◆ 生稲晃子さん 乳がん再発繰り返し全摘へ 右胸にそっと触れ、「ありがとう、さようなら」と…
1986年、アイドルグループ「おニャン子クラブ」に入り、芸能活動を始めた。グループ解散後は、女優や歌手としてテレビや舞台などで活躍。結婚して長女を出産し、仕事と育児に追われる日々を送っている。
がん検診は毎年のように受けていたが、2010年は忙しさから予約を入れ忘れた。知り合いの医師に勧められ、11年1月、人間ドックを受けた。
すると、「再検査」の通知が届いた。精密検査を受けると、右胸に小さながんが見つかった。医師から告知を受けたときは、「ドラマのワンシーンを撮影しているような感じでした」。自分のこととは思えず、涙も出なかった。
当時、テレビ朝日の街歩き番組「ちい散歩」に出演していた。「がんの公表は、健康番組のイメージに合わない」。そう考えて公表しないことにした。
5歳だった娘には言うべきかどうか悩んだ。「この子なら理解してくれる」。直感的に思い、自宅のソファで話をした。
「ママのおっぱいの中に悪いものがあって、取らないとママは死んでしまうかもしれないんだよ」
娘は「ママが入院するのは嫌だ。死ぬのは嫌だ」と泣いた。だが、後になって話しておいてよかったなと実感した。「ちゃんと理解をして成長してくれていると思うことが、何度かありました」
2011年3月に見つかった右胸のがんは小さかった。5月、がんを切除する手術を受けた。
当時、テレビ朝日の街歩き番組「ちい散歩」に出演していた。がんのことは公表せず、手術を受けて退院した翌々日には、普段と変わらぬ元気な姿で収録に臨んだ。
「せっかくレギュラーで起用してくださっている。外見に変化があるわけでもなく、今まで通り、やれるところまでやってみようと思いました」
この年の7月には放射線治療も始まった。暑い中、1か月以上にわたり病院に通うのはつらかった。しかし、仕事に行くと、気持ちを切り替えられた。
「病気になると、孤独感や疎外感を持ってしまいがちです。仕事場でも家庭でも、自分の言葉や働きを待っていてくれる人がいて、必要とされていると思う気持ちが、病気に打ち勝つ薬になるのかなと思います」
仕事を続けていたからこそ、治療も頑張れた。
放射線治療が終わると、ホルモン治療を開始し、薬を飲み始めた。だが、12年、再び右胸にがんが見つかった。
「がんを取り、放射線も当てていたのに……」。体の中にあるがんのしつこさを知り、最初に告知を受けたときよりも気持ちが沈んだ。9月に再び、がんを切除する手術を受けることになった。
2012年9月、右胸にがんが再発していると告知され、すぐに切除する手術を受けた。ホルモン治療を続けたが、13年秋、三度(みたび)、がんが見つかった。
再発を繰り返し、「命のことも考えていかなければいけない状況にある」と感じた。主治医は右の乳房を全摘し、同時に再建する手術を提案した。
45年間、苦楽を共にしてきた体の一部を、自分が生きるために取り去らなければならない。右胸に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになり、主治医の前で初めて泣いた。だが、「娘のために責任を持って生きていかなければ。死ぬわけにはいかない。ずっとそばにいてあげたい」。すぐに決断した。
全摘手術を12月末に行うことが決まると、娘が銭湯に行きたがっていたことを思い出した。
「右胸がなくなったら、人前で裸になる勇気は持てないかもしれない」。手術の5日ほど前、手をつないで銭湯に出かけた。娘は広い風呂に入れてうれしそうで、その様子を見ているだけで楽しかった。「時間が止まってほしいという思いでした。楽しくもあり、悲しくもある思い出です」
手術前日に入院した。その日の夜、病室で一人、鏡に向かい、右胸にそっと触れた。
「ありがとう、さようなら」――。そう言って、別れを告げた。
2013年12月、右胸を全摘し、同時に再建する手術を受けた。後で人工乳房を挿入するため、胸の皮膚を伸ばす器具を入れた。
ところが、11年に行った放射線治療によって皮膚がダメージを受け、伸びにくくなっていた。手術を受けてからしばらくは寝ても起きても、ズーンという鈍い痛みが続き、再建手術を受けたことを後悔したほどだった。
※続きは下記のソースでご覧ください
2019/6/16(日) 7:10 読売新聞(ヨミドクター)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190616-00010000-yomidr-ent
1986年、アイドルグループ「おニャン子クラブ」に入り、芸能活動を始めた。グループ解散後は、女優や歌手としてテレビや舞台などで活躍。結婚して長女を出産し、仕事と育児に追われる日々を送っている。
がん検診は毎年のように受けていたが、2010年は忙しさから予約を入れ忘れた。知り合いの医師に勧められ、11年1月、人間ドックを受けた。
すると、「再検査」の通知が届いた。精密検査を受けると、右胸に小さながんが見つかった。医師から告知を受けたときは、「ドラマのワンシーンを撮影しているような感じでした」。自分のこととは思えず、涙も出なかった。
当時、テレビ朝日の街歩き番組「ちい散歩」に出演していた。「がんの公表は、健康番組のイメージに合わない」。そう考えて公表しないことにした。
5歳だった娘には言うべきかどうか悩んだ。「この子なら理解してくれる」。直感的に思い、自宅のソファで話をした。
「ママのおっぱいの中に悪いものがあって、取らないとママは死んでしまうかもしれないんだよ」
娘は「ママが入院するのは嫌だ。死ぬのは嫌だ」と泣いた。だが、後になって話しておいてよかったなと実感した。「ちゃんと理解をして成長してくれていると思うことが、何度かありました」
2011年3月に見つかった右胸のがんは小さかった。5月、がんを切除する手術を受けた。
当時、テレビ朝日の街歩き番組「ちい散歩」に出演していた。がんのことは公表せず、手術を受けて退院した翌々日には、普段と変わらぬ元気な姿で収録に臨んだ。
「せっかくレギュラーで起用してくださっている。外見に変化があるわけでもなく、今まで通り、やれるところまでやってみようと思いました」
この年の7月には放射線治療も始まった。暑い中、1か月以上にわたり病院に通うのはつらかった。しかし、仕事に行くと、気持ちを切り替えられた。
「病気になると、孤独感や疎外感を持ってしまいがちです。仕事場でも家庭でも、自分の言葉や働きを待っていてくれる人がいて、必要とされていると思う気持ちが、病気に打ち勝つ薬になるのかなと思います」
仕事を続けていたからこそ、治療も頑張れた。
放射線治療が終わると、ホルモン治療を開始し、薬を飲み始めた。だが、12年、再び右胸にがんが見つかった。
「がんを取り、放射線も当てていたのに……」。体の中にあるがんのしつこさを知り、最初に告知を受けたときよりも気持ちが沈んだ。9月に再び、がんを切除する手術を受けることになった。
2012年9月、右胸にがんが再発していると告知され、すぐに切除する手術を受けた。ホルモン治療を続けたが、13年秋、三度(みたび)、がんが見つかった。
再発を繰り返し、「命のことも考えていかなければいけない状況にある」と感じた。主治医は右の乳房を全摘し、同時に再建する手術を提案した。
45年間、苦楽を共にしてきた体の一部を、自分が生きるために取り去らなければならない。右胸に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになり、主治医の前で初めて泣いた。だが、「娘のために責任を持って生きていかなければ。死ぬわけにはいかない。ずっとそばにいてあげたい」。すぐに決断した。
全摘手術を12月末に行うことが決まると、娘が銭湯に行きたがっていたことを思い出した。
「右胸がなくなったら、人前で裸になる勇気は持てないかもしれない」。手術の5日ほど前、手をつないで銭湯に出かけた。娘は広い風呂に入れてうれしそうで、その様子を見ているだけで楽しかった。「時間が止まってほしいという思いでした。楽しくもあり、悲しくもある思い出です」
手術前日に入院した。その日の夜、病室で一人、鏡に向かい、右胸にそっと触れた。
「ありがとう、さようなら」――。そう言って、別れを告げた。
2013年12月、右胸を全摘し、同時に再建する手術を受けた。後で人工乳房を挿入するため、胸の皮膚を伸ばす器具を入れた。
ところが、11年に行った放射線治療によって皮膚がダメージを受け、伸びにくくなっていた。手術を受けてからしばらくは寝ても起きても、ズーンという鈍い痛みが続き、再建手術を受けたことを後悔したほどだった。
※続きは下記のソースでご覧ください
2019/6/16(日) 7:10 読売新聞(ヨミドクター)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190616-00010000-yomidr-ent