制御機器大手オムロン(京都市下京区)創業者、故立石一真氏の「未来予測論」の記事を読んだ読者から、「京都の有名企業家のエピソードを読みたい」とのメールを頂いた。「ベンチャーの都」とも呼ばれる京都で、近代から現代にかけて活躍した起業家や経営者を紹介する。
■近代産業けん引島津源蔵 先見性優れた第1世代
京都の近代産業を語るうえで、分析計測機メーカー島津製作所(京都市中京区)を創業した初代島津源蔵(1839〜94年)は外せない。堀川六条の仏具製造業の次男に生まれた。明治初期にできた京都府の勧業教育機関「京都舎密局」で科学の知見を深め、理化学機器の製造を開始。国内で初めて軽気球を有人で飛ばした。
長男の2代目源蔵(1869〜1951年)も希代の発明家だった。国産初の医療用エックス線装置を完成させ、製品化。蓄電池も開発し、日本電池(現ジーエス・ユアサコーポレーション)を設立した。現在もバッテリーのブランド名に残るGSは、島津源蔵のイニシャルに由来する。
戦後は、先見性に優れた創業者率いる新興企業が活躍し始める。京都における「ベンチャー第1世代」だ。
立石一真氏(1900〜91年)は、33年に大阪で立石電機製作所(現オムロン)を創業。戦災で京都市右京区に会社を移すと、スイッチなどの工場自動化機器を次々に製品化した。自動改札機などの世界初の製品も生み出し、世界的企業に育てた。障害者雇用の会社オムロン太陽を設立するなど、社会福祉にも貢献した。
ワコール(南区)の創業者である塚本幸一氏(1920〜98年)は、近江商人をルーツに持つ家に生まれた。太平洋戦争から復員すると、49年に前身にあたる和江商事を設立し、程なく自社製ブラジャーを商品化。洋装化と高度成長の流れに乗り、婦人用下着の国内トップメーカーに成長させた。京都商工会議所会頭も務めた。
堀場雅夫氏(1924〜2015年)は、京都帝国大(現京都大)の学生だった45年に堀場製作所(南区)の前身の堀場無線研究所を創業した学生ベンチャーのはしりだ。もともと研究者志望だったが、米軍が京大の原子核関連の研究設備を破壊したため起業。ph(ペーハー)メーターで事業基盤を築いた。京都の産業振興にも尽力した。
第1世代からやや遅れ、54年に半導体メーカーのローム(右京区)を創業したのが佐藤研一郎氏(1931年〜)。立命館大生時代に考案した抵抗器で事業を興し、半導体技術の発展とともに集積回路(IC)や高密度集積回路(LSI)を製品化した。ピアニストを志した時期があり、若手音楽家を支援する財団も設立した。
■「売上高1兆円」導いた4人のカリスマ
平成に入り、京都では売上高1兆円超の巨大メーカーが京セラ(伏見区)、任天堂(南区)、日本電産(南区)、村田製作所(京都府長岡京市)と次々に生まれた。これら「1兆円カルテット」は、カリスマ経営者が事業拡大を導いた。
京セラを創業したのは、日本を代表する経営者で知られる稲盛和夫氏(1932年〜)だ。66年に米IBMから集積回路用セラミックス製基板を受注したのを機に会社を飛躍させ、電子部品や太陽電池、通信機器へと事業を多角化した。「アメーバ経営」などの独自の経営理論を確立。通信大手KDDIの設立に関わり、2010年には破綻した日本航空の会長に就いて再建に手腕を振るった。科学者や芸術家らを顕彰する京都賞も創設した。
村田製作所を44年に創業した村田昭氏(1921〜2006年)は、京都・東山の陶器店に生まれた。京都大に通い詰め、酸化チタンコンデンサーを開発。その後もテレビや通信機に使う電子部品を世に出した。同社の積層セラミックコンデンサーは世界トップシェアで、スマートフォンに数多く使われる。
任天堂の社長、相談役を務めた山内溥氏(1927〜2013年)は、花札製造会社を世界的な家庭用ゲーム機メーカーに成長させた。83年の「ファミリーコンピュータ」を皮切りに「スーパーファミコン」や「ゲームボーイ」などのヒット商品を送り出した。米大リーグ・マリナーズの経営にも参画。イチロー選手と親交を結んだ。
日本電産会長の永守重信氏(1944年〜)は、73年にモーターメーカーの同社を創業した。フロッピーディスク用やハードディスク用の精密小型モーターで業容を伸ばすとともに、国内外の企業を積極的に買収。目標としていた売上高1兆円を1代で成し遂げた。次なるゴールに10兆円を掲げるとともに、今春には京都学園大を運営する学校法人京都学園(右京区)の理事長に就いた。
京都新聞 2018年10月19日 15時39分
https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20181019000083
■近代産業けん引島津源蔵 先見性優れた第1世代
京都の近代産業を語るうえで、分析計測機メーカー島津製作所(京都市中京区)を創業した初代島津源蔵(1839〜94年)は外せない。堀川六条の仏具製造業の次男に生まれた。明治初期にできた京都府の勧業教育機関「京都舎密局」で科学の知見を深め、理化学機器の製造を開始。国内で初めて軽気球を有人で飛ばした。
長男の2代目源蔵(1869〜1951年)も希代の発明家だった。国産初の医療用エックス線装置を完成させ、製品化。蓄電池も開発し、日本電池(現ジーエス・ユアサコーポレーション)を設立した。現在もバッテリーのブランド名に残るGSは、島津源蔵のイニシャルに由来する。
戦後は、先見性に優れた創業者率いる新興企業が活躍し始める。京都における「ベンチャー第1世代」だ。
立石一真氏(1900〜91年)は、33年に大阪で立石電機製作所(現オムロン)を創業。戦災で京都市右京区に会社を移すと、スイッチなどの工場自動化機器を次々に製品化した。自動改札機などの世界初の製品も生み出し、世界的企業に育てた。障害者雇用の会社オムロン太陽を設立するなど、社会福祉にも貢献した。
ワコール(南区)の創業者である塚本幸一氏(1920〜98年)は、近江商人をルーツに持つ家に生まれた。太平洋戦争から復員すると、49年に前身にあたる和江商事を設立し、程なく自社製ブラジャーを商品化。洋装化と高度成長の流れに乗り、婦人用下着の国内トップメーカーに成長させた。京都商工会議所会頭も務めた。
堀場雅夫氏(1924〜2015年)は、京都帝国大(現京都大)の学生だった45年に堀場製作所(南区)の前身の堀場無線研究所を創業した学生ベンチャーのはしりだ。もともと研究者志望だったが、米軍が京大の原子核関連の研究設備を破壊したため起業。ph(ペーハー)メーターで事業基盤を築いた。京都の産業振興にも尽力した。
第1世代からやや遅れ、54年に半導体メーカーのローム(右京区)を創業したのが佐藤研一郎氏(1931年〜)。立命館大生時代に考案した抵抗器で事業を興し、半導体技術の発展とともに集積回路(IC)や高密度集積回路(LSI)を製品化した。ピアニストを志した時期があり、若手音楽家を支援する財団も設立した。
■「売上高1兆円」導いた4人のカリスマ
平成に入り、京都では売上高1兆円超の巨大メーカーが京セラ(伏見区)、任天堂(南区)、日本電産(南区)、村田製作所(京都府長岡京市)と次々に生まれた。これら「1兆円カルテット」は、カリスマ経営者が事業拡大を導いた。
京セラを創業したのは、日本を代表する経営者で知られる稲盛和夫氏(1932年〜)だ。66年に米IBMから集積回路用セラミックス製基板を受注したのを機に会社を飛躍させ、電子部品や太陽電池、通信機器へと事業を多角化した。「アメーバ経営」などの独自の経営理論を確立。通信大手KDDIの設立に関わり、2010年には破綻した日本航空の会長に就いて再建に手腕を振るった。科学者や芸術家らを顕彰する京都賞も創設した。
村田製作所を44年に創業した村田昭氏(1921〜2006年)は、京都・東山の陶器店に生まれた。京都大に通い詰め、酸化チタンコンデンサーを開発。その後もテレビや通信機に使う電子部品を世に出した。同社の積層セラミックコンデンサーは世界トップシェアで、スマートフォンに数多く使われる。
任天堂の社長、相談役を務めた山内溥氏(1927〜2013年)は、花札製造会社を世界的な家庭用ゲーム機メーカーに成長させた。83年の「ファミリーコンピュータ」を皮切りに「スーパーファミコン」や「ゲームボーイ」などのヒット商品を送り出した。米大リーグ・マリナーズの経営にも参画。イチロー選手と親交を結んだ。
日本電産会長の永守重信氏(1944年〜)は、73年にモーターメーカーの同社を創業した。フロッピーディスク用やハードディスク用の精密小型モーターで業容を伸ばすとともに、国内外の企業を積極的に買収。目標としていた売上高1兆円を1代で成し遂げた。次なるゴールに10兆円を掲げるとともに、今春には京都学園大を運営する学校法人京都学園(右京区)の理事長に就いた。
京都新聞 2018年10月19日 15時39分
https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20181019000083