http://www.asahi.com/articles/ASKCW4FKPKCWTLZU007.html
長崎県壱岐市の弥生集落遺跡、原(はる)の辻遺跡(国特別史跡)で10年前に出土した青銅製品が
中国・遼東地域の腕輪の一部であることが、同県埋蔵文化財センターの調べでわかった。
同地域の腕輪は国内初の確認例で、弥生時代の日中交流を解き明かす新資料となる。
腕輪は銅釧(くしろ)と呼ばれるもので、中国の史書「魏志倭人伝」に登場する一支(いき)国の首都とされる
原の辻遺跡で2007年に出土した。
破片でもあり用途は不明だったが、同センターの古澤義久さんらが再検討した結果、中国遼寧省鞍山市の
羊草荘漢墓の出土品と形状や大きさがほぼ一致することがわかった。
このほど刊行された「九州考古学」第92号(九州考古学会発行)で報告している。
腕輪の残存部分は長さ4・1センチ、幅1・1〜1・2センチ、厚さ2・5ミリ。鋳造でできており、外側にはくぼんだ線が4本ある。
中国の出土例から弥生時代後期前半(紀元1世紀ごろ)に流入した可能性があるという。中国では後漢代初頭ごろにあたる。
この時期、中国系の遺物は朝鮮半島北部に置かれた楽浪郡という中国の出先機関を通じて日本列島に流入したとされてきたが、
この腕輪は中国でも遼東地域の一部に限られるためここから直接入手した可能性もあり、北方民族の烏桓(うがん)と
関係するかもしれないという。
複雑な古代の国際交流を物語る貴重な手がかりとなりそうだ。
腕輪の一部
★1が立った時間 2017/11/29(水) 06:57:56.33
前スレ
http://2chb.net/r/newsplus/1511906276/ 紀元1世紀と言えばAD.57年の志賀島の金印の時期ですね
>中国系の遺物は朝鮮半島北部に置かれた楽浪郡という
>中国の出先機関を通じて日本列島に流入したとされてきた
こんなこと到底受け入れられないニダ・・・・・・
邪馬台は「やまたい」でなく「やまど」で畿内説が正しいのでは
ただその後の大和政権で卑弥呼などがスルーされてるのが不思議
やっぱ戦乱から逃れてきた有力者が日本の各地で国を興したのかな
壱岐国(一支国)は、魏志倭人伝では一大国に誤字されてる
日本がいかに韓国から多くの文化文明言葉を伝えられて
造ってもらった国だということがよく理解できる記事だよね
▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』
▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』
▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』
▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』
▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』
▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』
▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』
▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』
>>6
畿内説はもうほぼ完全に否定されてる
邪馬台国は九州でしかあり得ない >>6
未だに畿内説で頑張ってんのか
九州は邪馬台国
畿内は大和王朝だろ
いい加減無理筋は諦めろ 卑弥呼の次の女王を台与(トヨ)と呼んでも文句言われないようなので邪馬台国は(ヤマト国)、福岡県南部の山門ですね
>5
エベンキという悪魔門洞窟民はこの頃はいなかったんだよ
半島満州にはな
この頃は漢民族の領土
部分的に遊牧民が混入してた図な
ビール瓶持った日馬富士みたいなのがな
なお、日本人も漢民族
その後大陸は遊牧民がビール瓶持って遺伝子から汚鮮したから、今の中国に文明が消えたってこと
邪馬台国はやっぱり吉野ヶ里遺跡あたりか福岡の北九州あたりかね
>>6
九州説でないと、クマソの火山国とか大陸との移動距離とか、ヤマトタケルの東征とか整合性取れないからな
つこ、当時の大阪は湖だったかもだしさ
名古屋は海で >>7
その積み重ね
ぶっちゃければ、移民国家が完全に混ざりきった世界が日本な
ユダヤだろうが白人だろうが、日本では全て混ざりきったからな 日本語の形成(大野晋説)
1. 縄文時代(期間13000年程)
オーストロネシア語族の一種
母音終りで母音四つ
八の愛好(ex. 八雲,八重垣,八島,etc.)
創世神話の類似
2. 弥生時代(BC1000年頃〜)
タミル文明(南インド)の伝搬(←インダス文明←シュメール文明)
稲作・鉄・機織とともにタミル語を話す人達が九州北部(ヤマト)に渡来
基礎となる文法と助詞・助動詞・名詞・形容詞・副詞が照応
係り結びの法則の一致
五七五七七の歌の形式と韻律も受け入れ
3. 古墳時代(遅くともAD500年頃〜)
シナから漢字を導入して和語の表記
儒教はじめシナ文明の導入
ex. 萬葉集(万葉仮名),日本書紀,古事記,etc.
4. 上古上代(900年頃〜)
漢字から仮名文字を作り漢字仮名交じりの文字体系完成
ex. 源氏物語,枕草子,古今和歌集,etc.
やっぱり、東大のそばで弥生式土器が出たから東大的な歴史観が作られたのだと思うね。
弥生町で出土した土器が弥生式土器で、だから弥生時代。
片や縄目(なわめ)の文様のついた土器だから縄文式土器で、だから縄文時代。
日本の古代の歴史はこの二つしかなくて、しかも縄文が滅びた後に弥生だという
大雑把でいい加減な歴史認識。
おそらく、縄文土器や弥生土器は地域によって作られていた時期がずれている
はずだし、たった二つしか時代が無いのも変だ。それに両者が共存していた時期も
あったはずだ。果たして土器が違うことが人種とかが違うことを意味するのだろうか?
5世紀に書かれた『後漢書』倭伝、7世紀の『梁書』倭伝、7世紀の『隋書』では倭国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
つまり三国志の次の時代の王朝の史書にはみな「大和とは魏志にいう邪馬臺である」と書いてるんだよな
だから中国では邪馬台国=大和朝廷
これらの歴史書が日本ではなぜか無視されてる
いまだに九州説が強いのか?
九州出身者は必死やね(笑)
他に取り柄ないの?
邪馬台は大和、卑弥呼は姫皇子だろうに
九州にも有力な小国家群があったのは否定しないがね
古墳の数や規模では近畿ほどないやんか
距離的に無理とか、そもそも、倭人伝書いた人は自身は旅行せず伝聞で書いてるんやから方角距離が適当なだけ
ずっとあとのマルコポーロだってええ加減なこと書いてるよ?それと同じ
奈良に行くには不弥国から南に行くのでは無くて東に行かなくてはいかんし
伊都国から船で北部九州の沿岸部を北上するのが最適ルートなのでわざわざ
内陸部の奴国や不弥国に立ち寄る必要は無い。邪馬台国は方角を素直に解釈して
伊都国の南方にある吉野ヶ里遺跡と言う事で決定だ。
>>33
編纂の意味も知らんのかお前は
実際に邪馬台国に行った人間の報告書を元に書いてるんだよアホ >>31
そうだよ
そして今の中国、朝鮮の発展は日本が
お手本なんだよね。 >>15
昨年4月に放映された「サイエンスZERO」において
核DNA解析が可能になり、縄文人の歯から取り出した核DNAを解析した結果
日本人のDNAは、中国大陸の人々のDNAとは違うルートからのDNAが
混ざっていることが分かり、結果として
オリジナル縄文人のDNAは、アジアのどこにも見つからないもので
全く新しい場所から発生している可能性がある
今まで想像されてきた日本人の辿ってきたルートは間違いということになった
…と、某所に載ってたが
案外これ まだまだ周知徹底されてないのな 日本は三國志の時代すら定かで無いのに
中国は二里頭が夏王朝かどうかで揉めている
日本の歴史って大した事無いなと思う
>>35
魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条やで?
烏丸鮮卑なんかの東夷のなかの一伝聞にすぎない
当時、海の向こうに倭人てのがいるらしいよ?、と報告読んで書いただけ(笑)
当時の人が烏丸、鮮卑ほどに興味をもってあの時代に正確に書いたとは思えんのだが?
当時の中国は倭人なんかより烏丸鮮卑の方がよほど切実に情報が必要だったろうに >>39
ググった文書名で詳しくなったつもりかねw
内容を読めば卑弥呼の墓の様子までちゃんと書かれてるってのに
>当時、海の向こうに倭人てのがいるらしいよ?、と報告読んで書いただけ(笑)
はい大嘘
邪馬台国が送ってきた使いの返信として鏡や旗を届けた使者が書いた報告書が元だよ
>当時の人が烏丸、鮮卑ほどに興味をもってあの時代に正確に書いたとは思えんのだが?
編纂の意味を調べてからこい
元ネタは一人の人間が書いてるわけじゃねーんだよアホ
帯方郡から派遣された邪馬台国への使者にとって烏桓や鮮卑なんぞ関係ない >>41
当時の朝鮮って今と違って人が良さそうだね 日本の古代史を夏増しまくっているのが朝鮮系の関西人、邪馬台国問題よりも
九州の方が半島に近いのに、関西人はどうして朝鮮人の特徴が強いのか?
を議論した方が面白い。
>>44は誤字があったから以下のように書き直す
日本の古代史を捏造しまくっているのが朝鮮系の関西人、邪馬台国問題よりも
九州の方が半島に近いのに、関西人はどうして朝鮮人の特徴が強いのか?
を議論した方が面白い。 一世紀ごろだとおそらく日本国は存在しなくて小国がたくさんあった頃だから
日本国と関係ない話だな。
神武天皇実在説を取る学者でさえ、神武天皇の即位は伝説の紀元前660年ではなく
紀元180年頃と推定しているし。
>>42
マウントしたいだけのおこちゃまか?
その使いっぱしりの報告書の原文はあんな僅かな文章だったのか?
帯方群の役人なら海の向こうの倭人より烏桓、鮮ぴの方を関心持つと思うがな〜
報告書は各地にいった使者が書いてそれを元に編集しているから伝聞だと言ったんだ
そもそも編纂が論点か?
九州は古墳の数や規模で近畿に劣るでしょ?
それとなんで>>32には反論しないのか?(笑) 半島に援軍を送って戦いに敗れた結果、逆に半島から北九州に攻め込まれてしまえば
お終いだという意識から、敵に攻め込まれてたちまち全滅しないようにするために、
北九州の守りを固めて、本陣はアナグマとでもいおうか、囲いとして瀬戸内海の更に奥の
近畿に移した。半島から敵が攻めてきても戦端が長いと補給に窮するし、
陸路では容易に攻め込めない近畿に敵が船団で攻めてきても、周りから内海で戦闘できるし、
海上だと敵は食料や水の補給が出来ないので防御としては有利だから。
そういうわけで、日本は北九州から都を移したの。
>>6
邪馬台国はヤマタイと呼称
されていたが、語尾のタイ
は九州方言の〜タイであり
ヤマタイとはそのままヤマ
即ち山の意である。
大野城辺りにあったのでは
ないか? >>1
すげーな。こんなガラクタを調べ上げたのか。 黄河文明より古いのは長江文明。
左翼はそれをひた隠しにしている。
>>1
よくわかんないけど、少なくとも九州は歴史的に中国の領土ってことでOK? >>6>>32
東京ディズニーランドの東京は、東京都と言う意味からきている
そこから考えるに、日本にあるディズニーランドがある場所こそ
当然、東京都なはずだ
アメリカの先住民はインディアンと名乗っている
これはインド人と言う意味だ
そのインディアンが要る場所こそ、やはりインドなはずだ
ジプシーとはエジプト人と言う意味だ
当然、彼らの要る場所こそエジプトはなずだ
……ようはおそらく、因果関係が逆なんだろう
倭国にヤマトの国が有ったと魏志倭人伝にあり
(思うにその後、倭国をヤマトと呼ぶ風習が大陸で生まれたんじゃないかと)
その名称を奈良地方が輸入してヤマトと名乗りだした
だから最初から倭と書いて、そのままヤマトと訓じてる訳だ
(奈良地域限定でヤマトと読ませてたのをその後に倭国全体を指すようになったんじゃなく、
まず倭国全体を指してヤマトと呼んでたのを
とくに奈良地方限定で二次的に使い出したんじゃないかと)
インディアンは白人が自分らの事をそう呼ぶから
話を合わせてインディアンと名乗るようになったんであって
別にインドとは関係ないし、詐称してるつもりもない訳だ >>10
韓ではなく後漢、中国だよ
歴史と漢字を勉強しろ 渡来系の弥生人が日本に来たのは弥生前期に朝鮮半島から来たのが最初で
九州〜近畿くらいまでに定住したと思う。次に弥生前期末に大陸の江南地方から
渡来したのが甕棺墓埋葬と水稲稲作を伴って江南人が北部九州に渡来した。
最初に半島から渡来した弥生人は本州に追いやられて北部九州は縄文人と江南人の
混血した倭人が誕生したんだよ。
>>58
属国の位置をとっていた
なお、朝鮮半島も
1 「その後」馬韓弁韓辰韓の3つの国が出来た
2 この3つはそれぞれ別の民族の国であり、当時朝鮮民族は存在しない
3 弁韓は後に任那となり日本領、馬韓は百済となり日本と交流が深い、辰韓は日本と対立し、後に唐と一緒に「任那百済を亡ぼし」朝鮮統一、朝鮮民族となった
5 だから韓国人の言う朝鮮民族は実は日本の帰化人と繋がりは無い
5 さらにその新羅で成立した朝鮮民族は、満洲族後金の侵略で皆殺しにされ、エヴェンキ族に入れ替わってる
6 そのエヴェンキ族が、朝鮮半島に住む朝鮮民族だと自称している
7 さらに韓国人が韓民族、とか造語して主張している
歴史を捻じ曲げまくりの韓国人がNHKに多数いて仕事をしてるわけか この頃の倭は漢に朝貢するときの貢ぎ物は生口(奴隷)ばっかりですよね
当時の日本は中国人が欲しがる工芸品や鉱物資源を生産できる文明国ではなかった
たかが青銅の腕輪ぐらいと思いがちだけど、ひょっとすると日本人奴隷との交換で得た物かもしれないと考えると感慨もひとしお
文明レベルが全く違かったからなあ
朝貢国に甘んじずパクったり改良でのし上がった先祖はすげえな
唐代に成立した後漢書倭伝にわざわざ
「邪馬臺は「考えるに、邪摩惟(やまい)の訛りであろう」」
って注釈いれてるくらいだから、
本来は魏志倭人伝にあるように邪馬壹国(やまいこく)と発音するべきだろ。
こんなちっちゃい欠片で生産場所と時代が分かっちまう現代がすげーよ
>魏志倭人伝
倭人の文化や習慣に関して、自国と比較して違いを述べている部分が興味深い。
「倭人の女は慎み深く嫉妬しない」とか。
縄文人も弥生時代になれば弥生人と呼ぶのが当然なので弥生人には
渡来系と土着系の2系統がある訳だな。
渡来人
大体、四世紀以降からの表現。
大陸からきて、そのまま住み着いた人。
弥生人かどうかは関係無い。
>>33
でたな古墳馬鹿
巨大古墳に政敵埋めまくりの野蛮人vs曹操の薄葬令を受け殉死を禁じた彩色古墳 大国と天照はユダヤ人
これは間違いない
邪馬台国やその他の国も、圧倒的な力の差を見せ付けられて
天照が作った倭に吸収されたわけだ。
宗教が全く違うので邪馬台国との連続性は無いし
彼らが漢字文化圏以外から来てることも確実
倭という字に対してヤマトとあてがう事は漢字圏から来た人間ならしない。
漢字が定着してからは大和に改名されるので、ユダヤ人は倭の意味を知らなかったと思われる。
ただ日本列島の記号として捉えていたんだろう。
>>75
>>>71
>昔通り「帰化人」で良いような。
wiki
「帰化人」と「渡来人」 編集
日本史の用語としては、「帰化人」という呼び名が学会の主流であったが、
第二次世界大戦後、戦前の皇国史観への反省と植民地統治の是非をめぐる政治的な論争を背景に、「帰化人」という語には、日本中心的な意味合いを含むなどとされから不適切な用語であるとされ、上田正昭らにより「渡来人」の呼称が提唱され、学界の主流となった[6]。
しかし、歴史家中野高行はこの問題に関して、古代史研究の上では帰化人という用語の使用については価値自由を要求している[7]。
さらに朴昔順や田中史生らはやはり厳密に区分されるべきとし[8]、
関晃や平野邦雄らは「渡来」には単に渡ってやって来たという語義しかなく、倭国王(大王)に帰属したという意味合いを持たないため、やはり「帰化」を用いた方が適切だとする見解もあり、学術研究上の議論は現在も続いている 古墳は規模や数は関係無い、出土品がどんな物かが重要だ。
九州の古墳からはたくさんの金銀製品や翡翠の勾玉などが出土しているが
近畿の古墳からは金銀製品は全く出土していない。
近畿が大変に貧しい地域だった事は間違いない。
縄文時代の暮制に箱式石棺墓があるがこれは東日本を中心に近畿地方を除いた
九州地方にまで出土している。要するに近畿地方はかなり昔から異民族が住んでいた
証拠だろう。吉野ヶ里遺跡では箱式石棺墓と甕棺墓が出土しているから
土着系弥生人と渡来系弥生人が仲良く住んでいたんだろう。
>>79
渡来系の墓から縄文式の石器や土器が出土することからも、
渡来人と縄文人の共存がわかるよね。 「間違いない」と「だよ」とか断定している奴は、知識もなければ
何の根拠もないうえに、ネットで聞きかじった程度のど素人の
思い込みなので一切無視していいよ>これから読む人
台規模古墳は古墳を造った労働者がこき使われた証拠、支配者が労働者(民衆)を
逆らえないようにする手段だな。要するに近畿の民衆は支配者から力で
押さえ込まれていたと言う事だよ。
つまり支配者層は地元民では無くて他所の地域からやって来た証拠だ。
>>41
広開土王碑
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。
而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
百済と新羅は高句麗の属国だったが、391年に日本が海を渡って攻めてきて
百済を打ち破り、さらに新羅も打ち破って属国にした。
隋書 巻八十一 東夷伝 倭国
隋書 原文
右4行目から五行目
「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」
「新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い
仰ぎ、つねに使いを送り、往来している 」 九州のヤマタイが東征して近畿大和政権を作ったって話は信じていいのかね?
>>85
あんま信じられんけどね
東征というより単なる移住なんではないかと思う
当時は人口密度が現代と比較にならんくらい低い
何処にでも住み着ける >>77
日本史が日本中心的でなかったらどこを中心にするんだろうか 鬼畜、東京都北区赤羽住民、創価学会集団ストーカーに加担する
ド ト ー ル コ ー ヒ ー は 創価学会だ
赤羽警察署は偽証申告した住民の犯罪を
もみ消しにかかってる
chjhっjっっっっっっっhっy
<<ただその後の大和政権で卑弥呼などがスルーされてるのが不思議
日本が中国の属国であったこともあるとは、認められないから、
ヤマタイと呼び、地方政権としている。
アスカヤマト朝の前身とは、認めてない。
近畿京大系は、反日だから、日本国は中国の属国だと主張。
>>90
古代朝鮮が倭国の属国だったことを認めないのと変わらんやんw >>53
弥生時代から「〜たい」って言ってたのかw 全身刺青してる倭国の人たちは、大和朝廷以前の日本列島の支配者だよ。
またまだ縄文の影響が強かった人たち。小国に分かれて争っていたので、朝鮮半島から
追い出された日本に征服されてしまった。
卑弥呼は福岡県に多い宝満神社の主祭神玉依姫命の事だと推測出来る。
宇佐神宮の比売大神は宗像三女~を指す説が有力なので宝満神社の
玉依姫命が最適だろう。
つうかそれ以前に魏史倭人伝の内容が日本の事を書いているという前提がおかしい。もしかしたら沖縄とかフィリピンの事を書いてるかかも知れないじゃないか
魏志倭人伝だと、邪馬台国は北部九州の諸国とはかなり離れた南の方に孤立してる国だな。
邪馬台国の東の記述として、海の向こうに倭人の国があることになってる。これは四国のことだろう。
南の記述は、海を隔た南の国のことしかない。
邪馬台国は、九州西部から九州最南端に渡る地域だったことになる。
今の宮崎県に相当する。
14世紀ころまで海洋貿易に携わらない支那人は日本列島をほぼ90度南に回転した位置として認識していたらしい証拠はいくらでもある
>>1
平和な縄文時代 → 春秋戦国時代( `ハ´)敗走難民 → コイツラが人殺しするので戦の弥生時代!
衣服装飾豪華 すぐ逃げれるように衣服質素
( `ハ´)<丶`∀´>抗日移民を入れると日本国が乱れる! 玉依姫は名前の通り水晶玉の光具合を見ながら占いをする巫女を指しているから
卑弥呼にぴったりと当てはまる訳だ。
>>32
単にあてにならん資料だから、反論するまでもないだけの話やな
>>33
古墳は時代が違うから、なんの憑拠にもならん
炭素年代測定、デタラメやんけ >>87
東「征」は、まずないな
東「遷」は、考えられる あと、九十度回転させた地図も、魏の時代のとちゃうやろ
考証の足しにならんわ、そんなもん
>>53
山の意なのはそのとおりだが
船の上から中国人が陸の方を指差して「あそこは何と言う?」と倭人に訊いて
訊かれた倭人が、指し示す陸地が山っぽく見えたんで
「山たい!(山ですよ)」と答えただけ
おそらくこれが真実 邪馬台国は強敵で征服できなかったから、とりあえず畿内に逃げて、
力をつけてから邪馬台国を征服したんだよ。
前方後円墳は、被征服民への刑罰。
だから、畿内の方が早くて宮崎は遅い。
最古の前方後円墳は福岡市博多区の那珂八幡古墳、その次が宇美町(不弥国)の
光正寺古墳だな、それを造って築造技術を会得した技術者が奈良に行って造ったのが
箸墓古墳と言う事だよ。
邪馬台国論争に加わっていると関西人の性格が日本人とは全く異なり
完全に隣国民の性格と重なっているように見える。
国境の概念は19世紀から。
それ以前は力が及ぶ範囲が漠然とあったに過ぎない。
10年毎に違うようなものだった。
>>1
当時ない中華人民共和国を強調するところがアカヒだわ 日本の文献で卑弥呼に比定できるのはトヨスキイリヒメかヤマトヒメしかない。
やまとととひももそひめだと弟がいないし、若くしてホトをついて死んてる。
神宮皇后は息子も夫もいるし、人目に触れないどころか活躍しすぎ、時代も合わないし
>>105
その順番に征服されたんだろうね。
一通り日本列島を征服すると、征服した敵対勢力に前方後円墳を作らせる必要がなくなっちゃった。 >>109
等しいイヨにヒミコ
とかいう話や
死んでも結婚できます!って話もあるらしいで?w 大和は女王の国ではない。男天皇の国だ。
女王の国と言えるのは、宇佐のおおひるめか、和歌山のなぐさとべか熊野周辺のにしきとべ、伊勢斎宮くらい。
始皇帝が所持してた金印て、100年ころ新王朝へ渡されたんだぞ
九州は、ただのゴミ捨て場
>>11
つまり日本という国は朝鮮人が拓いたということだ
どうだ参ったか❗ 古代中国の勢力って物凄かったんだろうなー
ところで三國志ってどこまで本当(とされている)?
先進国の韓国から、後進国ジャップへの贈り物かぁ
韓国への感謝が思いが沸き上がるとともに、古代歴史のロマンに感動するね。
>>109
>やまとととひももそひめだと弟がいないし
年齢の上下がわからない男兄弟として孝元天皇、吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)、稚武彦命がいる。
また、吉備津彦を倭迹迹日百襲姫命の弟とする神社がある。 >>84
上に対しては、実際には読めない
下に関しては、別の理由からそう読めないと見てるんだけど
ここではちょっと触れられない。
まあ、この答えでは、お気に召さないだろうから、
こう答えとく。隋書のその文はあくまで倭国の使者が
そう言ってたのをメモしてただけの話。
>>91
自分は元々、朝鮮半島関連の資料には
あまり興味がなかったんだが。
どうも、最近そこらの話は有りえなかったんじゃないかと
思い始めてる。文字も暦もろくに無かった時代に
大帝国だったって話。資料が豊富になるとショボくなっていく流れ。
大陸にそんなコネクションがあった割りに
技術も文化も入ってくるのが遅すぎる様に思える。
日本史でここら辺ばっか暗記して、受験で近現代出て死ぬ
>>125
こういう知識は持っているのか?
青銅器は3000年から3500年前の刀子が山形県の三崎山遺跡から出土している。
最近は本格的な金属器の伝播は3000年近く前と見る傾向がある。
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/wp-content/uploads/hpb-media/koho67.pdf
寒冷化の時期と古墳時代の倭人の半島勢力圏縮小がほぼ一致している。
卑弥呼ってシナ人が倭国を蔑んで当てた漢字で
本来は日巫女か日御子でひめみこ何でしょ
倭人はアイヌ沖縄っぽい。
百済の人が一番日本人に近い。
百済任那滅亡して、そこの人たちが列島に流入した。
そして、倭国は滅亡。 「中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日 本」との文字
があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は 678 年の作と考えら れるとしている。
日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。 大宝律令( 701 年)からと
の見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼること になる。 ・・・祢軍(でいぐん)
という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。
884 文字あり、 678 年 2 月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 百済を救うため
に日本は朝鮮半島に出兵したが、 663 年に白村江(はくそんこう)の戦い で唐・新羅(しらぎ)
連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘噍據扶桑以逋誅」 と記述。
「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」とい う意味で、
そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記し ていると
気賀沢教授は説明する。」
「日本」は破れて、扶桑(=日本列島)に閉じこもった。
この日本は、朝鮮半島と日本列島の両方に軸を置いた国だったということだろう。
任那だよ。
天照大神は、孫を降臨させた。
孫はたくさんいるはずだ。そのうちの1人を日本列島に行かせた。
そして孫の子孫たちは九州北部から瀬戸内、そして畿内を征服。
次に九州全体と勢力を広げた。
そうしたら今度は、任那、百済が新羅に滅ぼされそうになった。
なぜ大和朝廷は百済支援に向かったのか?
それは百済が(百済に預けた任那が)、天照大神の故郷だったから。
しかし、新羅、唐に破れて、扶桑(=日本列島)に閉じこもることになった。
そして、日本書紀では故郷を滅ぼした新羅の悪口ばかり書くことになる。
つまり、天孫降臨の天は朝鮮半島の任那。
南に海がある日ノ本の国だ。唐から見て太陽が昇る位置にあるから日本。
天照を祀る伊勢神宮は、南に海があり日が昇る位置。
朝鮮半島南部の任那にそっくりなんだ。
任那は滅ぼされた。だから天照をそれがいた故郷で祀ることはできない。
それで、日本列島における任那に似た地を探したんだ。
それが伊勢だった。
常識で考えるべきなんだよ。
天孫降臨。天はどこなのか。
本家は動かないぞ。孫のうちの1人を別天地にやっただけ。
神武東征。これも本家は動かない。
邪馬台国との戦いで行き詰まった神武たちは、宇佐神宮に寄ってから東に向かった。
宇佐神宮が本家だ。
しかし、畿内を征した神武一派はやがて巨大化する。
磐井の乱を起こした磐井が天孫の本家だ。
>>129
その画像は梁職貢図だが、同時代の埴輪がこれだぞ。梁の時には倭からの使節が無いから想像で描かれたと推測されている。
>>139
倭人と全然違うよね。埴輪は朝鮮人だね。 >>132
任那は白村江の戦い(西暦663年)の時点ではとっくに無いよ。
小野妹子を隋に派遣した時(607年)より半世紀近く前に新羅の侵攻で滅んでいる。 任那の一部は百済に預けてたよな。
それで大和朝廷は出兵したと考えれば納得できるわ。
>>145
弥生人と言っているものも、現代中国人でイメージされる北方系華北人とは違うものだけどな。
東南アジアのオーストロアジア語族(ベトナムやカンボジアなど)に近い。 先祖がさんざん頭を痛めて自分達の出自を有耶無耶にした訳だから、
後世の我々が出自をほじくりまくるのは間違いだな。
>>148
国産み神話は縄文海進で瀬戸内海ができる様子に見えるけどな。
「卑弥呼」が日御子なら、狗奴国の男王とされる「卑弥呼弓」はヒノミコト(日命)だろ
これが神武天皇、あるいはその先祖だと思う
>>134
伊勢は北が海で南が山だよ
何言ってんだ 纒向は邪馬壹国とは全く関係ないだろうな。
あれは神武に滅ぼされた銅鐸文明の遺構だろうな。
>>8
この頃の半島は漢帝国に併合されてた
○○郡は日本では○○県みたいなもの 神武たちが、倭人のように全身刺青だったとは思えない。
刺青してるのは蝦夷や隼人と言われた異民族。
>>155
土偶からも埴輪からも刺青っぽい紋様
中華の文献からも刺青の記述
古墳もそうだが廃れたのは仏教の影響だろうな 土偶の顔と埴輪の顔は違いすぎる。
埴輪には一般に刺青はないし、日本書紀でも刺青をしているのは猿田彦という動物の名前
が付けられた差別をうかがわせる人物や蝦夷などの被差別民。
刺青をした倭人は、埴輪の顔の人種に征服されたと見れば、全て納得できる。
古事記でも日本書紀でも、天皇家は天からやってきて日本列島を征服したことになっている。
それは本当で、ただ年代を古くしている、あるいは古く解釈されているだけだ。
関西人が朝鮮人の特徴を強く持っている訳は縄文人の暮制と関係があった
縄文人は棺桶に箱式石棺を使った要するに石の板を箱形にしてその中に遺体を
埋葬した、この方法は東日本に特に多く出土したが近畿では出土が無くそれ以外の
西日本地区では出土している。要するに近畿には縄文人がいなかった、いたのは
半島系の渡来人だけと言う事だ。吉野ヶ里遺跡では大陸渡来の甕棺墓と箱式石棺墓の
両方が出土している。
福岡県には宝満神社が多くある、その祭神は玉依姫命だ。玉依姫は名前の通り
水晶玉の光具合で占いをする霊媒師(巫女)だ。玉依姫=卑弥呼と考えるのが
正解だな。
そもそも、邪馬台国はたまたま中国の歴史書に名前が残ってるだけで、
国内の歴史でどれだけ重要度が高い存在なのかは比較対象がないから全く分からない
その辺の小国だったかもしれんし、派遣された使節が壮大な大法螺かましたかもしれんしな
渡来人に蹂躙されたジャップランドの歴史を誇る渡来人の子孫のネット国士様はひたすら滑稽
>>153
纏向遺跡の発掘調査をした研究者があれは邪馬台国じゃないって言ってるからな 魏使が奈良まで行ったとしたら、当然の事その前に奈良から魏国に朝貢したはずだ。
その時に奴国や伊都国にも立ち寄っているはずなので奴国や伊都国にあった鉄や金銀製品が
奈良にもあるはずだが金銀製品は全く出土していないし、鉄製品は少量でしかも
鉄の質も非常にお粗末だ。奈良から魏には朝貢はしていないと断定出来るから
朝貢しない国にはプライドの高い魏使は行くことは無い。
邪馬台国はどこか考えるときにまず何より重視し、決して踏み外してはいけないのは、
魏志倭人伝の方角、日数だね。
願望からこじつけの解釈する人が多いし、それでは決して真実は見えてこない。
>>164
なんで方角日数にこだわる?
それがあなたの願望に都合が良いからではないのか?w
あんな古い時代の文献で旅程が正確ではなくても全く不思議には思わないんだが
もっとあとの時代でさえ日本の位置を示した地図なんてひどいもんじゃないか >>165
倭人伝に南と書いているのを東に読み代えないと奈良には辿り着かんのだよ
それも一度では無くて二度も三度も読み代える必要がある
古代人は方角については非常に神経を使っているのは宗像大社や宮地嶽神社の
光の道でも分かるじゃ無いか >>164
ただ気をつけなくちゃいけないのは、魏志倭人伝は陳寿によって「編纂」された書物だということ
編纂というのは複数の資料を纏めたということ、つまり記載されている内容の元ネタは一つではない
例えば日本への里程は詳細に記述されているが、日数記述の箇所はとたんに記述がいい加減になるのは
データの出所が別だからと考えるべきだろう
つまり里程で書かれた資料Aは記録者が細かい人物で精緻なデータが書かれていたが、
日数で書かれた資料Bは記録者がいい加減で大雑把な内容しか書かれていなかった、と考えられる
こうしたことを考慮せずひと続きの文章として読むとかえって誤りの元となる 地図って江戸末期にやっと正確なのができたくらい。
だけど、昔から旅程は分かってた。
野山歩きして見れば分かる。
地図は描けないけど、どうやって行くかは一度通れば覚えるから。
>>167
倭人伝て魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条でしょ?
烏丸鮮卑なんかの東夷のなかの海の向こうの島国の倭人について書いてあるに過ぎない
バリバリの中華思想はなやかりし当時の中国は倭人にそんな興味ないでしょ?
正確な地図も無い時代に方角や距離を正確に書ける方が不思議に思うんだが?使者だって道案内に従って行って帰ってくるだけなんだからね
地球が丸かったことも知らない、まともな地図やコンパスすらない時代に、あなた達は道案内付きの海外旅行で方角や旅行経路を正確に書いて報告できるのか? >>170
妄想不要
実際に書かれている里程がほぼ正確なんだからしょうがない >>171
里程?解釈にいろいろあるんだが?
都合良い解釈で固定するほうがよほど卑怯者 >>172
里程で書かれている部分に解釈の余地なんて無いが?
妄想乙 1800年近く前の魏で書かれた原文自体ない書一つで当時の日本の政権まで語る方が滑稽でしかない
中華思想の中国が当時、正確に書くほどそこまで海の向こうの日本に興味持つか?
南蛮や西戎、北狄なんかもめちゃくちゃ書かれてたりするのに
倭人伝についてはいろいろな報告が混ざっていて不正確で、私は九州とか関西とか以前に台湾、沖縄、四国も含めて可能性があるんじゃないかと思っているから九州出身者が郷土愛から固執しているのは滑稽にしか思わないんだがw
邪馬台国は 九州→〇 近畿→×
当時の国内最大のクニは 邪馬台国→× 大和王朝の前身→〇
▼現在の認識: 邪馬台国は九州だが、近畿にはそれより大きな国があった。
>>173
ああ、知らずに書いてるのか
あんたが採用しているのは短里なのか?長里なのか?
まさか日本の一里と中国の一里が同じとか思ってないよな?(笑)
時代によっても細かくちがうぞ?
しかも中国ではしばしば誇張表現が用いられるから余計に複雑なのは少し中国関係かじってれば常識なんだがな(笑) >>175
別にそれでも良いけども
ただ、日本で一番大きな国がヤマトでそれと九州の国とを混同して邪馬台国と呼んだ可能性はないのかな?
何度も書くが当時の中国は海の向こうの国なんてそんな関心ないしそこらへんは適当なんだと思うんだが 朝鮮半島は氷河期が終わってから四千年間無人だった。
今から6500年前に沿海州から豆満江伝いに
縄文人が無人の朝鮮半島に南下し進出した。
一方今から6000年前に、対馬から洛東江付近に
縄文人が北上し進出した。
まあまあ、北と南からほぼ同時期に、無人の朝鮮半島に
縄文人が沿海州と日本列島から進出して
それぞれ海沿いに、川伝いに朝鮮半島に広まった。
今から2700-2800年前に鴨緑江や遼東半島沿いに
縄文人とは異なる人種が朝鮮半島に南下した。
その後500年間くらいで朝鮮半島の縄文人は居なくなった。
今から2300年くらい前に、
朝鮮半島から九州北部に弥生人が上陸して
九州北部から船で瀬戸内海を進んで
近畿地方に上陸した…日本の弥生時代の始まりだよね。
>>175
おそらくは正しいだろうね
ただ邪馬台国は単一国家ではなく連合国だから、総計すると邪馬台連合のほうがたぶん大きかっただろう
根拠は食料生産力 倭人伝を素直に読めば、1時間とかからず邪馬台国は九州南東部だって分かるけどな。
上陸してからの「水行」が海だと誤解してしまうから、変な話になってるのかな?
「水行」と言えば川だよ。
>>180
水行陸行の部分は里程ではなく日数で記述されていて、その日数が大きすぎるから混乱してるんだろう
里程を短里で書くことで距離を誇張してるんだから、日数も誇張されてるだけと素直に考えればいいだけなんだけどな >>182
だから、色んな資料を見ながら書いたから色んな風俗が混じってるのでは?
刺青なんかは奄美沖縄何じゃないの?
この書一つで決定的に言う方がおかしい 荷物積んだ小舟を綱で引っ張って川を遡上するんだから、日数はかかる。
距離なんて測れない。
野山を歩けば、距離ではなく時間が目安になることはすぐに分かる。
>>182
風俗もそうだし、何より魏志倭人伝では末廬国(松浦)で船から降りて陸路になってる
目的地が奈良なのに松浦で船を降りて歩くわきゃないわな
どう考えても目的地が九州内だから下船したわけで >>184
だったら距離換算できないから位置はわからんよ? >>185
だからさあ、1800年前に、関西?別に他の地でも良いけど、長距離を直通で行けると考えているのが現代人補正なんじゃないの? >>187
陸路のほうがよっぽど大変に決まってるだろw
瀬戸内海を船で渡ったほうが遥かに速い
実際奈良の遺跡からは瀬戸内諸国の土器が出ていて海路で交易していたのはほぼ間違いない >>188
楽だ、はるかに速いって、その感覚が現代人なんじゃないのか?
別に水路も否定はしないが風待ちや季節風にもよるだろうしそれだけで限定はちょっとな〜 >>189
倭人が海路で交易してる時点でその反論は成り立たない >>190
だーかーら、交易は通年だろ?
行った時期により、海路より陸路をとってもおかしくないと言ってるの、台風や時化もあるし、海路が万能ではないだろ? >>128
ヒミコは姫皇子。
姫は女、皇子は王
つまり女王。
お前のところの王様は誰かと聞かれて、
ああ、女王様のことねと答えたんだろう。
狗奴国のヒコミコは彦皇子で彦は男、皇子は王。
つまり男王。 >>191
冬は日本海が荒れるから帯方郡から日本に来れるのは時期が決まっている
夏場の瀬戸内海は余裕
台風や時化なんて一時的なものは停泊して回避するだけ
ろくに道もない陸路を延々歩くなんてほうがずっと大変なことに変わりはない >>24
いや、畿内説でも問題なく整合性取れるというか、畿内説のほうが整合性取れる
大阪は今の大阪市内中心部に湖があったが、
河内や和泉は陸で、特に河内は上古代から歴史的にも重要な場所だ >>194
畿内の遺跡からは渡来系の遺物が全然出てこないから全く整合性は取れない 誰かこの遺伝子ハプログループから古代史解明してよ
>>193
おまえが行ったのか(笑)
勝手に推測入れて決定的に書くなよ >>198
残念だったな
纏向を発掘調査した当事者である関川尚功氏がそう言っている
考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 奈良県・纒向遺跡出土の大型建物について
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku335.htm
> 1.考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 (関川尚功先生)
> ・出土品と大陸系遺物の存在
> これまで副葬品を伴う例は古墳時代初頭の壷棺のみです。ただし中期には壷や高坏を供献した例がある。
> 大陸系の遺物はまったく出ていない。九州の弥生遺跡と比べると副葬品が少ない。
> (2)纒向遺跡の実態
> ・大陸系遺物の出土量とその比較【対外交流のあとはみられるか】
> 断面が三角形の特徴的な木鏃で、儀礼用と推定される。3・4世紀の日本ではめずらしい。朝鮮半島南部の
> 大成洞古墳群に副葬されているような骨鏃がモデルと思われる。纒向からは10本以上がみつかつている。
> 木鏃や土器から、朝鮮南部とのつながりがあったことが分かるが、楽浪郡あたりとの関係がないようだ。
> 大陸系の土器が出てこない。
> 纒向は大陸との交易が終わった邪馬台国時代以後の遺跡ではないか。
> 九州では博多湾での交易が古墳時代の前期まで続いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%8A%9F
> 関川 尚功(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、
> 石野博信とともに報告書『纒向』を著した。 >>197
大荷物を携えての旅が陸路と海路でどちらが楽かなど、まともな思考能力があれば誰にでも分かることだ >>199
まきむくの話な
それに研究者の九州説とってる人やろ >>200
まだ言ってるの?じゃあ、半島から来る人は季節気象条件に関係なく関西へは水路でしか100%行かないとそう言うんだな?
アホか 北九州では半島と盛んに交流があっただろうし距離的に遠い関西よりも遺跡に埋葬品が多いのは事実だろう
しかし、だからといって邪馬台国九州説や東遷説に直結するのは牽強付会だといってんの
何度も書くがたかが一つの原文も喪失している古文書の都合の良い解釈で決まっているみたいに言ってる九州出身者の郷土愛が大嫌いなだけ
倭人伝は不正確でそれのみを根拠にするなよ
>>157
縄文時代の土偶は抽象性が高すぎるだろw
写実性があるのは土面だ。埴輪と大差ないぞ。
これは北海道で出土した縄文時代の土面。
これは岩手県で出土した「鼻曲がり土面」。
この鼻曲がりの歪みを無くしたレプリカがこれ。
これは茨城県で出土した土面。
大阪府で出土した土面。
青森県亀ヶ岡遺跡の土面は亀ヶ岡らしさがあるな。
現代の地図を見ると対馬から見て壱岐は東南だが、魏書は南で隋書は東。
魏書では陸上で東南という言葉は出てくるのに対馬から壱岐は南だ。
季節と太陽と方位の関係は?
そもそも魏志倭人伝は中国側の記録
倭人が言ったことが正確に伝わってるかさえ怪しい
倭人がそのころ正確に距離の単位を持っていたわけも無く、それを中国側が「里」に換算して記録しても
正しいわけもない
中国側の人間が倭国に来て測ったならまだともかくね
これほどどこにも当てはまらない書き方が良くてきたと感心する。
わざととしか思えないレベル
梅原猛や赤坂憲雄らは弥生、渡来人以降急に惨殺死体が多く見つかると書いてたね。お察し。
なんとしても北九州説を仮説から真実に
したい奴がやらかした感が強い
>>143
田布施システムって、嘘がばれて失敗したデマだよ。
本当だという証拠がないし、その説明の嘘なら証明できる。 >>201
纏向を掘った張本人がここは邪馬台国じゃねえって言ってんなら確定だわさ
アキラメロン >>203
倭人伝全否定ならそもそも邪馬台国論争する意味ないって気づいている? >>164
>邪馬台国はどこか考えるときにまず何より重視し、決して踏み外してはいけないのは
>魏志倭人伝の方角、日数だね。
つまりフィリピンですね
けっして九州ではありえない
ちなみに山を歩けば分かるけど
磁石が無かったら知らない道はどっちの方角に進んでるかは分からない
太陽見たらわかるなんて素人の考え
君が実際にやってごらん
遭難するからw
方角は分からないものなんだよ
それにたいして日数は間違えない >>108
支那かチャイナと書くべきだわな。
中国は20世紀にできた新しい国。 >>215
あのなぁ、一個古墳調査しただけで決まるのか?
そりゃ九州説の研究者はそういうのは当たり前だろう
>>217
だから他の資料も参考にして考えないとダメだと言ってるのが理解できないのか? >>220
纏向は多数の古墳群の集合体だが何言ってんの?
箸墓古墳やホケノ山古墳などはみんな纏向遺跡の一部だぞ 連合体が形成されて「女王」が邪馬台国を所在地としたが、邪馬台国が大陸と直接交易を長年やっていたという
話は魏書からは見えないんだよなあ。
連合体の形成モデルを考え直した方がいいんじゃね?
半島南岸とつながりがある瀬戸内勢力と楽浪とつながりがある九州北部勢力の連合体とか。
ああ、一応淡路島や大阪沿岸部からは秦や漢の貨幣が出てきてはいる。下は今年の5月ね。
中国の貨泉3枚、淡路島で出土 弥生時代に交易で渡来か 2017/5/18
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG18HAH_Y7A510C1CR8000/
> 兵庫県南あわじ市(淡路島)にある入田稲荷前遺跡から、中国で紀元14〜40年に鋳造され、弥生時代にもたらされた青銅製
>の貨幣「貨泉」3枚が出土し、同市教育委員会が18日に発表した。市教委によると、貨泉は今回を含め国内で179枚見つかって
>いるが、複数枚が重なった状態で発見されるのは珍しいという。
> 市教委の担当者は「古代中国の貨幣が伝わったのは、弥生時代後期に淡路島が海上交易の要衝だったことを示す貴重な
>史料」と話した。
> 貨泉は中国・新時代(8〜23年)の貨幣で、後漢時代の40年まで鋳造された。3枚は、直径2.27〜2.32センチ、重さは1.45〜2.53
>グラム。大きさや重さから、後漢初頭に造られた可能性が高いと判断した。
> 中央に四角の穴が開いており、3枚が重なった状態で見つかったことから、ひもを通して束ねる「さし銭」の状態だった可能性も
>あるという。弥生時代は貨幣経済があったとは考えられておらず、交易品や、権威を示す威信財、青銅器の材料などとして持ち
>込まれたと考えられている。
> 入田稲荷前遺跡がある地区の農地整備事業に伴う調査で、昨年12月に出土した。奈良から鎌倉時代にかけての遺物を含む
>層から見つかっているが、3枚がまとまって出土したことから、市教委は弥生時代後期の遺構から流入したとみている。
> 調査を担当した市教委埋蔵文化財調査事務所の的崎薫さんは「貨泉は弥生時代の流通を考える上で貴重な史料。北部九州
>から瀬戸内海を通り、畿内への玄関口となる淡路島の重要性を後押しする」と述べた。 >>221
そこま出知っているなら巻向遺跡の調査した部分よりまだ未調査の部分が大きいのは知ってるよな?
それで外来系の出土品がないと言い切っているお前はなんなの?バカなの? >>222
連合の盟主が一番美味しいところと無縁だったと考えるのは無理だろ
大陸の遺物がほとんど出ない畿内はノーチャン >>225
争いが起きて新しい連合体ができたということが書かれているのに、何を言っているの? >>224
遺跡の調査なんて望みのありそうなところから先にやるもんだぞ
大型の墳墓とかな
それで全く出ないものが他の末梢部から出てくる可能性は低い >>222
だから今の感覚での国家群と考えるのは現代人補正なんじゃないの?
あの頃の日本に国の概念なんかないやろ
中国はあっただろうが >>203
近畿人の必死な郷土愛に基づく牽強付会な近畿説乙w >>227
またそういう予断で都合よく解釈する
はんふも出来てないし、多分、永久に全部発掘出来ない
あれだけの規模の遺跡の調査なんて迷惑かからんところしか出来ない
何年やってると思ってんだ?
もちろん、やれる中で当たりはつけるだろうがもともとどこに何が埋まっているかなんてわかる訳ない >>231
ポカホンタスか
まあ、自分たちのわかる範囲で当てはめたりすることはママあるよな
日本は統治システムが未発達だったから、のちのち、一生懸命中国のシステムを輸入したんだからな〜 U ・ω・) 魏志倭人伝に出てくる魏って
三国志演義の魏呉蜀の一つである魏。
そんで魏の当時の王が
三国志演義で有名な魏を興した曹操孟徳、の孫の曹叡なんだよね。
日本における曹操人気の一端はそこにもあるのかもね。
U ・ω・) ちなみに漏れは蒼天航路の曹操がお気に入り。ならばよし!
>>220
畿内説だと狗奴国は海の中なんだがどう思う?
まあ畿内派は資料も遺跡もなしに検討違いな方向の名古屋にあったとか言っているが
九州説だと狗奴国=熊襲で簡単に説明出来るが
単純な国の位置を南から無理矢理東に変更するのが畿内派
これが全否定と言わずして何という? U ・ω・) 当時の中国人はこう考えました。
「国の名前が大和だと? そんな良い漢字を使うとは朝貢国の分際で生意気だ、こうしてやる」
↓
『大和』から『大』をとって『和』 それを良くない意味の漢字に勝手に改名して『倭』に。
「倭でもまだ生意気だ、次は国名をもっと悪い漢字にしてやる。邪とか馬とかにな」
↓
『大和国』を勝手に改名して『邪馬台国』に。
「王の名前が日御子だと? 生意気な。日を卑に変えて、ええっとあとは……」
↓
『日御子』が『卑弥呼』に。
U ・ω・) これが魏志倭人伝のリアル。
チャンコロの考える事なんざ2000年の昔からこんなもんだ。
U ・ω・) あと、
〜〜からどこそこの方角に何日〜〜、なんて位置情報はもともと嘘八百だから。
国の場所、都の場所、なんてのは当時の軍事の最高機密。
今みたいに誰でもググれば世界地図を見れる時代とは全く違う。
当時の使節団も魏に対しては嘘を述べたに決まっている。
なので、魏志倭人伝に書いてある位置情報を信じて、
〜〜よりも〜〜の方が近いぞ、〜〜から○日だからきっと〜〜だ、なんて思う現代人がどうかしてる。
U ・ω・) まー、当時において国の場所を教えるのがどれだけマズイ事か、
今風にわかりやすく言えば、在日朝鮮人の強盗団に実家の場所を教えるようなもん。
>>1
弥生の話してるのに何で支那じゃなく「中国」記載にしてるんですか朝日新聞さん? 君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむすまで
君が代にゆかりの深い神社
1.細石(さざれいし)神社・・糸島市三雲、旧神社名は佐々禮石神社
2.若宮神社・・糸島市志摩船越、旧神社名は桜谷神社
祭神に苔牟須売神(コケムスミノカミ)が祀られている。
3.志賀海神社(旧官幣小社)・・福岡市東区 山誉め祭りの神事の中で
君が代の歌詞が読み上げられている。海人族阿墨氏の神社でもある。
糸島市や福岡市西区、春日市の遺跡からは三種の神器(太刀、勾玉、鏡)
も出土している。
弥生時代の翡翠(糸魚川産)勾玉・丸玉などが出土した地域
(20箇所勾玉48丸玉3小玉1なつめ玉1)
福岡県・・福岡市西区、福岡市博多区、福岡市南区、糸島市
宇美町、宮若市、行橋市、筑紫野市、嘉麻市 (9箇所)(勾玉18なつめ玉1)
佐賀県・・多久市、武雄市、唐津市、(3箇所)(勾玉19丸玉2)
長崎県・・島原市、壱岐市(2箇所)(勾玉2)
熊本県・・菊陽町、熊本市、阿蘇市(3箇所)(勾玉2丸玉1)
大分県・・日田市、宇佐市、大分市(3箇所)(勾玉7小玉1)
古墳時代の翡翠(糸魚川産)勾玉・丸玉などが出土した地域(47箇所)
福岡県・・福岡市西区、福岡市博多区、福岡市南区、福岡市東区
糸島市、春日市、大野城市、志免町、篠栗町、古賀市
福津市、宗像市、宮若市、鞍手町、田川市、嘉麻市
飯塚市、苅田町、行橋市、筑紫野市、那珂川町、筑前町
朝倉市、久留米市、八女市、うきは市、(26箇所)
佐賀県・・佐賀市、吉野ヶ里町、神埼市、多久市、武雄市、唐津市、(6箇所)
長崎県・・雲仙市、壱岐市 (2箇所)
熊本県・・玉名市、和水町、菊池市、御船町、熊本市、宇城市、八代市(7箇所)
大分県・・宇佐市、大分市 (2箇所)
宮崎県・・宮崎市、高鍋町、西都市 (3箇所)
鹿児島県・・長島町 (1箇所)
ゴホウラ貝(奄美大島以南でしか取れない貝)腕輪が出土した地域
福岡市博多区、中間市、飯塚市、日田市、えびの市、南種子町.
弥生時代って古墳より前の時代を言うように読めるけど
今そうなってんの?
古墳時代に金冠、銀冠が出土した古墳
宮地嶽古墳・・・福岡県福津市
沖ノ島・・・・・宗像大社
銀冠塚古墳・・・福岡県鞍手郡鞍手町
セスドノ古墳・・福岡県田川市
関行丸古墳・・・佐賀県佐賀市
島田塚古墳・・・佐賀県唐津市
江田舟山古墳・・熊本県玉名郡和水町
産島古墳群2号墳・・熊本県八代市
古墳時代に金環・銀環(耳飾り)などが出土した九州の地域
福岡県・・43箇所 佐賀県・・4箇所 長崎県・・4箇所 熊本県・・22箇所
大分県・・9箇所 宮崎県・・2箇所 鹿児島県・・2箇所
福岡市西区・・2箇所 春日市・・1箇所 古賀市・・1箇所 福津市・・2箇所
宗像市・・1箇所 宮若市・・1箇所 鞍手町・・14箇所 田川市・・1箇所
桂川町・・1箇所 飯塚市・・7箇所 苅田町・・2箇所 行橋市・・1箇所
上毛町・・1箇所 朝倉市・・1箇所 久留米市・・3箇所 八女市・・1箇所
うきは市・・3箇所
佐賀県・・佐賀市・・1箇所 武雄市・・1箇所 白石町・・1箇所 唐津市・・1箇所
長崎県・・壱岐市・・3箇所 小値賀町・・1箇所
熊本県・・山鹿市・・8箇所 玉名市・・4箇所 和水町・・1箇所 荒尾市・・1箇所
菊池市・・1箇所 熊本市・・3箇所 宇土市・・1箇所 宇城市・・1箇所
あさぎり町・・1箇所 氷川町・・1箇所
大分県・・日田市・・2箇所 玖珠町・・1箇所 杵築市・・3箇所 大分市・・2箇所
宮崎県・・宮崎市・・1箇所 西都市・・1箇所
鹿児島県・・長島町・・・2箇所
>>238
台って字は皇帝に使う文字
蔑んでる国に使うわけがない
台はあり得なくて壱が正解
実際に邪馬壱国とそう書いてある
邪馬台はヤマトと読ませたい人たちが無理やり壱から変えた <人類学的考察>
@ 縄文人のDNAは,現在のアイヌ人のそれと完全に一致した。アイヌ人とは,先住縄文人が追い詰められ
て残った人々であった(縄文人のDNAは、ロシアバイカル湖畔に今も住むブリアート人と同じであった。
縄文人とはブリアート人がマンモスを追って氷結した海を渡って日本列島に移住した人々であった)
A この事実から,平安時代までいたとされる熊襲・蝦夷・粛慎と呼ばれた人達も,先住縄文人の末裔と考えてよい
→弥生人が,日本を侵略した可能性は極めて高い
>>211
インド・ヨーロッパ語族など、
基本的に後発の高度な文明と高度な言語を持つ集団ほど殺戮が好きだよ >>237
むしろ学説は畿内説が圧倒しているんだから、
民間で議論するのではなく、そちらで論文発表してはどうか 魏使は、九州に上陸してから一度も海を通らず邪馬台国に到着してる。
九州説は観光
九州のどこかが主張すると九州のどこかが妨害状態
位置の特定もままならないし、観光目的だから特定する気もない
ニセじゃないよ
ただ今更自説を変えることが出来ないじいさん学者ばっか
日本の考古学界は昔は関西が強かったから畿内説にこだわる爺さんたちがまだ頑張ってるが、
こういう人達がいなくなったら畿内説ってあっさり否定されるだろうな
>>259
そう考えると、40年間も纏向遺跡の発掘調査をして権威にまでなったのに
邪馬台国は畿内ではなく九州だとしている関川尚好氏は本当に誠実だな
こういう学者ばかりだったらもっとずっと早く真実が解明されていただろうに >>259
> 日本の考古学界は昔は関西が強かったから畿内説にこだわる爺さんたちがまだ頑張ってる
三角縁神獣鏡なんかもその一端だったな
昭和30年代に「卑弥呼の鏡だ!」とぶち上げて盛り上げたものの
その後発掘が進んで、これ違くね?となって今では黒歴史
畿内派はろくに調査しない段階で大声で自分の願望叫ぶから悪いんだよ
ちょっとは裏付け取ってから叫ばないと恥かくだけ 卑弥呼が生きた時代は漢王朝が滅亡してレッドクリフやらなんやらと同時代だからね。
そんな動乱の世の中で倭国までの距離を正確に測れるわけもなく。
朝鮮から東に行って、東南に行って、東南に行って東に行った所に
邪馬台国がある
>>261
関西人に恥かかせまくった歴博と京大国語学閥は、ゆるされんわ 九州説は邪馬台国は日本というぐらい漠然としすぎてる
何だよ九州説って、どこだよ
>>219
魏志倭人伝でも中国ってあるんだが……
読んだ事ないって事……?
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
>自古以來 其使詣中國
>その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
>以朱丹塗其身體 如中國用粉也
>赤い顔料をその体に塗るが、
>それは中国で粉おしろいを使うようなものである。
>其行來渡海詣中國
>その行来、渡海し中国に詣るに、 >>240
魏志倭人伝でも狗邪韓国って出てくるんだが……
読んだ事ないって事……?
三韓とかも知らない?
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
>從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東
>到其北岸狗邪韓國 七千餘里
>「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、 おまえら、日本、中国、韓国、みんな仲良くしろよ(一応カリアゲ君とこは除いとく)。
喧嘩したって楽しくないぞ。
いや、旅行なんかで仲良くなると、楽しいもんだぞ。これホント
>>268
ネトウヨはアホだから史実じゃなくて感情が真実やねんでw >>268
その中国は中原と同じ意味ね。
現代において海外の地名で中国と言っているは中華人民共和国の略称ね。 >>269
その韓国は、箕子朝鮮の王が衛満に敗れて半島を南下し韓王を名乗ったという伝承に基づく呼称。
韓国より韓という地域名称で使われる方が多いな。三韓もそうだろ?
そして、これは楽浪とは関係がないな。
それと、大韓民国の略称の韓国はどう直接つながるのだ?
李氏朝鮮が清朝から独立して国号を変える際に古名の韓を採用して大韓帝国とし、戦後に君主を廃止したのに
君主国の意味がある「大」の字をつけたまま帝国を民国にしただけの大韓民国の略称と。 奈良は福岡と違って空き地ばかりだから簡単に発掘作業が出来るからな、それでも
大した出土品は出てこない、福岡で1番発掘したい板付遺跡や須玖岡本遺跡などは
住宅が密集しているから殆ど発掘調査は無理だがそれでも結構な結果を出している。
>>276
そもそも1の記事に、中華人民共和国なんてどこにも書いてないよなぁ。
少なくとも、「中国」自体は魏志倭人伝にそのまま載ってる単語な訳だ。
(旧字体だから、そのままじゃないってツッコミは抜きで)
まあ、>>1の記事の中国が国名じゃないとか、無駄にゴネるつもりはない。
ただ、>>219の書き方だと当時、秦とかチャイナって国名だった事になるよなw
(素直に取るなら、219は中国(日本の中国地方ではない)って単語そのものが
過去には無く、近代できた中華〜国の略称単語と思いこんでたんだろう。
また、チャイナって国名の方も卑弥呼の時代にあったって事だろうw)
支那の語源が秦説だとしたら、そっちはそっちでおかしいって事になるw
結局のところ、別に現代語の中国でいいじゃん。
それこそ、「長崎“県”」って単語も当時なかったはずだし(長崎の方はわからんけど)。
>それと、大韓民国の略称の韓国はどう直接つながるのだ?
……え?
大韓民国って単語つかってるの、このスレであんた一人だけなんだが……w
「韓国って20世紀にできた国だろうに」
少なくとも↑これ、書いた人に聞いてくれ。同じ人かどうかは知らないけどさ。
108
>当時ない中華人民共和国を強調するところがアカヒだわ
>>219
>支那かチャイナと書くべきだわな。
>中国は20世紀にできた新しい国。
10
>日本がいかに韓国から多くの文化文明言葉を伝えられて
>造ってもらった国だということがよく理解できる記事だよね
>>240
>韓国って20世紀にできた国だろうに >>278
>大韓民国って単語つかってるの、このスレであんた一人だけなんだが……w
詭弁にすぎるぞ。
「韓国って20世紀にできた国だろうに」は他人が書いたものだが、この韓国はお前にはどんなものと認識されているんだ? >>279
詭弁?
「韓国って20世紀にできた国だろうに」って書き込みに
「そうじゃないよ(韓国って語自体は、ずっと昔からある)」って
レスしてるだけじゃん
しかもその前の>>10の人の書き込みも
「韓国」を大韓民国の略称の意図では使ってないだろうし
>日本がいかに韓国から多くの文化文明言葉を伝えられて
>造ってもらった国だということがよく理解できる記事だよね >>280
まさか三国志(高句麗・百済・新羅)だと思ってるのか?
魏呉蜀の内の魏だぞ どう考えても奈良とか山中の隠里のような場所がいきなり半島まで制圧できる軍備を得られるとは思えない。大陸との関わりを持つ文明が盤石な土地を開拓し遷都したと考える方が普通じゃね
>>283>>284
マジでレスしてる意味がわからんのだが
話題そらさんでくれよ >>286
上の人とは別人
ただ今回の記事と韓国(朝鮮半島)は一切関係ないって話 >>287
まあ、記事自体は朝鮮半島と一切関係ないって訳でも無いようだが
>>10の人は10の人で皮肉かジョークで書いてそうではある
>>1
>この時期、中国系の遺物は朝鮮半島北部に置かれた
>楽浪郡という中国の出先機関を通じて日本列島に流入したとされてきたが、
>この腕輪は中国でも遼東地域の一部に限られるため
>ここから直接入手した可能性もあり、北方民族の烏桓(うがん)と
>関係するかもしれないという。
>複雑な古代の国際交流を物語る貴重な手がかりとなりそうだ。 >>108>>219
他所のスレに画像があったんだけど…どうも「中国」って用語自体が
20世紀に作られたと思ってる人がいるのは
小林よしのりの漫画が原因くさいなぁ……?
むしろ、「中国」って用語自体は、歴史的にも
王朝を超えて、昔から使用されてた用語のようなのに。
古典をろくに読んだ事ない人間をだます漫画だな。
(たぶん、小林も誰かの受け売りで勘違いしてるんだろうが)
>自魏至于齊梁代與中国相通
>魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた。
もちろん、中華人民共和国の略称として記者が使う場合もある。
ただ、この手の話をうるさくすると
この卑弥呼の時代には「日本って国名は無かったんだから
倭と書け」と平等に言わなきゃいけなくなる訳だ……ただ、不便なだけだよ。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
>自古以來 其使詣中國
>その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
>以朱丹塗其身體 如中國用粉也
>赤い顔料をその体に塗るが、
>それは中国で粉おしろいを使うようなものである。
>其行來渡海詣中國
>その行来、渡海し中国に詣るに、
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm
>魏時譯通中國三十餘國
>魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で
>自魏至于齊梁代與中国相通
>魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた。
>有軍尼一百二十人猶中国牧宰
>軍尼(クニ)一百二十人があり、中国の牧宰(官名)のようである。 >>290
小林はアホだのう
4000年近くは本当
中国の歴史がガチのなのは事実
で 水稲は遼東半島から対馬に伝播したと考えられているので、
その追従的な発掘成果。
>>285
九州から遷都してきたのはたぶん記紀ともいっちしてるから異論はないが、239年が遷都前なのか遷都後なのかがよく分からん >>285
最初から大陸の文明、武器を持ってたんだよ。天孫たちは。
九州は日本列島内では発展していたので制圧に手こずり畿内に東進。その後で九州を制圧。 >>293>>294
あのさあ、日本書紀はいうに及ばず記紀とかも話を盛って書かれていると思わない?
ご先祖について盛って書くのは江戸時代の大名でも当たり前だし
私は2000年くらい昔に日本を征服できるほどの人数が海を渡って紀伊半島に上陸横断して奈良盆地の原住民を征服できるほどの人数が移動できたては信じられないんだが
政争に負けた少人数のグループが奈良盆地で受け入れられてその子孫が勢力をもって王になったと考える方が自然だと思うんだよな〜 >>295
対馬から朝鮮半島は見えるって知ってる?
今だって、北朝鮮から東日本に小舟がたくさん漂着してる。流されてついちゃう距離なんだよ。
争いをしている倭の小国なんてあっという間に征服できちゃう。 >>295
話を盛るというけど、畿内征服でもかなり苦戦してる話になってるぞ。 >>296
いや、記紀の話なら九州によって、その後に紀伊半島にたどり着いて紀伊半島横断して奈良盆地に入って戦ってるでしょ?違った?
熊野古道少し歩けば、あんなところ武器もって何千人も大勢で横断出来ないと思うんだがな〜
対馬伝いでもな〜
対馬海流はかなりはやいんでしょ?
百人二百人ならまだしも千人単位で征服軍が橋頭堡確保して渡ってこれるのか?2000年くらい昔にそんな大きな船あるのか?あの時代なら船ではなく舟くらい何じゃないの? >>297
苦戦して勝ったとすることが自慢ではないかと勘ぐってる
我々の先祖はそれだけ勇敢だったと >>293
その時期は九州北部の方が繁栄してるから遷都前だろうな
畿内が発展するのはもっと後の時代 >>291
小林とか関係のない話だよ。それ以前に呉智英なんかが言っていたのだから。 >>302続き
>国民党の北伐(英語版)が完了し、国権回復運動が盛んになると、日本が用いる「支那共和国」という呼称に
>対する反発は再び強まった[24]。1930年(昭和5年)5月27日、中華民国は外交部に対し、「支那」と表記された
>公文書を受け取らないように訓令を発した[25]。中華民国中央政治会議による決議を受けて、中華民国外交部
>(外務省)が、英語による国号表記を“Republic of China (ROC)”とする一方で、中文表記を「大中華民国」である
>とし、日本国政府に対し「支那の呼称を使わないよう」に申し入れてきた。
>その理由として「支那という言葉の意味は大変不明確で、現在の中国とはなんら関係ない」というものであった。
>そのため、10月31日「支那国号ノ呼称ニ関スル件」という閣議決定で[26][27]、「これまでは外交文書で「中華民国」
>と書く必要のあるものを除いて通常文書では「清国」のことを「支那」と記載してきたが、当初から中華民国側は支那
>という呼称を好ましくないとしていたし、特に最近は中華民国の官僚や民衆が不満を表明することが多くなっている
>ので、その理由の如何はさておいて、中華民国政府からの正式な申し入れはないけれども、今後は「支那国」では
>なく「中華民国」と書くことにする。」と決定した。
>この決定は「中華」が、かつての中華思想に基づくものであると見て、日本の知識人などには強い反発を持つ者も
>少なくなく[28]、外務大臣幣原喜重郎の「軟弱外交の証拠」であるとして、批判の対象となった[29]。
>24^ 于紅 2002, pp. 86.
>25^ a b c 于紅 2002, pp. 87.
>26^ 国立国会図書館議会官庁資料室 1930年(昭和5年)10月31日閣議決定「支那国号ノ呼称ニ関スル件」https://web.archive.org/web/20080405012456/http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt01474.htm
>27^ 外務省「第二次外相時代-幣原外交終焉の時」http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shidehara/03_2.html
>28^ 于紅 2002, pp. 85.
>29^ 于紅 2002, pp. 98-99.
>于紅「第二次幣原外交期における中国の国号呼称問題 : 「支那共和国」から「中華民国」へ(研究)」 (pdf) 、
>『お茶の水史学』第46巻、お茶の水女子大学、2002年、 79-108頁、 NAID 110005944261http://ci.nii.ac.jp/naid/110005944261、2015年4月19日閲覧。 大した航海技術さえ無い内陸の大和政権がその黎明期に紀伊半島を回って、伊豆半島にまで勢力を広げていた事実をどう見るかだよな
途中の伊勢や尾張にさえ当時の大和政権の勢力は至ってはいないからな
年代は定かでは無いが北九州の勢力が植民したのが大和政権の始まり
大和周辺とその東側を勢力圏に収め北九州勢力を凌駕した政権が、歴史を書き残しただけだろう
畿内に邪馬台国が存在したのなら、北九州から畿内に至る西日本に統一勢力が既に存在した事になる
しかし、そんな証拠は全く見付かってはいないからな
魏史倭人伝に登場する邪馬台国は北九州に存在したと考えるのが妥当なんだよ
京奈和自動車道御所道路 第7工区中西遺跡(御所市條地区)
国内最大級の耕地面積をもつ弥生時代. 前期の水田遺構が出土
御所市 中西遺跡:弥生前期最大の水田跡2千枚 高い計画性と技術
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1112gose.pdf
>2011 年 11 月 新聞各紙に「奈良県立橿原考古学研究所は 11 月 8 日、同県御所市條の中西遺跡で、弥生時代
>前期(約2400年前)としては国内最大の水田跡(約2万平方メートル)を発見した」と発表し、広大な土地に網目の
>ように整然と区画された水田跡が並んだ航空写真が掲載され、びっくりした。 水田耕作が日本に伝わって間もなく、
>弥生前期おそらく鉄の農耕具のない時代に 発見されているだけで、約 2 万uに及ぶ広大な土地に整然と並んだ
>水田跡が出土するとは・・・・・と。 >>305続き
>金網越しに発掘調査をしている橿原考古学研究所の学芸員の方に声をかけると、
>「 いい時にやってきましたね。今ちょうど南北どちらの区画もほぼ同じ弥生前期の地層まで掘り下げ、 一面全部弥生前期の
>水田跡です。弥生の前期にこれだけ計画的な水田遺構があることが、大和を考える上で極めて重要。 じっくりとみていって
>ください。また、この下には縄文の遺構が残っている可能性があり、それも掘り下げてゆくので楽しみ」と。
>【参考 2.】 中西遺跡の直ぐ北から縄文の翡翠 秋津遺跡
>長大な塀で囲われた4世紀前半の方形区画群・その下層から縄文晩期の翡翠が出土
>また、ここを本拠とする葛城氏の中枢をおもわせる方形区画と独立棟持ち柱の建物の遺構が出土
>橿考研は 2011 年 8 月 御所市の秋津遺跡で確認されていた古墳時代前期(4世紀)の建物のうち8棟が、建物の外に屋根
>を支える柱のある「独立棟持(むなも)ち柱建物」だったと発表。
>独立棟持ち柱建物は「神殿」との見方があり、8棟の場所は塀に囲まれた国内最大規模の区画施設内(最大南北50メートル、
>東西48メートル以上)であることから、「祭儀を執り行った特別な空間の可能性がある」としている。
>橿考研によると、8棟は50〜100年の間に建て替えられ、すべてが同時に存在したわけではないが、古墳時代の遺跡で8棟
>も独立棟持ち柱建物が確認された例はないという。
>また、区画施設の南側に竪穴住居20棟が新たに見つかった。竪穴住居跡と方形区画群の間には幅2メートルの溝があり、
>橿考研は「居住と祭儀の空間が機能的かつ明確に分けられていた」としている。 5世紀に大和政権の中枢を担ったとされる
>古代氏族・葛城氏との関連が指摘されている。
>また、 古墳時代の遺構が出土した土面の下層から、縄文時代晩期後半(2800〜2500年前)の首飾りの一部とみられる
>糸魚川産と推測される翡翠の管玉(長さ約4センチ、太さ約2センチ)が見つかった。 よくよく>>1を読めば九州説畿内説の論争点になってない壱岐国の遺跡からの出土品で年代推定も単に中国の出土品と比べて可能性を言っているだけやんかぁ
14Cとかの放射性同位体とかの客観的エビデンスもないし、こんなんで九州説畿内説なんてなんとも言えんがな >>1
他の地域の特産だからと言って直接やり取りした可能性なんて言えないだろ >>299
とりあえず、神武の東征読め面白いぞ
戦にも結構負けてるし、相手も天孫名乗ってたり
神武からして三男だし 記紀は全然天孫族賛美してない。むしろ貶めてる。
東征でも活躍したの、ニギハヤヒの勢力
一番いい人が、出雲の大国主
天孫系は只の女好きとして書かれている。
あめのわかひこ、あめのほひもだめ
むしろスサノヲ、たけみかづち、ふつぬしの方が活躍してる。
天孫系がやったことは日本の原住民成敗しちゃってるようにしか見えない
もう学会では纒向=邪馬台国で決まりかけてるらしいな
唯一関西憎しの5chでは九州説が多いけど
>>316
正確には5chの九州マンセーの異常な人たちの間では九州説で決まっているらしい(笑) >>316
邪馬台国っていわれると大陸を広大に含むぞ?
首都って言われると日本列島になるのかもだけど ▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』
▼中上健次(和歌山県出身・作家)
『大阪はね、ほとんど韓国と一緒の土地だと思うんです。着るものとか街並みだとか、ものすごく韓国に似てますね』
▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』
▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』
▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』
▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』
▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』
▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』
▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』
▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』
>>316
九州説は本拠地が定まってないのが最大の弱点だわな 奈良は昔も今もクソ田舎に変わりは無い、奈良時代が終わったとたんに奈良は寂れてしまい
現在まで誰も見向きもしない、県内には仕事が無いから住民は毎日京都や大阪に
日帰りの出稼ぎをして暮らしている。博多は奈良時代が終わっても未だに繁栄を続けている
>>322
な?
こういう人が九州出身者の評判を落としている(笑) 渡来人集落畿内のナガスネヒコを神武帝が打ち破ったんでそ?
そりゃ奈良は別に生産拠点として恵まれた国じゃないから、人、物は周辺の強国から徴発して成り立ってたんだから、首都でなくなれば、本来のその国の実力の経済規模に落ち着くだけだよ
京都も似たようなもんだと思う。
>>316
そんなと学会の話をされてもw
頼みの纏向遺跡から大陸系の出土品が全く無いことで邪馬台国ではないと証明されてしまったからって往生際の悪い