいから捨てたり壊されたりしてた
それを畿内説の馬鹿学者がそんなの証明できないだろうとか言ってたけど
実際証明されたわけで畿内説そのものの存在意義すら失われた >>369 補足
白鳥説は白鳥をバックで支えてる津田左右吉(早大)の説だと言ってもいいかも >>358
お奈良説終わったーハイ解散!
お奈良は経済力も技術力も最低と推測できる 部外者なんだけど畿内説の人はただケチ付けてるだけに見えるよ
朝鮮半島発祥の方形周溝墓の県別分布数
(民俗学伝承ひろいあげ辞典のHPより抜粋)
東北地方(12基)
宮城県・・10基 福島県・・2基 青森県・・ゼロ
秋田県・・ゼロ 山形県・・ゼロ
北関東地方(67基)
茨城県・・34基 栃木県・・18基 群馬県・・15基
南関東地方(458基)
埼玉県・・202基 東京都47基 千葉県・・109基
神奈川県・・100基
中部・東海地方(384基)
新潟県・・2基 富山県・・31基 長野県・・50基
山梨県・・60基 静岡県・・104基 石川県・・17基
岐阜県・・11基 愛知県・・26基 福井県・・41基
三重県・・42基
畿内地方(583基)
京都府・・30基 奈良・・16基 大阪府・・131基
和歌山県・・・9基 兵庫県・・13基 滋賀県・・384基
中国地方(110基)
鳥取県・・53基 岡山県・・17基 島根県・・5基
広島県・・11基 山口県・・24基
四国地方(13基)
香川県・・2基 徳島県・・4基
愛媛県・・7基 高知県・・ゼロ
北部九州地方(86基)
福岡県・・24基 佐賀県・・10基 長崎県・・ゼロ
大分県・・6基 熊本県・・46基
南部九州地方(2基)
宮崎県・・2基 鹿児島県・・ゼロ
投馬国の位置がわからん。
不弥国からやたらと遠いんだよな(船で20日)
だから瀬戸内海を船で移動したんだというのが畿内説の根拠なんだろうけど、その間どこにも寄らなかったというのも不自然
投馬国から邪馬台国までも船で10日、陸上を1ヶ月という遠さ
不弥国以降が酷く大雑把
>>382
陳寿は三国志を「編纂」した人
編纂というのは複数の史料の情報をまとめる作業で、言ってみればまとめサイト作りみたいなもん
不弥国までの距離は里程で書かれていて、その先の文章が急に日数表記になるのは別の史料からの引用ゆえと考えるべき
つまり、里程で書かれた史料Aと、日数で書かれた史料Bが別々にあったのを、陳寿が両方引用したわけ
史料Bは史料Aの続きではないので、日数表記のスタート地点は帯方郡に戻らなければならない 当時の船で20日でどれだけ進めるか?
水行はおそらく倭国製の手こぎ船のはずだからかなり遅いと思う。
>>345
>難しく書かれていますが、要約すると、「女王国(これは邪馬台国の意味だと思われます)より北側の国は
伊都国から派遣された調査員が各国を監視している」という内容のようです。
頭悪すぎ
これが九州説の標準なのか?
一大率は、邪馬台国から伊都国に派遣された代官だよ
これだけで、伊都国は邪馬台国から直接監察できない遠地だと分かる
伊都国が九州にある以上、邪馬台国は九州にはない >>383
>つまり、里程で書かれた史料Aと、日数で書かれた史料Bが別々にあったのを、陳寿が両方引用したわけ
ここまではいいのに
>史料Bは史料Aの続きではないので、日数表記のスタート地点は帯方郡に戻らなければならない
これがでたらめ
これが正しかったら、
倭人在帶方「東南大海」之中と
「南」至投馬國水行二十日。
「南」至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
が矛盾する
その前に、末盧国に上陸して東南陸行する経路は、
伊都国に行く経路じゃない別の記録が紛れ込んでいるんだよ こういう>>384のようにピンポイントな局論をこじつけたがるのが畿内説信者の特徴。
こういうのIQが低い人に多い症状なんだけど。
じゃあ纒向は東海勢力の配下にあったってことになるんだよな? 土器の様式が浸透する事と勢力圏とは関係ないというのが定石。
>>346
勾玉は後から追加で最初は剣鏡のみだし玉を加工できるようになっただけでないのかい >>386
>一大率は、邪馬台国から伊都国に派遣された代官だよ
>これだけで、伊都国は邪馬台国から直接監察できない遠地だと分かる
馬が居なかった時代に遠地の基準ってなんだろね?熊本あたりから糸島まで、歩けば数日かかるよ。 「邪馬台国」は国名ではなく女王国の首都名という説まであるんだね。
>>372
今も大して仲がいい訳じゃねえしな
大昔ならなおさら 三角縁神獣鏡が中国から出てくれば信憑性があるけどな
数だって100枚以上発見されてるし、おそらく日本製
>>395
中国で一個見つかったが微妙に違ってた。 >>387
当時の方角はまだ磁北基準ではなく夏至の日の出を東としていたと言われている
方位磁針の原型である指南魚は発明されたばかりでまだ辺境の帯方郡まで普及していたとは考えにくい
魏志倭人伝に記された方位も実際の地理より少し南よりに傾いている
この基準で見ると、帯方郡があったと考えられる沙里院から九州は南の方角になる
東南大海の記述は海上で東に行ったり南に行ったりを繰り返した経験からそう書いたか、もしくは後に方位磁針で調べた結果だろう
複数史料からの引用なのでそういうこともある >>398
半島西南部-対馬-壱岐のラインが南北なんでない? >>397
すまん、南に傾くと言ってるんだな。
また妄想で東に傾いてるって言ってると思い込んだ。 >>397
>夏至の日の出を東としていたと言われている
どこの誰がそんなこと言ってるの? >>401
その人は畿内説信者でさ、妄想を事実と言い切るタイプの人だから。
方角の表現はだいたいだと思うよ。 >>387の人が言おうとしてるのは文献上の方角と実際の方角の違いではなく
日数表記のスタート地点を帯方郡に戻るという珍解釈では、文献上の2つの記述が矛盾してしまうということだろう
同じ場所を指してるのに、一方の記述が東南で、もう一方が南になってしまう
つまり、珍解釈が間違ってるということ >>50
奴国から南500里前後の吉野ヶ里もある久留米・筑後川周辺は無視してるわな。
新興開拓地=徐伐(素掘)なんだから、そうだったんだろ w 近畿は平野部の土地が広いと言う以外に邪馬台の要素は全く該当しないんだよな。
しかも当時ほぼ湿地帯であるにも関わらず魏志にそんな表記はされていない
邪馬台の数ある国家の形跡も存在しない。
まあ真実としては近畿に邪馬台の開拓奴隷が置かれていたが、弱体化した筑紫の首都勢力が後のクーデターで乗っ取られその名を忌み嫌う奴隷近畿人が日本に戒名したのが事実だろうな。
>>382
魏史、呉史、蜀史の原書が先ずあって
それを陳寿が編纂した訳だけど
原書は恐らく楷書体で書かれていたと思われるが
陳寿の三国志は総文字数16万字にも及ぶ
それを4年くらいで編纂した
楷書体で書いていたら絶対に無理な文字数なので
陳寿は省略系の草書体で書いたと思われる
陳寿の死後、16年後に「陳寿の三国志は後世に残すべき」と、上奏され
写本する事になった
草書体を楷書体に変換する際に誤変換が大量に発生したので
殺馬国を草書体で書き、それを楷書体に直す際に投馬国と誤変換した >>376
方形周溝墓は朝鮮の馬韓中心部に多く
帯方郡の関係があると思ったけど、
ポツンと辰韓(新羅)の蔚山にもあるね。
丹波-新羅のラインは強いだろうね。
それと辰韓王を輩出してる月支国の位置が気になる。 >>388
>じゃあ纒向は東海勢力の配下にあったってことになるんだよな?
ならないよ?
その後、東海地方も含めて布留式土器で統一されるだろ?
その統一の元になった土器を作った勢力が、統一の主導者だってこと
庄内式土器、布留式土器は、精製器種三種と呼ばれる壷、広鉢、高坏の祭祀用土器を含む
この祭祀用土器を含む一式の様式で統一されたというのは、祭祀の統一を意味している これを書くと、須恵器が全国で使われるようになると半島に支配されたのかとか
言い出すバカがいるので、先回りしておくと、須恵器は技術革新による製作技術の変更
庄内式、布留式土器は、弥生式土器の製作法の範囲内での、様式の統一
意味合いが違う
>>390
>勾玉は後から追加で最初は剣鏡のみだし玉を加工できるようになっただけでないのかい
玉造遺跡では、縄文時代から硬いヒスイに穴あけしてるよ
玉の加工技術も古くからある >>391
>馬が居なかった時代に遠地の基準ってなんだろね?熊本あたりから糸島まで、歩けば数日かかるよ。
魏志倭人伝では、博多湾沿岸から邪馬台国まで水行20+10日、陸行1月で、合計2月かかってるよ
陸行だけで、熊本ー伊都国間の10倍くらいはある
普通に遠地だと思うけれど? >>487
>しかも当時ほぼ湿地帯であるにも関わらず魏志にそんな表記はされていない
これ、ウソだよ
既に平地は水田、微高地に集落で、未利用の沼地が広がっているなどという状況ではない
まさに、豊葦原瑞穂の地と呼ばれるのにふさわしい状況だよ 九州説の矛盾点は、投馬国に集約される
ここにいる九州説の人は、投馬国をどこに比定するんだい?
日本史板で有名なキナイコシと呼ばれる
畿内説詐欺師がID変えて頑張ってるなw
>>415
また畿内厨が都合のいいウソをついてるな
倭人が海に潜ってアワビを獲っているという記述について突っ込まれたら畿内は湖だったとか言い訳するくせにw >>404
サル並みの読解力だなお前は
>>397の言う通り、魏志倭人伝の行程記述と共に書かれた方位は若干南よりにずれていて
太陽を基準にしたと考えられる
その基準では九州が帯方郡治から見て南なのは間違いない
方位磁針を基準とすれば東南海中でありこれも間違いない
2つの資料が別々の基準で書かれていたとすれば何も矛盾は無く、>>387の指摘は当たらない
むしろ日数表記が別資料であると認めながら起点を帯方郡治と考えないほうがおかしい そもそも、不弥国は奴国の東であり、距離も百里とすぐ近くなので現在の宇美町あたりと考えるしかないが、
ここから南に水行したとするなら海ではなく川行でしかあり得ない
倭人の丸木舟でのろのろと川を旅した、と読んでも結局九州の中の話でしかない
結局どうあがいても畿内には行けないんだよ、アキラメロン
>>420
当時はそのあたりまで海だったはずだよ。 >>422
ねーよw
宇美町の南側なんて山しかない >>259
> 「朕は、昭和天皇が持っている三種の神器よりももっと大きい三種の神器を持っておる。」
神器の大きさを自慢してどうするw 三種の神器の中で一番丁重に扱われていたのは玉かな?
他は複製しちゃったしw
妄想で良いから、作家とかの小遣い稼ぎ案件になってるよな。
>>345 >>350 >>386
「一大率」は魏が送り込んだGHQじゃね?
(魏志倭人伝は魏の立場で書かれている)
で駐留しているとこが伊都国で
反邪馬台国の伊都国を抑えこむと同時に
「親魏倭王」の邪馬台国も含めて倭の諸国を監視し抑えこむ役割 >>425
三種の神器のなかで一番格上の神器は鏡とされている
岩戸開きのとき天照大神の姿を映したことで、天照大神の御魂が宿ったとされるもの
勾玉は同じく岩戸開きのとき、岩戸の前でどんちゃん騒ぎしたとき木にかけて飾ったもの
剣は言わずと知れたスサノオが斬ったヤマタノオロチの体内から出てきたもので、謂れからしてどちらも鏡より格下 翡翠の加工は縄文文化で今の天皇家は勾玉しかもってないんやろ
宇佐辺りに在ったのは間違いないけど、呉が水軍連ねて攻めて来るぞと脅されて、
慌てて奥へ奥へ、畝傍の彼方へ逃げて行ったのが「神武東征」だろうよ
>>420
>ここから南に水行したとするなら海ではなく川行でしかあり得ない
この時点で、南至水行が間違っていることが確定なんだよ
三国志に川の水行はない
水行は海の海岸沿い航行だから、東に行くしかない >>431
こうやって息を吐くようにウソをつくのが畿内説の特徴なんだよな
古代中国語で水といえば河(黄河)や江(長江)以外の河川の意
三国志でも淮水や渭水などの川の名が出てくる >>419
>むしろ日数表記が別資料であると認めながら起点を帯方郡治と考えないほうがおかしい
日数表記の別資料に、伊都国、奴国が書いてなかったと主張するつもりなのかい?w
特に伊都国は郡使往來常所駐で、スキップして素通りすることはできないんだけれど?
日数表記の別資料にも、当然北部九州までの記録があって、そこまでは里数表記の
資料もあるから九州までは詳しい里数表記にして、
そこから先がその日数表記の資料しか手に入らないから日数表記になっているだけ
何の注記もなくいきなり旅程の途中で、起点が帯方郡に巻き戻されるなんていう書き方はない >>432
>こうやって息を吐くようにウソをつくのが畿内説の特徴なんだよな
>古代中国語で水といえば河(黄河)や江(長江)以外の河川の意
>三国志でも淮水や渭水などの川の名が出てくる
川の名前と、水行という熟語は別だ
三国志では、川の移動は全て川を遡るときは「泝流」下るときは「順流」が
主に用いられ、具体的な川を出すときは「泝漢水」のように用いる
半端な知識による思い込みだけで、確かめもせずに結果として嘘をついているのは>>432の方 >>430
神武天皇は宮崎の美々津港から出発された
岩と岩の間を通っていかれ二度と帰って来られなかったので
地元の漁師は今も岩の間を通らない
神武天皇にちなみ海軍発祥の地とされている 大量の桃の種と土器しか出土しない纏向に卑弥呼が住んでいた?
そんなアホな想像をするノータリンは卑弥呼女王の祟りに触れるぞ
中国人が文字を発明して1000年以上経ってたったのに
自分らでは文字すら思い付けなかった土人の悲しさw
中国人に文字を教わってやっと読み書きできる今になって
中国人が書き残してくれたたった一編の文章に縋りついてるくせに
何かあるとすぐチャンコロガーシナチクガー
何とも恥ずかしくみっともない列島土人w
世界最古の文字は楔形文字。
メソポタミア文明は偉大だ!
なぜ邪馬台国がここまで世界的に注目されてるのか考えてみた。
世界初にして唯一の絶対権力の女王!
女性が国を支配し政治を支配していた!
巫女として神と対話できる能力を有していた!
イエスキリスト以来の聖人
占いが外れた事は無く全て的中していた!
魏の国と国交を持つほど世界進出していた!
他の国と戦争して百戦錬磨の強国だった!
全員英語を話せた!
近代日本に匹敵する文化文明を手にしていた!
卑弥呼は未来人説がある。未来からタイムマシンできた人にして神の存在!
日本史上最強の女性卑弥呼。
謎は深まるばかり。
オレが特に認めたい説は「ヤマトたい」説
どこかのスレにレスしてあった
勝手に演出するとこんな感じかな
C「お前どこから来たアル」
J「ヤマトたい」
表記の問題も(邪馬臺国)
和音呼称も(ヤマト)
所在も(九州北部)
トリプルで一挙に解決する画期的説