内心で石田が勝ち誇り小早川が後ろめたい握手が見える
石田秀雄は偽物子孫
三成の長男重家には妻子はいない
12歳で大徳寺で出家してる
現代日本においては
うちと隣の田中さんちの和解の方がよっぽど重要だという
当初から東軍だった学説てw
どう足掻こうが裏切り者だろ
「諸説あり」で先月と今月やった関ヶ原特集が
いろいろ覆ってておもしろかったよ
今この番組が歴史番組のなかで一番おもしろい
小早川さんは本物の子孫だよ
秀秋の血は全く引いてないけど
毛利家の明治維新への功績で毛利公爵家から分家して小早川男爵家として再興された
小早川家は明治に再興されたような?
元野球選手の小早川氏はその子孫?
三成の子孫はちょっと前まで妙高温泉で旅館やってたんだよな
つぶれたけど
武将の子孫と言えば今は亡き細川隆一郎が本当はうちが本家なんだといって聞かなかった。
ここでも、今でも宇喜多秀家の扱いが空気並なのは・・・・なんなん。
>>10
今はそうなってる
むしろ土壇場で裏切ったのは南宮山の吉川晃司
ちなみに主戦場は関ヶ原じゃなくてその西の「山中」
戦い自体も徳川方の猛攻で一時間で終了 人は記憶型と思考型に大別できる
秀吉が死んだとき既に次の天下人は家康と大方決まっていた
家康は手筋を間違えずに天下を獲ったんじゃね
豊臣秀頼 200万石
徳川家康 240万石
小早川秀秋が裏切ったおかげで、毛利が260年冷や飯を食わされるハメになった
→恨みのエネルギーが倒幕維新の原動力になった
→欧米列強の植民地にならずに済んだ
全日本人は秀秋さんに感謝すべき
>>2
小早川家は毛利から入った養子が明治時代に復興した男爵家でその出自は明白。
小早川男爵は日産の自動車技師で
今回和解したその長男もマツダでRX−7を
孫もマツダでRX−8の開発に携わったことまでわかったるし。
家としての小早川家を相続したのであって長州藩最後の藩主の玄孫で
毛利公爵の曾孫の人だから。 絶対に許さない四天王の一人ってだけで名を挙げたよな金吾。
オレもキレると思う。
>>26 毛利は最初から天下取る気ないじゃん 地元企業 関ケ原で戦ってたら小早川が寝返った、のではなく
小早川が寝返ったから西軍がそそくさと関ケ原に戻ってそこで会戦になった
が今現在の最新の研究結果なんだろ?
>>15
秀秋の血もひいてなくて家を存続させたわけでもなく
たまたま過去に親戚だった血筋が、家名を復興させただけって事か
そういうのに何の価値があるのかね
分家作るのに毛利3兄弟にあやかろうとしただけに見えるが >>27
カープから金で寝返ってジャイアンツに移った奴 小早川秀秋は豊臣の親族で秀吉の養子
秀次につぐ関白承継候補
なんで格下の石田三成に従う義務があるんだ
>>32
じゃあ隆景の子孫ならいいのか?それも残ってるよ。
でも小早川家は明治維新後に復活させたこっちが本家。
まあどっちにしろ元就の血を引いてるんだからいいじゃん。
小早川家も隆景が乗っ取ったんだし。 >>24
マジかよ、面白いな
しかしそこまで食い違うともはや関ヶ原の戦いなんて創作でしたレベになりそう 昔よく飲み屋へ行くと「俺の先祖は殿様だったんだ!」って言い張るおっさんいたよね?
小早川のほうが一方的に裏切り者なのに、よく和解なんかしたな
石田の恥さらしだろ
石田三成の子孫と言えば
自証院、通称・お振の方(? - 寛永17年8月21日(1640年10月6日))
江戸幕府3代将軍徳川家光の側室。千代姫(尾張藩主徳川光友正室)の生母。通称お振の方。
母は牧村利貞の娘・祖心尼の娘、父は蒲生家臣の岡重政の息子・岡吉右衛門。吉右衛門の母(自証院の祖母)は石田三成の娘で、自証院は三成の曾孫。
西軍の負けた理由
1,朝鮮出兵の時に行った損になった武闘派と、朝鮮出兵の処理をした奉行衆達に深い溝ができていた(恨み)
武闘派は家康に近づいて行き東軍に主力になった
2,豊臣秀次を粛正したときに豊臣家の忠臣をみんな殺しちゃった
「謀反じゃない」と庇ったのが豊臣の忠臣で、我関せずの方がどう考えても直ぐ裏切るの分かっていた
案の定、秀次事件の時に我関せずを決め込んだ家臣は全部東軍に行った
小早川秀秋一人を悪者みたいにしちゃったのは、関ヶ原の直ぐ後に病死して死人に口なし状態で
あいつが一番酷いみたいにして世論操作がなされた結果と思う
>>38
歴史群像って雑誌の今月号
新説の関ヶ原特集で面白いよ >>1
一言、くだらないです。
ちょっと前まで刀で斬りあっていたのか?
違うだろ。
心が狭すぎだわ。 >>10
裏切者ってよりはどっちに就くかわからない中立軍。
なんせ東西どっちの軍議にも参加してないし、西軍の陣取っていた松尾山城を攻めて
奪ってるし、勝ち馬に乗ろうとした、もしくは東西両軍の疲弊で漁夫の利を狙おうとしていた
ものと思われる。 小早川秀秋って養子だろそもそも 毛利家の五大老の一人小早川隆景の関係者か
何かなの ついでに吉川広家の子孫でも呼べば完璧なのにw
初めから東軍でも 最初西軍なんだから裏切者だろ
そう考えると裏切者多すぎの戦いだった 毛利も吉川も 天下分け目でも何でもない
秀才と名高い三成をつぶすための戦いにしか見えなくなったわ
やっぱ未来に優秀な血を残すには
一夫多妻制にすべきだと思うんだよなあ
一方、安倍ちゃん率いる長州軍は、被曝の会津藩を今後も見放したままです
和解なんかするなよつまらんだろ
嫌味や罵倒してやれよ
>>55
毛利輝元の器量の無さだよ。
西軍総大将なのに戦場にはやってこないは、吉川と秀元は動かないわで。
輝元が関が原に出陣していたら勝敗は逆になっていた。
爺の元就が心配したとおりになってしまった。 まあ、これは筋肉マンに例えるなら
カナディアンマンとスペシャルマンがお互いの健闘を称えあってるようなモノでね。
何と言うか、うさんくささと恥ずかしさのオーラで溢れていて近づきがたい感じがしますね。
石田家の子孫が青森まで逃げたのも頷ける話です。地元じゃ暮らせないだろうからね。
こういうのは一流所は絶対に出てこないからね。毛利家ですら出てこないからね。
これは和解とか誰も期待してないだろ?やはり合戦だ。
>>43
秀次を処刑したこと自体が、人心の離れるきっかけだったんだろうよ でも、徳川家康もまさか小早川秀秋が味方になるとは思わなかっただろう
小早川秀秋は木下家の出で、おねの親族で秀吉の養子の豊臣の一門衆だからね
小早川秀秋が裏切るような豊臣家だから滅びたと言えるね
>>60
小早川が動かないのは仕方がないけど、総大将の癖に吉川が徳川方になっているとかね 大名家の子孫なんてはっきりいってほとんど他人だろ。お家存続の為に他家から養子入れまくってるしな。小早川秀秋にしたって元々小早川とは関係ない秀吉の血縁だし
小早川と毛利の関係は、隆景が死んでからは切れたも同然。
隆景の遺領三原の相続を巡ってはそれこそ関が原の主役輝元が
光成を交えて、秀元と広家の間で毛利家を挙げての悶着を起こ
してしまった。光成・輝元のボンクラコンビゆえの騒動だった。
養子ゆえ若さゆえに大人しくはしていたものの、結局家康が仲裁
したこの欲得づくの遺産争いに愛想を尽かすべきなのは秀秋の側だ。
秀秋はさらに、受け継いだ家督の筑前領を隆景没後の慶長3年に
一時没収されて、後釜に収まった石田光成に家臣は奪われるわ、
隆景死去や減封やで離反した譜代家臣が毛利へ帰参するわ浪人
するわで、秀吉死後に再度筑前を復領してくれた家康への恩義こそ
あれ、慶長5年の関が原で西軍に組みする動機などない。
伏見城攻略に加わったのは欲得絡みか惰性による若さゆえの過ち。
元が主家筋だから光成の下僕扱いには耐えられるはずがない。
”秀秋”の名が関が原で有名になったとはいえ、隆景が死んでから
岡山藩主になる前までの短い期間だし、それ以前の”秀俊”の方が
今でも一般には認知されやすいから、”羽柴秀俊”と呼ぶべき。
小早川は秀俊の為に廃嫡され毛利に復した秀包の子孫が継ぐのが当然。
石田家との間に遺恨などもとからない。
なんで西軍の総大将を宇喜多が
やらなかったんだ?宇喜多なら朝鮮
出兵で実戦経験あるし石高や身分
からしても最適だったのでは?
毛利なんかは中立守らせておけ
ばよかっただろ。
関が原では宇喜多秀家が一番頑張ったのに影薄いのよね
なんだろう 処刑もされてないし ただのいい人で恨まれる人でもないけど影は薄いと
>>32
価値とかあなたが決めることじゃないでしょ >>69
毛利が自陣営にいることにしたかったんだろうな
求心のために >>69
徳川250万石。
西軍五大老の上杉100万石と宇喜多50万石を足しても勝てない。
徳川を上回るには毛利の150万石が必要。石高が一番高いもんが総大将になるのは当然。
元はと言えば油断のならない徳川に豊臣本家以上の250万石なんて石高与えた秀吉が悪い。 関係者のフリしてドヤ顔企画w
主催者のアタマがおかしいのだけはわかってたw
ゴミ映画w
>>63
秀次いたら家康は天下取れなかった。
秀次はそれほど欠点あった訳じゃないしそれなりにやってるほう。
あと秀吉も秀頼の後見人になれる
人は秀次しかいなかったんだから
秀頼は別家を立てさせ公家にでも
して家継がせてればよかった。
井伊家を2つに分けたように >>72
大阪の陣で真田以上に奮戦した毛利・明石も元は宇喜多家の重臣。
しかし後世の人は真田を語れど毛利を語らず。 >>75
関東移封をエサに潰すつもりだ
ったのでは秀吉は?移封断れば
織田信雄みたいに改易できるから。
ところが家康がアッサリ受けた
もんだから秀吉も目論見狂った >>26
小早川秀秋が決めた訳じゃないからな
有名な弁当話があるだろ 大坂の陣で逃げ切った石田と泳いできた宇喜多が合流しさえすれば…
三成の子孫のおじさん、なんか見た目もイメージのままの三成っぽい。
>>72
島津が目立ち過ぎた。宇喜多の
奮戦より島津の退却が凄かった。 >>32
そもそも小早川隆景からして乗っ取りだし
最初の小早川さんからしたら誰それな話 清正や正則にしたら、
夏の蒸し暑い日中、汗まみれになりながら足を棒にし身を粉にして
得意先の難癖に頭を下げてまわり、理不尽な要求をしてくる新規のご機嫌を取って開拓し、
肝臓に負担をかけたくないけど連夜接待を欠かすわけにはいかず、
やがて女房や子供と疎かになり、いつしか家庭は不和に
それだけ会社の為に頑張っても、評価されるどころか、
社長に気に入られている、自分は優秀だと思ってる
年中空調完備の社内でのんびり仕事してる管理部門の三成が、
嫌がらせをしてくるわ
「つらいわー俺が一人で豊臣産業を支えてる、他は無能ばかりでつらいわー」
とか嫌味を垂れるわ
普通に殺意わくだろw
>>26
毛利はたまたま藩政改革に成功し
たからな。毛利に限らず西日本の
藩は教育に金かけてたとこ多いか
ら優秀な人材が出てきたのが
幸いした 近所の石田さんは三成の子孫と称してるけど、
この石田さんはどこの人だろ?
>>85
一応当主の妹を嫁にして、病弱な
義兄から家督相続したカタチにし
てる。それに吉川家の乗っ取りに
比べたら血生臭くない >>87
三成の場合ノホホンしてるタイプ
じゃないだろ。そのタイプなら
そもそも出世できてない。長束の
ほうが上になってしまうわ。 >>38
家康の天下取りを華々しく彩るために江戸期にいろいろ脚色しまくって
現在の形になったのではとも言われ始めてるな。 >>87
史実の話をすればいいだけのところを、
なんで下手な喩えをしたがるのか 小早川の子孫が本当に謝るべきなのは、宇喜多秀家の子孫か、大谷義継の子孫じゃね
毛利も幕末まで吉川を分家扱い「以上」にはしなかったという時点で
相当だったのだろうとw
>>95
石田なんかを美化したがるおまえみたいな奴に、わかりやすく説明してやってんだよ
同時代人に嫌われまくってた、それが真実 >>94
関ヶ原に限らないけど、通説が実のところ怪しげな出所が元だったりすることは多いしなあ 子孫なんて結局その時の苦しみや恐さを知らないからな。
何十万人という人間が集まり殺し合いのさなかの裏切りの絶望感、怒り、そして捕まって処刑とか、子孫にはわかるまいよ。
俺も嘘か本当かわからないけどお爺ちゃん曰く、坂本龍馬と楢崎龍の直系の子孫だそうな。
表沙汰にすると暗殺されるから苗字も変えてずっと隠していたと。
更にさかのぼれば武田信玄の隠し子の直系でもあるそうな。
小早川隆景も親父の元就の命令で小早川家に養子に行ったんだから
小早川家の血筋とかまあどうでもいいよ
400年前関ケ原の因縁の武将の末裔だとあまりピンとこないけど
150年前幕末維新だと因縁は結構残ってるんだろうな、長州と会津とか、水戸と彦根とか
観音寺ではなく、高宮(彦根)で儀式をすりゃいいのに
高宮は、秀秋が様子を見るため逗留した場所だ。
そこに大谷刑部がやってきて、
「殺しはせぬ…。殺すどころか、関白に奉るとかよう申しておる…」
「病、病と逃げ口上を申すぬぁ!憚りながらこの大谷吉継、業病を、推してかくの如く、推算つかまったぁ!」
と、怒っていた
>>103
長男以外は養子でもいかなきゃ
部屋住みだもの。あの当時の毛利
家はせいぜい10万石超えた程度
の豪族連合だったから別家たて
る余裕もない >>77
糞ボンクラでも殺しちゃあダメだろ。それだけで、この人にはついていけない、ってなるわな。
ましてや、係累から付け家老から連座処刑するは、赦免の弁護をした家臣から処罰するはでは、
荒事が得意な戦国時代のお武家さんでもみんなドン引きだぜ >>43
糞漏らした事言いふらされてバカにされても天下狙うコンクリートメンタルかどうかの差だろ >>107
最上家の駒姫の話みたいに偶然
巻き込まれもあるからな。あれ
では恨み買うわ。
駒姫の話は淀や三成も助命嘆願
側だったくらい酷い話 >>10
本当にそれな
そもそも東軍一派が裏切り者の集まりなんだから、最初から裏切ろうが後から決断しようが裏切り者は裏切り者で変わりはないんだよな
もちろん、薄汚い裏切り者でも勝ち組に属した慧眼と運は称えられて然るべき >>26
総大将なのに日和見してたから負けたんだろ
被害者ぶってんじゃねえよ
因果応報じゃボケ >>108
家康並の戦歴キャリアもいない
だろ?それに近かった前田利家
もすぐにいなくなり、上杉は
外に出てこず島津は主力部隊
は連れてこれずと運もよかっ
たんだわ。 同じ裏切り者でもなんで鍋島は
責められんのだろ?西軍参加して
城攻めしながらも直前で日和見
こいて兵糧を東軍に献上。挙句
に西軍についた立花の城を攻め
たりとえげつないんだけどな
>>110
まあただ布陣する時点で腹くくって東軍に鞍替えしてたのと
戦闘中も日和見まくって鉄砲撃ちかけられてビビって行動開始とでは
イメージ全然違うわな。 東軍から西軍に寝返った者もいる。鳥取城主宮部継潤だ。亀井滋矩に町を焼き討ちにされて降伏。弘前に流された。
蒲生氏郷の親父みたいにいきなり
織田に寝返らず、主君の六角側に
ついて義理を果たしてから織田に
投降して名声上げたように裏切り
方一つで評判変わるからな。
>>115
宗茂だって降伏したあとは徳川の心証を少しでも良くするために
直前で中止になったものの島津攻めの尖兵を率先して請け負ってるからなあ。
佐竹だって関ヶ原の結果知った時点で上杉攻めの準備開始してるし、
みんなえげつないけど、当時としては当たり前の感覚だったんだろう。 小早川秀秋を裏切り者で嫌いな人は豊臣ファンってこと?
家の庭に問鉄砲を撃たれて、ビビって和解対談に応じたらしい
関ヶ原はねねと淀の戦い、豊臣の内ゲバって話もみたよ
鍋島直茂は時流を見抜くのは天下一品だったんだろう。結局その選択は正しかったんだから
立花宗茂は西軍について改易されたのにその後大名にまで復活したのは有名
この二人は優秀だったんだ単に
裏切りで失敗した人
明智光秀
小早川秀秋
小山田信茂
朝倉景鏡
遊佐続光
>>120
裏切りにも心証の良し悪しあるん
だよな。鍋島の裏切りは東軍から
も其れはないだろと非難出たけど
立花は瀬田橋焼かずに撤収、
途中親父の仇島津義弘を討てる
チャンスあったのに見逃したり
して賞賛された律儀者もいる >>124
立花は関ヶ原の退却時の出処進退
が立派だったし、本多忠勝と並ぶ
名将扱いされていたのが利いて
大名に復帰できた。西軍についた
のも単に豊臣政権の命令にした
がっただけと思われた 相手は石田より
「小早川は人面獣心なり!」と叫び、 裏切り者に囲まれて切腹した、大谷吉継とも和解すべきでしょう!
あ?
参考画像、敦賀市がイチオシのユルキャラ「ヨッシー君」ですwww
鍋島も今で言うならイトーヨカドーを乗っ取り成功した鈴木家みたいなw
鈴木家は失敗したけれど
がしかしその後の島原の件といい化け猫騒動といいよく生き残ったものだ
>>28
小早川家の当主が一企業のパシリか、悲しいね。
日産を経営する側にならないと、ご先祖様は嘆いてるだろうな。 >>129
乗っ取りといっても龍造寺一族は
まんま鍋島についてるから無血
クーデター。クマーの人望の無さ
と倅がダメ過ぎた。
粛清なかったから領地の整理が
出来ず幕末まで財政圧迫の原因
にもなった >>131
もともと小早川家は三原の豪族
なんだから一流企業にいけただけ
でも凄いことかと >>132
その前段階として半島出兵時に「絆」が出来たのよねと >>134
直茂自体もかつて大友
軍を退けた強者だったから尊敬
された。なんせクマーが晩年
酷いことやり過ぎて家臣からも
人望失ってたことが一番大きい。
龍造寺のクマー以上に残酷なやつ
いたか疑問 鍋島も立花も斜陽の主家を支えてやるだけはやったのよ
石田の子孫は津軽藩士だろ
娘が嫁に行って弟が続いてる
山口県や鹿児島県人と福島県人は未だに微妙な空気あるって本当?
会津戦争の名残りで
福島の娘が山口の恋人連れてきたら
山口県の男なんて結婚は許さん!みたいな
>>138
こんなコピペあったぞ
長州力
新日本プロレス会津若松興行で
「長州へ帰れ」コールが起きたのはガチ >>138
会津のバスガイドさんの定番ネタらしいから 輝元〜手はずどうり動かず、吉川モロ内通、 金吾‐誹りを一身に背負い一族の生贄=汚名末代 ∞
小早川って早死にしたんだけど子孫いるんだな。三成も然り。
>>1
> 石田秀雄さん(67)が秀秋を「勇将だ」とたたえ、小早川隆治さん(76)と固い握手。約400年越しに“和解”した。
さすがにそれはねーわw 木下家って秀秋と秀頼息子の「伝説」があるんだよなw
小早川秀秋は備前美作55万石に加増されたが、東西両軍から白い目で見られ、酒浸りになって家来を手打ちにしたりして、精神が衰弱して死亡しましたし、
赤座直保は土壇場で寝返ったのが士道に反するとされ、改易され、大門川を渡る最中に突然落馬して溺死したが、
これらはみんな、盲目の智将・大谷刑部の祟りだって話だよ
何それ?金正恩とトランプの子孫が数百年後に和解するみたいなこと?
>>146
朽木さんなんかわざわざ手紙を出したのにもかかわらず
「別段あんたが居ても居なくても無問題」と言われたとかでwww >>60
そりゃ、隠れ三河だからさ
三河の王にははむかわんよ
無理、徳川と毛利は裏で繋がっている
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
明治維新とは江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲り
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
徳川幕府は崩壊していないわな
http://books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司))、 >>144
小早川秀秋は文禄の役だかで敵陣突撃やった話が残ってるから、其れなりに覇気の有る人物だったかも…まあ、将帥としては問題大ありかも知れんが。 >>77
三河に勝ったねーのに、勝てるのか?
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平 武士は平安時代末期まで遡って考える
センゴク(笑)だけ切り取ってあーだこーだやっているからみえてこないんだよ
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
まあ、チミたちもこれからは私には最大限の敬意を払うようにね。
まさか、あれだけ天皇を敬うと言っていた全体主義の知恵遅れの安倍ごときが天皇の直系の血を引いた
清和源氏が桓武平氏の私に頭が高い行いをするなんて事はないだろうがねw
本当にこのクソの国はどうしようもない国になったが、俺はアメリカ移民だからね。
土人と化した日本人なんかもはや信じるに値しない、それだけの話です。
頭が高いというのは順位制社会の文化でね。
文字通り、チミたちより私の方が頭が高いんだよ。
まあ、身長182cmの私は最初からチミたちより頭も高い位置にあるけどね。
なかなか面白い第一部の終りだったね。
これはハリウッドで映画化しよう。
原家はアメリカではハーラーという名前になるからね。
ドイツ系アメリカ人の方にはミューラー氏という名前があるしね、丁度いい。
冗談じゃないよ、冗談で私は助けを求めたりしないしね。そして私は約束を破らない、時間がかかろうがね。
チミたちクソのような土人とは違うのだよ、天皇の直系だからね。
>>2
石田の子孫は結構残ってるんじゃないの?
ひ孫なんかは家光の側室になってるし >>79
そこが物を知らない田舎者、尾張の田吾作だわな
伝統的に関東は三河の植民地で、三河マンセーなんだよ
そんなとこに転封させて、どーすんだつー話
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼 >>161
はいはい長文の釣りご苦労さんw
天皇の直系がクソなんてお言葉をお使いになられるのですね
天皇の品位も地に落ちましたな >>64
むしろ北政所(おね)が家康の依頼を受け、秀秋や福島正則ら豊臣系武将に東軍に付くよう働きかけたと言う説もある。
おねはおねで大将の器量と言う観点では三成では家康に遠く及ばず(名目上の大将である毛利輝元は大阪から動かないので論外)、
関ヶ原の戦いは東軍が勝つと予想していた。
その際この戦を徳川VS豊臣と位置づけられ、しかも豊臣系武将が西軍一点張りしていたのでは、
それを口実に一気に豊臣家滅亡につながりかねない。
そこであくまで関ヶ原は徳川VS反徳川の私戦と位置づけさせ、豊臣系武将を戦勝側に潜り込ませることによって
戦後も豊臣家の存続を図った、とする説である。
福島正則や、秀秋(朝鮮の役で三成に讒訴された経緯がある)ら、元々三成と不仲だった武将が西軍に付いたところで
確実に西軍が勝てた保証はなく、関ヶ原の後も15年は豊臣家が存続した史実を鑑みるなら
北政所が安全策を採ったとする説もあながち荒唐無稽でもない。 北政所は、天下を穏便に徳川にスライドさせ、大坂在城を認めるか認めないかは別にして、いち大名として、豊臣氏存続を期待していたとの説である
明治になって、復興させた小早川家って、小早川隆景の異母弟で養子の秀包の
子孫からでは無く、輝元の次男 就隆の子孫なんだね。
>>167
へえ
じゃあ毛利の血筋が完全に乗っ取ったってことか >>166
いつまでも豊臣の天下にこだわった淀と譜代大名はアホだったんだね
徳川の世になってたし
一大名になってれば生き長らえたのに >>168
長州藩主は、輝元の長男 秀就の家系が4代まで、
5代目から13代までが穂井田元清・秀元の家系で
14代目で 輝元の次男 就隆の子孫になって
隆元・輝元の家系に戻っている。 日本は血はあまり重視しないんだよ。養子迎えても家が続けばいいのよ
代々家中が食える会社みたいなもんだからw
戦国時代が一番人気あるのは最期の豊臣家の派手な滅亡も大きな要因だと思う
結構以前から小早川秀秋は朝鮮での怨恨から元々親徳川反石田で
領地の関係で西軍に無理矢理組み込まれていただけだったんで
関ケ原開戦以前から西軍の指示に全く従わない状態になっていて
戦が始まったらすぐ東軍として参戦したって話はあったね
もともと隆景が毛利家に秀秋入れる
の阻止するために犠牲になっただけ
だから。
腐っても大江氏の末裔と名乗る家
だから秀秋なんか入れたら元就が
悲しむ
ある小説では、毛利本家養子に秀秋を入れるのは神殿の壁に糞を塗るようなもので、分家の隆景が、本家に回された毒杯を、やむなく、代わりに飲み干したみたいな比喩で描かれていた
勝手に和解して大丈夫か?
あの世に行ったときに怒られるだろ。
石田三成の次男の家系が、津軽藩杉山家として存続した。
官位官職授与一覧
正一位 関白 豊臣秀吉
正一位(死後贈) 征夷大将軍 太政大臣 徳川家康・秀忠・家光
正一位(死後贈) 太政大臣 岩倉具視
従一位 右大臣 織田信長
従一位 一等公爵 徳川慶喜
従一位 勲一等 大久保利通
従一位 大勲位 中曽根康弘
正二位 右大臣 豊臣秀頼
正二位 徳川歴代将軍
正二位 首相経験者(死後贈)
贈位者:岸信介・佐藤栄作・吉田茂など
贈位予定者:小泉 安倍 麻生など。
従二位 権大納言 前田利家
従二位 関東管領 上杉謙信
正・従三位 都道府県知事級
従三位 甲斐信濃守護職 武田信玄
正四位 海援隊 坂本龍馬
いやいやいやいや、勝手に和解してんじゃねーよ。
殴り合えよ。
>>44
そんなおもしろおかしくもない、新説、誰が受け入れるよ?
事実なんて正直どうでもいい、人は歴史にロマンを求めるもん。
まあ歴史なんてのは大抵もっと単純だったと思う。
明智光秀「むかついたから。」
浅野内匠頭「むしゃくしゃしてやった。」
栗田健男「疲れたから。」 北政所に関しちゃ「真田丸」の描き方が案外正鵠を得てるんじゃないかと思う。
奥のまとめ役としては有能だったが、やっぱり秀吉あっての人で
秀吉没後は移り変わる状況に対応できず、右往左往してただけなんじゃないかな。
だとすれば関ヶ原以降の彼女の存在感の薄さも納得できる。
大谷吉継らの軍勢は奮戦の末に皆殺しにされてるんだし
仲直りも糞もないよなあ
ただ、秀秋自身は最後までどっちにつくか迷ってるだけで
東軍に合力する算段は稲葉らの側近が段取りしておいたわけで。
家臣は相当優秀だったみたいだな。
勝手に和解するなよ。
「裏切りをしたことは、末代まで語られるべきだ」と、縄に縛られながら秀秋に言い放った三成の立つ瀬がないだろ
戦国時代の大名の子孫って江戸時代は、どんな身分で生きてたんだ?
農民から、やり直し?
旧福井藩の大谷丹下家の子孫も居れば万々歳だったか?w
武士の子孫を選べるなら俺はやっぱ真田幸村だな
次点で宮本武蔵かな ちと微妙だが
選んだ基準は遺産とかは抜きにしてだぞ
そうしないと大大名か将軍クラスになっちまうからな
こんなのごっこ遊びと変わらない
祖先たちは命懸けだったのにね
小早川の血筋は桓武平氏で毛利系の隆景が養子に入ってその養子が木下系の秀秋で無嗣絶家
明治になって毛利家が小早川の家名を再興しただけで小早川家の子孫ってのは違和感あり
コバヤカワ 、カタカナで書くとなんかロシア人みたいね。
ひょっとして秀秋は出奔しロシアに渡って、にせ皇太子になって大動乱を引き起こしたのではないだろうか。
和解してどうなるの?当時の対立や紛争、裏切り行為が遡及的になかったことになるの?
>>198
たしかに、真田幸村の子孫なら戦いに敗れたとはいえ末代まで自慢できるでしょうね、
家康の破格の誘いを頑として断り、あくまで秀頼様に忠誠を尽くして、圧倒的な大軍
を相手に奮戦して日の本一の兵とまで呼ばれたわけですからねぇ、それに比べると
小早川秀秋の子孫は戦いに勝ったとはいえ裏切りをしたわけですから、子孫はあまり
うれしくないかもしれませんねw 小早川の子孫って、小早川隆景の子孫がいるだけだと思うが。
小早川秀秋は、既に実子の居た小早川隆景の養子になって、子孫を残さず死んだ。
小早川隆景の実子は長州藩の名門一族として存続し、今もいる。
>石田秀雄さん(67)が秀秋を「勇将だ」とたたえ、小早川隆治さん(76)と固い握手。約400年越しに“和解”した。
昔はともかく、関ヶ原の時点で既に小早川秀秋は半廃人だろう
和解するなら、まず三成と秀秋に会って許可をもらい、委任状をもらってくるべきだ。
と、直江謙続みたいなことを言ってみる
裏切りで地の底まで堕ちた家名を継がせるとか、むしろ嫌がらせだな
よく受けたもんだ
毛利でいいじゃん
小早川も石田も歴史上で悪役にされちまって気の毒だよなぁ
家康が悪いw
>>210
豊富滅ぼして戦の世収束させてこうとした家康の部下がもし三成だったならそれはそれはいい仕事したんだろうなあーと思うなあ
もしがあったら 三成はもう悪役って感じじゃないな。忠臣として描かれてる方が多くね?むしろ家康の方がw
何馴れ合ってんだよ殴り合いで決着つけろや。この卑怯者!(´・ω・`)
三成はべつに悪い事はしていないでしょう、あくまで豊臣家をお守りしようとしたけど
力が及ばなかったというだけの事であって。
>>216
天下統一しちやってた頃だったか三成みたいな官僚は仕事あっただろうけど武闘派からしたら口先だけのお調子取りにしか見えないだろうね >>214
そうでもない。
石田が豊臣政権を亀裂させなかったら、加藤清正や福島正則らが関ケ原で徳川家康の味方をした可能性は低いだろう。
石田三成は、豊臣政権を分断した政権内の害虫だったと私は見る。 で、NHKオンデマンドで儲けるの?
そんな番組、勝手に創って、受信料ボッタクリかよwwww
>>218
たしかにそうかもしれませんね、戦国の世しか知らない武闘派にとっては官僚的な三成の存在意義は
理解できなかったのかもしれませんね、三成は時代の変化による価値観の変化のあおりを受けて
しまったのかもしれませんね。(^_^) >>219
加藤や福島がもし三成嫌いだけで家康についたなら
感情で動くバカが豊臣を滅ぼしたことになる。 >>219
朝鮮出兵の時のこととかで武闘派とは完全にソリが合わなくなってた。
そもそもは亀裂の原因は家康側にあった訳で
三成自身は豊臣家のために動いてだけ >>206
隆景の子孫はいない
秀秋の前に養子だった秀包は元就の9男(隆景からすると年の離れた弟)
秀秋が養子に来たので養子縁組を解消し、別家を立てて秀吉に大名に取り立てられて小早川を名乗っていたが、
関が原後改易され、輝元に臣従して毛利に復姓して、本家の家臣になった
この秀包を祖とする家も明治まで続いたけど、この家が小早川に復したわけではなく、
別の毛利の本家の子孫が小早川家として明治に新たに建てられた それが>>1の子孫に続く >>221
秀吉が悪いかなあ
家康は豊富滅したあとの仕事は武闘派の力を弱くしようとしてた。 >>222
その程度のことだったと思いますよ。
加藤清正は関ケ原の後、自分だけで豊臣秀頼を守るとして
熊本城改修(田原坂など北側強化)などに着手するが、
突然死であっけなくこの世を去る。
脳溢血とされているが、どうなんでしょうね。 >>222
以外と感情だけかなあ、と俺は思う
一様建前は家康も豊富の為ということだったから 三成は時折あった秀吉の過ちを一身に受けて他の家臣から誤解されたのもありそうだな
まあ現代でも、東大出のエリートの上司って言うのは、意見を言う時理路整然として全くもってごもっともだが、
言い方が機械的なんだよね。
まあ、中卒の叩き上げ連中がこういうのを嫌うっていうのもわかるが、
豊臣分断の責任は、石田側にも清正側にも同等の責任がある。
やっぱり、僕は小早川秀秋はどうしても好きになれないわwいくら勝つためとはいえ
人を裏切るなんて、やっぱり人の道に反しますからねぇ、僕だったらたとえ戦い敗れて
討ち死にしてでも、最後の最後まで忠節を尽くす生き方を選びたいですね、その方が
たとえ死んでもすがすがしいじゃないですかw
>>226
福島は飛ばされたよね。
秀吉もそおいった仕事しておけばまた三成のその後も違ったかなあ >>229
いや、その責任は家康だけかなあーと俺は思う >>230
まあね。幸村なんか全然大した武将じゃないのに人気あるもんね >>225
まぁ、誰が悪いと言うより、時代の変化についていけなかった武闘派が悪かったと言える
でしょうね、それにしても、秀吉はいろんな意味で運が無かったと思いますよ、とくに秀次
を還俗させた後で秀頼が生まれたため秀次を殺して豊臣家の屋台骨をもろくした事が
致命傷になってしまったように思いますね。 >>230
裏切り自体は戦国の世の常。
親父の宇喜多秀家の方が色々えげつない。
信長の親父とかも和歌友達の家に泊まりに行って
そのまま寝込みを襲って乗っ取るとかやってる。
ただ戦闘が始まってから裏切って背中を襲うのは流石にルール違反w
大名クラスでは殆ど例がないんじゃないかなぁ。 >>233
まぁ、家康の破格の誘いを断固として断って、戦況が不利である事はわかっていながら
最後の最後まで秀頼様に忠誠を尽くして大軍を相手に奮戦した真田幸村の姿に現代社会
では失われてしまったものを大衆は感じ取ったのかもしれませんね、今の世の中、勝つため
なら平気で人の道に反する事をやる連中ばかりですからね、だからこそ真田幸村のような
すがすがしい生き方を貫いた武将に人気が集まるのではないでしょうか。(^_^) アル中のホモってところがまた嫌われ要素を倍増させている
三成は観音寺に出家していたから、
その精神は仏門を拠り所にしたと
思うのが自然
秀包の家系、吉敷毛利家でも秀包からの血統は
3〜4代ほどで断絶し、分家間や本家からの養子縁組で
続いている。出奔して西南戦争で戦死した元当主がいたり、
藩士の子を当主に迎たりして実に面白い。
小早川にこだわらなきゃいけない家でもないし、
知っての通り、幕末の毛利家自体が自由な家風だ。
なんか違うよね?
「小早川家の子孫」というなら毛利家系のこの人でいいかもだけど、
「小早川秀秋の子孫」って言うなら秀吉か親戚の杉原(木下)家の系列の人にして欲しい。
>>235
たしかに、戦国の世では時には汚い事でもしなければ生きられない事もあったのでしょうねw
でも、まぁたぶん僕にはそんな人を裏切るなんてマネはできそうにないから、もしも僕が戦国時代
に生まれていたら真っ先に殺されてるでしょうねwwwワッハッハ(^O^) 朱子学が体系的に入ってくるまでは
大体戦国みたいにに自分や自分の一族の方が大事で、
主君や組織裏切ったりばんばんあって、親兄弟とまで対立したりして
そっちがどちらかというと世界的だよね。
当時でも忠義貫いたりは美徳だけど、大勢はそうじゃない
てか江戸初期の宮本武蔵の武勇伝を見ればわかるが
一対一の決闘だって言ってるとこに弟子連れて殴り込んだり
隠れてだまし討ちにしたり
ああいうのが「武士道」とかいう、平和な時代にいくさエアプ勢が作った宗教じゃない
本物の戦い方だから
>>244
まぁ、戦国時代には戦国時代の価値観がありますから、現代の価値観で当時を評価しても
あまり意味は無いのかもしれませんね、もっとも、今のような平和な時代では真田幸村タイプ
の方がやっぱり人気がありますね。 >>245
戦国時代の武士道は勝つための武士道でしたが、江戸時代に入ってからの武士道は
治安を守るための武士道になりましたから、現代に残っている武士道では卑怯な事は
武士道に反するという事になりましたからね。 徳川以外の五大老。
前田(83万石)→徳川に難癖つけられ征伐されかけ
母親を人質に差し出しごめんなさい。加賀100万石を築く。
上杉(120万石)→直江状で喧嘩売り征伐されかけるが三成挙兵で 一命をとりとめる。
直江の追撃案を景勝が却下し最終的に米沢30万石に転落。
毛利(120万石)→静観を条件に領国安堵を引き出すも
大坂まで出張っていた事を咎められ防長二国36万石に転落。
宇喜多(57万石)→五大老で唯一関ヶ原で奮戦するも金吾裏切りで総崩れ。
前田家から援助されつつ八丈島ライフを楽しみ天寿を全うする。
>>245
武蔵のはいかに生き残るか的なサバイバル的なものだからね
現代で言われるような綺麗な武士道じゃない
一対一の剣術はそこまで言われるような強さはないだろうね だから何なんだよ、アホらしい
クズの子孫もクズばかり
>>245
武士は犬ともいへ、畜生ともいへ
勝つことが本にて候
名将朝倉宗滴の言葉 イクサも外交の壱ヶ 家康は事前のロビー活動が上手いと思う
戦争は悲しい、悲劇、絶対ダメな風潮なのに
戦国時代に関しては堂々とロマンがあるとか言える風潮ってなに?
時間の問題なのか内輪(自国)での出来事だからか
資料的な物のリアリティさもあるのかな
石田秀雄
本当に石田三成の末裔なの?(´・ω・`)
信憑性のある話では本当の末裔は青森の津軽藩に引き取られたとかあるらしいけどさ
つーか、近頃出てくる明智光秀の末裔とかも超胡散臭いんだよね
あと、クリス・ペプラーとかもさ。
織田信成なんて論外だし
しかし、昨今の歴史ブームで自称○○の末裔が本当に多いわ
>>129
コンビニ中興の祖、鈴木会長は伊藤名誉会長に首切られたじゃない? >>253
日本人のnhkの大河ドラマ好きは、放送による洗脳の影響ですね。 こういうネタでSMAP再結成という流れにしたいのか?
>>253
遠い過去だから時間的なものもあると思う
そりゃ当時の武士以外の人はみんな戦は嫌がってただろうからね
農村なんか男手がいるのに戦に駆り出され畑は戦場になれば荒らされた訳だから
でもやらなきゃ仕方ない的なものはあったんだろう
でもそれらの事も踏まえて今の歴史を作ってきたのも事実だから
終わった事はロマンでいいけど今はやっちゃいかんって事だよ >>257
江戸時代からずっと戦国時代の題材のものは庶民から親しまれて読まれてた
それ以前の源平物も >>240
結構どろどろやど?w
後期に藩主が相次いで死亡時なんか分家筋が裏で工作して妙玖の血筋を「絶やす」
結果現在までの毛利の血筋は4男・穂井田の血統 >>237
夢の無いことを言うと、徳川方から10万石やら信濃一国とか言われたところで信用が出来ない
(何らかの理屈で反故にされる・実行されたとしても先行きが危ない)
徳川方での真田家の存続は図られているっていうところで、
一花咲かせた方がいいと考えてたとも思われる 大坂の陣の結果
家康の馬印倒れる
家康切腹寸前
家康逃亡
というだけで大手柄だからな。
大名は家康ザマーw真田はすご
いと名前がしっかり残った。
家康は人生最後の戦で馬印を
倒される大恥かいた。
>>243
小狡く生きるのが賢い倫理観だからな
無策はただの馬鹿と言われる時代だ >>253
生き様だろうな
現代では到底出来ないしやったら捕まる時代だ
男女ともに強い男への憧れはあるんだろ
後は判官贔屓
自分は長宗我部家が好きだがあの家も波瀾万丈なドラマと栄故衰退があるからな >>266
それでいてある程度倫理感無いと
ただの裏切り者扱いされる。
裏切りもやり口が汚すぎると当時
でも蔑視された >>268
勿論後々自分の正当性を主張出来るか考えてから行動しないのも馬鹿だからな >>268
自分の方から裏切らなかった
真田とか
寝返るけど、最後には足利尊氏の元に戻ってきて
そのことでアドバンテージもたらした佐々木道誉とか
裏切りにしても一本筋が通ってないと誰も信用してくれなくなる >>208
いえてる
先祖が情けない子孫を持ったと憤ってると思う 今は江戸時代って関ヶ原合戦からなのか?
大坂戦役終了を以って江戸時代開始ではないんかい?
蒲生氏郷の親父が典型的。みんな
六角から織田に寝返る中、すぐに
寝返らず六角氏に義理は果たし
てから投降。結果律儀者として
重用されたわけで。
宇喜多直家の場合は一度家が滅亡
してゼロからのスタートだったか
らなのと、裏切った時タイミング
よく秀吉に取りなしてもらえた
>>272
家光が上洛して以降政治の中心は
完全に江戸に移ったからそこから
だと思う。戦国武将もそのころに
は大方死んでるしな >>245
戦国時代に武士道もくそもなく。
勝たなきゃ意味がないと >>272
秀吉以降は戦国時代とはいえないから微妙な時期だよな 実質的にゃ北条が滅んだ時点で終わってるよな戦国乱世は
>>274
家光は伊達政宗とか立花宗茂とかしばしば夜伽にお召しになってたというが 小田原征伐以降は秀吉の錯乱自滅劇と
家康の堅実なサクセスストーリーだからな。
タラレバは禁句と知りながらも、
三成決起がなかったり利家が長生きしてた場合の家康の出方は気になるが。
>>277
伊達等の参陣と小田原開城で、対抗可能な勢力が無くなった
小田原にいた関白秀吉が天下統一して戦国時代終了、の認識で間違いない
その後は統治体制の内紛と実権移行の争い
伊勢家(いわゆる後北条)の興亡がそのまま戦国時代になる、という説もおもしろい 三河政権たる室町幕府のラスボスである家康の関東転封は、三河の足利将軍家家臣団と関東の関東公方家臣団の合体わや意味する
三河政権たる室町幕府は滅んでいないのに、猿吉一味がいつ天下を取ったんだ?
室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動
関ヶ原の後の徳川幕府で大麻が流行ってからこの時代の先祖を持つ人はやってみれば良いよ
>>243
おまえみたいなのが、一番信用できないんだよ。
(って、お約束のツッコミだ。)w 石田三成は許してないのに
子孫が和解しても無意味
こういうイベント馬鹿馬鹿しいから止めろよ
,滋賀すげぇえええええ 完全に大阪超えキタぁあーーーー
【現代的新しい価値・文化の創造】
1.ゆるキャラ(ひこにゃん)
2.イナズマロックフェス (西日本最大)
3.オペラ
4.ビワイチ(自転車 琵琶湖一周)、ウォータースポーツ、グランピング
5.ラッピング(路面)電車
【著名な観光地】
1.比叡山延暦寺、三井寺、石山寺、坂本・日吉大社、近江神宮、おごと温泉、びわ湖バレイ
2.彦根城、安土城
3.長浜黒壁、竹生島、多賀大社、メタセコイヤ並木、湖東三山・鶏足寺・永源寺(紅葉名所)
4.八幡堀、近江商人屋敷、水郷、ヴォーリズ建築(旧豊郷小 他多数)
5.信楽焼、琵琶湖博物館、佐川美術館、MIHOミュージアム、甲賀流忍者
【美味名物・食文化】
1.近江牛、鴨料理
2.鮎、ビワマス、ホンモロコ佃煮、ふな寿司
3.焼き鯖そうめん、近江ちゃんぽん、比叡そば、伊吹そば、来来亭
4.近江米、近江野菜、朝宮茶、近江の地酒
5.叶匠壽庵(和菓子)、クラブハリエ(バームクーヘン)
大阪 → たこ焼き(笑)串カツ(笑)ハルカス(笑)偽大阪城(笑)道頓堀(笑)橋下劇場(笑)
.
>>166
淀君を人質に出せば、家康は秀頼の大坂在城は認める方針だった。
しかし当の淀君が激怒したため徳川との対立は決定的となり、徳川方は戦をしかける口実を絶えず探していた。
それが例の方広寺鐘銘事件へとつながる。
そう言えば秀吉は家康を懐柔するに当たって実の妹、次いで実母を一時人質に差し出している。
確かに小牧長久手の戦いのような局地戦では家康が勝利したものの、当時の国力差から言って
総力戦になれば恐らく最終的には秀吉が勝利しただろう。
にも関わらず「戦わずして勝つ」ため敢えて懐柔策を採り、それで本当に家康を臣従させることに成功する。
自分が優勢であったにも関わらず天下取りのためには実母すら人質に投入する辺り、
やはり秀吉の戦略眼は優れていたと言える。
ところが秀頼の時代には既に徳川と豊臣の力関係が逆転していたにも関わらず、
その時勢を読める人材が誰もおらず(いたのかも知れないが淀君を抑えるだけの説得力がなく)、
結局それが豊臣家滅亡へと直結した。 関ケ原参戦した唯一の五大老宇喜多軍の影の薄さは異常
もうちょっとかまってあげて!
>>291
秀吉に戦略眼があったなら、自分が元気なうちに
出来るだけ徳川を弱めておくべきだったな >>294
淀殿には、「浅井や柴田を滅ぼした秀吉に復讐」が本音としてあったという説がある。 >>296
それありそうね
サルに嫁ぐなんて屈辱そのものだっただろう
秀頼も別の種だし
秀吉への復讐劇か >>291
秀吉の戦略眼は優れても人の見分けと活かし方はどうかな
関ヶ原で豊臣恩顧の大名が相次いで徳川に付いたのは三成にかなり原因があるんでは
確かに家康は五大老として決められてる事を破り勝手な振る舞いしたけど、それを反家康として自分に付かせる事は出来なかった人望でしょう?
戦場の経験少ない官僚系の三成をその位に持って行ったのは秀吉であってその後の譜代大名の反発も予想出来なかった
関白職にした甥と一族を惨殺したり朝鮮出兵からなかなか手を引かなかったり晩年の秀吉はおかしい >>276
そもそも安土桃山時代があるがな
一般的には戦国時代からいきなり江戸時代じゃないぞ >>299
関ケ原で悪さした吉川広家や小早川秀秋は元々家康派だったわけだし
盟友の大谷吉継すら泣き落としで味方に付いてくれただけで家康に取り込まれてくらいだからな
確かに光成は嫌われすぎだし徳川に一定の人望があったのは否定できない >>285
早めに降伏しなかったらだろ。
会津戦争に長州は間に合ってないし。 >>299
確かに天下を取るまでと、そこから先が偉い差だしねぇ。
無論戦略眼と言ったのは天下を取るまでの話であって、晩年の老耄は目を覆うばかりの惨状だった。
例えば朝鮮出兵もわざと狂気のフリをして断行し、その際徳川軍を主力として現地ですり潰すのが
真の狙いだったと言うならまだ話はわかる。
しかし実際にはもっぱら豊臣系大名を主力とし徳川はむしろ国内の抑えとして残した辺り、
どうも本気で朝鮮征伐に成功すると思っていたらしく、豊臣系大名の加増のため手柄を立てさせ、
すなわち景気対策、失業対策のためだけに戦端を開いたフシがある。
敵が朝鮮だけならそれも成功したかも知れないが、実際には明の援軍をも相手にする羽目になった辺り
それがどれだけ希望的観測だったかは史実の示す通りである。
この頃既に相当おかしくなってはいたんだろうな。 YOSHITSUGUの気持ち考えたら、和解なんてできんわ
>>304
織田信長が桶狭間で鉄砲を使ったわけなので、秀吉の晩年になると鉄砲部隊を
作って、軍隊の近代化を図ってなければならなかったはずなのにどうして
そうならなかったんだろうね?朝鮮出兵のときのことだけど 片倉重綱を男色的な意味でストーカーしたのには引くわ
そして「俺の言うことが聞けないのか、一晩ぐらい我慢しろ」と返す
主君伊達政宗w
しかし、2ちゃんつか5ちゃんも劣化してきたな
大阪の役が終わって、戦国時代が終わって元号も元和偃武を意味する
元和になったのも知らんのが、したり顔で書き込んでみるとさ
大体、知ったかぶりするのは安倍信者なのが定番w
こういう話時々出てくるけど、武将の子孫なんて実は何千人も居るから
そのうちの一人が別の武将の子孫の一人と和解したって何の意味もない。
>>307
桶狭間で使ったっけ?
戦前は「俄か雨の混乱」
最近は「西からの強襲」が勝利の原因とされ、
槍や刀ばかりが出てくるのだが。 >>312
一応、家督制度は昔の武将さまクラスだと結構、続いてんのよ
そんじょそこらの子孫ではなく宗家として続いてるわけで
徳川家もフィリピン人女性と結婚してしまったが、今も続いておりやす
厳密に言うと、高須三兄弟で会津藩主容保公の血が濃いけど 豊臣秀吉によると、明征服の暁には、後陽成帝を北京にご動座願い、東アジアの皇帝となし、北京周辺数十ヶ国を朝廷御料として差し上げ、
北京の関白には豊臣秀次、内地の関白には宇喜多秀家か豊臣秀保を任命するってプランだった。プランというより空想か
あら、恥ずかしいwww
>大体、知ったかぶりするのは安倍信者なのが定番w
>徳川家もフィリピン人女性と結婚してしまったが、今も続いておりやす
https://www.google.co.jp/search?source=hp&ei=1mP4WeasIsLs8AXm26KQBQ&q=%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%AE%B6+%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&oq >>312
子孫はいっぱいいても名家なら一応当主とか本家があるからね
子孫なら誰でもって訳じゃない
だからって当主同士だから今和解して意味があるのかって言われればそうだけどw
少なからず先祖と縁がある人のイベントとして捉えたらいいよ 会津を誉める話は大抵眉唾だから、あまり気にしない方がよい。
付き合うと日本貶しと陰謀論が始まる。
>>316
封建制度は恩賞が土地なんで膨張主義なんだわな
土地がなければ北条氏のように恩賞が与えられず、武士の不満はつのるばかり
なので、秀吉公は半島にも行ったし
それを横から見ていた徳川家は、そもそも論から入り、
非膨張主義路線として大名弱体化作戦と相成る次第 >>291
京極高次の正妻のお初(淀君からすると妹、徳川秀忠の正妻のお江からすると姉)が、江戸と大坂を行ったり来たりして説得にあたったというけど。 >>319
そう書き込むのは大体、関西人と決まってるw