2009年に大型建物跡が発見された際に柱跡に建てられた目印。
今回の丸太のイメージだ=奈良県桜井市の纒向遺跡で2009年11月10日、貝塚太一撮影
現在の大型建物跡。それと分かる目印は何もない=奈良県桜井市辻で2017年12月6日、山本和良撮影
女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地の一つとされる桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡)で、「卑弥呼の宮殿跡」と注目された大型建物跡などの建物遺構について、市は位置が分かるように丸太を設置することを決め、インターネットで寄付を募るクラウドファンディングによる資金集めを始めた。事業費の4分の3に相当する900万円を目標に、来年2月末まで協力を呼び掛ける。【山本和良】
纒向遺跡は、3世紀代を中心に営まれた大規模集落遺跡で東西約2キロ、南北約1・5キロの範囲に及ぶ。2009年に見つかった大型建物跡は3世紀前半のものとみられ、同時期のものとして国内最大規模。前方後円墳の箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓の説もある。
周辺は、他にも弥生時代末期〜古墳時代初めの古墳など貴重な史跡が豊富で、年間を通じて考古学ファンら多くの見学者が訪れる。しかし、纒向遺跡を紹介する施設はなく、大型建物跡に至っては埋め戻されている。このため、「様子が分かるようにしてほしい」などと訴える声が盛んに市に寄せられていた。
そこで市は、今年度中に大型建物跡などの柱の跡に、目印になる杉の丸太(直径15〜32センチ、地表の高さ1メートル)を設置することを決めた。木材は、桜井木材協同組合の協力で無償で提供してもらえるが、全部で65本を設置する費用などに約1200万円が必要。文化財関連の財源確保に頭を悩ませる市は、ネットのふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」を活用することにした。寄付はふるさと納税制度の対象となり、税控除が受けられる。
協力者には、市纒向学研究センターが発行する機関紙「纒向考古学通信」を3年間送付し、遺跡の調査や保存整備の状況などを随時知らせる。
市教委総務課は「建物の柱を目に見えるようにすることで、古代史最大の謎解きを体感してもらいたい」としている。
毎日新聞 2017年12月8日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171208/ddl/k29/040/544000c?inb=ra クラウドファインデッングと寄付を混同しちゃダメだろ。
役人はバカか。
廃棄物が埋まってるかも知れんから、値下げしようね。
4分の1の300万円は税金を使うつもりかよ、
役所の言いぐさって、泥棒そっくり
しかし紀元後の歴史でさえよくわらかんのだな
人類の歴史から見たら最近なのに中国の記録にすがりついてやっと断片的に判る程度
中国ワロスだチャンゴロだと日頃言ってるネトウヨはどう思ってんのかねwww
邪馬台国を北九州から追い出したクマソって鬼島津の先祖なのかね?
教育員会と文化財のそれぞれの課長は、懲戒免職処分やな
理由 妄想だからだ
平城京は、歴史泥棒の為、急遽用意した建築物だからだ
史実は、周辺 無人だった
邪馬台国に関しては古田説に賛成。古田氏は
三国志(陳寿)の原典では邪馬壹(ヤマイチ)国の表記
原典を勝手に邪馬台に読み変えるな云々と説いている
2007年04月02日
狙われる古い19世紀20世紀に大英帝国経由客家華僑や広東福建や台湾香港華僑
先日、テレビで、南アに住む古い客家や台湾や香港東名アジアからの「華僑」たちの様子について放送していました。
近年、大量に中国からの移住が増えているようです。公称ではヨハネスブルグ在住の中国人は、
10万人と言われているようですが、実質50万とも60万とも言われているとか。
ビジネスチャンスを狙って多くの中国人が南アに来て「中国人コミュニティ」を作っているとかで、
どんどん増えているようです。そして、現金取引が多い中国人商売人は犯罪のターゲットにされることも多い。
泥棒たちは中国人経営者や従業員にアイロンや熱湯を押し付けて、金品を盗む・・という手口だそうです。
これは、怖い。
これが10年前の話なので2013年のロシアシベリア隕石でユダヤ系オランダ鍛冶神を持プーチン大帝と
(ユダヤ系で反ユダヤのナチスの共産の武器を持つドミニコ会のオカルト教皇と2人ペアだったので
ロシア帝国ツアーへの共産化を抑えられてた)
しかしロシアソビエトユダヤレーニン革命99周年100周年の2017年には大日本帝国時代に
日露戦争でソ連ロシア満州朝鮮沿海州ロシアウラジオストックやナホトカの火星人赤星基地も
臺灣中華民国が持っていたソビエトモスクワ通過認知症もなくなってきて
日本の皇室華族皇族が2016年2017年から攻撃されていた
中華民国辛亥革命が初めてのソビエトコミンテルンユダヤインターナショナルからモスクワの赤星を
公開した社会主義共産主義赤軍フン族アッチラ狩猟戦闘族を持ってたらしいが
宇宙円盤タコ火星人のアメンほてっぷファラオの持つ宇宙円盤タコ光線熱線攻撃を持ってるのか
数年前から高高度成層圏で放射線光線を爆破させて撒いてるのは
2013年にシベリアを隕石攻撃された地域でそこから逃れるのに
他に黒魔術共産化人体実験や共産革命から逃れるためにほかに呪いや呪術を感染攻撃
するというこれが黒魔術呪術呪いの恐ろしさというかこういう呪術の感染伝染ほかに共産主義や
コミンテルン化させて自分の地域国民族都市国家自由主義議会を守る、ということらしい
>>1
だ・か・ら
纏向遺跡を発掘して、出土した土器の分析を行った纏向研究の権威が
「ここは4世紀の遺跡だから邪馬台国じゃない」
って言ってるのにゴッドハンドするなっての
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku280.htm
>定形化された壺は庄内期の遺構からは出土しない。布留期に制作されたものである。
>
>箸墓古墳とホケノ山古墳を比べると、土器形式の範疇ではほぼ同じである。古墳の型式としては、
>ホケノ山古墳は竪穴式石室ではないので、箸墓よりは古い要素を残しているが、築造年代については、
>小型丸型土器が出ているので、布留式の中で考えなければならない。
>
>結論的にいうと、箸墓もホケノ山古墳も布留式の古い時期(布留1式)の前期古墳であり、これより古くはできない。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hokenoyama.htm
> ■ ホケノ山古墳の年代
>
> 石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が
> 出土したことを述べている。
> 小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、布留式土器の重要構成要素となっている器種である。
>
> ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、それよりも新しい布留T式土器が出土したことになるので、
> 考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は布留T式の時代と言うことになる。
> 石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。
>
> 報告書を記述した橿原考古学研究所の研究部長は、小型丸底土器は、発掘時に墓の上の方から落ちてきたのではないかと、
> 苦し紛れに書いている。
>
> これについて橿原考古学研究所の関川尚好氏に問い合わせたら「そんな馬鹿なことは絶対にありません。」ということであった。
>
> また、石野氏はホケノ山古墳から箟被(のかつぎ)のついた銅鏃が出土したことも述べている。
> このタイプの銅鏃は比較的新しい時代の物で、前期古墳の後半で布留T式以降と考えられている。
>
> 箟被(のかつぎ)つきの銅鏃が発見されたことにより、発掘当初から、ホケノ山古墳は新しいのではないかと見る専門家もいて
> 問題になっていた。 >>4
桜井市教育委員会の主事クラスは、なぜか特殊系。
啓発連協系インターネットステーションの設立にも尽力。 >>12
少なくとも島津氏とその家臣団のルーツは京都 >>1
>纒向
ここの県営住宅には、鮮人が多いです。 >>17
未だに邪馬台国が九州に有ったとか叫んでる奴発見
頭大丈夫ですか? >>13
>教育員会と文化財のそれぞれの課長
むしろ主事クラスで居座っている特殊採用系の職員をだな・・・。 穴っぽこと桃の種だけから、どういう想像力をめぐらすと、卑弥呼の宮殿になるの?
頭の中発掘した方がいいんじゃないの? 何かが住んでると思うよ。
>>14
奴の文章力は買えたけど
その内容は検討にも値しない 邪馬台国=大和国(ヤマトのクニ)
つまり大和に有ったんだよ。
北九州は大和朝廷の海外窓口出先機関に過ぎない。
徳川幕府に例えるなら長崎出島の様な位置付け。
邪馬台国とは北九州から畿内まで含めた連合国家のことで、初期大和朝廷の事でもある。
>>19
畿内説は完全に破綻してるな
邪馬台国は九州以外には有り得ん ヤマトノオロチ=邪馬台国=ヤマト王朝
それを退治したスサノオ
○ンコを箸で刺し殺されたヒモソ姫=卑弥呼
そしてそれら神の子孫である神主
こうして昨今世を騒がせる物騒な事件を理解することが出来る
>>29
で狗奴国は何処なの? 愛知県なの? 徳川幕府のアイヌなの? 大きな声では言えないけど
ヤマトは
ヤ・・・八百万/つまり出雲(やおろずの「ヤ」)
マ・・・まきむくの「マ」
ト・・・土の「ト」
ですよ。
>>30
いつも理由を述べないですね
九州論者さんは >>31
ヤマタノオロチは北九州勢力(邪馬台国)から送り込まれた官吏のことだろうな
出雲は昔から北九州と交易の痕跡があるし、朝鮮半島から鉄を輸入していて国際感覚もあった
古代中国から金印のお墨付きを得た北九州に臣従していたが、あるとき反乱したのだろう >>31
ヤマタノオロチは出雲でしょ
後に出雲は国譲りで大和の支配下入ったけど >>1
巻向は大和朝廷の遺跡、邪馬台国とは関係無い。
馬鹿馬鹿しい。 >>34
涙を拭いて>>19読めよ
4世紀の遺跡はどうやっても邪馬台国にはなれないんだよ >>35
ヤマタノオロチの斐伊川の氾濫を治水で収めた事が伝承化したもの。
大和から送り込まれた人間による治水事業。
その過程で鉄資源の開発も進み、草薙の剣が大和に献上された。 >>39
だろうな
ホケノ山なんかは畿内の遺跡では珍しく鉄の副葬品があるし、卑弥呼の墓という説のある平原遺跡と
同じ系統の鏡(内行花文鏡)が出てるから、九州から畿内へ来たばかりの首長、つまり神武天皇の墓かも知れない
考古学的にはそっちの方が邪馬台国よりずっと価値があると思うが、なぜか畿内説論者は
あり得ない邪馬台国に拘ってるんだよな >>39
その大和朝廷こそ邪馬台国の事なんだけど。 >>42
なる内行花文鏡を九州北部勢力との繋がりと見るか
確かに平原遺跡から出土した大型内行花文鏡は皇室の三種の神器・八咫鏡と同型鏡だと言われているね
ホケノ山のはもっと小さいけど、九州北部から派遣された人物と考えれば辻褄があうな 3世紀で纒向遺跡を超える巨大都市は日本にはない
広域の土器の出土からも中央集権都市があった事が明らか
卑弥呼の司祭宮殿だったと思われる
まだ纒向遺跡は1割程度しか発掘、調査されていないので
これから解明されていくと思う
>>19
発掘した当事者がこう言ってるのに無かった事にしてカネ集めか
畿内人は詐欺師ばかりだな でも邪馬台国って朝鮮系の民族の国なんだろ?
日本の起源は韓国ってことなの?
わずかながら協力させていただきますた
ただし!卑弥呼さんとは無関係じゃから変な風にステマせんよーに(マジレス
>>50
韓国の南の端どころか日本海の周りには一万年前は縄文人とdnaが同じ人たちしかいませんでした(べんきょーせよ そもそも邪馬台国なんて存在しなかったのでは?
魏志倭人伝にしか記載がないのであれば捏造の可能性もある
なんたってメードイン支那だし
シナ人にヤマトなんて正確に発音できるわけないし、おまけに当て字。おまけに魏志倭人「伝」、伝聞の伝聞。
>>49
石野君はまじめやから絶対へんねんもそんなに無茶してないよ?
まーamsだとふる0は410年くらいのが正解になってまうけど^^ >>46
他所のスレで見かけたが、こう考えれば全部繋がる
> 545 :名無しさん@1周年 :2017/12/04(月) 02:14:38.27 ID:4cl54xw70
> 前スレのこの説が気になる
>
> > 782 :名無しさん@1周年 :2017/12/03(日) 17:53:52.11 ID:fA8bB4/z0
> > >>758
> > 磐井の一族のほうが本家筋で、神武天皇は分家だったと考えればすんなり説明がつく
> > 早くから開発されていた九州は分家の神武が治める土地がないので新天地を求めて近畿へ移住し成功する
> > やがて九州に残った本家を凌ぐほどの力をつけた神武の子孫、つまり皇室が本家筋の磐井を滅ぼし九州を掌握した
> > こういうストーリーは充分成り立ち得る
>
> 新唐書によれば、皇室は神武天皇の代までは筑紫城に住んでいたことになってる
> それが事実かどうかは分からないが、少なくとも当時の倭人が中国にそう説明していたのは間違いないだろう
> そして神武天皇は4人兄弟の末っ子なんだよな
> 案外正解なんじゃねこれ
>
>
> 新唐書日本伝
> 其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、
> 皆以「尊」為號、居筑紫城。
>
> (訳)そこの俗は女が多く男が少なく、文字があり、仏教の教えを尊ぶ。その官には十二等級がある。王姓は阿毎氏、自ら言うには、
> 初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが適当。
魏志倭人伝書記官「ターシェシェ、東に水行20日を南に水行20日と書き間違えた(聞き間違えた)ばっかりに
こんな論争を巻き起こしてスマン。でもさあ常識的に考えて奴国は北九州市あたり、不弥国は行橋あたり、
投馬国は岡山と兵庫あたり、邪馬台国=ヤマト朝廷って分かるだろ?常識的に考えてさあwww」
2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。
>>23
そんなこと言ったら渡来系とか言い出す奴も出るぞ
まぁそれは置いといて鬼島津という時は単純に島津家ではなく島津家中全体を指すと考えられるが
狗奴国→熊襲はおおまかに言えるが熊襲は人吉盆地から鹿児島県北部と勢力圏が縮まっている
これは狗奴国が文明化したためと考えている
残された熊襲も大和朝廷の討伐後に隼人に吸収され消滅
あまり熊襲と鬼島津は関係ないかな 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼である。
それ以外が主語の場合には「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、自女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率を使い支配したのである。
女王国が伊都国より東にあったら、この文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
即ち自女王国以北は奴国から北であり、自女王国とは女王国の中で最大の国邑の奴国を指している。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「奴国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い奴国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
奴国までの行程を合計すると12000里となり女王国までの12000里と同じであるので奴国が女王国の中心国邑である
(古田氏の説に基づき對馬國の方可四百餘里と一大國の方可三百里を距離とし従来の説に1400里加える)
女王国までが12000里と書いてあるので各行程距離を合計したものが12000里に達しない読み方は誤読である
奴国までで女王国に着いているので里数での行程の説明は不弥国で終了する
次の日数の行程は里数の行程と同じ行程を時間で再度説明したもので
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になっていたのである
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記だと判明する。
>>29
大和が奈良全体ではなく盆地の一部を指したということを知れば
九州からの移民例えばニギハヤヒの一派が故郷の名を新天地に名づけたと考えられるよね
大和はヤマトとは読めないし倭だったんじゃないの >>1>>39
邪馬台は普通にヤマトとよむ。中国人が漢字を当てただけだから >>1>>50>>52
(1)渡来系の弥生人の特徴として確定しているのは以下の事項
・寒冷地適応済みの民族だった
・文字(漢字)を持たない民族だった
・中国語とは違う(朝鮮語と同じ)文法の言葉をしゃべる民族だった
(2)日本人のルーツは大雑把に分けて二つ
@寒冷地適応する前の縄文人
A寒冷地適応後の弥生人
>>46
そうなるとあるいは先行して派遣されていたニギハヤヒという可能性もあるんじゃね?
十種神宝にも鏡が2つ含まれているし 初代神武天皇の和風諡号である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は
「サマリアの皇帝、神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味
なんとサマリアからやってきて日本を征服したのです
纒向は卑弥呼がいた集落であり、ヤマト征伐の証であり、初期ヤマト政権誕生の証であり、全国平定の先駆けにして全国平定の原動力となった遺跡である。
伊勢遺跡は当時最先端の技術を投入された遺跡であり、各地の首長が集っていた証左である。技術的にも政治的にも最先端を示す遺跡である。
また倭国大乱前の倭国が存在した証であり、倭国が首長連合であったことを示唆するものであり、神無月の伝承や高天原のモチーフとなった遺跡である。
どちらも国宝にして、国費で維持すべきもの。
>>71
こうやってデタラメ並べて国からカネを引っ張るのが目的のゴッドハンドなんだな
>>19を読めば纏向が卑弥呼の都はあり得ないとはっきり分かるのに >>65
あちらが当てた漢字は邪馬壹 どんな音からこの字を当てたかは未解明
邪馬臺(台)国ではない 邪馬台国は九州。
魏志倭人伝に邪馬台国から真珠数千個献上という
記載があった。
昔も今も機内から真珠は採れない。
九州の貝塚からは多数の真珠貝が見つかっている。
出典:真珠の世界史(中公新書)
関西人は、町おこしのために史実を捻じ曲げんなよ。
>>66
そんなの反論になってねーよ。
おまえの負け。 お金を募って委託業者らと市の職員らがばっくれたりしてなw
邪馬台国って七万戸の都市ですぞ
人口、都市の規模に相応する遺跡って九州にあんの?
直径100歩規模の古墳も
参考
◯『魏志倭人伝』記載の遺物
(大略西暦300年以前 弥生時代の遺物)
・弥生時代の鉄鏃 福岡398個 奈良4個
・鉄刀 福岡17本 奈良0本
・素環頭大刀・素環頭鉄剣 福岡16本 奈良0本
・鉄剣 福岡46本 奈良1本
・鉄矛 福岡7本 奈良0本
・鉄戈 福岡16本 奈良0本
・素環頭刀子・刀子 福岡210個 奈良0個
・絹製品出土地 福岡15地点 奈良2地点
・10種の魏晋鏡 福岡37面 奈良2面
・主要ガラス勾玉出土遺跡 福岡8例 奈良1例
・硬玉勾玉・ガラス製勾玉 福岡22例 奈良0例
◯古墳時代の遺物
(大略西暦300年以後)
・三角縁神獣鏡 福岡49面 奈良100面
・前方後円墳(80m以上) 福岡23基 奈良88基
・前方後円墳(100m以上) 福岡6基 奈良72基
市の商売になり得る物にクラウドファンディングって何かおかしくないか?
>>78
やっぱり奈良が発達したのは4世紀以降のようだな
>>19で纏向を発掘した先生が言ってることと見事に一致している >>30
京都市にある古い文献を見せてもらって
いるので、近畿説にせざるをえないのですよ。
たとえ強弁であっても。 >>74
他国の2千年前の文献に信頼性はない。
九州説に根拠なし。
はい論破 日本書紀の神功皇后に敗れた北九州の田油津媛が卑弥呼
>>31
>>○ンコを箸で刺し殺されたヒモソ姫=卑弥呼
覚え易いエピソードだ 邪馬台国は渡来人の国
卑弥呼は在日
事実が発覚すると偏狭なナショナリズムのジャップがヘイトクライムに走るので、ひたすら情報統制がなされている。
>>74
>>魏志倭人伝に邪馬台国から真珠数千個献上という記載があった。
そんな記述あったか?。有力な情報じゃん。
真珠の産地は、今も昔も伊勢志摩が有力。
邪馬台国がそんなところにあるとは思えないが、九州説が有利だな。 >>87
魏志を否定することは、邪馬台国を否定することなんだが。
お前は相当の馬鹿だな。 >>92
三重県で真珠の養殖が盛んになったのは明治以降。 >>57
ダックここはにゅーそく+や!
ながいぶんしょーよむひといてへんわ^^ >>95
とよ(または いよ)の魏志倭人伝のところを
みてみた。
男女生口三十人を献上すると共に白珠五千孔、大勾珠二枚および異文雑錦二十匹を貢いだ。
奴隷に続いて、まっさきに、真珠が献上品として
挙げられている。5000個といえば相当多い。つづいて
ヒスイの勾玉。2個か。これは交易で入手したのかもしれん。
ヒスイの産地に邪馬台国がある必要はないだろう。2個ではね。
真珠は海の産物なので、邪馬台国は
九州にあるぽいな。 >>57
邪馬壹の王たるいよちゃんは晋の時代や(都は引っ越した
そのころ伊都は文献でも考古でも衰退しとる(やりなおし >>97
暇なときに
真珠の世界史 - 富と野望の五千年 (中公新書)
を読んで下さい。
魏志倭人伝よりは読みやすいよ。 >>97
大勾珠は翡翠ではなかったかもしれない
魏志倭人伝では倭国の産物として「青玉」と記されているが、中国語で翡翠は単に「玉」と表現するのが一般的だ
下記にあるように九州産の別の石だった可能性がある
「新潟産ヒスイ」地元の石だった 交易史の書き換えも必要?
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200706060182.html
> 今まで研究者が「新潟産のヒスイでできている」と報告してきた九州の縄文時代後期の首飾りを分析したところ、
>ほとんどが地元産の石だった――。新潟産のヒスイの分布から語られてきた、交易史の書き換えにさえつながりかねない「再発見」。
>その背景には、考古学への新しい分析技術の導入がある。
> 九州全域を回って、これまでの出土資料約900点を借り、06年から福岡市埋蔵文化財センター、
>北九州市立自然史・歴史博物館、九州大の協力を得て、蛍光X線分析装置などを使った分析を進めた。
> その結果、従来「(新潟県糸魚川の)ヒスイ」「蛇紋岩」などと報告されてきた緑色の石材の7割がクロムを大量に含む白雲母
>(含クロム白雲母片岩)であることを確認したという。
>
> 「製作遺跡の分布などから、南九州ではなく、おそらく中九州の熊本県南部あたりで採取された可能性が高い」と大坪さんはみる。
> 石材の大半が地元の石で、かつ九州内での地産地消――。となれば、これまで研究者が想定していた、縄文後―晩期における、
>本州・糸魚川から九州へのヒスイ交易、などの歴史像は大きく変更を迫られる。
>
> それどころか、この九州産の石製品が本州へ“輸出”されていることもわかってきた。大坪さんによれば、島根県、石川県、
>新潟県などの縄文後―晩期の十数遺跡で、九州に特有な形の含クロム白雲母の小玉が出土しているという。 >>17 確かに2000年前は今の平和な日本と違って弱肉強食の時代だよね?当時圧倒的な軍事力を持ってた九州の軍隊が東に進行して出雲人や畿内人を皆殺しにして滅ぼして関西で大和政権を作ったって言うのが自然だよ よしんば巻向遺跡が邪馬台国でなかったにしろ
邪馬台国より巨大な中央集権国家が桜井市にあった訳で
強国が発祥地の祖国を捨てるようなことはない
倭国大乱
◎吉備が少しずつ瀬戸内海の支配を進める。
2世紀末までに播磨、淡路島と吉備に落とされていく。
◎九州南東部の投馬国。吉備などの西瀬戸内海の海人と手を組み、九州北部を征圧。
伊都国に一大卒、苅田にも拠点を構える。
◎伊勢尾張の勢力
打倒畿内のクナを目指し、西征。
甲賀、伊賀と兵を進め、南近江を征圧。
さらに伊賀→宇陀方面からヤマトに進軍。
大きく分けて、この3つの勢力が卑弥呼共立で手を組んだんだな。
>>77
逆に7万戸の人口を支えられるような生産力が畿内には無い
九州の場合5万戸の投馬国を筑後平野の久留米周辺、7万戸の女王国を熊本平野に比定すれば
食料生産力的に何も問題ない
沖積平野は土砂で深く埋まるので相当掘らないと出てこない
>直径100歩規模の古墳も
1里=300歩
魏志倭人伝は1里約78メートルの周代の里で書かれているので100歩は小さい
畿内の遺跡は大き過ぎて記述から外れる >>100
魏では真珠は産しないのだから、魏の時代の
遺跡から真珠を見つけてそれを
蛍光X線分析装置で産地を調べれば、
邪馬台国の位置がわかるんじゃね? 日 秘
百 モモ=腿=股=○ンコのこと
襲 襲われる
姫
→ 箸墓古墳の伝説
ヒモソ姫→卑弥呼姫
日本の記録も中国の記録もどっちも「当て字」だから本当の呼び名とずれてるんだろう
>>105
確かにそれができれば確定するな
他にも九州の石で出来た勾玉とか出てきたらもう確定でいいだろう >>100
今まで緑っぽい古代の石は何でもかんでもヒスイにしてたのか
これはとんだ落とし穴だな >>107 古代中国の遺跡から出土した
真珠は、伊勢志摩と九州沿岸の分布に
大きく分けられると予想できるが、
量的に九州産が圧勝だろうなあ。分析たぶん
いやがられるぞ。 >>111
ほうほう、こんなものもあるのか
何れにせよ、これまで大して根拠もなくヒスイだと思いこんでいた石は一度調べなおさなきゃダメだなこれは >>74
なんで全ての献上品を畿内で揃える必要があると考えるのか?
邪馬台国の領域は北九州から畿内を含む広大な範囲だ。
その領内で産した物は全て邪馬台国からの献上品さ。 >>77
九州論者が反論出来ない一番の急所ですな。 纒向は凄い遺跡だよ。
卑弥呼がいただけでなく、神武東征(実態は伊勢西征&吉備東征だが)に始まり、四道将軍に終わる遺跡。
古墳時代、纒向の民が兵として、全国平定に向かう。
>>115
元々邪馬壱国表記だけどヤマトとは読まないしヤマイチコクって読むのが自然だと思うけどね 翡翠の翡は赤
翡翠の翠は緑
翡翠には赤いのと緑色のとがあったんだぜw
>>113
畿内の遺跡からは九州の土器はほとんど出土しない
九州との繋がりはなかったか、あるいは支配者層が九州の人間だったかのいずれかしかない
(土器を焼くのは身分の低い者の仕事なので、畿内の支配者が九州勢の場合には九州式の土器は作られない) >>50
政治感情を抜きにしたら韓国だと思う
特に韓国の南西部の勢力(馬韓)が九州を経て瀬戸内海沿岸界隈に進出し、
ヤマトやキビの勢力となったのだろう
いっぽう韓国南東部にいた勢力は日本海側に進出し、イズモやタジマの勢力になった
なお、特に韓国南西部の人たちは、
元々北から朝鮮半島に進出したのではなく、
山東半島の南側の辺りから稲作と漁労をする集団が、
対岸の朝鮮半島に進出したのがルーツだろう
後に、北から進出してきた扶余系の集団に侵略され、滅亡した >>121
悪質。
纒向が4世紀と言っている学者はいない。
古墳からなぜより新しい土器が出たか?
それはまた面白い話だけどね。 >>123
田布施システムって、ウソがばれて失敗した反日デマだよ >>124
> いっぽう韓国南東部にいた勢力は日本海側に進出し、イズモやタジマの勢力になった
ここ最近の北朝鮮船の漂着や渤海使なんかを見たらもう少し北の
ような気もするけど、おおむね合意。事実、近江あたりには新羅系の
神社が今でも多く残っているよね。 >>125
悪質なのはお前
纏向を発掘調査した纏向研究の権威である関川尚功氏が4世紀だと>>19のリンク先ではっきり述べている
こんな大学者が明言してるのにすぐバレるウソをつくんじゃないよ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%8A%9F
> 関川 尚功(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、
> 石野博信とともに報告書『纒向』を著した。
> 1971年(昭和46年)から奈良県立橿原考古学研究所の所員として奈良県桜井市の纒向遺跡の調査に携わった。
> 石野博信とともに報告書『纒向』(1976年)を著したが、とくに外部から搬入された土器の分析と整理は関川がおこない、
> 古墳時代の考古学的な研究において、きわめて重要で画期的な資料となった。 >>122
既に支配下にある地域からは献上品は少ないだろう。
東海方面の土器が多いのは新たに支配下に入った地域が忠誠を誓うために沢山の献上品を贈ったため。 古代の遺跡って復元してもなかなか人が来ないよ。
吉野ヶ里遺跡もガラガラだった。観光資源にはなりえない。
元々あった古墳とか、神社や寺みたいなご利益がありそうな宗教施設なら
復元すれば観光客がわんさか来るだろうけど。
>>129
土器は普段使いの道具であって献上品ではない
それを焼く工人は身分も低く支配者層はこれを手作りしない
九州より近い吉備の土器の出土は多い
よって一番出土しない九州の人間が支配者層と考えられる >>128
発掘だけじゃなくて土器の分析をやった本人なのか
その人が言うんじゃ4世紀と見るしかないな >>130
亡くなられた古田さんの説ですよね
一番スッキリするし、文献、時代考証とか歴史家と言える方でしたね。
再評価されて然るべき説だと思います >>133
その通り、関川氏ほど纏向の土器に精通した学者はいないと言える
その関川氏が4世紀だと言ってるのに「4世紀と言ってる学者はいない」等と堂々と捏造するのだから
畿内説はゴッドハンドとしか言いようがない >>131
客が減ったのは開業から10年以上経過したころから
それまでは客がかなり来てた 古墳は古墳。
纒向遺跡の集落跡は集落跡だ。
それを意図的に混同して、纒向遺跡があたかも4世紀以降の遺跡と主張するのは悪質以外何者でもない。
纒向は明らかに2世紀末に始まる遺跡。
>>140
つまり王権ができたのは古墳の作られた4世紀で、それまでは王のない集落があったと言いたいわけか
それはどう見ても邪馬台国じゃないな またキチガイが暴れまわってるのか
畿内九州どっちも決定打がないのによく九州だと言い切れるな
そもそもそのどちらでもない可能性も高いというのに
九州派と畿内派でジャンケンで決めろよ
多分どっちでもないけどね
>>142>>143
新唐書日本伝
其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、
皆以「尊」為號、居筑紫城。
(訳)そこの俗は女が多く男が少なく、文字があり、仏教の教えを尊ぶ。その官には十二等級がある。王姓は阿毎氏、自ら言うには、
初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 とりあえず卑弥呼抜きにしてもこの遺跡は同年代を代表する貴重な遺跡の一つ
きっちり保存維持していってもらいたい
鬼畜、東京都北区赤羽住民、創価学会集団ストーカーに加担する
ド ト ー ル コ ー ヒ ー は 創価学会だ
赤羽警察署は偽証申告した住民の犯罪を
もみ消しにかかってる
vhんっkっmっっkっっぉ
邪馬壹国と桜井ヤマトとは別物と主張する学者はいてないんかい?
>>148
民間史家の決定打とやらよりも、
学者の話で決めるわ
認められるためにはまず、証拠と論文を学会に提出しよう 参考
旧石器捏造事件
藤村新一は1970年代半ばから各地の遺跡で捏造による「旧石器発見」を続けていたが、石器を事前に埋めている姿を2000年11月5日の毎日新聞朝刊にスクープされ、不正が発覚した。
これにより日本の旧石器時代研究に疑義が生じ、中学校・高等学校の歴史教科書はもとより大学入試にも影響が及んだ日本考古学界最大の醜聞となり、海外でも報じられた。
考古学界は捏造発覚以前の25年間、捏造を批判した学者や研究者を排斥したり圧力を加える事によって、事実上の学会八分(村八分)にして、捏造批判の声が噴出する気運を押さえつけた。
>>150
何処に出したらいいんでしょうか?
まともな学会ってあるの? まあ3世紀にはもう邪馬台国は畿内だろうね
その前の中心勢力は九州かもしれないが
2世紀の終わりに畿内の銅鐸文化が突然、終了しているんだよね
そのときに後の卑弥呼に連なる集団が畿内を制圧し、新政権を建てたのでは?
>>153
九州の勢力が畿内に進出したのは可能性が高いが、古代中国との交易で富を得ていたことから考えると
九州から遷都するのは蓋然性が低いだろう
魏志倭人伝で魏の使者が九州に上陸したことを考えても、卑弥呼の頃はまだ九州が都だったと考えるのが自然
都が畿内なのに佐賀で船を降りて歩くのは著しく不自然な行為だ >>153
3世紀に畿内で九州の土器は殆ど出ない。
纒向の外来系土器の大部分は伊勢尾張と吉備。
3世紀に畿内で九州勢力が主導権をとった形跡はない。 >>154
>都が畿内なのに佐賀で船を降りて歩くのは著しく不自然な行為だ
船で移動は危ない
なので安全が確保されてる場所か船でしか通れない場所に限って使う >>55
残念だけど、石野氏も纏向の搬入土器の説明で九州からの土器が普通にあったかのようにミスリードしてる
小型丸底土器の出土がショックだったと素直に認めているあたりは根は正直なのかなって気もするけど
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/gairaidoki.htm
> ○石野博信著『邪馬台国の考古学』吉川弘文館、2001年刊
> 「纒向遺跡の特色の一つは、外来系土器を調査地点によって差があるが一五〜三〇%含む点にある。
> 土器の原産地は、西は筑紫から東は駿河、北は越中に及び、最も多いのが伊勢湾沿岸である(表14−石野・関川 一九七六)」(152頁)
> その「表14 大和・纏向遺跡の外来系土器の比率」(153頁。三つの表のうち、最下段は省略)という表は、次のとおりである。
>
> <留意点> 纏向1式〜同3式を通じて、上の表では外来系が平均で15%程度であり、下のほうの表では九州も筑紫も
> なんら見えないから、その地域から搬入された土器の出土が殆どなかったといってよい。
> どうして、本文記事と図表とが食い違うのであろうか。ここでは九州が入れられていないだけ、問題が少ない。
> また、「外来系土器が一五〜三〇%含む」という上限のほうの「三〇%」はどこに根拠があるのか、疑問が大きい。
>
> ○石野博信氏の最近のコメント 2009年12月4日付け産経新聞
> 「土器は3世紀中ごろかそれ以前のものと考えられ、関東から九州で作られた外来系の土器の比率が15〜30%。
> これは、政治や経済の中心である都が置かれた場所であることを裏付ける証拠です。」
> <留意点> これまで発表された分析では、九州で作られた外来系の土器の出土は皆無に近いはず。
> なぜ九州が入れられるのか、きわめて疑問であり、基礎の数値が変わっていることでもないはず。
> また、「外来系の土器の比率が15〜30%」という上限のほうの「30%」はどこに根拠があるのか、疑問が大きい。 >>156
九州から本州へは船でしか通れないが?
倭国のボロ船より魏国の外洋船の方が遥かに安全だぞ
こうやって畿内説はウソにウソを重ねていくのでした >>158
自分の意見に反対する=畿内説としか考えてないのか >>155
そう、畿内では九州の土器は殆ど出ない
これは畿内の勢力が、古代中国と交易していた九州北部の勢力とは没交渉であったか、
もしくは九州から畿内へ来た集団は支配者層となり自ら土器を焼くようなことがなかったかのいずれかである
いずれにせよ古代中国と交易していたのがはっきりしている邪馬台国が畿内ではないのは明白 >>155
なるほど
3世紀に九州勢力は畿内に進出していないのか
ならば邪馬台国の勢力は、九州出身以外の可能性があるな
おそらく畿内の銅鐸文化を倒して掌握したあと、
出雲や尾張、吉備を制圧し、
ついでに九州も苦もなく制圧したのかもしれない
その後、卑弥呼が登場した >>159
白々しいな
まあ畿内じゃなくても同じことだ
佐賀で下船しなきゃいけないなら、九州島内にしか邪馬台国はあり得ない 魏志倭人伝は伝聞によるフィクションの域を
脱してはおりません。歴史愛好家の方々が
論説を交えるのはご自由です。
魏志倭人伝には往路の記述はあっても復路の記述がない なんででしょうか?
>>163
福岡あたりまではきれいにトレースできるけど
その先が突然当時の魏で使われていた距離の測り方じゃなくなるから
本当にその先に進んだのかどうかも不明になってるしね >>164
来た道を戻るのにまた同じ説明は要らないだろ >>160
うむ。
橿原の人たちは、3世紀に倭国(この場合は九州以北の西日本)を
統一する勢力があったことにしたいようだけど、しょっぱなから眉唾なんだよな。
当時はもっとローカルな政権が鼎立してて、だからこそ九州の邪馬台国の
記録が畿内のヤマト政権の記録に残っていないと。 桜井天理ヤマト説
途中で距離の単位が変わる・途中で東西南北が曖昧になる
壹は臺の写し間違い
こんなんばっかりですわ
>>162
確かにそうだな
畿内説も四国説もその時点で詰んでる >>166
同じ道とも限らないし、普通は少しは書くんじゃないかい 魏史倭人伝は芸人のスベラない話レベルのフィクション
卑弥呼に実際会った人間はいない
>>160
>もしくは九州から畿内へ来た集団は支配者層となり自ら土器を焼くようなことがなかったか
これはなかなか斬新な視点だな、過去の議論でも聞いたことがない
でも確かに粘土を捏ねて焼くという土器の製法からして、やんごとない身分の人間がやることじゃないよな
土器が出ない=そこの関係者がいない
ではなく
土器が出ない=そこの関係者は身分が高い
も考えられるということか 文字が無かったせいで、たかが2000年弱前の時代なのに神話の世界になっちゃってるよね
>>171
大陸に渡った日本人から聞き取った話を記録したとも考えられるしね >>173
まさに神話の世界だよな、上古は。
だからこそ面白い。 同時代の中国は三国志の時代で劉備関羽張飛とか日本でも馴染みの人物が大勢いるのに
肝心の日本のことはほとんどわからないんだよな
魏の使者が北九州まで到達した事に異論の余地は無いだろう。
しかし、使者は伊都国に留め置かれ、邪馬台国の中枢部へは赴いて居ない。
従って倭の習俗についての記録は北九州を中心としたものになるのは当然の結果だろう。
伊都国は邪馬台国にとって大陸外交の出先機関であり、例えるなら徳川幕府における長崎出島のような存在。
未だに九州説とかさすがに笑われるぞ。
マジであそこは奴国でしかない。
>>178
冊封国の身分で大魏国の使者にここに留まれなんて言えるわけがない
まして皇帝から預かった金印なら王本人に渡さなければ使者の役割を果たしたことにならない >>167
九州に邪馬台国はあったんだけど その後に畿内に進出して畿内人を滅ぼして畿内で九州人が大和朝廷を作った >>180
こうやってゴッドハンドに逆らうなという空気を作って事実を曲げようとするのが畿内説論者
畿内説論者のデタラメぶりに比べれば元祖ゴッドハンド藤村さえかわいいものだ >>179
「倭国に阿蘇あり」
大和朝廷は阿蘇地域を含まない 九州討伐してるくらいだし
したがって大和朝廷は倭とは別の国 大和朝廷の編纂した古事記日本書紀に倭の事が全く書いてないのがさらなる証拠
「倭に火由なくしてを噴く山あり」
畿内のどこに火山があるつうの?
「倭に由なくして火を噴く山あり」
畿内のどこに火山があるつうの?
阿蘇は倭で火山の総称なんだけどね。
浅間に朝熊、富士山もアソだから。
九州説なんてマジでもう無理だよ、あきらめな。
さて ココ電説では
白村江の敗北のあと、 中国軍が追撃してきて国が滅びるのを恐れた倭国は偽の歴史を作り国を畿内に移動した。
それまでの歴史書各地方の「風土記」を焚書坑儒して日本書紀を編纂する。
真実性をもたせるために これまた偽の歴史書である古事記を原典とする。
2つの似たような書を編纂したのはこれが理由である。
そして歴史から倭国のことを綺麗さっぱり消し去り何食わぬ顔で大和朝廷を興す。
卑弥呼の100歩墓は証拠隠滅のために 盛り土を分散させて小さくした墳墓群となって九州にあるはずである。
場所は なんのことはない スサノオの出生地とされる宮崎県宮崎市 阿波岐原町で 周囲に墳墓群もある。
更に言うと倭人伝には倭に丹山有り、とあるからな。
丹生神社は圧倒的に紀伊半島に多い。
三輪山の周辺が宇陀の水銀鉱山、丹山そのものなのを
知らないふりをする、九州説の連中は。
>>189
名前がどうでも 畿内に火山などない
ばいばい >>1
「見える化」などという、中卒工員との意思疎通用の幼児語が一般化しすぎて
違和感がなくなっている現状への違和感がな まぁはっきり言ってしまうと邪馬台国とはヤマトの事を指すでもう確定している。
矢田丘陵から奈良盆地、河内湖南部辺りな。
卑弥呼もしくは台与とはヤマトトヒモモソヒメの伝承として伝わっているのも
間違いない話。生まれは田原本町辺りだよ。
>>191
さらに 白村江の戦争中なのに 遣唐使おくってるとか 全然別の国じゃんよー
遣唐使3 659年
白村江の戦い 663年
遣唐使4 665年 というわけで ココ電研究により 畿内説は完全に否定されたのでした。
>>188
紀伊半島と火山の関連性知らないとは無知だな まず勘違いしてるのがいるが、火山の記事があるのはずっと後年の
倭国伝。倭人伝には火山の記事なんて一切ない。
対して丹に関しては倭人伝には沢山出てくる。
また巻向、三輪山の背後が丹山な時点で九州説なんて既に
畿内説の対抗馬ですらない。
>>177
神武=崇神
九州から迎えられた大和連邦の長 >>200
魏からの鏡が見つからず
景初四年の国内産鏡しか見つからないのはなぜ? >>200
屁理屈並べてないで遣唐使について答えろよ
畿内説は全部へ理屈 >>203
後付けやなあ こんなん出ましたからここが邪馬台国ですとか
で、出土品を精査したら時代が違うとかことごとく否定されて もう一つの恐ろしい説は 白村江の敗北のあと 中国軍に本土まで攻め込まれて倭は滅ぼされ 大和朝廷を興した説。
天皇家は朝鮮人
遣唐使と邪馬台国は全く繋がる部分はない。
魏の鏡は九州か畿内から出ようが別に大した問題ではない。
九州から出ても畿内説の場合そこは伊都や奴国だから。
そもそも三世紀に入って畿内で中国産神獣鏡が集中してる
時点で大陸の目的は九州ではないのは明白だからな。
聞こえは良い ボランティア 寄付
24時間テレビしかり、上級国民がふんぞり返り低所得者から金を巻き上げ
こき使いまきあげるだけのこと 国の為 地域の為とお題目は立派だがw
低所得者が出す千円と上級国民の出す千円の価値は違う
消費税にしてもそうだ 衣食住は区分けでは同じ だが価値に松竹梅がある
みんな同じ税率だからに騙されるな
だがそんな特権階級しかも総理は違う 低所得者から巻き上げた金を
湯水のごとく他国に渡しているさすが日本の総理大臣は一味違うぜ 拍手
>>206
神獣鏡は国産だってもう結論出てるんだけど
未だにそんな妄説にすがりつく畿内説論者www 巻向駅にある公衆便所がめっちゃ豪華だったけど
あれ作る金で出来たんじゃないのかw
>>208
私は神獣鏡でも三角は国産説です、だから田原本に鏡作神社がある。
画文を国産とするなら眉唾ですよ。 >>19にあるように、畿内の前方後円墳は4世紀以降のもの
日本で一番古い前方後円墳は庄内期(3世紀)に作られた那珂八幡古墳
九州北部発祥の前方後円墳がその後瀬戸内沿岸や畿内に広まった
ここから見ても当時の西日本の文化が九州北部を中心としていたことが分かる >>210
よくないですね、少なくとも九州には100%ないですから。 いやいや、畿内の古墳や遺跡は3世紀も多数ありますよ
むしろコア地域
>>214
いやいや、それはゴッドハンドしてるだけですよ
最古とされる箸墓やホケノ山古墳でも4世紀ですからね
>>19参照のこと >>213
むしろ九州以外には100%ないね
九州外にあるなら末廬国で船から降りてしまうわけがない 前方後円墳のルーツなら奈良盆地からも確認されちゃったからな。
しかも箸墓との類似性もあり、三世紀以前のもの。
更に場所が耳成山の南で現在の橿原神宮とも近い。
つまり藤原京の下にも遺跡がある可能性が高くなってきた。
まぁいくら九州説の連中が必死で無理な解釈しても無駄。
考古学的に既に完敗してるが文献解釈でも既に終わってるよ。
>>214
重要なのは前方後円墳
畿内で一番古いとされる箸墓古墳が布留1式期の4世紀(>>19)
九州の那珂八幡古墳はそれより前の庄内期のもので3世紀
また九州の3〜4世紀の古墳からは特殊器台が出土しないので東から伝わったことはあり得ない
特殊器台は九州で生まれた筒形器台が吉備で発展して出来たもので、更に東へ伝わり畿内の古墳からも出土する
九州の古墳でこれが出るのは5世紀以降で、そのころようやく畿内が九州へ影響力を及ぼせるようになったことが分かる
邪馬台国の時代には文化は西から東へ一方通行にしか伝わらなかったというのが出土品が示す動かぬ事実 >>218
無理な解釈をしてるのは畿内説()だろ
>>19とか見ると考古学的にもゴッドハンドしなきゃ成立していないようだし >>78
これ見りゃ考古学的には邪馬台国は九州だって誰でも分かるよな >>219
九州発の器台が瀬戸内海伝いに東に広まってるな
やはり当時の文明は西高東低だったと見る他ない 二世紀近江の伊勢遺跡なんて九州にもない煉瓦すら存在するんだけどね。
また技術的には銅鐸製作は相当な技術ですよ。
>>211
画文帯神獣鏡も中国より日本の方が出土数が倍くらい多いし、
それ以前に魏ではなくその敵国・呉の鏡だ
https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/
>三角縁神獣鏡は、日本国内では600枚以上見つかっているが、中国では全く出土しない。また、三角縁神獣鏡の径は22cmもあり、
>後漢・三国時代の鏡よりもはるかに大きい。だから、王仲殊(おうちゅうしゅ)や徐苹芳(じょへいほう)といった中国の考古学者たちは、
>三角縁神獣鏡は魏が作った鏡ではないと主張している。
>
>三角縁神獣鏡とは別に、画文帯神獣鏡という、三角縁神獣鏡とよく似た神獣鏡があり、これも中国よりも日本で多く出土する。
>また、中国とは言っても、画文帯神獣鏡が出土するのは、魏の領土でではなくて、敵国である呉の領土や
>呉と内通して滅ぼされた公孫淵の領土である朝鮮の楽浪郡からである。 >>225
三世紀には中国産鏡が畿内に集中しだすのが重要だろう。
中国人と畿内の交流があるのが確実だからね。
また貨泉も弥生中期には北部九州から瀬戸内、畿内の河内まで確認されている。
こういう状況で九州説なんて成立すると考える方はもはや
考古学なんでやる資格はないよ。 邪馬台国は銅鐸の後だ
邪馬台国はおそらく3世紀初頭頃には畿内にあっただろう
九州説は既に完全論破されている
ということで、このスレでもやはり畿内説が確定してしまった
>>226
>三世紀には中国産鏡が畿内に集中しだすのが重要だろう。
は?
国産鏡ばかりだがなにゴッドハンドしてんの?
畿内説の連中見てたら、
なんで日本は敗戦を受け入れて戦争を終結させられなかったか
良く分かるだろ?
これを終戦の時もやったんだよ。
敗戦間近の時も、
「十万人が特攻やったらひっくり返せる」と
マジで言ってたんだよ日本人は。
>>234
個人的にはむしろ従軍慰安婦捏造問題に重なるわ
マスゴミと結託して事情をよく知らない素人相手にさも事実かのように喧伝しまくって既成事実化し、
証拠を持って反論してくる相手にはひたすらレッテル貼りで人でなしのように中傷する
まさしく朝鮮人の手口そのものに見える >>225
日本で複製して御神体として配りまくったんだろ
今の神社の鏡のルーツではあるんだな この手の話は素人だけど、畿内説はどうもうさんくさいと思うんだよ。
そんな道端のロードコーンみたいな物なんてどうでもいいから、箸墓を発掘しろよ
それに対する募金なら出すわ
畿内説って完全に終わってたっんだな
知らんかった
九州のどこに女王国と卑弥呼の墓があるんだろう
それぞれ離れてる可能性とかありそうだな
>>14
誰が最初に「壹」を「台」に代えて言い出したんだ?
そいつのいうことはすべて捏造の可能性があるな。 >>240
卑弥呼の墓は今までに見つかっている遺跡の中では平原遺跡が最有力だろうな
伊都国の女王の墓という説もあるけど、他の伊都国王の墓とはなぜか離れた場所にあるんだよね
そして皇室の三種の神器の一つ、八咫鏡と同型と言われる鏡が5枚も出土してる
明らかに皇室の祖先にあたる人物だろう 奈良の山から海が見えるわけねーし。
銅も金も出ないし。
いいかげん、ハリボテ発掘詐欺はやめてくだせぇ。
見える化って言う言葉が気持ち悪いわ。
Visualization (ヴぃじゅありぜいしょん)
を略してカタカナ言葉で「ヴィジュアリ」って呼ぶのを流行らせようと
ここ数年、がんばったけど一向に流行らなかった…。
今は購読や定期課金のことをSubscriptionだから
カタカナ言葉でサブスクって呼ぶのを流行らせようと頑張ってるところ (^〜^)
こんなのどうでも良いが九州厨がカッカしてるのは面白い
>>178
立場が違うよ
卑弥呼は倭王に任じられている
倭王は魏の家臣なんだよ
使者は伊都国に留め置かれじゃなくて
伊都国が目的地の倭の都だったんだよ。 >>173
魏志倭人伝には倭人が文書で情報を伝えていたと書かれてるし
当時の硯も伊都国跡では出土してる
倭では文字は使われていたようだよ。 >>250
当時は木簡や竹簡に文字を書いていたんだよ。 結局九州説というのは、素人が偏った知識で妄想しやすいだけなんだよね。
まともな知識がある連中は既に畿内説で
一致済み。
必死で伊都や奴国を邪馬台国だ!
と主張してるだけなんだよね。
狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国は全て女王国の北にあるんだろ?
少なくとも伊都国が邪馬台国ということはないのではないか
>>236
韓国の学者なんて九州説が多いんだが?
その方が日本の歴史を新しく出来るからね。
つまり前方後円墳の始まりを畿内にある
箸墓にしたくない連中。
日本より後で半島にあるのがまずいんだよ。 >>254
またそうやって勝利宣言する
九州説は証拠が一杯ある。 畿内説には証拠が無く 新説とセットで捻じ曲げて解釈しないとない
畿内説は他の証拠と矛盾しちゃって成り立たない。
九州説と矛盾する証拠は知る限り無い。
畿内説は圧倒的に不利。 ただの願望じゃん 九州説の証拠なんて皆無ですよ。
倭人伝を邪馬台国伝と勝手に勘違い
してるだけで。
>>256
自女王国以北とは女王国の中で北側の諸国のことですから
それらの国々は全て女王国を構成する国邑です
伊都国も女王国の構成国で卑弥呼の居る国邑なんです。 >>257
韓国の学者は畿内説ですよ
九州説だと任那日本府が実在したことを認めることになる。 まぁ簡単に整理すると、邪馬台国に関する情報は、奴国や投馬国よりずっと南方にある
七万戸の国、卑弥呼が都とする。
倭人伝ではそれだけだから。
後年の倭国伝では古の邪馬台国はヤマト、そう書かれているだけの話で
九州説なんてこれだけで既に終わってるよ。
弥生人というのは古代中国の春秋戦国時代に戦乱を避けて大陸から日本へ渡来してきた人たちらしい。
彼らは現在の九州へ上陸して稲作をしながら当時の原住民の縄文人を駆逐しながら次第に居住地域を広げていった。
これが神武東征のモデルとなった。
もっとも駆逐とはいっても必ずしも戦闘で滅ぼしたというだけでなく共存みたいなケースもあったらしい。
>>261
実際熊本辺りの説を唱える連中が多いから。
三世紀に既に畿内中心の国が成立していると
認めたくないんだろうな。 >>262
又そういうデタラメを ヤマトなんて書かれてる倭人伝ってどれ? >>260>>265
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。
とあるので、女王国が一番南にあるように読めるけど だけど神武天皇って実在してたのかな。恐らくモデルになる人物は居たとは思うんだけど。
>>267
倭人伝にはないですよ、ずっと後年に
書かれた阿蘇の出てくる倭国伝です。
そこには古のヤマタイとはヤマトと
ありますが。 倭国に火を噴く山あり → 畿内に火山ない
九州も畿内だ → 九州討伐してるから別地域
倭人伝では南へ南へ → 畿内説では昔は東のことを南と言ってたと主張 ← あたまおかしいのか?
古事記日本書紀 → 倭国のことなど書いてない
倭国と白村江の戦い → 大和朝廷は戦争中に遣唐使を送ってた
結論
大和朝廷は倭国とは別の国 邪馬台国は大和朝廷の支配地域にはない。
>>270
新発見だな 魏志倭人伝にしかでてこない邪馬台国が後年の書にでてきたとは初耳だわ
あ中国の朝貢記録にも卑弥呼の貢物の話は出てくる。 >>258
畿内説の人達が意固地になってんのは、資金力で東大に勝っている数少ない分野だからじゃないかな?
邪馬台国が出てくる唯一の文献との考証をほぼ無視して、関係のなさそうな物証で攻めてくるのは、歴史家ではなくて、ただの願望を実現する活動やってるだけだよね 倭人伝と倭国伝の成立に何百年の開きがあるんだよ。そんなのも知らない奴が邪馬台国九州説をとるんだろうな。
邪馬台国とは卑弥呼が都とするずっと南方の国、倭人伝ではそれだけの話。
しかも七万戸という北部九州より遥かに栄えたような国は九州南には存在した形跡すらない、それで九州説はもう成立しないから。
九州にあったとしても既に破壊されてそうだなぁ…土人は馬鹿だし
>>275
ちょっとまて 倭国伝をこのスレで最初に持ってきたのは俺
なんでそういう芝居すんの? >>275
あらー 畿内の元は都だった場所ってみんな畑だったけど?? 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国はヤマト盆地、狗奴国はその南の河内&和泉ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
伊勢尾張、丹波など卑弥呼を擁する畿内の勢力、瀬戸内海を支配を進めていた吉備、九州北部に一大率を置き筑紫を支配下に治めた投馬国などが卑弥呼を共立し手を結んだんだね。
>>273
君が無知なだけだよ、ちなみ最後ヒント。
卑弥呼が都とするのが邪馬台国とあるが、
都には本来最初に生まれた等の意味も含む。
女王が生まれたのか、卑弥呼が生まれたのか
国が成立した等色々とれるけどね。
まぁネタでやるなら九州説の方が楽だろうが
既に位置論なら畿内説以外は成立しないゆ。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
その博多、播磨など瀬戸内海の土器が大量に出ている、4世紀にかけて畿内の土器が大量に出土するようになる。ヤマト政権の支配下にあったのは確実だな。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。
投馬国って DQNのスサノオの尊が姉への嫌がらせに
機織の見学をしてるアマテラスの機織小屋に馬の死体を投げ込んで機織女のワカヒルメを殺したという
あれだよね。
>>280
畿内説は証拠を並べずに 煙に巻くことばかり 東遷説は無い
そもそも都が遷都されるのは国が滅ぶか大厄災かしかない
強国が先祖伝来の土地・都を放棄することはないし
発想も意味もない
>>280
ヒントじゃねーよ あほ
詐欺師ってのはそうやってもって回った言い方で手のうちにカードがある振りをするのさ 神武天皇の東征は中国にそっくりな
逸話があるらしいから
そこからとったに違いない
魏志倭人伝当時、九州北部の国々は独立性などない。植民地みたいなものだ。
そんなところに、邪馬台国はない。
大体最近の畿内説はなんだ
古墳が見つかるたびに邪馬台国 卑弥呼の墓宣言するし
馬鹿なのか?
歴史 は権力者に都合よく創られる
http://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/
縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たちの中には、
自分たちを天照大神以来の皇統を受け継いでいる天孫、すなわち
天津神(あまつかみ)の子孫であると主張した人たちがいました。
しかし実際は先住民を次々と征服し、自分たちの王朝を打ち立てた
侵入者(インベーダー)でした。
ヤマト王朝を建国後、万世一系と称する天皇制の皇統譜(こうとうふ)を
作成し、それを『日本書紀』、すなわちヤマト王朝の自分たちに都合のいい
歴史をつくり上げて、「正史」としたのです。歴史とは必ずしも「本当に
あったこと」の記述ではなく、その時々の権力が自分たちに都合よく創り上
げるものなのです。
ヤマト王朝すなわち天皇制国家が生まれたことにより、先住民族に対する
抑圧と差別が始まりました。天孫族は、自分たちとは異なるルーツをもつ
人々を「化外(けがい)の民」とし、国家の支配体制から差別し排除しまし
た。
そうした先住民は「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれ、各地の山中で自給自
足の生活を送りました。さらに、最後まで抵抗したアイヌの人々を住んでい
た土地から追い出し、賤民としてあちこちに分散させました。
そして、律令制によって天皇制国家を法制化し、公地公民制と
身分制度を確立したのです。東北地方の「蝦夷」と南九州の「熊襲」
(ヤマトに降伏後、「隼人」と呼ばれる)は反乱を起こしましたが、
圧倒的な力の差によって押さえつけられました。このようにして、
律令制にもとづく天皇制とは民族差別の制度化のなかで構築された
ものなのです。
私が大きな問題だと思うのは、研究がどんどん進んでいるにもかかわらず、
未だに天皇家を「神」とつながる特別な血筋であると考える人たちが少な
くないことです。また、日本という国や日本民族が多様なルーツをもつ人々
によって成り立っていることも驚くほど知られていません。 考古学的事実が積み上がってきて、正しい歴史を見直そうという機運だろう。
>>244
古代は山辺の道あたりが海岸線というか湖畔だったとか
標高がかなり高い 木材を地元の業者に提供してもらえるなら
杭打ちぐらい市長がやれよ
>>289
平和的に統一国家になった国は存在しない。
事実は事実として解明することが大事。
そして、日本国成立の犠牲になった人々に敬意を払い、鎮魂し、祈ることが大切。
殺されたり滅ぼされて神になることも沢山ある。偽神を祀るのは論外だが。 土蜘蛛・・・筑紫の者→筑紫者→チクシモノ→ツクシモノ→→→・・・ツチグモ(宮廷に伝聞で届いた時には筑紫の者が土蜘蛛に)
新規開店した纒向ヤマトの王、オオタラシヒコが
老舗の日向ヤマトと筑紫ヤマトを滅ぼして、
「うちが元祖ヤマト」と宣言したのだ。
ひどい話だよね。
舊唐書 卷一九九上 東夷伝 倭國 日本
原文
日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
訳
日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。
或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。
或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
神武東征神話は旧約聖書の記述に近い
約束の地カナンへ旅するヘブライ人の記述に符合
両者とも、東方にある神の与えた地を目指す
古代日本人は、曽富里の東「葦原の国」へ着き
古代ヘブライ人はサハラの東「カナン」に着くのです
「カナン」とは、「CNNE-NAA」の合成語と考えられ「葦原」を意味します
日本國は倭國の別種なり。
畿内説はとっくに終わっていた
倭国大乱前、ヤマト政権の始まりより前に倭国は存在している。
ヤマト政権は、国譲り即ち倭国討伐でできた政権。
ヤマト政権の中心のある地は、倭国大乱前の倭国の中心畿内だけどね。
ヤマト政権自体が本来は倭国ではないんだな。
ヤマト政権による国を、後に日本と改めたんだろう。
ヤマト政権の始まりは、ヤマト征伐。その中心は伊勢尾張の勢力。
ヤマトの東、日の本。
倭国大乱前の倭国に比べれば、小国だな。
>>297
当時の舟だと難所の多い瀬戸内海よりは日本海側の方が楽だったという話はあるな >>289
蝦夷は平安時代まで頑強に抵抗していたよ
別の国だった ヤマトは 国のまほろば
たたなづく青垣 山こもれる
ヤマトし うるわし
という歌があるが、どうも字足らずなんだよな。
てなわけで、東京の山手(やまのて)みたいな感じで、
「ヤマノト」「ヤマント」が正しい発音な気がする。
投馬国は九州北部の不弥国から南に船で20日。
九州南部の国。
日本列島には100ヶ国あると書いてある。
卑弥呼を共立した国は30ヶ国。
周囲敵だらけ。
瀬戸内海や日本海側、琵琶湖周辺や河内などを平定していた根拠はない。
大隅半島から紀伊半島に黒潮に乗りワープしたんだろう。
黒潮の流速を考えたら、
大隅半島から紀伊半島まで約10日でぴったり。
>>268
この場合も「自女王國以北」とは伊都国や奴国の北の意味で
「其餘旁國遠絶」とは不弥国さら先の国邑のこと
「其餘旁國遠絶」も女王国の構成する国々
ですから伊都国や奴国の南に国邑がまだ在るってこと。 >>308
超古い九州説ですね
投馬国は帯方郡から南に船で20日と判明してますよ。 平原遺跡など北部九州の遺跡 : 後漢(25-250年)などの邪馬台国以前の時代の遺物が出土
畿内を中心に全国に散らばる前期前方後円墳 : 魏(220-265年)のわずか40年の期間の年号が記載された三角縁神獣鏡
が複数存在。しかも、その年号は卑弥呼が魏に使いを送った年がピンポイントに記載。
魏志倭人伝には卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとある。
3世紀以前の畿内は銅鐸を埋葬する文化→3世紀から銅鏡、銅剣、勾玉など三種の神器を副葬
する文化に変化
すなわち、3世紀の畿内ではパラダイムシフトが起きている。前方後円墳と三種の神器という墓制に。
ヤマトの地名。
記紀でも、いくつも名付けのエピソードがあり、奈良という地名までつけられている。
ヤマトの漢字表記も、倭→大倭→大和など変遷。
ヤマトの地名自体に都合の悪い事実が含まれていて、時の支配層はそのことを隠したかったんだろうね。
都合の悪い事実、倭国大乱前の倭国の存在、国譲り前の倭人の国、倭国の存在しかないだろう。
大阪湾から見て、河内湖の内側にある地→カワチ、河内。
大阪湾から見て、山の外(向こう側)にある地→ヤマト、山外。
ヤマト本来の意味は、名付けの主体が何処にいたかが分かる。
大阪湾、淡路島、イザナギの宮があり、国生みが始まる地。
>>313
> 大阪湾から見て、山の外(向こう側)にある地→ヤマト、山外。
うーん、それはどうじゃろ。
>>307の歌は、ヤマトの中から周囲の山々を見上げて詠んでるよね。 三種の神器を副葬する文化は元々北九州が発祥。魏の時代に畿内へ急速に入れ替わった。
この3〜4世紀の間に大国主の国譲り、神武東征、天岩戸伝説などが重層的複合的に組み合わさってると
見てよいでしょう。
そして4、5世紀に今の天皇家が王権の座を手に入れる。それまでは、王権の座は色々変動
していたことでしょう。
その大阪湾を望む難波津で行われていた天皇即位の儀式の一つである、八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀であったと言われている。
倭国の王権を正式に引き継ぎましたと明らかにする儀式。
正に国譲りの儀式そのものだな。
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀。
八十島祭を詠んだ歌が面白い。
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
仁徳天皇の難波津の歌も興味深い。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の倭人の話であるのを当たり前のように理解していたんだね。
>>316
>倭国大乱で共立の王を建てるなら
>新しい場所だろ
何でそうなる? >>321
箸墓古墳なんだよ。
でも宮内庁管理下なので発掘不可。 >>317
古事記神話が3〜4世紀
もう中国とか爛熟していた文明の時代に「国生み」とかか
感慨深いものがあるな >>319
競技かるたの最初に詠まれる
なにわづに 咲くやこの花 冬ごもり いまは春べと 咲くやこの花
も、仁徳さんの頃の歌だね。
筑紫から攻め上った始祖王 応神帝に始まる河内王朝時代の歌だ。 >>324
大国主の統一の話は銅鐸文化圏のことでしょう。邪馬台国は銅鐸文化圏と北九州三種の神器圏が
重なって生まれた。 >>326
畿内で九州の勢力が主導権を握ったのは、応神からだな。
応神も2世紀末ヤマト征伐から続く、ヤマト政権と同じ流れだ。
それ以前に血の交流も進んでいるし、同じ政権内の争いだな。
畿内にも、応神派と忍熊王子派がいたしね。
国譲りとは大分年代が違うな。 北九州三種の神器圏は後漢とのつながりで日本国内の権威を手に入れていたが、邪馬台国は魏との
つながりで国内の権威を手に入れていた。
後漢文化圏=北九州、魏文化圏=邪馬台国ともいえる。
八十島祭と関連の深い生國魂神社。
石山本願寺ができる前は、大阪城の地にあり境内に古墳もあったらしい。
かつてはすぐ北に淀川の本流があり、大阪一の要衝の地。
その生國魂神社の謂れ、神武東征の折、生島神と足島神を鎮魂!したのが始まりらしい。殺されたのかな。
クナの王に仕えていた官だったのか。
国譲り、倭国討伐にまつわる話かな。
>>330
魏志倭人伝当時既に、九州北部は邪馬台国に都を置く初期ヤマト政権の支配下。 >>332
纏向ヤマトは崇神さんあたりが始めた新興国家。
ぶっちゃけ筑紫ヤマト日向ヤマトのバチもん。
だから孫の景行さんが証拠隠滅のために元祖を滅ぼしたのだ。うんうん。 >>269
記紀の神代は高天原神話、出雲神話、日向神話からなる
天皇家に直接つながる日向神話に南方海洋民族の説話が取り入れられていることから下記の説が成り立つ
そして高天原神話は大和朝廷の成立した畿内とは別の場所で語られていた神話だと想像する
つまり九州北部だね
ということでコピペ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) 九州北部は九州南部の投馬国と吉備に征伐されたんだよ。
神武さんは九州北部の伊都国を征伐し支配下に置くことで、伊都国やニニギの血統や神話を奪ったんだな。
伊勢や、新しい出雲の勢力が倭国大乱前の倭国の事績を奪ったのと同じ。
時代を経て、九州南部が征伐対象にされるのは皮肉な話。
公園にするほどの価値は無く
埋め戻されてこのままでは宅地工場用地の運命
まあ跡地の碑ぐらい建ててもばちはあたらない
騒いだ割にはたいしたことない発掘地だった
ファンドを寄付が何かと勘違いする人が増えてるな
こんなの事業じゃない
日本の倉独活ファンドは歪んでる
>>336
そうですね、記録さえ残しておけばいい程度の遺跡。 >>321
そうとも限らないな
都から遠く離れた場所に埋葬される場合もある。 文献史学じゃ九州、考古学じゃ畿内みたいな色分けされてるけど、後者は考古学でも相当に怪しいと思うけどねw
でも畿内で決定だとか、九州説は妄想だとか大口叩かないのであれば古代史盛り上げる意味で頑張ったらいいわw
都から遠く離れた場所に埋葬される場合もある。て詭弁もいいとこ
遠征している訳でもなく他国に墓を造営することもない
卑弥呼は死ぬまで女王だったから墓がある場所が邪馬台国なの!
詭弁屁理屈、可能性とか説得力なさすぎでしょ
>>333
弥生中期から後期には既に奈良盆地南部にかけて大規模な弥生集落が点在してる時点で
新興なんて有り得ないね。
葛城地方は鏡の出土も早い時期なんだしな。
高天原とは普通に葛城から高野山にかけての話。 >>242
ダックか?^^
何遍も聞いてるうちそんな気がしてきたわ
じゃが邪馬壹たるイヨちゃんのみやこは別のところや(そこはあくまでも伊都 旅程記事の密度の違いから、郡使が北部九州で留まって、邪馬台国や投馬国に行ってないのは誰の目にも明らか
なのに郡使は女王に会い、墓を見たと書いてある
これらが嘘ではないとすれば、奴国を中心とするであろう女王国と、女王国とは関係のない邪馬台国
の記事が混同された結果であることは高校生にでも理解できる
>>316
理系のひとがams結果の統計に二つのピークあるゆーてんのに文系のひとが謎のまとめ文かいたやつやな?^^ >>341
ほんまや(さんせー(いずもキビあわもありそーやよ >>343
邪馬台国はヤマト国だが、葛城が高天原みたいなヤマト至上主義はダメだな。
伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
伊勢遺跡は、高天原のモチーフの有力候補だろう。 >>343
だが纒向遺跡が>>19にあるように4世紀のものであるならクニの形成は遅れたと見るべきでは
記紀が神武天皇から何代かはムラの長レベルのことしか書いていないのとも一致するし 中国の史料による豊臣秀吉と織田信長関連の記録
これ読んで魏志倭人伝の信ぴょう性を考察されたし
日本は古来より王がおり、臣下では関白という者が最も尊いとされ
山城州の頭目、信長がこれになっていた。
ある日信長が猟に出ると木の下で眠る者がおり、跳ね起きて衝突しそうになった。
何者かと問い詰めると、名を平秀吉と言い
薩摩州の奴隷で、雄健ですばしっこく口が上手かった。
信長はこれを悦び、馬の管理をさせ、「木下人」と名づけた。
後に重用され、信長のために策を尽くし、二十余州を切り取り、摂津州鎮守大将となった。
参謀に阿奇支なる者がおり、罪を得て、信長は秀吉にこれを討たせた。
にわかに信長は部下明智に殺される所となり
秀吉は阿奇支をまさに滅した時に変を聞き
部将行長らと共に勝ちに乗じて兵を還し、明智を誅したので威名は益々振るった。
信長の三子を廃し、関白を僭称し、信長の衆をことごとく収めたのが万暦十四年である。
>>351
だいたい合ってるw
>>343とか
わはは。
実は最近、安彦良和の「ヤマトタケル」を読んだのだ。 安彦のヤマトタケルなんてトンデモ本だぞw
資料にしてる文献は30年以上昔のものだし。
最新の考古学ニュース位は念頭に話をしろよ。
弥生中期の時点で葛城地方一帯が、水田だった
事もわかってきたんだしな。
>>353
正解率は6~7割くらいやね
細部はデタラメだが大まかな流れは大体あってる
しかし秀吉が光秀の前に戦ってた阿奇支って何だろう
史実なら毛利だが毛利は滅びてないし、
罪を犯したって書き方と音の響きから荒木村重の事かなとも思われるが >>348
私の見解では伊勢遺跡が卑弥呼擁立が決められたという説。
その後対瀬戸内対策で巻向に宮を移転したという流れだね。
背後には丹山もあるからな。 氏族社会の強盗略奪殺しあいをよくも神々の歴史にしたもんだ
女性が王になったら治めれたなんてのは小国だから可能なんだよ
邪馬台国は九州の小国、近畿の大和朝廷は大きいから当時の感覚では女性の王では他の豪族が従わないだろう
七万戸は小国ではないんだけどね。
推測願望だけで論を組んでも矛盾を解決出来ないから。
○ 代々男王 → 争い → 「共立」卑弥呼 →
卑弥呼の死 → 男王 → 争い → 「復立」卑彌呼宗女
「共立」 を繰り返した(復立)。
だから崇神 モモソ姫 共立 垂仁 豊鍬入姫命 復立
○ 斎王 ←「王」 伊勢神宮 斎王 「共立」卑弥呼 「復立」卑彌呼宗女
女性 宗女 巫女 独身 現今上陛下の姉
初代 夜麻登登母母曽毘売 (やまととももそひめ)ヒミコ 崇神
2代目 豊鋤入姫 (とよすきいりひめ)トヨ 崇神・垂仁
3代目 倭姫 (やまとひめ) 垂仁・景行
五百野 (いおの) 景行
伊和志真 (いわしま) 仲哀
稚足姫 (わかたらしひめ)雄略
荳角 (ささげ) 継体
磐隈 (いわくま)欽明
莵道 (うじ) 敏達
邪馬台(ヤマト)国の時代から1800年以上万世一系。
天皇斎王の共立復立を繰り返してきた歴史。
女系天皇ではなく卑弥呼モモソ姫と同じ斎王になりなさい
当時中国と交流があった国が奈良県にあるはずないのに
こんなもん信じる奴がいるんだなw
魏志倭人伝では「邪馬壹國」と記されてるのを「邪馬臺國(邪馬台国すなわちヤマト)」説を採用
もう初っ端の出だしからしておかしい
邪馬臺國 これなら偶然に日本にヤマトの音の地があったので此処じゃろとなった
ではないかと?
>>363
隋書編纂者はおかしいと言いたいのかな? 「孁」という難しい漢字について、岩波文庫本の校注に、「『孁』は、巫女(みこ)の意で用いた文字であろう。靈(れい)の巫を
女に改め、孁とすることによって女巫であることを、書紀の筆者が意味的に示そうとしたものと思われる」とある。 そうであれば、
@「孁」という語は『書紀』の造語で、A「(日)孁」の意味するところは「(ヒ)ミコ」である、ということになる。 さて、大日
孁貴をどう読むか。実は、それは『書紀』自身がその割注で「於保比屢灯\武智(おほひるめのむち)」と訓じている。その場合、
「日」は、「比」あるいは夜の反対語としての「比屢(ひる)」のどちらにも読みうるが、「孁」は「屢(るめ)」とも「(め)」
とも読めないので、『書紀』がなぜ「日孁」と書いて「比屢刀vと訓じたのかという謎が浮上する。 すなわち「日孁」の中に
「(め)」と読める部分がどこにもなく、「孁」という文字を上下に分離して始めてその脚「女」が「(め)」と読めるのである。
これは、「孁」という字を冠と脚に分解せよという『書紀』からの暗号と思われる。それを証するかのように、『書紀』は念に
は念を入れて、「孁」の音(読み)は「力」と「丁」の反(かえし)、すなわち「Lei」(=れい)であるとわざわざ注している。
(注 反とは反切(はんせつ)の法則(難しい漢字の音を他の簡単な漢字二字を借りて示す標音法)で、具体的に「孁」に適用すると、それは「力=Liki」の頭子音(L)と「丁=
Tei」の頭子音以外の部分(ei)を合体した、「Lei」、すなわち「れい」となる) これは、この造語「孁」の元字が「靈」(霊はこの字の新字体)であることを意味する。
先の校注はそれを気付いた上での校注か否かは知るよしもないが、「靈の巫を女に改め、孁とす
ることによって女巫であることを示した」とする見解はまさに正鵠を射たものと言ってよかろう。
すると『書紀』は、大日孁貴四文字を表向きは「於保比屢灯\武智」と訓じてはいるが、「孁
の読みに注(力丁の反)を入れることによって、この四文字がヒミコであること、そしてその別名をア
マテラスとすることによって、ここに、ヒミコをアマテラスに仮託したことを見事に宣言しているのである。
魏志倭人伝の「邪馬壹國」は臺を壹と写し間違えたという説
後の記録が逆に写し間違えた可能性も無きにしも非ず
纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。
纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。
魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。
一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。
《宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる
これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ》
>>362
その奈良から三国時代の年号が書かれた銅鏡が多数出土してるから
奈良大和地方と中国の外交関係が邪馬台国時代既にあったとする説があるわけ 巫女など女性の祭祀者は、
祭祀で民を纏め、教化し、忠実な兵とするのが、本来の役割なんじゃないかな。
卑弥呼もぴたりと当てはまる。
魏志倭人伝に、【鬼道にて衆を惑わす】とあるしね。
纒向の集落としての特徴とも合致する。
纒向は鋤の出土が多く、水路などインフラの整備、墳墓作りなどの土木作業が行われていたと考えられる。
兵となる民の労働として、行われていたんだろうね。
>>371
そんなん飛鳥時代の国変遷で運び込まれたに決まってんじゃん 卑弥呼=日巫女・火巫女 称号というか職名だよな?
卑弥呼の名前がわかればなあ 簡単に解決すると思うんだが
そもそも、卑弥呼は倭の女王と書かれているのに邪馬台国の女王だと勘違いしているのが多いな。
倭の諸国にはそれぞれ「官」がいると記述されている。
各国の「官」の呼称から後の古墳時代の「キミ」に相当する首長であることがわかる。
そして、邪馬台国にも「官」が存在している。女王はあくまでも「女王之所都」とだけある。
魏志倭人伝には、卑弥呼と、その取巻きの人々の顔と体とに入れ墨がされていたと書いてあります。
入れ墨は、中華から見ると蛮族が行うことです。
つまり、卑弥呼と、その関係者は、弥生系ではなく縄文系なのです。
弥生系が土着化して、入れ墨を入れていた可能性もあります。
身体への入れ墨は、海洋民族がサメよけに入れる行為です。
顔への入れ墨は、林や山中などで、獣と遭遇した際の為に入れているものです。
卑弥呼のように、顔と身体に入れているのは、いわゆる蛮族のメインストリームではありません。
>>373
四世紀の古墳から出ているので、それはありえない
飛鳥時代は6末〜8世紀初のこと >>376
魏志倭人伝だからな。
主に倭人の風習について書かれている。 >>376
古墳時代の埴輪や土面には刺青が描写されている。
畿内型鯨面埴輪
&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg
これは奈良県の唐古・鍵遺跡から出土した土面。
>>1
スマホのカメラ向けたら見えるようにしたらいい 私にも畿内説が正しいと思う
九州説は妄想やロマンの範疇を出ない。
肝心の遺跡や古墳が無い
場所も具体的に明示できない以上なんの説得力もない
大事なのは物証
まず卑弥呼の古墳と思われる墓が無い以上話にならない
朝鮮人の出入り口だったわけか。瓜奈良漬け発祥の地。
384名無しさん@1周年2017/12/10(日) 15:35:49.70ID:SZmbq4WTO
傀儡でしかない卑弥呼は古墳なんて作ってないからな
↑↑
卑弥呼が、いわゆる中華系ならば、顔と身体の両方に入れ墨を入れておりません。
明確に"土着系"なのです。
入れ墨は、今では痛くないように墨入れしておりますが、
当時の入れ墨、墨を入れるのは、とても痛いことですよ。つまり、冗談で入れ墨は出来ません。
明確な風習があり、卑弥呼や周りの人々は入れ墨を行っていたのです。
つまり、卑弥呼や、取巻きの連中は、"ドシン"なのです。
「卑弥呼以って死す。大いに冢を作ること径百余歩、葬に殉ずる者奴婢百余人なり」
こんな基礎的な文献にも眼を通さずに乱入してきてんの?
博多弁=ハングル語がルーツ
関西弁=中国語がルーツ
つか、魏志倭人伝によると「男子は」刺青をしてるって話じゃなかったけか?
南水行10日、入れ墨。
沖縄、徳之島には、入れ墨文化ある。
この辺じゃないの?自生馬もいる。
刺青してるから南方系ってむちゃくちゃな論理なんだよなあ
ずっと後代でも海人部や宍人部なんかが刺青してるわけで
>>380
こういうのも後で学者が作って埋め直した可能性があるんだよな >>271
倭国に火を噴く山ありがなぜ、九州説の根拠になるの?
邪馬台国に火を噴く山ありなら畿内説はありえないけど 入れ墨は、もともと中国の倭人(呉や越の人)の風習
朝鮮半島を経由して日本に移住してきた
よって渡来人系
倭人の勢力や文化が及んでいる範囲は全て倭国
そこに秦氏はまた違う文化を持ち込んだ
明史見りゃわかるけど、中国の史料を間に受けたら馬鹿みるぞ
相当いい加減な代物だから、大枠しかあてにならん
刺青の話だって話半分よ。秀吉が薩摩出身って話と同じレベルでない保証は無いからな
>>371
その銅鏡は国産だったのでその妄想は終了しました
畿内説ってのはとっくの昔に論破された妄想にいつまでもすがりついてるだけの話なんだよね
>>19ではっきりしたように箸墓もホケノ山も4世紀で卑弥呼とは無関係
もう畿内には邪馬台国らしき遺跡すら残されていないのが現在の研究ですよ >>404
九州説派が国産だ国産だと言い張ってるだけで
整合性の取れる根拠が提示されたことはいまだかつて一度もないんだが >>405
三角縁神獣鏡は中国では出土しません
国産鏡以外にはありえません 今のチャイニーズを見れば分かる。
到底、歴史を正確に記述出来るとは思えない。
自己に都合のいい歴史観を、テキトーにはめ込んだだけの事だ。
相手にしてはいけない。
>>405
もうとっくに国産だと判明した鏡に未だに縋ってるのかよwww
>>404の指摘通り過ぎて笑えるwwww 距離も合わない
方角も合わない
風俗も合わない
魏志の記述に合う遺構もない
それらしい副葬品も出土しない
まあこれで畿内だと思ってるやつは普通に知障だろ
鏡が国産だろうと中国産だろうと
今も神社の本殿にあることを考えると
重要な品物だったことに変わりない
しかも、国産とすれば銅鐸の線描画と
比べるとものすごい進歩だ
>>406
中近世の永楽通宝が日本では大量に出土するのに中国からは見つからないケースもある
で、日本で偽造されたものがメインとか輸出用に中国で特注されたとか色々言われた
最近中国でも見つかって、日本での偽造品のみって説は否定されたがな
銅鏡なんかより鋳造量が桁違いに多い(億枚単位)銅銭でこんな状況なんだから
中国側で出土例が少ないってのは根拠として弱いな 曜変天目茶碗も中国産なのは確かなのに
日本でしか見つかっていないんだよね
なぜなんだろう
>參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里(魏志倭人伝)
一周が5千里余りの島だってんだから、九州島内以外にはあり得んだろ
畿内説とか頭おかしいとしか
しかも「參問倭地」とあるのでこれは邪馬台国のみの記述ではなく、倭地(倭国)全体の話である
つまり当時の中国の認識する倭国は九州島のみ
本州なんて倭国とさえ思われてなかった
>>406
中国では出土しています。しかし、魏はわずか40年程度の王朝で遺物などは滅多に出てきません。
三角縁神獣鏡:中国訪問メモ(2015年11月23〜27日)
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/kagami.html
午前、王趁意氏の自宅アパート(公務員宿舎)を訪問。奥様と友人(鏡研究の仲間)合計3人が出迎え。
王氏自宅で昼食し、終日を三角縁神獣鏡とその他古鏡の撮影や意見交換などで費やす。
洛陽出土とされる三角縁神獣鏡を実見し写真を撮る。西川先生が実測、直径約18.3cm。重量を測る(約680g)。
また、形状も調べた。間違いなく三角縁神獣鏡である(【吾作】で始まる三角縁四神四獣鏡)。
この鏡は王趁意氏の個人所有で現在も自宅に保管している。
画像
未だに三角縁神獣鏡が頼みの綱とか近畿パー笑かすなw
https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/
>2.1. 中国からは全く出土していない
>三角縁神獣鏡は、日本国内では600枚以上見つかっているが、中国では全く出土しない。また、三角縁神獣鏡の径は22cmもあり、
>後漢・三国時代の鏡よりもはるかに大きい。だから、王仲殊(おうちゅうしゅ)や徐苹芳(じょへいほう)といった中国の考古学者たちは、
>三角縁神獣鏡は魏が作った鏡ではないと主張している。
>2.2. 枚数が合わない
>現在、三角縁神獣鏡の数は600枚以上にのぼっているが、これは、銅鏡百枚を贈ったとする『魏志倭人伝』の記述と矛盾する。
>2.3. 記年が間違っている鏡がある
>ところが記年銘鏡にも怪しげなものがある。「景初四年」という実在しない記年が入った鏡が、京都府福知山市の古墳から出土している。
>景初は三年で終わりで、翌年は正始元年でなければならない。
>これに対して、畿内説支持者は、三角縁神獣鏡は、魏で作られたものではなく、魏の皇帝が職人を遣わして、倭人の好みに合わせて
>倭で独自の鏡を作らせたとする特鋳品説を唱え、倭に来ていた職人は、元号が変わったことに気が付かずに、「景初四年」という
>記年を入れてしまったのだろうと推測する。
>なるほど、この特鋳品説ならば、三角縁神獣鏡が、中国では全く出土しない理由をも説明することができる。
>魏の皇帝が職人を遣わすというのは、ありそうにない話だが、百歩譲って三角縁神獣鏡が特鋳品であると認めても、
>さらに次のような問題がある。
>
>2.4. 三角縁神獣鏡は呉の様式で作られている
>中国の考古学者・王仲殊氏は、鏡の様式から「三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したもの」と判断している。
>そもそも作った年月を鏡に記す習慣も、魏ではなく呉のものである。
>
>問題は、三国時代の呉が魏の敵国であったことである。魏の皇帝が呉様式の鏡を倭に下賜することは、現代の譬えで言えば、
>中国の北京政府が、李登輝台湾総統の肖像が刻まれた日中友好記念硬貨を日本に贈るようなもので、
>おおよそありえない国辱的行為である。 中国で作られたものなのに日本でしか見つからないなんてーのは珍しくも何ともないわけよね
大陸と日本での価値に差があれば日本にほとんど全部輸出されてしまうし
仮に大陸に残ってても価値を認められなければ溶かして再利用されたり棄てられたりする
結果、日本にしか残らないなんてのは珍しくもなんともない
東日本から奈良への流民が多かったのが わかったんだよ
東から、持ち込んで生活に使用した土器が大量に見つかってるそうだね
ヤマトは 地方豪族の結集
マジぇマジぇタイプ
未だに三角縁神獣鏡が頼みの綱とか近畿パー笑かすなw
https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/
>2.5. 銘文に疑わしい点がある
>魏王朝特鋳説は鏡の銘文からも否定される。詩や銘は韻文であり、韻を踏むのが原則であるが、三角縁神獣鏡には、
>魏ではすでに韻を踏まなくなった字を韻字として用いたり、韻文をつくるつもりすらない拙劣な銘文が見られる。
>森博達は次のように言っている。
>
>そもそも魏の時代は、曹操父子を中心として詩壇が形成され、「建安詩」「正始詩」の時代として文学史上高く評価されている。
>詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、まさにこのような
>詩文隆盛の時代である。
>
>そのとき明帝(曹操の孫)は卑弥呼に銅鏡百枚などを賜わり、次のように詔した。
>「これらすべてを汝の国内の者たちに示し、わが国家が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ。 それゆえに鄭重に
>汝に良き物を賜与するのである」
>
>この荘重な詔書とともに、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が下賜されたと、魏鏡論者は主張する。
>魏の詩人がこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑うだろう。
>「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。
>親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはずがない。
>三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。
>
>これに対する考古学からの説得力ある反論はまだ出ていないそうである。
>2.6. 三角縁神獣鏡は四世紀の古墳から出土する
>卑弥呼は三世紀中頃に死亡したにもかかわらず、鏡はすべて四世紀の古墳から発掘される。
>畿内説支持者は、虚偽の年代が鏡に入れられるはずがないというが、銘文の字体から、虚偽が明らかな鏡もある。
>安萬宮山古墳から出土した「青龍三年」(235年)鏡の「龍」の字の旁(つくり)は「大」となっている。
>この字体は四〜五世紀の中国北朝時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。
>つまりこの鏡は四〜五世紀の作品であるということである。 >>100
え〜! マジで!?
じゃあ、中国内陸部と、翡翠で貿易してた。とかゆう例の仮説は ウソなのか?
北九州産の石で交流してたのか?
??? >>404
箸墓は3世紀だよ
土器についた土が分析されている >>404
纏向は何人もの技師が掘っていて、そのうちの「自説に都合のよい」たった一人の
調査技師の意見のみを取り上げて、勝手に権威づけて終了はさすがにいかがなも
のかとは思うが、いずれにしても三〜四世紀は畿内や吉備が優勢であって、卑弥
呼が奴国にいたとすれば、征服される直前の風前の灯火だったに違いない ホケノ山古墳(奈良県桜井市箸中の大和古墳群)を発掘調査していた奈良県橿原考古学研究所 大和古墳群調査委員会(樋口隆康委員長 岡林孝作発掘主任)は、
古墳の築造年代を3世紀中葉の最古の前方後円墳であると発表した。
>>197
>さらに 白村江の戦争中なのに 遣唐使おくってるとか
ダウト。
唐による百済侵攻が660年。その前年に倭は唐に使節を送っている。また、同時期に阿部比羅夫による蝦夷遠征が
行われている。
その後唐が高句麗征討に向かうと百済の残存勢力から救援要請があり、662年に阿部比羅夫を征新羅将軍として派遣。
翌年663年10月に白村江の戦いがあり倭は唐に敗れる。
665年に唐使の劉徳高が戦後処理の使節として来倭し、それを送り返す遣唐使が派遣された。 ホケノ山古墳(奈良県桜井市箸中)発掘調査により明らかになった主な事項(新聞報道の抜粋)
古墳の構造は石で囲った木槨(一部ヒノキ材)の中に長大なくりぬき式木棺(コウヤマキ材)を据えた前例のない三重構造で、
墳丘墓と前方後円墳の双方の要素をもつ構造。棺内中央部に水銀朱の塊がある。
二重口縁壺(庄内式土器)20ケ以上が石囲いの内側から等間隔で配置(埴輪か?)
画文帯神獣鏡1面(「吾作明竟」から始まる計56文字の吉祥銘文入りの「同向式」)
内行花文鏡1面の破片2点
画文帯神獣鏡2面の破片数点
銅鏃(やじり)60点
素環頭太刀
鉄剣・鉄鏃・鉄農具など鉄製品130点以上
日本の権威主義は、てんでダメだねえ 役に立たない
外国人からも 古墳を 墓 墓 言うな!と笑われてるぐらいだから、アホなのかも
>>345
それでは「女王之所都」とは本来どういう形で記述されていたのか復元してくれないか? 桜井市には山田寺跡があるじゃない
邪馬台国よりもよっぽどロマンがある
>>420
それはゴッドハンドでしかない
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm
> 箸墓の年代に関する歴博の矛盾点
>
> 項目2の発表のレジュメに次のように記述してある。
> 「定型化した最古の前方後円墳である箸墓古墳の布留0式に付着する炭化物などを測定したところ、1800BP年頃に集中する結果を得た。
> (中略)日本産樹木年輪資料の炭素14年代から構築した較正曲線と照合すると、箸墓古墳の布留0式は3世紀中頃と考えるのが
> 合理的である。」
>
> しかし、掲載図の日本産樹木年輪資料の炭素14年代から構築した較正曲線を拡大して目盛り線を引いてみると、
> 1800C14BP年は較正曲線と4カ所で交わり、3世紀中頃〜4世紀中頃にしか絞れない。
> 歴博が3世紀中頃の1ポイントに絞るのはまったく根拠がない(下図)。
>
>
> 項目3の発表で、歴博準教授の藤尾慎一郎氏は次のように述べる。
> 「日本産樹木の炭素14年代は、BC2世紀以降については未だデータも少なくそのグラフも上下に暴れる不安定な状態である。
>
> つまり、BC2世紀以降については、未だ実用の段階ではなく、現時点では、炭素14AMS法で箸墓の年代を推定することは
> できないことを意味している。
>
> 歴博は、いっぽうでは較正曲線が未完成なので、弥生終末期〜古墳時代開始期も実年代を決められる状況ではないことを
> 認めていながら、片方においては、まさにその較正曲線を根拠にして古墳時代開始期の箸墓古墳の年代発表をするという
> 矛盾した行為を行ったのである。
>
> これらの点について、歴博との質疑応答で質問した。しかし、歴博からいろいろ説明された内容は、質問に正面から答える形のものではなく、
> 納得できる回答ではなかった。
>
> ■ 箸墓古墳の年代についての安本先生のコメント
>
> 歴博の研究者は、240年から350年までの幅を持った値しか推定できないデータなのに、3世紀中頃というピンポイントで
> 決めてしまい、それを新聞発表した。
>
> 歴博の発表は、箸墓古墳が3世紀中ごろの卑弥呼の墓という前提条件をもって行われた。研究自体は科学的方法を用いているが、
> 発表はまったく科学的ではない。自分たちの先入観の確認のためにデータを都合良く利用しているだけだ。
>
> 畿内説の学者は、新聞発表に持ち込めば成功と考えている人が多い。新聞発表では証明したことにならないので、
> 証明は別に行なわねばならない。
>
> 世間一般の人は国立機関の歴博ともあろうものが、いい加減な発表をするはずがないと思う。
> しかし、実体はそうではなく、かなりいかがわしい発表をしている。
>
> 前々回に講演して頂いた韓国慶尚大学招聘教授の新井宏氏も歴博の発表について次のように述べている。
> 今回の問題だけでなく、弥生中期や、弥生前期の板付Ua期の位置づけに関しても、歴博の発表に自己矛盾が数多くあり、
> 歴博の論理性について、強い疑義を抱いている。
>
> ここに言う自己矛盾とは、歴博の発表した前提条件や資料からは、歴博の主張する結論は得られないという
> 極めて単純なことであり、考古学上の議論とは無関係な論理的な問題である。
>
> 土器付着炭化物と、炭化米やくるみの炭素14年代を比較すると、土器付着炭化物のほうが、炭素14の年代が古く出ることも
> 注意が必要。これは、西田茂氏が江別市対雁2遺跡の例として土器付着炭化物では600年も古く出ると問題提起したものであるが、
> まだ、明快な解決に至っていない。
> 旧石器捏造事件の時と同じように、研究費を配分する人と、研究費を使用する人たちが同じグループに入っている。
> 旧石器捏造事件では、研究費を配分する人があらかじめ自分の説を持っていて、自分の説を支持するところへ
> どんどんお金をつぎ込むということをやった。研究者は配分者の説に沿うように成果を出さないと研究費がもらえなくなるので、
> ますます捏造が拡大し、とんでもないことになった経緯がある。
>
> 歴博の研究は、これとほとんど同じ構造になっている。 >>421
関川氏は調査技師などではなく、纏向遺跡に精通した考古学者だが?
>>128を見れば分かる通り、纏向遺跡において関川氏より詳しい人間などいないと言っていい存在
>いずれにしても三〜四世紀は畿内や吉備が優勢であって、卑弥呼が奴国にいたとすれば、征服される直前の風前の灯火だったに違いない
どこから湧いた妄想だそれは
こうやって妄想と嘘で塗り固めただけのゴッドハンド
それが畿内説なんだな >>432
「でしかない」って、じゃあ九州説の確固たる証拠を見せてよ。 >>416
同じ箇所に同じ傷があるから日本で複製された物って事になったんじゃなかったっけ? >>430
本当だ
割れててもきれいだね
でも中国産だからもっとあってもおかしくないのに
中国は不思議な国だ >>422
こうやってゴッドハンドするのが畿内説
でも実際は>>19にあるようにホケノ山からも布留1式の土器が出ていて
4世紀の古墳というのが事実 >>433
河内和泉が女王国である根拠はない。
神武東征の話でも、河内は敵対勢力がいた場所。
大阪湾方面からヤマト入りできた根拠は? >>440
ナガスネヒコ萌えの俺としては、生駒山地の東麓の富雄は聖地。
いつか巡礼したいものですじゃ。 九州説は邪馬台国の候補地すらあげられない。
魏の使者のルート。
往路
博多→周防灘→大隅半島→黒潮→紀伊半島→ヤマト
復路は記述がないので、不明。恐らく、
ヤマト→紀ノ川沿い→紀伊→淡路島→阿波→土佐→周防灘→博多
太平洋側+周防灘が魏の使者が通った海路。
周旋可とは、瀬戸内海を通れば、一周できるということだろう。
>>443
それなら太平洋沿いの水行てことかな?
瀬戸内海があるのにわざわざ太平洋にでるかな? >>441
距離と方向がぜんぜん違うでしょ
仮にそうだとしてそれは現在のどこですか?
そこから何が出てきましたか? >>440
>大阪湾方面からヤマト入りできた根拠は?
大阪府と奈良県の県境のうち非常に低い山々なので、誰でも気軽に県境を越える事が出来る
//www.google.co.jp/maps/@34.561741,135.252033,45582a,35y,90h,35.9t/data=!3m1!1e3 >>444
横からすまんが、瀬戸内海はいつもどっちかに流れているし、島や岩礁が多くて
潮目も複雑で初心者にはけっこう厳しい海なのだ。
慣れたらその複雑な潮目を使って超便利な海なんだけども。
だけど、さすがに太平洋はない気がする。
日本海の対馬海流の方が使い勝手は良いよね。 河内湖の端から上陸したら精々二日もあれば桜井天理に着く
そこでなくとも大阪湾のどこから上陸しても記録にあるような陸行1月もかかりません
桜井天理説は無いわ
>>446
距離も方向も合ってるでしょ何処が違うと言ってるの?
糸島市付近
糸島市には奈良県の半分以上の数の遺跡がある。 >>444
瀬戸内海を平定していた根拠がないからね。
瀬戸内海は四道将軍の派遣先でもある。
敵対勢力や海賊の攻撃を受けず、安全に航行できなかった可能性が高い。
何より不弥国から南に20日、投馬国から南に10日が瀬戸内海では説明出来ない。
陸を目視できる瀬戸内海で南と東を間違う可能性はゼロだな。
黒潮が流れているのは、大隅半島の南沖。
黒潮の流れに乗ると、陸を目視できないし流されている方角を把握するのは不可能。
黒潮の流れから外れない様に舳先を南に向けていたのかもね。 堺から一級河川の大和川と言う河を船で上って行けば
箸墓古墳、ホケノ山古墳に簡単に水行できる。
紀伊半島上陸説 あるかも それなら陸行1月も納得できる
神武の東征も紀伊半島から上陸 なにか関連があるかも
>>450
伊都国には名無しの王がいる。
一つの国に王は1人は、常識。
女王国の王は、卑弥呼。
しかも伊都国は一大卒の監視下で、女王国に服属している。属国だな。
邪馬台国へは、さらに行程が続くしね。
女王国まで12,000里。不弥国と投馬国の境界辺り。
女王国の北、投馬国より北が一大卒の管轄。 ほら 欧米でも 「私はナポレオンの生まれ変わりだ」 つう精神病があるじゃん
畿内説も同じような精神病じゃないかな?
>>414
その人は中国のゴッドハンド藤村なんだが
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/sanka-china.htm
> 1 今年(2015)の春三月になって、またしても洛陽付近から出土したという由緒不明で怪しげな「三角縁神獣鏡」が話題になっている。
> これを日本で報じたのが朝日新聞(2015年3月2日)で、例の言い方、すなわち、「卑弥呼の鏡」三角縁神獣鏡、
> 「同型を中国で発見」と題する記事が掲載された。研究誌に掲載の論文を書いたのは河南省在住の銅鏡コレクターの王趁意氏で、
> 当該鏡(「伝14鏡」と仮にいう)について
> 「2009年ごろに、当時、洛陽最大の骨董市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けた」と説明しており、
> 正確な出土地点はわからないという。
>
> 2 「王趁意」なる人物には、注意しなければならない前歴がある。彼は、「研究者」と紹介されることもあり、
> 中国銅鏡研究会の理事の一人でもあり、『中国東漢竜虎交媾鏡』(2002年刊。副題が「一个青銅鏡收蔵愛好者的発現」
> 〔一人の青銅鏡收蔵愛好者の発見〕)、『中原蔵鏡聚英』(2011年刊)という著書もあるが、本職を別にもつ
> 古鏡愛好者・マニアといったほうが実態に正確そうである。本格的な学究と受けとめるには、問題があろう。
>
> 3 実は、2006年末ごろに王趁意氏が絡む洛陽付近出土という「三角縁神獣鏡」が問題になったことがある。
> このときの鏡(「伝06鏡」と仮にいう)についての状況報告は、安本美典氏により『季刊邪馬台国』第95号(2007年6月刊)に
> 詳細に記述されており、安本氏も岡村秀典氏(京大教授)も、これが日本出土の三角縁神獣鏡とは異なるものと評価されている。
> このときも、中国では陜西師範大学の張ボウ鎔氏が『中国文物報』(2006年12月22日刊。国家文物局が週2回、出版する雑誌)の
> 「試論洛陽発現的三角縁神獣鏡」という論考(日本語訳が『博古研究』第33号や『季刊邪馬台国』第95号に掲載)で、
> 日本で出土した三角縁神獣鏡の形態に最も近いと判断された。
> この『中国文物報』の同年11月15日刊では、当の王趁意氏による「同向式三角縁神獣鏡」という記事が先行しており
> (このときも朝日新聞が2007年1月24日付けで、同じ塚本和人記者が報じたが、「疑問も」という標題がついてあった)、
> この鏡が王趁意氏所有とされる。
> これも、出土や入手の経緯は明確にされない。その3年後に異なる大きさ(伝06鏡は直径が21.5センチで、
> 今回の伝14鏡は18.3センチ)で、異なる銘文(伝06鏡は「吾作明竟幽三商……」、伝14鏡は「吾作明竟真大好……」)をもつ、
> 今回の鏡を入手し、それが王趁意氏によって、なぜか入手6年後も経ってから論考(『中原文物』2014年6期〔12月号〕に
> 「洛陽三角縁神獣鏡笠松紋神獣鏡初探」という標題)が発表されたということになる。
> 中国では、まだ発見されていないとされる三角縁神獣鏡らしき鏡が、なぜか特定の古鏡愛好者のもとで2枚も見つかり、
> それが発表されては大騒ぎをする。これは、はたして偶然なのか、古鏡愛好者の熱意(5年の歳月をかけて
> 中国の大半を歩き回ったという)のなせる業なのか。
> 伝14鏡も伝06鏡も、ともに実際の発掘調査で見つかった鏡ではなく、入手経緯などはまるで曖昧にされたままである。
> だから、洛陽付近で出土したというのも、王趁意氏の言い分にすぎず、まったくの証拠がないから、
> この言い分を鵜呑みすることには学問的に大きな疑問がある。 >>460
違う
紀伊半島から上陸して奈良に入るまでの途中はずーっと険しい山岳地帯を抜けないとな
優に1月はかかるだろ >>443
女王国は帯方郡から万二千里なので畿内へはどう頑張っても行けない
九州までしか範囲に入らない 魏志倭人伝書いた人連れてこないと場所なんかわからない
存在自体も
>>413
それは「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」に続いている文章にあるものだろ。
しかも東に四千里行ったところから更に東南に「船行一年可至」とある場所だ。
九州は女王国から海を東にはるか遠くに渡った絶海にあるのか?w >>465
昔から紀伊半島から上陸して奈良に入るのに1月もは掛からんよ
記録が多くあるから調べてみて。 次の畿内の古墳調査でも 「これこそ本物の卑弥呼の墓だ」 ッて言い出すんだろうな。
死後、体を分割されて畿内に埋葬された説がでてくるのかな?
>>457
神武東征の記述もそうだけど、
まず河内が敵対勢力だったんじゃないかな。
邪馬台国とその南の狗奴国が何回も戦闘しているとあるしね。
日本書紀に琵琶湖北部、伊吹山に荒ぶる神ありとある。琵琶湖北部北陸は四道将軍の派遣先でもある。
日本海側からヤマト入りするのも危険だったんじゃないかな。
そう考えると、卑弥呼側が必死で魏に朝貢していたのも納得がいく。
倭国王としての魏のお墨付きが必要だったんだろうね。 >>455
「白村江の戦争中なのに 遣唐使おくってる」
これは違うということを時系列で解説しているだろ? >>470
まだ当時街道は整備されていない。道なき道を行くのは、1日5km位じゃないかな。 >>469
別にこの文は行程を説明しているのではないから
九州は女王国から海を東にはるか遠くに渡った絶海
とかにはならないですよ
頭狂ってないですか? >>467
女王国は広大なエリアに広がっているとある。
1番近い境界の国まで12,000里、投馬国までだな。
何処にも邪馬台国まで12,000里とは書いていない。 >>469
アホ?
「參問倭地」と書かれているのが分からんのか
倭地について書かれた文なんだから裸国や黒歯国について書かれた前段とは文章は繋がってないんだよ おおよその日本史ベストナインを決めると
卑弥呼
蘇我馬子
厩戸王子
源義経
足利義満
織田信長
豊臣秀吉
徳川家康
おれ
>>474
ジャングルの道なき道を重い荷物を担いで険しい山越えしたインパール作戦でも1日15q以上は進めたよ。 モンゴル力士の八百長が話題になってますが、野球界にたくさんいる在日韓国人が
これをやってないと思いますか?
しかも彼らはモンゴル力士と違って日本人に成りすましているのでさらに巧妙に
八百長がしやすい状況です。
作られたヒーローがどれだけ野球界には多いことか、想像するだけで思い当たりますね。
まともな日本人の野球選手で実力が本当にある選手はみなメジャーに行くんですよ。
日本人選手のメジャー移籍に批判的なのは、八百長をやってる在日韓国人のインチキ野郎。
彼らがやってきた欺瞞に満ちた記録とその正体がバレるのを恐れているんですね。
なんのことはない、自分たちの薄汚い利権のために日本という裏社会を掌握したいだけという
本音だけがそこにあったわけです。昔からこういう連中の存在が日本社会の病巣だった。
なぜ、野球賭博は禁止されてきたのか。
そこに在日韓国人による八百長インチキが存在しているから、ということだったと。
おおよその世界史ベストナインを決めると
アレクサンダー大王
シーザー
クレオパトラ
キリスト
マホメット
チンギスハーン
ナポレオン
ヒトラー(要審査)
おれ
>>477
12,000里は帯方郡の郡治から女王国の中心までです
7000里の狗邪韓国に着いた時点で女王国には入国済 >>475
なあ、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の話の段落に出てくるんだぞ。
行程がどうとかではないんだよ。
お前は九州は「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」だと言っているんだよ。 >>480
軍の強行と比べてどうする。
登山道でも1日8km程度。
野営の準備や食事もしないといけないし、10km以上は難しいのではないかな。 >>476
そうやって都合が悪くなると罵声しかしなくなるのは白馬鹿らと同じだな。 >>485
そんなことは魏志倭人伝に書いてない。
嘘ばかり。 >>481
女王国は韓の地にある投馬国と倭の地にある邪馬台国で構成されており
女王の都は邪馬台国にあった
投馬国の中心国邑は狗邪韓国であり
邪馬台国の中心国邑は奴国であった
卑弥呼は伊都国に都を置いていた。 仮にヤマトが桜井天理として
紀伊半島の何処かを上陸地点とすると直線距離でも120Km〜
瀬戸内沿岸沿いを通らない限りどのコースを通っても山岳地帯
1月かかっても不思議じゃない
>>487
うむ。作戦行動じゃなくて出張だもんな。
魏の使者「うーん、まだ日が高いから、あの峠まで超えようかなあ…」
村人 「今日はここに泊まりなさいってば。こっちの方が酒はおいしいし、宿代ちょっと割引きしてあげるよ」
魏の使者「そうか。じゃあ泊まろうかなあw」
みたいな感じで、急ぐ理由がないw >>478
「参問」は「交えて問う」「照らし合わせて問う」ならば、「倭地と比較してどうなんだ?」となるのではないか。 突っ込まれる前に訂正
×瀬戸内沿岸沿い
〇沿岸沿い
>>490
根拠は?
魏志の何処にもそんなこと書いてないが。
学問に妄想はいらない。
君が倭人になりたい気持ちは痛いほど分かるが。 >>450
糸島の古墳はぜんぜん大きさが違うでしょ こういうのこそAR(拡張現実感)で見せるべきなんじゃないの?
> 自郡至女王國 萬二千餘里(魏志倭人伝)
帯方郡から女王国までが一万二千里余り
これではどう頑張っても畿内には辿り着けない
九州にしか行けない
>>449
おそらく、敦賀あたりで上陸し琵琶湖を南下、東海道を通って、甲賀、伊賀などの忍者の里を
通りマキムク入りでしょう。
当時から渡来人の通り道であり、忍者の里があるのも偶然ではない。近江商人もこのルートにある。
今の天皇家の祖先も滋賀北部〜福井あたりの出身。 北九州論者の反論で三角縁神獣鏡は国産鏡というのがある。しかし、三角縁神獣鏡に
描かれている絵は明らかに中国の神仙思想に基づく絵が描かれており中国の影響は無視
できません。中国の神仙思想がなぜ3世紀の畿内にあるのでしょう?
魏志倭人伝に書いていることが、絶対に正しい訳じゃない。
実際に日本に来た時のことを書いた訳じゃなく
人から聞いた話をまとめただけ。
水行に琵琶湖、可能性としてあると思います
が、水行の後の陸行1月がネックになりますね
>>508
魏志倭人伝には、正始8年(247年)に帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されたと書いてある。 >.504
この手の問題の大部分は、「地図で」里程を確認していることに
起因すると思う。フラクタル理論によると、ある二つの点を結ぶ歩行距離は、
地図の倍率が上がるにしたがって増大する。
現代の自動車道で言えば、実際の道程と直線距離との比は最大でも
π/2か√2程度だが、踏み分け道だと5くらいはザラにあるのだ。
>>509
琵琶湖は水行ではなく陸行でしょう。平地が続いているので歩けたはず。水運を使ったかもしれないけれど。
出雲から敦賀あたりまでが水行10日でしょう。 >>317
その事象が起こったのは2世紀末と考えたほうが辻褄が合う >>507
こらこらゴッドハンドするな
三角縁神獣鏡が出土するのは4世紀の古墳からだ
三角縁神獣鏡は中国では出土しないが、揚子江流域の平縁神獣鏡と三角縁画像鏡を足しあわせた特徴を持つとされる
どちらも魏ではなくその敵国だった呉の形式の鏡だ
呉の滅亡(280年)以降に呉の職人が銅鏡の需要が高い日本に流れてきたという説はある
いずれにせよ魏に朝貢した邪馬台国の鏡ではない >>513
どちらも合わない
畿内が発達するのは4世紀以降だから邪馬台国よりも後の時代になってから >>510
書いてあるだけ。
実際には日本に行ったかは不明。
普通なら日本から献上品等を持ち帰ってくるはずなんだけど
その辺のことが不明。 >>513
記紀にかいてあることは99%作り話だろう >>512
日本海ルートは方角がおかしいのと、わざわざ九州に上陸する必要がない。
更に出雲が女王国だった、或いは友好国だった根拠がない。出雲は独自の墓制を保っているし、まだ国譲りしていない可能性が高い。
琵琶湖北部、伊吹山周辺。日本書紀には荒ぶる神がいるとある。北陸は四道将軍の派遣先でもある。
彦根の稲部遺跡は在来系の土器が中心。
南に3kmの斗西遺跡は、吉備など纒向に似た外来系土器が多数。
この辺りに女王国の境界があった可能性がある。 >>512
それはほぼ鯖街道だよね
若狭から飛鳥まで、琵琶湖や川の水路を駆使して
3日で着いたそうだから、敦賀からでも
陸行20日にはならないんじゃないかな >>514
魏とか呉とかは為政者の話であり、一般民衆はそんなことは関係なしに行き来していたことでしょう。
そもそも、三角縁神獣鏡に呉で作ったと書いてある。 >>516
水行はあれだ。
沿岸舟行や内水面航行に加えて、湿地帯の歩行も加える。
陸行の「陸」の字義は堅固な大地だから、湿地帯は陸ではないのだ。
魏使の御一行様は、筑後川下流域の湿地帯で苦労したんんだなあ。 >>522
魏と呉は敵対国家だったんだぞ
公孫淵が滅ぼされたのも呉と密かに通じたりしていたせい
魏に朝貢して金印をもらうなら呉とは断絶せざるを得ない >>520
九州に上陸するのは、かつて北部九州勢力が後漢と行き来していたルートを踏襲したものでしょう。
まだ、ルートが確立されてなかったので昔からの迷わないルートを選んだのと、食料や物資、休憩のためでしょう。
人力で船をこぐのは大変ですから。 邪馬台国の時代、文字なくてどうやって統治したんだ?
王の命令は、馬を走らせて王家の旗か印ろうでも持った役人が口で伝えたのか。
>>525
休憩が目的なのに道なき道を佐賀から福岡まで歩いたとな?
本当に畿内説って馬鹿しかいないんだな >>526
「粗忽の使者」という落語でもわかるように、識字率が庶民も含めて
90%を超えた近世においてもなお、使者に「口上」を述べさせる
文化があったのだ。 >>527
神功皇后の朝鮮出兵も九州から出てるし、豊臣秀吉も九州に拠点作ってたし九州から
出入りするのがデフォだったんでしょう。 邪馬台が畿内へ遷都したのは後ろ盾の魏が滅亡したからだよ。
そもそも邪馬台が何故近場の呉ではなく魏へ朝貢したのか、魏が邪馬台を倭王に認可したかは共通の敵が呉勢力だったからだよ。
亡命した魏の王族武人達は紀伊半島の山中に隠れるように里を開き、濃尾の出雲伊勢勢力と婚姻し新王朝を建てたのが始まりだろ。
当時神無月に納税を迫られる遠方の伊勢出雲は大国主に反発してたんだよ。
>>526
卑弥呼が骨ト占いをしていたということは
少なくとも甲骨文字の読み書きはできたはず
と聞いた >>503
「参問」で検索するとその禅宗のページが出てくるよなw
つまり、お前は岩波文庫の魏志倭人伝すら読んだことがないということか。
アカデミックなものではなく在野の書き物だけで論じてきたのだね。 >>534
岩波がどう言おうが、漢文において参問が質問の意であることは>>503の引用部で明白
お前のゴッドハンドは失敗に終わったんだよ 纏向は単なる近畿地方の豪族の存在がいたことの証明にはなるが
魏との交易交流があった邪馬台国とは無関係。
魏の役人は伊都国(今の糸島半島)に駐在し筑後地方に存在した邪馬台国及び
磐井のような強力豪族との窓口となっていた。
近畿地方なんか遠い東の一地方豪族でしかない。
>>536
「調べる」が含まれているじゃないか
問うのは当然答えを調べるためだ
倭地について調べるために問うたとお前自身が答えを出してしまったなw >>536
>因みに、曹洞宗の用語では「参問」は「参師問法」のことな。
だから何?
照らし合わせるの意でないのはそちらの用法でも明らかだろう
お前のゴッドハンドは失敗に終わったんだよ >>538
そちらの訳の方が文意に沿うな
ID:I/6qKFtj0 はゴッドハンド失敗どころか自爆したか >>538
なあ、字義の変遷、派生というのを考えたことはないのか?
複数ある字義が全く独立して発生するわけがないだろ。
先行する「交わる」「比べあわせる」を踏まえた上で「調べる」があるでしょ。
これはそういう意味の「調べる」なんだよ。
「しらべる」の訓を持つ漢字は「按」「査」「検」「調」「覈」とあるぞ。 >>541
>先行する「交わる」「比べあわせる」を踏まえた上で「調べる」があるでしょ。
いや、それらが先行するというソースが全く無いんだが
>これはそういう意味の「調べる」なんだよ
お前の妄想はいらないよ
ソースを出せ >>501
関係あるだろ
魏志倭人伝に書かれてるんだから >>539
参師問法は「師と交わり法を問う」だろ。
そして、それを省略したのが禅宗の「参問」だ。
魏志の参問は禅宗用語なのか?
違うだろw
古典漢文を読む時に後世の熟語と似たものがあるとそう読んでしまう人がいる。
注意しないといけない点だ。 >>541
関係ないが、こうして見ると、やまとことばってのはホントに
シンプルな体系だよな。
立つも発つも断つも絶つもぜんぶ「たつ」だし。 >>543
1里=300歩
魏志倭人伝は1里約78メートルの周代の里で書かれているので100歩は小さい
畿内の遺跡は大き過ぎて記述から外れる >>544
お前がどう足掻こうと、参問を比較の意で使ってる実例が無い以上
>>494のゴッドハンドは成り立たない
残念だったな >>546
あそこに奴隷100人が埋められていたとは到底思えないし出てきてもない >>548
お前がどう思おうと、魏志倭人伝が1里=300歩が約78メートルで書かれている以上、
100歩はその1/3、約26メートルにしかなりようがない >>542
白川静の「字統」では
『参は簪(かんざし)飾り三本を中央に集め、左右の高低がそろわず、参差不斉(さんしふせい)となるので、
参差のを生ずる。また、集めるの意より、参稽比較する義となり、〔荀子、解蔽〕に「治乱を参稽す」という。
参詣とは集まり至ること。わが国では社寺に参拝する意に用いる』
とあるな。 卑弥呼の治世の長い間、2世紀末〜3世紀中頃までヤマト盆地の墓制は前方後円墳ではなかった。
卑弥呼が亡くなるのに前後して、前方後円墳に変わるのは不思議だ。
ヤマト政権の墓制がいつから前方後円墳になったか調べる必要があるが。
卑弥呼の墓、壊された、後世に作り変えられた可能性も考えないといけない。
しかし畿内キチガイは往生際が悪いな
九州北部では多量の金銀財宝が出土しているのに、畿内では全く出土しない
もうこの時点で畿内勢が九州北部を支配していたとかは全くありえないのは明白だろう
逆はありえるとしても
>>550
集まり至ると比べ合わせるには全く関連性がないな
無意味なレスを並べても何の根拠にもなってない >>547
だから、「参問」という熟語じゃないんだよw
ここは「参(まじ)えて問う」と書き下す部分だよ。 >>551
畿内最古とされる箸墓古墳は>>19の通り布留1式の4世紀築造
日本最古の古墳は那珂八幡古墳で庄内期の3世紀築造
九州から伝わった文化が畿内で発展したというのはその他の文化と全く同様の流れだな >>555
現地に行った人間を交えて問うでもいいが、結局「倭地と比べて」等というお前のゴッドハンドは成り立たないことに変わりはない
残念だったな 邪馬台国論争ほど、相手を罵倒することだけが目的となる論争も珍しい
>>555
「参究」という熟語があるが、意味は「比べ合わせて研究する」だ。
この「参」は「比べる」ではないと言うのかな?
どの辞書でも「参」の解説では似たことしか書いてないよ。 >>557
倭地に掛かっているのに、どこに人物が入るんだ?w >>561
倭地について問える人物は、そこに行った人間しかあり得ないだろう
倭から送られた生口という可能性も無いではないが 魏志倭人伝ってB級資料だろ、韓国の歴史教科書レヴェル
>>560
都合が悪いことには目をつぶるのか
それじゃいつまでたっても正解にたどり着かないわけだ >>549
だったら奴隷100が出てこないとおかしいだろ
3,4人しか出ていない >>566
お前は漢文を論じているのに漢和辞典も持っていないのか? >>568
集まり至ると比べ合わせるには全く関連性がないことの言い訳になってないぞ
無意味なレスを並べても何の根拠にもなってない >>572
サンキューというのは英語で「ありがとう」の意味だから、
フランス語では「メルシー」ではなかろうか。
いや、すまん。 >>570
おいおい、>>550を読んでいないのか?
最初にかんざし三本を中央に集めということが書かれているだろw
そこから集めるという意よりとなるんだ。
文章を読むのが苦手なのか? >>572
それは「国語辞典」な。
俺は「漢和辞典」と言った。 学生ですが、勉強すればするほど吉野ケ里で決まりですね
>>574
バカだなお前
集めるという意は比べるという意味とは独立した字義だってことだろ
集めるの意なら邪馬台国への使者や生口などの情報を持つものを集めて問うたと読める >>575
お前はソースを出せないから捏造ってことだな
やはり畿内説論者は捏造するしかないようだ >>571
平原の全てが掘り返されたわけじゃないし、魏の使者は埋葬後に来たので誇張もあるだろう
むしろ畿内には殉葬の風習自体が見られずノーチャンス
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/queen-himiko-tomb-hirabaru/
> 2.3 : 殉葬の有無による比較
> 『三国志』魏書東夷伝倭人条には「徇葬する者、奴婢百余人」とある。卑弥呼の墓かどうかを判定するもう一つの条件は、
> 殉死した奴婢百余人を埋葬した形跡があるかどうかである。箸墓古墳の場合、内部は調査が禁止されているので、
> これに関しても不明であるが、周辺にある同時代の、内部が調査された古墳からは、殉葬が行われた証拠が見つかっていない。
> したがって、箸墓古墳の内部に殉葬墓が設けられている可能性は低い。
>
> これに対して、1965年より発掘調査を行った原田が早くから指摘しているように、平原遺跡1号墓の内部と周辺には、
> 殉葬墓と思われる墓がいくつかある。特に平原遺跡2号墓は、その可能性が高い。
>
> 殉葬墓(殉死者の墓)と考えられる土壙が、墓域内および排水溝の内部に見受けられた。墓域内のは、主人公の方形土壙の
> 南側に土城壁を切ってと、二の鳥居の南側で墳墓の前面のほぼ中央とにひとつづつあり、どちらも楕円形で内部に積石が認められた。
> 排水溝内には殉葬墓と陪葬墓の両者が入り組んでいるらしいが、東部と南部では不整形の大土壙が掘られていて、
> 一緒に数人を埋葬したもののようである。[30]
>
> 原田とともに発掘調査に従事した柳田も、「周溝底には四基以上の土壙墓があり、確実に同時埋葬と考えられる土壙墓が
> あることから、殉葬墓の可能性が強い」[31]と言い、1998年に再調査を行った前原市教育委員会も
> 「1号墓と2号墓は接するようにして造られており、さらに周溝の一部を共有していることから造られた年代が近いと考えられ、
> それぞれに 埋葬された人物は深い関係にあったと考えられます」[32]と言っている。
>
> もちろん、本当に平原遺跡に奴婢を百余人も殉葬することができたのかどうかに関しては疑問の余地がある。
> 複数の被葬者を同じ方形周溝墓に埋葬する例は、九州では数多く見られるものの、平原遺跡全体の広さから考えて、
> 百余人も殉葬しようとすると、かなり窮屈になったことだろう。
> ともあれ、殉葬の痕跡があったということで、平原遺跡が卑弥呼の墓である蓋然性は、高くなった。 >>579
そうやって>>550や>>568に書かれていることをわざとブチ切りにして別々だから違うというのは詭弁でしかないぞ。
>情報を持つものを
「参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」のどこにそれが入っているんだ? >>581
今手元にあるのは角川の新字源だよ。
お前は歴史をやる為の必需品のひとつである辞書を持っていないのだな。 >>583
>そうやって>>550や>>568に書かれていることをわざとブチ切りにして別々だから違うというのは詭弁でしかないぞ。
いや全く
お前が貼った>>550で「また、集めるの意より」と書いてあるだろ
また、というのは並列であることを示す語だ
つまり前の行の参差云々とは別個の字義だと明記されている
お前の読解力が低いから気づかないだけだ
>参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」のどこにそれが入っているんだ?
アホかお前
問いというのは問うものと問われるものが必然的に存在するものだろうが
問うのは編者の陳寿でいいとして、じゃあお前は誰に問うたと思ってるんだ?
倭への使いと倭からの生口以外にその問いに答えうる人間がいないだろう >>584
お前のように誤読ばかりじゃ宝の持ち腐れだなw >>7
人口に関しては、そもそも不自然なんで
狭義と広義の人口がごっちゃに
説明されてるんじゃないかと。
たとえば、東村山市から東京に入った際に
人口を聞いたら、地元民がうっかり
東京全体の人口を答えちゃったんで。
その後に聞いた、練馬区よりも
東村山市のが人口が多い表記になっちゃった……的な。
「参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
倭地について情報を集めると、海中の洲島の上に絶して在あり、絶したり連なったりしている、周旋すると可五千餘里である。
魏使が倭人に倭地の地理について質問して集めた情報。
>>588
ニュアンスの確認のために英訳してみたけどAskとしか出てこないな
やはり比較がどうのなんて意味は全く無いようだ 5ちゃんの議論を見るといつも九州説が勝ってるんだよね
学会じゃ畿内説が多いって言うけど、偉い教授とかに忖度した結果なんだろうな
>>591
学会でも畿内説を正確に説明出来る人は誰もいないようだ
単に雰囲気だけで中身の無い議論をしている。 マキモキムクムク
プルルンかんしょく
擬音はある意味、恋の呪文〜
行程序盤、海を渡るときはその旨明記してるんだよね。
関門海峡を渡るときも書きそうなもんだけどな。
狭いから書かなかったのかな?
奈良自体が日本ではないことが分かる。関東以北九州以南に残ったのが比較的に純度の高い日本土人だぞえ。奈良って響きも外来語っぽいし。
>>589
不弥国から先の情報を集めたんだな
最後に奴国が出てくるのは倭地を周旋して奴国に戻って来たんだ
つまり奴国から倭地を周旋して奴国に戻ってくるに五千餘里くらい
途中に海を超えたりする
周旋は有明海岸を一回りすることだな。 >>591
バカ言ってんじゃねえぞ。
九州じゃなく八女だっつの。
だがしかし、九頭竜は八又のオロチでよろしいから、
上古は侮れん。 印象操作はいらないよ。
九州説は邪馬台国の位置も比定できない。
魏志倭人伝にも九州北部は女王国の属国、属領と書かれている。全滅だな。
考古学的にも、可能性ゼロだ。
あり得ないので、誰も九州に邪馬台国があったと考えない。九州の考古学者ですら畿内説。
一部の何でも朝鮮半島と結びつけたがる人が、大声虚しく九州説を叫んでいるだけ。
嘘を広められると、鬱陶しいので暇な畿内説者が相手しているだけだ。
>>599
中身の無い話ばかりして印象操作してるのは畿内説の人でしょ
畿内説の具体的な説明は全くない。 >魏志倭人伝にも九州北部は女王国の属国、属領と書かれている
ですが、畿内が邪馬臺國とも書かれてないです
>>526
魏志倭人伝には倭人は文書で情報を確認しているとの記述があるから邪馬台国では文字が使われていたんだよ。 そもそも仮に九州説だとしても九州内だけのしょぼいもの。
国家といえるものでない。また九州が西日本を支配下に置いた
痕跡もない。畿内だとそれがある。その後の歴史とも繋がる。
九州が西に移動したというのも否定されている。
そもそも九州をそれだけ力説する意味がわからない。
分かるのはなんでも起源だと称するあの国と似てるということ。
あの国と同じだね。
>>610
我々はまず、邪馬台国が偉大なものだという幻想を
捨てる必要があるな。諸般の事情でフカしているけど、
実は邪馬台国はショボいのよ。 >>553
金銀財宝の他、伊都に外国人迎え入れ施設があり、硯が複数出てくるような文化度の高い北部九州が
なんで外国との接点もロクになく引きこもってチマチマやってる畿内に支配されるのか疑問だよ 奴國の位置が金印により福岡県で確定しているので、
ここが女王国のつきる所であるから、
魏志倭人伝の倭は、北部九州一帯で間違いないだろう。
それを二十日だの、水行十日、陸行一月だの、会稽の東だの書いてあるのは、
伊都国以降は、地理を知らない事を露呈したにしか過ぎない。
マキムクは当時の日本最大の集落であったかもしれないが、
魏の使者は、北九州の地理すらおぼつかない事が分かっているので、
魏の使者には知り得ない土地と言い切っていい。
漢委奴国王⇒かんのいどこくおう=伊都国
倭人伝
伊都国には王様がいる。
>>614
金印は委奴国=伊都国。
奴国は関係ない やまとは
鉄が欲しいから対朝鮮(帯方郡の南、狗奴国)に対して挟み撃ちを晋に打診したり
北九州に軍備を集中させたのであって
武器の出土が多い北九州は軍事拠点
鏡や銅鐸が同じのは政治拠点の畿内
出雲は鋳づ物で生産拠点
当然鉄は北九州にまわされるだけ
>>526
邪馬台国で文字は使われてたらしい
(一大卒のところに書いてある)
とかく、記紀では熊襲が野蛮人に描かれてるけど。
文字や技術は西から入ってくる事を考えると
むしろ、当時は熊襲のが
大和より先進的だった可能性がある訳だ。
大和が文明国で、その他の地方が野蛮って見方は
あくまで記紀のトリックに過ぎない。 >>616
金印が発見されたのは志賀島、安曇氏の故地じゃんか。
さておき、筑前国風土記で、怡土県主の祖五十跡手が
「高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十跡手是なり」と
自己紹介する記述がある。つまり伊都・怡土(イト)はアメノヒボコが
住みついた出石(イズシ)の音が転じたものだと。 建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う。
コレを見ても、奴国が倭国の端であったことが分かるし、奴国は倭奴国ではなく倭の奴国である事が分かる。
九州説は観光
観光目的だから九州各地が我田引水して我こそは邪馬台国やってる
各地の綱引きで大雑把な九州という場所から特定できないし、特定できないから進展もない
観光だから特定してなくても進展してなくてもどうでもいい感じで、ただ漠然とした九州を連呼してるだけ
邪馬台国は九州にあるって、邪馬台国は日本にあると変わらないぐらい大雑把な話
文献通りなら邪馬台国の外観は吉野ヶ里遺跡とほぼ一緒
畿内説は捏造
ゴッドハンドだから畿内の遺跡から邪馬台国の産物も大陸からの文物も一切出ないのに我こそは邪馬台国やってる
年代のゴッドハンドしまくりでどの遺跡か特定出来ないし、特定出来ないから進展もない
ゴッドハンドだから特定してなくても進展してなくてもどうでもいい感じで、ただ素人騙してカネ集めしたいだけ
邪馬台国は畿内にあるって、邪馬台国はブラジルにあると変わらないぐらい荒唐無稽な話
>>585
だからさ、「参は簪飾り三本を中央に集め」とあるだろ。それを受けての「また、集めるの意より参稽比較する義となり」だよ。
国語の成績どうだったの?
大学受験できるレベルなら、これくらい問題なく理解できるよ。 まあこれを見ただけで畿内はあり得ないって分かるよな
http://y-ta.net/gishi-wajinden-2/
”女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。
州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。”
▲ そして、こちらの文章。
難しく書かれていますが、要約すると、「女王国(これは邪馬台国の意味だと思われます)より北側の国は
伊都国から派遣された調査員が各国を監視している」という内容のようです。
▲ もし近畿地方に邪馬台国があったとするとこんな感じになります。これだと、どうしても違和感を感じます。
すぐ近くの奴国(なこく)や末盧国(まつろこく、もしくは まつらこく)は伊都国(いとこく)の調査員が監視をしていないということになってしまいます。
▲ もしこのレイアウトだとしたら自然だと思います。 >>612
九州内だったら国家じゃないじゃない
現に畿内にそれ以上の国家的都市があったのに >>624
復元された楼閣なんかは鍵唐古の土器の絵とか参考にしてるのだが。 >>626
そもそも魏志倭人伝の記述に「国家」とか出てこないっつの。 具体的に九州のどこか特定させてから纒向と比較すればいいのに、
漠然とした九州から進展していかないからなあ
吉野ケ里ですら文献とあわないと九州各地で堂々巡り
比較しようがない
>>627
九州に一つだけ卑弥呼を共立した国、女王国に含まれる国があるんだよ。
九州南部の投馬国。神武さんの本貫。
大分から北が一大卒の管轄。 >>633
一大率の管轄は「自女王國以北」
なのでそんな言い訳は通用しない
女王国が畿内だったらこうなってしまう
>>557
黒歯国などの話からの「参問倭地」だから、文法としては「(Aを)Bと参えて問う」になる。
Aは黒歯国などでBは倭地だ。 >>629
吉野ケ里を見た人が焼いた土器だろw
別に唐古・鍵遺跡で焼かれたという証拠があるわけでなし
畿内論者は都合のいいときは「全国から土器が集まってきてた!」って力説するくせに
楼閣の描かれた土器は何故か畿内で焼かれたと勝手に脳内変換してるんだよなw >>636
ああそうか、大陸と交流のあった九州や出雲の土器かも知れんわけね
それじゃ何の根拠にもならんわなぁ 直接つながる発掘物て金印と鏡だけだろ
畿内のほうが可能性高いと思うけどね
>>640
大陸系の出土物が畿内には極端に少ない時点であり得ないな
一方九州は大陸系のお宝イパーイ
>>640
金印の偽物説がなければなあ
以前の2chで本物の立場で反論してたけど、結構信憑性あるんだよね
そもそも倭と委を間違うのは
当時は知らんが現代に委はワと読めないんだよな >>588
現代中国語は古典漢文とは違うぞw
古代においてだって英語とプログラム言語くらいの差があったんだから。
漢文だって元明を境に変容している。
古代黄河集団の言語と現代中国語はラテン語とロシア語くらいに違うんだ。 >>641
九州はこんなに豊かだったのに、畿内からは金銀どころか鉄さえわずかしか出土しないんだよなぁ
これじゃ畿内が九州を支配してたなんて夢のまた夢やで >>627,634
ワロタw
九州以外あり得ない事がよーく分かった
畿内はゴッドハンド藤村の再来、これでいいね? >>592
ここに引用されたソースを見ても畿内のはまず結論ありきで無理矢理それに当てはめようとしてるだけなんだよね
だから九州説の学者に突っ込まれても全く反論出来ない >>641
それ見ると熊本あたりまでは邪馬台国の勢力圏だったっぽいな
狗奴国は親魏倭王の敵だから交易出来てないだろうし >畿内のはまず結論ありきで無理矢理それに当てはめようとしてるだけ
その通り
邪馬臺國を写し間違えだととんでも説で邪馬臺國(邪馬台国)と言い張る
どうしても諸事情で邪馬台国=畿内ヤマトにしたいらしい
諸事情は言わなくてもここの皆さんにはわかるでしょう
九州に入れ墨の民族がいたなら滅ぼされてない限りある時期まで絶対文化が残ってるはずなんだよな
でもそんな文化日本のどこにも感じさせない
お歯黒
今はそんな文化は欠片も残ってない
百数十年前だよ 無くなるのはあっというま
>>648
だよな、だから>>641みたいに
「金銀財宝を九州が独占してて畿内からは全くでてこないのはなぜ?」
という根本的な問いにさえ答えられない
畿内が九州を支配してたならあり得ない現象なのに