https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171027-00000014-asahi-soci
顔だちを巡って今も意見が分かれる室町幕府の初代将軍・足利尊氏(1305〜58)。
彼が亡くなってほどない時期に描かれたと見られる肖像画の写しが発見された。
中世まで確実にさかのぼれる尊氏の肖像画は他に一例しかなく、専門家は
「尊氏の顔がこれではっきりした」と話す。
確認された「足利尊氏像」は縦88・5センチ、横38・5センチ。軸装された画の下側に
正装して着座する人物が描かれ、上方には十数行にわたって画中の人物の来歴を
つづった文章がある。
個人が所有するもので、栃木県立博物館の本田諭特別研究員や鎌倉歴史文化交流館の
高橋真作学芸員らが、資料調査の際に発見。(1)尊氏を示す「長寿寺殿」という言葉がある
(2)尊氏の業績として知られる国内の66州に寺や塔を建立した旨が記されている――
などから尊氏像と判断した。
近年の研究で、歴史教科書などで尊氏像として紹介されてきた「騎馬武者像」
(京都国立博物館蔵)は尊氏でない可能性が高まっている。現在、その姿を伝えるものとして、
室町時代以前に描かれた肖像画は「絹本著色(ちゃくしょく)足利尊氏将軍画像」
(広島県浄土寺蔵)のみだという。
肖像画のほかに、息子の2代将軍・義詮(よしあきら)が14世紀に京都の東岩蔵寺に
奉納したとも言われる「木造足利尊氏坐像(ざぞう)」(大分県安国寺蔵)がある。
今回の肖像画は大きな鼻や垂れた目などこれら二つの作品と特徴が酷似しているという。
「尊氏はこの通りの顔つきをしていたのでは」と本田さん。来歴の文章に誤記があることなどから、
14世紀末ごろに描かれた「原本」をもとに15世紀に模写された可能性が高いと見る。
実物を調査した東京大学東洋文化研究所の板倉聖哲教授(東アジア絵画史)は
「木像の顔貌(がんぼう)と似た肖像画が出現したのは、尊氏像の議論にとっても重要な発見」
と評価する。
◇
「足利尊氏像」は、栃木県立博物館の「中世宇都宮氏」展で29日まで公開中。
新たに見つかった「足利尊氏像」(部分、栃木県立博物館提供)
大河の真田広之はかっこよかった
悩みまくってたけどw
>>1
なんか特徴ないな。
昔の教科書の尊氏の方がインパクトあったわ。 まるで山口晃さんが描いたような絵だな。
その内に足利尊氏がハーレーに乗るのか?
漫画じゃねーか
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|皇..Ξ| プスッ
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>>1
目がキラキラしている
純な心をお持ちのようだ また教科書が変わるのか…
せっかく暗記して覚えたのに
わりと現代的な表情描写だけど、最近作ったものじゃないだろうなw
あのマサ斎藤とか谷津嘉章みたいなのは別人かくていしたんだっけ?
眉毛、髭のデザインがとても昔の人のデザインじゃないな。
>>1
楠木正成はアグリーな顔立ちで知られるが、尊氏はイケメンだったわけか >>18
チョンカスの文化水準提示してコメ入れろ
それともおまえはそのAAを誇ってるのw もう一度太平記を再放送してくれんかな
新作より見ごたえがあると思う
パッと見で判定していいなら、これはどうみても偽モノ。
てか、顔じゃなくて絵全体で覚えてたからどっちでもいいや
>>36
胡散臭いことこの上ないけど
陰で親友尊氏を支えてた
陣内の佐々木判官が好きだったw ややタレ目で頬がポッチャリしてるところが、尊氏の子孫たちの肖像画にそっくり
これがもし尊氏の肖像画じゃなかったとしても、尊氏はこういう顔をしてたと思う
最近のニュース見てると、日本人はどいつもこいつも捏造、不正だらけだからな。全く信用できない。
個人所有で栃木で発見とな。
>>42
ザンバラ髪の肖像は
執事の高師直って言われてる よくみるとあの騎馬武者像も鷲鼻なんだよな
あの騎馬武者像の顔つきとそう遠いわけではない
家康だって三方原で脱糞敗走した時の痩せてギョロ目のしかみ像と大御所になった太った狸みたいな肖像画なんか全く別人だし
尊氏だって有名な髪を振り乱した肖像と>>1の正装が別人みたいでも不思議じゃない イケメンだしカリスマがあって人を惹きつけるもの持ってる感じだな
こういうニュース見る度に思うんだけどわざわざ自分の肖像画書かせといて
肝心の名前書いとかないのって、どういうつもりだったんだろうか?
後世に残したいから書かせたんじゃないのかね?
>>60
この手の肖像画は自分で描かせたわけじゃないのが多くてね >>60
だから、後世の奴がイメージアップして描いてるだけだって!本人ならサインして証拠も残してるはず。 >>60
絵を描いて名前まで入れちゃうと呪われるとか魂がそこに閉じ込められて成仏出来なくなるとか
そんな迷信があったんじゃない? >>59
あの肖像画は最近じゃ尊氏の弟の直義ってことになってるぞ 自分の肖像画が尊氏だと言われ続けた高師直カワイソス
俺の中では尊氏は真田広之しかない
家康は津川雅彦
西郷どんは池中玄太や
>>10
苦労しまくりの躁鬱だぞ
ただ、苦労を感じる機能が欠落してたからストレスかかったら笑ったり、最前線にいるパワー型だっただけで
あと人にモノやって満足するタイプ 漫画家が秀吉とか書く時
教科書の絵とか参考にする
特徴が似ているからといって
これぞ本物なんて誰も思わない
似せて描いたんだから当たり前
なんか多数決で決めてるみたいでヘン
>>18
漫画じゃない!(マンガジャナイ)
ほんとのこーとさー >>81
沖田「姉の子孫にコスプレさせただけのアレをみて”沖田は下膨れ不細工”って言われてる・・・」
西郷「そもそも弟と従弟の写真をモンタージュしたデブは俺じゃない」 当時は暗殺が普通にあったから。肖像画を晒すってのは自殺行為。
それで部下を描かせたり別人を仕立てたりしてその肖像画をわざと
盗ませたりして撹乱したんだよ。首実検の時には直接、面識のある
武将とか親族に確認をさせている。
幕府に睨まれてた九州にはその感覚が強かったので。西郷隆盛も肖像画
が残されていない。伝聞で大男だったとか金玉が片方大きかったとか
色々言われてるが、虚実をわざと混ぜるので実像ははっきりしない。
戦争や内戦が多かった時代には肖像画がないんだよw 幕末から明治に
かけて残されてる写真は「死を覚悟してから」の物が多い。
その頃から遺影が流行した。土方歳三はそれで写真が遺されている。
函館で戦況が悪化してもう死が間近になったから撮ったんだろうが、
暗殺予防のために他に比較できる肖像画や写真がないw だから未だに
真贋を疑う声が続いている。
表にでない奉納品、寺社仏閣の秘蔵品にしか当時の面影を知る方法が
ない。神に自らの真像(肖像画)を晒して必勝や繁栄を祈願したの。
モーニングで連載してたバンデットは面白かったけど突然終わっちゃった・・・
>>70
遺影もちょっと前まではみんな首下の喪服はテンプレだったよ >>82
俺の中では
水戸光圀は東野英治郎
徳川秀忠は西田敏行
坂本龍馬は武田鉄矢だと信じている >>82
後醍醐天皇は仁左衛門で
長崎円喜はフランキー堺w
今後の大河に出てくることはないだろうけどw >>89
なんでその画像出した?似てると思ったの??? 戦前の教科書では
天皇にあだなす大悪人だから
それに相応しい肖像画を
明治政府は尊氏を反逆者と認定したけど今もそうなの?
>>106
箱と中身が違うとかもあるからまだまだはっきりしてないとか
最近言われてるのは、家康の脱糞顰め面は三方原じゃなくその後の合戦ではないか?とか。箱に戦勝図って書かれてるのがいままで無視されてた
箱書がちがうもので、長い歴史で箱と中身がチグハグになるのは多いので、ホントに三方原のかもしれんが 時の権力者が 不細工なら 絵師がクビはねられるぞwww
鎌倉・室町の時代には似絵で写実的な絵が描かれてたのに,
何で江戸時代にはああなった
持統院にある足利将軍家の木像
江戸時代に作られたものなんだけど
やっぱり肖像画を元に彫られたんだな
大河太平記は名作だった
もう二度とあの時代が大河でえがかれることはないのかな
>>111
なんで現在の皇室が徳川光圀の価値観に全乗っかりなのか未だによくわからん。
持明院統の末裔が。 >>122
謀反の罪で自害させられた祖父の
置文読んで打倒北条宣言する場面
「我に代わりて天下を取れ」のところ
胸が熱くなったな
後半の観応の擾乱知ってると辛い場面でもあるが 特徴的な眉だな。端が撥ねてる眉なんて見たことないぞ。
なかなかちゃんと見て特徴捉えたっぽい絵じゃん
これをキリストの絵を復元しちゃった例の婆さんに弄らせたらどうなるか見てみたい
バンデット〜偽伝太平記を打ち切りにする週刊モーニングという無能。
あれ切るならマリアージュなりジパングなりあるだろ…個人的にはジャイアントキリング全然話が頭に入ってこないのであれも要らん。
足利尊氏の子孫が同級生にいたけど教科書の肖像画の方にそっくりだった
女だけど
イケメンでびっくりしたwwwwwwwwwwwwww
南朝大好きだった明治天皇のせいで
逆賊にされた足利尊氏
歌舞伎の忠臣蔵で悪役にされた高師直
北朝は嫌われ者でかわいそうだ
前の大河から室町研究は大幅に進歩したし、新しく大河をやれなくもないが、いかんせん今は脚本家のほうが
尊氏直義兄弟が庶出の次男三男だったというだけでも大幅にキャラ設定が変わるんだよね
>>67
今回以外のは何気に似てるけど
今回のは美化した感じ 昔のやつの方がムッとした表情といいポーズや構図もよかったのにな
あれ尊氏といいたくなる気持ちもわかる
頼朝も長年この絵だと言われてたのが、別人でしたってのあったな
尊氏にしても幕府開いたやつの絵がそんな扱いか
頼朝ちゃんの絵は、今京都国立博物館でやってる国宝展に展示されるから
今度見てくる
これ描いたやつがそもそも足利の顔を見たことがあるのかから検証しないと意味がないのではないか?
やっぱり権力者の肖像画ってイケメンにしないと処刑されるんかね
ハプスブルク家みたいに、代々しゃくれなら、説得力あったのに!
てか、間違わない!
>>97
腹がでかくなったら倒さないとすごいことになる >>166
基本的に人気のある時代って幕末と戦国だからね。
歴史本とかの売れ筋も偏りがある。 だから徳川も尊氏も北朝で明治以降は尊氏逆賊だったでしょ。何故か今の天皇は北朝系統なのに南朝が正統と言ってる矛盾の北朝天皇と尊氏タブーなの。
中継ぎの後醍醐天皇の馬鹿がグチャグチャにしやがった。
足利氏って本当は源氏じゃないだろ
源氏だったらもっと長命で繁殖力がハンパじゃない
宇喜多秀家はかなりのイケメンだったらしいが肖像画も少女漫画みたいな目で描かれていて当時の絵のなかで相当違和感がある
北朝を乗っ取った義満のご先祖様だから足利氏が天皇家から疎まれるのは致し方なしだね。
あとは神武天皇とか卑弥呼の肖像画が出てくれば完璧だな
前の尊氏とされてた絵はそこらへんのおっさんだったというのが面白いな
>>190
せやろ。朝ドラだって20〜30余裕で取ってた時代や
今足利なんかやって誰が見るねん言うてんのや 俺が将軍だったら若い頃の真田広之の写真で肖像画描かせて残すわ
尊氏はすごいカリスマで武士から人望あったから
イケメンだったことは間違いない
>>166
「太平記」真田広之ですでにやってる
自分が見た大河の中では1番面白かった
大河といえばこれか政宗かって感じかな 南朝系統はブサイクなんで 北朝系統の尊氏はハンサムだとおもうたらよい
源頼朝
聖徳太子
西郷隆盛
etc
肖像画は全部デタラメってばれてる。まだやんのか?
武将の残されてる絵は武骨でいかついの多いのに
これ今風の絵のタッチだな
>>200
掘り下げたら割と面白いとは思う
お受験勉強でちゃんと扱うのが南北朝統合と日明貿易とおもな2つの文化と戦国時代への導入の100年ぐらいなだけで >>205
せやね
渡辺政宗
中井信玄
真田尊氏
の3つぐらいかなぁ >>180
天皇家もなんか不思議だよね
光格天皇家から北朝なのに
明治天皇が南朝正統とか言い出した
でも、熊澤天皇家を認めなかった >>202
黄門の野郎、自分が目立ちたいばかりに・・・
>>205
太平記面白かったね。オレはあとは葵徳川三代までかな ドラマティックな人生なのに漫画やゲームに恵まれないから知名度は一級でも微妙に薄い人だな
誰か美少女かイケメンにしてなんか作ってくれ
>>214
理屈から言ったら熊澤天皇が言うとおり何だよな
変えられるわけないけど >>205
セリフ回しが良かった
二人称=御辺とか
今の大河はコスプレ劇みたいで 天皇家や藤原公家が世間に号令できたのは建武の親政まで
その後は天皇家や藤原公家は滅びても何もおかしくなかったが
南北朝で武家にとって都合のよい傀儡として担がれたため
権力がない存在として今日まで生き延びた
>>1
痛勤務電車の乗客の3割ぐらいはこの手の顔だな >>209
ギャグとか恋愛とか入れるとうざいから
バカボンの井上雄彦に脚本書いてもらうのがええな >>216
神風とかいう話のせいで存在感薄くなった
北条時宗さんも忘れないであげて 目は二重だな
現代日本人てなんで一重ノッペリ不細工だらけになったんだろう?
朝鮮人との混血が進行してるのか?
もうこれで良くね?
>>212
花の乱は中身は良かったけどエンタメ性ゼロだったし悪女題材だったからなあ >>202
水戸学いっても矛盾は
馬鹿の後醍醐天皇が正統と言われても中継ぎ天皇なんで正統ではない水戸学の矛盾ループにハマるよ。
後醍醐天皇は中継ぎ天皇って代理天皇だと言わないタブー的な雰囲気も怖いけど〜。 最近読んだ本で高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕した話や前関白の妹を略奪して子供産ませた話は
作り話らしいって話読んだんだけどマジなのかな?
>>215
>黄門の野郎、自分が目立ちたいばかりに・・・
明治になっても、尊氏再評価しようって過去に述べてたのをやり玉に大臣が辞めてるしね >>232
そうそう
でも結局は将軍家や維新後にもつながるから引っ込みがつかないんだよな >>23
なんかやたらキラキラしてる宇喜多秀家か、ベーダー卿みたいな佐竹義宣 >>27
高師直かその弟、もしくは高一族説が有力
ちなみに有名な頼朝肖像画も尊氏の弟の足利タダヨシ説が有力 半島人というより日本人は長江人と縄文人の掛け合わせだからな
尊氏も頼朝も当時の絵の構図は似てるな。
楠木正成のは見つからないの?
木造像なら京都の等持院にあるぜ?
>>23
面白いかどうかはともかく
傑作は一休さんの肖像画 足利尊氏は逆賊的な扱われ方してたよな?
いまはどうなの?
育ちの良さと気前の良い親分気質は感じ取れるねw
イメージとの違和感ないわ〜w
>>231
空飛ぶ練習してた細川政元とか
ひたすら悪の日野勝光とか
ネタになりそうなキャラたくさんいるんだけど
母親にお前が死ねばよかったて言われてやる気なくしちゃった足利義政とか 南北朝時代も、武将一人一人を大河ドラマにしたら、ネタの宝庫だろ。
パースが揃ってて絵が上手すぎるような気がするんだが
現代の作と言われても違和感ない
>>253
ウヨにびびってドラマ化出来ないんじゃないかな? >>253
伊達政宗がイケるんだったら
佐々木判官イケそうだけど
謀略人生なのに70後半まで長生きで
天寿を全うしてるのも凄いし >>237
宇喜多秀家のは後から想像で書かれたはず
そういうの結構ある >>7
征夷大将軍を後醍醐天皇がやって
天皇陛下は足利尊氏がやればいいのに
と当時の日本国民は思いまくったらしい
>>9
真田広之が、真田幸村やったら一番似合うだろうな
と真田丸見てて思った >>239
そもそも渡来人という言葉は
半島から来た百済人等には都合の良い言葉で戦後に大陸から来た渡来人と同じ扱いされたのよ。
百済人や新羅人は各国の記紀では逃亡人 日本では亡命人や難民て書いてあるから。
よほど朝鮮半島人には渡来人って言葉でまとめられるのは都合が良いのはわかるけど難民ですから ほとんどの人が源頼朝と習ったあの絵は、実は足利直義(尊氏の異母弟)
>>254
この件で
真っ先に思い出すのは
武田信玄 南北朝題材の少年漫画もあったけど北条を倒したぞバンザーイ!で終わってるんだよな
栃木の足利館跡のなんとか寺って行く価値ある?
鐘楼門があるんだっけ
なんで、ウンコ食ってる韓国人がいるの?
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-c4-59/jphrb866/folder/628562/49/23642449/img_0
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ウンコを食べる韓国人 【うんこ酒トンスルも納得】
>>247
いいや
南北宋時代ですよ
足利義満がやったのって日宋貿易だっけ? >>268
鑁阿寺は中世武士の館の跡が残ってるので
寺好きか庭園好きなら行ってもいいと思う >>222
聖徳太子はいなかったよ
馬戸皇子が亡くなった後に、偉大な人だったので聖徳太子って呼ぼう ってなっただけで 戦前の東京で栃木県から来た者たちがイジメや迫害にあったのはこいつが原因
あの司馬遼太郎が南北朝時代書きたくなかったのか
書けば後醍醐天皇は無能になってしまう つまり叩かれる。尊氏はスゴイってなるので
タブーなんですよ。
この時代こそカオスで正義(勝者)がコロコロ変わるから面白いよね
敵の敵は味方、一番の敵は身内、天皇、貴族、武士で価値観が違うのに一緒に戦ってるから勝っても分裂するし訳がわからん
想像したのとはずいぶん違ってたが
神経質そうな感じは出てるな
>>275
取ってつけたような教えられた浅い知識をドヤ顔でw
利用される為だけに存在する情弱養分 とはお前のことw 大河ということで言えば、関西で待望されてるのが松永弾正
機を見るに敏で、契約反故や裏切りを当たり前とする感覚が大阪っぽくてダイナミズムを感じるということらしい
足利尊氏なんていなかったよ
高氏は
亡くなった後に尊氏の尊称をいただいただけで
中臣の鎌足が、藤原鎌足になったみたいに
尊氏とかはどうでもいいので
イケメンでカリスマ性があったから絶対殺すと江に思われたとかいう
秀頼の顔を確定した上で秀吉と親子かどうかの検証を
>>287
なんで江(秀忠の奥さん 家光の実母(育てたのは春日の壷ね))が
茶々(淀殿)姉ちゃんの息子(甥っ子)に殺意いだいてんの? >>286
なんでだよ。御醍醐天皇から尊の字もらったのに
尊氏のが後醍醐帝より長生きしただろ >>291
かわや(トイレ)で出産は嫌だな〜
聖徳太子は、実際には馬小屋で出産してなく
シルクロードを渡って伝来した、西方の浪漫帝国(ローマていこく)の聖人のエピソードを元に
箔をつけるためにそうしたって説もある >>292
もらったのは鎌倉幕府滅亡達成おめでとう大会でだったか 将来、東京政府が男系男子の天皇を継承させないと
また南北朝時代がはじまるよ
馬小屋生まれの聖人なのに
キリスト教じゃなくて仏教伝来の元祖って・・・
>>295
高氏の高の字は北条高塒からもらったもんだから
鎌倉幕府滅ぼしといてそのまま名乗れんわな >>296
推古天皇とかいたじゃん
きっと蘇我馬子が推挙したんだろうな あしかがたける氏って
有名人だよね
おののいもこはなかなかの美人
足利尊氏や室町幕府ってあまりいい印象ないな
足利がアホだから戦国時代になったとか言う人もいるぐらいじゃん
高校の先生には足利尊氏は本当の天皇家を滅ぼした逆賊だ
今の天皇家は足利尊氏が作った偽天皇で成立の根拠はない、偽物が本物になる事はないから天皇制は廃止した方いいと言ってたな
どうしても天皇制を維持するなら南朝の天皇を探してそちらに即位してもらうべきとも言ってた
>>300
根本的に基礎的な学習ができてないなお前 後醍醐天皇が亡くなったとき
足利尊氏は菩提樹を建てて弔った
個人的に嫌いでは無かった むしろ敬っていたような
ただし 吉野にいたほうの向こうはどう思ってたかわからんが
おうご先祖様だ。
たしかにうちの家系の顔に一番似てるかも。
>>231
今だったら何事も日野冨子のおかげっていう
フェミニズム大河ドラマにしてもらえるのに。 >>286
中臣鎌足が藤原鎌足?
これ言っとくけど
中臣=中国の臣
藤原=唐の源
ですから氏は中華の忠義の礼儀の日本書紀でして…ごめんなさい あまりいうと… >>304
説明責任はそちら側にあるよ
それを放棄するというなら
日本は、天皇とか無くていいじゃん という国民が増える おれは歴史の教科書に勝手に肖像画掲載されて、パーがきに落書きされたくはないな
>>306
足利さんこんにちは と見せかけて
徳川さんこんにちは 皇軍と戦い勝利したのは北条政子と足利尊氏だけだろ?
>>24
次の中から足利尊氏と考えられている肖像画を選びなさい。(5点) >>308
日本国転覆を計った中国の工作員ってこと? 私道にブロック並べて市役所職員と怒鳴り合いしていた近所の迷惑ジジイに似てる
>>312
大海人皇子(天武天皇)「へえ そうなんだ」 あれ?
高嶋弟って真田尊氏の弟だっけ?
竹中秀吉の弟だっけ?
>>302
倭建命も
日本武尊も
当て字なんだってねえ どっかの寺に木像がなかった?
あれがリアルで一番似てるんじゃね?
>>308
藤原は奈良の地名
中国は最近できた国の名前。
バカかお前 >>318
関係ないけど
高島兄弟の弟は、大人になって大きくなっても
従姉妹の、ちさ子姉ちゃんが、ぱっと手を上げると、とっさに両手で頭をカバーしてしまうそうだ >>311
女系挟んでるから苗字は足利ではないのは正解!
徳川さんじゃないけど。
親戚に足利さんはいる。 >>303
南北朝は統一されて交互に天皇になったんだろ
竹田恒泰の先祖は北朝方 >>321
現、聖徳太子こと元、厩戸皇子は、法隆寺の釈迦仏像に似てるらしいね 今まで尊氏だと思われてた絵よりも尊氏だと思われる像に顏近いね
>>314
ここの話題とは外れますが
中臣は百済遠征で負けて、睨まれないよう氏を変え
唐=藤にして敵対してないよ〜って都合の良いアピールしたのよ。っのが日本書紀 足利尊氏って認知してない息子いたよな? 足利直冬だっけか?
戦上手で尊氏の血を色濃く継いでた印象だった
足利尊氏が衰えた晩年に尊氏は直冬にボコボコにされて追い詰められてたのに尊氏が死ん後は消息不明となってる不思議な人物だけど暗殺されたんか?
詳しい人いる?
>>317
一度でいいから見て見たい
真田広之の真田幸村と
石田彰の石田光成
おかげで、戦国バサラの竹中反米が、石田光成にしか聞こえなくて困ったわw 実際はブサメンでも、そのまま書くとヤバいから修正するよな
二重で鼻が大きいユダヤ系みたいな顔だな
少なくとも西方の血が入ってる事は間違いないよな
>>333
稗田のアレーとかいうおじいちゃん「という話じゃったと思う」 >>67
今回のやつは真田広之によーにとるね
以前からの尊氏画は高を演じた柄本明によーにとるね てか、なんか瞳と唇の発色、学校の社会科の教科書の挿絵に学生が鉛筆だかボールペンで塗りつぶしたようになってね?w
印象に残らないよ。
真実はどうであれ、例の絵でいいんじゃない?
>>152
忠臣蔵ってテロリストの話だから、取扱は厳重にしないといけないシロモノなんだよね
本人たちが、ちゃんと最初から勝っても切腹するつもりの自制心のある人たちだから良かったけど 歴史上の人物で大河にならない足利義満
売国奴だからという人がいるけど
平清盛の真似しただけだし
>>342
お参りしとけよ
日本を代表する大怨霊の祟り神様だからなw >>346
楠木正成が千早城の戦いで籠城してるときに、勝手に尊氏がいいとこどりで幕府倒したような?
あとは湊川では敵だしな >>322
お前馬鹿か?
中国って言葉は奈良の地名できたとかよく大嘘こいたらいかんよ。
五経調べてみ!
主観で物言うたら墓穴掘るから。ごめんね言葉悪くて。 あの絵はザンバラ頭という時点で尊氏なのかどうか疑うべきだったと思うんだが
尊氏なら鎧つけて馬に乗ってる時に兜なり烏帽子なりかぶらないはずがない
>>333
中臣鎌足が死ぬ間際に
天皇から藤原姓をもらったの。
自分で改名したんじゃないの。
中臣が中国の臣とか意味不明だろ。
中国できたの最近だろ。 >>342
色々と後醍醐天皇が悪いよね
耐えがたきを耐え 忍びがたきを忍びの話を知ってると尚更ね
別の話
南北朝のときのように
士族の不平不満が爆発しそうだったときに
「おいどんに任せろですたい」と反乱を起こし
↓
「おいどんが全部悪いですたい」と全責任を背負って無くなった人がいたらしいんだけど
それで、都内では、天皇陛下に刃向かった国家反逆者って言ってる人たちがいて
それに明治天皇が怒って、西郷ドンさんほど日本の未来を思ってた人はいない。西郷さんを悪く言うやつは誰だ となって
上野に国家の英雄の像とかが建ったらしい >>358
楠木正成が千早城で負けてたら足利尊氏も朝廷側につくことはなかったんじゃない? もう中国って最近の言葉って先入観多いから、先ずは五経調べてよ
尊氏が裏切ってなかったら鎌倉幕府は続いてたんだろうか?
>>360
今は護良親王像ではないかと言われてるあの絵は
敗走時の様を描いたものと言われてるからその点ではおかしくない
家康にも三方ヶ原の敗戦時の肖像画が残ってるしな >>342
朱子学かぶれがでしゃばるとろくなことが起きないという日本史の一大原則を
最初に身をもって示してくれたよね >>364
跡取りの三代利常も「鼻毛のお殿様」のエピソードあるからな
家系(わざと)なんじゃね?
※江戸幕府から、こいつは危険だ要注意人物 として監視されてる情報を察した利常は
鼻毛を伸ばし身なりを汚くしバカ殿を演じて、幕府の警戒が解除されるまで続けて難を逃れた >>359
中国が奈良の地名なんて書いてないだろ。
藤原が奈良の地名とかいてるだろ。
藤原京とかどうなるんだ。 古今東西、昔の肖像画家って、偉い人に命令されて描いてたんだろうけど
本人がブ男だった場合にそっくりに描くべきかイケメン修正するべきか悩んだんじゃないかと
考えてしまう
そっくりに描くとこんなブサイクじゃねえと怒られそうだし、かといってイケメンに描くと
あいつの絵は似てねえよと評判になるし
>>373
あのひと周りも含めて
実務能力欠如してるのに
なにがしたっかんだろうね >>373
江戸時代とか見てると「朱子学絶対殺すマン」になる気がする。
それが当時の「常識」だからしょうがないんだけど。 >>354
足利義満と藤原道長は
なんで大河にならないのか
ようく考えてみよう 似顔絵師複数に同一人物描かせても全然違ってくるからなー
>>94
あの終わり方は納得できないな。
フィクションとはいえ、賊が太平記で大活躍するなんて話は無理があったんだろうよ・・ 百歩ゆずって
↓
後醍醐天皇って南朝だから正統でしょ?
↓
だけどそもそも中継ぎ天皇だし
↓
あ〜正統以前の話でした。
↓
中継ぎ=代理天皇が正統?
↓
んなわけ無いよな
>>358
鎌倉幕府は なんで六波羅探題のほうに精鋭を置いてたんだろう
そんなことするから本拠地鎌倉が手薄に
六波羅短大って、どんなことを学ぶ学校?
学生運動? >>318
両方とも高嶋弟がやってたw
実生活と相まって弟イメージ強力だね >>373
最初の朱子学かぶれは大塩平八郎じゃない?
あと吉田松陰は成功したんじゃないのかな
そもそもの攘夷は跡形もなくなってたけど >>359
中国は歴代王朝が変わっても
夏や殷の時代から
「中華の国」って概念がずっと続いてんだってね 教科書に載ったらマツゲバリバリにいたずら書きされそうな顔してるな
ザンバラ髪の騎馬武者は高師直説が有力だったんじゃないか。
何でかよく解らん、長く頼朝の肖像画とされてきたのも足利直義(尊氏の弟)だと言われるようになったな。
>>342
In Gandhara, Gandhara They say it was in India ♪ >>370
独裁的に牛耳っていた北条氏に対する憤懣は相当溜まってたから、何かきっかけさえあればいつでも滅んだんじゃないかと
鎌倉幕府滅亡でおもしろいのは、鎌倉幕府、六波羅探題、鎮西探題と場所が離れてて、通信手段が限れてる時代なのに
ほぼ1か月以内にずべての拠点が滅ぼされて、北条氏が一斉に駆逐されてる点
御家人最有力の尊氏の寝返りが幕府滅亡の決定打になったのは事実だけれども >>389
天地人で、小泉コータローが、妻武器聡の主演直江兼続の弟やってた
本人のせいで
有能な弟の、兄にしか見えなかったw >>377
朱元璋の肖像画描いた人とかどういう気持ちだったんだろうな
>>390
大塩平八郎はむしろ陽明学よりでは >>367
それはそうだろうな
そしたらそこで大塔宮護良もやられてたかもな >>395
そもそも
あのバンドは なんでゴダイゴなんだ? 尊氏はちょっとおかしいところがあったから
この顔の方がしっくり来る
>>404
ゴダイゴは実際に御醍醐天皇の名前からとったと聞いたけど
語感が、とかそんなニュアンスだろうけど >>391
おおそうなのよ
中華の国って言われたのはそういう意味もあったと思う。なんで国号以前に中華の国 中国という名の解釈が昔から諸外国にはあったかもね >>285
秀吉に茶器渡すぐらいなら、茶器ごと
爆破で自決、過激すぎる 尊氏も倒幕前は高氏で、北条から名前貰ってたんだな
ゴダイゴ天皇の諱が尊治だから、それを貰ったとか
>>399
確かにそうだったわ
乃木希典は朱子学だっけか こっち見てみたいよね!
足利尊氏の少年愛の相手!
饗庭 氏直(あえば うじなお)は、南北朝時代の武将。足利尊氏の側近くに仕えた寵童として知られ、『太平記』では「容貌当代無双の児」と評されている。
最近の中世押しはなんなんだろう
応仁の乱、観応の擾乱ときて最近享徳の乱出たぞ
こりゃ来年の大河は新太平記だな
>>391
大嘘おーーーーーーーーつ!!
中華ってのはもともと「中夏」。
つまり大昔の王朝の夏(か)の中心だよって意味。
秦の始皇帝が無数の多民族をまとめるために発明した概念や。 >>375
本当の武田信玄の顔は もっと中井貴一とかみたいな顔だったらしい
というわけで
川中島で軍配で上杉謙信の刀を防いでる信玄像の顔も修正しておいて欲しい >>411
乃木大将と統合提督は、どっちがどっちだったっけ 足利学校の校長室に歴代校長のと並んで、創立者の肖像飾ってあるだろ? そいつが尊氏だ
>>416
おおおおお
中国名の由来 そこですか面白い。
調べてみよ。サンキュー
古い時代行かれますな〜
話題がそっちのけですんません。 後醍醐天皇にはおれはちょっとうるさいよ
後醍醐天皇
後白河法王
後鳥羽上皇
が天皇家トップ3と思ってるし
四天王ならここに推古天皇
>>419
肖像がのインパクトが強くて三好青海入道みたいな顔以外しっくりこない。 >>408
海外では 支那 と呼んでた
英語だとchina(チャイナ)ですね >>416
真の始皇帝って
呂布意と子路皇子 どっちが生みの親でどっちが育ての親だったっけ >>1
まだまだだな
俺なんて生写真持ってるもんね! 後醍醐天皇って面白い代理天皇だけど自分の南朝の正統継承ぶっ潰して代理の自分が乗っ取ろうとしたとこがさらに間抜けな感じ。
尊氏って
戦場の武将というより、一流の棋士みたいなイメージだったから
こっちのほうがあってる
>>427
じゃあ
徳川家康は郷ひろみ
明智光秀はマイケル富岡 >>426
藤原は唐の源
とか言ってるお前の
いいかげんさがにじみでてるな。
せめて、藤は不死
藤原氏は永遠に不滅です
ぐらいのことを考えろ。 >>440
歴史の本だとだいたい支離滅裂とか躁鬱の気があったとかかかれてるが >>439
呂布意が実父で、子路皇子に育てられたって訳ですね
源氏物語でいうところの、藤壺の息子が、光源氏に育てられたようなものですね >>442
不比等「ちょっと、俺以外の人間が俺と肩を並べられると思わないでくれる?」 >>437
戦時中は足利の人は虐げられたんだよね。
天皇に楯突いた人物の末裔ということで軍隊でイジメに遭ったらしい。 三国志もちょっとうるさいかも
兄の劉備 弟の劉邦
2人を助ける猛将の関羽
参謀の呂布
王 元姫
>>433
それ思ってたけど
中国の名の由来はかなり古いのわかってるけど
支那ってどこからの由来なの?ここの歴史わかりません >>444
三月のライオン登場キャラの基本能力ですねw >>445
斎藤義龍が道三の実子じゃないというのと同じような話だから
史書に書いてあるから事実とは限らないけどね 尊氏がもちっと弟くらいあくどかったら、後醍醐天皇を幽閉するくらいして幕府の安定を確立しただろか
南北朝時代はかなり混乱してたから、結果的にとはいえそうなった原因ではあるし
>>440
肖像画のイメージで大太刀かつぎながら騎馬で戦場を駆け回っていないとしっくりこない。 >>448
うわ ひでえ
室町幕府なんて けっこうマシだったほうじゃん 義兼や義氏の頃は垂れ目じゃなかったのにな
上杉の血?
>>446
長屋の王「並ぶとダメなら、追い抜くのはいいんですね?」 ああ、藤原不比等が、高速道路で逆ギレして煽り運転するようなDQNなイメージに変わってもうた・・・
支那は秦からきているとか聞いたことはある
古代ローマではセレス、絹の国と呼んでたとか
後漢の時代に、ローマから使者が来た事が歴史書に載ってたりする
(実際には商人かなんかだろうが)
>>450
秦(しん)がシーナになって世界中に広まった。
ちなみにコリアは高麗ね。 ゴダイゴのガンダーラを鼻歌かましながら俺はチャリで
新小岩までつけ麺食いに行く
「♪生きることの苦しみさえ消えると言うよ 誰も皆いきたがるが(中略)
その国の名は新小岩 素晴らしいユートピア」
今のNHKは室町手出せないだろうな
自分の好きな大河は太平記、花の乱
やれるもんならやってみろと
やれないから小細工に走る
受信料ぼったくることばかり考えてないで
足利義満くらいやる気概をもて
>>466
ここまで来るとフヒト召喚しないかんくなりましたね。wwま〜フヒトが編纂したところに中華の記紀との不一致が出て今に来たる論争でございますね。 >>466
大河ドラマ板での 真田太平記って 真田広之が主演やってたほうの太平記 って意味だとずっと思ってたのは内緒だ
三国戦国板での
北方三国志ってのは、三国志の北の方のエピソードの話だと思ってたのは内緒だ 木像とも似てるしこれでいんじゃね
垂れ目の人だったんだろうね
この大学教授は歴史修正主義者だな。
今ある歴史を変えるということはネトウヨだね
>>471
天智天皇(中大兄皇子)と藤原(中臣)塊が無くなった後
弟(大海人皇子)と息子(大友皇子)が壬申の乱やってるけど
不比等は何やってたんだろ 尊氏も晩年近くは弟が離反して南朝と和睦し、と思ったら弟は自身の勢力が強くなったからってんで南朝から離反したので
尊氏自身も弟に対抗するために南朝と和睦して北朝の天皇一族が南朝にほぼ連れ去られる、なんて事もあったりして
軍人としてはともかく、政治家としては微妙だったな
>>476
本来は 保守・現状維持が右翼 改革が左翼なんだけどな・・・
憲法なんて一字一句変えさせるか!って極右翼なんだけど >>465
秦がシーナですか〜ちょと勉強します。
ちょと脱線するけど
何故に秦時代に中国にピラミッドがあって今の中国政府はそれを隠してるの?
グーグルアースでも中国にでっかいピラミッド見れるんですけど誰か秦以前の歴史教えて〜 >>477
白馬に乗ってるやつだっけ、あれ面白かったなー
末裔 足利尊氏像といえば、幕末に足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)があったな。
京都等持院にあった室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・ 義詮、3代・義満の木像の首と位牌が持ち出され、三条河原には3つの首がさらされた。
事件は江戸で公募された浪士組の上洛直前にあたり、挑発的行為とも考えられる。
長くやはり天皇に楯突いた人物の評価があったからな。戦時中まで続き、戦後に見直された。
足利義満が南北朝の統合を実現したのは、東西ドイツ統合くらい程度には評価してあげて欲しい
平清盛は太政大臣だけ
源頼朝は征夷大将軍だけ
足利義満は両方やった上に世界遺産の金閣寺まで建てた
宮島と奥州藤原市が世界遺産になるんだったら 鎌倉も世界遺産にしてくれとは思う
>>482
シーナ・イーストン、椎名林檎、椎名桔平は中国人かい >>484
ダビッド画の、アルプスを越えるナポレオン の悪口はやめろ
フランスのナポレオンファンに怒られるぞ >>479
それ昔から謎だった。
しかも語り部のアレイは謎の一生
そこらへん謎だらけ 最近の歴史修正主義ってウザい。学者のオナニーでしかない。
>>391
その頃は九州って言ってただろ支那
九州とか中国とか紛らわしいけど 感じいいなあ
これなら多くの支持集めたのも理解できる
意外と美形だな。
大河の原作になった私本太平記だと不細工扱いだったんで
ずっとそのイメージだったけど。
>>482
世界遺産の始皇帝陵は、エジプトの金字塔 メキシコの太陽のピラミッド並に人気のある世界遺産だよ >>482
絹を意味する言葉がシナって発音だった説もある
シルクロードって事だな 尊氏のイメージ
優しくて相手を喜ばせようと無理な約束をしてしまう
最初のうちはそれでうまくいっているんだけど
だんだん約束が果たせなくなってきて、放り投げてしまう
ただし、人気はあったので部下は良く働き戦争は強かった
>>6
絵じゃないわけがないことも無いかもしれないだろ 他の幕府開祖と比べても
一番付き合いやすい人物なのは確かだからな
テンションの上下が激しいらしいが
個人的に尊氏は他人とは思えなくて好きな武将
あと明智光秀も好き
>>497
中国地方とか東海地方とか色々紛らわしいよね
中国は、京都と大宰府の間の国って意味ね
出雲大社的には、黄泉の国(地獄)と高天原(天国)の間の地上の国(人間界 中つ国葦原)って意味だけど 尊氏は家柄も高いし、鎌倉幕府でも日のあたる場所にいたし、個人としても武勇に優れ
物欲が無く人に惜しみもせず物をあげるので
武士には相当人気だった
新田義貞ではかなわなかったのもしょうがない
生まれ変われたとしても
日本の昔の時代に生まれ変わりたくないよな。
いい部分だけを美化しすぎの奴がいるだろ。
>>479
その頃はぺーぺーで何もできる力なかったろう
持統天皇に結びついてから >>501
新始皇帝陵は確かに有名ですね。
やはりあの形のピラミッドは太陽神なんですか?
徐福も謎ですが >>506
ま、幕府を開祖したのって 源頼朝と足利尊氏と徳川家康の三人しかいないような気がするが 大河の真田弘之の線でまちがってない感じじゃん。
しれっとしたいい男そう
>>512
持統天皇って 天武天皇の娘だっけ嫁だっけ >>510
劉邦「そんなに俺を誉めないでよ 照れちゃうよw」 織田信長の肖像画みて信成みてると特徴をよく現して描いてると思う
昔の絵師の力は凄いわ
刀担いでるのは良く言えば武人、悪く言えば使用人感あったな
>>520
てめえは下級役人出身だろうがw
劉備「ご先祖様の侮辱は許さん!」
黙れ! むしろ売り >>486
干されて消えた中山エミリって昔いたバラドルに似てる >>510
>物欲が無く人に惜しみもせず物をあげるので
>武士には相当人気だった
尊氏は立派な人だったらしいな。
で、どういう信仰をもてば、尊氏に近づける、或いは
越せるだろうかを考えてみると
信仰、希望、愛、清貧のカトリック(キリスト教)じゃないかな。
なんちゃって神道では無理だろう。僕らの麻生さんがカトリックだな。 >>514
それ よく考えたら北朝派ですやん。www
源頼朝ほ直ぐに北朝の北条に乗っ取りましたけど。マサコは夫に献身的だったのは唯一救いでしたが。 >>526
確かに似てる
ちなみに中山エミリは
中山麻里の兄の娘 だから三田村邦彦の息子とは従兄弟になる 例の木像からすると、尊氏っていう人はもう少し垂れ目だったと思うんだけど…
>>508
尊氏は母方の上杉氏のもとで育てられてるし足利家の本拠地は栃木県よりむしろ三河国。
苗字の元になった足利庄には尊氏は一度もいったことないって説もある。 司馬遼のエッセーかなんかで読んだが
昔は政治家が尊氏贔屓の意見を出そうものなら、その人は政治生命危うくなるとかそんなレベルだったとか
>>1
俺が見た時はこんな感じだった。
結構似てると思う。 >>527
物に執着するな は仏教でも教えてるが?
上杉謙信も仏教徒でしたね >>520
おめー家柄は庶民だろw
物惜しみしなかったのも、項羽が生きてる間だけで
天下取ってからは三大功臣をやっちゃうわ、幼なじみの盧綰すら疑う奴になってるやんw
ただ、そこまでやったから前漢は安定したんだろうけど
尊氏も後醍醐天皇から離反した後、身柄を手に入れた後
殺せなくとも徹底的に監視していればああはならなかったろうに >>508
天智天皇(中大兄皇子)「琵琶湖しか取り得の無い近江の国 滋賀県が天下取ったりしてもいいんじゃない?」 >>527
個人としては立派だったけど、その良さは政治家としてはよくなかったんだろな >>527
昔の天皇は側室を家臣と共有してたりするからな
武士でも同じ感覚あったかもね 司馬遼太郎は足利尊氏も楠正成もいい奴だから困ると言ってた
両方善じゃ小説組み立てにくいのね
太平記の時代は可書かなかった
蕭何と張良は自重してたから〇されなかった気がする。
オレたちのクソヘタレニート韓信大将軍は案の定だったが。
江戸幕府って鎌倉幕府や室町幕府の失敗を非常によく研究してるよね。
母方の実家に乗っ取られないように将軍の母親は身分が低かったり
一族間で争いが起きないように気を配ったり。
饗庭氏直
別名 命鶴丸(みょうづるまる)、命鶴
足利尊氏の弟・直義から偏諱を受け直宣(ただのぶ)、後に尊氏より偏諱を受けて氏直や尊宣を名乗る[1]。
正平6年/観応2年/(1351年)1月、尊氏と争った直義との和平交渉に当たっている。正平7年/文和元年(1352年の武蔵野合戦では、僅か18歳にして三番隊六千人を率いた。その部隊はいずれも美しく飾り立てた鎧をまとい、梅の花を兜の真っ向に指していたため『花一揆』と呼ばれた。
>>534
その司馬リョーの師匠の司馬遷が
始皇帝の実の父親は、呂不違らしいよ って史記で言ったりしてるが
光武帝の怒り買って、チン○チョン斬られたりもしてる 尊氏はこの200年ぐらいは悪でしたがそれ以前は善人英雄だったっていうのは意外と知られてない。
>>482
秦以前の歴史は有名な司馬遷の史記に書いてある
分量は少ないけど
伝説時代は意味不明だからカットするが
夏王朝(商の地)が廃れて、殷が興り
殷が廃れて、周が興った。
周の武王の叔父・周公旦という人が重要人物で
それまで納税くらいしか主従の絆の無かった諸国や近隣異民族に
礼の文化を義務付け、一種の封建体制にして同化を図った。
「焚書坑儒」や「科挙」など支那の歴史でキーワードになる儒教の始まり。
その後、春秋戦国時代という、諸国間の政治武力スパイ工作の時代になり
単純に一番の強国が覇者となった。
張儀のように弁舌で諸国を動かした個人や
商鞅のような王の参謀となる法家も現れる
(先進・現実主義の法家と、慣例・理想主義儒家はしばしば対立する)
最終的に秦が中央集権を敷いて、戦国時代は終わるが
その後12年で陳勝・呉広の乱が起こり、秦も滅んだ。
そして覇者となった項羽と楚国を、辺境の漢に追いやられた劉邦が打ち破って
前漢の時代になる >>546
軍略の才能はあるんだけど 人柄は暴走族のリーダーにあんちゃんだからな・・・ >>509
葦原のニュアンスもあるのか
それは知らなかった >>88
西郷に関しては生前を知ってる複数の人の書いた肖像もあの輪郭だからキヨッソーネ画はあながち間違ってなさそう。
上野の像は立体化に失敗してるだけで。 言えるのは後醍醐天皇という無能な悪がいなかったら、それを討伐すら尊氏もいなかったというドラマですよ
>>552
司馬遷のチンコ切ったのは前漢の武帝
李陵っていう武将が奮戦した後、匈奴に降伏したのを武帝が怒ったが
その時李陵を弁護したので切られた >>510
太平記では新田義貞も良い家柄であるように
故意に脚色されたらしいな
ライバルとして相応しいように描いたのだろうか 源氏の棟梁なのに伝足利尊氏像(高師直)ははっちゃけ過ぎてる
最初にあれを足利尊氏と鑑定した奴が馬鹿すぎ
>>553
自分は戦後(アメリカのね 応仁の乱じゃないよw)に生まれたから
足利尊氏が悪人扱いされてた時代があったなんて知らなかった
一歩間違えば西郷さんも国家反逆者だったんだよね >>67
地方の片隅に残っている文物の方が中央のエセ源氏の徳川さんの所の
宇下人言さんの著作なんかより案外信用できるってことだな
いかに日本人が徳川一門の名を附した中央の権威に弱いかが分かると同時に
かつての教科書の足利尊氏像に疑義を呈した早慶や大谷大学などの私大卒の
研究者のように帝大系の研究の権威に屈服しない態度の大切さが改めて判る >>563
もっと詳しく言うと
自害か宮刑のどちらがいい と聞かれたので
武士の名誉を捨ててまで 親の遺言であって中国の歴史書の完成を優先させた
そのエピソードに司馬リョーが感動して、勝手に弟子になった >>552
・チンチン切ったのは武帝だ、光武帝は後漢だ
・理由は武帝の家来の不始末を助命嘆願したから怒りを買ったからで史記は関係ない
・何で始皇帝侮辱すると漢の武帝に怒られるんだ? 歴史に渾然と輝く美少年の花
饗庭 氏直(あえば うじなお/うじただ)は、南北朝時代の武将。足利尊氏の側近くに仕えた寵童として知られ、『太平記』では「容貌当代無双の児」と評されている。
>>1
垂れ目で鼻でか、本当の日本人って顔だね。
今は半島と混ざって、つり目の直毛とか多いよね。 >>261
典型的な調整型政治家って感じだもんね尊氏さんは 火葬文化は骨も残さないなんて子孫を大事に思っていない証拠だよな
ミイラなんかいざとなったら木炭代わりになるし
>>547
鎌倉公方なんてマイナスのみで全く機能しなかったけど
御三家つくったりしちゃってる 大河・太平記の真田広之に似てるな
はやく再放送やってくれないかな
偽物説が定説化したのに、いまだに源氏の棟梁は徳川さんなの?
家康に微妙に似てるな
同じタイプの政治家だったのかもしれない
>>546
韓信が天下取ったら
毛沢東の中華人民共和国と似たような感じになると思うよ >>564
晋の皇帝司馬炎「司馬懿をかっこよく描くために、ライバルの諸葛孔明を優秀にね」
陳寿「わっかりました〜w」(蜀出身 学校の同級生が諸葛孔明の息子) >>564
新田の家柄自体は、足利の祖になった人の兄貴が祖だから
厳密に言うと新田の方が高いとかいう話もある
ただ、新田は鎌倉幕府時代、頼朝に反抗的だったり
頼朝の不倫のとばっちりを受けたりしてたせいか
足利に比べるとかなり無名だったそうな
(当時の人は、新田を足利の一族くらいの感覚で見てたとか)
義貞を持ち上げたのは、後醍醐天皇が尊氏に対抗させる為にやったんじゃないか、なんて思う
太平記は義貞の扱いって微妙だし
(負けて九州に逃げた尊氏を追わなかったのは、女に引っかかってたせいだとか書かれてたりする) 光武帝って現代人がラノベのごとく転生したんじゃねーかって
対応やメンタルしてるよね。
奴隷(制度)が大嫌いで、片っ端から解放したり、
寝てたら邪魔だと庶民にけられたりとかそういうキャラだし。
>>513
処罰が厳しかったといわれる始皇帝が自ら会いに行って
出発の遅れを罰するでも叱咤するでもなくスルーして帰ってるのは異常
まあ始皇帝は帰り道に亡くなってしまうから
もう怒る元気も無かったか、
自身の健康を取り戻すため藁にもすがる思いで
不老不死の薬とやらを探しに行かせたかったのかもしれない。
徐福伝説としては、時代がずっと後になって
江戸中期ごろに日本でブームが起きたらしいけど
徐福伝説を称する地域(九州から畿内まで数か所ある)からは
短粒米としては最初期の稲作の痕が発見されており
まあ何らかの渡来人が来て、その伝承を徐福伝説が塗り替えていったのかもしれない >>23
面白いじゃないけど、足利義教の肖像画は傑作だと思う
あれほどその人の内面まで描き表した画はそうない >>564
元々家柄は足利より新田の方が上だから。
頼朝挙兵初期にすぐ駆けつけた足利に対して大勢が決まってから来た新田が没落しただけ >>572
歴史書「史記」が完成して娘に託した時期が光武帝の時代だったんだっけ 命鶴丸は、大人になっても尊氏に元服を許されず 長く童形、童名のままだったそう。 足利尊氏のこれらのエピソードは、夢といい童形といい、中世真っ只中。 まるで御伽草子の世界みたい。
新田のが足利より兄貴なのに源氏の嫡流っておかしいよな?
>>397
よくわかったな。貴様さては開明獣だな。 >>532
足利尊氏が生まれた場所は、徳川家康が生まれた場所から約3キロ離れた場所だ
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の屋敷、大門屋敷(三河県岡崎市)の南方すぐ近くにあった上杉氏の屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 >>588
ねえ知ってた?
諸葛孔明のカミさんって、現代からタイムスリップしたギャルだったんだよ
だから、孔明が奥さんからの話で未来のことをよく知っていた >>566
わかる〜うんうん
西郷も実はていうの知ったのは神々の軍隊?!っていう本読んで唖然だった。
私も戦後うまれwww
尊氏も唖然で掘り下げて調べたけど
明治天皇から南朝正統言い始めて北朝系統=尊氏系統の全国の神社がないがしろにされ
逆に南朝系統の神社は国上げて改修や復活させたり無茶苦茶だよ。鎌倉あたりの神社も冷遇と優遇されてるのはそれが原因と言うのが現地いったら実感した。
明治天皇は金たま小さいと思ったwww >>508
天下なんか取っとらんがな
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 >>587
九州って元寇の名残なのか
関東由来の武士が居座ってたりするから
割と危険なエリアだったかもね
結果としては今の佐賀県小城市の千葉氏が
尊氏と交戦した後の阿蘇惟直にトドメ刺したくらいだったが >>2
もしも写真を出してきたら、その勇気ある人を褒め称えたい
グレート義太夫だったのに、人の良い床屋のおっちゃんみたいな顔になってしまった >>592
直接は関係ないけど
中国から亡国の末裔たちが流れてくるとしたら漂着するのが
宮崎の天孫降臨の地らしい
そこで勢力を蓄えて、ジョジョに進軍して行き、和歌山の熊野の神武上陸の地から上陸して
機内の邪馬台国を滅亡させて、国を乗っ取って大和朝廷を開いた
今までずっと太平洋の高知沖を通って和歌山に行ったと思ってたけど
紀伊国屋文左衛門のミカン輸送の時代ですら 太平洋は魔の海と恐れられているから
関サバ関アジで有名な海峡を通って、瀬戸内海経由で熊野に行ったんだね >>529
そそ徐福って
遅れて帰って来てもスルーっていう謎もありましたねwww
徐福って物部氏って言われてるけど徳川と関係あります? 新聞で見たが、今までそうだと言われていた
絵とも、結構似てないか?
眉の感じとか、鼻の形とか。
正装して座っているところと、戦場を
駆け回って髪とか伸びてボサボサのところの
違いだと考えれば、同一人物の絵だと
しても不思議はないのではと感じたんだが。
>>112
似てるね。家康は左向きの画が多いけど、ひっくり返したら似てる。 >>587
新田から分かれた山名なんて、ずっと足利一族として活動してるし
足利と同格意識持ってた斯波とかと同じぐらいの意識だったのかな?
新田の足利に対する意識は >>610
九州じゃ菊地氏が南朝で、大軍で逃げてきた尊氏達に攻めてきたから
死を覚悟するくらいかなりヤバかったとか
そこで奇跡的に勝ち、兵を集めて九州から攻め上がった尊氏達と楠木正成との間で
有名な湊川の合戦に >>612
それって古事記の国譲りの話に似てるのも偶然?
それと物部氏神道と伊勢の勢力との国譲りにも似てるのも偶然? >>607
ま、西郷さんという偉大な国家の英雄を反逆者呼ばわりしてるのは誰だ
って明治天皇が怒ったから上野に西郷さんの像があるんだけどね・・・
上野恩師動物園みたいに上野は天皇家の土地ですし >>594
新田の方が上とかギャグかよ
これみて、まだ言えるのかい?
足利の初代は、男系でも女系でも三河の源頼朝と従兄弟
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む >>621
元々 天照(アマテラス)とかの神様はいたんだろうけど
神話を残すにあたって、意図的に卑弥呼のエピソードと合わせたんじゃないか
って言う学者はいる
こういうこともあったかもしれない じゃあ誰だよ この落ち武者は
目がきらっきらやな
これを4割くらい劣化させると本人に近い悪寒
>>1
耳の位置が目より上で、鼻が高くて二重瞼の垂れ目の特徴は日本人ぽいが、口が小さく眉毛と髭が薄いのが気に成る。 >>614
毛沢東は、速い段階で失脚なら亡くなるなりして
周恩来が政治を指揮ってれば、いい中国になっただろうにね 足利尊師の肖像画はこれでしょ
>>612
国の興亡までは分からんが
出土品の傾向から、瀬戸内海が非常に古い交易路だったのは
確実だろう
ただ軍事的に使ったかは疑問が残る
九州内部は遺骨が刀傷だらけだったりするし
畿内を攻めたというより、自分たち同士で争っていた印象を受ける >>618
山名義範の実父が矢田義清なら、そりゃ足利方につくだろうよ
自分が山名時氏になった気持ちでこの一覧を眺めてみろ、新田につくかよ
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>94
まじか
太平記子供の頃に読んで内容忘れてる身としては
いろいろ新鮮で面白かったのになあ
へうげもそろそろ終わるしモーニング読むもん減ってくな ヤマトタケルが亡くなったら剣が伊勢まで飛んできて地面に刺さりました
嫁さんの実家が伊勢
妻の実家系の部下が、剣を持って伊勢まで持ってきて、大和朝廷(亡くなった旦那の実家)には渡さないとか
ひと悶着があったんだろ・・・
尊氏が悪人とされたのは200年前と書いた人がいたが、もっと前だろ。
水戸黄門が南朝を正統として、南朝に逆らった大悪人扱いされたんだろ。それが戦時中まで続いた。
>>625
それ面白い筋
アレイは三国史記の魏書の魏志倭人伝を部分を見逃さなかったという。www面白い説
あり得るかもしれないとおもた。 >>634
ひょうげものってまだ続いてたんかw
アニメで千利休死刑になっちゃったし とっくに終わったもんかと
古田織部って最後どうなるの? んーでも元々足利尊氏とされてた絵ともそんなに遠くない気がするんだが
>>629
大丈夫だよ
みんなの大好きな立憲民主党が政権をとれば憧れの共産党と連立政権をとって平和民主人民共和国ができるよ
僕たちがいい国にして民主主義をとりもどそうよ >>1
尊氏ホモ説もわかるわw >>23
小早川秀秋。貴人の肖像画は美化して描かれているという偏見を打ち破る情けない風貌。
これに匹敵するのは、カルロス2世の肖像くらい。 昔の武将とかの肖像画って服が違うだけで全部同じ顔に見える…
>>649
みんなの大好きな立憲民主党
選挙あったやん
少数が大好きの立憲民主党でしょ
平然と嘘つくのやめて >>631
どっかでニュースでやってたけど
宮崎の海岸あたりから、瀬戸内海沿岸 そして大阪あたりまで
住民に大和朝廷の子孫系の遺伝子が残ってるんだって >>610 >>619
ウチの先祖は九州の山奥の出なんだけど家系図辿ってくとどうも室町時代前後に
栃木あたりからやってきたっぽいんだよな 栃木にも同姓多いみたい
その時一緒に来た殿様の家系も続いててネットで調べたら本家が古文書の文面を公開してた
菊池氏と敵対してやりあってたみたいだから尊氏や北朝側だったって事かね
その辺興味あって調べたらネット上にも案外情報があってこの時代俄然興味がでてきたわ 高兄弟って悪く描かれてるけどコレって
後世の勝った奴らの言い分だしな
だまし討して乗っ取って
アイツラは悪者だってことにしといた過去の武将って結構いそうだよな
>>42
どっかに奉納するとかで執事殿に頼まれた俺
そのために鎧新調してもらった それが謝礼 いい人過ぎてダメだったんだっけ。
天下人には向かなかったとか。
>>626
徳川家康が生まれた岡崎の鎌倉時代の親分、高一族の高師直だ
高一族の菩提寺は、家康の正室が幽閉された寺でもある
高氏所領
・三河国額田郡菅生郷、三河国額田郡比志賀郷、三河国額田郡政所、三河国額田郡矢作東宿、三河国下村中山郷雑役免(進退分十家名)
■高師氏
・父は高重氏
・右衛門尉、法名心仏
・三河国額田郡菅生郷・比志賀郷(三河県岡崎市)郷司
・永仁4年(1296)3月1日、他家に嫁していた娘の稲荷女房(法名心妙)に三河国額田郡比志賀郷を譲る(総持寺文書)
・正安3年(1301)2月15日に満性寺(三河県岡崎市)に菅生郷の土地を寄進する
■高師重
・父は高師氏
・高師泰、高師直の父
・三河国額田郡菅生郷(三河県岡崎市)郷司
・暦応2年(1339)に足利尊氏の命令で、三河国額田郡比志賀郷(三河県岡崎市)に八幡社とともに深恩院総持寺(現在は広祥院)建立する
■高師兼(室町幕府最初の三河守護)
・五郎左衛門尉、尾張守、刑部大輔
・父は高師春、母は高師直の妹。高師直の猶子
・高師直より、藤原冬房領三河国碧海荘三木今一色の知行保持を命じられる(建武4年(1337)5月13日付高師直奉書)
■貞円
・父は高師重、高師直・高師泰の弟
・滝山寺(三河県岡崎市)大勧進
■三郎
・父は高師秋
・滝山寺(三河県岡崎市)僧
■明阿
・父は高師泰、夫は高師冬(高師直の養子)
・観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、三河国菅生郷(三河県岡崎市)に総持寺を建立する、
・三河国菅生郷(三河県岡崎市)の旧領は、一旦足利将軍家領となり、将軍家より総持寺に寄進された
■いち
・父は高師世(高師泰の息、明阿の兄)
・明阿が三河国菅生郷(三河県岡崎市)に建立した総持寺の初代住持 >>612
九州の中南東部なんかに漂着するのかね?
西部側なら判るが >>660
絶対ではないけど
種子島屋久島と鹿児島との間に海流があるそうだ >>613
徐福が本当に日本までたどり着いたかは謎だしなあ
日本に来た中国渡来人は
斉の戦争難民だったという説もある
難民なので出身地では越や魯なども含まれるだろう。
これは、九州から出土した古代の遺骨と
山東省の遺骨の特徴が似ているというのが論拠だった。
古代日本の遺骨同士でも土地が変われば頭蓋骨の形状や
骨の太さは異なっているのに
なぜか遠い山東省の春秋時代の骨と特徴が重なる骨が
九州にはあったそうだ。
これは古代のみ可能な比較で、中世日本人の骨は
混血が進んだためかまた形状が変わってしまうそうだ。
まあ土葬に切り替わったせいで骨の残存数が少なく
甕棺にバッチリ残ってる古代より比較が難しくなってるのはあるそうだが >>638
最後は大阪の陣の後、豊臣方への内通疑われて家康に切腹命じられる
漫画は今その辺 >>655
董卓って、良くも悪くもフランス革命のロベスピエール(腐敗した政治家を片っ端から粛清)なのに
あそこまでデマ捏造で悪く書くことないのに
ま 呂布は最低 >>651
それね〜あたしも調べてて
徐福路線で中国との交易見てたけど
徐福自身は越国出身で実はその周辺に日本の銅鐸に類似するものが唯一出土してるの。
しかも遺骨から初期古弥生人に一致する人骨。
それと抜歯や入れ墨文化は倭人そのもので越国が渡来人だったのはわかってるみたい。
しかもそれ以上に稲作は直接半島経由せず日本に来たことも最近わかったみたい。 >>553
頼朝も幕府を打ち立てた人物として英雄筆頭くらいな感じなはずなのに
今じゃむしろ悪だからな そういえば関係ないが高師直って何とかいう
兄弟がいて、昔大河ドラマの太平記では
師直(柄本明)が弟だったんだが、当時辞典とかで
調べたらどれも師直が兄だとされていて
不思議だったのを思い出した。
その辺詳しい人いる?
金吾はどうしようもないやつだが、しかし一度大河で主役にしてほしくもある。
これ暗殺対策で本人名目でかいた弟さんの方じゃなかったっけ
不眠と慢性下痢でいつあってもがれてたんだけどな
>>384
キングダムみたいにしたかったんだろうな >>14
あれは執事の高師直。
こいつも庶子系だけど源氏なんだよなw へうげものと同時期に戦国乙女がやってた
へうげもので、小山力也さんが織田信長やってた
豊口めぐみさんが(古田織部の)奥さん役だった
戦国乙女見たら、豊口さんが小山さんの役と同じ鎧着た女性やってた・・
へうげもので、中井和哉さんって人が、ちょっと普段とは変わった感じの伊達政宗を演じてた
この中井さんは、ほかにどんな役やってる人なんだろう 歴史系の役はやったことあるのかな
>>674
キングダムって始皇帝(秦王 政)の話?
親父の子路皇子の話? >>651
方言の解析では九州と四国太平洋側のグループ
四国含む瀬戸内海沿岸から畿内一体のグループに
分断されているらしい。
裏日本はなぜか東北に近いと。
まあ現代の言葉ではなく、古代の発音の推定だけど
現代でも九州と広島で言葉変わっちゃうからなあ >>667
利休死んでからが織部の人生の檜舞台だとおもう >>82
この絵、なんとなく真田広之にニてる気がする
まだ痩せてた頃な >>676
中井さんならゲームの戦国BASARAで同じく伊達政宗
三國無双で夏侯惇や典イの役をやってる なんで、昔の日本人の偉い人って中国人みたいな格好してるの?
>>669
頼朝はなんだか悪者でも兄弟殺しみたいな汚名ある感じがする。だけど英雄だよね〜 >>670
読み取る能力が無いのか?
高一族の累代の所領は、高師泰の息子(猶子)後に娘が相伝している
高師泰が兄に決まっているだろう
高氏所領
・三河国額田郡菅生郷、三河国額田郡比志賀郷、三河国額田郡政所、三河国額田郡矢作東宿、三河国下村中山郷雑役免(進退分十家名)
■高師氏
・父は高重氏
・右衛門尉、法名心仏
・三河国額田郡菅生郷・比志賀郷(三河県岡崎市)郷司
・永仁4年(1296)3月1日、他家に嫁していた娘の稲荷女房(法名心妙)に三河国額田郡比志賀郷を譲る(総持寺文書)
・正安3年(1301)2月15日に満性寺(三河県岡崎市)に菅生郷の土地を寄進する
■高師重
・父は高師氏
・高師泰、高師直の父
・三河国額田郡菅生郷(三河県岡崎市)郷司
・暦応2年(1339)に足利尊氏の命令で、三河国額田郡比志賀郷(三河県岡崎市)に八幡社とともに深恩院総持寺(現在は広祥院)建立する
■高師兼(室町幕府最初の三河守護)
・五郎左衛門尉、尾張守、刑部大輔
・父は高師春、母は高師直の妹。高師直の猶子
・高師直より、藤原冬房領三河国碧海荘三木今一色の知行保持を命じられる(建武4年(1337)5月13日付高師直奉書)
■貞円
・父は高師重、高師直・高師泰の弟
・滝山寺(三河県岡崎市)大勧進
■三郎
・父は高師秋
・滝山寺(三河県岡崎市)僧
■明阿
・父は高師泰、夫は高師冬(高師直の養子)
・観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、三河国菅生郷(三河県岡崎市)に総持寺を建立する、
・三河国菅生郷(三河県岡崎市)の旧領は、一旦足利将軍家領となり、将軍家より総持寺に寄進された
■いち
・父は高師世(高師泰の息、明阿の兄)
・明阿が三河国菅生郷(三河県岡崎市)に建立した総持寺の初代住持 日本史的に分裂してた南北朝を統一させた足利義満だが
これから先も大河ドラマになることはないんだろうなと
今の日本で多くの人が抱くのイメージは
金閣寺で一休に頓知でやり込められる人なのかもしれない
>>684
弟が 韓信大元帥みたいな
戦は強いけど 超絶DQNじゃあな・・・ >>51
高師直は庶子系だけど足利氏だよ
先祖を辿れば尊氏と同じ先祖。
ちなみに柴田勝家も織田氏の庶子系。 >>488
ヘー昔にもそんなことがあったのか
天皇家を勝手に南北朝に分けたからな >>687
そんな大人物だからこそ 一休とかいう天皇の弟の息子だから迂闊に切れない そんな立場を利用した
悪ガキが好き勝手言って困らせるのを庶民は喜ぶ >>679
それ海人族と天孫族の話に繋がるのかな? >>653
鎌倉時代にも、国替えみたいなことあったのかもな
元寇のせいで防備固めるためか
単純に領地として九州を与えたのかしらんけど >>682
サンクス
小田原遅参で死装のときも、束今にもパーリィとか言いそうな政宗だったねw 爆笑させてもらった 殿様に「肖像画書いて」って頼まれたら、絵師は、そっくりに書くと思う?
足利なんちゃらとか多すぎて何した人かまったくわからん
ソンシって麻原かよwwっていう
こんな尊氏は嫌だ。おれは丹古母鬼馬二みたいな尊氏が好きなんだ
>>669
実際の幕府設立の功労者は頼朝でなく
北条氏をはじめとする関東武士で
そのお飾りにされたって表現のほうが近い感じがする。 >>697
しかも 間違ってた肖像画のほうも なんかそれっぽい絵だしw >>686
おお、すまん。
上にそんな詳しい書き込みがあるの
知らなかった。
しかし、ネットは便利だな。瞬時に
大勢の知恵を借りられる。
当時からしたら夢のようだわ。 >>60 当時の肖像画って、
葬式写真のように使われたんだよ。
子孫が法事などをやるときに、肖像画を出した。 >>700
ガチの源氏系の武将は さりげなーく粛清されてたりするのよね >>611
ムーの韮澤がごく普通の外人の写真を出してきて
これが金星人ですって言い切ってたのを思い出した ほう、躁鬱病だったんだなあ。
確かに性格的に循環気質っぽいな。
躁鬱病の英雄といえば、チャーチルが有名か
>>688
弟は超絶DQNwww
確か今給食問題はで話題の大磯付近にじっとしてたよね。鎌倉入れず。www >>702
HGウェルズに、そういう道具だかシステムが出てくる
だからこそ
HGウェルズは、実は未来からタイムスリップした人ってよく言われる >>696
せやな、将軍の顔なんだから美形に描くべきだよな >>683 今の日本人がネクタイしめて背広を着るようなもの。 >>707
崖の上にて
総大将「鹿に出来て馬に出来ない訳ねえだろ おまえらびびってんじゃねえぞ」
少し前の、猛吹雪の那須のスキー場あたりにいそうな雰囲気ですね >>692
海人の言葉はよく分からんな
九州において海人は、河童や鬼のような扱いだったりするし
まあ海人も古くは豪族なんだろうけど
九州西南諸島は瀬戸内海に匹敵するくらい小島が多くて
古代の海路としては有望だったそうだ 何か信長の絵にしても後から格好よく補正されてる印象だな
これ子孫が名誉回復の為にがんばってるんだろ
>>710
平城京遷都1300年祭の模様をNHKで生中継してた
ここに平城宮の内裏があった場所です という場所に椅子が置いてあり
天皇皇后両陛下がやってきて座った
スーツ姿だった
なんか泣いた 司馬遼太郎の太平記だとアバタがあるように書かれてたな
>>713
ここで那須のスキー場が出るとは
すっごい小さいショボいスキー場ですが最近若い子亡くなったよね?
記憶違いかも >>700
だよね。
頼朝の子らは殺されたからな。
北条が賢かったのは将軍にならずに補佐役の執権でいたこと。
実質トップだしな。 >>707
従兄弟の、源義仲(木曽義仲)の京都占領も色々ひどかったらしいな
奥さんの巴御前さんも、実際にはヤンキー彼女(レディース)っぽい外見だったんでしょうね >>718
猛吹雪だってのに、引率の教師が、ちょっと八甲田山ごっこやったばっかりに・・・
あの日は、外出しないで生徒みんなで八甲田山を見れば、本当にいい勉強になったのに >>714
そそ海人族だとおもう。その話。
伊勢神宮より正当な三種の神器を守る一族でもあったような 伊勢=アマテラス(卑弥呼)だから鏡
出雲=八またの大蛇の話があるから剣
まがたま=あれ あとどっか有名な神社あったっけ
であってる?
ぼんやりした記録から、勝手に推測したりするのはたのしいわな。
オレの自説だと、孫ピンが最初に親友のホウケンに裏切ろうぜ
って持ち掛けたんだと思う。そしたらホウケンは孫ピンじゃなくて
主君をとったわけだな。んで厠戸皇子になった孫ピンがおのれ
ホウケンめってなって、んで勝ったので、「あいつはオレに嫉妬して
裏切ったのだ」と言い出したわけだ。まあ勝てば官軍ってこった。
(適当な自説も良いところなので信用しない様に)
光圀が何故、南朝正統を主張したかというと、やはり徳川家は新田義貞を祖とする新田系だからだな。新田氏系得河氏の末裔を称したからな。
得の字は徳に変えた。
で、南朝に逆らった足利家は逆賊にされた。
>>722
お転婆娘過ぎて巴御前は歴史に残ったイメージ ヤンキーレディース伝なのかもwww見方変えたらイメージ崩れるよ〜 >>720
これみて、北条がトップに立とうと考えるか?
源頼朝は幹部を三河の母方縁故者でガッチリ固めてんだぞ
足利氏もその三河の母方縁故者グループの一員だ
北条が乗り換えられなかったのは、この源頼朝の三河の母方縁故者グループであり、結局はその三河の母方縁故者グループのボス足利氏に滅ぼされた
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>60
本人が亡くなった後に描かせてるんだから
息子が指示したんだろ 本人じゃない >>686
史料によって兄となってるのと弟となってるのがあって
残念ながら「師泰が兄に決まっている」なんて言い切れないんだよなあ
師泰の系統が「高一族の累代の所領」を継いだから兄だって決め付けるのも浅はかというか
半端な知識の子ほど、軽薄に物事断定するから困る >>661
出雲の辺りが鉄器を多量に保有してるから
戦闘で突破するのは厳しい
まあ平和的に通ればいいだろうけど
俺としては、交易目的で瀬戸内海を通るのは可能だが
戦争目的で九州から出て行ったとは想像し難い
九州そのものが戦場なんだし、更なる外敵を求めて
軍隊出してるならもう戦闘民族だろ みんなは大河ドラマや他の時代劇のイメージが強くてみんなイケメンだと思い込むのな。
源義経や沖田総司は不細工だったらしいよ。
イケメン俳優が演じるから良い男と勘違いする。
>>733
だから将軍でなくて執権でいたと書いたがなw
実質トップだろ。 足利尊氏が無欲だったおかげで
子孫が苦労することに
モンタージュ写真みたいなもん
だろ?西郷さんの肖像と同じで
あれも西郷さん知ってる人から
の証言だから
梶原景時 高師直 石田三成 本多正純の中で1番現代人から不人気な奴って誰かな?
>>724
八甲田www
那須与一の人形劇館
行けば未だマシかも。
あそこ5000万かけたとか説明してくれたけどしょぼすぎて人少ない。 >>409
ちゃうちゃう、信長に2度はむかったから2度目は茶器で許すよって
言われてたが、渡すぐらいならと自ら茶器で自爆 足利氏のブライドや使命感みたいのは、これを眺めて感じろ
政子ちゃんは旦那が幹部を三河縁故でガッチリ固めたいたのを周知していたわな
足利尊氏は三河のボスとして、使命感をもって、源頼朝の三河の母方縁故者が武家社会を牛耳る体制に戻したさ
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・公暁
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
>>722
美人の妾であって妻ではないんじゃないか
資料によっては乳母の娘のため妹同然の幼馴染で妾という
とんでもない属性になってる 尊氏は垂れ目だったんよね
神護寺にある源頼朝の絵は、
実は弟の直義なんだけど
、弟の方が男前
顔なんか年単位で変わるものだよ
そんなものに拘泥しても意味がない
>>728
孫ぴん(二代目孫子)「逃げながらカマドの数を徐々に減らしていけ そうすれば敵は油断する」 >>547
水戸史観が討幕の根幹を成した
尾張徳川が新政府軍が江戸に進撃しやすいように東海道諸藩を寝返らせた >>746
オタクには これを渡すくらいなら精神的に折れて絶対服従になるだろうなってブツはあるからな >>749
そりゃあれだけ威厳があるなら二頭体制が長続きしなかったのもなんとなくわかる気がするな。
直義がもうすこし小物なら、よかったのかもしれないが。
完全にトップに立つべき人物の顔だから。 >>755
南朝が正しい って言ったら
じゃあ 幕府は悪 ってなるのにねw バカだねw >>757
昭和時代の皇太子の顔は、完全に人々の上に立つ人の顔をしてる
まるで王子様みたい >>757 あと尊氏って、うつ病だったらしいね
学者の人が指摘してた >>762
躁鬱病の傾向がみられるということはいわれとるよね。
やたらテンションが上がる時と、そうでない時の差が大きいというか。
それが病気といえるかどうかはしらんけど。
これが同時代の人々にとっても、矛盾を内包した性格として、とらえどころのない印象を与えることになったという。 昔は足利尊氏とされてた肖像画も源頼朝とされてたやつも絵として出来はいいんだよな
>>758
新田系だからだろ
そちらを選んだ
文句あるなら黄門ちゃまに言え! 北畠顕家はガチでかっこええのう
尊氏を倒せていたら日本はどうなっていたんや
>>763
その時代に躁うつ病が病気という認識はあったのかな 光圀もまさか自分の南朝正統論が後になって討幕の理論付けに使われるようになるとは思わなかっただろうな
選挙前に一部の保守が「希望は一応保守を標榜してて改憲勢力なんだから野党第一党になるのは良いことなんだ」と
言ってた奴がいたが息してる?
中山恭子氏が緑の小池に何呑ませようがそんなの構成員見れば反故にされるの判ってたじゃん。
惜敗率じゃなくて小池塾生を全部比例上位に持っていったならまだしも(なぜそうしなかったのかは未だに謎)。
日本人が何百年も高師直を尊氏だと思ってきたんだから、それでよくね?
>>767
三河の王が天下をとるまで社会は安定しないだろう
三河の王になるとは、最大の源氏御領の主になるだけでなく、最大の皇室御領の主になる事を意味する
日本を支配するのに相応しいわけだ
ちなみに、最大の皇室御領は足利尊氏の先祖が立券した
この歴史的背景が、尊氏の葛藤の源泉で、三河以外の部外者は尊氏は躁鬱と勘違いする
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし紙は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる >>768
名著「南北朝の動乱」で躁鬱の気があると書かれたのも影響でかいんだろう 「これは見事な絵だから尊氏公を描いたものに違いない」って流れだったんじゃないの
知らんけど
どういう経緯で肖像画の間違いが多いのかな?
加藤清正の有名な肖像画も別人なんだろ。
西郷隆盛の肖像画もキヨソネが弟の従道の顔からイメージして描いたんだろ。
死後に描かれると、似ていない肖像画も残るだろうな。
>>779
畏れ多いとか、魂抜かれるとか土着信仰があったんじゃないの
西郷さんは暗殺防止とかじゃないの 三河の源頼朝の見通す力は一流だ
特に範頼は殺しておかなければ、その子や孫が、間違いなく京方に担ぎ上げられていた
事実、承久の乱の首謀者は、範頼の養父の子や孫であったではないか
実は、範頼は源頼朝の母方とも縁が深く、義理の姉妹が天皇のかーちゃんになった時点で、家格すら鎌倉将軍家を上回った
危険視されて当たり前で頼朝は悪くない
三河の藤姓熱田大宮司家
・家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河守)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
★藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)→葉室顕頼(三河守)→藤原俊成(養子、三河守)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→C
・他多数
盛ってるだろ絶対
ぶっさいくに書いたらクビが飛ぶわ
>>275
それって諡名であって実在を否定するのとは違うと思うけどな
功績に関しては蘇我氏だけどな >>713
義経「いいことおもいついた!船の操舵人を狙えば簡単!、」 三河で雌伏していた源義兼が、従兄弟の源頼朝から足利荘を安堵され誕生した足利氏だが、足利にしっかり土着せず、三河に舞い戻ってきたのは
北関東にいるより、三河の源頼朝縁故の人間関係の濃密さが魅力だったに他ならない
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。 >>763
最近の研究本読んだら
躁鬱というのとは違う
あれはやる気がないけどやらざるをえないときはきっちり行動するからじゃないかという説だった 三河には範頼の長男もいたしな
北関東は退屈なんよ
■正法寺(三河県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(三河県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
>>703
あと手柄たてたり官位上がった時に記念に寺社に奉納した
だからかかれている服装や持っている小物が官位役職を証明するものだったり
そのときの褒美の品だったりでこだわりがものすごかった
で田舎から幕府出向く前にせっかく名前知ってる著名人にあっても気づかなかったり
会ったとき人を間違えて失礼がないように事前に奉納されている寺社巡りして
祭りの時やら寄進して本人であればいいけど普通は親父さんの肖像画見せてもらって確認してた >>67
わりと全部似てるってことは
当時の美術レベルというか写実レベルって高かったんだな >>788
曽我兄弟の敵討ちが範頼を担いだクーデターだってやつ? >>792
キリストのフラスコ画みたいに修正した奴がいてお目々パッチリ。 >>779
肖像画が寺社などに奉納される。
その過程と時代が経るに従い、その肖像画の来歴、伝がその寺社によって歪められる。
著名な人物の肖像画である、などとし、その寺社の権威付けに利用される。
また、後代の江戸期の人が、著作で著名な人物の肖像としてその人が有するイメージとあった肖像画を紹介する。
すると、その紹介が一人歩き。結果として、その紹介が一般化する。 お宝鑑定団に出せや!
いい仕事した絵か?最近描いた贋作かわからんぞ
>>584
韓信は毛沢東とは全然タイプが違うだろ
軍事特化型でドロドロした権力闘争はからっきし
毛沢東のような極端なイデオロギーで動くわけでもなく
自分の軍才を天下に示して出世すれば満足するタイプ 加藤清正像は初めて聞いたな。取り違え説で別人だったなんてのは武田信玄のが有名だけど。
確かに本物とされている肖像に比べてタコ坊主の方がらしいと言えばらしいw
, -'TT >、__ノ!
/ミ、,ィ‐'‐、;;;;;;;;;;;;;;;|
/三,l _, -=---<_
l三,ノ´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`'' 、
|=/;;;;;;;;;;;/`'''ー- 、,ィ'゙ヽ',
|ヲ;;;;;;;;;;;/ ° °',!
〉;;;;;;;;;;;;;`フ __,, 、 , ,.._, 〉
/;;;;;;, -、;;/ `ャッ'フ ) 〈{ノ/〈
l;;;;;//ヽ, l! 、  ̄/ lヽ' ノ
',;;;;', 、rノ `゙" r、_,j 'l
_ゝ;;ヽ、_/ 〃~~___, ~'!l
__ 7ラ‐ゝ l l! - l l
/\: : : ̄/ヾ、 `''ー|、 /! _,l''
_, -‐'/ `- 、/:::::::\ ! j`ー';;`フ!: `ヽ_
_, -‐''´ / \ ` 、::::::::\、 ノl;;;;;;;;;;,;l!:l: :./! ` ー-、_
、/ヽ | \ `ー 、:\、 ヽ;;;;;;;;;|゙:::l / l ``i、
/ ヽ: : ヽ l `'-、 ` -、_ヽ 〉i!/::/ / l: iヽ
/ ヽ : ヽ `ー-、_ ` ー' 、,/ / l: :lヽ
/ ヽ: : ヽ `ー-、_ / / l: :! ヽ
/ ヽ : ヽ `ー-、'´ l: :! \
/ ヽ : ヽ '/ |: :l \
/ ヽ: : ヽ /| |: :l \
ヽ: : ヽ | | /: : :l \
>>812
これこそが当時の高貴な家柄の人物画である証拠 >>178
ゴキブリ食べ尽くしたら引っ越ししてくれるって聞いたが実際は違うのかな? 顔型取るとか
外国とか偉い人のデスマスク結構あるじゃん
神護寺には、源頼朝 平重盛
足利尊氏 直義の4つの絵が昔はあったんだが、
いつの時点だかわからんが、
頼朝 重盛のが紛失して、寺が勝手に
足利直義→源頼朝像
尊氏 →平重盛像
と認定してしまった
いまだに寺は、これを認めないんだよね
>>811
こんなAAあるんかwwwwww
新右衛門さんは? >>767
ゴクミに演技力があったら最高だったんだが >>812
安倍総理の悪口やめろよ
一応岸総理のお孫さんなんだぞ 当時の人は、自分をそっくりそのまま描かれるのを忌み嫌った。(魂を抜かれるとか信じてた。) したがって正確な肖像画というものは存在しない。
>>820
そういう経緯かい。ありがとう。
ずっと源頼朝だと教えられてきた絵が実は足利直義だったとかいい加減なのかと思っていたからな。 >>782
足利尊氏の側近、高師直(こうのもろなお)だという説がある >>826
一つの事実をさも普遍化して語るのは賛成しない。石田三成や伊達政宗といった頭蓋骨から
実際の顔が復元された人物の顔と残された肖像画を比較するにほぼ実際通りと判断してよいはずだ。 大河の太平記は弟がお菓子食ってお茶飲んで苦しむ回までしか見ていない
>>94
あれで終わりなの?常にアンケ一位にしてたのになんで?とりぱんが終われや
騎馬武者象も尊氏じゃね?戦ばかりしてたからあんな感じで逃げてたと思うよ イケメンさんだな
実物とは違うんだろうけど>>826 >>831
病の尊氏がお腹にいる孫の名前をつける場面
親友の謀略癖がある佐々木道誉が
義詮殿から義満殿へ寝返りいたそうよって
ブラックジョークをw >>816
あいつらデカイゴキは倒さないから
その前に繁殖されると数百の子供が卵から出てきて天井からワラワラぶら下がってる >>831
高嶋政伸に「申し訳ございません」と言って欲しかった。
兄上よくぞご決断をなさいました(怨んでいないみたいな)なんて最期の言葉だったな。 >>838
高島兄弟の弟は
従姉妹の、ちさ子姉ちゃんが、ぱっと手を上げると、とっさに両手で頭をガードしてしまう癖が無くならない 神護寺で平重盛とされてるやつ
ほかの複数の尊氏像と比べても、そっくり
教科書の頼朝像(実は尊氏の弟の直義)と
ワンセットで作られたものに違いない >>1
普通にイケメンっぽいな
真田広之のよりはガッシリしてそうではあるけど 普通のおじさんじゃん。やっぱり浮浪者の方が本物だろ。
自分より頭が良く実務家の弟と、
自分より武力の高い家来に、
サンドイッチにされて
良く生き残ったわ。
>>834
そこから尊氏の「出逢うた時友じゃ、と思うた…生涯の友じゃ、と…」に「っ!!……敵わんな」って道誉のツンデレがまた良かったわw >>488
幕末維新のころは勤皇の志士らから「鎌倉以来の逆臣」として引き合いに出されたな。
尊氏が建てた嵐山の天龍寺も禁門の変で焼かれた。 精悍な面構え
北朝方武家の棟梁に相応しい顔
南朝方の新田義貞の肖像なんて残ってもない
>>2
>>3
写真がでてきたらフォトショとかいうんでしょ。 >>1
ワロタ、弱そうw
騎馬武者の方がかっけーな >>1
こっちの方が男前だな。
あの絵だと豊田真由子から、このハゲーって殴られそうだろ。
足利さん、良かったな。 なんで日本の肖像画って
ヨーロッパみたいに写実的じゃないんでしょ。
絶対、こんな顔のわけがねえ、ってやつばっかりじゃん。
よく見る騎馬武者の伝尊氏像はどうも尊氏じゃないらしい。
また伝頼朝の絵も足利直義ではないかと言う人もある。
更に伝平重盛像こそ尊氏だと言う人もいる。
キチンと整理して欲しいわ。
伝足利尊氏は高師直。
真田広之だと思っていたら柄本明だったということ。
>>441
じゃあ
山本勘助は内野聖陽
上杉景虎はGackt
そして
今川義元は谷原章介 >>60
昔は面影残すのに肖像画より木像の方に力を注いでたらしい 肖像画や木造が作られるのはたいてい本人が死んだ後
後継者や信奉者が称えて作る
有名な聖徳太子像はよく別人説やそもそも存在しない説がでるが
聖徳太子には違いないだろう、ただ100年後に想像で描かれたもの
地方豪族〜綸旨院宣令旨・・・・真に受けて、一族郎党共々〜上京すると、全て哀れな末路
ステイの路銀経費一切払わないし、他の諸侯に都で狼藉の限り、早く成敗頼むなんてレタ^−出す始末
頼朝なんか元より〇〇の性根見透かしてたね、 尊氏は稀有な事例なの?
>>67
昔の人って絵が上手な人いなかったの?
どれもいまいち… 高師直は本当に嫌われ者で江戸時代の浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」で吉良義央を高師直名で登場。
浅野長矩(ながのり)は塩冶判官。
木像と似た感じだし、これが正解なのかな?
足利尊氏
足利義詮
足利義満
>>865
暗殺防止
西郷さんは写真撮らなかったでしょ つぶらな瞳だなw
ジャンプでやってたイソベエにそのまま居そうw
>>885
義詮とはよく似てるな
尊氏の血なのか登子の血なのか知らんが >>67
取りあえず精悍な雰囲気は無いというか覇気を感じさせる人じゃなかったのは伝わってくる
良く征夷大将軍になれたな >>1
この顔見たことあるぞ!
まだ生きているんだな
名前は何と言ったか… と言うか、足利なんて末端の分家が源氏の筆頭扱いになったんだ?
鎌倉時代になんか功績あるの?足利市
天皇の意向に背いて勝手に中国から金印貰って冊封された足利家か
この将軍一族のせいで日本は各地で内乱が勃発しやがて戦国時代になった
道原かつみと藤竜のヤン・ウェンリーみたいなもんかw
>>897
源平合戦でいち早く頼朝に味方したからな
同じ源氏でも佐竹や新田は味方しなかったから不遇になった
そして鎌倉時代を通して足利は北条と婚姻を結び続けて、
鎌倉末期には御家人筆頭になってた >>897
頼朝挙兵に従弟の関係だった足利義兼が参加して以降は一門として扱われ、北条氏の有力者とも婚姻の関係を続けたから
鎌倉幕府の中でも有力者であり続けた。
だから、尊氏が幕府を見限って後醍醐天皇に付いたのは大きかった。 >>907
鎌倉を攻め落としたのは実質は新田義貞なんだが、
その軍勢にいた当時4歳の義詮を盟主ということにして
ちゃっかり足利家の功績を第一にした尊氏 はよタイムマシン作って実際の写真写るんですで撮ってこいよ
鎌倉幕府クーデターを指揮して南北戦争を引き起こしたばかりか中国の回し者を将軍にした無能
それが後醍醐
頼朝の肖像画が尊氏のものだという説もある
そして多くの人が尊氏の肖像画だと思っていたものは「騎馬武者像」という素っ気ないタイトルに変えられているw
目がパッチリで、漫画チック。
本当に、昔の日本画?
足利尊氏が出てくる面白い歴史小説ってあるの?
司馬遼太郎も足利尊氏の時代ってあんまり描いてないよね。
>>917
ショーグンショーグン
ショグショグショーグン
アーシーカーガーショーグーン 戦国時代は好きなんだけど鎌倉末期から室町初期の辺りはよく知らないや
足利尊氏ってどの辺がすごかったの?
>>909
中先代の乱で北条方に押し込む力が残っていたわけだから、新田は完全に滅ぼしていない >>921
朝廷とか公家の荘園支配を弱体化させて
武士権力を強大化させた
足利将軍自体の権力はそれほど強くなかったので
下剋上が生まれ信長秀吉たちの近世に繋がった >>921
とりあえず、大河ドラマ「太平記」を見てみよう
無論、フィクションだけど大体の歴史の流れは分かるし、ドラマとしても秀逸 >>916
美人画などの細目はデフォルメのテンプレでしかないぞ。
中世以降の肖像画はリアリティがある程度求められている。
顔の美醜については少なくとも400年前と現代では大きな違いはない。
宇喜多秀家は文字史料で美丈夫として書かれている人物だが、その肖像画は目鼻立ちがはっきりした美青年だ。
>>921
当時、血筋もよく、弓馬もうまく、風流で、気風もよかった。武将にモテモテ。
戦に敗れ20人にも満たない数で九州に逃れた時があったが、
現地でモテモテになり数万の軍勢に膨れ上がり、京に攻め返ったことがあるw もともと幕府側だった足利家は、
幕府に付きながらも倒幕派の後醍醐にも付きつつ、
漁夫の利的に将軍の地位を手に入れた
つまり曲者というより常に強いものに付くカス
後世において中国の回し者だったことが判明している
>>921
センゴク(笑)好きなら、徳川家康の事は知っているんだろ
家康と似たようなもんだ
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 >>929
弟直義に負けたのに
責任を高師直に押し付けて論功行賞を将軍の名でやっちゃうとか
それで納得させちゃうカリスマ性 尊氏は人情あふれる人だったらしいね
頼朝みたいな政治センスがなかったけど
>>935
戦国時代という内乱を誘発させた人物が歴史上に残ってるのは、
結果的に見て戦国時代が国自体の底上げになったという結果論でしかない
下手すりゃ内乱を誘発させた大罪人だろこいつ >>930
>後世において中国の回し者だったことが判明している
史料や論文を出してくれないか? >>930
足利家は頼朝とは同族の清和源氏で早くから頼朝に協力して幕府設立に貢献、北条政子の妹を嫁にした事で義理の兄弟でもあり、将軍家が三代で絶えた時に
将軍家を除いた清和源氏の筆頭の官位をもらっていたので四代将軍に推薦されたが北条家に睨まれるのを嫌って臥薪嘗胆を決め込んでいた
長い間、将軍になることを周りの御家人たちから望まれていた足利家の当主がその気になったから我先に協力したんだよ。 >>937
天皇の意向に背いて、
勝手に中国から金印をもらい冊封され日本国王となった
これだけで十分中国のスパイだと分かる 、歴史教科書などで尊氏像として紹介されてきた「騎馬武者像」
(京都国立博物館蔵)は尊氏でない可能性が高まっている。
ってじゃああれだれ?
>>942
国内の最大規模の内乱を誘発させたのにスパイと言わずしてなんと言うんだ? >>939
大河ドラマの初回で長崎円喜が足利貞氏が
塩屋の残党匿ったこと尋ねて
足利殿と申さば幕府を開かれた
源頼朝公のご縁戚にあたるお方
よって官位も従五位下そのような方を取り調べるなどとって
かしこまったフリしてる場面があった >>945
足利尊氏の側近で弟直義と対立した高師直と最近では言われてる。 教科書にものっている有名な源頼朝の像は足利直義らしいで
>>936
当時の武士の間では北条に横取りされた鎌倉幕府を清和源氏の手に取り戻す正義の戦いだからな。 >>945
あれ騎馬武者より
落ち武者みたいに描かれてて
高貴な人を描いてるようには見えないから尊氏ではない言ってる学者も多い
刀をあんな風に担いだ描写も意図を感じるって >>952
真田広之は髪型とかあの肖像画に寄せたのにな 私利私欲で内管領が務まると思うのか!この愚か者めが!
>>954
寺に引きこもってたの所から
出陣する場面だよね
南無八幡大菩さーつ
我らにご加護を >>939
言っておくが、足利と婚姻を求めたのは北条の方だからな、担保として
幕府内には、表に出ない北条が乗り越える事が出来なかった源頼朝と三河で繋がる縁故者グループがあって、北条はそのグループに霜月騒動で傷をおわせてしまった
尊氏はこの霜月騒動の恨みを晴らすのが第一の理由だから
室町幕府初期の幹部が伺える天龍寺供養参列者一覧をみてみろ、源頼朝と三河で繋がる縁故者だらけだ
霜月騒動の負け組(三河の頼朝縁者)
・足利氏←三河守護
・安達氏(三河国八名郡小野田)←初代の盛長は三河守護、泰盛は三河国渥美郡小松原荘地頭
・足助氏(三河国加茂郡足助)←三河国加茂郡足助荘地頭、頼朝嫡男の正室の家系
・吉良氏(三河国幡豆郡吉良)
・斯波氏(三河国額田郡矢作)
・中条氏←三河国加茂郡高橋荘地頭、中条家長は八田知家猶子
・二階堂氏←二階堂行政の母親は三河の藤姓熱田大宮司家出身、三河国碧海郡重原荘地頭
・大江氏(長井)←大江広元は、元々、三河の藤姓熱田大宮司家の家来か?広元の4男が藤姓熱田大宮司家に養子入り、尾張国海東郡地頭
天龍寺供養参列者
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/tenryuji.html >>921
小説じゃないが歴史学者の亀田俊和の観応の擾乱が面白い
中公新書な 懐良親王 菊地武光 北畠顕家
護良親王 赤松円心 佐々木道誉
北方謙三の小説で学んだぜ
三河で繋がる縁故者が、武家社会を牛耳ったのは、鎌倉、室町、江戸、全部同じだ
その三河縁故者優遇のルーツを調べれば、源頼朝の三河の母方一族優遇、依怙贔屓に辿り着く
室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動
足利も将軍が15代続いてるのに徳川と比べちゃうと地味な存在
>>970
暗殺された人
2回やった人
江戸幕府の将軍と違って
話題性には事欠かないはずなんだけどw >>971
尊氏が親戚を大名に取り立てて領地と地位を気前よく分け与えてしまったから
将軍直参の家臣団が脆弱で軍事力と政治力のなさが露呈してしまったからね。 将軍直轄軍が貧弱とか、ギャグかよ
足利将軍家直轄軍が強靭だったからこそ、家康は足利将軍家のあとをつげた
足利将軍家直轄軍と徳川家臣団が別物なわけないだろ、三河武士の強靭化は足利将軍家がやったんだからよ
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和
>>968
っ 丸山応挙
科学への関心が物体をより緻密に正確に描写しようという意識を高める。
ルネサンス期に写実的絵画への志向が高まったのは偶然ではない、西洋でもそれ以前の絵画は線画で
かつ等身の描写もいい加減な宗教画が幅を利かせている。まだギリシャ、ローマの古代絵画の方がはるか
に写実的だ。 >>970
地味というか
南朝のことがあるからね
あとは察し 室町幕府、江戸幕府と分けるからあかんのや
三河幕府足利将軍期、三河幕府徳川将軍期とひとまとめにしないと見えてこない
ひとまとめにすれば、その三河幕府の人々に、現代も日本は支配されているんだなとよく理解できる
現代社会においても信長猿吉とは縁もゆかりもない
三河縁者以外が仲間に入れるわけ無いだろう
細川護煕氏墓参記念碑
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) 足利尊氏が作った三河幕府は530年続いた、家康は三河幕府を引き継いだに過ぎない
室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動
その足利尊氏が生まれた場所は、徳川家康が生まれた場所(岡崎城)から約3キロしか離れていない
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の屋敷、大門屋敷(三河県岡崎市)の南方すぐ近くにあった上杉氏の屋敷(三河県岡崎市)で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
結局等持院の木像が正解でしょ
あれと伝平重盛像はベースとなるデッサンは一緒
ということで、足利尊氏、足利直義、足利義詮の顔は確定
伝頼朝が足利直義ってのは衝撃だわw
>>968
なんでだろうね
絵描くときのデッサンは物凄く写実的だけど、絵に仕上げるときは一定のパターンでデフォルメするよね
日本人に写実能力がないわけではないことは木像でわかる
ただ、絵にするときはデフォルメするんだよな そんな筈はない
尊氏はもっと人相が悪い変態親父風の顔をしている
足利と徳川の十五代将軍が戦ったら絶対足利のが強い。
徳川で戦力になるのなんて家康、秀忠、吉宗ぐらいだろ
>>986
軍隊の規模が違うぞw
足利将軍の直属軍ってせいぜい5000人くらいだぞw
徳川将軍はその10倍はおるぞw >>986
1対1だったら
義輝がいるから
足利の方が有利w >>67
青年期、壮年期、中年期以降って感じだね。 >>986
条件、設定がよくわからない。戦闘指揮ということであるなら、幕府の動員力において
室町幕府は江戸幕府の敵ではない。 「も」って足利尊氏に写真がないのは当たり前だからw
木像は弟や妻子の事もあるし、南北朝をどうまとめるかとかの年食った悩ましい顔だよな w
どうせ何年かしたらこれも別人でしたテヘペロなんだろ
これまで地味だった尊氏だが、これという肖像がないのも一因
だったと思う。今後はこの肖像が代表的なものになり
もっと知名度があがり、南北朝時代自体が人気でるといいな
戦国時代が注目されるのは、単なるブームじゃなくて必然がある。古代からの統一が崩壊し、近代日本の完成に
向けての再統一が実現できたのは、実に戦国期があってこそだからだ。
lud20221002112129ca
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